雑記文集NO1
      (1999年10月~2010年12月号まで掲載した雑記文を集めました。)
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タイトルと内容紹介 タイトルをクリックすると、タイトルの雑記文がジャンプして出ます。

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カナダ旅行 1
99年の秋、カナ
ダツアーに参加
した話
99.10
カナダ旅行 2
参加者、添乗員
の話

99.11
カナダ旅行 3
参加者、ショッピ
ングの話

99.12
春うらら、私事
定年後のスケジ
ュール

00.1
ハワイ旅行 1
00年1月、ハワイ
ツアーに参加した

00.2
ハワイ旅行 2
ハワイの樹の話


00.3
音について 1
高校生の頃のラ
ジオ組立の話

00.4
音について 2
大学時代、ステレ
オ組立とレコード
コンサートの話
00.5
音について 3
私のクラシック鑑
賞について

00.6
英国旅行 1
00年5月、英国
ツアーに参加、
添乗員の話
00.7
英国旅行 2
英国、国土の環
境破壊について

00.8
英国旅行 3
英国の羊の話


00.9
シドニーオリンピ
ック

高橋尚子選手の


00.10
テニス 1
私の趣味のテニ
スについて


00.11
テニス 2
女子プロテニス
観戦


00.12
蓮花のこと、1
7年前から文通を
している中国の女
性、池 蓮花さん
について
99.9
初春うらら、遠夢
サラリーマンにな
って初めて見た夢
が見事破れた話

01.1
蓮花のこと、2
文通をしている中
国女性、蓮花の
最近の活躍

01.2
矢祭町へ引越1
田舎暮らしのため
の土地探し


01.3
矢祭町へ引越2
新築のためのメー
カー選び、オプシ
ョン選び。

01.4
矢祭町へ引越3
新築住宅の設計
について


01.5
矢祭町へ引越4
自宅を訪れる動
物達について


01.6
矢祭町へ引越5
横浜から矢祭町
へ植木の引越


01.7
バックアップ
野球の危機管理
について


01.8
脳型コンピュータ
の開発

人間の脳の機能
について

01.9
松田下宿
私の学生時代、
松田教授のお宅
に下宿していた
話。
01.10
不動産売買
私が過去経験した
不動産の売買につ
いて

01.11
外構工事
矢祭町に建てた
自宅の外構工事


01.12
春うらら、夢
谷 憲介氏の想
いで


02.1
庭造り
和風の庭に庭石
を置き、沢水を引
いた話

02.2
悲しきワルツ
シベリュウス作曲
「悲しきワルツ」の
作品紹介

02.3
杉花粉
都会で花粉症に
罹る人が多い理
由を考察

02.4
確定申告
生命保険会社か
ら受け取る利息
金の申告につい

02.5
ベネルクス3国
旅行1

オランダの田園
風景について

02.6
ベネルクス3国
旅行2

参加者あれこれ


02.7
ベネルクス3国
旅行3

オランダが生ん
だ画家について

02.8
CD音楽を聴く
クラシック282曲
を集めたCD20
枚について

02.9
02年、矢祭の夏
今年夏の矢祭町
での出来事など


02.10
新築1年半
矢祭町に来て1年
半になる。建物の
断熱性など。

02.11
AV革命
テープレコーダー
などからモーター
がなくなる話。

02.12
春うらら、寒い
我が家に室内、室
外温度計を設置し
て、寒さを実感し
た。
03.1
CD音楽を聴く2
40年前、LPレコ
ードが一枚2300
円で売られていた

03.2
ショッピング
矢祭町近辺の商
店街について。


03.3
Eメール
メールによる株の
情報について


03.4
ニュージーランド
旅行1

ニュージーランドの
羊の話。

03.5
ニュージーランド
旅行2

ツアー参加者の
話。

03.6
ニュージーランド
旅行3

ニュージーランド
のキーウィ、植物
など。
03.7
ニュージーランド
旅行4

再びツアー参加者
の話。

03.8
03、矢祭の夏
庭に作った野菜畑
の、今年の野菜の
出来具合

03.9
03、矢祭の夏
part2

我が家の庭は小
鳥の健康ランド。

03.10
紅葉
矢祭地方の紅葉
など


03.11
制空権
我が家の上空はカ
ラスが制空権を握
っている。
鳥、うさぎの話。
03.12
春うらら、ハルウ
ララ

競走馬ハルウララ
と矢祭町の工業
団地造成
04.1
香港旅行1
JTB白河支店の
ツアーに参加。
香港グルメのル
ーツ。
04.2
香港旅行2
現地ガイドとカメ
ラマン、マカオの
カジノ。

04.3
パソコンの更新
DELLのパソコン
を購入した話。


04.4
ICレコーダー
IC recoder

ICレコーダーを購
入した話。

04.5
同窓会1 class
reunion1

徳島で行われた同
窓会、サンライズ
瀬戸号の話
04.6
同窓会2 class
reunion 2

東京温泉について


04.7
水戸芸術館
ArtTower Mito

茨城県水戸市に
ある水戸芸術館
について
04.8
04年の夏1
04’Summer1

32インチ液晶テレ
ビを購入した。

04.9
04年の夏2
04’Summer2
梅雨の小雨、夏の
酷暑の影響。米、
カボチャ、サツマイモ。
04.10
テニス3
Tennis3
私のテニス生活。
鈴木画伯の話。

04.11
テニス4
Tennis4

マスターズテニス、
東北マスターズで
テニスをした話。
04.12
春うらら、
温泉旅行1 Hot
spring travel 1

高湯温泉へ行った
話。
05.1
iPod mini
アップル社のiPod
miniを購入した
話。

05.2
磁器絵付け
Porcelain china
-painting

絵付け教室で絵付
の勉強をした話。
05.3
車保険
Carinsurance
自動車保険を見
直した話。

05.4
温泉旅行2 Hot
spring travel 2
飯坂温泉、花見山
へ行った話。

05.5
春の庭05年
The spring
garden 05

梅、キングサリ
の事。
05.6
北欧の旅1
Trip to North
Europe 1

北欧4ヶ国へ、
ツアーの人々。
05.7
北欧の旅2
Trip to North
Europe 2

飛行機内の気圧
変化について
05.8
北欧の旅3
Trip to North
Europe 3

スーツケースが
一時紛失した話
05.9
北欧の旅4
Trip to North
Europe 4

ノルウエー、ノー
ルカップ訪問
05.10
AV革命、2
AV revolution

携帯型音楽プレ
ーヤーを購入
05.11
屋根の葺替え
Recovering of
roof material

スレート屋根材を
葺き替えた話。
05.12
春うらら、英訳
English
translation

雑記の英語訳
について。
06.1
10年日記
Tenyear diary

古い10年日記
から新10年日
記へ。
06.2
台湾旅行1
Taiwan tour1

台湾についての
私のイントロダク
ション。
06.3
台湾旅行2
Taiwan tour 2

ツアー参加者に
ついて。

06.4
台湾旅行3
Taiwan tour 3

生まれ故郷嘉義
市、圓山ホテル
など。
06.5
台湾旅行4
Taiwan tour4

花蓮市、タロコ
渓谷、駅弁など
について。
06.6
冷蔵庫の買換
Change of a
refrigerator

冷蔵庫を新しく
購入した話。
06.7
オートキャンプ
Autocamping

今年5月の連休
に久しぶりにキ
ャンプした話。
06.8
06年夏の庭
06summer
yard
 ヒヨドリ、
野良猫など。

06.9
ロシア旅行1
Russia trip1

ウクライナ、バルト
三国、ロシアへの
ツアー参加
06.10
ロシア旅行2
Russia trip 2

ロシアおよび
周辺国の観光
資源とトイレの話。
06.11
ロシア旅行3
Russia trip 3

参加者の吉田
さん、ロシア語
について。
06.12
春うらら、野鳥
Wild birds
昨秋から庭に
現れた鳥、動物
について。
07.1
ロシア旅行4
Russia trip 4

参加者の小島
さん.モスクワ
でATM使用。
07.2
東山温泉
Higashiyama
hot spring

会津若松の
温泉へ旅行。
07.3
もったいない
図書館 Mott
ainai library

矢祭町の新し
い図書館。
07.4

ニンテンドーDS
Nintendo DS

携帯型ゲーム機を買った
話。



07.5
LED
発光ダイオードについて。
庭園灯にLEDを使う。




07.6
東京の美術館
Art museum in
Tokyo

損保ジャパン美術館と
国立新美術館を訪問。


07.7
               
07年夏の庭
Garden in 07
summer

スズメ、ハチ、ホ
タルの話。


07.8
               
07年夏の庭 2
Garden in 07
summer 2
  
アブ、テレビ朝日
の取材。
07.9



ETC
ETC車載器を車に
取り付けた話。


07.10



デジタルプレーヤ
Digital player

パナソニックD-snap
の機能について。

07.11



フランス旅行 1
French travel 1

阪急旅行社を使って
12日間のフランス
ツアーに参加した。
07.12



春うらら 結婚40年
Haruurara marriage
40year
 
結婚記念のための
行事など
08.1

フランス旅行 2
French travel 2

フランスの放送、
数の数え方、義務
教育。
08.2

フランス旅行 3
French travel 3

フランスワイン、
防腐剤の話。

08.3

フランス旅行 4
French travel 4

フランスの画家、
ゴッホ、モネなどの
ゆかりの地を訪問。
08.4

08年、春の庭
Garden in 08 Spring

桜の接ぎ木に成功。
ウグイスの鳴き姿を初
めて見る。


08.5
古希
KOKI

私は08年3月に古希
を迎えた。その記念に
横浜港ディナークルーズ
に乗船した。

08.6
中欧の旅 1
Travel to central
Europe 1

5月、オーストリアなど
へのツアーに参加した。
ハプスブルグについて。

08.7
中欧の旅 2
Travel to central
Europe 2

ヒースローの第5ターミ
ナル、ウイーンのホイリ
ゲなど。

08.8
中欧の旅 3
Travel to central
Europe 3

参加者(マドンナ、元
教授)、カンガルーの
こと。
08.9
中欧の旅 4
Travel to central
Europe 4

元教授の趣味、旧新
南陽市からの参加者、
チェックリストなど。
08.10

Dream

私が就寝時見る色々な
夢。安藤美姫の涙など。


08.11
08年の秋
Autumn of 08

車にデジカメを取付、
隙間園芸、柿酢など。


08.12
春うらら、不況
Haruurara,Depression

リーマンショック、朝日新聞
古田記者、定額給付金
など。

09.1
宝くじなど
Lottery,etc.

ジャンボ宝くじ、TOTO
くじ、大相撲、ポニョな
ど。

09.2
デジカメ
Digital camera

5台目になるコンパクト
デジカメ、パナソニック
DMC150を買った話など。

09.3
09年、春の庭
Garden in 09 Spring

庭にユズの木、ムクゲを
植える。町有地に細い
通路を造る。カメムシの
話など。
09.4
大子温泉
Daigo hot spring

大子町、やしお温泉の
浴槽にクナッパー陶芸家
の陶壁が飾られている。
大子町についてなど。
09.5
奥能登の旅1
Travel to Okunoto 1

能登半島一周のツアー、
2泊3日に参加。輪島の
朝市、白米の千枚田な
ど。
09.6
奥能登の旅2
Travel to Okunoto 2

輪島塗職人、アレルギー、
海女、千里浜ドライブウエ
ー、金沢兼六園など。

09.7
日中温泉
Nichu hot spring

喜多方市の北にある
日中温泉と尾瀬に行
った話。

09.8
09年、夏の庭1
Garden in 09 summer 1

蚊に刺されない話、ユリ、
カサブランカのこと、など。


09.9
09年、夏の庭2
Garden in 09 summer 2

アジサイ、ムクゲ、コスモ
ス、ハチの巣のこと。


09.10
ツアーキャンセル
Tour cancellation

シルクロードへのツアーが
ウイグル暴動事件のため
中止、四川省へのツアー
も体調不良のため中止。
09.11
雫石、横手
Shizukuishi, Yokote

雫石プリンスホテル、秋
田抱返り渓谷、横手市
へ行った話。

09.12
春うらら、年男
Spring Urara,The year
man

今年、私は72才の年男。
体の機能低下が徐々にあ
りその対策を考えている。
10.1
徳島、総社、京都1
Tokushima,Sojya,Kyoto1

JRを使って、私が20才代
までに住んだ町を5泊6日
で旅した話。

10.2
徳島、総社、京都2
Tokushima,Sojya,Kyoto2

徳島から岡山県茶屋町へ、
小学生の頃住んでいた
片山家へ、倉敷アイビー
スクエアホテルなど。
10.3
徳島、総社、京都3
Tokushima,Sojya,Kyoto
3

中学、高校を過ごした総社
市溝口の借家跡、総社高
等学校へ。
10.4
徳島、総社、京都4
Tokushima,Sojya,Kyoto

50年前初めて勤めた京
都の第一工業製薬(株)
での話。高山寺、仁和寺
へ。 10.6
ハワイアンズ
Hawaiians

いわき市湯本のハワイアン
ズへ行った話。ルノワール
展(東京)、ポンペイ展(横
浜)へ行った話。
10.7
イタリア旅行1
Italian travel 1

今年5月に15日間のイタリア
旅行ツアーに参加した。
ダ・ヴィンチの最後の晩餐、
イエスの顔などについて。
10.8
イタリア旅行2
Italian travel 2

添乗員、マナドンナについ
て。スペッロの花じゅうたん
祭、オルビエートの聖体祭
の話。
10.9
イタリア旅行3
Italian travel 3

オルチャ渓谷でウオーキ
ング、アッシジのサン・
フランチェスコ聖堂訪問。

10.10
イタリア旅行4
Italian travel 4

ウフィッツィ美術館、ポン
ペイ観光。フリータイムの
添乗員の活躍について。

10.11
10年、夏から冬
10, winter from
summer

夏の猛暑による庭木の
影響。11月にサンルーム
完成。
10.12

The photograph put on each miscellaneous-notes sentence was deleted.

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カナダ旅行1

 私達夫婦は、10月3日から10月10日までカナダに行ってきました。近畿ツーリストのツアーで、添乗員付の旅でしたので大変気楽で、すべて添乗員の指示に従って動き回るわけですから、短時間でカナダをよくみることができました。
 コースは、モントリオールからバスで紅葉のメープル街道のローレンシャン高原を見て、次いでトロントからナイヤガラの滝に行き、最後にカルガリーからバンフに入り、カナディアンロッキーを見物するというものです。
 ローレンシャン高原は天気に恵まれ、また丁度紅葉の真っ盛りにあたり幸運な観光ができました。カナダの国旗にもなっているカエデ(メープル)が黄色から赤色に変わる頃ですので、実に華やかな雰囲気であります。セイントソーバー山をゴンドラで登りましたが、ここからの眺めは360度の視界で雄大であります。地平線が直線でなく、少し丸みをおびていました!
 ナイヤガラの滝を見物した日も晴天でした。地元の近ツリの案内人が連れて回るわけですが、兎に角日本人を含め観光客が非常に多く、何をするにも待ち時間がかかりますので、その案内人の戦略がものをいうところです。例えば、ナイヤガラの滝を滝壺から眺める「霧の乙女号」乗船観光の時、その案内人が指示する行動に従えば待ち時間なしに集合場所に戻れるので協力してくれと言われて、その通りにすると確かに素早く戻れます。しかし、何かすっきりしないいやな感じが残りました。ゆっくり雰囲気を味わうということができなく、案内人のスケジュールにあわせる義務を背負った見物という結果になりました。この行動のため外国人を含めた他の観光客にいやな印象を与えました。つまり、例えば集団になって通路を走り、他を押しのけて下船するわけですから外人からブーイングがでるのも当然でしょう。私もグループの迷惑を考えて一緒にブーイングの対象になりましたが、もうすこしゆとりというものがあってもいいのではと思います。案内人は自己中心的な考えを捨て、協調的な精神を持って計画をたてて欲しいものです。
 ロッキー観光は、バンフをバスで出発する時は雨で、途中から雪に変わり、がっかりしましたが、コロンビア大氷原に着いた頃はすっかり良い天気になりました。標高2000mの氷原はさすがに寒く、じっとしていられないほどでした。周りに聳える山々は堆積層が斜めに走り、それが地球の歴史を示しているようで壮観でありました。氷河の上を歩きましたが、地球の温暖化のため氷河は次第に後退しているということで寂しさを感じます。
 シアトル経由のノースウエスト機で成田に無事に戻りました。
                     1999.10.10
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カナダ旅行2

  10月に参加したカナダツアーは、近畿ツーリストが募集したツアーで、参加者は35名であった。添乗員がつき、安くて、食事付が多く、ベストシーズンで、方々が見られるツアーは人気がある。35名の参加者は多い部類に属する。
 35名は、すべてグループで参加している。1人での参加はなかった。2人組、3人組、4人組があり、2人組が殆どである。このくみあわせの関係を推理するのも旅の暇つぶしになり、話題にもなり、楽しいものである。
 最初、4人組の関係が推測できなかった。私の妻は、若手の町工場の経営者がパートの従業員を慰安旅行に連れていっているのではないかとみた。4人の内容は、20代の妙に落ち着いた背の高い男、30代の飲み屋のママさん風の女、50代の愛想のよい男、60代のおばあさん風の女である。私は、50代と30代が夫婦で、20代が息子、60代が30代の母親と決めていた。食事時の席の取り方、話し方などからどうもこの関係がおかしい。ある食事時、6人掛けのテーブルに彼らと一緒になった。「失礼ですが、ご家族ですか」と50代に聞いてみた。「ええ、これが妻、これが息子、これが妹」と答えた。いやあ、私達は実はこんな関係かと思っていましたと、私達の推理を正直に披露して大笑いになった。その場は話が弾み、安いワインも美味しく飲めた。
 バンフの街のレストランにみんなでフォンデュ料理を食べに行ったとき、6人掛けのテーブルに2人ずつ3組が席を取った。ツアーの食事どきは勝手に席を取るので、いろいろな組み合わせが発生する。面白いことにツアーが終わるまでに、私達は全組と一緒に食事をしたことになっていた。バンフの食事では新婚組と一緒になった。「ご夫婦ですか」「ええ、出発前に結婚式を挙げてきました」「へぇー、新婚旅行ですか」「そうです」 横浜の関内の何とかという式場で結婚式をして、翌日ツアーに参加したのだという。旦那は疲れた、としきりにぼやいていたが、私の横に座っている可愛い嫁さんはにこにこしていた。私は、彼女と同じチーズの入った鍋でフォンデュ料理が食べられるという光栄に浴した。この日も、安いグラスワイン(5カナダドル)を美味しく飲めた。
 添乗員は、佐藤さんというまだ若い女性で、今回の勤務が3回目だという新人である。何故か彼女と食事時一緒になることが多かった。私達がいつも後からのんびりとテーブルに着くので最後に余った席になり、添乗員も職務上最後に席に着くせいであろう。下の写真は、ナイアガラのとなりのナイアガラ・オン・ザ・レイクという街で昼食をしたとき、彼女と一緒になったので記念に撮った写真である。左が佐藤さん、右がナイアガラ現地に住んでいるガイドさんである。どうもお世話になりました。ありがとう。
                           1999.11.10      
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カナダ旅行3

  私達が1999年10月に参加したカナダツアーは、35名の参加者であった。参加者のほとんどが夫婦組であったが、50台(代)の女性ばかりの3人組が特に目を引いた。何故なら彼女らは、20年前の日本人旅行者の習性をいまだに引きずっていたようであったからである。彼女たちは、兎に角よく走った。その例を3つ。
  参加者が観光バスで移動する時、真っ先にバスに乗って、前の席に陣取るのは必ず彼女らである。そのためバスまで行くのに小走りで行く。前の席に座るので、バスから降りて、レストランに入るときなど、一番良いと思われる席を素早く確保することができる。彼女らは、ツアーの行程を熟知しているベテランであろう。トイレ休憩の地点なども予め頭に入っているのか、バスから降りると3人揃って一目散にトイレに向かう。観光地でも、空港でも女性用トイレは絶対数が少なく、みじめである。女性用トイレの前は、必ず行列ができる。行列を作って待つのは彼女らでなくてもいやで、腹が立つ。彼女らは、はやくトイレを済ませて、ういた時間をゆっくりショッピングに使おうという作戦であり、実に合理的である。そういうことをしない私達が馬鹿をしているようにみえる。
  彼女らのショッピングは、20年前の日本人旅行者の感覚であろうか。店から店へせかせかとよく歩く。今時、海外で安く買える物があるのかと疑いたくなるが、これは私の勉強不足か。彼女たちは、店の中で実に真剣な顔をして商品と対峙して、その結果、集合地点では大きい袋をもって、満足顔でにこにこしているのである。ブランド物は殆ど日本に入ってきており、その値段もわかる。その値段と比較してどうか、というのが彼女らの勝負であろう。ブランド物に無関係の(ブランド品を買えない)私にとって遠い世界である。
  これは、あるホテルの朝食時、団体でレストランのバイキング料理を食べるときの話である。食事前に添乗員が皆を席に座らせ、予定など連絡事項を喋ったあと、ではどうぞと言ったとたん、例の3人組は料理が並んでいるコーナーに走った!一般客をかき分け、「誰々さーん、ここにケーキがあるわよ」と大声で叫ぶ。呼ばれた人が皿を持って真剣な目つきで小走りでやってくる。「あら、こちらのほうがおいしそうね」などと、大声で話す。こんな風景を見て私は淋しくなった。20年前でなくて、50年前の食糧難時代の日本人が目の前にいる!35人が一度に料理のコーナーに押し寄せるわけであるから、混雑し、じっと待つ必要がある。3,4分も待てば料理をとることができるのだが、それを彼女らは待てない。空腹がそのような行動をさせたのであろうか。
 団体旅行は、人々の色々なシーンに遭遇しておもしろい。旅の行程はすべて添乗員に任せているから、気楽に人々を観察できる。旅行は、添乗員付のツアーに限る。

                         1999.12.10

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初春うらら、私事

 私は、昨年7月から年金生活を始めた。約40年間のサラリーマン生活ですっかり身に付いたのは、1週間単位の生活であった。月曜日に勤めが始まり、金曜日に終わり、ほっとして土曜日を迎え、日曜日には、また明日から会社か、とため息をついて月曜日を待つ、というサイクルであった。このサイクルが実に40年近く続いたわけである。この1週間サイクルが昨年の7月から突然消えてしまったわけであるから、精神的にまいってしまった。私には1週間サイクルがやはり必要と感し、何とか作ろうと思って作った。つまり、月曜日は元勤めていた会社に出勤(これはたまたま先方から話があって決まったもの、但し6ヶ月間だけ)、水曜日はテニススクールへ、金曜日は陶芸教室へ、土曜日は会社のテニスコートでテニス遊び、火曜、木曜日はフィットネスクラブで運動を、というスケジュールをつくったのである。
 不思議なことに、このサイクルで生活を始めて時間が経つのがはやくなった。1ヶ月が瞬く間に過ぎていく。自分でスケジュールをつくって、それに忠実に従って、気を紛らす・・・。これはなんだ! サラリーマン生活の延長ではないか!と感じるようになってきた。
 それでなくても老い先は短くなっているのだ、何とかせねば、と考えているこのごろである。
 陶芸(作陶)を始めて2ヶ月になるが、土いじりの楽しさはこの上ない。東京、千駄ヶ谷に九炉土という陶芸教室があり、そこの初心者講座に昨年11月から通っている。これまで、箸置き、湯飲み、コーヒーカップ、花瓶を作ってきたが、まだ釉薬をかけていない。
 私は、陶芸をこれからのライフワークにしようと決心した。しかし、この決心がいつまで続くか・・・。
過去、油絵、絵付けをそれぞれ別の時期にライフワークと決心してきたが、気が変わり現在に至っている。とにかく今、ライフワークを持っているというのが幸せである、と自分に言い聞かせているのである。
               2000.1.2

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ハワイ旅行1

 私達は、今年(2000年)1月9日から14日まで、近ツリ主催のハワイ旅行ツアーに参加した。ガイド付、食事付で1人11万円と安かったためと、正月休みの混雑を避けたいとういう人々で、参加者総勢70名のツアーになった。
 近ツリは、70名を1人のガイドでは面倒見切れないというので、ガイド2名に増やしてハワイにでかけた。私は、6日間という短い期間と参加者70名という大人数のため、参加者の顔と名前は残念ながら覚えられなかった。これが20名程度で、10日以上のツアーだと、ツアー中だんだん親しくなり、名前と顔を覚えることができる。また、互いに身の上話などしていると親近感をもち、ツアー最後の日などには別れが淋しくなってしまうものである。
 しかし、今回のハワイツアーはそんな感傷は全くなかった。ハワイの開放的な風土がそのような感傷を消してしまったのかもしれない。ヨーロッパあたりの団体旅行では、行動が自然に団体の内側に固まってしまう傾向があるのだが、ハワイはそうではない。団体行為をほぐしてしまう気候の温暖さ、土地の人の笑顔、と「アローハ」という楽しいコミュニケーション用語がハワイにあるからであろう。今度の旅行で、土地のバスガイドが我々に、「ハワイは初めての人、手をあげて」という問いに、わずか数人しか手をあげなかった。私達はもちろん初めてだが、殆どの人がいわゆるリピーターである。ハワイの魅力は何なのだろう。
 70名は様々な組み合わせでやってきた。60歳以上の夫婦が一番多いのはいつもの通りだが、夫婦と子供1人という3人組が5,6組あったのが今回の特徴であろうか。子供が両親を連れてやってきたのか、その逆か、判らないけれど、彼らは概して悠然としている。子供が親孝行のつもりで両親を連れてきて、両者とも満足してツアーを楽しんでいるのであろう。
 今回は、中年女性買い物3人組は不思議にもいなかった。ハワイは買い物に不適当な所であることを彼女らはよく知っているのである。だから今回の旅は、目の色を変えてショッピングする人種抜きで、みんなのんびり顔でハワイの気候を楽しんだ。
 ツアー客の中で目に付いたのが、中年男性4人組であった。会社の同じ職場の定年前のゴルフ仲間であろう。3日目の1日自由行動の日に、彼らはゴルフに出掛けた。その日の夕方、私達は丁度ゴルフ帰りの彼らとホテルの通路で出会った。「あーあ、今日は充実した1日だったなあ」という男の声が聞こえた。・・・その通りでしょう!日頃の会社奉公から解放されて、好きなゴルフを気のあった仲間とできたのだから・・・。おお!哀れで悲しいサラリーマン諸君!懐かしいなあ・・・・。
 彼ら4人組は他のツアー客とは一線を画していた。バスの中では4人が固まって座り、食事時は勿論一緒の席で、買い物も4人一緒でという具合。家族雰囲気のツアーの中に、「会社」を持ち込んでいたわけである。彼らは、そのような状況にあることを全く関知しないし、当然という感覚で行動していた。長年の会社勤めの習性は急には変えられない。私は、懐かしい気持ちで彼らを観察することができた。4人組、マハロー!

                          2000.2.10

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ハワイ旅行2


 私達は、今年(2000年)1月9日から14日まで、近ツリ主催のハワイ旅行ツアーに参加した。私は、ハワイは25年前にアメリカ出張の帰りに1泊したことがあり、初めてではないが、その当時のことはあまり記憶にないので、まじめてといってよい。
 空港に着いて現地のガイドから一人ずつ花のレイをかけてもらった時点で、楽しい気持ちになってしまった。空港ビルから観光バスでホノルル市内を走ったが、空気がきれいだからバスから眺める景色がクリヤーである。
 特に木々や花が鮮明に見える。空気がよいせいか、植物も伸び伸び育っている。ここホノルルのあるオアフ島は小さな島なのだが、温暖で雨も多いのか、大きな樹があちこちにある。それらの樹も大地を這うような形で大きくなっているのである。日本の樹木は空に向かって押し合いへし合いひょろひょろと育っていくが、ハワイでは、樹もおおらかに本来の姿の体形で育つ。ハワイの樹1本を眺めるだけで生命の逞しさ、頼もしさを感じさせてくれる。
 下の写真にあるモンキーポットの木は、ホノルル市郊外の公園にある1本である。この木は、以前日本で、テレビのコマーシャルで放映された「この木何の木、気になる木・・・」という映像で有名になったというものである。だからこのモンキーポットの木は、日本人観光客だけが見に来るそうである。ハワイの樹は一般にこのような山形の体形をとるようで、高さもあまり高くならない。高くならない理由は風が強いせいであろう。そういえば外観は空気抵抗が如何にも小さいという感じになっている。高さについて、椰子の木は例外で、思い切り高く育っている。幹が太く葉が少ないので強風に十分耐えられる。何故椰子の木が高くなったか、その理由は簡単!地上の動物たちに実を採られないように、自己防衛(子孫防衛)のためである。しかし、椰子の木は人や猿に対しては防衛できなかった。
 ホノルル市内でよく見かけた樹はゴムの樹である。私は、ゴムの樹は鉢植えのものしか知らなかったが、ここに来て本物のゴムの樹をみた。このゴムの樹の正式の名称は判らないが、兎に角、葉が鉢植えのゴムの樹の葉と同じである。市内のゴムの樹は、実に大きい。直径20m、高さ10m位であろうか。日本の鉢植えのゴムも幹の途中から根を生やすが、ここのゴムも同じく根を生やす。その根が大きく数も多いので、その様は異様である。ゴムの樹の下に入ると上から根がいっぱいぶら下がっていて、歩くのに注意を要する。こんなに根が多いと、風で枝が折れて地上に落ちても、すぐ根付いて次世代が誕生するであろう。ゴムの樹の知恵か。
 私がホノルルに来て一番印象的であったのが、どこからともなく漂ってくる懐かしい植物系の香りであった。この懐かしい香りはどこからきているのだろうか。ホノルル2日目の早朝、散歩兼ジョギングをするためホテルを出たら、目の前にあった。木から発散していたのである。これは、比較的小さな木で、花はない、実もないから、葉からこの香りが出ているのだと思った。この香りの記憶は、私が小学生の頃、岡山の田舎でよく木登りして遊んだセンダンの木と同じ香りである。50年前の臭いの記憶が蘇るとは!臭いの記憶は実に生々しい。小さい頃の風景の記憶は、例え鮮明に覚えていても、現在、実物は正確にはないので、確認することはできないが、臭いはそうではない。そのものズバリが体に入ってくるのだから感動的である。この木の葉の形もなんだかセンダンの木によく似ていた。懐かしい香りの記憶を蘇らせてくれたハワイよ、ありがとう(マハロー)。

                     2000.3.10
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音について1


 私が中学生、高校生の頃、つまり昭和26年から昭和31年頃、西暦でいえば1951年から1956年の頃、まだラジオというものが少なく、貧しかった我が家も当然なかった。私は、何とかラジオが聴きたいという願望から、鉱石式ラジオを組み立てた。これは電源なしで聞こえるというものであるが、残念ながら放送局から遠くの田舎(総社)に住んでいたものだから全く聞こえなかった。このことがきっかけで、何が何でもと言う気持ちが強くなり、次のステップである真空管式ラジオに挑戦した。初歩のラジオという雑誌を買って、作り方を勉強し、そのラジオの部品を買うために汽車に乗って岡山市まで行き、何とか組み立てたが聞こえない。
 ここで今の子供ならあきらめて既製品を親に買ってもらうのだが、当時の貧乏家庭ではそんなことは言えないことは承知である。私は作ってやろうというファイトがますます強くなり、組み立てたラジオの配線を外したり、付けたりしたが成功しなかった。そこで電圧とか導通などを測定するテスターというものが必要であることが判り、この測定器を買おうということにきめ、汽車に乗って岡山に行き、買ってきた。このテスターのおかげで受信機の色々なステップが数値で確認できた。なんと便利な測定器だろうと感心したものである。それ以降、私は現在までこのテスターの恩恵を受けている。家庭にある電気器具の故障はこれで8割ぐらいは直せる。
 テスターのおかげか、ラジオは完成した。初めて聴いたアナウンサーの声に何とも言われぬ感動を受けたのは、自分の力でやっとの思いで作ったラジオから聴いたからであろう。
 今から思うと、多くの時間をかけ、テスターの購入、部品代、岡山への交通費などを考えると、既製品を買った方が安かったのではないかと考える。私の父は当時学校の教師をしており、じっと私の行動を観察していたのであろう。彼は、私の将来のため、多少金はかかるが苦労させるのがよいと判断していたのかも知れない。彼の判断は正解だったと、今私は思っている。
 話は違うが、企業の新製品開発も似たようなものであろう。新しい技術による新製品は、国内あるいは外国の他社から大金を出せば買える。しかし、新製品はそれだけで終わり、改良品、それに続く新製品はその会社から出てこないであろう。この技術の購入は、私の体験した、雑誌で勉強し(基礎研究)、テスターを買い(設備投資)、ラジオの組立実験(man/hourの投入)により、初めてラジオの完成(新製品開発)を可能にさせた正統的な開発手段とは当然異なる。お金の損得では、他から技術を買う方がかえって安いかもしれない。しかし、正統的な開発手段には金に代えられないものがある。私についていえば、この正統的な開発手段がその後40年間大いに活用されたのである。
 しかしながら上に述べた教訓は、現代では通用しないであろう。新製品のライフサイクルが短くなっている今では、のんびり基礎研究から始めて新製品を完成させるというゆとりも、気力もない会社が多くなっており、金で新製品を買う方が勝負が早い、という風潮が強いからである。私は、この他から技術、新製品を買うやり方は中規模以上の会社には今後必要な手法と思っている。では、どこが新製品を開発するのか、それは国内ではハングリーな零細企業、つまりベンチャー企業(ビジネス)である。世界的には開発途上国の企業であろう。会社にとって、これらのベンチャー企業の技術動向を監視し、あるいは有用なベンチャー企業を数多く育成するのが重要な業務となるはずである。私買う人、私売る人という業務分担企業の時代となるであろう。
 話は完全に横道にそれてしまった。次回、私のこのラジオ作りの体験が後々役だった話をしたい。

                          2000.4.10

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音について2

 先回、私が高校生の頃、苦労してラジオを完成させた話をした。その後、私は、徳島大学工学部、応用化学科に入学して、このラジオ組立技術の腕をみがいた。何故、電気工学科に行かなかったか、というと、当時機械、電気は花形学科で、入学が難しい。一方、化学は比較的楽であった、そんな単純な理由からである。化学は、物質の根源である原子、分子の結合に関与するもので、電気、機械などにくらべ、奥深い学問であることを後に認識し、化学を選んで良かったと思っている。
 学生時代は、大学の近くの民家に間借りして、生活した。周りの学生は殆ど貧乏学生であり、ラジオも勿論持っていない。時折貧乏学生は、私のラジオ組立技術を噂で聞いて、ラジオ組立について技術的な援助を求めてきた。中には電気工学科の学生がいたりして、この部分の配線は雑音を拾いやすいのでシールド線に変えた方がいいです、など得意になって助言をした。何の知識もない彼らは無条件で私のアドバイスを受け入れ、たまたまその助言が的中すると、私に対して敬意を払った。私は得意顔を当分の間保持することができたのである。
 貧乏学生の一人である私は、アルバイトをして生活費を稼ぎ、アルバイトをして次々と電気部品を購入した。当時のオーディオ界は、真空管式のアンプで、モノラル全盛であった。ステレオはオーディオ専門誌で取り上げられていた程度で、一般には知られていなかった。私は、ステレオアンプを組み立てるのに熱中した。ステレオレコードのLP試聴盤がコロンビアから始めて売りに出されるというので、それを買って何とか聴きたいと思い、一層アルバイトに精を出した。レコードプレーヤーは、SP、EPが全盛で、LPはまだ普及していなかった当時、LP用プレーヤーは高価であった。
 アンプは、5極真空管を2本、対にしたプッシュプル(PP)方式で、当時流行していたNF回路を付ける回路で組み立てた。NFというのは、ネガティブ フィードバックの略で、終段の出力管の電気信号を一部取り出して、前段の増幅回路の真空管の陰極に戻す方式である。低音側にNFを強くきかせると、低音は強調され、オーケストラのコントラバスの音がやたらと耳につくようになる。NFの別の欠点は、音が箱の中に籠もってしまうような感じになることである。私は、この籠もった音は好きではなかった。
 HiFi(高忠実度)という言葉が使われ始めたのもこの頃である。HiFiに音を出すには、スピーカーシステムの高性能が要求される。高い金を出せばHiFiなスピーカーは買えるが、貧乏学生にとって限界がある。そうなると後は、スピーカーボックスで勝負しなければならない。スピーカーボックスは大きければ大きいほど良いとされたが、これも限界がある。私は、大学の教育学部(当時は学芸学部)の門前にある一間間口の木工屋に目を付け、ここにいつも座って仕事をしている頭の禿げたおやじに箱を作ってくれと頼んだ。私は箱の寸法を記入した紙切れを渡し、同じものを2個ほしいけど、いくらかかるか聞いた。 おやじは、紙切れと私の服装を交互に見ながら、2000円でどうかね、という。冗談じゃない、2000円といえば1ヶ月の食事代ではないか。高い、もっと安くならないか、というと、おやじは、実験に使うのかという。私は曖昧にそうだと答える。彼はしばらく考えて、じゃ1000円でいい。それで頼みますと、交渉は成立した。帰り際におやじが、仕上げの寸法はミリ単位かね、とまじめな顔をして聞いてきた。私は、ええ、まあ、できるだけ・・・と言って帰った。
 1月の寒い夜、私は箱を受け取るため同宿の友人とその店に行き、代金の1000円を禿げ頭のおやじに渡した。彼は、頭に巻いたねじりはちまきを外して、ぴょこんと頭を下げた。2人で自転車に箱1個ずつ乗せて下宿に戻った。帰って箱をよく見ると、2つの箱は別の材質を使っていた。おやじめ!しっかりしているなあ、なにがミリ単位の仕上げだ、と腹を立てたが、半額だからしょうがないかとあきらめた。その箱にスピーカー(オンキョウ)を付け、自作のステレオアンプを接続し、始めてステレオレコード(試聴盤)を聴いた。何と臨場感のある音だろう、と感激した。
 この感激を独り占めにするのはもったいないと思い、レコードコンサートを開くことにした。当時、ステレオレコード普及のため、レコード会社が無料でクラシック音楽のレコードを貸し出していることを知っていたため、これを利用することにしたのである。会場は、城山公園内にある徳島市公民館の一室を交渉して借りた。親切な公民館の職員は、地方夕刊紙にこのレコードコンサートの記事を載せてくれた。
 当日、スピーカーボックス、アンプなどの機材を運ぶため、同僚2人の貧乏学生に応援を頼んだ。 私達は、ボロ自転車の荷台にこれらの機材を乗せて、下宿から500mほど離れた公民館によたよたと走った。会場に機材を設置して音を出してみた。下宿では、襖1枚で仕切られた隣の学生に気を使うため、大きな音は出せない。この公民館の1室は、思いっきりボリュームを上げることができる! なんと素晴らしい音の広がりではないか。部屋全体がスピーカーボックスになったような感じであった。最初の曲目は、レスピーギのローマの松で、ユージンオルマンディー指揮のフィラデルフィア交響楽団が演奏していたものであったと記憶している。レスピーギの金管楽器を多用した華やかな曲想と、オーマンディーのこれに輪を掛けた派手な演奏は、音のデモンストレーションにぴったりであった。
 約50名集まったレコードコンサートは無事終わった。再び3人は、ボロ自転車の荷台にスピーカーボックスなどを乗せて、3月の薄ら寒い夕暮れの道を下宿に向かって走った。先ほどの絢爛豪華な西洋音楽の世界と、私達の今のこの姿はなんと落差が大きいことだろう。
 今日のお礼のため、貧乏学生2人を国鉄徳島駅の少し先に流れる田宮川ぶちの屋台に招待して、トリスウイスキーのオンザロックと、もつ焼きをご馳走した。(つづく)

                    2000.5.10
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音について3


 私は、高校、大学生を通じてクラシック音楽に興味を持って、レコード、ラジオからその音楽を楽しんだ。だから、クラシックの楽章の一部を聞いて曲名をあてることができるし、場合によっては、演奏家、交響楽団、レコード会社名をズバリ当てることもできた。当時、交響曲の指揮者は、トスカニーニ、カール・ベーム、フルトベングラーなどが活躍しており、カラヤンが脚光を浴びつつあった頃である。前3指揮者は、個性が強烈で、レコードを聴いて誰が指揮しているかよく判断できた。それに加えて、レコード会社(外国)の録音技術がまだ低く、レコードの材質もまだ良くなかったせいか、レコード会社により音の質がかなり異なっていた。従って、指揮者の個性とレコード会社の音質より、指揮者が誰であるか簡単に当てることができたのである。私は、グラモフォン、テレフンケンが作ったレコードが好きであった。これらの音は、低音から高音まで音質がクリヤーで、伸びやかであるのが理由であった。RCAビクターは高音がか細く、コロンビアは中音域がやたらと強調されていて、好きにはなれなかった。
 今まで述べてきた私のラジオ組立技術は、もっぱら音楽を聴くために利用された。当時のアンプは全て真空管で、現在のトランジスター集積回路によるものは勿論なかった。トランジスターは、大学生の頃、やっと東京通信工業(ソニーの前身)から単品として売り出され、1個2000円ぐらいで買うことができた。当初のトランジスターは、まわりが40℃以上になると性能がダウンし、場合によっては壊れてしまうという代物であった。また、ざあざあという雑音が大きく、音楽を聴くアンプ用には使えるものではなかった。
 新しもの好きな私は、トランジスターを使ってラジオを作りたいという気持ちが強くなり、ラジオ雑誌から勉強をした。真空管に比べサイズが小さく、消費電力が極めて小さい特徴のトランジスターは、携帯ラジオにぴったりである。当時の携帯ラジオは、一頃のA4サイズのパソコンのような大きさで、電池は別に乾式蓄電池を持ち歩いていた。携帯ラジオを聴きながら歩く、というのではなく、目的地に着いて、やおらラジオを取り出し、有り難がってラジオを聴くという感覚である。それが手のひらに収まるサイズになるというのであるから、トランジスターの発明は歴史的出来事で、それに身近に関われた私は幸せ者であったと今思っている。
 トランジスターだけ小さくなっても、他の部品である抵抗器、コンデンサー、バリコンなどが小さくならなければならないが、日本のこれら周辺技術のレベルの高さは立派なもので、すでに商品化されていた。これらの小さな部品と、トランジスター2個からイヤホンだけで聞く携帯ラジオを作った。ざあざあというトランジスター特有の雑音のため、長く聞くと頭が痛くなる。その後、トランジスターの技術改良はものすごい勢いで進んだ。何から技術改良が始まったかというと、低雑音のトランジスターの開発であった。何と身近な問題の取り組みであろうか。各社真面目に取り組んで半導体技術の基礎を築いたのである。その後、集積回路、集積回路のチップ化などへ発展していった。
 私は、アンプ製作でこれらの技術についていこうと努力をしたが、集積回路を用いたアンプまででとうとう息切れしてしまった。私が作った最後のアンプというのは、例えばプリアンプについては、プリアンプが10×3cmほどの基板に完成された形で売られているというもので、これを買ってきて、これらの基板を4、5個組み合わせて、できあがるものである。味気なく、面白みも全くないので、アンプ製作は止めてしまった。
 15年前、メーカーのステレオコンポを買った。レコードプレーヤーなし、カセットテープ、CDプレーヤー付のアンプである。小さいスピーカー2個を後ろに設置して、サラウンド音響を楽しんだ。25年前の音に比べると、何とクリヤーで歯切れがいい音だろうと感心した。デジタル録音のCDの音のよさは聞いていてわくわくする。もうCD製作会社による音の個性はなくなった。一方、私は、クラシック音楽をあまり聴かなくなったせいか、指揮者、演奏家の個性も判らなくなってしまった。
 私の音楽鑑賞は全てレコード、ラジオ、テレビという機械媒体を通じてなされた。ところが私は、昨年秋、N響の定期演奏会を見に行く機会があり、生まれて始めて生の音を聞いた。N響ホールの指揮台に指揮者が上がり、指揮棒のもと、音が発せられた瞬間、何と素晴らしい音の広がり、音質のよさであろうか、これぞまさしくHiFiであると感激したのである(HiFiは当然!)。
 しかし、演奏がすすむにつれ、私は音楽でなく、演奏者から発する音を楽しんでいた。演奏会とは、素晴らしいビジュアルなエンターテイメントである、と感じたのである。音楽より、音より、視覚が優先する。つまり、指揮棒が演奏者の独奏を指示する、それに応えてその楽器から音が出る、これらのプロセスを熱心に目で追っていくわけである。あっという間に時間が過ぎていく。こうなると、例えば現代音楽のような、レコードで聴いて退屈する曲でも、生演奏会では退屈しないだろうな、と想像したのである。このことを如実に体験したのが今年1月の定期演奏会で、猿谷氏作曲の現代音楽を聴いたときである。この曲は、色々な打楽器を一個ずつ打ちならして始まる曲である。解説書には、自己と外界との界面、感覚への集中が要求されると、えらそうなことを書いているが、この打楽器ではこんな音が出せますよ、というデモンストレーションのような感じであった。静まり返った会場で異様な音を発生させ、消していく演奏者の演技が示され、むしろ滑稽な感じを受けてしまった。それは、しんとした会場で聴視者の一人がくしゃみをしても、それが音楽の一部として受け入れられてもおかしくない雰囲気であったからである。
 音楽を聴くには、演奏会でなく、CDなどによる媒体を通じて聴くのがよい、というのが私の結論である。生演奏会は、視覚が邪魔して音楽そのものが鑑賞できない。スピーカーを通じて聴く音楽は、聞き手の集中力によって作曲者、演奏家の意志の疎通が左右される。録音技術、再生技術のレベルが上がった現在では、音の質そのものでは、生演奏によるものも、スピーカーのよるものも大差はなくなった。聞き手の感性が豊かであれば、スピーカーで十分である。

                          2000.6.10
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英国旅行1

 私達夫婦は、今年5月末、英国をバスで一周するツアーに参加した。ユーラシア旅行社が企画した15日間の旅である。私は、ロンドンは会社出張やツアーなどで5、6回行ったことはあったが、英国内を時間をかけて丹念に見て回ったのは初めてで、実に楽しい旅であった。
 一般に、ツアーの楽しさは旅行社の添乗員によって左右される、といわれるように、添乗員の質は重要である。今回の添乗員は、阿部麗花さんという若い立派な美人女性で、その任務を見事に果たされた。
 ツアーの参加者は21名で、例のごとく50代以上の年齢層がほぼ100%である。そのような物理的に動かしにくい客を、添乗員は15日間、脱落者を出さずに日本まで連れて帰る責任があるわけであるから大変であろう。一方、私達は気楽なもので、命と全財産を添乗員の阿部さんに預けて、阿部さんの言われるままに動くのである。それはちょうど、英国の田舎で多く見られた羊の群と一匹の牧羊犬の関係に似ていて面白い。羊の群が私達で、牧羊犬が阿部さんである。ただ、実物の牧羊犬は、英国の牧場では見られなかった。牧羊犬は、身をかがめて遠くからひそかに羊を見張っていたのであろう。
 このツアーは、1台の貸切バスを使って英国各地の観光地を巡るものである。だから、観光地と次の観光地の間は、私達、羊の群をバスに閉じこめて移動させるので、この時間は、牧羊犬は比較的楽で、牧羊犬の休息の時間でもある。牧羊犬は、バスの一番前の席に陣取り、時折後ろをみて、羊たちに不穏な動きはないか確認する。バスの移動時間が2時間ぐらいになると、さすがの牧羊犬も疲れで寝てしまう。そんなとき、マン島出身のふとっちょのジミー運転手が、本人も睡魔から逃れるために、牧羊犬に声をかける、「もうすぐトイレ休憩だぜ、ねえちゃん」。
 牧羊犬は、観光地で羊たちをバスから放して、徒歩で名所旧跡に連れて行くときに、本格的な活動が始まる。私達、羊の群は年寄りの集まりである。足腰も弱まっているので動きは鈍い。しかし、好奇心は、海外旅行に参加する位だから極めて旺盛である。悪いことに、全ての羊はカメラを首にぶら下げている。中にはカメラとビデオを持っている欲張りの羊もいる。
 牧羊犬が、迷える子羊を群れにもどす様は絵になる。一方、人生にくたびれた羊を群に戻すには、牧羊犬のそれなりの気遣いが要求され、脅迫的に大声で吠え立てることはできない。観光スポットから次のスポットまで徒歩で移動する際は、先頭は土地の観光ガイドが群をひっぱり、群の最後は牧羊犬が警備するというのがルールになっている。当然であるが、初めての土地を訪れた羊達は目を輝かせて途中の風景を見る。群は進行中だが、ここで1枚、いや2枚写真をとろう、ということで、年老いた羊は立ち止まってシャッターを切る。牧羊犬も止まって後ろで待つ。動作が緩慢になっている老羊は、落ち着き払ってシャッターを切る。欲深くなっている老羊は、ここも、あそこもと、シャッターを切る。牧羊犬は、ワンと一声威嚇したいところだが、しっぽをだらりと下げて、その様子を眺めているのである。牧羊犬の外見は実に穏やかであるが、内心は、「そんなに写真をいっぱい撮ってどうするの?棺桶から溢れるのでは?」と、さめているようである。
 有名な観光地では時折、他の牧羊犬に連れられた別の羊の群に出会うことがある。「あら、あのワンちゃん、可愛いわね、あんなワンちゃんに追われてみたいわ」など、羊仲間で牧羊犬を品定めする。我が方のワンちゃんは、といえば、私達を一カ所にかためておいて、何かの交渉のため大声で吠えまくっている。私達は身を寄せ合ってじっと待ち、時々この様子を遠くから眺める。オオ!なんと頼もしいワンちゃんだろう・・・。

           2000.7.10
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英国旅行2


 私は、今年5月末から15日間、英国をバスで一周するツアーに参加した。ツアーは、ロンドンから北上して、ヨーク、エジンバラ、今回旅行の最北端のインバーネス、そこから南下してグラスゴー、湖水地方、チェスター、バースを経由してロンドンに戻るコースである。移動はすべてバスであるので、英国の田園風景がつぶさに見られ、また、途中休憩のサービスエリアや昼食をとるために立ち寄る田舎町のレストランなどで土地の臭いを十分嗅ぐことができた。
 バスから眺める英国の美しい田園風景は、丘陵と平坦地の連続で、これらは全て牧草で覆われ、この牧草地に点々と白い羊がのんびりしているものである。林、森といったものは所々にあるだけである。かっての英国は、全土、樫の木、ブナなどの森林に覆われていたという。これらの樹木は、最初、人々が暖をとるために伐採され、次いで、人々が豊かな生活を満たすため、耕地拡大用に伐採され、ついに英国から樹木がなくなってしまったのである。こんなことを考えると、この風景を美しいと感嘆してはいられない。もっと美しかったであろう森林風景が、英国人による環境破壊のためにこんな姿になったのだ、と考えを変える必要がある。
 現在、地球の温暖化阻止のため、環境保護(森林保護)をうるさく言う英国人は多い。英国人は、1000年、2000年前から営々として環境破壊を行い、現在の豊かで美しい国土を築き上げた。英国人は、ブラジルなどで行われている耕地拡大のための森林破壊に対して、反対を唱える資格はないであろう。ブラジルの人々は、かって英国人がやったように、豊かな生活を満たすために密林を耕地に変えているのである。ブラジル人は英国人に向かって、文句あっか!と言うであろう。しかし、これでは地球の環境はどんどん悪化していく。南の次は北のロシアで森林破壊が行われるであろう(もう行われている)。
 何故こんなに急速に破壊が進むのか。それは、地球全体が競争社会(資本主義社会)に突入したからであり、さらに情報技術(IT)の急速な普及のためである。特に後者については影響が大きい。今まで自分の生活に満足していた開発途上国の人が、テレビで先進国の生活を知り、自分も!という気になるであろう。金になる身近な物は何か、それは木材である。これを切って金にしよう、ということから破壊がはじまる。  IT、ITと日本の首相は得意だが、ITは地球破壊の手助けをしているのを認識しておく必要がある。
 では、どうしたら環境破壊を阻止もしくは遅延できるか。3つの方法がある。1番目は、地球全体を社会主義国家にすることである。つまり競争社会を止めて、国家主導の計画生産により社会を動かす。これは無理な話であろう。2番目は、あらゆる情報伝達を禁止して、開発途上国の人々に刺激を与えない。これも無理だ!  3番目は、先進国の国家あるいは企業が開発途上国に多大の援助を行う。これは可能であろう。過去、先進国の国や企業は、自国あるいは他国の環境を大いに破壊して多くの富を築いてきたのであるから、当然の報いとして開発途上国にその富を分配すべきである。
 実際、先進国の一部の人、あるいは企業は、色々な形で開発途上国に援助を行っている。これをもっと広げて行けばよい。これが徹底されれば、開発途上国の人々は、無理をして木材を切ることはない。与えられたお金でのんびり暮らせる。もともと南方系の人はおおらかで、他人を蹴落としてまで金持ちになろうとする人は多くいないであろう。
 ここで注意しなければならないのは、援助は金だけでよいということである。日本では、技術を開発途上国に移転するという援助を主眼にしている向きがあるが、これは大きな間違いである。彼らを激烈な競争社会に巻き込むだけであり、彼らの性格からして敗北は目に見えている。
 私は、こんなことを考えて英国の整然とした美しい田園風景を眺めていると、ツアーの終わり頃には次第に腹が立ってきた。ツアーの最終日はロンドンで半日のフリータイムがあり、ナショナルギャラリーなどへ見学しに行った人も多かった。私は大英博物館に行ってみたかったが、他の用事で行けなかった。ここにはおそらく多くの世界遺産が集められていることであろう。大英帝国時代、各地で分捕ってきた財産を陳列しているはずである。私がこれらを見て、また腹立たしくなるのは間違いない。行かなくてよかった(しかし、行ってみたい!)。私は今日現在、あの時不愉快な思いでロンドンを後にすることがなくて良かったと、自分を慰めている次第である。                                                2000.8.10
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英国旅行3

 私達夫婦は、今年5月末から15日間、英国をバスで一周するツアーに参加した。今まで、このページに2回、旅行の感想を記してきたが、今回は3回目である。
 英国の田園風景をバスから眺めて驚いたのは羊が多かったことである。私が中学生の頃、社会科の時間で、英国はもともと毛織物の生産国であり、その後、産業革命で工業国になり、鉄鋼、機械など工業が大いに発達した、と習った。その頭がそのまま今の私に残っており、英国は、落ちぶれているが工業国であろうという先入観があった。ところが今回の旅行で、国土のおよそ80%以上を占める丘陵は牧草地であり、そこには多くの羊がのんびりしているのを見て、少し違うなと思ったわけである。
 英国人は本気で羊を飼い、羊毛を生産しているのだろうか? 私にはそうは思えなかった。彼らは何のために羊を飼っているのだろうか。その答えは簡単、土地の荒廃を防ぐためであろう。あるいは、1000年、2000年と続いている美しいグリーンを絶やしたくないと言う意識があるのか。
 羊をよく見ると、どの羊も毛がふさふさしている。私は、羊の毛を何時刈るのが良いか、といった知識は持っていない。羊にとっては、これから夏に向かう時期に毛を切って貰って、さっぱりとした気持ちで夏を迎えたいという願望はあるはずである。犬や猫なら、6月は自然に毛が抜ける、いわゆる毛変わりの季節である。羊は、飼い主がめんどくさがって毛刈りをしなければ、自然に毛が抜けていく。抜けた毛は地上に落ち、有機質の多い土地になるだろう。
 羊は一日中草を食べ、時々糞をする。言い換えれば、羊は草を刈り、土地に肥料を施す。一方、羊の草刈りに免れた草たちは花を咲かせ、実を実らせ、次世代を造っていく。時たま無頓着な羊は種の付いた草を食べるが、種は、消化されずに糞と一緒に地上にばらまかれ、元気良く発芽する。こうしてみると、羊は英国の豊かな緑の保持に多大の貢献をしている。英国人は、太古からの森林を伐採し、環境を破壊尽くしたが、現在かろうじて残る牧草の緑を羊に任せて維持しているのである。
 バスから眺める牧草地には羊が点々としているのが見える。緑の中に白い塊が所々にあるから、それが大きな石か岩石に思えるが、羊である。羊の本場のニュージーランドで、羊が群をなして牧羊犬などに追われている様を写真とかテレビでよく見るが、英国では羊の群はない。広く柵で囲まれた牧草地に点々と羊がいるだけである。英国人は、この広さで緑のリサイクルをするには、これくらいの数の羊だけでよい、というのを知っているのであろう。羊は食べ物の競争もなく、一日中のんびりと食っては寝、食っては寝をしているのである。牧羊犬は、外敵の狐、野犬が領地に侵入するのを防ぐだけが任務となる。ニュージーランドの牧羊犬にくらべると、英国の牧羊犬は暇を持てあましているようである。彼らの暇つぶしのためか、近くのホテル、レストランなどに連れて行かれて、観光客の相手をする。ワンちゃんが来ると日本人観光客は大いに喜ぶ。
 英国の羊を見て私は、彼らは人間を含めて動物の中で一番幸せな一生を過ごしているのではないかと思ったのである。食べ物は周囲にいっぱいある。食べたいときに食べ、飽きたら食べ物の上で腹這いになって休み、周囲を眺める。外敵は犬に任せている。もっと美味しい食べ物があるよ、もっと楽しい遊びがあるよ、などの情報はないので、生きるというのはこんなものだと現状に満足している。不平、不満、ストレス・・・はない。
 人間にもこのような生活ができないものだろうか。英国の羊は、英国という強い国があり、雇い主の民間人は国に保護され、生活を保障されているので、平和に生きていられる。日本人が英国の羊のような生活をするには難題が多すぎる。しかしまず、情報を閉め出す必要がある。豊かで快適な物質生活にし向ける情報が多すぎるのだ。これだけでもなくなれば、日本人のストレスはかなり低減する。しかし、経済活動は極端に低下する。会社が困る、国が困るということになり、ストレスがなくなれば病院も困ってしまうことになる。困ったものだ。
 行き着くところは心の問題になってしまう。無欲とまでいかなくても、少欲でよい。個人が欲を少し押さえれば地球の温暖化は遅延できる(温暖化が急に出てきましたが、これは2回目のテーマでした)。例えば、2000ccの車が欲しいが、1000ccで我慢しよう、というだけで温暖化は遅延できる。皆さんどうですか、できますかね。
                    2000.9.10
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シドニーオリンピック

 シドニーオリンピックが10月1日で終わった。私は、期間中テレビで日本選手の競技をほぼ1日中眺めていた。それが終わって今は何となく寂しい。選手たちはもっと寂しく、虚脱感に包まれているだろう。彼らは、オリンピックの選手に選ばれること、競技で勝つこと、メダルを取ること、がここ数年間の目標であったし、結果は別にしてそれが全部終わったわけである。
 日本の男子選手は、これから後の人生約60年をどうするか、真剣に考えねばならない。柔道の選手は別にして、例えばマラソン、水泳の選手はそれだけで60年間食ってはいけない。となると話は深刻になる。これから結婚し、子供を育て、平和な老後を迎えるには経済的な負担が大きい。今まで競技一本に全精力をつぎ込んできた選手ほど世間知らずで、簡単には人間社会に入り込めないだろう。逆に言えば、アフターオリンピックのことを常に念頭に置き、競技に専念してきた選手は、世界を相手には勝利できない。
 今回のマラソンの男子、女子の結果は、私にとって興味が深かった。男子選手は企業のサラリーマンである。彼らはオリンピックのため企業から特別扱いをされて、練習時間は十分とれたであろう。しかし練習の内容にはそれほど金はかけられないし、かけてもらっても社員の一人として遠慮がある。走るだけの一人の男に大金をつぎ込んで何のメリットがあるの?と、了見の狭い日本企業の忠実な社員はいう。メリットは?と聞く人間が実に多いのは残念であるが、これは日本の底の浅い社会では仕方ないことである。このような環境では強力な選手は育たない。男子マラソンで日本が負けたのはこのようなところに原因があったと思われる。
 一方、女子は、事情が男子とは異なる。日本では、会社などでの女子の地位はまだ低いのが現実である。この地位の低さ、言い換えれば組織で重視されない立場、が幸いして、今回の日本女子の大活躍があったと思われる。これはアメリカでの男女黒人の大活躍と類似している。
 日本女子は、日本の夫依存型の伝統的な生活形態で、つまり女子は結婚するまで好きなことをし、いい人を見つけて後は臍天で暮らすという図式で生涯を終えたいという人がまだ多い。例え会社勤めをしていてもこのような願望があれば必然として組織の中で軽く見られる。そこで日本女子は居直って、よーし!やったるか!ということになり、周囲を無視して競技にいのちを賭けるわけである。いわば、やけくその世界である。悲しいかな男子は、後60年の長いタイムスケールを見越して行動しなければならない。必然として、競技に対する意欲は中途半端になってしまう。女子の短期決戦、燃え尽き症候群とは違う。
 女子マラソンの高橋尚子選手が金メダルを取った。彼女は、小出監督のところに自ら志願して弟子入りし、最後はアメリカの高地で長期間訓練をしてきた。げすの勘ぐりだが、500~1000万円の金はかかっているはずである。自分で調達したのか、家族か、スポンサーがいたのか?ワイドショー的な興味がわいてくる。意志の強さは必要であるが、これだけ金をかけて訓練すれば誰でも強くなると思う。一方、男子は高地訓練の話は聞かない。アフターオリンピックのことを考えれば、男子には投資する価値がないのであろう。
 高橋選手はこれから数年、企業、マスコミの興味の的になる。あらたに企業に入り、企業名を胸に付けてマラソンに参加すれば、こんなに安い広告費はないであろう。彼女がにっこり笑ってコマーシャルに出れば、我々庶民は「おおー、高橋だ!」と感激する。彼女は数年で数億円を稼ぐであろう。1000万円の投資は安いものであった。残念ながら男子にはこのような恩典はない。あくまでも地味である。男子選手がいかつい顔でにっこり笑っても様にならないし、私はこんなCF見たくもない。
 シドニーから送られてくるオリンピックのテレビ画像には必ずと言ってよいほど「Sydney2000」のマークが入っていた。私は、このロゴの、何だか日本の書道を思わせるなめらかな筆跡が気に入っていた。何とかこのロゴを身につけたいと思ってよく調べると、朝日新聞のオリンピックの記事には必ずこのマークが入っているではないか! デジカメでこのロゴを撮り、パソコンのアドベフォートデラックスというソフトに入れて加工し、黒の印字を赤に変えて、下に示す画像を作った。
 これをTシャツ転写用のフィルムに印刷して、テニスで着るポロシャツの胸のポケットのところに転写して、見事身につけることができたのである。これを誰かに自慢しなければならない! ということで、テニススクールの仲間のご婦人(塩谷さん)に、胸を突きだして、「これ、どおーオ」という。「あら、すてきね、金谷さんオリンピックに行ったのですか!」 「いや、パソコンで作ったのです」 「へぇー、背中にも付けたらいいわよ」 「・・・・」
 このロゴも、あと数週間で世間から忘れ去られる運命にある。
                      2000.10.10
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テニス1

 私は、趣味としてテニスを週2回楽しんでいる。退職後は特定の相手がいないので、テニススクールで他のスクール生を相手に行っている。テニススクールは、過去5,6回転校してきたが、現在は、横浜ドリームランド横のSPINXというスクールに水曜日に、また東戸塚のサントリーテニススクールに土曜日に通っている。1回1時間半の練習である。生徒数は、水曜日は、週日のため生徒数が少なく6名、土曜日は早朝(7時20分から)のため私を入れて3名である。水曜日は女性ばかり、土曜日は男性が1人、女性1人の構成であり、私より若い人たちである。日頃、62歳の私を相手にしてくれているスクール生のみなさんに対して、私は感謝している次第である。                    
 私が会社勤めをしていた頃は、同じ職場の横田さんという30代の男性が私のテニス相手をしてくれていた。勤務時間後ビールを賭けてシングルスの試合をしようと、勤務時間中に相談がまとまり、終業時刻の5時半にちょうど仕事が終わるように仕事を調整して、5時半にプレーを始める。勤務時間後のテニスは陽の長い夏にしかやらないが、1時間半ぐらいはテニスが楽しめるのである。                              
 私達は、プレー中大汗をかいて喉が乾いても水は我慢して飲まない。テニス終了後着替えて、2人で急ぎ足で近くの相模屋という酒店に駆け込み、ビンビール2本を買い、お互い無言でビールを急いで飲む。一息ついた後、落ち着いて今日の試合を酒の肴にして飲む。「金谷さん、こういっちゃなんだけど、年の割に足が速いですね」 「いやいや、横田さんこそよく球を拾いますね」 などエールの交換を行う。試合はほとんど私が負けて、ビール代を支払わされていた。
 1セット、6ゲーム先取で、スコアは2~3対6ぐらいで、私が負けるというのが普通であった。2セット目は途中日没で終了するが、大体私が優勢で中断というケースが多かった。考えてみれば、1セット目も最初は0対3ぐらいで負け越すが、後半に私がゲームを取ることが多い。私はスロースターターであったのかと、この年になって気が付いたのである。
 「横田さん、いつか土曜日の休みの日に時間をかけてじっくりテニスをしましょうか」と彼に挑戦した。「いいですよ、やりましょう」と、彼は気軽に答えた。相手は老人だ、試合が長ければ体力が持たないだろう、勝つのは私だ、という気持ちが彼の顔に現れていた。
 今年の4月8日にその対戦を行った。1セット目はいつものように、4対6で私の負けであった。続いて2セット目は6対4で私が勝ったのである。「おい、横田君どうする? これで引き分けということで終わろうか」と、私も急に横柄な口調になって、彼の顔をのぞき込んだ。「いや、やりましょう、決着をつけましょう」と、彼は遠くを見つめて答えた。言葉とは逆に、彼の表情は曖昧であった。「じゃ、やろう、このセットも私が取る」と、私は彼に宣言した。この一言を聞いて、横田さんは笑顔を作ったが、すぐ真剣な目つきになった。
 試合は6対3で私が勝った。このセットは、最初の4ゲームを私が勝って、この調子でいけば6対0で圧勝するかもしれないという勢いであった。しかし、横田さんも、このままでは男がすたる、とでも考えたのであろうか、作戦を変えて、ロブを上げたり、ネットに出たりして彼なりに工夫をしてすこし盛り返したが、私の勢いに勝てなかった。
 午後1時に試合を終わって別れることになったが、このまま横田さんをとぼとぼバス停まで歩かせるのは可哀想だと思って、戸塚駅まで私の車で送ることにした。彼はいつも明るく、元気に会話をするのであるが、この日は無口であった。「横田さん、またやりましょう、夏の暑い日にやりましょう、私は体力がないから今度は負けるでしょう」と、私の追い打ちをかけるこの嫌みの言葉に、「そうですね、夏に挑戦します」と、彼は素直に答えた。
 この夏は彼からの挑戦はなかった。彼は、夏に金谷さんに勝っても暑さのせいにされるのがオチだからやらない、と思ったのであろう。落語に、「碁仇は、にくさもにくし懐かしき」というのがある。これは、今の私の横田さんに対する気持ちと同じである。
                              2000.11.10

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テニス2

 私は、定年退職後暇が驚くほど多くなり、もったいない話であるが、その暇つぶしに苦心し、なるべく日中は用事を作って外に出ることにしている。
 10月5日(木)、東京の有明テニスの森でトヨタプリンセスカップという女子プロテニスの試合があり、それを見に行った。自由席券は当日2000円であるが、前売りだと1500円でJRのみどりの窓口で買えるというのでそれを買っていった。朝の10時から夜の10時頃まで試合があり、それを1500円で楽しめるというのであるから、これほど安いエンターテイメントはない。しかも、ウイークデイは自由席がコートサイドに近いところまで広げているので、近々と女子プロの表情が見える。
 当日は、オーストラリアの17歳のドキッチ選手が試合をした。彼女の母親が私のすぐ近くの観客席でプレーを見ており、彼女は時折母親の方向を見ているようであった。そんな状態であったので、彼女は格下の相手に相当苦しんでいた。ドキッチは今年のシドニーオリンピックで活躍し、人気がさらに高まっているが、日本では昨年ほど騒がれていない。
 母親と並んでいる時のドキッチの顔つきはまだ子供であるが、プレー中の顔は精悍である。体も無駄な肉は付いていなく、特に脚は引き締まっている。テニスの女子プロ選手はすべて脚がきれいである。あのどてっとした女子ゴルフの脚と違うのは、テニスは、脚のスポーツといわれるぐらい脚の動きが命で、脚を絶えず鍛えているからであろう。
 一方、見る側で楽しめるのは、女子テニス選手のウエアがズボンでなく、丈の短いスカート、ワンピースあるいは短パンであることである。太股の締まり具合がよく見える。ひらひらしたスカートをつけた選手がサーブを打った瞬間、スカートが舞い上がりお尻が丸見えになり、お尻の締まり具合まで判ってしまう。
 普通、観客の目はサーブを打った瞬間、ボールが相手コートに入ったかどうか、あるいは球のコース、速さを見る。それがサービスエースだと思わず拍手をする。しかし、テニスの試合を前記のような楽しみ方をしている不届きな男性観客も中にはいるのである。
 当日の目玉の試合に杉山愛と浅越の対決があった。杉山は、伊達が引退した後、一人で日本の女子テニス界を背負って、後に続くスターが出るのを待っている感じである。そのスター候補の一人が浅越である。
 大方の予想では杉山が勝つことになっていたが、あっさりと浅越が勝ってしまった。世界の女子テニス選手のほとんどはスリムな体型の持ち主である。杉山はと言えば、どてっとした感じで、テニスよりゴルフ向きの体型である。一方、浅越はスリムそのもので、体型からして勝負が決まっているようなものであった。
 両者ともバックは両手打ちで、トップスピンの速いボールを打つ。バックの厳しいコースにきたボールはやむなく片手のスライスボールで返す。当然この返球は甘くなり、相手に強打される。このバックの厳しいボールに追いついて、確実に両手で打ち返すには、速い脚力が必要で、身軽にボールに追いつく必要があるわけである。ここに、スリムな体型が絶対的に要求されるのである。杉山は体型で負けたようなものである。
                                     2000.12.10

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蓮花のこと、1

 池 蓮花は、鄭州大学文科2年の女学生である。古里は、吉林省図們市近くの鎮光石村にある。今から5年位前、つまり彼女が中学3年生の頃から私と文通を続けている女性である。吉林省は日本語の教育が熱心で、中学から日本語を授業に取り入れている。だから生徒達は日本語が読めるし、書くこともできる。当時の朝日新聞にそのことが記事に載り、文通を希望している生徒が多く、相手の日本人を求めている、という内容のことが書いてあった。私もそれに応募し、彼女が紹介されたのである。
 蓮花が高校2年の頃、大学に行きたいと言い出した。これからの世の中は女性でも大学を出ておいたほうがいいでしょうと、他人事のようなことをいってやると、技術系の大学に進学したい、どう思うかと聞いてきた。中国は今は農業国だけれど、将来は技術立国になると思うので技術を身につけておくと良いでしょうと返事をした。
 図們市は、すぐ南が河を隔てて北朝鮮という、国境の街である。従ってこの地方は朝鮮民族が多い。蓮花の家も朝鮮族で、朝鮮語を話す。兄弟は2人で、弟が2歳下である。家は農業を営んでいるが、農作物は豊富に取れない、貧農である。子供の教育は、中学校までが普通で、大学までは珍しい地方で、特に女性が大学に進学するのは特例であろう。蓮花が大学に行きたいという手紙が来たとき、私は学費を援助してあげると、気軽に返事をだした。
 そのあと心配になり、中国の大学の授業料は幾らぐらいか聞いてみたが、安いから大丈夫ということしか返事がこない。大学に入ったら、夏と冬にそれぞれ3000元送りましょうとこちらで見積もって申し入れをした。大変助かる、先生(私のこと)は私の両親に次いで大切な人だと、蓮花は感激した。私は、今でもこの金額が適当なのか判然としないままで放置している。蓮花が何も言ってこないので満足しているのであろう。
 彼女が大学に入る前は経済的に苦しかったようで、受験勉強をしながら、町の食べ物屋に住み込みでアルバイトをしていた。厳寒の土地だから冬は特につらかったようで、そのようなことが拙い日本語で私に綴ってきた。夏休みには、母親が作る味噌を町まで売りに行くのを手伝ったり、父親の農作業を手伝ったりしていた。
 手伝いも良いけれど、勉強もしっかりやりなさいと、度々激励の手紙をかいた。若いときの勉強は大切で、勉強したことが全部記憶に残るのでこの時期を逃してはいけません、時間があれば本を読みなさいと、自分の子供に言えなかったようなことを伝える。遊びたい年頃かもしれないが、長い人生でたったの1、2年の我慢だ、この1、2年を楽して過ごすと、後の4、50年後悔することになる、がんばれ。
 蓮花に私の気持ちが伝わったかどうかわからないが、とにかく彼女は今、大学生をやっている。
                          1999.9.10

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初春うらら、遠夢

 21世紀を迎えた今年の元旦もうららかな日和であった。私は、いつも6時前に起床するのであるが、大晦日は息子が夜中に帰宅し、久しぶりの息子をそのまま寝かせるのも可哀想ということで、1時頃まで酒のつきあいをし、そのため7時起きになってしまった。起きて外を見ると、丁度具合良く初日の出が見られた。
 外に出ると、近所の神社の初詣のためか、人が三々五々歩いている。元旦は、私は近くの新聞販売店に行き、新聞を買うのが習慣になっている。読売新聞の販売店は、国道1号、平戸交差点の所にあり、初詣の人が多い白旗神社のすぐ隣にある。私は、ガラス戸を開けて、「読売をください、幾らですか」という。配達を終わり、酒の入った顔をした店主らしい男が、「はいこれどうぞ、金はいいです、もしなにかあったらよろしく」という。何かあったら、というのはなんだろう、と思いながら兎に角、ただだからにっこり笑って「どうも」といって外に出た。
 日経の販売店は、読売の店から1号沿いに横浜方向へ100m先にある。ここは、店の前に各紙を並べたスタンドがあり、その横に料金箱が堂々と設置されている(昨年はなかった)。私は、日経を一部取って、財布から硬貨を探したが、あいにく100円玉1個しかないのでそれをそっと入れた。店には誰もいなく、店の奥にはガラス戸で仕切られた部屋があり、その中で笑い声が聞こえる。配達を終わった人達が新年の祝い酒を飲んでいるのであろう。
 4、5年前までは日経も、読売も、毎日も、気前よくただで新聞をくれた。ここ2、3年は料金をきちんと取っていたが、今年の読売はただである。景気が本格的に戻ってきたのかなと、読売の店主の赤ら顔から世の中の景気を診断しようと思ってみたが、どうも赤ら顔は景気の指標には不適切である。考えてみれば、ここ1、2年、このあたりに大型店舗が4、5軒進出し、その宣伝のチラシが毎日のように新聞と一緒に入る。新聞の販売店にとってチラシの手数料は馬鹿にならない筈である。これが気前のよい赤ら顔の原因か、と納得したわけである。
 前置きが長くなったが、私は40年前、徳島大学工学部応用化学科を出て、京都の第一工業製薬に入社して研究部に配属になった。大学での卒論テーマは、水の電気分解による重水素の分離についてであった。私は、約一年間電気化学の勉強をしたわけで、この電気化学が私の頭の隅に染みついたまま40年間過ごしてきた。この間、私は、会社の仕事の合間に電気化学の可能性を夢見て色々実験をしてきた。
 最初の実験は、38年前第一工業製薬の研究部で密かに行った。この会社は石鹸、洗剤の専門メーカーで、研究部では例えば、洗濯用の洗剤をどうしたら性能を上げることができるかを研究テーマとしていた。いわば洗剤についての改良研究である。私は、衣類の汚れを落とすには洗剤だけにこだわってはいけない、洗濯方法(洗濯機)を含めたトータルシステムで考えなくてはならないと、偉そうなことを考えていた。当時の洗濯機は、現在もちっとも変わっていないが、洗濯槽の中を機械的に羽根が回転するだけであった。これでは生地を傷めるだけではないか、もっとミクロ的に汚れを落とせないか、ということで始めたのが電気化学的に汚れを落とす実験である。
 研究部には汚れの標準になる布があり、それを小さく切って100ccのビーカーに入れ、洗剤、水を加え、電極を入れて直流電流を流すという簡単な実験装置を作った。私の理屈では、陰イオン界面活性剤(洗剤)が汚れを取り囲み、球状のミセルとなり、そこに電流を流すと、電気的にマイナスのミセルはプラスの電極へ引きよせられて布から汚れが取れる、という計算であった。実験の結果は残念ながら失敗に終わった。電圧を変えたり、温度を上げたり、電解質を添加したり、洗剤濃度を変えたり、色々検討したが布は白くならなかった。全く新しい方式の電気洗濯機(当時私はこれを電子洗濯機と言っていた)は生まれなかったのである。これは、無惨にも消えてしまったが、私の最初の夢であった。
 現在の家庭用電気洗濯機は、主流はまだ機械攪拌であるが、ジェット水流を出す方式、超音波を当てて汚れを落とす方式など少しずつ改良されている。今、私が一番興味を持っているのは、洗濯機と乾燥機を一つの洗濯槽で行う方式である。この方式の電気洗濯機は、東芝が先行し、シャープ、松下が最近新製品として売り出した。これらの洗濯機の価格は13~16万円と馬鹿に高い。普通の洗濯機は4~5万円であり、これに熱風を送り込む装置を付けただけで、何故値段が3倍になるのか。熱風を送り込む装置は4~5千円程度でできるものである。腹立たしい値段であるが、消費者が欲しがる商品であるから高くても許されるのだろうか。私は、現在新築中の家にこのタイプを設置しようと考えているところである。 
                               2001.1.10
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蓮花のこと、2

 池 蓮花は、私の文通相手の中国女性(21歳)である。彼女のことについては、2年前のこの欄で、「蓮花のこと、1」という題で少し紹介した。その後の彼女のことについてふれてみたい。
 彼女は、今、鄭州大学の4年生である。専攻は最初、英文科で、将来学校の教師になりたいということであったが、3年生から法科に変更した。将来弁護士になるんだ、ということで、鄭州市の法律事務所で実習を兼ねたアルバイトをしていた。また、彼女は、3年の終わりの夏休みには清遠市にある韓国系の商社でアルバイトをした。ここでは、彼女は大変重宝がられていたようである。何故なら、この商社は、社長が韓国人で、社員が全員中国人であるから、韓国語(朝鮮語)の通訳が必要で、蓮花はもともと朝鮮族で朝鮮語は得意であるので通訳の仕事をしていたのである。清遠市は、広東省の広州市から少し離れたところにあり、一方、大学は河南省の省都である鄭州市にあるから、地図で約2000km離れている。こんな遠くによく仕事先を見つけたなと感心していたら、同じ朝鮮系の友達の紹介だという答えが彼女からかえってきた。同民族のネットワークはしっかり機能しているようだ。
 中国の大学は9月から新学期である。蓮花は、4年生になった昨年の9月からまたアルバイトをはじめた。今度は西安市で、前勤めていた商社が西安に支店を開くというので彼女も請われてそこで働いているのだという。私は、そんなにアルバイトばかりして大学は卒業できるのか、と心配して手紙をだすと、大丈夫、大丈夫と言ってきた。一般に、4年生になったすぐの9月は就職先を決める時期で、学生は講義どころではないらしい。また、この大学だけのシステムかどうか判らないが、文系でも卒業までに企業での実習が義務づけられている。蓮花は、3年の始めに法律事務所でその義務を果たしたので、今ゆうゆうとアルバイトができる。彼女の就職も、現在働いている商社に決めているというので極めて落ち着いているようである。
 彼女は、彼女が西安でアルバイトをしていた時、彼女の先輩が経営しているスポーツジムを知り、その先輩のすすめで彼女もスポーツジムを経営したいという気持ちになったようである。今、中国ではスポーツジムに通う若者が多いといい、スポーツジムは将来必ず繁盛するはずだ、女性である私(蓮花)は、会社勤めもせいぜい30歳後半ぐらいまでで、後は退職を余儀なくされるのが見えている、と手紙に書いてきた。スポーツジムを経営すればいつまでも働くことができるので是非やりたい、それにつけては投資する必要があり、自分でいままでアルバイトをして貯めたお金では足りないので義父(私のこと)に援助してもらいたい。今まで夏冬2回、3000元ずつ送金してもらっているが、来年(2001年)の夏の分を今回の冬の分と一緒に送って貰えれば資金は足りる、と言ってきた。
 私は、これからの女性は生活の基盤になるものを持っておく必要がある、それが技術でも、公的な資格でもよいし、物(資産)ならもっと確実だからよい、若いのにしっかりした将来計画を持って立派である、と手紙に褒めて書いてやった。私は、お金は予定の金額内だからOK、2回分まとめて送りましょう、ただし世の中には悪いやつがいっぱいいるから、その先輩が本当に信用できるか調べなさいと言ってやった。私の手紙を見て彼女は、義理の父(私のこと)が自分の計画に賛成してくれて非常に感激した、といってきた。
 さてその送金であるが、私は今まで10回近く中国にお金を送ってきたが、一度たりともすんなり送金できたことがなかった(ただし、お金の紛失は一度もなかった)。お金を送るたびに中国政府の送金制度が変更になっているのである。いつも中国銀行の横浜支店から送金するが、以前は元で送っていたが、昨年から円で送るシステムになった。受け取る方も円の口座を持っている必要があり、そうでない場合は身分証明書の提示などやっかいな手続きが必要である。
 私は、昨年11月に6000元分の8万円を蓮花に送った。手紙でその旨を伝えたが、12月半ばになっても中国銀行の西安支店に着いていないという。確認のため横浜支店に行き、確かに送ったのかと行員に聞くと、すぐ電話してくれて確かに先方の口座に入っていると言う。このことを蓮花に伝え、もう一度確認しろと頼んだ。彼女から返事がきたのは今年の1月末であり、無事5600元受け取ったという。2ヶ月以上もかかったのである。1元=13円の計算で送ったが、今は1元=14円になっていて、400元足りなかった。
 不足分は後日送ることにして、兎に角私の送金義務は終わった。4年間で約40万円を彼女に送った訳であるが、これで彼女は彼女自身の人生を何とか切り開いていける自信が持てたと思う。もし私がお金の援助をしなかったら、蓮花は今どんな生き方をしているだろうか。辺境の地で中学を卒業して、近くの工場で黙々と働いているだろうか。一人の女性が私の40万円で貧困の世界から抜け出せるのだから、このお金は無駄ではなかった、と私は現在満足している次第である。
        2001.2.10

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矢祭町へ引越、1

 私は、60才を過ぎて家を建てることになった。もともと年を取ってからは田舎暮らしをしたいという願望があったのである。その田舎を何処にするか、それは大変な問題であった。故郷が夫婦とも岡山だから岡山がいいか、いや、あそこは親戚、兄弟がいて煩わしい。長野の山間部はどうだ、冬寒くていやだ、北海道は土地は安いが寒くて遠い、など夫婦で考えた。
 話は古くなるが、私は15年前、山口県新南陽市にある、会社の工場に転勤になり、5年間その社宅に住んだことがあった。丁度その折、新南陽市が宅地造成をして大々的に売り出した分譲地があった。その分譲地は、南向きのひな壇状で、瀬戸内海を見渡せる私にとって理想的な宅地であったので、私は飛びついて買ってしまった。定年退職後は、横浜の自宅を売り払って、ここに家を建てて海を眺めながら暮らそうと思ったのである。
 新南陽市と東隣の徳山市一帯は、石油コンビナート地帯として古くから有名であり、化学系の会社が林立している。私の勤めていた会社もそのコンビナートの一角にあった。一方、その売り出した住宅地は、新南陽市の工場群から外れた西端の、すぐ前に海水浴場、周囲は山林という環境であった。ここは、通常風は西から吹くので、工場群の煙突から出る汚染物質の被害には遭わないだろうと、私は考えていた。
 当時、真夏の風のない午後、徳山市で目がちかちかするという市民からの苦情が時々あった。新南陽市の東隣の徳山市は、新南陽の工場群の煙突から出る排ガスが西よりの微風に乗ってちょうど降りてくるところにある。現地のマスコミが随分騒いだが、原因は不明ということであった。しかし、私達社員は、化学工場の排ガスが原因と、密かに思っていた。
 私は、その後、横浜に転勤して元の自宅に戻ったが、時がたつにつれて新南陽市の宅地への愛着が次第に薄れていき、すっかりさめてしまった。そこに永住する場合の私の一番の心配は大気汚染であった。新南陽市の会社にいたとき、周囲の人達に咳をする人が多く、また横浜に戻って、新南陽から出張してくる社員が重々しい咳を連続的にするのを見て、私は何となく不気味さをおぼえたのであった。
 このような不安から私達は、瀬戸内海が見える宅地はあきらめて、別を探そうということになった。伊豆半島、房総半島はどうだろう、ということで、伊豆半島の伊豆高原分譲地を見に行った。伊豆は東京から近くだから古くから別荘地として開発されてきた。しかし、今売りに出されているものは、以前の売れ残りか、持ち主が家が建てられなくなり諦めて売りに出したのか、そんな物件がほとんどである。その2、3を地元の不動産屋の紹介で見に行ったことがあった。
 売れ残っている物件は総じて暗い印象であった。私達がある物件をその区画の前に車を止めて眺めていると、隣の家から老女が出てきて、いきなり私達を睨み付けた。不思議に思ってよく見ると私が止めた車が隣の敷地の前に少し入っていたのである。こんな隣人がいる土地はゴメンだ!私達はそそくさと逃げるように帰った。古い売れ残りの分譲地は、古くからの住人の個性がその周辺に影響し、それを嫌って買い手が付かないという図式が見えた感じであった。
 土地の購入は新しい分譲地に限る。そのようなことで、色々探して見つけたのが福島県矢祭町の分譲地である。ここは矢祭町が大々的に造成した全274区画の堂々とした分譲地である。今から3年前の平成10年7月から売り出した。その年の8月の朝日新聞全国版に分譲地の広告が載り、私達はすぐ現地を見に行った。丘を切り開いた平坦な分譲地は大変明るかった。予め送ってもらった区画の図面と価格表からお目当ての区画を見に行き、その区画がすっかり気に入った。現地案内所の町役場建設課、宅地係の担当者にその区画を予約したいと申し出た。担当の役場の人は、「ここの区画はァー、東南に立木があってェー、朝の10時頃までは区画の一部が太陽の陰になるんだけんどー、ええですかー」と福島訛で言ってくれた。私は、「今住んでいる横浜の土地は南にすぐ2階家が建っており、その日陰に比べるとここは天地の差です、そんなの問題じゃないです」と言って、予約金を支払った。帰り際、その担当者はこれを持って帰ってくださいと、矢祭町でとれたトマトとキュウリを渡してくれた。横浜に帰ってその野菜を食べたが、なんと美味しかったことか、味が濃厚で、香りもすばらしい。
 購入した区画は、分譲地の東南の端で、面積522㎡(158坪)、価格990万円である。宅地の前は小さな谷川が流れ、その向こうは農家の畑が広がっており、東側は林である。西隣は別の区画で、東京からきた人が私達と同じ日に購入したようである。これだけの広さがあれば陶芸用の別棟が建てられ、菜園も確保できる。
 新南陽市の土地は3年前、不動産屋を通じて売りに出した。82.6坪のこの土地を坪22万円の総額1817万円で宣伝してくれたが、買い手が付かなく、坪20万円に下げて総額1652万円にしたところ売ることができた。当初、私はこの土地を1080万円で購入したので、600万円弱の儲けになる。しかし、実際は土地代の一部として600万円の住宅ローンを借り、その金利が当時8%と高かったので、金利分だけの支払いが約10年間で600万円近くなり実質赤字となった。
 確定申告の時期に、税務署は私に対して、おまえは昨年不動産を売っただろう、申告しろと、書類が送られてきた。私は待ってましたとばかり、上記の赤字の内容を申告したところ、土地の売り上げに対する税はなく、逆に約40万円が戻ってきた。税務署の思惑に反し、40万円を税務署から取り返した私は「にんまり」であった。
                    2001.3.10
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矢祭町へ引越、2

 私達夫婦の新しい田舎が、福島県の矢祭町に決まった。矢祭町は、福島県の最南端にあり、すぐ南は茨城県の大子町(だいごまち)である。引越先の矢祭町、矢祭ニュータウンは、JR水郡線の東館駅が最寄りの駅になるが、鉄道の便は日にかぞえるほどしかなく、車が重要な足になる。矢祭町は、水戸市まで車で1時間半、日立市まで1時間、白河市まで1時間、というぐあいに、大きな街が近くにないという、全くの陸の孤島である。
 私達は、今年の5月には引越をしようということで、昨年の夏頃から家をたてるための準備を始めた。ハウスメーカー5、6社に、私がパソコンで作成した家の設計図を示して、幾らで造れるか見積を依頼した。ハウスメーカー各社はそれぞれ個性があり、私の設計図に対する反応も様々であった。最後はやはり価格で決めざるを得ない。約40坪の床面積で、価格1500万円以下で見積をしてほしいという依頼を、ミサワホーム、住友林業、エスバイエル、アイフルホームに対して行った。
 これに対して、ミサワは安くて話にならないというのか、全く音沙汰なしであった。住友は、営業マンが自宅まで見積を持ってきて、1500万円は無理だけど、2000万円を少し切るところまでは何とかできる、という意欲を示した。エスバイエルは、グレードを少し下げることによりなんとか可能である、ということであった。アイフルホームは、問題なくできるということで、私の設計図に対する見積を矢祭町に近い白河市のフランチャイズ工務店から郵送で送ってきた。
 私は、エスバイエルとアイフルホームを最終候補に絞り、どちらを選ぶか決めるために、もう一度私の改正した設計図を営業マンに渡し、再見積を頼んだ。両社を比較すると、アイフルは45.5坪(メーターモジュールのため広くなる)で1570万円、エスバイエルは40.6坪で1950万円である。しかし、内容をよくみると、アイフルには付帯工事の230万円が含まれていない。同じ内容で比較すると、両社は180万円の差である。これから、アイフルは180万円安い上に、面積が広いという魅力がある。どちらにするかおおいに迷った。
 アイフルは、安いのが最大の特徴であるが、住宅の各種パーツの選択枝が少ないのが気になる。例えば、屋根とか外壁の種類、色が2、3種に限られる、ドア、システムキッチンのデザイン、色の選択も狭い。大きな問題点は担当の営業マンが遠方の白河市にいることであり、将来細かい打ち合わせ時に障害が予想される。
 一方、エスバイエルは地元横浜の営業所が担当し、建設に際しては水戸市の営業所が担当するということである。この会社はアイフルと違って、各種パーツの選択枝が豊富にあるということである。カタログを見て色々選択する楽しみはあるが、自分の気に入ったパーツばかり選んでいくと、みるみる価格が上昇するという危険が潜んでいる。ここらへんのことをよく考えて家作りをしなければならない。さらに付け加えれば、金額に無頓着な私の妻には最初からカタログを見せるのは避けなくてはならない。幸い、私達を担当した営業マンの高橋さんは実に気配りの優れた人で、決して高価なパーツは薦めなかった。
 高橋さんは、私の示した1500万円という予算を気にしてくれて、パーツ選択の時は安い方のパーツを推奨してくれる。大変有り難いことである。高橋さんのお陰で、妻と2人で「安心して」パーツ選びを楽しむことができた。美しいカタログ写真には値段が付いていない。カタログを見て、「あら、こちらの方が素敵ね」と妻が言う。すると「これは2万円高くなります」「高いだけの価値はありますが、この安い方のものでも十分な機能はあります」と高橋さんは言ってくれる。私がこのようなことを言っても妻は半信半疑であるが、若い男性の高橋さんが言うと妻は即座に納得する。
 照明器具、カーテン類は、エスバイエル・スマイリング㈱のインテリアコーディネーターの藤田さんという女性が担当した。照明器具のカタログには写真の下に価格が付いている。藤田さんは私達の経済状況を知らないので広範囲の価格から自分のインテリア感覚をもとにパーツを複数推奨してくれる。ここでは彼女が主役であるから、頼みの高橋さんは遠慮して口を出さない。妻は、価格の数字を見ないで、「これが素敵ね」という。藤田さんは「そうですね」と言って、色々特徴を説明する。そこで私は横から黙って、ボールペンの先で写真の下の金額の数字をとんとんとつつき、精一杯の意思表示をする。妻はそれに気づき、安い方のパーツに目を移す・・・。
 一通り選択が終わったところで、エスバイエルのモデルハウスを見に行き、色の具合などを確認した。私は、最初からのモデルハウス見学は敬遠していた。各社のモデルハウスは、その会社の技術、デザインの最高のものを誇示しているから、必然的に庶民の感覚から遊離している。値段もしかり。妻にはこのことを言い聞かせて、見積りを取る初期のモデルハウス見学には連れていかなかった。最初に夢のような家を妻に記憶させると、後で現実の家と比較されて、本人はがっかりするだけである。アイフルホームはこの辺の客の事情を知っているのか、モデルハウスは建てていない。立派な見識である。
 このようないきさつで新築家屋の価格が決まった。請負価格2100万円(消費税込み、照明器具、カーテン別)である。2000年11月15日に着工し、2001年3月27日に完成した。横浜から矢祭の家には4月25日に引越をする。(つづく)
                      2001.4.10

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矢祭町へ引越、3

 矢祭町の家が完成したのは2001年4月6日である。私は、家が着工されてから4、5回、建築中の建物を見ていたので、設計図と実物の間に大きな想いの差はないように感じた。
 私は家の設計をほとんど自分で行った。元の横浜の家は、ミサワホームが設計した、いわゆる既製品を何も手を加えずに「買った」ので、今度は自分の希望を徹底して反映させたいと思ったからである。今度の家は、和室と洋室を配置した一般的な和洋折衷の家である。和室は、1階と2階にひと部屋ずつあり、それらには大きな縁側を南側に設けた。ハウスメーカーが提案する設計モデルの和室には縁側が付いていないのがこの30年の習わしである。縁側は無用の長物とでも思っているのであろうか。
 私にとって、畳部屋のすぐ外は庭、というのはどうも落ち着かない。畳の上で横になって、寝あきて起き上がり、縁側で椅子に座り、庭を眺める。欠伸をしながら、「庭いじりでもしようか」と言ってそこから庭に出る、というのが自然な流れである。私は、この流れにこだわったのである。
 2階の和室は縁側から庭に出られない。せめて起きあがった後、縁側から外を眺めたい。このささやかな私の希望が、当初、エスバイエルの女性設計家である工藤さんには十分伝わらなかった。2階だから窓(サッシ戸)は転落防止のため、床から約1メートルの高さに設けるのが設計の常識である。平面図の段階ではこの高さは分からないので、私と設計者の思惑が違っていても、彼女との関係は平和的であった。立体図ができて、高い位置に窓があるのを知って様子が変わった。こんな高さの窓は息苦しい。椅子に腰掛けて外を見るのに空しか見えない。私は、「気象予報士でないから空には興味がない、世俗的な地上の景色を見たい」と子供のような駄々をこねる。すると工藤さんは、「床から高さ80cmの透明の固定ガラスを入れ、その上に窓を取り付けましょう」と、あくまでも転落防止を念頭に置いた提案をする。私は、「下が見えればいいと言う問題ではない、窓の高さは人の精神衛生に大きな影響を与える、高い塀、高い窓ではまるで刑務所ではないか」・・・、とまでは工藤さんに向かって言えなかった。
 この件は、私の提案で、床から50cmのところに窓を付けて、その外側に手摺りを付けることで決着した。最近の設計は手摺りを付けることに何故だか抵抗があるようである。昔の典型的な日本家屋の2階はこの方式が一般的であったはずである。つまり、畳の間の向こうに障子戸と板張りの縁側または廊下があり、その向こうに床から直ぐのガラス戸があり、その外側に手摺りが付いている。今は、このような開放的な設計はできないのが現実であろうか。家と家が接近しているので、家から外を眺めるより、外から覗かれるのを防ぐことに重点が置かれる。特に都会ではそうだ。だから窓はだんだん高くなり、住む人の気持ちは次第に閉鎖的になる。
 今度の家のもう一つの目玉は、広い浴室である。広さは1.25坪である。この広さを確保するためダイニングキッチンが狭くなった。ダイニングキッチンは妻の強い希望があって、対面式にした。理由は簡単、炊事をしながらテレビが見たいだけである。浴室を広くするとダイニングキッチンは狭くなり、テレビを置く位置が台所から近くになるので妻は喜び、私も浴室の広さで満足した。
 最初、浴室は左官屋に頼んで手作りにしようかと思ったが、途中から面倒になり、エスバイエルのカタログにある日立化成のバスタブにした。「浴槽から坪庭を眺める窓が欲しい」と
工藤さんに言うと、「分かりました、ワイヤー入りの固定式透明ガラス窓を付けましょう」と言う。私が、窓の高さはなるべく低くしてください、というと、彼女は「心得ています」と言う。2階のサッシの高さの件があった後だから、「浴槽のレベルにできるだけ近づけるようにします」と彼女はにっこり笑って私に言った。
 浴室のガラスが透明だと外から覗かれるのでは、と女性である妻は心配する。浴室専用のロールカーテンがあるからそれを付ければよい、と私は工藤さんに代わって答えた。このようにして浴室ができ、現在使用しているが、今、外は外構工事の最中のためロールカーテンを上げて外を眺める気持ちはない。広い浴室は伸び伸びできる。長さ約1.6mの浴槽は広くてくつろげ、そのため入浴時間が長くなった。
 家を設計、建築するに当たっては、設計担当の工藤さんと多少の確執はあったが、おおむね私の希望を取り入れてもらい、満足する家を建てることができた。工藤さんのアドバイスで一番うれしかったのが、「こちら側に扉を付けると玄関からお庭が見られます」という言葉であった。なるほど、私は、目が建物の中の配置にしかなかったので非常に感心した。設計者は、平面の設計図を、いつも頭の中で3次元に変換して見ているのだ!今私は、実物の玄関に立って確かめた。ほう、荒れ放題の庭が見えるではないか!(つづく)
                      2001.5.10
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矢祭町へ引越、4

 私達の矢祭町への引越は、平成13年4月25日に行った。引越の日から1週間は荷ほどき、町役場での転居手続きなどで大変忙しかった。そんなある日、勝手口から妻の「あら!」という大きな声が聞こえた。私が、なんだ、なんだと見に行くと、カエルが勝手口のセメント製の土間にきちんと座ってこちらを見上げていた。
 このカエルは、ベージュ色をした空豆大の大きさで、両手をついて何か用ありげにこちらを向いている。「なんでしょうかね、ご挨拶に来たのですかね」と妻はいう。我が家への初めてのお客さんだ、上がってもらうか、と私が冗談をいうと、いやだと妻は言い、カエルに向かって、「ごめんね、今忙しいからね、また来てね」と本当のような嘘を言ってドアを閉めた。
 しばらくしてドアをそっと開けて土間をみると、カエルはそこにはいなかった。カエルは、「ここは私達の住みかで、人間の勝手な開発で追い出されたのだ」と抗議に来たのかもしれない。今、私達は自然がいっぱいの土地に来たと喜んでいるが、かたや、人間のために追い出されて迷惑している生き物がおおぜいいることを知っておかなければならない。
 家を建てた区画は、敷地の左前方に小さな山が迫っている。そのため、いろいろな小鳥の鳴き声が朝から晩まで聞こえる。人工の騒音は全くないので、鳥の鳴き声はそこらじゅうに響き渡る。ウグイスの「ほーほけきょ」、ホトトギスの「トッキョキョカキョク」、名前の分からない鳥が「チョットコイ、チョットコイ」、英語で鳴く鳥「we are、we are」など、実に賑やかである。
 ホトトギスは、人里離れた深山にしかその鳴き声を聞くことができないというが、ここは今270区画の一大団地であるが、激しく鳴いている。開発以前はここも深山だったのかと、ホトトギスの人間に対するテリトリー宣言が私の耳に伝わってくる。それにしても良く鳴くなァー。鳴いて血を吐くホトトギスか・・・。
 ある日の午後、私達がコーヒーを飲んで、ぼーっと外を眺めていると、フェンスの隙間から野ウサギが入ってきた。うすい茶色をした体の小さなウサギはまだ子供であろうか。ウサギ特有の走り方をするので、遠くからでもウサギと分かる。なにをしにきたのかね、餌を探しに来たのかなァなど、のんきなことを話しているうちにウサギはいなくなった。それ以降、ウサギは一度も現れなかった。 
 夜中から降っていた雨が上がった朝、なま暖かい風に誘われて蛇が現れた。体長1メートルぐらいのおとなしい蛇は、東側のフェンスの側溝で様子を伺うように動いていた。私は反射的に追い払おうと石を掴んで投げた。石は外れた。蛇は平気な目つきをして舌をぺろぺろ出して何かを探している様子であった。蛇は、子供の頃遊んだ土地が懐かしくて、この辺は今どうなっているのか訪ねてきたのであろう。
 今から1週間前の6月の始め、私は、我が家にツバメが巣作りをしているのを発見した。我が家は総2階建てで、巣は、2階西側の軒下直ぐ下の、エアコンの配管カバーの上に建設中であった。建築資材の枯れ草の茎などが真下のエアコン室外機の廻りに散らばっていた。新築の家にツバメの巣を新築中か・・・、変わったツバメだなと思いながら、有り難いような有り難くないような複雑な気持ちで巣の出来具合を見上げていた。
 数日後、巣は完成したようであった。そんなある日、私は何気なく2階から外を眺めていた。すると、西隣の敷地の南に立つ1本のブナの木に、二匹のカラスが並んでとまり、我が家のツバメの巣を眺めているではないか! 「あすこのォーツバメッコ、いつ生まれるかのーォ」「どうだかねーェ」「あれをーどうやって盗るかァー」など、カラスたちは福島訛で相談しているようである。私は、私の家に造営したツバメの巣は、私に保護する義務があると、真面目に考えた。どうやって外敵のカラスからツバメの子供を守るか、難しい問題である。(つづく)
                      2001.6.10
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矢祭町へ引越、5

 我が家に新築中のツバメの巣は、意外な結末になってしまった。西側2階の軒下に新築をほぼ終わったツバメは何を思ったのか、今度は玄関ドアの直ぐ上に巣を造るために下地の赤土を付け始めた。ここにも巣を造るのかと感心していると、妻はここは玄関が汚れるから嫌だと言い出した。私はどうでもよいので、妻の要望に応えて、巣ができないように壁にポリエチのシートを貼り付けた。私がシートを貼っている間、つがいのツバメは電線に止まってじっとこっちを見ていた。私は、「どうもすみません」という気持ちでシートを貼り終えた。妻は、気の毒がって、「ごめんね」としきりにツバメに謝っていた。
 私は、ツバメは西側の壁にはちゃんと巣ができているし、今時2軒も同時に新築するのは贅沢ではないかと、2軒目の造営を拒否した自分を正当化していたのである。西側の巣ができてほぼ1ヶ月経った今、ツバメのひなはまだ誕生していない。ツバメの卵は何日で孵るのか、私には分からないが、少し長すぎるのではないかと心配になった。ひょっとするとツバメたちは、私の家に巣を造って雛を育てるのは好ましくないと判断して、巣を放棄したのだろうか。ツバメは、私が2軒目の巣を拒否したことに不信感を持ったのか、あるいは西側の巣はカラスから狙われていることを察知し、より安全な人間に近い玄関に巣を造ろうとしたが、持ち主に拒否されて断念したか・・・。今、西側の巣はどうやら空き家になっているようだ。
 横浜から矢祭町への引越で一番問題になったのは、植木の引越である。横浜の家を建てた時から植えていた梅の木2本と柿木1本が、縦横4~5mの大物になっている。梅は毎年実を付け、梅酒に使っても余るので、近所の人や、会社の人に数キロずつ配っていた。柿も自分たちでは食べきれないので近所の好きな人に配って食べて貰っていた。20数年以上共にした、そんな梅と柿だから愛着は絶大である。何とか矢祭に持っていきたい、と決意したのである。
 私は、引越前の3月に、矢祭地元の菊池造園をインターネットで見つけて、電話をして相談に伺うと約束した。見積をして貰うために、植木の写真を撮り、サイズと配置図を持って菊池造園を訪ねた。当主の菊池さんは40才前後の人で、横浜には親戚があり時々訪ねることや、中学生の娘がハンドボールの福島県代表選手で、横浜の全国大会に近く行くことになっている、など聞かせてもらった。やってもらえそうな感触を得て横浜に戻った。後で送ってきた見積は44万円であった。ちなみに家財道具の引越は25万円であったので、それに比べると高いなァーというのが本音である。大きい木が3本と、椿など小さいのが4本で44万円か・・・。菊池さんによればそれなりの金はかかるのだという。確かに通常の引越とは違って、植木の引越はノウハウが必要であるし、生き物だから失敗は許されない。私は、40万円に値切って植木の引越を頼むことにした。
 4月の始めに菊池さんと助手1人がクレーン付の10トン車で横浜にやってきた。彼らは朝7時に矢祭を出発して、横浜に10時半ごろ着いた。植木の根を切り、麻布で根を巻き、それをクレーンで持ち上げてトラックに積む作業は確かに大変である。私の横浜の家は北側に道路があり、植木は家の南側に植わっており、悪いことに両隣の建物が間近に迫っているので、植木は、屋根の上まで揚げてトラックに乗せなくてはならない。全ての作業が終わったのは夜の8時であった。これから4時間ぐらいかけて矢祭に戻るわけであるからご苦労さんである。
 私達が4月の終わりに矢祭に引越してきた後の5月始めに、植木達も仮泊の菊池さんの庭から引越してきた。枝を思いっきり切られた梅と柿を見て一応ほっとしたが、柿は哀れな姿になっていた。枝は全部落とされ、幹は包帯でぐるぐる巻きにされていたのである。横浜での柿木は、隣の杉山さんの猫たちの絶好の遊び場であった。杉山さんは猫が好きで、常時5,6匹飼っていた。我が家の庭は彼らの通り道であったり、遊び場でもあった。冬の柿木は木登りに手頃で、木に登る前に柿木の幹で爪を研ぐのが彼らの習慣になっていた。そのため幹が相当傷ついており、菊池さんは、傷の治療に包帯を巻いたと説明してくれた。
 矢祭の庭に植えられた柿木は、しばらく枯れ木のままであった。自宅の外構工事に来た職人から、横浜から枯れ木を持ってきたのかと皮肉られたりもした。柿木は死んでしまったのか。私は、朝庭に出て柿木を見上げて、何時芽が出てくるのか観察するのが日課になった。6月の始め、つまり柿を植え変えてから1ヶ月してやっと待望の芽が幹の方々から出始めた。柿は生きていた!
 それから1ヶ月後の今、柿木は一杯の小さな枝と葉を出している。しかし、一難去ってまた一難、柿木は今度はたんそ病にかかったらしく、葉の先が枯れたり、枝が枯れたり元気がない。私は先日、急遽、薬を散布したが、どうなることか心配である。 
                              2001.7.10
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バックアップ

 今年7月の終わり、当地に降った激しい雷雨のためか私のパソコンが故障して、メールができなくなった。急遽、修理のため車で1時間半の水戸市までパソコンを運んだ。パソコンは、富士通のノート型パソコン、NP131というもので、4年前に購入したものである。後日、修理を頼んだ富士通の人から電話があり、パソコンは内蔵の通信モデムが故障しており、モデムを新品に取り替えるのに3万5千円かかるという。年金暮らしの私にとって、3.5万円の出費は痛いが、毎日使っているものだから仕方がない、ということで修理を頼んだ。修理が終わるのが8月半ば頃という。
 私のホームページも当然、このパソコンを使って毎月更新しているので、この8月号の更新日の8月10日迄には私のパソコンは使えないことになる。幸い、私の家にはもう一台のパソコンがあり、それは妻の専用になっていて、NECのノート型、LaVie NXといい、2年前に購入したものである。このパソコンは、激しい雷雨の日、私のパソコンと同じように、電話線に接続していたが、モデムに故障はなかった。富士通とNECは、雷害に対する対応が違うのだろうか。NECのパソコンには瞬間的な異常電流に対する保護回路が付いているのだろうか。
 そのようなことで、今月のホームページは妻のパソコンを借りて作成することになった。継続的に使用する機器には急な故障に対する対応を常にしておかねばならない。大げさに言うと、危機管理の必要性が家庭でも要求される。いつものように正常に動くという気持ちで、また故障などありえないという気持ちで使っているパソコンが急に動かなくなると、あわててしまう。それも、対応する手段を日頃考えていない場合、パニックにおちいる。
 人間の命にかかわる機械、装置には必ず補助装置が付けてある。例えば、宇宙船の補助エンジン、予備の電源などである。家庭の電器製品などはこのような補助装置は全くないが、安全装置はある。過熱、漏電に対する遮断回路、ドアを不用意に開けた時に働く緊急停止装置などであろうか。考えてみれば人の臓器にも補助装置的なものが備わっているのは実に感心する。胃を取り除いた場合、腸がその機能を代行したり、一方の肺が冒されたら別の肺で生きていける。歯がなくなったら・・・入れ歯で対応する?
 故障、異変があった場合に、代わりに機能する手段を持ち、被害を最少におさえることをバックアップというが、このバックアップの精神を徹底しているのがアメリカ育ちの野球である。テレビでプロ野球を見ていてもこのバックアップ体制は見られないが、球場で観戦しているとよく分かる。例えば、バッターがショートゴロを打ったとする。すると、守備側の9人は全員動く! エラーなどの緊急事態に備えたバックアップ体制をとるのである。ボケッと立っている選手は誰もいない。勿論、外野手も走る。中堅手は、バッターが一塁を回って二塁に走った場合を想定し、そして球が二塁手をそれて点々と外野に転がった場合にそれを拾う体制をとるのである。左翼手は三塁に、右翼手は一塁に走る。捕手は最初、一塁手のバックアップに走るが、その後、野手のエラーが続出してランナーがホームに戻ることを想定してホームにすぐ戻る。投手は最悪のケースを想定して、外野からの返球の中継のためその位置につく。最初の仕事を終えた一塁手も黙って一塁に突っ立っていなく、捕手のバックアップのために仕事を見つけに本塁へ行く。
 こうしてみると、野球は危機管理の塊のようなものである。そのような目で野球を現場で見ていると、実に飽きなく、また面白い。このバックアップがあるため、逆に当事者は無理なプレーをすることができる。いわゆるファインプレーができるわけである。集団で行う野球は、バックアップの保証がないと個人の冒険(ファインプレー)はできない。最近の野球のテレビ中継は、ボールしか追わない、あるいはスター選手のクローズアップしか写さない、ということで退屈である。全体の野手の動きが映し出されると、野球の別の楽しさが加わると思う。
 今、高校野球の季節であるが、野球で選手に危機管理を教え、実践させるのは監督の重要な仕事である。一般社会に出ると、この危機管理の精神はすぐに要求される。要求しない会社、役所は駄目な集団である。テレビの高校野球で、内野でプレーが進行しているのに、画面の奥の外野手がただ立っているのを時折り見ることがあるが、このチームははっきり言って勝てないチームである。
 テニスではバックアップの思想はない。2人がペアーになって行うダブルスの試合でも、一方の人のプレーを他方の人がバックアップする事はありえないし、そんな暇がない。しかし、自分の相棒が返球のためコートの外に追い出された場合、もう一方のプレーヤー(自分)は敵から返ってくるボールを受けるため、守備範囲を広くとる体制を作る必要がある。これを簡単に、カバーという言葉で表現しているが、相棒が危機に陥った際、相棒の本来の守備範囲(コートの半面)も自分が守ってやる責任を負うのである。カバーというのも一種のバックアップかもしれない。

 私は、私のパソコンが故障、修理中のためもう一台の妻のパソコンを使ってホームページを作成したが、メールは不通のままにしている。妻のパソコンを使えば、メールを開くことはできるが、アドレスの変更、ダウンロード先の設定など面倒であるので、そのまま3週間ほど放置する予定である。緊急のメールは今まで無かったので、ノープロブレムだと思っているが、何となく心配である。
                                        2001.8.10
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脳型コンピュータの開発

 3年前、私が在職中に会社のメールリストで配信した短いメールをここで再掲する。このメールは、パート1から3の続き物である。

脳型コンピュータの開発 1
 私は、昨年、理化学研究所の松本 元氏が講演した 「脳型コンピュータ研究開発について」 を聞いてきました。子育て中のみなさんにとって興味あることを話していましたので内容を紹介します。

 理研では脳型CPUの開発を行っているが、そのためにモデルとなる人間の脳機能を解明している。それによると・・・・。
 人間の脳にはCPUでいうソフトがない(あたりまえ!あれば金を出して買いたい!)。しかし、脳には学習制御性のソフトがある。これは、出力依存型のソフトで、出力したときに学習効果がでる。つまり、出力したときにソフトが形成される! 脳でいう入力、出力とは何か? 入力とは、ただ見たり、聞いたりすること。 出力とは、例えば見たことを口に出して喋ること、あるいは、記憶にあることを書くことなど。
 そこで、子供には見たこと、感じたことを喋らすことが重要である。喋ることによりソフトが形成され、情緒豊かな人間ができる(ほんとかな)。夕食時、その日の出来事を子供に喋らすのは大変良いことです。「食事中は喋るな」とは言わないように! 
 昔から物を憶えるには口に出して反復しろと言われていたが、本当のようです。よく、ぶつぶつ独りごとをいって歩いている人がいますが、彼の頭はソフトだらけでしょうか。ソフトが多すぎるとどうなるのか、このあたりは講師の先生は言及しませんでした。
今回はこのへんで。                     98.6.11

脳型コンピュータの開発 2
 part 1のつづき、理化学研究所の松本氏の講演会で聞いた話です。

 人間が見たり、聞いたりしたことは記憶として脳にはいる。この記憶は消えないという。「忘れ」は記憶が消えたわけでなく、ただ引き出せないだけだという。こんな経験をした方も多いでしょう。2階に用事を思いついて2階に上がったら、その用事を忘れてしまった(よくあることです)。その時は1階に一度もどると思い出します。つまり、入力時の環境に戻れば、記憶は引き出しやすい。一々現場に戻るのも大変だと思う人は、その用事を出力して(口で喋る)ソフト化しておけばよい! 
 刺激的な事件(現象)があると、ソフト化しなくても記憶は強く残るし、それ以前の記憶も強く残ると言われている。 最近、1年があっという間に過ぎてしまう、このまえ正月だったのに、もう半年過ぎてしまった・・・・、年は取りたくない! と思う人は多いでしょう。 これは年のせいではありません。日常の生活、あるいは仕事で刺激的な事件が少ないから、あるいは日常生活で感動が少ないからです。つまり強い記憶が少ないので、記憶の連続性もない。時間の大きな空洞ができてしまう!  毎日を感動的に過ごそう!(無理ですかね) 
                                       98.7.9  

脳型コンピュータの開発 3
 part 2が今年の7月でしたので大分間が空きました。part 3で終わります。これは、脳型CPUの開発には人の脳の機能を調べる必要があるということで、その話の内容が興味深かったので読み物として提供しているものです。講演会で聞いた話です。

 人の脳は、仮説立証主義型である。どういう意味かというと、情報を仮説をたてて検索すると判断(出力)が速いということ。野球の例がいいですね。打者で打率の高い選手は、大なり小なりこの仮説立証型を生かしています。投手が次に何を投げるか予想する(仮説を立てる)と、対応(出力)が速い。漫然と投手が投げる球を待っていると振り遅れてしまう。「ねらい球をしぼる」と言う言葉がありますが、現役の頃の長嶋選手はこれがうまかったのでしょう。野球もカケ(仮説)で勝負が決まるようです。企業もそうです。人生も・・・。
 目標がないと、脳がフリーランするといわれている。恐ろしいですね。脳がフリーランすると自殺に追いやられる。何でもいいから目標をもつことです。皆さんのお子さんはどうですか? 自分で目標を持てない子には親が与えてやるといいでしょう。東大に行け・・・。とんでもない目標設定ですね(自分ができなかったことを子供に押しつけてはいけません)。例えば、その子供がカレーが好きなら、こんどの日曜日にみんなでカレーを食べに行こう。このような目標でもいい。その子は、日曜日までは生き生きと過ごすでしょう。日曜日まで自殺はしないでしょう。
 肯定的な思考をすると脳は発達する、否定的な思考は脳を劣化させる。恐ろしいですね。これは上述の2つの内容と関連していますかね。とにかく前向きに生きることが大切です。 人の脳の話ばかりで、肝心の脳型CPUの開発はどうなっているの?という質問には・・・(たぶんないでしょう)、私には難しすぎて理解できませんでした。かなりのレベルまで開発が進んでいるようです。      98.10.9 
                                   編集 2001.9.10
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松田下宿 

 私は、私が徳島大学工学部の3年生のとき、当時応用化学科の主任教授兼工学部長であった松田先生の邸宅に「下宿人」として卒業までお世話になった。先生宅は、徳島市下助任町にあり、幾部屋もある大きな家で、そこに先生と奥さんと猫が暮らしていた。先生は無用心のためか工学部の学生を常時4人下宿(間借り)させていて、丁度私が3年生の時、4部屋の空きが出た。私は、応用化学科の同級生3人を誘って、先生宅に下宿することになった。下宿代は10畳一間、月1000円で、電気、水道は使い放題、風呂は2日に1度入れるという、貧乏学生の私にはうれしい待遇であった。
 先生は昭和38年(1963年)3月に定年退官された。退官を記念して「松田亮一先生停年御退官記念号」という小冊子を出すことになり、私にも投稿してくれと依頼された。
 ここに、その小冊子に「松田下宿」という題で書いた私の小文を再掲する。これは、今から38年前の、私が25才の時に書いたもので、原文のままである。


 私達同期の4人が松田先生宅にはいったのは3年生の始めである。その前までは揚戸(関ペ)と先輩2人で、先輩の卒業を機会に仲間をそろえるべく、吉野(住電)、渡辺(徳曹)を勧誘した。下宿は、玄関から部屋まで相当の距離で、先生と奥さまのおられる居間の横を必ず通らなければならない、少々苦痛だがどうするか、など言っているうちに話が決まってしまった。
 このようにして卒業まで2年間、先生方の部屋の上と横の4室に1人ずつ寝起きすることになった。私達は先生方に迷惑をかけぬように注意を払うことを申し合わせて、そのため先生方の生活をそれとなく観察した。渡辺が、先生の耳は非常に大きいという。入居間もなく4人そろって先生の居間に呼ばれる機会があり、君の故郷は大阪ですか、と吉野君が先生に尋ねられているとき、私達は先生の耳を眺め、確かなことを知った。耳が大きいからよく聞こえるだろうと私達は勝手に想像し、次の日曜日、先生方が教会に出払われた後、ラジオの音量がどれほど階下まで達するか、また廊下を歩く時どの程度振動が下に伝わるか、体の大きい揚戸を利用して調べた。
 私達が特にお世話になったのは奥さまで、その奥さまの目は大きくて美しいので、面と向かって話すときなど目のやり場に困る。視力も先生が衰えているのにひきかえ、奥さまは確かだという。それで、私達はみだしなみは十分心得るよう注意をしたが、独身であるため乱れ勝ちである。差し当たり朝出ていくとき見せる横側だけでもと思い、丹念に髪の具合など横目で鏡を見ながら調整する。行って参りますなど言って先生方の居間の横を知らん顔をして通ると、「ああ、金谷君今日は早いね」と先生にお声をかけられる。奥さまはその後から、「どうなさったのでしょうね」とか小さな声で言われるのだが、いきなりの大きな声の後でどぎまぎしているから、こちらには聞き耳を立てる余裕は到底ない。「はあ」など言って頭をかきながら通りすごす。朝の早いときは試験があり、そんな日は大体調子が良い。先生方に声をかけられると一日中気持ちがよい。
 先生ご夫妻のほかにクララという雌猫がいる。大変大きく丈夫で、しかも鼻がよく利く。冬の夜長、空腹にこらえきれず炭火でするめを焼くと間もなく、横の階段をとんとんと音が近づく。障子を開けると怒ったような顔つきで、食いに来たといった風にクララが入ってくる。ある日、私はするめを放り出して外出したところ、クララがそれを無断で階下に持って降りた。奥さまが後からクララを連れて詫びにこられた。大変丁寧に謝られたので私は戸惑い、どうかご心配のないようにと、大げさなことを言ったような気もする。
 2、3ヶ月もすると、私達は緊張もゆるみ、いろんなことを共同でやり始めた。日頃教官がわれわれに与えている威厳を私達もだれかに与えてみたくなり、塾を開くことにした。開塾を伝えるビラを100枚ほど作り、朝早く付属中と徳中の校門の前に立ってビラを生徒達に手渡した。ポスターを3、4枚描き、近所に貼った。その1枚を先生が見つけられたのか、私達に向かって、玄関に助任塾とかいった看板を掛けてあげようかと言われ、恐縮して「いや結構です」と渡辺が言った。
 集まった生徒に佐野という男がいた。中学1年で体が大きく太っていて悪いことに声まで大きい。松田先生の邪魔になるから声を小さく小さくと、こちらも身をかがめて小声で制すると、佐野はにこにこと笑い、素直に「はい」と大きな声で返事をした。彼は頭を掻きながら前にいる私にも聞こえぬくらいにつぶやき始めたので安心していると、途中で私が読み方を訂正してから急に声を張り上げるようになった。だから佐野の授業は先生の居間から一番遠い渡辺の部屋で戸締まりを厳重にして行った。7月頃だったので暑くて皆閉口し、ある夜4人が集まったとき塾を解散することにした。
 11月になると近くの野山はきれいな柿の色で美しくなる。私達は日曜日の手持ちぶさたに耐えかねて、ある日柿を盗りに出かけた。大小の風呂敷とスケッチブック、カメラなど用心深く用意した。私達は歌など勝手に歌い、四囲の景色を楽しむべく眺めまわす。甘そうなのは大抵人家の近くにあり、盗れるのは人家から離れた渋柿である。私達は良心的な呵責をそれぞれ受けながらその渋柿を十分手に入れ、帰途についた。途中、田んぼの中に柿に取り囲まれている農家を見つけた。冷え切った空気に西日が鋭く横からさす中に、枝にたわわとぶら下がっている柿は私達を十分引きつけた。私達は帰って直ぐ食える柿が必要と思い、またきらきら赤く輝く柿が非常に美しいとも思った。誰かがその柿木のある農家に入り、2、3個頂けませんかと丁寧に頭を下げて了承を得た。裏から15才くらいの娘さんが現れ、これでおとりなさいと竿を渡してくれた。娘さんの見ている前で私達はてれくささを笑いに隠し、10個ほど手に入れた。
 下宿にもどり、渋柿の皮をむき、縄に付けて軒先に吊した。庭に立っておられた先生が近寄ってこられ、「ああ、沢山あるね」とにこにこされた。奥さまも出てこられ、珍しそうな顔をされて、「きれいにできましたね」と褒めていただいた。私達はむきたての柿の向こうに突っ立って、誰も言葉を出すことができなかった。
 卒業も間近の頃、私達の後に入る後輩4人を招いた。4人とも緊張した顔付きで、君の故郷はどこですかなど、私達のつまらん質問に丁寧に答えていた。私達は今まで私達が観察してきた先生方の生活様式について述べた。特にお手洗いについて、これは口述では勝手が分からないからといって、4人を現場に連れ込んで指で一つ一つ示しながら説明した。クララについて、これは家族同様であるから特に丁重に接すること、偉そうに歩いているからといって決して蹴飛ばしてはならないことなど申し伝えた。
 明日出発という夜、荷造りを終えた私達は一カ所に集まって黙っていた。10時頃、奥さまが現れ、もうお別れですね、と言ってビールを開けて頂いた。私達は日頃お世話になったことを口々に感謝し、勧められるままに従った。先生は寝ておられる。酔いがまわり気がゆるんで、お礼のつもりで童謡を合唱する。奥さまは黙ってにこにこと聞いておられる。私達は調子にのってむやみに歌い出した。突然、奥さまが私も頂きますわ、と言ってコップのビールを一息に飲み干された。私達は自分達のために飲んで頂いたのだと思い、非常に感激し一層声を大きくした。
 それは私達の歌がまずく、正気では聞いておれないので窮余の一策として召されたのではないかと、今も思い出してならない。      (大第9回卒)
                              再掲 2001.10.10
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不動産売買 

 私は、自分の不動産の売買を今まで4回経験した。1回目は、昭和48年(1973年)に横浜市住宅供給公社が売り出した横浜市緑区竹山団地にある3LDKのマンションの購入で、価格は約400万円であった。石油ショック前であったからこの値段で買えたわけで、石油ショック後(4年後)、このマンションは1000万円で売ることができた。このマンションは、広さが80㎡あり、3方に窓がある快適な住居であった。西側の窓から富士山から秩父連山が望め、北側は新宿の高層ビルが見られたので、私は大変気に入っていた。しかし、土地付の住宅が欲しいという願望が心の底に絶えずあり、新聞などで土地売り出しの情報に注意していた。石油ショック後の土地の値段はみるみる上がり、早く買いたいという焦りの気持ちが次第に強くなった頃、横浜市戸塚区柏尾台の宅地が日興不動産より売り出された。
 私は、この土地が勤め先の会社に歩いて20分強の所にあったので飛びついた。これが2回目の不動産購入で、土地の広さは191㎡(約58坪)で、価格は1400万円であった。昭和52年(1977年)のことである。この土地に、ミサワのプレハブ住宅、5LDK(113㎡)を約700万円で建てた。資金は、前のマンションを1000万円で売り、さらに1000万円のローンを三菱銀行から借りてまかなった。当時のローンの金利は年8%と極めて高かったが仕方なく、その後20年間返済に苦しめられながら、元本、金利合わせて2000万円を銀行に献上した。私は、途中6%の金利に借り換えたが、その時、色々な手数料で銀行から数十万円を取られた。銀行はどっちに転んでも庶民から金を巻き上げる仕組みにしてあるのだなあとつくづく思って腹を立てた。
 その当時、私は住宅金融公庫から450万円を金利3~4%で借りることができた。幸いこの金は使い道がなかったので全額東京電力債を購入したのである。当時電力債の金利は7~8%であったので、この金利だけで住宅金融公庫の毎月の借金を返済することができた。これで銀行の高金利に対する腹立たしさは少し緩和されたのである。お陰で450万円は20年後そっくり私の懐に入った。
 私は、昭和55年(1980年)、転勤のため山口県新南陽市に引っ越し、会社の社宅に住んだ。ここは、横浜の一戸建て住宅に比べると狭くて不便であったが、サラリーマン何事も辛抱が肝要と思い我慢していた。この地でしばらく暮らすと、住めば都で、瀬戸内の独特の気候が私の少年時代の記憶を蘇らせ、定年退職後はここに永住しようと心に決めたのである。丁度その当時、新南陽市が造成した宅地の売り出しがあった。ここは長田団地といって、海岸に面した南斜面のひな壇状の土地で、瀬戸内海が見渡せる。中でも段差が一番大きい区画は家内も気に入った。軽い気持ちで申し込んだこの区画は一番人気となり、3人の応募者があった。家内が引いた抽選で、見事当たってしまった。価格は、約83坪の広さで、1080万円である。私は、500万円の手持ちがあったので、残り600万円を金利8%で山口銀行から借り、この土地を購入した。これは私の3回目の不動産購入である。この団地のすぐ前は海水浴場、すこし海岸を歩けば魚釣りが楽しめる場所があるということで、定年後の暮らしには好都合だと考えていた。
 昭和60年(1985年)に転勤で元の職場に戻り、私は再び横浜の自宅に住むことになった。この時期、三菱銀行の1000万円と山口銀行の600万円のローン返済で家計は大変苦しかった。1997年に三菱のローンは終わり、山口のローンも1998年に繰り上げ返済をして終わらせ、この年からお金の心配はなくなった。横浜に戻って10年以上も住むと、山口の土地への愛着が完全に消えてしまった。定年間近になって遠方の山口に戻り家を建てるのは大変億劫だ、ということで関東近辺の土地を探し始めた。
 今から3年前(1998年)に見つけて購入したのが、現在住んでいる福島県矢祭町の土地である。これが私の4回目の不動産購入になる。ここ矢祭町の土地については、雑記文集の「矢祭町へ引越1」で簡単に述べてある。
 山口県新南陽市の土地は1650万円で1998年に売れた。横浜の自宅も今年1月から不動産屋を通じて売りに出していたが、なかなか売れない。最初、4400万円の値段をつけたが見向きもされなかった。バブル真っ盛りの頃はこの土地でも7000万円の値段はしていたと思う。売り出して間もなく、近所の人を通じて3900万円で買いたいという人が現れたが、その頃はまだこちらも強気であったから断った。引越の今年(2001年)4月を過ぎても売れず、値段も4250万円に下げた。だんだんこちらも弱気になり、買いたいという人が出たら3900万円で話して欲しいという申し出もした。6月には建物を解体して更地にしたが、買い手は付かない。世の中不景気で、失業者5%以上のこの時期、高額の金を出して家を建てる人はめっきり減ったと不動産屋は言い、さらに「この土地は3700~3800万円が相場ですぜ、金谷さん」と脅され気味のことも言われた。
 幸い今年(2001年)10月末に3700万円で買いたいという人が現れ、私は内心ほっとしてこの金額に応じた。11月1日に売買契約を済ませたところである。3700万円は、今住んでいる矢祭の土地建物、外構工事などで使用した金額と同じである。これで借金なしで老後を過ごせる。私は、今ささやかな幸せを感じているところである。
 私の不動産売買経験は計4回だが、そのうち3回は売買、1回は買いのみであった。これ以上の売買はないと思うし、できないであろう。なんだか寂しい気もする。私がこのように不動産、特に土地の取得に執着したのは私の子供の頃の住居環境によるものであろう。
 私の父は、明治生まれの英語教師であった。長崎から始まって台湾(3カ所ぐらい)、久留米、岡山(3カ所)と転々と職場が変わった。その都度住居も変わり、官舎か借家であった。台湾での住居は大きな一戸建ての官舎であったが、戦後日本に引き揚げた後は狭い借家住まいであった。明治生まれの男達は、日本男児は世界に向かって羽ばたけ、土地付の家なんぞ持つものではない、と教育されたのであろうか、父は自分の家を生涯持つことはなかった。一方、借家住まいの惨めさが染みついていた私は、大人になったら家を建てる、というささやかな願いを持ち、知らず知らず土地への憧れができていた。その願いが4回の不動産売買の体験につながり、そして終の棲家がこの矢祭になってしまった次第である。
                                  2001.11.10
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外構工事

 今年の4月、私は、ここ矢祭町に自宅を完成させた。建物本体のことについては、雑記文「矢祭町へ引越」に記した。ここではフェンス、門扉などの外構工事について述べたい。
 建物は4月に完成、引越は4月25日に決まっていたから、外構工事もそれまでには完成させたかった。外構工事のなかの最大の工事は、建物の周囲、約240㎡(73坪)の土地をコンクリートで覆う工事である。何故このようなことをするのか。この土地は団地のはずれで、すぐ東側には山が迫り、南は谷川が流れ、その向こうは雑木林であるので、蛇、トカゲ、ムカデなどの嫌な生き物の進入が予想され、これを防ぎたい。また、雑草の草取りが億劫・・・が理由である。
 私は、この外構工事をどこに頼むか、業者選びに迷った。地元の業者で、安くやってもらうところはどこか、町役場の宅地係の人に聞いたが、当然ながら業者の名前は言わない。その代わりに業者のリストを送ってくれた。土建、左官、建設業合わせて20社ぐらいあった。ここ矢祭町は鈴木、菊池、緑川という名字が実に多く、それらの名の付いた社名も多かった。役場の宅地係の人にも鈴木という人がいたので、安直に鈴木工務店を選んで、横浜から電話を入れた。やって貰いたい工事内容を送るから見積を作ってくれと頼んだところ、後日、総額400万円という見積書が送られてきた。この額を高いとみるか、安いとみるか、私には全く見当が付かなかった。
 工事の内容は、先に述べた広さ240㎡へのコンクリート打ち、全長65mのフェンス、2台用カーポート、自転車用ポート、門扉、門左右の花壇である。フェンスは、敷地の廻りを囲むもので、自分の縄張りを明確にするというこれまでの都会生活で染みついた感覚で当然作るものとして計画したのである。考えてみれば、ここ矢祭町は自分の敷地を何かで囲むような家はほとんどない。しかし、この新しい団地では敷地をフェンスで囲んでいる家がところどころある。彼等は、都会から来た人達であろう。私の場合、隣が深山に接しており、そこからの動物、例えば、うさぎ、りす、いのしし、熊などの進入を防ぐという別の目的でもフェンスを作る必要があった。
 鈴木工務店の400万円の見積に対して、相見積を取ろうと思い、隣の大子町にあるホームセンター(カインズホーム)に同じ内容の工事で見積を頼んだ。この店の担当者は、現場を見てからでないと見積は出せない、また現場には2、3週間後には行けるというので、先を急いでいる私は相見積を断念した。
 完成前の家を見に矢祭町に出かけたついでに、鈴木工務店のオーナーである鈴木さんに会って、工事内容について話し合った。「予算が350万円しかないので、なんとかしたいのですが・・・」と私が切り出すと、「あっ、そうですか」と鈴木さんはあっさりという。「フェンスを取り付けるブロックは全部化粧ブロックになっていますが、表の見えるところだけにして、ほかは安物のブロックにしたいのですが」と言うと、「そうですか、そうしましょう」と簡単に答える。「カーポートは1ランク下げて欲しいのですが」 「そうですか、そうしましょう」  30代の鈴木さんは余計なことは言わない。「消費税込みで350万円でいけますか?」 「大丈夫です」と鈴木さんはあっけなく言って、悠然としている。しまった、300万円の予算だと言えばよかった・・・。
 コンクリート打ちの工事は5月1日に始まった。私はこの工事を簡単に考えていた。つまり、土を少し削って、砕石をばらまいてセメントを流して、おしまい・・・。ところが鈴木さんの工事は極めて本格的であった。実際の工事は、下請けの㈱山本組が常時3人やってきて行ない、5月18日までかかった。15cmぐらいの深さで土を削り取り、表面を平らに固めた。その後、彼等は測量器を持ち込んで、土地の勾配は1000分の2がいいか、1000分の3がいいか仲間で議論していた。私に意見を求めてきたが、分からないので、どっちでも良いですと言うと、彼等は1000分の3にしようと決定した。その数字がどのように現物に反映されるか見当が付かない。次に砕石を7cmぐらいの厚みで一面に敷き、上からぱたぱたと機械で叩く。コンクリート流し込みのための木枠を周囲に設置して、いよいよコンクリートの流し込みが始まった。ミキサー車とコンクリート圧送車がきて、総人数10名で半日かけて流し込みは終わった。コンクリートの厚さは約10cmである。これぐらいあれば雑草は向こう50年間は生えてこないであろう。また、蛇やトカゲも恐れをなして建物までやってこないであろう。
 外構工事の内、コンクリート打ちの費用は110万円であることが見積書に記されている。この工事を終わってみて、工事費用が110万円とは安いと、私は実感した。私は技術屋であるから、ついこの工事を自分一人でやるとどれくらいかかるだろうと考えてしまう。6ヶ月はたっぷりかかるだろう。材料費は2~30万円? 仕上がりは?・・・・みじめ。
 私達は、毎日工事のためにやってくる作業員に感謝の気持ちを込めて、10時にコーヒー、3時にお茶とお菓子のサービスをした。来る人数が毎日違うので、コーヒーなどを出す前に人数を確認する。偶然かどうか分からないが、この時間になると元請けの鈴木さんは必ず現れる。鈴木さんはワハハと大声で笑うので、彼が来たのが直ぐ分かる。彼は、下請けの人とコーヒーを飲みながら陽気に世間話をするのが日課になっていた。
 6月に全ての外構工事が終わった。コンクリートのお陰でこの夏は、蛇、トカゲ、ムカデなどの訪問を受けなかった。また、フェンスのお陰で、イノシシ、熊、野ウサギの来訪もなかった。しかし、11月には地上からでなく、空中から大量のかめ虫とテントウムシの来襲があった。天気の良い日、網戸をして窓を開けると、かめ虫が部屋の中に進入してくる。多い日は20匹ぐらいになる。かめ虫は冬を越すために少しでも暖かいところを探してくるのであろう。このままにしておくと、家中がかめ虫に占領されると思い、かめ虫を除去することにした。かめ虫は、からだの厚みが薄いので、網戸をしていても、隙間から難なく入ってくる。幸いかめ虫の動きはのろいので簡単に捕まえることができる。彼等は危険なときに嫌な臭いを発生させるので注意を必要とする。ティッシュでそっと捕まえて、生きたまますぐ外に放つ。
 私達夫婦は、秋の天気の良い日、かめ虫と、このような攻防で時を過ごした。世間ではアフガニスタンの戦争で騒わがしかったが、ここ矢祭町は極めて静かであった。
                                  2001.12.10

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春うらら、夢

 私は、今年3月で64才になるが、睡眠中に時折夢をみる。夢に出てくるシーンは10年から20年まえのシーンに限られる。私は、楽しく懐かしいシーンを夢で見たいと思うことが偶にあるが、決して現れてくれない。私達は4年前までジップという雑種の犬を飼っていた。私は、週末毎に必ず近くの市民の森に犬を連れて散歩に出かけていて、それが私とジップの共通の楽しみであり、思い出として今でも鮮明に記憶に残っている。そのようなシーンを色つきの夢で見たいのだが、残念ながら夢に出てこない。出てくるのは全部昔勤めていた会社での仕事のシーンである。なんとも面白くない夢である。
 私は、40年のサラリーマン生活で、3社の会社に勤務した。現在、これらの会社で一緒に働いた人達とは音信不通にしている。一番長く勤めた日本ポリウレタン工業という会社には、退職したOBにも社内報を送ってくれるサービスがあるが、これも断っている。従って私の夢に出てくる昔の仲間が現在どうなっているか全く分からない。
 その夢で時折出てくる人物は谷 憲介氏である。長い間持病の痛風の治療で苦労していたようであるが、現在どうなっているのか分からない。私の夢の中では元気な頃の彼が出てくる。「谷君、顔色が良くなったね」と私が言うと、「ハハ、そうですかね」と彼は笑う。「人間って面白いもので、内臓の変化がすぐ顔に現れる」 「そんなものですか」 「医者が患者を診察するとき、まず顔をじろじろみる」 「そういえばそうですね」 「私なんぞ、ピーナッツを毎日食べると必ず顔にぶつぶつが出てくる」 「えぇ」 「いけないと思って止めると、いつの間にかぶつぶつは消えてしまう、面白いですねぇ」 
 谷 憲介氏は化学屋であるが、油絵もプロ並みの実力を持っている。私も油絵を描いていたので、酒の席では一段と話が弾んだ。私が、「画家は何故絵を描くのですかね」と彼に話を向けると、「さあ・・・」と言って黙った。このやろう、今更小学生のようなことを聞きやがって・・・と、彼は一瞬軽蔑した顔付きをしたが、脚をしきりに動かして答えを出そうと懸命になっていたようである。「絵も自己顕示欲のひとつですかね」と私が言うと、「欲じゃないでしょう、自分の中にある気持ちをキャンバスにぶっつけるだけです」と彼は怒ったように言う。 「ぶっつければ絵になるのですか」 「単純に言ってはいけません、金谷さん」 「・・・」 「絵にするときは存在するものを介して気持ちをぶっつけるのです」 「なるほど」 「風景を描くとき、目の前にある風景は一応頭に入れますが、キャンバスには自分の今の気持ちをぶっつけるのです」 「なるほど」 「だから一枚の絵には、描いた時点の作者の感情が入っているはずです」 「そうですか」 「気持ちが荒れていたら、フォルムが不自然になる」 「なるほど」 「気持ちが滅入ったときは、画面の色調はブルーになる」
 谷 憲介氏の絵は、勤め先の研究所に100号の大作2枚が飾ってある。私がまだこの研究所に勤めていた頃、私はこれらの絵の前を1日何回となく通り、その都度横目で眺めていた。今、思い出してみれば、それらの絵にはそれぞれ違った感情が込められているような気がした。
 実は、この文はここで終わる予定であったが、今朝(1月5日)、日本ポリウレタン工業㈱シンガポール出張所の岩切所長からのメールで、谷 憲介氏は昨年末死去したという知らせが入った。岩切氏とは1年以上もメールの交換はしていない。虫の知らせ、いや、メールの知らせで彼の死を知ったわけである。享年50代後半ぐらいであろうか。この画面を借りて彼の冥福を祈る。
                                  2002.1.10

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庭造り

 私達は、昨年の春、この矢祭町に引越をしてきてもうすぐ1年になる。引越の後始末、外構工事、ログハウスの建築、庭造りなどで瞬く間に1年が過ぎようとしている。
 庭として使う土地の面積は、総面積160坪の敷地に建物とコンクリート敷きで95坪を使ったので、残り65坪である。庭のデザインをどうするか、色々考えたあげくの果て、建物の和室の前は和風の庭に、リビングの前は洋風の庭に、奥の方には野菜畑を、と極めて単純な形にした。
 この敷地は山を削って整地したため、土は石ころだらけである。先ずこの土を庭土に入れ換えねばならない。さらに和風の庭には庭石を置きたい、洋風の庭には芝を植えたいなどで、造園業者に頼まなければ庭造りは難しいと考えた。土の入れ換え、庭石、植木などでいくらかかるか、先に植木の引越をしてもらった菊池造園に見積を頼んだ。予めこちらで作った配置図を渡し、現地を見せてお願いしたが、1ヶ月以上も返事が貰えない。
 仕方ないので、この団地の入り口に、「安藤造園が庭造りのお手伝いをします」という看板が立ててあったので、ここに頼もうということで見積を頼んだ。直ちに持ってきた総額48万円という見積には、土の入れ換え29万円、庭石11万円、植木8万円という内訳が書かれていた。庭石の石は、50センチ角の鳥海石が14個で、1個5000円となっている。私には、石の値段、価値は全くわからない。鳥海石がどんなものか、50歳代のがっちりした体つきの安藤さんに聞くと、明るい石ですという。石にそんな表情があるのかと感心した。相見積を取っていないので総額48万円が正当かどうかわからない。このまま発注するのも癪だから、40万円でどうですかと安藤さんの顔をのぞき込むと、渋い顔の安藤さんはますます渋くなり、ぶつぶつ言った後、やりましょうと返事した。但し、今忙しいから9月に入ってから工事するという。当方8万円助かったからにこにこして、いいです、いいですと愛想良く答えた。
 工事が始まって庭石がどうなるか興味津々であった。14個の石は大小さまざまで、これをどのように置くか楽しみであった。石を置く位置は私が予め指定したが、どの石(形、大きさ)を、どのように(縦にするか、横にするか)置くか、安藤さんの腕にかかっている。安藤さんは、石を一個一個クレーンで持ち上げておろし、その配置具合を遠くに離れて目を細めて眺める。気に入らないときは、クレーンで位置を直したり、石を換えたりする。そんなわけで、安藤さんと助手1名は石の配置だけで丸一日費やした。出来上がった庭石の配列は、変化に富み、しかも見ていて安らぎを感じさせる立派なできである。
 私達の敷地の直ぐ前には小さな沢があり、清水が年中流れている。この流れは、東側にある矢祭町所有の山から出ていて、これを庭に引き込んで庭石の所に滝のように流そうと前々から計画していた。庭石の手前側は池でなく、小石を敷き詰めた枯池にする。そのために底はセメントで固め、手前の縁取りには近くの久慈川の河原にごろごろしている石を拾ってきて並べた。水の引き込みは、沢の上流約20mのところに小さな水だまりを造り、そこから直径60cmの塩ビ製雨樋パイプをつないで、庭石のところまでもってきた。高低差が1mぐらいあるので水は勢いよく流れる。流れてきた水は、枯池を通り排水マスに落ちて元の沢に戻るような仕組みになっている。
 物音ひとつしない静寂な庭に、チロチロと水の落ちる音が響き渡り、生き物が山からやってきたような感じである。急に庭が賑やかになった。
 私は、建物の東側に、10畳ほどのログハウスを昨年の夏の終わりから秋にかけて建てた。このログハウスは、材料一式はフィンランドから輸入されたもので、素人でも組み立てられるように予めカットされている。運賃、税込みで約80万円である。設計図に従って組み立てていくわけだが、高いところになると私一人では木材を持ち上げられないので、その都度妻を呼んで手伝ってもらう。屋根ができて屋根材を打ち付けていると、散歩している団地の住人に声をかけられる。「できましたね」「ええ何とか・・・」「建築のお仕事をされていたのですか」「いや私は化学屋で、大工仕事は初めてです」「お上手ですね、本職みたいですね」「そうですか、あはは・・」 お世辞でも褒められるとうれしくなる。
 約一ヶ月半かかってログハウスは完成した。このログハウスは陶器作りの作業場にする予定であるが、まだそのようなゆとりがないので、私が今まで描いた油絵約50点と絵付けした陶器類を壁にかけることにした。今、この建物は、大げさにいえば私のプライベート美術館になっている。来館大歓迎、入場無料!
                                  2002.2.10
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悲しきワルツ

 新築の自宅にはオーディオルームがある。この部屋は、この目的のために作ったものではなく、2階の広縁を有効利用したものである。私達の自宅には、1、2階に和室があり、和室の障子戸の向こうにそれぞれ縁側が設けられている。1階の縁側は幅130cmの普通サイズであるが、2階は幅180cmで、4畳分の広さになった。この広縁に10数年前に買ったパイオニアの「プライベート」というステレオコンポを置いて、私のオーディオルームにした。床が板敷きのため反響音があって、臨場感のある音楽が楽しめる。私は、毎日朝食後この広縁でクラシックCDを約1時間聞くことにしている。私の最もリラックスする時間である。
 CDは、これも10数年前に5枚一組3000円というドイツからの輸入もので、短いクラシックの名曲を集めた「クラシック名曲100選」である。当時めずらしいデジタル録音盤であった。これを毎朝、窓の外に広がる澄んだ青空を眺めながら音楽の”音”を楽しんでいた。しかし、半年も同じ音楽を繰り返し聞いていると飽きてしまう。
 私が現在聞いているCDは、5、6年前に、JR保土ヶ谷駅の改札前広場で売っていた1枚500円のCDである。これは、「アダージョ・カラヤン」という、当時このCDがベストセラーになっているというのを新聞で知っていたので衝動買いをしたものである。持ち帰って一度聞いてみたが、テンポが遅く、かったるい感じであったので放置しておいた。当時、会社勤めをしていた私は、知らぬ間にテンポの速い競争社会の渦中にいたのだなあと、今になって懐かしい。
 そのCDのアダージョのテンポは、現在の私の生活リズムにぴったりあっている。喜んでよいのか。このCDには10曲が入っていて、その中のシベリュウス作曲、「悲しきワルツ」が私の現在のお気に入りである。これは、6分程度の短い曲であるが、何度聴いても飽きの来ない名曲であると思っている。
 作曲者のシベリュウスは、フィンランド生まれで、1957年に死去した現代作曲家であり、彼の交響詩「フィンランディア」は有名である。この「悲しきワルツ」も交響詩の一つであろうか。悲しきワルツは、一人の人間の生から死までが、6分間という短い時間に実にドラマチックに描かれているのである。
 悲しきワルツは、テンポの遅い、暗く重々しいコントラバスのピチカートから始まる。この曲を聴くには低音領域が鮮明に出る装置が望ましい。60サイクル以下の低音がずしんずしんと響いてくるのは、何とも不気味であり、不幸な星の下に生まれた人間の誕生と、不運な死を予測させられる。やがて曲はゆっくりした弦楽器による3拍子の明るいワルツになる。主人公である人物が、幼年期から青年期にかけて希望あふれる将来を夢見ているのであろうか。次第にテンポが速くなり、多感で揺らぎのある青年の気持ちが表現される。次いで、この曲のメインテーマとなっているメロディがバイオリン群により高らかに奏でられる。主人公は結婚でもしたのであろうか。しばらくこのメロディが管楽器のソロで繰り返されて、ひとときの幸せな新婚生活が過ぎる。その後場面が変わり、行進曲風の興奮するテンポに急変する。何が起こったのか?
 主人公は戦争にかり出されたのか、あるいは勤め先の組織内で派閥争いをしたのか、人間の戦いの歌が力強く奏でられる。そして曲は、高音から低音へ急転直下、戦いは敗れた! 続いて、混乱、錯乱状態を表現する場面になる。私はこの部分が好きである。ビオラ、チェロなど中低音部の弦楽器が好き勝手に音を出している時間帯である。リズムもメロディーもない、ただガアガアと音を出しているだけであり、この時間帯の指揮者は何をしているのだろうか? ポケットに手を突っ込んで下を見ているだけであろう。楽譜はどうなっているのだろう。 「この部分、勝手に演奏」とでも書いているのか。この10秒ぐらいの音の表現は、この主人公が敵の弾丸に当たり、死に直面して錯乱しているか、あるいは主人公が派閥争いの途中に過労から心臓麻痺を起こし瀕死の状態になっているか、そのようなことを作曲者は示しているのであろう。
 やがて暗い葬送曲風の音が流れ、主人公の死が表現され、そして最後はたった10秒間であるが、静かな安らぎのメロディーが流れて終わる。人は誰でも天国に行けるというキリストの教えであろう。
 以上、シベリュウス作曲「悲しきワルツ」を私見を交えて紹介したが、皆さん、一度聴いてみては如何ですか。
                                  2002.3.10

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杉花粉

 今年の杉花粉はピークを過ぎたようである。ここ矢祭町は杉山に囲まれ、花粉の生産量の多さでは他にひけを取らないであろう。この地方の山々は、針葉樹の杉と、栗などの落葉樹がモザイク模様に植樹されていて、遠くから見て楽しい。秋は落葉樹が黄色に、赤色に、褐色に変化し、冬から晩冬にかけては杉の緑が目立ち、落葉樹は薄褐色になり精彩がなくなる。2月から3月にかけては、杉は開花を迎え、花を支える杉の小枝が花の重量に耐えかねるように垂れ下がる。そして満開を過ぎると花粉が勇ましく空中に飛んでいく。
 この花粉が飛ぶ様は実に壮観である。風が吹くと、山火事の煙のように白い粉が巻き上がり横に流れていく。花粉症に悩まされている人が見るとぞっとする風景であろう。花粉は緑白色をしており、我が家にも容赦なく降り注ぐ。木製のフロアはうっすらとこの粉が堆積し、歩くと滑りやすくなる。建物の外のセメント上には粒子のやや大きな杉花粉が、吹き溜まりに堆積し、時間が経つと粒子同士が溶融して、塗膜状に変化する。塗膜は表面はすべすべして、触ると脆く壊れる。加熱すると強靱な塗膜になるかもしれない。杉花粉は粉体塗料の原料になる!
 これほどの量の花粉が降り注いでも、この土地の人は平気な顔で杉の木の下を歩いている。たまにマスクをかけて車を運転している人を見かけるが、花粉症にかかっている人は花粉の多さの割には極めて少ないと言えるだろう。何故、花粉の多い地方で花粉症の人が少なく、花粉の少ない都会で多いのか?理由を推理してみよう。
 私は、杉花粉が降り注いで堆積したばかりの新しい花粉を採取して、拡大鏡で観察してみた。粉は無定形で、直径10から100ミクロンの大きさである。直径100ミクロン(0.1ミリ)といえば肉眼で一粒が見える大きさである。想像していたより大きい。
 本来、杉花粉の大きさは直径10ミクロン以下のものであろう。これが花から飛び立ち、粉同士がくっつき合って大きくなり、その重量に耐えかねて地上に落下すると思われる。しかし、強風が吹くと、軽い10ミクロン以下の花粉は上昇気流に乗り、目指す都会へと旅立つ。花粉は空気で希釈されるから、一粒一粒がいわば身軽な一人旅をするわけで、落下することはない。
 都会の空は、主に車のジーゼルエンジンから排出される無数のカーボン粒子が浮遊している。遠くから都会の上空を見ると、薄黒くもやっているのをよく見かけるであろう。これがカーボン(炭素)の正体である。ご承知のようにカーボンは無毒無害である。カーボンの塊である炭は、湿気をとる目的で家庭でもよく使われている。一方、カーボンは吸着性が強いため、容易に他の有害な化学物質と結合する。例えば、空気中のカーボンは、車から排出される一酸化窒素を吸着する。一酸化窒素は有害物質であるが、空気と同じ重量だから何処かへ逃げて行き、人には害を与えないであろう。しかし、カーボンと結合(吸着結合)すると、重くなり人に降り注ぎ、人の呼吸器に入り込み、害を与える。私は、これを「カーボン吸着型汚染」と命名する。
 例の田舎から出てきた杉花粉はシティ育ちのカーボンに捕まえられる。重くなったカーボン吸着花粉は地上に降りて、人の眼、鼻に付着し、アレルギーを起こし、花粉症になる。一方、杉山の地元では、カーボンは極めて少ないので、カーボン吸着型としてでは人を襲わない。つまり、田舎では粒子の大きな単独の花粉だけが降り注ぐので、人の眼、鼻には付着しにくく、そのまま地上に落下し、土に吸収される。田舎における花粉を避ける方法は、大げさに言えば傘を差して歩けば良いことになる。
 以上が私の説「カーボン吸着型汚染」であるが、この説は、地元に住んでいないと思いつかないアイデアである。このメカニズムを立証する学者はいないだろうか? 私は長らくカーボンで薄汚れた都会に住んでいたが、一度も花粉症にかかったことはなかった。私の説によると、ここ矢祭町に住んでいる限り花粉症にかからないことになる。もし私が、来年以降花粉症にかかったら、この説は取り下げなければならない。来年の杉花粉の季節を楽しみにしている。
                                  2002.4.10
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確定申告

 今年の確定申告は3月15日で終わったが、私は毎年確定申告することを、私の重要な春の行事としている。今年は特に面白い体験をしたので、ここに紹介する。節税の話である。
 私は、8年前の55才の時、勤め先の会社から退職金を貰った。約2000万円である。30年近く勤めてこの金額が多いか少ないか、私には分からないが、会社の人事担当者が口癖のように胸を張って言っていた 「当社の給料は世間並みである」 という言葉を素直に信じて、私は 「こんなに貰えて有り難い」 と思った。一方、大企業、役人などの退職金は3000万円以上と、新聞記事などで時折見かけた。3000万円とは羨ましい。しかし、この差を会社のせいにしてはいけない、自分の甲斐性だと諦めよう。
 この落差を埋めるため、私は自力で2000万円を3000万円に増やそうと思い、日本生命の「一時払い養老保険」に入った。当時の利息は約5%であったので、およそ10年後に、約2000万円が3000万円となって私の懐に入るのである。その後ご存じのように、公定歩合は大幅に低下し、この保険の固定利息とはいわゆる逆ざや現象となり、生命保険会社全体の問題となった。
 私は、昨年の4月、家の新築のため資金が必要になり、この保険を満期前に解約することにした。保険期間が7年であったので、解約金は2700万円である。また、これは予め分かっていたことであるが、解約前の昨年2月、家の完成前に住宅会社に支払うお金が300万円必要になり、保険会社の契約貸付制度を利用して、この2700万円から300万円を金利5.8%で借りることにした。借りた期間が40日であるので、その利息は1万9千円となり、これと300万円をプラスした金額(約302万円)が、4月の解約時2700万円から差し引かれるわけである。つまり、昨年の2月に300万円、4月に約2400万円を受け取ったのである。
 確定申告では、生命保険の解約で利息を得た場合、その金額を一時所得として申告することになっている。私は、今年の確定申告で、2000万円の元手で利息700万円を得たのだから、700万円を一時所得として正直に申告した。私は、幾ら税金を支払わねばならないか、予め計算してみた。最近の税の計算は、誰でもできるように懇切に説明された解説書を国税庁が作っているので、それに従えば簡単にできる。
 その結果、私の支払い税金は25万円となった。例年なら数万円の還付が受けられるのだが・・・・。700万円の一時所得で、税金が25万円なら安いと、すっかり納得していた。これが分離課税なら140万円も取られるのだから。総合課税のお陰である。
 当地の確定申告は矢祭町役場の2階が会場で、担当者は、白河市の税務署からパソコン持ち込みでやってくる。役場の建物は、大正時代に建てられたような古い木造の2階建てである。がたついた扉を開けると、セメントの土間があり、左右に木製の下駄箱が並んでいる。靴を脱ぎ、備え付けのスリッパに履き替えて、板張りの階段をばたばたと上がると、会場が右手にある。木製の引き戸を開けて中に入ると、4、5人先客がいた。会場は役場の唯一の会議室で、歴代の村長、町長の写真がずらっと掛けられている。これを眺めていると、明治時代に戻った気分になった。先客の一人に近所の石川さんの奥さんが明るい顔をしていた。石川夫妻は、30代の若さで、私達より1ヶ月先に東京から引っ越してきた。古びた陰気な建物の中に石川夫人の明るい顔を見て、私はほっとした。 「今日は花粉がすごいですね、石川さんは花粉は大丈夫ですか」と私が聞くと、「ええ、なんともないです」と答える。 「石川さんはここでの申告は初めてですか」 「ええ、そうです」 「そうですか、私も初めてです」などつまらない話をしていると、石川さんが係の人に呼ばれて、行ってしまった。
 私の番がきて、私は、50代の税務署員の前に座り、「昨年保険の解約をして、一時所得がありました」と言って、私が計算して記入した確定申告書を渡した。彼は黙ってパソコンのキーボードを打ち始めた。確定申告は、今年から用紙を使わないパソコン入力に切り替わっている。私は、「これが年金支給証明書、これが医療保険振込書」と言って、彼に書類を見せるが、聞いているのかいないのか、税務署員は知らん顔をして黙々とキーボードで入力をしている。「これが日本生命から送られてきた一時金の支払調書」と言って書類を出すと、はじめて顔を上げて書類を見だした。何やら訳の分かったような顔をしてまた入力を始めた。
 税務署員は一通り計算して、「税額は11万円になります」と私を初めてまともに見て言う。私は、「どうしてですかねぇ・・・」と、例の700万円の利息金を入れた額を説明しようとしたが、彼は私を遮って、「利息金は400万円です、従って一時所得額は400万円です」と言う。「貸付の300万円は経費になります」と税務署員ははっきり言った。私は、おかしいなあ・・・、と思ったが、税金が半分以上も減るのだから、深く追求せず、にこにこして 「そうですか、有り難いです」という。彼は満足そうに、いかにも弱者を助けたといった顔付きをして私を見た。貸付金300万円は家を建てるのに必要だったので、これは必要経費である、というのが国税庁の解釈であろう。一方、保険会社はこの300万円の使い道は何も問わない。客自身の金から、前もって当人が借りるのだから、当然文句は言わない。
 このような「節税方法」を予め知っていたら、税金は0にでき、逆にいつものように還付が受けられたのだったが・・・と帰り道考えたのである。 ・・・そう! 解約の直前に700万円を借りてしまえばよかったのだ!! そうすれば利息金は0、つまり一時所得は0となり、例年の還付が得られる! 何ということだろう。無知な者が損をする世の中はけしからん! と怒ってみたが、すぐ、あの税務署員のお陰で税金が大幅に減ったことを、私は内心非常に喜んでいた。
 この話、参考になりましたか? 皆さん、保険金を満期解約あるいは途中解約するときは、保険会社の契約貸付制度をめいっぱい悪用して下さい。
                                  2002.4.30

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ベネルクス3国旅行1

 私達夫婦は、2002年5月1日から13日間の日程でベネルクス3国のツアーに参加した。「花のベネルクス3国周遊」という名称で、ユーラシア旅行社が企画したものである。ベネルクスとは、ベルギーのベ、ネーザーランド(オランダ)のネ、ルクセンブルグのルクスを合わせた言葉である。3国とも花の季節で、オランダではチューリップ、ベルギーとルクセンブルグでは街路樹の大きなマロニエの花が見事であった。
 オランダは、スペインとの長い戦い、イギリスとの小競り合い、フランスからの独立を経て現在に至っている。オランダ人はゲルマン系で、性格は日本人に極めて似ているという。つまり、おとなしく、相手に「ノー」とはっきり言えない、真面目で、勤勉・・・。オランダのホテルマンと目が合うと、愛想良く挨拶してくれ、必ず一言付け加えて言葉を交わしてくれる。 「ありがとう」と言った後、 「良い一日を!」 といった具合に。 オランダ人は、イギリス人とかアメリカ人のような、心の底にある傲慢さ、あるいは相手を見下した態度は全く持っていない。貧しい資源のなかで、知恵と英知で豊かな国を育てたオランダ人は、あくまでも謙虚である。
 九州ほどの広さの国に人口密度が約350人/平方Kmというオランダは、人が多いという印象は全くなかった。全土が平地で、どんなところにでも人が住めるので、むしろ広々とした国土にのんびりと人々が生活しているという感じである。オランダは、ご承知のように海抜マイナス3~5mという海面下の所が多い。大雨が降ったら洪水になり、住宅、道路は海の底に沈むのではないか、と日本人の私は心配するが、そこはきちんと長年の灌水技術で安全を保っている。
 オランダは、至る所に運河がある。運河といっても大げさなものではない。田舎では幅1~2mぐらいの水路である。オランダの干拓事業、つまり国土を広げる事業で、その基本的な方法は、まず海中の土砂をすくい上げて、その土砂で海側と陸側の四方に堤防を築き、海水の流入を防ぎ、次いで海底が乾くのをじっくり待つのである。しばらくすると、大きなマス状の土地ができあがる。土地は当然、海底の土地を掘ったので、海面下にある。この大きな升目の土地を小さく区切って水路を造り、水路に貯まった水は風車で汲み上げて海に流す。現在ではポンプによる汲み上げが行われている。
 オランダの干拓は、国の伝統的事業だから国民の反対はない。日本では、沖合に鉄の杭を打ち込み、近くの山から土を運んで埋め立てる方法を採るので、各方面で不都合が生じ、反対が起こる。オランダでは近くに山がないので、土は海底の土砂が頼りになる。海に面したオランダは、ライン河の下流に位置し、ドイツから運ばれてきた土砂が河口一帯に堆積しているので、干拓には好都合である。
 今回の旅行はベネルクス3国の各都市をバスで訪問したので、各国の田舎の風景が存分に楽しめた。オランダの田舎は、チューリップ畑も少しあるが、ほとんど牧場である。イギリスの牧場は、土地が痩せていて牧草の育ちが遅いせいか、身体の小さい羊しか飼えない。オランダは土地が肥えているのか、草が大きく、豊富にあるので、大型の牛が問題なく飼える。イギリスの牧場の境界は石垣や木の柵で囲まれているが、ここオランダでは水路がその役を果たしている。だからバスから眺める風景には、突起物がなく、勿論遠くに丘や山がないので、平坦で単調である。そのような風景の中で風車があると、遠くからその存在が分かり、オーと歓声を上げて観光客は喜ぶのである。
 オランダの農家の廻りは水路であるので、オランダの子供達は小学校で泳ぐことを先ず習う。それも、衣服を着たままでの立ち泳ぎを習う。そのため、親たちは安心して子供を遊びに出すことができる。牛や馬には泳ぎの練習はさせない。だから彼等は、おとなしく身の回りの豊かな牧草に満足して、一日を暮らす。隣の牧草が旨そうだからといって、水路を飛び越えて隣の敷地に行くことはない。
 牛は、羊と違って集団で暮らし、その中にリーダーの牛がいて、彼の指示に従って行動する。だから、普段は人間は付いていなく、牛たちは自主的に一日を暮らしている。牛は夜には牛舎に戻って一夜を明かすが、牛舎へ入る順も決まっているという。一方、羊は団体行動をとらず、一年中、雨が降ろうが、雪が降ろうが一人で外で暮らす。そういえば、イギリスで人里離れた岩場で一人草を食べていた羊を見たことがあった。それを見た私は、牧羊犬は何をしているのか、羊が迷っているではないか、早く連れて帰れ、など心配したことがあったが、これは羊の習性であったのだと、オランダに来て納得したのである。
 オランダの田舎で、丁度、我々の乗ったバスから見えたのであるが、馬が一頭、水路に落ちて、数人の人達が馬を水路から引き上げようとしていた。裸の馬だから、縄を首にかけられて、それを数人で引っ張っていたが、馬はおびえてしまって右往左往していた。この馬は水路を飛び越えて、隣に住んでいる恋人に会いに行こうとしたのだろうか。馬といえども練習しなければ跳躍はできないはずである。これくらい簡単に飛び越えられる、と思ったのであろう。この騒ぎを遠くから牛たちが眺めていた。 「馬鹿な馬だ、おめぇたち、あんなまねはするんじゃねぇよ」 と親牛が子供に教えているのであろう。オランダの長閑な風景に出会うことができた。
                                  2002.6.10

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ベネルクス3国旅行2

 今年、5月1日から13日までのツアー「花のベネルクス3国周遊」は、参加者18名であった。夫婦が5組、女性7名、男性1名の内訳である。60才以上がほとんどで、あとは50代が数名という高齢者ツアーとなった。通常、ツアーには新婚旅行組が1組ぐらいいたり、20代の女性組がいたりして、我々年寄りのひやかしの対象になるのだが、今回はそれもない。一番の若者は男性添乗員の西田さんである。36才、独身。
 西田さんは、関西出身である。客に対しては標準語を使うが、焦ったときには関西訛がすぐ出る。関西弁には敬語がないといわれるが、西田さんの言葉使いを聞くと実感してこのことが分かる。会社から、話すときは敬語を使うようにと、厳重に指導されているのであろう、彼はやたらと敬語を連発する。 「それでは、出発させていただきます」 「バスを止めさせていただきます」 「お忘れ物のないようにお降り下さいませ」 など。 自然に出てくる敬語とは違い、とってつけた敬語になっているのが気になるが、彼のご愛嬌でもある。
 オランダのアムステルダム市、ハーグ市など大きな観光地では、土地の案内人(土地に長年住んでいる日本人)がバスに乗り込んできて、マイクで国や町の歴史から人情までしゃべりまくる。アメリカの同時多発テロ事件以来観光客が激減して、案内の仕事もなかったが、最近になってやっと仕事にありつけるようになったと、案内人は意気込んでいる。市内をバスで移動する間も、寸暇を惜しむように窓から見える樹木の名前、通行人のファッションまで説明する。お喋りが商売の案内人は、今まで仕事がなくて、喋れなくて貯まっていたストレスを私達に向けて発散するものだから、その迫力はすさまじい。高齢者の私達は、オランダの今の経済状態を聞いても何も感動しない。今日のランチはなんだろうか、ランチではビールにしようか、ワインにしようかなど、案内人が連発する言葉を頭上で避けながら、考えるのである。
 オランダ、マーストリヒト市内のガイド役は、マーストリヒト大学、日本語学科在籍の22才の男子学生であった。オランダ人の彼は、まだ日本語が思うように話せない。台本のせりふに従って説明するが、それも時折日本語を忘れて説明が中断する。その様なとき、まわりの私達が当てはまりそうな単語を幾つか言って彼に正解を思い出させる。普通、ガイドがいるとき、添乗員の西田さんはのんびりした顔で、後ろの方でにこにこしているが、マーストリヒトではそうはいかなかった。西田さんは補足説明に忙しくしていた。
 参加者に、椎名 弘というプロの写真家がいた。彼は、大きなレンズの付いたカメラと交換レンズなどの入ったケースを持ち歩いて、ガイドの説明を聞かずに、少し離れたところでしきりに被写体を探していた。 彼は、「風景写真を撮るときは、手前の物体を入れてとると良い写真が撮れます」 など私達に教えてくれる。また、私達がシャッターを頼むと快く引き受けてくれる。
 食事時に彼と同席する機会があった。 「金谷さんはどちらにお住まいですか」 と彼は聞くので、「福島県の矢祭というところです」 と答えて、矢祭町の位置を説明しようとすると、 「私は矢祭の隣の大子町出身だから良く知っています」 という。 おやまあ、ということで話が盛り上がった。彼の奥さんの出身は矢祭町だから、矢祭には時々行くという。矢祭町長の根本氏は奥さんの親戚だという。椎名氏と根本町長は血のつながりはないが、何となく感じが似ているので、彼を町長と名付けた。
 町長は大きな声でよく笑う。笑い方が、うひぃうひぃと変わった発音をするので、彼の姿が見なくてもどこにいるかよく分かる。町長は、最近大子町の男体山ふもとで撮った写真が大子町の写真コンテストに入選して、大子町の「道の駅」に展示されているという。 私は、「大子にはよく行くから、今度見に行きましょう」 など、話はこの地域の話題で広がる。この食事時には、私達のほか、鬼頭さん、小町さん夫妻が同席していたが、彼等にとって内容が分からず、手持ちぶさたになっていた。以後、この地域限定型の話題は避けることにした。
 高齢者ツアーの参加者は、それぞれの両親の介護を経験している人が多い。現在、95才の母親を介護している70代の女性は、旅行期間中、母親を妹に預けてこのツアーに参加したという。食事時、このような人が集まると、介護の経験談で盛り上がる。食事時は、介護技術の情報交換の場にもなる。日頃いやな介護で悩まされて、その介護から一時的に解放されたツアーの13日間は、介護をしている人にとって至福の時間である。普段、人に言えない悩みをあからさまに他のツアー参加者に喋って気を晴らす。ツアー参加者は、13日間だけのおつき合いと割り切っているから、何でも喋れるという気安さがある。聞く方も気楽に話を合わせることができる。これは、ツアーの大きな効用であると私は感じた。
 ツアーの最終日、成田空港で皆と別れるとき、介護者の表情に寂しさがただよう。 「金谷さんには色々話を聞いて貰ってありがとう」 「いや、いや、参考になりました、またお会いしましょう」 と、私はできそうにもないことを言う。 「そうですね、会えるといいですね」 と、彼女は笑ってくれる。このような人は、もう次のツアーの予定を決めているようである。次のツアーを楽しみに、明日からの介護を頑張ろうとしているのである。
                                  2002.7.10
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ベネルクス3国旅行3

 私達が参加した、今年5月のツアーの名称は、「花のベネルクス3国周遊13日間」であり、オランダのフロリアード2002という10年に一度の花博覧会見物が見所であった。しかし、オランダが生んだ多くの有名な画家の絵が展示されている美術館の見学も各地にあり、私には大変興味があった。ツアーで訪れた美術館は、アムステルダム市の国立美術館、国立ゴッホ美術館、アムステルダム近郊のクレーラー・ミューラー国立美術館、ハーグ市のマウリッツ・ハイス美術館、ブリュッセル市(ベルギー)の王立美術館の5カ所である。
 各美術館では、土地の案内人がいわゆる名画と言われる1枚の絵の前で詳しく説明してくれる。このツアーでは、各自にイヤホーン付き受信器が貸与され、案内者がマイクを使って喋ると、電波を通してその説明を各自がイヤホーンで聴けるという仕組みを採用している。私は、これは便利な方法であると感心した。これだと案内者は、大声を出す必要もなく、むしろまわりの他の見学者に迷惑が掛からないように、小声で説明することができる。私達も、説明を聞きながら他の絵を見たり、写真を撮ったりすることができる。団体から少々離れていても、本体がどこを歩いているか分かるので極めて安心である。 「では、次に2階の方に移動します、階段の右奥の方にトイレがありますので必要な方は行って下さい、次のトイレ休憩まで2時間あります、集合はこの美術館入り口で2時半です」 など有り難い情報を聞くことができる。
 このような仕組みを採用しているのはまだ日本だけのようである。アメリカ、ドイツなどの団体では、案内者が大声を張り上げて説明をしている。案内者のまわりに団体客がしっかりくっついている様は、横から見ていてなんだかおかしい。一方、日本人団体は、集団がばらけてしまって、ツアー参加者は各自イヤホーンに集中していて、時たま笑ったりするので端から見ると、これもなんだかおかしいであろう。
 各美術館ではそれぞれ目玉の絵を持っている。展示してある絵を一つ一つ見て回ると1日はたっぷりかかるので、案内者は目玉の絵だけを説明する。他の団体も同様にしているので、一つの絵の前で団体同士がぶつかることがある。美術館にいる時間は2時間ぐらいしかないので、案内者はじっと待ってはおられない。100号ぐらいの絵になると、他の団体が鑑賞していても絵の前には隙間ができる。そこで、我等の案内者はマイクを使って小声でその絵の説明を始める。先客は、ドイツからの団体のようであり、案内者は大声で熱心に説明している。我等の女性案内者は、ドイツ団体に迷惑が掛からないように、絵の端で控えめに説明する。しかし悲しいかな、彼女は仕事熱心のあまり次第に力が入り、声が大きくなり、身振りも大きくなる。 「皆さん、この男性の目を見て下さい、こちらの女性を見ているでしょう、そしてこの女性は、ほら、何と別のこの男性をうっとり見ているでしょう、そうですね、三角関係を描いているのですね、面白いですねぇ・・・」 と彼女は絵の中の人物を指で示すため、ドイツ案内者の後ろを行ったり来たりする。ドイツ案内者は彼女を怒った。「うるさい、今私が説明しているのだ、邪魔をしないでくれ」と、ドイツ案内者は言ったかどうか・・・・・。
 国立ゴッホ美術館では、丁度「ゴッホ&ゴーギャン展」が開かれていて、大変な混みようであった。ここでは、名作ひまわりの絵3点が並べて展示されていた。一つはニューヨーク近代美術館から、もう一つは東京新宿の安田美術館から借りてきたものである。この特別企画展の他に、常設館ではゴッホの絵が多数展示されていて、私はこちらの方が好みであった。観客も少なく、じっくりゴッホを味わうことができた。ゴッホがピストル自殺の直前に最後の力をふりしぼって描いたといわれる「カラスのいる麦畑」は、異様な迫力があった。死を覚悟した人間の心情はこのようなものかと、私はのんきに眺めた。
 クレーラー・ミューラー美術館は、アムステルダム市から東へ85km離れたところの村にある。65年前に建てられたという近代感覚の建物は古さを全く感じさせない。この美術館もゴッホの絵が多数展示してあった。私は、ゴッホのひまわりの絵は世の中に3点しかないと思っていたが、彼は22点も描いているという。この美術館にも多くのひまわりの絵が集められている。そのうち、「切られた4本のひまわり」は、萎縮して枯れていくひまわりが、タッチは荒いが、極めて写実的に描かれていた。ゴッホは、牧師の子としてキリスト教の教えの中で育てられたというが、彼の絵にはキリスト像の絵は一つもない。その代わり、太陽とか、ひまわりをモチーフにした絵が多い。ゴッホは、永遠のキリストが太陽であり、人間キリストがひまわりである、という意識で描いていたのであろう。
 私達は、訪れた五つの美術館の他に、アントワープ市のノートルダム大聖堂に飾られているルーベンスの「聖母被昇天」、そしてゲント市の聖バーフ教会に飾られているファン・アイク兄弟の「神秘の子羊」を鑑賞することができた。 前者は、日本で「フランダースの犬」で人気のある主人公、ネロ少年が一目見たいと憧れていたが、とうとう貧しくて見ることができなかった絵である。この絵は、物語では、カーテンで隠されていて、お金を出した人にだけ見せるということになっていたが、今は、この大作が他の作品と共にむき出しに飾られていて、写真、ビデオも自由に撮ってよいことになっている。時代は変わったのである、と私は感じ入って、作品の前に立っていた。
 後者の「神秘の子羊」は、私はこの絵が世の中に存在していたということを、この聖ハーブ教会にきて初めて知り、自分の無学を思い知らされた作品である。この絵は、現在値段が付けられないほど価値のあるもので、世界遺産に指定される日も近いと言われている。14世紀に描かれたこの絵は、3枚の大きな板の裏表に描かれていて、本格的な油絵としては元祖ともいえるものである。いまだに緻密で美しい色彩を保っているこの絵は、第二次大戦では戦火から守るため、方々に疎開したが、最後にナチの手に渡り、消滅寸前に市民によって救出されたという運命の持ち主である。このことを知って見学に来た人は感慨深く眺めていたことであろう。この絵は、聖ハーブ教会の奥の一室にガラス張りの中に安置されていて、多くの見学者が熱心に眺めていた。
 私は、後日、同じ矢祭町に住むテニス仲間で、東京芸大出の日本画家、鈴木画伯にこの絵のことを話すと、彼は、この絵はファン・アイク兄弟が描いたもので、近代西洋美術のお手本的存在であることなど教えてくれた。さすが、芸大出身、よくご存じだ!
                                  2002.8.10
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CD音楽を聴く

 私は、朝食後約1時間、CDを聴くことを日課にしている。私は、昨年4月に建てた家の2階の和室横に、4畳大の広縁を設け、そこをオーディオルームにした。そこには、16年前に買ったステレオコンポ(パイオニアのプライベートCD330)を置いている。
 このステレオのCDプレーヤーが最近おかしくなった。CDは、CD盤に刻まれた凹凸にレザー光線を当てて、反射する光の強弱を音に変えたものであるので、私はプレーヤーの故障はないと信じていた。ところが、CDの再生中に、音楽に突然エコーが入ったり、昔のレコードによくあった、同じところを繰り返して先に進まないトラブルなどが発生した。CDプレーヤーは中身が見えない全くのブラックボックスで、直しようがない。私は諦めてCDプレーヤーだけ新しいのと取り替えることにした。現在、CDプレーヤーのみを作っているメーカーは少ない。幸い、デンオンという会社が販売しており、2万4千円で買うことができた。今、新しいCDプレーヤーは気持ちよく働いている。
 私が持っているCD盤は数えるほどしかない。15年前に買ったCD5枚一組の「クラシック名曲100選」と、5、6年前に1枚500円で買った「アダージョ/カラヤン」の1枚で、計6枚である。6枚は如何にも少ない。新しいCDプレーヤーにもっと活躍の場を与えたい、ということで、たまたま新聞広告に出ていたCD20枚一組が2万円というセットを見つけ、通販で買った。このCDセットのタイトルは、「どこかで出逢った、あのメロディー」~クラシック名曲282選~というものである。オリジナルのマスター盤(テープ)はヨーロッパ系のロンドンレコードとグラモフォンレコードである。アーチストは一昔前の名指揮者、名演奏家で、演奏も名門オーケストラであるので、私にとって大満足の20枚になった。
 肝心の音質であるが、もともと私はヨーロッパ系の録音は好きであったので問題ない。高音での伸びやかな音、低音での力強い迫力、中音域の明快さ、などは古さを感じさせない。これは私の偏見かもしれないが、昔のアメリカ系のレコードの音は好きになれなかった。ビクターは高音がか細く、貧弱で、コロンビアは中音がやたらとうるさいく聞こえたという印象を持っている。いまはそうではないと思うが。
 私は、この20枚のCDを毎朝1枚ずつ順番に聴いている。買ってまだ日が浅いので、現在3廻り目である。1枚のCDには平均14曲が入っている。録音時間は、1枚約70分であるので、1曲平均5分の割合である。1曲5分の音楽は、歌劇の序曲やアリア、交響曲とか協奏曲では楽章の一部という内容になってしまう。物足りなさはあるかもしれないが、私の年齢にはこのくらいの長さが丁度良い。1曲40分の交響曲を聴くには、相当な集中力と体力が必要であり、私にとって辛抱強さが要求される。年を取ると気が短くなる。あらゆる面でゆとりがなくなる。だから終わりを早く見届けたいということで、5分の曲は私の年齢にマッチしているようである。
 1枚のCDに入れる曲の順番も心得ているようである。激しい曲の後は、穏やかな曲を入れる、といった配慮がある。私は、緩やかな曲が流れると、ついうっとりして寝てしまう。うとうとしていると曲が終わり、次の激しいオーケストラの音で目が覚める、といった繰り返しである。
 20枚のCDの中に、オペラのアリア15曲を集めた1枚がある。そこには男性の歌手、女声の歌手が入れ替わり出てくる。女性のソプラノの歌は迫力がある。残念ながら私は、生の歌劇は一度も見たことがなく、テレビでしか見たことがない。テレビに映されるソプラノ歌手は、一様に堂々とした体格であり、映像は上半身だけがクローズアップされる。大きな目をカッと開き、口を大きくあけ、両手を前に突きだして、視線は前方やや上である。その様な光景を頭に描きながら聴くのだが、中には迫力がありすぎて耳をふさぎたくなるような曲もある。大音量を得意とする歌手のアリアの場合、録音時、ミキサーが配慮して、バックのオーケストラの音と同じレベルにしてしまった形跡のものもあり、面白い。このような曲は、テレビ画面で言えば舞台全景の中にソプラノ歌手が立って歌っており、音に立体感が出て、落ち着いて聴けるのである。
 男性歌手は、マリオ・デル・モナコなど一昔前のテノール歌手あたりが出てくる。テノールは、声を張り上げたときにその美しさが現れるので、彼等は、しきりと声を張り上げて見せ場を作る。女性ソプラノは、高音を出すとき、喉の奥から声を絞り出すようにするので、音がこもったように聞こえる。一方、男性テノールは、音が口の先から出るように聞こえる。日本語と違って、イタリア語は語尾に 「タ、チ、ツ、テ、ト」 のような撥音が入る言葉が多いので、その傾向は著しい。彼等が大声を出して発声する撥音を聞いていると、熱唱のあまり口から多量の唾が飛び出しているようで、聞いている私も唾を避けるため、つい横を向きたい気になる。
 20枚のCDには、1600年頃のバロック音楽から1900年代の現代音楽まで様々な曲が集められている。最も多くの曲が納められている作曲家はモーツアルトである。モーツアルトの曲は、明るく、明快で、生き生きとしているので、初めて聞いた曲でも、これはモーツアルトだ、と言い当てることができる。しかし、35才で死去した直前に作曲した歌劇 「魔笛」(序曲)にはその天真爛漫な明るさは全くなく、これがモーツアルトか、と疑いたくなるほどの沈痛なメロディーが流れる。また、同じ頃作曲したアヴェ・ヴェルム・コルプスという合唱曲は、死を間近にした人間が居直って神に感謝する心情がありありと表現され、これは合唱曲でなく、立派な聖歌である。
 音楽はユニークな芸術ジャンルである。作曲家、楽器、演奏家、指揮者などが集まって音楽というエンターテイメントを形成させる。特に作曲家による楽譜の作成が特異である。楽譜は、コンピューターで言えば、基本ソフトであろう。ついでに言えば、楽器がハードであり、演奏家、指揮者などがアプリケーションソフトであろうか。一つの音楽を楽しむには多くのプロセスと多くの人材、エネルギーが必要である。作曲家と視聴者の間が如何にも遠い。生産者(作曲家)と消費者(視聴者)を直結できないだろうか。それにはパソコンを活用するのが有効ではないかと、このCD20枚を聴いて私は考えた。
 パソコンの画面に五線譜を設定し、音符記号を入力する。予め、音符記号には音の強弱、長短、速さ、種類(楽器)などに応じた音を入力しておく。スタートボタンをクリック、コンピュータは音符記号に従って音を発生させる・・・自分で作った音楽が演奏される!! 
 このようなソフトを開発してみたらどうだろう。もうかりまっせ・・・。 日本に、1億総作曲家の時代が間もなく来るであろう。
                                  2002.9.10

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02年、矢祭の夏

 ここ福島県矢祭町に来て2度目の夏を迎えた。今年は、35℃を超える日が2、3回あり、暑い夏であった。雨も、降らない日が20日ほど続き、庭木などへの水やりが大変であった。我が家の庭では、東側の山から流れる沢水を引いて楽しんでいるが、この沢水は、20日間の日照り続きでも枯れなかった。しかし、日照りが10日も続くと、水の量はさすがに細くなって頼りなくなってしまう。沢の水量が少なくなると、庭にくる水も少なくなる。
 私は、この水の量を常時観察して、面白いことを発見した。昼と夜で沢の水量に差があることを見つけたのである。晴天の昼間、特に3時ごろから水は極端に少なくなり、夕方から翌朝にかけて水は増えてくる。何故だろうか。それは、山の樹木が原因である。太陽が照りつける昼間は、葉から蒸発する水分を補給するため、樹木は地中から水を吸い上げる。気温が下がる夕方以降はその必要がない。山には何千何万本もの樹木が生きていて、それぞれ生活のために水を必要としているのである。
 1本の木では気が付かないであろうこのような現象が、多数の樹木が一斉に水を吸い取れば、人間の目に分かるほどの量になって現れる。ちりも積もれば山となる! 山の麓に流れる沢水は、彼等樹木たちの生命維持で余った水である。その余った水を我が家の庭に引き、この水は全部もとの沢に返している。
 私が発見した、この「水量の変化現象」を感慨を込めて妻に話したところ、妻は「あっそう」とだけ言って、そっけない。彼女は、もっぱら庭に水をやらねば花が枯れてしまうと、そのことに重大な関心を持っていたのである。私の大発見には興味はなかった。
 今年の夏は別の発見をした。我が家の庭の先には、町が作ったフェンスがあり、その向こうの一段下がったところに、例の沢水が流れている。そこにホタルが生息していたのである。6月の終わりから7月の始めにかけて、毎晩8時から10時頃、ホタルが4、5匹飛ぶのが見られた。私が最後にホタルを見たのは中学生の頃であるから、大げさに言えば半世紀前のことである。岡山県の総社市溝口というところにあった貸家に、一家で住んでいた頃である。田圃の向こうに、近くの高梁川から取水した水田用の水路があり、そこに多数のホタルが生息していた。まわりが暗かったので、家から50mぐらい離れた水路でもホタルの群舞を見ることができた。
 ここ、矢祭ニュータウンのホタルは数が少ない。私達は、夕食後庭に出て、ホタルを見るのが楽しみであった。家のすぐ横に街路灯があり、それがホタルが出る日に限ってやたらと明るく感じられ、街路灯が憎々しいほどである。しかし、ホタル達はその蛍光灯の光に負けじと、ぽーっ、ぽーっと、けなげにお尻を光らせ飛んでいた。ホタルは、時折フェンスを越えて、我が家の庭まで飛んできて、私達に光のサービスをしてくれた。
 去年の夏はホタルは見えなかった。というより、昨年の夏は、引越後間もなく、まだ庭も整備されていなく、私達にゆとりがなかったので、ホタルに気づかなかっただけのことであろう。来年の夏はどうだろうか。家を建て、庭を造ったためにホタルがいなくなった、というのでは申し訳ない。せめて今の環境を変えずにそっとしておけば、ホタルは来年も出るだろう、と考えている。さらにホタルを増やすにはどうしたらよいか、私の好奇心をかき立てる仕事が出てきて忙しくなりそうである。ホタルを増やすノウハウが知りたい。
 今年の春から夏にかけて、矢祭町は全国的に有名になった。矢祭町は、「どことも合併をしない」宣言をし、さらに、住基ネット接続拒否を全国に先駆けてしたのである。これらがマスコミに大々的に取り上げられたので、当町の根本町長は一躍注目を集めた。根本町長は、前者の合併問題で、NHKテレビで片山総務大臣に堂々と楯突いたのである。片田舎のおじさんが国の施策に反旗を翻したのだから痛快であった。矢祭住民のアンケート結果では、町長のこの方針に70%の人が賛成している。
 後者の住基ネット接続拒否では、これをきっかけに全国的に拒否が広がるのではないかと、総務省を慌てさせたが、接続拒否は限定的に終わった。接続拒否が新聞で報じられたため、矢祭町は、「住民のプライバシーを尊重してくれる」というので、矢祭町に住みたいという人が多くあらわれ、ここ矢祭ニュータウンの分譲地にも問い合わせが急に増えた、と役場の担当者が喜んでいた。
 「合併をしない宣言」と「ネット接続拒否」問題で、これらを支援している東京の知識人が矢祭町に相次いでやってきて、応援の講演会をおこなった。「合併をしない宣言」では、同じ過疎の町で悩んでいる町村の議員が全国各地から視察のため矢祭を訪問し、現在も続いている。「ネット接続拒否」では、長野県知事の田中氏がわざわざ矢祭町にやって来て、根本町長と意見交換をした。このようなことで、今年の矢祭町の夏は賑やかであった。
 この2件の他、私が感心したのは、町会議員の定数を18人から10人に、大幅に減らしたことである。人口6、7千人の町で、18人の議員数はもともと多かったのかもしれないが、簡単に半数近くを一度に減らすというのは思い切りがよかった。町の予算を使うのに、地元の議員が業者に便宜を図り、その見返りに業者から金品をせしめる、という議員の役得はこの町では通用しないのだろうか。予算の規模があまりにも小さいので、見返りの金品が菓子折程度になり、議員がやる気を失っているのであろう。過疎の町にはまだ10人の議員は多すぎる。5人ぐらいで十分であろう。この矢祭町の議員削減は、新聞の地方版でニュースになって報じられたが、これが一気に「18人から5人に削減」であれば、全国的なニュースになり、根本町長の知名度はさらに上がったであろう。
                                  2002.10.10
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新築1年半

 私は、矢祭町に家を新築してこの10月で1年半になり、夏を2回、冬を1回経験してきた。建物は、エスバイエルによるプレハブ住宅で、建てる前から、この建物の壁構造は、「断熱性と通気性に優れています」、と会社から強く宣伝されていた。私は、この1年半でその効果を実感したわけである。
 壁は、外側から約10ミリの無機物製の板、プラスチック製の穴あきシート、ロックウールの断熱層、約8ミリの石膏ボード、壁紙、のように構成されている。穴あきシートは、空気を建物の下から上まで貫通させるために入れており、これにより夏場の熱気は、全て天井裏に逃がし、屋根の上にある「屋根換気」から外に出すという働きをする。今年の夏は最高35℃になった日があったが、その時、内側の壁にさわってみると、それほど熱くはなかった。一方、過去長年住んでいた横浜のミサワの建物は、夏場、壁にさわると熱かった。ミサワの建物は、プレハブ初期の商品のため、壁は中に断熱材を閉じこめた密閉型であり、2階の天井裏も密閉されて、「屋根換気」はなかった。私は、改良された壁構造の効果を実感することができた。
 東北地方の古い家屋には、屋根の上に大きな「屋根換気」が付いているのをよく見かける。これは、囲炉裏を燃やす時の換気口、排煙口である。夏場もこのお陰で涼しいであろう。また、古い家では、敷地内に倉が建てられているが、その倉は、建物本体と屋根の間に全面隙間をつくり、屋根換気100%になっている。夏は涼しいであろうが、冬はよく冷えるであろう。「屋根換気」は適度な大きさが要求される。エスバイエルの「屋根換気」の設計図を見て、「天井裏に集まった熱気はこの大きさの換気口で逃がせるのか?」と、設計屋に聴いたところ、「十分です」と言って、訳の分からない数字を示して説明してくれた。大きすぎると、台風の時、雨がここから入ってくる。
 我が家のサッシのガラスは全てペアガラスになっている。今は、ガラス板を2枚重ねた「ペアガラス」が標準仕様になっているようである。このお陰で、冬の結露、ガラスの曇りはなくなった。しかし、出窓のサッシには寒い朝、しっかり結露があらわれる。出窓は壁から出っ張っているので、寒さをもろに受けるのであろう。
 今年はこの対策に、サッシをもう1組、内側に取り付ける「2重サッシ」型にすることにした。内側用サッシは、それ専用に既に市販されていて、トステムでは「インプラス」という商品名でPRされている。出窓2カ所、北側の洗面所の窓、トイレ2カ所を15万円の予算で取り付けて貰うことにした。この2重サッシで結露がなくなるか、楽しみである。
 我が家では、建物の床は全て段差なしの高齢者仕様になっている。階段、玄関を除いて全くのフラットであるので、目を閉じて歩いてもつまずいて転ぶようなことはない。
 高齢者仕様は床だけであるが、1年半住んでみて他にも高齢者仕様が必要なところがあることが分かった。その一つ、台所のガスレンジ上の換気扇消し忘れ対策。最近の換気扇は性能が良いのか、音が小さくなった。静かになったのは歓迎すべきであるが、換気扇がまわっているのを気付かずに寝てしまうことが2、3度あった。夫婦とも耳が遠くなりつつあるので、今後この消し忘れは増えるであろう。一計を図った私は、換気扇のフードにランプを取り付けた。換気扇を回すと、このランプがあかあかとつく仕組みにしたのである。これを取り付けてから消し忘れはなくなった。
 本格的な高齢者仕様の調理用レンジは、電磁ヒーターのような電気によるものであろうが、我が家ではまだ大丈夫だと思い、ガスレンジにした。上側のガスバーナーは目で消したかどうか確認できるが、内側の魚焼き用のバーナーはうっかり消し忘れがある。食事中、なんだか焦げ臭いぞ、と気が付き、慌てて消すことが数回あった。この対策はまだできないでいる。熱電対をバーナーの所に付けて、温度が上がったらランプがつくような装置を考えているが、熱電対の入手が田舎では困難である。
 最近の電気製品とか家庭用機器には、音または電子音声で切り忘れを注意してくれるのが多い。例えば、炊飯器、電子レンジ、自動パン焼き器、洗濯機、風呂自動湯沸かし器などである。これらを一度に使うことはないが、終了を知らせる音があちこちから聞こえて賑やかである。それぞれの機器の音は違うので、どれが知らせてくれているのか慣れると分かる。
 自動洗濯機は、最新の乾燥機一体型を新築に合わせて購入した。この洗濯機は、液晶画面が付いていて、水道栓は開けたか、洗剤は入れたかうるさく聴いてくる。また、現在どのようなことをやっているか、画面のイラストで知らせてくれ、次にどうすればよいか指示が出たりする。洗濯機が主人で、使う人間は家来(けらい)である。
 風呂用湯沸かし器は全自動で、全てを機械に任せるので極めて便利である。浴槽の排水口に蓋をして、スイッチを押すだけで後は全部機械が面倒を見てくれる。コントロールパネルが居間にあるので、途中経過が可愛い女性の声で明るく知らせてくれる。「もうすぐお風呂が沸きま~す」、次に華やかなメロディーと共に、「お風呂が沸きました!」と知らせてくれる。「ハイハイ、どうもありがとう」と、つい返事をしてしまう。
 電子レンジは以前の物はバカでかかったので、新築を機に小型のナショナル製に変えた。この製品は、レンジが終わると「チン」とは鳴らず、ピィーピィーという電子音が鳴る。そして、取り出すのを忘れると、1分おきぐらいに小さい音でピーと鳴く。料理の時間は、同時に色々調理をするので、電子レンジの中は忘れがちになる。そこに目を付けてこの仕組みを取り入れたナショナルの人はなんとも人間的で好感が持てる。私の妻は、この遠慮がちに鳴る「ピー」という音が可愛いと喜んでいる。電子レンジがピーと鳴くと、「ハイハイ、今出してあげます」、と彼女は返事をする。とはいうものの他の調理で1分過ぎると、また遠慮がちにピーと鳴く、「あら、すみませんね、もうちょっとまってね」という。 彼女は、ピーが鳴るのを期待し、電子レンジに話しかけるのを楽しみにしているようである。
 夫婦の対話は年と共にとぎれがちになる。沈黙が多くの時間を占める中で、電気製品が発声する音に答える言葉は独り言でなく、れっきとした対話となる。電子音との対話は空しいが、気兼ねなく何でも言えるので面白くもある。
                                  2002.11.10
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AV革命

 ここで言うAVとは、オーディオ、ビジュアル機器のことであり、アダルトビデオではない。私は、趣味として40年以上前からオーディオの作製、オーディオ機器の性能について興味を持っていた。本格的に趣味を始めたのは、40数年前、ステレオコンポ(蓄音機)の組立からである。忠実にレコードの音を再生するには、音の入り口に当たるプレーヤー、音を再生、そして増幅させるアンプ、音の出口に当たるスピーカーの3つの性能がうまくマッチしなければならない。例えば、レコードを回転させるプレーヤーに回転ムラがあると、いくら立派なアンプ、スピーカーであっても音が波打って、音楽鑑賞どころではなく、聴いていて腹が立ってくる。
 学生時代、私は当時放送局で使っているような高性能のCEC製ターンテーブル(レコードを回転させる機器)を購入した。これは、貧乏学生の私にとって立派すぎたが、音のマニアを自認していた私には「入り口は重要(最初が肝心)」という信念があったからである。レコードプレーヤーは、ターンテーブルと ピックアップから構成される。回転ムラのないターンテーブルから出る音は、落ち着きがあって安心して聴ける。それは、しっかりした足取りで歩く人を見るようで、頼もしさを感じる。一方、回転ムラのある安物のターンテーブルから出る音は、よろよろ歩く、貧相な人の後ろ姿を見る感じである。
 前置きが長くなったが、AVの記録ソース(媒体)であるレコード、CD、テープ類を経時的に音や絵に再生させるためには、機械的に回転するモーターが不可欠である。ところが最近、モーターを必要としないAV機器が現れたのである。ICレコーダーと言われるものである。私はまだ買っていないが、どんなものか買ってみたいと思っている。
 ICレコーダーは、16MB程度のメモリー(IC記録メディア)に音声を録音し、再生させるものである。これにはモーターがない。サイズは、4×10cm、厚さ1cmで、重さは70g程度の極めて軽くて小さい物で、2~4時間録音できる。最近、テレビで政治家のインタビューが映し出される時、このICレコーダーが政治家の顔の横から後ろから突き出されているのをよく見かける。
 最近のデジカメには、1~2分の短時間であるが、ビデオ機能が付いている。従来のビデオカメラはモーターでテープを回して録画する方式であるが、このデジカメは、モーターなしでメモリーに音と絵を記録する方式である。まさしくAV革命ではないか! 現在、IC記録メディアのメモリー容量は128MBが最大であるが、これが大きくなれば、モーター/テープ方式でないビデオカメラが可能となる。大きさは今のウオークマン程度となるであろう。
 名刺半分の大きさのメモリー媒体に、何故モーターなしで音の連続(音声など)が記録され、また再生されるのであろうか。普通のパソコンを起動すると、何もしないのに勝手に次から次へ画面が出たり、文字が出たりする。画面が出る順序、文字が出る順序は毎回変わらない。この順序はソフトを作製するときに指示されているはずである。残念ながら私にはよく分からないが、メモリーには1から順にマスが作られ、そして番号が付けられ、そのマスの中に文字とか絵を入力し、1から順に再生するようになっているのではないか。1から順に移動させるには、多分クロック機能を使っているものと思われる。これらのソフトの仕組みは、私には謎解きみたいなもので、考えていると夜寝られなくなる。
 クロック機能の応用は、電池で動く腕時計が昔からある。時計に入っている水晶体は、電流を与えると一定の周波数の信号が発生する。これは、水晶発振体といって、半世紀前から送信機などに利用されている。発生する波形は間隔を自由に変えられ、例えば、1秒間隔に波が出るようにすれば、波の一番上で信号を拾い、デジタル表示をすれば時計ができる。ICレコーダーの場合も、メモリー上に番号を付けたマスの移動を、このクロック機能を使えば、マスの順番に従って時間が流れていくことになる。モーターは不要になったのである。
 私が大げさに考えたAV革命も、よく考えてみれば、すべて古い技術を使っているだけのようで、落胆してしまう。 しかし、大容量メモリーのIC記録メディアの開発は、現在各社しのぎを削っていることであろう。今、メディアの種類は、スマートメディア、コンパクトフラッシュ、メモリースティックなどの名称で各社から市販されているが、規格は統一されていない。容量も128MBが最大で、ビデオに使うとなれば20GBぐらい必要であろう。こうなると今の延長線上の考えでは開発は無理で、新しい発想のメモリー作りが要求される。
 話は本題から離れるが、私はこの夏、2台目のデジカメを買った。最初のデジカメは、オリンパスのC-900ZOOMという画素数が130万画素のもので、5年前に買った。IC記録メディアはスマートメディアと言って、厚みが0.5ミリの薄型である。2台目は、キャノンのPowerShot S40という、400画素のものである。IC記録メディアはコンパクトフラッシュと言って、厚みが3ミリもある。大きさは両者とも名刺の半分くらいのものである。コンパクトフラッシュは64MBのものを4000円程度で購入して使っている。
 私は、油彩で風景画を描くとき現場の写真を必ず撮っておく。これは、後で家に帰って絵を描くとき、そのプリントアウトした写真画面で細部を確認するために、必要だからである。画面の詳細を調べるために倍率を上げて印刷することがあるが、130万画素ではぼけて分からないが、400万画素では良く分かる。私にとって、2台目のデジカメは頼もしい存在である。倍率を上げて風景を眺めていると、こんな所に人間がしゃがんでいたのかと、思わぬ「発見」をすることがある。
 ICレコーダーには2種類ある、ということを知っておくべきである。1つはメモリーが内蔵型で、1万円以下で買える。もう1つは、外部メモリー型でIC記録メディアを交換して使えるタイプで、2万円以上する。内蔵型は、メモリーを使い切ると、今までの録音を消して再度使うか、パソコンに録音内容を移して保存する。外部メモリー型は、IC記録メディアを交換して使うので、カセットテープのような感覚で使える。
 ICレコーダーで音楽を録音し、再生して音楽を楽しむこともできる筈であるが、メーカーはまだ推奨していないようである。メモリーのマスの運びがまだ不安定なのであろう。音楽が聴けるようになると、各社から録音済みのIC記録メディアが発売され、CDの何十分の一のサイズで世の中に出てくることになる。この日が来るのが待ち遠しい。
                                  2002.12.10
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春うらら、寒い 

 今年の正月は好天に恵まれ、日中は暖かく穏やかであった。ここ福島県矢祭町は、昼間は暖かいが、夜は冷え込みの激しいところである。冬の厳しさは、一昨年横浜から運んできて、我が家の庭に通路として敷いていた厚さ3cm、タテヨコ30cmのコンクリート製板が凍結の繰り返しで粉々に壊れたことで認識していた。だから、この地方ではこのようなコンクリート製板はどこにも売っていない。また、庭のアクセントとして、厚さ2cmのテラコッタ(素焼き陶板)製の板を50枚ぐらい、芝生と庭木の間に敷いているが、今年の寒さでこのテラコッタ板が早くも6、7枚割れてしまった。恐ろしい寒さである。
 この地方の道路には、現在の気温を示す表示板がある。この近くにも表示板が3カ所あり、そこを通るとき、必ず温度の数字が目に入ってきて、 「おお!マイナス3℃になっている!」と感心しながら通って行くわけである。車の中は暖かくしているから、外の-3℃の寒さは容易には理解できない。路面凍結、スリップ事故に対する注意喚起のために、この表示板は設置されているのである。
 寒くなると急に気温に対して関心が深まる。我が家には温度計が8個もある。土地柄か、ホームセンターには温度計が豊富に置いてある。農薬売場のコーナーと、DITのコーナーの2カ所に陳列している。農薬売場には農業用に地温など測るための比較的シンプルで、安価な温度計が置いてあり、DITコーナーでは少し高価な温度計が置いてある。温度計には、室内と室外の温度が同時に表示され、別に最低、最高温度が記憶される優れものがある。これは、農薬売場では1800円、DITコーナーでは4500円で売られていた。それぞれメーカーは違うが、機能は同じであったので、1800円のものを買ってきた。
 私は、昨年の暮れにこの温度計本体を居間の壁近くにとりつけ、また室外用のセンサーを、建物の壁に穴を開けて地上1mのところにとりつけ、温度の観測を始めた。私は、朝起きて、外の気温表示を見て、「おお!-6.8℃か、さむいな」と思い、次いで昨夜の最低気温を出して、「-7.3℃!、すごいな」と感心する。このような日は、朝の室内は12℃ぐらいになっている。我が家では、台所とリビングの約15畳の部屋を18℃に暖房して、深夜遅くまでつけている。そのせいか、朝まで暖かさが残っている。
 最低気温が-7℃ぐらいになると、サッシの結露が室内側で凍ってしまって、窓が開きにくくなることがある。最近、東北新幹線の八戸近くの駅で列車のドアが寒さで開かなくなったトラブルがあったが、このことを思い出してつい苦笑した。ペアガラスのガラス面では、-7℃ぐらいではガラスは曇らないが、アルミ製のサッシ枠はべっとり結露したり、凍ったりする。昨年の暮、このガラスの下半分一杯に氷の美しい結晶ができていたのにはびっくりした。まだ室外を測る温度計を設置する前であったので、正確な温度は分からなかったが、おそらく-10℃ぐらいになっていたのであろう。一般に、テレビの天気予報で発表する福島の最低気温と、我が家の敷地の最低気温には大きな差がある。例えば、テレビで最低気温の予想が-2℃と報じられても、この地ではさらに低くなることを覚悟しなければならない。
 昨年11月号のこの欄に、結露が激しいので我が家の5カ所の窓を二重サッシにしたことを書いたが、寒さが本番になってこの効果は目に見えて分かるようになった。外の温度が-7℃ぐらいになっても、二重サッシにした外側のサッシには結露は皆無なのである。勿論、内側のサッシには水滴は付かない。後から取り付けたサッシの枠は硬質塩ビでできているから、枠にも結露はない。しかし、2階の出窓のサッシだけは、外側のサッシ枠に少量の結露があった。トイレの窓も二重サッシにしたが、この効果はてきめんで、トイレに入ってふるえることがなく、快適に用を足すことができる。便座にヒーターを入れているので、その熱のせいか、外が-7℃でも、トイレ内は8~10℃を保っている。
 今年の寒波は早くきた。昨年11月には雪が降り、慌てて車のタイヤを冬タイヤ(スタッドレスタイヤ)に変えた。昨年の冬は12月末に変えたが、今年は一ヶ月早い。私は横浜にいて、冬タイヤの存在を全く知らなかった。タイヤチェーンは持っていて、雪が降ればこれをつければいいし、チェーン取付は面倒だから車はやめにしてバスでいく、など気楽にできた。こちらは車は必需品であるから、車はやめにして・・・など、のんきなことは考えられない。生命維持のため雪が降っても車で行かねばならない。
 我が家には、普通車(エスティマ)と軽自動車(ミラ)の2台の車がある。この地方では、常識として冬には冬タイヤを付けることになっていて、季節になると、タイヤ専門店のチラシがしきりに入る。私は、一昨年、仕方ないので、冬タイヤをホイール付で買った。両方の車で20万円もかかってしまった。寒冷地では余分な出費が必要となる。タイヤ交換を専門家に頼むと取付料を取られるが、ホイール付は自分でタイヤ交換ができる。
 棚倉町のテニス教室に森口さんという新婚の女性がいた。彼女は、昨年の5月横浜から白河市に、ご主人の転勤でやって来て、またすぐ昨年の12月に横浜に戻った。運悪く11月に大雪が降り、その時、土地の人は慌てて冬タイヤに変えた。特に白河地方は路面が凍結しやすい。横浜に戻れば冬タイヤは無用であるし、付ければ金がかかるし、森口家はどうしたのかな、と人ごとながら気になっていた。
 最後に、ある朝の我が家での会話を紹介しよう。
夫 「昨夜の最低気温は-4.3度だ、暖かくなったなァ」
妻 「そうね、もう春が来るのかしら」
                                  2003.1.10
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CD音楽を聴く、2

 我が家には4畳の広さのオーディオルームがある。私は、毎朝そこで、CD1枚(約70分)のクラシック音楽を聴くことを、日課にしている。CDは、20枚が1セットになった全集で、「どこかで出逢ったあのメロディー」~クラシック名曲282選~、というタイトルが付けられている。このCD全集の紹介は既にこの欄で行った。何しろ毎日聴くものだから、これらのCDを話題として書きたくなる。
 20枚のCDに番号を付けて、毎日1枚ずつ順番に聴いているから、21日目にまた最初のCDを聴くことになる。去年の7月にこのCDを購入して聴き始めたから、今年の2月で約10回繰り返して聴いたことになる。10回も聴いて飽きないかと思われるかもしれないが、何しろ282曲もあるから、全然飽きない。
 この全集は、タイトルが「どこかで出逢った・・・・」とあるように、なじみの名曲が多い。私は、目を閉じて流れる音楽を聴き、曲名と作曲者を言い当てることを楽しみにしている。初めて聴くような曲は、ジャケット(この言葉は死語か? CDケース?)を見て憶えるようにしている。しかし、悲しいかな、記憶力が衰えているので、次の21日目に同じ曲を聴いても、21日前に憶えた曲名と作曲者はすっかり私の記憶から消えているのである。
 1枚のCDには平均14曲収められているが、私は、そのうち4から5曲ぐらいは曲名と作曲者を記憶しており、容易に言い当てることができる。これらの曲は、私の学生時代に憶えたもので、40年経った今でも忘れることができない。若い頃記憶に入れたものは忘れにくいものである、ということがつくづく分かった。だから、子供の時に勉強して知識を頭に入れておくのは大変重要である。このようなことを、65才になった今になって気付くとは・・・。だからといって、自分の子供に勉強しろと強制するのは、私の主義ではない。中学生の子供に親があれこれ忠告しても、すでに子供は自分の世界を持っているから、容易に聞き入れないのが普通であろう。
 しかし、0才から10才位までの子供は親のコントロールが可能、と思えばよい。この間に、色々な情報を子供の脳に入力してやればよいのである。入力の方法は、主に視覚によるものと、聴覚によるものがあるが、視覚による入力は、子供が見ようとする意志が必要であるので、親と子の双方の努力が要求される。その点、聴覚による入力は容易である。常時、音楽を聴かせる、歌を聴かせる、言葉を聞かせる、などで入力できる。将来、子供に英語に強くなって欲しい場合は、英会話のCDを四六時中聞かせてやればよい。歌手にしたい場合は、親が音程に自信があれば自ら歌ってやればよいし、自信がなければCDをかけて聴かせてやればよい。この時期に入力された情報は容易に消えないであろう。
 話を元に戻して、私は、中学生の頃からラジオの組立を始め、次第に音の再生技術に興味を持ち、ついには自称オーディオマニアになった。放送局から出る音を如何に原音に近い状態で再生をするか、またレコードの音を如何に忠実に再生するかが、その頃の興味の中心であった。放送局、あるいはレコードから出る音の中で、音域が広いのはクラシック音楽である。クラシック音楽を聴くと、自分が組み立てた装置の欠点が良く分かるのである。
 貧乏であった大学生の頃も、この趣味は続いた。というより、さらにこの趣味に熱が入った。FM放送がなかった時代、音のソースとして優れていたのは、レコードであった。私はレコードを買うのに相当な努力を払った。当時、クラシックのLPレコードは1枚2300円であった。現在は、ソースはLPからCDに変わっているが、2000円ぐらいである。LPレコードの値段が40年前と同じ、というのは驚きである。それほど当時のレコードは、高かくて、庶民にとって高嶺の花であった、ということである。当時、ラーメンが1杯2~30円していたので、2300円のレコードは、今の値段で5万円ぐらいに相当する。今時、CD1枚買うのに5万円も出す人間はいないであろう。
 だから当時、私は、年に2、3枚しかLPレコードは買えなかった。買ったレコードは大切に取り扱った。レコード盤は、サファイヤの針を使って再生させるので、何回も聴いていると、レコード盤の溝がすり切れて雑音が出てくる。大変な消耗品である。大学の同級生に、生田 明という男がいた。めがねをかけたひょろ長い男であった。彼の出身が鳥取県で、私が岡山県であったので、彼とは何となく親しくしていた。彼も貧乏で、レコードは簡単に買えない。ある時、私にレコードを貸してくれというので、私は気前よく1枚貸してあげた。2、3週間して、帰ってきたレコードを聴いてみると雑音だらけになっていた。クラシックが好きな彼は、私のレコードを何十回も繰り返し聴いたのであろう。その後、別のレコードを貸してくれと、彼が頼みに来たが、私ははっきり断った。今思えば何と冷たいことをしたのか、と後悔する。好きなクラシック音楽を、彼と分かち合って楽しむ、という広い心がなかったのである。彼は大学を留年して卒業したが、卒業後どこで暮らしていたのか分からない。卒業名簿には、彼は住所不明となっている。どこかの国に拉致されたのかもしれない。
 私は、当時憶えたクラシック音楽の曲名は、その作曲者も同時にはっきり憶えている。例えば、曲名が「ツゴイネルワイゼン」であれば、作曲者はサラサーテ、「時の踊り」であれば、作曲者はポンキエルリといった具合である。中学校の音楽の時間ではこんな曲まで習わないし、高校では音楽の授業は受けなかった。これらは大学時代に憶えたのである。私は、レコードが思うように買えないので、楽器店から毎月出るレコードのカタログをタダで貰い、熱心に眺めていたのである。今度買うLPはどれにしようか、いろいろ比較検討していくうちに、曲名と作曲者を知らず知らずに憶えてしまった。
 私は、社会人になってすぐこれらの趣味をあっさり止めてしまった。音楽を聴く心のゆとりもなかった。従って、40年という時間を経て、昨年からクラシック音楽を聴き始めたのである。私は、このCD全集のお陰で朝の70分間、心豊かな時間を過ごすことができている。40年前、他の学生仲間が麻雀に夢中になっていたとき、私はレコードのカタログをじっと眺めて、時間を過ごしていた。そのカタログの中にあった憧れの名曲が、懐かしい思いで今聴けるとは・・・私の70分間の至福の時である。
                                  2003.2.10
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ショッピング 

 私が住む矢祭町は、過疎の町、辺境の町、県境の町、そして最近では、どことも合併しない町、住基ネット接続拒否の町である。役場が作っているこの町のキャッチフレーズは、もっと魅力的であるが、実体は前者であろう。
 矢祭町は、辺境の町であるが、いわゆる秘境の地ではない。秘境という言葉がもつ、ロマンティックな雰囲気が全くないからである。矢祭町は、町の真ん中に1本の国道(118号)が通っており、時折大型トラックが走り抜けるから、「トラック通過の町」といった方が適切である。
 福島県では地域を3つに分け、それらの表示として、会津地方、中通り、浜通りという言葉を使っている。中通りは、福島市、郡山市、白河市をつないだ地域で、東北新幹線、東北自動車道および4号国道が通っている、いわば県の中枢である。矢祭町は、大きくは中通りに属するが、正確には中通りと浜通りの間に位置する。JR水郡線が通っているので、「水郡線通り」と言った方が良いかもしれない。水郡線通りから浜通りに行くには、阿武隈山系を越える難題があり、特に冬は道路凍結で敬遠されがちである。この阿武隈山系は、茨城県に入るとほぼなくなるので、私が冬季、海岸通りの小名浜などに行くときには、茨城県の高萩市を経由して行く。このルートは、高低差がほとんどなく、道路凍結の心配もない。
 前置きが長くなったが、矢祭町には食品、日常品を売るスーパーマーケットが1軒ある。リオンドールといって、会津若松市に本店があるスーパーである。町のほぼ中央にあり、家からは歩けば30分以上かかるし、118号の国道には歩道がないところが多いので、ここへの買い物は車である。妻が軽自動車を使って用を足している。
 矢祭町の南隣の茨城県大子町には、国道118号バイパス沿いにショッピングセンターがある。ここには、中央に大型パチンコ屋があり、そこを取り巻くようにカインズホームセンター、食品スーパーマーケット2軒、ケーズデンキという大型電気店、家具店、薬局など、生活に必要な品物は全て揃えられる店々がある。このショッピングセンターは、私の家から車で20分ぐらいのところにあるので、週に1回ぐらいはここへ買い物に行く。
 矢祭町から北へ車で30分走ると、小さな城下町、棚倉町がある。城跡には建物はなく、石垣と堀があり、中に立派な桜の木がある。町の通りは城下町らしく、曲がりくねっている。棚倉町は東白川郡の郡都で、警察署、消防署などがある。この町には、ヨークベニマルという大型のスーパーマーケットがあるので、矢祭にない食材はここで買うことにしている。また、この町には、コメリという小さなホームセンターがあり、灯油を安く売っている。今年は昨年にくらべ少し高いが、18リットル666円である。
 我が家の暖房は、屋外に設置してある灯油のボイラーで温水を沸かし、それを4カ所に設置した暖房機に配管して、ファンによる温風で部屋を暖めるというシステムを取り入れている。灯油のタンクは200リットルである。ガソリンスタンドに灯油の出前を頼むと、18リットル900円近く取られるので、私は自分でコメリまで買いに行き、タンクに灯油を入れている。だから、灯油缶は9個も持っている。
 暖房機は、リビング、寝室、1階のホール(洗面所、トイレ、浴室)、2階のホール(階段、トイレ)にこの4台を置き、和室2部屋にはこれとは別のFF式暖房機をそれぞれ置いてある。FF式は灯油タンク内蔵型であるので普段は使わない。寝室の暖房は夜間、15℃に設定しているので、外が-8℃になっても寒くて目が覚めることがない。真冬の灯油代は一月3000円ぐらいである。
 棚倉町から西へ、車で30分のところに白河市がある。我が家から車で1時間のところである。白河市には、メガステージ白河という大型ショッピングセンターがある。ここのセンターは、アメリカで見られるような、大きな平屋の建物の中に色々なテナントが入っている方式ではなく、中央に広大な駐車場があり、それを取り巻くように大型専門店の建物が建てられている。総合スーパーマーケットが2店、大型ホームセンターが2店、そのほか2店の大型電気店、本、スポーツ店、マツモトキヨシ、ユニクロなど、なんでもある。無いのはパチンコ屋ぐらいであろうか。
 白河市は人口5万人ぐらいの小都市で、こんな大きなショッピングセンターを作って採算が合うのかと、私は心配しているが、駐車場にはいつ来ても車が多い。このセンターは、新幹線の新白河駅の近くで、白河市街地とは隣接しており、地の利が良い。市民はもとより、近隣の住民、さらに栃木県の人々が車で買い物にやってくる。そのため、白河市の商店街はさびれ、市の中心にあった総合スーパー、イトーヨーカー堂も撤退してしまった。
 ショッピングセンターを構成する各々の建物は倉庫に毛が生えたような粗末なものであるが、中に陳列している品物の数は実に多い。客が多くても、建物が大きいので店内は閑散としており、客は山積みされた商品の中でうろつくという感じである。寒い地方の建物の特徴であろうか、トイレが入り口に堂々とある。寒風が店に直接入らないように、建物の入り口はドアが2重になっている。その最初のドアと2番目のドアの間に広い空間があり、そこにトイレが設置されている。公衆トイレの役をしているのである。トイレ内は暖房してあり、便座にはヒーターも入っている。
 寒くなると小便のインターバルが短くなる。車で外出すると、トイレを探すのに苦労する。都会ではパチンコ屋が公衆トイレの役を果たしているが、田舎ではガソリンスタンドがその役をしている。客寄せにわざわざ、「トイレあります」という看板を立てているところもある。私は、用心のため5年前、携帯式水洗トイレを買った。カナダ製で、極めてコンパクトにできているので、エスティマに常時積んでいる。これがあると、遠出の際は安心である。妻が尿意を催したとき、私はこれを使えと強制するが、「いやだ」と、いつも拒否される。まだガソリンを入れる必要もないのに、ガソリンスタンドに入って「小用」を足すことになる。だから、カナダ製の携帯型水洗トイレは一度も使ったことがない。
                                  2003.3.9
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Eメール 

 私がEメールを始めたのは今から約4年前の1998年12月からである。メール用のソフトは、マイクロソフト社のインターネットエクスプローラを最初から使っていて、今バージョン5.5を使用している。私が受けたメールの受信数は今まで約2800通、送信数の方は380通で、圧倒的に受信が多い。
 私は、最初の頃は面白がってメールの送信をこまめにやっていたが、今では面倒になり、受信のみになってしまった。私がメールを始めた頃、勤めていた会社のシンガポール事務所の岩切氏が個人的にメールリストを作って、私も仲間に入れて貰ってメールのやりとりを始めた。岩切氏は、海外勤務で孤軍奮闘していた頃であったので、色々な情報が身近に欲しかったのであろう。私のメールは、おもに技術的な内容で、岩切氏の質問疑問に答えるとういう形が多かった。メールリストで発する岩切氏の質問は、メールリスト仲間全員に配信されるので、回答も方々から寄せられる。色々な人がその人の立場で意見を述べるので、私も勉強になった。岩切氏のメールリストは、社外秘的なものはメールに載せられないが、技術的常識のレベルアップには相当寄与したのではないかと思われる。私は、退職を機にこのメールリストを脱会した。
 今私は、大学の同期生のメールリストに参加している。大阪在住の高瀬氏が個人的にメールリストを設定されたもので、参加者は10名ぐらいである。同期の卒業生は、28名ぐらいいるが、年齢が65才前後であるので、パソコンには縁のなかった世代である。私は、メールリスト参加者の名誉ある第一号である。当初はメンバーが少なかったが、高瀬氏は同窓会などでメールリストのPRをされて、じゃ私もやってみようか、という人がぼつぼつ現れ始め、現在のメンバーになっている。
 現在このメールリストでは、音声によるお喋りを楽しんでいるようである。時刻を設定して、この時刻にみんながパソコンをオンラインにして、会話をするという約束である。私も高瀬氏から参加するように誘われたが、残念ながら5年前に買った私のパソコンには音声を送るハードが付いていない。私は、新しくパソコンを買い換えたら参加すると言っているが、このお喋りの会にはちょっと抵抗がある。
 メールの良いところは受信者主導で事が運べるということである。「ちょっと用事があって、メールを開ける暇がなかった」 ということで、遅くなった回答、あるいは時間切れになった回答に言い訳が立つのである。このお喋りの会は、電話と同じように即答を強制される。会社を離れて、勝手気ままに暮らしている私にとっては、この強制が苦痛である。その点、メールはマイペースで事が運べるので気楽である。
 私は、毎日朝起きてメールを開けることを日課にしている。大体毎日2、3通入っている。そのほとんどが定期的に配信される会社の宣伝メールである。日興ビーンズの「mamail」、メリルリンチの「メリルリンチ」、JALの「JMBツアーニュース」、マイトリップの「旅の窓口」、アパホテルの「アパホテル メールマガジン」、ヤフーの「Yahoo!ショッピング」、小林製薬の「ヘルシーネット」、コメリの「KOMERICOM」などが配信される。
 「旅の窓口」は、日本のお祭りなどのイベントを紹介してくれて楽しい。私達が旅行でホテルの予約をするときは、この「旅の窓口」のホームページでホテルの検索をして予約することにしている。大きいホテルだと、プラン別に内容、値段が表示されるので便利である。早めに予約すると料金の割引がある。
 「Yahoo!ショッピング」は、以前私の絵をヤフーが主催するインターネットオークションに出品したことがあって以来のつながりである。私の絵は、半年ほど出していたが売れなくて、そのうち出品に料金を取るということになり、止めてしまった。そのなごりか、頼みもしないのに定期的にこの「Yahoo!ショッピング」が配信されてくる。
 日興ビーンズからは、株の情報などのメールが1週に1度配信されてくる。私は、インターネットによる株の取引を3年前からしていて、株の売買はこの会社のホームページを開いて行っている。このホームページでは、色々な株の情報も見ることができる。例えば、過去の株の値動きをグラフにしたものとか、今の株価をリアルタイムで表示したりというものである。この会社は、データの提供だけで、株価の予想とか特定会社の株の推奨などはしない。
 メリルリンチとは株の取引はしていないが、この会社の高橋 徹氏の好意により、3日おきぐらいにメールによる株の情報を入れてくれる。メリルリンチの情報は、日本のほか、アジア、米国、欧州の経済情報が20ページぐらいの冊子状として送られてくる。これらは、Eメールの添付として約500KBの容量で送られるので、私の古いパソコンでは時間がかかるが、有り難い情報だと思ってダウンロードしている。私は新聞は朝日新聞しか取っていないので、メリルリンチのメールは経済新聞という感覚で読んでいる。
 メリルリンチは、米国系の会社の流儀であろうか、株の買い売りの評価判断をはっきり示してくれる。日本の証券会社の情報は、日本的な曖昧とした表現で会社評価をすることが多い。例えば、この会社は今良好な経営状況だから「買い」である、しかしこのような不安要素もあるので慎重を要する。といった責任逃れのいわゆる「逃げ」を必ず付け加える。これでは買うのに迷ってしまう。メリルリンチは、この点買いは買いだけ表示し、不安要素は担当者は知っているかもしれないが表面に出さない。今この会社の株価は300円だが、将来500円に値上がりするでしょう、という数字まで付けてくれる。株は博打のようなものであるから、はったりもあってよいであろう。私はこのメリルリンチの情報を参考にして、日興ビーンズを通して株を買っている。
 メリルリンチは、内外の時事ニュースが株価へ与える影響についての情報を素早く出してくれる。そのニュースから利害が生じる会社の一覧表を作成し、株価、収益状況などを出し、買いの会社を表示する。今回の米英によるイラク戦争についても、10年前の湾岸戦争と比較して、石油の値段の動向、株価、通貨の動きなどがどうなるか、さらに関連銘柄の株はどうなるか予測してくれた。
 株屋はなんでも株の売り買いの材料にする。以前、日本国内の犯罪者数が戦後最悪のペースで増加しているというニュースが政府から発表された。この結果、刑務所が足りなくなるという。そこで刑務所の増設が必要となり、そのため建設業界は潤うだろうと、メリルリンチは予測する。また、不法外国人の増加による泥棒の増加により、セコム、セントラル警備保障は買いだと予測する。万引き防止システムを作っているユニパルス、防犯用監視装置のドットウェルなど防犯関連銘柄も注目されると、メリルリンチは判断する。
 私にとってメリルリンチは、楽しい会社である。
                                       2003.4.8

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ニュージーランド旅行1

 私達夫婦は、03年4月8日から4月20日まで、ユーラシア旅行社が主催する「ニュージーランド周遊とパノラマ鉄道の旅」 というタイトルのツアー旅行に、参加した。
 ニュージーランドは、南緯45度ぐらいにあり、北緯でいえば北海道から樺太ぐらいの位置であるが、北海道のようにベーリング海峡から流れてくる冷たい「海流」がないので、緯度の割には温暖な気候である。
 ニュージーランドといえば何と言っても、羊である。しかし最近では羊の事情もかなり変わってきているようである。子羊1頭の値段が以前は約60万円していたが、今30万円に下がっていること、羊毛製品が化学製品に取って代わってきて売れなくなっていることなどで、羊を飼う人が少なくなってきている。ニュージーランド全島で約7000万匹いた羊が、今約5000万匹に減っている。ニュージーランドの人口が約300万人であるから、まだ羊は圧倒的に多く、ニュージーランドを代表する動物(産業)に変わりはない。
 ニュージーランドは、南島と北島の2つの島からできていて、南島と北島では、島の成り立ちが異なる。南島は、海底からの隆起によりできて、従って3000m級の高い山が多く、氷河があちこちに見られる。北島は、火山噴火によりできて、富士山に似た山、火山湖、温泉噴出など日本によく似ている。南島は、土地の直ぐ下が岩盤のため、土地が痩せて、草が豊かに生えない。そのため羊が中心の飼育になる。一方北島は、火山灰の堆積によるせいか、土地が豊かで大きな草が生える。牛が十分飼えるのである。南島は羊、北島は羊と牛が多い。
 ニュージーランドの牧場は、木の棒と針金でできた柵で囲われ、それが国中くまなく張り巡らされている。柵の中に羊がいるところと、いないところがあり、羊がいないところは牧草の生育のために備えているのである。イギリスでは、この木の柵の代わりに石垣が作られていて、その中に必ず羊が少数いる。ニュージーランドの羊は収入源のため、イギリスの羊はグリーン保持、景観保持のために飼っていることが分かる。
 私達は、バスでニュージーランド地方の小さな町を何回も通り過ぎた。バスは、町中を通るとき、徐行が義務づけられているので、バスから民家の庭をゆっくり眺めることができ、大変楽しかった。どこの庭も建物の前に芝を植え、そのまわりに草花や植木が配置されている。その中に変わった庭を見つけて、私は思わず笑ってしまった。それは、芝だけの庭で、その中に羊が1匹いるだけの庭である。庭の雑草の管理を羊に任せている家主は、余程横着な人なのだろう。
 羊は大きくなる前にしっぽを切られてしまう。しっぽは、刃物で切るのではなく、根本をきつく縛ると自然に切れてしまう。牧場で見られる羊は全部尾がない。これは、尾があると、糞が付いて、しっぽを振る動作でお尻のまわりが汚れ、刈り取った羊毛にもよくないためである。もう一つの理由は、繁殖を容易にするためである。雌の羊はしっぽがあると性器をしっぽでガードすることができ、嫌いな雄の羊を拒否できるが、しっぽのない雌羊は無防備となる。人間の勝手な都合で、羊の人権が無視されている例である。ニュージーランドの動物愛護団体はこれを問題にしないのだろうか。
 南島では、鹿が飼われている区画がよく見られた。鹿は、ヘルシーな食肉用に飼われ始めたそうである。脂肪分の少ない鹿肉はヨーロッパ、特にドイツに多く輸出される。私も、鹿肉料理をロトルアという町の「トリプル・ワン・ファイブ」レストランで食べた。鹿肉のステーキで、一皿29ニュージーランドドル(約2000円)であったが、肉が軟らかく、霜降り状の脂身は程良く美味しい。日本では鹿肉料理はまだ一般的でないが、近いうちに注目される日がくるであろう。
 鹿肉を食べるということで、ニュージーランドの動物愛護団体が騒いだことがあったそうであるが、鹿の生きている間は、せめて広々としたところで自由に飼育するということで話がついたという。これも人間の勝手な解釈である。鹿は、窮屈で暗いところでも良い、うまい食い物を腹一杯食べられれば幸せである、と考えているかもしれない。
 北島には羊が少なくなり、その代わり牛が多くなる。草の青々とした平野部には牛が飼われ、岩が多く痩せた山の急斜面には羊が飼われている。羊が生活する山の斜面には横に溝が掘られて、羊が滑り落ちないように工夫されている。国道の脇で、ショベルカーで斜面の横方向を削っている現場をたまたまバスから見ることができた。人口の割に国土が広いニュージーランドでも、人工的に土を削って開発をしているのだなあと感心した。
 ニュージーランドには、羊の天敵であるオオカミがいない。だから羊はのんびりと一日中草を食べていて、食べ飽きたら草の上で腹這いになって休む。夜も、草の上で南十字星を眺めながら寝てしまう。強制的に動かされるのは、羊の毛刈りと牧草地の移動の時ぐらいであろう。
 その時、牧羊犬が活躍する。牧羊犬が羊の群を動かすとき、2種類の方法があるという。ワンワン吠えながら羊を移動させるやり方と、犬が目で羊を睨み付けて動かすやり方である。前者はショー的な雰囲気があって楽しいが、後者はちょっと恐ろしげである。犬は元々オオカミから進化したものと聞いているので、熱心のあまり羊をかみ殺してしまうのではないかと心配する。ニュージーランドには、犬が羊を噛み殺したら、直ちに銃殺刑に科せられるという法律がある。だから犬の飼い主は、犬に対して羊には決して襲いかからないようにと、こんこんと言い聞かせる。ニュージーランドの犬と羊は、法の力により友好関係が保たれている。
                                       2003.5.10
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ニュージーランド旅行2

 平成15年4月8日出発のユーラシア旅行社が主催する13日間のニュージーランドツアーは、参加者22名であった。参加者の構成は、私達のような年代の夫婦が8組と、男性2名、女性4名である。ニュージーランドのような地の果ての、目立った観光資源のないところに、2週間も滞在するツアーは、人気はないと思われたが、意外に参加者が多かった。有名な観光地は一通り行き、後はオーストラリアか、ニュージーランドが残っている。オーストラリアは面白くなさそうだからニュージーランドにでもしようか、と思う人が多かったのであろうか。参加者には、観光のために2週間も会社を休む現役のサラリーマンはいない。だから、このツアーに参加した人は、大部分が60才代の退職者である。60才以下の人は自由業、主婦、店主など時間にゆとりのある人であろう。
 今回の22名の参加者は、全てゆとりのある雰囲気を持っていた。ショップでブランドものを目の色を変えて探す人もいないし、食べ物に固執する人もいないし、全員おおらかであった。22名全員が、カメラかビデオを持っており、特にビデオを持っている人が7、8人もいた。数年前までは、ツアーで2、3人ぐらいしかいなかったのが、今はビデオが小型化して持ちやすくなったせいであろうか、ビデオ持ちが増えている。私は、8ミリ撮影機の時代から愛用して、旅行には必ず持ち歩いていた。
 8ミリフィルムは1巻3分しか撮影できないので、フィルムの取り替えが忙しく、また高価でもあったので、気楽に使えない。貴重なフィルムだから、被写体も厳選する。今のよく見かける、片手にビデオを持ち、液晶画面を見ながら、歩きながら撮すというスタイルはしない。私は、撮す場面を決心したら、おもむろにバッグから撮影機を取り出し、両手でカメラをしっかり持ち、腰をやや落として撮すのである。
 このツアーは、ニュージーランドを汽車とバスでほぼ縦断する旅であるので、乗り物に乗る時間が多い。乗り物、特にバスの中から普通のカメラでは、写真は撮れないが、ビデオは撮れる。私は、動いているバスから、風景をビデオで撮るのが好きである。今回のツアー参加者は、皆おおらかな態度で旅行を楽しんでいたが、景色をカメラあるいはビデオで撮るということに関しては極めてどん欲であった。その熱心さがバスの席取りに現れた。
 移動に使うバスは大型で、46席ぐらいある。夫婦8組と、単身者6名で計22席使うから、バスの席は十分なゆとりがある、と添乗員の若い独身男性、秋山さんは気楽に考えていた。結婚生活30年以上の夫婦組は、日頃一緒だからせめてバスの中では夫婦別れて座りたいという願望で、並びの2席を一人が占領する。単身組は当然一人が2席使うので、計44席が埋まってしまうことになる。秋山さんと土地のガイドのために最前列の4席は使えないので、席は足りなくなる!
 バスは移動用であるが、バスの中から眺める景色を楽しむのも旅の目的である。ビデオカメラを持っている参加者は、「いい位置の」席取りに熱心になる。バス内では寝る、と決め込む人にはどこに座ろうがかまわない。しかし、ビデオを回す人にとっては、バスの右側の席か、左側の席かは、太陽の位置、お目当ての山や湖の見える位置に大いに関係するので、重要である。多くの夫婦は、協力して左右両方の席を確保することにより、この問題を解決していた。と同時に、参加者間で熾烈な席取りが発生して、添乗員の秋山さんを悩ませたのである。
 移動日の朝、多くの参加者は、ホテルの前に横付けされたバスの入り口に早くから待っている。バスの中に入るや、夫婦の代表者は荷物を素早く席に置いて良い席を確保し、おもむろにバスから出ていく。このような事が2、3日続いたであろうか。添乗員の秋山さんは、22名を3組に分け、バスを3区分して毎日順繰りに移動させれば万事解決と考えていたが、実際はそんなに簡単ではなかった。結局、最前列(前から2列目)の4席は、夫婦一緒に座りなさいという規則を作って事は収まった。
 ツアーの初日には、参加者の氏名と簡単な住所が印刷された名簿が配られる。氏名の順番は申込順のようで、私達が一番最初になっていて、次いで三橋さん夫妻が書かれている。今回のツアーでは、4カ所の鉄道に乗り、車窓からニュージーランドの景色を楽しむことができる仕組みになっていた。列車の座席は全部指定で、参加者の席は名簿順に秋山さんが決めた。席がボックスの場合、三橋さん夫妻と向かい合わせに座る。お陰で三橋さんと色々世間話をすることができた。
 初対面の三橋さんは、名簿で静岡県磐田市に住んでいることしか分からない。今回、三橋さんとは3回向かい合わせになった。色々話していくうちに、三橋さんのことが次第に分かってくるのが、大変面白い。自分から年齢、元の職業など言わないが、話し方などで、三橋さんは元教師であることが直ぐ分かった。
 三橋さんの奥さんが、「ほら、あそこ、きれいだね」と、何気なくご主人に言う。するとご主人は、しばらく時間を置いて、「きれいでもなんでもないがャ、こんなの日本のどこにでもあるでェ」と、冷たく答える。40年近い教師の習性は簡単に消えるものではない。生徒から発言があると、それに対して、教師は先ず疑った後、正誤を判断し、間違いの場合は違うと言う。私の場合、40年近いサラリーマン生活の癖で、先ず「そうですね」と相づちを打って、「しかし、日本にもありそうな風景ですね」と言うであろう。サラリーマンの悲しい習性である。
 私の父は高校の英語の教師、妻の父は同じく国語(古文)の教師であったことから、教師の習性は私にとってまだなじみ深い。三橋さんは、妻の父に顔がよく似ていたので一層親しみを感じた。三橋さんが奥さんに話しかけるときの表情、仕草は、妻の父とそっくりであった。三橋さんは、視線を下げて奥さんに問いかけ、彼女の答えにYESともNOとも言わず、自分の考えを一通り喋って、満足する。しかし、相手が私のような第三者の場合は優しい目をして、しっかり相手の顔を見て話す。そのような一連の三橋さんの仕草は、私にとって大変懐かしかった。
                                       2003.6.10
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ニュージーランド旅行3

 ニュージーランドといえば、キーウィという果物を思い出す人が多いが、ここ、ニュージーランドでは、キーウィは鳥の名前をいう。私も、ニュージーランドに行く前まで、その存在さえ知らなかった。キーウィという鳥は、ニュージーランドの国鳥になっていて、今絶滅寸前で、懸命に保護活動がなされており、また、国民に愛されている鳥でもある。ニュージーランド国のことを「キーウィ」と言ったり、ニュージーランド人を「キーウィ」と言ったりもする。
 キーウィは夜行性の飛べない鳥である。人が住んでいなかったその昔、のんびりしたキーウィは、天敵の全くいないニュージーランドの楽園を楽しんでいた。やがて北から人がやって来て、動作の緩慢なキーウィは容易に捕まえられ、食用にされたりして、数を少なくした。人が来ると同時に、今までいなかった猫や犬、狐なども来て、さらに数が少なくなった。弱者は滅びるという悲しい運命になったのである。
 キーウィ夫婦の習性は、雌が卵を生んだ後、雄が卵を何日間か抱えて雛にし、その後の雛の面倒も、雄がすべてみる。雌は、卵を生むだけで、後は知らん顔をするという。キーウィの雄が家事の全般を担うということで、ニュージーランドでは、家事に協力する夫を、キーウィ・ハズバンドという。この話を聞いて、ツアー参加者の男性は自分のことを自嘲気味に、「オレ、キーウィ・ハズバンドね」 と笑う。
 ツアーで宿泊するホテルの朝食はほとんどバイキング方式である。朝食時、参加者の夫婦組は、最初は夫婦で料理を取りに行くが、一度に取りきれない料理とか、コーヒー、果物などは後から取りに行く。その際、夫は、妻の分も取ってきてあげようと、妻に言い、両手に料理を持ち、照れ笑いをしながら、「キーウィ・ハズバンドね」 と言って、妻の前に料理の皿を置く。ほとんど60代後半の夫達は、明治時代の父親を見習っているため、家庭サービスをしたことがない。キーウィ鳥に触発されたキーウィ・ハズバンド行為は、今回のツアーの収穫であると、妻達は密かに喜んでいるのではなかろうか。
 ニュージーランドでの食事時、キーウィフルーツはあまり見かけなかった。キーウィフルーツは、皮の色とか、感触がキーウィ鳥の体によく似ているので、キーウィと名付けたのであろうか。あるいは、その逆かもしれない。バイキングにキーウィがでることがあるが、そんなとき、本場のキーウィだ、と言って喜んで食べてみるが、日本で食べるのと変わりがないのでがっかりする。
 ニュージーランドを代表する植物は、ラグビーのオールブラックスのトレードマークにもなっている、シダの木である。シダといえば、日本では暖かい九州などに、下地の草として生えていて、亜熱帯地方の雰囲気を醸し出すが、北海道、樺太と同緯度であるニュージーランドでは、不思議にもそこらじゅうに密生している。色々な草の生え方も、熱帯の密林地帯のように密生していて、蛇やトカゲが今にも出てきそうな感じである。
 オールブラックスのシダの葉は、シルバーハートというシダの葉をデザインしたもので、ギザギザの葉っぱである。ニュージーランドのシダは、2、3mの高さになるシダも多くみられる。シダの他に、キャベツの木、西洋サンザシ、トイタイなどの植物がある。森を形成しているのはブナである。樹齢600年から1200年のブナが生い茂る森林は見事である。
 その昔、ニュージーランド南島の山は、岩でできていて、そこに草が生えたり枯れたりを繰り返して土ができ、その上に樹木が生えて、今のニュージーランドになった。土の層が薄いため、木はお互いに根を絡ませ合って上に伸びていく。山の急斜面では、木が段々大きくなると、お互いに維持し合う限度を超えて、ついに崩れて落ちてしまう。日本でいう土砂崩れは、ニュージーランドでは木材崩れという。この木材崩れは、バスが通る道路からも多く見られた。
 ニュージーランドを流れる河には堤防がない。日本で言う河原というものがない。河を流れる水は、低きに流れるということわざ通りに自由奔放である。流れを作った後、別の流れを新たに作ると、前の流れは線状の水たまりになる。汽車が河をわたるとき、これらのたまり水を越えていく。ニュージーランドの汽車の橋は、日本のような堤防から堤防までの大がかりな「鉄橋」ではなく、平野の続きに簡単に作ったというもので、私達の列車が橋を渡ったかどうか気が付かないくらいである。ただ、今回のツアーで乗った、タイエリ渓谷鉄道は、恐ろしいほどの高さの鉄橋が多くあり、スリルが十分味わえるものであった。
 バスで移動中、河からあまり遠くないところに、1軒の民家が建てられているのを見かけた。日本で言えば、河川敷に家を建てているようなもので、河が氾濫したらどうするのだろうと心配になる。よく建物を見ると、高床式になっていて、家の前の広いデッキも高床である。住人は、ここでまわりの景色を楽しみながら食事をするのだろうか。この家にはフェンスも庭もない。近くを流れる河とか近くの森が自分の庭園になっているのであろう。住人は、究極のアウトドア生活を楽しんでいるようである。
 私達が参加した4月8日出発のニュージーランドツアーは、パンフレットには小さい字で、紅葉が見られる最適の出発日です、と書いてあった。他社のガイド本には、ポプラの黄金に輝く写真が派手に載っていたので、こんな風景が見られるのかと期待していた。当地に来て分かったのであるが、ニュージーランドは元々紅葉する樹は全くなく、秋は殺風景なモノクロの世界であったという。これでは寂しい、色つきの樹を植えようということで、ポプラと柳を植えたそうである。従って、ポプラと柳は山にはなく、平地にしか見られない。ポプラは、平地の所々に直線状に並べて植えられて、いかにも人為的であった。
 参加した年のニュージーランドの4月は、まだ暖かく、紅葉は始まったばかりであったが、南島の高地では黄色のポプラが少し見られた。
 ニュージーランドは日本の反対側で、オーストラリアよりさらに南極に近いので、4月の気候がどうなのか、容易に想像できなかった。2000m級の山は夏でも雪があり、氷河が山の裾近くまで迫っている写真をみていると、相当寒そうな感じがした。質問があれば何でも添乗員に聞いてくれ、という旅行社の案内文を見て、電話で聞いてみた。添乗員の秋山さんは、マウント・クックを眺めるハイキングは寒くなることもあるから、セーター、雨具など準備して下さいということであった。
 「寒くなることもある」という言葉を聞いて、私達は一層用心深くなった。セーターは厚手を2着、手袋、カイロ(衣類用と靴用)など周到に準備した。実際のハイキングの当日は、好天気に恵まれ、薄手のシャツ1枚で汗を掻くぐらい暖かであった。どうも年を取ると疑い深くなり、また必要以上に用心深くなる。困ったことである。
                                       2003.7.10
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ニュージーランド旅行4

 今度のツアー参加者の中に、高柿御夫妻がおられた。40代後半ぐらいの年齢で、ツアーでは一番若い人達に属する。高柿夫妻は2人揃って鉄道マニアである。日本国内の鉄道は99%以上乗ったという。その乗り方は、始発から乗って、終点で降りて、終点の街を少し歩いてみるという。本人は、どうってことのない趣味ですと、照れていたが、羨ましいロマンチストである。JR線の名前も駅名もよく憶えてられる。私が、水郡線はご存じですか、と聞くと、水戸から郡山までの線でしょう、矢祭には矢祭山という駅があります、と答える。吉備線には乗りましたか、と私の故郷の線を聞くと、乗りましたと簡単に答える。
 今回のニュージーランドツアーは、4本の鉄道に乗るのが目玉になっている。最初は、クライストチャーチからサザンアルプスを横断して西海岸のグレイマウスに行く 「トランスアルパイン鉄道」、次が、プケランギというところからタイエリ川の崖っぷちを走って、ダニーデンという東海岸の美しい街に行く 「タイエリ渓谷鉄道」である。タイエリ鉄道の始発駅のプケランギとはどんな町かと期待していたが、着いてびっくり。荒野の中に、大きな水の入った木の樽が一つと、粗末で汚いトイレがあるだけで、民家は勿論ない。錆びた線路が一本行き止まりになっているのが始発駅の証で、プラットホームなどない。バスは予定より30分ほど早く着き、参加者は付近の草むらをぶらぶらして暇をつぶす。「ひどいトイレですね、ここにトイレがあると、秋山さんが胸を張って言っていたけど、とんでもない、前の休憩でトイレしてくればよかった」など、暇に任せて、添乗員の悪口をいう。
 最初、私達のバスが1台だけここに来て、こんなところに汽車が来るのか、と不安な気持ちになっていたが、出発10分前ぐらいになると、観光バスが3、4台次々と、土煙を立てながら駅に向かってやってきた。バスが幌馬車なら、アメリカ西部開拓時代の風景とそんなに変わりないだろう。そのうち、「ああ、きたきた!」と人々は感激して遠くを指さす。マッチ箱を10個ぐらい連ねた汽車が、起伏のある荒野の中を見え隠れしながら近づいてくる。汽車が駅に近づくと、観光客はもう一度、「おお」と言いながら感激し、カメラ、ビデオでその風景を撮る。
 マッチ箱の車両は意外に大きく、地面から乗降口に付いているステップまで、結構高い。取っ手を持って反動を付けて上がらなければ容易に乗れない。若い人達は簡単に車両に乗れるが、私達の年代の女性は苦労する。「後ろから押してね」など、仲間の女性同士で協力し合って乗るのである。先に乗った男性が手を出して引っ張り上げると簡単なのだが、日本人男性は後ろのことなど忘れて、そそくさと中に入ってしまう。列車は途中、ヒンドンという駅で写真撮影のために停車したが、ここもプラットホームがなく、車両への乗り降りは困難を極めた。
 このタイエリ渓谷鉄道の列車には展望車が付いていない。他の3本の列車には写真撮影用に展望車が用意されていた。展望車と言っても、石炭などを運ぶ貨車に屋根を付けただけの粗末なものである。写真などを撮る人にとっては展望車がないのは残念であるが、このタイエリ鉄道の車両は乗降口がオープンになっているので、ここが格好の撮影場所となる。1車両に一カ所、それも片側だけが渓谷を撮すのに絶好の場所である。次から次へ美しい景色が繰り広げられるので、ビデオを回し始めたら止めることができない。
 例の高柿さん夫人はこの位置を最初から確保し、ビデオで渓谷を撮影している。そこへ他の日本人団体客のおばさんがきて、その場所を譲れと高柿さんに頼むが、高柿さんはがんとして動かない。おばさんは、彼女のツアーの添乗員に文句をいう。それを受けて、その女性の添乗員は場所を譲れと、高柿さんに激しく迫る。高柿さんはビデオに夢中になって聞く耳をもたない。ついにおばさんと添乗員はあきらめた。意志を通した高柿さんの態度は立派である。後からのこのこやって来て、そこをどけろとは虫が良すぎる。おばさんは、世の中何でも自分の思うようになると思っている馬鹿者である。
 実は私もその場所でビデオを回したかったが、私は直ぐ諦めた。私は、1回のツアーで3~5時間のビデオを撮っているが、そのビデオは編集せず、そのままVHSにダビングしているだけである。最近は、後でそのビデオを見直すことが面倒になり、放置してある。だから絶景に出逢っても、あまり固執しなくなった。若い高柿さんは私とは立場が違う。ニュージーランドではめずらしい好天の中、紅葉が所々あるタイエリ渓谷の美しさは2度と見られない、そんな気持ちでビデオを撮る高柿さんは、大げさに言えば、命がけである。
 ビデオといえば、西永さんという方がこのツアーに参加されていた。西永さんは、退職された後、ビデオ撮影を趣味とされ、お住まいの町田市ではプロの腕前で活躍されている。彼は、ソニーの3CCDビデオカメラを持ってツアーに参加されていた。普通の家庭用ビデオは1CCDであるが、3CCDはテレビ放送用にも使われる大きなもので、画面が緻密できれいである。西永さんは、このビデオでツアーの各所を熱心に撮影されていた。彼は、ツアー途中、参加者全員に撮したビデオを編集して送るからと言って、参加者の住所メモを取っていた。
 帰国後、10日ぐらいして西永さんから1本のVHSビデオテープが送られてきた。1時間ぐらいに編集されたビデオは期待通りすばらしいものであった。BGMは旅のムードを盛り上げ、画面に入っている地名は思い出を新たにしてくれる。また、参加者の顔が平等に入っている気遣いもある。何より画面の美しさは格別である。このビデオを貰ってすぐ、西永さんに礼状をだしたが、この画面を借りて再度お礼を申し上げます。このビデオを見て、私も3CCDが欲しくなったが、カメラの大きさがどうも気になる。今の1CCDで我慢しよう。3CCDを買っても、撮ったテープをただ積んでおくだけのような予感がしてならないから。
                                       2003.8.10
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03年、矢祭の夏

 今年の矢祭の夏は冷夏であった。8月に入ってようやく梅雨開けが宣言され、2、3日ほど30℃を超える日があり、その後雨が降ったり止んだり、気温も20℃に近い日が8月中続いた。この気象は関東以北共通の現象であったので、今年の稲は不作という。
 我が家には5坪ほどの野菜畑がある。そこに去年と同じくトマト、キュウリ、ピーマンを植えた。これらの苗は、4月の末に植え、好天に恵まれてすくすく育った。キュウリは、7月始め頃から毎日大きなものが採れ、夫婦で食べきれないくらいで困ったほどであった。キュウリの採れすぎは、他家も同じようで、私の家には3軒からキュウリをどっさり頂いた。キュウリは10日ぐらいしかもたないので、毎日色々調理法を変え処分に励んだが、消化は遅々として進まない。
 以前、何でもピクルスにして楽しんでいるという人の話がテレビ番組であり、私は、そのレシピを妻がメモしていたのを思い出し、キュウリをピクルスにしてみた。これが結構いける。ピクルスは1ヶ月ぐらいもつので、お陰でキュウリの消化ははかどった。
 トマトは、実が大きくなり、色づく時期に高温と、日差しが必要なのであろうか、今年は全く収穫できなかった。他家も同様であったのであろう、我が家にくれる人は現れなかった。店屋でもトマトは高値で、小さいトマトが1個単位で売られ、それも1個100円という馬鹿げた値段であった。農家が多いこの地方では、農産物を自分達で直接売る小さな店が所々にある。ここはさすがに何でも安い。4、5個入ったジャガイモが100円、大きな大根1本100円、トマト1袋100円などである。9月に入ると、さすがにトマトは4、5個入りが200円になっていた。
 県道230号線は、矢祭町から棚倉町に通じており、国道118号のバイパス的な役割をしている。私は、この県道が国道より空いていて、田圃の中を通るのでよく使う。その道沿いに、「奥州一番」という農産物の直販所がある。季節の野菜を安く置いているのでよく利用する。店番には現役引退の年寄りが座っており、売値は、計算が楽なように、一袋100円単位で、消費税は取らないようにしてある。レジには大きな電卓が1台置いてあり、釣り銭の計算に使う。売り物の合計は、「1個、2個、3個、・・・ああ300円ね」と簡単であるが、1000円札を出すと、やおら電卓を取り出して、目を細めながら、ふるえる手でキーを押して、「700円のお釣りね」と言って、木の箱から慎重に700円を出してくれる。レシートはない。
 「奥州一番」の隣に、粗末な小屋があり、そこは果物の無人販売所になっている。相良園というリンゴ園を経営している人が持ち主である。矢祭町の南隣の茨城県大子町には、リンゴ畑が多くあり、国道沿いには販売所もあるが、矢祭町とその北隣の塙町にはリンゴ畑は極端に少ない。そのすくないリンゴ園の一つが相良園である。8月末から、「つがる」という品種のリンゴを置いていた。無人販売所には、「ふぞろいのリンゴたち」と、太いマジックインキで書かれた新聞大の紙を木の台にぶら下げ、その上にリンゴの入った大きなビニール袋が並べてある。リンゴの横には、代金を投入する木箱が置いてある。8個ぐらい入った袋が500円である。
 先日、私はこの無人販売所に入り、リンゴ袋を取って代金を箱に入れていたら、どこからとなくこの店の主人がやって来て、「これいま取ったばかり、食べて下さい」と、リンゴを3個持ってきた。主人は、本来捨てていた規格外のリンゴを近くの消費者のために役立てているわけで、大変優しい人である。私はたった3個のリンゴで大いに感激し、この販売所のファンになった。リンゴを食べてみたが、新鮮で美味しかった。外観は黒の斑点があったり、形がいびつだったりで、いわゆる「ふぞろい」であるが、中身は店のリンゴと変わりない。
 ピーマンは、丈夫で長持ちする野菜である。冷夏であろうが実はなる。7月の始めから採れだし、9月に入っても収穫できている。私は、今年から「野菜のつくり方」という本を買って、それに従って野菜をつくり始めた。この本は、農家の現役の人が書いているので、わかりやすく、イラストで支柱の建て方など示しているので、頼りになる。この本によれば、過燐酸石灰が野菜を実らせるのに大切である、と書いている。指示通りに畑に過燐酸石灰をまいた。すると、ピーマンは大きく、皮が分厚く、まるでパプリカのような実がなった。9月に入っても実はなっているが、さすがに小粒になった。
 今年は、畑にカボチャとサツマイモを植えた。カボチャは苗を2本買って植えたが、その生長たるや恐ろしいほどたくましい。茎が地を這って伸びて行くのだが、茎が伸びていくのと同時に、茎から根が生えていく。そして、その先々で葉を付け、花を咲かせ、実を実らせて行く。冷夏なんか関係ないという感じであった。我が家では、料理に使った野菜のかすと卵の殻を土地に埋めることにしているが、埋めた土からカボチャが2本発芽した。このカボチャは、春先に買ったものであるから、多分メキシコ産かニュージーランド産であろう。はるばる日本にやって来て日の目を見たのだから、抜かずに放置した。これもどんどん大きくなり、実を4個実らせた。
 我が家の朝食はパンで、カボチャを調理したものを副食としている。このカボチャ料理は、15年ぐらい前から私が毎朝起きて作っている。カボチャ、ピーマン、ミックスベジタブル(冷凍食品)、卵、トマトケチャップなどをかき混ぜて、その上にチーズを置き、電子レンジで加熱するだけのものである。この料理の原型は、15年前、長野県安曇野のペンションに宿泊したとき、朝食に出されて、これなら私もできると思い、作り始めたのである。だから我が家では1年中カボチャを使う。スーパーでは、日本でカボチャが採れない冬から春にかけては、ニュージーランドなどからの輸入品が置いてあるので、年中買える。
 今年、野菜畑から収穫したカボチャは計14個で、ログハウスの北の軒下につり下げて保存している。今年いっぱいは自作のカボチャで用が足せる。
 サツマイモの苗は一般には売られていない。矢祭町には、農家の店 「タカシン」というのがあり、農作業に必要なものを専門に売っている。私は、ここでサツマイモの苗を予約して、買うことができた。最小販売単位50本で、800円である。50本も要らないが、そのうち20本を畑に植えた。サツマイモの苗は、葉が3、4枚付いた茎である。根は付いていない。これで育つのかと、心配したが、前記の野菜つくりの指導書には、2、3日すれば根が出てきます、と書いてある。なるほど、植えた直後苗はぐったりしていたが、数日後苗20本、全部ピンと立った。
 サツマイモも逞しく育つ。茎が伸びて、茎から根が出て成長していくのはカボチャと同じであるが、実は地下で大きくなるから外から何も見えない。どれくらいの収穫があるか、今から分からないが、とにかく現在野菜畑の半分くらいはサツマイモの葉で覆われているので、相当な芋が採れると覚悟した。
 私の夕方の日課は少量の酒飲みから始まる。そのおつまみにサツマイモを使っているが、その調理は、4~5cmに切った芋を電子レンジで加熱するだけである。簡単で美味しい。今年の秋の収穫では芋が我が家に溢れるだろう。おつまみだけでは食べきれない。福島県では、サツマイモをふかして、厚さ1cmぐらいに切って、天日に干して保存する。それを5枚くらい袋に入れて店にも売っているが、1袋800円と馬鹿に高い。私は、この干し芋を作るかと考えたが、天日に干したりするのが面倒だから諦めた。
 9月に入って、自民党の総裁選、ブリジストンの工場火災など世の中賑やかであるが、我が野菜畑は、平和で静かである。私は、この秋予想されるサツマイモの山をどう処理するか、思案中である。
                                       2003.9.10
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03年、矢祭の夏 part2

 今年の初夏は、スズメの大群が発生した。スズメが、群をなして元気よく空を飛び回っているのが、我が家からよく見られた。私は、庭の枯れ池に、深さ1cm、幅10cmぐらいの「川」を作って、そこに近くの沢から少量の水をパイプで引いて、流している。この川は、小鳥たちにとって絶好の遊び場になっており、小鳥が来ると、「ああ、来た来た」と言って、家の中から夫婦で小鳥の可愛い仕草をじっと眺めるのが夏の楽しみになっていた。
 朝から30℃近くなる日には、スズメ達が次から次に水浴びにやってくる。川は深さ1cm程度だから、スズメは足の部分しか水に浸からない。水の中を行ったり来たりした後、スズメはしゃがんで羽根を動かし、体に水を振りかける。数回、この動作をしたあと、水から上がり、体をブルンと振るわせて水を切り、ついでに川の水を飲んで去っていく。多いときはこの小さい川にスズメが5、6羽集まり、いものこを洗うような賑やかさになる。我が家のこの枯れ池は、スズメ達の健康ランドになっているのである。
 水は、沢の上流から引いており、上流に作った取水用のダムが泥によるフィルターの目詰のため、水量が少なくなることがある。この場合、ダムの底に貯まった泥をプラスティック製の手押しポンプで吸い上げて外に出したり、フィルターに付いている泥を除去したりする。スズメが気持ちよく行水するために、私は水量が低下しないようにダムの掃除に精を出す。私はスズメ健康ランドの施設管理者である。
 この6月に、岩手県の北の奥にある滝ノ上温泉に1泊旅行をした。その帰りに、バター、牛乳などでおなじみの小岩井牧場に寄ってみた。牧場は、広すぎて見学するのに億劫であったので、牧場の入場口近くにある 「どんぐりコロコロ」という木製品専門の土産物屋に入ってみた。ここは、木で作られるあらゆる製品が並べられ、また白樺の木を輪切りにしたものとか、色々な種類の大木を厚さ10cmぐらいにスライスした幅広の板などが無造作に陳列されていた。記念にと思い、桜の木で作った長さ30cmぐらいの小鳥の屋根付き餌入れを買った。
 この餌入れに、小鳥用の配合餌をホームセンターで買ってきて入れて、健康ランドの川の近くに置いてみた。スズメが行水した後、食事ができるようにレストランを開設したわけである。レストランは、川から1mほど離れた少し高いところに置いて、スズメが食事をしながら仲間の行水を眺められるように配慮したが、スズメは一向に来ない。レストランがあることに気が付かないのでは、ということで、配合餌を川の付近にばらまき、さらに餌を拾いながら自然にレストランに入れるようにしたが、無駄であった。時折、子供のスズメが興味深そうに川の近くの餌を食べていただけであった。
 スズメ達は、また、我が家の庭で「砂浴び」をして帰る。このあたりの土は、赤みがかった山土で、乾くと柔らかく、さらさらになる。この感触が気に入っているのか、スズメはしゃがんで体をふるわせて土を浴びる。熱心にやっていると、だんだん体が土の中に沈んでいき、同時に土が周囲に円形状に盛り上がる。砂浴びのあとは、小さなクレーターが方々に見られ、その仕草が思いやられてなんとも可愛らしい。
 スズメは、行水の後、砂浴びをするのか、あるいはその逆か、見定めていないが、多分最後に砂浴びをするのであろう。行水で冷えた体を、太陽で暖まった土で肌を焼くのは気分がいいものであろう。来年は砂浴びの場所を確保して、さらに本格的な砂を持ち込んで、スズメ用のサウナを作ろうと思っている。これが完成すると、我が家の庭はスズメ総合レジャーランドになる。
 9月半ば頃からスズメは、我が家から姿を消してしまった。矢祭町は、この頃になると、田圃の稲が実り始める。スズメはこの米を食べるのに忙しいのであろう。冬になればまた我が家に戻って来るに違いない。スズメに代わってハクセキレイが我が家の庭にやってくる。夏場にはハクセキレイも時折、行水にやって来た。ハクセキレイは、大勢のスズメに混じって行水をしていたので、スズメと仲がいいのかな、と感心していたら、意地悪くスズメを追い払う仕草をする。やはり体が少し大きいハクセキレイの方が強いのであろう。
 春から夏にかけて、矢祭地方は朝霧が毎日のように発生する。廻りが山に囲まれ、中央に久慈川が流れている地形は朝霧ができやすいのであろう。久慈川で発生した霧は、日が昇るにつれ西風に乗って、山裾の高台にある我が家に押し寄せてくる。一時的に周囲が霧で包まれ、庭木の葉に水滴が付き、クモの巣にも水滴が付き、クモの白い糸がくっきり浮かび上がる。最近のクモは横着になったのか、クモの巣を木の上下の枝の葉に垂直に掛けて、こぢんまりと店を開いている。
 9月になると、クモの巣は古典的な本格的な形が増えてきたので、私は安心した。体の大きなクモは、当然大きな巣を張る。なかには3mぐらい離れたところに糸を張ったのがあったが、さすがに途中で大きすぎて諦めたのであろう、主のいない1本の糸がわびしく残っているのが見られた。
 普通のクモは、木と木の間が1mぐらいのところに巣を作る。出来立ての巣は実に立派で、模様が美しい。中心から放射線状に伸びた糸に、等間隔に糸を何重にも渡して幾何学的にクモの網(巣)を作る。獲物がかかると、クモは網の中心に持っていき、ゆっくりと獲物を食べるのである。網の中心が力学的に安定していることを、クモは本能的に知っているようである。
 我が家では夕方暗くなると、門灯に明かりを入れる。夏はこの明かりをめざして多くの虫が集まってくる。頭のいいクモはこの門灯の近くに巣を作り、生活を営むのである。小さな青ガエルも門灯の真下にやって来て、じっと座って虫を狙う。夏の門灯の廻りは活気があって賑やかである。
 クモの網は、2、3日すると方々に糸が切れてみすぼらしくなるが、クモは切れた所の修理は決してしない。穴が多くなり獲物がかかり難くなると、新しく別の所に網を張る。古い網の近くに、元の古い糸を利用して、また方向を変えて網を張ることがある。このようなクモの巣は立体的な複雑さを見せてくれる。このようなクモの巣に、よく見ると子供のクモが端の方に2、3匹いることがある。親の家に子供が同居して生活しているのであろう、ほほえましい風景である。
                                       2003.10.10
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紅葉

 11月に入ると矢祭地方は、紅葉(こうよう)で周りの景色が華やかになる。特に、久慈川を挟んだ矢祭山公園は、もみじの名所として近隣の住民に知られている。
 もみじは紅葉と書くが、ここでは赤くなる紅葉、黄色になる黄葉など総称して紅葉ということにする。矢祭山公園を北上して、国道118号のトンネルを抜けると、矢祭町がある盆地に入る。この盆地は、中央に久慈川が流れ、平地が少しあり、周囲は山に囲まれている。山は樹木で覆われ、宅地や畑はない。樹木の半数近くは杉であるが、秋に紅葉する落葉樹も多い。これらの樹木の葉は、春には柔らかく如何にも初々しい緑色であるが、夏になると、暑い日差しで葉の緑は日焼けして黒味を帯び、山は、けやきや栗などの落葉樹と杉が一体となって、全体が暗い感じになってしまう。これが11月に入ると、急に黄葉を始め、景色が明るくなる。色の明度が緑と黄色では大いに違うことが良く分かる。
 この時期のイチョウの黄色は特に鮮やかで、山の中でよく目立つ。イチョウは都会でもそうであるが、学校や神社、お寺などに好んで植えられている。秋になると、こんな所にお寺があったのかと、イチョウの黄色でお寺の存在を確認することができるのが面白い。イチョウは、黄緑から黄色、黄色からやや褐色がかった黄色に変色して落葉していく。東京のイチョウは、街路樹など方々に植えられているが、大気汚染などに関係なく立派に黄葉する。都会のイチョウは、寒暖の差が大きくないせいか、田舎のイチョウに比べて黄色の鮮やかさは劣るようである。
 欅(けやき)も矢祭では黄色になり、褐色になって落葉する。欅の紅葉は、黄色に鮮やかさはなく、褐色と黄色の中間、あるいは混合した曖昧な色になる。私は、10月の始めに奥日光に行って来たが、戦場ヶ原の先に欅林が道路の両側一帯にあり、欅が見事に黄色になっていたのを見ることができた。東京、原宿の欅並木は有名であり、私も時々、秋の紅葉を見たことがあったが、黄色でなく褐色になって落葉する。夏の緑の葉も、どす黒く、木も大きいせいか、街並みが陰気で、むしろ落葉した後の明るい雰囲気の方が原宿に合っているような気がする。
 先月の10月23日、紅葉の見物に青森県の奥入瀬渓流に行って来た。福島県白河市にあるタビックス白河支店の主催によるバスツアーである。私は、国内のツアーには今まで2回参加して、今回が3回目である。今までのツアーは、東京駅あるいは羽田空港で集合、解散という簡単なものであったが、ここ福島県は交通の便が悪いので、参加者を各地で拾い、降ろすというサービスをしなければならない。参加者は、関西、名古屋、栃木県、茨城県からもあったので、送り迎えが大変である。バスは、西那須野、白河市、郡山、二本松、福島市の5カ所と、郡山発着の別のチャーターバスで、いわき市、北茨木市などに送迎する。このように送迎が大がかりなので、旅行社は、参加者がバスの満席になる42名になるように、出発日を10月23日に強引にまとめた。
 ツアーは、十和田湖、奥入瀬渓流、八甲田、青森市を2日でまわる内容である。10月23日は紅葉がピークを少し越えた頃であったので、もみじ、ななかまど、けやき、ぶな、白樺などの紅葉を存分に楽しめた。奥入瀬は、赤い紅葉が少なく、ほとんどが黄葉だから、寂しいですと、ガイドは言っていたが、赤いもみじが所々にあり、それがポイントになって趣があった。八甲田は標高1000mの高原であったので、紅葉は完全に終わっていた。ブナ林の落ち葉に雪が積もっているのが見られた。。
 カラマツも秋には紅葉する。ここ矢祭にもカラマツがかなりある。カラマツは樹形が杉によく似ているので、夏の間はどこにカラマツがあるのか全く分からない。11月を過ぎると、カラマツは木のてっぺんから黄色くなっていき、次第に橙色(だいだい色)になり、杉林の中でその存在を明確に示してくれる。私は、カラマツは北方の山にある木だ、とばかり思っていたが、横浜のJR東戸塚駅の西口にもカラマツの大木が5、6本あった。ここのカラマツが褐色になって落葉するのは12月に入ってからなので、今年も暮れるのかと、私はカラマツを見上げて暮れの侘びしさを毎年感じていた。
 尾瀬の長藏小屋横には大きなカラマツが4、5本立っている。沼山峠から降りて行くと、尾瀬沼の平らな面に、カラマツが垂直に立っている構図は印象的である。一昨年の10月始めに矢祭在住の鈴木画伯と尾瀬に行ったときは、このカラマツは鮮やかな黄金色に輝いていた。廻りは既に紅葉が終わり、草木も枯れ始めた薄い褐色の世界に、この黄金色の立木は立派に見えた。これに比べると、矢祭のカラマツは今ひとつ色が冴えない。
 11月に入ると、我が家の前の森にも、我が家の庭にも紅葉が訪れる。この団地の周囲の山には野生のウルシの木が多い。ウルシは、10月の半ば頃から紅葉が始まり、1ヶ月近くかけて黄色から橙色、茜色、赤色などに変化していく。ドウダンツツジは真っ赤に紅葉するので、民家の生け垣によく植えられている。日当たりの良い所では赤くなるが、家の北側に植えられたドウダンツツジは褐色で終わってしまう。
 我が家では、門の北側にドウダンツツジを植えて紅葉を楽しもうとしたが、赤くならない。横浜から持ってきたドウダンツツジは南の日当たりの良い所に植えてあるが、赤茶色に紅葉した。このドウダンツツジは、横浜では長年、花も咲かない、紅葉も全くしないダメな木で、引越の際、捨てようかと思ったが、可哀想だから矢祭に持ってきた。私達の優しい気持ちが木に伝わったのか、横浜のドウダンツツジは、春花を咲かせ、秋紅葉し、家人に恩返しをしている。
 南天も赤く紅葉するが、赤さの程度ではドウダンツツジに劣るようである。南天は、縁起物だから横浜から捨てずに持ってきた。横浜でもそこそこ紅葉していたが、こちらではかなり赤味が強い。お多福南天もあるが、これは今年の2月に水戸の偕楽園の植木売場で買ってきたもので、まだ葉は緑で、これからが期待できる。我が家ではそのほか、にしきぎ、ブルーベリー、ハゼ、白樺、雪柳、柿などが紅葉しているので、秋も結構賑やかである。
 晩秋の花木として一般的なのが山茶花(さざんか)である。私は、毎年11月半ば頃から賑やかに花を咲かせていた2本の山茶花を、横浜から矢祭に持ってきた。この山茶花は、引越の年の秋にはいつものように11月半ばから華麗に咲いたが、次の年、つまり去年の秋は、当地で11月始めから本格的な冬が来たので、とうとう花が蕾のまま凍死して咲かなかった。
 今年は、横浜で30年近く育ったこの山茶花が10月半ばから花を咲かせ始めたのである。矢祭で生き残るため、山茶花も精一杯努力しているのであろう。
                            2003.11.10
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制空権

 制空権とは少しきな臭くて、大袈裟であるが、ここでは我が家の上空の鳥たちの制空権をいう。我が家、上空の制空権は2羽のカラスが握っている。2羽のカラスは夫婦であろうか、庭向こうの栗の木に並んでとまって、いつも周りを監視している。
 一昨年の5月頃であったか、1羽の鳩が我が家の上空に飛んできた。制空権を握っているこのカラスは鳩を追撃したようである。逃げ回る鳩は、我が家の窓ガラスに激突した。透明な窓ガラスに小さな毛が鳩の形として残っていたので、その激しさは相当なものであったであろう。鳩は羽根を痛めたのか、ウッドデッキの下にじっとしていた。
 この鳩は、よく見ると足にワッカが付けられており、おそらく伝書鳩レースではぐれてしまったのであろう。動けない鳩をどうするか、捕まえて手当をしてやるか、いや、私は手当の仕方を全く知らない、役場に電話して引き取って貰おうか、それもおおげさだなあ、私は暫く悩んだ。私は、ほかの用事をした後、思い出してウッドデッキの下を覗くと、鳩はいなかった。自力で飛んで行ったのであろう。やれやれ。鳩が窓ガラスに残したシルエットは、3ヶ月ほどそのままであったが、その後妻がきれいにふき取ってしまった。
 ツバメが、3年前、新築早々の我が家に巣を作り始めた、という話は既にこの雑記で書いた。とうとう、ツバメは我が家に巣を作るのを諦めてしまった。ツバメが上空を飛び回っているのを、カラスはじっと睨んでいたからであろう。去年も、今年もツバメは来なかった。
 私が住んでいる団地は、山を削ったり、削った土を埋めたりして造成したところである。そのため土地は小石が多く、痩せている。私は少しでも庭の土を豊かにするために、料理で使った野菜のかすなどを土に埋めている。土地を30cmぐらいの深さに堀り、そこに野菜のかすを放り投げる。私達はコーヒーを毎朝と昼に飲むことにしており、使ったコーヒーかすは結構多いので、これも野菜かすと一緒に捨てていた。この作業を木の上から見ていた例のカラスは、野菜かすを目当てに降りてくる。野菜かすには魚などの蛋白源は入れていないので、カラスは何を食べに来たのか不思議に思っていた。よく見ると、カラスはコーヒーかすを突っついていた。近頃のカラスはコーヒーを味わうのかと、私は大変感心した。その後、コーヒーかすは別にして、野菜かすだけを捨て、土をその上にかけて見えなくした。私は、カラスの食後の楽しみを奪ったようなもので、カラスには済まないと思っている。
 カラスは、自分より小さな鳥がテリトリーに入ってきても襲ったりしない。我が家の前の森は雑木林で、栗などの木が密生している。細い枝が縦横にあるので、カラスは森の中では飛べないようである。従って森は小鳥の天国である。春から夏にかけて色々な鳴き声の鳥が森から聞こえる。「ちょっとこい、ちょっとこい」、「おいしいな、おいしいな」 など、人の言葉のような鳴き方が聞かれて大変楽しい。これも11月半ばを過ぎると、鳴き声は聞かれなくなる。
 私が5月の始めに植えたさつまいもの苗は、順調に育って、10月の終わり頃から収穫できるようになった。大小60本ぐらい採れたであろうか。芋掘りをしたあと、芋に付いた土を乾かすために、1日ほどそこらに放置する。そのようにしていたある日、その芋を食べにカケスがやってきた。最初はその鳥の種類がわからなかったので、鳥の図鑑と首っ引きで調べた。飛ぶと白い部分がやたらと目に付き、止まっていると羽根のところに青い線が見える。どうやらカケスみたいだ、面倒だからカケスにしようと、夫婦で決定した。カケスは庭の紫式部の実なども食べに来ていたが、11月の終わりにはすっかり来なくなってしまった。
 さつまいもを収穫する以前のある日、私は半分かじられている芋が地表に出ているのを見つけた。この食べ方は鳥ではなく、小動物であろうと思った。我が家は、フェンスの格子幅は5cmで統一し、周囲の隙間もこのサイズ以下にしているので、犬や猫は入れないことになっている。しかし、よく調べてみると、塞いでいたはずの7cmほどの隙間が開いていた。ここから小動物が入ってきたに違いない。
 そういえば、3年前、引越をしたばかりの頃、周囲が隙間だらけで、土ばかりの庭に野ウサギが二三度、来たのを見たことがあった。その時、偶然妻も一緒に見た。あれはピーターだ、と妻は嬉しがって名付けた。ピーターを見たのはそれっきりであった。一年後、私は、庭から前の森に直接出られるように、フェンスの端に木戸を作った。妻はそれをピーターの木戸と名付けた。
 7cmほど開いていた隙間は、ピーターの木戸のすぐ横にあり、ピーターはそこから庭に入り、さつまいもをかじったに違いない。姿は見えなかったが、ピーターは元気に暮らしているらしい。私は、その隙間を塞いで、ピーターの木戸の外に、小さいさつまいもを2、3個置いてみた。1日後、そのいもはなくなっていた。カケスなら突っついて、芋の残骸を残すであろう。ピーターが持って帰ったに違いない。それから私は毎日のように少量のいもを置くことにした。いもは毎日きちんとなくなっている。
 「おまえたち、これを食べなさい、金谷さんちのおじさんが置いてくれたのだ」 「あっ、このお芋、カケスがつついた跡がある、いやだ、食べたくない・・・」 「贅沢を言うな、これを食べないと寒い冬が越せないぞ」 「あなた、金谷さんは本当に親切ね、お陰で子供達も太ったようで・・・」 「ほんとだね、しかし、お芋はいつまでつづくのかね・・・」 「さあね、金谷さんは優しいから、お芋がなくなっても、きっと別の食べ物を置いて下さるでしょう」
 私は、このような「童話の世界」に足を半分突っ込んで、毎日を暮らしているのである。
                            2003.12.10
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春うらら、ハルウララ

 このタイトルの「春うらら」は毎年1月号に付けているが、早いもので今年で5回目になる。私は競馬には興味はないが、昨年の暮れ、「春うらら」というタイトルと同じ「ハルウララ」という競走馬が話題を呼んだ。高知競馬の7才の牝馬である。99回走って一度も勝ったことがなく、100戦目を迎える当日、テレビ、新聞が賑やかに報道した。朝日新聞の天声人語欄にも書かれていた。結果は予想通り勝てなく、後ろの方でゴールインした。しかし、馬券は、「当たらない」というので交通安全のお守りになって、人気を集めている。「ハルウララ」は、まだこれからも勝利を信じてひたすら走るという。
 昨年の暮れから正月三が日にかけて、矢祭地方は穏やかな天気に恵まれた。しかし、「春うらら」という気分をうち破る計画が、昨年の暮れに私が住んでいるこの団地(ニュータウン)住民に対して、町から示された。当団地のほぼ中心を抜けて、新たに造成する工業団地への取付道路を建設するという計画である。将来工業団地には、SMCという空気圧機器メーカーが工場を建設し、2000人程度の従業員が働くという。工業団地への道路は、このニュータウンの中を通る道しか造らないので、今静かに暮らしているニュータウンの住民にとっては大迷惑となる。
 現在、町長以下町の役人は、SMCを誘致できるというので、喜びで舞い上がっている。日本は、3~40年前、各地で工業団地の造成と企業誘致が行われ、その誘致の結果、環境などが破壊され、多くの被害者を出したという、苦い経験をしてきた。それを今、矢祭の町長以下が喜々として環境破壊を押し進めようようとしているのである。彼等の時代錯誤も甚だしい。
 矢祭町は、「どことも合併をしない」ことで全国的に知られるようになった。合併しないで町が独自の道を歩む、ということは財政的に町が苦しくなる。それを解決するために、工場を誘致するのだと町長は言う。工場を誘致して環境を破壊するぐらいなら、私はむしろ合併をしたほうがよいと考える。矢祭町という名前が消え、役場の手続きが不便になるが、自然が保たれるなら十分我慢できる。
 今、このニュータウンに住んでいる人は、ほとんどが関東地域の、騒音が激しい、空気の悪い所から引っ越して来ている。そのため、ニュータウンの住民は、水と空気のおいしさ、自然の豊かさ、環境の静けさには満足し、また、これらに対しては過去の体験から極めて敏感になっている。一方、矢祭に昔から住んでいる人々は、自然の豊かさなどに慣れきっているので、この工場誘致が環境にどのような影響をもたらすか、予想できないようだ。むしろ、道路に車が多く走り、人口が増え、寂しい町が賑やかになるのだから工場誘致は大歓迎と思っているのであろう。
 町の計画では、2000人規模の工場予定地から国道349号に出るまで、全長約1km、片側1車線の道路を1本しか造らない。道路は、ニュータウンの住宅街を通ることになっている。これによってどのような悪影響が発生するか、町長以下は理解できないでいるようである。他に交通手段がない当地では車を通勤手段として使う。車は一人一台である。2000台の車が朝夕の1時間ぐらいの間に行き来するのである。1台の車が5mの道路を占有するとすると、計算上10kmが車でつながるということになる。このことだけでも予想すれば、工場建設を予定している良識あるSMCは、町の道路プランに疑問を持つであろう。迷惑するのはSMCの従業員かもしれない。
 矢祭町には小規模の第一、第二工業団地があり、第二工業団地にはSMCが以前から操業している。このSMCは、ニュータウンの向かいの丘にあり、約600人の従業員が働いている。工場の敷地から国道349号まで300mぐらいの、SMC専用の取付道路がある。国道まで300mと短いので、朝夕の通勤時に車が繋がることはないようであるが、時折夕方、町の中心に向かう国道349号で渋滞が発生する。地元の住民はこの時間帯は渋滞するのを知っているので、車でここを通るのを避けている。事情を知らない他県から来た大型トラックは、この渋滞に巻き込まれて、身動きできないことがある。道路が狭いので、大型トラック同士のすれ違いは難しく、一方のトラックが幅の広い所で待機する必要があるが、通勤の車が前後にいるので待機すらできないことがある。
 町が予定している工場敷地の造成はまだ計画の段階であるが、SMCとは早々と誘致の約束をしている。敷地の造成は町が行い、完成後SMCが購入するということである。敷地造成に当たっては、ニュータウン内をダンプカーが行き来する。ダンプカーが走ると、振動が道路隣接の建物に伝わり、これまでの静かな生活は一変する。工場建設が始まると、大型トラックが走り、同様な振動が建物を襲い、建物は徐々にガタがくるであろう。また、工場の操業が始まると、材料、資材、製品などの運搬でトラックが走り、通勤の車が走る。納期が厳しいこの世界では、道路が空いている夜間にトラックが走ることになる。道路沿いの住民は夜もゆっくり寝られない事態になる。
 私が最も心配しているのは、生態系の破壊である。このニュータウンを造成した時点でも多くの小動物の生活の場が失われたであろう。私がこの土地に引っ越して間もなく、フェンスのまだない私の敷地に、野ウサギが現れ、またある日、皮膚病に罹ったような狐が敷地をよたよたと横切っていたのを私は目撃した。初夏には蛇もやって来た。彼等は、今までの生活の場を失って、さまよっているように見えた。今から4年前、ニュータウン造成によって、私達は環境のよい生活の場を町から提供して貰らって喜んでいたが、彼等小動物にとって、造成は生死にかかわる悲劇の始まりであり、彼等は私達を恨んでいたにちがいない。
 今回の町が計画している工場誘致のための土地は、なだらかな山林である。造成面積は約5万坪で、私達が今住んでいるニュータウンの面積とほぼ同じである。樹木を伐採し、山を削り整地するのであろう。そこに住んでいる動物たちは確実に追い出される。人間の都合により多くの命が死滅する。自分勝手な大規模な山林開発をこれ以上やってはならない。
                            2004.1.10
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香港旅行1

 私達夫婦は、昨年(2003年)12月7日から3泊4日の香港ツアーに参加した。ツアー主催の会社は、JTB東北、白河支店である。白河支店の店舗移転記念ツアーということで、参加費用1人3万9千円という安さのため、ためらわずに参加申し込みをした。私は、それまで香港はもちろん、上海、北京、韓国に一度も行ったことがなかった。1人3.9万円は、3泊のホテル代で消えてしまうほどの安さであり、往復の航空運賃、1日の市内観光、3回の朝食、1回の昼食と夕食がそれに含まれているので、驚きである。
 このツアーには、3件のオプショナルツアーが用意されていた。1日のマカオ旅行、香港ナイトクルージング、海鮮料理ディナーである。折角だから全部参加しようということで、これらの費用を合計すると、全部で1人7万円になった。3泊4日のお任せコースが7万円とは、それほど安くはない。ツアー2日目の香港市内観光で、別のJTBツアーで香港に来た一組の夫婦と一緒になり、その人に参加費用を聞いてみたら、私達のオプションを全部含めた内容で、7万円という。なんだ・・同じか、安いと感激するほどのものではなかったのだ。
 ツアーの参加者は12名で、添乗員が上田さんという30才前の男性である。添乗員を含めて全員が白河市周辺の人であるので、福島弁が縦横に飛び交い、気楽なムードとなった。香港という異国の地にいても、福島県が周りにいて何となく居心地がよい、という不思議な雰囲気であった。参加者の住まいは、4人が白河市、2人が棚倉町、2人が矢吹町、2人が鮫川村、2人が矢祭町である。
 このツアーの最大の特典は、成田空港への送り迎えを、大型バスで地元からやってくれることである。バスは、白河を出発して、国道118号沿いの棚倉、塙、矢祭を通り、それぞれ近くに住む参加者を拾って成田へ向かう。私達は自宅から車で最寄りのJR東館駅に行き、そこに車を駐車して(無料)、118号沿いの役場前からバスに乗った。45人乗りの大型バスに、添乗員を入れて13名がゆったりと成田空港まで、約3時間半のバス旅行が楽しめた。バスに全員が揃ったところで、参加者同士でお菓子、飴などのやりとりが始まり、遠足気分となった。
 私達が今まで成田発着のツアーに参加する場合、ここ矢祭から成田空港まで半日がかりの旅となるので、集合時間が午前の場合、前日に成田に行き、空港近くのホテルに1泊して空港に行く。帰りも午後到着の場合、その日は成田に泊まって、翌日車で自宅に帰る方法を採る。成田で泊まる宿は、ヒルトン成田に決めている。ここは1ヶ月前ぐらいに予約すると、ツインルームが1泊1万4千円(2人分)で利用できる。空港まで無料のシャトルバスが頻繁にあり、駐車場もホテルの地下にあり、一泊すると7日間無料で駐車できる。8日目からは1日1000円の駐車料金をとる。しかし、昨年このホテルを利用したとき、2週間駐車して、到着日に1泊したので、7日分の駐車料金を払おうとすると、サービスしますと言って、ただにしてくれた。何だか儲かったような気分になった。
 ヒルトン成田は立派なホテルである。それだけにレストランでの料金は高い。だから夕食が必要なときは、シャトルバスで成田空港に行き、空港のレストラン街で食べることにしている。朝食は面倒だから、ホテルのレストランで食べる。バイキング方式で1人2100円である。高いだけに料理の種類が多い。特に到着日に泊まった翌朝は、今まで生野菜が少ない料理が多かったので、生野菜のサラダが新鮮に見えて、喜んで食べる。
 このホテルは、外国の航空会社の乗務員が多く利用しているようである。制服姿の乗務員、スチュワーデスが広いロビーを行き来しているのを眺めると、もう外国に来たような気分になる、と妻は嬉しがる。外国をこのホテルで味わったから、もうこのまま矢祭に帰ってもいい、と妻は言う。
 今回の香港旅行は、ヒルトン成田に泊まる必要はない。矢祭町から成田空港へ連れていってもらい、空港内のレストランで時間をつぶし、教えられたとおりに出国手続きをして、飛行機に乗る。矢祭の田舎の空気をそのまま持ってきたようで、刺激はなにもない。おそらく私の顔つきもぼーっとしているであろう。これが、ヒルトン成田に泊まると、さあこれから外国に行くのだ、という緊張感が出て、わくわくするのである。
 香港空港には夜の10時頃についた。手続きを済ませ、バスでホテルについたのが12時前であった。真夜中の12時でも、香港の人は大勢街を歩いている、あるいはトラックに荷物を積んだりして働いている。香港の活気をバスの中から感じた。ホテルはスタンフォードホテルといい、九龍半島の旺角(モンコク)にある。付近は、小型のペンシルビル型アパートが建ち並ぶ下町で、女人街がすぐ近くにある。女人街は、ストリートマーケットといって、通りの両側にテント製の露店がぎっしり並び、店には土産物、洋服、下着類など小物が売られている。その賑わいは、暮れのアメ横のようなものである。
 ホテルに着いた翌朝6時頃、私は近くのセブンイレブンに出かけた。成田で香港ドルに両替したのが、100ドル札(約1500円札)だけで、枕チップに小銭が必要であったためである。このセブンイレブンは、日本にあるのと比べると五分の一の広さである。カウンターには50代の痩せた男が手持ちぶさたに立っていた。私は、彼の視線をしっかり受けながら、品物をあれこれ探して、キリンの一番絞り缶ビールと、香港製ののど飴を買った。
 この付近は商店が並び、食べ物屋があちこちにある。朝の6時にはもう食事の用意ができて、食べている人がいる。狭い土地に多くの人口を抱える香港は、住宅難である。アパートは上へ伸び、一戸の面積も、6畳一間程度で狭いのが普通のようである。ここに、一家4~5人が住んでいるので、家具をおく場所がない、ベッドは2段、3段ベッド、しかも台所がない。だから彼らは生活の場を街に求める。街をぶらぶら歩いて、公園のベンチで休み、運動は広場で太極拳をする。老人は一日中外で、仲間と時間をつぶす。家の中にくつろぐ場所がないからである。一家の食事は外で済ませる。収入にゆとりのない下町の住人は、安くて、旨くて、ボリュームのある店を真剣に選ぶ。
 料理人は安く仕上げるために、安い食材を使う。その辺にいるネズミ、蛇などを業者が捕まえてくる。これを元の形状がわからないように小さく切って、野菜、油、香辛料などを加えて調理するのである。食べる人は、その肉が何であるか、料理人に聞くまでわからない。聞く場合は、食べた後、「この肉は何?」と聞くのが、賢明であろう。ツバメの巣は、今では高級素材になっているが、昔、業者がその辺にあるツバメの巣を取ってきて、「これ、食い物にならないか?」と、料理人に持ち込んだのが始まりであろう。今はツバメのアパートを建設し、巣を大量生産して、大儲けしている人が多くいると聞く。
 外国から香港を訪れる観光客のグルメ通、美食通を満足させる料理というものは、元を正せば下町の住宅難から発生したものである。
                            2004.2.10
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香港旅行2

 2日目の香港市内観光は、棚倉からきた若い女性2人を除いた、10名が参加した。バスはマイクロバスで市内を縦横に走る。土地が狭い香港は道路も狭い。2階建てのバス、電車が走る中をマイクロバスが縫うように走るのであるから気が気ではない。ガイドは土地の中国人の王 桜梅さんという人が勤める。彼女は、40前後の日本語が達者な人で、日本に留学し、その後もしばしば観光、出張で日本に行ったという。彼女の早口のガイドを聞きながら、左右に激しく揺れるバスから香港市内を見て回わると、かなり疲れるが、幸い道路は所々で渋滞するので、そのとき私達は休息することができる。
 香港人は生存競争が激しいせいか、せっかちである。彼らは、大声で、早口で、しかも怒った顔つきでしゃべるので、怖い感じがする。王さんが言うには、朝の挨拶は特に不機嫌な顔つきでするのが当たり前だという。朝からにこにこして挨拶すると、薄気味悪く思われるらしい。そういえば、今朝のホテルでは皆、ぶすっとした顔をしていたなあ、と思い出した。朝の挨拶は、広東語で 「ゾウサン」という。香港の朝、人にあったら、仏頂面をして、象さんと言えばいいのである。
 ガイドの王さんのほかに、50才まえの男性がカメラを持って私達と同行した。彼は、昨夜の香港空港にもやってきて、ホテルまでガイドと一緒に私達の世話をした。彼はJTBの現地社員かと思ったが、どうも様子が違う。日本語はほとんど話せない。何時も、にこにこして、私達の荷物を持ったり、道路を渡るときなど車が来るのを見張ってくれる。彼は、日本語が喋れなくても十分仕事ができる。その代わり、彼は、私達の目をじっと見て、私達が何をしたいのか、即座に判断する能力を持っていた。私達が手で前を押さえて、不安な顔付きをしてトイレを探していると、彼はにこにこして手招きして、トイレの場所を教えてくれる。有り難い存在である。
 カメラマンは、私達のそれぞれの関係を素早く察知したようである。この2人は夫婦、この4人は仲間、この2人は友達、といった具合に、関係を正確に覚えた。これは、カメラマンの営業上、大切なことであることが後で分かった。彼は、観光ポイントで全員の写真を撮るが、そのほか、関係のある2人を並べさせて個人的に写真を撮る。写真を撮るとき、違う仲間を決して入れないのが、なんとも憎らしい。
 彼は、ツアー最終日の4日目、ホテルから空港に向かうバスの中で、今まで撮った写真を、大きく引き伸ばし(B5判ぐらい)、撮影場所を記入した台紙につけ、皆に配った。1枚1000円である。私達夫婦には5枚の写真が渡された。欲しくなければ買わなくても良い、欲しいものだけ選んでも良い、とガイドの王さんが、にこにこしているだけのカメラマンに代わって言う。渡された5枚のうち、2枚は全員の記念写真で、残りの3枚は2人並んだ写真であった。そのうちの1枚に、妻が目をつぶった写真があったので、それは買わないでおこうと、私が言うと、「いやだけど、あんなに親切にしてくれて、買わないのは悪いから買う」 と妻は言う。彼のニコニコ顔と親切さが営業に大いに役立ったのである。
 オプションのディナークルーズは、1000トンぐらいの船に2、3百人ぐらいの客を乗せて、ヴィクトリア湾を回り、香港夜景とバイキング料理を楽しむ内容である。ツアーの各グループが大きなテーブルに一緒に座って飲み食いする方式で、遠くの舞台では音楽のショーも行われていた。華やかな香港のネオンを眺め、料理を食べ、酒を飲み、音楽を聴き、船に揺られて大変忙しい。物売りもやってくる。カメラを持った若い女の子が勝手に客の写真を撮りにくる。しばらくしてその女の子がペンダントにした客の顔写真を売りに来た。1個35香港ドルという。500円ぐらいであろう。妻の顔もペンダントにして、買ってくださいと遠慮がちにやってきた。彼女は、最近中国本土からきて、売り子のアルバイトをしているのだという。30ドルなら買う、と私が言うと、困った顔をして、35ドルで買ってください、とたどたどしい日本語で言う。自分の判断では値段を下げられないのであろう。彼女は他の客にペンダントを売りに行って、いつの間にかいなくなった。
 私達が食事を終えて、夜景を見るために階下のデッキに降りて時間をつぶしていると、さっきの女の子が私達を見つけて、30ドルで買ってくださいと言ってきた。上司が売れないよりは30ドルでも売れた方がよい、売ってこいと命令されたのであろう。私が30ドルを、彼女に渡すとにっこり笑って、ありがとうと言う。彼女の仕草をじっと見ていた妻が、「悪いことをした、35ドルで買ってあげればよかった」と、しきりに言う。
 マカオの1日ツアーもオプションである。8名が参加した。マカオは、1999年にポルトガルから中国に返還されたが、香港と同じく、「一国二制度」の自治区である。従って、香港から行く場合も出国、入国手続きが必要である。ホテルからマカオ行きの高速艇の乗り場まで、30才位の中国の男性が世話をしてくれる。彼は、香港の大学を出て、日本に留学して日本語を覚えたというが、正確な日本語を話す。彼は、香港の生活情報をホテルから港までのバスのなかでしゃべりまくる。香港の住宅難を教えてくれたのは彼である。
 最近、中国本土から香港、マカオへ観光旅行に来る中国人のツアーが増えたようである。彼らは若い男性で、背広姿で、ネクタイをしめている。相当なエリートであろう。香港からマカオに渡り、そこから中国に戻るコースのようで、マカオ行きの高速艇には、スーツケースとおみやげを持った彼ららしいのが目立った。
 香港からマカオまで約1時間である。マカオには千葉さんという中年の女性がガイドをしてくれた。マカオには東洋一のカジノがある。マカオに行くといえば、カジノに行くと、同義語で、カジノ以外に見るところがないというが、そうでもない。セント・ポール大聖堂という観光の目玉がある。大聖堂そのものは1835年に火災で焼けたが、建物の正面だけは立派に残っている。この廃墟を大切にしているのが何とも奇妙で、一見の価値があるというものであろう。
 代表的なカジノはホテル・リスボアの中にある。カジノの売り上げで、マカオ市民45万人は税金を払わなくてもよい、というから羨ましい。千葉さんは、マカオでガイドをやっていだけあって、カジノに詳しい。彼女も時折賭博をやりに行くという。私達をその巨大な賭博場に案内し、自ら「大小」という賭博で500ドル賭けてみせる。するとうまく当たり、1000ドル儲けた。これをみて、白河市からきた4人組の一番若い女性が、千葉さんの助言を聞いて、200ドルを賭け、400ドルを当て、さらに400ドルで800ドルを稼いだ。これぐらいでやめなさい、という千葉さんの声で彼女は賭けるのを止めた。千葉さんは、初めての人は、最初は不思議に当たるもので、続けて行くうちに負けていくという。その通りであろう。
 妻は、折角来たのだから賭けたいという。スロットマシンがずらっと並んでいるところがあり、観光客がわいわい楽しんでいるのを見て、やってみようということになった。このスロットは、1ドル貨幣がそのまま使えるので、1ドル5枚を入れて5回遊んだ。妻は、スロットのレバーを願いを込めて引く。2、3回コインが戻ってきたが、結局なくなった。
 我が家は賭事には無縁の家系である。私は、最近ジャンボ宝くじを買うようになったが、当たったためしがない。800ドルを稼いだ白河市の女性が、ホテル・リスボアの土産物屋であれこれ買い物をしているのを、私達は羨望の目で眺めていた。
                            2004.3.10
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パソコンの更新

 ここ矢祭町にもブロードバンドの時代がやってきた。私は、ブロードバンドは、この片田舎にはまだ2、3年先の話だと、諦めていたが、昨年(2003年)10月にNTTが12Mのブロードバンドの工事を完成させるというので、早速加入した。今まで私はインターネットをほとんど利用しなく、また、今までのダイヤル式は料金が3時間使用、1ヶ月980円と安いので気に入っていた。しかし、このホームページの容量が10Mb近くになり、新規にダウンロードすると2時間以上かかることが分かった。また、最近インターネットによる通販を利用するようになって、ダイヤル式の遅さを実感し、ブロードバンドに加入する気になったのである。
 ブロードバンドで通販などのWEBを開いていると、内容が一時的にパソコンに保存され、蓄積される。メモリー容量の小さな私の古いパソコンが悲鳴を上げ始めた。しきりに、「メモリー容量がいっぱいになりました。不要なデータを整理してください」というメッセージが出るようになった。
 私のパソコンは、富士通製のノート型(FMV-BIBLO NP13)で、7年前の1997年に購入したものである。キャッシュメモリーが32KB、メインメモリーが64MB、ハードディスクメモリーが1.6GBで、当時としては十分な記憶容量で、不自由はなかった。当時、このパソコンを会社に持ち込み、主に仕事用に使っていた。しかし、データを入れていくうちにメモリーの容量不足が気になり始めた。その後、デジカメを買い、画像を入れていくと、1.6GBは満杯になり、対策として20GBの外付けハードディスクを付けた。
 このパソコンのOSは、WIN 95で、その後WIN 98に代えた。昨年のブロードバンド切り替え工事の時、NTTの代理店の人が来て、私のパソコンの転送速度を実測すると、1Mpsしかないという。ブロードバンドの基地がここから3kmのところにあるからでしょうという。さらに代理店の人は、「OSによっても速度は違います。 WIN XPだと3km離れたところでも、6Mps出ていました」という。それでも、1Mpsというのは、1MBのデータが1秒でダウンロードできるということである。私の10MBのホームページが10秒でダウンロードできるということであるから、今までとはけた外れに速い。
 私は、インターネットのWEBに頻繁にアクセスし始めてから、もっと速いパソコンが欲しくなりはじめた。新聞に毎日のように広告を出していた、DELLのパソコンが気になり始め、6、7万円という安さにも魅力を感じた。最近のパソコンは、CDドライブが、読み込みのみのCD-ROMから、DVD+RW/+Rに変わっている。つまり空のCDに音楽などが書き込める、DVDにビデオ映像が書き込めるなど、コンパクトディスクでいろいろなことができるようになった。
 私が欲しいと思っている究極のポータブルオーディオ機器 「ICレコーダー」を使うには、パソコンとICレコーダーをつなぎ、パソコンから音楽などを書き込まなくてはならない。それには私の古いパソコンでは出来ないことが最近分かってきた。パソコンと周辺の機器をつなぐためのコネクター(プラグ&ソケット)に、USBコネクターというものが必須である。だから最近のパソコンにはUSBが2、3個必ず付いている。ところが悲しいかな我が古い富士通のパソコンにはUSBがない! 外部との接続にはカードスロットしかないのである。ICレコーダーを買っても宝の持ち腐れになる。
 私は意を決して昨年の暮れに、DELLのパソコンを買うことにした。DELLはインターネットで買うと安くなるし、店頭では売っていない。DELLのホームページでパソコンの仕様をじっくり比較することができるのは大変有り難いことで、自分の望みの機能が備わっているか確かめることができる。ディスクトップ型のDimension 4600Cという機種を買うことにした。これには、17インチの液晶ディスプレイ、心臓部のPentium4プロセッサー2.66GHz、ハードディスク120BG、、キャッシュメモリー512MB、CDはDVD+RW/+R、など申し分のない仕様である。基本構成の値段は12.5万円であったが、ハードディスクの容量を増やしたり、メモリーを増やしたり、インターネットモデムを付けたりすると、総額16.7万円になった。OSはウインドウズXPである。
 注文は、DELLのホームページにある注文のフォームにチェックする形で行う。20個ぐらいあるオプション項目から1つ1つ選択して注文を完成させるので、ややこしいが面白い。オプションを1つ選ぶごとに、トータルの値段が表示されるのも親切である。注文が終わると、送信され、その確認がメールでやってきて、銀行の口座に振り込みの依頼がくる。振り込むと、商品は3日後ぐらいに届きますというメールが入る。商品の受注、工場出荷、配送中などのスケジュールは私専用のDELLのページに示してくれる。これを見てパソコンの到着日が分かるという仕組みである。あこがれのパソコンが来るのが楽しみであった。
 昨年の暮れ(2003年)12月24日にパソコンが到着した。バラバラになっているパーツを接続して電源を入れて驚いた。音が出ないのである。ソフトなどは正常に作動するが、ビープ音など、なじみの警告音が全く出ない。液晶画面に付いていると思いこんでいたスピーカーがないことに気が付いた。本体にあるイヤホーン用の穴にイヤホーンを差し込むと音が聞こえる。オプションにはスピーカーシステムという項目があったが、私は、これはステレオの本格的なシステムだと思ってチェックしなかったのを思い出した。もう一度項目を調べると、液晶の下に取り付ける小さなスピーカーが、モニタースピーカーとしてオプションにあった。1個5000円で、馬鹿に高いが仕方ない、電話で注文した。
 電話に出た女性は、慣れているといった感じで応答していたので、私のような人間が普通に多くいるのだなあと思った。お金を振り込んだ翌日に、荷物が着いたのにはまた驚いた。彼らは、客がパソコンを買うと、必ず後から慌ててスピーカーを追加注文してくる、と待っているのであろう。パソコンにはスピーカーが付いているのが常識と思っているのが日本人であり、そうでないと思っているのがアメリカ人である。日本のパソコンは至れり尽くせりであるというのが、アメリカ式の購入法を体験してよく分かった。
 私の古いパソコンには多くのデータが入っている。どうやってDELLのパソコンにそのデータを移すかが大問題になった。過去のメールのデータは、マイクロソフトが用意してくれたソフトで全部移すことが出来た(メールで転送)。デジカメの画像とか、私のホームページの過去のデータなどを、どうやって移すか。ここでUSBコネクターが活躍するのだが、残念ながら古いパソコンにはUSBがない。一旦別の記憶媒体、たとえば外付けハードディスク、MOディスク、メモリーカード、フロッピーディスクなどにデータを移して、それをDELLのパソコンに読み込ませる方法が考えられる。古いデータが全部で1GBぐらいあり、なるべく金をかけずに移す方法を調べた結果、メモリーカードが良い、と思った。カードスロットのみが新旧パソコン共通のインターフェイスとなっているからである。
 現在、メモリーカードの容量は最大256MBである。私の1GBのデータは、4回に分けて移すことになるが仕方ない。メモリーカードは色々なタイプがあるが、SDカードを選んだ。パソコンのカードスロットにメモリーカードを入れるには、カードアダプターというものがいる。SDカードが13000円、アダプターが3000円、計1.6万円の投資になった。
 私は、このようにしてデータを新しいパソコンに移し、現在快適にパソコン生活を送っている。私のホームページも2月号から新しいパソコンで作成し、転送した。まだ音楽CDの作成とか、手持ちのデジタルビデオテープをパソコンに入力し、それをDVDにコピーする作業はしていない。我が家にはまだDVDプレーヤーがないので、DVD関係は先の作業になる。そのうち新タイプのDVD方式が出てくるのをひそかに期待している。
 新しいディスクトップのパソコンは消費電力が160Wとかなりの電気を食うが、使用しないときは100V電源が切れる方式であるので、消費電力は0である。一方、ノート型は消費電力40Wであるが、100Vから直流の11Vに変換するのにアダプターを使用し、この消費電力がパソコンを使っても使わなくても45Wである。アダプターは24時間つけっぱなしだから、年間で相当な無駄な電気を食わせている。一般に、このアダプターの消費電力を気にしないで使っている家庭が多いと思う。電源を切るとき、アダプターまでコンセントから抜くのは面倒だからであろう。
 日本では、消費税がこの4月から本体価格に含まれる表示になった。これと関連はないが、電気機器もアダプターを内蔵型にして、スイッチを切ればアダプターも切れるようにして欲しいものである。国中の節電に多大な貢献をする筈である。
                             2004.4.10
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IC レコーダー

 私は、昨年(2003年)の12月にパソコンを買い換えた。それまでの富士通のノート型から、DELLのデスクトップ型に換えた。買い換えの理由は色々あったが、IC レコーダーを利用したかったからである。
 IC レコーダーとは、メモリー(記憶媒体)に音を記憶させ、再生させる機器である。モーターのような回転機器がない画期的な携帯型AVプレーヤーである。このIC レコーダーについては、この欄でも、「AV革命」という題で、2002年12月号に記した。モーター付きのプレーヤーは、ウォークマンを始め、携帯型CD、MDプレーヤーなどが多くあり、多くの人に利用されているが、何しろ大きく、重い。一方、モーターのないIC レコーダーは、小さく、軽いのが大きな特徴である。
 昨年の後半から注目されている、アップルのiPodは、IC レコーダーのように小さく、軽い。その上、大量の音楽が記憶され、再生できるプレーヤーである。まだ日本では生産体制ができていないためか、大々的に宣伝されていない。
 このiPodは、コンピューターの心臓部にあたるハードディスク装置(HDD)に、録音、再生機能を付けただけのものである。HDDはモーター駆動であるから、iPodは、CDプレーヤーなどと同類と言えよう。
 最近のHDDの技術の進歩は著しく、小型化、大容量化が大幅に進んでいる。私の妻が持っているノート型パソコンは、5年前に買ったもので、メモリーが3GBしかなく、デジカメの画像を入れていくうちに、メモリー不足になった。昨年の暮れに、外付けの30GBのHDDを取り付けたが、これが極めて小さく、サイズがウォークマン程度であったのには驚いた。妻のパソコンには、幸いUSB端子が付いていたので、この小さな箱を接続するだけで、メモリーを3GBから30GBに増やすことが出来た。値段は、1.4万円である。
 USB端子は、パソコンの直流電源が取り出せるようになっているので、極めて便利である。以前、私も外付けのHDDを購入してパソコンのメモリーを増設したことがあったが、残念なことに私の古いパソコンにはUSB端子がなかった。従って、このHDDは、100Vから直流変換のアダプターを付けて作動させなくてはならなかった。パソコンを動かすには、HDDに電源を入れてから、本体のパソコンのスイッチを入れる、という順番を守らなくてはならない。切る時は、この逆を遵守しなければならない、という面倒な「掟」があった。USB付きの妻のパソコンは、本体のスイッチを入れるだけで外付けのHDDも同時に働くので、今までと変わらない操作で済む。妻は、このUSBのありがたさを知らずに、呑気な顔をして毎日パソコンに向かっているのである。
 アップルが開発したiPod用のHDDはさらに軽量で、小型のようである。iPodは、IC レコーダーよりは大きいが、ウォークマンよりは遙かに小さい。それで20GBのメモリーがある。20GBというのは音楽が300時間分録音でき、再生できる容量である。毎日1時間音楽を聴いても全部聞くのに1年近くかかるという途方もない容量である。この20GBのiPodは、約45000円で販売している。
 このiPodの存在を知りながら、私は今年の3月に、IC レコーダーを購入した。理由は、IC レコーダーがモーター駆動のない究極の携帯型AVプレーヤーだからである。実はこれは、私の憧れの機器で、これを買うために私のパソコンを買い換えたのである。購入した機種は、サンヨーのステレオデジタルボイスレコーダー「IRC-S290RM」というもので、価格は2.9万円であった。内蔵メモリーが256MB、それに外部メモリーのminiSDカードが付けられるようになっている。miniSDカードは切手大の大きさで、一番大きい容量で125MBのものが売られている。内蔵メモリーと外部メモリーを合わせて380MBになるが、iPodの20GBには遠く及ばない。それでも380MBというのは、ステレオ音楽が9時間、CDで約8枚分に相当する。これが携帯電話より小さなサイズで持ち運びできるのだから驚きである。
 現在、IC レコーダーの主流は、30MBの内蔵メモリー型で、価格1万円程度で、用途は音のメモ用である。ステレオ音楽用は、まだ一般的でないようである。音楽用は音の安定化(高品質化)のため、メモリーを多く必要とするので、その分値段も高くなる。さらに外部メモリーが使えるとなると更に高くなる。私は音楽用IC レコーダーは外部メモリー付きが本命と思っているが、このタイプのIC レコーダーはまだ数えるほどしかない。商品としてまだ未完成なのかもしれない。
 miniSDカードは、メモリー容量64MBが一般的で、1枚5000円ぐらいだから、まだ高価である。64MBは、1時間のステレオ音楽が入り、CDの1枚分の容量に相当する。CD1枚が切手1枚の大きさになったのだから、まさに革命的である。切手10枚を持ち歩いても苦にはならないが、CD10枚は重くて嵩張る。
 IC レコーダーで音楽を聴くにはちょっとした手順が必要であった。私は、クラシック名曲282選という20枚のCDを毎朝CD1枚ずつ聴いているが、この中から好みの曲を選び出した。静かな、テンポのゆっくりした曲を約6時間分選んだ。80曲あり、ピアノあるいはヴァイオリンのソロ曲が多かった。これらの曲をDELLのパソコンに入れ、次いでIC レコーダーとパソコンをUSBコネクターで接続して、曲をIC レコーダーにダウンロードした。6時間分の音楽はIC レコーダーの内蔵メモリー256MBに余裕を持って入れることが出来た。
 IC レコーダーから流れるステレオ音楽は申し分のない迫力であった。しかし、良く聴いてみると、ブーンという低音の雑音(ハム音)が入っているではないか!! このIC レコーダーには、録音モードとして4段階の選択がある。つまり、ロング、スタンダード、ハイクオリティ、エクストラハイクオリティモードである。スタンダードモードで録音(ダウンロード)したから雑音が出たのかと思い、最高のエクストラハイクオリティで録音し直したが、雑音は消えない。私は腹を立てて、サンヨーの担当者にメールで聞いてみた。メールの答えは、「申し訳ありません、雑音はIC レコーダーの本質的な欠陥です。現在改良中です」 ということであった。そうだったのか! 私は早まって買ってしまったのか。この雑音については、宣伝用資料、取扱説明書などには全く記されていない。
 この雑音は、IC レコーダーに付いている小さなスピーカーで聞くと全く聞こえないが、両耳穴式のイヤーホーンで聞くとはっきり聞こえる。これは再生周波数の違いからくるものであろう。つまり、小型スピーカーの音は500サイクル以下の低音は聞こえず、一方、耳穴に入れるイヤホーンは、20サイクルから20000サイクルまで聞こえるという性能になっているためであろう。雑音は100サイクル程度の低い音である。100サイクルというのは人間が出せない音で、楽器のコントラバスで出せる音であるので、100サイクル以下をカットしても何ら不自由はない。
 高性能のオーディオ装置には、再生周波数をコントロールする機能が付いているが、残念ながらIC レコーダーには付いていない。私は人間が聞く側でコントロールすればよいと考え、イヤホーンを耳掛け型に変えて聞いてみたところ、この雑音は全く聞こえなかった。耳掛け型は今流行のイヤホーンで、耳穴と密着しないので低音が伝わってこない。一方、耳穴式は以前からあるもので、イヤホーンが耳穴にすっぽり入り、低音が外耳道を通ってがんがん入ってくる仕組みになっている。
 私は、耳掛け式をしばらく使っていたが、イヤホーンがはずれやすく、また、両耳につけるステレオイヤホーンは、1時間も聞くと、疲れて頭が痛くなる。だから今は、両耳から片耳の耳穴式イヤホーンに変え、イヤホーンをゆるく耳穴に入れて聞いている。こうすることにより100サイクルの雑音は十分抑えられる。 私がIC レコーダーで音楽を聴くのは、畑仕事とか、散歩時とか、バスの中であるので、100サイクルの雑音以外の雑音が多く入ってきて、ICレコーダーの雑音は全く気にならない。
 私はこのようにして、先端の電子技術で未だ解決できていない100サイクルの雑音除去を、生身の工夫で解決しているのである。しかし、早くこの雑音を除去してもらいたいものである。
                             2004.5.10
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同窓会1 

 私は、昭和36年(1961年)に、徳島大学工学部応用化学科を卒業した。卒業生は27名おり、3~4年に一度、「36応化会」という名称で、同窓会を開いている。その同窓会が今年(2004年)5月13日に、徳島県の祖谷で開かれた。
 私はこの同窓会に出席するため、この東北の片田舎からJRを利用して出かけた。集合場所が徳島市で、集合時間が13時であったので、矢祭からそこへ行くのに、空路でも、陸路でも1泊する必要がある。私は、車中泊をすることにした。サンライズ瀬戸号という寝台専用の特急列車が、東京から夜の10時に出て、翌日の7時半に高松に着くので、私はこれを利用することにした。サンライズ瀬戸号は、新しく設計された寝台専用列車で、ほとんどが個室になっている。車両にはシャワー室などの設備もあり、どのような列車なのか、私は乗るのが大変楽しみであった。
 私は、サラリーマン時代、日本ポリウレタン工業という会社に勤めていた。この会社は、東京に本社、横浜に研究所、山口県新南陽に工場がある会社である。当時、私は横浜の研究所に勤めていて、時折山口県の工場に出張することがあった。横浜から山口に行くには、「あさかぜ」という寝台特急列車を利用するのが、会社の不文律になっていた。「あさかぜ」は、夕方7時頃横浜を出発して、翌朝9時頃山口県新南陽に着く。その日は工場で新製品の試作をして、早い場合はその日の夜の東京行き「あさかぜ」に乗り、翌朝横浜に着き、会社勤めをするという、とんぼ返りの、きつい出張もあった。
 「あさかぜ」のベッドは、上、中、下の3段式で、進行方向に直角に、向かい合って並べられている。各ベッドにはカーテンがついていて、寝るときはカーテンを引く。カーテン1枚だから、物音が良く聞こえる。通路を客が歩く音、向かいでまだ仕事の話をしている会話、いびき、列車の走る音など、様々な騒音の中で寝る。ベッドの上段は荷物を置くスペースとつながっているので、比較的広く感じられるが、中段は最悪の狭さである。私が、運悪く中段の切符しか手に入らなかった場合は、頭を窓側にして、窓のカーテンを少し開けて、外の夜の景色を眺めることにしていた。これが出来るのは中段だけで、下段、上段は寝ながら外の景色を見る楽しみはない。
 「あさかぜ」の朝は、6時頃車掌のアナウンスで起こされる。各自、ベッドの中で、ごそごそさせて服を着る。カーテンを開け、窓側にあるはしごを上手に使って下に降りる。下段の人が、既に起きて、寝具を片づけていたら、そこに座ることができるが、まだ寝ていると、通路にある跳ね上げ式のいすに、通行人を気にしながら座らなければならない。
 7時が過ぎると皆起きて、下段のベッド兼座席に6人が向かい合って座る。誰がどこに座るか、きまりはないが、下段の人は窓側に、上段の人は通路側に座るのが慣わしのようである。乗客は、徳山の石油コンビナートにある化学系の会社に勤めている人が多く、皆ぶすっとした顔付きで座っている。出張先でこれから始まる仕事のことを考えているのであろう。
 たまに、乗客の中におじいさんがいて、山口弁で話しかけてくると、席はなごやかになる。「今日もええ天気や」 「そうですね、暑くなりそうですね」 「どちらで降りなさる?」 「私は徳山です」 「お仕事で?」 「ええ、まあ、そんなところで・・・」 このような会話でお互いの暇をつぶす。
 サンライズ瀬戸は、サンライズ出雲と連結して、東京駅の10番線から夜10時に出発する。私は、列車の個室で酒を飲みながら夕食を食べようと思い、幕の内弁当、ビールと日本酒を買って、9時頃からじっとホームのベンチに座って待っていた。私は、幕の内弁当を買うために、東京駅のあちこちを探し歩いたが、どこも品数が減っているか、店じまいをしているかで、簡単な1個500円の弁当しか買えなかった。ところが、大丸デパートの地下食品売場はまだ営業中で、中に入ってみると、大勢の客が閉店前の割引セールを目当てに、売場にたむろしていた。 しまった! ここで豪華な弁当を買えば良かったと、私は後悔したのである。
 10番ホームより少し高い、向こうのホームには次から次に湘南電車が入ってきて、サラリーマンが乗り込む。皆疲れた顔をして無表情にこちらのホームを見下ろしている。9時50分頃、サンライズ瀬戸がホームに入ってきた。ホームで待っている乗客はまばらである。私は、1号車、6番の個室に乗り込んだ。シングルの個室だけの1号車は2階建てで、通路が中央にあり、個室は両側にある。6番のドアを開けると、ベッドが進行方向にあり、小さな机と鏡、100V電源が付いている。また、FMラジオ(NHKのみ)と目覚まし時計まである。シャワー室は各車両に付いているようで、料金の300円を車掌に支払って利用するようになっている。私の個室は1階で、窓は、ホームの高さと同じ低い位置になっているため、ホームの通行人はベッドを覗くことができる。
 サンライズ瀬戸は、10時に出発した。私はすぐ弁当を開き、酒を飲みながら、通り過ぎる町並みを楽しんだ。横浜を過ぎ、東戸塚、戸塚など馴染みの夜景を眺めていると、車掌が検札にやってきた。ドアをたたく音だけ急にしたのでびっくりした。通路はカーペット敷きだから、乗客の歩く音は聞こえない。全く静かである。隣に誰が乗っているか、勿論分からない。個室は、鍵をかけると、他の乗客と完全に遮断された孤独な空間となる。しかし、幅1.2mもある大きな窓から次々に現れる動く風景は孤独さを吹き飛ばしてくれる。小田原を過ぎた頃、備えてある寝間着に着替え、寝てしまった。
 山陽本線の明石駅を過ぎる頃、私は目を覚ました。外を眺めると、雨が降っていた。列車は、岡山駅でサンライズ出雲を切り離し、「瀬戸」は高松へ、「出雲」は伯備線を通って出雲に向かう。高松駅には7時半に着いた。私が高松駅を見るのは20年ぶりであろうか、すっかり駅前一帯が変わっていた。高松港には背の高いターミナルビルが建ち、駅から屋根のある通路伝いに行くことが出来る。一帯の建物群が、千葉の幕張メッセとか東京の国際見本市会場のような、ガラスを多用したビルになっていて、どこでもイベントが開かれるような雰囲気である。
 高松から徳島までは、特急で1時間少しである。徳島も雨であった。徳島の名物であった駅裏の刑務所は、とっくになくなって、跡地にスポーツ施設が建てられていた。高松ほどの派手さはないが、駅と駅前一帯は40年前とは変わっている。私が学生の頃下宿していた助任町付近を歩いた後、私は、駅ビルの地下の小さな休憩所で座っていた。暫くぼんやりしていると、同級生の遠藤氏がすぐ前のレストランから出てくるのを見つけた。彼の背の高いがっちりした体格は昔と変わらない。私の方から声をかけると、彼は私を認識するのに少し時間がかかったが、金谷だと分かったようである。集合時間までまだ時間があったので、お互いの近況を報告し合った。
 遠藤氏は学生時代、板野郡にある実家から高徳線で大学に通っていた。27名の同級生のうち、5名が徳島県出身で、そのほかは他府県の出身である。地元5名のうちの1人である遠藤氏は、私にとって貴重な存在であった。昭和32年頃は、世の中まだ貧乏家族が多く、そのためたやすく大学に行かせてもらえない。都会は物価が高いので、生活費が安くてすむ地方都市の大学は庶民に好まれる。その上、地方大学は私にとって入りやすかったのである。私の父は先生で、子供が5人もいる家庭であったから贅沢はできない。親からの仕送りは月2000円であった。私は、奨学金とアルバイトのお金を足して生活してきた。
 私の食費は1日、100円以内にしていたので、食べ物に対する憧れは非常に強かった。一方、実家が農家の遠藤氏は、食べ物に不自由しないので、体格がよく、顔付きまでおおらかであった。私の窮状を知ってか、ある時彼は私に、家で餅をついたといって、餅をぶらさげて持ってきてくれた。私は大変感激し、大切にその餅を食べた。
 私は、礼状を彼の実家に、はがきを使って書いた。直接彼にお礼を言えば済むことだが、私の気持ちを家族の人にも知ってもらいたく、はがきに大きな字で書いたのである。・・・・思いがけない贈り物、大変有り難く頂きました。3日にかけて貴君のご芳情に感涙しながらお餅を頂き、今は空になった包みをしみじみ眺めています。お餅は大変美味しく、食した後のお餅が胃に落ち込む時の重量感を久しぶりに味わうことができ、今もその感触が私の五体に漂っています。悲しいかな、時がたつに連れて、その感触は私から遠のきつつあります。できうれば、あの重量感をもう一度味わいたく願っているところであります。
 私が書いたこのはがきを見て、「可哀想に、金谷さんに食い物を持っていけ」 と家人が言ってくれるのを、私は真剣に期待して待っていたが、残念ながらもらうことはなかった。後日、遠藤氏は、「はがき、来ていたよ。面白いこと書いてたな。あはは・・・」 と言って笑った。
 今、飯を食って出てきたばかりの遠藤氏の顔を見て、私は、45年前の食い物に不自由していた頃を思い出したのである。幸い私は、社会人になってから今まで一度も食には困らなかった。有り難いことである。
                             2004.6.10
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同窓会2

 私達の同窓会は、祖谷渓谷にあるかずら橋の手前の”秘境の湯ホテル”で開かれた。翌日は、ゴルフ組3名と観光組18名に分かれて、ホテルを出た。観光組は、マイクロバスで祖谷渓谷、大歩危小歩危の観光地を回って、吉野川中流の脇町に行った。この脇町は、うだつの町並みで最近脚光を浴びているようであるが、この日はひっそりしていた。阿波徳島は、昔、藍の産地で有名で、特に脇町は藍の集積地として江戸時代から昭和初期頃まで栄えた所である。集められた藍は船を使って徳島に運ばれた。
 脇町のメイン道路には、船問屋の建物が通りに沿って隙間なく建てられている。火事があると、簡単に延焼するので、建物と建物の境に、防火用のしっくいの袖壁を張り出して造った。この袖壁のことを”卯建”と言い、当時は相当な建築費がかかったので、これを造れない男を ”うだつが上がらない” と言った。脇町は、”うだつが上がらない” という言葉が発生した町である。
 この町並みの中に、一軒のお茶屋がある。そこへ同窓会の幹事の一人である伊豫氏が案内してくれて、日本茶をご馳走になった。伊豫氏は小松島市で窯を開いていて、長年陶芸の作品を創る傍ら、大学などで作陶の指導をしている。この店に、彼が制作した湯飲みのセットが展示されていて、店の女主が”立派な作品でしょう”と自慢していた。彼女は、伊豫氏の弟子にあたるのか、私には分からないが、我々18人の大勢に、愛想良くお茶をふるまっていた。
 私達が代わる代わる伊豫氏制作の陶器を眺めて感心していると、同窓生の一人である渡辺氏が伊豫氏を自慢して、”伊豫さんはものすごく立派な窯を自宅に持ってられる、相当な投資をしたのじゃないかな。” と言う。 それを聞いた店の女主は、”まあ、お友達だからそんなこと言えるのでしょうかねェ” と、暗に渡辺氏を非難したような口振りで言った。
 私は彼女の言葉を聞いて、直ぐには気が付かなかったが、なるほど考えてみると、師匠への皮肉に聞こえたのかもしれない。彼女は、伊豫氏の作品の芸術性をほめて欲しかったに違いない。ところが、渡辺氏は装置のすばらしさをほめていたのである。私達全員は元技術屋であるから、渡辺氏のハード(装置)をほめる発言には何の抵抗もなく、なるほどと、聞いていたが、ソフト(創作)の世界にいる彼女はそれが気に入らなかったのであろう。
 技術屋は、優れた装置があれば、当然優れた製品が生産される、と単純に考えがちである。私もそのように漠然と考えていた。女主の言葉を聞いて、私はいつまでたっても自分の技術屋習性が抜けないことに、気づかされたのである。渡辺氏は勿論、他の連中も彼女の真意には気が付かなかったであろう。
 観光組は、徳島市に4時前に着き、そこで解散になった。私は、帰りもサンライズ瀬戸で東京に戻ることにしていたので、徳島駅付近の写真を撮って、そのまま高松へ行った。サンライズ瀬戸は高松駅を夜9時半に出発して、東京に翌朝7時に着く。私は高松駅周辺をぶらぶら歩き、早めに幕の内弁当と酒を買い、駅のベンチに腰掛けて待っていた。まだ相当時間があるので、駅構内にあるうどん屋にはいり、大根下ろしのぶっかけうどんを340円払って食べた。本場のうどんは旨いか、私には分からないが、麺がしこしこして美味しい気がした。
 30分前にホームに行くと、もうサンライズ瀬戸は入っていた。帰りの指定券は ”ソロ” という個室の寝台である。個室には、ソロとシングルの2種類があって、私は行きも帰りもシングルを予約したが、駅員の入力ミスで帰りはソロになった。その駅員は恐縮して私に謝っていたが、私にとっては両方を体験できる、と内心喜んでいたのである。ソロはシングルより1000円安い。
 ソロは、通路が中央真ん中に1本あり、そこから1階のベッドと2階のベッドへ入るドアがそれぞれ左右にある構造になっている。ベッドは、進行方向に置かれ、個室内の設備はシングルと同じである。私の個室は10号車4番で、2階であったので、ホームから個室を覗かれることはない。ベッドの真上半分まで窓になっているので、寝ながら星空が眺められる。まだ出発前20分で、私は何もすることがなかったので、弁当を開いた。私は、今回早めに駅弁専用の売店で弁当を買ったので、ややデラックスな弁当を買うことができた。それでも最上の幕の内は売り切れていた。
 サンライズ瀬戸は、シングルが5両、ソロが1両連結され、そのほか普通の寝台車が1両ある。この寝台車はどんな構造になっているのか興味があったので、先日の下りのサンライズ瀬戸に乗った時、岡山駅でその車両内を歩いてみた。通路は窓側に1本あり、その横に大部屋が上下にある。寝るところは、通路に対して直角方向に2列にずらっと並んでいて、カーテンで仕切られる。カーテンを開けると、そこは大部屋になる。私が通ったとき、5、6人のグループが車座になって酒を飲んでいた。酒臭く、飯場のような雰囲気であった。
 やがて列車は高松駅を出発し、瀬戸大橋を渡る。酒を飲みながら、目を凝らして夜景を眺めるが、暗くて何も見えない。空を眺めると、電車用の電線が波打ったようにせわしなく左右に揺れるのが見えるだけで、その向こうは暗闇である。 岡山駅で、サンライズ瀬戸は、出雲からきたサンライズ出雲と連結して、16両の長い列車として東京へ向かった。
 私は、翌朝5時頃、静岡駅付近で目を覚ました。ベッドは北側であったので、快晴の朝の風景を楽しむことができた。ベッドの上で寝間着姿であぐらをかいて、ワイドなガラス窓越しの動く風景を眺められるのはいい気分である。沼津あたりで、沿線のマンションの4、5階ぐらいのところで、小学生らしい男の子がテラスに出て、両手を振っているのを見つけた。私も両手を振って答えた。男の子は毎朝サンライズ瀬戸に手を振っているのであろうか。彼は、列車の2階のベッドがマンションからよく見えるので、乗客の生態を毎日観察して記録しているのだろうか。
 東京には朝の7時10分に着いた。今日は秋葉原と新宿で買い物の用事があるので、店が開く10時頃まで時間がある。八重洲中央口の地下に”東京温泉”がある。30年ぐらい前からここに東京温泉があるのを、私は知っていたが、一度も入ったことがなかった。2時間の暇をつぶすには丁度良い。2100円を払って入ってみた。ジャグジーなど3種類の浴槽があり、そこにサウナパンツをはいて入る規則になっている。パンツをはいて湯に浸かるのは初めてだし、パンツをはいて体を洗うのも初めてで、妙な感じであった。
 洗い場と浴槽には男性客ばかりが5名いた。洗い場には女性の従業員が白っぽい作業服を着てうろうろしている。女性客は誰もいないが、女性客も入れるような制度になっていると思われる。男性客と女性客のトラブルを防止するために、女性従業員がうろついているのであろう。そういえば、更衣室がピンク色とブルー色の2部屋あったのに気が付いた。女性客を入れるために、男性に面倒なサウナパンツを履かされているのである。こんなところに女性が入ることがあるのであろうか。男性専用の温泉にすれば、本来の入浴姿で、のんびりでき、また、余計な女性従業員も必要でない。
 私は、風呂からでて、備え付けのぶかぶかのパンツと、薄いバスロープに着替えて、休憩室に入った。ここにはソファーとテレビがあり、5、6人の客が休んでいた。飲み物、料理を頼めば持ってきてくれる仕組みになっている。私は、テレビを見ながら1時間ほど時を過ごすことができた。
 サラリーマンが寝台列車で東京に早朝に着き、仕事の時間まで相当な時間が余って困る時、この東京温泉の存在価値はあるのであろう。私はこの存在を前から知っていたが、利用したのは今回が初めてである。今後、利用することはまずないと思う。今回の同窓会出席のための3泊4日の大旅行で、東京温泉に入ったことは、私にとって貴重な体験であった。
                             2004.7.10
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水戸芸術館

 茨城県水戸市のほぼ中央に水戸芸術館がある。私は、この芸術館の”友の会”の会員になっており、年会費3000円を支払っている。会員の特典は、年に5、6回催される演奏会の予約が優先的にできることと、これらの演奏会の情報などを載せた資料が郵送されることである。
 水戸市は、ここ矢祭から車で約80分のところにある。矢祭は、福島県の南端にあるから、南隣にある茨城県に関わりが深い。福島県では、郡山市が文化、経済の中心地で、演奏会などの色々な催しが開かれるが、郡山は矢祭から遠い。地図の直線距離で、矢祭から郡山市まで約60kmある。一方、矢祭から水戸市まで約55kmである。両市への距離は似たようなものであるが、車で郡山市まで行くには2時間以上かかる。道路の経路が複雑で、渋滞が時折あるからである。一方、水戸市へは、ほぼ一直線の国道118号と349号の2本があり、両方とも信号が少なく、すいすい走れる。
 冬の季節、郡山へのドライブは、積雪と道路凍結が予想されるので、怖くて走れない。水戸市へは、凍結と積雪はほとんどないので安心して行ける。このような理由で、水戸市は私にとってなじみの深い街になっている。
 クラシック音楽の演奏家は、季節の良い春と秋には大都会で演奏会を開いて、おおいに稼ぐ。一方、夏と冬は大都会での仕事が暇になるので、地方へ出稼ぎに行く。そのためか、水戸芸術館のコンサートには、夏と冬に著名な演奏家がやってくる。この事情は、地球規模でも同じで、ヨーロッパのバカンスの季節にはコンサートの仕事がないので、著名な演奏家は、東京、大阪に出稼ぎに行く。日本では大物の演奏家が来たというので、ありがたがって高額の入場料にもかかわらず、多くの観客が集まる。
 私は、7月の暑い季節に2度も水戸芸術館のコンサートに出かけた。7月9日の小沢征爾が指揮する水戸室内管弦楽団定期演奏会と、7月19日の工藤重典フルート・リサイタルである。今年の12月にも小沢指揮の演奏会が予定されている。夏と冬の日本の演奏家は、外国から出稼ぎに来る外人演奏家に東京から追い出されて、やむなく地方都市に出かける。
 水戸芸術館は、敷地の中央に細長いねじれた形のタワーが建っているので、遠くからその存在がよく分かる。建物には色々な展示室、ホールがあり、300円支払えば案内付きで見学ができるようになっている。音楽ホールは一つしかなく、500人が入れる程度の広さである。このホールは、円形で、サントリーホールを縮小したような形である。私はこのホールを見て、地方都市の分をわきまえた見識ある建物であると感心した。地方都市では、どうせ建てるなら、オペラや歌謡ショーなどが開ける大劇場がいい、と地元の政治家が口を挟んで造らせるのであろうが、この水戸芸術館は、芸術を心から愛する人達が造った、といった感じの建物となっている。
 音楽ホールの2階席中央あたりが、友の会会員に優先的に売られる席のようである。ホールが小さいので、演奏家が近々と見えて面白い。顔の表情が手に取るように分かるので、音を聴く以上に、顔の動きに魅入られてしまう。7月9日の小沢征爾の指揮ぶりは、見ていて楽しかった。演目の一つの、モーツァルト作曲、協奏交響曲 変ホ長調では、4人の独奏者(フルート、オーボエ、ファゴット、ホルン)が一番前に並び、その後ろで小沢氏が管弦楽団の指揮をする。指揮台がないところで、指揮棒を使わない小沢氏は、平坦なエリアを自由に動き回る。指揮棒を使わない彼は、頻りに顔を突きだして音出しを団員に指示する。そのため、彼はすっかり猫背になってしまったようである。彼の猫背は、一種の職業病であろうか。
 最前列の4人は立って演奏する。4人とも背が高く、体格もよいので、その後ろにいる背の低いやせ細った猫背の小沢氏は、貧相に見える。しかし、彼は大きな目で団員を圧倒する。一般に演奏者は無表情で楽器を演奏する。4人の独奏者も、無表情、時にはつまらなそうな顔をして演奏する。対照的に小沢氏は、大きな目をカット見開いたり、目を細めて奥の奏者に指示を出したり、表情がめまぐるしく変わる。
 曲の途中、4人のうちのオーボエの独奏が始まる前に、小沢氏は彼の横に近々とやってきて、目で合図する。”それツ、今だ!” ”ちゃんと、リハーサル通りに吹けよ” ”そうだ!その調子だ!” と、目で喋っているようである。曲の途中、小沢氏はたまに顔を曇らせることがある。 ”ちがう! あれだけリハーサルで注意しただろ、馬鹿者!” と、目で喋る。当の演奏者は、知らん顔をして譜面だけ見ている。 ”うるさい! いちいち文句を言うな、ここはオレの解釈で吹く、引っ込んでろ!” と彼は言っているようである。時にはこのような険悪な雰囲気が漂う。
 演奏が終わると、小沢氏と演奏者全員が瞬間、ほっとした顔をして、その後、にこやかな顔になる。先の険悪な雰囲気もどこかへ行った感じになり、私も安心する。聴衆が拍手している間、小沢氏は忙しそうに奏者全員と握手して回る。奏者も、”世界の小沢” が握手を求めてくるのだから、まんざらではないような顔をしている。
 演目に、バルトークの弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽があった。ここでは、ハープ奏者に吉野 直子氏がゲストとして演奏していた。妻によると、吉野氏は有名なハープ奏者で、NHKに講座の講師として出演していたという。私には初耳で、大変ありがたく思ってハープの演奏を拝聴した。
 団員の一人であるフルートの工藤 重典氏も、世界的に有名な奏者ということであるが、私は彼に関する知識はなかった。彼のフルートリサイタルが7月19日にあり、その日も私達は聴きに行った。ピアノとフルートだけの演奏会であるが、フルートの表情が豊かで、力強く、声楽のような感じであった。この音楽ホールの大きさは、独奏、四重奏ぐらいが丁度良い。オーケストラにはやや狭いが、室内管弦楽団で、モーツアルトの曲を演奏するには手頃の広さである。ステージは板張りで、NHKホールのようにコントラバス用に板の箱は使わないので、自然な低音の響きが聴かれた。木箱の上でコントラバスを弾くと、やたらと音がこもって聞きづらくなる。
 小沢指揮のリサイタルにはアンコールの演奏はなかった。我々は、アンコールを期待して頻りに拍手したが、小沢氏は、楽屋から出てきて、団員と握手したり、頭を下げるだけであった。アンコールの曲までリハーサルできなかったのか、アンコールはしないという約束があったのか、私は物足りなさを感じた。一方、工藤氏のリサイタルでは、アンコールを4曲も披露してくれた。アンコールの曲が終わって、拍手を続けていると、工藤氏は楽屋からフルートと楽譜を持って現れる。観客は、アンコールをやってくれるのだと察知して、大いに拍手する。4曲目が終わって拍手を続けていると、今度は工藤氏は手ぶらで出てくる。観客は、これで終わりだと分かり、彼のサービス精神に大きな拍手をするのである。
 2つのコンサート、つまりオーケストラ演奏と独奏の会を聴いて、私は人間の音への関わり方の違いを知ることができた。オーケストラ演奏は、2、30人以上の奏者が出す個性的な音が合わさるわけであるから、一つ一つの個性はプールされる。指揮者は、これではいけないと思い、自分の解釈を音の流れのなかで奏者に強いるが、一人一人の個性的な音は生かされない。一方、独奏会では、独奏者の個性的な音が楽しめる。あるいは、作曲者の意図、演奏者の解釈が直接観衆に伝わってくる。伴奏にピアノがあっても、それはあくまでも従者である。
 オーケストラの音は、いわば企業のような管理社会の音であり、独奏会の音は、個人商店の音である。今、管理社会にいない私にとって、オーケストラの音は、昔のサラリーマンの頃を思い出させるので、好きではない。CDで聴くオーケストラの音は、指揮者の姿が見えないので、私は何とも感じない。個人商店の音は、人間味があって親しみやすいが、奏者が見えないCDで聴くソロの音楽は、私にとって退屈である。
                             2004.8.10
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04年の夏1

 今年の夏は、アテネでオリンピックが開かれた年であった。8月は、中旬まで甲子園の高校野球があり、続いてオリンピックが8月末まであったので、一ヶ月間、私はテレビ観戦で時を過ごした。
 我が家のテレビは、25インチのブラウン管型である。このテレビは、重くて奥行きが長いので、狭いリビングに邪魔な存在であった。オリンピック観戦を理由に新三種の神器の一つである薄型テレビを買うことにした。私は、色々な情報を集めて、シャープ製の32インチ型液晶テレビを37万円で購入した。このテレビは、地上デジタル、BSデジタル、CSなど、すべて装備されている。私が住んでいるこの地域で、地上デジタルが見えるようになるのは相当先であるので、地上デジタルは不要であるが、新しいテレビには、どのメーカーにもちゃんとこれが付いている。私が購入したテレビは、チューナーの本体と、画面の液晶部が分かれていて、チューナーが奥行き40cm近くあるので、折角の薄型も設置場所を取ることになる。しかし、今までの25インチのブラウン管型にくらべると、相当な省スペースである。お陰でリビングルームは大変すっきりした。
 7月末の矢祭地方は雷、夕立が多かった。雷雲が発生すると、NHKのBS放送が見えなくなる。私は、テレビを今まで何回も買い換えてきたが、放送が見えなくなるというトラブルは始めてで、このシャープ製テレビは欠陥テレビかと疑い、購入した電気店に文句を言った。早速、係りの人がやってきて、色々調べた結果、テレビ本体の欠陥でなく、電波が弱いためだという。NHKが見えないとき、他の民放のBSデジタルは問題なく見える。NHKは、波長の関係で雷雲の影響を受けやすいのだ、ということを教えられた。
 電波の強度を上げるブースターというものを、3万円払って取り付けて貰った。これで、NHKが見えなくなる頻度は確かに減ったが、時々思い出したように見えなくなる。番組の途中で見えなくなるのは不愉快だから、どうしてくれるのか、テレビはまだ直っていない、と電気店に言うと、アンテナが古い、アンテナを換えて欲しいという。我が家に付けているパラボラアンテナは、幅が38cmのアナログBS用のアンテナである。デジタルBSを見るには、それ専用のアンテナが必要であると言う。
 2度目にテレビを直しに来たのは、シャープの技術屋で、郡山からやってきた。彼は、色々調べて、”混合器をデジタル用のシールドタイプにしなさい”、”混合器からテレビまでのアンテナ配線をシールド線にしなさい”、”アンテナをデジタル型にしなさい”、と色々注文を付けた。シャープの技術屋は、テレビ本体は問題なし、という最初からの考えである。テレビが映らないのは、客側のせいだという態度は極めてよろしくない。私に言わせれば、アンテナ系に多少の問題があっても、それに耐えられるテレビを開発しろ、とシャープに言いたい。
 アンテナを幅45cmのデジタル、CS専用に換えてもらった。これでやっとテレビが安定して見えるようになった。各部屋へ配線しているアンテナ線は、シールドタイプに換えてはいない。これを換えるには大がかりな工事が必要で、費用も4、50万円ぐらいかかるのではないかと思う。我が家は新築してから3年目になる。この家は、エスバイエル製で、プレハブメーカーのエスバイエルが基本設計をしたのは、おそらく、さらに4、5年前であろう。メーカーは、この頃、テレビが今のデジタル時代を迎えるとは想像出来なかったと思われる。従ってテレビのアンテナ線は、壁の中を縦横に走らせた普通の線になっている。建築屋は、建物以外の色々な技術の進歩を見通して設計しなくてはならない。
 テレビが安定してみられるようになったのは、オリンピックも終わりの頃の8月下旬であった。32インチのハイビジョン液晶画面は迫力がある。観客席の人の顔まではっきり映るのには驚いた。わざわざアテネまで行かなくても十分オリンピックの雰囲気は味わえる。アテネへオリンピックを見に行く旅費のことを考えれば、今回の液晶テレビへの約40万円の投資は安い、と自分に言い聞かせた。
 私は、2000年のシドニーで、高橋尚子が優勝したマラソンには感動したけれど、今回の野口みずき選手の走りも大いに感動した。高温と激しいアップダウンをあの細い体で克服したのだから立派である。マラソンに使ったカメラはハイビジョン用ではなかったのは残念であるが、大型画面に映し出されるランナーの表情は手に取るように分かった。アテネは埃の多い所だと後から知ったが、アテネの随所で見られた街の風景は何となくぼやけて、澄んだ感じではなかった。
 女子水泳800m自由型で金メダルを取った、柴田亜衣選手もすばらしかった。女子の長距離で世界一位になれるのは、体力が相当付いている証拠であろう。今までの日本選手は、スタートは他国の選手と肩を並べて泳いで、少し期待を持たせるが、一旦遅れだすと、ずるずる遅れ、そのままゴールして、私達をがっかりさせることが多かった。ところが柴田選手は、途中まで4、5位ぐらいで泳いでいたのが、ラストの50mぐらいから、ぐんぐんスピードを上げ、他を抜いて1位でゴールするという、胸のすくような泳ぎを見せてくれた。従来、日本人は、炭水化物を主食としてきたので、短距離のような早く燃え尽きる競技に向いていたが、一世代前の肉食で育った両親から生まれた今の若者は、長距離でも十分戦える体質になったのであろう。頼もしい変化がスポーツの世界で現れてきた。
 BSデジタル放送は、NHKの他、民放5社がそれぞれチャンネルを持って放送している。当地では、従来の地上のアナログ放送を含めて、合計14のチャンネルが受信できるようになった。矢祭のような片田舎では、地上を伝わってくる放送には多くを望めなかったが、宇宙からやってくる放送には地域のハンディはない、ということがよくわかった。民放5社のデジタル放送は、勿論無料である。CS用のアンテナをつけて、CS放送も無料で見られるようになったが、2社のみである。
 NHKハイビジョンも、民放5社のデジタルハイビジョンも、外国の風景を映した番組が多い。広い画面で見る鮮明な映像は、実際にそこにいるような錯覚におちいる、という感動を与えてくれる。特に、鉄道の車窓から映すパノラマの風景は、立体感が出て、楽しいものである。新聞のBSデジタルの番組欄は、従来のテレビ番組欄とは別のページにあり、今まで私は注意したことがなかったが、最近では世界各地の文化遺産の番組とか、各地を訪ねる映像番組などに注目するようになった。これらの番組を見ていると、わざわざ海外旅行に行かなくてもいいような気がする。風景の映像番組は、制作費が安く、ハイビジョン放送には効果的で、なおかつ視聴者に喜ばれるのを放送関係者はよくご存じである。
 ハイビジョン用の液晶画面は、普通のテレビ番組でも従来よりもきめ細かく映される。ブラウン管の特徴である横の黒い線は全くない。しかし、画像の境目、例えば文字とバックの画面はぼやけて見える。これは、仕方ないことであろう。私は、NHKの夜7時のニュースの後、放送されるクローズアップ現代という番組を、以前からよく見ている。この番組のキャスターの国谷さんは、美人の才女で、液晶画面で見ると、顔が輝いたように映り、ますます美しくみえる。私は、この番組を、たまたまハイビジョン放送で放映しているのを見た。ハイビジョンの国谷さんは悲しいかな、顔がリアルに映し出され、シミ、しわまではっきり見えた。私は、国谷さんの美しいイメージを長く保持するために、ハイビジョンの国谷さんは見ないことにした。
                             2004.9.10
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04年の夏2

 今年の夏は、酷暑そして小雨であった。矢祭地方は6月、7月の梅雨期にほとんど雨が降らなかったので、夏場、我が家の自慢の小川の水は枯れてしまった。小川の水源としている森の沢には、ちょろちょろ水が流れているが、庭まで引くには水の量が少ない。7月の終わりから8月にかけて夕立が多かった。夕立があると、沢水が増え、庭の小川に水が戻るが、直ぐ枯れてしまう。
 毎年、夏の暑い盛りになると、すずめ達が涼を求めてこの我が家の小川にやってくる。今年は小川に水がないので、私は、すずめ達のために、水道水を小川に流すことにした。少量の水道水を目当てに、時折すずめ達が、のどを潤し、足を水につけ、あるいはしゃがんで水浴びをしにやってくる。その仕草は実に可愛らしい。すずめの他に、たまにセキレイもやってくる。セキレイはすずめよりすこし体が大きいが、水に浸かりながら上手に小川を歩く。
 我が家の庭にはヒヨドリもやってくるが、小川には来なく、庭に植えてあるブルーベリーの実を食べに来る。この木は植えて3年になり、まだ背丈が1m弱であるが、実を良く付けてくれる。私もこの実を摘んで食べていたが、ヒヨドリがこの実を食べだして、私は遠慮して食べるのを止めた。
 庭に植えて3年になるこぶしの木がある。毎年すくすく伸びて、約4mぐらいの高さになった。私は、8月の終わりに、こぶしの木に実がなっているのを見つけた。薄緑の直径1センチぐらいの実が5、6個くっついて、所々に成っている。葉と同じ色なので、気が付かなかったが、探してみると方々にある。9月になると、この実は、赤みがかって半分に割れ、中から真っ赤な実が現れた。出入りの安藤造園の主人に、この実は食べられるのか、聞いてみたところ、安藤氏も知らないようで、「鳥が食べに来たら食べられます」 と自信を持って答えた。
 私は、こぶしの赤い実をどんな鳥が食べに来るか、楽しみにしていた。5ミリぐらいの大きさなので、すずめは食べられないだろう。ヒヨドリか、ハトか、毎日注意してこぶしの木を眺めていた。ある日、つがいのヒヨドリが、この実を食べに来ているのを見つけた。私は、人間も食べられるのだ!と感心したが、まだ食べる勇気はない。
 ピラカンサを2本、建物の西側に植えているが、これも3年目を迎え、高さが2mぐらいになり、この季節、赤い実がぎっしり成ってきだした。ピラカンサの実は、秋の終わりから初冬にかけてヒヨドリが食べにくる。昨年もヒヨドリが食べにやってきた。安藤氏の説によれば、この毒々しい赤い実も人間が食べられるはずである。私は、この実を人間が食べたという話は一度も聞いていないし、食べる気もしない。
 野菜畑には、昨年と同じく、2本のカボチャの苗と、50本のサツマイモの苗を植えた。今年は夏の高温のせいか、両者とも育ちが良かった。カボチャは成長がたくましく、野菜の指導書には、「伸びる茎は2本に抑えよ」 とあるが、方々から新しい茎が伸びていくので、その茎を切るのに忙しい。カボチャは勢い余って、隣家の境に作ったフェンスに上り始めた。カボチャは、普通地上を這って伸びて行くが、天に向かって伸びるのは珍しいと思い、切らずに放っておくと、カボチャはフェンスの上で花を咲かせ、実を付けた。フェンスにぶら下がるように、4個のカボチャの実が大きく成り始めた。実は、1個1kg以上になるので、茎がその重量に支えきれるか、心配したが、茎の方もそれに対応して強化しているようであった。今年のカボチャは約40個収穫できた。1本300円の苗を2本、計600円の投資で、1個約300円のカボチャが40個、計1万2千円分得られた。
 サツマイモも今年は良く育った。茎はそこらじゅうを這い回って一面を芋の葉で覆ってしまった。雑草のはえる余地もないので、手の掛かる草抜きを省くことができた。サツマイモは、カボチャと違って、そこにフェンスがあっても決して登ろうとしない。サツマイモは、自分の実は地中で育つのだから、天へ向かって伸びてはいけない、ということを知っているのであろう。
 カボチャの葉は、日が経つと虫に食われて枯れてしまうが、サツマイモの葉は病害虫におかされない。いつまでも青々とした葉を付けて成長を続ける。昔、飢饉の時、多くの命をサツマイモの葉が救ったという話を聞いたことがあったが、なるほどと納得している。サツマイモはまだ収穫してしないが、相当な収量になるだろう。芋の処理方法にまた悩まされる。
 コキアという観葉植物がある。ホウキギとも呼ばれているが、名前の通り、枯れたホウキギに柄を付けると、箒の代わりになる。私は、一昨年このコキアの鉢を園芸店で買い、庭に植えた。夏には柔らかい緑色の枝がこんもりと生長し、手で触るとふわっとして心地よい。秋にはこの枝が桃色に紅葉(紅枝)する。楕円状のコキア全体が鮮やかな赤に染まるので、庭の中でよく目立つ。枝には小さな種がぎっしり付いていて、翌年の春には、コキアを植えた周り付近から芽が出てくる。昨年は種から育ったコキアが4本大きく育ち、私達を喜ばせた。4本のコキアから成る種は無数である。昨年、枯れたコキアを引き抜き、種をそこらじゅうにばらまいた。今年の春、コキアがそこらじゅうから芽を出した。我が家の庭はコキアだらけになってしまった。1本の鉢のコキアからねずみ算式以上にコキアが繁殖した。
 約40本のコキアは、育つ場所により大小様々な大きさになり、秋を迎える。9月の下旬から、コキアは、上の方からほんのり赤みをさして、紅葉を始める。これだけ数が多いと、狭い敷地で以前から生活している他の植物に迷惑をかける。アブチロンという花があるが、今年はコキアがアブチロンの両側に育ち、迷惑を受けている。アブチロンは葉を横に広げ、春から夏、秋にかけて花を咲かせるが、今年はコキアの勢力のため、両サイドの空間がなくなり、困って上へ伸びた。植物にも生存競争があるのである。それでも、アブチロンはひょろ長い枝に一生懸命に花を咲かせている。
 今年の夏は、6月の梅雨がなく、6月にいきなり30℃の夏日が続いた。ところが、7月に入って急に冷え込み、最低気温が10℃以下の日が2、3日あり、その後また暑さがぶり返した。この影響で、今年はほたるが少なく、4、5匹飛んでいるのを見ただけであった。ホタルは低温の日に元気を失い、死滅したのであろうか。来年が心配である。
 稲の方は、6月の暑さのため、成長が1ヶ月早く、気温が低くなった時期は稲の実が育ち始めていた時期であったので、影響はなかったという。そのためか、9月の半ば頃から稲刈りが始まり、9月の終わりにはもう田圃は稲を乾燥させる棚が方々に並んでいた。稲の取り入れ方法には、2種類ある。人が歩きながら操作する小さな稲刈り機で稲を刈り、自動的に稲が束ねられていく方法がある。この稲刈り機は比較的安価なので各農家でもっている。束ねられた稲は人手で集めて、木で組んだ細長い棚に実を下にして架けられる。雨が稲の軸から入らないように、棚の上部にはビニルシートが丁寧にかけられている。このようにして稲の実は自然乾燥させて収穫を待つのである。
 稲のもう一つの取り入れ方法は、大型コンバインを使って稲を刈り取り、籾と藁を分離し、藁は短くカットして田圃にばらまく方法である。コンバインで得られた籾は、別の乾燥機で強制乾燥する。このコンバインは1台500万円ぐらい、そして乾燥機は1台100万円ぐらいするということで、個人で機械を持つと、600万円の投資になる。多額の投資ができない農家は、農協に依頼して稲刈りをしてもらう。この時期になると、農協の作業着を着た人がコンバインを操作している姿がよく見られる。取り入れは一時期に集中するので、コンバインが予約の農地から次の農地まで一般の道路を使って頻繁に移動する。そのため車はすいすい走れない。
 春先には、農協から農作業の労賃表がチラシとして各家庭に入る。農家でない我が家にもチラシが入った。これを見ると、田植え、草取り、農薬散布、稲刈りなど何でもやってくれて、それぞれの値段が表示されている。農地を持っていて、年を取ってもう農作業ができなくなった人でも農協に依頼すればお米が作れる仕組みになっているのである。収支は多分赤字であろうが、寝たっきりの人でもお米が作れるのである。
                             2004.10.10

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テニス 3

 テニスについては4年前のこの欄で書いたが、今回は、最近の私のテニス生活を紹介したい。私は、4年前はまだ横浜に住んでいたが、その1年後に矢祭に引っ越してきた。この地でテニスができるところをインターネットで探してみると、水戸と郡山に室内のテニススクールがあることが分かった。ここから水戸まで車で80分、郡山まで90分かかる。郡山は冬季、道路の凍結が予想されるので、01年の6月から水戸のテニススクールに行くことにした。
 水戸のテニススクールは、ルネッサンス水戸と言い、水泳、フィットネスなどのスクールが同じ4階建てのビルに入っている。室内テニスコートは、2階、3階の一部をぶち抜いて、2面を作っているので、狭く、天井も低い。ロブは上げられなく、中ロブならなんとか上げられるという低さである。私は、毎週水曜日の11時から12時半までのコースに通っていた。このクラスは、中高年の女性ばかり15名で、これらの生徒を一人のコーチが指導するという過密さである。私は、横浜では1クラス3~8名で指導を受けていたのに慣れていたので、この水戸の混雑さには驚いた。
 8月に入って、新聞の折り込み広告で、棚倉町にもテニススクールがあることが分かった。ここも、ルネッサンス棚倉という名称であるが、ルネッサンス水戸とは関係がない。ルネッサンス棚倉は、棚倉町が出資した特殊法人が経営しているようで、広大な敷地にスポーツのあらゆる種目が楽しめる贅沢な設備が整っている。テニスは、屋外コートが26面、室内コートが4面ある。その室内コートでテニススクールが行われている。授業料は、週一回のコースで月6000円であるが、フリークラスという制度があり、これは月8500円で週何回も受講できるという大変お得なコースがある。水戸は、週一回のコースしかなく、授業料も月7500円である。横浜のテニススクールに比べると、水戸の月7500円も安いが、棚倉はもっと安い。
 ルネッサンス棚倉は、車で約30分のところにある。水戸の80分に比べると近いのが何よりである。私は、水戸を8月で止めて、棚倉にテニススクールを換えた。その後、フリークラスに変更して、昼間のすべての授業に出るようにした。つまり、火曜日から金曜日まで週4日、テニススクールに通うことになった。テニスが生活の主役になったのである。
 矢祭町にも屋外のオムニコート4面があり、テニスの好きな人も数人いるようであるが、彼らは現役で仕事をしているので、出会う機会はない。しかし、私と同じように定年退職後、老後を矢祭で暮らす人の中で、テニスの好きな人が少しずつ増えてきた。これから紹介する、鈴木 敏之氏は、私より少し前に矢祭に移り住んだ人である。彼は、東京芸大の日本画科を修士で卒業し、京都のタペストリー(つづれ織り)を制作する会社に勤め、その後京都の中学で教師をしていた。彼は、私より一つ年下で、当時大学でマスターまで残る学生は極めて少なく、大変な秀才であったのであろう。今彼は、画業はそっちのけで、テニスにうつつを抜かし、ほとんどテニス馬鹿になっている。テニスは教師を始めた頃からやっているようで、コーチの資格を取っていると自慢していた。
 彼、鈴木画伯は、私より1年前の2000年秋に矢祭にやってきた。彼の出身は矢祭町中石井で、そこに高齢の母親が一人暮らしをしているので介護のために戻ったのである。妻子は京都に残しているのであろう。矢祭に来たその年に、テニスクラブを矢祭で立ち上げた。クラブは、ホワイト・アロー・テニスクラブ、略してWATCといい、毎週日曜日の午前中に同好者が集まってテニスを楽しむ会である。呼び掛けに応じて集まった人は4、5人で、彼の指導で練習を行っていた。そこに私が参加したので彼は大変喜んで歓迎してくれた。
 私が最初に参加した日曜日、鈴木画伯は矢祭山公園に行こう、と誘ってくれた。公園は紅葉の見頃で天気も良く、周りの景色を眺めながら画伯は私に色々質問をする。”金谷さん、絵をお描きになると聞きましたが、本業なのですか?” ”とんでもない、素人の、いわば日曜画家ですよ。私は、サラリーマンを40年近くやっていた化学屋です。” と言うと、鈴木画伯はちょっと安心したような様子で、”私は東京芸大の日本画科を出ました。” と言い、自分の経歴を詳しく話してくれた。 
 彼のようなエリート校を卒業した人間は、初対面の人に対してどこの学校を卒業したかを非常に気にする。私はこのことをサラリーマン時代にいやというほど経験した。お客さんを接待する席で、乾杯をした後、”ところで、金谷さんはどちらを卒業されたのですか?” ”わたしは四国の徳島大学というところです” というと、初対面のお客さんはほっとしたような顔付きになって、別の話題に移る。多分その人は私より格上の大学を卒業しているのであろう。もし、私が東大卒で、”私は56年の東大です” と言うと、相手は ”そうですか!私は58年です” と急に馴れ馴れしくなり、大学での教授の動向などが話題となる。会社などは縦割り社会であるが、大学の同窓生は横の社会で、仕事上色々な便宜が同窓生から得られるので、それを大いに利用しているサラリーマンがいる。特にエリート大学卒業者は顕著である。
 鈴木画伯とは畑違いなので、私も気楽に話ができるが、画伯の底にあるエリート気質のためか、彼は私に大変気を使う。そのため、彼の言いたいことが曖昧になってしまうことがある。それは彼の本来の性格か、あるいは芸術家独特のファジーな感覚かもしれない。彼との会話は、例えばこのようになる。 ”金谷さん、今度の日曜日、都合はどうですか?” ”まだはっきりはしていませんが、テニスに行く予定です。” ”そうですか、山本不動尊は紅葉が見頃でしょうね。” ”そうですか、もうそんな時期になりますか。” ”ええ、あそこはこのあたりよりすこし紅葉が早いですね。”
 これは、こんどの日曜日、テニスが終わって一緒に山本不動尊の紅葉を見に行こうか、という彼のお誘いである。それに対して、私が ”そうですか” と言うことで、私の”NO”という返事を彼は受け取る。だから、彼の要求に対しては、私はNOという必要はない。 鈴木画伯との会話には、いやな義務は発生しないという気楽さがあるのである。
                             2004.11.10
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テニス 4
 ゲートボールに全国組織があるように、テニスにも高齢者相手の全国組織がある。福島県にもマスターズテニスという名称で各地に組織がある。福島県は、福島市付近の県北、会津若松市付近の会津若松、郡山、白河市付近の県南、そしていわき市付近のいわき、の4つのマスターズテニス協会がある。私が加入している協会は、県南マスターズテニス協会と言い、会員が男女合わせて100名ぐらいいる。男は60才以上、女は55才ぐらい以上が入会の資格であるが、年齢制限は曖昧である。特に女性は、来る者は拒まずということで、若い人を入れている。少しでも若い女性を入れて、テニスを華やかな雰囲気にしたいという、年寄りの願望である。
 マスターズテニス協会は、年に3回ぐらい大会を開いている。開催の時期は、春、秋、晩秋で、気候の過酷な冬と夏は開かないことにしているのが良い。私は3回とも参加するようにしている。矢祭町在住の鈴木画伯は、このような組織に入ることに熱心で、色々な人を介して協会の存在を嗅ぎつけ、私と一緒に3年前に入会した。手続きは彼が全部行った。
 テニスの大会は、団体戦で、1組が10~15名の構成で、4~6組ぐらいの規模になる。参加者は予め上手な人から順番にランク付けされ、幹事が上から順にランダムに組に振り分けていき、組のメンバーが決定される。組の中でランクが似た人同士でダブルスのペアを決めていく。大会は9時頃から3時頃までで、一人3~4試合することになる。試合は、6ゲーム先取で勝敗を決め、組の勝ち数で優勝を争う。ペアは試合ごとに組の監督が変えるので、男女色々な人とゲームを楽しむことができる。
 初参加者の私は、幹事が私のテニスのレベルを知らないので、下のランクに付けられた。私のペアの相手もランクが下なので、なかなか勝てない。最初の1年は、0勝3敗とか、1勝2敗などで負け越しが多かった。鈴木画伯は自己PRが良かったせいか、最初から上位にランク付けされ、対戦成績も勝ち越しが多かった。
 マスターズのメンバーは元先生が多い。元先生は学校でソフトテニス(軟式テニス)をしていたせいか、テニスのフォームが軟式テニスである。一方、私は最初から硬式テニスをやっていて、テニススクールでコーチから正統的なフォームを習っていたので、私のフォームは周囲とは違っていた。私は、長年高い授業料を払ったお陰で、それなりのフォームができていたことを確認した感じであった。試合では私は負け越しが続いていたが、幹事が私のレベルを認めてくれだして、今年からは中ぐらいにランクされるようになった。
 東北マスターズテニス大会というのが毎年秋に東北6県回り持ちで行われる。今年は秋田市で10月に行われるのを、鈴木画伯が知り、私とペアで参加したいがどうか、と熱心に勧誘してくれた。福島県代表として参加するのだから、私のレベルでは参加を認めてくれないのではと、断ったが、画伯が県の幹事に交渉してOKを貰った。折角のチャンスだから、私は参加する事にした。
 東北マスターズテニス大会は、男女別で、男子の場合、ペアの合計の年齢が、120才、130才、140才、150才以上の4種目を設定していて、私達は130才以上の組になる。130才以上の組は、東北6県で、福島県を含めて24組がエントリーした。秋田大会は10月6日から7日まで2日間、総数210名の参加で行われた。秋田市から車で30分ぐらいの所に、県立中央公園があり、その中の公園テニスコートが会場である。
 この大会は、ペアを固定して、そのペアを順位付けするのが特徴である。従って、自分たちのペアの実力が明確に位置づけられるのである。各県を代表する実力者を相手にどこまで勝てるか、場合によっては最下位になるかもと、鈴木画伯も弱気な予想をしていた。私は、参加することに意義があるのだと、自分に言い聞かせて、試合に臨んだ。
 いつものスロースターターの私は、鈴木画伯に迷惑をかけ、最初の試合は4-6で負けた。しかし、次からは調子が出て、2連勝し、1日目は2勝1敗で終わった。2日目は更に調子が出て、3勝0敗という結果が出て、東北6県の24組中、9位の成績であった。福島県では参加7組の中で、3位であった。意外な好成績に終わって、鈴木画伯と健闘を讃えあって会場を後にした。帰りの車の中で、11月に仙台でシニアテニスの大会がある、金谷さんどうですか、と鈴木画伯は勢いに乗ろうと、私を勧誘したが、今日の結果は出来過ぎでしょう、と私が答えると、そうですねと鈴木画伯は素直に了解する。
 11月4日には須賀川市牡丹台テニスコートで、福島県県南マスターズテニス大会が開かれ、私も参加した。この大会は通称、いも煮会と言って、昼食にいも煮が出る。地元の業者が大きな鍋に芋煮を作ってきて、それを試合の合間に食べるのであるが、いも煮が大変旨い。料理は規模が大きいと何となく旨くなるのであろう。テニスでお腹がすき、秋空のもと、芋煮をコートサイドで食べる気分は最高である。ベンチの横に会津若松市から来たという60代の女性が、私に話しかける。最近足が痛くて、もうテニスができなくなるかと諦めていたが、鮫の軟骨を飲みだしてから痛みが取れて、テニスができるようになってうれしい、と言う。そうですか、私はブルーベリーを飲みだして膝の痛みが直りました、と健康食品の情報交換をする。
 このいも煮会テニスも団体戦で、各組のランク付けされたメンバー表が各人に配られる。私のランクは、東北大会で好成績を収めたせいか、上位にランクされた。上位は男性が多く、ペアも男性同士、相手も男性同士になり、真剣にテニスができる。私は、この大会では2勝1敗の勝ち越しであった。
 県南マスターズには80才以上の高齢者が数名いて、大会には必ず顔を出す。最高齢者は89才の男性、吉田さん(仮名)である。吉田さんはコート内では決して走らないので、ペアの相手になる人が前後左右に走り回らなくてはならない。吉田さんは前衛(フォアサイド)を守る。自分の手が届く範囲(左右1m以内)はボレーで打つが、そのほかは相手に任せる。頭を越えるボールは特に弱く、腕が肩より上にあげられないので、高い球を打つことができない。対戦相手も、配慮してなるべく吉田さんのところにボールが行かないようにするが、勝ちたいときには意地悪く吉田さんにボールを出す。たまたまそれが吉田さんのラケットに当たり、エースになると、観客が拍手喝采して大いに喜ぶ。
 私も1度吉田さんとペアを組んで試合をしたことがあったが、1-6で負けてしまった。吉田さんとペアを組むことは大変名誉なことで、健脚が認められた証拠でもある。大体吉田組は負けることになっているので、気楽にテニスを楽しむことができるのである。その吉田さんは昨年度で、90才を目前に退会してしまった。80才代の仲間が続けろと説得したが、吉田さんは、皆さんにこれ以上迷惑をかけたくない、といって辞めてしまったという。
                             2004.12.10
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春うらら、温泉旅行1
 「春うらら」は、毎年正月に書くことにしているが、今年で5回目になった。今年の元旦は、昨夜からの雪で積雪7cmの雪の元旦になった。ここ数年元旦は良い天気に恵まれていたが、今年の朝は雪がちらつく曇り空である。おまけに元旦の早朝、震度3の地震が新年を祝ってくれた。
 私達夫婦は、福島県の温泉地を一泊旅行するのを楽しみにし、当地に移り住んで10カ所近くの温泉地を訪ねている。昨年12月19日、私達は高湯温泉に行ってきた。高湯温泉は、吾妻山系の中腹にあり、福島市からバスで40分の所にある。高湯温泉から猪苗代、会津若松方面に抜ける磐梯吾妻スカイラインがあるが、12月はすでに雪で通行止めになっていた。この時期、道路凍結があるので、車での旅行は止めて、JRとバスで高湯温泉に行くことにした。
 JRには、ジパングクラブという65才以上を対象にしたクラブがあり、それに年会費2人で6000円ぐらい払うと、JRの運賃が3割引きになる。往復200km以上が割り引きの対象で、矢祭から福島市まで往復200kmを超えるので、運賃が安くなる。私の昨年の秋田行きも3割引で行くことができた。これぐらい遠方になると年会費の元は十分取れる。
 高湯温泉へは、福島駅から日に2、3便のバスが出ている。インターネットで時刻を調べて、15時39分発高湯温泉行きに乗ることにして、それから逆算してJRの時刻表を調べると、水郡線の矢祭(東館駅)は11時発になる。郡山で2時間近い待ち合わせをして、福島には14時50分に着き、また50分近く待ってバスに乗る。待ち合わせ時間が長いのんびりした旅である。
高湯温泉行きは福島市郊外の吾妻山系麓の上姥堂まで福島バス(民営)が運行し、その先の山岳道路は、生活路線ということで市が運行費を補助している。終点の高湯温泉に着くと、硫黄臭が漂い、いかにも温泉地といった雰囲気である。宿は老舗の安達屋旅館で、バス終点の直ぐ近くにある。宿の番頭が私達を見つけて迎えに来た。
 安達屋旅館は、以前テレビの番組で、源泉の白色の湯が美肌に効き、ナマズの刺身が旨いということが放送されたので、一度行ってみようということになった。古い旅館なので3階建ての建物が入り組んで、内部は迷路のようになっている。浴場の建物も木造で、硫黄のせいか、柱、壁などが黒く染まっていて暗い。一方、露天風呂は広く、和風庭園の中に池を作って、水の代わりに温泉を流しているといった感じである。源泉でそのまま流し込んでいるので、お湯はぬるい。浴場の方は、換気扇をぶんぶん回しているので、外の冷たい空気が入り込んで寒く、浴槽から出られなくなる。
 部屋は和室で、暖房はプロパンガスのヒーターが置いてある。このヒーターを動かすと、排ガスが部屋に充満し、室内の酸素も減っていくであろう。部屋を案内した従業員は換気のことを一言も言わなかった。ヒーターの注意事項を見ると、2時間に一度窓を開けて換気して下さいとある。これには私も参ってしまった。我が家は30年前からクリーンヒーターを使っている。燃焼した排ガスは屋外に出す方式である。この装置は高価であるが、その分安心して使用することが出来る。夜なかじゅう暖房できるので快適である。
 この旅館の部屋にはいると嫌なにおいがした。温泉の硫黄のにおいと、暖房の排ガスのにおいが入り交じっているのである。トイレに換気扇があるので、これを一晩中回しておこうと妻と相談した。標高の高いこの地の夜は冷え込むであろう。覚悟が必要である。
 夕食は1階の個室風の部屋で取る。いろりが設けられ、炭火の炉端焼きができるようになっている。岩魚、牛タンなどが出され、自分で焼く。テレビで旨いと言っていたナマズの刺身は、淡泊な味で歯ごたえもよく美味しい。珍しかったのは、リンゴの中身をくりぬいて、中にグラタン風の材料を入れて、リンゴごと焼いたものである。容器に使っているリンゴも食べられます、というので食べると、甘くて美味しかった。土地柄と季節柄で、色々なキノコが色々な料理に入っていて、それも風味があり美味しかった。
 食事から部屋に戻り、寒い部屋でテレビを見ていると、妻の様子がおかしくなり、吐き気と下痢で何回もトイレに行った。妻は苦しいとうめき、下半身が氷のように冷たいという。私は、持ってきたホカロンをソックスの中に入れ、予備の掛け布団を全部かけてやる。それでも寒いというので、旅館の女将に事情を言って、湯たんぽ、毛布、電気ヒーターを持ってきて貰った。夜中の1時頃、まだ苦しいというので、これはキノコ中毒ではないかと疑い、女将に電話で救急車は呼べるかと聞くと、40分ぐらいで来るという。近くに医者はいないが、麓から来てくれるかもしれないので電話しようかと、女将がいうと、妻はもう少し我慢するから呼ばなくてもよいという。女将は心配して薬を2、3種類、体温計とホカロンを持ってきた。
 夜中の2時頃、妻は少し良くなったようで、妻のうめきの間隔も開いてきた。私はうめきの大きさ、間隔の時間で妻の快復具合を横で寝ながら観察していたが、そのうち私もうつらうつらして寝てしまった。朝6時に妻に聞いてみると、吐き気はやっと収まったという。
 妻の急激な吐き気は何が原因だろうか、キノコによる中毒は、私が何ともなかったので疑えないが、妻の体質かも知れない。硫黄温泉の湯当たりか? 湯がぬるいので必要以上に長く入ってしまった、と妻は言う。暖房器の排ガス中毒か? 同じ部屋にいた私は何も起こらなかった。女将にこの暖房器はガス中毒を起こすのではないか、と厳しい顔で私は問いただしたが、女将はきょとんとした顔で、長く使っていますが皆さん何ともないですよ、とにっこり笑う。結局、原因はキノコ中毒体質、湯当たり、暖房排ガス、寒い部屋、硫黄の臭気が複合的に妻の体を襲ったものだろうということに話が決まった。
 朝食ではこの旅館に泊まった20人位の客が元気そうにバイキング料理を漁っていた。夕食の料理で具合が悪くなった人はいないようであった。妻は、バイキング料理は食べられないけど、お粥と梅干しがあったら食べると言って、レストランに行くと、板長が特別にお粥を作ってくれていた。板長も昨夜の騒ぎを聞いていたようで、何だか恐縮しているような感じであったが、彼は、料理は原因でないという自信をしっかり持っていた。
 高湯温泉は、源泉が売り物のようであるが、硫黄系の源泉は年寄りには強すぎるようである。水で薄めて、適温に沸かして貰った方が有り難い。温泉から帰って2、3日、硫黄のにおいが私の体にしみ込んでいた。尾籠な話で恐縮だが、大便にもほのかに硫黄のにおいがしていたのにはびっくりした。
 高湯温泉の所々には、温泉の垂れ流しが水路に流れ、そこから湯気を出し、さらに硫黄のにおいが辺り一面に立ちこめている。大気中に含まれる硫黄の化学成分は、おそらく硫化水素、二硫化炭素などで、人体には良くないはずである。高湯温泉付近には相当古くから住民が住んでいて、彼らは顔色も良く、皆元気そうである。
 東京都下の三宅島では火山の硫黄系ガスがまだ漂っていて、住民は帰島できないでいるが、三宅島のガス成分と高湯温泉の硫黄のにおい成分は同じであろう。三宅島で大気中のガス濃度を監視している技術屋は、一度この高湯温泉の大気成分濃度を測定してみるがよい。高湯温泉では硫黄系ガス環境下で長期に渡る生活実績があるので、健康を維持できるガス濃度のレベルが掴める筈である。三宅島ではガス濃度に対して過保護になりすぎているのではないか?
                             2005.1.10
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iPod mini
 iPod (アイポッド)とは、アメリカのアップル社が発売している携帯型オーディオプレーヤーである。携帯型オーディオプレーヤーといえば、ソニーのウオークマンを思い出すが、ウオークマンの時代はもう終わってしまった。記録(メモリー)にテープを使う時代が終わったと言ってもよい。テープを使うビデオデッキは、コンパクトディスク(CD)を使うDVDデッキに変わってしまうし、小さなデジタルビデオカセットテープを使うデジタルビデオカメラも衰退しつつある。
 録音用のオーディオカセットテープは、ICレコーダーに変わりつつあるが、このテープの需要はまだあるようで、ラジオ付きカセットデッキが電気店に豊富に並べられている。私の妻は、ボランティアで町が毎月発行する広報誌の朗読を行っているが、録音にはカセットテープが必需品である。町にこの朗読テープを聞く人は数人しかいないが、彼らはカセットデッキしか持っていないようである。そこでは、カセットテープが唯一の伝達手段となる。ICレコーダーでは記録媒体を取り外すことができないし、録音できるCD(CD-R)は便利だが、それを聞くパソコンはまだ普及していない。
 オーディオカセット以外のテープ類は衰退の一途をたどっている。テープは、テトロンフィルムがベースで、その上に磁気塗料を塗布して作られる。走行するテープは、磁気ヘッドと接触してその役目を果たしているので、テープの摩耗劣化は避けられない。そこで、塗料の種類が選択されるわけで、耐摩耗性の優れたポリウレタン塗料が多く使用された。私は、日本ポリウレタン工業㈱に長年勤めていて、そこでテープ用のポリウレタン塗料の開発にかかわってきた。私が勤めていた頃は、まだテープ類の需要が多く、この塗料の売り上げが会社の業績に多く寄与していた。テープが売れない今は、この種の塗料の売り上げは落ち込んでいるであろう。テープから変わったコンパクトディスク(CD)は、レーザー光線を当ててディスクの凹凸を追従していく仕組みであるから、テープのような摩擦による劣化はない。従って、CDは耐摩耗性が必要でないから、ポリウレタンの出番がなくなってしまった。
 iPodは、記録媒体にHDD装置を用いている。HDDとは、ハード(H)ディスク(D)ドライブ(D)の略で、言葉から察してディスクを回転させて、メモリーの出し入れをするのであろう。私はパソコン用の外付けHDD装置を2台もっているが、どのような仕組みで動いているのか分からない。HDD装置は中が見えないようになっているのである。私が持っているHDDの2台のうちの1台は、ハガキ大の大きさで、30GBの記憶容量を持っている。iPodは、HDDを超小型にして、これを音の記録、再生に応用したものである。アップル社の平凡なこのアイデアは世界的な大ヒットを生むことになった。特別な技術の開発でなく、従来から使っていたパソコンの記憶装置を音楽再生装置に用途を変えたというだけで、アップル社を立ち直らせるほどの商品になったのである。ウオークマンのソニーは完全に後れをとってしまった。
 iPodにはメモリーが4GBから40GBまで色々な機種があるが、私は、昨年11月に4GBの iPod mini を2.7万円で購入した。その前の昨年3月に、私は音楽も聴けるという、サンヨーのICレコーダー(ステレオデジタルボイスレコーダー、ICR-S290RM)を、2.9万円で購入した。このICレコーダーについては、この欄の昨年の5月に記した。私は、これは究極の音楽プレーヤーだという期待で購入したが、残念ながらハム音という雑音が気になって、私はとうとう使うのを止めてしまった。このICレコーダーの記録媒体はHDDではなくて、フラッシュメモリー(290MB)である。iPodよりは先の技術であるが、音楽で致命的な雑音を消す技術が解決できなかったのである。
 使わなくなった私のICレコーダーをどうしようか、今考えているところである。ICレコーダーはマイク付き録音機能と再生用のスピーカーが付いている。もともと英会話用あるいはサラリーマン、特にマスコミ記者の声のメモ用に開発されたものであるから、そのような用途が向いているようである。私の場合、英会話はこの年でまた始めるのも億劫である。山に入って鳥の声でも録音しようかと思っている。冬の森は、ウグイスらしい鳥の、チャッ、チャッ・・・という「地鳴き」が方々で聞かれる。沢の水辺に貯まった落ち葉をかき集めていると、その跡にウグイスがやってきて、えさを頻りに狙っている様が近々に見られる。
 iPod mini は「iTunes」というパソコン用ソフトが付いている。このソフトを使って音楽CDをパソコンに入れて、iPod を接続すると自動的にCDの音楽が iPod に入る。 iPodにはスピーカーがないので、イヤホーンで聴くことになるが、イヤホーンは外の音が入らないので、音楽に没頭することができる。iPod には色々な機能が付いていて、その中で気に入ったのが、スリープタイマーが、15分から120分まで5種類の選択ができることである。私は、イヤホーンで音楽を聞きながら寝るというのは窮屈だから、iPod専用のスピーカーを購入した。このスピーカーは、100Vの電源で、B5サイズぐらいの大きさで、iPod を差し込むだけで音楽が聴け、同時に iPod に充電をしてくれる。
 ICレコーダーの電源は、単4形の乾電池が2本で、10時間しか使えない。ICレコーダーは、100Vからのアダプターがなくて、電池はそのたびに新品と交換しなくてはならなかった。 iPod は、100Vからの充電方式で環境に優しい。しかし、iPod は、電池が見えないようになっているので、電池の寿命がきたらどうするのか、寿命が来る前に客は、新タイプに買い換えるだろうというアップル社の思惑だろうか。
 今私が持っている iPod mini には、クラシック音楽の小品ばかり、120曲が入っている。この容量は、560MB分で、10時間である。iPod mini の容量は4GBであるから、あと40時間分の音楽を入れることができる。私が入れているクラシックの小品は、静かな優しい音楽ばかりで、ピアノ、ヴァイオリンのソロが多い。寝る前に120分のタイマーをかけ、このクラシックを聴きながら寝ることにしているが、1曲も聴かない内に寝てしまう。後の2時間弱の音楽は睡眠中の私の脳に入っているのか、入っていないのか分からない。直ぐ寝てしまうのだからタイマーは15分で良いのではと思うが、睡眠中の脳に入る音楽がストレス解消に効果があるのでは、と私は期待しているのである。
 今年2005年1月に、アップル社は iPod shuffle という新製品を出した。このメモリーはHDDでなくて、1GBのフラッシュメモリーである。アップル社は、遂に究極の携帯型オーディオプレーヤーを出したわけである。この shuffle の大きさは、チューインガムの10個入りケース、あるいは使い捨てライター程度という。なんと小さいことか! しかも1.7万円で買える。これで日本のウオークマン系のオーディオプレーヤーは完全に駆逐されるであろう。日本の技術陣も、ICレコーダーでウオークマン系の小型化を図ってきたと思うが、ICレコーダーの流れであったマイク付き録音機能とスピーカー付きにこだわりすぎたのか、あるいは致命的な雑音を除去する技術が開発できなかったのか、アップルの優れた商品設計と技術に完全に負けてしまった。
 iPod shuffle には録音機能もスピーカーも付いてなく、ただイヤホーンで音楽を聴くという単機能のプレーヤーである。これは、ウオークマンの機能と同じである。 iPod shuffle は他の iPod と同じように、パソコンから音楽を転送するようになっていて、パソコンのUSB接続口に shuffle を直接差し込む方式である。USBには数ボルトの直流電源があるので、shuffle に同時に充電もできる。1GBの容量は、12時間の音楽が聴ける容量であるから、十分である。
 私が持っている iPod mini は、液晶の表示があって、今演奏している曲のタイトルとか作曲者が表示されるようになっているので、大変便利である。 shuffle にはこの表示がないので、例え shuffle が究極のオーディオプレーヤーであっても、私は買い換える気持ちはない。私は iPod mini に満足しているのである。
                             2005.2.10
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磁器絵付け
 磁器絵付けとは、皿などの白磁器に金属系の絵の具で絵を描き、800℃20分焼きつけて、「絵皿」を作成する手法である。作成した絵皿は、下の写真のようなもので、装飾用として壁に掛けたり、食器用に使う。
 私は、1994年10月から1999年9月まで5年間、東京原宿の陶画舎というところでこの技法を勉強した。5年間といっても、月2回、1回2時間の勉強時間であるので、習った正味時間は短い。私は当時、まだ会社勤めをしていたので、午後7時の授業開始に間に合わせるのに苦労した。会社では、その日の出張を避け、長引く会議、打ち合わせはしない、などの努力をして、5時の終業時刻に会社を出るという習慣を頑固に守った。
 私の勤め先が横浜の戸塚であったので、原宿まで約2時間の通学時間にゆとりはなかった。冬の間は、会社を出る頃はもう暗くなっているので、定時に退社するのはあまり苦にならない。「今日はちょっと野暮用がある」などと言って会社を出ていく。夏はまだ周囲が明るく、皆が仕事をしている中を後に、会社を出ていくのは気が引ける。そんな日は、東京への出張があると楽なので、出張日を選ぶ工夫などもした。私が絵付けを習っていることは、会社には内緒にしていたのである。
 その後、勤務地が神奈川県の厚木市に変わって、原宿まで少し遠くなったが、会社の終業時刻が4時半であったので、時間的にはゆとりがあった。しかも、小田急線の厚木から新宿行きに乗り、代々木上原で地下鉄の千代田線に乗り換えて、2つ目の明治神宮前駅に降りると、直ぐ上が陶画舎であるという交通の便に助けられた。夏場の4時半は暑く、明るいが、当時会社では勤務時間にフレックス制をとっていたので、4時頃から退社する社員がぽつぽついた。私は彼らに紛れて堂々と仕事場を離れることができた。ここでも会社には内緒で絵付けの教室に通っていた。
 食器などに使われている焼き物には、陶器と磁器があり、両方合わせて陶磁器という。和食用のうつわには陶器が主に使われる。陶器は粘土を原料にしたもので、割れやすいのでうつわに厚みを持たせている。一方、磁器は、白色のカオリンが主成分の粘土を原料にしたものである。磁器は、硬く強度があるので、薄での洋食器に使われる。両者とも、うつわの表面にガラス質の釉薬と呼ばれる塗膜が焼き付けられている。絵付けは、このガラスの塗膜の上に金属系の顔料で絵を描き、800℃で加熱し、顔料をガラス膜の下に沈着させる手法である。従って、描かれた絵は、水、油、熱に強く、いつまでも鮮やかな色を保つ。
 絵付けを趣味として楽しんでいる人は外国に多く、絵付けのコンクールや技術の国際大会などがさかんに行われている。日本でも、近年趣味として楽しむ人が増えているようである。しかし、絵付けを教える教室は少なく、関東地域でも5ヶ所ぐらいであろうか。私が暫く通った教室は原宿陶画舎といい、原宿にある。ここには教室と、色々な絵付け用の材料を売っている店がある。教室は、西洋絵付け教室と和陶絵付け教室の2種類がある。西洋絵付けは、白色磁器に花などの絵模様を描く手法を教え、和陶絵付けは、素焼きの陶器に絵付けし、釉薬をかけて絵皿を作る技術を教える。
 私は、西洋絵付け教室に3年半、和陶絵付け教室に1年半通った。西洋絵付け教室の生徒は、20代の女性がほとんどで、勤め帰りにやってくる。6、7人の若い女性の中、50を過ぎた男の私が一人いるのは居心地が悪かったが、一方華やかな雰囲気は気分転換におおいに役立った。私は、20代から油絵を描いていたので、絵を描くという事に関しては、絵付けの技法と似通っているので、教室では皆から巧いとほめられていた。しかし、絵付け用の筆は細く、細い線を一気に描くので、50代の私は、老眼鏡をかけ、そして手のふるえを如何に抑えるかに大変苦労した。
 和陶絵付けの教室も女性が多かったが、年齢層は30から40代である。男性も私を入れて3名いた。和陶絵付けは、素焼きの陶器に大胆に一気に大きな筆で描くので、西洋絵付けとは対照的である。絵柄も、野菜、魚など所帯じみたものが多いので、若い女性には人気がなかったのだろうか。私は和陶絵付けが好きであった。絵付けが簡単で、一気に描くので勝負が早くつく。素焼きへの絵付け(染め付けという)は描き直しができないのである。一方、西洋絵付けは、簡単に消して描き直しができる。自分が納得のいくまで繰り返し描くことができるので、若い人に向いているのであろう。年を取ると時間が大切になり、決着を早く付けたがる傾向がでる。和陶絵付けは年寄りに向いている。
 西洋絵付けは、油を混ぜた顔料、溶き油、筆洗い用のシンナーなどを使うので、絵画で言えば油彩画に相当する。一方、和陶絵付けは、水を混ぜた顔料、水系の薄め剤などを使うので、水彩画あるいはアクリル画に相当する。化学物質の入った物を売る場合、容器には混ぜている化学物質名を表示することが義務づけられている。絵付け教室で使うこれらの材料にはそのような表示はない。
 私は化学を専門に仕事をしてきたので、容器の中にどのような薬品が入っているか、入っている物質の毒性はどうかを習慣的に気を付けることにしていた。これらの物質を扱っている人に障害が現れないのか心配していたが、講師の一人の若い女性がどうやらアレルギーに罹ったような感じであった。その講師は手に腫れ物ができて暫く休んでいた。良くなったといって教室に戻ってきたが、また悪くなったようで出てこなくなった。一旦アレルギーになると、薬物に対して体がさらに敏感になり、医薬品を使っても直らない。私は、勤めていた化学会社でこのような事例を何人も見てきた。治療法は簡単で、相当する化学物質に触らない、そして近づかないことである。この先生は絵付けを勉強して、講師になって、これで生計を立てようと思っていた矢先、アレルギー症に襲われたのであろう。可哀想であるが、彼女は絵付けの仕事を諦めた方がよい。
 和陶絵付け教室に、40代の女将さん風の女性の生徒がいた。彼女は新宿で飲み屋を開いているようで、自分が制作したうつわを店で使うのだと張り切っていた。彼女は地味な味のある絵付けをしていたが、このような器に盛られた料理は旨そうに見えるだろう。私は、一度その店に行ってみようかと思っていたが、彼女に店の名前と場所を聞く機会がなく、教室をやめてしまった。5年間通った教室での唯一の心残りであった。
 現在、私は横浜に住んでいた時に買った焼き付け用の電気炉を使って西洋絵付けを細々と行っている。絵付けの絵具類や白磁器類は陶画舎のホームページから注文して入手できるので、このような田舎に住んでいても不自由はしない。自分が絵付けした皿で食事をするのは楽しいものである。私は、絵付けを勉強して良かったと思っている。
                             2005.3.10
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車保険
 最近、「自動車保険を見直そう」というコマーシャルがテレビで流れているが、私も見直しをすることにした。私は、20年以上も前から私が勤めていた会社の関連会社が特約店をしている、三井住友海上火災保険の自動車保険に加入していた。この特約店は、毎年更新時期になると手紙が来て、新しい保険に切り替えろとPRしてくる。この保険は、団体扱いで、会社の給料から天引きされていて安いと思って、私は退職後もそのまま継続していた。退職して5年以上経ったので、私の会社への帰属意識も完全になくなり、今が良い機会だと思って見直しをすることにした。
 私は、毎年、昨年と同じ補償内容の保険を継続して入っていたが、最近同じ補償内容でも保険料が少しずつ値上げされているのに気がついた。無事故であれば保険料は毎年下がるはずである。私が高齢者になったので、保険料を値上げして、解約を暗に迫っているのかと、私はひがみ、それなら保険会社を変えようと決心したのである。
 インターネットでは、条件をインプットすれば各社の自動車保険料を算出してくれるサービスがある。私は、それを利用して、今までと同じ補償内容をインプットして、そのサービス会社に送信した。その会社は5社の保険会社に私の条件を配信してくれ、暫くして各社の見積もりが私のところに郵送されてきた。これらの会社の中に全労済がなかったので、全労済のホームページから見積もりを依頼した。チューリッヒ保険は見積もりの金額はこなく、見積もり請求の用紙が送られてきた。面倒だからこの会社は除外することにした。また、この条件では見積もりは出さないという、冷たい会社もあった。
 私は、最終的に保険料の安い全労済とアメリカンホーム保険を候補に絞り、検討することにした。全労済の保険料は年額、20,160円、アメリカンホームは年額、25,330円で、今までの三井住友海上火災は年額、3万円であったから大幅に安くなる。ソニー損保は3.5万円であった。一番安い全労済に決めようと思い、申込の書類を書き始めて気がついた。他の会社は申込用紙に記入して印鑑を押し、それを用意された封筒に入れて会社に送るだけであるが、全労済は大変面倒であった。全労済は、書類の郵送でなく、全労済支所の窓口まで書類を持っていかなければならない。その際、預金通帳と印鑑、車検証の写し、自賠償保険の写し、今までの自動車保険証などが必要という。
 手続きが厄介だから全労済はあきらめて、アメリカンホーム保険に入ることにした。ここは申込用紙に記入し、印鑑を押して、郵送するだけである。後で一年分の保険料を銀行から振込むだけである。私は、念のためアメリカンホームのホームページを開いて、インターネットで加入手続きができないか調べると、できることが分かった。ネットで加入すると、書類による加入より8%安くなるという。早速、パソコンの画面に入力し、申し込んだ。料金はクレジットカードで支払った。極めて簡単で、保険料も20,230円であった。全労済とほぼ同じである。
 私は普通車と軽自動車を持っていて、この20,230円は普通車用である。軽自動車は妻が主に使っているが、この保険もアメリカンホームに切り替えた。同じ手続きで年額17,140円を支払った。2台の保険料は合わせて、37,370円である。今までの三井住友海上火災は、2台で58,440円であったから、2万円も安くなった。
 どの会社も同じであるが、保険には割引用の色々な特約がつく。私の場合は、家族記名運転者限定特約、ノンフリート21等級、早め契約割引、ネット契約割引、無事故、ゴールドカラー割引などが適用された。運転免許証のゴールドカラーは私の自慢であったが、残念ながら2年前に踏み切り一旦停止で違反して、無違反は消えてしまった。この契約の申込時点の運転免許証は、更新前であったので、まだゴールドカラーである。免許証は今年3月24日が更新期限になっているので、ゴールドカラーの告知は微妙である。契約時点では、実質的にはブルーカラーであるので、告知違反だろうか。保険証券の注意事項には、免許証の色が変わった場合は届け出るように、とは書いていない。
 ゴールドカラーとブルーカラーで保険料はどれくらい違うのか調べてみると、年3000円ほどブルーカラーが高い。車2台分であるから、年6000円になる。来年の契約更新はブルーカラーで申告しなければならない。これが次の運転免許更新まで5年間続くのである。踏切一旦停止違反は、減点2で、罰金9000円である。罰金を入れて、私の交通違反による損失は4万円以上にもなる。たいした違反でもないのにこんなに多額になろうとは情けない・・・・。
 踏切で一旦停止の義務は無意味だから規則から外そう、という動きが国会議員の間であるようである。全く同感である。私は、週に4日、矢祭から棚倉町までの約30kmを車で走っている。道路にほぼ並行して水郡線というJRの線路があり、日に5往復程度の列車が走る。道路の選択によってはJRを高架で渡り、踏切を渡らずに棚倉町に行くことができるが、私は2回この水郡線の踏切を渡ることにしていた。
 違反した現場の踏切は、上下とも2、3km先から列車が見える見通しのよい踏切である。私は、踏切の100m先から左右を見て列車が来てないことを確かめて、踏切を減速しながら走り抜けた。すると、後ろからパトカーがサイレンを鳴らしながら私の車の直ぐ後ろを走ってくるではないか。最初は交通違反に気がつかなかったので、パトカーは他の車を追っているのかと呑気に走っていたら、その車、止まれと私に命令してきた。
 「踏切一旦停止違反です」と言って、警官は私に免許証を見せろと言う。 「あそこは一旦停止の表示もなにもないところだが・・・」と私が抵抗すると、 「表示がなくても全国一律踏切では一旦停止する規則になっています」と警官は落ち着き払って言う。私は、抵抗は無駄だと思い、違反に従うことにした。
 それ以降、私はやけになって踏切では一旦停止することにしている。遠くから列車がくると、踏切の遮断機が下りてないのに車を止めて、列車が通り過ぎていくのを眺める。「ああ、きたきた、2両編成か・・・」 「乗客は3人しかいないなあ」 と乗客の人数まで調べることができる。踏切のすぐ手前でしばらく停車するのは、これも交通違反になりそうだから、50mほど手前でこのような見物を楽しむ。見晴らしの良い田圃の中を気動車がごとごと走っている風景はのどかである。
 以前住んでいた横浜では、JRあるいは私鉄を横切る道路は高架か地下になっている。たまに踏切を渡る道路があるが、踏切の遮断機は閉まりぱなしが多い。開いても短時間だから怖くて渡れない。だから私は踏切のある道は避けて通っていた。私には、踏切で一旦停止の習慣は全くなかったのである。
 踏切での一旦停止がどの程度事故防止に役立つか疑問である。この交通規則はおそらく半世紀前に作られたものであろう。当時は、車の性能も悪く、踏切の真ん中でエンストを起こし、立ち往生することが想定されたので、踏切前で一旦停止し、ロウギヤーに切り替えて発進するのが安全とみたのであろう。また、踏切の警報、あるいは遮断機の信頼性が低かったので、人の目で確認させるのが安全だと判断したのであろう。車の性能が向上した現在では、走行中にエンストすることはありえない。踏切前はノンストップで、なるべく早く踏切内を走りきるのが安全である。
 地球温暖化を防ぐ上でも、踏切一旦停止の規則は好ましくない。全国何万とある踏切の前で、1日何百万回も車が停止し、そしてエンジンを噴かして発進するのであるから、ガソリンの消費量と二酸化炭素の発生量は馬鹿にならない。京都議定書で日本が二酸化炭素を削減したいなら、踏切一旦停止の規則はなくすべきである。私が違反したから腹を立ててこのようなことを提案するのではないが、踏切一旦停止の規則は廃止すべきである。
                             2005.4.10
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温泉旅行2
 今年4月24日、私達は福島市にある飯坂温泉に1泊旅行をしてきた。この温泉には2年前の夏にも行ったことがあったが、泊まった旅館が温泉街のはずれにあり、周りが民家と畑であったので温泉に行ったという雰囲気が味わえなかった。このことが妻にも不満で、私も気になっていたので、今回は温泉街の中心にある飯坂観光ホテル「叶や」に予約を入れた。
 私は、ホテルの予約は全てインターネットの旅の窓口(現在は楽天トラベルに名称が変わった)で行ってきた。今回もホテルを選択する際、ホテルの所在位置を調べながら決めようとした。このホテル「叶や」にはホームページがあったので、そこを開いてみると、花見時期の特別企画があり、値段も安く設定されていた。私は、直接このホテルのホームページ上で予約をした。すると確認のためと称して、予約をしたのが本人であるかどうか、ホテルから電話があった。一般にはメールで確認の知らせが来るのだが、このホテルはメールでは安心できないのであろうか。
 ここ矢祭町から福島市に行くには、東北自動車道の矢吹インターチェンジから高速道に乗るのが距離的に近い。4月24日は丁度白河市の南湖公園の桜が満開になっていたので、そこの桜を見物してから、白河インターチェンジで高速道に入ることにした。
 南湖公園は、1801年に造園された日本で最古の公園であるが、一般にはよく知られていない。その日は日曜日で、桜が満開であったので、公園周辺は車で混んでいた。この日は快晴で、視界が良く、那須連山がよく見えた。那須は、茶臼岳、朝日岳など2000m近い山が並んでいて、まだ真っ白に雪が被っていた。公園には南湖という湖があり、そのまわりに桜と松が植えられ、背景にこの白い那須連山が見える。この風景はプロの写真家が好んで撮す所で、その写真は地場の会社のカレンダーなどにも使われる。私はカレンダーの写真を見て、これを油絵にした。完成した油絵は、今年4月号のホームページの油絵作品に載せてある。
 私が写真を見て絵を描く場合、写真の詳細を観察して描くので、風景の詳細が私の頭の中に入ってしまう。だから実物を後から見た際も、私が描いた絵と比較することができる。カレンダーの写真は、望遠レンズで撮ってあるので、那須連山が大きく迫力ある構図になっている。実際見る那須は小さくしか見えないので、写真のイメージとは随分違う。私が現地で風景を見ながら写生する場合も、絵の構図は遠景を大きくする。つまり望遠レンズで見たと同じように描く。そうすることにより、絵も迫力がでるのである。
 飯坂温泉の叶やには4時頃着いた。飯坂温泉は奥州三名湯の一つに数えられる温泉である。摺上川の両脇にホテルの建物がぎっしり、隙間なく建てられている典型的な温泉街が構成されている。叶やは、その中心に近いところに位置し、7階建ての大きな建物であった。案内された部屋は5階で、摺上川が見下ろせるところである。摺上川は急流で、水量が異常に多く、流れの音が大きい。案内した人に聞くと、今雪解け水が上流の摺上ダムに貯まって、水位があがっているので放流しているのだと言う。今年の冬は雪が多かったので、水量も多いという。
 飯坂温泉は客が年々減少し、閉鎖されたホテルも所々ある。地元の商工会は町全体に活気を取り戻すのに色々工夫をしている。各ホテルも特徴をアピールするのに苦心しているようである。この叶やは、昔風のサービスを復活して特徴を出そうとしている。部屋担当の女性従業員は和服を着て、部屋の客に3本指を突いて恭しく挨拶する。夕食は部屋まで運び、部屋で食事をさせる。お酌とか飯盛りまではさすがにしなかったが、用事をフロントに電話すると担当の従業員がすっ飛んでくる仕組みになっている。あまりにも丁寧にサービスをするので、私は昔風の心付けを担当従業員に渡す必要があるのかと心配した。
 朝食も部屋に運んでくれて、部屋で朝飯を食べる。一般のホテル、あるいは旅館では、朝食は宴会場、あるいはレストランでまとめて食べさせるのであるが、ここは昔風を堅持する。また一般には、夜と朝の部屋担当者が違うので、チップの必要を感じさせないが、ここは昨夜と同じ40代の女性が、昨夜とは違って洋装のユニフォームを着てやってきた。彼女は、昨日はかしこまった言葉で対応していたが、今朝は妙に馴れ馴れしく、福島訛りのアクセントで話してくる。
 「後で食器を片づけにきます。ごゆっくりどうぞ」と言ってその女性は出ていった。私にまた、チップの心配が出てきた。チェックアウトでは料金に必ずサービス料が入ってくるので、チップは必要でないが、こうも同一人物に世話をして貰うと、チップを出す必要があるのかと迷う。欧米の枕チップでは相手が見えないので、気楽にチップを置けるが、日本では直接本人に手渡す習慣である。しかも、お金は裸ではなく、何かに入れて渡さなければならない。その袋もないし、金額もはっきりしない。私は面倒だからチップは出さないことにした。
 私が朝食を済ませて、洗面所で顔を洗っていると、その女性が食器を下げにやってきた。妻が応対し、世間話をした後、女性は、「どうもありがとうございました、また是非お越し下さい」と、妻に別れの挨拶をする。丁度私は洗面所横のトイレに入っていたので、私は息を潜めて、女性が部屋を出ていくのを待っていた。すると、彼女は洗面所の前を通るとき、声を低くして、「どうもありがとうございました」と私に向かって言っているようであった。私は放っておくわけにもいかないので、トイレの中から、「おほん」と咳払いをして返事をした。愉快な女性である。
 ホテルを出て今日は福島市内の花見山に桜見物をしに行くことにした。花見山は、阿部家個人の所有の山に、戦前から色々な花の木を植えて、山全体が花の木で覆われたところである。花見山は、つい数年前まではあまり知られていなかったが、最近は全国的に桜の名所として知られるようになった。花見山にはバスツアーの観光客が各地から、三春の滝桜とセットにしてやってくるので、大変な混みようである。個人の所有地だから、道路も住宅地の中を通る狭い道しかなく、駐車場もほとんどない。福島市も放っておくわけにいかなくなり、近くの公共施設を駐車場に開放したりしているが、不便さはあまり改善されない。駐車場が遠いので見物客は10分、20分と花見山まで歩くことになる。
 私達が訪れた日は花見山の桜は満開を過ぎていたが、そのほかの花が色々咲いていたので十分楽しめた。椿、桃、コブシ、れんぎょう、雪柳、ぼけ、モクレンなど山は賑やかである。桜だけの観光地は、見物客が桜の満開を見計らって来て、不幸にしてそのピークの予想が外れていると、客はがっかりして帰るしかないが、この花見山は桜以外の花のほうが多いので、例え桜の季節が終わっても満足して花見物をすることができる。花見山は花木の種類の多さに圧倒されるが、花木の配置は、思いつきでどんどん植樹していったようなので、雑然としている。その雑然雑多さが面白いのであろうが、私は再訪する気にはなれなかった。
 福島市にはアンナガーデンというユニークな街が郊外の丘の上につくられている。200年前の英国教会から教会の一部を持ってきて建てた聖アンナ教会をシンボルにして、その教会の雰囲気を守るように建てられた店舗が多く集まる所である。ここは福島市から車で20分ぐらいの所にあり、表示も各所にあるので分かりやすくて行きやすい。区域内は20軒以上の店が公園のような木々の中に点在し、情緒ある洗練された雰囲気をつくっている。訪問客は少なく、1軒の店に1人か2人ぐらいの客が入っている。この少なさを最初から見越してか、店は皆小さくこじんまりしている。店の中は通路は狭く、しかし商品がどっさりあるという共通点が面白い。私にとってこの街は落ち着く場所で、楽しいテーマパークに感じた。今度来るときは、近くのペンションに泊まって、「みちのく福島路ビール」のビアガーデンでビールを飲んでみたい。
                             2005.5.10
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春の庭、05年(金谷紘二)
 我が家の庭は、庭造りを始めてから4年を経過した。20年以上住んでいた横浜の庭から植木も引っ越してきたが、それらもやっと落ち着いたようである。矢祭に連れてきた木々は、紅白梅2本、紅白の椿2本、サザンカ2本、キンモクセイ、そして柿木である。柿木は根付かなかったが、それ以外はすくすく育っているので、私は安堵している。
 我が家の庭は、建物の前、右半分と左半分をそれぞれ和風と洋風に分けて造ってある。建物の近くに大きくなる木を植えているので、今の季節、遠くの森の風景は部屋から見にくい。洋風に造った庭の前面には、コブシの木とマロニエの木を植えた。これらは、今高さが4m近くに育って、庭の主役になっている。コブシは4月に多くの花を咲かせ、マロニエは赤い花を3個、5月の初めから咲かせている。マロニエは大木の割には、まだ花の数が少ないが、そのぶん花の日持ちがする。
 和風の庭には、紅白の梅2本を枯れ池をはさんで植えてあるが、そのうちの紅梅の木は樹齢50年以上と思われ、梅の実がよくなっていた。横浜ではこの梅の木の実が、1シーズン30kgも収穫できたので、処分に大変困っていた。当時勤めていた会社の人に、梅はいらないか、梅酒にしたら美味しいよ、などPRして、欲しい人に配っていた。私も次第に梅の実を採るのが面倒になり、会社の人を自宅に招いて、勝手に梅の実を取らせていた。
 私自身も梅の実から梅酒を、毎年3リットルぐらい造って、毎晩寝る前に少しずつ飲んでいた。梅干しも1回造ったことがあったが、消費できず、保存されたままである。このように多くの人に喜んで貰った梅の木は、引っ越しの時、植木屋に堀上げてもらうと、根が半分腐っているという。私はびっくりして、とうとう寿命がきたのかと悲しんだが、この梅を見捨てるわけにいかず、矢祭に連れてきた。
 この梅の木は、隣町の菊池造園に運搬と植え付けを依頼して、庭の中央に植えて貰った。造園の菊池氏は、腐った根は切り取ったと言っていたので、生命力の強い梅はそのうち元気になるだろうと、私は期待していた。移して1年目、2年目は元気がなく、梅の実もほとんど実らなかった。3年目の昨年はやっと元気を取り戻したようで、実も1kg近く収穫できた。今年は葉も多く茂り、実も4、5kgは期待できそうである。すっかり元の姿に戻って、私も安堵した。一方、来年から実の処分に悩むのではと、今から配布先を考えておかなくてはならない。
 昨年までの梅の弱体化を見て、私は2代目の実梅の木を植える必要を感じて、安藤造園に頼んで梅の木を植えて貰った。今年の2月に、紅梅の豊後という品種を指定した。今ある梅は曲がりくねって庭木風に仕立てているので、今度はストレートに天に向かって伸びる梅が良いと安藤さんに頼んだ。梅を植える場所は私が深さ1m、直径1mの穴を掘り、腐葉土、油粕など予め埋めて準備していた。安藤さんが持ってきたのは、高さ1.8m程度の棒状であったので、私は満足した。3、4年後には梅の収穫が期待できるであろう。
 横浜育ちの梅が元気になったので、別の梅を新たに買う必要はなかったと、今私は後悔している。驚いたことに今年、横浜の50才の梅から50cm離れたところに、梅の子供が生えてきた。この高齢の梅は跡継ぎを作る必要を感じたのであろうか、2代目を用意していたのである。この子は来年親から切り離して別の所に移そうと思っている。
 横浜から移したもう1本の白梅の木は、これも40年以上の老木であるが、病気もなく元気である。この白梅は実を付けないので、木への負担が少ないのであろう。花が咲いて実を付けるが、その実はすぐ落してしまう。この白梅にはまだ子供が生えてこない。白梅は、まだその必要を感じていないのであろう。
 雪柳も親元近くに子供の木をつくる。今我が家にある雪柳は横浜で生まれた木である。横浜で最初に植えた雪柳は、子供の雪柳ができてすぐ枯れて死んでしまった。2才の子供の雪柳は横浜からこの矢祭に持ってきた。今年のこの雪柳は大きくなって、白い花をいっぱいに咲かせた。今年、気がつくと、この雪柳にも根元の近くに子供の雪柳を造っている。私は、親の雪柳が死を迎える準備をしているのかと思い、急いで子供の雪柳を別の所に移し替えた。
 矢祭に来て植えた新しい苗木も多くある。キングサリはその一つで、妻の希望で3年前に植えた。高さ1m弱の棒のような苗木であったが、今年になって3m近く成長し、今年始めて花を咲かせた。キングサリは、花は名前の通り、金色の鎖状で、枝の方々にぶら下がって咲く。長さ30cm近くある花のクサリは、風が吹くとぶらぶら揺れる。さらに風が強くなると、花が枝に巻き付いてしまうので、格好悪いから私は一つ一つ戻してやる。手間がかかる花である。
 先日の風の強い日に、ひょろ長いキングサリが根元から倒れてしまった。これを見た妻は多いに悲しみ、折角のキングサリはこれで終いかと、悲嘆にくれた。普段あまり木の世話をしない妻は倒れたキングサリを起こし、根元を足で押さえつけ、支柱に紐でくくりつけた。支柱は倒れていないので、支柱に縛っていた紐が切れてしまったのである。私は無事であればよいがと思い、毎日キングサリの様子を眺めているが、今のところ何ともないようである。キングサリは細い幹が一本上へ伸び、上の方に鎖状の花房をいっぱい咲かせるので、花や葉の重みで上部が傾く。キングサリは、元来他の木に寄り添って生きてきた木なのであろうか。森の中で木々に寄り添って幸せに育つ木なのであろう。キングサリは野原にぽつんと立って、たくましく生きる木ではないようである。
 私がキングサリを始めて知ったのは、5年前イギリスに行った時である。ロンドンから少し離れたオックスフォード大学を見学したとき、方々にこの木があり、花をいっぱいに咲かせていた。校内を案内してくれた人は、アンジェラさんといい、60才近くの典型的なイギリス婦人で、オックスフォード大学の卒業生のようである。彼女は大学を自分の家のように自慢げに案内説明してくれた。キングサリはgolden-chainといい、イングリッシュガーデンでは欠かせない植物であることも、その時教えて貰った。当時撮したイギリスのキングサリの写真を見ると、我が家のキングサリの花の色と違って、イギリスのはより金色に近い。我が家のは淡い黄色である。樹齢が積み重なると黄色から金色になっていくのであろうか。楽しみである。
 今年、雪柳の近くに白モクレンのような葉をした植物が土から2本出てきた。白モクレンは、横浜の庭で古くから育てたもので、毎年白い大きな花を咲かせ、近所の人たちが開花を楽しみにしていた。高さ7mぐらいの大きな木であったので、私が切り倒して、幹の一部だけを矢祭に持ってきて、庭の中央にオブジェとして建てた。その白モクレンが何故今になって出てきたのであろうか。横浜の庭土は、長年落ち葉や、雑草や、選定した枝葉などを穴を掘って埋めて、腐葉土にしていたので、有機質の豊富な黒土になっていた。一方、矢祭の土は石混じりの痩せた土であったので、私は横浜の庭土を土嚢に詰めて、数多く持ってきた。その土の中にモクレンの種が入っていたのであろうか。
 多くの仲間の木々が矢祭に引っ越す中、白モクレンだけが取り残され、切り倒されたのだから、白モクレンも無念であったのであろう。その無念さが種に乗り移って、矢祭で4年目に芽を出してきたのだ。私は、この白モクレンの子供を大切に育てなければならないと思っている。
                             2005.6.10
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北欧の旅、1
 私達は、05年6月15日から15日間の日程で、北欧4カ国へ旅行した。参加したツアーは、ユーラシア旅行社が企画した「北欧物語15日間」である。ユーラシアからは毎月1回、宣伝用の冊子が送られ、そこには美しい写真と紀行文が載せられているので、それを見ていると旅行への関心が高まる。私は、特に今年の3月まで、住んでいる地区の連絡係(班長という)をしていたので、長期の不在は好ましくないと思い、旅行は控えていた。4月からはそれがお役ご免となったので、早速このツアーに申し込んだ。
 この北欧物語というユーラシアの企画は人気があるとみえて、希望者不足による旅行の中止が少ないようである。理由は、ノルウェー国にあるノールカップというヨーロッパ大陸の最北端の岬に行くという、目玉が設定されているからであろう。特に6月から7月にかけて、白夜の太陽が最北端の地で見られるというのが、何となく人のロマンをかき立てるのであろう。従って6、7月は北欧物語のハイシーズンになる。値段も一人60万円と高い。
 私達が参加したツアーには19人の参加者が集まった。参加者は、全員60代から70代の年齢で、50代以下の人はいない高齢者集団になった。添乗員は臼井さんという26才の青年である。彼は、自分の両親あるいは祖父母の世代の人達を日本から北半球の最も遠い所に連れていくようなものであるから、大変であろう。60代以上の人達は、自分の生活スタイルを既にしっかり確立している。彼は、これらの人達が一緒になる集団を引率するのだから、気を使うであろう。
 参加者は、各地への移動、観光地での見物では、ガイドの話を聞いたり、一団になって歩いたりするだけで、お互いの交流はないが、食事時は互いに顔を合わせることになる。レストランではツアー客は6~7人の席にまとめて座らさせる。このツアーの場合、2、3組に分かれて食事をすることになる。席は好きな場所を選ぶことができる。ツアーの最初の食事時は、参加者は互いに相手がどのような人か判らないので、各自ランダムに席を取り、にこにこ話をする。どこから来たのか、どこに住んでいるのかが最初の話題となり、また、集合の日はどうやってきたのか、空港までのアクセスを聞いたりする。
 特に私達は福島県の無名の町からやってきたので、どうやってきたのか心配してくれる。多くの人は、新幹線で東京に出て、そこから成田へ行くと予想する。私は、それを否定するために、矢祭の場所がどこにあるか説明する。矢祭から、最寄りの新幹線の駅は新白河で、そこに行くのに車で1時間かかる。新幹線経由だと成田まで自宅から約5時間かかってしまう。 「だから車で直接成田にいきます。そうすると正味3時間で行けます」と、説明する。「今回は集合が朝の8時50分でしたので、成田周辺のホテルに泊まりました」と、私が言うと、「そうですか、費用が余計にかかりますね」と、言ってくれる。私が、「成田周辺はホテルが多く、競争が激しいので安く泊まれます。今度泊まった成田エクセル東急ホテルは、朝食付きで1人7400円で、2週間駐車料金が無料です」と、言うと、「そうですか」と、相手は気のない返事をする。「おまけにこのホテルは大浴場があるのです」と、私が得意になって言うと、相手は白けた顔をして私を見る。
 3、4回食事を重ねると、メンバーがどのような人間であるか、お互いに判り始め、好みの人同士が自然に集まるようになる。関西の人のように、Aさんこっちにおいで、とあからさまに誘う人はさすがにいない。このツアーの参加者は60代前半と70代付近の人に大きく分類される。70代は海外旅行の経験が豊富で、その体験談を頻りに話したがる。そのような人は他人の話はあまり聞かなく、一方的に話をするので、聞く方も面白くなく、次第にその人から遠ざかってしまう。
 ある日の食事時、偶然60代前半組と70代付近組が分かれてテーブルに着いた。60代前半組は、サラリーマン時代の習性がまだ残っているので、他人と歩調を合わせる努力をすることができる。1つの話題が出ると、それについて自分の意見とか、経験を出し合って話が広がっていく。一方、70代付近組は、自分の体験談を話すだけで、他の人はその話に無関心だから、会話が途切れる。
 私は70代付近組に入るが、旅行の回数も少なく、面白い体験もあまりなく、あっても記憶が遠くなっているので話せない。にこにこして話を聞き、相づちを打つぐらいである。私の妻は、耳が遠いので話の内容がよく分からなく、会話に入れない。私達はただにこにこして、黙々と食事をするだけである。このような人は他にもいたので、申し訳ない気分にはならなかった。食事時の話題は、今日の観光の話とか、料理の話をするのが、無難で好ましいと思う。
 添乗員の臼井氏は、明るく朗らかな青年で、添乗員の仕事を一生懸命にこなしていた。声が大きくはっきり発音するのが大変よい。高齢者の集団は多かれ少なかれ耳が遠くなっているので、大きな彼の声は有り難い。ある都市のホテルのロビーで、彼が大きな声をして説明していると、地元の女性ガイドから彼に、静かに話しなさいと注意された。彼は急に声を小さくしたので、彼の話を聞き取るために集団は小さな輪になった。これは女性ガイドの思惑通りであったが、彼女は高齢者のハンディを認識していない。臼井氏はその都市を離れると、再び元の大きな声になったので、私は安心した。
 添乗員は、食事のための集合時刻とか、荷物を出す時刻などを皆に知らせる重要な仕事がある。その時刻などを徹底させるために、添乗員は口頭で説明し、さらに後からそれらを書いたメモを各自に渡す。以前、別のツアーで、参加者の中年の女性が、同じことを2度繰り返すのは無駄だから、メモだけ渡せばよいのでは、という提案があった。その時の添乗員はやむを得ずその通りにしたが、高齢者のハンディを知らないこの女性の提案は無視すべきであった。高齢者には目が不自由で、声だけが頼りという人もいるのである。目の不自由な人は、一度聞いたことは確実に記憶する能力を必然的に備えている。口頭の説明がなくなると、不自由な目でメモの文字を虫眼鏡で見なければならない。
 添乗員は、同じことを何回も大声で言わなければならない義務がある。街中の雑踏の中で、バスに集合する時刻を伝える場合は、特に繰り返しが必要である。 「あ!あそこに面白そうな店がある、後で行ってみよう!」など、ぼーっと考えていると、添乗員が必死に喋っている言葉も耳に入らない。3回目ぐらいで気がついて、「今何時集合と言ったの?」と、隣の人に聞く。集中力が散漫になる街中では、最低5回の繰り返しが必要である。それでも確認のために近くの人に時刻を確認しあう。若い人が見ると、滑稽に思うかも知れないが、私達高齢者はそれが必要なのである。
 海外旅行を年に5、6回している70代の人が、「旅で記憶に残るのは楽しいことでなくて、食事がまずかったこと、ホテルの部屋の不具合など、不愉快なことだけです」と、言っていた。だから彼のような人と食事で同席すると、そのような事例を次々と話してくれる。私は、最初は感心して彼の話を聞くが、そのうち聞くのが嫌になる。この人達は、世界各地の珍しい景色に接しても、今更感動もしないし、記憶にも残らない。むしろ変わった事件、不愉快なことが記憶に残るのであろう。彼らは、わびしい「海外旅行オタク」になっていて、本人はそれに気がついていない。
 このような人を見ていると、私は、海外旅行は、たまにするのがよい、1年あるいは2年に1回ぐらいがよい、と思うようになった。そうすれば新鮮な気持ちで観光でき、楽しい出来事だけが記憶に残るであろう。何よりもお金が節約できる。
                             2005.7.10
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北欧の旅、2
 今回のツアーに参加した「北欧物語」は、期間が15日間である。15日間の旅行は、サラリーマンなど現役で仕事をしている人にとっては参加できない日数である。私は、既にリタイアしているので、20日でも30日でも旅行ができる。長ければその分ツアー料金も高くなるので、容易には参加できない。私が長めの旅程を好んで選択しているのは、往復の長距離飛行から受ける苦痛が嫌だからである。狭い座席に10時間以上も座らされるのは大変であるが、私はそれ以上に、飛行機の離着時に生じる機内の気圧変化が原因で、耳が痛くなるからである。
 以前の私は、この気圧変化にそれほどの苦痛を感じなく、唾を数回飲み込むだけで気圧変化に順応していたが、年を取るとそれができなくなった。機内の気圧変化は、地上から持ち込んだペットボトルの膨らみ具合をみて、相当あることが判る。機内食で配られるヨーグルトの容器は、気圧が低いので中がぱんぱんに膨らみ、これを開けると、ヨーグルトが飛び出して顔にかかることがある。逆に、機内で飲んだペットボトルを地上で飲もうとすると、ペットボトルがつぶれたようになっていて、びっくりすることがある。携帯型の温度計は、時計などに付いているのが売られているが、気圧計の付いた腕時計はまだ珍しい。私は、次の海外旅行でこれを持っていって、その変化の程度を確かめたい。
 私は、海外旅行には必ず2リットルのペットボトル入りウーロン茶を持っていくことにしている。これはスーツケースに入れているので、これが飛行機の荷物室の気圧低下に耐えられるか、あるいは破裂してしまうか心配である。荷物室は客室より気圧は低いはずである。破裂して、ウーロン茶で他の荷物が水浸しになるのではないかと恐れて、私はペットボトルをポリエチの袋でぐるぐる巻きにしている。幸い今まで一度も破裂はなかった。ホテルでこの大きなペットボトルから、手荷物用の小さいペットボトルにウーロン茶を小分けするのが、私の毎回の仕事である。
 今回の旅行で不思議な体験をした。私は、ノルウエーのオスロで小分けしたペットボトルを、北極圏のアルタという町のホテルで見ると、気圧の変化でペットボトルがつぶれているのを発見した。北極圏のアルタへの移動は飛行機であったが、機内ではペットボトルは開けなかったので、オスロとアルタの気圧差がこのペットボトルのつぶれに現れたのである。つまり北極圏は相当な高気圧であることが想像できる。たまたまオスロとアルタの気圧差が大きかったのか、あるいは地球の自転によって北極圏の気圧が常に高くなっているのか判らない。
 話を元に戻して、飛行機の気圧変化に対応する方法はいろいろあるが、私は今まで唾を飲み込む方法で対応してきた。短時間に唾を何度も飲み込むのは限界があるので、あめ玉を嘗めて唾液を出して、それを飲み込む方法が簡単でよい。これにはアメを嘗め始めるタイミングが重要で、飛行機が離陸するというのでアメをなめ始めると、飛行機が離陸の順番待ちで暫く待たされる時があり、こんなときはアメが3、4個も必要になる。飛行機が離陸して、数百mぐらいから急上昇するときに、アメをなめ始めると、アメは1個か2個で済む。
 もっと良い方法はないかと、インターネットで調べてみると、このような気圧変化による耳の痛みに悩まされている人は意外に多く、色々な対策をそれぞれおこなっているようである。そのなかで、イヤプレーンという商品名で、耳穴に入れる器具が売られていることを知り、それを今回の旅行で試してみることにした。これは、シリコン製の耳栓で、中央に径1ミリの細い穴があり、小さなセラミックが入っているものである。これは、アメリカ製で一組2000円で、使い捨てだという。こんな高価なものが使い捨てとは馬鹿馬鹿しい。私は、ためしに買って付けてみたが、大きくて私の耳に入らない。アメリカ人の耳穴は大きいのかと感心した。子供用もあったので、そちらを購入した。これは私の耳穴にぴったり入った。
 商品の説明では、耳に出入りする空気の流れを特殊フィルター(セラミック)が調整、鼓膜に与える圧力を調整する、と書いてある。圧力を調整するというのは、単に細い穴だからで、気圧変化を時間的に遅延するだけの効果であろう。基本的には自力で体内外の圧力差をなくさなくてはならない。この器具が何故使い捨てなのか判らない。穴がつまらない限り何回使っても効果は変化しない筈である。
 今回利用した北欧物語というツアーは、成田から英国航空(BA)のジャンボ機で乗客を満員にしてロンドンへ行き、そこから乗り換えで、同じBAの中型機でノルウエーのオスロに行く。成田から直接オスロへ行く他社の便はあるはずであるが、乗客が集まらないのであろう。そのため航空会社は旅行会社へ運賃の割引サービスはできない。行き先がロンドンであれば、ジャンボ機を満席にできるので、運賃の大幅な割引が可能である。航空会社は、ただに近い運賃でも空気を運ぶよりはましだというので、旅行会社に頼んで格安運賃で団体客を集める。このツアーの帰りも、ロンドンからBAの「満席」ジャンボ機であった。航空会社は、一人当たりの運賃が往復4、5万円ぐらいで、団体客を引き受けているのであろう。一方、旅行会社はこの安い運賃で利益を上げていると思う。
 私は、ジャンボ機のような大型機の場合、機内の気圧変化は緩やかであるのを実感として経験している。今回はイヤープレーンの効果をためすのに良い機会であったが、耳が痛くなるのを恐れて、アメを同時に使った。私は、イヤプレーンを使い、耳がおかしくなると、アメによる唾を飲み込んだので、気圧変動による耳の痛みは全くなかった。あめ玉も1個で足りた。イヤプレーンの効果はあったようである。これで飛行機離着陸時の恐怖は私から消え去った。
 ロンドンからオスロまでの飛行機は、客席200位の中型機である。2時間ぐらいのフライトであるが、高度1万mの高さまで上昇するので、機内の気圧変化は当然ある。私はイヤプレーンとアメで耳痛を避けることができた。上空では、飛行機はエンジンから抜き取った高温高圧の空気を冷却して機内に送り込んでいる。同時に、機外に通じるバルブの開閉で機内の気圧がコントロールされている。機内の気圧は地上と同じ1気圧ではなくて、0.8気圧ぐらいに調整される。0.8気圧にしているのは、機体の強度保持が大きな理由になっている。1万mの上空では外気は0.2気圧になっており、気圧差が大きいほど、より機体強度が必要になる。機体強度と人間の医学上の限界の関係から、0.8気圧が決められたのであろう。時折、この気圧調整が狂い、乗客に不快な思いをさせることがあるが、あまり社会問題にされない。
 私が2ヶ月前に購入したイヤプレーンを、最近インターネットで調べてみると、価格が5組で4000円になっている。私は1組2000円で購入したので、大幅に値下げされていた。しかも使い捨てという商品の表示は消えていた。この商品の効果は宣伝通りのものであるのか。この商品は、体外の急激な気圧の変化を、イヤプレーンで緩やかな気圧変化にさせて、体内に伝えるという点では、優れたアイデア商品であると思う。イヤプレーンに細い穴が開いているのがミソで、これがなくて、密栓であればどうであろうか。何かの拍子に耳穴の密栓が取れると、急激な気圧変化が襲い、耳は激痛を起こすであろう。
 ウオークマンなどに使われるイヤホーンは、耳の外側にある小さな骨の内側に置くタイプである。一方、昔のイヤホーンは耳の穴に深く押し込むタイプであった。私は、この昔のイヤホーンタイプがイヤプレーンの代わりに使えるのではないかと思う。ただしこの場合も、イヤホーンの中にある振動膜に小さな穴を開ける工作をしなければならないであろう。私は、機会があればこれを耳痛の防止用に試してみようと思っている。
                             2005.8.10
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北欧の旅、3
 海外旅行での災難は、事故死以外ではスーツケースの紛失・遅延が比較的多いようである。私は、そのような事例をツアー仲間から旅先でよく聞かされるが、今回のツアーでは私達自身がスーツケースの到着遅延の災難を受けた。他人の災難は笑顔で聞き流せるが、自分たちの災難になると簡単には笑えなく、事態は深刻であった。
 私は、海外旅行に行くときは必ず保険に入ることにしている。今回も、損保ジャパンのインターネットによる加入手続きで、保険に入った。旅行期間は15日であるが、旅行日の前後、成田に各1泊したので、その日を含めて17日の期間を保険の対象に申し込んだ。こうすると、自宅と成田の往復の交通事故が補償されるので安心である。支払う保険料は、受け取る死亡保険料の額によって異なるが、私はいつも最低の死亡保険料を選択する。死亡保険金は、本人は貰えないから少なくてよいという、私のケチな気持ちから選択しているのである。
 私は、一人1000万円の死亡保険金で、保険料が2名分、8600円の保険に入った。これには、荷物の遅延補償、盗難・紛失補償などが含まれている。飛行機で送った荷物が途中で紛失した場合、30万円、また、荷物が24時間以上遅れて到着した場合、10万円が補償される。荷物の紛失は滅多にないようであるが、荷物がどこかに紛れ込んで、別の飛行機でとんでもないところに行くケースは多いようである。私達が被ったのは、荷物が1日遅れでホテルに到着した事故であった。
 旅行社は、このような荷物の遅延はよくあることと想定しているらしく、旅行初日は、大都市に2日続けてホテルに泊まるというスケジュールにしている。今回も、初日はノルウエーのオスロに2泊するスケジュールである。荷物が1日遅れで到着しても、航空会社、旅行会社とも対応がやりやすいからであろう。また、飛行機の不具合などで、ツアー客が大幅に遅れても、次の日のオスロ市内観光を縮小すれば、3日目以降の旅行日程は変更しなくてもよい。今回のスケジュールでは、次の日のオスロ滞在は、午前が市内観光、午後は自由時間に設定し、夕食も各自取ることになっていた。私はこれを見て、旅行社もよく考えているなあと感心するが、旅行社の不慮の事故を想定したスケジュール設定には、少々腹が立った。
 私が参加したユーラシア旅行社の「北欧物語、15日間」というツアーは、参加者は添乗員1名を含めて20名である。運ぶ荷物(スーツケース、baggage)は一人1個ずつで、計20個である。今回、このうち10個の荷物が、中継地のロンドンでオスロ行きの便にのせられず、次のオスロ行きの飛行機にのせられた。約3時間遅れでホテルに到着した。この10個の内の1個が私の妻の荷物であった。一方、私の荷物は正常に到着した。妻は、10人の仲間がいて、10個は次の便で来ることが確認されていたので、呑気にしていた。しかし、3時間遅れで着いたのは9個で、1個は来ていなく、それが妻のスーツケースであることが判ると、妻はパニック状態になった。
 彼女のスーツケースには、15日間の生活用品が全て入っている。特に、化粧品と着替えがないのは、1日といえども生きていかれない、妻は、旅行をやめて日本に帰りたいと言う。私も、ついつられてその気になって、添乗員の臼井氏に訴えた。臼井氏は、今キャンセルして日本に帰ると、費用は全部自前で、約50万円かかります、と脅してきた。臼井氏は、荷物の行方をコンピュータで探しており、ロンドンまで来ていることは確認しているので暫く待って欲しいと言う。
 私は、旅行保険の約款を急遽調べ、荷物遅延は24時間以上で、補償金額が10万円であることを確認した。また、到着予定時刻から48時間以内に購入した商品に限り、その支払金を補償することになっている。まだ24時間以上になっていないので、私は、補償金を使うことに不安があったが、翌日の午後の自由時間を利用して買い物をすることにした。ホテルは市の中心地に近く、デパートも歩いて5分のところにある。このデパートに行って、とりあえず必要な物を買うことにした。
 デパートの1階には化粧品売場があり、日本のカネボウを売っているコーナーがあったので、そこで化粧品一式、5品種を妻は購入した。応対した店員はにこやかな表情で身振りをまじえて化粧品の効能を説明する。化粧品は旅行用の小さいサイズは置いていなく、普通サイズであるので、金額は全部で3万7千円になった。このデパートは2階以上を改装中で、衣類は売っていなかったので、歩いて15分ぐらいのところにあるショッピングセンターに行った。このショッピングセンターへは、デパートから歩行者天国の繁華街をぶらぶら歩きながら行ける。
 妻は下着を買うのに苦労したようである。ブラジャーは形が違うようで、日本では試着ができるが、ここでは試着しない習慣のようであった。ブラジャーは今着けているのを毎日洗って使うと言って、妻は買うのを諦めた。パンティーはサイズが日本と違うので、困っていると、ベテランの店員が妻の下半身を見て、このサイズだと指定した。このショッピングセンターで、パジャマ、スリッパ、防寒用のブレザーを買った。買い物は化粧品を含めて全部で約4.5万円であった。スーツケースを買おうかと思ったが、もし荷物が出てくると、持ち運びが大変だからやめにした。
 保険の約款では、遅延の補償金請求には領収書が必要であり、購入日は2日以内となっている。従って補償金を使って買うのは今日1日しかない、と私は妻にもっと買ったらどうかとすすめるが、妻は、気分が滅入ってしまって買う気にはなれないと言う。もったいない話である。私がこのようなケースに遭遇したら、私はどうするか。おそらくこの機を利用して色々買うであろう。私は、日本が物不足の時に子供時代を過ごしたので、不自由であればそれなりに工夫する能力ができているが、一方折角の品揃えのチャンスを見過ごすことは絶対しない。転んでもただでは起きあがらない。
 荷物はその日の夜の9時頃に着いた。かろうじて24時間以上の遅れであった。妻は自分の荷物を見て、ほっとした様子で、元気を取り戻した。この荷物の延着は参加者の誰にも話してなかったが、翌日の朝食時には会う人毎に無事でよかったとねぎらわれた。噂はあっという間にひろがるものである。添乗員の臼井氏には荷物遅延の証明書を書いて貰った。
 帰国後、この証明書、購入一覧表および領収書を損保ジャパンに送った。1週間ぐらいして、6.5万円の補償金が私の口座に振り込まれてきた。私が請求したのは4.5万円であったが、2万円余分に送ってきた。多分、精神的苦痛に対する見舞料のつもりであろう。損保ジャパンは航空機会社に損害を請求するのであろう。一方、旅行社は何もしてくれなかった。
 一人4300円の保険料で、2万円が戻ってきたので、今回の旅行は得した気分になった。妻がパジャマ代わりにオスロで買ったTシャツは、私がこの夏テニス用に愛用している。また、スリッパ用に買ったビーチ用サンダルは、妻が履きやすいと言って愛用している。オスロで買ったカネボウの化粧品は、妻が普段使っているメーカーと違うので、まだ使ってない。これはおそらく捨てられる運命にあるであろう。欲しい人がいれば喜んで差し上げたい。
                             2005.9.10
今まで記載した雑記文は、こちらをクリックすれば御覧になれます。
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北欧の旅、4
 今回のツアーの目玉は、ヨーロッパ大陸最北端の地、ノールカップを訪問することである。ヨーロッパ人は、昔から冒険心が強かったのか、最果ての地に行くのが好きなようである。このノールカップも大勢のヨーロッパ人らしい観光客がやってきて、最北端のモニュメントの前で興奮しているのが見られた。そこにはアジア系の人達は少なかった。
 私達は、以前ポルトガルに旅行したが、その折りユーラシア大陸の最西端地、ロカ岬を訪問した。そこでも多くのヨーロッパ人が見物に来ていた。ロカ岬には、「ここに地はつき、海始まる」という、カモンエスの詩が刻まれた記念碑と、レストラン兼観光案内所の建物があるだけであるが、大勢の観光客が来ていた。ロカ岬は、ポルトガルの首都リスボンから西へ約50kmの所であるから、観光には便利で、日本人も多くいた。観光案内所では、「最西端到達証明書」をお金を出せば発行してもらえる。妻は折角来たから、それを買うという。凝った書体の文字で、名前を直筆して貰い、妻は大満足であった。この証明書は額縁に入れて、我が家の部屋に飾ってある。
 ヨーロッパ大陸の最南端は、直ぐ南にアフリカ大陸があるので、ヨーロッパ人はあまり興味を持たない。ヨーロッパの最東端はわかりにくいし、ユーラシア大陸の最東端も直ぐ東に日本があるので、秘境という気がしない。むしろ日本の最東端地、根室岬が観光地として適しているであろう。ヨーロッパ人から見れば、根室岬は東の果ての地で、1日が最も早く始まる所として興味をそそるかも知れない。
 ヨーロッパ最北端のノールカップは、ノルウエー国にあり、北岬を意味し、英語でノースケープという。ツアーは、ノルウエーのオスロから飛行機で北極圏のトロムソに行き、そこからバスで遠路はるばるノールカップへ向かう。トロムソからノールカップまで直線距離にして約300kmであるが、道路はフィヨルド海岸に沿ってつくられているので、走行距離は約倍になる。そこを途中2泊して、ノールカップへ向かう。ノルウエーは、自然の景観を守るのが徹底しているようで、海に架ける橋はほとんどつくらない。その代わり、フェリーがあり、我々のバスも2回フェリーを利用して、大回りの道をショートカットして走行してくれた。そのお陰で海からの風景も楽しむことができた。
 夏のノールカップは真夜中に訪問するのが一般的である。一晩中明るいので、夜中の12時でも夜という感覚はない。昼間より夜の方が大勢の観光客が集まるので、ますます夜中という気がしない。当日は生憎、雨と風が強く、ノールカップの海を見ることができなかったが、ノールカップには大がかりな地下の建造物ができており、天候が悪くても観光できるようになっている。地下には教会、レストラン劇場などがあり、この日は地下通路が人で思うように歩けないくらい混んでいた。私達は、真夜中の12時前に地下のレストラン劇場に入った。
 この劇場は、客席がキャバレーのようになっていて、正面に大きな舞台があり、その奥にカーテンがある。私達ツアー客は、2階の円テーブルに座り、ボーイが開けてくれたシャンパンをグラスに注いで、0時が来るのを待った。午前0時になると、グリーク作曲、ペールギュント組曲の「朝」がおごそかに鳴り響き、舞台のカーテンが開く。カーテンの向こうには、真夜中の太陽が海の彼方に見られる案配になっているのであるが、本日は残念ながら、風雨で何も見えない。500人ぐらい入っている客は、やけになって拍手してブラボーと叫び、つまみの小さなキャビアを食べ、シャンパンで乾杯した。
 建物の1階には大きな土産物売場がスーパーマーケット方式であり、その隣に郵便局がある。ここでも、「最北端到達証明書」を手書きの名前入りで発行してくれる。私達ツアー全員に、この証明書が配られた。ツアー旅行料金の中に、証明書料金が予め含まれていたのであろう。証明書には、71°10′21″Nと、岬の向こうに昇る太陽の写真が印刷され、郵便局の日付入りのスタンプが押されている。ポルトガルの最西端到達証明書は豪華な感じのものであったが、このノールカップの証明書は素朴であった。
 ノールカップからバスで1時間ぐらい戻ったところに、ホニングスボーグという小さな町があり、そこの民宿のようなホテルに夜中の1時半に着いた。この小さな町にはホテルが2軒しかない。1日約5000人のノーカップ訪問者はどこに泊まるのか、不思議に思っていたが、この町には港があり、大きなフェリーが停泊していた。ヨーロッパの人々は船でこの町にきて、ここからバスでノールカップへ行き、フェリーで宿泊するのだと判った。オスロから空路とバスで来る人は少ないのであろう。
 翌日はバスで南下する。ノールカップ近辺は樹木はなく、雪のない荒涼とした丘陵地にはコケ類が生えている。この地方に棲むトナカイは、このコケを食べて生きている。そのトナカイを食料にして、土地のサーメ人(ラップランド人)は生きている。過酷な気候の土地でも、動物が生きていれば、その動物により人も生きていかれる。コケしか生えない土地は、南下するにつれて灌木類が所々生え、次第に低木が混じって、まもなく森林地帯となる。バスで2時間ぐらい走って、その移り変わりの激しさを眺めることができた。ノールカップから約200km南下した、カラショクの町はサーメ人の首都と呼ばれ、白樺の森が点在する。北極圏の樹木は白樺が主で、白樺には白樺、枝垂れかんば、だけかんばの3種類がある。
 ノルウエーのカラショクから南下すると、すぐフィンランドに入る。国境は、小さな川に架かる橋の上で、誰もいない。この国境からさらに南へ、約200kmのところにあるサーリセルカという町までやってきて、1日のバス移動は終わった。サーリセルカは、まだ北極圏であるが、そのような雰囲気は全くない、森の豊かなリゾート地である。
 フィンランドは、過去、西隣のスウェーデンから全土を占領され、また東隣のロシアからも侵攻を受けたりした歴史がある。男子が戦争で忙しかったので、女性が各方面で活躍しなければならなかった。そのため女性の地位が高く、今から100年前に女性が参政権を得、2000年には女性の大統領が誕生している。森が豊かな国であったので、木材関係の工業が盛んであったが、今ではI T産業に力を入れている。
 リナックスはヘルシンキ大学の学生がつくり、携帯電話のノキアは世界最大のシェアを持つ。インターネットに接続するパソコンは、国民1000人当たり110台あるというから、その先進性は驚きである。1日1時間以上読書する人は、国民の75%いるという。この知的レベルの高さがフィンランドの国を支えている。日本も見習うべきである。フィンランドは、戦後の日本の復興と産業の発展を手本にしてきたと言うが、今では生活の豊かさでは日本を遙かに追い抜いている。
 私は、フィンランドの国民的作曲家であるシベリュウスの、「悲しきワルツ」が好きである。私の想像によれば、この曲は、1兵士の半生を交響詩で綴った音楽であろう。兵士の誕生、少年時代、結婚生活、そして戦場に行き、祖国のために戦死した半生を音で描いている。世界的に有名な交響詩「フィンランディア」は、失われた祖国が自国に戻り、国の再建のために国民を鼓舞する音楽である。この曲を聞くと、日本人の私でも興奮するから面白い。
 私は、4年前、面積約6坪のログハウスを自分で建てたが、そのメーカーがフィンランドの会社であった。日本の取扱代理店を通じて、ログハウス一式を購入した。その建材の木材は、フィンランドで伐採された北欧赤松で、しっかりしたものであった。私は、フィンランドでカットされた各部材用の木材を設計図に従って組立てたのであるが、部品の欠落、カット木材の不良品などは全くなく、素人の私でも簡単に組立てることができた。フィンランドの技術の正確さはその時実感していた。
 4年経たログハウスは、今でも室内に入ると木の香りがして、旅行したフィンランドの各地の風景が思い出される。
                             2005.10.10
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AV革命、2
 私は、携帯型音楽プレーヤーについてこの欄で過去3回書いてきた。1回目は、「AV革命」という大げさな題で、02年12月号に究極の携帯型音楽プレーヤーは何か、という内容で書いた。昨年の5月には、「ICレコーダー」という題で、ICレコーダーを買って失敗した話、また今年の2月には、アップル社の「iPod mini 」を購入して満足した話を書いた。
 今回は、私の待ちこがれた究極の携帯型音楽プレーヤーが出現し、それを購入したことを書きたい。この音楽プレーヤーは、世間に名の知られない、㈱エバーグリーンという会社が売り出した商品である。これは、おそらく中国で開発、生産されたものをエバーグリーン社が輸入販売しているのであろう。商品名は、SDカードMP3プレイヤー「DN-MP3-SD」といい、ネットで税込み2000円で売られている。アップルの音楽プレーヤー「iPod」などの10分の1の安さが驚きである。
 私が気に入っているのは、切手大の記録メディアであるSDカードを使い、単4乾電池1本で作動させていることである。大きさは、6cm×6cm×1cmの携帯電話の半分ぐらいの大きさで、重さは30gと大変軽い。これぐらい軽くて小さいと、使う人は首からぶら下げて使うであろうと予測して、開発者はネックストラップ式のステレオイヤホンを用いた。首からぶら下げる紐と、イヤホンのコードが1本にまとめられているので、見た目が大変すっきりして使いやすい。
 以前私は、アップルのiPod miniを胸のポケットに入れて使っていたが、しゃがんだときなど、ポケットから滑り落としてしまったことがしばしばあった。仕方ないのでiPod miniにネックストラップを付けたが、首からポケットまで紐が4本も繋がっていて、大変おおげさであった。これを2本にまとめたネックストラップ式ステレオイヤホンを採用した人は立派である。
 さらにすっきりさせようと、このエバグリーン社はイヤホーンの中に音楽プレーヤーを組み込んだ商品を売り出した。これは、MP3内蔵ヘッドフォンという呼び名で、重さ50gである。値段は256MBのメモリーで、1万円である。プレーヤーを耳に付けるために、更に小型化する必要があり、メモリーと電池は内蔵型になっている。外観は普通のヘッドホーンと変わりないが、小さなイヤホーンに比べると大きく、左右のヘッドホーンをつなげるワイヤーはちょっと邪魔になる。
 内蔵型の電池は連続10時間、音楽を聴けるが、充電するのに4時間もかかる。外出中に電池が消耗した場合、100V電源がなければ充電できないし、有ったとしても充電に4時間かかるというのは長過ぎる。これは大変不便なことである。アップル社のiPodも同じく内蔵型電池であるので、このような不便さがある。
 私が購入したエバグリーン社のMP3プレーヤーは、単4電池1本で4時間動かせる。時間は短いが、予備の電池を持っておれば入れ替えてすぐ使える。私は、電池の使い捨ては好まないので、充電式の電池を2本買って、電池が消耗すれば充電して交互に使用している。
 このMP3プレーヤーは、メモリーがSDメモリーカード方式であるので自由度が大きい。SDカードは容量が最大2GBから市販されている。私は手持ちに256MBがあったので、それを使用している。256MBのSDカードは、4時間分の音楽が聴け、丁度よい長さである。256MBのSDカードは、1個3000円ぐらいで売っていて、プレーヤー本体の値段、2000円より高いのが妙である。
 MP3プレーヤーの機能は、単にイヤホーンで音楽を聴くだけの単機能である。音量調節、曲の送りと戻しのボタンが付いているが、私は全く使わない。音楽を聴きながら他のことをする「ながら族」には、単機能で十分である。この音楽プレーヤーを設計した人はこの実体をよく認識している。単機能は、私の好みと完全に一致している。
 ソニーのウオークマンは、聴くだけの単機能であったが、大きさ、重さでアップル社のiPodに駆逐されてしまったのは、つい最近のできごとである。アップル社のiPodは、ウオークマンより小さくて軽い。これには、聴く機能の他に、現在演奏している曲の情報がモノクロの液晶画面に表示される機能があったり、簡単なゲーム、タイマーなど多くの機能が付いている。アップル社は、更に液晶画面をカラーにして動画を楽しむ機能を付ける製品を開発している。機能が次第にエスカレートしていく一方、値段も上がっていく。ユーザーはこのような小さな装置にゲームとか、動画を必要としているだろうか? ユーザーは、歩きながら音楽を聴く、座っているときは目を閉じて音楽を楽しむ、という使い方しかしないであろう。技術を武器に機能の充実を図っているアップル社は、そのうちユーザーから見放され、iPodの売り上げは下降するであろう。
 アップルの後を追うソニーは、アップルが初期に開発したHDD(ハードディスク駆動)付きにこだわっているが、HDDは音楽プレーヤーには向かない。アップルは、既にHDDから内蔵型メモリーに切り替えており、将来はメモリーカード式を目指しているとおもわれる。ソニーはアップルとの差別化で、色々な機能を付ける努力をしているが、それは無駄な努力に終わるであろう。ソニーは初心に戻り、単機能の音楽プレーヤーを目指すべきである。
 MP3プレーヤーは、マスコミで宣伝されていないので存在を知る人は少ない。大手企業は何故MP3タイプのプレーヤーを開発しないのだろうか。理由は簡単、安過ぎるからである。MP3プレーヤーは、構造からみて、1個1000円ぐらいで製造可能である。これを2000円で売ると、現在1万円以上の音楽プレーヤーに比べ、利益が大幅に低下する。これでは大企業は採算が合わないであろう。MP3プレーヤーは、ベンチャー企業しか販売できない商品である。
 MP3プレーヤーには大きな問題点がある。それは、プレーヤーに音楽を記憶させるために、パソコンが必要であることである。記憶させる方式は、MP3ファイル方式であるので、少し高度なパソコンの知識が要求される。マイクロソフトのウインドウズ2000などであれば、このソフトが組み込まれているので簡単であるが、ソフトがなければ、これをダウンロードしなくてはならない。音楽は、市販の音楽CDからパソコンのCD-ROM装置でパソコンに入れ、パソコン内でMP3ファイルに変換し、これをSDメモリーカードに書き込み、このカードをパソコンから取り出してMP3プレーヤーに入れる、という手順で聴くことができる。このように、MP3プレーヤーはパソコンがないと使えないので、誰でも使えるというわけにはいかない。
 MP3プレーヤーを誰でも使えるようにするには、音楽を予め書き込んだ記憶カードを販売すれば可能となる。それには現在色々な形式の記憶カードが各社で使われているが、音楽プレーヤー用の記憶カードを創設して、1本化する必要がある。装置メーカーと音楽ソフト業界が協力して決めるわけであるが、各社利害が出て簡単にはいかないのは予想できるし、なにしろプレーヤーが安過ぎるので、各社は開発の意欲が沸かないであろう。
 音楽を予め書き込んだ記憶カード、つまり「音楽カード」というものができれば、あのでかいCD盤が切手サイズになるのであるから愉快である。1GB容量の音楽カード1枚には、CD15枚分の音楽が入れられる。値段は1万5千円ぐらいであろうか。60分の音楽カードであれば、1枚500円から1000円ぐらいで販売できるであろう。このような日が来るまで、私は生きていられるであろうか。
 今私は、MP3プレーヤー用に256MB容量のSDカードを使い、クラシックの小曲4時間分を入れて、繰り返し聴いている。この音楽もそろそろ飽きてきたので、好みのジャズ、ポピュラー、歌謡曲を書き込んだ、もう一枚の「音楽カード」を作ろうかと思っている。市販の音楽カードが出現するのは相当先のように思われるので、私は自分で音楽カードを作っていきたい。音楽カードを自作できるのも、パソコンとMP3プレーヤーがあるからで、大変有り難いことである。
                             2005.11.10
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屋根の葺き替え
 我が家は、新築して今年で5年目を迎えている。昨年の暮れには大雪があり、今年の1月中旬にも大雪があった。このときは、夜中じゅうの降雪で、屋根には30cmの雪が積もった。翌日は晴天で、急に温度が上がったため、屋根の雪が一気に融けだした。そのため北側の屋根に積もった雪が、2階の屋根からドサッと、大きなかたまりで落ちてきた。幸い下に誰もいなかったので人身事故はなかったが、キンモクセイとサザンカの枝が一部折れてしまった。この日、どこかの会社の倉庫横で、従業員が落ちてきた雪のかたまりに当たり、一名死亡したというニュースが新聞に載っていた。これは他人ごとではないと私は心配した。
 我が家は、私が横浜に住んでいたときに、プレハブメーカーのエスバイエル横浜支店に注文して建てたものである。施工は水戸の業者が行った。エスバイエルとの打ち合わせの際、屋根に雪止めを付けるか、設計担当者から聞かれたが、私は要らないと答えてしまった。横浜では雪止めを付けている屋根はなかったので、私は不要と思った。当地に詳しい設計担当者なら、おそらく雪止めを付けるようにアドバイスをしたであろう。横浜に住むエスバイエルの社員は、雪が屋根から落ちて事故に遭うことなど、想像もできなかったのであろう。
 今私が住んでいる矢祭町ニュータウンには、100軒以上の家屋が建っているが、ほとんどの家の屋根には雪止めがつけられている。平屋の建物には付けてない家はあるが、2階建てには例外なく付けている。これを知ったのは、我が家で今年の1月、雪の落下に遭遇してからのことであった。その落下した雪は、半分凍結した硬くて尖った雪であったので、私は雪止めの必要性をつくづく感じたのである。
 我が家の屋根は、瓦でなく、スレートである。このスレートの屋根に雪止めを後から取り付けられるものか、インターネットで調べると、どうやら付けられることが判った。地元の山本組に見積もりを頼むと、9万円で取り付け工事ができるというので、すぐに頼んだ。雪止めの部品は、長さ50cmぐらいの細長い金属板の先に、雪を止める突起があり、もう一方の端には小さなフックが付いている。これを屋根のスレートとスレートの間に下からそっと差込み、フックがかかったところで留める、という簡単な作業で施工する。業者は半日足らずで取付を終わらせた。
 後日、山本組の営業マンが請求書を持ってきたとき、「お宅のスレートが数カ所割れていたのでシリコンシーラントで応急処置をしておきました」と言われて、私はびっくりした。まだ5年にも経っていないのに割れるとは。山本組の人は、アンテナを取り付けたときにでも割れたのではないかという。割れたスレート瓦の写真と、シリコンを塗った写真を私に渡してくれた。営業マンは、この屋根葺き替えの仕事を取るために写真をくれたのか、彼の魂胆は判らないが、私が「この建物は10年保証ですから、メーカーに連絡します」と言うと、彼は少し顔をこわばらせた。
 横浜の家は同じスレート葺きであったが、20年以上割れたりはしなかった。何故5年ぐらいで割れるのだろうか。メーカーのエスバイエルに早速メールを入れ、何とかしてくれと頼んだ。一週間後、水戸支店のメンテナンス担当の石川氏は、スレート材メーカーのクボタ松下電工外装㈱の人と、施工業者らしい人など5、6人を連れてやってきた。彼らは、屋根の上に上がって、あちこち歩き回って相談をしていた。地上に降りてきた石川氏に、割れの原因は分かりましたか、と聞くと、石川氏は、メーカーは会社に帰って検討する、と言っているので時間がかかるでしょう、と言う。とにかく割れたスレートは取り替えますと、石川氏は言って帰っていった。
 スレート葺きは、施工方法からみて、割れたスレートを外して新しいのと取り替えるのは不可能な筈である。私は、フィンランド製のログハウスを自分で組み立てたとき、屋根のスレート葺きも自分で経験したので、一枚だけ替えることはできないことを知っている。スレート材は、一番下の軒先から釘で打ち付け、その上に次のスレート材を半分ぐらい重ねて釘打ちをして、順次上の方に葺いていく。従って、途中の一枚だけを外すことは不可能で、外すなら上から順に外していかなくてはならない。これをどうやって一枚だけ外せるのか、新しい修理技術が開発されたのかと、私は興味を持った。
 修理の日が決まると、足場屋がやってきて、家のぐるりに足場を組み、シートをかけた。外から見て大がかりな工事のようで、お宅はもう解体するのですかと、近所の人にひやかされた。石川氏に聞くと、塗装するのだという。屋根材への塗装は気休めで、屋根の上の過酷な条件で、長年も耐えられる塗料はないことを、私は勤めていた頃の知識で知っている。また、5年も経ったスレート材の上に塗装するには、丁寧に表面の汚れを落とさなくては折角の塗料がはげてしまう。相当な費用がかかるが、この工事費は、エスバイエルか、クボタ松下電工外装が支払うと思うので、私は費用のことを心配しなくてもよい。もし私が支払うなら、見積書を求め、工事内容をチェックして、クレームを付けるのであるが、そのような見積りはこないので気楽であった。
 修理の当日、多量の屋根材と防水シートが運ばれ、5、6人の関係者がやってきた。彼らは、屋根材を全部はがし、屋根材の下に敷いている防水シートまで剥がしてしまった。工事は屋根工事の全面やり直しとなった。関係者は、この方が費用がかからなく、確実に20年以上は長持ちすることに気が付いたのであろう。
 我が家は総2階建てである。総2階建ての不便なところは、素人では屋根の上に上がれないことである。従って屋根材の劣化具合など全く観察することができない。一方、横浜の家は一部2階建てであったので、1階部分の屋根は勿論、2階の屋根にも簡単に上がれた。20年以上経った屋根には苔が所々生えていた。それをスコップで取ったりして、スレート屋根の点検をしてきた。横浜の屋根材のスレートは、二十数年前に生産されたものであったので、厚みが3ミリ程度で薄かった。現在のスレートの厚みは5.2ミリであるので、遮音、断熱性が良いように感じられる。
 今年7月11日に、屋根の張り替えが終わり、足場も撤去されて、ほっとした。エスバイエルの石川氏に、スレートの割れの原因は何だったのか聞いてみたが、スレートメーカーで調査中であるということであった。私はそれ以上聞かないことにしているが、やはり気になる。私の推測では、スレート材質の品質に問題があったのではないかと思う。
 3年前の矢祭は、冬の冷え込みが厳しく、夜の最低気温が零下7℃から零下9℃の日が続き、昼間は晴天で気温が上がった。この寒暖の差で、スレートに亀裂が入り、そこに雨水がしみ込み、そして夜の冷え込みで、水が氷になって体積が膨張して、スレートが破壊してしまった、と考えられる。この現象は、その年の冬、庭に置いていた3cm厚みのコンクリート製板が粉々に壊れていた現象を見て、推定できた。
 クボタ松下電工外装社のスレートは、商品名をコロニアルNEOといい、色々な性能テストの結果が表示されている。テストの中に、耐凍害性というJISの項目があり、それには合格となっている。また、この製品の資料には、使用に際しての注意事項があり、そこには施工する地域・環境に合わせた仕様・施工基準をするように、と書いている。設計は、エスバイエルの横浜支店の担当者がしたので、厳しい気象環境の矢祭に合わせた施工工事を指示しなかったのか、とも疑われる。
 結局割れの原因は、エスバイエルの設計ミスか、あるいは設計は正しかったがクボタ松下電工外装のスレート材の品質不良によるものか、であろう。修理のためにかかったと思われる100万円以上の費用は、どこで支払ったか私は知らないが、おそらくクボタ松下電工が負担したのであろう。エスバイエルは、クボタ松下電工にとって大切なお客様であるからである。
 以上の原因推定は私の想像であり、本当の事実は私に知らされていない。この新しく葺き替えた屋根のお陰で、今年の夏の暑さは厳しく感じられなかった。また、この冬の寒さも快適に過ごせるであろう。私は、両社の尽力に感謝するし、割れを見つけてくれ、証拠写真を撮ってくれた山本組にも感謝したい。
                             2005.12.10
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春うらら、英訳
 私がこの雑記の英語訳を始めたのは、04年5月からである。それから毎月、欠かさず英語訳をしているので、この年の正月で、20回目の英訳になる。私は、学生の頃から英語の化学論文を多く読んでいた。卒論も電気化学であったので、外国文献なしには論文が書けなかった。今から50年近く前の日本は、化学ではまだ後進国で、欧米の先進の化学技術を学ばねばならなかった。だからそのころの化学系の学生は英語の読解レベルは高かった筈である。
 私が就職した会社も化学系であったので、英語文献の読訳は仕事上欠かせなかった。従って、退職するまで私は40年以上も技術英語に親しんできた。私は、化学英語を読む能力は優れていると自負するが、日本語の技術文を英語に訳すのはあまり自信がない。さらに日常の出来事を記しているこの雑記の英訳は得意でない。
 私が何故雑記の英訳を始めたかというと、少しでも多くの人に私のホームページを読んで貰いたかったからである。日本語を読める人口は1億以下であるが、英語となると、人口は10億以上になる。私のホームページが10億の人に開かれていると思えば、気持ちがわくわくする。しかし、実際には毎月私のホームページを見てくれる人は、30人前後にすぎない。私は、毎回欠かさず開いて頂いている方が30人もおられると、思いなおして、私は感謝の気持ちで毎月ホームページ作成に精を出しているのである。
 私が不得意な英訳を始めたのは、OCNのホームページに翻訳サービスがあり、無料で利用できるからであった。私は、日本語の雑記文を毎月3000字ぐらい書いている。この3000字を翻訳ソフトに入力すると、わずか10秒以内で全文を英語に変換してくれる。大変便利であるが、間違いも相当多い。しかし、私がソフトなしで翻訳すると、おそらく1週間以上かかると思うので、この間違いは私にとってそれほど気にならない。
 このコンピュータが間違った英文の修正は私にとって楽しい時間でもある。修正は、最初から一文ずつ、日本語を入力しなおして、ソフトに英訳してもらう。おかしい英訳は、私の書いた日本語に、主語がなかったり、表現が曖昧であったりなど、日本文の方に原因があるのが大半である。従って英訳文の修正は、私の日本文の修正を繰り返して行う作業によって行われる。私が書く日本語で、文章の流れから目的語を省いた場合、コンピュータは必ずおかしな英語を出してくる。何故おかしいか、じっと私の日本語を読み直す。日本語を訂正してコンピュータに入力し直すと、正しい英語が出てくる。正しい英語とは、私が半世紀以上前に習った中・高校生時代の英語知識で英文を判断しているので、それが現代英語に合致しているかどうか判らない。しかし、このようなコンピュータとのやり取りが結構楽しいのである。
 中には滑稽な英訳をコンピュータが出してくる。「1000円の切符」という日本語を入力すると、「1000 cycle ticket」という訳が出てきたのには苦笑した。ソフトは、ほとんどの語彙を英単語に変換することができるが、中にはできない言葉がある。その時は日本語がそのまま英文の中に入っている。先月号で書いた、建物の「平屋建て」とか「総二階建て」は英訳できない。今月号のタイトル「春うらら」は、当然英訳不可能な日本語である。試しにこれをソフトに入力してみると、 They are the reverse sides in spring. という奇妙な英文が出てくる。英文をよくみると、「春うらら」のうらを、裏と訳し、を、等と解読し、春の裏側とコンピュータは訳したのである。等を訳して、文を複数形にしているところが憎い。
 私が最初に就職した会社は、京都にある第一工業製薬という会社であった。私が社会人になった45年前は、大卒といえども英語が苦手な人が多かった。私は幸い英文に慣れ親しんでいたので、英語の和訳は苦にならなかった。その会社で、1年先輩で文系の慶応を出た男が、英国の会社の技術を入れるのに先立って、技術文書を訳す必要が生じた。技術英語の苦手な彼は、私にそれを訳してくれと泣きついてきた。私は、「良いですよ、やりましょう」、と言って引き受けた。それは、30ページぐらいの商品の技術資料である。私は会社内で暇を見て訳して、その男に訳文を渡すと、彼は大変喜んだ。喜んでいた彼の顔を見て、私は報酬にウイスキーを1本持ってこい、と言う。翌日、彼はサントリーの角瓶を持ってきた。私はそれを会社のデスクの引出に仕舞って、時折こっそりと飲んでいたのである。
 当時、私は分析機器が置かれていた部屋に一人、デスクを入れて、そこで終日仕事をしていた。金谷さんは一人で寂しいだろうというので、時折上司や同僚が様子を見にやってくる。その部屋は他から隔離されていたので、世間話をするには丁度よい場所である。息抜きにやってくる同輩も多かった。私が丁度茶碗にウイスキーの水割りをつくって飲んでいたとき、悪いことに直属の上司が様子を見にやってきた。私の赤い顔を見て、彼は「今日は暑いね、大丈夫か」、と言って心配してくれた。京都の夏は暑く、当時はクーラーというものはなかったので、うちわで暑さをしのいでいた。私はうちわをばたばたさせて、「大丈夫です」、と答えた。京都の暑さのお陰で、私の酔っぱらい顔がばれずにすんだ。
 私は、第一工業製薬を3年近く勤めて辞め、日本ポリウレタンという会社に転職した。この会社は新聞に採用広告を出し、私はそれを見て応募して、入社試験を受けて採用された。入社試験の問題は、5問中4問が技術英語の翻訳で、残り1問はドイツ語の翻訳であった。技術英語は私の得意分野であったから完璧に訳した。ドイツ語は不得意であったが、時間が余ったので想像を交えて訳してしまった。私は、語学のお陰で無事入社でき、希望の研究開発部門に配属された。
 日本ポリウレタンは、ある化学品の製造法をドイツの会社から技術導入し、その後、イギリスの会社からも技術導入したので、社内は英語の技術文が氾濫していた。社員は、少なくとも英文の読解力が要求された。また、イギリスの会社に技術を教わりに行く出張も多かったので、英会話も必要であった。当時、私が属していた部署の上司が、イギリスの会社に行くことになった。
 上司は読む方はできたが、英作文と会話は駄目であった。私は彼から、どうしたら良いか相談を受けた。私は、「私が質問事項を英訳しておくので、それを黙って相手に見せれば良いので、心配することはないです」、と答えた。彼は、「質問の回答を英語でべらべら喋られると困るではないか」、と私に迫る。「いや、質問の中に、回答は文書で欲しい、また関連する資料があれば、それも欲しい旨を書いておくから大丈夫です」、と私は答える。「それでも心配であれば、予想される回答を、予め私の方で2、3作成し、該当する答えにチェック印を入れて貰うのはどうですか」、と私がまじめに言うと、彼は大笑いした。彼にもプライドがあるから、そこまでする必要はない、という笑いであったのであろう。
 当時の研究所長は東大出の役員であった。彼もイギリスの会社に表敬訪問することになり、会議の席上でスピーチをすることになった。私は、彼からスピーチの原稿を書くように頼まれた。私は安請け合いをしてしまったが、技術語でない言葉を書かなければならないし、お国柄、挨拶にウイットも入れなくてはならないだろう、ということで、私は大変苦労した。その原稿の原文は残っていなく、私も何を書いたかすっかり忘れてしまった。帰国した所長から私に何のコメントもなかったので、どうやら私のウイットは相手に通じなかったようである。
 学生時代から会社を退職するまで、私は英語と深い関わりがあった。退職後は英語から縁遠くなるだろうと思っていたが、月一回、ホームページの英訳をすることにしたので、また関わりが復活した。今の英訳は私には何の義務もないので、気楽にやっている。
 私は、この雑記の前半でコンピュータソフトの悪口を少し書いた。コンピュータは、入力された自分への悪口もまじめに訳すであろう。そのような事を考えると、英訳も楽しいものである。
                             2006.1.10
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10年日記
 私は、1996年から10年日記帳を用いて、昨年まで日記を書き続けてきた。今年からまた次の10年日記帳を買って、日記を書き始めた。この日記帳は、高橋書店から出されている重厚な感じの本タイプで、10年前の様式と全く同じである。定価は10年前が4600円で、今年購入したものが4725円と、少し値上げされている。日記帳は、1ページに10年間の1日分が上から下に並べられ、それが365ページある。従って10年目のある日に日記を書くと、10年前のその日の日記が見られる仕組みになっている。10年間の出来事が見られるので、大変面白い。10年前に日記を書き始めた頃は、10年後はどうなっているか、当時世の中は安定していたので、このまま10年後も平和であろうことぐらいは感じていた。
 1日分の書くスペースは3行しかないので、簡単なことしか書けない。スペースが少ないから10年間欠かさずに続いたのであろう。例えば、2月1日のページを見ると、10年前の日記には、「寒い、ジップ元気」と書いている。ジップとは、雑種の柴犬の名前で、15年間飼っていた犬である。取り立てて書くことがない時は、「ジップ元気」とか、「ジップと散歩」などと書いている。2月1日の10年間は大きな出来事はなかった。7年前のこの日は、「朝礼のため、いつもより15分早く、5:55に家を出る」と書いている。当時、横浜の自宅から厚木の会社まで電車通勤をしていたので、そのことを書いたのである。自宅から会社まで約2時間かかっていた。バスで東戸塚へ、横須賀線で横浜へ、相鉄線で海老名へ、小田急線で本厚木へ、そこからバスで会社へという経路であった。
 この通勤は1995年7月から7年前のこの年、1999年6月までの4年間続いた。その年が私のサラリーマン生活の最後の年であった。長いサラリーマン生活の中で、会社への通勤に本格的に電車を使ったのはこの4年間だけで、後は徒歩である。厚木への通勤は都心から逆方向であったので、満員電車で苦労することはなく、座席に座って通勤する時間も多かった。
 2月1日は、10年間で日曜日が2回あった。その2回ともテニスを行っている。1回目の日曜日は1998年で、この日は勤め先のテニスコートで9時半から午前中、会社の人とテニスを楽しんだ。2回目は2004年で、矢祭町のテニスコートでテニス仲間数人とテニスを楽しんでいる。矢祭に越してきてから、テニスの記述が多くなっている。私が仕事をしていないためである。10年間のうち、テニスをしたと書いているのが4回であるから、相当な回数で、これからもこの割合は増えるであろう。
 10年日記帳には日記を書くページの他に、余分のページが相当枚数付けられている。私はそこに、職歴、居住地などをかきこんでいるが、遺言状も2通書いてある。1つは、私の死後全ての財産は妻に与える、という内容の遺言である。私の財産と言っても恥ずかしい位少ない。財産が少ないので、面倒だから妻に全部与えるというのが私の本音である。不動産は、今住んでいる土地と建物だけであるが、これを購入するために3000万円以上のお金を使った。しかし、財産としての価値はほとんどないであろう。売りに出しても買う人はいないと思う。
 私は動産として株を持っている。株を買ったのは、バブルがはじけた後、株の売買が見向きもされなかった、6、7年前である。その頃、インターネットで株が買えるようになった。営業マンを通さなくても株が買えるというのが魅力であった。日経平均が1万円以下になった頃、私は株の買い時だと思い、あらゆる分野の株を分散して買った。買った約13社の株は、その後値が下がり、全部で500万円を投入した株は400万円に目減りした。それは日経平均8000円台の頃であった。その頃であろうか、超閑散の株式市場を心配して、小泉首相が、株は今が買い時です、買っておくと儲かります、と記者団にコメントしていた。1国の首相が株を買えというのもおかしな話であるが、その時買った人は今、株価は倍になっている。
 遺言の話から株の話になってしまったが、序でに続けたい。現在の日経平均は16000円であるので、私の株の時価は700万円ぐらいで、200万円の儲けになっている。私は今、いつ株を売り払うか、毎日、日経平均株価を注目している。1.8万円になれば全株売り払って、当分株から縁を切ろうと思っているが、その前に暴落するかも知れない。私が持っている株の会社は、大企業で、安定した業績を上げているので、個別の株価は面倒だからチェックしない。私は、テレビで知らせてくれる、その日の日経平均値だけで一喜一憂している。
 遺言状に話題を戻して、2つ目の遺言状は、私が病気や事故などで意識がなくなった場合、生命維持装置などはつけてくれるな、という内容のものである。「意識がなくなった場合」というのは、医者にとって判断に苦しむと思うが、はっきり遺言状に書いておれば、医者も理屈をつけて私を葬ってくれると思う。意識がないまま生きているのは後に残された人が大変であろう。この内容の遺言状は、新しい10年日記帳にも書いておかなくはならない。家族や医者が私に3回問いかけて、私が一度も返事をしなかった場合は、私を安楽死させるように、と極めて具体的に書いておきたい。
 昨年までの10年日記では、10年後のことはあまり深刻に考えなかった。退職後どのように時間を過ごしていくか、今の内に趣味をテニス以外に作っておくか、ぐらいの呑気なことを漠然と考えていた。現実の10年後は、矢祭に移り住んでいるという意外な変化があった。私は、定年後も横浜に住むという予定はなくて、山口の旧新南陽市に80坪近くの土地を買っていたので、そこに家を建てて老後を過ごす予定であった。山口は横浜からあまりにも遠すぎるという理由で、安住の地を関東近辺に探していた矢先、矢祭が見つかり、ここに決めたのである。
 今年から始まった10年日記の10年後はどうなるであろうか。私は77才になる。まだ死んではいないと思うが、どこか病気に冒されて不自由な生活をしているかもしれない。テニスを楽しむどころではないであろう。健康でいられるのが何よりであるが、そうはいかないのが世の常というものか。死を迎える準備をしておかなくてはならない。郷里の岡山にある一族の墓地は敷地が満杯で、私が入る墓地はない。そこは両親の墓だけあるが、子供分はもうない。これは父の兄弟の子供達にもいえることで、彼等は各自墓地の新規購入を迫られている。私も何処に墓地を求めるか、矢祭町に買える墓地があるか、調べなくてはならない。
 10年日記の最後の年の2015年は日本はどうなっているだろうか?政府はインフレを先導し、あらゆる物価が上がるであろう。その結果、国の借金は大幅に目減りして、国の財政は健全になる。このしわ寄せが我々年金生活者に襲ってくる。年金額は抑えられ、物価は2、3倍になるであろうから、生活は苦しくなる。超耐乏生活が我々に強いられることになる。金(ゴールド)とか株はインフレとともに値が上がるので、これらを今から持っていた方が賢いのか?
 前の10年日記の10年後は大きな変化は予想していなく、なるようになるだろうという感じであったが、今度の10年後は妙に不安を感じる。年齢が老齢期に入り、体の不安もでてくるからであろう。10年後はどうなるか、この雑記が続いておれば、私は必ず書くであろう。
                             2006.2.10
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台湾旅行1
 私達夫婦は、今年2月22日から5日間の台湾ツアーに参加した。妻は、開発途上国には行きたくないと言っていたが、私の生まれ故郷を見て欲しいという私の薦めで、参加することになった。私は、台湾の嘉義市に1938年に生まれた。当時台湾は日本の植民地で、日本が統治していた。台湾は台湾州といい、私の戸籍も台湾州嘉義市宮前町六丁目43番地で出生、となっている。日本政府は台湾人に対して学校教育に力を入れていたようで、現地人に日本と同じ義務教育を受けさせていた。教育は日本語で行うから、多くの日本人教師が必要となり、教師が日本から台湾へ多数移住した。私の父も、教師として台湾に行き、中学校で英語を教えていた。
 私は生まれてから6才まで台湾にいたが、台湾の記憶はあまりない。台中市には3、4年いたようで、この土地は少し記憶に残っている。平屋建ての官舎が、市内を走る疎水の前にあり、私はそこで付近の子供同士で遊んでいた。道路を隔てた向こうには明治小学校があり、そこにも遊びに行った記憶がある。官舎の隣は大豪邸があり、森で囲まれたその邸宅には遊び友達の女の子がいた。私は、その庭でよく遊び、女の子の父親と撮った写真も1枚残っていたが、今はなくなっている。
 終戦間近の1944年頃、アメリカ軍が南方の島を次々に占領し、次は台湾を攻撃、占領してくるだろうということで、台湾にいた日本人に対して、都市から離れるように疎開勧告が出された。私達家族は台湾北東部の宜蘭県の山奥に疎開した。ここでは数家族が長屋のような家に住んで、アメリカ軍が台湾に上陸する日を待っていた。教師の父も正規の兵士ではないが、日本軍に属され、疎開中の日本人を守る役割をしたのであろう。兵器はなく、竹槍で婦女子を守る役目である。そのうちアメリカ軍は台湾を飛び越えて、沖縄を攻撃してきた。台湾にいる日本人は全員ほっとしたのである。
 1945年夏、終戦となった。台湾にいる日本人は日本に送還されることになり、基隆港に集まることになった。基隆は台北市の近くにあるので、私達家族は台北市に行き、そこで帰国の順番を待つ。台北には母の姉である、大欣家が住んでいて、親類縁者の世話をしていた。大欣氏は、教育関係の偉い人で、多くの台湾人を知人としていた。私達はその一人の家に暫く逗留した。翌日が出発という夜、その世話になった台湾人が私達に送別の宴を開いてくれた。
 その送別の宴は大きな屋敷の大広間で行われ、招待されたのは私達家族の他に、別の家族もいたような気がする。私が豪華なディナーで食事をしたのは、初めてであったのであろう。私は、並べられた多くの料理の中から一番嫌いな料理から片づけてしまおうと思い、その皿を食べてしまう。すると、後ろに控えていた給仕が同じ料理をさっと持ってきたので、私は驚いた。給仕はその料理が私の好物だと思い、その料理のお代わりを出したのである。横に座っていた姉達は、そんな料理を何故食べてしまうの、といった顔付きで私を見ていた。普段、教師の家は裕福でなかったので、料理は一品を食べてしまうとそれでおしまいである。だから嫌いな料理から食べて、好きな料理を楽しみに後でゆっくり食べる、という私の食べ方であった。これは、私が6才の時の体験であったが、当時の有様が今でも記憶に鮮明に残っている。現在、私は、老い先が短いし、大地震がいつ起こるかわからないので、美味しそうな料理から食べ始めることにしている。
 日本人は基隆港に集められ、そこからアメリカの貨物船に乗せられて、和歌山県の白浜港に連れてこられた。上陸の際、アメリカ軍の指示で、人々は、DDTの白い粉を全身に吹き付けられた。南方から入国する人に付着している、シラミ、ノミ類を除去するためである。当時の台湾は日本より衛生環境は優れていたので、DDTを吹き付けられて憤慨する人も多かったと思う。
 現在、私の父は既に死去しているが、生前彼は趣味で本を5、6冊出版していた。それらの本は私のところにも送られてきたが、私は一度も読んだことがない。多分これらの本には、台湾時代の家族の様子も記録されていると思われる。気が付いてみると、送られた本も3冊しか残っていない。私は、これらの本を読むと、いやな記憶がよみがえってくるのではないかと恐れて、まだ読む気にならないでいる。
 私は、60年前台湾から日本に引き揚げてきて、その後一度も台湾を訪問しなかった。一度行ってみたいという気持ちは持っていたが、行きたい外国がほかに多かったので、また、台湾は近くだからいつでも行けるという気持ちがあったので、行かなかったのであろう。私の兄は20年前ぐらいに台湾に行って、自分が住んでいたところを見て回ったという。彼によると、住んでいた台中市の官舎はまだ残っていたし、官舎の前の小学校もあったと言っていた。
 私にも一度台湾に行ける機会があった。30年以上も前のことであるが、横浜駅ビル恒例の歳末セールで、台湾旅行の賞品が、抽選で見事当ったのである。商店街で3千円か、5千円の買い物をすると、1回抽選できる。抽選は、手回しのドラムをガラガラ回して、色つきの玉を出す方法で行われる。この抽選は、結果がすぐ判るので楽しいイベントである。今でも行われているのではないかと思う。大抵の人は赤玉を出して、がっかりしてハンディティッシュを貰う。
 抽選をして当てたのは妻であった。その賞品の旅行は、1名だけの招待であった。今は、ペアでご招待というのが普通となっているが、1名というのは時代を感じさせる。私も妻も一人だけで行く気にはなれず、台湾旅行を辞退するつもりでいた。会社の同僚で、まだ独身であった濱氏がこのうわさを聞いて、旅行を譲ってくれと頼まれた。いくらで譲ったか金額は忘れてしまったが、当時としてはちょっとしたお金を得ることができた。その後、毎年20年以上もこの歳末セールで抽選に挑戦したが、ハンディティッシュしか当たらなかった。
 濱氏は、古銭や骨董品の収集が趣味で、私は一度彼の収集品を見せて貰った。江戸時代の大判、小判の金貨など大変高価な古銭があったような記憶がある。当時の台湾は中国大陸から多くの中国人が財宝とともにやってきていた。濱氏は、それらの中に有望な骨董品があるのではないかと期待して、台湾に行ったと思われる。帰国後、私は彼にその成果を聞き逃したが、彼から自慢話がなかったので、めぼしい古銭は見つからなかったようである。
 以上は私の台湾に関するイントロダクションである。本題は次回に掲載したい。
                             2006.3.10
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台湾旅行2
 私達が参加した台湾ツアーは、タビックスジャパン白河支店が企画した、4泊5日の団体旅行である。2006年2月22日、成田出発で、参加者は70名以上であった。参加者が多いので、2組に分かれ、それぞれ添乗員が付いた旅となった。白河市は、福島県中通りの南端に位置する町である。このツアーに参加した人達は、地元の白河市周辺、郡山、会津若松、山形、岩手など東北地方に住んでいる人達が大半を占める。横浜と町田からきた若い女性2人がいたが、彼等はインターネットで企画を知って参加したという。私は新聞の折り込みチラシを見て申し込んだ。
 参加料金は1人62,800円であるが、成田空港使用料、燃料サーチャージなどの経費を加えて、総額一人71,690円となる。この値段はなんと安いことか!国内で4泊5日のツアーなら10万円ぐらいはかかるであろう。台北への往復飛行機代だけでも、10万円以上はするはずである。この安さで参加者が多かったのであろうが、そのほかに時期的にも理由がある。この時期は農閑期であり、積雪で畑仕事もできない、外で働く人達は雪で仕事が少なく暇である、など東北地方特有の理由がある。この機をねらった白河支店の企画は見事的中した。
 このツアーはグループで参加した人が多かった。最大のグループは、会津坂下(あいづばんげと読む)から参加した9名で、施工屋を中心に、塗装、左官、土木など関連会社でつくった親睦会のグループである。彼等は、毎年一回行う親睦の旅行会でこのツアーを利用したのである。幹事の仕事は添乗員に任せ、料金も格安であるから、親睦会の企画としては大変利口である。この親睦会では、欠席すると5万円の罰金が取られるというので、5万円取られるより、参加した方が得だという人もいた。会津坂下は、会津若松市よりさらに新潟側に位置するところにあるので、今年の大雪の影響で今も町は雪に覆われているという。この時期、建設業は仕事がないので、雪のない暖かい台湾に行くのは、彼等にとって気分転換になるであろう。
 次に多いグループは、白河付近から集まった4人姉妹とその連れあいの7名である。4人姉妹は、50才を超えている年齢であるが、元気で、活発である。一方、連れあいは皆おとなしく、姉妹の元気な会話の陰で、にこにこしているだけである。今年の白河地方は雪は少ないが、寒さは厳しい。この時期、畑は凍結して何もできない。姉妹は、揃って旅行に行こうと相談して話がまとまったのであろう。私達が彼女らと食事で同席したとき、4人姉妹の順番を当てて見ろと、姉妹から言われた。50才を超えると、年齢差は外観だけでは見分けが付かなくなる。話し方とか、態度のでかさとか、旦那の態度などで判断する。私と妻は、話し合って長女から末女まで序列を決めたが、それを彼等に話す機会がなかった。
 2人姉妹とその主人の4人組もいた。姉が成田に住み、妹が東京に住んでいる。夫婦だけの2人組は、私達と郡山市から来た夫婦だけで、他は近所のおばさん2人とか、友達同士とかで、1人だけは2名いた。そのうち、岩手の一関からきた70代ぐらいの男性は、船頭を現役でやっている人である。北上川支流、砂鉄川の猊鼻渓で船頭をしている。彼は、冬はシーズンオフで、暇ができたから参加したのであろう。彼は、小柄で、身が引き締まり、動作がかるやかである。私達が、手すりに捕まりながら、のそのそと階段を昇るとき、彼は飛ぶように上がっていく。会津坂下のとび職、左官屋もさすがに身が軽い。60代が大半の私達をしり目にどんどん歩いていく。
 台北市から中正国際空港に向かう帰路のバスの中で、この船頭が「げいび追分」を聞かせてくれた。さすがに毎日鍛えた声は、70代とは思えないほど張りがあり、良く通る。彼は、猊鼻渓の見所を船の中で案内する調子で説明した後、げいび追分を歌った。歌は本物の追分けで、皆感心して聞いていた。そのあと、会津坂下組の頭領が詩吟をうなってくれた。こちらは修行中だと言っていたが、その通り本物ではなかった。「自分で作った財産は自分で使い果たし、子供には残すな、残すとろくなことはない」と言う内容の詩吟である。これを日頃仲間に聞かせて、皆を旅に誘っているのであろう。
 2月22日、参加者は13時40分成田空港ロビーに集合する。私達にとってこの時刻は中途半端である。当日自宅から成田まで車で行くとすると、ゆとりを見て8時頃自宅を出れば良いが、渋滞、事故、積雪などを考えれば心配で、前日成田に宿泊した方がよさそうである。タビックス白河支店は送迎バスを出すというが、バスは白河を9時に出るというので、自宅から白河まで車で1時間かけて行かなくてはならない。この料金が往復一人1.5万円という。これは高い。以前参加したJTB白河支店主催の香港ツアーでは、無料で成田まで往復してくれたし、街道沿いの好きなところで参加者を乗車させてくれた。
 私達はツアーの前後日、成田のホテルに宿泊することにした。ホテルは常宿の成田エクセル東急である。一人朝食付きで6900円である。2泊利用しても、タビックスのバス代、1.5万円より安い。成田エクセル東急ホテルは、成田ヒルトンホテルと並んで建っている。2年前は空港へのシャトルバスを共同で運行し、朝夕は15分に1本バスが発着していたが、昨年から単独で運行している。両ホテルは、客引きの激しい競争があるようで、それで次第に仲が悪くなり、バスは別々に運行するようになったのであろう。ヒルトンは一泊7500円で朝食ナシであるから、客は朝食付きで安いエクセルを選ぶであろう。エクセルホテルは以前ロビーは閑散としていたが、今年は客で賑やかである。成田エクセル東急はホテルに大浴場、温水プール、ジムがある。私は必ず大浴場を利用するが、妻は何故か利用しない。今回、妻は温水プールを利用した。外人が一人泳いでいただけで、のんびり泳げたという。
 ツアーが利用した台湾への便は、キャセイ航空の台湾経由香港行きで、成田発15時40分である。飛行機はジャンボで、満席であった。ほとんどの乗客は台湾の中正国際空港で降りてしまった。飛行機は、配機の都合で香港まで行くのであろう。香港に直通便が多くあるのに、時間のかかる台湾経由に乗る客はいないと思ったが、私の隣に座った中年の男性が一人いた。彼は貴重な存在の乗客として、飛行中、スチュワーデスがわざわざ挨拶に来ていた。
 飛行機は定刻に離陸した。高度を上げるに従い、例によって機内の気圧は低下する。私は、昨年9月にカシオ製のプロトレックという腕時計を3万円で購入した。これには、気圧計の他、高度計、方位計、温度計が付いており、電波で時刻合わせとソーラー電池などの機能が付いている。私の耳は気圧変化に弱いので、耳栓と飴で気圧変動に対応した。腕時計の気圧計を見ながら、座席の液晶画面に出る飛行データを見ながら、私は真剣に飴をなめて、機内の気圧に体内の気圧を追従させる努力をした。そのお陰で耳の痛みはなかった。出発前の機内の気圧は1010hPa(ヘクトパスカル=ミリバール)で、高度が4000mのところで930hPa、1万m(巡航高度)で820hPa(一定)になった。この間気圧低下は徐々に行われていたのが観察された。成田への帰りの便では、機内の気圧は810hPaに保たれていた。
 私達は、台北市郊外の中正国際空港に18時半に着いた。日本時間で19時半である。ここからバスで台中市のホテル、全国大飯店まで2時間弱かかって、20時半頃ホテルに無事着いた。
                             2006.4.10
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台湾旅行3
 今度の台湾ツアーの添乗員は、横瀬さんという20代後半の女性である。そして、台湾の5日間、到着から出国まで世話をした台湾出身のガイドは、宋さんという40代の男性である。彼は関西の大学に留学し、暫く日本で就職した後、今のガイドの仕事をしている。関西弁の日本語は達者であり、顔が桂三枝に良く似て、しゃべり方も似ている。
 台湾を観光する外人は、日本人が70%を占めているので、宋さんは日本語のガイドは忙しいという。ツアー客を空港で送りだした後、すぐ次の日本からのツアー客を迎える、というスケジュールが続く。そのような時、宋さんは、奥さんに着替えなど一式を鞄に詰めて貰って、それを空港で受け取って、また仕事に出かけるという。彼は、台湾人を日本に連れていくガイドもしている。日本に来る外国人で、一番多い国は韓国で、次が台湾という。台湾と日本の観光客の行き来は頻繁である。
 台湾の最初の観光地は、台湾島のほぼ中央に位置する台中市である。ここは私が4、5才まで住んだ土地であるが、街の記憶はほとんどない。ただ、町並みが平坦で、道路が広いという記憶はある。今、見る台中市は、ビルが林立している立派な都市である。戦前の日本が造った台中市の都市計画のお陰で、道路は現在の車社会でも十分対応できると、ガイドの宋さんは言っていた。その通り、街並みは整然とし、そして清潔である。
 私が懐かしく思ったのは、街の所々にある水路(疎水)である。水路は、地上から2mぐらい深い所を流れて、水路の両側は1mぐらいの幅で歩道が造られている。私達が住んでいた家の前にもこの水路があり、水が激しく流れていたので、水路は私の記憶に残っている。この水路をあちこちでバスから見ることができた。何のためにこの水路を日本人が造ったのか、私には分からないが、おそらく水害を防ぐか、環境衛生のためか、であろう。
 次に訪れた街は、嘉義市である。私が生まれた街であるが、街の記憶は全くない。街並は雑然とし、道路はゴミが溢れていた。特に、たばこの吸い殻や空き缶などが道路脇に貯まり、それが延々と続くのであるからびっくりする。台中市に比べると、環境美化に取り組む行政の違いが歴然と現れている。私が生まれた場所は、嘉義市宮前町であるが、そこがどこにあるか宋さんに聞いたが、知らないと言う。町名が変わっているようである。この汚い街を見て、妻が私に、「こんなところで生まれたのね」、と哀れんでくれる。私が道路脇のゴミの中から拾われたような妻の口振りで、私はくやしいが、これが私の生まれ故郷の現実であるから仕方がない。
 嘉義市の観光は、マソ廟の総本山である北港朝天宮の見学である。300年以上前に建てられたという豪華な建物は、現在修理中であるが、建物の中に入って参拝はできる。ここには海上の守護神である女神を祭っていて、信心深い台湾人が女神の前で頭を下げ、手を合わせる。参道は、門前町を形成して、土産物屋、食べ物屋などがぎっしり並び、呼び込みの声や銅鑼の音などで騒然としていた。道の真ん中にも物売りがあり、また手や足のない人達が物乞いをしている。彼等の前のお金を入れる箱は空であった。彼等はどうやって食べているのであろうか。おそらく周囲の店の主人達が、夕方にお金や食べ物を入れて、助けているのであろう。無力な人達は、地域の助けで生きている。役人とは、庶民の役に立つ仕事をする人であるが、この町の役人は役に立たないのであろう、貧乏人は自力で生きている。
 台湾観光の1日目の昼食は、台南市のホテルのレストランで台湾料理を食べた。このツアーの特徴は、5日間、全ての食事が料金に含まれ、フリータイムやオプション観光もないことである。だから参加者は、添乗員やガイドの指示に従って行動すれば良いことになっている。観光バスの座席も、添乗員が毎日指定するので、急いで席を取りに行く必要がない。また、食事の席のグループ分けを、添乗員が毎回行うので、何処に席を取るか迷うことはない。
 中華料理は、大きな回転テーブルに8~9名が座り、大きな皿に入れられた料理を各自取って食べる方式が多い。ツアーの参加者は、9名の建設屋仲間をはじめ、グループで参加した人達が多い。これらのグループは毎回一緒に同席させているので、他の人の食事時の顔ぶれは、あまり変化はない。会津坂下の建設屋グループは9名であるから、5日間同じテーブルで食事を取った。日頃同じ職場で顔を合わせていて、旅行先でも同じ顔ぶれで食事をするのは、ストレスが貯まるのではないかと心配するが、そこは彼等も心得ており、食事時は酒で盛り上がるようになっていた。彼等の席は毎回のようにボトルで酒を注文し、昼食から宴会である。
 中華料理のレストランは騒音だらけである。周りが喧しいから、小さな声は聞こえないので、大声で話さざるおえない。特にこの会津坂下のグループは賑やかである。普段、建築現場で会話しているので、彼等の地声は大きいが、アルコールが入っていて、その上周りが賑やかであるので、一層大声になる。会話は勿論福島弁で、横の私達のテーブルにも話が聞こえてくる。私は、福島の居酒屋で食事をしているような雰囲気に浸ることができた。
 2日目の宿泊地は台湾南部の高雄市である。私達のグループは、華王大飯店と高雄圓山大飯店に別れて泊まることになった。これは、ツアーの申込の際、グレードアッププランを選択すると、一人1万円余分に支払えば、圓山大飯店に泊まることができる方式になっていたからである。私は、グレードアッププランとは、同じホテル内でスイートルームにでも泊まれるプランかと思っていたが、別の格上のホテルに泊まれるとは、意外であった。高雄市の圓山大飯店は、五つ星ホテルで、建物が宮殿風に造られている。建物の内部も広く豪華で、中国風の雰囲気が漂い、部屋の調度品も立派である。36名の私達のツアー参加者でグレードアッププランを選択したのは、私達と郡山の夫妻の2組だけであった。同じツアーの別の36名のグループで、グレードアッププランを選択した人は、半数以上の20名近くいた。
 圓山大飯店は高雄市の郊外にあり、そこに行くのに、この別のグループの20名と同じバスに乗った。このグループは、雰囲気が我々のグループとは違い、話す言葉も標準語を静かに話す。参加者は、サラリーマンOBのような感じで、我々の土着の生活感あふれる人達と人種が違う。話を聞くと、栃木、埼玉、群馬辺りから来たようである。ツアー会社は、参加者を東北地方と関東地方に、上手に分けたものだと感心した。関東地方の彼等は、グレードアッププランの内容をよく調べて、申し込んだのであろう。最終日の台北市の宿泊ホテルもグレードアッププランで、同じ系列の圓山大飯店であった。
 台北市の圓山大飯店は、高雄市よりさらに規模が大きく、豪華である。ホテルの部屋は、応接室と寝室に別れ、広々としたバスルームがある。ゆったりした造りは、台湾人の大陸志向を感じさせる。このホテルは、台湾では七つ星と言われているが、ローカルのグレードであろう。
 私達のグループでは、このグレードアップの選択があったことに気がついた人は、ほとんどいなかったようである。泊まるホテルの格差を知って、最初からこのグレードアップの内容を知っておれば、こちらを申し込んだのに、と悔しがる人が随分いた。
 印刷されたツアーの情報を漠然と見た田舎の人と、厳しい目で見た都会の人との違いが、対応の違いを生んだようだ。その違いは、日頃の生活様式や地域の風土からでてきたものであろう。
                              2006.5.10
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台湾旅行4
 今回参加した台湾ツアーは、台湾島を一周する旅である。地図で見る台湾は、サツマイモの形をしており、イタリアの長靴の形ほど有名ではないが、戦前の日本人に親しまれていた。サツマイモの地図の形は、上を北に、つまり上を日本に向けているが、私が台湾の位置を想像する場合、サツマイモの頭を南に向けて想像するので、現地の台湾で東西が混乱した。このツアーの後半は、島の東側を北上する旅である。私は、右手に海が見えるとき、この海が太平洋であることがどうしても納得できず、中国側の台湾海峡であると認識してしまう。原因は、私が日本から台湾島を見ていた習慣があったことと、サツマイモは常に上を向いているのだという認識が強いこと、によるものであろう。
 ツアーの3日目は、台湾島の東側の中程にある花蓮市まできた。花蓮市では、アミ族文化村でアミ族によるショーを楽しんだ。台湾の先住民族は、台湾全人口2300万人の2%を占め、彼等は12部族にわかれ、そのうちの最も多い部族がアミ族で、13万人いる。アミ族のほとんどが花蓮市付近に住んでいて、アミ族文化村はアミ族の風習と工芸品などを紹介するところである。私は、先住民族のショーはハワイとニュージーランドで見たことがあったが、ここのショーも同様に、歌と踊りで民族の伝統儀式などを紹介する。ショーの出演者は、皆若く、10代の男女で、手足がまだ細く、色白であるのが気にかかった。学生アルバイトによるショーを見ているような感じで、あまり感動しなかった。一方、ハワイ、ニュージーランドの出演者は、全員中年、高年の体格の良い、日焼けした体であったから、その歌と踊りには迫力があった。
 翌日は花蓮市の郊外にあるタロコ渓谷を観光した。この地方の山は大理石でできていて、長年の風雨で山が浸食され、深い渓谷が形成された。1000m以上の山が河の両側に垂直にきりたっている。道路は大理石の岩を削って作られている。道の幅が狭いので、車のすれ違いがままにならない。私達のツアーのバスは、ホテルを朝7時に出発したので、道路はまだ空いていて、行きはスムーズに走れた。しかし、帰りはこれから見物に来るバスと各所で出会って、バス同士のすれ違いが大変であった。事情を知らない他地方の車はむやみに突っ込んでくるので、すれ違いができなく、立ち往生する。帰り方向の車は、我々のバスだけである。一方、対向車は後ろにずらっと並んでいるので、私達のバスが下がって道を譲らなくてはならない。我々が朝5時に起きて、ホテルを7時に出発しなければならなかった理由がよくわかった。
 私達は花蓮市から列車を使って台北市に戻る。台湾の鉄道は、台湾島を完全に一周する路線があるが、そのほか、台北市と高雄市を結ぶ新幹線が建設中である。我々がバスで道路を走っていると、各所で高架の新幹線工事や新駅のホームが見られた。この新幹線の工事は、最初フランスの技術導入で行われていたが、途中から日本の新幹線技術に変更になった。今年の開通予定が遅れて、1年延期になった。台湾の人々は、更に遅れるだろうと予想し、その計画のいい加減さにあきらめているようである。フランスの基本設計で始めたものを、日本のシステムに変更するのであるから、大変な作業であろう。何故途中から相手を替えたのか、判らないとガイドの宋さんは言っていた。
 花蓮駅では11時に出発する座席指定の急行に乗った。列車の座席は、席を回転して向かい合わせにできるタイプで、我々ツアー客は、大きな荷物を持ち込んでいるので、向かい合わせに回転して、背中同士の隙間にスーツケースを入れるようにした。私は荷物が小さいので、回転せずにそのまま座ろうとしたが、東京からきた男が、「楽でしょうから」と言って、前に座っている座席を回してくれた。前の席には福島の相馬市からきた60代の女性2名がいて、このため、彼女らは進行と逆方向に座ることになった。東京男の余計なおせっかいのため、彼女らは私達と向かい合って、3時間も座らなければならなくなった。彼女たちは、近所に住む間柄で、日頃の煩わしい生活から抜け出して、このツアーを楽しんでいるようで、あまり他人と話をしたくないような雰囲気であった。
 列車が花蓮駅を出ると、すぐ昼食の弁当が配られた。弁当の中身は鳥の照り焼きで、格別美味しいとは思わなかったが、弁当のケースが優れていた。弁当箱は、丸い筒状の形をして、オールステンレス製である。中には少し浅いケースが上部に付いていて、ここに総菜が入り、本体にご飯が入っている。蓋もステンレス製でパチンと留められるようになっている。私はこの弁当箱を見て、日本の戦前の兵隊が使っていた飯盒(はんごう)を思い出した。この弁当箱は飯盒とは形が違うが、機能は同じである。つまりお米と水を入れ、上段に総菜になる材料を入れて、焚き火の上で炊くと、料理が簡単にできる。
 この昼食の弁当箱は、おしゃれな布製の手提げ袋に入れられていた。お箸もステンレス製であるのが面白い。これらの箱は使い捨てであるが、私達は、もったいないから捨てずにホテルまで持って帰った。しかし、日本まで持って帰るのは荷物が嵩張るので、1組だけ持って帰ることにした。今私は、1組捨ててきたことに、もったいないことをした、と後悔している。あのようなシンプルで、機能性の高い弁当箱は、日本にはない。
 列車は途中、宜蘭駅に停車した。宜蘭は、戦前私の家族が台湾にいたとき、疎開した土地である。実際に疎開した場所は山奥であろうが、私には宜蘭の記憶は全くない。宜蘭駅付近は開けたところで、立派な都会になっていた。この駅から乗客がたくさん乗り込んで、車両の通路もいっぱいになった。花蓮を出発した時点ですでに指定席の空席はなかったが、台湾の鉄道は指定席の車両にも乗客は自由に乗り込めるという。乗り込んだ人達は、学生らしい若者が多く、彼等は通路に座っている。私がトイレのため通路を通ろうとすると、彼等は嫌な顔もせず、さっと立って通り道を開けてくれる。若者のしつけは行き届いているようである。台湾は徴兵制度があり、2年間入隊する義務がある。しつけは入隊の2年間で仕込まれたのであろう。
 台北市には午後2時頃着いた。市内を観光したが、国立故宮博物館には30分の見学時間しかなかった。世界4大博物館の一つである故宮博物館をたった30分で回るとは勿体ない。私は、別の機会を作って1日かけて見学したいと思った。
 今、台湾は冬であるが、果物は豊富で新鮮である。ホテルの朝のバイキング料理では、色々な果物が並べられているので、私はそれらを少しずつ取って食べるのが楽しみであった。台湾中をバスで走って目に付いたのが、檳榔(びんろう)という木である。この木は椰子の木に似ていて、実は、くるみの大きさで、石灰と煮て食べる。街の至る所には、屋台のような店に「檳榔」という看板を掛けて、それを売っている。この実を食べると、赤い汁がでて、それが歯を染めて赤くなる。びんろうを常用している人は、歯を見れば直ぐ判るといわれる。実を食べると覚醒作用があり、習慣性が出るという。愛用している人はトラックの運転手で、眠気さましに食べている。台湾でびんろうの生産額は日本円で3000億円といわれているので、大きなマーケットである。
 台湾には竜眼(りゅうがん)という果物がある。私は子供の頃、台湾でこの木から竜眼を取って食べた記憶がある。実は2~3cmぐらいの大きさで、皮は薄く、やや硬いが簡単に剥ける。中はとろっとした白い果肉で、甘みがあって美味しい。私は、この竜眼を台湾で食べられるかと期待して行ったが、残念ながら食べることができなかった。日本では時折、レストランでデザートの果物として出され、食べたことがあったが、その竜眼は冷やされ、本来の味とは違う気がしていた。私は、本場で冷やされてない竜眼の味を味わいたかったが、できなかった。
 ガイドの宋さんの話によると、戦前台湾で生まれた日本人を対象にしたツアーがあったそうである。自分が生まれた土地、あるいは家を尋ねる旅で、参加者は多かったという。自分の生家がまだ残っていたという人、あるいはなくなっていたという人など、さまざまであったらしい。台湾も開発がどんどん進んで古い建物は壊され、一方台湾で生まれた日本人は、高齢化がどんどん進み、台湾を訪れる機会が減っていく。昔の台湾を懐かしむツアーは、ここ数年が企画の限界であろう。
                              2006.6.10
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冷蔵庫の買換え
 2006年5月、我が家の電気冷蔵庫が突然動かなくなった。これは、18年前に購入した、三菱電機製360リットル容量の冷蔵庫である。この冷蔵庫は、2年前の夏にも冷蔵室が冷えすぎるという、不具合が発生した。私は電話で修理してくれないかと、三菱のサービスセンターに頼んだところ、10年以上前の製品は部品がないので修理しないと断られた。私は冷たい対応だな、と腹を立て、今度買うときは三菱は買わないことに決めていた。その後、この冷蔵庫は何故か正常に戻ったので、普通に使っていた。
 今度の故障は、冷蔵庫全体が全く冷えないという致命的なものであったので、2年前の不具合もあり、私は新しく買い換えることにした。冷蔵庫選びをインターネットで行ったところ、18年前の冷蔵庫とはすこし性能が改善されているが、基本的にはあまり変わっていないし、どの冷蔵庫も似たり寄ったりという感じであった。
 私は冷蔵庫を選ぶのに、箱の大きさを最優先した。今、冷蔵庫は、台所の対面式流し台の後ろに、食器棚と並べて置いている。そのため、冷蔵庫の奥行きのサイズが問題となる。流し台(システムキッチン)と食器棚との間は1.2mしかなく、ここで料理の作業を行う。従って冷蔵庫の奥行きが大きいと、作業スペースが狭くなり、冷蔵庫が邪魔になる。冷蔵庫の直ぐ隣は勝手口があるので、人の出入りにも支障を来す。現在の冷蔵庫の奥行きは60cmであり、食器棚の奥行きの50cmよりすこし出っ張っているが、なんとか収まっている。
 今度買う冷蔵庫の奥行きは、60cmが限度であると、私は考えていた。普通、台所に冷蔵庫を置くところは、流し台が壁側にある場合、流しの横に並べて置くか、流し台が対面式の場合、流し台の反対側に食器棚と並べて置くであろう。我が家の場合、後者である。冷蔵庫が各家庭に必需品として普及している日本では、冷蔵庫の需要は買い換えのみであると断言して良い。冷蔵庫メーカーはこの点を認識しているのか判らないが、メーカーは新規性能のみを宣伝し、サイズは無視しているようである。
 冷蔵庫の買い換えの場合、奥行きが66cmのものか、50cmのものか、消費者はどちらかを選択するであろう。流し台に並べて置く場合、流し台の奥行きが66cmであるので、冷蔵庫も66cmとなる。食器棚と並べて置く場合、食器棚の一般的な奥行きが45~50cmであるので、冷蔵庫の奥行きも50cmが好ましい。冷蔵庫メーカーが売り出している大型冷蔵庫の奥行きは、ほとんど66cmに合わせている。中には薄型と言って63cmの製品もある。三菱電機、松下電器などは奥行きサイズを無視しているようであるが、東芝は奥行きを意識した開発を行っているようである。東芝の400リットルの冷蔵庫で、薄型奥行き60cm、と宣伝している冷蔵庫でも、実際は63cmの奥行きである。また、東芝は奥行き50cmの冷蔵庫を売っているが、これは私にとって理想的な冷蔵庫であったが、幅がやたらと広く(90cm)、値段も高かったので、買うのをあきらめた。
 400リットルの冷蔵庫はドアが4~5個付いている。18年前の冷蔵庫は一番上が冷凍室になっていたが、現在では冷凍室は容量を大きくして、真ん中に位置し、引出式になっている。これは、冷凍食品の利用が大幅に増えたことによる、メーカーの対応であろう。冷凍食品を利用する世代は若い世代であろう。買い換えを必要としている世代はあまり若くないので、冷凍食品もあまり利用していないと思う。各社の冷凍室の位置は、冷却用のコンプレッサーを下部に置いているせいか、冷蔵庫の下側が多かった。
 私は冷蔵庫を奥行きサイズで選択するが、妻は使いやすさで選択する。よく使う野菜室は真ん中の引出式が良いとか、冷凍室は全く使わないから一番下でよいなど。結局決めたのは、東芝のGR-40GBという400リットルの冷蔵庫である。私は、各社の外観、サイズなどをインターネットで比較した後、私達は、車で30分離れた町のケーズデンキという家電販売店へ冷蔵庫を買いに行った。店では、妻が各社の冷蔵庫のドアを開けたり閉めたりして迷ったあげく、東芝のこの型に決めたのである。メーカーは色々な宣伝文句を並べていたが、決め手は使い勝手と奥行きであった。
 現在発売の冷蔵庫が18年前の冷蔵庫と大きく変わっているのは、コンプレッサーに入れる冷媒が、フロンからノンフロンになった点である。フロンは不燃性の優れた冷媒であった。しかし、廃棄されたフロンにより、北極上空にオゾンホールという穴ができることが分かった。このため、有害な紫外線などが地球に入りやすくなり、皮膚ガンの発生が懸念された。皮膚ガンを起こしやすい白人達が、躍起になってフロンの生産販売を禁止してしまった。有色人種は皮膚ガンへの影響は少ないと言われていたが、発言力の強い白人社会が強引にフロンを使えなくした。
 冷蔵庫の仕様書には、冷媒はノンフロン、としか記述されていないのが気になる。実際に使われている冷媒は、イソブタンという引火性の物質である。冷媒は、完全密閉のパイプの中で循環しているので、安全と思われるが、パイプにひびが入り、イソブタンが庫内に充満すると、スイッチ類の火花で引火して爆発する。冷蔵庫が爆発する可能性があるなど、正直なことを仕様書に書くと、消費者はびっくりするので、メーカーは隠しているのであろう。
 冷蔵庫には硬質ポリウレタン発泡体という断熱材が使われている。庫内の冷気を外に逃がさないために、外側の鉄板と内側のプラスチック板の間に、この断熱材が厚さ3センチぐらいで埋められている。断熱材を発泡させるために発泡剤を使用するが、以前はフロンを使用していた。このフロンの使用も上述のように禁止された。フロンの代わりになるものが色々模索されていたが、シクロペンタンという引火性の発泡剤が採用されているようである。
 シクロペンタンは、冷媒用のイソブタンよりも引火性は低いが、引火して爆発する危険性がある。冷蔵庫メーカーで断熱材を充填する際も、引火しないような注意が必要で、そのための投資も大きかったであろう。冷蔵庫の断熱材は、鉄板とプラスチック板で隔離密閉されているが、発泡剤のシクロペンタンは徐々に外に出ていき、それと同時に断熱性が低下する。以前の発泡剤のフロンも同様に外に出ていくが、シクロペンタンの方が速い。従って断熱性能の低下も速く、それによる消費電力も年とともに増大する。このような冷蔵庫の断熱性低下は消費者には知らされていない。このように白人社会の圧力で、冷蔵庫に冷媒の変更と発泡剤の変更が強いられたのである。
 冷蔵庫の断熱を魔法瓶方式にしてやれば、危険な発泡剤を使わなくてよいという発想から、ある冷蔵庫メーカーが開発を行っていた。現在、そのような商品は発売されていなかった。ご承知のように、魔法瓶は容器を2重構造にして、2重構造内を真空にしている。真空は断熱効果が最も高いので、魔法瓶は優れた断熱性能を持っている。冷蔵庫で魔法瓶方式にするには、箱の外面と内面をメタルにし、その間を真空にしなければならない。真空を長期間保つには溶接技術など多くの困難があり、コストも大幅に上がるであろう。
 私が注文した冷蔵庫は4、5日後に我が家に配達されるというので、その間冷蔵庫なしの生活が強いられた。冷蔵庫は空気のようなもので、ないとその有難味がよく分かる。故障の時期が暑い夏でなくてよかったと思っていたが、この5月でも冷蔵庫がないと全く不便であった。私は、8年前にオートキャンプ用に購入した携帯用の電気温冷庫を持っていたので、それを急遽出して使っていた。これは、25リットル内容積の小さな冷蔵庫であるが、牛乳とかマーガリンなどを入れて使用していた。
 この携帯用冷蔵庫は優れもので、電源は100Vと12Vどちらでも使え、冷媒を使うコンプレッサーはなく、電気を流すだけで冷却、保温ができるのである。つなぎ合わせた2種類の金属板に直流電気を流すと、金属が冷却されるという「ベルチェ効果」を利用した冷蔵庫である。この冷却効果を利用した理化学機器は、15年前ぐらいから化学実験室で使われているが、機器は小さいものしかなかった。このベルチェ効果を利用した家庭用電気冷蔵庫が未来の究極の冷蔵庫となるであろうが、冷却効率が悪い、あるいは消費電力が大きいなどで、実用化されていない。家庭用冷蔵庫にベルチェ効果が採用されると、冷媒は不要になるので、爆発の危険性もなくなるし、環境にも優しい商品になる。
 新しい冷蔵庫が入って設置してみると、古い冷蔵庫より3cm出っ張っていて、最初は気になったが、今は慣れてしまった。新しい冷蔵庫の高さは187cmある。並べて置いてある食器棚の高さは200cmであるので、冷蔵庫はもっと高くても良い。冷蔵庫の高さを200cmにして、奥行きを減らして55cmにして欲しいものである。各社の冷蔵庫のコンプレッサーは何故か下部に付けている。これを寸法的にゆとりのある一番上に持っていき、その真下に冷凍室を作り、冷凍室から漏れ出る冷気を下の各部屋に穴を開けて流してやると、効率は上がるし、容積も広くなるであろう。
 技術的に成熟していると思っていた電気冷蔵庫も、まだ技術開発の余地が残されていると、私は、今回の冷蔵庫の買い換えで感じた。今、私が考えている究極の電気冷蔵庫とは、コンプレッサーのないベルチェ効果を用いた冷却方式と、断熱材を使わない魔法瓶方式を採用したものである。何時、これが製品として世の中に出てくるか、私は楽しみにしている。
                              2006.7.10
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オートキャンプ
 2006年5月の連休に、私達は久しぶりに栃木県のオートキャンプ場に行った。オートキャンプとは、車の駐車スペースとテント用の敷地が確保された、約100平方メートルの土地を1泊5000円くらいで借り、そこにテントを張り、野外生活を楽しむレジャーである。オートキャンプ場は全国の山間に多数設置されている。普通のキャンプ場と違うのは、車が入る道が各敷地に繋がっていることで、一方普通のキャンプ場は、広い敷地の好きなところにテントを張り、車は離れた専用の駐車場に留める。オートキャンプの敷地は、通称オートサイトと言い、普通のキャンプ用の敷地は、テントサイトと言う。オートキャンプ場には必ずテントサイトが設置され、主にバイクで移動する若者が利用する。料金も1泊1000円ぐらいで安い。
 今回、私達が行ったキャンプ場は、栃木県那須塩原市にある那須野が原公園オートキャンプ場である。ここは、栃木県が管理している広大な公園の一角にキャンプ場があり、私達が行った時、場内の八重桜が満開であった。オートキャンプ場には、管理人がいる管理棟があり、そこに売店があって、簡単な食料品やキャンプに必要な道具などを置いている。キャンプ場によっては大浴場、あるいはシャワー室、コインランドリーなどがある。那須野が原オートキャンプ場は温泉浴場が設置されていた。オートキャンプ場には温泉浴場を売り物にしているところもあり、入浴を目的にキャンプに行く人も多い。
 ここのキャンプ場の直ぐ近くに、塩原温泉カントリーキャンプ場がある。この土地のオーナーが温泉を掘り当て、それを「やしお温泉」と名付けて、その地にキャンプ場を開いた。私達は、5年前までは毎年5月の連休にこのキャンプ場を利用し、温泉と山桜の花を楽しんでいた。オーナーは、80才近いおばあさんで、名物オーナーとして多くのキャンパーに親しまれていた。私達は今回、ここの温泉に入りに行ってみたが、5年前よりキャンプ場は整備され、管理棟にある大浴場も新しく露天風呂が設置されていた。以前からこの温泉場は、近所の人達が大勢入浴だけを目的にやってきていたが、今も地元の人が訪れていた。おばあさんは健在であった。
 私がオートキャンプを始めたのは、10年前のサラリーマンを完全にリタイアしてからである。私は、ロッジ型の本格的なテントを購入し、その他キャンプ用品を揃えて、憧れの北海道に20日かけてキャンプに出かけた。このテントは、小川テント製のミネルバという商品で、一張り15万円であった。これは、5人がゆっくり寝られるスペースと、食事ができるリビングというスペースがあり、寝るところは天井が三重になっている本格的なテントである。横浜から矢祭に移住してから、矢祭の環境が山間のキャンプ場と同じであったので、キャンプにわざわざ行く必要がなくなり、テントは不要になった。3年前、毎夏団地で行っている朝市に、このテントを一式5000円で売りに出して、団地下の地元の菊池さんに買ってもらった。
 今年、急にオートキャンプに行きたくなり、準備を始めた。私は、もう大きなテントを買って、テントを張る体力も、気力もなくなったので、車の中に2段ベッドを作り、そこで寝ることにした。10年前に買ったトヨタのエスティマは、室内が広いので、2段ベッドが置ける。私は普段、エスティマにある3列のシートの真ん中のシートを外して使用している。車検の時は、シートを元に戻して検査を受けているので問題はない。真ん中のシートを外すと、室内は実に広々とした感じになり、大きな荷物が楽々入れられる。2段ベッドを付ける際は、更に後ろの右半分のシートを取り外してしまう。そうすると、幅70cm、長さ200cmの2段ベッドが置ける。床から天井までの高さが120cmで、1段のベッドの高さが60cmしかとれないが、寝返りは十分出来る。
 2段ベッドは鉄パイプを組み合わせて、組立式にして作った。私は、矢崎化工㈱がホームセンターで売っている、「イレクター」という部材を買い集めて、ベッドを組み立てた。イレクターは便利な商品で、パイプで色々な物、例えばイス、藤棚、犬小屋、テラス、ワゴンなどが作れる。それらを作る部品が全部揃っているのが有り難い。パイプは塩ビで被覆され、色々な長さのパイプがあり、パイプをカットする道具まで売っている。私はパイプで骨組みを作り、上段はベニヤ板でベッドの床を作った。そして、厚さ5cmの折り畳み式のマットレス2組を買い、中身のフォームを、サイズに合わせてカッターナイフでカットして、2段ベッドは出来上がった。
 このベッドの組立は、車の外の部屋で行い、強度、寝心地などを確認して、バラバラに分解した。キャンプに行く前日に、この2段ベッドを車の中で組み立てた。後方のシートは左半分残しているので、室内はまだゆとりがあり、妻が化粧するのにこのシートは使われる。私は10年前、このエスティマを買うとき、2段ベッドを入れることを頭に入れていたので、運転席の後ろと、周りの窓全部にカーテンをオプションで付けていた。寝るときは、これらのカーテンを閉めると、外から覗かれないので安心である。ベッドで使う寝具は、コールマン製の封筒型シュラフである。
 実際にキャンプをするには、外で食事などをするために、タープという簡易テントが必要である。私は以前にもタープを持っていたが、布が劣化してしまったので廃棄した。この機会に新しくタープを買うことにした。買ったのは、小川キャンパル製のヘキサ型タープで、縦横5m×5.7mの大きなものである。このくらい大きいと、車の上からタープが張れるので便利だろうと思った。しかし、実際には車は敷地の端に置くようになっているので、タープは車と離れて張る結果となった。
 4月30日、そのほかのキャンプ用品を車に詰め込んで、栃木県那須塩原市の那須野が原公園キャンプ場に出かけた。ここは、矢祭町から大子町、黒羽町、大田原市を経由して1時間すこしで行ける。キャンプ場内は八重桜が満開であった。客は10組ぐらいいたであろうか、連休にしてはのんびりしていた。早速タープを張り、車の中からキャンプ用品を外に出し、電気コンロで湯を沸かし、コーヒーを入れて落ち着いた。野外でコーヒーを飲むのは久しぶりで、コーヒーも水が良いせいか、美味しい。ここのオートキャンプ場は各区画に100ボルトの電気が配線され、自由に使える。キャンプ場によっては電気使用料として、1日1000円を取るところもあるが、ここはキャンプ料金に含まれている。電気照明、電気炊飯器、携帯型冷蔵庫、電気ストーブ、扇風機などの電気製品が使えるので、実に楽である。
 来る途中、地元のスーパーで夕食の材料を買ってきたので、それを使って、ガソリンを燃料とするコンロで料理した。夕食後、管理棟横の小さな温泉浴場に入った。温泉は循環型であるが、浴室は清潔に保たれていた。10時頃、車に備え付けた2段ベッドで就寝した。テントで寝る場合は、寝る場所が布一枚でしか囲まれていないので、強盗などに簡単に襲われるかもしれない。また、キャンプ地は人里離れた山間地にあるので、熊などが襲ってくる可能性もある。周りにキャンプをする人が大勢いれば、心強いが、近くに誰もいないと不安である。その点、車の中は鍵がかけられるので安心である。
 私達は、以前持っていたテントを使って20回ぐらい寝起きをしたが、当時、外敵に襲われるかもしれないなどの不安は、一度も感じなかった。現在、年を取ったせいか、無防備のテントで寝る勇気がなくなってしまった。治安の悪いアメリカなどでは、キャンピングカーで寝泊まりするのが普通であるが、日本ではキャンピングカーはまだ珍しく、テントで寝泊まりするのが主流である。キャンピングカーは、車内に台所、食堂、寝室があり、キャンプ場では水道管、電源が車に接続できるようになっている。
 日本のオートキャンプ場では、所々に炊事場が設置されていて、そこで料理の下ごしらえとか、食器類の洗いなどを行うようになっている。炊事場ではキャンパー同士の挨拶を行う。「どこから来たのか」とか、「いつまでいるのか」、など他愛ない会話を交わして、互いに悪者でないことを認識し会う。見知らぬ人達が直ぐ近くで寝泊まりするため、キャンパーは簡単な会話、あるいは笑顔を交わす必要があり、それによって相互に安心感が得られる。人目を避けるように、誰もいない時を選んで炊事場に行く人は、不気味に思われるのである。
                              2006.8.10
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06年、夏の庭
 我が家の庭にはブルーベリーの木が数本ある。そのうちの1本は毎年実を多くつけ、実が熟する頃、ヒヨドリが食べに来る。そのため、木の周りを防鳥ネットで覆うことにしている。今年は8月のはじめに、実が紫色に熟し始めたので、そろそろネットを架けようかと思っていると、もうヒヨドリが食べにきているよ、と妻が私に教えてくれた。私は、押っ取り刀でホームセンターに行き、防鳥ネットを買い、ブルーベリーにかぶせた。私がかぶせたネットは、下の方に隙間があったので、ある日、ヒヨドリがそこから入ったらしく、ネットの中でバタバタしているのを見つけた。ヒヨドリは、鳥の習性で逃げるとき、上に向かって飛ぼうとして、ネットにかかって、慌てたのである。ヒヨドリは3羽も入っていた。
 私は、ヒヨドリを捕まえて焼き鳥にして食べようかと思ったが、可愛想だから逃がしてやった。その代わり、ヒヨドリをさんざん脅かして解放してやった。彼等はこりて、もう食べにこないであろう。ヒヨドリは、私の家には馴染みの鳥で、毎日庭を飛び回っている。ある朝、私が2階のリスニングルームで音楽を聴いていると、ヒヨドリが突然窓の手すりに止まって、家の中をのぞき込んだ。ヒヨドリは遠くから見ると、頭がぼさぼさになって、いかにも乱暴そうな感じであるが、近くで見ると、愛くるしい目をして可愛い。ヒヨドリは、私と目があって、びっくりして逃げて行った。その後、ヒヨドリはブルーベリーを食べにこなくなった。実の2割ぐらいはヒヨドリに食べられたが、あとの8割は私達が賞味することができる。
 これとは別に、少し小さいが、ブルーベリーの木を1本植えてある。このブルーベリーは、毎年2、30個の実を付けるが、ネットをせずにしているので、ヒヨドリは実を自由に食べることができる。ある日、その木を見てみると、実は全部なくなっていた。ブルーベリーは逞しい木で、次々と新しい枝を下から出してくる。本体から少し離れた所からも枝が出てきたので、それを分離して、別の所に植え替えた。剪定した枝も、1本試しに土に突き刺したところ、これも元気に成長している。我が家の庭には、合わせてブルーベリーの木が4本ある。これらが大きくなって、たくさんの実を収穫できたら、私はブルーベリー酒をつくろうと思っている。私は、深い青紫色の液体を水で割って飲める日を楽しみにしている。
 今年の8月中旬は、台風10号の影響で、30℃以上の暑い日が続いた。我が家の庭には、近くの沢から引いてきた水を、池の水路に流しているが、そこに毎年スズメが水浴びにやってくる。スズメは、複数でやってきて、周りを警戒しながら、羽をばたつかせて水浴びをする。複数のスズメは同じ方向を向いて水浴びをしなく、必ず違う方向を向いて水浴びをする。我が家の水浴び場は、周りに茂みがなく、見通しが良いので、スズメは外敵を察知しやすい。一方、近くに流れる沢は、雑草の茂みの中を流れているので、スズメにとって安心できる水浴び場ではないのであろう。
 今年はセキレイ(セグロセキレイ?)が水浴びにやって来た。スズメより一回り大きいセキレイは、しゃがみ込んで水浴びをする。スズメと違って、セキレイは単独でやってきて、最初、水を飲み、水質を確認したあと、深さ1cmの水路に入り、水路の中のえさを探して食べ、そのあと水浴びをする。セキレイは羽をばたつかせるほか、頭を水に突っ込み、洗髪をする。水浴びのあとは、水路の横に上がり、熱心に毛繕いをする。スズメは水浴びの後、さっさと帰ってしまうが、セキレイはのんびり長居する。この水浴び場にはヒヨドリはこない。ヒヨドリは体が大きすぎて、全身の水浴びはできないと思うが、頭ぐらいは洗えると思う。セキレイを見習って頭を清潔にし、ぼさぼさな頭をすっきりしてもらいたいものだ。
 夏の庭にやってきて姿を見せてくれるのは、ヒヨドリ、スズメ、セキレイ、ハトぐらいである。冬には、これらにジョウビタキが加わる。春先にはウグイスがたまに姿を見せる。ウグイスは、鳴き声だけは近くで多く聞くことができ、暑い夏でも頻りに鳴いている。今年のウグイスは、鳴き方が正統的な、「ほうー、ほけきょ」でなく、「ほうー、けきょ、けきょ」と鳴く。この「ほ」抜きの鳴き声がはばをきかせて、堂々と大きな声で鳴くので、正統派のウグイスは弱々しく遠くで鳴いていた。私は、どこかの地方でもウグイスが「ほ」抜きの鳴き方をすると、NHKのラジオで聴いた。「ほ」抜きは、全国的な若者ウグイスのはやりなのか。
 夏の草花では、今、ナスタチューム、インパチェンス、日々草、姫ヒマワリ、アメリカ芙蓉、プリエッタ(ほふく性ペチュニア)が咲いている。私は今年になって宿根草を多く植えだした。一年草は苗を買うのが面倒であるが、宿根草は放っておくと、春に芽を出して大きくなるので、楽である。ただ、植えた場所をしっかり覚えておかなくてはならない。キキョウ、都忘れ、リンドウなど、うっかり冬にクワを入れてしまうことがある。球根類も同じである。アメリカ芙蓉は存在感が大きいので、場所を忘れることはない。横浜から持ってきた赤いアメリカ芙蓉は、株分けを繰り返して、今6ヶ所で堂々と花を咲かせている。アメリカ芙蓉は、花が大きいので庭が賑やかになる。今年は、白いアメリカ芙蓉を買って、大きな花を咲かせることができた。
 私は毎朝、庭に出て、庭の草木を見て回ることにしているが、ある朝、いつものように庭に出たところ、猫が3匹、玄関の近くに座っていた。生まれたばかりの子猫1匹と、やや大きい猫の2匹である。この3匹は、親子であろうか、あるいは兄弟であろうか。私が近寄ると、3匹はばらばらになって逃げた。子猫は逃げ足が遅く、少し離れた椿の木の陰に隠れて、頭だけ出して私の方を見ている。子猫は、白と薄茶の縞模様の猫で、大きな目で私をじっと見ている。自分を飼って欲しいと、訴えているような目つきであったが、家で飼ってやると、他の2匹も一緒についてきそうで、厄介だから私は断念した。私が、出て行けと追い払うと、子猫はフェンスの幅4.5センチの隙間から抜けて、外に出た。フェンスは高さが70センチあるので、この子猫はジャンプして乗り越えることができない。他の2匹もまだ庭にいたので、追い払うと、彼等はフェンスを飛び越えて外に出た。
 外に出た子猫は、まだこちらを見て、私の様子をうかがっていたので、私は石を投げて追い払った。猫でも飛び道具は怖いらしく、私が投げた石は的を大きく外れていたが、子猫は飛び上がってびっくりして逃げてしまった。その後、彼等は我が家の庭には入ってこない。猫たちは、飛び道具を使う人間には近寄らない方がよいと思っているのであろう。あの可愛い子猫はどうしたのであろうか。うまく飼い主を見つけたであろうか。
 何故3匹が揃って我が家に来たのか。親が子猫を連れてきて、私に飼ってもらいたい、と頼みにきたのか。3匹が兄弟であれば、小さな弟はまだ食べ物をさがす力もないし、自分たちが面倒を見るのは大変だから、親切そうな金谷のおじさんのところに連れていって、飼ってもらおうと考えたのか。
 兄猫が、「いいか、金谷さんちに飼ってもらうために、可愛い顔をするんだぞ」と言うと、子猫が、 「うんわかった」 など、兄弟は会話を交わしたに違いない。しかし、頼みに行った金谷さんは、自分たちの望みに反して追い払い、その上石まで投げつけた。このような仕打ちを受けて、3匹の猫はがっかりしたであろう。一方、折角猫に見込まれ私は、逆に猫たちに恐れられたようである。今、私は子猫を追い払って、複雑な思いをしている。
 8月の末には、朝夕に涼風が吹きはじめ、暑い夏もまもなく終わる頃になった。
                              2006.9.10
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ロシア旅行1
 私は、06年9月12日から15日間、ロシア旅行のツアーに参加した。ユーラシア旅行社の「ロシア・ウクライナ・バルト三国15日間」というツアーである。今回は、妻が町の図書館作りのボランティアに参加して忙しいため、私一人で参加した。矢祭町は、「本を買わない」、「建物は建てない」という条件で、新しく図書館を作る計画を立てた。毎日新聞社がこれを新聞に載せたため、全国から本が町に送られ、今では20万冊を超える数になった。図書館は古い公民館の一部を改造して作るので、本は3万冊しか置けない。送られてきた本の区分けとか、選別などで、ボランティアは大変忙しくしている。
 最近、ロシアとその近辺出身の相撲力士が、幕内に多数入ってきて、その数はモンゴル出身力士並になってきている。彼等の事情を新聞で読むと、一家の生計を助けるためであるなど、まだ貧しい環境にある人が多い。ロシアの露鵬、白露山、グルジアの黒海、ブルガリアの琴欧州、エストニアの把瑠都などが幕内にいる。今場所は把瑠都が前頭一枚目に昇進し、活躍が期待される。私は把瑠都のファンで、この秋場所は旅行中で相撲が見られないが、彼の出身のエストニアも訪問できるので、楽しみにしている。
 今回のツアー参加者は、奥村さんという添乗員を入れて、17名である。旅行先が一般的でないので、参加者が少ないのであろう。私が参加した今までのツアーの中で、一番少ない人数である。15名以上でツアーが成立というから、ぎりぎりの人数である。参加者は、夫婦が5組、2人姉妹が1組、単身参加が男2名、女2名である。2人姉妹は、別のツアーが成立せず、やむなくこのツアーに参加したという。我々の年齢からすると、この2人は孫のような年齢である。彼女らの参加で、このツアーが成立したようなものだから、有り難い。
 添乗員の奥村さんは、20代の細身の女性である。添乗員は、なんといっても声の質が大切である。彼女は、声が大きく、高い声ではっきり喋るので、それだけで立派な添乗員である。モスクワ行きの飛行機は、200人乗りのボーイング767-300であり、満席であった。この客の内、約100名が4~5人の添乗員が率いるツアー客で、添乗員は男性が1名で、他は女性添乗員であった。女性添乗員の服装は、全て黒の上着と黒のパンタロンである。この装いが添乗員の定番のファッションなのか分からないが、目立たないのが良くない。成田空港ロビーでは、黒服の彼女たちが動き回っているのが異常に思えた。私達も、誰がうちの添乗員か、見失うことがあった。もっと目立つ個性的な服装をして欲しい。
 奥村さんも黒い上下であったが、靴だけは他の添乗員と違って、白かった。だから私は添乗員を見分けるとき、靴を見て、そのあと、上の顔を見る。犬が飼い主を捜すのに、主人の靴のにおいで嗅ぎ分けるのとおなじである。旅行先の現地で雇われるガイドは、「皆さんが見つけられやすいように、私は真っ赤の服をきてきました、赤い服を目印にして下さい」と、サービスしてくれる。観光地では他の日本からきたツアーと一緒になることがよくある。このようなとき、ツアー客で頭1つ出る背の高い人がいて、帽子でも被ってもらうと大変助かる。先頭を歩く添乗員が背が低いと、後ろからは先頭が見えないので、同じツアーの人の目印を頼りに、歩かねばならない。
 モスクワ行きは、定刻の12時に少し遅れて出発した。機種は、ボーイング767-300で、200席ある。座席は、両窓側に2人、中央に3人が座るシートになっている。私は、中央の通路側をチェックインカウンターでリクエストして、19Dという席を得た。この席の列は、前にトイレの壁があり、シートと壁の間が20cmぐらい他より広くなっている。お陰で飛行中、足が伸ばせてゆっくりできた。この列は、座席の前の壁に赤ちゃん用の籠が架けられるようになって、母親が目の前で赤ちゃんを世話することができる。この便では、赤ちゃん連れがいなかったようで、3人とも大人であった。私の横には同じツアーの横田氏(仮名)が座っていた。
 79才の横田氏は独身で、十数年前奥さんをなくされ、今海外旅行を趣味としている。来月はアフリカに行くという。ツアーの旅は毎食が用意されているので、何を食べようか考える必要がなく、何より日常生活を忘れるのがよいという。子供は皆独立しているから、家では自分一人である。ツアーでは、食事時皆と話をしながら食事ができるので楽しいという。以前のツアーでも、横田氏のような人がいて、その人は、ツアーが終わって一週間後に次のツアーで成田に行くのだ、と言っていたのを思い出した。
 ツアーの毎日の食事は、昼、夕食とも、4~6人が1つのテーブルを囲む。その際の話題は、何処に住んでいるか、何回目の旅行か、など自己紹介的な話から始まる。4日目ぐらいからそのような話題もなくなり、観光地の話題に移り、さらに互いに気心が知れると、自身のプライバシーにかかわる話になる。
 今回のツアーの参加者は70代以上が比較的多いせいか、病気や死についての話が出る。以前、60才代が多かったツアーでは、自分の親の介護の話が多かった。日頃の介護の苦労話を皆に話して、話し相手に自分の立場の同感を求める。また話をすることにより、自分の気持ちが楽になるようであった。今回の参加者は年齢が少し高いので、親の介護は終わってしまったか、他に介護をゆだねたか、介護の苦労話はなかった。
 その代わり、自分が介護される立場になったらどうするか、などの話題がでる。さらに、自分が認知症になったらどうしようか、と悩んでいる人もいた。死に方についての話しも時折あり、他人に迷惑をかけない死に方の実例を、話してくれたりする。色々話があった後、飛行機事故で死ぬのが、あっさり終わってよい、という一致した意見に終わる。高齢者ツアーにふさわしい話題である。私達は、このツアーが死のツアーになることを本気で望んでいるのか。私もツアーに参加する前に、私が事故死をした場合、何処に、どのような種類の金があるか、メモを作り、処理法を指示してサインをしてきた。私は、遺言状は以前から書いている。今回は、無事に帰国したのでこれらは杞憂に終わった。
 ツアー参加者は各自カメラを持っているが、一眼レフのデジカメを持っている人が多いのに驚いた。一眼レフカメラは、一般のデジカメにくらべると、ばかでかく、重量もある。そのような不便なカメラを持っていく理由は何であろうか。私は、旅行前にリコーのデジカメ、「カプリオR4」というカメラを買った。デジカメはこれで4台目になる。私にとってこの機種は理想的なカメラである。28mmの広角レンズに、8倍光学ズームが付き、軽くて小さいから胸のポケットに楽々入る。600万画素であるが、少し画素数を落として、1GBのSDカードを使って、700枚の写真が撮れるようにした。今回の旅では、全部で1070枚の写真を撮ってしまった。
 私は、旅の想い出を油絵にするために、旅先で撮した写真を利用することにしている。広角で撮った写真の中に、気に入りの構図があると、それをパソコンで引き延ばし、トリミングして、A4サイズにプリントアウトする。これを見ながら絵を描く。その写真の雰囲気を知るために、周辺の風景をコピーすることもある。
 私は、これまでの海外旅行では、必ずビデオカメラを持って、動画を撮してきたが、今回は止めた。ビデオを撮っても、後でそれを見なくなったからである。操作が面倒で、見る時間が長すぎるためである。同じ理由でビデオを止めたという人が、同じツアーで2人もいた。しかし私は、ビデオをあきらめたわけではない。ビデオには動画のおもしろさがあるからである。現在のビデオカメラは記録媒体が4種類も提案され、どの記録媒体も欠点がある。あと1~2年もすれば、優位な記録媒体が明確になるであろう。私は、それまでビデオカメラの購入を控えることにした。
                              2006.10.10
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ロシア旅行2
 旅行先のロシア、ウクライナ、バルト三国は、旧ソ連国である。ソ連の解体後、これら五カ国が独立して、約10年になる。これらの国々は、旧ソ連時代には観光客の受け入れがほとんどなかったので、10年経った今も、観光に対する意識は低く、受け入れの施設もまだ十分とはいえない。旅行前に私は、訪問する国のガイド本を読むことにしているが、これらの国のガイド本は少なく、ダイヤモンド社が出版している「地球の歩き方」シリーズに、「ロシア」と「バルトの国々」があるだけである。ウクライナは、「ロシア」の本の中に入っている。
 ガイド本を読み、実際に訪問して、これらの国々は、観光資源そのものは豊富であることを私は知った。また、重要な観光施設であるホテルについては、欧米系のホテルが各地に建てられていたので、私はホテルに対する不満は持たなかった。これらの国々の観光資源は、教会、寺院、修道院、宮殿が主であり、これらの建物の中にある、宗教画と肖像画(油絵、フレスコ画、イコン)が、観光の目玉になっている。ロシア正教は、建物の内部の壁に、宗教画が所狭しと飾られているので、教会に入ると、その数で圧倒される。土地の信者は、敬虔な気持ちで教会に入り、十字を切って前に進むが、日本人の観光客は、ずかずかと奥まで入り、物珍しげに辺りを眺め回す。信者にとってこの神聖な場所も、私達の存在でその雰囲気が壊されているようであった。
 西欧のカトリック系教会は、ステンドグラスによる明かり取りで、建物の中は比較的明るく、華やかな感じがするが、ロシア正教は、ステンドグラスがないので、暗い。その代わり、聖人画の背景に、金彩がほどこされ、それが少しの光で輝くので、暗い雰囲気が緩和されていた。この聖人画を写真に撮ると、バックの金彩が強調され、人物像が暗くなってしまう。私は、ロシア教会に長くいて、建物の中の雰囲気で気分が暗くなるのを味わった。教会には、歴代の聖人達の遺体が安置または埋葬されているので、当然明るい気持ちにはなれないのであろう。
 対照的なのが宮殿で、サンクトペテルブルグ近郊にある、「エカテリーナ宮殿」や「夏の宮殿」は、開放的で明るく、華やかである。エカテリーナ宮殿は、名前の通り、女帝エカテリーナのために建てられた別荘である。17世紀に建てられたこの宮殿は、帝政ロシア時代、富の極端な集中により得られた資金で建てられて、それは贅を極めている。貧しい農民から集められた資金は、国土が広い故に、その額も莫大であった。その金で一握りのエリートは豊に暮らした。ロシアの農村文化は、南の西欧に比べると質素である。そのためエリートは、華やかな西欧文化に追いつけ追い越せと、フランスから文化を取り入れた。ロシア語の発音などは、何となくフランス語に似ているのが面白い。
 エカテリーナ宮殿もベルサイユ宮殿を真似して建てられたという。この宮殿は、当時の首都サンクトペテルブルグから約25km離れた所にある。女帝達は、夏にこの宮殿へ馬車を連ねて行くわけであるが、途中休憩するために、別の宮殿を所々に建てたというから、その贅沢さは、けた外れている。このような貧富の差の存在があって、偉大なレーニンが生まれ、革命が起き、ソ連が誕生したのであろう。富の平等を掲げた共産思想では、農業からの富だけでは国民は潤わなかった。ソ連国民の西欧との生活格差が広がる中で、社会主義の修正が行われ、ロシアが誕生した。そして今や、ロシアは、石油資源を武器に巨大な富を得つつある。
 ソ連時代に各地に建てられたレーニン像は、今回の訪問国では、ほとんど見ることができなかった。ただ一ヶ所、ロシアとエストニアの国境でレーニン像を見ることができた。レーニン像は、レストランの建物の裏側に、威厳に満ちた表情で立っていた。これは、ソ連時代、エストニアのタリン市(現在、エストニア国の首都)の中心部に建てられていたのであろう。この像は全身像で、片手を水平に上げている。日本では片手を真上に上げてタクシーを止めるが、ロシアなどでは、タクシーを止めるには、片手を水平に上げる仕草をする。そのため、このレーニン像は国民から、単に「タクシー止めの像」と、呼ばれている。
 私は、ロシアを含めて五カ国を旅行したが、各国とも観光客、特に団体客の受け入れが整っていない印象を受けた。特に、トイレの不備が目立った。教会や寺院には観光客用のトイレはないので、旅行社は、代わりのトイレ休憩所を探す必要がある。高齢者を抱えるツアーでは、立派な寺院より、トイレの存在の方が重要である。レストランなどがその目的に選ばれるが、かなり大きなレストランでも、男女兼用のトイレが一つしかないところもあり、トイレの前は列ができる。列ぶのが嫌だから、食事の途中でトイレに行く人が次々に現れる。レストラン従業員は、我々のこの行動にいやな顔をしない。
 エストニアとロシアの国境では、ロシアへの入国が厳しく、バスから降りて一人ずつパスポート審査を受ける。バルト三国間では審査はなく、バスに乗って通るだけであったので、出入国は簡単であった。ロシア入国では、軍人が銃を持ってバスの荷物をまとめてチェックしていた。入国審査は時間がかかるので、ツアー客はトイレが必要となる。管理事務所にはトイレが一つしかなく、そのトイレも便座がない。これには女性が困ったようであったが、彼女たちは覚悟していたらしく、澄ました顔をしてトイレから出てきた。いわゆる立ちション(立ち小便)スタイルで事を済ませたのであろう。
 私は子供の頃、田舎道でおばあさんが着物の裾をすこし上げて、中腰の状態で立ちションをしているのを見たことがあった。その頃(戦後)は、女性がパンティを着ける習慣がなく、腰巻きを着けていたので、立ちションは手軽にできた。現在の女性はきちんとしたパンティを着けているので、便座のない幅広の腰掛け式便器でどのようにして用を足したか、私には想像できない。ロシアを旅行する女性は、立ちションの練習をしておくべきである。
 各地の昼食のレストランではビールが安いので、食事時ビールを飲む人が多い。ビールは、ジュース、コーラなどと同じ値段で、一番高いのが水である。350ml(缶ビールの容量)のビールが200円ぐらいに対して、水は300円ぐらいである。ビールを飲むと、暫くしてトイレに行きたくなる。昼食後、添乗員は、これから2時間トイレがないので、レストランでトイレをして行けという。人は機械でないので、ビールを飲んだから、すぐそれが尿となって出るものではない。その代わり、約1時間経つと、猛烈に尿意を感じるのである。
 オクロフ・ナ・ネルリ教会は、11世紀に建てられた「ロシア建築の白鳥」と呼ばれる、真っ白い美しい教会である。この教会は、ロシア国ウラジーミル市の町はずれにあり、車が通れる道路がないので、観光客は、駐車場から1.5kmの道を歩いて訪問する。教会の周りは一面の草原で、雪が融ける4月には教会は一面の水に囲まれる。水面に映る教会の姿は美しいとされている。従って、冬から初夏にかけて、教会は世間から遮断される。私達は、この教会に昼食後1時間ぐらいして訪れたので、ビールを飲んだ人達は困ってしまった。添乗員とモスクワのガイドはなにも言わなかったが、現地で雇ったガイドは、私達にこっそりトイレがあるのを教えてくれた。
 そのトイレは、教会からすこし離れたところにあり、ニワトリ小屋のような粗末なものである。有料トイレのようで、トイレのそばにアルミ製の洗面器が置いてあり、5P(ルーブル、25円)と書いた手書きの紙が貼られていた。私は、4Pしかなかったので、それを洗面器に投げ入れて、一つしかないトイレに入って驚いた。木の床を長方形に切っただけの便器である。肥溜めは、はるか2m下に、土を掘って作られ、便が蓄積されている。私はこれを見て懐かしく思った。これは、戦前の日本の田舎のトイレそのものである。日本では、肥溜めは陶器で作られ、周りは一応セメントで固め、さらに貯まった便をくみ出す窓が付けてある。
 この教会裏のトイレは、建物のメンテナンスを任されている隣の農民が、小銭稼ぎに作ったのであろう。春になると雪解けの水で、トイレの便は自然に流れ出し、付近の畑にしみ込んで肥料になる。農民は初夏に野菜の種を畑にまき、そして元気に育った野菜を、都会の人々は美味しいと言って食べる。これは大昔からの食のリサイクルである。
 私がそのトイレから出ると、噂を聞いて急いでやってきた同じツアーの女性達が、「トイレがあるのね」と、うれしそうに私に言う。私は、「懐かしいトイレで、有料です」、と言うと、「あら、小銭があるかしら」と、財布を取り出して、心配そうに調べる。彼女たちは、そこで用を足したようであるが、都会育ちの彼女らがどのような気持ちでトイレを使ったか、私は聞くのを憚った。
                              2006.11.10
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ロシア旅行3
 ツアー客の最高年齢者は、86才の吉田さん(仮名)と、80才の彼の奥さんである。このご夫妻は、過去色々なところに行かれているようで、彼等の話題の場所は、アフリカとか中南米などポピュラーな観光地ではない。今回訪問したバルト三国、ウクライナ、ロシアも、昔旅した所で、以前の記憶をたどりながら旅をしている様子であった。彼等は、ロシアはソ連時代にすでに旅行していたので、現在のロシアを旅して、建物の近代化に驚いていた。
 ご主人の吉田さんは、好奇心が極めて強い。彼は、各所で色々な疑問を持ち、それを何故だと、地元のガイドに質問する。サンクトペテルブルグにあるエカテリーナ宮殿は、写真が自由に撮れるが、あの有名な琥珀の間だけは撮影禁止になっている。そこで吉田さんは、何故琥珀の間だけ撮影禁止なのか、ガイドに質問する。私もこの琥珀の間を写真に撮りたかったが、駄目だと言われて、そうなのか、そういう規則なのかと、すぐあきらめてしまう。しかし、86才の吉田さんは私と違って、その理由を知りたがった。撮影禁止の理由は簡単であった。撮影を許可すると、見学者がこの琥珀の間で渋滞してしまい、人の流れがスムーズにいかないからである、と説明された。吉田さんはこの理由になるほどと感心していた。
 リトアニアのビリニュスで、吉田さんは空中に張られている電線が4本であるのを見て、何故かと思った。日本では、支線になっている電線は2本か3本なのに、どうして4本なのかと言う。これにはツアー参加者も、こんな事によく気づいたなと感心して、改めて上を見上げた。添乗員の奥村さんに聞いても分からない。地元のガイドに聞くと、困ったような顔をして、吉田さんになにやら説明していたが、私には聞こえなかった。吉田さんは納得がいかない顔をしていた。私達は、ガイドが説明する建物の方向を見て感心し、ガイドがないときは、皆とはぐれないように前方ばかり向いて歩く。しかし、吉田さんはそのようなとき、上にまで目を向けて歩いているのである。
 吉田さんは歩いて移動するとき、このように立体的に周囲を観察するので、歩く速度が遅くなる。私達一団は、ほぼまとまって歩くが、吉田さんは一人遅れてしまう。私達は彼が追いつくのを立ち止まって待つことが、しばしばであった。吉田さんは、86才という高齢により、歩く速度が遅くなっているが、ガイドに個人的に質問したり、ビデオを回したりするので、なおさら遅くなる。80才の奥さんは、若々しく歩き方は60才代である。彼女は、歩くテンポがご主人と違うので、ご主人と離れて、私達と一緒に歩く。彼女は、後ろの方からよたよた歩いてくる主人を冷たい顔をして待っている。夫婦の仲が悪いのかと思われるが、そうでもない。添乗員は、吉田さんが離れたところで、私達に集合時刻とか、集合場所など重要なことを言い渡す。そこで吉田さんの奥さんはしっかり聞いて、後ろから追いついたご主人にその内容を伝達する。奥さんは添乗員の連絡事項を聞く役をしているのである。長年のツアーで培った夫婦の役割分担であろう。
 吉田さんは高齢者故の頑固さを発揮することがある。我々が、ロシア、ウラジーミル市のドミトリエフスキー寺院の展望台からウラジーミル市を眺めていたとき、吉田さんは遠くに大きな白い煙を出している円錐形の建造物を見た。これは原子力発電所ではないか、とガイドに質問した。ガイドのヴィクトルさんは、火力発電所だと答える。いや、違う、あの円錐形は日本の原子力発電所で見たことがあるので、きっと原子力だ、とガイドを否定する。ガイドは火力発電所だと再度言う。私は、あの円錐形は冷却装置で、白い煙は水蒸気です、と吉田さんに言うと、彼は、そうですか、と言ってまだ納得しない。原子力発電所があんな街の近くにあるのはおかしいですと、私は断言した。彼は黙ってしまった。
 モスクワの市内に入った時、バスの中からウラジーミル市で見た例の円錐形の建造物が見えた。吉田さんはそれを見て、こんな所に原子力発電所があるのかと、小声で呟いていた。円錐形の近くに数本の高い煙突が立っていたので、これは石炭による火力発電所に違いない。原子力も火力も、発電方法は同じで、水を沸騰させ、蒸気にしてタービンを回し発電する。蒸気は循環させるために水に戻す必要があり、冷却装置が必要となる。冷却装置に水をかけて冷やす時に、水蒸気が大量に発生して、それを大気中に放出するために円錐形の煙突が必要となる。
 私達がウラジーミル市内を歩いていたとき、吉田さんは突然私に、「ウラジーミル」という題名の小説があったように覚えていますが、知っていますか、と聞かれた。私は、「そうですねぇ、小説の中にウラジーミルという名前はあったと思いますが、題名は知らないですね」と答える。彼は別の人にも同じ質問をしていたようであった。私は、吉田さんは以前の職業が理科系の大学の先生なのかと、思っていたが、この質問を聞いて理科系でないような気がした。
 既にリタイアした人の現役時代の職業は、人の体つきに現れて残っている。農作業をしていた人は、腰が曲がってしまう。運転手をしていた人は、肩が大きく、腰が小さくなっている。スポーツをしていた人は、姿勢が良い。医者は、前屈みになっている。机に向かって知的仕事をしていた人は、頭が大きく、猫背になっている。吉田さんは、頭でっかちの猫背である。これから彼は知的労働者であったことが想像される。同じ知的労働者でも、学校の先生は、机に向かう時間が少なく、教壇で黒板と生徒に向き合う時間が長いので猫背にはならない。大学の先生は、学生に向き合う時間が少ないので、猫背になりがちであるが、理科系の先生は、色々な角度で視線を走らせるので猫背になりにくい。文系の法学、文学、人文、芸術あたりが彼の前歴であろう。彼の好奇心の異様な強さから、私は彼を考古学の先生だと決めた。
 後日、私はインターネットで「ウラジーミル」という本を検索したが、出てこなかった。ウラジーミル(著)「大公ウラジーミル」という単行本が出版されているのを見つけた。吉田さんは、この本を読んだことがあったのかもしれない。余談であるが、ロシア大統領のプーチンは、ウラジーミル・プーチンであり、レーニンは、ウラジーミル・イリイチ・レーニンである。ウラジーミル市は、モスクワの北東約170kmのところにあり、12世紀にロシアの首都になったが、その70年後、モンゴル軍により町は破壊され、首都をモスクワに移されたという歴史がある。
 ロシア文字は、英語のアルファベッドと相当違っているので、街のロシア語看板を見ても直ぐには判らない。私は若い頃、NHKのロシア語講座をラジオで約3年間聞いたことがあった。当時は印刷のロシア文字しか接しなかったので、今回、現地で実物のロシア文字を見て、私はすこし感動した。ロシア文字の発音を思い出しながら、看板のロシア語を読むと、その意味が判るような気がした。ツアーに参加した人達はロシア文字は知らないようであった。彼等は私に、あれはどう読むのかと聞くので、私はそれに答えていた。その様子を見て、吉田さんは私のところに近づいて、道路の標識に「CTOΠ」という文字があるが、あれは何ですか、と聞く。私は即座に、あれはSTOPの文字ですと答える。彼はすぐさま納得した様子であった。
 添乗員の奥村さんは、ロシアに入国する時、ロシア文字と英語のアルファベットの対照表を参加者に渡してくれた。それを見ながらロシア文字を読むことはできるが、時間がかかる。対照表を覚えてしまえば速いと思うが、高齢者には短時間では憶えられない。私は、約30年前に勉強したロシア文字の発音がまだ記憶に残っていたので、ロシア語の読みは何とかできた。人の脳に入っているメモリーは簡単には消えないようで、私も30年前のメモリーを少し取り出せることができて、自分の脳に感謝している。
                             2006.12.10
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春うらら、野鳥
 昨年の秋、我が家の庭に今まで見かけなかった小鳥とか小動物がやってきた。小鳥では、ヒヨドリが我が家の庭を自分のテリトリーとして、我がもの顔で飛び回っていたが、カケスが新たに現れた。カケスは、ヒヨドリより一回り大きく、ふっくらしている。両方の羽に青と白の模様があり、胸毛は茶色である。飛ぶと背中に白い模様がはっきり見えて、すぐカケスだと判る。私は、カケスの姿を写真に撮ろうと思って、何度も家の中から写してみたが、ぼけた写真しか撮れなかった。その写真を拡大してカケスの眼を見ると、目玉の周りが白くふちどられ、恐い形相であった。スズメとかヒヨドリの目玉は、この白い縁取りがなく、つぶらで可愛らしい。
 遠くから眺めたカケスは派手である。この鳥が3、4羽庭にやってくると、賑やかで、庭が活気づく感じである。カケスは、ハトのように土の上を歩きながら餌をさがす。私は、毎年庭の畑にサツマイモを植えて、秋にはその芋を堀り上げている。今年も豊作で、多くの人にサツマイモを差し上げた。収穫した芋に小さいのが出るので、それを畑に放置していると、カケスがそれを好んで食べにくる。ヒヨドリは、生のサツマイモは食べない。ふかしてやるとヒヨドリも食べる。カケスは、ヒヨドリよりも大きいので、カケスがサツマイモのところに飛んでくると、ヒヨドリは逃げてしまう。
 ヒヨドリは、庭のピラカンサの実とか柿の実などを食べにくるが、初冬になるとそれもなくなり、庭の木のあちこちに止まって餌を探す。私が、庭に作った鳥の餌台にリンゴを置くと、ヒヨドリは、すぐ飛んできて旨そうに食べる。そのヒヨドリは、たらふく食べた後、奥さんを連れてやってきて、彼女にリンゴを食べさせる。旦那のヒヨドリは、近くの木に止まって、敵がくるのを見張っているようである。カケスは何故かリンゴを食べないので、ヒヨドリは落ち着いて食べることができる。
 シジュウカラは今まで我が家に来なかったが、昨冬からよく見かけるようになった。シジュウカラは、胸に黒のネクタイをしめ、5、6羽でやってくるのですぐ判る。木に付いてる虫を食べているのか、忙しく枝を行き来する。ウグイスは、春から秋にかけて喧しく鳴く声は聞こえるが、その姿は今まで一度も見ることができなかった。しかし、昨秋に1回だけ我が家の庭に飛来し、見ることができた。ジョウビタキは、毎年冬になると庭にやってくる。今年も暮れから方々で見かけ、茶色の膨らんだ胸が可愛らしい。その他、名前は判らないが、新顔の小鳥が数種やってきた。
 昨年の秋、私は初めて狸が山の斜面を歩いているのを見かけた。私は、家の敷地の隣にある斜面を、狸が横に歩いているのを見たが、妻は、別の日に斜面をゆっくり登っているのを見た、と興奮して話してくれた。体全体がふっくらして、しっぽが大きくふさふさしていたので、あれは狸に間違いないと、私達は意見が一致した。ハクビシンも、前の森の落葉樹で、枝から枝へ飛ぶように動き回っているのを見かける。ハクビシンは遠くからしか見えないので、特徴の白い鼻は見ることができない。
 昨年から急に色々な小動物が我が家にやってきたのには、理由がありそうだ。矢祭町は、町で三番目の工業団地を、私達が住んでいるニュータウンの南に造成した。この工業団地は、私の家から南へ約200m離れたところに、約5万坪の山林を切り開いて造成したものである。3年前から樹木を切り倒して、昨年の秋に造成が終わった。位置的に、私の家がこの工業団地に一番近いところにあり、切り倒した山林は、私の敷地の前にある森につながっていた。
 開発した広大な山林には、多くの動物達が住んでいたであろう。その住みかを短時間で人間が奪ってしまったのだから、動物達は周辺の山林に逃げ出した。その一部が我が家の前の森にやってきて、庭にも餌を求めてやってきた。私が住んでいるこのニュータウンも、7、8年前に町が工業団地と同程度の広さの山林を切り開いて造成したものである。その時も同様に、ここに住んでいた多くの動物達が周辺の山林に追い出された。動物を追い出した加害者は矢祭町だけでなく、土地を購入した私達も、間接的な加害者になっている。開発で住むところを失った羽や足がない蛇は、遠くに逃げられないので、ニュータウンのすぐ近くに非難することになる。私がこの地に住み始めた6年前は、時折蛇が我が家の庭にやってきた。昔住んでいた土地を懐かしがってやってきたのであろう。そのときは、私は丁重に蛇を森に帰ってやった。
 ここ10年近い年月で、約10万坪の居住地を失った動物達は、いわば「山林開発難民」と言ってよいであろう。彼等の一部が、生活の場を求めて我が家の周りにやってきたのであるから、受け入れてやらなければならない。私ができる受け入れは、柿の実を多く残してやることと、サツマイモを畑に残したり、フェンスの外に芋を置いてやることぐらいである。サツマイモを夕方、フェンスの外に置いておくと、翌日にはそれがなくなっている。ウサギか狸かイノシシがやってきて、それを持ち帰ったのであろう。私は、いもがなくなっていた場所をじっとみて、動物達が喜んでそれを持ち帰り、家族にも食べさせている様子を想像する。私は、およばずながら山林開発難民を助けているのだ。それは、山林を破壊した加害者が、被害者に対する償いであると、考えている。
 話は変わるが、私は昨年の暮れにDVDプレーヤーを初めて購入した。世の中は、ビデオテープからすっかりDVDの時代に変わってしまった。映像のソフトも、DVDが主流になっている。VHSテープは、巻き戻すという操作があり、時間がかかって面倒であるので、すたれているのであろう。私も、VHSのレコーダーを2台持っているが、全く使用していない。私は、DVD装置を買うなら、ブルーレイディスクタイプにしようと決めていたが、メーカーの開発が遅れ、しかも高価になりそうだから、買うのをあきらめてしまった。今のDVDプレーヤーは、3000円ぐらいから買えるので安い。DVDレコーダーになると、10万円近くなるので、容易には買えない。プレーヤーとレコーダーの違いは、前者は再生だけの機能で、後者は再生とDVD作成(記録)の両方ができる。
 私が購入したDVDプレーヤーは、ネットの販売店である上海問屋が1万円で売っている物である。この機種は、DVDとSDカードのような記録媒体が両方再生できる、便利な物である。この装置には、HDMIという接続端子が付いていて、高画質の映像も見られる。このプレーヤーに接続する我が家の液晶テレビは、残念ながらHDMI端子が付いていない。接続端子の変遷はめまぐるしく、しかも一般の人にはほとんど知らされていないから困る。接続端子は、高画質用のS2端子から始まり、4、5年前から「ハイビジョン用の端子はD4」と言われ、それがDVI端子になり、現在HDMIになっている。今、チラシに宣伝されている最新の液晶テレビは、HDMI端子付きと明記されている。
 3年前に購入した我が家のテレビは、D4端子とDVI端子しかついていない。DVIからHDMIへ変換するアダプターが、1000円で売られていたので、それを購入してテレビに接続してみたが、映像は映らなかった。購入したこのDVDプレーヤーは、付属品として昔ながらの3本の接続ワイヤー、つまり映像が1本、左右の音声が2本、が付いているが、私は、S2用ワイヤーを持っていたので、それを使って再生している。HDMI端子は、1本のワイヤーで音声と映像が送れるので便利であるが、私はまだその恩恵に預かれないでいる。
 私は、DVDソフトを1本も持っていないので、日本の野鳥(シンフォレスト社販売)というDVDを、4700円で購入した。少々高かったが、100種類の鳥が映像と鳴き声で楽しめる。それには、鳥の名前のインデックスがあり、お目当ての鳥をすぐ見ることができる。これは、テープではできない便利さである。このDVDをじっくり観察すれば、我が家にくる不明の鳥もその名前が判明するであろう。カケスもきれいな写真で紹介されている。このDVDは、私のパソコンでも見ることができ、テレビより高画質に映し出される。このDVDのカケスを、パソコンに直接コピーしようとしたが、不可能であった。そこで、パソコンの画面にでるカケスをデジカメで写してみた。これを、私がデジカメで撮った庭のカケスの写真と比較すると、DVDの方が鮮明であった。1枚4700円のDVDは、それなりの価値があるようである。
                             2007.1.10
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ロシア旅行4
 06年9月に参加したロシア旅行のメンバーの中に、小島さん(仮名)夫妻がおられた。小島さんは79才で、以前この雑記で紹介した86才の男性に次いでの高齢者である。86才の男性が猫背で、歩き方がおぼつかないのに比べ、小島さんは背筋をぴんと伸ばし、すたすたと歩く。その歩く姿は30代の男性のようである。彼は以前、脳卒中で倒れたが、今はほとんど機能が回復しているようである。片目が少し不自由なところと、口の動きが滑らかでないくらいで、普通の人と変わらない。彼が姿勢がよいのは、熱心に気功をしているせいである。
 小島さんと話をするとき、気功とか太極拳の話題に話を向けると、彼は気功の効能など熱心に話をしてくれる。話ばかりでなく、彼は少しでも待ち時間があると、皆に気功を実践させる。モスクワへの飛行機の中で、通路に立って中腰で手足を動かしていた人を、私は見た。妙な人がいるなと、その時は思ったが、その人は小島さんであり、エコノミー症候群防止のため、気功を実践していたのである。観光地では、彼が中心になって4、5人の輪を作り、彼の動きを見ながら私達も手足をゆっくり動かす。ヨーロッパの人達はこの動作が珍しく、じろじろ私達を見ながら通り過ぎていく。
 サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館見学の際、開館まで時間があり、私達は暫く待っていた。小島さんは気功をやろうと言って、やり始めたので、私達も一緒に始めた。他の入館を待っている人達の中に韓国からきたツアーがいて、私達に近寄ってにこにこして眺めていた。彼等は、私達の動作が気功か太極拳であることを理解しており、それに親近感をもっているようであった。彼等は、私達に話しかけて、何処を見てきたのかとか、これから何処へ行くのか、など聞いてくる。私達の参加者の中に、ヨン様のペンダントを持っていた女性がいて、それを韓国の人に見せると、彼等はうれしそうにしていた。気功が縁で、ささやかな日韓の交歓が生じた。
 小島さん夫妻はスーツケースを持たずに、このツアーに参加した。成田空港で夫婦共大きなリュックを背負ってやってきたのを見て、私はびっくりした。後で、彼等は登山家で、国内の100名山にほぼ登ったという話を聞かされて、なるほどと感心した。夫妻はツアーによる海外旅行は初めてであるという。添乗員の奥村さんは、リュック姿の小島さんを見て一瞬困った顔をした。リュックは鍵がかからないので、スーツケースと同じように荷物室に入れることができない。手荷物にするには大きすぎる。リュックを小さくするため、二つに分ければ良いだろうということで、無事に飛行機に乗ることができた。それにしても15日間の旅行を、リュック一つで済ませるとは、さすが登山家である。パッキングの技術がなければできる技ではない。
 私はいつものスーツケースを持ってツアーに参加した。このスーツケースは約15年前に購入した物で、あちこちが痛んでいるが、何とか使える。車輪が一ヶ所しか付いてなく、反対側に取っ手が付いていて、それを持ち上げて引っ張って歩く。今のスーツケースは車輪が二ヶ所に付いているから、後ろから押して歩く。私が持っているタイプはほとんど見かけなくなったが、たまに同じタイプのスーツケースを見つけると、親近感をおぼえる。所有者は若者ではなく、中高年者である。
 飛行便は往復ともエアロフロート・ロシア航空である。この会社はスーツケースの重量管理(20kg以下)が厳しく、オーバーすると、搭乗拒否もあるという、ツアー会社のおどしに、私は神経を使った。自宅では体重計でスーツケースの重さを測定でき、丁度20kgであった。中身には、5kgのウーロン茶、1kgのそば殻の枕(市販の枕のそば殻を半分に減らした物)、使い捨ての下着類、靴下などである。ホテルの柔らかい枕は、私は苦手であるので、そば殻の枕を持参することにした。使い捨ての下着類は、今まで使っていた古い下着類を持っていき、使用後ホテルに捨て、ホテルでの洗濯をしないようにした。ウーロン茶は飲んでなくなり、枕は最終日に捨ててしまうので、帰りは7kgぐらい軽くなる。従って、7kgの土産物を買うことができる。帰りのチェックインカウンターでは、私のスーツケースは、丁度20kgであった。
 今回のロシア旅行は、ウクライナ、バルト三国、ロシアの五カ国をまわる旅である。バルト三国はEUに加入しているが、通貨はユーロではない。従って5種類の通貨を使わなければならない。この五カ国は旧ソ連国であったので、私はロシアのルーブルが共通して使えるのかと思っていたが、むしろドルとユーロが使える。日本の円は銀行以外は両替できない。私は、いつも最初に訪問する国の通貨を成田空港の銀行で両替することにしている。今度の最初の国はウクライナであるので、ウクライナの通貨、フリブナに替えようとしたが、銀行はそれを扱っていないことが分かった。仕方ないので、3万円をドルとユーロに替えて出発した。ツアーでは現地でお金を使うことはあまりない。お金を使うのは、食事時のビール代で、その代金は現地通貨しか使えない。土産屋もこの五カ国では現地通貨を必要とした。これらの国でクレジットカードが使える店がほとんどなかったのには、予想外であった。
 最後の訪問国はロシアで、サンクトペテルブルグ市とモスクワ市を訪問する。これらの都市は大都会であるので、クレジットカードを使える店がかなりあった。私は、手持ちのドルとユーロが少なくなり、最終日はルーブルもなくなってしまった。私は、モスクワ市のトレチャコフ美術館で、どうしようかと困っていたら、ロビーにATMがあり、米国人らしい老夫婦が使い方を若い警備員に教えて貰っているのを見つけた。彼等が終わった後、私もクレジットカードからルーブル紙幣を引き出そうと思い、若い警備員に使い方を教えてくれと、英語で頼んだ。彼は黙ってATMのところにきてくれた。ロシアの若者は英語が少し通じると聞いていたが、私の下手な英語も通用した。彼は自分でキーを叩き、幾らかと聞くので、私は200ルーブルと答えた。その後、彼はなにやら分からないことを私に言って、急に向こうを向いた。私は何だろうと一瞬困ったが、そうか暗証番号を入れろと言ったのか、それで彼は向こうを向いたのだ。私は暗証番号を入れて、200ルーブル(約900円)を引き出すことができた。これでレストランでビールが飲めると思うと、何だかうれしくなった。
 私は、日本でATMから現金を引き出した経験はなかった。今回、モスクワで初めて経験したが、簡単に現金が引き出せるのに感心し、またクレジットカードが人手に渡ると大変なことになるな、とも思った。引き出したお金は時間が経って、自分の銀行口座から引き落とされるわけであるが、その間の金利をカード会社に支払うことになる。その金利とは、一時社会問題になった高金利である。モスクワで借りた約900円がどれくらいの金利になるのか、一ヶ月後、送られてきた支払明細書を受け取って判明した。金利は年27.8%で、31日間の借金で20円の利息を支払ったことになっていた。手数料は取られていないので、少額のキャッシュサービスは手軽であるという実感を受けた。
 ツアーの最終日は、モスクワ市内の観光で、その日の夕方に、モスクワ、シュレメチュボ空港から帰国する。モスクワ空港の近くに大きなショッピングセンターがあり、私達はそこに立ち寄り、1時間買い物をすることができた。センターの中に大きなスーパーマーケットがあり、私はそこで土産物のチョコレートを買うことにした。私は、地元の女性ガイドに、ロシアのブランドチョコレートは何かと聞くと、彼女は、ロシアにはそんなものはないという。ロシア産のチョコレートは安いのですぐ分かり、高いチョコレートはドイツとかベルギーから輸入したブランド物であると、彼女は言った。ここではクレジットカードが使えたので、私はロシア産のチョコレートをどっさり買った。値段は、日本で買うチョコレートの半分以下である。お陰で帰国後、私は、一ヶ月近くロシアのチョコレートを賞味する事ができた。
                              2007.2.10
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東山温泉
 私は毎年1月と2月に、近くの温泉場に1泊旅行をすることにしている。今年(07年)の1月には、きつねうち温泉に行った。福島県の中通りに東村があり、その村が運営する温泉施設がある。それがきつねうち温泉である。東村は、平成の市町村合併で白河市に編入されたので、正式には東村は、白河市東である。温泉施設がある建物には、図書館、文化ホール、宿泊施設などが併設されている。付近一帯は、東風の台公園という総合運動公園があり、テニスコート、サッカー場、野球場、室外、室内プール、武道館など、ありとあらゆる施設がつくられている。小さな村でよくもこのような大きな設備ができたなと、私は感心してしまった。東村は、この建設により相当な財政難になり、白河市との合併話しに喜んだにちがいない。
 東村は今年マラソンで話題になった、福島県出身の二人の敦史、そのうちの藤田敦史の生まれ故郷である。運動公園の中央には「藤田敦史選手がんばれ」という大きな看板が立てられていた。村は、マラソンに力を入れているらしく、公園の周辺にはマラソンコースが造られ、コース案内と距離の表示が車道と別に造られていた。私が行った日には走っている人は誰もいなかったが、ウオーキングには安全な道である。
 きつねうち温泉は今回で2回目の訪問で、最初に行った年は雪に降られ、雪景色を楽しむことができた。今年は雪はなく、周囲は秋の終わりといった雰囲気であった。宿泊施設は和室とコテージ風の部屋があり、私達は、1泊2食付き8000円の和室に泊まった。私達が行った日曜日の夕方は、浴場に30人ぐらいの客が入り、大混雑していた。入浴だけ1時間半以内の利用であれば、一人350円の料金である。矢祭町付近では、温泉の入浴料は500円から1000円であるので、このきつねうち温泉は安い。そのため多くの村人が、銭湯代わりに入りに来ているのであろう。
 夕食の料理は部屋まで運んでくれるので、のんびり食事をすることができる。地元の生貯蔵酒を売店で買ってきて、それを飲みながら料理を楽しむ。8時を過ぎると、日帰りの客はいなくなり、静かになる。温泉場もがらんとして、夕方のあの賑わいがうそのように、寂しくなる。翌日、私はいつも朝風呂を楽しむことにしているが、その朝も誰もいないがらんとしたお湯であった。広々とした浴槽でのんびりできるのは何とも言えない喜びである。
 今年2月19日、会津若松市の奥座敷と言われる東山温泉に行った。福島県の主な都市にはそれぞれ奥座敷と言われる温泉がある。福島市には飯坂温泉、郡山市には磐梯熱海温泉、いわき市には湯本温泉、会津若松市には東山温泉がある。湯本温泉を除いて、これらの温泉場は都市部の奥まった山間部にあるのが面白い。特に会津若松は、市街地の続きの一番奥に東山温泉があり、山にはさまれた谷間にあるので、奥座敷の表現がぴったりの温泉である。
 私達がこの時期に会津若松に行くのは、雪を見に行くためである。今年は全国的に暖冬で雪が少なく、会津も雪がないのか心配で、一週間前から天気予報に注目していた。行く日の3日前、会津若松は30cmの積雪があったというニュースを聞き、これは確実に雪見ができると喜んだ。冬の会津若松へは、車はスリップ事故が恐いので、JRで行くことにしている。水郡線の矢祭町東館駅から郡山に行き、そこから磐越西線で会津若松に向かう。いつもの年なら郡山あたりから雪が積もっているが、今年はひとかけらの雪もない。磐梯山が北側に迫る猪苗代町あたりでは一面雪で、雲一つない空に磐梯山が間近に見られた。私は車両のデッキに行き、デジカメでこの景色を撮した。
 この調子では会津若松も積雪があるなと、期待していたが、会津若松市に近づくにつれ、雪はなくなってしまった。終点の会津若松駅は雪はなく、市内は道路の脇に薄黒い雪の残骸が残っているだけである。風も穏やかで、気温は10℃ぐらいであろうか、街は春の感じであった。駅から市バスで東山温泉駅に行き、そこから今夜宿泊する「御宿東鳳」に電話をして、迎えにきてもらった。温泉駅から歩いて10分ぐらいのところに、そのホテルはあるが、山の中腹にあるので、迎えの車を頼んだ。車の運転手も、雪がないのは生まれてこのかた初めての経験だと話していた。この辺りは山の近くだから、3日前に積もった雪はまだ少し残っており、屋根にはかなりの厚さで雪が残っていた。
 御宿東鳳(おんやどとおほう)は、大規模なホテルで、本館、朱雀亭、タワー棟の三つの建物からなり、タワー棟は22階建てである。私は一泊二食付き一人9000円のプランをインターネットで申し込んだ。ホテルのフロントでその旨を伝えると、受付の若女将が、今日は部屋が空いているので朱雀亭の5階に部屋を取りましたという。朱雀亭は眼下に会津若松市内が見渡せる建物で、料金も私が申し込んだ本館より2割ぐらい高い。若女将が直々に部屋まで案内してくれた。この若女将は、愛想が良く、ぺらぺらと良く喋る。「金谷さん、長旅お疲れでしょう、幸い雪がなくて良かったですね」と、若女将が言う。私は、「いや、雪がなくて残念です、雪を見に来たのですから」と言う。彼女は、「あ、そうですか、こんなの珍しいのですよ」と、けらけら明るく笑う。
 若女将はまだ若く30才前ぐらいで、大女将は60才ぐらいであろうか。大女将は、翌朝、バイキング朝食がある大広間入口に立って、客の様子をそれとなく観察していた。大女将は小柄で、若女将も小柄な人であり、二人とも美人だから親子であろう。女性が取り仕切るこのホテルは、細かいところまで心遣いが払われている。昨年秋に新設したという展望型露天風呂には、女性向けの洗面化粧台に豪華な三面鏡があったと、妻は喜んでいた。朝9時頃、客が帰る玄関ホールには若女将はいなく、大女将が立って挨拶していた。前日の夕方は大女将はいなく、若女将が客の応対をしていた。朝夕交代で、親子が勤務しているのであろう。若女将は、朝は子供の世話で忙しくしているのだろうか。
 先回会津若松に来たときは大雪であったので、何も見ずに帰ってしまったが、今年は晴天で暖かいので、市内の御薬園(おやくえん)を見物した。御薬園の創設は15世紀で、薬園を造ったのは17世紀、会津藩主の保科氏で、その後会津藩主松平氏が遠州流庭園を造った。庭は、心字の池の周りを回遊する方式で、古木の大木があちこちにあり、歴史を感じさせる。池には鴨が泳いでおり、その中に白いサギのような鳥が浅瀬に立って獲物を探していた。売店の女性に、あの白い鳥は何ですかと聞くと、今まで見たこともない鳥です、という。名前は分からないそうだ。私は自宅に戻って、野鳥の図鑑でこれを調べると、コサギであることが判った。コサギは、足で水底を掻いて獲物を見つけるのだと、その本に説明していた。その通りのことをコサギはしていたので、私は納得した。
 帰りは郡山で2時間近い待ち合わせ時間があったので、駅の近くを散策した。郡山市は福島県のほぼ中央にあり、県内で人口が一番多い。県庁所在地は福島市であるが、福島市はすぐ近くに仙台市があるので、その存在は薄いようである。買い物は仙台へ、という人が福島市に大勢いる。郡山市は位置的に県の中央にあるので、都市の機能が自然にできている。JR郡山駅の特徴は、広大な貨物基地があることと、駅のすぐ東側に保土谷化学郡山工場が広い敷地を持っていることである。貨物基地の必要性は私には判らないが、物流の合理化が進んでいる現在、この広さは時代の遺物のような気がする。
 保土谷化学、郡山工場の存在も、駅を中心とする商業地域がこの工場によって分断されているので、好ましくない。保土谷化学は戦前は軍需工場として注目を集めていたが、戦後は業績がふるわず、各地に持っていた土地を売却しながら生き延びてきている。この郡山工場は資産価値が最も大きいので、会社は簡単には手放さないと思うが、都市のど真ん中に化学工場があるのは色々な面で問題がある。私は保土谷化学の関連会社に長らく勤めていたので、大きい声で言えないが、この郡山工場は早急に他へ移転すべきである。
                              2007.3.10
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もったいない図書館
 矢祭町に今年(07年)1月、「もったいない図書館」という小さな図書館ができた。これは、数年前実施した町民アンケートで、図書館が欲しいという意見が多く出され、その結果生まれた図書館である。緊縮財政で自立を目指している町は、建物を建てない、金は出さない、人も出さないという条件で図書館を造ろうということになった。これを知った新聞記者が全国紙にそのニュースを載せ、要らなくなった本を送ってくれるように呼び掛けた。すると、全国各地から続々、色々な本が送られてきた。その数は3月現在、34万冊になる。
 もったいないという言葉には、無駄遣いをしないという意味があり、贅沢さに対する反省語のような感じで、戦前から一般に使われてきた。特に戦中では、政府が贅沢を戒め、節約を国民に強要し、日本の少ない資源で世界を相手に戦おうという気持ちを国民に与えた言葉であろう。今では資源が各地から豊富に入り、節約のムードがなくなり、もったいないという言葉は死語になりつつある。最近、ケニアからきたマータイ(2004年、ノーベル賞受賞)さんが、日本に「もったいない」という言葉があるのを知り、その言葉を使って資源を大切にしようという運動を広めた。MOTTAINAIという言葉は英語になってしまった。
 矢祭町の図書館は、JR駅前の木造平屋建ての武道場を改造して、4万冊の図書を陳列する計画ですすめられた。4万冊の展示スペースに対して、34万冊の図書が全国から送られてきたので、30万冊は不要となった。30万冊の本を不要だから捨ててしまうのは、もったいないということで、「もったいない図書館」が命名された。30万冊の本は、図書館の横に書庫用の建物を新しく建て、そこに入れることにした。当初、町ではあまり金をかけないで図書館を造ろうとしたが、大量の本が送られてきたため、2億円近い予算で書庫をたてざるをえなかった。本の送り主は、どのような意図で本を送ってきたのか判らないが、不要になった本のために、町では2億円の金を使ってしまった。この2億円で1冊2000円の新刊書を買うと、10万冊の本が揃うことになる。町は書庫建設のために、「もったいない」ことをした感じである。
 もったいない図書館は、そのユニークな名称のため、福島県内のマスコミが興味を持って取材にきて、度々、新聞、テレビに報道された。NHKラジオの全国版でも地方からの話題提供という形で、福島の女性レポーターがもったいない図書館について報道した。私は、朝のこの番組を毎日聞いているので、この時もレポーターの話を聞いた。このレポーターは福島市に在住しており、地方新聞などの情報を集めてこの図書館のことを喋っていたようである。彼女は最後に、「要らない本があったら町の山林開発センターまで送って下さい」と喋った。これは、実状を知らない人の無責任な発言である。町は、毎日宅急便で送られてくる本の整理に、人手がなくて困っているのである。
 レポーターは、現地に行って直に情報を集めて欲しいものである。30万冊の本の山を見れば、現地の人に意見を聞かなくても、これ以上の本は不必要であることを感じるであろうし、上記のような呼び掛けはしないであろう。しかし、福島市在住の女性が、NHKのレポートのためにわざわざ県境の矢祭町に取材に行くのは、大変な時間と費用がかかる。福島市と矢祭町は約100Kmはなれているし、JRの水郡線は1日に10本しか運転していない。福島からは郡山駅で乗り換えるので、往復にたっぷり1日かかり、費用も1万円近くかかるであろう。NHKはこのために出張費は払わないであろうから、レポーターが現地に行けない事情は、私には十分理解できる。
 私は、テレビ局の記者が図書館長にインタビューする場面を、テレビで見たことがあったが、さすがに図書館長は、「不要な本を矢祭に送って下さい」とは、一言も言わなかった。私は、このようなインタビューの機会があれば、「もうこれ以上本は必要でないから、送らないで下さい」と、呼び掛けて欲しかった。本が送られてこなければ、町民が背負う無駄な時間と費用が要らなくなる。送られてきた本は、おそらく当分の間、矢祭町で死蔵されるであろう。これこそ、もったいないことである。もったいない図書館は、もったいない多くの本のために、「送ってくれるな」という宣言をしなければならない。そうでもしなければ、送られてくる本はずっと続き、40万冊、50万冊になるであろう。
 福島県の中通りの県民性は、はっきり物を言わないことである。この地方は昔、江戸や水戸藩と仙台藩の中間にあって、商人や諜報人の往来が多かった。そのため、この地域の庶民は双方から監視を受けて、自分の意見を言うことができなかったのであろう。特に中通りの男は自分の意見を言わないというのが、通説になっている。矢祭町も、水戸藩と仙台藩をつなぐ街道の途中にあり、農民は意見を言わない習慣を受け継いできた。矢祭町の誰も、「本を送るな」と言えないで、送られてくる本が少なくなるのを、ひたすら待っているのである。最初に新聞記事を書いた記者は、この現状を把握して、「本は送るな」という記事を書く責任があると思う。
 30万冊の本を生かす方法はないであろうか。人口7000人の小さな町では利用に限度がある。一般に地方の図書館は土地の人だけを対象に貸し出しをしているが、矢祭町ではそのような制限はしていなく、全国に門戸を開いている。しかし、それでも利用に限界がある。1冊、1冊の内容をデータベース化し、それをホームページで公開し、読みたい人がいれば矢祭に来て貰って、その本を貸し出し、返却は宅急便でOK、というシステムにしたらどうであろうか。こうすれば本は有効に活用でき、来町者も増えることが期待できる。難題はデータベース化であろう。30万冊の本の内容を理解して、キーワードを入力するには、町にとって大きな仕事量である。
 1990年以降の比較的新しい書籍には、ISBN(国際標準図書番号)という記号とバーコードが付けられ、書籍の大分類、中分類が判るようになっている。このバーコードを町のホームページに公開すれば、どのような本が矢祭にあるか判るであろう。1990年以前の古い本にはコードが付けられていないので、手作業でデータを入力しなければならない。30万冊のなかに、コードがない本がどれくらいあるか判らないが、10万冊以上はあるであろう。これに分類コードなどのデータを入れるのは大変な作業である。しかし入力しなければ、折角送ってもらった本が役に立たないまま、死蔵されてしまう。
 先日の朝日新聞の読者投稿欄に、古本屋を営んでいる人が矢祭の図書館について意見を述べていた。彼は、30万冊の本は有効に利用できないであろうことを、ほのめかした後、次のようなことを書いている。古本屋仲間ではインターネットで情報交換をして、手放したい本があれば電話なり、メールで受け付け、本の内容をデータ化している。その本を欲しい人がいれば、最寄りの古本屋が仲介して、その人に譲渡する、というシステムがあるのだと書いている。不要になった本があれば、皆さんにこのシステムを活用して欲しいという呼び掛けをしていた。本の内容は持ち主が提供するので、具体的なキーワードが示され、また本を求める人も精度よく検索できるであろう。分類コードだけでは一般の人には本の具体的な内容は判らないし、分類コードを理解して探すのも困難である。
 私は、「もったいない図書館」の最終目標は、書庫にある30万冊の本を0にすることである、と思っている。それには、キーワードをパソコンに入力して、全国に公開し、その本を欲しい人がいれば、矢祭に来て貰って無料で差し上げていけばよい。ただし、図書館に陳列している4万冊はその対象から外す。このようにすれば全国から善意で送られた本は死蔵することなく活用でき、送り主も喜ぶにちがいない。
                         2007.4.10
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ニンテンドーDS(金谷紘二)
 07年4月、私は携帯型ゲーム機、ニンテンドーDSを買った。私が、ゲーム機を購入したのは、この年になって初めてである。私は、パソコンのゲームは暇があれば楽しんでいるが、ニンテンドーDSが世間で大評判になり、品薄が続いているのを知って、欲しくなった。ニンテンドーDSは、発売台数が累計で、1500万台というから驚きで、日本人の10人に一人がこのゲーム機を持っていることになる。これは国民的ゲーム機である。
 私が買ったのは、ニンテンドーDSライトで、値段は送料含めて2万円弱であった。これには、簡単なゲームがパソコンのようには、付属していない。これだけではタダの小さな箱であるので、ソフトを購入しなければならない。ゲームソフトは、100種以上販売されていて、何れも1個3000円から5000円である。このソフトは、SDメモリーカードより一回り大きく、このソフトカードをゲーム機に差し込んで、初めてゲームができる仕組みになっている。
 私は、ソフトは、「脳を鍛える大人のDSトレーニング」を買うことに決めていたので、迷うことはなかった。しかし、このソフトは2種類発売されていて、両方とも同じようなタイトルのソフトであったので、どちらを買おうか迷った。最初に発売されたソフトのタイトルは、「脳を鍛える大人のDSトレーニング」である。次に出たのは、同じタイトルの前に「もっと」が付くだけであるので、大変紛らわしい。私はもっとが付くソフトを購入した。1本3800円である。このソフトは、ベストセラーらしく、子供から老人まで、購入層は広いといわれている。ニンテンドーDSには、敬老の日需要というのがあって、このソフトとDSを親にプレゼントした特需があったようである。ニンテンドーDSを親に贈って、親の認知症を予防して欲しいという、子供の願いであろうか。
 この脳を鍛えるソフトには色々なゲームが含まれている。試してみて、私が一番難しかったのは、記憶力を試すテストである。36個の漢字を並べた画面を2分間見て、その漢字を憶える。次にその漢字が消えて、憶えた漢字をタッチペンで画面に書くテストである。私が書けたのは36個の内、たった6文字だけであった。これには漢字を憶える要領があるであろう。36文字全部を2分間で憶えようとしたから駄目であった。15個ぐらいの漢字を声を出して、繰り返し憶えれば、成績は上がるであろう。36個全部を憶えようとしたのは、自分の年を考えない欲張りな行為であったことを、私は反省している。
 面白いゲームも色々ある。声を出して行う「じゃんけんゲーム」は楽しいゲームである。画面に「ぐー」の絵が出て、これに勝ってくださいという表示が出ると、私が「ぱー」と声を出して答える。正解だと丸印が出る。負けて下さいという表示も出るから、一瞬考える必要がある。これをなるべく迅速に答えを言うゲームなので、緊張感を伴う。真剣な顔をして、小さなゲーム機に向かって、ぐー、ぱーと声を出す姿を横から見ると滑稽であろう。しかし、やり始めると、ものすごく真剣になるから面白いものである。終わったら脳年齢が評価され、あなたの脳は40才代ですと表示されると、喜んでしまう。
 私の得意なゲームは、数字当てゲームである。これは、多くの数字の中から一番大きい数字をタッチペンでタッチするゲームである。数字は字のサイズが色々あり、数字が動き回り、画面に出る数字が多くなって行く仕組みになっている。一番大きな数字が小さいサイズで動き回ると見つけにくい、というのがミソで、眼で数字を追って行くのに脳を刺激するのであろう。私はこのゲームの成績は良く、何時も出題した東北大学の川島先生から、あなたは年齢の割には良いと言って誉められる。私は、ほとんど毎日、テニスを2時間ぐらい楽しんでいるので、そのために動視能力が鍛えられているようである。テニスは、動く球をラケットで打つスポーツであるので、私の動く物に対する判別能力は衰えていない。
 同じ動くボールをとらえる野球のバッターは、テニスより動視能力が要求される。野球のボールとバットのサイズ(直径)はほぼ同じであるので、投手が投げるボールをバッターがうまく当てるのは相当難しい。投手は、打たせまいと工夫して、ボールに変化を持たせてくる。バッターは、それに対応するため色々な訓練を行う。野球が面白いのは、このような両者の駆け引きが試合中にあるからであろう。テニスは、ボールに対してラケットの面積は極めて大きい。しかし、ラケットの何処に当てても良いというものではない。ラケットにはスイートスポットという場所があって、そこにボールを当てなくてはいけないことになっている。その面積は、最近のラケットの技術開発で広くなっていて、テニスボールの断面積のおよそ4倍ぐらいであろう。
 野球の場合、打者はピッチャーの投げるボールに単に当てるだけであるが、テニスは、ボールに変化を持たせて打ち返す必要がある。野球のようにただ当てるだけでは、テニスのボールはコート外に飛んでいく。ボールに方向、高さ、回転を持たせる技術が要求される。野球は、投手と打者が対戦してゲームを行うが、テニスは、打者と投手が一人二役で行うゲームである。テニスの難しさはこのようなところにある。テニスの楽しみは、プレーヤーの技術と能力に大きく左右される。高齢者になってからテニスを楽しむのは、ほとんど不可能であろう。
 私は、毎日必ずパソコンのメールを開くことにしているが、その作業の前後にパソコンのゲームをすることにしている。私のパソコンに入っているゲームのソフトは、上海ゲーム、ソリティア、麻雀、囲碁、将棋などである。これらのゲームは、全て時間に追われない、マイペースでできるゲームであるので、のんびりできる。麻雀、囲碁などは、設定によっては何秒以内に次の手をクリックしなければならない規則はあるが、私はこれらの時間設定をしていない。
 囲碁は、ソフトの技術レベルが低いせいか、私が白を持ち、コンピュータに3目置かしても勝てる。囲碁は盤面が広く、相手の動きに対して対応の手を設定しなければならない。ソフトは、臨機応変に手を設定することが難しく、仕方なく定石を基本に作っているようである。基本に忠実に対戦すれば、おそらく私はソフトに負けるであろう。しかし私は、いつも定石を無視して対戦するので、コンピュータは混乱してしまい、私が何時も勝つことになる。
 将棋は、盤面が狭いのでソフトを作りやすいのであろう。私は、ソフトのレベルを低く設定しても何時も負けてしまう。将棋はソフト開発者が優れているようで、プロと試合をしても戦える強さを持っているのを、私は先日テレビで見た。将棋は囲碁と違って、駒の動きが全部違うし、取られた駒が戦力として使えるので、私にとってうっかりすることが実に多い。囲碁は白黒の2種類で、取った石は使えないので単純である。囲碁は難しいという人は多いが、私に言わせれば将棋より単純である。
 囲碁、将棋は1局のゲームが終わるのに時間がかかるので、あまりしない。上海ゲームやソリティアは短時間で終わるので、私は毎日2、3回はこれらのゲームを楽しんでいる。上海ゲームは「上海クラシック」というソフトで、CDをセットしてゲームを行っている。私のパソコンにはこのCDがいつも入っている。私の妻もこの上海クラシックが好きで、パソコンにはCDが常時入っている。このゲームは、麻雀パイを全部取って、めでたく終了すると、赤色のバックに中国(?)の格言や予言が表示される。その格言類は何種類もあって、同じ言葉に出会ったことがない。
 面白い言葉が色々あって、私はそれを見るのを楽しみにしている。例えば、「祈れば常にその返事が返ってくる。答えはたいていノーである」は、欲深い人間を皮肉っているのであろうか。「あなたは多くの国の土を踏むだろう」は、私のことを言っているのだ、と思ってうれしくなる。「あなたはいくらかの金とわずかな土地を受け継ぐだろう」は、私は親から金も土地も受け継がなかった。私の子供にはこの言葉が該当するように、せめて借金を残さないように気をつけなければいけない。「いくらかの」とか、「わずかな」という表現が庶民的で良い。
                          2007.5.10
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LED
 LEDとは、Light Emitting Diode の頭文字をとった略字で、日本語で発光ダイオードという。LEDは、直流電圧をかけると、色々な色に発光し、装飾用光源などに用いられる。我が家でも3年前から、クリスマスシーズンに屋外にLEDを用いたツリーを飾り、夜散歩する人に楽しんで貰っている。このツリーは、赤、青、緑のLEDが100個使われ、時間を変えて色が変化する仕組みになっている。1個のLEDの消費電力は20mA程度で極めて小さく、100個でも5Wの電気しか消費されない。しかし、色を変化させるコントローラーとか、交流100Vを直流に換える変圧器とか、暗くなったら点灯させる光(センサー)スイッチに、電気を食われ、計20Wぐらいの消費電力になる。
 光スイッチは100V、10Wの器具で、コンセントに24時間接続しているので、電気代も馬鹿にならない。光スイッチは、夜になると接続器具にスイッチが入り、明るくなるとOFFになるので、省エネのイメージがある。しかし、接続器具がこのLEDツリーのように低消費電力であれば、光スイッチのために本体より多くの電気を一日中使っていることになる。光スイッチをやめにして、LEDツリーを24時間つけっぱなしにした方が電気代が安い。しかし、昼間何も見えないLEDの点滅に電気を使っているのは、感覚的に無駄に思えるのである。
 1個のLEDは直径3~5mmの豆粒ぐらいの小さな物で、1個100円ぐらいで秋葉原の専門店で買える。LEDはほとんどが中国製で、原価5~10円の安い物である。発光する色でLEDに使用する金属化合物の種類が異なり、色によってLEDの値段が違う。青色が一番高価である。青色LEDの開発は、時期的に一番最後で、これが完成して全色揃い、LEDの利用範囲が飛躍的に広がった。青色LEDの発明は、日本人の中村博士となっているが、基本的な発見者は別にいるようである。しかし、裁判では中村博士に発明の対価が支払われて、一応青色LEDは中村博士の発明という事になっている。
 LEDは2~5Vの直流電気をかけて発光させるが、数年前の秋葉原ではLEDと整流器のダイオードがペアで売られていた。最近では、LEDの中にこのダイオードが組み込まれて、1.5Vの乾電池2個で簡単に発光させることができる。小学生がこのLEDを買ってきて、家で乾電池につないで、赤や青に光らせる実験ができるようになった。自己点滅型のLEDというものが開発され、電気を流すとLEDがぴかぴかと点滅する。さらに、1個のLEDに電気を流すと、赤、緑、青色がゆっくり変化するLEDまで開発された。これは1個500円と高くなっている。これらはすべて中国で作られている。
 LEDが家庭で照明用に使われるようになってきたのは、電球型LEDが作られ始めたからであろう。これは、家庭用100Vの白熱電球用ソケットにそのままねじ込んで、LEDを光らせるようにしている。電球型LEDは、容器の中に100Vから12Vへの変圧器と、交流を直流に換える整流器と、10個以上のLEDを組み込んで作られたものである。色々手が加えられているので、値段が高くなり、1個3000円程度になっている。まだ街の電気屋には置いていないが、秋葉原とか都心のホームセンターには陳列されている。家庭用では蛍光灯型電球より消費電力が低いが、光の強さがまだ低く、20W程度までである。
 街でよく見かけるLEDは、道路の信号灯である。このタイプは、古い電球型信号灯にくらべ消費電力が少ない。全国の信号灯をLED型に換えれば、莫大なエネルギーの節約になる。我が矢祭町のメインストリートには、信号灯(押しボタン式を除く)が3個しかなく、全て電球型である。隣の塙町では何故かLED信号灯が方々にある。私は塙町を通るたびに羨ましく思っていたが、この春、我が家の近くの道路に信号灯が設置され、それは予想通りLED型信号灯であった。
 LED信号灯の青信号には青色LEDは使われていなく、緑色のLEDである。青色LEDは開発が遅れ、他に比べ値段が高く、輝度が低いためであろう。LEDの大きな特徴は、発光時の発熱がなく、そのためプラスチックのレンズを小さな球の中に入れることができる。これによりLEDの光は平行に集光させることができる。100個以上のLEDを用いた信号の光は遠くから、はっきり見ることができる。信号灯はLEDの最適な用途である。
 我が家の庭にはLEDの付いた小さな庭園灯が10個ある。これらは、3年前に1個500円ぐらいでホームセンターで購入したもので、夜になると弱々しい光を発している。今では全く発光しないものもある。このほかに、私が部品を集めて光らせている庭園灯が2基ある。これらは、ソーラーパネルと12V蓄電池を別に設置し、そこから電線を地中の配管でLEDにつないだ本格的な庭園灯である。光スイッチは、秋葉原のパーツ屋でキットになったものを買って組み立て、この電源は蓄電池から取っている。ソーラーパネルは、昼間太陽光で発電し、蓄電池に充電される。夜は光スイッチが働き、蓄電池の電気でLEDが点灯する仕組みにしてある。全て太陽光のエネルギーだけで働くので、太陽がある限りLEDは永遠に光り続ける。しかし、ソーラーパネルと蓄電池は20年ぐらいの寿命であるので、私のいのちが消える頃、LEDも消えるであろう。
 この自作の2基の大型庭園灯は、一つは3年前に設置し、もう一つは今年2月に設置した。前者は、赤、緑、青の自己点滅型LEDを10個用いて発光させている。明るさは白熱球の5W程度であろうか、華やかに忙しく3色が点滅するので、夜の庭は賑やかである。後者は、白色の電球型LEDを4000円で買い、外灯用に売っていた径20cmの不透明ガラス球に、このLEDランプを入れ、鉄パイプでオブジェ風に庭に立てた。明るさは20W程度であるので、満月並の明るさで庭の木々を照らす。これは、前者に比べあまりにもおとなしいので、最近発売された3色がゆっくり色を変えるLED球をその下に設置した。この大小の球が庭の緑の中に浮いているさまを、私は毎夜、庭に出て眺めている。
 我が家にある車は、トヨタのエスティマで、10年前に購入した。車の外観がおとなしいので、私は気に入って、あと10年ぐらいは使いたいと思っている。私は、この車を購入するとき、オプションでフェンダーランプを取り付けた。これは、フロントバンパーの左端に付けられた、プラスティック製の棒で、夜ライトをつけると、棒の中のランプが光って車の位置を確かめることができる。しかし、この棒の中で光るランプは、ヘッドライトの光と同じ色で弱く、ほとんど光が見えない。今時このような棒を付けている車はなく、私は何とかしたいと思っていた。今年の4月の車検で、この棒を外して貰い、その部品全部を戻して貰った。私は、この棒の中のランプをLEDに換えようと思ったからである。
 この棒は直径15mm、高さ30cmで、上半分が透明アクリル樹脂で、下半分はアルミ製である。アルミの上部にランプが入り、中空のアルミ棒の中に配線が通っている構造になっている。アルミの中にあるランプを取り出そうと色々試みたが、出せない。私は、仕方ないのでドリルでアルミの外から穴を開け、ランプを引きずり出した。なんとこのランプは、径5ミリのLEDであった。配線の中にはダイオードが接続されていた。15年前頃に、LEDが既に車の部品に使われていたのである。LEDは電球と違って振動に強く、発熱しないので、このような用途には向いているのであろう。私は、自己点滅型の青色LEDを新たにアルミの中に入れて、この棒を再びバンパーの元の位置に取り付けた。青色LEDはよく目立つし、点滅する青色LEDはまだ珍しいので、私は気に入って車を走らせている。
                          2007.6.10
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東京の美術館
 私は、今年5月と6月に2度、東京の美術館を訪れた。5月には、新宿西口にある損保ジャパン本社ビルの42階にある「損保ジャパン東郷青児美術館」へ行った。私は4年前から損保ジャパンの株を持っていて、会社は株主に毎年この美術館の招待券を配っていた。私は、今まで一度もこの招待券を使ったことがなく、1年間有効期限の招待券を全部無駄にしていた。損保ジャパンの株もそろそろ売る時期にきているようで、売却するとこの招待券は当然送ってこなくなるので、私は見納めにこの美術館へ行くことにしたのである。
 美術館に行くだけなら、住んでいる福島県矢祭町から日帰りで行けるが、折角東京に行くのだから東京に宿泊する。私の東京の常宿は、品川プリンスホテルである。以前は各地にある「アパホテル」を使っていたが、これらのホテルは何れも、駅からかなり歩かねばならないことと、部屋がビジネスホテル型で狭く、部屋にいるとサラリーマン時代を思い出して、むなしい思いがした。規模の小さなホテルは、外出時にフロントに鍵を預けて、挨拶しなければならないのも、億劫であった。
 JR品川駅前にある品川プリンスホテルは、東京で部屋数が最も多い、大規模なホテルである。シングルルームだけの本館(イーストタワー)は、ビジネスホテル型で部屋は狭いが、ツインルームが主体の新館(メインタワー)は、部屋面積が広い。特に建物のコーナーにある部屋は、大きな窓が二方にあり、見晴らしがよい。西側の部屋で、晴れた冬の日であれば、横浜のベイブリッジとか日本一高いビル、ランドマークタワーなども見ることができる。この部屋は、日曜、月曜の宿泊であれば、朝食付きで2人で22000円で泊まることができる。このホテルには、イルカとか、アシカのショーがあるアクアスタジアムなどの施設があって楽しい。それらを目当てに来る団体客や海外のツアー客などで、ホテルは何時も賑わっている。
 私達が5月18日に訪れた損保ジャパン東郷青児美術館は、「ペルジーノ展」という特別企画の絵画展がおこなわれていた。画家ペルジーノは、イタリア中部の古都ペルージャで活躍した、15世紀の聖母画家と言われ、本名は、ピエトロ・ヴァンヌッチ(1450頃~1523)である。ペルージャは、サッカーの中田英寿選手が最初に移籍したチームがある都市で、日本でも良く知られている。画家ペルジーノは、この町に工房をかまえ、多くの宗教画を制作した。ペルジーノは、「ペルージャの人」という意味であり、あの有名なラファエロが、師と仰いだ神のごとき人と言われていた。しかし、彼は世の中ではあまり知られていない。その理由は、宗教画を工房という工場で大量生産し、その絵に精神性がないと言われたためらしい。
 私は、500年前に描かれた緻密で美しい色彩の絵を見て、同時代の有名な画家とどう違うのか判らなかった。私にはまだ絵を見る目がないのだろうか。絵は、キャンバスでなく、板に描いた作品が多かった。額縁なしの板絵も多くあり、500年の歳月をしみ込ませた板の方に、私は見入ってしまった。日本人にもあまり知られていない画家のせいか、会場には多くの人はいなく、ゆっくり鑑賞することができた。順路の最後に東郷青児の作品が展示されていたが、ペルジーノの重厚な色彩に対して、東郷の単色に近い色彩の作品は、たよりない感じがした。これは、私の鑑賞疲れのせいであろう。
 6月18日には国立新美術館へ行き、「モネ大回顧展」を見てきた。私は、今年1月に開館したこの美術館を見たいと考えていた時、モネ展の宣伝をテレビで見て、行く気になった。この時の宿泊のホテルは、京王プラザホテルである。このホテルは新宿駅西口から歩いて5分のところにある。私は、京王電鉄の株を持っており、毎年京王系列のデパートとかホテルなどの優待券を貰っている。昨年、京王プラザホテルの宿泊料が20%引きで利用できるというので、その優待券を持って泊まりに行った。ホテルのフロントで優待券を出すと、私がネットで予約したホテルの特別プランでは優待券が使えないと言われた。優待券が使える部屋の20%割引料金でも、特別プランの方が安いですと、フロントマンは澄ました顔をしていた。
 今年は、インターネットでプランを調べ、一番安くて広いツインルームを予約してきた。朝食付きで2人で23000円である。品川プリンスホテルより少し高いだけである。京王プラザホテルは、都庁の真ん前にあり、47階建ての客室1450の大規模ホテルである。品川プリンスの雑然とした賑わいとは違って、京王プラザホテルは、落ち着いた雰囲気の、ホテルらしいホテルである。歩いてすぐの所に新宿駅近辺の大型店がひしめき合って、ショッピングには好適なホテルである。泊まった部屋は、18階の禁煙ルームである。大きな窓が1つあり、その向こうに都庁が見える。このホテルは、建築して36年経っているが、今でも古さを感じさせない近代性を備えている。部屋の作りはゆったりとして、西欧のホテルのサイズである。
 国立新美術館は、地下鉄、乃木坂駅のすぐ近くにある。改札口を出ると美術館の矢印があり、それに従ってエスカレーターで昇っていくと、美術館の入口に着く。以前この敷地には東大生産技術研究所があり、その建物の横に、日本学術会議という建物があった。そこでは科学の講演会や研究発表会があり、私もよく訪れたことがあった。当時は乃木坂の駅を階段で歩いて上がると、青山墓地が目の前に見え、そこから少し歩いてその建物に入った。この建物は、今残っているかどうか判らない。今回は、矢印の指示に従ってきたので、別の出口を選択すれば、昔のままの景色に出会えるかもしれない。
 モネ展は多くの客で賑わっていた。歩くのがやっとという混み合いで、絵を鑑賞する雰囲気ではなかった。二重三重の人垣の後ろから、私はつま先立って絵を眺めた。その日は月曜日で、客のほとんどは50才代以上の女性客である。モネの色彩豊かな柔らかいタッチの絵は、日本の女性に好まれるのであろう。このような回顧展は、世界各地の美術館から集められているので、モネを知るには大変貴重で、しかも安上がりでもある。有名なモネの「睡蓮」シリーズは、モネ晩年の作品で、特に日本人の好みか、日本の美術館所蔵が多かったのが目に付いた。
 騒々しい会場は、話し声があちこちから聞こえる。夫婦と思われる高齢の二人がいて、夫が絵の前で奥さんにその絵の解説をしていた。夫は絵の専門家で、奥さんにその蘊蓄を傾けていると思いきや、夫は音声ガイドの内容を妻に喋っているだけであった。音声ガイド、イヤホーンは、1個500円であるから、彼等は一人分を節約していたのである。車椅子で来ていた人もいたが、その人は、後ろの方で人の背中しか見えなかったのではないか。名画に夢中になっている人は、車椅子に場所を譲るゆとりはない。美術館は車椅子の人のために、リフト式の車椅子を用意すべきである。イスが1mほどせり上がる仕掛けにして、必要なとき、車椅子の人は高い位置から鑑賞できる、そのようなリフト式車椅子はないものであろうか。
 順路の最後には、例によって記念品売場がある。ポストカード売場には、二重三重の人がひしめき合い、割り込む余地はない。フランスから直輸入の花の種が売られているコーナーがあった。そこは人が少なかったので、私はミモザ、オリエンタルポピー、八重タチアオイの種を買った。我が家の庭には、すでに高さ2m近いミモザがあるが、このフランスのミモザは四季咲きの香りつきというから、私は期待している。現在、12個のポットにそのミモザの種を蒔いて、発芽を待っている。
 6月26日に皇太子ご夫妻が、このモネ展を見学されたというニュースを新聞で見た。私は、一瞬こんな大混雑の会場に来られたら、夫妻はもみくちゃにされるのではないかと心配したが、この日は火曜日の休館日であった。ご夫妻は、がらんとした会場でゆっくり鑑賞されたことであろう。皇室は、このような日を利用して、車椅子の人達を招待してやれば、世間の注目をおおいに受けたであろう。
                          2007.7.10
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07年夏の庭
 7月のはじめから、我が家の庭に急に多くのスズメがやってきた。彼等は何しにやってきているのか、じっと観察してみると、どうやら庭木に付いている虫を食べに来ているようである。スズメ達は、木の枝にぶら下がって、葉に付いている虫を熱心に食べている。庭にタチアオイを植えているが、その葉には、はまき虫が葉をくるくる巻いて住み着いていて、それをスズメが中をのぞき込んで食べている。スズメ達は、方々の木の虫を楽しそうに巡回しながら食べてくれるので、私は頼もしく思って彼等を眺めている。
 この時期になると色々な虫が発生して、方々の葉を食べてしまうので、私は昨年までは虫を見つけ次第、殺虫剤を撒いて虫を駆除してきた。今年は殺虫剤を撒くのを一切止めた。言うまでもなく、人間を含めた生物にとって殺虫剤は有害である。殺虫剤を撒き始めると、そこらじゅうに撒きたくなる。殺虫剤を噴霧すると、自分の目にもその飛沫が飛んできて痛くなるし、蒸気も吸うので、気分が悪くなる。私は会社で働いていたとき、化学薬品を扱っていたので、薬品に対して敏感であった。今でも薬品にはすぐ反応する体質を維持している。私が殺虫剤を噴霧するときは、風上に立って息を殺して行う。噴霧した後はすぐその場から離れ、深呼吸をする。そのように注意深く噴霧しても、殺虫剤は私の体に害を与える。殺虫剤は恐ろしい薬品である。スズメ達も殺虫剤を嫌って、昨年までは我が家にあまり来なかった。今年はスズメが殺虫剤の役目をしており、私はスズメに存分に働いて貰いたいと願っている。
 害虫対策として、私は庭土の改良を数年前から始めた。このニュータウンの土地は、低い山を削りとり、削り取った土を低い部分に埋めて平らにする方法で造成されている。土地区画の販売説明書には、削った土地と、埋めた土地の区分けが明示され、私が購入した区画は削った土地になっている。実際にボーリング調査をして貰うと、深さ1mまでは石混じりの土で、その下は岩盤になっているのが判った。石混じりの土は建物には良いが、庭土には不適である。私は、庭作りの前に造園業者に頼んで、表面の土を深さ30cmぐらい削り取って、その跡に黒土を入れて貰った。
 そのようにして庭木を植え、2、3年間その生長を観察した。植えた木は育ちが悪いことが判り、私は、毎冬地面を1m近く掘り下げて、そこに落ち葉とか、牛糞、鶏糞、油粕などを埋めてきた。野菜畑のコーナーには毎年サツマイモと、カボチャを植えているが、その土壌改良の効果が現れ、サツマイモには毎年大きな芋が収穫できた。土を掘り下げていくと、深さ20cmぐらいから多くの石混じりの山土が現れ、さらに80cmぐらい掘り下げると、硬い岩盤が現れる。岩盤の表面には水がしみ出し、水が流れているようである。堀り上げた土の中には、木の燃え殻が時折見つかる。私は、この土地の造成時に山火事があったことを地元の人から聞いていたので、これはその証拠品であろう。
 このような土壌改良は、庭造りのレイアウトを作った後に行っているので、部分的にしか土壌改良はできない。今年の始めには、バラを植えていたコーナーの土を入れ替えた。バラは毎年虫に葉を食われるので、その都度殺虫剤を撒いていた。昨年まではアブラムシが付着していたが、今年はバラの勢いが良く、アブラムシは付着しなかった。これは土壌改良の成果だと、私は一人喜んでいる。しかし、バラには他の虫が付いているが、殺虫剤は撒かないことにしている。私は、3年前にサクランボの木を植えたが、土が悪いせいか、枯れてしまい、台木の桜が生長した。去年、土壌改良した土地にサクランボを植えると、今年はみるみる大きくなり、土地の影響はものすごいものがあるなと、改めて感心した。
 我が家の庭には色々な種類のハチがくる。夏から秋にかけて花を咲かせる、はね卯木には多くのハチが群がる。ハチは、7月頃から物置の軒下とか、木の茂みの中などに巣を作る。毎年作る巣は小さなもので、世間を騒がせるような大きな巣ではないので、私は安心して彼等の巣作りを眺めている。秋の終わり、朝夕が冷え込むと、彼等の動きは鈍くなり、いつの間にかその巣からハチはいなくなる。巣の形も中途半端で終わり、翌年にはその巣は放置されたままになっている。彼等は何のために巣を作っているのか、私にはその意図が判らない。
 私が住んでいる建物の東側に出窓があり、その下にサッシの小さな隙間がある。私は、そこにハチが出入りしているのを見つけた。その出窓は、私が庭仕事に疲れたとき、イスを出して座る場所に近いので、私は太い針金で隙間の中を突き刺し、構築中のハチの巣を除去した。どこからか戻ってきたハチは、自分の巣が壊されているのを知り、近くにいる私を見つけて、ハチは私に襲いかかるのではないかと、私は身構えた。幸いそのハチは知らぬ顔をして壊れた巣穴に入って行った。このハチは、被害を受けたら、加害者に反撃するという人のような性格は持っていないことを知り、私は申し訳ない気持ちになった。その後、このハチは同じ場所に巣を作り始めた。私は今度は何もせず、その横でイスに座って休んでいる。ハチも私の前を通り過ごし、巣に入っていく。私とハチは平和な関係にある。このハチは狭い所に巣を作って何をしているのであろうか。これはハチの自宅なのか。昼間、共同の巣作りをして、夕方自分の巣に戻り、休息しているのであろう。冬もここで過ごすのであろう。
 私達は、今年もホタルの光を自宅の庭から3度見た。私は1度、妻は2度見た。昨年の暮れに、私はホタルの生息に良い環境を作ろうと思って、敷地の南にあるU字溝にせきを作った。町が設置した幅50cm、長さ6mのU字溝には、山から来る沢水が流れている。U字溝は角度が急なので、水の流れが速い。流れを穏やかにし、カワニナ(巻き貝、ホタルの幼虫の食べ物)が生息できるようにしようと思って、U字溝の途中3ヶ所にブロックを積んでせきを作った。3ヶ所のせきの手前は、砂とか腐葉土が蓄積し、思惑通り流れは緩やかになった。カワニナが繁殖し、ホタルが多く住むようになるまでは時間がかかるであろう。今年はホタルが絶滅せずに生き残っているのを確認したので、私はホタルの繁殖に期待している。
 今年の春、実弟の高校時代の友人夫妻が自宅にやってきた。すでにリタイアしている彼は、千葉でホタルの繁殖を、趣味で本格的に行っていると聞いた。彼にこのU字溝の流れを見てもらって、うまく繁殖できるか、お伺いをたてると、彼はこの流れを見て何も答えなかった。彼は、ホタルが光るのはオスメスの生殖のためで、互いに光るのが認識できなければならない、と言う。それには夜暗いことが第一条件であり、ここは外灯があるのでホタルにとっては良い環境とは言えない、と彼は断言した。私の自宅前の道路には外灯があり、夜、明るすぎるほど周りを照らしている。この外灯は防犯灯であり、人命がかかっているので、撤去するわけにはいかない。ホタルの繁殖はあきらめるか。悪いことに今年から庭園灯をLEDの新しいタイプにして、赤、青、緑がピカピカするタイプに換えたばかりである。これもホタルの出会いに悪影響を与えているのだろうか。
 私は、ホタルの光を1度しか見なかったが、何故か昼間、ホタルが飛ぶ姿を4、5回見た。夜、オスのホタルはメスとの出会いができないので、昼間飛び回っているのだろうか。ホタルの飛び方はのんびりしているので、他の虫と区別がつく。ホタルは人を怖がらないので、私の周りを頼りなく飛び回る。このホタルは、夜光るのをあきらめて、昼間メスを求めて飛んでいるのだろうか。そうであれば、人が造った環境がホタルの行動を狂わせ、繁殖の期待は望めないことになる。
                          2007.8.10
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07年夏の庭、その2
 今年の夏は酷暑であった。特に8月15日の週は、連日35℃の最高気温が続き、我が家の庭の温度計では38℃を記録した。全国では、熱中症で多くの人が入院して、死亡者は老人が多いというニュースが出ていた。老人の私は、用心して一日中エアコンの部屋で、夏の高校野球を眺めていた。そのため体重が1kg増えてしまい、これを元に戻すには相当な努力を必要とする。8月15日の週は、テニス教室も休みであったので、その影響も大きかった。テニスは週4日、1日2時間弱の運動であるから、かなりの運動量で、私の体調維持には好適である。今はテニスをしているので体重も戻りつつある。
 暑さのためか、今年はアブに刺されて治療を受ける人が多い、というニュースを福島のテレビで流していた。私も、アブの一撃を左腕に食らって、1週間刺されたところが腫れ上がってしまった。私が午後4時頃、庭仕事をしたあと、イスに座って休んでいると、急に上から落ちてくるような感じで、アブが私の腕を刺して飛び去った。全く一瞬の出来事であった。何故急に襲ってきたのか。数日前、私は壁にアブが止まっているのを見つけて、持っていた団扇で叩いた。アブは下に落ちたが、姿は見えなかった。恐らく死んではいないだろう。そのアブが、私に恨みを持って襲撃に来たのであろうか。
 アブに刺されたところが異様にはれ上がり、私は心配になったので、インターネットでアブについて調べた。その記述によると、刺されたら1週間ぐらい腫れるが、命に別状はない、というので私は安心した。さらに、アブは黄色を見て襲ってくると書いてあり、黄色の服を着るのは危険であると注意していた。思い出してみると、私が刺された当日は黄色のTシャツを着ていた。悪いことに、持っていた団扇が黄色に着色されていた。アブはこれを見て興奮して、私を襲ったのであろう。その後、庭仕事で外に出るときは、黄色のシャツは着ないことにしている。
 8月も下旬になると、蝉の鳴き声があわただしくなる。ツクツクボウシは、鳴き始めの8月初旬頃は、のんびりした調子で、のどかに鳴いていたが、中旬を過ぎるとテンポが早くなる。ツクツクボウシが鳴き終わると、終わるのを待っていたかのように、アブラゼミが大声でなく。セミの世界も、存在を知らせるための競争が厳しいようである。
 鶯も相変わらず鳴いている。先日庭で草取りをしていたら、大きな声で鶯が鳴いていたので、近くの枯れ木を見上げると、鶯が口を大きく開けて鳴いているのがはっきり見えた。私が鶯の鳴き姿を見るのは、初めてである。夏の鶯は、老鶯 (おいうぐいす) といって、俳句の季語にもあるが、いつまでも鳴いている鶯には侘びしさを感じる。
 夏には蚊がつきものであるが、ここ矢祭は、蚊が少なくて助かっている。以前住んでいた横浜は、蚊が多く、6月から12月まで蚊が庭を我が物顔で飛んでいた。庭に出るときは、長ズボンと長袖シャツで肌を出さないようにしても、衣類の上から刺してくる。住んでいた庭には、水たまりなどはなかったが、草の茂みに多く潜んでいたらしい。横浜は、冬も温暖であるから、蚊には快適な環境のようである。横浜の家では、ジップという柴の雑種犬を飼っていたが、フィラリヤにやられて命を縮めてしまった。犬に蚊がまとわりついて、可哀想であったが、どうしようもなかった。今住んでいる土地は、近くに沢が流れているが、蚊は少ない。冬の寒さが蚊にとって厳しすぎるのであろう。私にとって、蚊が少ないのはありがたく、お陰で夕方、庭でのんびり過ごすことができる。
 今年の4月、私の妻は、矢祭町の「もったいない図書館」で借りた本の感想文を、朝日新聞の声の欄に投稿した。それが新聞に採用され、妻は喜んでいたが、土地の人からなんの反響もなかったので、がっかりしていた。この地方は朝日新聞を読んでいる人は極めて少ないようである。この投稿を読んでいたジャーナリストの相川氏(名前は不正確)が、8月17日、テレビ取材で我が家にやってきた。テレビ朝日の日曜日朝10時の、サンデープロジェクトという番組に放映したいという。
 私達はこの番組を一度も見たことがなかったので、どのような番組か見てみた。それは、1時間45分の政治番組であることが判った。司会は田原総一朗氏で、時の指導政治家を招き討論する、硬派番組の典型みたいな番組である。このような番組に、何故妻が映されるのか。今回、インタビューに来たジャーナリストの相川氏は、地方自治体の行政に詳しい人で、日本全国をくまなく歩いているようである。彼は、矢祭町が合併しない宣言をして、財政独立のために色々な行政をしているので、この町に興味を持っているようである。町の「もったいない図書館」は、その行政の一つである。その図書館に送られた1冊の本が、妻により朝日新聞の全国版に紹介され、その投書を読んだ相川氏が注目し、彼は、これを地方行政とからませて報道しようとしているのであろう。
 妻が紹介した本は、「シービスケット」という題名の小説で、アメリカ競馬のシービスケットという名の競走馬の話である。大恐慌時代のアメリカに実在した同名の馬と、それを取り巻く3人の男達を描いたものである。この小説は、2003年にアメリカで映画化され、アカデミー賞にもノミネートされた。この本は、もったいない図書館に全国から送られてきた40万冊の中の1冊で、たまたま妻がボランティアで本の整理をしていた時、目に付き、後日これを借りて読んだものである。妻は、内容が大変面白く、この本を送ってくれた人に感謝し、さらに、送られた本が矢祭で活用されていることを、送り主の皆さんに知らせたいと思って、投稿したのである。
 8月17日の14時に、テレビ朝日のスタッフ4名が我が家にやってきた。カメラマンとその助手、プロデューサー及び相川氏の4名である。プロデューサーは名刺を渡したので素性ははっきりしているが、相川氏は口頭で名乗っただけであったので、名前はすぐ忘れてしまった。後で番組のHPで調べて、ジャーナリスト相川俊英という名前が出ていたので、多分、相川氏であろうと思っている。相川氏が妻に質問する形で、狭いダイニングルームで1時間近くビデオを回していた。私は、すぐ横のキッチンでその光景を眺めていた。終わり近く、私は彼等にコーヒーを出そうと思って、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。コーヒーの匂いが部屋中に漂って、彼等の仕事の邪魔になるかと思ったが、録画を終えて、コーヒーを飲む時間があるか、と私がプロデューサーに聞くと、即座に頂きますという返事が来た。
 私が4名にチーズケーキとコーヒーをサービスしたので、私もついでに録画してくれることになり、庭で妻と草取りをしているシーンと、テーブルで2人列んで談笑しているシーンを撮ってくれた。私の顔がテレビの全国版に映し出されるのかと思うと、私は今からわくわくしている。全部で1時間以上のビデオ撮りであったが、実際に放映されるのは1分以下であろう。放映日は11月か12月だということで、はっきり決まれば我が家に連絡してくれることになっている。
 テレビ朝日の政治番組の中で、相川氏は、政治に無縁な妻へのインタービューを、どのような形で政治と結びつけようとしているのか、私には判らない。彼は、矢祭町の地方自治独立のための色々な施策の中、もったいない図書館を取り上げ、全国から寄せられた善意が町民により生かされている例として、妻の映像を出すのであろう。私はその編集に期待して、放送日を待っている。
                          2007.9.10
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デジタルプレーヤー
 私は、この欄で携帯型音楽プレーヤーについて、過去4回書いてきた。カセットテープ型のウオークマンから始まり、デジタルオーディオプレーヤー(MP3プレーヤー)までを話題にしてきた。MP3プレーヤーである エバーグリーン社のSDカード型「DN-MP3-SD」は、究極の携帯型音楽プレーヤーであると、2年前の11月号に私は褒めちぎった。その後、このプレーヤーを暫く使ってみて、物足りなさを感じて、私は2度別の製品に買い換えた。
  エバグリーン社の「DN-MP3-SD」は、単機能であるのが特徴であり、私も気に入っていたが、クラシックの小品を入力したSDカードを繰り返し聞いてみて、飽きがきてしまった。SDカードには4時間、40曲のクラシックが入っているが、曲が同じ順序で再生していくので、1曲が終わった後、次の曲がすぐ頭に浮かんでくる。40曲を繰り返し聞いていると、その順番を憶えてしまって、新鮮みが感じられなくなったのである。今、この単機能のMP3プレーヤーは、1個1000円に値下がりしている。使用者は、この単機能すぎる製品に魅力を感じなくなったのであろう。
 入力した音楽をランダムな順に再生する機能は、ランダム再生あるいはシャッフル再生という。アップル社が日本で最初に発売した iPod mini には、このシャッフル再生という機能が付いている。私はこの iPod mini を3年前に買って、今でも寝る時タイマーを選択して、睡眠薬代わりに愛用している。この iPod mini にはクラシックの小品が120曲入っていて、シャッフル機能で毎晩聞いているが、再生する曲の順番が違うので、私は全く飽きなく、音楽を楽しんでいる。
 私が携帯型音楽プレーヤーにこだわっているのは、それが毎日の重要な必需品であるからである。天気が良ければ、私は毎日庭仕事をしている。その際、この携帯プレーヤーのイヤホーンを耳に付けて、音楽を聴きながら庭仕事をしている。 iPod mini は内蔵式電池で、4時間しか持たないので、毎日のように100v電源から充電する必要があった。これは携帯型としては不便なので、前出の単機能のMP3プレーヤーを使っていた。このプレーヤーは、単4電池で4時間しか聞けないが、予備の電池を常時持って、電池を取替ながら聞いていた。
 もっと長時間使え、ランダム再生機能の付いたプレーヤーはないか、インターネットで探していたら、1個4000円で売っている製品があり、私はそれを購入した。これは、100円ライターぐらいの大きさと軽さで、あらゆる機能が付いていた。主な機能は、ランダム再生、再生している曲の情報や歌詞の表示、タイマー、FMラジオ、録音機能、自動電源オフ機能などである。これらの機能は、モノクロの液晶に表示されるが、表示面積が小さいので、私のような老眼では見ることができない。この製品は中国製で、(有)島田(富山県)が販売している。メモリーは内蔵式の512MBで、単4電池で10時間使えるハイテクな製品である。
 小さな本体に盛りだくさんの機能を詰め込んだこの製品はすばらしいが、私にとって使用時間が長く、ランダム再生が可能であればよく、その他の機能は不要であった。私は、この製品を暫く使用していたが、聞き始めにトラブルがしばしば発生した。そのトラブルは液晶表示でチェックできるが、液晶面積が小さく、ほとんど見えないので、私には役に立たなかった。この製品を使ってみて、液晶表示のある製品は便利であると思い、次は見やすい表示がある製品を探すことにした。
 私の希望にぴったり合った音楽プレーヤーは、パナソニックの D-snap(SV-SD850N)であった。これを07年5月に2万7千円で購入した。現在、私は大満足でこのプレーヤーを毎日使用している。電池は内蔵型であるが、使用時間が80時間と極めて長い。1回充電すれば、3ヶ月ぐらい使用できるので、充電あるいは電池交換の煩わしさから完全に解放された。メモリーは、SDカード方式であり、内蔵型より自由度が大きいので好ましい。私は、デジカメ用を含めて8枚のSDカードを持っているので、それらが有効に使える。
 私は、このプレーヤーに2GBのSDカードを使い、クラシックとポピュラー音楽を楽しんでいる。これらを2つのファイルに分けて入力しているので、その日の気分に応じて、どちらかのファイルを選択して聞くことができる。1つのファイルに100曲を入れることができるので、小品のクラシックを集めた私のファイルには、96曲、8時間分の音楽が入力されている。ポピュラーは7時間分である。ファイルを増やしていけば、トータル35時間分が入力できるようになっている。
 この D-snap は、レジューム機能付きでランダム再生ができる。レジューム機能とは、前回停止したところから再生する機能で、ランダム再生と組み合わせると、96曲すべてを何日かにかけて聞くことができる。全ての曲が終わった時、自動的に電源が切れる仕組みになっている。この機能のソフトは誰が考え出したのか判らないが、コンピュータでしかできない能力であろう。最初スタートする時点で、96曲全部をランダムに順番を付けて記憶し、途中曲を停止しても、その順番の記憶は消えず、再スタートのとき、その途中から再生をはじめるという、人間では到底不可能な能力である。
 私がこの製品を気に入っているのは、液晶表示面積が広く、文字が大きいことである。さらに、これは、今はやりの有機ELディスプレーで、黒色の下地に白抜きの文字になっているので、昼間の明るいところでもよく見える。節電のため表示は5秒ぐらいで消えるが、再生中に曲名を知りたいときは、ボタンをタッチすれば表示が現れる。曲の情報はパソコンから自由に入力できる。クラシックの場合、情報量が多いが、テロップ方式で全ての情報が表示される。
 この D-snap にはタイマーが付いていない。私は、この機能をあまり必要としないが、旅先で音楽を聞きながら寝るとき、この機能があったらよいと思う。この製品には、1つのファイルに入力している曲が全部再生し終わった時、自動的に電源が切れる機能がある。私は、この機能を利用すればスリープタイマーになることを思いついた。128MBのSDカードには2時間分の音楽が入るので、これを使って120分のタイマーとすることができる。さらに簡単な方法では、今私が使っている2GBのSDカードは、メモリーに余裕があるので、タイマー専用のファイルを追加することでタイマーとすることができる。そのファイルに1時間分の音楽を入力して、このファイルを最初に選択して聞けば、1時間後に自動的に電源が切れる。同様に30分などのタイマーも作成可能である。
 今世間では、ノイズキャンセラー付きのステレオイヤホーンが流行しているが、この D-snap にもその機能とイヤホーンが付いている。騒音のひどい電車の中でこの機能を使うと、周りの騒音だけを電気的に消去して、再生音をクリヤーに聞くことができるという。私の住んでいる環境は極めて静かであるので、この機能は不必要であり、また試してみる騒音環境も近所にない。このイヤホーンは、耳栓式(カナル式)といって、イヤホーンを耳の穴にぴったり押し込むタイプである。これを長時間装着していると、圧迫感で頭痛を起こしそうなので、私は普通の耳たぶに付けるイヤホーンを使用している。
 このノイズキャンセラーのアイデアは、スピーカーのボーズ社が宇宙船のパイロットのために開発したものである。これは、イヤホーンの外側に集音マイクを付けて、マイクから入る周波数(騒音)の波高(位相)と反対の波高(逆位相)を電気的に発生させて、騒音の周波数を相殺して音を消すという原理である。これは極めて面白いアイデアである。この秋、私はフランスに旅行するので、その時、航空機内でこれを試してみようと思っている。
                          2007.11.10
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フランス旅行1
 私達は、07年10月20日から12日間のフランス一周ツアーに参加した。今回は、阪急交通社が企画した「ゆったり旅するフランス周遊12日間」というツアーである。このツアーに参加するまでに、色々な曲折があった。私は、最初ユーラシア旅行社のルーマニア、ブルガリアツアーに参加する予定にしていたが、この企画はほとんど田舎を回る旅なので、妻が同行することもあり、トイレ設備を心配してあきらめた。次に、同社のチェコ・ハンガリー・スロバキア16日間というツアーに参加しようと思い、8月に参加申し込みをして、申込金も支払っていた。ところが1ヶ月前の9月に参加者が定員に達せず中止になった。
 私は、同社のホームページ(HP)の出発予定表を見て、このツアーは定員に達しているという表示が出ていたので、安心していたが、1ヶ月前に多数のキャンセルがあって、中止になった。出発日1ヶ月前というのは、キャンセル料を取られないぎりぎりの日であることを、私は初めて気が付いた。ツアー参加のベテランは、一人で複数のツアーに申込み、HPの申込動向をチェックし、満員に達したツアーを残して、他のツアーをキャンセルするという手段をとっているようである。それを知らない私は、1ヶ月前にキャンセルされて、慌ててしまった。ユーラシア旅行社の10月下旬出発の中欧ツアーは、ツアー数が少なく、参加は難しいことが判った。
 私は、世界遺産が沢山ある観光国フランスならツアーも多いだろうと思って、ユーラシア社の企画を探した。この会社は、フランスのワイン工場で試飲する旅や、フランスの田舎町を巡る旅など、特殊なツアーが多い。10月に入って、私は16日間のフランス物語という企画を気に入って申し込んだ。2、3日後、会社から定員に達せず中止したという連絡が入った。このフランス物語のツアーは、初心者向けで、フランスの見所をくまなく回るツアーである。特に、私はノルマンディーのオルフルールという町に行くというのが気に入っていた。この町は、古い港町で、カラフルなヨットが並んでいて、画家が好んで描く町だ、と妻から聞かされていた。
 私は、ユーラシア旅行社をあきらめて、阪急交通社のフランスツアーを調べた。この会社は、多くのツアーと日程が設定されているのに、私はびっくりした。さすが阪急交通社は大手である。フランスツアーは8日間が多く、15日間はなくて、12日間が最長である。私は、フランスの見所を一通り見て回る、今回参加した12日間のツアーに申し込んだ。それは、出発日の20日前であった。阪急交通社のHPは、HP上で申込の入力ができ、受け入れ可能かどうか、すぐ判る仕組みになっている。面白いので、私は4名の申込にしたところ、ホテルの部屋が確保できないので受付できません、という回答がでた。2名は受け付けてくれたので、このツアーもかろうじて参加申込ができた。
 数日後、阪急から電話があり、ツアーを受け付けたので書類を送るという連絡があった。出発日の10日前に、旅行代金を振り込んで、正式の参加申し込みが成立した。今回のフランスツアーは、申込時からばたばたした感じで慌ただしかった。海外旅行保険のインターネットによる申込を行い、また阪急から買い物通販のパンフレットが来ていたので、フランスワインの5本セットと、私用のスーツケースを注文した。フランスワインは、フランスからワインを持って帰るのが重くて大変なので、予め通販会社がセレクトしてくれたフランス各地の有名なワインを買っておくことにした。
 今まで使っていた私の旅行用のスーツケースは、15年前に買ったもので、傷みが激しく、容量も小さいので、新しく買うことにした。古いタイプのスーツケースは、横型で、車輪が一ヶ所に2個付き、車輪の対角線の角に取っ手がある。運ぶときは、取っ手を持って、持ち上げて引っ張って歩く。このタイプは、スーツケースの重量の半分が自分の手にかかるため、重くて年寄りには向かない。外国の空港で、このタイプを引っ張って歩く人を見かけることはあるが、横型は少数派である。新しく買ったスーツケースは縦型で、車輪が二ヶ所に4個付いているので、押して運べる。私の今度のスーツケースは、他の参加者と同じタイプで、大きさも同じになった。
 前回までのツアーでは、古いタイプのスーツケースの持ち主は私だけであった。このスーツケースは、空港とかホテルでポーターが運ぶのに不便なようであった。彼等は、2個のスーツケースを押して効率よく運ぶが、私のはそれができないので、1個だけ持ち上げて、よたよた運んでいた。これを私は近くで眺めていて、皆と同じスーツケースに換えないといけない、と感じたのである。この横型のタイプは、飛行機の乗務員達が使っていて、空港などで見受けられた。横型の利点は、引っ張って歩くので、速く歩ける。彼等は私達と違ってさっそうと歩く。一方、私達は一団となってスーツケースをごろごろ押してゆっくり歩く。ツアー客は急がないので、縦型が好都合である。機内に預ける荷物受付カウンターで並んでいるときなど、少しずつ荷物と一緒に前に動かねばならない。その際、この縦型の荷物は足で動かせるので便利だ。横型は、その都度、よいしょと持ち上げて移動しなければならない。
 10月20日9時半に、参加者22名は集合した。集合場所の団体受付カウンターには、同じ阪急交通社のフランス行きツアーが3組一緒に集まった。私達の12日間のツアーと、その他10日間、8日間のツアーである。各ツアーは、参加者の胸に付けるバッジの色が違うので、阪急交通社の社員はそのバッジを見て、のこのこ集まってきた客を区分けして、それぞれの場所に集める。3ツアーともフランス国内のツアーであるが、期間が違うのでコースも違う。面白いのは参加者の年齢層である。8日間のツアーは、20~30才代の女性が多く、10日間は、40~50才代の夫婦が多い。私達の12日間のコースは、60~70才代の夫婦連れが多い。8日、10日間のツアー参加者は、長い休暇が取れない現役で働いている人達であろう。年寄り組の12日間コースは、無職者の集まりで、他のグループに比べると、顔の表情に沈んだ落ち着きがある。12日組の旅行の目的は、外国の知見を広めるのではなくて、単に「冥土のみやげ」だけだからであろう。
 私達が搭乗した飛行機は、全日空のジャンボ機パリ行きで、満席であった。全日空は、各旅行社に呼び掛けて、団体客を一人でも多く、格安で全席を売り付けたのであろう。そして旅行社は、この便を使ってツアー客をパリへ、そこから目的の都市に乗り継いで行くコースを設定しているのである。私達12日組は、パリから乗り継ぎで、フランス航空の中型機でニースに行く。帰りは、パリから英国航空でロンドンに行き、そこで各地から集められた団体客と一緒に全日空のジャンボ機に詰め込まれて、成田に戻る。このようにして満席の飛行機を運航すれば、全日空は儲かるであろう。
 今回の私の機内持ち込み荷物には、先月号にも書いたデジタルオーディオプレーヤー(パナソニック D-snap)が入っている。この D-snap には、ノイズキャンセラー機能が付いていて、騒音の中でもクリヤーに音楽が楽しめるという宣伝文句があった。私はこれを試そうと思い、機内でクラシック音楽を聴いてみた。残念ながら騒音(エンジン音)が大きすぎて効果はなかった。このイヤホーンは耳穴に押し込むタイプなので、耳栓をしている効果で、少し騒音が小さくなったような気がした。
 後日、フランス国内をバスで移動したとき、このプレーヤーを聴いてみたところ、ノイズキャンセラーは立派に働いていた。バスのエンジン音がほとんど消され、音楽がクリヤーに聴けた。ノイズキャンセラーを「モニター」に切り替えると、逆にエンジン音が大きく聞ける。これは、イヤホーンの外側に付いている集音マイクが音を大きくして、耳に伝えるためであろう。私は、このノイズキャンセラーは難聴者にも便利な機能であると思った。
                          2007.12.10
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春うらら、結婚40年
 
私達夫婦は昨年(2007年)12月に結婚40周年を迎えた。私はこのことに気付かなかったが、妻がそれをしっかり教えてくれた。40年とは長い年月であるが、あっというまに過ぎてしまった感じである。あるマスコミで、「夫婦生活を漢字一字で表わしてみたら?」とアンケートを取ったところ、いろいろな字がでてきたそうである。そこで妻が私に、「お父さんならどんな字を思いつくか」と聞いてきた。私は一瞬考えて、「忍」だと答えた。妻は、「はは」と笑って、納得していた。
 40周年を記念して何かしなければならない。丁度その頃、庭掃除に妻が使っていたプラスチック製のちり取りの柄が折れてしまった。私は、40周年記念として新しく買い換えた。壊れたちり取りは、10年以上も使っていたもので、プラスチックの劣化により壊れてしまった。私が新しくホームセンターで買ったものは、しんちゅう製で、取っ手が本体の40cm上に付いている。これを使うときは、あまりかがまなくてもよく、楽な姿勢でちり取りができる。妻は、前からこれが欲しいと思っていた、と喜んでいた。しかし妻は、新しいちり取りを使おうとせず、柄が取れたちり取りを相変わらず使っている。長く使っていたので愛着がわいて捨てる気にはなれない、と彼女はいう。今、40周年記念のちり取りは庭に飾っている。
 40周年記念の第2弾は、妻用のノートパソコンの購入である。妻が使っていたノートパソコンは、9年前に購入したNEC製のパソコンである。これは、当時最新の機能を持っていたものであったが、最近になって動きが鈍くなり、途中で動かなくなることが多くなった。原因は、デジカメから取り込む写真の画素数(ピクセル)が増えたためであろう。妻が使っている新しいカシオのデジカメは1600×1200画素で撮している。以前のオリンパスのデジカメは、640×480画素で撮していたが、近頃、記録するメモリーカード(SDカード)の容量が大きくなって、安くもなったので、画素数を増やした。パソコンに入れるときのメモリーも、1枚当たり100KBから7倍の700KBに増えた。
 私はリコーのデジカメを使っており、画素数を2816×2112ピクセルに設定しているため、1枚当たりのメモリーは、1.2MBになる。この前のフランス旅行では、このデジカメで写真を1000枚以上撮ってきた。これを妻の古いパソコンに入れようとすると、1.2GBのメモリーを使うことになる。このパソコンのハードディスクの容量は、2GBであったが、外付けの80GBのハードディスクを取り付けて増やしていた。容量的にはゆとりがあるが、動かすスピードが極端に遅くなり、途中で止まってしまう。そのため私の撮した写真は、妻の古いパソコンに入れることができなかった。普段妻は、パソコンをゲームだけに使っているが、自分で撮した写真は時折見る。私のカメラには妻の写真も多くあるので、妻はそれを見たいという気持ちもあって、古いパソコンに見切りを付けた。
 新しく買ったノートパソコンは、デル製のインスピロン1501で、ディスプレイが15.4インチのワイドタイプである。07年12月に、8万円で購入した。9年前購入した古いNECのノートパソコン(LaVieNX)は28万円であった。今度のデルは、性能が飛躍的に良くなり、値段も1/3以下になったので、その違いに私は驚いた。これは、デル製パソコンの日本進出がもたらした恩恵であろう。
 我が家では無線LANでインターネット接続を行っている。2階の私の部屋にNTTの無線基地(ルーター)を置き、そこからFM波を飛ばして、1階の妻のパソコンで受信する方式を採っている。古いNECのパソコンには、PCカード型の受信器をカードスロットに取り付けて受信していた。今度のデルのパソコンはカードスロットがなく、無線受信器が内蔵型になっている。私がデルのパソコンを購入するに当たって一番悩んだのが、この内蔵型でFM波を受信できるかであった。私は、NTTのルーターの送信形式とデルの受信形式が一致していたので、大丈夫であろうと思っていた。心配だからデルのセールスマンに確認したところ、OSも関係あるという。NTTのルーターはウインドウズXPで作動すると仕様書にあった。新しいパソコンのOSは仕方なくXPにした。デルのノートパソコンは、標準でビスタがインストールされているが、機種によってはXPも選択できる。
 デルのパソコンはネットで注文してから10日ぐらいで入手できた。心配していたインターネット接続は問題なく行えた。古いNECのパソコンには、妻宛のメールが受信トレイに蓄積されている。この受信データをデルのメールソフト(OutLook Express)に移そうと思って、データが転送できる付属のCDを使って試みたが、できなかった。以前私は、富士通のノートパソコンから現在使っているデルのディスクトップ型パソコンに買い換えたとき、同様に受信データをCDを使って移すことができた。今回は、何度試みてもうまくいかない。窮余の一策として私の裏技を使って、無事データを移すことができた。この裏技は、ここで記述すると長くなるので割愛する。
 結婚40周年記念の第3弾は、温泉旅行である。福島県須賀川市に須賀川温泉「おとぎの宿、米屋」という温泉旅館がある。ここは、一泊二食付きで一人21000円という高い値段の宿である。妻は、ある友達からその旅館に泊まった話を聞かされ、一度泊まってみたいと言っていた。私達は、一泊二食付きで一人1万円から1.5万円の安宿を利用するのが常であるが、2.1万円は私達にとって高すぎる。須賀川温泉は有名でないし、旅館の場所も東北新幹線と東北自動車道にはさまれた平地にあるようである。旅館のHPを見ると、源泉掛け流しの露天風呂が各部屋に付いている、というのが特徴のようである。どんなところか泊まってみようということになり、12月3日(月)に出かけた。
 当地矢祭町から須賀川市まで車で約1.5時間で行けるので、午後4時に家を出発した。須賀川市に近づく頃、日が暮れて真っ暗になった。この「おとぎの宿」は、付近に一軒しかない旅館である。温泉街の旅館のように、温泉場に行けば宿がまとまっているので目的の宿を見つけやすい、というものではない。土地の人に場所を尋ねながらやっと探し当てた。丘を開発した新興住宅地のそばに、保養所風のその旅館があった。この温泉は、宅地開発の際、偶然温泉が吹き出したのであろうか。建物は、一部2階の平屋であり、部屋は10畳の畳敷きで、ツインのベッドが置かれている。戸窓の外には陶製の小さな露天風呂があり、温泉がそそがれ、あふれたお湯は外に流れ落ちていた。23ある各部屋にこの温泉が24時間流れっぱなしになっているので、湧き出る温泉の量は大変なものであろう。
 夕食は、和風レストランの個室風に仕切られた部屋に用意されていた。そこは、畳のフロアーにテーブルとイスが置かれ、テーブルの中央に囲炉裏が作られている。出てくる料理は、いわゆる創作料理で、おとぎ話の題名、例えば浦島太郎、竹取物語などの名前が付けられている。料理を持ってくる女性がその料理名を言い、由来を説明してくれるのだが、福島弁特有の早口で、声が小さいのでよく聞き取れない。耳の良く聞こえる私がそうであるから、難聴の妻は何も判らない。妻は、女性が出ていった後、私に彼女は何を言ったのか聞くが、私も判らないと首をふる。私達は、料理の由来は判らなかったが、味覚はまだ衰えていないので、大変美味しく食すことができた。
 12月3日は寒波がやってきて、夜は冷えた。折角の部屋の露天風呂は寒そうなので、私は大浴場の方へ行った。妻は面白がって陶製の露天風呂に入った。思ったほど寒くはなかったと満足していた。翌朝は初雪に見舞われたが、10時過ぎには雪は止み、道路の積雪はなく、無事帰宅できた。
                          2008.1.10
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フランス旅行 2
 昨年(2007年)10月に参加したツアーは、阪急交通社の「ゆったり旅するフランス周遊12日間」であった。このツアーは、パリ到着後、乗り継ぎで地中海沿岸、イタリアに近いニースに行き、ここで2連泊する。ここから地中海沿いにバスで西に向かい、太平洋側のボルドーへ、そこから北上してモン・サン・ミッシェルへ、そこから東へ方向を変え、パリに行くという、フランス国をほぼ一周するコースであった。
 私は、内外を問わず旅行するとき、携帯ラジオを持っていく。今回の旅行も15年前に買ったAM/FMラジオを持っていった。このラジオは、選局を手で行うダイヤル式である。夜中眠れないとき、このラジオを暗闇でダイヤルを回しながら放送局を探し、受信できる現地の音を聴いている。ホテルが鉄筋入りの建物であると、AM局は入りにくいが、FM局は良く聞こえる。ニースに泊まったホテルは、海に近い旧市街地にあるボスコロホテルである。その建物は、石造りの5階建てで古く、時代を感じさせる。石造りの建物は、AM局も良く聞けるので、ニース地方でも多くの放送局があることが判る。
 日本の夜中の2時や3時では、トークと音楽の番組が多いが、フランスではトークが圧倒的に多い。喋る人がのべつひまなく早口で喋り、何を言っているのか私には全く判らないので、おしゃべりが音楽のように聞こえる。ニースはイタリアの国境に近いので、イタリア語の放送も入る。イタリア人の喋りも、ペラペラという感じで早く、一人で続けて止めどなく喋る。日本のお喋り番組は一人で喋るケースはほとんどない。複数の人が、だじゃれを交えながら話す。彼等は、話題が貧弱なのか、長く喋る訓練を受けていないのか、一言喋っては笑ったり嬌声を上げたりして、仲間で時間をつぶしていく。ラジオを聞いている人を無視している感じである。ただし、NHKの「深夜便」という番組は例外である。
 フランスの大西洋側のボルドー市はスペインに近いせいか、スペイン語の放送が入る。スペイン語も早口で視聴者に話しかける口調である。それは、スペインからフランスへ出稼ぎに来ている人のために放送しているような感じを受ける。母国の情報を多く流して、君たちフランスでたっぷり稼いだら、はやく帰ってこい、という気持ちが込められているような気がした。大西洋側で、北に位置するモン・サン・ミッシェルは小さな村なので、FM局は少ないが、海外のAM局がよく入る。ここではイギリスに近いせいか、英語の放送が聞かれる。私にとって英語は馴染みが深いので、また単語が所々判るので、聞いているとなつかしい感じを受ける。また、ここはベルギー、ドイツに近いので、ドイツ語系の発音の放送が聞こえる。
 最終地のパリでは、私達が泊まったソフィテルホテルの建物が高層の建物であったため、外国のAM局は聞こえず、FM局だけが聞こえた。どこを回してもフランス語が賑やかに、押し合いへし合いという感じで、ラジオの中から聞こえる。フランス人はお喋りが好きなのか、話し方が上手いのか、長々と喋る。ある日本人の先生によると、フランスでは哲学を重要視していると言われ、学生の頃から、自分の考えを秩序立てて話す訓練を受けているようである。だから街頭で行われるテレビのインタビューで答える人は、日本では「面白かった」など一言しか言えないのに対して、フランスでは小学生でもきちんと順序立てて話すそうである。
 フランス語の数の数え方は、日本とは相当異なる。フランスの20を超える数の言い方は、大変である。42は、20×2+2と喋る。91は、20×4+11と喋る。このように一つの数字に対して多くの言葉を喋るので、自然にフランス人の喋りの口数が増えてくる。フランスの数の数え方は、数字が20を超えると、20の倍数に20以下の数字をたしていく方式のようである。昔、数を人の手足の20本ある指で数え、そして20以上は、人の単位を加えた数にして数えたようである。その習慣がそのまま残っているのであろう。フランス人は小さい頃からこのような数え方を教えられているので、不自由はなく、数え方をもっと簡単な方式に変えようなど、誰も思わないようである。
 世界ではもっと複雑な数え方をする民族があるようである。1から100まで規則のない表現で数字を喋る民族があるようで、その民族は数字を100文字覚えなければならない。ある学者は、世界各国の数字表現の複雑度を調べて、ランクを付けているが、69カ国の中でフランスの複雑さは19位である。日本は66位、中国は65位、英語は41位にランクされている。日本、中国は最も簡単な数字表現法を採っているのは意外であった。日本の数え方を改めてみると、極めて簡単である。これは数え方に小さい頃から慣れていることもあるが、本質的に単純にできている。
 フランスの義務教育では小学校から落第制度があるという。この制度はフランス人の人生観に大きな影響を与えているようである。小学生の頃から留年という人生の悲哀を受けるので、これが刺激になって発憤するか、あるいは落ち込んで将来をあきらめるか、大げさに言えばこの時期に人生の岐路に立つ。将来、職人を目指して穏やかに一生を過ごそうと決断するのも、この時期である。日本では、誰でも学校に行っておれば卒業できるので、横並び感覚、安心感が子供に植え付けられる。競争をしなくても人生が送られるという安易な考えが備わって、大きくなって入学試験に失敗して、あるいは実社会に出て、取り残される自分にいらだち、犯罪に走るというパターンができる可能性がある。この横並び感覚を早い時期にうち消すのは、国にとって必要な気がする。
 フランスの義務教育で、国語と算数に多くの時間を費やしているのも、フランスの特徴であろう。算数は、数を数えることが大変なので、これに時間を費やすのはうなずける。農業国から技術国にも発展したいという国の望みも伺われる。技術力を養うには、数を数える能力を身につけることが基本である。特にフランスの数は、頭の中で掛け算と足し算を計算して表現しなければならないので、フランス人は自然に理系的素養を身につけることができる。
 国語は、人間社会を安定化させるためには大切な学問である。フランスは、国境を五カ国、つまりスペイン、イタリア、スイス、ドイツそしてベルギーと接し、伝統的に多くの移民、難民を受け入れている。彼等はフランス社会に入って生活をするが、使用させられる言葉はフランス語である。文化の基本は言葉であるので、フランス語を強要するのはフランスの文化を守るための政策であろう。国語を小学生から大切にしているフランスの人は、フランス文化を誇りとするし、言葉を多く発してコミュニケーションを大切にする。その結果、フランス人は饒舌となる。
 フランスは多くの国と国境を接し、また色々な国の移民、難民を受け入れてきたため、フランス人は言葉に対する勘がよい。私達が日本語を話しても、その身振り、顔付きで言葉の意味を察してくれる。店などで人に何かを頼む場合、最後に s'il vous plait(スィル ヴ プレ)と言うが、これを「新聞くれ」と日本語で言っても通じると、現地の日本人ガイドが言っていた。これを聞いた私は、試してみたくなって、ホテル近くのカフェで、「カフェオレ、新聞くれ」とウエートレスに言うと、彼女は、にっこりして「ウイ」と答えた。彼女にとってカフェオレが重要であって、「新聞くれ」はどうでも良いのである。彼女が持ってきたのは、確かにカフェオレであった。
                          2008.2.10
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フランス旅行 3
 旅の6日目に、私達はフランスの大西洋側に位置する、ボルドー市に着いた。ここから西へ、バスで約2時間かけて、サンテミリオンという小さな村へ行った。この村は、8世紀、修道士エミリオンが洞窟で隠遁生活を送っていた土地であり、現在では巡礼者が多く訪れる宿場町としてさかえている。この地域は、中世の面影が残る街並みとして世界遺産に登録されている。この村の周辺は、見渡す限りのブドウ畑である。ブドウ畑の真ん中に農家の住居兼醸造所が建てられ、その外観がおしゃれに造られ、小さなお城のように見える。
 私達は、その醸造所の一つ、シャトー Laniote St. Emilion を見学した。そのシャトーでは丁度今年収穫のブドウを大きな釜に仕込むところであった。主人のアランドロンさんが釜の上の方からブドウを投げ込んでいる最中で、私達を見て、「アランドロン」と大声で何度も叫んでいた。日本人はアランドロンと言えば親しみを感じるであろうというので、日本語を知らない彼は、それを歓迎の言葉としていた。彼は、実際の名前もアランドロンであることを、案内役の夫人が説明していた。シャトーの仕事は、アランドロン夫妻と使用人一人だけで行われている。日本の農家の大きな納屋という感じの建物に、色々な装置が置いてあり、醸造は全て手作業で行われる。納屋の横の空き地では、使用人が古いタルを分解していた。タルは樫の木から造られ、1本600ユーロ(9万円)する。タルは3年ぐらいしか使えなく、古くなると樫の木の成分が消えて、葡萄酒(ワイン)の味も衰えてくるという。このシャトーでは、ワインはタル詰めまで行い、瓶詰めは専門の会社で行っている。
 納屋の中に観光客用の試飲室があり、夫人がブドウの収穫から葡萄酒ができるまでの工程を、スライドを使って説明してくれた。説明が終わった後、このシャトーで造った葡萄酒の試飲を行った。最初、昨年製造した葡萄酒を皆に飲ませ、その後、5年前に製造した2002年物の赤葡萄酒を飲ませてくれた。その味の違いは素人でも判った。2002年物は、口当たりが柔らかく、美味しい。私はお代わりをし、さらに周りに飲めない人がいたので、私が代わりにグラスを空け、フランス本場の葡萄酒をたっぷり堪能した。その後、夫人は即売用の値段表を皆に配り、納屋出口で希望者に葡萄酒の即売をした。その表には、2002年物を中心に、3年ぐらいの値段が表示されており、それぞれ葡萄酒1本(760ml)の値段が異なっていた。それは、その年のブドウの収穫量と出来具合で値段が異なるのだと説明していた。私は、旅行前に日本の通販でフランス各地のワインを5本買っていたので、このシャトーのワインを買うつもりはなかった。妻のなほみは、2002年物のワインが気に入り、欲しいというので、赤ワインを1本、20ユーロ(3000円)で購入した。
 私は、10年前に日本のブドウ畑を甲府盆地で見たことがあった。それは、人の背丈の高さで棚を張り巡らせ、そこにブドウの木の枝を四方に這わせたものであった。ブドウの実は棚からぶら下がり、人がそれを下から切って収穫していた。フランスのブドウ畑は、このような棚はなく、ブドウの木が一列に植えられている。これは、機械による収穫作業のために、ブドウを機械にあわせて栽培しているのである。機械によるブドウの収穫がどのように行われているのか、私は知りたかったが、当地に来て、その様子が想像できた。ブドウの木の栽培法は、ブドウを一列に一直線に植え、木は高さ70cmに揃えて切り、枝を一本だけ高さ70cmに張った針金に這わせ、他の枝は全部切ってしまう。このようにブドウの木を加工すれば、機械による収穫が可能になる。
 アランドロンさん宅の周りのブドウ畑もこのような形になっていた。機械によるブドウの実の収穫は、実以外に葉とか虫などが一緒に収穫されるし、未熟のブドウも収穫される。従って機械収穫で造った葡萄酒は味がやや落ちるという。手作業で収穫する場合は、熟したブドウだけを人の目で選別して収穫するので、葡萄酒の味は良くなる。葡萄酒の高級品は、このような方法で行うので、値段も高くなる。私達が1本3000円以下で買う葡萄酒は、機械収穫の葡萄酒で、虫のエキスが入っているかもしれないワインであろう。
 ツアーでは、昼食と夕食に参加者がその都度料金を支払って飲む飲み物を、添乗員が注文を取ることになっている。私は、ワインの本場にきたのだから、ワインを迷わず注文していた。添乗員が紹介するその店のワインは、グラスワインかハーフボトルのワインである。酒好きの人達が集まったテーブルでは、ボトル1本を注文して、皆でボトルを空けることがある。私と妻は、グラスワインを1杯ずつ飲むことにしていた。妻は、グラスの半分も飲まないので、残りは私が飲む。紹介されるワインの値段は、グラスで3ユーロ(450円)ぐらいで、店によってグラスの大きさが違うのも面白い。そのワインは、地ワイン、ハウスワイン、テーブルワインなどといって、ブランド名がない大衆向けのものである。しかし、フランスで飲んでいるせいか、その味は口当たりが良く、フルーティでおいしかった。
 私は、ツアー初日の飛行機の中からワインを食事毎に飲み続けていた。そのせいであろうか、7日目から顔に赤い斑点が出てきた。最初その斑点に気が付かなかったが、次第に斑点が広がる感じであった。私は、その原因はワインにあると即座に判断した。というのは、私が横浜に住んでいた頃、秋の終わりに山梨県の勝沼にワインを買いに行ったことがあった。その土地のワイン製造所が直売する店があり、私は安い1升ビン入りワインを数本買い、毎日それを飲んでいた。それを飲み終わった頃、顔に同じような赤い斑点が出てきた。私はそのことをしっかり記憶していたのである。
 ワインに加える添加剤は、防腐と、酸化防止を目的に亜硫酸塩(ナトリウム塩の場合、化学式はNa2O3S)を必ず加えている。フランスのその使用基準は、ワイン1リットル中に0.45グラム以下としている。日本では少し厳しく、0.35グラム以下に規制されている。この添加剤の量は、普通の他の添加剤に比べ非常に多い。フランスの量は、%でいえば、0.045%以下であり、これを通常使っている ppm単位(百万分の1)で表せば、450ppmである。亜硫酸塩が安全な添加剤であるとはいえ、これは化学物質であり、蓄積されれば人体に影響を及ぼすであろう。私は、亜硫酸塩に対して特殊体質なのであろうか、アレルギーが出てしまった。
 私は、顔の赤い斑点に気づいてから昼の食事にはビールを飲むことにした。さらに旅行10日目以降は、ワインを止めてビールにした。帰国後は、通常夕食に飲んでいた日本酒を飲んだ。その後、私の顔の赤い斑点は、いつの間にか消えていたので、その原因は、亜硫酸塩によるアレルギーと考えられる。私は、毎晩約1合(180ml)の日本酒を欠かさず飲んでいる。この日本酒は、白河市の酒造会社が造った「米だけの酒」という銘柄である。福島県でしか売られていない地酒であるが、安くて美味しい。2リットル入りの紙パックに入って、1000円以下で売られている。パックの表示には、アルコールなどの添加物は入れていないという文字がある。また、開封後は早く召し上がって下さい、という注意書きがあり、最もらしい。私は、この酒を飲んで体に異常をきたしたことがないので、この酒が、「米だけの酒」であるのは、本当かなと思っている。
 日本酒は、ワインと同じ醸造酒であるが、酸化防止剤が混入されていないのがよい。日本酒は、純粋な固体のお米から造られる。一方ワインは、ブドウの実の他に、少しの葉っぱとか昆虫などが入った混合物から造られる。製造工程から考えても、日本酒は安心である。私は、フランス旅行でフランスのワインを飲み、あらためて日本酒の良さを実感した。
                           2008.3.10
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フランス旅行 4
 18~19世紀にフランスで活躍した画家は、ミレー、ゴッホ、モネ、セザンヌなど極めて多い。また、フランスには世界の美術品を集めた美術館が、ルーブル美術館をはじめとして多くある。今回参加したツアーでは、画家ゆかりの町やアトリエを訪問するスケジュールが多く含まれていた。美術館の訪問は、ニース市内にあるシャガール美術館だけであった。ツアー最後の日は、パリで約1日の自由時間があったので、私はパリ市中心にあるオランジュリー美術館を訪問した。
 ヴアン・ゴッホは誰でも知っている画家であるが、その生涯は恵まれなかった。彼の生きている間、売れた彼の絵は1枚だけであったが、現在彼の作品は最高の金額で取り引きされている。私は今まで132点の油絵を描いてきたが、そのうち売れた作品は20点である。私の絵が売れたのは、絵の値段を額縁の値段より安くしていることと、絵が穏やかで、部屋に飾っても邪魔にならないこと、などが理由であろう。偉大なゴッホを比較に出すのは大変おこがましいが、自分の生きている間に私の絵がゴッホより多く売れたのが、私の自慢である。しかし、私の絵は、私の死後評価は上がらないことは確実であろう。私は、地域の絵の教室で絵の技術指導を行っているが、絵を描いた人に、「ゴッホのように、あなたの絵は死後絶大な評価を受けるかもしれない」と、励ましている。そう言われた人は、誉められているのか判らないので、決まって曖昧な顔をする。
 パリ市の近くに、ゴッホが晩年を過ごしたオーベル・シュル・オワーズという町がある。彼は、ここで約2ヶ月の間に72枚の絵を描き、猟銃で自殺した。ツアーは、約2時間かけてゴッホが描いた教会や麦畑などを見て回わった。絵の対象になった風景の前に、彼の絵のパネルが立てられて、それを見ながら地元ガイドの詳しい説明を受けた。ここが彼が自殺した現場です、と説明を受けた麦畑は丁度秋の夕暮れどきで、彼の遺作のカラスが飛んでいる暗い作品を思い出し、私はわびしい感じを受けた。
 ゴッホは南仏のアルルでも多くの作品を描いた。彼が描いた「夜のカフェ」は、今もそのカフェの建物が残っており、彼が収容された病院の建物も復元されて残っている。彼が描いた「跳ね橋」は、当時の場所から別の場所に移された。ツアーではその橋を見るために、アルル市郊外にでかけた。跳ね橋は、人気のない平地にぽつんと飾られ、周囲をクサリで囲って周りから眺めるようにできていた。後日、私はその写真を見ながらこの跳ね橋を油絵にしようと思って描いてみたが、どうにも殺風景で面白くない。ゴッホの絵は、当時の現役の橋で、橋の上を馬車が通っているし、橋のたもとでは女性達が洗濯をしていて、活気がある。私は一計を案じて、キャンバスを上下に分け、上を現在の跳ね橋、下をゴッホが描いた風景に仕立てようと思った。現在その絵を制作中であるが、近くこのHPに載せようと思っている。
 パリ市から西へ車で約1時間のところに、クロード・モネが過ごしたジヴェルニーという町がある。モネが造園した広大な庭園とモネ一家が住んでいた家が公開されている。毎年11月から3月までこの施設は閉鎖される。私達が訪れたのは10月28日であったので、そこで働く従業員は長期休暇を目前にして皆愛想がよかった。庭は大きな睡蓮の池を巡る回遊式で、多くの植物が所狭しと植えられていた。日本では柳の木は庭には植えないが、ここでは大きな柳が各所に配置され、面白い構図になっている。ジヴェルニーは近くにセーヌ川があり、そこから引いた水がモネの庭園の小川に流れ込み、池につながっている。急な流れと豊かな水量で、水辺の植物は生き生きとしていた。モネの庭は、どこを切り取っても絵になる。モネにちなんだ土産物を買わなかったので、私はモネの庭の絵を描いた。この4月号の油絵のコーナーに、その絵を載せているので見ていただきたい。
 ポール・セザンヌのアトリエがあるエクス・アン・プロヴァンス市は、南仏アルル市の近くにある。彼のアトリエは、旧市街から少し離れた丘の上の住宅街にある。アトリエは一般に公開され、セザンヌが描いた色々なモチーフなどが置かれ、1906年に彼が亡くなった時の状態で、そのまま残されている。建物の周囲は、雑木林だけで、モネの庭のような整然としたレイアウトはなされていなく、自然のままの状態であった。雑木林の中を巡る細い道があり、私はそこを歩いて、セザンヌが同じように受けたであろう、木立から漏れてくる柔らかな秋の日差しを受けた。
 ツアー最終日前の午前は、パリ市内の一般観光で、午後からは自由時間であった。この時間に、私はオルセー美術館に行きたかったが、その日は生憎休館日であったので、オランジュリー美術館に行くことにした。オランジュリーはオレンジを栽培する温室のことで、フランスの各地にオランジュリーという地名が多く残っている。パリのオランジュリーも、ナポレオン3世がお妃のために温室を宮殿の敷地内に作らせたことに由来する。この美術館は、モネの「睡蓮」の大作が、自然光を取り入れた円形の部屋に飾られているのが目玉である。ツアーの昼食は、ルーブル美術館と地下鉄ピラミッド駅に近い日本食レストランで和定食を食べた。ツアーは昼食後解散した。私達がオランジュリー美術館に行くことを、二人の高齢の女性が聞きつけ、行きたいから連れていってくれ、と頼まれた。
 私は、彼女たちを連れて、チュイルリー庭園の横の道路沿いにあるアーケドの商店街をオランジュリー美術館に向かって歩いた。私が先頭で、彼女たちが続き、最後に妻がついて、縦一列にゆっくり歩く。女性は70才近くであるが、二人とも辛抱強く黙々と歩いていた。20分ほど歩いて、コンコルド広場に面したその美術館近くに着いた。生憎の雨で、傘をさして美術館の前に来ると、入口から雨の中を列を作って大勢の人が並んでいた。どうするか彼女たちに相談すると、折角だから並んで待とうということになった。30分ぐらい待って、やっと美術館に入ることができた。
 一人6.54ユーロ(約1000円)の入場料を払って入った。入館者は持ち物を預け、X線検査を受ける。この検査に時間がかかり、そのため多くの人が外で待たされていたのである。館内に入ると、人は少なく、ゆっくり鑑賞でき、写真も撮ることができた。2階のモネの「睡蓮」は、長さ70mという超大作であるが、画面が暗く期待していたほどではなかった。地下1階に展示されていたルノアール、セザンヌ、マチス、ユトリロなどの絵は、どれも画集で見覚えのある絵で、私は本物に接して多いに感動した。私は見落としてしまったが、ローランサンの部屋があった。そこに入った彼女達は、ローランサンの絵を見て多いに感激し、オランジュリーに来てよかったと、何度も喜んでいた。
 見終わったのが4時頃で、早く彼女たちをホテルまで連れていかなければならないので、みやげショップを素通りして、外に出た。雨はまだ降っており、どうやって帰るか相談した。タクシーはホテルまで1500円程度であるが、パリのタクシーは4人乗りをいやがるし、2台で別れて帰るのは彼女たちが不安そうなので、地下鉄で帰ることになった。
 この美術館から一番近い地下鉄駅はマドレーヌ駅で、そこには14号線が走り、ホテルの近くまで行ける。地図を見ると、この駅は、美術館から北へ歩いて10分ぐらいのところにあり、駅近くのマドレーヌ教会が美術館前から見えるので判りやすい。その教会の近くに来たが、地下鉄の入口であるメトロの表示が見あたらない。妻は、近くのカフェに入り、メトロはどこかとギャルソン(ウエイター)に聞いて、すぐそこにあると教えられた。
 地下の切符売り場に行ったが、自動販売機の表示がフランス語で判らない。すぐ横でフランスの若者2人がコインを入れて切符を買っていたので、私達はそれをじっと見て、真似をしてやってみたが切符が出ない。その若者に彼女達の一人が、教えてくれと手真似で頼むと、笑って気楽に教えてくれた。フランスの若者は女性に優しい。1枚1.5ユーロで、2枚一度に買える。14号線は最新の地下鉄で、駅の一番下にある。行き先を間違えるといけないので、私はOlympladesという表示を確認しながら目的のホームに着いた。無事女性二人をホテルまで連れて戻って、私は安堵した。
                           2008.4.10
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08年、春の庭
 今年の春、我が家の庭は多くの花が一斉に咲いた。まさに百花繚乱であった。花は、沈丁花から始まり、梅、椿、サザンカ、水仙、クリスマスローズ、コブシ、ムスカリ、レンギョウ、白モクレン、モクレン、桜、ヒヤシンス、チューリップ、芝桜である。一斉に花が咲いたのは、気温の変化が激しかったためであろう。春先には気温が例年より高くなり、花達はびっくりして開花し始めたが、その後急に冷え込んでしまった。その繰り返しが数回あった。花は一度開くと、寒くなったからといって、またつぼみに戻るわけにはいかない。花はそのままじっと寒さに耐えてその結果、花は長い間咲いていたわけだ。沈丁花は、2月の終わりから咲き始め、その香りを庭中にふりまいていたが、4月下旬の今でも花が咲いたままで、時折その他の花の香りに混じって沈丁花が匂ってくる。
 サザンカは、いつも秋の終わりから冬にかけて咲くが、昨年の暮れ、花が咲きかかってきたとき、急に最低気温が零下4、5℃になり、花が凍結して落ちてしまった。そのとき咲き遅れた多くのつぼみが年を越して、3月になって咲き始めた。これは、珍しい現象であろう。椿は、3月頃から咲くが、今年は寒くなったりしたので咲くタイミングを失って、やっと4月中旬に満開になり、桜と花を競うことになった。色々な花の中で目立つのが、黄色い花を枝いっぱいに付けて咲く、レンギョウである。レンギョウは、周りがまだ緑がなく、枯れ草色の地味な背景の中に、黄色のつぼみができるのでよく目立つ。レンギョウのつぼみは、花と同じ黄色であり、つぼみが開花しても花は同じ黄色であるから、何時から咲き始めたか、わかりにくい。
 我が家の庭のシンボルマークになっているコブシは、植えて5年になる。木の高さが4mぐらいに成長し、枝に白い花がいっぱい付いて、華やかである。家の遠くからこの白い花が見えるので、近くを散歩する人達にも鑑賞して貰っている。コブシより花が少し大きい白モクレンも、今年になってやっと木の高さが3mぐらいになり、花も多く付け始めた。横浜の家では、白モクレンを建物のすぐ近くに植えて、20年ぐらい経っていたので、木が大きくなりすぎ、毎年枝切りに苦労していた。矢祭の白モクレンはフェンスの外の町有地に植えているので、大きくなっても枝切りはしないつもりである。伸び伸びと育って欲しいと思っている。
 我が家の敷地は南と東に町有地があり、そこに桜を5本植えている。これらが去年から花を付けはじめ、今の時期、我が家は桜に囲まれて賑やかである。南側に植えている吉野桜とプリンセス雅(みやび)は、成長が速く、木の高さが4mぐらいになっている。吉野桜はほとんど白色に近いピンク色であるが、プリンセス雅は桃の花と間違えるぐらいのピンク色の花が咲く。この桜は、5年前に苗木をホームセンターで買って、植えたものであるが、当時「プリンセス雅」という名前は、勝手に苗木屋が付けたのであろうと思っていた。その名前に由来があるのか、ネットで検索してみると、それは、現在の皇太子と雅子様が結婚したとき命名した桜であり、「雅子様の桜」ということになっている。この桜にはヒヨドリが好んでやってきて、1日中花から離れようとしない。一方、近くに植えている吉野桜には、どの小鳥もやってこない。
 吉野桜の花があまりにも目立たないので、私は3年前にプリンセス雅の枝を切って、吉野桜の枝に接ぎ木を試みた。3ヶ所接ぎ木を行ったが、1ヶ所だけ接ぎ木に成功し、今年その枝に濃いピンクの花が咲いた。白い桜の花に一ヶ所だけピンクの花が咲いているのは楽しいものである。吉野桜を皇太子とみたてると、皇太子の中に皇太子妃が仲良く花を咲かせているようで、ほほえましい感じがする。プリンセス雅の枝はもう一ヶ所、野生の山桜に接ぎ木をした。これはうまく接ぎ木されているのかまだはっきりしない。プリンセス雅は山桜と相性が悪いのかもしれない。
 昨年は八重桜を2本、町有地の沢の近くに植えた。これはまだ1mの高さにもなっていないので、花は当分望めそうにもない。今年4月にも吉野桜を1本新たに植えた。その場所は町有地に接する里山(雑木の山)の持ち主の土地である。私の敷地に近いこの里山は、栗の木が多く育っているが、家に近い麓では竹藪が密生している。以前私はこの山の持ち主から、竹を切ってもよい、という了解をもらって、私は冬に時々竹を切っていた。切った後に少し空間ができたので、持ち主に無断で吉野桜を植えた。日当たりの悪い場所で上手く育つか判らない。これで私が植えた桜は全部で8本になった。これらが春に一斉に花が咲くと、壮観であろうと期待している。
 3月の終わり頃から色々な小鳥が我が家にやってくる。ノビタキ、ヒヨドリ、スズメは常連であるが、今年は初めてコゲラを近々と見ることができた。居間から3m先のマロニエの木にコゲラが飛んできて、枝に付いている虫を食べているのか、くちばしで枝を叩く音が聞こえてきた。羽の模様が白黒のストライプになっていたので、図鑑の写真から判断してコゲラのようであった。シジュウカラもつがいでやってきて、梅の木で虫を捕っていた。シジュウカラは胸の毛が白く、その中央に黒い線がネクタイのように見えるので、はっきりシジュウカラと判る。はっきりしないのがヤマガラで、私は20m先の森(里山)の木にそれがいるのを見つけた。胸が茶色をしており、頬が白いことぐらいしか、遠くから判別できなかったが、図鑑で調べてヤマガラらしいと思っている。
 キジは隣町の塙の町鳥になっているが、春先から矢祭でも鳴き声だけはよく聞く。キジは、秋の稲刈りが終わった田圃に降りて、獲物を探しているのを車からよく見かける。体が大きいので飛ぶ速度は遅く、私が車で走っていると、キジが前を横切って、ぶつかりそうになることもあった。鳴き声だけ聞こえる小鳥も多い。チョットコイと鳴くコジュケイは馴染みの鳥である。しかし、実物をまだ見たことがない。きれいな声でお喋りするように鳴く小鳥がいる。可愛い声で誰かに報告しているように鳴いているので、その声を聞いていると思わず笑ってしまうほど愛嬌がある。それは、日本で一番綺麗に鳴く鳥であることを、以前ラジオで聞いたが、鳥の名前は忘れてしまった。
 最近、家の近くで野生動物を見かけなくなったが、先日早朝5時に、私は狸の後ろ姿を見ることができた。妻は以前数回狸を見たことがあると私に言っていたが、私は一度も見たことがなかった。車の通る道路では時折狸が轢かれて死んでいる姿を見たことがあったが、生きた姿は今回が初めてである。焦げ茶色の丸く太った形は狸に違いない。ドングリの実を食べにきたのであろう。山奥ではドングリはもう食べ尽くされ、人家に近いところでは、まだそこらじゅうにドングリが落ちているので、それを食べに来たに違いない。
 ウグイスは2月の初め頃、初鳴きを聞いた。森の遠くから聞こえてきた初鳴きのウグイスは、数日して里に下りてきた。今年のウグイスの鳴き方は、正統的な「ホーホケキョ」と鳴く。去年は「ホーケキョ」と鳴いて、私達をがっかりさせたが、何故か今年はきちんと鳴いている。鶯色のメジロは、梅の木にきて可愛い姿を見せてくれるが、ウグイスは鳴き声だけで、私は今まで一度も姿を見たことがなかった。ところが先日、庭の畑で仕事をしていると、やけに近くからウグイスの鳴き声が聞こえてきたので、じーっとその鳴く方向を見ていたら、その姿を見つけることができた。私は、この年になって初めてウグイスを見た。ウグイスは、スズメぐらいの大きさで、少し丸みを帯びた体つきをしており、鳴くとき胸を大きく膨らませて鳴く。小さな体であのように遠くまで響く声を出すのだから、相当な力を振り絞っているに違いない。私はそれをしばらく感激して眺めていた。
                           2008.5.10
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古希
  私は、今年3月で70才になった。いわゆる古希である。古希とは、人間70才まで生きるのは、古来稀であるという意味であるが、私にはそのような実感はない。私の還暦の60才から10年間は、あっという間に時が過ぎ去った感じであった。人が生きている時間をグラフで目盛ると、それは普通の等間隔の目盛りではなくて、対数目盛になるであろう。1才から10才までは、一番長い時間の経過を感じるであろう。10才から20才の10年間は少し短く感じるし、40才ぐらいから時間は短縮され、急激に短く感じる。そして70才から80才までは、時間はさらに短縮される。対数目盛にすると、0才は表示されないのが面白い。人の命のつながりが、無限の過去から続いていることである。
 私は、時間をゆっくり経過させるにはどうしたらよいか、よく考える。逆に、何故こんなに速く時間が過ぎていくのか、とも考える。70才の頭には色々な過去の記憶が蓄積されている。自分が今の色々な場面に出くわしたとき、それらに対応するにはどうしたらよいか、過去の経験から即座に回答が引き出せる。10才ぐらいの少年期では、経験がないから対応の方法が判らず、考えてしまう。その考える時間が長いため、時間の経過を遅く感じる。70才の老人は、世間を気にせず、いい加減にすぐ判断し、対応してしまう。これが時間の経過を速くさせる原因と思われる。
 医者は、サラリーマン退職後、運動と趣味を継続的に行うことを勧める。体の機能の衰えを防止することと、ボケ防止のために、そのような勧告をするのであろう。私は、その勧告に忠実に従って毎日生活をしている。週に5日、1日1時間半のテニスを行い、毎日30分から1時間程度、絵描きを行っている。それらが私の主要な行事となり、毎日のスケジュールに組み込まれ、自動的に時間をつぶしている。これが、60才から70才まであっというまに時が過ぎた原因かもしれない。
 テニスは、家から車で35分のところにある棚倉町のインドアコートで行うため、午前中はテニスのために時間を費やす。絵描きは、朝食後クラシック音楽を聴いた後、筆を取っている。午後は、携帯型音楽プレーヤーを聞きながら畑仕事をしている。この定期的な行為を全部なくしたらどうなるであろうか。私は1日の経過を長く感じるであろう。光陰矢のごとしでなく、時間は、紙飛行機のようにゆっくり進むであろうか。その代わり退屈で死にそうになるに違いない。
 毎年、ゴールデンウイークの1週間はテニスが休みになる。すると午前のメインスケジュールがなくなるので、私は、別のスケジュールを作ることにしている。今年はよい機会だから、何もしないランダムな時間の過ごし方をしよう。そうすれば、時間の経過を長く感じることができる。しかし、残念ながら忙しく用事を作ってしまった。車で1時間かけて行く、ひたちなか市のショッピングセンター「ジョイフル本田」に買い物に出かけたり、家の北側に石畳の通路を造ったり、軽自動車の車検を頼んだりなど、色々雑用を作ってしまった。そのようにしても普段の一週間に比べると、時間が過ぎるのが遅く感じられた。
 昨年の夏、私は町が行う健康診断を受けた。血圧などの測定をしたあと、内科の医者による聴打診と医療相談があった。診察する内科医は、100才近い現役の女医で、私の測定データを見た後、「スポーツはしていますか」と聞かれたので、私は「テニスをしています」と答えた。女医は私の目を見て、「大丈夫、あなたは100才まで生きられます」と言った。私は、まだ寿命のことを考えたことがなかったが、そのように言われると大変うれしい。100才の先生がそう言うのだから、それが単なる医術上の言葉であっても、その発言に重みを感じる。もし若い先生が私にそう言ってくれても、その言葉は冗談としか受け止めないであろう。
 私の古希を記念して、私達は4月22日に横浜港ディナークルーズに乗船した。私は、普段なるべくクレジットカード(NTTグループカード)を使うようにして、ポイントをためている。そのポイントが2.4万ポイント貯まり、ロイヤルウイングという会社のディナークルーズ乗船券と交換した。それは、金額で1万5千円に相当する。この乗船券は2人分で、横浜港をディナーを食べながら約2時間遊覧するという内容である。
 私は、横浜を離れて7年になり、久しぶりに横浜に行ってみようという気になった。4月22日は、山下公園が目の前にあるホテルニューグランドに宿泊した。私の妻は、前日彼女の母がいる岡山に行き、22日に私と横浜駅で落ち合うことにしていた。横浜駅から地下鉄のみなとみらい線に乗り、そのホテルがある終点の元町中華街駅で降りる。中華街入口に出る出口まで、ホームから10ぐらい歩かねばならないが、出口を上がるとすぐ中華街があり、その反対側にホテルがある。ホテルニューグランドは、昨年80周年を迎えた老舗のホテルであるが、新しく17階の新館(ニューグランドタワー)を旧館の隣に建てた。私はネットで新館の港が一望できるツインルームを1泊1人朝食付き12000円で予約した。案内された部屋は11階の部屋で、すぐ下に山下公園と氷川丸がみえる。
 ディナークルーズは5時10分出航で、その船が大桟橋に停泊していて、ホテルの窓からよく見える。ホテルから歩いて10分の所に大桟橋、国際客船ターミナルがあり、私達は30分前にチェックインした。船は、2900トン、全長87mの堂々とした大きさで、船全体が各種レストランになっているレストランシップである。私達が案内された部屋は、中華バイキングコースがある所で、L字型の間取りに、中央に料理のテーブルが置かれ、その横にバンド演奏の小さなステージがある。
 出航してまもなく、ジャズの演奏が始まった。料理を食べたり、酒を飲んだり、演奏を聴いたり、窓から見える景色をながめたり、各席にやってくるバルーンアートの女性に拍手したりして、忙しく時間を過ごした。料理には中華のスイーツがあるが、コーヒーがなく、ウーロン茶しかない。最後はやはりコーヒーが欲しい。帰着予定の7時前に食事を終えて、慌ててサンデッキに上がり、ベイブリッジの下を通るところを眺めた。空は穏やかに晴れ、夕闇の横浜港を眺め、心地よい春の潮風に吹かれ、私は満足した。
 私達は、大桟橋から山下公園を散歩しながら通り、ホテル前に7時半ごろ着いた。ホテルの旧館は、80年前に建てられた建物で、その1階の道路に面したところに「ザ・カフェ」という昔から有名なカフェがある。私は、以前からこの喫茶店でコーヒーを飲みたいと思っていたが、今日このカフェに入ることにした。ホテル旧館の入口からすぐ右奥に、カフェの入口がある。ウエイトレス達は愛想良く、その服装は田舎の農協の制服のようで、飾り気がない。コーヒーとケーキを注文したが、その応対もテンポがゆっくりで、親しみを感じる。彼女たちは、老舗で働いているという誇りがあるようである。
 翌朝は、新館5階の「ル・ノルマンディ」というレストランで、バイキング方式の食事をした。このレストランは高級感あふれた雰囲気で、広い窓からは横浜港が近々にみえる。客層は色々であるが、多くのラフな格好をした青年男女が、老舗の雰囲気を壊している感じであった。観光できたと思われる中高年の女性達は、きちんとした服装をして食事をしていた。彼女達は、昔の由緒あるこのホテルを知っていて、その雰囲気を楽しんでいるのであろう。一方若者達は、このホテルの歴史を知らないので、下町の食堂感覚で食事をしているようであった。
 私はといえば、古希の記念として、憧れのこのホテルに泊まり、そのレストランでの食事であるから、この時間を大切にしたいという気持ちで、食事をした。
                           2008.6.10
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中欧の旅1
  私達は、08年5月20日から15日間、中欧へのツアーに参加した。これは、ユーラシア旅行社が催した「ハプスブルグ物語」と名付けたツアーである。ハプスブルグ家ゆかりの建物がある、ハンガリー、オーストリア、スロバキア、そしてチェコを巡る旅である。ハプスブルグ一族は、オーストリアのウイーンを拠点に一時は欧州全域を支配した名だたる一族であった。一族は、西暦1273年から1916年まで、約650年間統治続けた。その政治能力は極めて優れたものであった。その継続期間は、日本の鎌倉幕府から明治時代までの期間に相当する。世界史の年表にはハプスブルグという言葉は出てこないが、ハプスブルグ家系は650年間続いていたのであり、それはあまり長すぎて人々に深い印象を与えなかったのかもしれない。
 その中で偉才を放ったのは、1741年から40年間政権を握ったマリア・テレジア女王であろう。彼女は、国を繁栄させるには国民の教育レベルの向上が欠かせないというので、義務教育制度を制定し、教科書も作った。当時、色々な民族の集まりであった国家は、地域によって言葉が違っていた。彼女は、それぞれの言葉で教科書を作り、それを使って教育をするという柔軟な政治を行った。また、科学教育にも力を入れたのも、現在の欧州の科学レベルの高さの源となっていて、彼女の偉大な業績の一つであった。広い領土を維持するには強力な軍隊が必要である。領土は各民族の寄せ集めであるから、その戦い方も異なっていた。弓矢や槍だけで戦う民族や、騎馬を主にして戦う民族などがあった。彼女は、武器と戦法を統一し、軍隊としての規律を定め、領土維持と拡大をはかったのである。
 ウイーンの近くにグラーツというオーストリア第二の都市があるが、そこには武器庫博物館がある。鉄砲、槍、刀、甲冑など中世で使われた色々な武器が3万2千点集められ、その規模は世界一という。マリア・テレジアは、東のオスマントルコの脅威に対して、多くの武器で対抗しなければならなかった。その使った武器が倉庫に残されている。この博物館に、現在警察がデモのために使うプラスチックでできた透明の盾も2、3個展示していた。これは、西洋人のユーモアであろう。私達は、グラーツに住む現地のガイドにより詳しく説明を受けたが、私達のほとんどは武器に対して興味がなく、飽き飽きしながら彼女の説明を受けていた。その中で、金属製の鎧に敵の鉄砲弾が当たり、丸くへこんだ跡がある鎧を数多く展示していた。それを見て、私達は17世紀の世界に急に引き戻された感じを受けた。
 ハプスブルグ一族で最も人気があるのが、エリザベート皇紀である。彼女は、一族最終期の1850年頃から活躍した大変美しい人である。彼女はシシィという愛称で呼ばれ、現在も多くの人に人気がある。ウイーンの王宮の一角に、シシィ博物館があり、彼女の当時の生活ぶりと、多くの豪華なコレクションが見学できる。私達も館内のツアーに参加し、専門のガイドから添乗員の通訳を通して説明を受けた。博物館内にはショップがあり、シシィの土産物が多く売られていた。参加者の吉田(仮名)さん夫妻のご主人(70才?)はシシィファンと見え、シシィ肖像画の大きなポスターなどを買い込んでいた。彼は、娘への土産だと、照れていたが、本当は自分が欲しかったのであろう。シシィの肖像画が入った土産物はウイーン市内のどこの土産物屋でも売っていて、私の妻も午後の自由時間で買い込んだ。一つは小さな肖像画の額で、今自分の机の上に飾っている。もう一つは陶器皿にシシィの肖像画を焼き付けた物で、鏡台の近くに飾っている。
 シシィはその体型がすばらしく、本人も体型をいつまでも保つために毎日努力していた。宮殿の自分の部屋には、体重計が置かれ、ダイエットに励み、吊り輪のような体操用具も置いていた。毎日数時間のウオーキングも行っていたというから、体型維持のために大変な努力をしていたようである。晩年はその無理なダイエットと過酷な運動により、彼女の美貌の衰えは激しく、外出時は傘で顔を隠していたという。シシィは、61才の時、スイス旅行中暗殺された。後継者の一人息子のルドルフ皇太子はその10年前、マイヤーリンクの館で自殺(他殺?)した。自殺後、後継者がフランツ・フェルディナントに移ったが、彼もサラエボで暗殺され、第一次世界大戦が勃発した。ハプスブルグ一族は、庶民の手によって消滅された感じである。
 私達は、ルドルフ皇太子が自殺したマイヤーリンクの館を見学した。この地方は、ハプスブルグ家の狩り場となっていて、館は狩猟の館として使われていた。現在は、カルメル派の女子修道院になっている。当時17才のルドルフ皇太子と、男爵令嬢マリー・ヴェッツェラの遺体が見つかった部屋は、礼拝堂になっている。私達は朝早くこの館を訪問したが、すでに多くの観光客が見学にきていた。西欧ではルドルフ皇太子の悲劇がよく知られているようである。彼が自殺して20年後の1918年に、650年続いたハプスブルグ家のオーストリア帝国は終わり、オーストリアは共和国となった。
 ハプスブルグ一族が650年間に建てた要塞、王宮、離宮、教会などは、オーストリアを中心に各地に残っており、それらは全て世界遺産として保存されている。これらを見て回ることができるこのツアーは、私にとって有意義なものであった。これらの遺産を作った資金は、勿論庶民から集めた税金である。ロシア帝国も、庶民から集めた税金で莫大な財産を築き、豪華な宮殿を建設した。ロシア帝国の破綻は、過酷な税金の取り立てを、貧しい農民から行ったためであり、貴族と農民の貧富の差が大きかったためでもある。その庶民の不満が革命という形で現れ、社会主義国家ができた。ハプスブルグの政権交代は、劇的な革命によるものではなく、文書署名と皇帝の国外退去によって行われた。
 同じ帝国の崩壊で何故このような違いが出たのか?それは、オーストリア庶民の生活レベルが高かったことと、ハプスブルグ一族と庶民の関係が友好的であったことによるものであろう。ハプスブルグ家の家訓は、1493年に即位したマクシミリアン1世が制定した、「戦いは他のものにさせるがよい、汝幸あるオーストリアよ、結婚せよ」である。政略結婚により領土を広げ、国土を安定化させたのが、長期政権維持の主因であろう。庶民は、戦争をしないので戦死による皇室への恨みはなく、国も戦争による財政負担がなく、従って庶民からの税金の取り立ても少ない。一方、ロシアはその領土が気候的に過酷であるため、農作による穀物の収穫が庶民の収入源であるが、気候の変動により収入は不安定となる。農民は、毎年一定の納税を要求する貴族に対して不満が生じ、貴族との貧富の差が大きくなった。方や、オーストリア庶民は、豊かな国土で牧畜と農作業で生活し、収入も安定し、納税額も多くはなかった。この違いが政権交代に大きな違いを生じたのであろう。
 私達は、オーストリアの東チロル地方をバスで通ったが、街道にせまる山々には、かなり高いところまで家が建てられている風景を見ることができた。辺り一面は牧草地で、ぽつんぽつんと大きな人家があり、人々はそこで豊かな暮らしをしているように思えた。この地方も元は山林に覆われた、人が住めない土地であったのであろうが、大昔から森林の伐採を行い、その跡に牧草を植え、牧畜業を行ってきた。オーストリアは、他のヨーロッパ諸国も同様であるが、山林伐採による環境破壊はとっくに終わっている。現在、CO削減が世界中で叫ばれているが、ヨーロッパ諸国は、自分たちの過去の山林破壊を思い出せば、開発途上国の森林伐採を非難することはできないであろう。
 オーストリアの山間部は、牧場が一面に続いているが、牧草地に牛や羊がいるのは極めて少ない。ほとんどの牧場主は手間のかかる牧畜は止め、牧草地の牧草を収穫し、それを売っているのだと、ガイドから説明を受けた。牛は専門の牧場で集約的に飼育されているのである。バスから見られる牧場には、機械で刈り取った牧草がフレキシブルコンテナに詰められて、所々に放置されていた。牧畜も、少子化と人手不足により、集約牧畜の時代になったのであろう。
                           2008.7.10
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中欧の旅2
  この中欧ツアーの最初の訪問地は、ハンガリーのブタペストである。利用した飛行機は、BA(British Airway) のジャンボ機である。BA機は、私達をロンドンまで運び、そこから乗り継ぎで別の中型BA機でブタペストへ行く。ロンドン、ヒースロー空港での乗り継ぎは、待ち合わせ時間が5時間と大変長かった。旅行社は、BAから低料金の恩恵を受けて、BA-BA乗り継ぎプランを受け入れているに違いない。乗り継ぎのターミナルは、今年(2008年)3月に完成したばかりの第5ターミナルである。このターミナルは、全長400mの巨大なアーチ型天井を持つ建物の中に、個々の独立の建物が建てられていて、時代の変化に対応して建物を造り替えることができる仕組みになっている。BAは、総工費8700億円のお金を出して建設した。
 ターミナル内には多くの立派な免税店が並んでいた。私達はこれから各地を回るため、今から商品を買うのは荷物になって困るので、ウインドウショッピングしかできない。このツアーは、帰りもチェコのプラハからBAを使って、このロンドンで乗り継いで成田へ戻る予定である。帰りの待ち時間も5時間と大変長かった。BAは、店子の免税店と組んで待ち時間を長くし、これらのショップで客にお金を使わせようと企んでいるのかと、勘ぐりたくなる。先年、別の旅行社でフランスツアーに参加したときは、パリまでANAで、そこからエールフランス機で乗り継いでニースまで行った。乗り継ぎ時間は2時間ぐらいで、ターミナルを移動して動き回っていると時間はなくなり、免税店を覗く時間はほとんどなかった。乗り継ぎ時間は2時間程度が妥当である。
 ヒースロー空港のこのターミナルに入っているほとんどの免税店は、アラブ系の人が経営しているようである。有り余るオイルマネーをこんなところに使っているのであろう。店の店員もほとんどアラブ系である。彼等は欧米人より愛想がよく、片言の日本語を使ってくれる。一方、イギリスの店員は日本語を決して使おうとしないが、日本人が言っていることを理解しようと努力する。私達は帰りに、このターミナルで買い物をした。私はユーロしか持っていなく、それを使うと、お釣りをポンドで渡され、その処分に困るので、クレジットカードしか使わなかった。
 クレジットカードはサインでなく、暗証番号を打ち込む方式であるから簡単である。決済は、一ヶ月後のレートでカード会社が精算し、それを一覧表で郵送してくれるから、どこで何をいくらで買い物をしたかが良く分かって便利である。このターミナルの免税店に、ハロッズの店があった。私の妻は、そこで買い物袋などを買い、支払はクレジットカードを使用した。アラブ系の店員は私になにやら英語でしゃべったが、聞き取れなく、面倒だからOKと返事をした。すると店員は私のカードを使って、買い物の値段を現在のレートの日本円でレジの画面に出してくれた。店員は私の顔をみて、どうかという表情をしたので、私は初めてそのシステムに納得して、にっこり笑ってOKをした。一ヶ月後のレートでなく、現在のレートで精算できるのは大変合理的である。しかし一ヶ月後のレート変化が、どうなるのかという楽しみ、あるいは不安がなくなって、味気ない感じもする。
 今回のツアーの添乗員は、山島さんといい、20才代ぐらいの女性である。彼女はしっかりした体つきで頼もしい感じであった。15日間、彼女が参加者15人の命を守るのであるから、彼女の責任は重い。私達も彼女におんぶにだっこでは無責任だから、極力彼女に協力しなければならない。私達が先ずしなければならないことは、彼女の顔を覚えることである。彼女も、観光地の所々で人数のチェックを私達の顔を見ながら行うので、いち早く全員の顔を覚えたようである。私達も、1日に何回も添乗員の顔を見て安堵するので、否応なしに顔をおぼえてしまう。数日繰り返し添乗員と顔をつき合わせていると、彼女の体型まで憶えてしまい、後ろ姿で彼女を判別することができる。ツアー添乗員の印象は強いので、1年前、2年前のツアー添乗員の顔と体型は今でも私の記憶に残っている。
 添乗員は外で働く仕事であるから、いくら日焼け止めを顔に塗っても日に焼ける。山島さんは、今までの添乗員の中で最も日に焼けた部類に入る。肌の濃いさは、彼女の地肌なのか、忙しくて化粧する暇がなくて、そうなったのか判らない。忙しくて化粧をする時間がないのであろうと、私は想像する。ツアー13日目は、プラハ市内観光の後、夜に「プラハの春、音楽祭」のコンサートを聴くスケジュールであった。この音楽祭は、ツアーの目玉の一つであり、参加者は皆期待してこの時を迎えた。会場は、プラハ市民会館の中にあるスメタナホールで、正装した聴衆で会場は満員であった。私達もそれぞれおしゃれをして出かけたが、私を除いた6人の男性はきちんとしたネクタイ姿であった。私は、ポロシャツの上に黒のジャケットを着ただけであったので、会場では少々肩身の狭い思いをした。山島さんは、黒のスーツに珍しくうっすらと化粧をして現れた。私は、彼女の化粧姿をみて、化粧によって感じががらっと変わるのだなあと感心した。
 オーストリアのウイーンは、郊外にブドウ畑があり、ワインの生産がまだ行われている。ツアー5日目の午前はウイーン市内観光で、午後は自由時間で、夕食も各自取ることになっていた。このような自由時間にどこに行って良いか判らなく、一人で歩くのが不安な人のために、添乗員がプランを立て、そのような人達を引率するのが、ツアー一般の習わしである。山島さんは、どこかの寺院観光と、夕食は「ホイリゲ」に案内するというプランを作った。私と妻は寺院観光は参加せず、「ホイリゲ」だけ参加することにした。私達は、ホイリゲ行きの集合時間まで、王宮前の美術史博物館へ行き、中世の絵画を鑑賞した。この美術館は、ブリューゲルのコレクションで有名で、「雪中の狩人」や「バベルの塔」などを見ることができた。フェルメールの作品も一つだけ展示されていた。
 ワイン好きな人は、ウイーンの「ホイリゲ」をよく知っている。参加者の千葉さん(仮名)は、ホイリゲに案内して貰えることを知って、大変喜んでいた。ツアーの約半分の8名がこの夕食に参加した。私は、ホイリゲの存在をそれまで全く知らなく、ガイド本を調べて、それがワインだけを飲ませるワイン居酒屋であることを知った。ホイリゲは、「今年の」という意味で、今年取れたブドウで作ったワインを11月から一年間客に飲ませる酒場である。ワイン醸造所が居酒屋として客にワインを飲ませていたのが始まりであったため、建物の中にワイン製造の道具類が置いてある店もある。山島さんが案内したホイリゲは、「ラインプレヒト」という、300年前の修道院を利用した店で、ウイーン市の北のはずれにあり、中心地から電車とバスで30分かかる所にあった。その一帯は多くのホイリゲが集まっている所で、その周囲は住宅地になっていた。私達は、7時から9時までワイン酒場の雰囲気を存分に楽しんだ。店を出たのは9時であったが、外はまだ明るかった。30分かけて市の中心地に戻り、そこから市の南端にあるホテルまで電車で30分かけて戻った。
 このツアーは、チェコの南端にあるチェスケー・ブジェヨヴィツェに一泊した。この町は、13世紀からビール醸造の長い歴史をもち、ピルスナーやバドワイザーなどの名前で知られるラガービールの発祥の地である。この町に入る前に添乗員の山島さんは、バスの中でビールの歴史などを熱心に説明してくれた。どうやら山島さんはビールが好きなようで、ビールの話をしたかったのであろう。彼女は、食事どきはワインやビールを自分で注文してうまそうに飲んでいた。旅行社のパンフレットに、参加者は添乗員にアルコール類を勧めないようにという注意事項が書かれていた。添乗員自身が一人で飲む分には問題がないのであろう。
 チェコ国民は、ビールを食事時に必ず飲み、そのためチェコは、一人当たりのビール消費量が10年連続世界一である。チェコでは、ビールをパンの代わりに食べる(飲む)のであると、山島さんは力説していた。郷に入っては郷に従え、ということで山島さんは、パンの代わりにビールをおおいに食べたのであろう。
                            2008.8.10
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中欧の旅3
  ツアーの参加人数は、普通15人から20人である。そのなかには、必ずと言っていいほど、マドンナになる人がいる。長い日程のツアーでは若い女性がいないので、そのマドンナ役は、一人旅する中高年の女性に決まっている。マドンナの住まいは大体東京都内で、地方から参加した人はマドンナになれないようである。今回のツアーのマドンナは、中田(仮名)さんといって、鎌倉に住んでいる60才ぐらいの人である。このマドンナは、私が勝手に心の中で決めたのであるが、本人はマドンナを意識しているようで、派手に振るまい、人の耳目を集めるような行動をとる。
 今回のツアー参加者で、一人旅の男性は2人いた。一人旅どうしの気楽さから、あるいは一人という不安から、その2人はすぐうち解けて親密になる。マドンナに対しても仲良くなる。食事時、彼等は同じテーブルに誘い合って座ることが多く、その中にマドンナが入ることも多い。マドンナのいる席は、何時も賑やかで笑い声が絶えない。アルコールが入ると、その賑やかさがいっそう高まる。彼等は、料理の味を楽しめているのか、疑いたくなるくらい、お喋りをする。マドンナでない一人旅の女性は2人いて、彼女等はマドンナより高齢者で、地味な人であった。彼女等は、食事の時、何故か私達夫婦と同席する機会が多かった。私は、まじめな彼女たちと食事をして、出される料理の内容などを話題にして、料理を楽しむことができた。
 今回のマドンナは、歳の割に髪が長く、服装に合った髪型に心がけていた。服の着こなしは極めてよく、そのデザインも洗練されていた。プラハでの音楽祭に出かけたとき、彼女は和服のような洋服のような奇抜な服を着て現れた。会場の正装した紳士淑女の中で、彼女はその雰囲気にとけ込んでいた。彼女は不思議な人である。彼女のよく通る声と、華やかな笑い声は、元舞台俳優を想像させた。ツアー中、私は数回、彼女からものを聞かれたことがあった。その時、彼女は、私の腕を指でつついて、「ねェ、これ何と書いているの」など、私に話しかけた。このような仕草をする人は、クラブのママであろう。昔の癖が思わず出てしまったのか。彼女は、元銀座のママであったのだろうか。
 ツアーの食事は、旅の楽しみの一つであり、その地方の郷土料理を食べさせてくれるので、大変うれしい。15日間の日程で、3回だけ夕食がない日があり、各自夕食を取らなければならない。その場合、添乗員が、一人で食事をするのが億劫な人達のために、レストランに連れていって、食べさせてくれる。ツアー2日目の夕食は、その食事のない日であった。その日は、ハンガリーのブタペストに連泊したが、ホテルが市の中心地からすこし離れたマルギット島にあり、近くにレストランがない。食事に行くには、バスで繁華街まで行かなければならない。私と妻は、疲れていて、皆と一緒に町のレストランに出ていくのが面倒であったので、ホテルのレストランで食事をした。
 そのホテルのレストランのディナーは、幸いビュフェ方式であったため、好みの料理だけ選んで食事をすることができた。ワインは、ボトルしか置いていなかったので、地ワインを頼んだ。若いウエイターが恭しくボトルの栓を目の前で抜き、私に味を確かめさせた。私は、面倒だから、また味の善し悪しも分からないから、GOOD、と言ってにっこりした。料理は色々あり、その中にハンガリーの郷土料理もあるのであろうが、それが判らないので適当に選んで食べていた。暫くしてその若いウエイターがやってきて、「スープはあそこにある」、と教えてくれたが、面倒だから取りに行かなかった。ハンガリー料理の特徴は、スープであることを後で知り、私は食べなかったことを悔やんでいる。食事の途中、ハープ演奏があり、イギリス、イタリア、ドイツなどの民謡を演奏し、各国から来た客にサービスをしていた。日本人は私達2人だけであったので、日本の歌は演奏されなかった。支払は、翌日フロントでクレジットカードでおこなった。1ヶ月後その金額が、カード会社から送られてきたが、10560円であった。ワインが3000円ぐらいであったので、ディナーの料金としては安い方であろう。
 外国のレストランで食事をするのは大仕事である。面倒だからコース料理を頼んでも、スープの選択、メイン料理の選択、デザートの選択など、ウエイターから聞かれる。そのような場合、私は何時も内容を分からずに適当に選択している。だから運ばれる料理がどんな物か楽しみであり、またその料理が不味かった場合、がっかりする。ツアー最終日は夕食のない日であり、夜、プラハ音楽祭がある日であったため、夕食の時間が2時間ぐらいしかなかった。宿泊のホテルは、プラハの中心地から離れたところにあり、ホテルの近くには大きなレストランはない。私達は、市の中心地にあるコンビニでサンドイッチと果物を買ってきて、ホテルの部屋で食事をした。この日の朝、私はホテルの近くに散歩に出かけた。そのとき、歩いて10分ぐらいの所に、中華料理屋があるのを見つけた。この料理屋は、ウインドウの中に多くの料理の写真を貼りだし、チェコ語の料理名と番号を書いていた。これを見れば、料理がどのようなものか分かるし、注文は番号で言えばよいので簡単である。チェコの人も中華料理に馴染みがないので、このような写真を大きく出しているのであろう。時間があれば私達もこの店に入って食事をしたのだが、2時間では無理であった。
 ツアー参加者の中には必ず特異な人がいる。今回のツアーでは、その代表は吉田(仮名)さんであろう。彼は、大学の法科系教授を退官し、現在は世界各地を奥さんと旅しておられる。彼の趣味の一つは、「写真を撮る」ことである。1回のツアーで5千枚以上の写真を撮るのだと言っていたが、最終日近くに彼は、「今回は1万枚を超えた」、と言っていた。私は、1回のツアーで約1200枚ぐらいの写真を撮るが、今回は吉田さんの行動に刺激を受けて、2000枚の写真を撮った。吉田さんは、私がしきりに写真をとるものだから、彼も私に負けじと写真を撮ったので、1万枚を超えてしまったのであろう。彼は、デジタル一眼レフカメラを持って、目をファインダーにくっつけて、シャッターを押しながら歩く。大げさに言えば、カメラが先に、後から彼が付いていくといった感じである。
 そのような歩き方をしていたので、初日のハンガリーのブタペスト市内観光で、彼は一時行方不明になった。添乗員が探し回って、20分後に見つけることができた。吉田さんは、皆から少し離れたところで、奥さんからひどく叱られていた。奥さんは、すこし太った可愛い顔をした人であるが、吉田さんを叱るときは厳しい顔をする。奥さんも元高等学校の数学の先生をしていたので、叱り方が堂に入って、生徒を叱るように元大学教授を叱っていた。「迷子にならないようにあれほど言ったじゃないですか」「家を出る前に誓文まで書いて約束したのに忘れたのですか」「皆さんの迷惑になるから気を付けて下さい」などと、奥さんは立て続けに喋っていた。その間、吉田さんはカメラから目を離して、黙って聞いていた。奥さんの話によると、吉田さんは迷子の常習犯で、以前のツアーでも数回迷子になったという。
 今回のツアーは、オーストリアに滞在する時間が多く、オーストリアの主な観光地をほとんど見ることができた。オーストリアは、オーストラリアと紛らわしい国名である。オーストリアは、Austria と書き、アクセントはAにある。オーストラリアは、Australia と書き、アクセントはraにある。英語読みでは、はっきり区別がつくが、日本語では、オーストラリアの「ら抜き」がオーストリアであるから、大変紛らわしい。オーストラリアは、日本と地理的に近く、貿易などで親密にしているので馴染みがある。しかし、オーストリアは、音楽の都、ウイーンが思いつく程度で、馴染みが薄い。
 「オーストラリアはカンガルーの国」、と思う人は多いであろう。一方、オーストリアで、「カンガルーのぬいぐるみはないのか?」、と土産店で聞く外国人が多いようである。私がウイーンの土産物屋で貰ったビニール袋には、カンガルーのシルエットがデザインされ、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA 」 (オーストリアにはカンガルーはいない) と印刷されていた。世の中にはオーストリアとオーストラリアを混同している人が多いようで、オーストリアの業者は、皮肉を込めてこのようなビニール袋を作ったのであろう。
                            2008.9.10
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中欧の旅4
 元教授の吉田さんについては、先月のこの欄で述べたが、もう少し書き加えたい。吉田さんは、このツアーで写真を1万枚も撮った。この数は、フィルム写真では不可能で、ネガフィルムのケースだけでスーツケースが一杯になるであろう。デジタルカメラのお陰でこのような多くの写真が撮れるようになった。1万枚の写真を撮るには、設定する画質にもよるが、2GBの記録メディアで10枚ぐらい必要となるであろう。それがSDカードなら、2GBのSDカードは現在1枚2000円ぐらいなので、10枚となると結構な値段になる。吉田さんは、携帯型ハードディスクを持参して、その撮った写真を逐次これに移し替えているという。ハードディスクは30~50GBの容量があるので、1枚のSDカードを繰り返し使えば、思う存分写真が撮れるわけだ。
 1万枚の写真を整理するのは大変でしょう、と吉田さんに聞くと、彼は、一々見ている暇がないですね、どうかすると全部見ない内に次の旅行に行くことがあります、と笑っていた。彼は、映した写真の出来映えに興味があるのではなく、シャッターを切ることに興味があり、それに快感を覚え、安心するのであろう。一種の写真中毒である。建物に興味があるのか、と彼に聞いてみると、そうではないと口を濁していた。一つだけ注意しているのは、道路にあるマンホールのデザインである、と彼は私に話してくれた。特に、ヨーロッパは古くから下水道が発達しているので、珍しいマンホールの蓋があり、各地で多くの写真が撮れていると言う。これらのマンホールの写真を紹介するだけで、一冊の本ができる、と張り切っていた。私達が建物に見とれて写真を撮っている間、彼は道路にも目を向けて、マンホールを探していたのである。
 ツアーの初日、ブタペスト観光で彼が迷子になったのは、マンホールを探して、つい横道に入って、皆とはぐれてしまったためであろう。その後日、彼は、皆に迷惑をかけたお詫びのしるし、といって、彼が参加している詩の仲間が作った詩集を配っていた。彼は、詩の仲間でも中心人物のようで、詩集の最初に多くの詩を載せていた。私は、詩にはあまり興味はないが、彼の詩だけを読んで感想を食事時に話すと、彼はうれしそうに詩の仲間などについて喋ってくれた。彼が作る詩は、叙情詩でなく、叙事詩であり、表現が元先生らしく判りやすい。彼は、皆に配る積もりで沢山の本を日本から持ってきたのだから、それだけ自分の詩作に自信があるのであろう。
 今回のツアー参加者で一番遠くから参加した人は、新南陽市(現在は周南市)に住んでいる内田氏(仮名)夫妻である。ユーラシア旅行社の参加者は、関東一円からくる人が多いが、山口県から参加する人は珍しい。内田さんが新南陽市に住んでいると聞いて、私は懐かしく思った。私は約30年前、新南陽市に住んだことがあった。私は、勤めていた会社の工場が新南陽市にあり、転勤で5年間住んでいた。最初、内田さんの話し声を遠くから聞いていると、懐かしい山口弁が聞こえてきた。彼の話によれば、彼は、私が勤めていた会社の敷地の元地主であり、会社の人達をよく知っていた。彼の家は、遠浅の瀬戸内沿岸で代々製塩業を営んでいた。周りに化学コンビナートの工場群が建設を始めたため、彼の代で廃業し、土地を会社に売り払い、その資金で不動産業を始めた。現在は息子に仕事を任せ、自分たちは世界各地を見て回っているという。
 新南陽市は、現在は隣の旧徳山市と合併して周南市になっているが、私がいた当時から合併問題があった。徳山市を中心に、下松市、光市、新南陽市との合併が計画されていたが、下松市と光市が合併寸前に議会の反対があり、参加しなかった。周南市は、徳山市と新南陽市と近くの町村だけの合併となり、新南陽市は徳山市に吸収される形となった。その結果、旧新南陽市は行政機能が全部旧徳山市に移り、衰退してしまった、と内田さんは大いに嘆いていた。旧新南陽市の警察署は、当時50人ぐらいいたが、今は交番に格下げされ、2、3人しかいない。事件があると、旧徳山の本署から時間をかけて警察官がくるので、治安が心配される、と内田さんは怒っていた。合併をしなかった下松市、光市は賢明な選択をした、と彼は繰り返し言っていた。
 合併をしない宣言を全国に早々と発した、私が住んでいる矢祭町は、もし合併すると新南陽のような悩みが発生するだろう。しかし、化学コンビナートで多くの大企業を抱える将来性のある新南陽市とは違って、我が矢祭町は最初から衰退している町である。だから、これ以上の衰退はないと、多くの町民は達観するであろう。矢祭町の警察は、警察官1人の交番しかないので、新南陽のような格下げで治安が悪くなる懸念はない。矢祭の交番に勤める警察官は、町の名士であり、転勤があると地元新聞に報道されたり、行事などに招待されて、町民から一目置かれている。
 裕福な内田さんは、酒が好きで、画家で山口県出身の香月泰男氏と、酒席でのつき合いが多かったようである。内田さんの所に行けば酒が飲めると、香月画伯はよく出かけたのであろう。画伯は、酒で興が高じて、その場で色紙とかデッサンなどを描いて、内田さんに渡したようで、そのような香月画伯の作品が内田さん宅に多くある。香月画伯の回顧展があるときなどは、各地の美術館から貸し出しの要請が来ると、彼は自慢していた。私は香月のシベリアシリーズを山口県立美術館で見たことがあったが、大きな暗い絵は好きにはなれなかった。しかし、彼が描いた小品の油絵は、明るく親しみを感じる。先日、テレビの番組(なんでも鑑定団)で彼の6号ぐらいの油絵が、山口に住んでいる人から出されて鑑定されたが、600万円の値段が付けられていた。私の絵は6号であれば、6000円で売り出している。私も油絵を描いていることを、私と次元が違う香月画伯に心酔している内田さんに、私は恥ずかしくて言うことができなかった。
 海外旅行で持っていく物は、様々な物があり、その種類は50を超えるであろう。それらを頭の中で考えながら集めて、スーツケースに入れるのは、私の頭では限界にきている。そこで利用するのが、旅行案内書にある携帯品チェックリストである。このリストを見ながら荷物の準備をするのだが、今の時代に合わない携帯品があったり、必要と思われる物が抜けていたりする。必要でない代表が写真フィルムであり、必要なもので記載されていないのは、デジカメ用充電器など多くある。今回のツアーでは、私の必需品である気圧変動用耳栓とノイズキャンセリングイヤホーンを忘れてしまった。耳栓は成田空港の売店で購入したが、イヤホーンは特殊な物であるから売店で買うことはできなかった。これを教訓に、私は私用のチェックリストをワープロで作成した。その中には、携帯型ウオッシュレット、コンセントアダプター、マスクなどが含まれている。その他、ホテル火災に遭った場合に必要であろう大きなビニール袋も記載している。
 携帯用湯沸かし器が必要だというチェックリストもある。日本のホテルでは、必ずホテルの部屋に湯沸かし器が置いてあるが、外国のホテルでは、ないのが普通であろう。飲料水、コーヒーの自動販売機もないので、携帯用の湯沸かし器は必需品かもしれない。私は、今回のツアーで初めて湯沸かし器は必要であると感じた。私は、日本から持っていく荷物の中にインスタントコーヒー、緑茶バック、カップラーメンを入れてきた。中欧各地のホテルでは部屋に湯沸かし器を置いていなかったので、それらを使う機会がなかった。そのまま日本に持って帰るのはいやだから、ホテルに置いて帰ろうと思っていた。幸い、最終日に宿泊したプラハのクラウンプラザホテルには、湯沸かし器が置いてあった。最終日に何とかこれらの日本製を味わうことができた。私は、次の旅行までに携帯用湯沸かし器を購入し、旅行に持っていきたいと思っている。
                            2008.10.10
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 私は、就寝時の夢をよくみる。その内容は様々で、目が覚めてその夢を思い出して、不可解なものが多い。私は、この歳になって気が付いたのであるが、夢で見る主人公は必ず自分であることである。第三者的な夢、例えばすばらしい景色の夢とか、プロ野球選手が活躍している夢は見ることはない。例えそのような夢を見た場合でも、必ず自分が存在する夢になる。プロ野球の場合、私が選手と一緒にベンチに座り、私がプレーの指示をしたりする夢となる。現実ではあり得ない話であるが、それが夢なのであろう。
 夢の内容は、やはり40年間勤めたサラリーマン時代の様々なシーンが多い。学生時代の4年間に出てくる夢は、遠い過去になりすぎて見ることはないが、先日それが出てきたのでびっくりした。私は化学を専攻していたので、学生時代、よく白衣を着ていた。会社では白衣でなく作業着であったので、私の白衣姿が夢に出てくることはまずなかった。その夢は、白衣の私と他の数人の同僚と白衣の先生がかたまってエレベーターを待っていた。エレベーターの入口が狭く、私は乗ることをあきらめた。その立っている場所は、建築現場の足場のような高いところにあり、私は何かにしがみついていた。そのような夢であったが、何故このような夢をみたか、目が覚めて考えてみると、昨夜見たテレビの影響であることに気が付いた。
 そのテレビでは、皇后さまの74才の誕生日特集として、現在東京高島屋で催されている皇室の写真展を報道していた。その中に、皇室の年末の行事である皇族揃って行う餅つきの珍しい写真が、テレビの画面に映った。さらに珍しいのは、皇室全員が何故か白衣姿であったことである。私はこの白衣姿に強く興味を持って、何故白衣なのか不思議に思ってテレビを見ていたのである。その白衣が、その夜の夢の中で50年前の私の白衣姿になって出てきた。また私は、同じ日のNHKテレビ特集番組で、山野井夫妻のロッククライミングの映像を見た。これは夢の中で、私が高い足場でしがみついているシーンとなって現れたわけだ。
 私が勤めていた会社の上役であった岩田さんは、私の直属ではなかったが、仕事上の関わりは長かった。彼は、会社が専門としているウレタン分野の権威として社外にもよく知られていた。この人が突然私の夢に現れた。何故だか、今でも不思議に思っている。その夢では、彼は、彼のポケットからしわくちゃの5千円札を出し、私の手にそれを握らせ、「金谷さん、このことは誰にも言わないでくれ」と頼まれた。私は、黙っていても私に被害が及ばないので、了解した。すると彼は喜んでスキップをしながら去っていった。その所で目が覚めた。彼のスキップをする後ろ姿は印象的であり、普段の彼の行動では絶対あり得ない姿であった。
 私は週に4日、テニススクールに通っているが、そのスクールの生徒の中に、住職がいる。彼は、40才ぐらいで、隣町の塙町に薬王寺という寺を持っている。彼は、テニスは始めたばかりだというが、かなりの腕前である。学生時代何かのスポーツをしていたのか、足の運びが速く、コートの中で球を拾いまくる。練習が終わった後、方々に散らばったボールを集めるとき、彼はスキップをしながら遠くの球を拾いに行く。この姿が私にとって印象的で、いまどき中年の、しかも寺の坊さんがスキップをするとは、何とも奇妙な光景であった。そのスキップの姿が岩田さんに乗り移って、夢に出てきたのである。私の「沈黙」で、貰えそうになかった多額の報奨金が、岩田さんの手に入る、という夢の中の筋書きであった。現実では、そのようなことは全くなかったことを、岩田さんの名誉のために記しておく。
 夢の中でよく出てくる人物は、会社で一緒に仕事をしていた和田氏である。彼は、50才代の若さで他界したが、優秀な技術者であった。彼は私の部下であったが、彼から専門的なことを多く教えて貰った。特に彼は、コンピューターについての造詣が深く、その深さは社内でも十指に数えられるくらいであった。まだパソコンが今のように普及されていなかった1980年の頃であった。私は、ハードディスクについて知識がなく、ソフトディスクの対語ぐらいに思っていた。ある時、彼からそれを厳しく訂正されたことがあった。当時の記録メディアは、柔らかいプラスティックの円盤を紙のケースに入れていたものを使っていて、私はそれをソフトディスクだと思っていた。その後、硬いケースに入れられた小型のディスク(フロッピーディスク)が広く普及して、それを私はハードディスクだと信じていた。「金谷さん、それは全然違うよ」と、和田氏が注意してくれた。ハードディスクはパソコンの中に入っているもので、駆動装置付きだから取り出せない、など説明された。和田氏は、私の夢の中では私と一緒に登場し、彼はただそばにいるだけである。それは、彼の控えめであった性格のためであろう。
 夢の中で一番多く出てくるシーンは、サラリーマンをリタイアする頃、あるいはその後会社で週一回のアルバイトをしていた頃のシーンである。私にとって劇的な変化を体験したのであるから、その頃の夢が多くでるのは当然かも知れない。特に会社を今日で去る日のシーンはよく出てくる。先日、私が会社の門の手前で多くの社員に見送られて、私は花束を持って皆と握手しながら別れていく夢をみた。実際にはそのような見送り方を受けたことはなかったが、送別会の宴会で花束を貰って、照れながら自宅に帰ったことはあった。夢から覚めて、何故このような夢を見たのか考えてみると、昨夜見たテレビの影響であることが判った。北京オリンピックでメダルを取った選手が、母校の中学校へ行き、その報告会をした後、その選手が花束を持って、いならぶ生徒達と握手をしていたニュースをテレビで見たのである。このシーンが私の夢にも現れ、私の場合、会社を去るという切ないシーンになっていた。
 つい最近、フィギュアスケートの安藤美姫選手と私が話をしている夢をみた。今年(08年)10月27日、グランプリ第1戦スケート・アメリカが米ワシントン州で行われたが、そこで優勝を狙っていた安藤は3位に終わった。テレビのインタビューで、彼女はくやし涙を流していた。その夜私は、彼女が涙を流しながら、「社宅の雨漏りを直してくれない」と、歩きながら私に訴える夢を見たのである。私が退社時刻に会社の門を出て、他の社員達とぞろぞろバス停まで歩いている中で、安藤美姫が私に話をした夢であった。安藤は、フィギュアスケートの衣装は着ていなく、黒のスーツ姿であったが、顔は確かに安藤の特長のある顔であった。世界の舞台で活躍している彼女が、一転して庶民的な訴えをしていたのは面白かった。このような愉快な夢は大いに歓迎する。
 奇怪な夢を見ることもある。私が、丸坊主の頭で、腰が曲がった老人の姿で夢に現れた。頭と顔は、10才ぐらいの若い頃であったが、体は老人になっていた。過去と未来が一緒になって、現在の私の夢に出てきたのである。これには私はびっくりしてしまった。顔付きは確かに私の子供の頃であり、私は中学生まで頭を丸坊主にしていたので、私本人であることは間違いない。この夢は、未来の自分の姿を自分が見ていたわけである。
 私は何故腰が曲がってしまったのであろうか。庭仕事は腰を曲げてする姿勢が多い。しゃがんでする姿勢も多い。草むしりをする時、暫くしゃがんでいて、立ち上がる際、スーッと立ち上がれないことが、最近多くなった。「どっこいしょ」と言って、手を地面に付けて、手の力を借りて立ち上がらなければならない。歳を取ると、しゃがむという姿勢は難しくなるのだと、しみじみ思う。都会の若者達が、たむろしてしゃがんでいる姿をテレビでみることがあるが、以前はそれをみっともない格好だと思っていた。最近では、あのように足を180度折ってしゃがむのは、若さの証拠なのだと思いはじめた。
 腰の曲がった自分の姿を夢の中でみて、私は草むしりを腰を曲げずに、若者のようにしゃがんですることにした。夢が私の未来の姿に警告を与えたのである
                            2008.11.10
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08年の秋
 この年の秋は紅葉が一段と美しかった。夏の日照りと、初秋の濃霧と、秋の急激な冷え込みの条件が重なって、ほとんど全ての草木の葉が紅葉(あるいは黄葉)した。我が家の前にある森は、華やかに紅葉し、その明るさで我が家がすっぽり包まれたようになった。すぐ左前方にある大きな細長いモミジも、今年は珍しく橙色になった。昨年までは、この木は黄色から褐色になって落葉していたが、今年は一人前に綺麗に紅葉した。森の紅葉が始まると、妻は森の木々に向かって、「じょうずに紅葉してね」と、毎晩のように呼び掛ける。その呼びかけに樹木達は応じてくれたのだと、妻は自慢していた。
 森の紅葉は、ヤマウルシの鮮やかな紅色から始まる。10月中旬から森の近くのウルシの木が赤く染まり、段々と森の奥の日中光が届かないウルシに紅葉が移っていく。その紅葉は11月下旬まで続く。今年は、普段紅葉しない萩も黄色になり、白モクレンの大きな葉も黄色になり、すぐ落葉せずに長らく黄色の葉を付けていた。山帽子の木も赤く紅葉し、私達を喜ばせた。11月下旬のある日、強い寒気団が日本を包み、各地に雪を降らせたが、当地では冷たい北風が吹きまくった。折角の紅葉がこの北風で一度に散ってしまった。我が家の庭は落ち葉で敷き詰められたようになった。風の向きが東に移ると、森の大量の落ち葉が我が家の上空に舞って落ちてくる。その舞う枯葉を眺めていると、冬の到来を告げに来たようであった。
 矢祭町周辺の紅葉も今年は鮮やかだ。秋の風景を写真に撮りたいと思い、私はエスティマの車にデジカメを取り付けた。デジカメは、現在使わなくなってしまったキャノンのPowerShot S40である。車に取り付ける方法と、運転しながらシャッターを切る方法に工夫を要した。取付具は、自在に角度が変えられるコネクターが付いた大型のクリップを、ネット通販で購入した。シャッターは、長いレリーズを取り付ければ簡単であるが、デジカメのシャッターボタンには、レリーズを取り付けるネジがない。私は、ホームセンターに売っているL字型金具を2本買い、それを組み合わせてコの字型にして、レリーズ用のネジ穴とカメラ取り付け用の穴を開けた。レリーズは色々なタイプが市販されているが、安価な空気圧で動くものを購入した。これらをエスティマに取り付けて、試写をしに、開通したばかりの甲子トンネルへ行ってきた。助手席の妻にシャッターを押して貰ったが、空気圧を送るゴムのボールを握るのに力がいり、手がくたびれたとぼやいていた。
 遠隔操作でシャッターが押せれば楽なのだが、何故か最近のデジカメには、このような離れたカメラのシャッターを手元で押すリモコン装置は付いていない。タイマーでシャッターを切るのは、どのカメラにも付いているが、これは面倒であり、撮す人はいそがしい。テレビの操作とか、車のドアロックなど、リモコン操作は至る所に付いているが、デジカメにないのが不思議である。私が付けた遠隔操作装置は、空気圧で動くレリーズの先に、2mの細いゴムチューブがつながり、その端にゴムボールが付いたものである。このボールを強く握ると、圧がチューブを伝わり、レリーズのシリンダーが押されてシャッターが切れるという、原始的な構造である。紅葉の真っ盛りと思われる晴れたある日、私は、モミジの名所と言われる矢祭山から棚倉町の棚倉城跡を走り回って、紅葉の写真を約300枚撮った。一人で運転しながら写真が撮れるのは大変楽である。カメラを固定しているので、画面は必ず中央に道路があるのが、ちょっと不満である。撮りたい風景は往々にして道路の横に広がる。私は、左右に首を振る操作ができないものか、考えているところである。
 我が家の庭では、秋は小さな命の芽生えが発見できる季節である。庭のあちらこちらに杉や檜、茶の木、椿、モミジなどの赤ちゃんが思わぬ所に生えているのが見られる。先日妻が、身長10cmぐらいのモミジが、玄関横の金木犀の下に生えているのを見つけて、私に知らせてくれた。この小さなモミジも一人前に紅葉しているのに、二人でカワユイと笑ってしまった。前の森には多くのモミジが生えているので、そこから種が飛んできて金木犀の下に落ち着き、好条件が重なって発芽したのであろう。この場所では大きくならないので、春に植え替えようと思っている。
 杉の赤ちゃんは、方々のセメントの隙間に5、6本生えていた。大きくなると門柱とかブロック壁を壊してしまうので、抜いてしまった。春の花粉の時期には、おびただしい杉花粉が我が家にも飛んできて、風に吹き寄せられてセメントの隙間などに貯まる。杉は、その中から発芽したのであろう。庭の梅の木の下にも赤ちゃん杉を見つけた。ここは育ちやすい環境にあるし、建造物を破壊しないので、4、5年大きくなるのを見てみようと思う。高さが1mぐらいになったら、クリスマスシーズンにイルミネーションを付けて飾ろうと思っている。高さが2mになれば、梅の枝に達するので切り倒すしかない。
 コキア(ホウキギ)の芽が春に多く出てきた。昨年はコキアを植えなかったので、一昨年植えたコキアの種が土にばらまかれて、それが今年の春に発芽した。ランダムに芽が出てきたのでそれを植え替えて、一列に並べた。そのコキアが秋に赤紫に発色し、庭に華やかな彩りを呈してくれた。我が家の建物の周りは厚さ10cmのコンクリートを敷き詰めているが、夏冬の寒暖の差による伸び縮みで、コンクリートが壊れないように、厚さ1cmの板が一定間隔ではさまれている。その板が腐って土に一部還り、そこからコキアが1本芽を出して、秋に紅葉した。養分が少ないため高さ10cmにしか成長しなかった。
 近くのアスファルト道路と側溝の隙間に、毎年コスモスが咲く。秋にコスモスの種が落ちて、種が風に吹かれてアスファルトの隙間に入り込んで、春に発芽するのであろう。私はこれをみて、我が家にも幅1cmのコンクリートの隙間があるので、ここにコスモスの種を蒔こうと思った。今年、道路のコスモスが種をつくるときに、私は種を採ってきて、その隙間にばらまいて置いた。来年の春にコスモスが発芽するのを楽しみにしている。私は、隙間を利用した隙間園芸の創始者である。
 我が家には4本の柿を植えているが、今年初めて全ての柿に実が付いた。1本は完全な渋柿で、残り3本は甘柿である。東北の寒い地方では、甘柿の木でも渋が残ると言われるが、今年は完全な甘柿となった。渋柿は14個成り、皮を剥いて吊し柿として、今軒に吊している。甘柿は全部で50個ほど採れたが、そのうち20個を柿酢にするつもりである。私は、柿酢の作り方をネットで調べて、一番簡単な方法で造ることにした。柿を洗わずに軽く拭いて、へたを大きく切り取り、切った部分を下にしてガラス瓶に積み重ね、和紙で瓶の口をふさいで、それを物置の奥に放置した。6ヶ月後に柿酢ができる予定であるが、うまくできるであろうか。
 酢ができる仕組みは、柿の皮に付いた天然の菌(微生物)が柿を発酵させて酢を生成させる。その過程は複雑で、柿の糖分が発酵してアルコールになり、空気中の酸素を吸収してアルデヒドを経て酢酸になる。酢酸、つまり柿酢になれば、それ以上化学変化はしないが、柿酢にアルコールやアルデヒドがまだ残っている可能性がある。その状態で柿酢を多量に飲むと二日酔いになる。アルデヒドがどれくらい残っているか、人の感覚で分析することは難しい。柿酢が家庭で一般に作られないのは、アルデヒドの存在が不安を与えるためであろう。調味料として使うには、少量なので問題はない。
 私は柿酢を加熱処理して飲むつもりである。何度に加熱するか微妙であるが、アルデヒドは20℃で蒸発するので、60℃ぐらいに加熱してやればアルデヒドはなくなるであろう。柿酢の酢酸とアルコールの沸点は、共に77~78℃であるので、沸騰させてアルコールだけを蒸発させることはできない。アルコール入りの柿酢は、むしろ健康飲料になるかもしれない。来年の夏には、柿酢が飲めることを楽しみにしている。しかし6ヶ月後、私は、柿酢の瓶の存在を忘れてしまっているかもしれない。
                            2008.12.10
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春うらら、不況
 昨年の暮れから世の中は、サブプライムローンの破綻に始まる世界的な不況になった。日本は比較的影響が少ないと思われたが、原油の高騰から各製品の便乗値上げ、消費者の買い控えとなり、不景気に陥ってしまった。原油は、すでに暴落し、高値の1/3になっているが、各製品の値段はそのままになっている。円高で原料などの輸入品も安くなっているが、末端の製品は安くならない。ただ、ガソリン、灯油は相当下がっているので助かっている。
 日本では派遣社員、臨時社員などの非正規社員の大量解雇が社会問題になっている。政府は、その対策に迫られているが、企業の対応も求められるべきである。経団連などはそれには知らん顔をしている。企業側からすれば、パート、派遣社員は経営の安全弁として雇用しているので、景気が悪くなれば解雇するのは当然であろう。求職者はそのことを十分覚悟しておかなければならない。企業が派遣社員を多く利用しているのは、求人を電話1本で派遣会社に頼めば、派遣会社は登録の求職者から選んで企業に送り込む。企業は、求人に必要な諸経費を節約できるメリットがある。派遣会社は、電話だけで収入が得られるというメリットがある。搾取を受けているのは求職者、フリーターである。フリーターは、企業の色々なしがらみに無関係に仕事ができるので、人間関係に嫌になれば辞めればよい、という気楽さが魅力であった。就職すること、つまり生きていくことにあまりにも安易に考えていたつけが、不景気になって若い人達にまわってきたのである。
 08年の暮れにトヨタが通年で赤字決算になる、というニュースがマスコミに報道され、トヨタ社長の記者会見もあった。私は本当に赤字なのか疑問をいだいている。経理の数字はどうにでもなるし、部外者あるいは素人が決算報告書を見ても判らないのが現実であろう。アメリカのビッグ3の経営破綻が噂されている車業界で、日本のトヨタが黒字です、というのは、アメリカ社会から反発を受けることになる。そのような事情を考慮して、トヨタは自分の所も苦しい状況にあることを示したのであろう。トヨタは、過去10年以上も黒字が続いて、内部留保の資金(余剰資金)もたっぷりあるはずである。この資金を一部取り崩せば、赤字決算をしなくても済むはずであるし、派遣社員などの非正規社員の解雇もしなくても済む。今までのトヨタの利益の一部は、非正規社員による貢献もあったのであるから、彼等を冷たく解雇するのはよくない。他のカーメーカーや他業界の大企業も事情は同じと思われる。ただ、注文がへる下請け業界は苦しいであろう。
 話はがらっと変わって、私はこの矢祭町にきて、早くも7年が過ぎた。私は、住んでいる団地で、5年前から油絵の好きな人達と週一回集まって、絵を描いている。毎年11月に私達が描いた絵の作品展を団地の集会所で開いているが、作品展は今年で5回目になった。この作品展には絵の他に、陶芸、手芸、写真、園芸などの作品が展示され、毎回3日間で100人近くの人が見に来られる。昨年は私が制作した上絵付けの陶磁器を、見に来られた人に無料で差し上げるという企画をした。欲しい人が作品に名前を書いて、後で作品を渡す方法にしたが、早い者勝ちになって、不評であった。今年はオークション方式で、お金を貰って作品を渡すことにした。入札の最低金額は絵皿1枚100円以下とした。私の作品が幾らで評価されるか楽しみであった。多くの人がオークションに参加して、落札の金額も平均1枚700円になった。ご祝儀で値段を付けた人もいたようで、有り難く思っている。
 3年前の作品展には、朝日新聞、福島総局の古田真梨子記者がふらっと会場に現れた。古田さんは京都出身の若い美人記者である。当時矢祭町は合併をしない宣言などで全国的に注目を集め、根本前町長と当時の片山総務相がテレビ討論でやり合った。片山氏は岡山弁で、根本氏は福島弁で自分の主張を言い合っていたが、私は岡山で少年時代を過ごし、福島は今住んでいるので、両者の話し方のアクセントの違いが良く分かり、大変面白かった。朝日新聞は、07年正月の特集として、矢祭町を取り上げる企画をし、古田さんもネタ探しにこのニュータウンにやってきたのである。彼女は後日、ここに住んでいる人達にインタビューをして、私達の絵の教室などを取材した。シリーズ最後の07年、1月9日の福島版にニュータウンについての 彼女の記事がでた。(この記事の写真を下に添付した。)
 古田さんとはそのような関わりがあったので、私は、5回目になる昨年の作品展を見に来ないかメールをしたところ、彼女はやってきた。私は年に4、5回、陶磁器の絵付けも町の人達に教えているので、彼女は絵付けについて熱心に質問した。絵皿のオークションについても、珍しかったので頻りに話を聞いて、入札箱の開票と落札者の決定風景をメモにしたり、カメラに収めたりしていた。彼女は、このオークションを記事にするつもりで矢祭町に来たようであった。彼女も、花の絵皿5枚組に入札してくれ、それが高額であったので落札できた。このHPの「今月の陶器」に、先月から続いている、花シリーズ小皿の所有者が古田真梨子になっているのは、彼女がオークションで購入したためである。取材した記事は08年11月19日の朝日新聞福島版にカラー写真入りで報道された。(この記事の写真も下に添付した。)
 今年09年の正月は、不景気な話が世の中に満ちあふれて、憂鬱であった。政府は景気浮揚のため多額の予算を組んだ。その予算で、我が家に回ってくるお金は、定額給付金である。これは、選挙目当てのばらまきだと非難を受けているが、私にとってうれしいボーナスである。夫婦で4万円が支給されるので、さっそく近くの温泉に1泊旅行に行こうかと予定している。福島県は至る所に温泉が掘られて、各市町村で温泉を目玉にした施設を造り、住民や観光客に利用して貰っている。これは、20年前、竹下内閣が「ふるさと創生事業」という名目で、1億円を各市町村にばらまき、そのお金を使って建てた施設である。矢祭町は、温泉施設の他に、室内プールと屋外プールをつくった。1年中使えるこの室内温水プールは、人気があり、このプールを利用したいために、関東各地から矢祭町に移住した人もいる。地下から汲み上げる水はきれいで、そのため殺菌で入れる塩素の量が少なく、都会の塩素臭いプールとは違う、と好評であった。競技用の50mプールもつくり、夏に色々な競技会も開かれていた。
 20年経ったこの施設は老朽化が進み、施設の修理などが、矢祭町の財政難でできなくなり、矢祭町の目玉であった温水プールは、08年の夏に閉鎖してしまった。矢祭町は、温泉施設の横に結婚式場を兼ねたイベントホールを新設した。町の結婚式場が欲しいという若い人の声で急遽つくったが、利用者はほとんどいなく、無駄な投資になっている。この金があれば、温水プールを継続できるのではないか、という批判があったが、プールの存在価値を知らない町長達は耳を貸さないでいる。
 私達は、07年1月に白河市東部落にある、きつねうち温泉に行った。以前ここは、西白河郡東村であったが、平成の大合併で白河市に吸収合併された。きつねうち温泉は、合併前の東村時代にふるさと創生事業でつくった、村民のための温泉施設である。私達が利用した時は、夕方になると多くの人達が入浴に集まり、大広間では食事などで賑わっていた。今年行こうとしている、さつき温泉は旧東村の北に接する、西白河郡泉崎村にある。この温泉もふるさと創生事業でつくった施設で、村が直接経営している。このような施設は、20年経った今でも地域住民に恩恵を与えており、これは、竹下内閣が1億円を町村にばらまいた政治のお陰である。今回、麻生内閣は国民一人一人に金をばらまこうとしているが、このお金は後世には残らないで、あぶくのように消えるだけである。
 各地でつくった20年前の施設は老朽化しており、修理などに金が必要である。国民にばらまく金があれば、これらの施設維持の資金として町村に回して欲しい。そうすればさらに地域の人は継続して施設を利用することができる。私は、今度支給される給付金で、さつき温泉に行く予定であるが、老朽化しつつある施設を考えると、うれしい気持ちにはなれない。
                            2009.1.10
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宝くじなど
 昨年の年末ジャンボ宝くじで、私は1万円を当てた。ジャンボ宝くじは年間3回発売しているが、私は毎回必ず連番で10枚買うことにしている。買い始めて昨年で8年になるが、1万円が当たったのは2回目である。10枚の連番だから、300円が当たる当選番号下1桁は、必ず買っていることになる。私は、毎回2700円の投資をして、累計7万円ぐらいの損失になるが、そのうち2万円を当てているのが、せめてもの慰めである。宝くじ売場は、棚倉町のTUTAYAの前にあり、いつもきれいなおねえさんが座っている。10枚買うと、彼女は当たりますようにと、にこにこしてくれるので、私はありがたがって券を受け取る。今回、1万円の当たり券を持っていくと、おめでとうございますと、現金を渡してくれた。
 ジャンボ宝くじの他に、私はtotoくじを買ったことがあった。totoはサッカーくじといわれ、スポーツ振興のために売り出した公認のトトカルチョである。Jリーグのホームチームの勝ち負けを当てるものであるが、素人には予想が難しい。素人のために、コンピュータで勝ち負けを割り出して、その数字を売る方式があり、私はそれを買っていた。券を買うには、toto会員に登録しなければならないが、インターネットの銀行口座を持っていれば買うことができる。私はイーバンク銀行に口座を持ているので、過去3回買ってみた。1枚200円券を10枚買う場合、買う枚数を画面に入力して、OKをクリックするだけで、銀行口座から2000円が引き落とされる。サッカー試合が終わった後、当たりの結果が出されるが、買った券が当たったかどうかを調べる方法が不明であった。当たれば賞金が私の口座に振り込まれる仕組みになっている。今まで一度も振り込まれていなかったので、当たらなかったのであろう。
 ジャンボくじのように手元に券があって、新聞に発表される当選の数字を見ながら当たりを調べるという、わくわくした気持ちは、このtotoくじにはない。あまりにも味気ないので、私はtotoを買うのをやめにした。ジャンボくじは、10枚連番で買えば必ず300円は当たる。換金が面倒だからその券を捨てるというのは、もったいないので、私は宝くじ売場に300円を貰いに行く。そうすると、売場のきれいなお姉さんの顔が見られ、何だか宝くじに親しみを感じるのである。町を走っている宝くじ号と書いた車を時折見かけるが、私が投入したお金がこの車に使われているのだ、と思うとますます親近感をもつ。
 私は時折、買い物などの理由をつけて東京に行く。毎年1月の第2週はテニススクールが休みになるので、この機を利用して上京することが多い。大学の同期生である松田氏と徳永氏に、毎年この時期に会うことにしている。今年は徳永氏が入院しているので、松田氏とだけ会った。関西には多くの同期生はいるが、関東は少なく、東京、横浜に限れば、2人しかいない。私達は毎年新橋の居酒屋で飲むことにしているが、今年は2人だけで寂しかった。松田氏は弁理士で、共同で新橋に特許事務所を持っている。現在もその事務所で仕事をしている現役である。一方、私は退職してから約10年間仕事をせず、年金で暮らしている。彼はこの私を、羨ましく思っているか、退屈な余生を送っている凡人だと思っているか、わからない。飲み屋の飲み代は裕福な松田氏が毎回支払ってくれるので、私は大いに感謝している。
 彼に毎回負担をかけるのは申し訳ないと思い、昨年の1月に、私は大相撲初場所の枡席を買い、松田氏と徳永氏を招待した。私は大相撲を一度も見たことがなかったので、一度見たいと思い、インターネットで手続きをして枡席券を入手した。向こう正面の6番A席を45000円で購入した。枡席は4人席であるが、実際座ってみると4人は窮屈である。酒、つまみを置くので、3人でもゆとりのない広さである。この席は、江戸時代の体格を基準にした広さであろうが、今ではこの広さは通用しない。6番の枡席は土俵から15m位の距離で、力士が左右の通路を通り、口を濯ぎ、四股を踏む所作がよく見える。テレビの画面では、力士が塩を撒く前の映像で、後ろの観客席も映るが、6番席は丁度見えない所にある。横に座っていた女性達が、携帯電話を片手に手を挙げてテレビカメラに合図を送っていたが、その顔は残念ながらテレビに映っていないであろう。
 席までは茶屋の案内人が案内してくれ、酒などの注文を取りに来る。弁当、つまみ、酒などがセットになった3200円の「梅セット」を3人分購入した。この代金は松田氏が支払ってくれた。相撲は6時に終わり、このままでは物足りないので、両国駅近くの居酒屋、「花の舞」でちゃんこ鍋を囲んで乾杯した。この付近一帯の居酒屋は、相撲一色のムードで建物、内装がデザインされ、客に大相撲の興奮を持続させ、大いに飲んで貰おうという商魂がうかがわれる。事実、周りにいる客は4、5人以上のグループばかりで、力士の話で盛り上がっていた。この居酒屋での飲み代は7000円で、徳永氏が払った。私が日頃のお返しのつもりで2人を招待した大相撲観戦の会であったが、彼等にも散財させて、迷惑をかけてしまった。
 今年松田氏と会った翌日、私は横浜美術館で開かれていたセザンヌ主義という企画展を見に行った。私は、フランスに旅行したとき、セザンヌのアトリエを見学し、絵の制作現場跡を見、彼が描いた静物の置物などを見てきた。今回、セザンヌが描いた油絵の中の置物をみて、私は懐かしく思った。また、彼が好んで描いたアトリエ付近から見えるサント・ヴィクトワール山を、私は現地で見てきた。セザンヌが描いたその山の絵を私は一度も見たことがなかった。今回この企画展で、その山が描かれている絵を数点見ることができた。後日、自宅に戻り、フランスで撮った写真のサント・ヴィクトワール山を見てみた。その写真の山は、プロバンスの荒涼とした岩山であり、セザンヌが描いたその山も荒っぽいタッチで、その雰囲気がよくでていたような気がした。
 昨年の暮れ、私は、NHKテレビでアニメ映画「崖の上のポニョ」の音楽を聴いた。この映画は、08年7月に公開され、ヴェネツィア国際映画祭で受賞されるか、という前評判であったが、賞を逃した。映画の音楽は久石 譲が担当し、そのNHKテレビでは彼が大編成のオーケストラを指揮し、映画で作曲した音楽を演奏した。これを見て(聴いて)、私はその音楽のダイナミックな迫力に感動し、映画そのものを見てみたいと思った。この映画は、公開後半年になるので、上映している映画館は少なく、インターネットで調べて、渋谷の「ヒューマントラストシネマ文化村通り」という変わった名前の映画館で上映していることが判った。今年1月、私は上京した序でに、この映画を見ることにした。映画館は、判りにくい所にあったが、人にその場所を聞いて見つけることができた。
 その映画館は、小さなビルの4階にあり、客席が120の小さな映画館である。観客は私を含めて3人であった。私は前の方に座り、映画音楽を楽しもうと思ったが、スピーカーから出る音が割れて期待はずれであった。しかし、私は、音質の悪さをすっかり忘れて、大きな画面の迫力に見とれてしまった。画面がきれいであり、周りに誰もいなかったので、私はデジカメでこっそり20枚ほど画面を撮した。ストーリーは、海沿いの町を舞台に、「人間になりたい」と願う子供の金魚「ポニョ」と、5歳の少年「宗介」の物語である。宮崎駿監督が瀬戸内の崖の上の一軒家を借りて、想を練ったというだけあって、瀬戸内の雰囲気がよく出ていた。子供向けの映画であるので、絵の表現も、言葉も、登場人物もはっきりして判りやすかった。高齢者の私には、複雑な感情あるいは映像が入り乱れる大人向けの映画より、子供向けのアニメの方が楽しめる。このアニメを見て、私は次第に自分の頭が幼児化しているのではないかと心配になった。
 このアニメは、場面場面の内容は明快であるが、話の流れが時折飛んでしまって、理解に苦しむところがあった。宮崎駿監督は、あえてストーリーを起承転結にしなかった、と述べていた。この映画がヴェネツィア国際映画祭で受賞できなかったのは、外国人がストーリーの裏の流れを理解できなかったためであろう。
                            2009.2.10
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デジカメ
 今年(09年)1月に、私はデジカメを買い換えた。デジカメはこれで5台目である。1台目はオリンパス、2台目はキャノンのパワーショット、3台目は妻専用のカシオ、4台目はリコー、そして今回の5台目はパナソニックである。1台目を買ったのは1999年の春であるから、丁度10年前になり、10年間で5台のデジカメを買ったことになる。その間のデジカメの性能は飛躍的に進歩したが、私にとって不必要な機能がやたらと多くなっている。リコーのデジカメは大変気に入って、これで当分は買い換える必要はないだろうと思っていたが、カメラの映像に不具合が発生して、替えてしまった。
 リコーデジカメ(Caplio R4)は06年1月に購入した。当時そのカメラで撮った写真の映像は、きれいで問題はなかったが、1年後急に映像の中に薄黒い糸状の影が入るようになった。人物の写真や、曇り空の風景写真には、そのような糸状の影ははっきり見えないので気にならなかったが、風景写真の青空にその影がはっきり目に付くようになった。私は、気になり出したら落ち着かなくなる性質なので、メーカーに問い合わせて修理できないか依頼した。メーカーは、撮影素子CCDにゴミが付着し、これを取り除くのに1.8万円必要である、どうするか、という診断であった。1.8万円はデジカメが1台買える値段である。馬鹿馬鹿しいから修理は止めにして貰った。診断費用千円を取られた。
 最近のデジカメは、不必要なソフトの機能が多く付き、普通の人はこれらの機能をほとんど使っていないであろう。例えば、オートホワイトバランス、顔認識、追尾オートフォーカス、赤目軽減、美肌効果など、おそらく50種類以上の機能が付いている。機能の多さがセールスポイントになっているようで、私にとってこれらは邪魔な機能である。手ぶれ防止とか、オートフォーカスなどのハードの機能は有り難い存在である。デジカメのサイズも10年前に比べると相当に小さくなり、重さも軽くなった。電池の可使時間も大幅に増えた。私は、デジカメにネックストラップを付けて、首からぶら下げて使用することにしている。撮さない時は、デジカメを胸ポケットに入れておく。デジカメをそのような持ち運び方をしていたので、衣類の繊維くずがデジカメの中に入り込んで、画面に糸状の影が発生したのであろう。メーカーがデジカメに色々な機能を付けるのは勝手だが、基本的な性能である防塵性を重要視して貰いたいものだ。
 5台目のデジカメは、パナソニックのDMC-FX150である。このデジカメは、リコーよりさらに小さくなっているので、当然私は胸ポケットに入れて持ち運ぶ。パナソニックの仕様には防塵性の表示はないので、1年後には糸状の影が映像に現れるかも知れない。リコーの前のキャノンとかオリンパスは、胸ポケットに入らない大きさであったので、このような不具合は生じていない。パナソニックFX150は画素数が1500万である。前のリコーは600万画素であった。600万でも十分な解像が得られていたが、折角新しく買うのだから、現在のコンデジ(コンパクトデジカメの略)の中で最も高い画素数を持つこの機種を選んだ。しかし、撮った写真を見比べてみても、600万と1500万の差は私には判らなかった。
 リコーデジカメで気に入っていたのは、画面に撮影した日時が記録されることである。特に長期の旅行で2000枚ぐらいの写真を撮って、後で撮した写真を見るとき、その写真が何時何分に撮ったか、すぐ判るのが便利であった。今度のパナソニックにはこの機能はなく、必要なら後処理で画面に日時を焼き入れる方式にしてある。2000枚の写真を1枚1枚焼き入れするのは、不可能に近い。パソコンの画面には画面下に日時などのデータが表示されるが、スライドショーで写真を見る場合、その表示が消えるので、不便である。一方、パナソニックで気に入っているのは、マニュアル撮影ができることである。本格的なマニュアルではないが、絞りが2段階に設定でき、それぞれに露出が設定できることである。撮そうとしている画面に、露出計が表示されるので、好みの映像を作ることができる。一眼レフカメラの面白さが体験できる。
 私はインターネットで買い物をよくする。パナソニックFX150の値段がネット市場で表示されているので、それを参考にした。この機種の最安値は、送料無料で2.8万円であった。ヨドバシカメラのウェブショップでは、3.4万円になっていて、20%のポイントが付くと示されていた。実質2.7万円になるので、ヨドバシカメラで買うことにした。デジカメには予備のバッテリーが不可欠である。このバッテリーの値段は、どのメーカーもべらぼうに高く設定し、値引きもほとんどしないという消費者の弱みを突いた設定であり、私は何時も腹だたしい思いをしている。ヨドバシではこのバッテリーを6千円で売っていた。1月に東京に行った時、私は秋葉原のヨドバシカメラへ行き、このデジカメを買い、バッテリーをポイントを使って購入した。両方でウェブショップの最安値より千円安く購入でき、私は満足した。
 秋葉原は東京に行ったとき、必ず行く街である。これはサラリーマン時代からの、東京出張の際の習慣であった。今回も秋葉原周辺のジャンク街を回って楽しんだ。パナソニックFX150用の記録メディアは、SDカードの他にSDHCカードが使える。SDカードは容量2GBまでしか市販されていないが、SDHCは32GBまで市販されている。私は、秋葉原のジャンク街で4GBと8GBのSDHCカード(トランセンド製)を買った。8GBは1枚1600円で、記録画素数3072×2048のファイン品質で2500枚の写真が撮れる。これ一枚あれば、2週間の海外旅行では十分足りる。また、秋葉原で必ず行くところは、駅から少し離れているが、秋月電子とハルツパーツ館である。ここは電子部品が多く揃えてあり、インターネットでも部品が売られているので、予めネットで調べて、この店で買うようにしている。今回はLEDとか小型ソーラーパネルなどを買った。
 私が外出するとき必ず持っていく物は、デジカメ、デジタルオーディオプレーヤー、ニンテンドーDS、携帯電話である。携帯電話は、KDDIのプリペイド型を6年前から愛用している。これは普段全く使わないので、電源は切ったままにして、使うときに電源を入れて通話する。送る相手もいないので、カメラもメール機能もない、最もシンプルな携帯電話である。わたし用と妻用の2台持っていて、東京などへ外出するときは電源を入れておき、妻がデパートへ、私が秋葉原へ行くとき、連絡用に使うことがある。その他は全く通話しないので、1年間2万円(2台分)のプリペイドカード料はほとんど使用しない。もったいないから、私は自宅から通話するとき、固定電話でなく、携帯を極力使うようにしている。そのように努力しても、2人で年1万円は捨てている。年2万円は、安心料あるいは保険だと割り切っている。私にとって携帯電話は、私用公衆電話である。
 ニンテンドーDSは携帯型ゲーム機であるが、私は、任天堂DS文学全集というソフトを購入して、全集を読んでいる。そのソフトには100冊の日本文学が入っていて、ホテルなどで暇なとき読むことにしている。DSで読書するメリットは、重くないDSを片手でもって、片手でページめくりができることである。だから普段家の中では、寝る前に必ずDSで読書する。寒いとき布団の中から片手だけ出して名作が読めるので、私のような横着者にとって、DSは好都合な機械である。印刷物を読むとき、明るくしないと読みづらいが、DSはバックライトであるから、周りが暗くてもハッキリ字が読める。むしろ周りが少しくらい方が読みやすいのである。100冊の本には、版権が切れた夏目漱石、森鴎外など有名な小説が収められて、私はそのうち、すでに40冊の本を読破した。この文学全集については、別の機会に述べてみたい。
                            2009.3.10
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09年、春の庭

 我が家の庭で春一番に咲く花は、黄色のクロッカスである。クロッカスは、冬の寒さを耐えて私達に春の到来をいち早く告げる花である。緑のない枯葉色の周囲に、土の中から小さな黄色の花が可愛く出てくる。クロッカスは一週間位の間、日が当たると花びらが開き、暗くなるとしぼむという動きを繰り返す。今年はヒヨドリがやってきて、この黄色い花びらを食いちぎって、食べてしまった。早春の自然にはヒヨドリの食べ物が少ないのであろうか。追っ払うのも可哀想だから、そのままにしておいた。クロッカスは、来春のため小さな葉から栄養を球根に蓄え、地表からまもなく消えてしまう。
 クロッカスの次に咲くのがスイセンである。我が家には3種類のスイセンがあり、これらは、房咲きスイセン、ラッパスイセン(日本水仙)、口紅スイセンの順に咲く。日本水仙は香りが強く、切り花にして部屋にいけておくと、部屋中がその香りに包まれる。房咲きスイセンは繁殖力が強く、球根が増えるので、球根を分割して植え替えている。そこら一帯にスイセンが咲き、黄色の花で賑やかになる。このスイセンは、夏までに葉が枯れて地表から消えてしまうので、柴桜などと同じ場所に生息させることができる。これらのスイセンより少し遅れて咲くのが、口紅スイセンである。中央の房が口紅のように赤色になり、華やかである。
 8年の間、庭造りをしていると、新たに植える樹木のスペースがなくなった。夏に華やかに咲くムクゲは、この地方では庭に多く植えられ、種類も多い。ムクゲは、害虫に強く、成長が速く、手間がかからない。我が家にも白系のムクゲを3本、早くから植えていたが、赤系の花が咲くムクゲが欲しくなり、昨年の秋に新たに苗を2本植えた。1本は、リンゴの木の横に、もう1本は、フェンスの外の柿と桜の間に植えた。ここにはキンカンの木を植えていたが、日当たりが悪く生育が遅いので、それを引き抜いて植え替えた。リンゴとサクランボは、何度も繰り返し新しい苗を植えたが、その都度害虫に犯され、木が枯れてしまうので、育てるのをあきらめた。リンゴは、1本だけ生き残っているが、1本では結実しないので、近い内に引き抜かれる運命にある。
 昨年の秋に知人からユズの実を多く頂いた。ユズ湯にして香りを楽しみ、残りをユズジャムにした。このジャムが意外に美味しかったので、自宅でもユズの木を植えて、実を収穫したくなった。矢祭町は、ユズの木が多く植えられ、ユズシャーベットやユズジャムなどを特産品として売り出している。ユズは、柑橘系の樹木で、温暖な気候で育ち、冬のマイナス5℃以下では育てるのに難しいとされている。恐らく福島県がユズの北限であろう。我が家の一番暖かい場所は、敷地南を流れる沢水の横の町有地である。ここは敷地より一段と低くなっているので、北風が直接当たらない場所である。私は、ここに2年物のユズの苗をネットで購入して植えた。ユズの実は結実するのに5、6年かかるというので、気長に待たねばならない。
 敷地南に流れる沢の水路は、我が家の敷地から2~5m離れている。その間の土地は町の所有地であるが、町民が自由に管理、使用できる。その水路から敷地までの高低差が2mぐらいあるので、私は5年前に斜面の中央に幅60cmの通路を造った。傾斜地を削って、土が崩れないように木の板で段差を作るようにした。5年後、土を支えていた木は腐り、土が崩れ始め、通路が傾いてしまった。これを、昨年の暮れから木を使わない素材で改修し始めた。これは、ブロックと飾りセメント板で作っているので、おそらく10年以上は耐えるであろう。3月末に完成した。
 使用した飾りセメント板は、40×20×5cmの小石とセメントからできている板で、1枚100円でホームセンターで売っていた。この飾りセメント板は、破砕石をセメントで固めたもので、灰色と薄い赤色の2種類ある。普通の加工したセメント板は、これくらいのサイズであれば、通常300円はするが、100円で売られていた。あまりにも安いので、何回かに分けて200枚買ってしまった。我が家の庭は多くの区画に分け、区画の間は通路にしている。その通路が土だけだと、雨上がりなどにぬかるむので、踏み物を置く必要がある。5年前、木の板で作った敷板は、すぐ腐ってぼろぼろになった。これらの敷板を、この飾りセメント板に変えるために、こんなに多く買ったのである。
 田植えが始まるこの時期、地方のホームセンターでは都会で売っていない資材を売っている。その一つが、厚さ0.5mm、幅35cm、長さ50mの塩ビ薄板である。これを1巻き2000円で売っているので、私は購入した。これは、本来は田圃のあぜ道に埋め込み、水が漏れないようにするための材料である。従ってホームセンターでは3月、4月にしか売っていなく、この時期を逃すと、1年待たなければならない。私はこれを庭の通路に敷き、その上に踏み板などを置く。そうすると、少しでも雑草が生えてくるのを抑えることができる。また、木の板にこの塩ビ薄板を貼付て、土が直接当たらないようにすると、木の腐食を防止できる。私はこの農業資材を重宝して使っている。
 毎年3月になると、家の中に潜んでいた、かめ虫とテントウ虫が姿を現す。彼等は、厳しい冬の寒さから身を守るため、人の家に入り込む。我が家はサッシを2重にしており、どこから家に入り込むか判らないが、彼等は50匹ぐらい、毎年我が家で越冬する。入るときは勝手に入って、人目に付かないところに潜んでいるが、春になるとぞろぞろ出てきて、そこらをうろうろする。彼等は、入ってきたルートをすっかり忘れて、自力では外に出られないようである。私達は出てきた彼等を外に出してやらなければならない。テントウ虫は手でつまんで出せるが、かめ虫は手でつまむと嫌な臭いを出すので、いつも困っている。かめ虫を刺激しないで捕獲し、生きたまま外に出してやる簡単な器具はないものか。あればすぐにでも購入して使いたい。
 私は毎朝クラシック音楽のCDを聴いている。デンオンのCDプレーヤーと、オンキョウのアンプで楽しんでいるが、先日音楽が途中で音飛びをした。それは、昔のLPプレーヤーの針が飛んだ音の感じであった。これらの装置は4、5年経っているので、故障してしまったのかと考えた。翌日、音楽のCD盤をセットするため、装置を開けると、そこにかめ虫がいた。音の乱れは、かめ虫が原因であったのだ。かめ虫は何故この装置に入って来たのか。プレーヤーケースの底にある隙間を見つけて、そこから入ったようである。CDをプレイにすると、CDは高速で回転する。どこかにつかまっていたかめ虫は、この回転するCDの上に落ちて、音楽を乱したのであろう。私は、毎日この装置にスイッチを入れるので、装置は暖められる。かめ虫はこれに目をつけたのである。私は、CDプレーヤーの故障でないことが判って、安心した。
 3月はウグイスの鳴き声が方々から聞こえてくる。昨年の初秋、私は敷地の4mぐらい先の枯れ木に、ウグイスが止まって頻りに鳴いている姿を、初めてみて感激した。今年は、我が家の梅の木にウグイスがやってきたのである。横浜の家では、近くに自然が少なかったので、庭の梅に頻繁にウグイスがやってきた。ここ矢祭では、自然に囲まれているので、我が家までウグイスがくることはないと、私はあきらめていた。8年目の今年、私はその姿を近くに見ることができた。ウグイスは、体の鶯色でメジロと間違われやすい。私は、梅の木をあちこち動き回るウグイスの姿を、2階からしっかり見て、体の鶯色が灰色がかかっていることや、目の周りが白くないことで、ウグイスと判断できた。何より、そのウグイスは、飛び去る前に「ホケキョ」と一声鳴いたので、ハッキリそれと証明された。このウグイスは、私の疑いを察して、一声鳴き残して、行ってしまったのであろう。
                            2009.4.10
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大子温泉
 茨城県大子町は、茨城県の最北端にあり、福島県矢祭町の隣に接している。矢祭町は、福島県の最南端にあり、大子町とは久慈川沿いの国道118号でつながっている。矢祭町から大子町までは、山間の小さな部落を数カ所通り抜けて行く。車で15分の距離である。茨城県は、福島県に比べると、温泉地は極めて少ない。その中で大子町には多くの温泉地がある。大子温泉、袋田温泉、塩ノ沢温泉、関所の湯、月居温泉、浅川温泉などが、一つの町にある。隣町の矢祭には地下深くから汲み上げた温泉しかない。大子町の温泉も、豊富な湯量で自噴している温泉はない。
 大子温泉は、町の市街地に散在する温泉施設の総称であり、やみぞ温泉、森の温泉、奥久慈温泉など、施設により名前が付けられている。私達は、これらの温泉に行ったことがあり、特にやみぞ温泉には毎週のように行く。月曜日午後5時頃、やみぞ温泉に入りに行くのが、私達の習慣になった。この温泉施設の正式の名称は、心やすらぐ公共の宿 「余暇活用センターやみぞ」である。この施設は、温泉の他、グランドゴルフ場、体育館、宿泊施設、会議場などがあるが、月曜日はほとんど利用されていなく、閑散としている。温泉も何時も一人か二人の利用客しかいなく、のんびり入浴を楽しむことができるので、私達は大変気に入っている。
 温泉は、芒硝泉といって、無臭透明な湯で、特徴のない温泉である。公共の施設らしく、衛生管理には十分注意していると、張り紙に書いている。地下から温泉を汲み上げ、普通の地下水と混ぜて加温し、浴槽のお湯は循環していることも明記している。温泉棟の浴室には、ドイツ人陶芸家 ゲルト・クナッパー氏の陶壁が、女風呂と男風呂両方に飾られている。ゲルト・クナッパー氏は、大子町の太郎坂という所に窯を開き、陶器を制作している大子町の誇る有名人である。花瓶などの置物の作品が多いが、建物にはめ込む陶壁も色々なところにある。矢祭町にも、個人病院である金澤医院に彼が制作した陶壁がある。
 金澤医院の玄関を入り、右に曲がった小さなホールに、クナッパー氏の陶壁が飾られている。この陶壁は、40cm角ぐらいの陶板を横に10枚、縦に5枚つなぎ合わせた、大きな作品である。どのような経緯で金澤医師が購入されたか判らないが、すばらしい作品である。このホールは廊下兼用になっていて、作品のある壁の正面は薬局になっている。ホールの明るさは、薬局の小さな窓からの光だけであるから、やや暗い。クナッパー氏の作品は、陶土の特徴を出した地味な色合いである。だから、この大きな作品は壁に沈んだ感じになっていた。もっと明るい場所を選んで設置して欲しかった。
 クナッパー氏が制作した陶壁は、大子町の袋田の滝に近いトンネルの入口にも、はめ込まれている。ここは誰でも自由に鑑賞できるが、車で通るので気付く人もいないし、知っている人もあっという間に通り過ぎるので、見過ごすことが多い。トンネルの出入口2ヶ所は全体がレンガで造られているが、彼の作品は、横に波形の模様で張り付けられている。個々の陶板は青色と薄茶色のツートンカラーである。出入口の左上には大きな円形の渦巻き模様の陶板がはめ込まれ、彼のシンボルマークになっている。彼は、島岡達三氏の援助で益子で修行し、 益子に築窯したことがあって、作品は益子焼の印象がある。ダイナミックで彫刻的な形態をしており、派手さはないが、手で触りたいような親しみ感がある。
 私がクナッパー氏を知ったのは、やみぞ温泉の休憩室に置いてある彼の作品集を見た時である。毎週入っている浴室の壁に、彼の作品が飾られていた事を知って、私は改めてその作品を見るようになった。都会の銭湯の富士山のペンキ絵とは違って、彼の作品は量感と躍動感があってすばらしい。お湯につかって著名な芸術作品を鑑賞できるのは、贅沢なことである。クナッパー氏は大子町の太郎坂という所に住んでいるので、どのようなところか一度訪問してみたいと思っている。(文末に彼の陶壁作品を写真で紹介した。)
 大子町一帯を奥久慈という。関東平野にある茨城県は高い山はないが、北端には山が迫っていて、その山の中に大子町がある。町は、久慈川沿いに盆地のような地形の中にあり、茨城県の文化とは隔離された感じになっている。大子町は、町を通る国道にバイパスを造り、その沿線をショッピングセンターとして、多くの大型店を誘致した。周辺には大型商業施設が全くないので、このショッピングセンターへ多くの買い物客が集まり、繁盛している。隣の矢祭町は大型店がないので、車で15分の距離であるが、大子町へ買い物に行く人が多いようである。私も週に2回往復している。あらゆる種類の商店が集まっているが、本屋はない。パチンコ屋は3軒あったが、1軒つぶれて現在は2軒である。
 大子町の人口は以前は4万人もいたが、現在は2万人に減っている。この人口でパチンコ屋2軒は採算が合う数字であるのか、私には判らないが、繁盛しているようで、毎日のように折り込みの派手なチラシが新聞に入っている。我が町の矢祭は、人口7千人であるが、パチンコ屋は2軒もある。私はパチンコ屋にここ20年入ったことがないので、そのマシーンの移り変わりは知らないが、チラシ広告を見ていると、ゲーム感覚でギャンブルを楽しませるようである。矢祭のパチンコ屋は2軒とも規模は小さく、細々と経営しているようである。大子町も同じであるが、真昼からそれらの駐車場には車が多く止められており、パチンコの人気は衰えていないようである。
 国道沿いのショッピングセンターに対して、久慈川反対側の大子旧市街地は道が狭く、個人商店が点在している。車が簡単に入れないので、買い物客はあまり歩いていない。このままではこの地域は衰退の一途をたどるという危機感から、大子町商工会が「中心市街地活性化事業委員会」をつくり、色々なイベントを行っている。その一つに、旧市街地全体を100円ショップにしようというので、4月25日、一日だけ各店に100円の品物を店先に並べる企画をした。その成果は判らないが、面白いアイデアである。ダイソーの100円ショップは建物の中にぎっしり品物を並べているので、あまり歩かずに物色できるが、町企画の100円ショップは、店から店へ50mぐらい歩いて行かなければならない。客は、店を歩き回わるよい運動になる。
 大子町には袋田の滝という滝が、全国的に知られている。4、5年前までは毎年冬にその滝が寒さのため凍結し、それが冬の風物詩としてマスコミで全国に報道されていた。大子の北の福島県にも多くの滝があるが、どこも凍結しない。何故袋田の滝だけが凍結するのであろうか。私の推測ではあるが、西の先にある那須連山から太平洋へ降りてくる冷気の通り道にこの滝があり、滝が局地的に冷やされ凍結するのではないか、と思っている。ここ2、3年はこの滝の凍結はなくなってしまったが、今年滝の一部が凍結した。
 また冬には、大子町を流れる久慈川に、「しが」という氷の塊が上流から流れてくる。今年の冬に一度「しが」が流れて、土地の新聞に報道された。この「しが」の発生地は、久慈川上流に位置する矢祭町である。矢祭町の久慈川で、水の流れがよどんだ所で、気温がマイナス10℃ぐらいになると、川の水が氷結し、あふれた氷が流れに押されて大子町へ行く。昔はこの氷結した塊が多く、氷の河のようであったので、土地の人はこれを氷河(ひょうが)といい、これが訛って「しが」になったのであろう。この「しが」の発生も最近少なくなり、昨年は一度も見られなかった。これも地球温暖化の現れであろう。
                            2009.5.10
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奥能登の旅1
 私達は、4月19日、阪急旅行社が主催する2泊3日の「奥能登の旅」というツアーに参加した。19日の集合時刻が東京駅7時10分で、帰着が21日夜8時20分であったので、私達は、東京に前後泊することになり、4泊5日の旅になった。このツアーは、関東地域の人のためのツアーであるが、この地域に住んでいる人でも朝7時の集合はきついであろう。当日の参加者は38名であった。阪急が主催する他のツアーもこの時刻に集合していたので、指定された東京八重洲北口は多くの人でごった返していた。ほとんどの人が60歳以上で、リュックを背負い、帽子を被るというハイキング姿であった。
 このツアーは、参加者は50才以上限定で、往復新幹線はグリーン車を使い、一人5万円の料金である。私は、新幹線のグリーン車には乗ったことがなく、また能登の先端まで行ったことがなく、しかも5万円の料金で行けるというので、楽しみにしていた。行きは、MAXとき307号で7時48分に出発し、長岡駅に9時27分に着いた。そこからバスで富山県を通り、石川県の和倉温泉まで、バスは320km走った。途中、富山市駅前の観光ビルで、越中おわら民謡ショーを見学した。ショーは、地元の「風の会」という、おわら節の保存会が出演して、踊りを披露した。私は、この踊りをパナソニックデジカメでビデオ撮影してみた。デジカメでビデオを撮影したのは初めてであったので、映り具合はどうか、興味があった。帰宅してその40秒間のビデオを見ると、動きがスムースで、映像もクリアーであった。これならあの大きなビデオカメラは必要でなく、胸ポケットに入るデジカメで十分ビデオ撮影ができると感じた。
 その日の4時半ごろ、石川県七尾市、和倉温泉の「のと楽」というホテルに着いた。このホテルは、和倉温泉街の外れにあるが、スケールの大きなホテルである。本館と能登倶楽部という別館があり、私達ツアー客は別館の方に泊まった。この別館は、団体客専用のようであるが、部屋の間取りが大きく、外国のホテルのようにゆったりしている。リビングにソファーとテレビがあり、隣のベッドルームにもテレビを置き、バスルームには大型のバスタブがあり、トイレは別にある。テラスには、テーブルとイスが置いてあり、リゾート地のホテルのようである。ここに2日目も泊まることになるので、ゆっくりできる。温泉は本館にあるが、そこへ行くのに歩いて5分ぐらいかかる。別館から結婚式場のある建物を通り、屋根付きの通路で敷地内の道路を渡り、本館の2階の大浴場に行くのに、エレベーターを2回乗り換える。通路を直線でなく、わざと曲げて造っているので、大浴場まで行くのに、一度では道順を憶えられないくらい複雑であった。
 和倉温泉に来る途中、バスからこの地方の民家を眺めていたが、どの家もスケールが大きい。ガイドに言わせれば、一戸当たりの建坪は普通100坪であるという。冠婚葬祭は全て自宅で行い、親戚を招いて宴会をするため、家の中央に大広間を造る必要がある。そのため、必然的に大きな家となる。能登半島の民家の特徴は玄関に風雪除けのよしずのバリヤーが造られている。北西側に玄関がある家はこれがないと、強風のため戸が開けられない。
 また屋根の瓦が黒光りをしているのがよく目立つ。これは瓦に特殊な処理をして雪害から瓦の寿命を延ばすためだと言われている。この処理をすると、10年ぐらい長持ちするという。どのような処理をしているのか、ガイドは説明しなかったが、多分ウレタン塗料を塗っているのであろう。ウレタン塗料は耐候性が優れ、光沢があるのを、私は昔の職業柄知っていた。
 ツアーの2日目は、バスで能登半島を一周して、元の和倉温泉に戻る行程である。最初、輪島市の朝市と輪島塗の工房の見学をした。朝市には10時頃着いた。バスの駐車場にはツアー客のバスが10台ぐらい留まっていた。そこから少し歩いた河井本町通りに朝市が開かれている。この通りは普通の商店街であるが、近在の主婦が店の前にテントを張って商売をしており、その場所決めも代々続いている。商店街の商店主は主婦に店前を無償で提供しているが、多くの客を呼ぶので、商店主も利益を受けている。朝市は午前中までであるが、テントを撤去したあとの商店街は恐らくひっそりしているであろう。そんな風景を私は見てみたい。
 売っている人は、農家の主婦や漁師の主婦であるが、80才近いおばあさんが朝市から少し離れた道路脇の溝の上で物を売っていた。1m四方のシートの上に、海岸で拾ってきた小石を並べ、一山100円で売っていた。自分で作ったと思われる小さな人形や、「アテ」の葉なども置いている。「アテ」はあすなろの木で、石川県の県木になっている。特に奥能登地域に多く繁殖している。この葉を財布の中に入れておくと、お金が増えると言われる。木の葉を5、6枝、束にして、500円でおばあさんは売っていた。バスガイドがこの葉を買ってきて、バスの中で私達に配ってくれた。私もそのかけらを財布に入れているが、まだその御利益を受けていない。
 あすなろの木は、漢字で翌檜と書き、翌日(あした)は檜(ヒノキ)になりたいということから名前が付けられた。あすなろは、幹が曲がりくねって木材の用途としてはヒノキより重宝されないので、くやしがって自分もヒノキになって皆の役に立ちたいと思った。この葉を財布に入れておけば、千円札がより価値の高い1万円札になるのだというので、輪島の朝市でもこの葉が売られている。何も知らない人が何故こんな葉を売っているのか、不思議に思うであろう。あすなろは別名、檜葉(ひば)ともいう。
 輪島の朝市では海産物の売り物が多い。生の魚もあるが、土産物として魚の干物が多い。このツアー客の中に、朝市を目当てに参加した人がいて、彼等は買い物袋を一杯抱えて満足そうにバスに戻ってきた。私達は、魚の干物は臭いし、自宅まであと3日もあるので、乾燥ワカメを1袋500円で買っただけであった。このワカメの産地は舳倉島である。この島は、能登半島の北50kmにある小さな島で、海女の基地といわれ、夏には輪島から多くの海女が漁に行く。後日、土産に買ってきたこの乾燥ワカメを水で戻し、サラダにして食べたが、気のせいか大変美味しかった。
 私達のバスは輪島を後にして、能登半島の西側の日本海(外浦という)沿いを通る、国道249号を北上した。途中、白米(しろよね)の千枚田を見学した。国道の上から海に向かって下る傾斜地に、千枚の田圃が段々になって造られている景色は絶景である。06年、当時の小泉首相が、これは絶景だ、と言ったそうであるが、彼が改めて言わなくても絶景である。実際の田圃の数は2000以上あるという。税務署の役人が税を取るため、丁寧に数えたそうである。
 バスは能登半島の最北端の狼煙(のろし)についた。ここには、明治時代にイギリス人設計士により作られた禄剛崎灯台(狼煙灯台)がある。バスの駐車場から上り坂を20分歩いた所にこの灯台がある。晴れた日にはここから立山連峰や佐渡島が見えるというが、当日はもやがかかって見えなかった。能登半島もこの先端まで来る観光客は少ない、とバスガイドは自慢していたが、確かにわざわざここまで来る人は少ないであろう。
 私達は、半島の東側の日本海(内浦という)沿いに南下し、見附島(軍艦島)を見て、のと鉄道の能登鹿島駅からローカル列車に乗って、和倉温泉のホテルに5時に着いた。年寄りにとって、早めのホテル帰着は何よりも有り難い。
                            2009.6.10
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奥能登の旅2
 ツアーの3日目は、金沢市の兼六公園を見て、長野県上田市から長野新幹線に乗って、東京へ戻る行程である。朝、和倉温泉の目の前にある能登島を通り抜けて、外浦側にある厳門(がんもん)を見学する予定であった。この厳門は、日本海の波打ち際にある岩が、荒波によりできた空洞である。当日は波が荒く、海からの見学は中止された。この厳門へ行くのに、私達のバスは、能登半島の付け根あたりを、内浦側から外浦側に向かって走った。位置的には輪島市の南を通っているので、バスガイドは、この地方の人々の習慣を熱心に話してくれた。
 この地方の人達の少し前までは、男は輪島塗の職人、女は海女になるのが普通であった。輪島塗りは、塗料にウルシを使うので、ウルシに対してアレルギーのある人は、その職人になれない。男の子が生まれると、親たちはウルシに対して免疫を持たせるために、小さい頃からウルシを皮膚に少しずつ塗っていた。そのようにしてウルシに対して抵抗力を付けていたのである。それでも、大人になってウルシにかぶれるなら、その人は他の職業を求めて、この地方から出ていかなければならない。そのような厳しい話があったという。
 この話を聞いて、私は化学薬品アレルギーのことを思い出した。私が勤めていた会社は、TDI(トリレン ジイソシアネート)という化学薬品の製造メーカーであった。このTDI は、人にアレルギーを起こしやすい特殊な化学品であったので、その取扱には注意が必要であった。そのアレルギー体質の人は、密閉されたTDIの容器の近くを通っただけで、激しい咳の発作を起こす。私は、幸いそのようなアレルギーはなく、実験でTDIの臭いを嗅いだり、手に触れたりしても平気であった。もし私がアレルギー体質であったなら、その会社を早々に辞めなければならなかったであろう。
 私が化学の研究室で仕事をしていた頃、化学系の高専を卒業した新入社員が、私のグループに配属された。彼は体格のよい、仕事熱心な男であった。私は、当時TDIを用いた実験をしていたので、彼にもその研究の一部を手伝って貰っていた。私は、TDIの毒性について気を付けるように、また取り扱うときは防毒マスクを着用するように指導していた。しかし、周りのベテラン社員は、防毒マスクを付けずに平気な顔をしてTDIを扱っていたので、彼は、自分だけ大げさな防毒マスクを付けるのは、気が引けたのであろう。彼も何も付けずに、平気な顔をしてTDIを扱っていた。その後、彼とは離れて、私は工場へ転勤になった。暫くして、彼は喘息で苦しみ、会社を辞めたということを関係者から聞いた。
 一度TDIのような化学物質に敏感になると、どのような治療をしても元には戻れない。彼はその会社を早めに辞めた方がよかったであろう。彼のようなアレルギー体質の社員は、その会社に数人いたが、TDIが近くにない本社で事務系の仕事をしていた。彼等は、工場とか研究所への出張もできない、不自由な会社生活を余儀なくされていた。このような特異体質を持つ人は、このような会社に就職しないほうがよい。この分野の会社では、入社時の健康調査でパッチテストを行う必要がある。パッチテストは、アレルギー反応を調べるテストで、接触性皮膚炎に特に効果がある。当時、TDIでもパッチテストを実施するのが好ましいという意見があった。能登のウルシかぶれ対策の話を聞いて、私はこのような昔のことを思い出した。
 話は元に戻るが、昔、輪島地方で女の子が産まれると大変喜ばれたそうである。女の子は将来、海女になり、一家の稼ぎ手になるからである。彼女が大人になり、結婚期を迎えて相手を選ぶとき、親に相手は次男であることを伝えると、親は大喜びをする。一方、相手が長男であると、親は恐怖に陥る。この地方では、その嫁ぎ先のいろいろな行事の出費は、全部嫁の家が行うからである。例えば、出産祝いは嫁の里が行い、七五三の祝いも里の親が衣装などを贈る。これらの品物はどこよりも上等であるのが習わしで、それが貧弱な物であると、嫁は肩身が狭い思いをする。若い男女の交際で、相手の男性が長男であるかどうかが、重要な関心事であり、女性の親たちは真っ先にこれを心配する。長男でないことが分かると、親は無条件で結婚を許す。
 海女の仕事場は海中である。海上の船では男が命綱を持って、海女を引き揚げたりする仕事をする。この際、男と女は、親子か、夫婦であることが決まっているようである。海女の命を預かる男は、絆が最も深い人でなければ、海女は安心して仕事ができないからである。男があかの他人なら、彼女は疑心暗鬼で海中の魚介取りを行わねばならなく、必然的に収穫量は少なくなる。海女の仕事にこのような暗黙のルールがあるのも、この地方の興味ある話である。
 私達のバスは厳門をあとにして、日本海沿いの千里浜に着いた。この浜は遠浅で、浜の長さが10kmもある珍しい砂浜である。砂が細かいので、海水に濡れると強固に固まって、その上を車が通っても平気だという。私は本当かなと思ったが、実際、なぎさラインといって、砂浜の上を車が通れる道ができていた。我々の大型バスも波打ち際を快走した。海水で茶色になっている砂道は硬いが、海水が乾いて白くなっているところは柔らかく、そこに車が入ると、タイヤがめり込んで動けなくなる。波打ち際で、水しぶきを上げながら走る方が安全であるが、走ったあと洗車が必要で、これを怠ると車はさびてくる。8kmのドライブウエイを走り終わって、私達は金沢市へ向かった。
 金沢市は兼六公園だけの観光であった。私は、以前一度だけ兼六公園へ行ったことがあり、その時は公園内をぐるっと回っただけであった。今回は、ツアーが公園の前の「兼見御亭」という和風レストランで昼食をとるので、そのレストランのサービスで、その従業員がガイドをしてくれた。そのガイドが広大な公園の要所要所に連れていき、詳細に説明してくれるので、公園の見所、歴史が良く分かった。
 公園の景色は、あまりにも整いすぎて、カメラに撮しても面白みがない。ツアー客の中にスケッチブックを持って、時間があれば熱心にスケッチしていた男性がいたが、彼もここではスケッチをしなかった。彼は、趣味で絵を描いているのか、本職の画家なのか分からないが、彼が描いている絵を一度見せて貰った。彼は、なんでもない風景を手際よく描き、水彩絵の具で色づけをしていた。彼がスケッチを始めると、人が集まる。彼は、そのような人達を気にせず、得意げに絵を描いていたので、きっと彼は画家であろう。
 昼食後、1時間の自由時間があった。そのレストランから坂道を降りた道路沿いに物産店があったので、何か記念になる物を買おうということで、行ってみた。私達はその店で九谷焼の急須を買った。今我が家でつかっている急須は台湾旅行で買った物である。その急須からお茶を湯飲みに移すとき、お茶が急須からこぼれるので、何時も不快感を味わわねばならなかった。自宅に戻って、今度買ったこの九谷焼の急須を使ってみて、お茶がこぼれることなく、湯飲みに注ぐことができた。九谷焼は、急須の口の形状に工夫がしてあるのであろう。
 私達のバスは金沢をあとにして、北陸自動車道で新潟県に戻り、上越市から上信越自動車道に入り、長野市を過ぎて上田市に向かった。上信越自動車道では、右手にまだ雪の被った妙高山、黒姫山などを見ることができた。長野市を過ぎる頃から雨になり、上田市の長野新幹線の上田駅には午後4時に着いた。私達は、4時48分のあさま546号のグリーン車で東京に向かった。夕食用の弁当は、旅行社が予め希望者に注文を取り、土地の業者が上田駅で配ってくれた。私は、駅で買った地酒を飲みながら、ゆったりしたグリーン車の座席でその弁当を食べた。東京には8時半頃着いた。
                            2009.7.10
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日中温泉
 例年、6月の第4週の1週間はテニス教室が休講となる。名目は設備のメインテナンスのためである。今年は、その次の週も、学生の団体がテニスコートを使うため休講となった。2週連続してテニスができないと、私は時間の使い方に苦労する。私は、退職して10年近くなるが、そのうち8年間は毎週4日、1日1.5時間、テニスの運動をしてきた。お陰で70才を過ぎても手足は十分動く。下手な若者を相手に、シングルスの試合もできる。テニス教室には4、50才代の女性が数人いるが、彼女達とシングルスのゲームをするときは、私の方が大体負けてしまう。彼女たちは5 、6年前からテニスを習い始め、当初は私の方が勝っていた。現在では、彼女等は私の球を難なく返球し、私の多くのミスにより、結果的に私が負けてしまう。私の球のスピードが減退する一方、体の動きも鈍くなり、私が相手の球についていけなくなったためであろう。
 この2週間、家にいるだけでは退屈するので、2人で温泉に行こうということになった。妻の友人から、日中温泉はいいよ、という評判を聞いて、私達はそこへ行くことにした。日中温泉は、喜多方市のさらに北にあり、山形県との県境にある。日中の言葉は、昔、日本と中国で記念事業をした時の名称が、今に残っているのかと思ったが、中国は全く関係ないことが分かった。日中という昔からの地名である。ここは、約200年前に温泉宿ができ、山形の米沢から江戸へ向かう旅人がこの地で温泉に入り、疲れを癒したといわれる。昭和50年に、喜多方地方の飲料水確保のために、日中ダムがこの地に建設されたため、その宿は閉鎖された。ダム完成後、平成5年に宿は再オープンした。
 日中温泉宿は1軒宿である。「日中温泉、ゆもとや」という名称であるが、ひめさゆりの群生地が近くにあるので、「ひめさゆりの宿」とも呼ばれている。ひめさゆりは6月の始め頃が見頃で、私達が行った日は、花はすっかり終わっている、と宿の主人に言われた。温泉は炭酸水素塩泉で、鉄分が多く含まれ、水が茶色になっている。源泉の温度は40℃で、ぬるい。露天風呂は、浴槽が円形で、屋根付きになっているので、雨が降っても、遠くの景色を眺めながらのんびり楽しめる。もう一つの露天風呂は源泉を加熱している。この二つは源泉掛け流しであるが、室内の浴槽はただの地下水を沸かしただけの風呂である。この違いは宿の人から説明を受けたが、女性風呂では、婦人会の団体客がこの室内の浴槽につかって、気持ちよさそうにしていたと、妻が言っていた。彼女たちは宿の説明をしっかり聞いていなかったのであろう。折角ここまで来て普通のお湯に入って満足しているのはもったいない。
 この日の泊まり客は15人ぐらいであろうか、そのうち男性客は私を含めて4名であった。いつ風呂に行っても、私一人だけで、貸し切りの温泉風呂のようで、のんびりできた。宿は日中ダムの真下にあり、ダムの堤防が決壊すると、この宿は簡単に流されるであろう。宿の主人に大丈夫ですかと聞くと、100年は決壊しない、と自信を持って答えていた。夕食の前に時間があったので、散歩がてら、このダムを見に行ってきた。ダムの水位は30%ぐらいであろうか、これなら決壊はありえない。今夜は安心して寝られる。ダムの横には碑が建てられ、そこには福島県知事、佐藤 榮佐久の文字が大きく刻まれていた。この佐藤は前知事で、現職時代、弟とぐるになって工事を有利に受注していた罪に問われ、現在裁判所で争っている。最終結果はまだであるが、罪人の名前が堂々と刻まれているのは困ったものである。
 翌日は福島県の南端にある尾瀬に行った。ここ日中温泉は福島県の北端にあるので、今日は福島県を車で北から南へ縦断することになる。尾瀬の桧枝岐村までは、喜多方市、会津若松市を通り、阿賀川沿いの日光街道を南下していく。途中の会津若松市は何度も行ったことがあるが、会津若松城はまだ見たことがなかったので、この機会に行ってみることにした。会津といえば、ランドマークのこの城がテレビで撮され、市内の遠くからも天守閣が見えるので、福島県人には馴染みがある。実際に近くで天守閣を見てみると、その大きさに圧倒された。私達は、中まで入らなかったが、すぐ近くの茶屋で天守閣を見上げながら、ラーメンを食べて、昼食とした。食事をしていると、城を案内するボランティアの女性が、頼みもしないのに城を色々説明してくれた。有り難かったが、声が小さく、早口であったので、ほとんど話の内容が分からなかった。
 午後4時頃桧枝岐村を通り、そこから急な坂を上って、国道352号沿いにある村営の御池ロッジに着いた。ロッジの横には、大きな駐車場とバスプールがあり、そこからはシャトルバスが沼山峠まで往復している。車できた人は、この駐車場に車を止めて、バスを使って尾瀬に行く仕組みになっている。ロッジは建物は大きく立派であるが、部屋はシンプルで、小さなテレビがあるだけである。管理人の若い男性から、今夜はお客さんだけの泊まりです、と言われて、寂しい感じを受けた。夕食は2階の大広間で2人だけであった。若い女性の2人が料理を出してくれ、その一人がどこから来たのかと聞く。矢祭に住んでいるが、今日は日中温泉からきたと言うと、その女性は懐かしそうに、私の実家は日中温泉の近くだと言う。客は2人だけなので、彼女も暇なのであろう、色々親しげに話しかけてきた。
 管理人が明日の登山の予定を聞いてきたので、シャトルバスで沼山峠に行き、そこから尾瀬沼まで往復するだけだと答えた。明日は天気が悪いので、バスは貸し切りみたいでしょう、と彼は笑っていた。翌日8時にチェックアウトし、8時半のシャトルバスに乗ろうとすると、50名ばかりの中高年の団体客が乗り込んできた。終点の沼山峠では、彼等は、広場で準備体操をしていた。我々はすぐ尾瀬沼方面への階段を歩き始めた。以前ここにきたのは、4年前であっただろうか、その時は、道は石がごろごろして、歩きにくかった。今は尾瀬沼まで全て木道にしてあるので、大変歩きやすい。沼山峠から尾瀬沼の長蔵小屋まで約2.7kmを1時間半かけて歩いた。この道を歩く人は大変多く、特に小学生の団体が多かった。中高年の団体も多く、道はこれらの人で賑わっていた。
 尾瀬沼の手前の大江湿原は、ミズバショウは終わっていたが、黄色いリュウキンカが所々咲いていた。天気は小雨であったが、傘をさしても歩くことができた。私達は、尾瀬沼ビジターセンター近くの土産物屋で尾瀬のペンダントを買い、一個80円の大福餅と、300円のコーヒーを買い、店前でそれらを食べた。次から次にハイカーがやってくる。昨夜泊まったロッジの管理人が、今日は寂しいほど客は少ないだろう、と予想していたが、実際は大変な賑わいであった。尾瀬の人気はオフシーズンでも絶大だ。沼山峠から尾瀬沼まで2.7km、時間で1時間少しが、適当なウオーキングコースなのであろう。私達は12時5分のシャトルバスに乗るために、10時半過ぎにビジターセンターを出て、帰途についた。
 私達は、桧枝岐村のはずれにある「アルザ尾瀬の郷」に寄り、温泉に入った。ここは、大きな温泉施設であるが、男客は私一人であった。温泉は全て露天風呂で、室内の浴槽はない。冬は寒くて年寄りは困るであろう。露天風呂の周りは、すぐ森があり、塀がないので開放感がある。青空が木々の間から見え、太陽が露天風呂に差し込んできた。露天風呂は浅く造られ、体を寝かさないと湯に浸からない。私は、太陽に向かって全裸の体を裏表ひっくり返しながら、太陽光を浴びさせた。裕福なヌーディストがプライベートビーチで日光浴をしている姿を想像し、そして私は貧しい老人ながら、800円の入場料で、同じスタイルの日光浴をすることができた。これは滅多にできない経験であった。
                            2009.8.10
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09年、夏の庭1
 今年の東北地方は梅雨明け宣言がなかった。北の高気圧の影響が強かったせいか、梅雨明けが曖昧であった。曖昧なのは、東北地方が、関東以西の南の高気圧の影響を受ける地域と、北海道の北の高気圧の影響を受ける地域の中間に位置しているためであろう。今年の梅雨は曇り空の日が多く、雨がほとんど降らなかった。天気予報士が、雨が降ると言っても、当地ではパラパラ程度しか降らなかったので、私はいつもがっかりした。気温だけは30℃を超える日が続き、植物は相当こたえた。梅雨のさなかに、庭に水撒きをしなければならなかった。
 我が家の前の沢水も、ちょろちょろとしか流れなくなってしまった。土地の人は、この沢の水は絶対枯れないと言っていたが、確かに枯れなかった。私は、この水を庭に引いて、浅い水路を造っている。この水路に、毎夏スズメが水飲みと水浴をしにやってくる。丁度暑い頃、沢の水量が少なくなり、庭にまで水が引けなくなった。スズメがきて、水路に水が流れていないのを見て、彼等は飛び去る。水が溜まりに少し残っていても、彼等はそれを飲もうとしない。流れている水しか利用しない。私は、スズメの飛び去る姿を見て、施工者として申し訳なく思った。渇水時には、水道水を代わりに流す方法を考えなくてはならない。
 8月のお盆前の4、5日、雨が大量に降った。降り始めの2日間は、今まで渇水していた山林の土地に、雨が吸い取られ、沢の水は全く増えなかった。3日目に記録的な大雨となり、沢はやっと多量の水が流れ始めた。沢はごうごうと音を立てて流れるが、水は濁らない。透明な水が流れるのは、沢の水系に落葉樹が多いせいであろう。立派な水系である。
 毎年、夏のはじめの頃、蛍がこの水路に飛ぶ。年々その数が減っているような気がするが、今年、一回飛んでいる姿を見て、私は安堵した。まだ絶滅はしていないようである。私は、夜に一回だけ蛍を見たが、昼間には蛍が庭をのんびり飛んでいる姿を、4、5回見た。何故夜でなく、昼間にうろうろ飛んでいるのか、不思議である。また、蛍は、私を見つけて、私の周りをうろうろ飛ぶのも不思議である。彼等の飛び方はのんびりしており、この飛び方では外敵に攻撃され易いであろう。私は、蛍が襲われないか、いつも心配して蛍を眺めている。
 今年は梅雨期に雨が少なかったせいか、8月に入ってもあまり蚊に刺されなかった。私は、夏のNHKラジオ番組、「夏休みこども科学電話相談」を毎日楽しみに聞いている。その中で、「蚊は何故人を刺すの?」という子供からの質問があった。回答者は、蚊には人の体温と、人が皮膚から出す炭酸ガスを察知する能力を持っていて、人に近づくことができるのだ、と答えていた。蚊に刺されるのは不愉快であるが、あの小さな体に温度センサーと炭酸ガスセンサーを持っているとは、驚きである。人間が造る温度センサーは、腕時計に組み込まれる程度に小さくなったが、蚊には到底及ばない。炭酸ガスセンサーは、携帯用はまだできていない。科学者は、生物センサーの仕組みを解明すべきである。
 蚊の発生は今年は少なかったが、雑草が生えている近くを通ると、そこに潜んでいる蚊が私に付いてきて、思わないところで蚊に刺される。蚊の優れたセンサーが私を察知したのであろう。私は、庭仕事の休憩のため、家の日陰にディレクターチェアを置いて、そこに座っている。今年はその場所で、蚊に刺されることが全くなかった。その理由は二つある。その一つは、うちわを使ったことである。座っている間、暑くないときでも、常時うちわで顔に風を送った。私の体から発散する炭酸ガスと体温を周囲に拡散する効果があったため、蚊が私の存在を察知できなかったのであろう。夏にうちわを持って盆踊りに参加する姿や、江戸時代の版画の美人画に、うちわ姿を見ることがある。これは、暑いのでうちわを使うのでなく、蚊に刺されないように、炭酸ガスと体温を体からはやく分散させるためであると、私は昔の人の知恵に気が付いた。そういえば、風が強い日には、滅多に蚊に刺されることがない。
 蚊に刺されなかったもう一つの原因は、アルミコーティング布の日除けを、今年の夏から使い始めたせいであろう。私は、建物の東側に朝日を避けるために、大きなよしずを立てかけていた。このよしずは4、5年経つと、ぼろぼろになってしまう。その都度ホームセンターから補充しなければならないし、古いよしずを廃棄するのが不可能に近いほど困難である。新しい日除けは、アルミ製ポールに、アルミを塗布したポリエステル布を付けた物で、使わないときは折り畳んで仕舞うことができる。農家では害虫除けに、畑に銀色のテープをぶら下げたり、CD盤をぶら下げたりしている。虫がキラキラする光を嫌う習性を利用したものである。私は、庭仕事の後、この新しい日除けのそばに座る。この日除けのアルミ布も、キラキラ光るので、虫たちが近寄らなくなった。新しい日除けの予想外の効用で、私は蚊を避けることができた。
 蚊について、私がいつも不思議に思うのは、蚊が人の耳の近くで、ブーンという羽音を出して、その後刺してくることである。私は、蚊が人を襲う前に、蚊がきたことを知らせるのかと、蚊の律義さに感心していた。人に知らせることなく、黙って刺せばいいものを、なぜそうするのだろうか。私は、これは蚊が持っているセンサーによるものであることに気が付いた。人の耳の近くは、特に体温が高く、炭酸ガスが多く発散するところなのであろう。蚊は人の耳に近づいて、人を察知して、血を吸うのである。うちわで顔をあおぐ時は、耳の部分をあおぐと効率的であろう。科学者は、人体の炭酸ガス発生分布を研究し、私の考えが正しいことを証明して欲しい。
 庭の野菜畑には、例年のようにサツマイモ、カボチャ、キュウリ、ピーマンを植えている。トマトは毎年上手く実らないので、今年はミニトマトを植えた。ミニトマトは、丈夫で実を多く付け、度々食卓をにぎわした。今年は里芋の苗と、アスパラの苗を買って植えてみた。里芋は、暑くなるとぐんぐん成長し、大きな葉を着けて、大らかな感じを周囲に与える。アスパラは、苗を一本植えておくと、毎年アスパラが出てきて、手の掛からない野菜だと聞いたので植えてみた。苗の説明文には、植えた後すぐ出てくるアスパラは切って食べてもよいが、2年目は食べてはいけないとあった。最初のアスパラを食べてみると、柔らかくて、味が濃いかった。再来年のアスパラの収穫が楽しみである。
 庭の中央には、ユリのカサブランカが毎年華々しく咲き、庭中をユリの香りで満たしてくれる。このカサブランカは、我が家を建てたエスバイエルの営業マンが、新築祝いに持ってきてくれた鉢を、庭に植え替えたものである。新築は8年前で、毎年100個近くの花を咲かせてきたが、さすがに今年は弱ってきたようである。木の軸が細くなり、葉も少なくなり、花も20個ぐらいしか咲かなくなった。今年は球根を堀り上げて、球根がどうなっているか、調べてみよう。球根がぎっしりひしめき合っていれば、間引いてやらなければならない。
 今年は大きなユリが1本、沢の近くにひっそり咲いていた。カサブランカが種を飛ばして、ここに住み着いたのか。8月末には、ヤマユリ(テッポウユリ)が団地区画の空き地に、多く花を咲かせた。このヤマユリは、一ヶ所にかたまって咲き、昨年咲いた場所とは別の所に咲いているので、風で飛んだヤマユリの種が着生したのであろうか。私は、ユリは球根が地下で繁殖して、増えていくものと思っていたが、種で増えるようである。球根だけの繁殖では、ユリは生殖場所が限定され、そのうち自滅していくであろう。ユリは、種を飛ばして、新天地を求めて繁栄していく考えの方が、自然のようである。
                            2009.9.10
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09年、夏の庭 2
 今年はアジサイが多くの花を咲かせた。横浜から持ってきたアジサイは、当地の冬の寒さに耐えかねて枯れてしまった。矢祭ではアジサイは育たないのかと思ったが、試しに苗を買ってきて6年前に植えてみた。それが少しずつ大きくなり、今年は立派に成長し、花も咲かせた。私は気をよくして、新たに苗を買い、さらに大きくなったこのアジサイから枝を切り取って、3本挿し木をした。彼等は枯れることなく順調に生きているが、今年の冬を生き延びれるか、分からない。我が家の周辺に柿木を4本植えているが、今年は実が成らない年らしく、全部で10個ぐらいしか育っていない。これでは去年のような、干し柿を軒先にぶら下げて、初冬の風情を楽しむことができない。
 今年、ムクゲも新たに苗を2本植え、それらが多くの花を咲かせた。ムクゲは、虫が寄りつかず、育てやすい花木である。全部で5本のムクゲが我が家にあり、それぞれ違う色の花が咲くので、夏から秋にかけて長い間、花を楽しむことができる。ムクゲは忍耐強い花木で、韓国では国の花になっている。韓国ではどのような色の花を楽しんでいるのか、一度見に行ってみたいものだ。その強いムクゲが、今年は1本、テッポウ虫の被害を受けた。幸い早く気が付いたので、枯れることはなかった。テッポウ虫は、木の幹の中心部に入り込み、木の水の通り道をふさいでしまう。テッポウ虫が入り込んだ木はほとんど枯れてしまう運命にあるが、ムクゲは、根元から多くの別の枝を出すので、テッポウ虫が入り込んでも、被害は大きくない。ムクゲは、そのように根元から多くの枝を出し、それぞれの枝に花を咲かせるので、多くの花が下からてっぺんまで筒状に咲き、見事である。
 私は、アメリカハナミズキを門扉の横に植えていたが、この木もテッポウ虫にやられてしまった。安藤造園に頼んで代わりのハナミヅキを植えて貰い、これは順調に高さ4mぐらいになっている。テッポウ虫にやられたハナミズキを処分しようかと、安藤さんから言われたが、私は引き取って別の場所に植えた。このハナミズキは、フェンスの外の町有地に植えている。被害を受けたハナミズキは、根元をテッポウ虫にやられ、その下の幹から小さな芽を出していた。それが年々大きくなり、今年は2m近くになった。来年は花を咲かせるかも知れない。木は、被害を受けても、それに対応する能力を自ら持っていて、生命を途絶えさせない力を備えている。テッポウ虫はかなり大きいので、幹の直径が2~5cmぐらいの木が被害を受けるようである。5cm以上大きくなると、虫も入り込む力がない。2cm以下の幹では、虫は窮屈で入り込もうとしない。
 昨年の秋、隙間園芸として種を蒔いたコスモスが、我が家のコンクリートの1cmの隙間に大きく生長し、花を咲かせた。この種は、昨年、近くのアスファルト道路と側溝の隙間に咲いていたコスモスの種を採り、翌春に我が家の隙間に蒔いたものである。昨年咲いた場所の隙間には、今年はコスモスは咲かなかった。このような場所に咲くコスモスの種は、風まかせで飛んで落ち着くので、同じ場所には育たないようである。昨年のコスモスは、私の家で生き延びたわけで、今年もこの「根性」コスモスの種を採って、来年も同じ隙間に植えようと思う。
 今年の夏の終わりから秋にかけて、蜂に刺される被害が各地であり、新聞を賑わした。我が家でも夏の庭に色々な花が咲くので、色々な蜂が活躍した。ノウゼンカズラは、一つの木に多くの花を咲かせるので、蜂が早朝からぶんぶん喧しいほど群がる。庭の中央にあるノウゼンカズラは高さが5mになり、我が家の夏のシンボルツリーになっている。この木の下を通ると、蜂に遭遇するので、私は高さ2mまでの枝を全部切ってしまった。お陰で、その木の下を安心して通ることができる。この蜂はどこに巣を作っているのか分からないが、我が家には至る所に蜂が巣を作っている。ログハウスの北側の軒下に、大きな蜂の巣ができているのを、私は見つけた。この巣は、ソフトボール大の大きさで、マーブル状の模様が入っている。気味が悪いので、ネットで調べてみると、コガタスズメバチであることが分かった。この蜂は攻撃性はあまりない、と書かれていたので、私は安心した。冬に除去するつもりでいる。
 我が家では、細い蜂が建物の隙間に出入りするのを、よく見かける。隙間の中に巣を作っているらしい。出窓のサッシの下側に、その細い蜂が入れる隙間がある。そこにその蜂が巣を作っているようで、私はその巣作りを眺めていた。そのうち蜂は出入り口を土で塞いでしまった。どうやら巣の中にタマゴを産み付けて、親は外敵が入らないように入口を塞いでしまったのであろう。親は、子孫を残して、自分は巣の外のどこかで、死んでいくのであろう。巣の中には、タマゴから孵った幼虫が腹を空かせないように、親が餌を用意している。幼虫が大きくなると、自分で巣を破って外に出ていく。このような小さな蜂も、子孫を残すための手順を知っているのだ。
 その一方で、蜂が巣作りを途中で放棄した巣もよく見られる。資料(ネット)によると、蜂は巣作りに飽きることがあり、途中で逃げ出すことがあるという。その理由は資料に書かれていなかったが、女王蜂が、うるさくあれこれ指示するので、働き蜂が、嫌気を起こし出ていったのであろう。 人間に似た蜂もいるようである。
 今年の夏は、新作LED庭園灯を5本、庭に設置した。これで我が家の庭には、19本の庭園灯が夜を飾っている。新しい庭園灯は1本、600円でホームセンターに売っていた。これは中国製で、従来の傘型の大げさなものとは違って、径25mmのステンレスの棒状である。それは、形状がスマートで、昼間その存在は邪魔にならなく、夜に光を発してくれるので、私は大変気に入っている。棒の上に太陽電池が付けてあり、1.2Vの充電池でLEDを発光させる。私が一番気に入っているのは、LEDを収納している筒が2重の透明プラスチックで、そのプラスチックがクリスタルカットされていることである。そのため、光が強く屈折して周囲を明るく照らす。
 LEDを収納しているプラスチック筒は、透明性の優れたメタクリレート樹脂であろう。このようにクリスタルカットされて、成形されたものは、日本にはない。このプラスチックだけで600円の価値がある。この庭園灯には、暗くなると自動的にLEDが点灯する電子回路が付いている。日本でこのような電子回路を作るとすれば、光センサーを使って、大きさがタバコの箱ぐらいになるであろう。中国ではこの技術が進化して、サイズが、10枚入りのチューインガムケースの半分の大きさになっている。中国製は、光センサーを使わずに、太陽電池の起電力を上手く利用しているものと思われ、中国のこの種の技術は大変優れている。
 今年のシルバーウイークは好天に恵まれた。私達の1年365日はシルバーウイークであるから、わざわざ混雑するこのウイークに外出することはない。家でじっとしていた。暑くもない、寒くもないこの時期に、庭仕事のあと、私は日陰でイスに座って休む。金木犀の香りがほのかにただよう中、眼前の森から聞こえてくる楽しそうな小鳥の声を聞き、西日が当たる森の木々、その上の青空をのんびり眺めるひとときは、私の至福の時である。そのようにうっとりしていると、突然焼き肉のにおいが西風に乗って我が家にやってきた。妻は、このにおいは豚肉だ、と言う。私は、においで肉の種類を嗅ぎ分けることはできないが、どこかの庭でバーベキューを始めたのであろう。この団地には、建物を別荘のように利用し、連休に家族が集まり、賑やかに過ごす人達がいる。そのような人達によって、シルバーウイークの雰囲気をこの団地に持ってきて、私達にもその雰囲気を味あわせてくれるのだ。
                            2009.10.10
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ツアーキャンセル
 私は、この夏にツアーキャンセルを2回経験した。一つは、旅行社が旅行先の事情によりツアーをキャンセルしたのと、もう一つは、私がツアー参加をキャンセルしたものである。一つ目は、ユーラシア旅行社企画の9月16日発「古都・西安から西域シルクロードへの道、15日間」が、新疆ウイグル自治区で発生した暴動事件のため、ツアー中止になったものである。シルクロードの全てのツアーは、中国ウイグル自治区のウルムチ市が拠点となっていたため、これらのツアーは全てキャンセルされた。暴動が起きたのは、09年7月15日であったため、私が参加予定日の9月16日までは治安が平常に戻るだろう、と期待していた。この暴動の原因は根が深そうで、10月を過ぎても正常化していない。旅行社では来年3月には再開できるだろうと予測している。
 私は中国本土には一度も行ったことがなかったので、このシルクロードの旅には期待していた。私の父は、晩年、シルクロードに憧れていて、色々な資料を集めていたが、現地を見ずに他界した。NHKテレビで1980年4月から放映された「シルクロード」は人気があり、私の父も熱心に見ていたようである。私は、時折見る程度であったが、ナレーションの石坂浩二氏の落ち着いた語り口には魅力を感じていた。喜多郎の音楽も好きで、カセットテープも1本持っている。当時、シルクロードを取材して制作した平山郁夫氏の日本画も、注目を集めていた。
 父が何故シルクロードを好んだか、分からないが、外国への単なる憧れであろう。当時はまだ海外ツアーが盛んでなかったので、人々はテレビの映像でその望みを果たしていたと思われる。特に、シルクロードは世界の秘境の地であり、見るもの、聞くもの全てが珍しかった。現在は、格安の値段でシルクロードに行くことができる。私が予定していたユーラシアの「シルクロード15日間」は、約33万円である。ヨーロッパ辺りのツアーの約半分の値段である。中国の辺地は、人件費、宿泊費、食費がまだ安いためであろう。辺地のホテルは、まだ整備が整っていなく、部屋にシャワーがなく、あってもお湯がでないとか、トイレにペーパーがなかったり、水が流せなかったりなど、私はこれらを噂で聞いていた。妻は、この噂に恐れをなし、中国には絶対に行かないと言っていた。この旅行は私一人で参加する予定であった。
 私は、このような不便さには全く苦にならなく、不便さを工夫して楽しむ能力を持っている。これは、私が少年の頃、戦後の色々な不便さを体験して得たものであろう。今度のツアーもどのような不便さが発生するのか、楽しみであった。シャワーやトイレの不便さには耐えられる自信はあるが、食べ物、飲み物には不安がある。これに対応するため、私は携帯型クッカーを購入した。これは三洋電機のトラベルクッカーで、ヒーターと鍋と食器がコンパクトに収まっているものである。これがあればコーヒーとかラーメンを食すことができるが、停電になると、お手上げである。夜の停電に備えて、LEDの懐中電灯も買っておいた。
 ウイグルの暴動は、8月には終わったように思えたが、日本の外務省による警戒解除までには至らないままになっている。ユーラシア旅行社から9月、10月のツアーは全て中止する、という知らせがきた。シルクロードのツアーは冬季はないので、来春まで待たねばならない。この旅行社のウイグルを経由するツアーは10種類ぐらいあるので、旅行社の打撃は大きいであろう。それ以上に、ウイグルの観光業者は大打撃を受けているはずである。シルクロードの遺跡を観光資源として生活をしていた人達は、収入が途絶えて、苦しんでいるであろう。このような庶民の苦境は、中国から情報として入ってこない。
 折角、中国に行く気になっていた私は、シルクロードに代わる中国の旅行先を探した。私は、中国の山岳秘境と言われる四川省に行って見ようと思った。同じ旅行社に、10月6日出発の「四川省大自然紀行15日間」というツアーがあり、私は参加を申し込んだ。中国アルプスの四姑娘山、九塞溝、黄龍などを巡る旅である。四姑娘山は、四姉妹の高山が連なり、そのうちの末娘が最高峰の四姑娘山であり、6250mの標高がある。これらの山が眺められる、標高3100mの日隆のホテルに泊まるなど、このツアーには色々な見所がある。中でも標高3000mの高地をハイキングする行程が2回ある。この高地ハイキングには、私のような高齢者が対応できるか、戸惑いがあったが、パンフレットには、高地に慣れて貰うために、標高3000m以上のホテルに滞在するなどの対策をしてある、と書かれていた。
 高地での酸欠による高山病の対策をしなければならない。ネット販売で携帯型酸素缶が売られているのを知り、それを購入しようと思ったが、酸素缶は飛行機持ち込みが禁止されている。喘息などで必要な人は、医者の診断書があれば持ち込み可能である。よく調べてみると、化学反応型酸素発生器があるのを見つけた。これは飛行機持ち込み可能である。私は、この発生器を7200円で購入した。これは、(株)キートロンが売っている、オーツー・フォレストと呼ばれる携帯用酸素発生器である。袋に小分けされた過炭酸ナトリュウム( 2Na2CO3・3H2O2)のA剤と、ボウ硝(Na2SO4・10H2O)のB剤を水の中に投入し、発生する酸素を水にくぐらせて、口から吸う仕組みである。
 私は試しにこの装置で、酸素を発生させてみた。A剤、B剤とも無毒無臭の物質であるため、気楽に反応させることができる。化学反応は下のようであり、B剤のボウ硝は、反応に関与しない促進剤のようなものであろう。
       2Na2CO3・3H2O2 + H2O → 2Na2CO3・H2O + O2 + 3H2O
AとBを、容器の水の中に入れると、すぐブクブクと泡(酸素)が出て、それが別の水の中をくぐり、細いパイプから出てくる。その酸素を吸うわけである。約15分で、酸素の発生は終わる。私は、久しぶりに化学実験をして、興奮した。
 ツアー代35万円を支払い、準備を整えていた私は、出発の1ヶ月前、不幸にも「めまい」を発症した。これは、頭を動かすと、めまいがする病気である。医学書で調べると、回転性めまい(良性発作性頭位変換性めまい)と呼ばれ、数週間で自然に治るようである。場合によっては何ヶ月も続くと書いていたので、私は長引くと旅行には行けないと心配した。町の内科医に診て貰ったが、加齢によっても、めまいは起きるでしょう、と医者は気楽に言っていた。一週間様子を見てみようと思い、医者から貰っためまい止めの薬と、かぜ薬(パブロン)を飲んだ。かぜ薬のパブロンは、めまい止めに効果があるので、このめまいは、風邪によるものかとも思った。一週間してめまいはほとんど収まった。
 私は、このめまいを発症して、急に自分の体に自信を失ってしまった。この体で高地ハイキングができるだろうか心配になり、私は、この四川省のツアー参加をあきらめることにした。旅行社にキャンセルを申し込んだ日が、出発日の21日前であったので、申込金3万円だけがキャンセル料として取られ、旅行代35万円は返却されることになった。早くキャンセルを決断してよかったと思っている。旅行社の担当者には、風邪を引いてしまったため、他の人にうつすといけないから参加を止めますと、言った。私は新型インフルエンザに罹ったとは言わなかったが、担当者は、風邪を引いた人に参加されては迷惑だと感じたのか、快く不参加を承知した。新型インフルエンザが威力を振るっている現在、断りの理由に風邪を使えば、この新型インフルエンザのウイルスは、別の意味で威力がある。
                            2009.11.10
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雫石、横手
 雫石は、岩手県盛岡市から西へ15 kmの所にある。雫石といえば、全日空衝突事故を思い出す。1971年に自衛隊機と全日空旅客機が雫石上空で空中衝突して、全日空の乗客、乗務員全員162名が死亡した。自衛隊機のパイロットは、機体から脱出して助かっている。どちらが悪いのか分からないが、自衛隊員が助かり、一般人が162名も死亡したというのは、国民感情として自衛隊はけしからんと、人々は感じているであろう。
 私達が雫石へ行ったのは、雫石プリンスホテルに泊まりに行くためであった。このホテルには雫石高倉温泉が出て、その露天風呂は源泉掛け流しであると、宣伝されていた。温泉宿には、タタミの上に寝る旅館方式と、ベッドに寝るホテル方式があるが、私はホテル方式が好きである。雫石プリンスホテルのようなシティタイプのホテルで、露天風呂があるというのは珍しい。私達は10月25日(日)に、車で雫石に出かけた。自宅から雫石まで約400 kmである。近くの矢吹ICから東北自動車道で盛岡ICまで行き、そこから国道46号で雫石へ向かった。当日が日曜日であったので、午前中はまだ下りが混んでいた。仙台辺りから車が少なくなり、岩手県にはいると、急に道路は空いてきた。関東地域から日曜日の高速料金1000円を利用するには、仙台辺りが日帰りの北限であろう。仙台までのサービスエリアの駐車場は、車が多く、係りの人が車を誘導していた。
 雫石町から北へ少し走った所に小岩井農場がある。この農場のまきば園入口前に、木材を素材にした土産物を売っている「どんぐりコロコロ」という店がある。この店にきたのは今回が3度目であるが、何回来ても楽しい店である。以前来たときは、白樺を5cmの厚さに輪切りにしたものを3個買ってきて、植木鉢置きなどに使っている。今回は、なほみがドライフラワーのリースを大小3個買った。農場の角を左折して、山に向かってまっすぐ行くと、突き当たりに雫石プリンスホテルがある。13階建てのホテルの前がゴルフ場で、隣にスキー場のリフト乗り場がある。
 4時前に着いたので、ゴルフ場を散歩した。係りの人に入ってもいいか聞くと、スタートは終わっているので、1番ホールから入って下さいという。1番は豪快な打ちおろしのコースである。左手に岩手山が見え、正面前方は盛岡盆地が遠方まで見渡せる。私達は、1番のグリーンまで降りて行った。隣の18番ホールらしい所に行くと、まだプレーをしている組がいた。キャディーはいなく、バッグはカートに置き、リモコンでカートを動かす仕組みになっていた。カートを誘導するラインが地中に埋め込まれているのであろう。私は、30年前のゴルフコースしか知らないので、この新しい仕組みを珍しく思った。昔の山岳コースの登りは、客はコンベアー(動く歩道)で登り、キャディーは別のカート道をカートを運転して登っていたものであった。そのようなことを思い出した。
 ホテルの部屋からも、岩手山とすそ野に広がる盛岡盆地を眺めることができた。温泉は、屋根付きの露天風呂だけであり、室内の浴槽はない。冬は寒いであろう。中国人の家族連れ(父親と2人の子供)が入ってきて、浴槽に入っている日本人がタオルを頭に載せているのを見て、子供達がそれを真似して、タオルを頭に載せていた。タオルを頭に載せるのが、日本のルールだと思っているのであろう。このホテルには、多くの韓国人や中国人が泊まりにやってきている。また、観光バスが10台近くホテルに横付けされ、団体客が入ってきた。西武系の旅行業者が同じ系列のホテルを使うようにしているのであろう。チェックインの際、フロントマンが、団体が多いので、夕食は早めに、朝食は遅めにした方がいいです、と私にアドバイスをしてくれた。
 その夕食は、広いレストランで和、中華、洋食のバイキング(ビュッフェ)料理である。ビュッフェ方式は、好きな料理がすきな量だけ食べられるので、私は特に好きである。和風旅館で出される夕食の料理は、全部食べるには量が多すぎて苦痛である。料理を残すと、係りの人に悪い気がする。このホテルのバイキングは、飲み物もカウンターで注文し、自分で酒を持って席に行くという、徹底した合理化が行われていた。私達が食事を終わった7時半頃、大勢の団体客が食事にやってきて、料理の前に長い列ができていた。
 夜8時から隣のスキーリフト発着場で、さんさ踊りのショーがあるというので、見に行った。5人の男女が歌と踊りを披露し、50人ぐらいの泊まり客が見物にやってきた。以前、富山市で見た越中おわら節の踊りとは対照的に、さんさ踊りは動きの激しい踊りである。数曲踊った後、踊りの指導があり、客が舞台に出て、さんさ踊りを練習した。手の動きを、ばってん、開いて、髪をひきあげなど、言葉で動作を表現するので分かりやすく、見ている人も司会者に合わせて手を動かしていた。手だけでなく、足の動きが同時に加わると、極端に難しくなる。舞台に習いに出た人達も悪戦苦闘していた。
 翌日は、国道46号を秋田県角館町方面に向かい、途中「抱返り渓谷」へ紅葉を見に行った。抱返(だきかえ)り渓谷は、横手市出身の杉山氏の強い推薦で行ってみることにした。杉山氏は、矢祭町に住んでいて、私と同じテニススクールに通っている、テニス仲間である。私が、雫石から秋田県を通って戻ろうと思うが、秋田のモミジの名所を教えてくれないかと聞くと、彼はこの抱返り渓谷を推薦した。私は、この面白い名前の渓谷を初めて知った。地名の由来は、地形が非常に急峻で狭隘なために、人がすれ違うときに、互いを抱き合って、振り返った、ことに因むといわれる。底を流れる玉川沿いに全長10 kmの絶景の渓谷が続く。当日は丁度紅葉の真っ盛りで、観光客が多く訪れていた。歩道は岩を削って整備されているので、人がすれ違っても抱き合うこともない。渓谷を流れる玉川は所々に淀みがあり、そこの水は神秘的なルビー色になっていた。「みかえりの滝」まで1時間歩いて、そこで折り返して駐車場まで戻った。
 生憎、小雨が降りだし、急いで横手市に向かった。横手市にある「秋田ふるさと村」が、杉山氏のお薦めのスポットである。ここには秋田県立美術館があるから、是非行って見ろ、と言われていた。また、横手焼きそばが安くて美味しいから食べて見ろ、とも言われた。午後1時半にふるさと村に着いた。昼食がまだであったので、ふるさと村内のふるさと料理館に入って、横手焼きそばを食べた。この焼きそばは、B級ご当地グルメとして全国一(2009年)になったもので、塩味のあっさりした味で、一つ目の目玉焼きが乗っている。一皿500円で、ボリュームがあり大変美味しかった。私達は、この焼きそばを食べに、横手まで来たようなものである。雨が本格的に降り出し、時間的に遅くなったので、杉山氏推薦の美術館は、見に行くのを止めにした。
 私の予定では湯沢市経由で国道108号に入り、鳴子町から東北道の古川ICに行くつもりであった。栗駒国定公園を横切る108号周囲の紅葉を楽しみにしていた。このルートは、当日の悪天候で、時間がかかりそうなので中止した。横手市内に、秋田道の横手ICが、ふるさと村近くにあるので、そこから帰ることにした。私は、杉山氏から彼の自宅の場所を×印で示した横手市内地図を貰っていたので、彼の家を車の中から見てみようと思った。×印は、ふるさと村の近くで、国道107号と、奥羽本線の陸橋を越えた国道13号との交差点にある。地図の上では簡単に見つけられると思って行ってみたが、民家が多くあり、どこが杉山氏宅か分からなかった。私達はあきらめて、横手ICの秋田道から東北道に入り、白河ICから一般道で、自宅に無事戻ることができた。
 横手から白河までの高速料金は、月曜日のため、7250円である。行きは日曜日であったので、盛岡まで1000円であった。この差額6250円は、余分に取られた感じがして、何だか腹がたった。これでは土曜日に出かけて、日曜日に帰るという人が大勢出るのは当然であろう。政府は将来無料化を計画しているようであるが、それより早期に土日限定は撤廃し、全日1000円均一にして欲しい。そうすれば、土日は大混雑、ウイークデイはガラガラ、というアンバランスはなくなるであろう。
                            2009.12.10
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春うらら、年男
 私の干支は寅で、今年生まれて6回目の寅を迎えた。72才である。私は、70才代に入って、外観は60才代と変わらないつもりでいたが、肉体にがたが来たようである。私は趣味で週4回のテニスをしているが、テニスで無理をしているのか、右足の膝が時折痛む。以前は暫くすると傷みがとれていたが、近頃はなかなか直らない。さらに何かの拍子で、右足の筋違いがあったようで、それも直らずにいる。だから普段歩くときは、右足をかばって歩くようになり、スムーズな歩きができなくなった。ただ、テニスをするときは、その痛みを忘れてスムーズに動き回れるから、不思議である。
 私は、毎朝縄跳びと、鉄アレイでストレッチ運動をしている。縄跳びは、毎回150回飛んでいるので、縄跳びに使う足の筋肉は丈夫である。跳躍にかかわる足の痛みは全くない。鉄アレイによる運動は、両手に4kgのアレイを持って、屈伸運動、背筋の運動をした後、右手に4kgのアレイを持って、テニスの素振りを行う。ストロークとサーブの素振りを毎日行っているので、それらに使う筋肉の痛みはない。テニスを始めた人が肘を痛めることがあるが、私はこれまで肘の痛みを経験したことがない。鉄アレイによる筋肉強化のお陰であろう。
 肘の痛みは、テニスラケットの選択で解決できることもある。私は、ウイルソン製ラージサイズの厚ラケを愛用している。この種のラケットは、テニスボールによる衝撃が人の肘や腕まで伝わらないようにできている。ラケットのフレーム部分で衝撃を吸収しているので、ラケットのフレームが折れることがよくある。私は、数年に1回の割合でラケットを折っているので、その都度同じメーカーの厚ラケを買い替えている。肘の痛みの代わりに、ラケットが折れてくれたのだと、私はラケットに感謝している。
 鉄アレイによる筋肉強化のせいで、私の肩の辺りは筋肉がもりあがってしまった。温泉場の洗い場で、鏡に映る上半身を眺めて、我ながら若者のような肉付きだと感心している。私は洋服を買う際、上は必ずLサイズを、ズボンなどはMサイズを買うことにしている。私の身長は若い頃に比べて3cm短くなり、Lサイズのズボンでは長すぎて不都合である。上のシャツなどは筋肉が付いているのと、少し胸厚の体格のため、Mサイズは窮屈である。
 72才男の機能低下を、序でにさらけ出しておこう。寒くなると、尿漏れが多くなるのが悩みである。尿漏れを抑えるため、股間の筋肉に力を入れるが、思うように力が入らなく、自然に尿が漏れてしまう。縄跳びで股関節付近の筋肉は鍛えているが、尿漏れを抑える筋肉は別のようである。尿意を少しでも感じたら、我慢せずにトイレに行くことしている。胃の機能も衰えてきた。脂肪の多い料理を食べると、食後胃液が逆流しそうになる。特に寝ているとき、胃液がのどまで戻ってくると、びっくりして起きあがる。知らずにそのまま寝ていると、窒息死の危険がある。脂肪分の多い料理を多く食べた後は、必ず胃腸薬を飲むことにしている。旅行先では食べ過ぎるので、胃腸薬は必需品である。
 私の眼はまだ丈夫のようで、老眼鏡を必要としていない。しかし、新聞を20分以上読んでいると、眼が疲れて、活字がぼやけ出す。薄暗いところで、小さい字は全く読めなくなった。私は、インスタントラーメンの袋に書いてある加熱時間を確かめるのに、苦労することがある。メーカーによっては、その数字を太文字で印刷している。これは高齢者にとって有り難い心遣いである。私は、50才代の頃飛蚊症になってびっくりした。その飛蚊症はそのままで、すっかりその症状に慣れてしまって、気にならなくなってしまった。
 私の歯は最悪であった。戦後の食べるだけが精一杯の親は、子に対して歯のケアはできなかった。私の歯も虫歯と歯槽膿漏で、がたがたになった。私は、50才の半ば頃、総入れ歯にしてしまった。入れ歯は、健康保険が使えるプラスチックである。プラスチックのため、数年に1回義床が劣化して割れてしまう。その都度2万円程度払って新しく作ってもらう。入れ歯が完成しても、かみ合わせの調整のため、歯科に2、3度通わないといけないが、微妙なところまで調整できない。そのため、私は自分で紙ヤスリを使ってプラスチックを削る。お陰で私の総入れ歯は快適に使えている。歯磨きは、入れ歯を外して歯ブラシで洗うので、簡単で早い。壊れた入れ歯は応急的に簡単に修理してくれ、入れ歯が新しくできたらそれを返してくれる。長期の旅行には、このまだ使える古い入れ歯をスペアとして持っていくことにしている。
 70才になって、私の皮膚は抵抗力を失ってきたようである。今一番悩んでいるのが股間部分のあせもである。暑いとき、汗であせもができ、寒くなると自然にあせもは消えてしまう。これが、私の今までの経験であった。現在は、冬でも股間部分にあせもがでる。私は、風呂上がりにベビーパウダーをつけて、あせもを抑えているが、面倒である。私は、股間部分の風通しをよくするため、冬でも薄手のトランクスをはいている。しかし、これはあせもには効果がないことが分かった。医学書であせもを調べると、皮膚と皮膚が密着すると汗腺がふさがれて皮膚が炎症を起こし赤くなる、と書かれていた。薄いトランクスをはいても、股を常時広げない限り、股間部分の皮膚は密着していることに気づいた。男性下着には、トランクスタイプ、ボクサータイプ、ブリーフタイプの3種類がある。私は、股間の付け根まで食い込んだ形で着用するブリーフタイプに注目した。これだと皮膚間は布で隔離されるので、汗腺がふさがれることはない。トランクスからブリーフに変えて、あせもの発生は減ったようである。
 私の耳は、少し耳鳴りはするが、まだ良く聞こえる。私は音楽を四六時中聴いている。「インターネットTV・ラジオ機能付きUSBアダプタ」というのが、ネットで1900円で売られている。私はそれをパソコンに付けて、ロンドンから送られてくるクラシック音楽を聴いている。世界のラジオ、TV番組をネットを通じて聴いたり、見たりできるソフトはあるが、面倒な操作が必要である。この装置は、空豆ぐらいの大きさで、USBに差し込むだけで、予め設定した番組をすぐ受信できるから便利である。番組は、クラシックFMというイギリスの番組で、24時間クラシック音楽を流している。BGMには丁度良い。
 私は庭仕事の際、MP3プレーヤーを首から下げて音楽を聴いていたが、今はネックストラップ式のイヤーホーンを使っている。これは、ワイヤーが全くないので、ワイヤーが庭仕事の邪魔にならなく、好都合である。このネックストラップ式は、イヤーホーンの中に電池、プレーヤー、SDカードが組み込まれている。頭の上からかぶせるヘッドホーン式のタイプはあるが、これは頭が圧迫されているようでいけない。ネックストラップ式は首のところからイヤーホーンが出るので邪魔にならない。上海問屋で2900円で売っている。
 私は、町で行う健康診断を1年おきに受けている。昨年は眼底検査で緑内障性乳頭陥凹があると書かれ、要医療と指導された。3年前は同じ眼底検査で網膜細動脈硬化と書かれ、要医療と指導された。良く分からないので病院には行かなかった。今回の検査では網膜のことは何も書いていない。自然に治ったのであろうか。10年前会社の健康診断で、心電図に異常があると書かれたことがあった。私は放っておいていたが、ここ8年、心電図に異常は認められない結果になっている。健康診断の判断は、どうもいい加減な気がしてならない。検査者の責任逃れのために、少しでもおかしいところがあると、異常とするのであろうか。70才以上の人間が、どこもおかしくないのは変だ、と頭から疑っているのか。医療機関が検査者に、患者を多く作るように指示しているのか。
 70才の人間が、色々な機能が低下したり、悪くなるのは、死へのプロセスとして自然なのかもしれない。体全体が均等に機能低下していけば、老衰というかたちで死に至るのであろう。それは好ましい死に方である。春うららの新年に、死のことまで書いて、済みません。
                            2010.1.10
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徳島、総社、京都1
 これら3都市は、私が20才代までに過ごした場所である。徳島市は4年、岡山県総社市は7年、京都市は3年住んでいた。私は、これらの町を訪れてみたいと思い、妻を連れて5泊6日の旅行に、09年11月22日に出発した。国内でこのように長い旅行は久しぶりである。初日は、東京から寝台特急「サンライズ瀬戸号」で四国高松へ向かった。サンライズ瀬戸は、出雲行きのサンライズ出雲と一緒に岡山駅まで行き、そこで出雲号を切り離して、高松へ行く。予約した寝台は、サンライズツインというベッドが2台横に並んだ個室である。これはB寝台で、ツインで14000円の料金であるから、ホテルの宿泊料と思えば高くはない。サンライズツインルームは、列車の通路から下りた所にあるので、見晴らしは良くない。駅のホームでは、個室からホームを歩く人の下半身が見える。子供は目の高さが丁度良く、興味深く私達をのぞき込んで、びっくりしたような顔をする。サンライズ瀬戸は、東京駅を夜10時に出発した。
 翌日の朝、瀬戸号は瀬戸大橋を走り、瀬戸内海のサンライズが車窓から見られた。列車は、坂出経由で高松駅に7時半ごろ着いた。以前あった宇高連絡船では、四国の玄関口は高松駅で、宇野からの船は高松港に着き、そこから徳島、高知、松山方面に汽車が出る仕組みになっていた。私は学生の頃、実家(借家)の岡山県総社市から徳島市へ何回も宇高連絡船を使って往復していたので、このコースに馴染みがあった。今回は、福島県棚倉町のJR棚倉駅で全ての切符を買った。私達はジパングの会員で、JR乗車券などが30%の割引となり、さらに往復割引を適用すると、半額近い料金になる。この旅行では、吉野川流域の大歩危の紅葉を見ようと思い、新白河駅から大歩危駅までの往復乗車券を作ってもらった。サンライズ瀬戸号の指定券は、高松まで購入して、高松駅で早朝降りた。さぬきうどんでも食べようと、駅の改札口を出ようとすると、私達の切符を見て、駅員は眼を丸くした。
 指定券は高松まで買っているが、乗車券がないという。私は、最初何のことか、分からなかったが、棚倉町のJR駅員が坂出と高松間の乗車券を作り忘れていたのである。高松のその女性駅員は四国全線の地図を持ってきて、丁寧に説明してくれた。私が持っている乗車券は、瀬戸大橋から坂出を通り大歩危駅までである。私の昔の感覚では、四国の玄関は高松であるから、当然高松までは乗車券も含まれていると思った。今は坂出駅が玄関になっている。仕方なしに駅の精算機で坂出~高松の乗車券を買った。朝食を済ませた後、私達は高松から高松発高知行きの特急に乗る予定であった。そのために、高松~坂出間の乗車券を再び買わなければならなかった。
 坂出から列車は土讃線に入り、讃岐平野の平らな線路を走った。線路が周りの田畑や宅地と同じ高さに造られているので、大雨で田畑が冠水したら、列車も不通になるのではないかと、私はいらぬ心配をした。徳島県の池田町に入ると、急に山だらけになり、平野はなくなる。民家は山の中腹に、山にへばりつくように建てられている。その民家も点々とあり、集落は形成されていない。大歩危近くになると、民家は山の上の方まであり、そして高知へ向かう国道は、吉野川に落ち込む山の中腹を削って造られている。商店などは国道沿いにあるので、山に住む人達は買い物などで、上り下りが大変であろう。大歩危駅で下車した。この駅は小さな駅で、数十人の観光客が案内の男性を取り巻いて、説明を聞いていた。この人は駅員でなく、近くのホテルの従業員であるという。私達は、2km離れた国道沿いの道の駅まで、ぶらぶら歩いた。紅葉はもう終わっていたが、山かげのカエデはきれいに紅葉していた。
 大歩危駅から阿波池田駅に戻り、JR徳島駅に行く。徳島で一泊し、翌日は高徳線経由で倉敷に行く予定である。このルートは新白河駅からの往復乗車券にないので、池田から徳島を経由して坂出までの乗車券が必要である。JR棚倉駅の駅員が、坂出から少し先の宇多津まで切符を買えば、200km以上の距離になるので、ジパングの30%割引が適用できる、と親切に言ってくれた。徳島駅には3時頃着いた。徳島は、私が徳島大学に4年間在学して、その間下宿生活をしていたので、馴染みがある。下宿先は、工学部キャンパスから歩いて10分ぐらいの下助任町にあった。私達は、駅前の徳島東急インにチェックインしてすぐ、タクシーで大学まで行った。
 大学の建物は、私がいた50年前とは様変わりし、7、8階建てのビル群となっていた。以前の建物は、明治の終わりから昭和初期に建てられた木造の校舎で、工学部の応用化学の教室付近を歩くと、薬品の臭いが漂い、工学部らしさがあった。今はどこからも薬品の臭いは漂ってこない。都会のオフィスビルのようである。当時、それでも化学系は、薬品を扱い、火災を起こす危険があるというので、他科に優先して、鉄筋の3階建ての校舎が建てられた。幸い私はこの新しい校舎で卒論の実験を行うことができた。その校舎もなくなり、今どこに化学系の建物があるのか分からなくなった。
 工学部の敷地を通り抜けて、北側の道路に出た。この道路沿いには、戦後あるいは戦前から建てられた、2階建ての学生相手の下宿屋が並んでいた。今そこを歩いてみると、新しく立てられた瀟洒な住宅が並び、下宿屋の雰囲気はなくなっていた。2、3軒それらしい古い建物が残っていたが、2階の木製の雨戸は閉じられて、誰も住んでいない感じであった。学校の周りの住民も裕福になり、下宿代を稼ぐ必要はなくなったのであろう。学生はどこに住んでいるのか。近くのマンションに住んでいるのであろう。大学付近も、半世紀前の私の学生時代とは様変わりしていた。
 私が下宿をしていた下助任町へ歩いて行ってみた。助任小学校の前の横道を入ると、元工学部長の松田教授宅があり、そこに私は間借りしていた。その家はなく、別の住人が家を建て、住んでいる様子であった。旧松田宅には私の他、吉野氏、渡辺氏、揚戸氏の4人が間借りしていた。4人とも応用化学科の同級生であった。教授宅に住むのは窮屈な気がしたが、教授は英国帰りのさばけた人で、奥さん共々クリスチャンであったので、堅苦しさはなかった。当時まだ珍しかった電気洗濯機があり、私達は使って壊してはいけないと思い、また洗濯するほどの多くの衣服はなかったので、遠くから眺めるだけであった。比較的広いバスルームがあったり、水洗式のトイレがあったり、今から考えると文化的な住居であった。電気冷蔵庫はなく、上部に氷を置いて冷やす、木製の冷蔵庫があり、それを夫人は愛用していた。
 下宿先から狭い裏道を50m歩くと、広い通りがあり、バラック建てのお好み焼き屋があった。当時、私達は夜遅く4人揃ってその店にお好み焼きを食べに行くのが、楽しみであった。今、その店はなく、小さな雑貨屋になっていた。その店の並びに理容店があり、聾唖の人達が散髪をしていた。当時私はこの店をよく利用していた。話ができないので店は静かで、用事があるときは、紙に書いて聞いてくる。私は頭を左右あるいは上下に振るだけで、その用事はこと足りた。今、その店は、3階建てのヘアーサロンに名称を変え、立派に営業をしていた。
 私の徳島に於ける毎月の生活費は、親からの仕送りが2000円、兄からの仕送りが1000円、育英会の奨学金が2000円であった。その他、月1000円程度の家庭教師のアルバイトを欠かさずやっていた。食費は、昼と夕が工学部の学食でそれぞれ40円であり、朝は学芸学部の男子寮の食堂で食べて、15円であった。その寮の朝食は、麦飯で、みそ汁と小皿に漬け物が付く、粗末な食事であった。今から考えると麦飯が健康に良かったのか、私は、風邪を引く程度で、病気らしい病気には罹らなかった。教授宅の間借り代は月1000円で、電気代などは支払わない。これらの必要経費を除くと、月1000円から2000円が私の本代などの雑費であった。周りがつつましい生活をしていたので、金銭的には十分であった。
                            2010.2.10
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徳島、総社、京都2
 11月24日朝、徳島東急インをチェックアウトした。このホテルの宿泊料は、1泊朝食付きで6000円/人であり、今回の旅行のホテル代の中では、一番安かった。徳島の土産に何を買おうかと思ったが、何も思い当たらない。ホテルの隣の「そごう」に入り、徳島特産品コーナーで色々迷った結果、藍染めのTシャツを買った。1枚5000円で高かったが、藍染めは蚊を寄せ付けない、ということを以前聞いていたので、思い切って買った。この夏、このTシャツを着て、本当に効果があるか、試してみたい。
 私達は、10時27分発の高松行き特急に乗る予定であったが、徳島ののんびりした雰囲気に浸って、この列車に乗り遅れてしまった。次の高松行きは11時31分発で、1時間も時間があるので、駅のクレメンテビルのコーヒー店でアイスクリーム&フルーツを食べた。ここでものんびりし過ぎて、この列車に乗り損ねた。次の特急は12時26分発であり、その前に12時16分の普通列車があるので、それに乗り、途中の駅で後から来るその特急に乗り換えようと思った。香川県の志度駅で待っていたが、その特急はその駅を既に出た後であった。私が時刻表を見間違えたのだ。高松駅には14時34分に着いた。乗り遅れの連続で昼食を食べる暇がなかったので、駅の売店で簡単なおにぎりを買って、岡山行きの快速電車に乗った。
 高松から岡山駅行きのJR線は、瀬戸大橋線という名称が付けられ、昔の宇野線は、途中の茶屋町駅から宇野駅までの区間になっていた。その茶屋町駅に15時半頃着き、そこで私達は途中下車した。この茶屋町は、私が小学生の頃、茶屋町小学校に5年間程通ったところである。当時は都窪郡茶屋町であったが、今は倉敷市に合併されている。私達家族が住んでいた場所は、その小学校から直線距離で約1km倉敷よりの都窪郡帯高村であった。その住んでいた家は、昔の庄屋のような大きな屋敷で、50m四方もある広い敷地に大きな母家があり、納屋や物置などがあり、倉が3棟もあった。その敷地内の納屋とか、倉の一部とか、門続きの畳敷きの部屋に、家族6人が分散して寝起きしていた。兄は東京に住んでいて、その他の兄弟姉妹と両親がそこで貧しい生活をしていた。その母屋には、片山康子という女主と、片山新助という二十歳すぎの息子と、康子氏の母親が住んでいた。今、新助氏は90才近くになっていて、倉敷市の病院で治療中と聞く。この屋敷には、その奥さんが住んでいるのであろう。
 私が小学生の頃、私はこの広い敷地で思う存分遊ぶことができた。敷地内には多くの樹木が繁り、中にはイチジクのような実の成る木もあり、それらを食べて空腹を満たすことができた。母屋には茶室や客間などがあり、その前には苔むした庭が造られていた。子供は、その庭に入ることが禁止されていた。茶室は、康子氏が裏千家茶道の先生として、近在の女性達を教えるために使っていた。私の母もこの先生に習い、師範の資格を得ていた。私達が総社の借家に転居したあとも、母はその借家でお茶を教えていた。母屋の客間は、康子氏が謡曲と仕舞いを教えるために使っていた。私の母も謡曲を習い、近所の人達と合唱するのを楽しみにしていたようである。
 この付近一帯は、児島湾の埋め立て地で、見渡す限り田圃であり、灌漑用の水路が張り巡らされている。水路沿いには幅1.8mほどの道があり、赤茶色の土で道路が固められていた。私は、その道を1時間近く歩いて、茶屋町小学校に通っていた。片山家の敷地の周りも三方に水路があり、一部は屋敷に引き込まれ、物置に船着き場のような石段が造られていた。その物置の天井には、埃を被った小さな船が置かれていた。これは、米俵の運搬に使われていたのであろう。田植えの時期になると、水路の水量が増え、道路すれすれになる。田圃に水を引き込むために、水路からの堰を開ける。水と一緒に水路に住んでいたフナが田圃に入ってくる。それを捕まえるのが、その時期の私の楽しみであった。田圃に入るのは禁じられていたので、棒で遠くからフナを追いつめて、道路の近くに来たところでフナを捕まえようとしたが、思うようにはいかなかった。
 現在の片山家の屋敷を見るために、私達は、JR茶屋町駅からタクシーを使い、帯高公民館から荒神社の横を通り、敷地の裏側に行った。4時過ぎで、生憎雨が降り出していたので、急いで屋敷の周りを歩き、写真を撮った。敷地の東北側に、垣根として植えられていたカラタチは、数本だけ大きくなり、その他はなくなっていた。垣根の内側にあった菜園は、荒れ地になっていた。正門側にまわると、昔の姿で門構えが残っていた。門の前の道は、道幅も、道の土質もそのままで、雑草が生えて、60年前の通りであった。門には片山という古い木の表札があり、まだ片山家は現存していた。妻が中に入って見せて貰ったらどうか、と言っていたが、あたりが薄暗くなっていたので、戻ることにした。
 屋敷を囲む水路はそのまま残っていた。屋敷の裏側の道路は拡張され、舗装されていた。私達は、その道を歩いて荒神社の横を通り、バス道路へ出た。この荒神社は、60年前と同じ姿で残っていたが、神社を囲む樹木は所々なくなって、すかすかな感じになっていた。子供の頃、私はこの神社によく遊びに来て、鳥居の前に住んでいた三宅カズ君と三角ベース野球などをした。三宅君の建物はなくなって、同じ場所に別の工事屋のような建物があった。私達は、バス停で倉敷行きのバスに乗り、倉敷駅に6時頃着いた。タクシーで倉敷アイビースクエアホテルへ。
 このアイビースクエアは、以前倉敷紡績の工場があった所で、1973年に多目的観光施設として、この地にホテルなどをオープンした。赤煉瓦の壁に、蔦(アイビー)が生い茂っている様子は趣があり、このホテルに一度泊まってみたいと、私は思っていた。敷地の中のホテルは、倉庫跡を改造して、2階造りにしていた。私達が泊まった部屋は、2階の157号室である。このホテルの特徴は、ホテルでありながら大浴場があることである。しかも、ゆかた姿で浴場に行ける。この格好で由緒あるホテルのロビーを横切って浴場に行くのは、少し抵抗があった。夕食は、「レストランアイビー」で3900円のコース料理を注文した。料理は、フランス料理で、飲み物付きのフルコースである。レストランの内装が明治時代の雰囲気に造られていて、そこで食べる食事は格別であった。
 翌日、朝食付き、1泊9400円/人の安い料金を支払い、チェックアウトした。倉敷市のえびす通り商店街に、私の長姉が開いている造花専門店「アロマサーン」があり、その店を尋ねることにした。店の責任者は娘の井垣 江美氏であり、楽天のネットショップも彼女が担当している。この店は、佐分利商店という老舗の荒物店であったが、主人が若くして亡くなり、そのあと夫人(長姉)と子供達が店を引き継いでいた。大型店の進出などで、経営が苦しくなり、荒物店を止めて、ギフトショップに変えた。さらに現在のフラワーショップに衣替えした。最近、ネットショップに参加して、客が全国に広がったようである。私達は、10時頃その店を尋ねたが、まだ開店していなかった。前の店にいた人に聞くと、何時もここは遅く開くというので、私達は商店街を一回りして時間をつぶした。
 10時10分頃、姉が店開きの準備を始めていた。造花の鉢を店の奥から一つ一つ外に出す仕事をしていた。かがむ動作が多いせいか、姉は腰がすっかり曲がっていた。彼女は、78歳近くなるので、職業上腰が曲がるのは仕方ないことであろうか。私は、兄弟姉妹がそろって死という終局に向かいつつあることを感じて、寂しい気持ちがした。しかし、姉の目は輝いていたので、私は、安心して店をあとにした。
                            2010.3.10
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徳島、総社、京都3
 2009年11月25日10時、私達はJR倉敷駅から伯備線に乗って、総社駅で降りた。私が中学生の頃、この駅は西総社駅といい、吉備線の隣の駅が総社駅であった。今は隣の駅が東総社駅になっている。当時、私の家族は駅から歩いて5分の溝口部落に住んでいた。その家は一戸建ての借家で、借家2軒が並んでいた。大家は近くに住む中村氏で、その息子の直人氏は私と同学年であった。彼は、中学から高校まで私と同じ学校に通ったが、大学は京大法学部へ、その後商社に勤め、現在の消息は判らない。隣の借家には大智氏が住んでいた。息子のサトシ君とは隣同士でよく遊んでいた。今、彼はどこにいるのか判らない。
 現在のJR総社駅は新しく改装され、橋上駅になっている。私は西口から歩いて、60年前に住んでいた借家に行ってみた。その家は古いまま残っていた。築70年以上と思われるその家には、現在も人が住んでいるようで、高年の女性が家の前で庭仕事をしていた。以前の家は、すぐ前に田圃があり、左手には当時の西総社駅が見られ、伯備線のSLが煙を吐きながら走る姿が見られた。正面には鎮守の森と、厳島神社があり、さらにそのずっと向こうには、常磐小学校が見えていた。今は周りが家に囲まれてしまったので、これらの建物は見えない。家の前の田圃の向こうには、灌漑用の水路があり、高梁川から引いてきた用水が流れている。田植えの頃はその水量が増え、流れが激しくなり、横の道路まで水があふれていた。田植えの時期が終わると、水位が下がり、穏やかな流れになる。夏には蛍が飛び、周りが暗かったので、多くの蛍が飛び交う様子が家から眺められた。
 用水路の水位が下がると、水位より高い所にある田圃では、水を水田に入れる必要がある。そのために水車を用水路に取付け、水を汲み上げていた。総社は中国山脈の麓にあるので、用水路に流れる水は速い。そのためこのような水車が利用できる。私がその前に住んでいた帯高村では、干拓地であったため、水の流れはゆるく、水車は利用できない。そこでは発動機あるいは電気モーターで田圃に水揚げをしていた。そのような風景を小学生の頃見ていたので、ここの水車の働きを大変珍しく思った。秋には用水路の水はなくなってしまう。深みのある水路には水が残り、逃げ遅れた魚がいる。これを捕まえるために、私は自転車の発電機を使い、100ボルトを12ボルトに下げる小さな変圧器を逆に接続して高電圧にした。それを水中に入れると、魚は一時的に感電し、白い腹を見せた。電気を川に入れて魚を感電死させて漁をすることは、密漁として禁止されていた。私のは魚を驚かせる程度で、密漁には当たらない。
 その頃、私は、駅の反対側の方向に歩いて10分ぐらいの所にある総社西中学校に通っていた。父は、その中学の校長をやっていた。私は、校長の息子として、同級生から一目置かれていたので、いじめはなかった。先生達は私を親切に扱ってくれたが、それは子供心にいやであった。学校では理科が好きで、家では鉱石ラジオを組み立てて、ラジオを聞いていた。夜遅くなると、神戸のラジオ神戸がかすかに聞こえることがあって、胸を驚かせていた。もっと良く聴きたいという気持ちから、ラジオの組立を、「初歩のラジオ」という雑誌を見ながら始めた。高校ではトランジスタラジオ、大学ではステレオアンプ、社会人になってテレビの組立まで、エスカレートした。その後、トランジスタ類の集積化が進み、それらがブラックボックスになってしまったので、組立を止めてしまった。
 中学校では、理科の先生が、家庭に入っている100ボルトの片方の線はアースであることを教えてくれた。彼は、+側の線と地中からのアースをつなげば、盗電できることをこっそり教えた。私はそのような面倒なことをせずに、ズバリ盗電を親に内緒でやっていた。2軒の借家は平屋で、その家の間は軒でつながっていた。100ボルトの2本の電線は、その軒下を平行に這わせていたので、外から電線は見えない。私はその電線の皮膜を削り、電線をつなぎ、屋根裏を通して自分の勉強机まで引いた。コンセントを付け、電熱器を接続し、冬の暖房としていた。
 私は、中学校の先生の話が今も気になり、本当に盗電できるか、つまりアースと+の線をつないで、家の電気メーターが回らないか、試したくなった。最近の住宅には、ご丁寧にアースの端子がいたるところにある。これは家電の感電防止用であろう。私は、このアース端子と、100V端子の+側の電圧を、テスターで測ってみると、100ボルトあった。100Vあるので、ヘアドライヤーをつないでみたところ、漏電防止用のブレーカーが働いて、電源が切れた。現在は、この安易な方法では、盗電することはできない。60年前の借家の電気は、メーター制でなく、定額料金制であった。電気を使いすぎるとフューズがとぶ仕組みになっていた。このような方式では、先生が教えてくれた盗電は可能であろう。
 この借家は、私が徳島へ出ていった後も、父母と姉、弟が3年間住み、父母だけで10年ぐらい住み、母が死去した後も、父だけが10年ぐらい住んでいた。私はその間時折、この借家に帰っていた。私が大学生の頃、同級生の渡辺 最昭君がこの借家に泊まりに来た。また、弟も同級生を泊まらせたことがあったようである。狭い借家に、黙って泊まらせた母は、色々苦労が多かったであろう。今とは違って、その頃は安易な気持ちで他人の家に泊まったり、晩飯を食べたりしていた。私も、山口、光市の渡辺 最昭君の実家に泊まりに行ったことがあったし、同級生、二神氏の松山市の実家にも泊めて貰った。学生だということで、土産も持たずに訪れたことを、思い出す。現在は色々主婦の気苦労を知っているので、簡単には他人の家には訪問できないし、ましてや泊まるなどできない。今は他人より家族の都合を優先する時代になっているのであろう。
 私達は今も残っている借家の横を通り、総社駅に戻り、タクシーで総社高等学校へ行った。私は3年間、直線距離で2kmのこの高校まで、借家から徒歩で通った。私の妻も同じ高校に通っていたが、彼女はさらに遠方であったので、自転車で通っていた。妻の通学は、私より5年後であった。総社高等学校は、以前女子高校であったが、何時からか男女共学になった。そのため女子が圧倒的に多く、そのほとんどが家庭科の生徒であった。私はその3年間、学校では受験勉強と、家ではラジオの組立に多くの時間を費やしていた。
 大家の息子の中村 直人氏は勉強が良くできたので、現役で京大法学部に合格した。一方私は、受験に失敗し、1年間浪人した。高校卒業後同窓会があり、そこで中村氏に会ったが、彼はにこにこして、いやに低姿勢で私と接した。私は店子の息子であり、大家に対して常に引け目を感じていたので、彼の態度は不自然に思われた。当時、全ての面で優位にあった彼は、逆の立場の私に遠慮していたのであろうか。その後、同窓会が何回かあったが、私は一度も出席しなかった。私の住所も何回か変わり、その連絡をしていなかったので、同窓会名簿には住所不明のレッテルが貼られていた。
 総社高等学校の建物は、古い校舎を全部建て替えていたが、建物の配置は同じであった。折角母校に来たので、事務所に入り、私は昭和31年の卒業生であることを告げて、同窓会の名簿に私の住所を書いてくれと頼んだ。事務所の女性は、このような申し入れを受けたことがなかったのか、戸惑っていたが、係に連絡しておきましょう、と言ってくれた。これで私の住所不明は解消された。同窓会名簿が改訂されたなら、それを手にして喜びたい。
                            2010.4.10
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徳島、総社、京都4
 2009年11月25日午後4時、この旅行の最終目的地、京都に着いた。京都は、私が23才の時、大学を卒業して就職した、第一工業製薬(株)がある土地である。私は、京都に3年弱住んでいた。時がゆっくり流れていた徳島から、観光で賑わう京都にやってきた私は、当初戸惑ったが、すぐ慣れてしまった。会社での仕事は、研究部門の化学分析であったが、技術のレベルが大学に比べて低かったので、ゆとりを持って仕事ができた。私と同期に入社した大学卒の男子は、12人であった。マンモス会という名前の同期会を作り、何かにつけ飲み会を行い、痛飲した。そのため、二日酔いで会社を休むことが多かった。そのような日は、午後から京都の名刹を訪ね、酔いをそこでさますことが常であった。
 会社は新人研修のため、大卒12人を集めて、宇治にある黄檗山万福寺で6日間の合宿を行った。そこでは僧侶達の日課に合わせて生活し、座禅と僧侶による法話、また会社の人事課の社員による会社規則の講義など、今から思えば貴重な体験であった。私達は一週間、アルコールなしの精進料理で身を清められた。研修が終わったその夜は、娑婆で飲もうということで、四条河原町に繰り出し、旨い酒を大いに飲んだ。地元出身の同僚は飲み食いできる場所をよく知っていた。
 6月には親睦会と称して、京都市西京区にある善峰寺へ行き、泊まりがけで飲み会を開いた。この寺は、東海道本線、長岡京駅付近からも見える高台にあり、庭にある樹齢600年の「遊龍の松」が有名である。そのような名刹で一泊できたのは貴重な体験であった。宴会が終わった後、全員が大広間で枕を並べて寝るのであるが、荒井 靖夫氏が私に、境内を散歩しようと言ってきた。私も興味があったので、それに応じた。
 荒井氏は、阪大法学部を出た人物で、洛西寮という会社の独身寮では私と同じ部屋に住んでいた。その部屋は、6畳の広さで、布団を並べるだけの狭さであるから、万年床にしていた。3年間一度も部屋の掃除をしなかったので、彼も私も他の寮生から普通でない人物として見られていた。私が3年後会社を辞めて、日本ポリウレタン工業に転職した後も、彼とは時折横浜や京都で会っていた。彼は40才すぎて突然会社を辞め、仏門に入った。彼は、得度をして荒井際断という名前にかえた。その後も手紙のやり取りをしていたが、そのうちそれも途絶え、今彼はどこにいるのか判らない。
 そのような彼と一緒に、夜中の境内を歩いていた。梵鐘がある建物に来て、彼は何を思ったのか、その鐘を思いっきり打った。大きな鐘の音は真夜中の静寂をうち破り、宇治平野に響き渡ったであろう。翌朝彼は、僧侶から一喝されて、頭を下げていた。そばにいた私も責任はあったが、私にはおとがめはなかった。夜中に鐘を鳴らすと、檀家がびっくりするのでいけないと諭された。
 私が入社して最初に配属されたのは、研究部の分析部門であった。その職場は女性が多く、分析機器も多かった。私は電気に詳しいことが皆に知られて、機器の故障があると、金谷に聞け、と皆から言われていた。女性から頼みがあると、何はさておき、修理に専念した。接触が悪いとか、真空管が切れているとか、簡単な故障は直せた。それ以上になると判らないので、専門家を呼べ、と指示を与えた。ある日、人事部長がやってきて、当時まだ珍しかったトランジスタラジオを持ってきた。彼は、音が出ないから直してくれと、頼んできた。スイッチを入れても音が出なかったので、どこで聞いていたのかと彼に聞くと、昨日海水浴場で聞いていたと、照れくさそうに言っていた。トランジスタが壊れています、修理はできない、と私は彼に冷たく宣言した。当時のトランジスタは耐熱性がないのを私は知っていたので、そのように断言できた。
 京都の人達はピクニックが好きである。春と秋には職場単位で飯盒炊爨(はんごうすいさん)に出かける。私は飯盒炊爨という言葉を初めて聞いた。これは、目的地に着いて、みんなで食事を作って食べる意味に使われていた。本来の飯盒は、昔日本兵がこれを腰にぶら下げて、食事時これに米を入れてご飯を炊く、アルミ製容器であった。当時、まだ飯盒はご飯を野外で炊くのに使われていたのであろう。京都の目的地はさすがに豊富であった。彼等は京都市内でなく、亀岡とか、琵琶湖とか、大原などに目的地を選んだ。お陰で私は色々なところに行くことができた。
 この会社は、従業員用に宿泊施設を左京区岡崎に持っていた。玄武寮と言って、どこかの公家の屋敷を買い取った建物で、広い敷地に趣のある庭園があり、庭の向こうは平安神宮の森があった。建物は、明治時代に建てられた純和風の建物である。1階の広間で宴会ができ、2階は宿泊できるようになっていた。会社は、地方出身の社員が両親を京都見物に招待した際、この寮を食事と宿泊に使わせていた。会社の厚生施設はこれだけであり、これで十分であると会社の役員は胸を張っていた。私も両親をこの施設に招待して京都見物をさせた。特に母は、茶道と謡曲を趣味としていたので、茶会が開かれるお寺などの訪問に喜んでいたようであった。
 このような私にとって想い出の多い京都を訪れるのは楽しみであった。京都の宿泊は,駅前の新阪急ホテルであった。11月下旬の紅葉のハイシーズンでは、ホテルの予約は困難であり、特に駅近くはほとんど予約できなかった。幸いこの新阪急ホテルは、一泊朝食付き1.5万円で予約することができた。このホテルの部屋は、かなり古いが、ゆったりした感じの造りであった。午後6時、私達は、ホテル前の駅地下のレストラン街へ行った。観光客が大勢うろうろし、どのレストランも満席であった。京料理をゆっくり楽しむには四条河原町あたりまで行かなければならないであろう。私達は中華料理屋に入り、簡単に夕食を済ませた。
 翌朝早く、私は一人で七条千本通りまで散歩に出かけた。この七条千本南には、私が勤めていた第一工業製薬の本社と京都工場があったところである。以前は新幹線からこの建物はよく見えていたので、昨日も私は注意して会社を車窓から探していたが、見つからなかった。会社はどこかに移転したのであろう。私は、ホテルの前から西へ行き、七条堀川から七条通りを西へ歩き、昔の会社跡に着いた。そこは4階建ての古い本社の建物だけが残り、あとはマンションが建てられていた。当時研究部の建物からよく見えていた梅小路蒸気機関車操車場は、記念館として残り、他は公園になっていた。帰りは歩き疲れたので、市バスで京都駅まで戻った。
 9時半にホテルをチェックアウト。このホテルには、客の荷物を一時預かってくれるコーナーがあり、私達も荷物を預けた。私達は身軽になって、栂尾山の高山寺へ行くことにした。ホテルからすぐ前のバスターミナルへ行き、そこから栂ノ尾行きのJRバスに乗った。モミジ見物の客が多く、臨時バスが出ていた。高山寺付近は紅葉の盛りは終わったようで、寺の参道には色とりどりの落ち葉が落ちていた。
 高山寺からの帰りは、途中の仁和寺前で降りて、仁和寺を見物した。ここは紅葉が真っ盛りであった。山門を入って、すぐ左の仁和寺御所跡に入場料500円を払って入った。白書院、宸殿など、私が京都にいた時は見なかった建物を見ることができた。建物の周囲に造られている庭は、遠くに五重塔を取り入れたり、紅葉をうまく配置して、京都らしさがあった。しかし、あまりにも整いすぎた庭園の構成を眺めて見て、私はすぐ飽きてしまった。庭にも何か抜けたところが必要な気がした。
 その日は新幹線で東京へ戻り、一泊した後、翌日自宅に戻った。妻が私に、この旅行は昔を思い出す旅だったか、と聞いたので、私は、これは見納めの旅だ、と答えた。しかし、2回目、3回目の見納めの旅があるかもしれない。
                            2010.6.10
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ハワイアンズ
 私の誕生月は3月、妻のは2月である。それぞれ誕生祝いと称して、私達は一泊旅行に行くことにしている。幸い、この2月、3月はシーズンオフで、ホテル、旅館はサービス料金を実施している。それをインターネットで探して、行き先を決める。妻の2月の誕生祝いとして、私達は、いわき市湯本温泉のハワイアンズに行ってきた。私達は、福島県内の温泉地にはほとんど行っているが、ハワイアンズには行ったことがなかった。ハワイアンズは、1960年頃常磐炭鉱が廃坑になった後、従業員の雇用先を確保するために設立された。これは、ハワイをイメージした大型温泉施設である。福島県は勿論、全国的に知られたこの施設に、年間約120万人が訪れるといわれ、その人数は一般の温泉地に比べ一桁多い。一日平均3千人が入場する計算になるが、本当だろうか。
 この施設の宿泊用部屋は全部で500室ぐらいであるから、毎日1000人の人が宿泊する計算になり、2千人が日帰りの利用客になる。私達は、2月22日(月)に車でハワイアンズへ出かけた。ここには、ホテルハワイアンズとウイルポートという主な宿泊施設があり、私達はウイルポートに予約していた。午後3時頃、ホテル本館前に到着すると、ウオーターパークに行けと指示された。そこへ行くと、荷物と妻を下ろして、駐車場に車を止めて、歩いて戻ってこいと、係の人に言われた。駐車場は9ヶ所あり、駐車場の空いているところを探したが、どこも満車であった。幸い、宿泊者専用という駐車場が空いていた。そこに車を止めて、ウオーターパーク入口に行った。私は、早速チェックインをしようと思い、フロントが奥の方に見えたので、そこに行こうとすると、係の人に止められた。
 係の人(ガイド)は、これからウイルポートまで案内すると言って、10人ぐらいの到着したばかりの客をまとめて、広いウオーターパークの中を連れて歩いた。外の気温は10℃ぐらいで、この中は30℃ぐらいある。通路の下の方では広いプールがあり、多くの人が泳いでいる。2階になっているその通路は、海水着姿の客が歩いている。若いビキニ姿の女性達とすれ違う。ガイドに引率された私達は、冬姿で荷物を抱えて歩く。我々の雰囲気になじまない有様は、異様に見えるであろう。ガイドがついているからいいようなものの、一人で歩くにはちょっとした勇気が要る。ガイドは色々説明して歩くが、後ろを歩く人には全く聞こえない。ウイルポートビルに着いて、そこからエレベータに乗り、3階のホテルフロントに案内された。
 部屋は、大型客船の船室のようで、広い板の間にマットレスが4個置けるスペースがある。窓の外は吹き抜けの通路があり、その向かいには客室が並んでいる。施設の中には、ショップが10軒以上有り、私はスポーツ用品の店で、短パンとTシャツを買った。早速それに着替えて館内を見て回った。温泉場も5ヶ所以上あると思われ、私は裸で入れる温泉に入った。そこには大勢の客が入っており、特に子供が多いのには驚いた。私達がよく行く温泉宿は、老人客がほとんどで、子供の姿は見られない。夕食は部屋に備え付けのアロハを着て、バイキングの会場に出かけた。大勢の客で一杯かと思ったが、約50人が入れるこじんまりしたレストランであった。レストランは方々にもあるので、泊まり客はそれらに分散して食事をしているのであろう。
 8時10分からポリネシアンショーがあるというので、10分前にウオーターパーク内にある会場に出かけた。300席あると思われる会場はもう満席であった。通路で立って見るより仕方ない。多くの泊まり客は、このショーは人気があることを知って、早くから席に座っているのであろう。もう少し早く来れば良かったと後悔している。ショーで踊るフラダンスはさすがに上手い。ここで踊るには専属の施設の学校に入り、訓練を受けなければならないという。踊り手がステージに現れると、客席から掛け声がかけられる。彼等は、知人か親戚の人の出演を応援するために来たのか、賑やかである。私は、ハワイと台湾でポリネシアンショーを見たことがあり、これが3回目である。それぞれのショーは、特徴があって面白い。ここの見せ場は、フラダンスであろう。映画にもなった、鍛えられた踊りは十分楽しませてくれた。
 翌日、一泊2食付で一人1万4千円の料金を支払ってチェックアウトした。ウイルポートは、ウオーターパークに隣接し、水着のまま部屋に出入りできるので、本館のハワイアンズホテルよりやや高い。ハワイアンズホテルは、ウオーターパークに行くのに連絡通路を少し歩いて行かなければならないので、2食付の料金プランが1万円前後からある。一人で温泉に寝泊まりするには、このハワイアンズホテルは好都合である。客が大勢いるので従業員の目を気にすることはない。これが小さな旅館やホテルだと、一人客の行動が監視されているようで窮屈である。私は泳げないので利用しないが、プールで泳いだり、ショーを見たりする料金も、この1万円前後に含まれているので安いものだ。
 3月22日は私の誕生祝いと称して、私達は、東京新宿へ行った。東京へ行くルートは、車で常磐道、那珂ICの高速バス停に行き、そこから新宿行きの高速バスに乗る。終点新宿まで行くと、渋滞で時間がかかるので、途中の上野駅で降りることにしている。今回は、ルノワール展が国立新美術館で開かれていたので、山手線で原宿へ行き、そこから地下鉄千代田線の乃木坂駅へ行った。このルノアール展は、全世界からルノアールの油絵が85点集められた展覧会である。各地にあるルノアールを見に行かなくても、入場料1500円支払うだけでルノアールの名画が簡単に見られる。このような企画を見逃す手はない、と私は思った。ルノアールの絵は、日本人が好むのか、85点のうち国内にあるのが44点であった。そのうちポーラ美術館所蔵が17点である。ポーラのオーナーがルノアールの絵を好んでいたのであろう。
 ルノアールの作品85点を一度に見られて、私は堪能したが、彼が生涯で描いた作品は4000点を下らないと言われている。そういえば、彼の描いた大作、「ムーランド・ラ・ギャレット」などは展示していなかった。私は、以前パリのオランジェリー美術館で、「ピアノに寄る少女たち」や「おもちゃで遊ぶ少女」などをみて感動し、写真に撮ってきた。これらの絵がまた見られるかと、期待して探したが、なかった。海外で見た名画を日本で再会、という私のドラマは実現しなかった。
 宿泊のホテルは、新宿の京王プラザホテルである。私は、東京での宿泊はここと、品川のプリンスホテルを使うことにしている。品川プリンスは年間を通じて宿泊料金をあまり変えていないが、この京王プラザは季節で料金を大きく変えている。2月、3月はオフシーズンで、普段高くて泊まれない部屋を安くしている。これらの情報はホテルのホームページでチェックできる。今回は39階の3902号室に泊まった。正面に都庁が見える部屋で、部屋がゆったりした広さである。朝食付きで一人13500円であるが、ハイシーズンではおそらくこの倍ぐらいの値段になるであろう。
 翌日は妻と別行動をとり、私は横浜の横浜美術館へポンペイ展を見に行った。妻は、ホテルでゆっくりしたいというので、11時にチェックアウトし、東京駅の大丸へ買い物に出かけた。ポンペイ展には、約2000年前、火山灰で埋まったポンペイの町を発掘して得られた、多くのフレスコ画が展示されていた。これらの絵は、別荘などの壁に描かれていたフレスコ画を壁ごと切り取って、美術館などに保管されているのであろう。そのようなフレスコ画が横浜まで運ばれてきたわけだ。2000年前の絵にしては、色彩があざやかに保たれていた。火山灰に含まれていたシリカゲル(乾燥剤)が保存に役立ったと言われている。
 ポンペイは、当時港湾都市としても栄え、船乗り相手の娼婦の館が多くあった。その館の壁には、男女の性行為のフレスコ画が多く描かれていたと言う。私はその絵の一枚をインターネットで見た。この絵は、さすがに日本には来なかった。これが来て展示されれば、わいせつ物陳列罪で当局から指摘されるであろう。例え2000年前の絵と言えども、芸術作品としての評価は難しそうだ。
                            2010.7.10
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イタリア旅行1
 私達は、ユーラシア旅行社企画の「イタリア歴史物語、15日間」に参加した。出発は2010年5月27日(木)で、帰着は6月10日(木)であった。ツアーのコースは、最初ミラノに到着し、そこからバスで色々な町や村を南下しながら訪ね、終着地はローマである。イタリア全土の世界遺産は、45ヶ所あるが、今回のツアーではそのうち16ヶ所を見た。日本の縄文時代に、イタリアではローマ共和国がすでに樹立されていたので、見るところは実に多い。建物は石やレンガで造られていたので、当時の遺構が今も多く残っている。イタリア人のほとんどはカトリック教徒である。その教会は町(集落)の中心に造られ、そのそばに住民が集まる広場や公共施設が造られている。その都市構成は、イタリア全土に共通しているようである。広場に接する昔の宮殿とか市庁舎は、現在、博物館や美術館になっていて、教会と共に観光のスポットになっている。広場にはレストラン、土産物屋も集まるので、観光は広場周辺だけで済ますことができる。
 私は、日本の民放テレビの「小さな村の物語、イタリア」という番組を、毎週見ている。これは、イタリアの山間にある小さな村に住む人達の物語で、家畜を飼い、畑を耕して、細々と生きている人達を紹介する番組である。テレビの映像は、豊かな自然と昔からの石造りの建物がとけ合って、大変美しい。ナレーションは、三上 博史氏が担当していて、彼のソフトでゆっくりした口調が、風景とマッチして心地よい。その三上氏は、現在は売れっ子になっているようであるが、4、5年前、まだ彼が暇だった頃、テニスを楽しみに近くの棚倉町へ来ていた。その時、私も同じ室内コートで、テニスをしていた。彼が来た日、テニススクールの女性達が騒いでいたので、私は彼の存在を初めて知った。彼はお忍びでテニスを楽しみに来ていた。テニス施設の関係者は、彼に近寄らないように、と我々に注意していた。だから、遠くからしか彼の姿が見えなかった。そのようなことがあり、私は三上氏を知り、そのイタリアの番組も親しみを持って見ている。
 今回のイタリア旅行は、町から次の町までバスで移動した。遠くの山の中腹に集落が時折あり、それらがテレビに出てきた小さな村に見えた。そのような村では、今でも村人は貧しい生活を続け、日曜日には教会に集まり、夜には村に一軒しかないBARでワインを飲みながら歓談する。そのような光景を私は想像した。道路の沿線には畑が多く、水田も見られた。畑には小麦とかぶどうなどが植えられていた。牧場はほとんどなく、おそらく山中の畑ができない場所に、家畜が放牧されているのであろう。少年が裸馬に乗って、家から遠く離れた山中に放牧されている牛を上手に集めていたテレビのシーンを、私は思い出した。
 初日のミラノでの観光は、市の中心に近い所にある、サンタ・マリア・デル・グラツィェ教会の訪問であった。ここには、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、有名な「最後の晩餐」がある。この壁画は、教会の別棟の食堂に飾られている。これを見るには、完全予約制で、一組約20人の人数制限で、15分の時間制限で、観賞できる。絵を見る前に、別室でこの絵に関する15分ぐらいのビデオを見せてくれる。客は予備知識を頭に入れた後、本物の壁画を見て、感動する仕掛けになっている。この建物は、修道士の食堂であり、あまり大きくなく、長方形になっている。食堂の奥の壁全体に、この「最後の晩餐」が描かれている。私は、中学生の頃、この絵の遠近法を教科書で見たが、実物を目の前にして感動した。壁画から離れてみると、この食堂の奥に、壁画に描かれた壁が実際にあるように見える。さらに絵の奥に描かれた3つの窓と外の景色が、本当にあるように見える。ダ・ビィンチは、この壁画を描くとき、絵の世界と現実の建物を3次元に表現したのであろう。今流行の3Dテレビや3D映画の思想が、500年前にダ・ヴィンチによって既に試みられていたのだ。
 この絵は、従来のフレスコ画ではなく、油絵の具と、卵などを使ったテンペラを混合して制作された。そのため、傷みがひどく、20年かけて修復をして、1995年に完成した。フレスコ画は、壁に漆喰を塗り、その漆喰が生乾きの間に、水や石灰水で溶いた顔料で描く。生乾きの時間が短いので、じっくり絵が描けないのが欠点であるが、描き上げた絵は保存がよく、2000年以上も変色しないという。ダ・ヴィンチは、この「最後の晩餐」をじっくり仕上げたいという気持ちがあって、テンペラ画を採用したのであろう。その絵に描かれた13人の顔の表情が、驚くほど細かく表現されていた。
 この有名な壁画もそうであるが、教会に飾られているキリスト(イエス・キリスト)やその弟子達の顔は、画家の想像で描かれている。今回のツアーで教会のフレスコ画を何十枚も見、キリストの顔も多く見たが、画家によってその表情は少しずつ異なっていた。宗教画は、聖書のシーンを絵にして、信者に目でキリストの教えを理解させるために描かれた。キリストの顔は、見本がないので、画家は勝手に想像して描く。全くの想像では難しいので、近くにいる人達をモデルにすることが多かったのであろう。その時代の男性の顔がキリストの顔に反映されるのは、当然であると思われる。これらの絵に描かれているキリストの顔に、共通点が存在するように、私は感じた。その顔は、慈愛に満ち、多くの苦しみを一身に受けているので、痩せている。顔全体は平面的であり、目はややたれ目であり、伏せ見がちである。髪は長く両側に垂らし、頬ひげを生やしている。そのようなキリストの顔が共通してあるように思えた。
 キリストの顔は個性的でないのが好ましく、むしろ平均的な顔立ちが好ましい。愛する夫が他界し、妻は、教会の礼拝堂に飾られているフレスコ画のキリストに、その面影をダブらせて、夫を偲ぶ。毎週の礼拝では、夫との再会のために教会に行き、キリストの姿を拝む。妻は、夫の記憶が薄れても、キリストを見れば再び記憶がよみがえる。キリストと同じように、夫が復活してこの世に現れるかもしれない。そのような役目を絵が果たすのなら、キリストの顔は土地の平均的男性の顔に似ていなければならない。
 このツアーでは、イタリア滞在中、9回の夕食が用意されているが、3回は夕食がない。大きな都市で、連泊する日に夕食がないケースが多い。宿泊するホテルは都心に近い所を選んでいるので、その気になれば自分で食事をすることができる。旅行会社は単独で食事をすることができない人のために、添乗員がそのような人を集めて、レストランに案内してくれる。私は必ず添乗員に付いて食事に行くことにしている。添乗員は、案内するレストランと料理の内容と大体の予算を予め教えてくれる。料理は、添乗員が適当に見繕って、注文してくれるので、自分たちは飲み物を添乗員に申し出る。実に気楽に土地の料理を楽しむことができる。料理代は割り勘で、各自の飲み物代をプラスして、料金を添乗員に支払う。
 ツアーが用意する昼食や夕食は、地方の名物料理を食べさせてくれることが多い。レストランは狭いところ、広いところ様々であるが、都心から離れたレストランでは、ツアー客のために席を一列に並べてくれるところもある。そのような向かい合わせで座る席では、色々な話題が出て、会話が活発になる。つい先ほど見た「最後の晩餐」を思い出し、「こう一列に並んで座ると、最後の晩餐の絵のようだな」と、誰かが言う。中央に座っていた高知からきた男性が、「わしが、さしずめキリストやな」と、にこにこして言う。向かいに座った別の男性が、「キリストは丸顔でなかった」と言って、皆大笑いした。話が乗って、誰がキリストに似ているか、という話題になった。髪が長く、両側にたれていて、鼻が高く頬が落ちているところから、添乗員の岡崎さんがキリストに似ている結論になり、皆は大喜びした。弟子のヨハネとかペトロなどに話が進むには到らなく、誰もそこまで観察をしていなかった。当の岡崎さんは、端っこに座り、隣の人達とにこにこ話し合っていた。
 私は、ツアーで回った各地の風景などを、毎回数枚の油絵にしているが、今回は岡崎さんをイエスにして、参加者を弟子に見立てて、絵を描いてみたい。その題名は、イエス復活後の「最初の晩餐」とする。乞うご期待!
                            2010.8.10
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イタリア旅行2
 今回のツアーの参加者は18名で、そのうち夫婦連れは7組であった。ほとんどが60才代の人達で、70才以上は私を入れて2名程度であろう。私は、グループの中で最高年齢者になりつつあり、そろそろこのようなツアーには参加を遠慮しなくてはならない年齢になりつつある。あるツアーの申込書に、75才以上は医師の診断書が必要、という注意書きを見かけたが、ハードなスケジュールでは確かに必要であろう。今回のツアーのスケジュールは特にハードな内容はなかったが、早朝出発が多かった。早起きは老人にとって得意であるから、私は苦痛を感じなかった。
 ツアーで気持ちよく観光できるのは、ひとえに添乗員にかかっている。添乗員側からすれば、参加者の協力次第である、と考えているであろう。ツアー出発日の数日前に、添乗員が参加者に電話をかけてくる。集合カウンターなどを色々と説明してくれるが、全て書類に記されているので、わざわざ電話をかけて来なくてもよい。しかしこの電話は、初めての添乗員との会話であるから、私達は、添乗員がどのような人か、声で想像することにしている。今回の添乗員は、岡崎さんといい、女性である。話しぶりから、30才前のさっぱりした人を想像した。妻は最初にその電話に出たが、耳が少し悪いため、すぐ私が代わって対応した。その妻も、私と同意見であった。出発当日、初めて彼女に会って、予想通りであった、と二人でうなずき合った。
 添乗員も参加者一人一人に電話をして、どのような人物か予想し、この男は判断が遅いとか、チェックしていたに違いない。年を取ると、話し言葉からの状況把握が鈍くなる。耳が遠くなると、なおさら把握しにくくなる。言葉の雰囲気から推定して、何を言っているのか、判断せざるを得ない。添乗員の発声は極めて重要である。添乗員の岡崎さんは発声が明瞭で、判りやすい言葉で大きな声で話すので、私達にとって大変有り難かった。特に声の大きさは優れていて、イヤホーンガイドを使用しないレストランなどでは、その声が店中に響き渡る。ある人が、そんなに大声を出さなくても、と言っていたが、耳の悪い人もいるのだから、遠慮して声を小さくすることはない。
 話はそれるが、年を取ると、視覚が鈍くなる。私は、テレビに出てくる若い女性の顔が全部同じに見えるようになった。顔が同じであるから、勿論名前は憶えられないし、その努力もしない。若い女性の顔に個性がなくなったのかもしれない。テレビのプロダクション会社は、流行の顔の女性を採用し、同じ髪型、同じメーキャップ、似た衣装を着せて、テレビ出演させる。私には、女ロボットがテレビ画面に現れているようにしか見えない。今の女性の髪型は、髪をやたら長くし、それを両側に垂らす、のが流行っているようだ。先日、地方のテレビ局で、お盆の日に成人式をした画面が出ていた。20才の女性が和服姿で映っていたが、髪は、全員両側に長く垂らす型にしていた。その姿は、夏の夜に出てくるお化けのようで、気味が悪かった。
 ツアーでは添乗員の後を追って歩くことが多い。混雑するところでは、添乗員の後ろ姿を記憶しておく必要があり、その記憶を頼って必死について行く。添乗員の服装は黒系のスラックスとスーツが多いから、別のツアーが入ると、識別がつかなくなり、うっかりよそのツアーについて行きそうになることもある。添乗員は派手な奇抜な服装をして貰いたい。私達の参加者に変わった服装をしていた人がいた。その人は吉井さん(仮名)といい、50代の女性で、一人で参加していた。大柄な模様の布地を、体にかぶせるような服を着ていたので、よく目立った。吉井さんは背が高かったこともあり、私は彼女を目印に歩くことが多かった。
 参加者の中には、マドンナと称してよい女性が必ずいるようだ。今回のツアーでは、私は吉井さんがマドンナであると決めた。彼女は背が高いせいか、ガイドが説明するとき、何時も集団の外に控えめに立っていた。彼女は、参加者と積極的に話しかけたりはしなく、孤高を保っているようで、近寄りがたい存在であった。ある食事時、私は偶然彼女の隣に座ることになった。マドンナが隣に座ったので、私は嬉しくなり、色々彼女に話しかけた。彼女の夫は学者のようで、人の話を全く聞かないと、彼女は嘆いていた。だから夫婦の会話はなく、互いに一方的に喋って終わるのだと言う。私は、彼女の話を相づちを打ちながら聞いていた。食事の後、彼女は、話をよく聞いて貰って嬉しかった、と私に感謝した。私は、自分が無口で、普段妻の話を聞くだけであるから、話は良く聞くし、相づちもうまい。私は、話を聞くだけで他人から感謝されたのは、初めてであった。
 ツアー11日目、私達は、ウンブリア州ペルージャ県スペッロ町の「花じゅうたん祭」を見に行った。この祭りは年1回1日だけしか行われないので、ツアーは、この日に合わせてスケジュールを作っていた。スペッロは小さな町であるから、ホテルはない。ツアーは、アッシジ市のホテルから早朝6時に出発し、スペッロには6時半に着いた。既に観光バスが集まり、多くの人が町に入っていた。今年のキリストの聖霊降臨祭は6月5日で、花じゅうたん祭もこの日に行われた。石畳の狭い道にシートを敷き、思い思いの絵模様を下書きし、その上に接着剤を塗り、近くの野原から摘んできた花びら、種、葉っぱなどを乾燥させて、それらを貼り付けていく。作業は夜を徹して4、5人のグループで行う。朝8時から祭りが始まるので、私達がその町に着いた頃は最後の仕上げの段階で、作業する人達は興奮していた。
 この祭りは宗教行事であるから、その絵柄は聖書にまつわるものが多い。全く関係のない抽象画的模様もあったりして、見ていて楽しかった。メイン道路から離れた狭い路地では、年を取ったおばあさん達が直接石畳に花びらを撒いて、単純な花模様を造っていた。この日に合わせて、民家の軒先には、色とりどりの花が飾られていた。6年前から毎年「路地の花コンテスト」を行っており、この飾り付けを見るのも楽しい。広場の近くに幼稚園があり、建物の入口の通路に、園児が描いた絵が飾られていた。日本と同じように、園児達は、花や太陽などを大胆に描いていたが、その中に裸の人間の集団を描いていた絵が目についた。そのポーズが宗教画のようで、教会の壁画の影響を受けているようであった。
 9時を過ぎると多くの観光客がやってきて、花絨毯でさらに狭くなった道路は人であふれ、思うように歩けない。朝6時のホテル出発は、慌ただしかったが、このような混雑があるから、早朝出発はやむを得なかったのであろう。早朝出発は、立派なノウハウである。11時頃、これらの完成した花じゅうたんの上を、教会の神父達が歩いて行進する。この時が祭りのクライマックスであろう。行進の後、観光客達は花じゅうたんの上を歩く。一夜かけて丹精込めて造った花絨毯は一瞬のうちに花ゴミとなり、祭りは終わる。私達は、この最後を見ずに、次の訪問地である、同じ聖体祭が行われているオルビエートへ向かった。
 人口2万人の小さな町、オルビエートには立派な大聖堂がある。キリストの血がついた「奇跡の布」を収めるため、ローマ法王が1290年にこの聖堂の建設を命じた。計画に30年、建設に300年を要しており、建物には多くの彫刻、フレスコ画、モザイク画が飾られている。9時半頃、私達がこの町に着いた時、聖体祭のパレードが既に始まっていた。各領主の軍服とかその地方の衣装を身につけた人達が、旗とか槍などを持って、楽隊を従えて行進する。これらの行列は、大聖堂の横から入り、再び正門から出てくる。行列の最後には、「奇跡の布」が収められた御輿が神父達に囲まれて行進した。この御輿に対して信者達は手を合わせていた。私達は、行進が終わった後、大聖堂の中を見学することができた。祭壇の横には聖歌隊が聖歌を合唱していた。この歌は、町中に設置されたスピーカーから流され、それが耳を覆いたくなるほどの大きな音響であった。祭りを盛り上げるには大きな音は必要かもしれないが、信者でない私には騒々しく聞こえた。
 スペッロとかオルビエートは、普通の旅行ガイドには載っていない町である。今回、これらの町を訪問して、それぞれ古くからのイベントが残り、歴史的な建物があるのを知り、私はイタリアの歴史の深さを改めて認識した。
                            2010.9.10
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イタリア旅行3
 我々は、ツアー10日目に、オルチャ渓谷でウオーキングを行った。アルプスなどの山岳地方のツアーでは、ハイキングとかトレッキングなどがよくあるが、渓谷のウオーキングは珍しく、どのようなところを歩くのか、楽しみであった。ウオーキングであるから、トレッキングのようなハードなものではない、と予想していた。オルチャ渓谷は、トスカーナ地方のなだらかな丘陵地帯にあり、フィレンツェとローマの中間ぐらいに位置する。日本では、渓谷は、山と山が落ち込んだ所に渓流がある、とそのような所を、私は想像していた。歩いたオルチャ渓谷には川もなければ、谷間もない。なだらかな丘があり、その丘と丘の間が渓谷であると、イタリア、トスカーナ地方ではいうのであろう。
 ツアーの経路では、モンタルチーノという城塞のある町を見学した後、オルチャ渓谷を約1.5時間歩き、その後アッシジに向かう。モンタルチーノは、標高567mの丘の上にあり、14世紀にシエナの反乱軍が4年間立てこもって戦った城塞址がある。城の中に売店があり、「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」というワインが売られていた。私はこのワインの知識が全くなかったので買わなかった。試飲コーナーがあったが、5ユーロ必要というので止めた。私達は、バスでモンタルチーノからサン・クイリコドルチャへ行った。この小さな町が、オルチャ渓谷ウオーキングの出発点である。
 世界遺産である「オルチャ渓谷」は、ヴァル・ドルチャ(オルチャの谷)を日本語にしたもので、「オルチャの谷」の方が地形に合っている。なだらかな丘の中央にオルチャ川が流れ、そこを横断する道は、中世時代、ローマやエルサレムへの主要な巡礼路として使われ、多くの巡礼者や商人が行き交った。私達が歩いた道は、車が2台通れる広い道で、しかし舗装されていない自然な道であった。道には糸杉が所々植えられ、道ばたには自然に生えている草花と、その奥には葡萄の木が栽培されていた。
 このウオーキングには、地元のクレールさんという女性が案内してくれた。彼女の側を歩けば、色々な説明が聞けたが、私は集団から離れて、先頭グループを歩いた。なだらかなアップダウンがあり、石ころのある道は歩きにくいが、私はすたすたと熱心に歩いた。私の前には、高知の網元の奥さんがせっせと歩き、彼女に追いつこうとがんばったが、その間隔はなかなか縮まらなかった。彼女は良く太っていたが、普段よく歩き回っているせいか、驚くほど健脚であった。彼女は、休まず歩いて、先頭でゴールした。このウオーキングは、終点のバーニョ・ヴィォーニまでの約4kmを、約1時間半かけて歩くものであった。私は、久しぶりのウオーキングで足を痛めるかと思ったが、後日までその影響はなかった。日頃テニスで足を使っているお陰であろう。妻も無事に完歩した。スポーツとは縁遠いと思われたマドンナも、平気な顔をして到着地にやってきた。
 その日の夕方、アッシジに向かった。アッシジは、キリスト教のフランチェスコ聖人が生まれ、布教し、生涯を閉じた町である。アッシジは、スパシオ山の端の丘にある。ここには大きなサン・フランチェスコ聖堂があり、フランチェスコ修道会の信者の巡礼地として、多くの信者が訪れる。到着したのは夕方であったが、多くの外人ツアーが聖堂の周りに集まっていた。その聖堂は、丘の端に下堂と上堂の2階建てとして建てられ、それぞれの入口が道路でつながっている。下堂は墓所で、上堂は儀式が行われる。
 フランチェスコが死去した後、ローマ法王は、彼を聖人とし、この聖堂の建設を1228年に命じた。この聖人の墓は下堂にある。1997年の大地震でこの聖堂の上堂は、天井が落ちるなど損害を受けた。世界中のボランティアが集まり、2年をかけて、天井壁画などを修復した。私達は聖堂内部を見学したが、その傷跡は全く見られなく、ジョットが描いた28枚のフレスコ画を観賞することができた。ジョットの作品で最も有名なのは、「小鳥に説教する聖フランチェスコ」である。このフレスコ画は、聖堂の出入り口の上に描かれて、場所的には暗い所にあった。当時、ジョットは、この絵を、今までの宗教画にない人物描写や、遠近法による背景の描写をした。そのため、彼は遠慮して、一番隅の目立たない所に描いたのではないか、と私は思った。このルネサンス絵画の先駆けになる壁画を見ることができて、私は感動した。
 この聖堂には日本人の修道士がいて、私達に聖堂の案内をしてくれた。ツアー会社がスケジュールを彼に予め知らせて、それに合わせて、彼が会ってくれたのであろう。彼は、フランチェスコ聖人の教えを説明し、聖堂内のガイドをしてくれた。案内が終わった後、添乗員はお金を紙に包んで、彼に差し出していた。参加者の一人も、個人的にお金を差し出していた。ツアーの説明書に、運転手や土地のガイドには、添乗員がチップを渡すので、参加者はその心配は不要である、と明記してあった。修道士に対しては、チップでなく、お布施のようなものであるから、信者と思われるその参加者は思わずお金を差し出したのであろう。その修道士は有り難く受け取っていた。
 サン・フランチェスコ聖堂の前の広場から、ウンブリア地方の田園風景が遠くまで見渡せる。また、広場には、フランチェスコの銅像が建てられていた。彼がまだ若かった頃、騎士になろうと思い立ち、ペルージャとの戦争に参加したが、捕虜になって掴まった。富豪の父親が莫大な身代金を支払って、彼を解放してもらい、彼は馬に乗ってアッシジに帰ってきた。その様子が銅像で表現されていた。銅像は、若いフランチェスコがうなだれ、馬もうなだれていた。銅像といえば、馬は前足を上げ、人物は正面を向いて、堂々としているものであるが、この銅像は、2者とも下を向いていて、実に珍しい。その帰郷後、彼は、急速に宗教的な回心をし、やがて西洋人には珍しい自然と一体化した聖人として、国や教派を超えて世界中の人から愛された。ヨハネ・パウロ2世は、彼を「自然環境の保護聖人」とした。現在、自然環境保護が世界各国で騒がれているが、800年前に、彼はその精神を既に教えていたのである。
 スパシオ山の麓の平地に、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂がある。そこから、丘の上の巨大なサン・フランチェスコ聖堂が眺められる。フランチェスコは、若い頃小さな小屋で、仲間と共同生活をして、宣教活動を始めた。彼の没後、その小屋を保護するために、このサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂が1569年に建てられた。大きな聖堂の中に、この小屋が置かれていた。この聖堂は、世間にはあまり知られていないが、世界で7番目に大きい立派な建物である。
 この地方の平地は、粘土質で塩分が多く、雨が降ると排水が悪く、いつまでもじめじめして、不衛生であった。そこで裕福な人達は、丘の上で生活するようになった。しかし、貧しい人達は、この平地にしか住めなかった。そのような貧しい人達と一緒に、フランチェスコとその仲間達が布教をしながら暮らしていた。彼が45才で死んだのも、この小さな小屋の中、と言われている。
 この聖堂の敷地に、バラ園がある。当時、フランチェスコが修行のため、裸になってバラの中に横たわった時、一瞬にしてバラのとげがなくなった、と言われている。現在、このバラ園に、「とげのないバラ」が育っている。我が家の庭にも、とげのないバラが1本あり、毎年多くのピンク色の花を咲かせている。このバラは、白河市のバラ園で「春がすみ」という名前で売られていたのを、6年前に買って、植えたものである。私は、この「春がすみ」の先祖は、フランチェスコの奇跡のバラである、と思っている。フランチェスコの奇跡と、この「春がすみ」を結びつけると、アッシジが身近に感じられる。
                            2010.10.10
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イタリア旅行4
 私達が参加したツアーには、終日フリータイムが3回あった。大きな都市に2泊または3連泊する時に、そのフリータイムが設定されている。これは、高齢者にとって体を休める良い機会で、ホテルでゆっくりしたり、ホテルの近くを散歩したりして、休日を楽しむことができる。フリータイムで使う費用は全て個人負担であるから、ツアー会社は負担軽減できるが、添乗員は、フリータイムだからといって、参加者をほったらかしにして置くわけにはいかない。添乗員は、参加者の希望を聞いて、ショッピングに連れて行ったり、夕食のレストランに一緒に行ったり、観光スポットに案内したり、サービスに忙しい。このようなきめ細かいサービスをしないと、ツアー最終日に配られるアンケートに良い評価が得られない。アンケートは直接会社に渡されるから、評価が悪いと、添乗員には良くないレッテルが貼られる。
 フリータイムにはアディショナルツアー(オプション)が設定される場合が多い。今回は、フィレンツエでのウフィッツィ美術館見学と、ローマでのナポリ・ポンペイ1日ツアーがオプションであった。’10年6月3日、私達はフィレンツエでのウフィッツィ美術館を見学した。この見学は、3500円をツアー料金に追加しておけば、予め予約をしてくれ、会場で決められた時間に入場ができる。ウフィッツィ美術館は、メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館であり、イタリアルネサンス絵画の宝庫である。ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロら、イタリアルネサンスの巨匠の絵画が数多く展示されている。ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」や「東方三博士の礼拝」、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」、ミケランジェロの「聖家族」など、教科書にあった名画が目の前で見られた。しかし、3ヶ月経った今、私はその折角の感動と記憶が薄れてしまったのは残念である。
 この日、美術館の入館は朝8時半の予約であったので、オプション参加者は8時前にホテルを出発し、歩いて美術館に行った。このオプションの参加者は、ツアー参加者のほとんど全員であった。ウフィッツィ美術館が見られる機会はそう多くはない、と感じた人達が多かったのであろう。観賞2時間後に、美術館の入口に皆が集まり、そこで待っていた添乗員の岡崎さんが、歩いて10分ぐらいの所にあるサン・マルコ美術館へ案内してくれた。ここにはフラ・アンジェリコの有名なフレスコ画「受胎告知」を観賞することができた。ピンク色の衣を着けた天使の明るい色彩は、600年前の作品とは思えない美しさであった。岡崎さんはその後、私達を中央市場まで歩いて案内し、そこで各自昼食を取った。私達は皆と離れて市場の一角にあるPork'sという食べ物屋に入り、鮭味のスパゲティを食べた。ビール、カプチーノなどで、2人で20ユーロを支払った。
 その後岡崎さんは、参加者を歩いてドォオモまで連れて行き、その内部と礼拝堂、メディチ家礼拝堂を見せてくれた。その次に、ヴェッキオ橋などへ案内することになっていたが、私達は疲れたのでホテルへ戻った。その日の夕食も、岡崎さんが、ホテルの近くの「ACCADI」というレストランに案内してくれ、イタリア料理のフルコースを注文してくれた。このレストランのオーナーは日本人で、料理がでる度に、その料理の説明をしてくれた。ワインは、各自グラスワインを飲むよりは20ユーロのボトルを皆で飲んだ方が安上がりだというので、1本10人で飲んだ。料理が美味しいのでもう一本追加注文した。ホテルに戻ったのが夜10時であった。今日は朝8時から夜10時まで、岡崎さんは参加者につき合ってくれたのである。終日フリータイムは、添乗員にとって最も忙しく、気苦労の多い1日であろう。
 ツアー13日目の6月8日は、ローマにて終日フリータイムである。この日は、オプションとして「1日ナポリ・ポンペイツアー」が設定されていたので、私達夫婦は参加を予め申し込んでいた。ツアー費用は一人16,700円である。このツアーに参加したのは、私達含めて7人であった。朝6時半出発で、ローマ帰着が午後8時予定のハードな行程である。ローマにある、「My Bus」 という地元のツアー会社が企画するツアーに、日本から来た他のツアー客と一緒に参加した。他のツアー客は15名で、私達を含めて22名が、ローマからバスでナポリに向けて出発した。ローマからナポリまで約2時間かかる。ユーラシアの参加者は朝食を食べなかったので、ホテルが用意してくれた弁当を車内で食べた。ナポリ港に着き、そこからカプリ島に行く7名の人達が下車し、またポンペイ観光に参加する別の2名が乗り込んだ。ナポリでは、バスの中から市内の一部をガイドが説明し、卵城近くの海岸で下車し、ヴェスヴィオ火山、ソレント半島、丘に広がる街並みを眺めた。
 ここからの景色が絶景だと言われ、ここは、「ナポリを見て死ね」という言葉の発祥地と言われる。私は、この景色を見て、そのような気持ちにはなれなかった。これが絶景か?という感じであった。変哲のない唯の海岸線ではないか。10分ぐらい海岸をぶらぶらして、ポンペイに向かった。途中、G.APAというカメオの工房に立ち寄り、30分の休憩を取った。この工房は、職人がカメオを加工しているところを見せてくれる。その工程を案内人が一通り説明した後、工房の従業員はカメオのセールスを熱心に行った。工房は、ツアー会社と手を組んで、客に商品を売らせる仕組みである。
 ユーラシア旅行社は、このような店との結託は全くないのが特徴であるが、買い物を楽しみにしている人にとっては少し物足りない気がするであろう。イタリアと言えばカメオであるが、妻は、旅行の記念に欲しいというので、従業員に説明を聞いた。その女性従業員は良いかもだと思って、熱心に日本語で説明した。素材がメノウらしい、ブルーのカメオが珍しかったので、260ユーロでそのブローチを買った。カメオとは困難(彫刻するのが困難)という意味らしい。
 ポンペイには12時過ぎに着き、ポンペイ遺跡のすぐ前のレストランで、シーフードのスパゲッティを食べた。当日は晴天で、日差しが強く、サングラスが必要であった。広い敷地の遺跡に入場料を払って入り、専門のイタリア人の男性が日本語で案内した。ジュピターの神殿跡の向こうに、ヴェスヴィオ火山が見えた。この山の右側が大きくくぼんでいて、窪んだその部分が火砕流になって、ポンペイを襲ったのであろう。この山の形を見ていると、私は福島の磐梯山を思い出した。裏磐梯から見る磐梯山は、ヴェスヴィオ山と同じように、右側が大きく窪んでいる。磐梯山の右の部分が爆発して、火砕流が麓に流れて、五色沼などを造ったのであろう。
 ポンペイは、紀元前8世紀頃からワインやオリーブ油の輸出で栄え、西暦79年の噴火直前には、人口2万の都市であった。被災当時のポンペイは、ローマ帝国の都市形態が整えられ、色々な神殿、大浴場、大劇場があり、貴族の別荘も多くあった。ポンペイは港でもあったので、船乗り達も多く、彼等を相手にする娼婦の館も多くあった。その娼婦の館跡も遺跡の中に残っている。私達日本人ツアー客を案内したイタリア男性は、何故かこの館跡を案内せずに、素通りしてしまった。ローマから一緒に来た日本人の女性ガイドが、彼を引き留めて、説明するように彼に要求したが、彼はいやがった。仕方なしに、彼女が、通りの入口にある男根を模った館のシンボルマークを説明し、その奥の路地に館跡がある、とだけ説明した。私は、その路地からぞろぞろ出てきた西洋人の表情を眺めて、その館跡を想像した。恐らく館跡には男女性交のフレスコ画(コピー)が飾られていると思われる。本物は、ドイツの美術館に収納されている。何故、イタリア男性はこの館跡を案内しなかったのか。彼は、私達の年齢層を考えて、興味がないと思ったのであろう。
 4時過ぎにポンペイを出発し、ローマへ向かった。この調子では、夕方7時前にはローマに着くだろうと思っていたが、ナポリ港でカプリ帰りの客をのせ、途中の土産物店で1時間近い休憩をさせられた。この土産物店は、ローマのツアー会社、「My Bus」の直営店であろう。店の駐車場には、My Bus のマークの入った観光バスが10台近く留まっていた。店の入口で、日本人の店員がキャンディーを配り、店内の説明をした。この日、2ヶ所で買い物をさせられたが、イタリア土産を買うのに丁度良い機会でもあった。予定より1時間遅れの午後8時に、ローマの共和国広場に着き、そこで辛抱強く待ってくれた岡崎さん達と、夕食のレストランに向かった。ホテルに着いたのは夜11時であった。夜遅くまで私達の面倒を見てくれた添乗員の岡崎さんに感謝しなければならない。最終日に配られた旅のアンケートに、私は、岡崎さんの仕事は「非常に良い」をマークした。
                            2010.11.10
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’10年、夏から冬
 今年の夏は猛暑続きであった。夏の暑さは10月まで続き、11月になってやっと涼しくなり、すぐ冬になってしまった。秋の短い気候は、私が4年間住んでいた徳島の気候を思い出した。徳島は、10月頃まで夏の残暑が続き、11月に入ると、急に寒くなる。京都から移住してきたドイツ語の先生は、徳島は秋を楽しむ時間がない、と毎年ぼやいていた。今年の矢祭町は、この気候にそっくりであった。急に寒くなったので、我が家の木々にも異変があった。全ての落葉樹の葉は、黄色か赤色になって慌ただしく散っていった。例年は茶色にしかならないブルーベリーの葉は、今年は見事な紅葉を見せてくれた。
 我が家にはキングサリが1本植えてある。春には黄色の花が鎖状に垂れ下がって咲き、葉は冬に落葉する。今年の10月に、急に気温が下がった日が数日続いた。キングサリはこれに敏感に反応して、冬支度のために落葉してしまった。その後気温が上がり、夏のような日が続いた。11月になり、涼しくなると、このキングサリは春が来たと勘違いして、枝の方々に葉っぱを出してきた。11月下旬、他の木々が落葉してさっぱりしている中、このキングサリは春を謳歌しているように葉を茂らしている。この先どうするのだろうか?12月に入ると最低気温が0℃以下になるので、葉は枯れるであろう。来年春に新芽を出して、花を咲かせるのだろうか。異常気象もこのような珍事が見られるので興味深い。
 我が家には柿の木が4本大きく育っている。今年の異常気象で柿の実は全部で4個しか採れなかった。この4個は1本の柿から成っただけで、他の3本は全く実らなかった。例年なら全部で50個以上は採れるのだが、残念である。特に渋柿は、つるし柿にすると甘くなり、冬の果物として美味しく食べられる。この地方の柿も同様に不作だと聞いているので、天候不順が影響しているのであろう。我が家にはないが、梨やリンゴは、夏の高温のため糖度が高い、と生産者は喜んでいた。
 草花には1年草と宿根草がある。宿根草の葉は、冬になると紅葉せずに、汚らしい茶色になって落ちていく。特にアジサイは、黒みがかって縮れてしまうので、見ていると哀れである。宿根草は、落葉した後放っておくと、来春芽を出して夏から秋にかけて、花を楽しむことができる。一度植えておけば、毎年花を楽しむことができるので、庭には宿根草が多く植えてある。アメリカ芙蓉は夏に大きな花を咲かせるので、庭には7本も植えてある。これらの花は、赤と白だけであり、私はピンク色が欲しかったが、近くの園芸店には売っていない。ネット販売で探して、2本のピンク色を今年購入した。さらに3色(赤、白、ピンク)混合の種を10粒、900円で購入し、大きな鉢に蒔いた。10粒の種から3粒だけ芽を出し、9月に花が咲くほど生長した。3本の花が全部赤や白なら、引き抜いて捨てるつもりであったが、都合良く、赤、白、ピンクの3種類が見事に咲いた。来年の夏にはピンク色の芙蓉が3ヶ所で咲くので、きっと賑やかであろう。
 今年の春、テニス仲間から根のついたクレソンを貰った。彼は、山に入って自生しているクレソンを沢山取ってきたという。我が家には沢から引いた水を水盤に入れて流しているので、私はクレソンをそこに植えてみた。クレソンは、みるみる増えて、水盤一杯に広がった。例年冬、沢からの水は、途中の塩ビ導水管が凍結するので止めている。クレソンは寒さに強いと言われているので、水を流さなくても冬は越せるだろうか。
 我が家では6畳の広さのウッドデッキを、リビングの前に置いていた。それが9年の風雨にさらされて、木が腐ってきた。手すりなどがボロボロになってしまったので、新しい屋根付きのサンルームをこの場所に造ることにした。このウッドデッキは、私がパーツをネット販売で購入して、組み立てた。3畳分の屋根は、ホームセンターで材料を買い、自分で造った。今度のサンルームは、ガラスサッシを三方に入れるため、自分では造れない。大工に依頼することにした。私は、今年の7月に、パソコンで作った設計図を地元の大工に見せて、見積もりを依頼した。この大工は、今年は区長をやっていて忙しいから、着工は何時になるか判らない、と言う。仕方なしに別の工務店に依頼した。隣町にあるこの工務店は、この地域で手広く仕事を行っている。見積もりを依頼すると、120万円の見積もりを持ってきた。その仕様書を詳しく見てみると、古いウッドデッキの解体とその処分に、20万円が必要とあった。少ない廃材であるが、随分金がかかる。改めて環境対策にはコストがかかることを、身近に感じた。
 私は、ウッドデッキの処理費20万円を節約するため、自分で処分することにした。自分で造ったから、解体は簡単である。ウッドデッキのパーツはインドネシア製で、木は南洋材であろう。私が住んでいる近くには、本格的な喫茶店があり、暖房は薪ストーブを使っている。この腐りかけの南洋材がストーブの燃料にならないか、喫茶店主にメールで問い合わせた。答えはノーであった。その理由は、ストーブの排煙処理に金属触媒を使っていて、木に塗料が塗られていると、その塗料が金属触媒を痛めてしまうという。このパーツには防腐剤が塗られていて、その上に私が防水塗装をしていた。私はこの理由を聞いてびっくりした。最近の薪ストーブには、車並みのハイテク装置が付けられているのだ。環境に優しい気遣いが、そこまで必要な世の中になっていることを、私は知らなかった。
 防腐剤は生産地のインドネシアで塗られていると思われる。この防腐剤には塩素系化合物が使われているであろう。木を燃やすと、その塩素系化合物は塩素ガスを発生し、触媒の金属を腐食させる筈だ。ウッドデッキの南洋材は、約1立方メートルある。これをどのように処理しようか迷ったが、私は土に埋めて腐らせる方法をとることにした。木は4、5年で土に戻るであろう。処分に困ったのは屋根材である。1.5坪の広さのデッキの上に、ホームセンターで買った防水シートとアスファルト系の屋根材を使っていた。これは土に埋めても腐らない。暫く隣の町有地に放置することにした。
 私は、仕様書の他の項目を見直して、90万円の予算で着工してもらうことにした。10月12日から10日間で3坪(6畳)のサンルームは出来上がった。90万円の値段が高いか、安いか判らないが、坪30万円であるから高くはないであろうと思っている。このサンルームは、2ヶ所の引き戸サッシ、出窓、2ヶ所の固定サッシがあり、3方が複層ガラスで囲まれた部屋となっている。壁と天井は、針葉樹を用いた構造合板(針葉樹合板)を使っている。従来の合板は、南洋材のラワンを用いたものが普通であった。地球環境問題により、熱帯材(広葉樹ラワン)の使用が制限されているため、北方系木材を使用した針葉樹合板が開発されたようである。深刻な地球温暖化の対策が、我が家にまで及んできた。この針葉樹合板の表面は黒っぽい木の節が多くあり、生の木の雰囲気はあるが、外観は良くない。
 私は大工の作業の一部始終を観察していたが、今の大工はノコギリ、カンナを全く使わない。電気丸ノコを器用に扱って細かい所まで寸法合わせをしていた。出来上がった部屋の細部を見てみると、所々隙間がある。普通の家では、この合板の上に、ビニール系壁紙を貼って仕上げるため、多少の隙間は隠せる。だからこの大工はその習慣で作業をしたのであろう。我が家のサンルームには、壁紙を貼らないことにしている。壁紙貼りは、別の専門家が来て作業をするので、費用が10万円ぐらい余計にかかる。工務店の担当者は、壁紙を貼ると、部屋の水分の呼吸ができなくなり、カビが発生しやすくなると言う。無垢の木材の方が呼吸するので、好ましいという。私が90万円以下の予算を頼んだので、工務店は、極力金がかからないように、私を仕向けているようである。
 出来上がったサンルームは、三方がガラスサッシュであるから、明るい。天井と壁に目を向けると、節の多い針葉樹の模様がやたら目につくが、ログハウスだと思えば、我慢できる。
                            2010.12 .10
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