雑記文集 NO3
     
(2018年5月以降の雑記文を集めました。)
      Miscellaneous notes collection of works1
      (Miscellaneous notes after May 2018 are included.
        
タイトルと内容紹介 タイトルをクリックすると、タイトルの雑記文がジャンプして出ます。
Title and contents introduction
If a title is clicked, the miscellaneous-notes sentence of the title will jump and come out.

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大塚国際美術館 Otsuka international art museum
ANAのスカイwebツアーを購入して、鳴門市にある大塚国際美術館へ80歳の誕生日を記念して出かけた。ANAの座席の変更、宿泊したルネサンスリゾートナルトの話、渦の道へ行った話、美術館のレストランの食事の話など。
2018.5




4K テレビ 4K TV
大塚国際美術館で見た「最後の晩餐」の陶板画について、東京目黒区の目黒川の桜並木を見物した話。今年2月にパナソニックの4Kテレビ、49インチ「ビエラ」を購入した。このテレビは、インターネットがつながり、私のホームページ「金谷アートギャラリー」を見てみた話。
2018.6



淡島ホテル Awashima hotel
2018.5.19 クラブツーリズムが企画した淡島ホテルの宿泊と箱根、富士五湖のチューリップ畑、芝桜を見るツアーに参加した。チューリップと芝桜は春の高温のため花は終わっていた。淡島ホテルは以前会員ホテルの超高級リゾートホテルであったが、今は一般に開放されているホテル。そのホテルについての話。
2018.7


円山動物園 Maruyama zoo
2018.6.19  私達は札幌市にある円山動物園へ行ってきた。ホッキョクグマの泳ぐ姿を水中トンネルから眺めた。百合が原公園、大通公園、北海道立近代美術館などの話。7月の西日本の大雨で倉敷市備前町が洪水の被害を受けた原因についてなど。
2018.8



空間放射線量Space radiation dose
昨年、岩通製の携帯型放射線量(γ線)測定装置を購入した。日本各地、ポーランド各地の放射線量を測定、その結果を表にまとめた。日本で一番低い数値を示したのは礼文島の0.02μSV/hであった。その他は0.07近辺で、大きな差はなかった。
2018.9




中国旅行1 China travel 1
2018.9.20 クラブツーリズムが企画した「はじめての中国6日間」というツアーに参加した。羽田空港から上海空港へ。その日、上海市内のワイタン地域へ行き、ホトウ(浦東)地域の高層ビル群を眺め、旧共同租界の洋風建築群をバスから観光。旧フランス領の新天地の観光。その日は上海シェラトンに宿泊。
2018.10



中国旅行2 China travel 2
翌日は早朝に上海空港から飛行機で北京へ。市内から75km離れた万里の長城の観光。翌日は皇帝庭園の頤和園(イワエン)、北京動物園、天安広場と紫禁城の観光。ツアーは、天然ゴムのマットレスを売っている店に案内され、また、掛け軸店で色々な書と書の実演を見物した。
2018.11




中国旅行3 China travel 3
旅行の最終日は西安市内の1日観光。兵馬俑坑博物館、市内中心部にある城壁の上で散策、空海ゆかりの青龍寺、大雁塔などの観光。翌日は西安空港から上海空港で乗り継いで羽田へ夕方到着、6日間のツアーを終えた。
2018.12





春うらら、平成30年のこと Haruurara,H30
長年使っていたカシオの腕時計をサムソンのウエアラブルPCの腕時計に替えた。それに伴って腕時計に入れるサムソンのアプリをインストールためサムソンのスマホ(4,5年前の中古品)を購入した。この腕時計のメモリーに音楽を入れて、サムソンのワイヤレスイヤホーンでその音楽を聴こうとしたが、腕時計から出る電波が弱いため、断念したことなど。
2019.1


庭木の剪定 Pruning of garden trees
庭の外に18年前植えていた桜の木2本を根元近くから伐採。庭の中に18年前から植えているマロニエ、コブシの枝切を行った。白樺、枝垂れ桜も高くなっているが今回は切らずに放置。柿の木、ブルーベリーの実の収穫など。全豪テニスで大坂なおみが優勝した話など。
2019.2




パーツファニチャ Parts furniture
50年前パーツファニチャを20万円で購入し、転居するたびに分解したり、組み立てたりして、本棚を我が家に設置してきた。現在は本棚を2分割して、置物などを置いている。30年使っていた電子レンジを買い替えた話、電気ポットも買い替えた話など。
2019.3



 

磐梯熱海温泉Bandai atami onsen
妻の誕生月を祝って福島県の磐梯熱海温泉、萩姫の湯「栄楽館」へ行った話。私の誕生月で、「ニューオータニイン横浜プレミアム」へ行った話。このホテルに隣接している「横浜ブルク」というシネコンで映画を見た話など。
2019.4





令和元年 Reiwa 1st year
2019年5月1日から元号が平成から令和になった。マスコミではこれをネタに色々な話題を提供した。令和という名前の持ち主を探したり、「平成最後の・・・」という言葉遊びをしたりなど。
NHKのテレビ番組「カッテン」で幻視についての放映があり、芥川龍之介の短編「二つの手紙」でも幻視が取り上げられていた話。
2019.5


 8年後の放射線量 After 8 years of radiation dose
2019年5月に車で原発事故のあった東電第一原子力発電所の近くを通る国道6号線を走った。広野町、楢葉町、大熊町の沿線の放射線量を測定した。小名浜オーシャンホテルに宿泊した話など。
2019.6



大災害 Big disaster
令和初の大地震、記憶に残る神戸淡路島大地震、東日本大震災について。NHK大河ドラマの「いだてん」に出てくる「関東大震災」、芥川龍之介の短編「水の三日」に出てくる関東大水害で、作家が避難民の世話をした話、など。
2019.7




 あぶくま高原美術館Abukuma Kogen Museum of Art
福島県塙町の町立あぶくま高原美術館について。この美術科で「えがすきクラブ絵画展」を2019年5月22日から3週間行った話など。
2019.8





 ウグイス Uguisu
我が家の近くの森で鳴く小鳥などについて。今年のウグイスの鳴き声は「ホーゴキブリ」と鳴く。昨年は「ホーキェキョ」と、「ホ」抜きの鳴き声であった。名前は判らないが、きれいな声でおしゃべりをする鳥がいる。その他、セミや蝶について。
2019.9




 国立西洋美 術館National Museum of Western Art
松方コレクションが開かれている国立西洋美術館、原三渓コレクションが開かれている横浜美術館へ行った話。大原孫三郎が画家の児玉虎次郎に西洋絵画を購入させ、太原美術館を設立した話など。
2019.10



 台風19号 Tayhoon19
2019年10月12日、台風19号は関東南岸から福島県中通、宮城県沿岸部を通り、太平洋へ抜けた。福島県は各地で洪水に襲われ、30人が水死した。特にいわき市と本宮市が多くの犠牲者を出した。本宮市は阿武隈川と安達太良川の合流地点に位置していたので川の増水が速かった。
2019.11



 クモ Spider
今年の夏は蜘蛛が大発生した。庭のいたるところに巣を造り、その排除に忙しかった。また、クモが造る巣の幾何学模様にも感心した。秋にはカメムシが例年のように建物の近くに集まる。カセットコンロの空気口にもカメムシが大量入り込み、カセットがうまく作動しなかった話。
2019.12



 春うらら2020、Haruurara2020
昨年11月、旭化成の吉野氏がノーベル化学賞を受賞した。受賞対象になったリチュムイオン電池の開発の話、60年前の私の卒論のテーマについてなど。
2020.1




 スマートウオッチ Smart watch
サムソン製のスマートウオッチが故障して使えなくなった。ファーウェイ製のタブレットのブルートゥース機能が使えなくなった話。ASUS製のタブレットは故障しないなど。
2020.2




 漱石と芥川 Soseki&Akutagawa
私は寝る前に、スマホの青空文庫の作品を読んでいる。芥川龍之介の全作品を読み終え、今、夏目漱石を読んでいる。私は、草枕を読み終え、虞美人草を読んでいるところである。この作品には3組の男女が出てきて、それぞれの人格描写が丁寧に書かれている。
2020.3


 コロナウイルス Coronavirus
新型コロナウイルスによる感染は中国で大量に発生し、瞬く間に世界中に広がっている。4月8日、日本では、感染者は5600人をこえ、死者は114人になった。3月22日は私が住む団地の年1回の自治会総会が開かれるが、私はコロナ感染を恐れて委任状を出して欠席した。住民120人のうち出席者は約60、欠席者は約60であった。
2020.4

 コロナウイルス2 Coronavirus2
コロナウイルス対策で外出が自粛されたので、棚倉町のテニス教室は6月末まで休校、絵のクラブも休み、などで自宅に待機している。100年前のスペイン風邪の話、ジョギング、コロナウイルスの名前など。
2020.5


 自宅隣の敷地The site next to myhouse
自宅隣の敷地が売りに出された話。土地の面積は166坪で価格は500万円。売り出し当時の値段の半分など。
2020.6




   
 タブレットPC TabletPC
私が持っている3種類のパソコンについて。ディスクトップPCはDell製、ノートパソコンはhp、NEC製、タブレットはASUS製とファーウェイ製など。
2020.7





 東京コロナTokyo corona
コロナ禍の意味、東京はコロナウイルスの巣か、コロナ感染者は大都市から地方へ広がっている状況、などについて。
2020.8





 花 春から夏へ 1 Flower spring to summer1
春一番に咲く花はクロッカスで、花が咲くと黄色い花びらをヒヨドリが食べに来る。スイセン、椿、牡丹、芍薬、ツツジ、レンギョウなどの話。
2020.9



 花、春から夏へ 2 Flower spring to summer2
ニッコウキスゲ、サフィニア、ベゴニア、フロックス、朝顔(ヘブンリーブルー)など。グランドカバーのユキノシタ、ジュウニヒトエ、竜のひげの話。雑草のスギナ、ドクダミについて。
2020.10



 小学生の頃 Elementary school
70年前、私が小学生の頃住んでいた岡山県都窪郡帯江村帯高(現在、倉敷市帯高)にある旧庄屋について。その頃の家庭の事情、小学校への通学、父親の通勤など。
2020.11




 中、高校生の頃 Junia,high school
総社市溝口の借家に転居し、総社西中学校、総社高校の頃の話。父は中学校の校長、児島市の教育長、関西高等の教師をへて退職。私はラジオ少年であった話など
2020.12




 春うらら、コロナ Haruurara、Corona
春うららの意味、昨年のコロナ感染者数の増加について、政府の国民への呼びかけが穏やかで生ぬるいため感染者数が思うように減らない、など。
2021.1



 墓造りGrave making
以前購入していた町営の墓地にお墓を造った。その内容について。
2021.2





 休みます No topics
コロナ禍で巣ごもりが続き、話題がないので休みます。
2021.3





 春の庭2021 Spring garden
我が家の3月頃から咲き始める草花などについて。
2021.4






 原発処理水Atomic power plant treated water
事故のあった福島第一原子力発電所で、放射能に汚染された廃水とその処理水について。処理水はタンクに保管され、そのタンクも敷地に満杯になっている。処理水にはトリチュウムが含まれ、その海洋廃棄が問題になっているなど。
2021.5


 ワクチン接種Vaccination
私達は5月23日に2回目のコロナワクチンの接種を終えた。副反応などについて。
2021.6




 2021年初夏の庭 Early Summer Garden 2021
スギナ、ドクダミ、ヤマボウシ、牡丹、芍薬、ナデシコなどについて。
2021.7



 2021年盛夏の庭 Mmid summer garden 2021

ミニヒマワリ、ムクゲ、フロックス、朝顔(ヘブンリブルー)などについて。
2021.8



 東京オリンピック2020 Tokyo olympic2020
2021年8月に1年遅れて開催した東京オリンピックについて。女子選手の名前など。
2021.9

 東京パラリンピック2020 Tokyo paralympic 2020
2021年8月に開催した東京パラリンピックについて。世界各国の取得したメダル数、障害者数などについて。
2021.10


 秋の庭202 Autumn garden 2021
秋に咲く朝顔、ヘブンリブルーについて、キクイモ、モッコウバラについて。
2021.11




 紅葉 Momiji
我が家の前の森には4本のモミジがある。その紅葉した葉の色の違いが微妙にことなっている。付近の紅葉の名所など。
2021.12



 春うらら2022 Haruurara2022
昨年のコロナ、オミクロンの感染拡大について。我が家の水道管の漏れで、業者に修理依頼した話など。
2022.1
 寅年 tora-dosi
私は今年3月で84歳になる。ひざの痛みに悩んでいる。テニスを週3回していたが1回に減らした。運転免許証の更新のための講習の話など。
2022.2
 北京オリンピック Beijing Olympic
2022年の冬季北京オリンピックについて。日本は18個のメダルを取った。スキーを履いて飛び上がり、回転する競技、高木美帆が3個のメダルを取った、カーリングの話など。
2022.3
 カタカナ語 Katakana word
ジェンダー、デフォルト、アジェンダなどのカタカナ語について。
2022.4


 2022年春の庭 2022 Spring garden

ウメノキゴケ、ウグイスの鳴き声、クロッカス
の花びらなど。
2022.5

 ウクライナ戦争 Ukrainian War
ウクライナ戦争で死亡した民間人、日清戦争で死亡した人々、沖縄戦で死亡した民間人の数など。
2022.6


  2022年、初夏の庭 Garden in early summer 2022
今年は梅雨が短く、雨も少なく、蛍が飛ばなかった話、朝顔の葉の不思議な力、フロックスの樹形の話など。
2022.7

 安倍元首相 Former Prime Minister Abe
安倍元首相が暗殺され、犯人が逮捕された。旧統一教会と安倍氏が関わりがあったことなど。
2022.8

 樹の漢字表 Kanji table of trees
木へんの樹の種類を集めた表を毎日眺めている。それは120種あり、それぞれについて、思い出などを記した。
2022.9


 転居1 Family relocation 1
私達の家族の転居について。長崎から、台湾の嘉義市、台中市、宜蘭、福岡県久留米市、岡山県帯高村、総社市へ、計8回の転居を行った話。
2022.10

 転居2 Family relocation 2
私および私の家族の転居について。私の転居は徳島、京都、横浜へ。家族の転居は横浜から山口県新南陽市、横浜、福島県矢祭町へ。合計21回の転居であった。
2022.11

 転居、余話 Relocation, digre
私は初期の小学生の頃、大戦の終末前後であったので、初めて小学校に入ったのは4年生であった。家族が転した時。備中国分寺に仮住まいした話など。
2022.12

 春うらら 2023 Haruurara 2023
山茶花、ブルーベリー、柿の木、ムスカリ、ウクライナ戦争などのこと。
2023.1


 大寒波 Big cold wave
2023年2月に、全国に10年に1度といわれる寒波がきた。幹線道路の車の渋滞や停電、断水などについて。
2023.2

 TV番組1 TVprogram1
私が毎週見ている番組について。「お絵描きクイズ」、「世界あらへん話」、「小さな村の物語 イタリア」などについて。
2023.3

 テレビ番組2 TVprogram2
「ブラタモリ」、「笑点」などについて。
2023.4



 2023年春の庭 2023 spring garden
レンギョウ、雪柳、桜、ボケ、ヤマブキ、シャクナゲ、ボタンなどについて。
2023.5

 空を見る Look at the sky
雲の流れ、雲の焼失、南への飛行機、鳥の飛ぶ姿など、毎朝2階の窓から空を眺めている話。
2023.6
 NTTクレジットカード NTTcredit card
長年使っていた上記カードが7月末に廃止されることになった。代わりに使えるカードの申請等について。
2023.7
 2023年夏の庭 2023 Summer garden
ヒマワリ、ヘブンリーブルー、ミニヒマワリ、フロックス等について。
2023.8
 iPod
アップル社のスマホ、iPodなどについて。
iPodが販売中止になるのでその代替えとしてRedmi note11を購入した。
2023.9

 真夏日 Manatubi
2023年の夏は異常に暑かった。30℃を超える日が長く続くのは記録的であった。
2023.10

 健康器具 Health appliances
我が家にある健康器具、3種を記した。腰が曲がる心配など。
2023.11


 もみじ寺 Momiji temple
茨城県大子町にある、もみじ寺(永源寺)へ大子駅から歩いて行った話。片道徒歩20分の距離を杖を使って4年ぶりに歩いた。寺には多くの子供の石像が配置されていた。
2023.12
 春うらら2024 Haruurara2024
隣の敷地に家が建ち始めたこと、からだのふらつきで4日間入院したことなど。
2024.1



 テニス Tennis
テニスを始めたころのこと、ラケットのことなど。
2024.2




 テニス2 Tennis2
大学を卒業後、就職した会社でのテニスについて。日本ポリウレタン工業(株)でのテニスはテニスのレベルが高かったことなど。
2024.3


 雁行陣
この本文は、2024.6、デルPCが不具合により消去された。
2024.4



 ドアノブ Doorknob
自宅のドアノブが2か所壊れた。トイレのような個室でドアノブが壊れた場合、閉じ込められてしまう恐れがあるのでドアノブのストッパーが機能しないように細工した話。
2024.5
 ドクダミ草
庭に生える雑草のドクダミ草について。除草剤による除去、ドクダミ茶の効用など。
2024.7


 タブレット
我が家にあるスマホ、タブレットなどについて。
2024.8



 
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大塚国際美術館


  私は、2018年3月で80歳になり、その誕生日記念として、以前から一度行ってみたかった鳴門市の大塚国際美術館へ、妻と行くことにした。徳島県鳴門市に行くルートは色々考えられるが、私は羽田空港から飛行機で徳島空港へ行くコースを選んだ。ANAは、飛行機代、ホテル代、美術館の入場料をセットにした「ANAスカイWEBツアー」というコースを売っていたので、私はそれを購入した。日程、フライト便、ホテルは自由に選択できる。私は、3月24日(土)の羽田発13時25分の便をANAのホームページ(hp)で選択した。ホテルは、徳島市内の徳島駅直結の「ホテルクレメント徳島」を選択しようとしたが、生憎満室であった。鳴門市内のホテル「ルネサンスリゾートナルト」は空室があったので予約した。年度末の土曜日は宿泊客が多く、このホテルの普通の部屋は満室で、追加料金1万5千円/人のデラックスツインルームしか予約できなかった。私は徳島市内に泊まって、久しぶりの徳島市内を散策したかったが、残念ながらできなかった。
 飛行機の席は、ANAに予約すると、ANAが決めてくれるが、土曜日の便はほぼ満席に近かったのか、私と妻は離れた席に、しかも3列の中央席に指定されていた。ANAのhpには私のマイページがあり、それを開くと、私達が予約したANA便の内容が表示されている。そこには飛行機の全座席の図画があり、私達の座席の位置も記されていた。それを見ると、ほとんど満席状態で、空席は3列シートの真ん中がところどころあるくらいであった。私は、時々このページを開いて、キャンセルがあって、空席が生じないか、チェックしていた。しかし、2人並びの席はしばらく出なかった。ところが、飛行予定の2日前に最前列の右側の3席とその後ろの2列、計9席がすべて空席になっていた。9人のグループがキャンセルしたのかと思ったが、これはANAが最初からこれらの席をキープして、緊急の客あるいはVIPのために使おうと思っていたのであろう。私はこれ幸いと思い、前の予約していた席をキャンセルして、1列目の窓側の並びの席を予約した。このような操作が自宅のパソコンの画面で簡単にできるのは大変便利である、と私は大いに感心した。当日、飛行機の3列のほかの席は全て客でふさがっていた。
 羽田発13時25分のフライトに乗るには、当日自宅からの出発で充分間に合う。私達は、朝8時に車で自宅を出て、常磐道の那珂IC9時半発の高速バスに乗った。バスは首都高を通って上野へ行くが、年度末の土曜日のせいか、首都高は混んでいて、予定より30分遅れるというバスの運転手のアナウンスがあった。このバス会社は、急ぐ人のために途中の八潮ICで客を降ろしてくれる。急ぎの客は、ここから10分歩いたところに、つくばエクスプレスの駅があり、特別料金100円でJR秋葉原に行くことができる。私達は、このままだと羽田に着くのが予定より30分遅れるので、つくばエクスプレスを利用することにした。JR秋葉原駅から山手線で品川駅へ行き、そこから京急の羽田空港行快速特急に乗り、12時半に羽田第2ターミナルに着いた。徳島空港行のANAは、定刻より30分遅れるという表示が出ていた。この日福岡空港でトラブルがあったらしい。ANAは30分遅れで離陸し、私は、時折雲の間から見える日本列島の様子を眺めて楽しんだ。
 徳島空港近くでは淡路島が見え、大鳴門橋も見えた。徳島空港には20分遅れで無事着陸した。一番前の席は出入り口から近いので、早く機外に出られる。空港のターミナルビルは2階建ての小さなもので、1階にはショップとカフェが混然と配置されている。私は、30年前ぐらいに一度徳島市内で同期会があった時、この徳島空港を利用したことがあった。その時の徳島空港は、自衛隊機が遠くに見られ、民間と自衛隊共用の空港であった。さらにさかのぼって、私が60何年前の学生時代、徳島に住んでいた頃、徳島には徳島空港はなかった。当時は水上機が吉野川から堺市へ運航していたらしい。徳島市横を流れる大きな吉野川には、これも大きな吉野川橋があり、橋の下を5人乗りの水上機が滑走する。橋の下を飛行機が行き交うのは世界でも珍しい。これは面白そうだから見に行かないかと、友達に誘われた。吉野川橋へは私の下宿から自転車で20分ぐらいで行けた。私は面倒だから友達の誘いを断った。今から思えば、水上飛行機が橋桁の下をくぐる姿を見ておけばよかったと、後悔している。その後水上機は水陸両用機になり、吉野川と伊丹空港の発着となった。昭和38年には現在の徳島空港ができた。私が徳島を離れて2年後のことである。
 徳島空港には予約したホテルの送迎バスがきて、それに乗って「ルネサンスリゾートナルト」に16時頃着いた。このホテルは鳴門市内の淡路島に近いところにあり、大塚国際美術館にも歩いて行けそうなところにある。ホテルのロビーには、土曜日のせいか、約50人の客が部屋への案内を待っていた。案内された部屋は、南館の7階、739号室で、海が見下ろせるテラス付きの広い部屋であった。夕食は5種類の会場から予め選択できる。私達はビュッフェスタイルのファミリーレストランへ行った。ここでちょっとしたトラブルがあった。私達は、係の女性案内人からテーブルが指定された。私達はそこからすぐ料理を取りに行き、トレイに料理を乗せて指定された席に戻ると、そこには別の30歳代の男性が家族と座っていた。私は、そこは私達の席だと、びっくりした顔で男性に訴えると、その男性は自分もここを指定されたのだと、動かない。そこへ最初に指定した女性案内人と後で間違えて指定した案内人がやってきた。結局、私達が別の席に移された。後からの客は、当然先客がいたのだから、その席を離れるべきであるが、その30代の男はガンとして動かなかった。これが今の若い世代のやり方なのか。関西方面から来た男のやり方なのか。地元の徳島の人間はこのような態度はとらないであろう。ホテルは、私達に迷惑をかけたというので、私が予め注文していた生ビール2杯分1600円をサービスしてくれた。男がすんなり席を立てば、ホテル側は1600円の損失を免れたのだが・・。
 夕食後、ホテル内の小ホールで阿波踊りのショーがあったので、私達はそれを見た。阿波踊りを見るのは、60年ぶりであろうか。翌日、私達はホテル前のタクシーに乗り、近くの大鳴門橋の下にある「渦の道」という遊歩道へ行った(入場料510円/人)。橋の車道の下に造られた遊歩道は、海上から45mの高さにあり、ところどころにあるガラスの床から真下の渦が見えることになっている。渦が見られる季節と時刻が合わないと渦は見られない。当日の当時刻は、小さい渦しか見られなかった。遊歩道の突き当りには小さな広場があり、ここでも阿波踊りのショーがあった。しばらく待っていると、30人ぐらいの客が集まり、ショーが始まった。最初に解説者が阿波踊りの基本の踊りを、踊り子を使って教えていた。その後、客がお囃子に合わせて踊りを体験し、その後にベテラン達の踊りが披露される。私達は時間がなかったので、ベテランの踊りを見ずにその渦の道をでた。ここから目的の大塚国際美術館へは歩いていけないので、タクシーを使った。
 大塚国際美術館には12時に着いた。ここには3か所のレストランがあり、ANAのツアーでは「レストラン・ガーデン」というレストランが指定され、メニューも「名画ランチ」が決められていた。私達はその名画ランチを注文した。30分ぐらい待って、やっと料理が出てきた。このランチを食べてみると、こんなに味が薄くて、不味い料理が世の中にあったのかとびっくりした。後日、ANAのツアーについてのアンケートが、メールで送られてきた。私は、このレストランとメニューについて、見直したほうがよいとアンケートに記しておいた。しかし後からよく考えると、私達の舌の感覚は、東日本の濃厚な味付けに慣れてしまっていることに気が付いたのである。これは恐ろしいことである。脳溢血で死亡する人が東日本に多いのは、この濃厚な味付けに起因しているのであろう。私達の帰りの飛行機は、16時15分徳島空港発の羽田行である。そのためには、この美術館前のバス停から徳島空港行の14時43分の徳島バスがあり、それに乗る必要がある。食事を終わったのは13時で、美術館の見学時間は1時間半しかない。
 大塚国際美術館の建物は、丘をくり抜いて建てられた、8階建てのビルであるが、丘の上に出ているのは3階部分である。丘の麓の正面玄関の入口から長さ41mのエスカレーターで上がれば、地下3階の展示場に行ける。このフロアーは古代、中世時代の絵(フレスコ画)が展示されている。このフロアーの圧巻は、ローマのバチカン市国にあるシスティーナ礼拝堂内部をそのまま模して造ったホールである。私は、以前イタリアのツアーに参加したとき、このホールを見学した。この礼拝堂に入るには入場制限があり、50人ぐらいが順番でこのホールに入り、滞在時間は10分ぐらいに制限され、さらに人間が吐く二酸化炭素が作品を劣化させるというので、話は禁止されていた。私は、そのことを思い出した。この美術館ではそのような色々な制限は全くない。この美術館にあるすべての絵は陶板画であるから、写真もOK、絵に手で触ってもよいという、ありがたい設定である。この模造のシスティーナホールでは、女性の案内人が20名ぐらいの客を相手に天井に描かれたフレスコ画の解説をしていた。彼女の声は大きかったので、私もその説明を聞くことができた。彼女は赤いレーザー光線を使って、天井の絵の人物などを照射していたので、説明の内容がよく分かった。陶板画だからレーザーが使えるのであって、本物の作品ではこのようなことは、劣化を促進する恐れがあるので、レーザーは使えないであろう。
 私は、陶板画と同じ手法で絵付け皿やタイルの陶板画を制作しているので、この美術館の陶板画の制作に興味を持っていた。今回その陶板画に接して、その出来ばえに驚いた。私は筆と特殊な絵具(金属製顔料)で皿やタイルに絵を手描きし、800℃で焼き付けて陶板画を制作している。この美術館の陶板画は、1m角ぐらいの特殊陶板を造り、白の釉薬を塗って焼き付け、大きな白タイルを造る。一方、世界各地の名画の写真を撮り、離型紙付きの、裏面を接着剤を塗ったプラスチックフィルムあるいは特殊な紙に名画を印刷する。この印刷された名画のフィルムの離型紙をはがして、タイルに張り付け、800~820℃で焼成すると、陶板画ができる。さらに細かな部分を手描きで修正して、再度焼成して完成させる。ここで重要な技術は、印刷に使う金属製の顔料の開発と、割れない大きな陶板の制作であろう。これらの技術を大塚オーミ陶業(株)が開発して、世界的に類を見ない陶板画が完成した。
 システィーナ礼拝堂を模したホール(環境展示という)は天井が高く、1m近い陶板画は相当な重さがあり、これをどのように天井に張り付けているのか。本物のフレスコ画は長さ20m以上の大きさであるが、ここでは長さ2mの陶板画をつなぎ合わせて制作している。地震などでこれらの陶板画が落下する危険性もある。この対策はどうしているのか、疑問は色々あった。このホールの天井は丸くカーブしており、そのカーブした陶板画の見本が地上で見られるように展示されていた。平たんでない陶板画の制作も困難であったであろう。この展示している陶板画の裏側を見れば、取り付けの金具などの有無が分かったのであろうが、私はそれを見るのを忘れていた。
 1000点近い世界の名画を見るには、私達の1時間半の鑑賞時間では短すぎる。機会があれば1日かけて見学してみたい。
          2018.5.10
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4Kテレビ
  先月号で書き残したことを少し書いてみたい。大塚国際美術館には面白い企画の展示がある。それはレオナルドダビンチの「最後の晩餐」の陶板画である。この絵は、彼がミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描いたもので、420 × 910cm の巨大なものである。彼は、この壁画を1495年から描き始め、1498年に完成した。この絵は、フレスコ画でなく、壁の漆喰の上に卵、ニカワ、植物油、顔料などで描かれたテンペラ画である。この壁画は、食堂の湿気などのため、劣化や剥離が進み、後世の人により何度も描き直された。そして、1977年から1999年5月28日にかけて大規模な修復作業が行われた。この修復では、表面に付着した汚れ、繰り返された修復の顔料などが除去され、ほぼオリジナルの壁画がよみがえった。このオリジナルの壁画が写真に残されているようで、これを大塚国際美術館のスタッフが手に入れ、陶板画として完成させた。一方、最新の修復された「最後の晩餐」も写真に撮り、陶板画を制作した。
 この2枚の大きな陶板画が、15m×8mぐらいの大部屋に展示されていた。壁の片側に修復後の陶板画を設置し、その反対側の壁にオリジナルの陶板画を設置して、両者の比較ができるようにしてある。オリジナルといっても、1990年頃の洗浄後のもので、色や線などの欠落が多く、色調も薄れている。このオリジナルは、文献として小さい写真でしか見られないが、この美術館では横9.1mの実寸大のものが見られ、大変価値がある。これらの陶板画は、表面がカラス質でカバーされているので、色の劣化などはなく、1000年以上その色彩が保たれるという。世界各地の名画は天災、人災などで紛失する可能性はあるが、この大塚国際美術館の陶板画は地震などで壊れても、制作の蓄積されたノウハウにより同じ陶板画が制作できる。これは美術界にとって大きな強みであろう。
 大塚国際美術館を見学した後、私達は徳島空港から羽田空港へ戻り、翌日午前中時間があったので、丁度見ごろを迎えていた「目黒の桜」を見物した。その頃の朝日新聞に、全国で人気のある桜の名所20傑が載っていた。その中にこの「目黒の桜」はなかったが、20傑に入ってもおかしくない桜並木である。新聞に掲載された人気の第一位は、弘前公園の桜であり、私が最近見た「河津桜」は15位であった。福島県の「三春の桜」は5位で、この桜だけは1本の桜の木である。そのほかの全ての桜は、集団の桜で人気を呼んでいる。桜は多くの木が寄せ集まると、その豪華さなどが発揮できるのであろう。その意味で「三春の桜」は、1本でその魅力を発揮しているのは見事である。
 「目黒の桜」は、目黒川の両岸に歩道があり、その歩道の約1kmに桜並木が植えられている。ここは都内の中心部に近く、テレビ局から交通の便がよいので、桜の開花時期になると各局が取材に集まり、開花が始まったと、賑やかに報道してくれる。私もそれを見て、一度見てみたいと思い、今回機会があったので見に行った。山手線のJR目黒駅から歩いて10分ぐらいのところにこの桜並木があり、丁度満開で、多くの観光客が歩いていた。ここでも外国人が多く、ウイークデイのせいか日本人は高齢者が多かった。桜の木は、目黒川に垂れ下がるように花の枝を伸ばし、見事な風景であった。この桜並木の所々に「花見の宴会は禁止」の立て札があったので、おかげで静かな雰囲気で桜見物ができた。
 話は4Kテレビに移るが、我が家では居間に液晶テレビを置いて、食事中、食後、テレビを楽しんでいる。我が家の以前のテレビは、パナソニックの42インチの「ビエラ」で、7年前に購入したものである。さらにその前は、シャープの液晶テレビを置いていた。これは、液晶パネルと箱型の本体が別々のもので、大きなものであった。パナソニックの42インチの「ビエラ」からは、液晶パネルの中に本体が組み込まれたものになり、名称もハイビジョン液晶テレビとなる。私は、テレビは随分進化したなあ、と感心していた。最近になり4Kテレビが出現し、テレビと言えば4Kになってしまった。4Kテレビは、液晶パネルの画素数が従来のハイビジョン(2K)の2倍の横(水平画素)4000、縦2000である。従来の2Kテレビよりきめ細かく見えると言われる。私は高齢のため次第に目が衰え、視力が弱ってきた。何時も、テレビは2m離れて見ているが、2Kのテレビでは字幕がぼやけて見えにくくなってきた。
 私は、画面の大きい、4Kのテレビが欲しくなり、今年の2月に49インチの4Kテレビ、パナソニック「ビエラ」を16万円出して購入した。49インチは、今までの42インチに比べると、確かに大きい。居間の広さに比べ、テレビは大きすぎるだろうが、その画面に映る映像の迫力はすばらしい。4Kの鮮明さは、2Kに比べると良いように見えたが、視力が衰えた私には画面がぼけて、4Kのありがたみはそれほどでもない。しかし、字幕が大きくなったので、不自由なく読むことができるのはありがたい。新しいテレビを見始めた頃、大相撲3月場所をしていた。私は、大相撲をテレビで見るのが楽しみで、毎日5時頃から眺めている。大画面に映る力士の顔は大きく迫力がある。力士の背景にある観客の顔はぼけているが、これはNHKのカメラが2Kの画素数のものを使っているせいであろう。4Kの放送が始まれば、はっきり見えるであろう。今度の「ビエラ」を購入して分かったことは、4Kテレビの放送を受信するには、別売りのチューナーを買う必要があることである。NHKは今年の暮れから試験的に4K、8Kの放送をすると言っている。テレビメーカーもそれに合わせて、チューナー内臓のテレビを売り出すであろう。私は、それを待って、テレビの買い替えをすればよかったか、と少し早まったかと思っている。
 今度買ったパナソニックの「ビエラ」(TH49EX750)には、無線LAN、Bluetooth が内臓されており、パソコン並みの機能が楽しめる。我が家にはインターネットの中継ポイント(アクセスポイント)を2階に設置し、家屋内外でインターネットを利用することができる。私は早速、このテレビでユーチューブなどの動画投稿サイトを受像してみた。そこでは犬猫の楽しい動画が投稿され、私達は、テレビ番組に見るものがない時、これらの映像を楽しんでいる。リモコンで簡単にこれらの映像が見られるのは、大変便利になった。
 色々なメーカーのホームページ(HP)も見ることができ、私の作っているホームページ(金谷アートギャラリー)も見ることができる。普段パソコンの小さな液晶画面で見ている私のHPも、テレビの大画面で見ると迫力があるが、少しぼやけて見える。私のHPには、油絵の作品の画像を250枚、絵付け皿の画像を80枚入れている。この画像の画素数を写真のままの1メガバイト(MB)でHPに入れると、メモリーが多くなり、パソコンの動きが鈍くなる。それを避けるため、1枚の写真の画像のメモリーを100キロバイト(KB)に画素数を小さく変換している。100キロバイトの画像は、パソコンの画面では鮮明さはあるが、テレビの大画面ではやや不鮮明になってくる。動画サイトで見る映像は、ハイビジョンカメラで撮っているせいか、鮮明である。
 私達は、たまに外泊して、ホテルの小さな画面のテレビを見ることがある。その時は、ほとんどテレビの字幕が見えない。我が家に帰って、49インチのテレビを見ると、その大きさで字幕が読め、映像も楽しめる。私は、大きい4Kテレビに買い替えて、そのありがたみを感じている。
          2018.6.10
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淡島ホテル(金谷紘二)
  私達は2018年5月19日、クラブツーリズムが企画した1泊2日のツアーに参加した。このツアーのタイトルは、”富士山望む全室スイートルームの「淡島ホテル」、天空のチューリップ畑と約80万株の芝桜2日間”である。料金は一人7.5万円である。1泊2日のツアーであれば、普通、料金は2~3万円であるが、このツアー代は異常に高い。何故こんなに高いのだろう、と私は申し込む前から考えていた。移動は、トイレ付バスで、行き先も沼津、箱根、富士五湖などであり、特に遠距離ではない。1日目の昼食は、箱根小涌園にある「蕎麦貴賓館」で食べる本格蕎麦の定食である。この「蕎麦貴賓館」の建物は国登録有形文化財になっており、ここでの昼食が特別高い値段なのか。実際そこで食べた蕎麦料理は普通のメニューで、その味も特に美味いとは思わなかった。この建物は、1918年に建てられた藤田男爵の別邸であり、和風の食堂から眺める庭は趣があった。料金の高い原因は、この昼食でなくて、今夜泊まる「淡島ホテル」にあるようだ。
 ツアーの集合場所は、東京都庁前の地下駐車場である。ここの集合場所の場合、私達はすぐ近くの京王プラザホテルを前後泊の予定で利用することにしている。ツアーは9時半の集合であり、集まった参加者は7名で、上野から乗った人たちを含めて10名の参加者であった。15名以上がツアー決行の条件であったが、淡島ホテルの露天風呂が、ボイラーの故障で使えないという連絡が、ツアー会社に事前にあった。そのためツアー会社は、料金の10%を参加者に返却し、参加のキャンセルも無料で行った。それにより、5名がキャンセルしたのであろう。大きなバスに10名の参加者を乗せて、バスは出発した。バスは中央道の八王子から小田原、箱根へ。箱根では、箱根小涌園の蕎麦貴賓館で蕎麦定食(3000円)を食べる。食後、建物の中に貴賓館芸術蔵という廊下続きの部屋があり、参加者はそこに展示されている東郷青児、山本岳人らの本物の絵を鑑賞した。
 ツアーは、御殿場の富士サファリーパーク近くの遊園地「ぐりんぱ」で、チューリップ畑のチューリップを見ることになっていたが、今年は春先に高温が続き、チューリップは咲き終わっていた。チューリップ畑の見学はこのツアーの目玉の一つであったが、それがだめになったというので、ツアー会社は一人450円の現金を返してくた。この遊園地では、チューリップの球根堀を企画して、入場者にサービスをしていた。妻は、面白がって球根堀をして、50個以上の球根を掘り上げた。今、その球根は自宅の軒下の日陰にぶら下げて、秋の植え付けを待っている。バスは、裾野市から伊豆中央道に入り、沼津市へ。江間ICから江浦湾へ出て、淡島が目前に見える淡島ホテルの駐車場へ着いた。ここには淡島ホテルの待合室があり、ここでホテル行の小さなフェリーが来るのを待つ。
 淡島ホテルは、沼津市、内浦重寺の本土から200m離れた淡島という無人島の中にある。島は、東京相和銀行のオーナーである長田氏によって、島全体をリゾート地として開発され、その一つの中核施設が淡島ホテルとなっている。島には「あわしまマリンパーク」などの施設がある。また、弥生時代の遺跡があり、土器などが出土している。私達ツアー客と他2.3名がフェリーに乗り、10分ほどでホテル専用の桟橋に着いた。そこから50m先にホテルの玄関がある。玄関を入るとすぐロビーがあり、ここは吹き抜けの広い空間である。ロビーを取り囲むように2階の廊下があり、その壁には色々な絵画が飾られ、美術館のようになっている。これらの絵は、オーナーが1990年頃、金に糸目をつけずに集めた美術品であろう。このホテルは、建設当時、超高級リゾートホテルとして建てられ、会員制のホテルであった。現在は誰でも利用できるホテルになっているが、豪華な雰囲気は保たれ、格調高いホテルとして名をとどめているようだ。
 ホテルのロビーに備えていたホテルの案内パンフレットを見ると、客室の利用料金が示されていた。全室がスイートルームで、和室もあり、部屋代は平日で3万円から22万円であった。年末年始では、6万円から30万円の室料になる。夕食は別料金で1.5万円、朝食は3500円である。我々のホテル代は一人5万円ぐらいになるのであろう。ツアー料金が7.5万円と異常に高いのは、このホテル代の高さによるものだと、私は納得した。私達が泊まった部屋は、5階の501号室で、寝室と応接セットがあるリビングが別になっており、広いテラスと広い浴室がある。浴槽から湯につかりながら駿河湾の向こうの富士山が眺められるようになっている。部屋は、長期滞在者向けのリゾートの雰囲気がある。当日は富士山は雲がかかって見えなかった。
 夕方6時から2階の「アイランド」レストランで参加者全員が集まり、夕食が始まった。レストランは全面ガラス張りで、駿河湾と富士山が眺められるようになっている。私は、白いテーブルクロスの2人席に妻と座ろうとすると、ウエイターが、うしろから椅子を動かして座らせてくれる。そしてすぐ、ウエイターは私の椅子に黒色のジャケットを掛けてくれた。最初なんの意味か分からなかったが、私がTシャツ姿でレストランに入ったので、私がジャケットを着て入り、それを脱いでいるという設定にしてくれたのだ。このレストランには正装で入ることになっているのであろう。参加者で、もう一人の男性がTシャツ姿で来ていたが、その椅子の後ろにも黒のジャケットが掛けてあった。Tシャツは私一人でなくて、仲間がいて一安心。正装でレストランに入ることは、添乗員も知らなかったらしく、このジャケットを見て、彼女はびっくりした顔をしていた。このホテルは、格調の高さをそこまでして維持したいのか。
 夕食が始まる前に、参加者の各テーブルにグラスワインが用意されていた。これは露天風呂がボイラーの故障で使えなくなった「お詫び」である。料理はフランス料理のフルコースであるが、最初に出されたのは、沼津市場で取れたてのカンパチで料理した、カルパッチョであった。フランス料理といえば、大きな皿に少量の料理が上品に載せられているものであるが、このカルパッチョはカンパチの切り身が10枚以上入っており、豪快であった。さすがに漁港が近くだから、カンパチも新鮮で美味しい。ワサビと醤油で食べたいぐらいであった。そのあと出てくる料理はフランス料理らしく、大きな皿に少量の料理の組み合わせであった。食事をしている間、外は夕闇が迫り、太陽が沈み始め、きれいな夕日が見られた。富士山も頭の雲が取れた。あたりが暗くなると、遠くの焼津港あたりの漁火が見え始めた。
 食事のあと、私達は同じフロアーのギャラリーで絵画を鑑賞した。このギャラリーには、ミロ、ビュッフェ、藤田、エンネルなどの油絵が約20点と、数点の彫刻が展示されていた。これらの絵は、本物か複製かは展示の方法で分かる。本物は盗難防止のためガラスで覆われ、複製品はむき出しで展示されている。本物が多いのには感心した。翌日の朝食は、1階のレストラン「ル・ファール」で、ビュッフェ方式の食事であった。当日は風が強いにもかかわらず、屋外のテラスで食事をする客が数組いた。彼らは20代の若者である。ウエイターがテーブルクロスを設置し、客にひざ掛けを渡していた。5月とはいえ朝は寒いが、それを気にせずにテラスで食事をするのは、何かわけがありそうだ。
 私は全く知らなかったが、以下はwebサイトで知ったことである。今、「ラブライブサンシャイン」のアニメが若者の中で人気がある。このアニメは、淡島の近くにある「浦の星女学院」が舞台になっている。その登場人物に小原鞠莉ちゃんという少女がいて、彼女はこの淡島ホテルに住んでいるという設定になっている。彼女は、ホテルチェーンを経営するイタリア系アメリカ人の父親を持つハーフという。彼女が毎朝の食事の場所が、この「ル・ファール」レストランのテラスなのであろう。若者たちは小原鞠莉ちゃんのイメージの中で食事をしているのだ。そう言えば、昨日淡島から来るフェリーには若い男性だけが30人ぐらい乗っていた。これは、淡島ホテルで学生相手のセミナーがあり、その帰りかな、と私は思っていたが、アニメの聖地を巡る団体であったようだ。彼らは桟橋に到着後貸切りバスに乗っていた。昨日の夕食のレストランでは若者は一人もいなかった。最近はホテルの宿泊代が高いので、素泊まりだけで泊まる若者が多くいるという。
 私達のツアーは、翌日フェリーで島を離れ、バスで御殿場、山中湖、河口湖へ。河口湖近くの「四季の香り」で昼食をとり、青木ヶ原を通って本栖湖近くの「富士芝桜まつり」会場へ。芝桜は、今年春の高温の気候で、ほとんどが終わっていたが、咲き残っていたのが少しあった。芝桜の向こうに富士山が見えるというのがこの会場の目玉であるが、当日好天に恵まれて、富士山だけはきれいに眺められた。ツアーは山中湖に戻り、「富士を望む高原のお花畑」というキャッチフレーズの「花の都公園」へ。ここは、ツアー会社が、チューリップと芝桜が見られなかった代わりに、急遽設定した場所である。この公園は、ネモフィラが丁度見ごろであるという情報で訪れたのである。青いネモフィラが一面に咲き、その向こうに富士山がきれいに見えた。ここでツアーのスケジュールは終わり、バスは中央道経由で17時半に新宿に戻った。
          2018.7.10
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円山動物園
  福島県には福島空港が県の中央部にあり、わが町の矢祭町から車で1時間少しで行ける所にある。この空港には、札幌の千歳空港行きが1日1往復ある。それは、福島空港9時45分発の行きの便と、千歳空港16時15発の帰りの便である。所要時間は1時間20分であるから、仕事で札幌に出かける場合、日帰り出張ができるようになっている。私達も気軽に札幌に行けるので、今まで数回出かけた。今回、2018年6月19日、2泊3日の予定で札幌へ行ってきた。飛行機の切符は、パソコンのANA SKY WEBで簡単に予約でき、座席も自分で指定できる。料金は、2人で往復6.8万円である。切符は、eチケットと言って、往復のチケットが1枚のA4サイズに表示され、それを自分で印刷する。これにはバーコード(3次元)が印刷され、すべての情報が入っている。空港では、ANAのカウンターには行かず、直接保安検査でこのバーコードをタッチし、搭乗口でもこのバーコードをタッチして機内に乗り込む。
 私達は、福島空港9時45分発の便に乗り、11時に千歳空港に着いた。この空港から札幌市へは、JRの快速電車があり、それに乗ると、12時半頃札幌に着く。札幌駅は色々な名称のビルがあり、その一つのパセオというビルで昼食を済ませ、歩いて5分の三井ガーデンホテル札幌へ行く。チェックインには早すぎるので、今夜宿泊予定であることをフロントに伝えて、私達の荷物を預けた。私は交通系ICカード、PASMOを2枚持っており、東京などで利用している。これは、切符を買わなくて済むので、大変重宝している。札幌でも、地下鉄、JR、北海道中央バスなどでPASMOが利用できることが、予めネットで調べて分かっていた。私達は、ホテルから近くの地下鉄南北線に乗り、次の駅「大通」で東西線に乗り換え、三つ目の駅「円山公園口」で下車し、タクシーで円山動物園へ行った(タクシー代670円)。
 円山動物園は、妻が以前、白熊(ホッキョクグマ)の泳ぐ姿が水中トンネルから見られて面白そうだから、それを見たいと言っていたので、行くことにした。最初は、旭川市の旭山動物園にも白熊の泳ぐ姿が見られるので、そこに行こうと思っていたが、札幌から旭川市まで往復1日かかるので、手軽に行ける円山動物園に変更した。この動物園は敷地が縦長になっており、目的の白熊がいる「ホッキョクグマ館」は一番奥にある。入口で入場料一人600円を払って500m奥まで歩いていく。このホッキョクグマ館は人気があるらしく、大勢の人が集まっていた。2頭の白熊は、2階建ての屋上のスペースで行き来していた。その後、この2頭は水槽に入ったので、観客は1階の下から水中の泳ぐ姿が見られるトンネルへ移動した。ここでは、白熊が水中で無重力状態で楽しそうに泳ぐ姿が見られ、私達は上を向いてその白熊の色々な姿を見ることができた。特に、トンネルの上に腹ばいになった時は、足の裏側まで見られ、かわいい、という声が観客から上がる。10分ほどそこで眺めて、十分堪能したので、ホッキョクグマ館をでた。途中土産物店があり、白熊のぬいぐるみがあったので、妻はそれを購入した。
 翌日は札幌市北部にある「百合が原公園」へ出かけた。JR札幌駅から学園都市線に乗り、六つ目の「百合が原公園前」で下車し、歩いて5分の公園の入り口へ。この公園は広大な敷地の中に色々な花が植えられている。ユリはまだつぼみの状態であったが、バラ、ハマナス、ルピナスなどは見ごろを迎えていた。公園入口から正面に向かって歩くと、リリートレインの駅がある。これは、公園敷地の約半分を一周する列車で、それに乗ると沿線の色々な花が列車の中から見ることができる。65歳以上は無料というので、私達はそれに乗った。週日のため家族連れはなく、高齢者のグループが多く乗り込んでいた。沿線の内側は広い芝生広場になっていて、そこには小学生のグループがいて、芝生の上で競技を行っていた。乗客は、列車の中から子供たちの元気な姿を眺めながら、沿線の花の景色を楽しみながら、一周約10分の列車の旅を楽しんだ。公園には、障害者の団体が介護者と一緒に入っていた。広い公園で彼らは嬉しそうに、晴れやかな表情で介護者とペアになって歩いていた。普段の施設内とは違って、ここは自然に囲まれ、彼らはリラックスできるのであろう。
 私達は、JRで札幌駅に戻り、夕方まで時間があったので、地下鉄で大通り公園へ出かけた。公園内はイベントの準備をしているようで、業者が所々で花の植え込みの飾りつけをしていた。公園の東の端に「さっぽろテレビ塔」がある。私達は、入場料一人720円を払って、エレベーターで高さ90mの展望台へ登った。曇っていたが、札幌市内がクリヤーに見られ、大倉山ジャンプ競技場や石狩平野が見られた。日本海は見られなかった。翌日は、千歳空港16時15分発の福島空港行のANAに乗って帰るのだが、それまで半日の時間があるので、北海道立近代美術館へ絵を見に行った。荷物は地下鉄構内のコインロッカーに入れるが、ロッカーはコインでなく、交通系ICカードPASMOが使える。コインだと、ロッカーの番号が印刷された紙切れが出てくるが、ICカードの場合、何も出てこない。ロッカーの場所を覚えておかないと荷物を引き出す時、分からなくなる。ICカードの場合、領収書が必要かを画面で聞いてきたので、私は必要ないと思い、NOと答えた。これは後から考えて拙かった。領収書を貰っておけば、場所や番号が記入されているはずであったのだ。
 私達は、地下鉄の東西線の「西十八軒」へ行き、そこから少し歩いて北海道立近代美術館へいった。この美術館の収蔵品は、5218点ある。そのうちの50点が「近美コレクション名品選」というタイトルで展示されていた。ユトリロ、ブラマンク、藤田、荻須などの有名画家の作品も集められていた。この美術館の別の部屋では、ブリヂストン美術館のコレクションの84点が展示されていた。東京にあるブリヂストン美術館は、2015年から新美術館建設のため休館中で、2019年秋にオープン予定である。休館中、久留米、広島などで収蔵品の展覧会が開かれている。その一つが、札幌のこの美術館と、近くにある北海道立三岸好太郎美術館で開かれている。私達はこのブリヂストン展へは、時間がなかったので行かなかった。私達は、JR札幌駅に戻り、電車で千歳空港へ戻った。福島空港行のANAは、16時15分発であるが、機体のエア系の不具合で1時間遅れで出発し、無事福島に着いた。
 話は変わるが、今年の春から夏にかけて当地では高温、少雨が続いた。梅雨の時期も、雨が10日に一度、30分ぐらいのにわか雨程度の降雨で、いつの間にか梅雨が明けて、暑い夏がやってきた。我が家の庭の土はからからに乾き、水やりに忙しい。水気がないので、おかげで蚊が出なく、庭仕事は楽である。関東地域でも降水量が少なく、連日最高温度が35℃を越えていた。全国で、熱中症で死亡する人が続出している。7月上旬では西日本で大雨があり、各地で雨による洪水、土砂崩れが発生し、それらによる死者が230人も出た。岡山県倉敷市真備町地域では、河川の氾濫による洪水の被害があり、連日のようにテレビによる被害の状況が報道された。
 この真備町は、妻の元実家があった町である。被害にあった真備町は、倉敷市が開発した新興住宅地であり、彼女の実家のあった地域とは南側に離れていた。岡山県には大きな河が3本あり、一番西に流れる河は高梁川である。その下流に近い所に、新興住宅地が造成された。ここには水島工業地帯の会社などの社員が住んでいるようで、水没した家はまだ新しそうであった。昔からの真備町の集落は、丘の麓を囲むようにあり、平地から少し高い所にある。そのため今回の水害の被害は受けていない。高梁川は大きな河で、過去度々河川の氾濫があったようで、そのためしっかりした堤防と、広い河原を設けている。今回の水没地域は、小田川という小さい川が高梁川と合流する所の近くにあり、増水した高梁川の水が小田川に逆流したために、被害が発生したと言われる。合流地点では、小さい川は水門を造り、逆流を防がなければならない。水門があっても、今回の大雨では小田川も水があふれて決壊するであろうが、せいぜい床下浸水ぐらいで済んだであろう。
 高梁川の立派な堤防のため、旧倉敷市街は、水害を受けていないようである。特に川の東側は古くから紡績工場、例えば大日本紡績(現在ユニチカ)、クラレなどが工場を建設していた。私の実家は、借家であるが、高梁川の東側のJR総社駅の近くにあった。そこで、私は中学校と高等学校の6年間を家族と一緒に過ごした。この辺りは、あたり一面水田が広がり、その水は、高梁川から取水している水路から供給されていた。実家から約1.5km離れた高梁川の上流に「湛井堰(たたいぜき)」があり、そこには水門があり、季節には農業用水として各方面に水を放していた。水路の水面より高い水田は、この水路に水車を取り付け、水をくみ上げて田んぼに流していた。この水車が回る様は、私の実家からよく見え、夏の風景として今でも記憶にある。また6月頃、この水路には多くの蛍がとびかい、蛍を捕まえて蚊帳の中に放して、楽しんだことも覚えている。
 高梁川と小田川の合流地点の東側の堤防には、桜で有名な酒津の堤があり、その近くに「笠井堰」がある。これは、大正14年に完成したもので、高梁川の東側の地域に工業用水、農業用水などとして利用されている。同じ高梁川の上流の東側にある、上に述べた総社市の「湛井堰」は、起源は古く、平安時代にさかのぼると言われている。このように高梁川の東側は古くから治水事業が行われていたので、明治27年以降、洪水被害はまったくない。一方、高梁川の西側は、昔からの農村地帯で、灌漑用水は各地にため池を造り、雨水はため池に入れ、そこから水田へ水を送るというシステムが出来ていた。今度の洪水被害のあった川の西側の真備町地域は、元々は水田地帯であったが、住宅地として開発されたものである。小田川と高梁川の合流地点の少し下流に、先に述べた「笠井堰」がある。普段、この堰により、合流地点の川の水位は上がっている。今回の大雨による洪水の原因とされた小田川への逆流は、起こるべくして起きたと思われる。小田川に水門を造り、川のバイパスを「笠井堰」の下流まで引くことが、今後の洪水対策になるであろう。
          2018.8.10
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空間放射線量
  福島県の東電第一原発の原子炉が大津波により爆発したのは、2011年3月であったが、今年で7年目を迎えた。その爆発の際、大量の放射性物質(おもにγ線)が付近にまき散らされた。その放射線量を測定するため、国が2013年に、モニタリングポストを福島県内に約3000台設置した。今年になって、放射線量のレベルも全国レベルに落ち着いてきたので、原発近辺を除いた2400台を2020年末までに撤去する、と国が提案してきた。今、福島県の各地ではこれに反対している。私が住む矢祭町にも、モニタリングポストが所々に設置され、放射線量の数値を手軽に知ることができる。現在、その数値は0.05から0.08毎時マイクロシーベルトである。通常の自然界では、私達が浴びている放射線量は、年間2.4ミリシーベルトと言われる。これを一般に使用している単位に換算すると、0.27毎時マイクロシーベルト(μSv/h)である。矢祭町の測定値は、0.07であるから、自然界の0.27に対して、4分の1である。
 NHKテレビの福島局は、夕方7時前の地方ニュースの後、県内各地の空間放射線量(毎時マイクロシーベルト)の最大値と最小値を報道している。それによると、中通の白河市では0.05~0.17であり、最小値と最大値の幅が大きい。東電第一原発がある大熊町では、0.11~9.36である(2018.8.19の測定値)。この最大値9.36は、自然界の安全と思われる0.27の約35倍の放射線量であり、この地域が未だ帰還困難地域になっているのが判る。地元の民放テレビの福島放送も、毎夕、県内の放射線量の測定結果を報道している。この局は双葉郡の各町の数値しか示しておらず、県内で一番放射線量が高い大熊町のデータは代表地で示されている。朝日新聞では毎週土曜日の全国版に、福島県各地の放射線量の数値を載せている。これには最も高い大熊町のデータはない。何故だろうか。隣の浪江町のデータはあり、8月17日の数値では、3.0μSv/h であった。これは、安全とされている0.27μSv/hの約10倍のγ線が空気中に漂っていることになる。
 今年は原発事故から7年目になるが、いまだ自然界より多くの放射線が原発付近に漂っているのは何故だろうか。現在、爆発のあった原子炉は建物でカバーされているので、そこから放射線は出ていないと思われる。爆発時、莫大な量の放射線が一挙に空気中に放出されたのであろう。それが付近の山野の樹木や土地に沈着し、長年にわたって少しずつ空気中に放出されていると思われる。それらの土地の放射線物質を除去するため、国は事故直後、各地の土地の表面を削って、1立法メートルのフレキシブルコンテナに入れて、保管している。これらは、福島県では約1300万立法メートルあり、各地の市町村に設けられた仮貯蔵地に置かれている。これらのコンテナは、2段程度に積み上げて、その上に雨除けのシートでカバーされているようである。γ線はプラスチックは簡単に通過するので、これらのコンテナから徐々に放射線が空気中に放出され、各地の放射線データとしてあらわれている。γ線の放出は、今後も長く続くであろう。
 私は昨年(2017年)3月に携帯型放射線モニターを4万円で購入した。事故後、各県の住民は放射線に関心を持ち、自分がいる所の放射線量を知りたいという気持から、携帯型モニターを購入する人が増えたようである。当時、いち早く市場に出た商品は中国製であり、比較的安く購入できた。ロシア製も輸入販売され、評価は高かったようである。現在では、市場に出ている携帯型放射線モニターは、ほとんど日本製であり、中国製やロシア製はなくなってしまった。事故当時、日本の電子機器メーカーや家電メーカーは、このモニターのニーズを知らなかったので、商品はなかった。中国製が輸入され、需要があると感じて、日本のメーカーは急遽開発したようである。私が購入した製品は、岩崎通信機(株)製の放射線量モニターSV-2000である。この取説には、この製品は純日本製であると記していた。製品は空間の放射線のうち、γ線の放射線量を測定するものである。私は、この測定器で自宅の近くにあるモニタリングポスト付近で放射線を測定したところ、同じ数値を示していた。私は、この測定器の精度は高いと思っている。
 この装置のサイズは12×7×3cmであり、ポケットに入るサイズであるので、私は面白がって色々な所で放射線を測定した。表面がコンクリートやアスファルトの上と、その近くにある植え込みの上で放射線量を比較すると、放射線量はコンクリートの上が、植え込みの上より低い数値を示した。コンクリートの上は、雨で付着した放射線が流されおり、一方植え込みでは放射線物質が植物や土に吸収されているので、このような差が出たものと思われる。そのため、私は測定時、植え込みの上あるいは土地の上で測定することにした。私は、旅行の際、この携帯モニターを持って行き、色々な行き先で測定した。徳島県鳴門市、新宿、稚内、礼文島、利尻島など。去年はツアーでポーランドへ行ったので、ポーランドの各地の都市で放射線量を測定した。それらの結果を下の「各地の放射線量測定結果(1)」の表に示した。福島県南部および関東地方の放射線量は、0.05から0.07μSv/h であり、これが自然界のγ線量かな、と考えていた。北海道の北端の礼文島や利尻島では、0.02μSv/h を示し、極端に低かった。これが自然界のγ線量なのであろうか。関東地方は東電事故の影響をまだ受け続けているので、放射線量が高くなっているのか。
 今年の3月、私が四国の徳島空港で羽田行のANAに乗った際、離陸前のANA機内の放射線量を測定したところ、0.02μSv/h であった。しかし、離陸30分後に測定すると、0.05に上がっていた。成層圏では地上より大量のγ線があり、金属製の機体でもγ線は容易に透過するのであろう。私が購入した岩通のモニターには、東京ーニューヨーク飛行機内(1往復)の放射線量(積算)が示されており、それには約0.3ミリシーベルトの表示になっていた。これを通常の単位に直すと、13μSv/h になる。これは福島県の大熊町の最大値10μSv/h より多い量であり、成層圏のγ線量がいかに大きいかを示している。私は、今年9月にツアーで中国へ行き、このモニターを持って、各地の放射線量を測定する予定である。どのような数値が出るか楽しみにしている。
          2018.9.10

         
各地の放射線量測定結果(1)
   日付            測定場所                       測定値(マイクロシーベルト/h)
 2017.3.18  福島県矢祭町自宅の庭、測定器の購入日に測定                 0.07
 2017.5.15  福島県桧枝岐村、雪解け水                               0.11
 2017.6.7   成田エクセル東急ホテル前                                0.06
 2017.6.8   ポーランド、グダンスク市郊外のメルキュールホテル前                0.05
 2017.6.9    ポーランド、グダンスク、バルト海の海岸、砂浜                     0.03
 2017.6.10   ポーランド、トルン市ホテルの室内                            0.03
 2017.6.12   ポーランド、クラクフ市ノバテルホテル室内                      0.07
 2017.6.13   ポーランド、ザコパネ市、岩塩坑入口                         0.03
 2017.6.13  ポーランド、アウシュビッツ収容所内、砂利道                    0.10
 2017.6.14  ポーランド、ワルシャワ市、ショパン博物館前、砂利道               0.09
 2017.7.1   横浜市、桜木町駅前                                    0.05
 2017.7.2   北海道、稚内市、礼文島フェリー内                          0,01
2017.7.3   北海道、礼文島、香深港近くの三井観光ホテル前                 0.04 
 2017.7.3   北海道、礼文島、日本最北端の金田岬                       0.02
 2017.7.4   北海道、利尻島、鴛泊港、利尻富士観光ホテル前                 0.02
 2017.7.5   東京、羽田、東急大鳥居駅、東横イン羽田空港2前                0.06
 2017.7.5   東京、新宿、京王デパート前、街路樹下                       0.08
 2017.7.5   JR東京駅、南口。高速バス乗り場                           0.07
 2018.3.25  徳島、鳴門市、ルネッサンスナルトリゾートホテルの部屋、テラス         0.07
 2018.3.25  徳島空港発羽田行、ANA、離陸前の機内                      0.02
 2018.3.25  同上、ANA機内、離陸30分後                            0.05
 2018.5.18  茨城県、那珂市、那珂IC高速バス停                         0.05
 2018.5.20  静岡県、沼津市、淡島ホテルの部屋、テラス                     0.04
 2018.5.21  東京、新宿中央公園内                                0.04
 2018.5.21  東京都庁の前                                      0.06
 2018.8.13  茨城県東海原発前、国道245号 道路の上                    0.06
 2018.8.18  茨城県大子町川山、国道118号横グランド                     0.08

 注)~前とあるのは、例えばホテルの場合、ホテルの前の植え込みの上で測定。

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中国旅行
  私は、今年(2018年)9月20日から6日間、クラブツーリズムが企画した中国旅行に参加した。ツアーのタイトルは、「はじめての中国、上海・北京と西安 6日間」である。私は通常、この雑記の記述を数カ月前の出来事について、日記を見ながら入力している。この10月号の「中国旅行1」は、9月の20日頃から入力し始めるので、旅行とリアルタイムで記述することになる。そのため旅行には、ASUS製(台湾)のノートパソコンEeeBookを持って行き、ホテルなどで今日の出来事などを入力しようと思っている。このパソコンは、3年前に3万円で買ったもので、大きさはB5判、重さは約1㎏である。この台湾製のパソコンは、通常使用していないが、たまに使うときも正常に働き、不具合は今まで一度もなかった。私は、タブレットもASUS製、手のひらサイズのディスクトップパソコンも、ASUS製を持っている。後者のパソコンは本体が手のひらにのる大きさであり、ディスプレイの液晶は、DellのディスクトップPCと共用している。手のひらサイズのパソコンの消費電力は50Wで、一方Dellのディスクトップは250Wであるので、遊びでパソコンを使うときはASUSを使っている。これらの台湾製PCは、全く不具合はなく、台湾製のASUSは優秀であり、台湾生まれの私は、それを誇りに思っている。
 私は、これまでツアーを利用して訪れた国は、ロシアを含めてほとんどのヨーロッパの国であった。アジアは、台湾と香港は行ったことがあり、そのほかのアジアの国は行きたいと思わなかった。しかし、中国は隣国の大国であり、一度行ってみたいと思っていた。今回の「はじめての中国」というツアーは、最もよく知られた名所旧跡を一通り見聞する旅で、中国の代表的な都市である上海、北京、西安を6日間で巡るものである。都市間の移動は、全て中国東方航空の国内線で行う。スケジュールも一日を目いっぱい使うため、早朝出発が多い。そのため、朝食は弁当が配られて、バスの中で食事をする。このツアーは、若者向けに設定されたようで、後期高齢者の私が参加するのは、間違っていたかもしれない。出発は羽田空港からで、上海に向けて中国東方航空で行く。羽田空港での集合時刻は朝6時40分であり、こんなに早い集合時刻は初めてで、びっくりした。ツアー会社から一週間前に配られた資料には、参加者は22名とあり、これら多くの人は羽田近辺のホテルに前泊しなければならないであろう。
 先月号の雑記で、私は空間放射線について述べ、その携帯型測定器(モニター)を買い、これを持って中国へ行き、中国各地の放射線量(γ線)を測るつもりでいた。この記述を見た私の弟から電話があり、それは止めた方がよい、という忠告を受けた。日本では各地の放射線量を測っても、だれからも何にも言われなく、罪にはならない。中国では放射線を測ることに規制があるかもしれないし、測るのが見つかると、当局から身柄を束縛されるかもしれない、と言われた。考えてみれば、空気中の放射線量は機密事項かもしれない。例えば、西安で異常に高い放射線量が測定された場合、これは西安付近で行われた核実験で発生した放射線であるかもしれない。そして中国は、住民に不安を与えないため、核実験による高濃度の放射線量を極秘にしている、かもしれない。あるいは、西安近くの原発で事故があり、相当な放射線が空気中に放出され、これも住民のため公表しないでいるのかもしれない。これを私が測定している所を、当局が見つけたら、当局は私を取り調べるであろう。そのようなことを私は想像して、モニターを持参することを断念した。
 集合日前日の9月19日に、私は京急羽田線の大鳥居駅から歩いて1分の所にある、「東横イン羽田空港1」というホテルにチェックインした。荷物を部屋に置いて、明日の集合場所の確認と、日本円の元への両替を行うため、羽田空港国際ターミナルへ行った。ここからこの雑記は、少し遅れたリアルタイムで記述するつもりでいたが、中国のホテルでの記述は、忙しくて不可能であった。そのため、いつものように帰国後の9月27日から記述している。それまでの文章は、Dropboxというネット上のオンラインストレージに保存し、帰国後ディスクトップのDropboxから、いつも使っているホームページビルダ-に貼りつける操作を行った。
 集合日、集合時刻は6時40分なので、私はホテルの部屋で朝食を済ませ、羽田空港の集合場所へ。指定のYカウンターには6時半に着いた。旅行社の人から書類を受け取り、Lカウンターの中国東方航空のカウンターでチェックインする。そこには50人ぐらいがチェックインの順番を待っていた。カウンターでは、窓側か通路側かを聞かれたので、窓側にしてもらった。上海行のボーイングB777-300は大型機であり、右3列の私の隣の席は若い日本人女性である。彼女たちは、自分たちで海外旅行をいている感じであった。飛行機が安定飛行した後、機内食が出た。中華料理風と洋食の混じったもので、中華料理風は特に美味しかった。座席の前には液晶画面があり、色々なソフトが選択できる。私は、飛行ルートと各種データが出る画面を到着まで約3時間、眺めていた。上海に近づくと上空から大きな河、揚子江(長江)が見えた。水は茶色に濁っている。揚子江をネットで調べると、揚子江は、チベット高原から始まる世界で3番目の長さであり、有名な洞庭湖を経て、上海に至る。水の濁りは洞庭湖あたりからであろう。濁りの成分は、春先に日本に来る黄砂と同じではなかろうか。黄砂は、空気中に浮遊するぐらい細かい粒子であるから、揚子江に吸着された黄砂も川底に沈降せずに浮遊し、濁った状態で上海までくるのであろう。
 上海空港には10時半頃着いた。入国検査は厳しく、指紋などがその場で取られ、手荷物検査、身体検査などで、入国に時間がかかった。私達は、大型バスで市内のレストラン「旭日酒店」へ。団体の中国料理は、7~8名が大きな円卓に座り、前のターンテーブルに料理の大皿が次々に置かれ、それを各自が自分の皿にとって食べる方式である。好きな料理を好きな量だけ取るわけだから、体重に気を使っている人には良い。アルコールは、どこのレストランでも中ビンサイズが1本30元(約500円)に統一されているようである。食後、私達は、バスで揚子江支流(黄浦江)に沿ったワイタン(外灘)地域の散策道路へ行き、対岸に見える100m以上の高層ビルが林立するホトウ(浦東)地区を眺めた。この散策道路の先には、旧共同租界であった地域があり、元イギリス領地に建てられた洋風建築がある。これらの建物をバスの中から眺めて、シルク織物のショールームへ行った。そこには多くの外人団体が来ており、建物の中は暑く、私は旅の疲れで係の宣伝を聴く元気がなかった。幸い、部屋のコーナーに休憩する所があり、私はペットボトルの水を5元(80円)で買い、そこで休んだ。集合時刻になり、建物から出ようとするとき、停電になり部屋は真っ暗になった。スマホを持っている人はスマホをつけて、足元を明るくしてくれた。スマホの画面は、明るいのでライトの代わりになる。
 バスは、旧フランス領であった租界地にある「新天地」へ。外は雨が降りだし、薄暗くなったので、私はカフェの中のベンチに腰かけて休んだ。2、3組のツアーの仲間も休んでいた。彼らはコーヒーカップを片手に持っていたが、私はコーヒーを飲む元気はなかった。集合時刻になり、私達はバスが停まるところまで歩き、バスが来るのを待っていた。道路は、夕方のラッシュで、車はほとんど動けない状態であった。上海市内は、道路に乗用車があふれている状態で、車は思うように走れない。現地のガイドが、バスが遠くにいるのを見つけたので、我々が歩いてバスを迎えた。道路のそばで雨と風の中で待つよりは、バスの中で過ごした方が楽である。
 今回の中国3都市、上海、北京、西安は、どこも事情は同じであるが、とにかく乗用車が多い。私は、ツアーのバスでは一番後ろの席に座ることにしていた。座席は一段高くなっているので、180度の角度で道路の状況を見ることができる。中国人の車の運転技術は優れているのか、簡単にレーンの変更をする。車の間隔が1mあれば、強引に割り込んでくるのに感心した。強引さはお互い様だから、クラクションは鳴らさない。ひと頃、中国の道路は車のクラクションでやかましいと言われたが、今はほとんど聞かれない。車のほかに、バイクと自転車が多い。全てのバイクは、エンジン駆動でなく、電気モーターで動くようになっている。バイクは、バタバタの音はなく、無音で走る。道路の端には1.5mぐらいのバイク専用のレーンがあるが、歩道を走るバイクもある。実際歩道を歩いていると、バイクが音もなく通り抜けるので、びっくりすることがあった。交差点では、人、自転車、バイクは信号無視で横断する。中国では、まだ交通ルールを守る義務が徹底されていないようだ。
 1日目の上海でのホテルは「シェラトン上海」である。私達は、道路の渋滞でホテルには午後10時前に着いた。私の泊まった部屋は、25階の2501号室で、ダブルベッドのツインタイプである。部屋の大きさと、設備の良さは、今まで経験したことがないものであった。シャワールーム、トイレ、バスルーム、洗面所は別々になっており、バスタブは馬鹿でかいし、湯につかりながら外の景色が見えるようになっている。私は、夜遅い到着と明日の5時半の集合のため、湯につかる余裕はなかった。テレビは50インチの大きいもので、広い部屋で遠くからでもよく見える。カーテンは電動式で開閉できるようになっている。このような快適な部屋に7時間しか滞在できないのは残念だ。もっと長くいたいものだ。
           2018.10.10
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中国旅行2
  ツアー2日目は、上海空港から北京空港への移動と、北京市内の観光である。シェラトン上海のホテルのモーニングコールは4時半、私はその前に起きてスーツケースなどの荷造りをしていた。ホテルのロビーへの集合は5時半、朝食は弁当が配られ、バスの中で食べる。朝食のレジ袋には、パン、ヨーグルト、ゆで卵、小さなケーキ、ペットボトルの水、が入っていた。上海空港の建物の中に入るのに、荷物のチェックと身体検査がある。身体検査は、体に付けている金属を探知する目的で、ゲートをくぐって調べられる。チェックインカウンターでは、スーツケースのX線によるチェック。ここで、ツアーの多くの人がチェックにかかり、その持ち主は別室に連れられて、スーツケースを開けて中を調べられた。私もその一人で、スーツケースを開けて、現地ガイドを通じて係官に説明した。単三などの乾電池が検知器にかかったようである。機中の荷物室で乾電池の液が漏れて発火した事故があったのであろうか。私はこれ以降、ラジオなどから乾電池を抜いて、手荷物に入れることにした。北京行のゲートに入るのに、手荷物のチェックと身体検査があった。飛行機に乗るのに3回もチェックがあった。中国は何故そのような厳しい検査が必要なのか。中国はほとんどが漢民族であるが、それ以外の民族も多数あり、テロなどのおそれがあると、政府は警戒しているのであろう。
 飛行機は、上海空港を8時半に離陸し、北京空港に10時半に着いた。我々は、ここから1時間半のバス旅で、市内から75km離れた万里の長城に行き、近くのレストランで飲茶料理の昼食をした。食後、すぐ近くの万里の長城(北京市内に一番近いのは八達嶺長城という)へ。この長城への入場料は、一人20元(約350円)である。当日は快晴であったが、風が強く、長城の上は特に強く、歩くのにふらつくぐらいであった。城壁の上は、幅4mぐらいの石畳の道があり、急なアップダウンの坂が続く。よくテレビなどで見られる万里の長城の風景を目の前にして、私は中国に来たという実感を得た。城壁には城楼という砦があり、入口の砦から約200m間隔に砦がある。入口から一番上の頂上まで4つの砦を通過していく。そこまで歩いて30分かかるそうであるが、私は3つ目の砦まで歩いて、引き返した。石畳は、長年の多くの観光客の靴で表面がつるつるになっており、滑りやすい。通路の両端には手すりがあり、それに掴まっても、強風で足元がおぼつかない。私は、頂上までは次の機会の楽しみにとっておこうと、出入り口まで戻った。我々は15時40分に集合し、バスで市内のレストランへ向かったが、この道も車が多く、渋滞していた。明日土曜日は、「中秋の名月」で、北京市民は月を見るために万里の長城へ行くという。そのため明日は今日より大渋滞が起こるであろうと、現地ガイドの孔さんは言っていた。中国人は月を眺めるという習慣がまだ残っているようである。
 レストランまで2時間かかり、その時間を使って孔さんは中国の現状について色々話を聞かせてくれた。北京市内には楊樹という立木が多い。この楊樹には殺菌効果があると言われ、歯ブラシの代わりにしたそうで、この樹からヨウジが作られた。日本の楊子は中国から伝わったという。年間200万人の中国人が日本に出かけると言い、孔さんは日本へ観光に出かける中国人のガイドをするそうである。日本では彼らは日本語を覚えて帰国し、便利な言葉は中国でも使っているという。「営業中」という言葉はよく使われたり、「人気」という言葉なども漢字で使われているそうだ。孔さんの母親は吉林省にいて、生活している。中国の吉林省のような地方では、所得のレベルが低く、ひと月の生活費は日本円にして3万円ぐらいだそうである。中国では買い物は全てスマホ決済になっており、現金は使わなくなった。孔さんのお母さんも、買い物はスマホで行っている。時折孔さんは、母親に送金するが、これもスマホで済ませる。その金額は、母親の口座に入り、スマホでそのお金を使うという。孔さんは、中国の貨幣制度は近いうちに消滅するのではないかと言っていた。
 当日のホテルは、市内にある「国賓酒店プレジデンタルホテル北京」である。名前は立派だが、部屋の設備が古くなって、よく機能しない。テレビが映らないので、孔さんに言って直してもらった。中国ではNHKが見られ、9時半のニュースをしていた。このホテルは連泊で、翌日の集合時間は7時半なので、ゆっくりできるでしょう、と添乗員は言ってくれた。私にとって7時半は早朝で、それまでにバイキングスタイルの朝食を済ませなければならない。スーツケースの準備はしなくてもよいのが助かる。午前中の観光は頤和園(イワエン)と、パンダがいる北京動物園である。イワエンは、広大な昆明湖を抱える皇帝庭園で、西太后が建設したものである。私達は湖岸に造られた730mの長廊を少し歩いて、昆明湖を眺めた。イワエンを一通り見て回るには1日以上かかると言われる。
 北京動物園の目玉はパンダである。中国では9月22日から24日まで「中秋節」になっており、3連休である。学校も休みなので、この北京動物園は子供連れで賑わっていた。北京動物園にはパンダ館が独立してあり、別料金になっている。パンダの檻は3か所あり、それぞれにパンダはいるが、全員寝ていた。皆、向こうを向いて寝ているので、背中しか見られない。写真で見るパンダの白い毛は純白だが、ここにいるパンダの白い毛は薄茶色で汚い。孔さんの話によると、パンダの保護地域ではパンダが羊を殺して食べるというので、現地では困っていると言う。私は、パンダが笹ばかり食べている映像しか見ていないので、パンダは草食動物かと思っていたが、肉食動物なのだ。私は、帰りの西安の空港で土産物の小さなパンダを買ってきて、自宅に置いてある。このパンダの目を、よく見ると可愛くなく、どう猛な感じである。パンダの可愛いらしさはその動作であろう。寝ているパンダを見ても可愛らさは伝わってこない。
 北京観光の午後は、天安広場にある紫禁城である。広場の正面にあるのは、中国からのテレビ映像でおなじみの天安門(午門)であり、ツアーはそこから紫禁城に入る。城内の建物には、南北1kmにわたって門や殿という名がつく壮大な建物が14棟もある。ツアーは、それらについて孔さんの熱心な説明を聞きながら歩く。当日は晴天で、気温も30℃近くあったので、私は疲れてしまった。持参したペットボトルの水もなくなってしまい、脱水症状気味になった。城の中にはところどころ土産物店があるが、水は置いていない。北の出口近くの店で水を見つけて、買うことができた。紫禁城内は広く、それを埋め尽くすほどの多くの観光客でにぎわっていた。中国人と思われる人も多いが、白人系外人の団体も多い。私達のツアーは、1kmの距離を立ち止まりながら歩いた。ツアーは出口近くに停まっていたバスに乗り、私はほっとした。
 このツアーは、ショップへの案内に多くの時間を取っているのが目立つ。この日の午前中は、ラテックス店で、寝具のマットレスの宣伝を受けた。中国では天然ゴムの生産量が多く、それを用いたマットレスの生産量も多い。店員は、ウレタンマットレスと天然ゴムのマットレスの違いを熱心に説明していた。天然ゴムのマットレスは抗菌性、防カビ性があり、メインテナンスがウレタンよりも優れていると強調していた。このような大きなものを買っていく人がいるのか疑問に思ったが、店ではそのような人のために、小さく圧縮してスーツケースに入れて、帰ってもらうという。そのスーツケースはサービスするという。1時間近く店にいたが、寝具を買う人は誰もいなかった。ツアーは、別のショップ、掛け軸店に案内された。色々な書の掛け軸、額装された書、油絵があり、大家と思われる老人の書の実演を見せてくれた。その大家は、ツアーの人から漢字のリクエストを受けて、それを幅40cmぐらいの中国で一般に使われている「宣紙」に書いてみせた。見事な筆さばきで、その書体にも味があるように感じられた。購入希望者は、その書家とその書と一緒に写真を取ってくれる。ツアーの一人がその書でなく、別の掛け軸の書を購入したようであった。
 当日の夕食会場は、市内の全聚徳(ぜんしゅうとく)というレストランである。ここは、団体を専門に受け入れているレストランのようで、3階は外国人専用のフロアーになっていた。7、8人が座れる円卓が多くあり、ほぼ全部の円卓が使用されていた。このツアーには3人のタバコを吸う人がいる。北京のレストランでも禁煙が徹底されているようで、日本に比べると禁煙の意識が強いようである。しかし、道路で歩きながらタバコを吸う人は多い。ツアーの愛煙家の3人は食事が終わると、そそくさと建物の外に出てタバコを吸う。タバコの好きな彼らは、飛行機の移動ではライターが持ち込めないので、その都度ライターを捨てなくてはならないと、こぼしていた。このツアーでは、毎日のように夕食後に観劇などのオプションが設定されている。上海では上海雑技、北京ではカンフーショーと京劇、西安では唐歌舞ショーの観劇であり、希望者は参加できる。料金はいづれも一人3900円である。私は京劇は一度見てみたいと思っていたが、昼間の観光で疲れて、京劇を見る気持にはなれなかった。ツアーでこれらに参加する人は2,3人で、比較的若い人たちであった。
 地元ガイドの孔さんの自己紹介で、「孔」という苗字は孔子、孟子の孔であり、孔子の子孫であろうと、彼は自慢していた。中国には孔という名前を持つ人は200人ぐらいいて、たまに同姓者が集まって親交を深めることがあるという。以前、孔さんは、交通事故で警察に捕まった時、その警察官が孔さんと同じ苗字であったので、警察官は同姓のよしみで事故を見逃してくれた、と話していた。中国らしい話である。中国では少額の贈収賄は一般に行われており、当局はそれを見つけても、何もしないという風習が残っているという。これも大陸的で、中国らしい風習である。
           2018.11.10
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中国旅行3
  ツアー4日目の9月23日は、西安市の観光である。我々は、早朝5時にバスに乗り、ホテルから北京空港へ。朝食は、車内で配られた簡単な物を食べた。目的の西安空港には10時ごろ着き、空港の建物を出るの1時間かかり、そこからバスで西安市内のレストランへ行き、昼食を取った。北京市から西安市まで約1000km離れており、鉄道も走っている。日本で言えば東京から岡山の距離ぐらいであろうか。これは日本の新幹線で4時間の距離である。北京空港から西安空港までフライトの時間は2時間20分であるが、両空港の出入りの手続きに約2時間かかった。私は、中国の鉄道の事情はほとんど知らないが、鉄道で行っても4時間ぐらいであろう。それなら鉄道の方がのんびりして楽であろう。鉄道の良いところは、沿線の風景がたっぷり楽しめることである。私は一度は中国の鉄道に乗ってみたかった。
 西安の観光の目玉は、兵馬俑坑(へいばようこう)博物館であろう。我々は、市内のレストランから約20km離れた西安市郊外のこの博物館へ行った。博物館は、1号~3号館の建物に分かれ、それそれ地下3mぐらいの所に、写真などでよく見る兵士や軍馬の等身大の素焼き陶器が整然と並べられていた。見物客は、建物の周囲に造られた地上の見学通路から下を覗いて眺める。その様子は壮観であった。色彩が少し残っている貴重な像は、通路の広場に設置され、ガラスの箱に入れられて、近くでじっくり見ることができる。博物館から少し離れた所に、この兵馬俑を今から44年前に偶然発見した一農民(楊志発氏)が今も健在しており、我々はその人が住んでいる家を訪ねた。80歳の彼は、夫婦で住んでおり、その家は土産物屋を営んでいる。彼は発見当時、その土器をリヤカーに載せ、40kmの道を歩いて報告に行ったという。そのリヤカーも展示されていた。兵馬俑坑博物館には多くの観光客が来ていたが、この家にまで来る人は少ない。我々がその店を出るとき、この老人夫妻が店の外まで見送りに出てくれた。ツアーはその後、近くの秦の始皇帝の墓である始皇帝陵を遠くから眺め、西安市内のホテル、ゴールデンフラワーホテル(金花大酒店)に宿泊した。
 ツアー5日目の翌日は、終日、西安市内の観光である。最初に、ホテルの近くの国立博物館へ行き、書や水墨画などを見物。この案内を博物館の男性の職員がしてくれた。彼は、美術品の説明はそこそこにして、我々をショップに案内した。その職員は、ショップに展示されている中国産メノウなどを熱心に説明してくれた。彼は国家公務員であるが、セールスマンのような熱心さで我々に品物を薦める。何故熱心なのか。ショールームでの売り上げが彼ら職員のボーナスになると、後でガイドから聞かされた。しかし、ツアーの人は誰も買う人はいなかった。西安市内には中心部に周囲14kmの城壁が残っている。1370年にレンガで造られた城壁は、度々修復されたが、堂々とした風格がある。我々は、南門から城壁の上に造られた幅13mの石畳の通路に上がった。ここから約3km先の西門まで、高さ12mの通路を眼下の市内の景色を眺めながら散策する。その通路にはレンタルの自転車があり、希望者はそれを45元で借りることができる。私は、歩くのが面倒だから、自転車を借りて西門まで行った。心地よい風に吹かれながら、久しぶりの自転車走行であった。ツアーの中では、東京から参加した女性が一人、自転車を利用していた。
 昔、長安と言われた西安は、紀元前11世紀から紀元10世紀までの2000年間、中国歴代の王朝が定めた首都であった。長安は、日本との関係も深く、遣隋使、遣唐使が派遣された都で、阿倍仲麻呂や空海などが滞在していた。西安は、シルクロードの起点として世界的に有名であり、そのせいか、西欧系の観光客が多いようである。レストランなどでは彼らの団体が食事をしているのによく出会う。西安は、人口800万人の大都会で、国立大学が57校もあり、大学生が85万人もいるという。私達は、市内をバスでしか回らなかったので、街を歩いている人達には会う機会がなかった。歩くのは、観光施設の近くを歩くだけである。街に住む人たちの服装などの風俗に接することができなかったのは残念である。昼食後、空海が修行をした青龍寺の観光である。この寺は、唐の時代に廃寺になったが、日本の四国4県の援助で1973年に寺が再建された。そのため四国4県のゆかりの寺として、訪れる日本人が多いという。この寺は、四国八十八か所のスタートの0番地となっている。
 ツアーは、じゅうたんの店に連れていかれて、絹のじゅうたんの説明を受けた。大小のじゅうたんが展示され、絹のスカーフなども展示販売されていた。熱心な店員の説明を受けたが、誰も買う人はいなかった。ツアーの人達は、添乗員の指示を聞かずに勝手にその店を出始め、私も彼らについて外に出た。次の観光スポットは、大雁塔である。かっては西安のシンボルタワーとして、市内で一番高い建物(64m)であったが、ビルラッシュでその存在は薄れてしまった。この塔は、西暦652年に建てられたもので、当時の技術で7階建ての木造建物が建設されたとは、驚きである。現在、長い間の地下水のくみ上げで、塔は少し傾いている。これを元に戻すため、水を地下に注入しているという。果たして元に戻るか。希望者は30元払って、塔の7階まで登ることができるが、ツアーの2,3人が登っただけである。広い敷地内には一周する散策コースがあり、私を含めた他の人は散策をした。
 その日の夕食の会場は、大雁塔からバスで10分の所にある「徳発長」というレストランである。料理は餃子料理で、15種類の餃子が大皿にのせられて次々に運ばれ、私達はそれを珍しがって食べた。味は穏やかで、日本で食べる味と同じであるから、つい沢山食べてしまう。トマトが中に入った餃子は珍しく、これなら自分でもできると、島根県から来ていた夫婦の奥さんが言っていた。ツアーは、6時半にホテルに着いた。まだ外は明るかったので、私は散歩がてら近くの個人商店へ出かけた。これはミニコンビニのような店で、土産用に一箱13元の菓子箱2個を買った。ホテルに戻ってその箱を調べると、製造日が5月になっており、賞味期限の日付がなかったので、ゴミ箱に捨ててしまった。
 翌日はツアー最終日の移動の日で、早朝5時にホテルを出発、西安空港から上海空港へ。ここで羽田行のフライトへ乗り継ぎして、羽田に夕方5時に着いた。今回の6日間の中国ツアーは、行き帰りに2日を使うから、実質の中国での観光は4日間である。その4日を上海、北京、西安という中国の代表的な都市を見て回ったので、大変慌しかった。このツアーの添乗員は、三好さんという20歳代の女性であった。彼女は、東京の事務所でデスクワークをしていたが、添乗員の仕事を少し前から始めたという。22名の団体を若い女性が引率するのであるから、大変な仕事であろう。ただ、各都市ではベテランの男性ガイドが世話をしてくれたので、そのガイドと一緒の時は、三好さんは22名の人数確認が主な仕事になっていた。空港から飛行機に乗る場合も、色々な手続きはそのガイドがしてくれて、ゲートに入るまで面倒をみてくれる。今回のツアーでは、ツアーの参加者が荷物を盗られたとか、パスポートをなくしたとか、というトラブルはなかった。これは、三好さんにとって幸いであったであろう。帰りの上海空港では、羽田行の乗り継ぎのためのゲートがあり、セキュリティチェックなどがあった。この時、出国カードを見せなくてはならないが、そのカードをどこかに入れて、見つからないという人がいた。現地ガイドは当然いない。三好さんが一人で対応しなくてはならない。三好さんは、緊張した顔つきでその人と一緒にどこかへ行ってしまった。残された我々は、2人が帰るまでその場所で立ち止まらなくてはならなかった。20分ぐらいして、2人が戻ってきた。どのように解決したかは、聞かなかった。
 中国の通貨は人民元である。私は出国前、羽田空港の銀行で3万円を人民元に替えた。そこで100元の紙幣16枚(1600元)と、お釣りに1500円を渡してくれた。私は、中国でほとんどこの元を使わなかった。使ったのは、食事時のビール代、1本30元ぐらいで、羽田に戻って残った元は、1200元であった。これを再び円に換えて、17500円を戻してもらった。人民元の記号は¥であり、日本円も¥であるので、紛らわしい。人民元の英語はChinese yuanであり、このyuanのYが用いられて、¥としたのであろう。羽田から中国行の東方航空の機内には、席にショップの雑誌があり、商品の金額は数字の前に¥が付けられていた。最初は円かと思ってびっくりしたが、そのうち慣れてしまった。その雑誌の中に、京劇の人形フィギュアがあり、¥250で売られていた。私は、それを注文しようとしたが、東方航空のメンバーでないと売らないと言われ、断念した。
 私はこれまで17回の海外ツアーに参加した。その半分以上は、ユーラシア旅行社のツアーを利用してきた。ユーラシアのツアーは、15日間ぐらいの長い期間が多く、それだけゆったりした行程であった。ユーラシアの特徴は、添乗員がその日の詳しい行程をA4サイズの用紙に書き、翌日そのコピーを参加者に配ってくれることである。日記などにこの報告書を見ながら書くことができるので、私は大変重宝していた。今回のクラブツーリズム社は、このような報告は社員に義務付けていない。今回の添乗員の三好さんは、ツアーの最終日にA4の用紙の半分に5日間の行程を簡単に書いて、参加者に配ってくれた。これは簡単すぎて、ほとんど役に立たなかった。以前、同じクラブツーリズムのツアーで、ポーランドへ行った時、男性の添乗員が毎日の行程内容を詳しく書いて配ってくれた。これは大変役に立った。この男性は、この書類配布については、会社に内緒にしてほしい、と我々に言っていた。彼は、この行為が他の添乗員に広がると、毎日のように報告書を作成しなくてはならないので、添乗員の負担が増えるのではないか、と心配して、そのように発言したのであろう。
           2018.12.10
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春うらら、平成30年のこと
  今年、平成31年で平成が終わる。平成30年間のうち、平成元年から10年間は、私はサラリーマンであった。その後の20年間は無職で、年金暮らしであった。今年、年号が変わっても、この年金暮らしは続くであろう。無職の私は何をしていたかというと、趣味のテニス、油絵制作、陶磁器の絵付けをしていた。この絵付けをして制作した絵皿類は、250枚ぐらいになり、そのほとんどは希望者に貰ってもらった。絵付けのモチーフも種切れになり、今年の春には絵付けの制作は止めようかと思っている。その際、絵付けの道具である電気炉、絵具、教本などは不要になるので、全て希望者に無料で差し上げようと思っている。この雑記を読んでいる方で、希望される方がおられましたら、メールで連絡してください。電気炉は重くて、大きい(約70×70×70cm)ので、乗用車で引き取りに来られる方に限定されるでしょう。もし希望者がいなければ、メルカリなどで1000円ぐらいの値段をつけて、希望者を探すつもりである。絵付けを終えた月から、私のホームページの絵付け皿の全ての画像は削除する予定である。
 昨年は、30年以上も身に付けていた腕時計を新しいものに買い替えた。古い時計は、カシオの「プロトレック」という商品で、アウトドア向けの時計であり、一方新しい腕時計は、サムソンのウェアラブルPCの腕時計(スマホ時計ともいう)である。カシオの時計は、太陽電池で動き、表示はデジタルの数字で示される。時刻は定期的に校正され、常に正確な時刻を示してくれる。この時計には、高度計、気圧計、温度計、方向指示計、世界時計、ストップウォッチ機能が付いている。私がこの時計で重宝した機能は、気圧計であった。飛行機に乗って上空に上がると、機内は徐々に減圧される。この時、私の体内の気圧と機内の気圧に差が生じて、耳の鼓膜が外へ広がる。そのため、私は耳が痛くなり、聞こえ難くくなる。私はその対策として、気圧計を見ながら飴玉をしゃぶって、唾液を飲み込みながら気圧差を調整していた。機内の気圧は、地上の1010hPaから上空での約750hPaまで下がる。上空から地上に降りる際も、気圧差が生じるので、飴玉で気圧調整をしなければならない。
 私が50歳代、60歳代の頃は、このような飴玉をしゃぶって気圧差を調整する必要はなかった。最近は気圧差により、耳が激しく痛くなることがある。鼓膜の筋肉の弾力性が衰えて、元に戻そうとする力が失われたのであろう。つい最近では、飛行機で地上に降りて数日間は、耳の聞こえが正常に戻らなくなった。飛行機の利用はそろそろ止めにしたいと思っている。新しく購入したサムソンの腕時計は、「Gear S3 frontier」という商品名で、3.7万円で購入した。これは、内蔵のバッテリーを充電しなければ作動しない。1回の充電で4日は動く設計になっている。時計の表示板のデザインは5種類ぐらいあり、好みで選択できるようになっている。私は、アナログ式で針が動くタイプを選択した。この表示には、電池の消費量もアナログで示されているので便利である。消費量が10%になると、警告があり、省エネタイプに切り替えるように指示される。通常の表示はカラーであるが、省エネタイプは白黒で、ボタンを押さない限り時計の表示が出ない。消費量が5%以下になると画面が薄暗くなる。私は、夜間は腕時計を使わないので、電源をOFFにしておく。このようにすると1回の充電で1週間は長持ちする。
 このサムソンのウェアラブルPCの腕時計は、パソコンと同じ機能を持たせている。直径5cm弱の小さな時計にパソコンの機能が入っているとは、驚きである。この腕時計で私が一番気に入っているのは、ひと月単位のカレンダー表示である。私が会社勤めをしていた頃、職場に出入りしていた生命保険の女性がサービスとして、毎月の小さなカレンダーを我々に配っていた。それを腕時計のベルトに付けて、重宝していた。私が会社を辞めてそれが手に入らないと、不便なことがたまにあった。例えば今月の20日は何曜日かを知るには、大きなカレンダーを見に行かなければならない。サムソンの腕時計は、ボタンを3回押せばカレンダーを見ることができ、来月、来年のカレンダーも見ることができる。以前のカシオの腕時計では、温度計と方向指示計があったが、サムソンの時計にはそれはない。温度計があっても、体温の近くにセンサーがあるので、正確な気温は測定できないであろう。サムソンの時計にはGPS機能が付いている。タブレットにあるGPSであれば、地図を表示して自分が移動する経路を知ることができるが、時計には地図が表示できない。このGPSをどのように利用するか、私にはまだ判らない。この時計が誰かに盗まれた場合、その盗んだ人の居場所を突き止めることができるのであろう。一度試しに盗まれてみたい。GPS機能が働けば、盗んだ人を突き止めることができるが、そのような機能がなければ、時計を失ったままになってしまう。
 サムソンの腕時計には4GBのメモリーが入っている。これに音楽を記憶させれば、50時間ぐらいの音楽を入力することができる。これをブルートゥースを使って、ワイヤレスイヤホーンでその音楽を聴くことができる。音楽を入力するには、「Gear Manager」というソフトを使わなければならない。このソフトは、アップルのスマホ「iPod」にインソールできるということであったが、私の持っている「iPod touch」には入れることができない。サムソンのスマホは当然インソール出来るが、私はサムソンを持っていない。仕方なしにサムソンのスマホを買うことにした。メルカリでは中古のスマホを多く売っている。新しいサムソンのスマホは、9万円ぐらいであるが、4,5年前の古いスマホであれば、1万円前後で買える。長野県の人が、スマホ「GALAXY S3」を5500円で売っていたので、それを購入した。これは、電話機能のないスマホであるが、スマホの機能は正常に働いていた。これを使い「Gear Manager」をインソールして、腕時計に音楽を10時間分入力した。
 私は、庭ではイヤホーンを使って音楽を聴きながら庭仕事をする習慣がある。以前はデジタル音楽プレーヤを使ってワイヤー付きのイヤホンで聴いていたが、ワイヤーが仕事中絡まって、不便であった。ワイヤー付きのイヤホーンは今は少数派で、ワイヤレスイヤホーンが主流のようである。ワイヤレスイヤホーンは、ブルートゥース機能とバッテリーが内蔵されているので、値段は普通のイヤホーンの10倍の2万円以上である。バッテリーで作動する時間は短く、1回の充電で3時間が標準のようである。実際には、2時間半でバッテリーが切れてしまうようである。作動時間の長いワイヤレスイヤホーンをネットで探していたところ、サムソンの「Gear IconX」が1回の充電で5時間持つというのを見つけ、それを2.2万円で購入した。このサムソンのIconXには4GBのメモリーが入っており、ブルートゥースを使わずに内蔵のメモリーだけで音楽を聴くことがでる。その場合、作動時間は1回の充電で7時間である。私はスマホ「GALAXY S3」に入れていた音楽をブルートゥースを通じて腕時計の4GBのメモリーに入れた。
 ワイヤレスイヤホーンは耳穴に突っ込むだけであるから、何かの拍子に耳から外れて落ちることがある。サムソンのIconXには落下防止のため、ゴム製のウイングチップというものが付いており、これを耳の窪みに引っ掛けると、外れにくくなる。先に述べたサムソンの腕時計には10時間の音楽がメモリーに入っており、これをブルートゥースを通してサムソンのIconXで音楽を聴いてみた。確かに聞こえるが、ブルートゥースの電波が弱いせいか、腕を動かすと音楽が途切れることがあった。スマホのブルートゥースは、電波が強いのでそのような途切れはない。私は腕時計から音楽を聴くのをあきらめた。IconXのメモリーに入っている音楽は、安定して聴くことができる。しかし、聴きたい音楽を選ぶことができない。入力している順番に聴くか、あるいは一つ一つ飛ばして好きな曲を探して聴かなければならない、という不便さがある。スマホのブルートゥースを通じて聴く場合、スマホの画面に曲名などが表示されたり、選局が視覚でできるので便利である。音量も画面を見ながら調整できる。
 サムソンのスマホ腕時計には私の運動量を勝手に計測して、画面に知らせてくれる機能がある。この時計の中に加速度センサーやジャイロセンサーが付いており、私が体を動かして腕を動かすと、これらのセンサーが働いて、運動量の数字が積算される仕組みになっているようだ。私が1時間ぐらい動いていると、時計が振動を発して知らせてくれ、「お見事です」「グッド!」など、時計の画面に文字が出る。私がパソコンの前でしばらく座っていると、「体を動かしましょう」などの文字が出る。私は、「余計なお世話だ」と言いたいが、私の健康を心配してくれるこの時計は、有り難いとも思っている。この時計には心拍数モニターが付いているが、私は時計を腕に付けるとき、リストバンドの上に時計をつけているので、折角の心拍数は測定できない。この腕時計のWi-Fi機能では、当地の気象情報が表示される。当地とは、私が住んでいる福島県矢祭町小田川であり、その住所が表示される。私はこの腕時計に私の住所を入力していないのに、なぜ私が矢祭町に住んでいるのを、腕時計が知っているのか、不思議であった。これは、おそらくGPSの情報から地名を知ったのであろう。この気象情報には1週間の予報や、当日の黄砂情報、紫外線情報、乾燥情報などが表示される。このように、サムソンのスマホ腕時計はパソコン並みの機能が小さな体に入っており、私はその技術に感心している。昨年の11月から暮れにかけて、私は韓国のサムソン製品を3種類も購入して、すっかりサムソンびいきになってしまった。新しい年は、これらサムソンの仲間と親しく過ごすことになるであろう。
      2019.1.10
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庭木の剪定
  私は、18年前頃から、我が家の庭に植えた庭木を毎年剪定して、なるべく大きくならないようにしている。それらの庭木の中で、白樺、マロニエ、コブシは、18年間剪定せずに放置していた。この3本の木は、2階建ての屋根の高さまで大きくなった。これ以上大きくしては処置に困ると思い、短く枝を切ることにした。業者に剪定(枝切)を頼めば、1本10万円ぐらいはするという話を聞いて、私が切ることにした。私は、3mぐらいの枝が切れる「高枝切りチェンソー」を2万円で購入して、マロニエとコブシの幹の部分を切断した。このチェンソーは、100Vの電源で動き、先端に刃の付いたチェーンが電気モーターで回るものである。この先端は、重さが約3kgあり、ベルトを肩に掛けて作動させる。これは大変な重労働であった。切り落とした幹は、枝の部分を電動のこぎりで切り落とす。この「電動のこ」は、マキタ製の充電式で、太さ5cmぐらいまでの枝は簡単に切れる。
 自宅の周囲の町有地には、5本の桜を18年前に植えた。このうち、沢に沿った土地に植えた3本の桜は大きく成長し、このまま放置しておくと大変な大木になると思い、昨年2本の桜を根元近くから切り倒した。これらの根元の幹は直径25cmぐらいの太さになっていた。これをリョウビ製の「電動チェンソー」で切った。このチェンソーは、100Vで動き、直径30cmぐらいまでの丸太は切れる。桜の木の一つは、「みやび」という商品名で売られていた苗木で、沢沿いの腐葉土の豊富な土地で,ぐんぐん大きくなった。「みやび」は、今の皇太子妃、雅子様が結婚した記念に植木業者が名前をつけて売り出した桜の苗木である。これはピンク色の花が咲き、成長が早かった。この「みやび」の5m東側に、吉野桜の苗木を同じ時期に植えた。私は、この吉野桜を「みやび」の相手の皇太子の桜と考えて、植えたものである。これも成長がよく、みるみる大きくなった。私は、吉野桜を植えて5年後に、「みやび」の枝を切り、吉野桜の枝に接ぎ木をした。3年後ぐらいから、接ぎ木の枝からピンクの花が咲きだした。この花は、いわば「愛子」様である。
 吉野桜も根元から2mぐらい残して、幹をチェンソーで切り倒した。「みやび」を接ぎ木した枝は、切らずに残しているので、今年の春もピンク色の花が咲くであろう。これら2本の親木の桜は、幹から多くの小枝が出てきて、大きくなりつつある。そのうち小枝からも花をつけるであろう。沢のそばの森の近くには、しだれ桜を植えた。これも18年前に植えたので、高さ10mぐらいに大きくなっている。垂れ下がっている枝は3mぐらいであろう。毎年花が咲いているが、華やかな花ではない。あと2本の桜は、ピンク色の花が咲くもので、敷地の外の崖の中ほどに植えている。植えた土地が岩盤状であるので、成長は極めて遅く、枝切りの必要はない。庭の端には白樺をやはり18年前に植えて、今では高さ15m近くに大きくなっている。植えた場所が森の近くで、森に生えている広葉樹が高いので、白樺の高さは目立たない。これは切らないことにしている。しかし、いずれ切らなくてはならない時期が来るであろう。
 昨年は柿の実が成る年で、我が家の2本の柿の木から約50個の実が収穫できた。近所の人に少し食べてもらったが、20個ぐらいは森の中に放り投げて捨てた。鳥かリスかの食料になるであろう。昨年はどこの家も柿が豊作で、柿を貰ってくれないかと、時折頼まれたが、我が家も処分に困っていると言って断ってきた。この柿の木も大きくなりそうなので、真ん中の上に延びる幹を切って、横に広がるようにした。こうすると、柿の実を採りやすくなる。ブルーベリーは豊作ではなかったが、それでも3本の木から約3kgの実を収穫した。ブルーベリーは、冷凍して保存できるので、捨てずにすむ。冷凍した実は、1kg単位で、ブルーベリージャムにして、毎日ヨーグルトに混ぜて食べている。当地付近では、リンゴの栽培がおこなわれており、秋には土地のリンゴがスーパーなどで売られている。リンゴの木は、うまくすれば高い木にならないので、私は昨年秋、3本のリンゴの苗を買って植えてみた。3年ぐらいでリンゴの実が成るかと、期待している。
 以前述べたことがあったが、私は旅先で、木へんの付く木の名前の漢字が、日本手ぬぐいに印刷されたものを買ってきた。それをA4サイズの用紙に印刷して、トイレに張り付けている。私は、これを毎回便器に座って眺めて、時間をつぶしている。この漢字は120種類あり、それらを眺めていると色々面白い。木へんの漢字と言えば、梅とか柿とか桃などポピュラーなものも多くあるが、「せんだん」という木は知ってたが、この漢字が「棟」であるとは知らなかった。木へんに四季の春夏秋冬を付けた漢字には、椿、榎(えのき)、楸(きささげ)、柊(ひいらぎ)がある。これらの漢字で、椿以外はあまりなじみがない。東西南北はどうであろうか。東の棟(せんだん)、南の楠(くす)だけで、西と北はない。女が入った木の漢字では、桜と、「たらのき」(この漢字はパソコンになく、木へんに妥と書く)があるが、男が入った木の漢字はない。神仏では、榊(さかき)はポピュラーであるが、仏様はあるかと探してみると、しきび(この字もパソコンになく、木へんに佛と書く)という木があった。これは仏前に供える木なのであろうか。木へんの漢字を県の名前に使っている県は栃木県だけで、意外に少ない。字画数では、一番少ないのは朴(ほお)であり、最も多いのは「ゆずりは」という漢字の木で、木へんにくすり(藥)という字を書く。面白い漢字は色々あり、私はトイレの中で漢字の勉強をしている。
 平成31年1月26日、全豪オープンテニスで大坂なおみ(21歳)が優勝した。新年早々おめでたいニュースであった。NHKが全豪女子のテニスを放映していたので、私は準決勝のプリスコバ(26歳、チェコ)戦から、決勝のクビトバ(28歳、チェコ)戦まで見ることができた。真夏のオーストラリアでの試合は体力を要するであろう。21歳の大坂は、26歳のプリスコバ、28歳のクビトバより若いので、体力的に優位であったのか。大坂の身長は180cmで、日本の選手としては長身であるが、チェコの2人は185cmぐらいの長身である。長身の利点は、ボールを上から叩きつけたり、手足が長いのでコートサイドに入る厳しいボールを打ち返せることである。体格的に優位な2人に対して、大坂の優れた身体能力で、身長の不利さをカバーしていたようにみられた。準決勝の試合では、大坂は感情を時折顔に出していたが、決勝の3セット目の試合では表情を変えなかった。それは、3セットの途中のトイレ休憩で心掛けたマインドコントロールによるものであろうか。
 決勝進出を先に決めていたクビトバは、準決勝でプリスコバが勝てば、チェコ同士の決勝になると、プリスコバに期待していたが、そうならなかった。決勝戦が行われたのは、26日の土曜日であった。私は、いつも土曜日の午後7時半からNHKの「ブラタモリ」を見ることにしている。この日もこの番組を見ようとしていたら、NHKは急遽ブラタモリを中止して、全豪テニスの決勝戦を放映した。テニスは、スポーツとしてまだメジャーではないが、NHKの担当者はよほど興奮したのか、この決勝戦を放映した。大坂は、この優勝でテニスの世界ランクが1位となった。これは日本人初であり、大変な偉業であろう。政府は、国民栄誉賞を早いうちに大坂に差し上げた方がよい。大坂がケガでもして、敗戦が続けば、ランクは下がるであろう。大坂選手への国民栄誉賞授与は、今がチャンスかもしれない。
      2019.2.10
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パーツファニチュア
  パーツファニチュアという言葉は今はないが、50年前はこの言葉があり、商品も売られていた。現在では、これに相当するものは、システムファニチュアと言われている。これは、多種の組み合わせが可能な交換部品(ブロック家具)を生活に合わせて選択し、構成する家具である。パーツファニチュアは、このブロック家具をさらに分解し、平板から組み立てる家具である。私は、このパーツファニチュアを50年前、横浜高島屋で知った。私は、高島屋の売り場で係員から説明を聞いた後、係員がどのような家具を組み立てるか、設計図を出してくれと言われた。そのような大げさなものでなく、スケッチなら出せると言うと、それでもいいと言われた。後日、私が出したスケッチから、係員は平板(化粧板)の種類と枚数などを見積ってくれた。それを見ると、なんと20なん万円(詳しいことは忘れてしまった)であった。当時の20万円は、今では50万円ぐらいの価値であろうか。私は、今更断れないので発注した。岩手県の木工協同組合のようなところから、平板などが入ったパーツの段ボールがどっさり送られてきた。
 私が描いた家具のスケッチは、幅280cm、高さ220cm、奥行き33cmの大きな本棚で、その中にライティングデスクと2個の引き出しを付けたものである。当時、私は横浜市の公社が発売した3LDKのマンションを購入し、8畳のリビングにこの本棚を置こうと考えたのである。送られたパーツは、長さ73cm、幅33cmなど3種類の板、棚板、アルミ製のジョイントなどである。これらを組み合わせて本棚を完成させた。私はその後、住居を5回ほど変えた。転居の都度この本棚を分解して、板などをダンボールに詰めて転居先に送り、そこで再び部屋の大きさに合わせて、本棚のデザインを変えて、パーツファニチュアを組み立てた。仮住まいとか狭い住居では、ダンボールに入れたまま放置していたことがあった。
 現在の住宅では、2階の8畳の和室と、その続きの4畳大の広縁の2ヶ所に分割して、本棚を組み立てている。本棚の高さを1.3mに低くしているため、本棚の圧迫感はないし、部屋が広く感じられる。この二か所の本棚に、私の書物や土産の置物などを置いていたが、最近身辺整理をして、これらの書物は処分した。今、置かれているのは、妻の書類と置物などである。50年前に購入したパーツファニチュアの化粧板は、剥がれとか、破れは全くなく、50年前の状態を保っている。化粧紙の張り合わせに安物の接着剤を使えば、10年ぐらいで剥がれてくるであろう。このパーツファニチュアに使われている接着剤は、耐水性の良いフェノール樹脂系の接着剤であろう。アルミ製のジョイントに差し込むプラスチックは、硬くてしかもある程度の弾性が必要である。この素材は何であろうか。成形するのに0.1mm以下の精度を必要とし、その寸法の経時変化はほとんどないことが要求される。50年後も寸法の狂いはないのが、素晴らしい。私は、このような技術を50年前に完成させていた岩手県の木工技術に感心している。
 我が家で、30年来使っていたパナソニックのオーブンレンジが、とうとう使いにくくなった。このレンジには、スタートボタンなどの押しボタンが多く付いており、このボタンが長年の使用により、接触不良を起こしたようである。このボタンは、4,5回押さなければスイッチが働かなくなってしまった。このレンジは寿命がきたのだと思い、買い替えることにした。新しく購入したのは、シャープの電子レンジである。最近のレンジは、色々な機能、例えばスチームオーブン、ノンフライオーブンなどが付いている。値段も10万円以上もするものがある。我が家で使っていたオーブンレンジは、オーブンの機能が付いていたが、30年間このオーブンの機能を一度も使わなかった。これは自慢にもならないが、そのような機能を使う料理をしようとする気持ちがなかったためである。私はテレビの「小さな村の物語 イタリア」という番組を毎週見ているが、その中では食事のシーンが多く、料理をする場面も映される。そこではオーブンで調理するシーンが多い。日本では、オーブンを使う家庭はまだ少ないであろう。
 今度購入した電子レンジはオーブン無しの単機能電子レンジである。値段も1.2万円と手頃であった。加熱時間の設定は押しボタンでなくて、ダイヤル式であるから、故障は少ないであろう。電子レンジなどの扉の様式には、横開き型と縦開き型があり、販売店の店頭には横開きを多く置いていた。縦開きは少なく、なぜ横開きが好まれるのか、私は不思議に思っている。狭い台所では、縦開きは、開いた扉のスペースに皿などを置けるので、便利であろう。我が家で使っていた古い電子レンジは、ターンテーブルがあり、SWを入れるとテーブルが回る仕掛けになっていた。最近のレンジは、ターンテーブルがないのが多い。テーブルが回っていると、いかにも加熱が均一に行われている気がする。それがないと、隅に置いたものがしっかり加熱されているのか、不安になる。
 昨年の暮れ、10年以上使っていた電気湯沸かし器(ポット)も使えなくなったので、買い替えた。今までのポットは、象印製で、温度が設定でき、お湯の取り出しが電動ポンプでできるタイプである。これも押しボタン式のSWが接触不良になり、使えなくなってしまった。新しく買った電気ポットは、極めて簡単な造りで、SW類はなく、コンセントを差し込めば湯沸かしが始まる。お湯が沸けば、保温のランプがつく。ポットからのお湯出しは、空気圧により手で押して行う方式である。押すのに力がいるのが、電動式とは違うところである。このポットはメーカー品ではないが、おそらく故障は皆無であろう。
 我が家の朝食では、食パンを毎朝食べている。このパンは、パナソニックの「パン焼き機」を使って作る。このパン焼き機は一度に1.5斤のパンができ、このパンを夫婦2人で6日で消化している。このパン焼き機は、30年前に購入したもので、今まで一度も故障していない。このパンの仕込みは、メーカーのレシピに従って行っているが、小麦粉の一部約30%を米粉に置き換えてパンを作っている。米粉は、御飯用のお米をブラウン製の「粉砕機」で粉にしている。この粉砕機も30年以上使っているが、一度も故障を起こしていない。最近ではお米の代わりに玄米を使い始めた。
 話はガラッと変わるが、2月28日、米朝のハノイでの会談が不調に終わった。会談前の報道では、色々な合意がなされ、調印も行われるだろうと予想されていたが、会談は物別れに終わってしまった。この不調について、日本政府は歓迎すると言っているが、私には何故不調を歓迎するのかわからない。日本政府は、トランプ大統領がやることには、何でも同意することにしているのか。北朝鮮は、なまじっか核兵器を持っているので、経済制裁を西側から受けている。あっさり核を全面放棄すれば、経済制裁は解除されるであろう。会談が不調に終わった後の、テレビに映る金委員長の顔の表情がこわばっていたのが印象的であった。トランプ大統領の方も厳しい顔つきをしていた。我が家の大きなテレビの4K画面では、そのような顔の表情から彼らの心の内を想像することができる。
      2019.3.10
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磐梯熱海温泉
  磐梯熱海温泉は、福島県郡山市の西の端にあり、温泉地の地名は郡山市熱海町である。この地名の熱海は、奥州合戦後、この地の領主になった源頼朝の家臣、伊東裕長の出身地が、伊豆の熱海であったので、熱海としたと言われる。JRの駅名は、本家の熱海駅と間違えられるので、磐梯熱海駅とした。温泉名も磐梯熱海温泉とした。磐梯熱海温泉は、駅から離れた五百川沿いに20軒の温泉宿があるが、駅付近には5、6軒しかない。そのうちの有名なのは、「四季彩一力」というホテルで、1984年に天皇陛下も宿泊したという。このホテルは、秋篠宮殿下、イギリスのウイリアム王子も会食、宿泊したという名門のホテルである。
 2月は妻の誕生月で、毎年誕生祝に温泉に行くことにしている。今年は磐梯熱海温泉がいいということで、泊まりに行った。妻は和風の旅館がいいというが、私は畳に布団を敷いて寝るのは苦手で、ベッドのある部屋が好みである。この両者の望みを満足させる旅館を探したところ、萩姫の湯「栄楽館」という宿が見つかった。これは、JR磐梯熱海駅から歩いて3分のところにあり、7階建てのホテルである。予約した部屋は、和洋室で、10畳の畳の部屋にツインベッドが置かれている。続きの広縁は、床より40cm高くした畳敷きで、座卓が置いてあり、座卓の下は足が伸ばせるようになっている。この畳敷きに上がるのには一苦労した。真冬は掘りごたつにするのであろうか。大浴場もフロアーが畳敷きになっているが、これは本物でなく、プラスティックの畳であろう。滑りにくいのがよい。
 夕食は、和食のコース料理である。11種類の料理が並び、賑やかな夕食であった。広いレストランには日本人の客だけで、外国人と思われる人達はいなかった。磐梯熱海温泉は、外国には知られていないようである。国内でもあまり知られていない。福島県には温泉地が多いが、全国的に知られている温泉はほとんどない。先日新聞に、国内の行きたい温泉地上位20傑が載っていたが、そこには福島県内の温泉地はなかった。福島県は、外国からの観光客の誘致に力を入れているが、目立った効果はないようである。県内にはメジャーな温泉地はないが、温泉地の数は多い。この磐梯熱海温泉もその一つである。今回利用した「栄楽館」は、立派なホテルであり、源泉の温泉も良質であるが、ホテルの名前が分かりにくい。日本人にはホテルであることは分かるが、外国人には分からないであろう。何かの公共施設ぐらいに思われるかもしれない。名前を「ホテル栄楽」のように、ホテルを名称に付けた方がよい。私達が以前泊まったことのある磐梯熱海温泉、五百川地域の「ホテル華の湯」は、ホテルと名付けているので、分かりやすい。もっと分かりにくいのは、上にも述べた「四季彩一力」であろう。名前からすると、料亭の感じがするが、立派なホテルである。老舗のホテルだけあって、部屋の広さが60㎡ぐらいあり、その分料金も2食付きで26000円と、我々が泊まった栄楽館の2倍である。
 2月の妻の誕生月に続いて、3月は私の誕生月である。私達は、毎年どこかの温泉地に行っているが、今年は妻が昔の友人と横浜で会うというので、横浜のホテルに2泊することにした。横浜市内の私達の常宿は、桜木町付近のホテルである。今回はJR桜木町駅の隣のホテル、「ニューオータニイン横浜プレミアム」に予約した。楽天トラベルのhpでプランを探していたところ、1泊2食付きで1名、11000円の限定プランがあったので、それを予約した。プランの名称は、「感動夜景レストラン、サラダ&スイーツ付き『ヨコハマ下町ディナー』&朝食2食付」である。部屋は、30㎡の広さのツインルームで、ベイサイドにある。地方の温泉地では、2食付き宿泊料金は15000円ぐらいが普通であるが、都会のホテルで、2食付きでこのように格安の料金はないであろう。
 日曜日の当日、11時前に自宅を出て、JRを利用してホテルに16時前にチェックインした。ホテルが指定した部屋は1416号室であり、そこへ行くと部屋はツインベッドでなく、ダブルベッドで、しかもベイサイドではない。私は、楽天トラベルでツインベッドを指定したつもりであったので、フロントに確認して貰ったが、ダブルになっているという。私は、ツインの部屋はないかと聞くと、5000円(2泊2人)の追加料金を出せばあるというので、それに替えてもらった。その部屋は1603号室で、ベイサイドビューである。トラブルは、私の勘違い(クリック違い?)で生じたのだ。部屋の広さは30㎡で、4Kの大型テレビが置いてある。当日は春場所の千秋楽であったので、私達はテレビを見て、一休みした。6時前に、ホテルに接している「コレットマーレ」というショッピングビルの6階にある「横浜ブルク13」というシネマコンプレックス(シネコン)へ行った。明日午後、妻と私は別々に、ここで映画を見る予定にしているので、場所の確認のため出かけたのである。妻は「グリーンブック」、私は「ねことおじいちゃん」を見る。横浜ブルクのサイトには上映中の15種類の映画のスケジュールが記載され、それを見て映画を決めた。シネコンは、13の部屋(スクリーンと言う)が並んでいて、一つのスクリーンで時間により2種類の映画が上映されることがあるので、予め何を見るか決めておく必要がある。
 私達はホテルに戻り、3階の横浜港が見下ろせるカフェレストランで、私の誕生祝のディナーを摂った。料理は、プランの通り、メインディッシュの7種類の料理から1品を選ぶ。そのほかはビュッフェスタイルの料理(オードブル、サラダ、スイーツなど)を選んで食べる。メインディッシュは、私は「煮込みハンバーグ、ビーフシチュー添え」を、妻は「ポークソテーオニオンスープ」を選んだ。「ヨコハマ下町ディナー」と名付けただけあって、味は濃厚で、ボリュームがでかい。私は、全部は食べきれなかったが、スイーツはしっかり食べた。当日は、日曜日で春休み中であったので、このレストランは、家族連れで大賑わいであった。
 翌日、10時半にホテルを出て、京浜東北線に乗り、妻は横浜駅で降り、私は秋葉原駅で降りた。私は、自宅の自分の机に2台のPCを置き、目的に応じて2台を使い分けている。液晶モニターは1台を共用しているが、キーボードとマウスはそれぞれ1台ずつあり、そのため机の上は手狭になる。「USB切り替え器」というものを使えば、キーボードとマウスは各1台ですむ。私は、この切り替え器をネットで注文し、秋葉原のヨドバシカメラで店頭受取にしていた。この日、その品物を受け取りに行った。私は、序に秋葉原のパーツ屋を4、5軒見て回った。その後、東京駅近くの三菱1号館美術館へ行き、「ラファエル前派の軌跡展」を見る予定であったが、時間が無くなって、桜木町のホテルに戻った。「ねことおじいちゃん」は15時10分から始まるので、ホテルの部屋を15時10分前に出て、「横浜ブルク13」のスクリーン13へ入った。チケットは自分で画面を見ながら購入する。シニア料金は1100円である。このスクリーン13は客席が80ぐらいあり、その日の観客は約30であった。そのほとんどは中高年である。映画は、猫と、立川志の輔が演じるおじいちゃんの物語で、他愛のないストーリーであった。私は、NHKラジオの番組で、岩合光昭氏がゲストに出て、彼がこの映画を初めて監督として作ったことを聞いたので、この映画を知っていた。岩合氏の猫の写真は、猫の週めくりカレンダーを毎年買って、それをトイレに飾っているので、なじみがある。カレンダーに出てくる猫の写真の構図は、この映画の中にも似たような構図が頻繁に出ていた。
 この日の16時に、妻も「横浜ブルグ13」へ行き、「グリーンブック」を見てきた。ホテルに戻った彼女は、この映画はものすごく面白かったと言い、私にその映画の内容を説明してくれた。それによると、映画のストーリーは、黒人のピアニストが米国の南部に演奏旅行に行くために、白人の運転手を雇い、車で各地をまわった際の出来事をえがいたものである。ピアニストは教養があり、一方白人の運転手は教養がない。ピアニストは、運転手の汚い言葉使いを直してやったり、旅先から運転手の母親に手紙を書くのに、ピアニストが代わって書いてやったりした、などのエピソードが映画で映されていたという。アメリカでの彼らの現実の立場は逆のようであるが、これは実話のようである。この話を聞いて、私はこの映画を見たくなった。
 その日の夕食も、ホテルのカフェレストランで「ヨコハマ下町ディナー」を食べに行った。メインディッシュは、エビのフライとカニコロッケを選択した。この料理は、昨日の料理よりあっさりしていた。ビュッフェスタイルで並べられている料理(オードブルなど)を見ると、つい皿に色々入れて食べてしまう。私は、翌日自宅に戻って、体重を測ってみると、1kg増えていた。ホテルでの2日の食事で、1kg増えたが、これを元に戻すには、おそらく10日はかかるであろう。
      2019.4.10
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令和元年
  5月1日から新しくなる元号は、4月1日に発表される、というので、マスコミは元号の予想で大賑わいであった。テレビに出てくるゲストに、予想の元号を発表させたり、インタビュイーで町の通行人に問いかけたりしていた。1億総予想屋の感じであり、私も考えてみた。私の予想は、「共生」であった。これは、差別のない社会を目指すうえで、我ながらいい元号だと思っていた。また、「宇宙」という元号も未来志向で、いいのではないかと思ったりしていた。4月1日に、「令和」という元号が政府から発表された。漢字の予想では、安、永、久、天などが入った2文字になる、という予想が多かったが、これらの予想は外れて、令と和になった。令和はまだなじみがないが、そのうち馴染んでくるであろう。「令和」は、発音が柔らかく、優しい感じを与える。
 誰がこの元号を発案したのか、マスコミで話題になり、色々憶測された。政府はこの件はノーコメントで、発案者を公表しない。そのうち、国文学者の中西 進氏の名前がクローズアップされ、マスコミで騒がれた。彼もテレビに現れ、令和の由来などを説明していた。出典は万葉集であるというので、本屋では万葉集がよく売れたという。新元号が発表された当時、令和という名前を持った人をいち早くマスコミが見つけて、その人をインタビューしていた。その人は、鎌倉の商店街連合会の会長で、高橋令和(76歳)氏である。テレビでその人のインタビューを聞くと、場馴れしていない感じで、彼は何を話していいのか戸惑っていた感じであった。2,3日後、その同じ人が再びテレビに出てきて、インタービューで感想を喋っていたが、前とは違って、話し方が流ちょうになり、訓示風な発言もしていたのに、私は感心した。その後令和と言う名前の人がマスコミに次々に現れたようである。令和と書いて「よしかず」「のりかず」など100以上の読み方があるという。
 中には和令という名前を持つ人もあると言い、その人もテレビに現れた。和の字がついた名前は無数にあるであろう。令はそれより少ないと思うが、令子など昔から女性の名前にある。兄弟で「令和」と「平成」の名前を持つ人がいるそうで、これは珍しい。4月も半ば過ぎになると「平成最後の・・・」という言葉がテレビで多く聞かれるようになった。平成最後の花見、平成最後のホームラン、平成最後の日曜日、平成最後の火曜日、平成最後の1日・・など。いかにも平成が名残惜しそうな感じであった。これはおそらく平成の天皇が健在であるからであろう。昭和から平成にかわった時、このような昭和を惜しむ言葉はなかったであろう。当時、昭和から平成への移行は極めて短かった。今回の平成から令和までは、1カ月も時間があったので、「平成最後の・・」の言葉が連発されたのであろう。
 私は昭和の人間である。私は、昭和10年代から昭和が終わる昭和64年まで50年間の昭和を体験してきた。昭和天皇が昭和64年1月に崩御され、2月には平成になった。昭和天皇は、平成天皇のような国民に親しまれた存在ではなかったようである。戦前の昭和天皇は雲の上の存在であり、神のような恐れ多い存在であった。戦後、人間天皇として国民に接してきたが、その頻度は極めて少なかったであろう。そのため昭和を惜しむ言葉は少なかったようである。昭和の時代はテレビが普及し、皇室の映像を見て親しむチャンスは戦前に比べ多くなったが、それでも平成時代に比べると少なかった。私がテレビで昭和天皇を見て記憶にあるのは、天皇が大相撲観戦のために、国技館にきたときの映像ぐらいである。天皇は、取り組みが始まると、身を乗り出して観戦し、相撲の勝負が決まった時、手元のメモ(取り組み表?)に何やら書き込んでいた。その昭和天皇の姿は、庶民的であり、むしろ平成天皇より親しみがあった。私のそのような思い出も薄れてきて、私の昭和は遠くなってしまった。
 話は変わるが、先日、NHKテレビ番組の「ガッテン」で、幻視についての放送があった。幻視とは、視覚性の幻覚であり、幻聴などと同じ一種の精神障害現象である。テレビの制作者は、実際に幻視を体験した人の話を聞いて、コンピューターによるバーチャルリアリティー(VR)の映像を制作し、それをテレビで見せてくれた。部屋にいた人物が突然いなくなったり、現れたりする映像を見ると、気味が悪くなった。私は幻視の経験はないが、幻聴はたまにある。私は、青空文庫の小説を毎晩寝る前に読んでいるが、その中で芥川龍之介の「二つの手紙」という短文を読んだ。その中で、私という主人公(芥川氏?)がこの幻視を体験し、それが近所の人に知れ渡り、気味悪がられていた。この体験は、精神異常によるものではないことを知ってもらうために、彼は住んでいる地域の警察署長に、自分の体験を詳しく書いて、手紙として提出した。これが「二つの手紙」の内容である。そこでは、外国の事例を引用して、この現象は医学的に認識されているなどを記していた。警察署長に宛てた手紙には、自分が昼間、自分と同じ第二の自分が妻と並んでいるのを見た、などが詳細に記され、自分は決して異常な精神の持ち主ではないことを訴えていた。
 青空文庫に入力されている芥川龍之介の作品は全部で370もあり、作家の中で最も多い。370作品のほとんどは、メモリーにして3Kぐらいで、文庫本の10ページぐらいの短文である。彼は、雑誌社にこれらの短文を寄せて、生活の足しにしていたのであろう。彼は、長文の小説が書けなくなって、やむをえず短文を売る仕事をしていた。ある短文では、自分は売文屋だと自嘲していたことが書かれていた370の文章には、子供の芥川比呂志や当時の有名な作家、菊池寛、久米正雄、谷崎潤一郎などが出てきて、大正時代の文壇の色々な事情がよく分かり、興味深い。
 2019年5月1日から令和元年が始まった。新天皇の誕生を祝って、全国各地で色々な行事が行われた。昭和時代の5月1日と言えば、労働者の祭典、メーデーである。メーデーが盛んな頃、私は京都に本社がある会社に勤めていた。京都は共産党の勢力が強い地域で、ほとんどの会社の労働者はメーデーに参加していた。私も団結と言う赤い鉢巻を付けて参加した。平成に入ってメーデーのニュースは、いつの間にか消えてしまった。会社の労働組合も、加入者が少なくなり、名ばかりの組合も多くなったようである。昭和時代では、毎年の賃上げは大きなニュースとしてマスコミで取り上げられていた。現在では、政府や経団連などが賃上げを主導する状況になった。これは、昔では考えられないことである。
 今の高齢者社会で、高齢者は、この令和元年の派手な祝賀行事をどのような気持ちで眺めているであろうか。私は昭和から平成へ生きてきた。そしてこれから始まる令和の時代は、私にとって命が消える時代になるはずである。そのことを考えると、手放しに令和の祝賀ムードに浸ってはいられない。
       2019.5.10
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8年後の放射線量
  福島県の浜通りにある東電原発(東京電力福島第一原発)の事故から、今年の3月で8年目になる。地元の福島県内では、事故による放射線量に関心があり、NHKテレビの午後7時前の地方ニュースでは、毎日、県内各地の放射線量を発表している。私も毎日このデータを見ているが、数値の変動を見つけるのは難しい。NHKでは、県内各地の数値と、原発がある双葉郡の各町の数値を分けて発表している。これを見ると、明らかに双葉郡の数値が高いことが分かる。特に原発がある大熊町の数値は飛びぬけて高い。国が発表する放射線量は、その日の最大値と最小値を示しており、大熊町の最大値は8マイクロシーベルト/時(μSv/h)である。この値はここ数年ほとんど変わっていないようだ。県内各地の最大値は、大体0.08μSv/hであるから、大熊町の8という数値は他の地域の100倍の放射線量である。
 大熊町は今も帰還困難地域である。今年から、この町の一部の帰還が許可されたが、帰還した住民は少ない。私は、大熊町へ行ったことはないが、一度行ってみたいと思っていた。先月の新聞折り込みの広告で、「小名浜オーシャンホテル&ゴルフが、一泊二食付きで一人7000円の料金」という広告を見た。私は、これを利用して、ついでに大熊町を見てみようと思った。このホテルは、いわき市小名浜にあり、小名浜の海岸沿いにある。温泉の大浴場から太平洋が眺められるのが「売り」のようである。私が住んでいる矢祭町から小名浜へ行くには、車で阿武隈山系の山を越えて行かなければならない。山を越えるには、2ルートあり、一つは国道349号を通るコースと、もう一つは隣町の塙町から県道27号を経由するコースである。県道27号は、川沿いの道であり、比較的アップダウンが緩やかであるから、私はこのコースを選んだ。
 私達は5月12日に自宅を車で出発し、塙町から県道を通り、浜通りへ向かった。小名浜には、「アクアマリンふくしま」や「いわき・ら・ら・ミュウ」があり、以前一度行ったことがある。今年、その近くに「イオンモール小名浜」ができて、賑わっているという。「アクアマリンふくしま」は、東北最大の水族館であり、「いわき・ら・ら・ミュウ」は、いわき市の観光物産館で、海産物の販売や食堂がある。東日本大震災で、この建物の1階部分が壊滅的な被害を受けたが、その後すぐリニューアルオープンした。私は、震災前の施設には行ったことがあるが、復興後の施設にはまだ行っていない。イオンモール小名浜は、「いわき・ら・ら・ミュウ」の道路を挟んだ北側に造られた。私達がこのイオンモールに着いたのは、午後1時頃で、イオンモールの数か所の駐車場に入ろうとしたが、全て満車であった。「いわき・ら・ら・ミュウ」には、広い駐車場がある。「いわき・ら・ら・ミュウ」の建物の近くは空いているが、イオンモールの近くは多くの車が駐車していた。
 私達は、イオンモールで昼食と買い物をして、そこから車で10分ぐらいの所にある小名浜オーシャンホテルに、3時前にチェックインした。指定された5054室は、海側のテラス付きの広い部屋で、リゾートホテルの雰囲気である。大浴場は地下3階にあり、そこはゴルフのプレイヤーが出入りするところである。私が5時頃大浴場に行くと、20人以上の人達が入浴していた。彼等はゴルフが終わって、汗を流すために温泉に入ったのであろう。彼等は、仲間同士で賑やかに話しをしていた。私達は、翌日10時半にチェックアウトして、車で国道6号線に入り、北上した。福島原発の近くを通る道は、国道6号と常磐自動車道だけが通行を許可されている。6号線は、四倉町、広野町、楢葉町、富岡町、大熊町を通って相馬市へ抜ける道である。楢葉町あたりから、6号線を通る車は極端に少なくなった。工事用のダンプカーが時折通るだけである。この辺りからバイク、自転車での走行は禁止されているし、歩行はできない。6号から左折、右折する道路にはバリケードが置かれ、入れないようになっていた。道路から見られる民家は、軒並み人が住んでいない雰囲気であり、異様な感じを受けた。
 私達は、休憩のため、6号線沿いに新設された「ならはPA」に立ち寄った。楢葉町は3年前に避難指示解除区域になっていたが、この「ならはPA」は去年新設された。6号線を通る車は少ないせいか、このPAの駐車場には車が4、5台しか止まっていなかった。今度の旅行で、私は、岩崎通信機KKの携帯型放射線量モニター(SV-2000)を持ってきた。このPAの敷地内の芝生の上で、空間放射線量を測定してみると、0.19μSv/hであった。このPAを新設する際、土地の除染も行っていたはずであるが、一般の放射線量の約0.08に比べると、線量は2倍の数値であった。PAを出て、原発の敷地近くを走るようになったので、私は各所で放射線量の測定を行った。6号線の楢葉町手前の広野町の道路沿いでは0.20μSv/hであった。さらに6号線を北上し、帰還困難地域の大熊町に入り、6号線沿いの草むらでは、1.28μSv/hであり、さらに線量が高くなっていた。私は、6号線から常磐自動車道の大熊ICに行こうと思って、近くの「東大和久」という交差点を左折しようとしたが、ここにはバリケードがあって、左折できなかった。次の交差点は左折可能であったので、左折し、大熊町内の道路を走った。途中、道路際の空き地に車を停めて、草むらの上、1mの放射線量を測ると、4.57μSv/hであった。帰還困難地域だけあって、放射線量は通常地域の約50倍の線量である。
 4.57μSv/hを測定した場所は、事故のあった福島原発から5kmぐらい離れた所である。事故から8年経っているが、今も高濃度の放射線が空気中を漂っているのは何故だろうか、という単純な疑問が生じた。事故時、高濃度の放射線が一度に放出され、それが付近の山野に降り注いだ。それが今も空気中に放出されているのか。あるいは今も原発から放射線が漏れて、風に乗って付近にばら撒かれているのか。おそらく両者であろう。原発の近くを通る6号線は、除染工事や復旧工事のため、特別に通行が許可されている。一般車は、本来なら走行できないが、工事車と区分けするのが不可能であるので、走行を見逃しているようである。原発付近を通る6号線と常磐道には、大きな看板に、現在の空間放射線量の数値が表示されていた。それらは0.1μSv/hであったが、地上近くで測定すると、おそらくその倍ぐらいの数値であろう。国は、人の放射線被ばく許容量を0.23μSv/hと設定しており、0.1~0.2μSv/hは安全な数値であろう。
 原発事故による放射線の大気汚染と原子爆弾による放射線の汚染は、放射線の種類は異なるかもしれないが、放射線汚染は同じである。原爆投下の長崎、広島と原発事故の福島は、放射能に関しては同類の被害を受けた地域である。昭和21年、私は、家族と一緒に台湾から引き揚げて、和歌山県から福岡県へ行く途中、列車で広島県を通った。一時停車した広島駅では、私は、原爆を受けた建物の残骸を汽車の窓から見た記憶がある。当時、駅付近でもかなりの放射線が漂っていたと思われる。今回私達は4.57μSv/hの空気の中を一時的に通過した。私は今回の旅行で75年ぶりに放射線を浴びたことになる。放射能を浴びても、放射能は見えないし、臭いもないので、特別の体感はない。それが放射能の恐ろしさであろう。
       2019.6.10

  原発事故8年後の各地の放射線量測定結果
       測定器は Iwatsu sv-2000、 地上約1mの空間で測定

    日付            測定場所                  測定値(マイクロシーベルト/h)
 2019.5.12     いわき・ら・ら・ミュウ 駐車場 花壇                0.034
 2019.5.13     小名浜オーシャンホテル、ゴルフ場グリーン上         0.05~0.08
    〃         国道6号沿い 広野町                       0.20
    〃           〃      楢葉町                       0.19
    〃           〃      ならはPA                     0.19
    〃           〃      大熊町入口                    1.28
    〃         国道6号から左折、西へ約500m先の草むら(大熊町)    4.57      
 2019.5.29     矢祭町、自宅隣の草むら                      0.06

タブレット(金谷紘二)
  インターネットに接続できる機器には、その大きさにより、スマホ、タブレット、ノートパソコン、ディスクトップPCがある。その大きさは、機器にある液晶画面の長さで現わし、その対角線の長さをインチで示している。ちなみに1インチは2.54cmである。標準的なスマホは、5インチであり、タブレットは10インチである。ノートパソコンは15インチが標準のようである。ディスクトップPCは本体があり、液晶画面、キーボード、マウスは別に付けている。我が家のディスクトップ用の液晶画面装置は23インチである。
 我が家にはディスクトップPCの他に、ノートパソコンが2台、タブレットが6台、スマホが3台ある。スマホの3台のうち1台だけが電話機能を入れている。ほかのタブレットとスマホは、Wifi機能だけ持たせ、ネットの閲覧に使っている。2台のスマホはアップル社のipodで、一番古いipodは故障して使えない。比較的新しいipodはベッドの横に置いて、インタネットラジオをイヤホンで聞いている。ベッドには7インチのタブレットも置いてある。これは、寝る前に青空文庫の小説を読んでいるのに使っている。
 ノートパソコンは2台ともヒューレットパッカード製で、1台は妻がゲーム用に使っている。もう1台は、私がディスクトップの横に置いている。私のノートパソコンの液晶表示、キーボード、マウスは、ディスクトップPCと共用して使っている。それには3台の切り替え装置を付けており、手でボタンを押して、切り替えをしている。このノートパソコンでゲームをするときは、広い液晶画面でできるので、ストレスがない。電気代は、ノートパソコンの場合、ディスクトップPCの約4分の一である。つい最近、このノートパソコンの動きが悪くなったので、東芝製の2.4万円のノートパソコン(中古品)に買い替えた。
 6台のタブレットは、何故こんなに多く持つようになったのか、わからない。いつの間にか多くなってしまった。タブレットは、正式にメーカー品を買うと、1台3万円以上はするであろう。私が買ったのは、中国製、あるいは中国製の中古品で、1台1万円以下である。これらのタブレットの機能は正常に働いており、不便さは全くない。タブレットを使う頻度はあまりないが、家の中の別の場所でネット検索などをするときは、このタブレットを使う。その程度であるから、6台の中で使っているのは2台だけで、あとは遊んでいる。この使わないタブレットをどうやって処分するか悩んでいる。
 タブレットでよく使うのは、ベッドに置いているipodである。これはイヤホンを付けて、毎晩聞いている。聞いているのは、NHKのネットラジオの「ラジルラジル」である。夜の11時から翌朝の5時までの番組を音を小さくして聞いているので、睡眠に障害はないであろう。11時頃にはトーク番組があり、そこで女性が喋る番組がある。彼らは、大声で笑ったり、喋ったりすることがある。これにはさすがに睡眠が妨害される。この様なときは、NHKを止めて、fmクラシックという番組を聞くことにしている。
 fmクラッシクは、クラシックのポピュラーな短い音楽を流している番組である。1曲約5分の音楽が終わった後、短い英語の話題が入り、次の音楽を流す番組である。この番組は世界各国にあるようだが、日本にはない。私はロンドンからの番組を聞いている。ポピュラーと言われる音楽は、世界共通のようで、私が聞いて心地よいと感じる音楽がこのfmクラシックから多く流れてくる。

           2024.8.10←ここをクリックすればタイトル一覧表に戻ります。



大災害(金谷紘二)
 2019年6月18日、新潟県と山形県の県境で大地震が発生した。発生時刻は夜の10時過ぎで、発生の数秒前、テレビで地震が発生するというテロップが流れた。そのテレビを見ていた妻が、別の部屋でパソコンの前にいた私に知らせてくれた。この地震は、当地では震度3程度で、被害はなかったが、村上市、鶴岡市では屋根の瓦が崩れたりした。幸い死者も火災もなかったようである。令和が始まった5月では、「令和初の・・・」という言葉がマスコミで盛んに使われたが、6月になってそれもすっかりなくなった。今度の地震は、言ってみれば「令和初の大地震」である。
 平成の時代は大きな自然災害が数多くあった。記憶に残るのは、神戸・淡路大震災(平成7年)と東日本大震災(平成23年)である。前者は地震による大火災の発生で、多くの人が犠牲になった。後者では、地震による広範囲の大津波の発生で、夥しい犠牲者が出た。海に流された人が多くいて、今も行方不明になっている人が多い。後者のもう一つの災害は、福島第一原発の事故による付近住民の被害である。高濃度の放射線により、原発付近の町村は未だに自分の家に戻れない。この原発事故は、大津波による発電所の電気系の故障で停電になり、そのため原子炉の冷却がストップし、核分裂が暴走し、原子炉が爆発し、大量の放射線が付近に飛散した。原発付近では現在でも、かなりの放射線が観測されている。事故の原子炉は、廃炉作業が続けられているが、作業が終わるまで50年以上はかかるであろう。その間、付近の住民は自宅に戻れない。発電所の敷地には、放射線を含む廃水がドラム缶に詰められ、それが多く並べられている。ドラム缶を敷地内に保管するのは、まもなく保管場所に限界が来るであろうし、その対策もできていない。
 私は毎日曜日、NHKの大河ドラマを見ているが、現在の「いだてん」は面白くなく、熱心に見る気がしない。先回のストーリーでは、関東大震災の映像が映されていた。悲惨な被害の状況は今も昔も変わらない。「いだてん」では、大地震で発生した民家の火災の映像が出てくる。それをタケシ演じる落語家の志ん生が解説するが、時間が短くて、被害の内容が伝わらない。タケシのしゃべる時間は極めて短く、志ん生の特徴が出せない。「いだてん」の主役は金栗四三であるが、わき役が多すぎて主役の存在が薄れてしまっている。朝日新聞の木曜版には、その週のテレビ視聴率トップ20が載せられており、私はこれを欠かさず見ている。この「いだてん」は、過去一度もトップ20に出てこない。NHKの大河ドラマでは珍しいと思われる。
 「いだてん」は、日曜日のBS放送の夕方6時から放映しており、私はこのBS版を見ている。視聴率トップ20の番組は、地上波TVについての視聴率であろう。NHKの地上波「いだてん」は、午後8時からである。同じ時間帯の民放からは、「ポツンと一軒家」という番組が放映されている。私はこの番組を欠かさづ見ており、この番組は人気があるようで、トップ20の上位に必ず入っている。この番組が面白いので、多くの人が「いだてん」を見ずにいるから、「いだてん」の視聴率は低迷しているのであろう。
 関東大震災は大正12年(1923年)に起きたが、東京では明治43年(1910年)に関東大水害が発生している。大水で150万人の住民が水害を受けた。私は、スマホの青空文庫で芥川龍之介の作品を数年来、寝る前に読んでいる。この中で「水の三日」という作品を、最近読んだ。これは、この関東大水害で避難してきた住民を、当時中学生であった芥川氏(18歳)がボランティアで避難民の世話をした話である。この大水害では、東京府立第三中学校の上級生達が、中学校の校舎に避難してきた住民を相手に3日間世話をしていた。
 芥川氏は、このボランティアの活動内容を同校の学友会雑誌に投稿し、それを後日作品として発表した。その作品では、講堂や教室に集まった避難民に食事を配ったり、寄付で集まったお菓子などを袋に詰めてくばったり、あるいは地方の親戚に手紙を出すのを手伝ったり、などをまとめたものである。当時の府民はほとんどの人が文字が書けなかったので、中学生が代筆を行っていた。中学生が、ある避難民の代筆をする際、宛名の名前を聞くと、「佐吉さん」だと答え、「佐吉さんの苗字は」と中学生が聞くと、「分からねえ」と答える。「△△△村の佐吉さん、と言えば誰でも知っているからわかる」と言う。当時はまだ苗字に慣れていなかったし、名前ですべてが通じたのであろう。代筆した中学生は、その手紙の宛名を「×××県△△△村の佐吉さん」と書いて投函した。中学生はこれで手紙は無事届くのだろうかと心配していたが、明治の良き時代だから届くに違いない。
 8年前の東日本大震災で避難してきた人たちも、ボランティアから同じような世話を受けたに違いない。ただ、100年前の庶民と8年前の庶民では教養のレベルが全く異なるので、8年前では、ボランティアによる手紙の代筆はなかったであろう。現在では身の安否は、スマホで素早く済ませることができる。100年前とは大違いである。
       2019.7.10
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あぶくま高原美術館
 福島県塙町のあぶくま高原美術館は、福島県の中通りと浜通りの間に横たわる阿武隈山系の中にある。この美術館は、塙町の那倉小学校が廃校になり、その後、平成16年に塙町が改修して美術館として開館したものである。あぶくま高原美術館の2階には、常設展示室があり、富永一朗、杉三郎、鈴木清水各氏の作品が展示されている。富永一朗氏は、母の実家が会津田島にあり、その縁で、塙町とは色々な関わりがある。ここには、「河童滝の春」「かぐや姫」などの漫画のイラスト画(コ
ピー?)が多数集められている。杉三郎氏は、明治40年生まれ、福島県東白川郡高城村出身の洋画家である。彼は、昭和時代、洋画の中央画壇で活躍した。昭和62年から約5年間、塙町の油絵教室で絵の指導を行った。「八が岳風景」などの油絵が5、6点展示されている。鈴木清水氏は、明治44年生まれ、福島県東白川郡笹原出身の書家である。彼は、福島県書道界で活躍され、「清水書院」を創設した。平成10年には塙町名誉町民になられた。彼の書は、十数点以上展示されている。
 このあぶくま高原美術館の1階には、町内外の人が利用できる展示スペースと、多目的ホールがある。この展示室と多目的ホールを使って、「えがすきクラブ」絵画展が5月22日から約3週間開催された。「えがすきクラブ」は、矢祭町の絵が好きな人たちが月3回集まって、絵を描く同好会である。このクラブは、17年前に、私が住んでいる団地で、同じ団地の住民である田中氏や脇口氏が発起人になり、結成されたが、現在両人ともクラブから離れている。メンバーは、中高年の女性が6名、男性は以前は3名いたが、今は私1人である。塙町に住む女性が2名、9月頃から加わる予定である。これは上記の絵画展を見て、この程度なら自分も描ける、と思って参加を希望したのであろうか。絵画展開催の効果であろう。
 この絵画展には、メンバー全員が、大小の油絵を約50点と、陶板画、絵付け皿を5点出品した。油絵の大きさは、F4号からF10号までの小さいものであるが、F50号、F80号の大きなものも4点ある。この大きな絵を出品したのは、小松直子氏である。彼女は、昨年からこのクラブに参加するようになった。彼女は、2013年、2015年に二科展に入選した、中央画壇で活躍している画家である。「えがすきクラブ」のメンバーは素人の集まりであるが、彼女だけはプロの画家である。彼女の作品が、このあぶくま高原美術館の常設展示室に飾られていても、おかしくはない。
 「えがすきクラブ」では毎年、矢祭町の白河信金矢祭支店の入口にある小さなスペースで、作品展を開催している。メンバーは、この出品のため、年に3点以上の油絵を描くことを励みにしている。毎年11月末から2週間の会期で作品展を行っているが、会場が金融機関のため、土曜、日曜日は店を閉めているので、この作品展を見ることができない。また、絵を見に行っても、働いている行員の目が気になって、落ち着いて見ることができない、という感想があった。しかし、今回のあぶくま高原美術館の絵画展は、監視する人がいないし、会場が広いので、ゆっくり鑑賞できた、と好評であった。会場を訪れた人は、3週間で200人であった、と美術館の担当者の中畑氏は喜んでいた。
 今回の「えがすきクラブ」絵画展は、大野元信絵画展も同時に開催された。大野元信氏は、地元塙町に在住する水彩画家である。彼は、F50号の大きな水彩画を5点展示していた。大野氏は、福島県の美術展で特別賞など色々な賞を得ており、塙町では知名人のようである。そのためか、彼の絵を見に来場した人も多いようであった。これらの絵画展には、塙町教育委員会の担当者、中畑氏が立派なポスターを制作してくれた。彼は、「えがすきクラブ」向けのポスターと、大野氏向けのポスターの2種類をパソコンで作成し、A4、A3サイズでプリントし、各所に張り付けをした。「えがすきクラブ」向けのポスターは、メンバー7人の絵を「web矢祭美術館」のホームページから画像を取り入れ、それらを画面に張り付けて、制作したものである。このポスターは、美術作品のようで魅力がある。私は、A3サイズのこのポスターを額縁に入れ、部屋に飾っている。このポスターを見て、ポスターに入っている絵を見に来たという人もいたという。
 この絵画展の開催期間中の5月26日には、棚倉町出身の「S・Yさん」が、フォークソングコンサートを開催し、20名の観客が集まって、音楽を楽しんだという。この絵画展が終わった後、中畑氏から絵画出品のお礼として、謝礼金を役場から出したいという依頼があった。それには、クラブの口座に振り込みたいので、口座番号を教えて欲しいという。クラブの口座は作っていないので、私は、東邦銀行、塙支店の預金通帳を作った。後日、役場から3万円の謝礼金が振り込まれた。絵画展開催に関しては、色々宣伝して貰ったので、こちらから謝礼金を出したいくらいであった。私達は、有り難く受け取って、クラブの会費に充てることにした。一方、毎年11月に開催している白河信金の我々の作品展では、作品展が終わった後、白河信金からお礼として、菓子折りを貰っている。3万円を出費した塙町は、町の財政にゆとりがあるのか、あるいは町の文化に対する取り組みが熱心であるのか。多分後者であろう。
       2019.8.10
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ウグイス
 我が家の敷地の南東側には、小さな山があり、そこには背の高い広葉樹が繁っている。この森から、季節ごとに色々な小鳥のさえずりが聞こえる。毎年3月ぐらいからウグイスが鳴き始める。ウグイスは、はじめは自信のない鳴き声で小さく鳴くが、次第に大きな声で鳴く。去年は「ホーケキョ」と、「ホ」抜きの鳴き方が流行っていたが、今年は「ホーゴキブリ」という鳴き方が多く聞かれた。私達はゴキブリと言えば、いやな虫であり、すぐ駆除したくなる虫である。しかし、このウグイスが鳴く「ホーゴキブリ」はきれいな声で、可愛らしく鳴くので、思わず顔が緩んでしまう。ゴキブリを連発する合間に、小さな声で「ホーホケキョ」と鳴くのも愛嬌がある。このウグイスの「ホーゴキブリ」の「リ」は、巻き舌で発声するから、いっそう可愛く聞こえる。そして鳴き方は、しり上がりに「ブリ」を強調する鳴き方なので、遠くからの鳴き声もよく聞こえる。
 我が家では家を新築して18年になるが、家の中でゴキブリを未だ見ることはない。以前の横浜の家では、ゴキブリは多く出て、「ゴキブリホイホイ」を置いて捕まえていた。家の中にはムカデも時折出てきた。私達は40年前頃、山口県の新南陽市(当時)に3年ほど転勤で住んでいた。住んでいた家は古い社宅であったので、ゴキブリの出没はさらに多かったし、ムカデも多かった。ムカデは、寝床の中にも入ってくるので、見つけた時はびっくりしたことを覚えている。今住んでいる当地は、冬の気温が低いので、ゴキブリは生息できないのであろう。ムカデは家の外で一度見かけたことがある。
 ゴキブリがいない当地で、ウグイスは「ホーゴキブリ」の鳴き声をどのようにして学習したのであろうか。今住んでいる団地は、関東地方から田舎暮らしのために引っ越しをしてきた人たちが多い。引っ越しの際、荷物の中にゴキブリが紛れ込んできた場合、その家にゴキブリが住み着くことがあるであろう。その住民が、ゴキブリを見つけて、大声で「ゴキブリだ」と言ったのを、ウグイスが聞きつけて「ゴキブリ」を試しに発声したのか。そのウグイスは、鳴いて見て、この声が気に入って、「ホーゴキブリ」の鳴き声を始めたのであろう。
 ウグイスは、オスがメスを呼ぶために春先から鳴き始める。通常春の終わりまでに、ウグイスはメスを見つけて、つがいになって、メスが卵を産み、オスは巣を守るため、あるいはテリトリーを知らせるため、オスが鳴く。夏の初めには、これらの作業が終わり、ウグイスの鳴き声は聞かれなくなる。近年、人間社会と同じように、結婚しないウグイスが増えたのであろうか、夏に入ってもウグイスの鳴き声が聞かれる。我が家の近くで鳴く「ホーゴキブリ」のオスのウグイスも、夏にも頻りに鳴いていた。メスのウグイスは、この変な鳴き方をするオスには興味を示さなかったのであろう。今年、8月の中旬に台風10号が日本海を通り、北海道に向けて進んでいた。東北地方では、台風が太平洋から近づくと、暖かい風が南から吹いてくる。その台風が日本海を通り過ぎると、今度は風は西風に変わり、涼しい風が吹いてくる。丁度この時、「ホーゴキブリ」のウグイスは、鳴くのを止めてしまった。ウグイスは、恋の季節が終わったことを感じたのであろう。我が家では、このゴキブリの声が聞かれなくなって、寂しくなった。来年の春にはまた、「ホーゴキブリ」の鳴き声が聞かれるだろうか。楽しみである。
 森が近い我が家では、8月の終わりにツクツクボウシが賑やかに鳴き始める。ミンミンゼミもすでに鳴いているので、森からの音は賑やかさを増す。ウグイスの後、小鳥では名前は判らないが、インコの一種らしい小鳥が鳴き始める。これは、人間が聞いていてわけのわからない言葉を、早口でとめどもなく鳴く鳥である。よく聞いてみると、時折「ファイト、ファイト」「オイチイ、オイチイ」のように聞こえる日本語が聞かれる。鳴き声は、可愛らしい声で続けざまにしゃべるので、聞いていて楽しい。以前、ブッポウソウらしい鳥の声を聞いたことがあったが、最近は全く聞かれない。私が小鳥の声で聞きたいのは、カッコウであるが、この近辺では住んでいないらしい。郡山市では、カッコウが鳴くのを聞いた、とラジオで聞いたことがある。この近くまでカッコウがくるのは、いつの日だろうか。
 蝶は、春から白色の小さいのが飛び回り、夏になると黒い大きな蝶がひらひらと庭中を飛ぶ。我が家の庭には、春から夏に色々な花が咲くので、蝶はそれを目当てにやってくる。夏の終わりには、羽を広げると10cmぐらいの大きな黒い蝶が飛び始める。フロックスという宿根草の花が好きなようで、1日中、その花の上を飛んでいる。フロックスは丈夫な草で、特別な手入れなしでも毎年株を広げて大きくなる。私は、大きくなりすぎるので、株分けして3か所にフロックスを植えている。フロックスは夏の終わりから1回目の花をさかせ、それが終わると、2回目の花が咲き、さらに3回目の花が同じ茎から咲く。3回目の花は、さすがにちいさな花になる。黒い大きな蝶は3回目の花が咲くころからいなくなる。9月になると、黄色い小さな蝶が活躍する。この黄色の蝶は寒さに強く、12月の霜が降りる頃まで庭の中を飛び回っている。
       2019.9.10
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国立西洋美術館
  東京上野にある国立西洋美術館は、1959年に建てられ、2016年に世界文化遺産に登録された。私は、機会があれば、ここで開かれる色々な展覧会を見に行くことにしている。ここは、JR上野駅から歩いて2、3分の所にあり、気軽に利用できる。JR上野駅公園口にはコインロッカーが少なく、使うのに4、5百円の料金が必要なため、私は国立西洋美術館の1階ロビーにある無料(100円を入れて、使用後戻してくれる方式)のロッカーを利用している。また、ここの1階の右側には、無料のフリーゾーンと呼ばれるロビーがあり、テーブル、椅子、ソファーがおいてある。ソファーの前には大型液晶画面があり、DVDでこの美術館が所蔵する松方コレクションの作品の紹介が常時映し出されている。
 今年(2019年)6月11日から約3ヶ月、この美術館で松方コレクション展が開かれている。松方幸次郎は、神戸の川崎造船所(現・川崎重工業)を設立し、第一次世界大戦の船舶需要により多額の資金を得た。それを元手に1916~1927年の10年間、ヨーロッパでモネ、ゴーガン、ゴッホなどの絵画を3000点以上買い集めた。戦後、ヨーロッパに残されていたこれらの一部の作品(375点)は、1959年フランス政府から寄贈返還され、この美術館に収められた。今回、美術館設立60周年の記念として、この松方コレクション展が開催された。
 私はこの展覧会を見るため、7月28日、上野のこの美術館へ出かけた。当日は34度の猛暑日にかかわらず、多くの人が美術館の入場券売り場に行列をつくって並んでいた。行列の最後部には、「入場券売り場まで20分待ち」のプラカードを持った係員がいた。松方コレクション展の入場料は、大人1500円で、シニアの割引はない。一方、常設館のシニアの入場券は無料であった。私はモネ、ゴッホなどの名画は今まで色々な展覧会で見てきたので、この松方コレクション展は見ないで、常設館の方に入場した。常設館には、松方コレクションの作品も数多く展示され、日本の梅原龍三郎などの作品も展示されていた。松方コレクション展の会場は地下2階のスペースだけであるが、常設展は本館の1階、2階、新館の1階、2階と、広いスペースを使っていた。私が見終わったのが、14時頃で、外は暑い盛りであったので、フリーゾーンのソファーに座って、DVDの動画を眺めて時間を過ごした。その映像の中で、松方氏がモネの住宅兼アトリエでモネに会っているシーンがあった。モネの日本庭園や、日本の美術品が飾られている部屋も映像にあり、松方氏が自分の目で絵画を購入していたのがよく分かった。
 翌日は月曜日で、どこの展覧会場も休館日である。横浜美術館だけは、木曜日が休館日になっているので、私は横浜美術館へ出かけた。この美術館では、「原三渓の美術(伝説の大コレクション)」という展覧会が開かれていた。原三渓は(本名、原富太郎)、明治、大正時代の実業家で、絹の貿易で富をえた。製糸家としても富岡製糸場などの工場を各地に持っていた。彼は、得られた資金で日本や中国の古美術(書画、仏画、茶道具)の収集を行った収集家として知られた。横山大観、下村観山などの作品を購入したり、彼らの生活を支えていたパトロンでもあった。彼は、横浜市本牧に三渓園を造り(1906年)、京都や鎌倉の古い建物を園内に移築し、一般に公開した。私は、横浜に在住したおり、三渓園に一度行ったことがある。三渓園のすぐ近くに石油コンビナートがあるので、園内は、空気が悪そうであった。そのため、二度と行く気にはなれなかった。
 横浜美術館の原三渓企画展は、三渓が収集した多くの名品が一堂に集められたもので、特に尾形光琳、下村観山などの絵画は見ごたえがあった。仏画や書画などが多く展示されていたが、私にはその良さが判らない。原三渓もアーティストとして、制作した書や水墨画を展示していた。横浜美術館の企画展はシニア料金は1500円であるが、常設展に相当するコレクション展にも入場することができる。横浜美術館の所蔵作品は、ダリ、セザンヌ、ピカソなどが12000点もあり、企画展が変わるたびに、コレクション展の展示作品も変えている。
 原三渓氏は、水墨画、書画、茶器などを収集したが、ヨーロッパの絵画、宗教画などの収集はしなかった。同じ実業家で、大原孫三郎、石橋正二郎などは、松方氏と同じ洋画を収集していた。大原氏は、クラボウなどを設立した実業家で、倉敷市の大原美術館を設立した。彼は同郷の画家、児玉虎次郎に洋画を学ばせるため、1908年にヨーロッパ留学をさせた。児島虎次郎は、ヨーロッパで多くの絵画の素晴らしさに接し、日本のこれから絵画を学ぶ人達のために、これらの絵画を購入したいと大原氏に訴え、大原氏は同意した。その結果、セザンヌ、モネ、ゴーギャン、ピカソ、ルソーなどの作品が日本に送られてきた。児島虎次郎がヨーロッパの名画を購入したのは、松方幸次郎がヨーロッパで名画を買いあさった年の8年前であるから、大原美術館に収められている絵画は、松方コレクションより、質の高い名画であるかもしれない。大原美術館で、最も有名なのがスペインの画家、エル・グレコの「受胎告知」であろう。これは、日本にはエル・グレコの作品が2点しかないその一つである。
 私は、倉敷美術館がある倉敷市からそれほど遠くない総社市の実家に、中学、高校時代の約6年間、住んでいた。また、私の姉の2人は、倉敷市の嫁ぎ先に現在も住んでいる。当時、倉敷市には度々行ったことがあったが、大原美術館には一度ぐらいしか行っていない。その後、私は総社市を離れてから、帰郷する機会には、この美術館に何度も行ったことがあった。大原美術館のコレクションの中で、今でも記憶にあるのは「受胎告知」である。モネの「睡蓮」はかすかに覚えているぐらいで、セザンヌなどは記憶にないのが残念である。
 倉敷市は、江戸時代、代官所が置かれた「天領」(幕府直轄地)であった。倉敷は瀬戸内海を結ぶ運河(倉敷川)を造り、内陸の港町とした。これは、付近で取れるお米(年貢米)の集積地として利用された。このため、倉敷は商人の町として大いに栄え、財をなした商人たちは蔵を造った。その名残が、倉敷市の美観地区になっている蔵屋敷群である。大原孫三郎は地元の大地主の三男として生まれ、クラボウ、中国電力などを設立し、倉敷を発展させた。
 私が住む矢祭町の北隣には、塙町がある。塙町は、江戸時代、代官所が置かれた「天領」であった。この塙町は、周囲が山に囲まれており、倉敷のようなお米の集散地ではなく、木材の集散が主な産業であった。江戸幕府が塙町に天領を置いたのは、伊達藩の監視のためであろうか。この地で、倉敷のような産業を興す実業家は輩出しなかった。そのため、塙町は全国に名を成す土地にはならなかった。同じ天領でも、後背地の産業の違いにより地域の発展の程度がこうも違うものか、と考えさせられる。
       2019.10.10
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台風19号
  2019年10月12日、台風19号は関東南岸から福島県中通、宮城県沿岸部を通って、太平洋へ抜けて行った。台風15号も、似たようなコースで東日本に上陸した。15号は風台風で、首都圏の交通機関は混乱した。特に千葉県の沿岸の各都市は、風の被害を受け、家の屋根瓦が飛ばされ、多くの民家がブルーシートでおおわれた。千葉県は、修理ができない状態でこの台風19号を迎えた。台風19号は雨台風で、台風が近づく前から雨が降り始め、各地に大量の雨をもたらした。平野部では、河川の増水による川の氾濫で、周辺の民家は床上浸水で被害を受けた。降水量が異常に多かったので、避難場所に行く途中で、水に流されて死亡した人達が多く、台風による死者は、東日本で100人近くになった。
 この100人のうちの30人は、福島県中通の犠牲者であった。中通には、中央に阿武隈川が流れており、宮城県の丸森町から太平洋へ流れている。阿武隈川は、源流は栃木県の那須高原あたりで、白河、須賀川、郡山、本宮、福島を抜けて、宮城県に入る。この川は川幅が狭く、しかも曲がりくねっているので、増水により氾濫しやすく、過去堤防のかさ上げ工事もしてきた。県内で7人の犠牲者を出した本宮市街地は、市内を流れる阿武隈川に、安達太良山系を源とする安達太良川が合流する所である。山から流れてきた大量の雨水で、本宮市内の安達太良川は一気に増水した。
 本宮市内の阿武隈川流域では、堤防のかさ上げ工事をしてきて、工事完了まで、後700mを残して台風を迎えた。阿武隈川の堤防強化工事で、業者が工事残りの洪水対策をしていなかったため、そこから水が流れ込んで被害を大きくしたようである。この阿武隈川には多くの小さな河川が注いでいる。本流の阿武隈川の洪水対策をしても、これらの小河川の対策がなければ、いわゆるバックウオータで簡単に洪水が発生する。阿武隈川の一部の堤防工事対策で安心していた住民は、思いがけない洪水で、逃げ遅れた人が多かったに違いない。
 私が住む矢祭町には、町の中央に久慈川が流れている。久慈川は、近くの八溝山系の山から流れ、棚倉町、塙町を通り、茨城県の大子町から水戸市方面へ南下して、大平洋にそそぐ川である。台風19号はこの流域に、近年にない大雨をもたらした。その大雨で久慈川は増水し、下流の水戸市で洪水を起こした。上流地域の矢祭町も増水し、一部畑に冠水した。矢祭町の役場や小学校がある町の中心部側には、久慈川の堤防が造られているが、その堤防の反対側の約1kmには、堤防がない所がある。堤防を造らなかった理由を土地の人に聞くと、堤防のため自分たちの土地が削られるのが嫌だということであった。今度の大雨で、この部分から水が流れ込み、田畑は冠水した。この堤防がない地域は、近くに小さな山があり、住民は、その麓の数メートル高くなったところに、家を建てて住んでいる。その住民達は、田畑の冠水は覚悟しており、大雨の前に稲の刈り取りを済ませていたので、大きな被害はなかった。
 堤防のない部分は一種の遊水地の役目を持っており、そのため下流の氾濫は比較的少なかったであろう。この遊水地のおかげで、町の中心部にある役場や学校、また川のすぐ近くにある老人ホーム、温泉施設などは無事であった。昔の農民のエゴが、思わぬ災害対策になっていたのである。隣町の大子町に接する矢祭町の久慈川では、橋が増水により崩落し、その橋を使う地域の住民が孤立してしまった。近くにはJR水郡線の鉄橋があり、この鉄橋は無事であったので、住民はこの鉄橋を歩いて渡り、買い物などすることになった。このことが、テレビや新聞に再三報道され、話題になった。私のテニス仲間の実家もこの孤立集落に住んでいるので、彼から色々話を聞かされた。水戸と郡山を結ぶ水郡線も増水の被害を各地で受けて、1カ月不通となっている。その間、孤立した住民は鉄橋を歩くことができるが、水郡線が動き出すと使えない。町と県は、取り合えず仮設の橋を建設しだした。1カ月以内に仮設の橋を設置しいなければならないという、タイムリミットをかかえて工事をしていた。
 私は、以前北陸の豪雪地帯をツアーのバスで通り、車窓から土地の民家の建物を眺めて、気が付いたことがあった。そこの民家の建物は、3階建てが多い。1階部分はコンクリート作りの箱型になっており、そこでは物置や車庫のような使い方をしている。住居の建物はその上に2階建てを造っている。豪雪地帯だから、冬には雪が2mぐらい積もるのであろう。コンクリートの部分は雪に覆われ、住居からの出入りは2階の玄関からできる。大雪が積もっても、住民は雪で閉じ込められることはない。
 今回の大雨で、浸水した多くの家をテレビで見て、私はこの豪雪地帯の建物を思い出した。この方式の住居にすれば、河川から水が流れ込んでも、土台の高さが1~2mぐらいあれば、建物の浸水は避けられる。災害地のテレビの報道は、被害がいかに大きいかを知らせるため、テレビは家屋の惨状を映し出す。以前の大地震の時でも、家屋が倒れた映像を映し出す局がほとんどであった。被災地では、地震で倒れなかった家屋もあるはずである。倒れなかった家を映して、何故倒れなかったかをテレビで映して、検証し、多くの人達に示すべきである。今回の大水害も同じである。テレビ局のほとんどは、床上浸水した内部と、内部の跡片づけを映していた。浸水した地域でも土台をかさ上げした家屋は被害を受けていないはずである。そのようなかさ上げした家屋も報道すべきである。
 市街地の狭い土地でのかさ上げは不可能であろう。しかし、高さ1~2mのコンクリートの箱を置いて、その上に家屋を建てるのは、狭い土地でも可能である。既に建てられている家屋の場合は、家屋をジャッキで持ち上げて、その下に既成のコンクリートの箱を入れる。コンクリートの箱は、トラックで運べるサイズのものを工場で造り、家屋のサイズに合わせて、4、5個組み合わせて設置する。この方式は行政の指導が必要である。特にコンクリート箱の製造は、大量生産しなければコストダウンできない。これから異常気象が多くなり、今回のような豪雨の頻度は高くなるであろう。中小河川の堤防のかさ上げは、市街地では土地の狭さで困難である。私が提案するこの方式を行政は採用し、実施の方向で検討してほしい。
 豪雨の後、テレビは、連日のように床上浸水した家屋の後片付けの様子を報道し、また水に浸かった家具類のゴミ(災害ゴミ)が各地の集積場所に積み上げられている様子を報道していた。被災者は、失った家具、電化製品などの購入費用と、家屋の修理などで2,3百万円程度が必要となるであろう。床上浸水を防ぐには、堤防のかさ上げが必要であるが、行政がやることだから時間がかかる。個人的な浸水対策は、上に述べた家屋のかさ上げで、ある程度は可能であろう。これは、どれくらいの費用負担になるか? 一概には言えないが、2,3百万円程度であろうか?
       2019.11.10
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クモ
  今年は、クモ(蜘蛛)が大発生した。庭のいたるところにクモが巣を造り、その除去に忙しかった。クモが庭の人が歩く通路に巣を造られると困るので、棒などで巣を壊していた。そのうちクモも学習したのか、人の高さの上に巣を造っていた。巣を造る前の、目に見えない1本の細いクモ糸が顔に当たると、不意を食らったようで、不愉快になる。霧が降りる朝は、これらのクモ糸がよく見えるので用心することができる。このような朝には、頭上のクモの巣の幾何学模様のきれいな巣が見られる。あの小さな昆虫がきれいな規則正しい模様の巣を造れるのは、不思議としか思えない。クモが巣を造るときの色々な判断、指示は、小さな頭の中の脳細胞から発しているのであろう。これは、驚くべき機能である。クモの大きな特徴は、自分で餌を捕獲するための巣という装置を設置することである。人間以外の生き物で、自分で装置を造って、それで生きている生物はいないであろう。他の生き物は、口とか手で直接獲物を捕まえて食べる。装置を造って獲物を捕まえている生き物は、クモしかいない。
 私は、毎朝2階の4畳の窓際にあるリスニングルームで1枚のCDを聴いている。籐椅子に座って音楽を聴き、窓の外の景色を眺める。今年の春、クモが軒下の窓の近くに巣を造った。私は、毎朝このクモの状態を観察することができた。春には2匹の子クモができ、親の近くでじっとしていたが、いつの間にかいなくなった。夏の初めにはセミが巣にかかり、セミの重さで巣が下に垂れ下がるようになっていた。セミは、時折暴れて巣から脱出を試みていたが、なかなかできない。セミがおとなしくしていると、クモがセミの腹に乗って何かをしている。セミの体液を吸っているのだろう。そのうちセミは落ちていなくなった。11月には、カメムシが巣にかかっていた。クモは、カメムシの臭いが嫌なのか、近寄らない。11月下旬にはこのクモは何処かへ行ったらしく、見えなくなった。クモの寿命は種類によって異なるようであるが、2、3年か? クモは越冬のため、姿を消したのであろう。窓から見えるクモの巣は、あの幾何学模様はなくなり、1本の糸が残り、そこには食べかすの昆虫が西風に揺られていた。
 11月の中旬には例年のように、カメムシが、森から越冬のため我が家の周囲に集まってくる。昨年まで、庭にある小屋に2、30匹のカメムシが、小屋の隙間から入り込み、冬を過ごしてきた。春にはこれらを追い出すのに手間がかかっていたので、今年は小屋の中にヘビ除けの粉剤を撒いた。粉剤の臭いはナフタリンの臭いで、カメムシもこれが嫌いなようで、小屋に数匹しか入ってこなかった。入れないカメムシは、我が家の壁に貼りついて、家の中に入るスキを狙っているようである。私達は、ドアの開け閉めには気を使って、カメムシの侵入を阻止していた。カメムシとの攻防は、我が家の初冬の行事である。11月には毎年庭に植えていたサツマイモの収穫がある。我が家では、これらを食べきれないので、今年もテニス仲間に持って行き、食べてもらった。我が家でも、必ず1回は焼き芋を造ることにしている。焼き芋は、庭先で岩谷製のカセットコンロを使って作ることにしている。今年はこのコンロの調子が悪く、点火しなく、点火しても赤い炎だけがゆらゆらと燃える。
 おかしいなと思い、コンロを調べたが、原因が判らない。私は急遽、トーホーのカセットコンロを約2000円で購入し、焼き芋を作った。トーホーのコンロはインドネシア製であり、岩谷のは日本製である。岩谷製の値段は、トーホーの約2倍の4000円である。後で岩谷製をじっくり調べてみると、カセットボンベからくるガスのノズルには、空気を入れる長さ10cm、径2cmぐらいのパイプがあり、その入り口には空気を入れる穴が2ヶ所ある。その空気導入の穴からパイプにカメムシが入っていたのを見つけた。その穴は、丁度カメムシが入れるぎりぎりの大きさであり、外からは容易にカメムシを見つけることはできない。コンロを縦にしてみると、カメムシが出てきた。これが原因かと思い、カメムシを引っ張り出した。カメムシは、次から次に出てきて、10匹ぐらい出てきた。ほとんどは死んでいた。こんな狭い所に10匹も入ってたのか、と半ば感心した。取り出した後、カセットコンロは普通に点火し、正常な炎を出した。
 我が家には、2台のカセットコンロが常備されることになる。トーホーの空気孔はどうなっているか、調べてみると、岩谷製と同じようにカメムシが入れるサイズの穴が4か所あった。しかし、穴を取り付けている金具はネジで外せるようになっている。一方岩谷製は、金具は溶接で固定され、外れないようになっている。トーホーのカセットコンロ設計者は、カメムシが入り込んでも容易に取り除けるようにしており、設計者のユーザーに対する思いやりが感じられる。私は、岩谷製より値段が半分も安い、そして心遣いの行き届いたトーホー製カセットコンロを気に入っている。
       2019.12.10
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春うらら、2020
  昨年2019年の話題は、吉野氏のノーベル化学賞受賞のニュースであった。11月のテレビでは、彼の笑顔が連日のように映し出された。ノーベル賞受賞のため、ストックホルムへ出かける際、夫人はもちろん子供とその家族を連れて行ったことも話題になった。孫まで一緒にストックホルムへ行ったのは初めてであろう。孫と吉野氏がストックホルム市内で観光しているのがテレビでも報道され、現地でも話題になったのであろう。その吉野氏の笑顔は印象的で、笑顔がトレードマークになっていたようである。しかし、受賞のレクチャーでの彼の顔はさすがに笑顔ではなかった。科学者らしい顔であった。
 彼の受賞の対象になったリチウムイオン電池は、充電式で、繰り返し充電して使うことができる。これはすでに私達の身近にある、スマホや腕時計などに使われているが、電池そのものは見ることができない。カメラや電動工具に使う電池は、電池を取り外して、専用の充電器で充電する方式を採用している。私が持っているオリンパスのカメラは、3.6Vのリチウムイオン電池で、Li-ionの記号が使われており、専用の充電器で充電している。私は、使い捨ての単1、単2、単3乾電池の代わりに、充電式の乾電池を持っている。これは、ニッケル水素電池(Ni-MH)であり、リチウムイオン電池とは異なる。ニッケル水素電池の電気容量は、1.2Vの単3で2500mAhであり、ワット数では3である。一方、3.6Vのリチウムイオン電池は1350mAhで、ワット数は4.9Wである。リチウムイオン電池の方が容量が大きいが、持続性はサイズによって異なるので、どちらが大きいか分からない。
 リチウムイオン電池を色々使っていて不便を感じるのは、使用時間が少ないことであろう。私が常時使っているスマートウオッチは、3日で電池が消耗し、充電しなければならない。これを省エネモードで使うと、夜間は電源offにすれば、7日は充電しなくてもよい。省エネモードは白黒表示で、色々な機能が使えない。世間のスマホでは、3日に一度は充電する必要があり、災害時などではスマホの充電施設が公民館などで設置されているのがテレビで放送される。私はプリペイド携帯電話を持っているが、充電するのが面倒だから、電源は常時offにしている。これだと2年以上充電すことはない。リチウムイオン電池のこれからの開発目標は電気容量の増加、つまり充電インターバルの長期化であろう。リチウムイオン電池が注目され、リチュウムの需要量が増大しているが、世界のリチュウムの生産量はどうなのか? 2011年の統計では、リチウム鉱石の生産量は3.4万トンで、可採埋蔵量としては13百万トンある。海水中に存在するリチュウムを含めると無尽蔵にある。
 蓄電池で最も古くから使われているものは、鉛蓄電池であろう。これは、車用のエンジンスターターに使われ、なじみが深い。我が家の庭には約20個のLED照明を24時間点灯している。この電源はソーラーパネルで、昼間蓄電池へ充電している。使っている蓄電池は、鉛蓄電池が4個、あとは単2、単3のニッケル水素電池やリチウムイオン電池である。リチウムイオン電池は、使わなくなった電動器具から引き抜いたものである。庭のLEDは昼間は光が見えないが、夜になると庭を色とりどりの光で照らすので、庭は賑やかになる。以前は光センサースイッチを使って、夜だけ光るようにしていたが、このセンサースイッチを稼働させるために、かなりの電気が必要であることに気が付いた。LEDの消費電力は小さいので、LEDを24時間点灯させる電気量と、光センサースイッチを付けて省エネを図った電気量を比較すると、光センサースイッチを使用しない方が電気量が少ないことが分かった。
 電池の電極には+極と-極があり、それぞれ別の材料が使われている。リチウムイオン電池はこの両方の電極にリチウムイオンが使われているのが特徴である。吉野氏が開発したリチウムイオン電池の+極は、コバルト酸リチウムであり、-極は金属リチウムを吸着させる炭素材料である。電池内に金属リチウムが遊離していないので、爆発の危険がないのも大きな特徴であろう。ノーベル賞を貰った吉野氏は、充電タイプの電池の電極材料の研究開発を行っていた。導電性の有機溶媒の中に+、-の電極を入れると電気が発生する。吉野氏は、電極の材料によって発生する電気量が異なるので、その電極の開発を完成させたのである。
 私は約60年前、卒論の研究で電池を研究していた。電極の間に入れるのは有機媒体でなく、水で、電極は色々な金属を使っていた。研究の目的は、天然の水に含まれる約0.26%の重水類を水の電気分解により効率よく濃縮させることであった。金属電極の種類によって濃縮の程度が異なるため、最適な金属材料を見つけ出すのが最終目的であった。電気分解で或る程度濃縮された重水類は、さらに沸点差を利用して、蒸留によりさらに濃縮される。重水は、原子炉の減速材に用いられるが、高価なので、減速材は一般的には軽水が用いられている。卒論の研究で、私を指導した久野教授は、阪大の出身で、電気分解による重水濃縮のテーマを阪大から引き継いでいた。60年後の2019年、阪大では高能率で重水を生成させる研究成果を発表した。この方法は、電気分解でなく、純粋な化学反応によるものである。阪大の重水のテーマは今日まで延々と続いているようだ。
 電池とは逆であるが、水の中に金属電極を2本入れて直流電気を流すと、水が電気分解し、+極に酸素ガスが発生し、-極には水素ガスが発生する。水素ガスは可燃性で、燃やすと水が発生する。ガソリンの代わりに、水素ガスを燃焼させてエンジンを動かす自動車は、すでに実用化されている。燃焼の廃ガスは水であるので、水素ガス燃料は環境に優しい。水素ガスを発生させるには電気を必要とする。発電が石油燃料に頼っている現在では、水素ガス自動車は真の意味で環境に優しくはない。発電をソーラーとか風力などで行えば、水素ガス自動車はエコであり、環境に優しいビヒクルになる。
 吉野氏のリチウムイオン電池の開発成果を見て、私は自分の卒論のことを思い出した。吉野氏の研究は、電池で発生する電気量と色々な電極との関係をテーマにしたものである。一方、私の卒論は、電池に使う色々な金属電極に電気を入れる実験であった。電極の相違の研究については吉野氏と同じであるが、電気の出し入れは私の場合、逆であった。上に記したように実験の目的は別であったが、私はノーベル賞を得た吉野氏の仕事に親しみを感じた。新年になって、彼の笑顔がテレビからあまり見られなくなったのは寂しい気がする。
       2020.1.10
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スマートウオッチ
  スマートウォッチとは、スマホ機能を持つ腕時計である。つまり、スマホにあるいろいろな機能を腕時計に入れたものである。スマホにはない心拍センサー、温度センサー、気圧センサーなどもある。私は2年前、サムソンのスマートウォッチを約3万円で購入した。時計の表示がカラーであるから、時計を見るのが楽しみであった。この時計の便利なのは、1ヶ月単位のカレンダーが表示できることで、先月の4日はなん曜日であったかを簡単に知ることができ、また去年や来年のカレンダーも見ることができる。ところが昨年、この時計が故障してしまった。保証は1年間であったが、故障した日が丁度1年を過ぎた日であったので、無償で修理してもらうことはできない。サムソン日本に、修理にはいくらかかるか聞いてみると、検査するだけで5千円かかり、簡単な部品の取り替えなら、プラス5千円ぐらいでしょう。致命的な欠陥なら、プラス1.5万円で、合計2万円です、と冷たく言う。それなら新しく買った方がよさそうである。丁度1年を過ぎて、故障を起こすとはけしからん話だ。サムソン製は、商品を買った当時は素晴らしい時計だと思って、気に入っていたが、すっかりその思いは、冷めてしまった。
 私が買って、故障したサムソンのスマートウォッチは、ほとんどの機能は使えなくなったが、エコモードであれば、白黒表示で時刻、日付、電池残存量が表示される。このエコモードは、1回の充電で7日は使える。故障の前のスマートウォッチは、3、4日で充電しなければならなかった。その意味では、故障して充電が楽になって良かったと思っている。しかし、問題が発生した。時刻の自動較正ができなくなった。手動でも較正はできない。故障してから3ヶ月で、時刻は2分進んでしまった。このままでは1年後10分の進みになり、時計の価値はなくなる。スマートウォッチの問題点は、なにもしなければ、表示が自動的に消えてしまうことである。急に時刻を知りたいときは、ボタンを押さなければならない。大変面倒だ。そのようなことがあって、故障のスマートウォッチは廃棄することにした。
 現在、代わりに使っているのは、15年前に買ったカシオの「プロトレック」という腕時計である。これは登山者、ハイカーのための時計で、光で充電されて動く。表示は、白黒のデジタルであるが、明るいところに放置しておくと、永久に時を刻んでくれる。この腕時計の機能は、気圧計、標高、コンパス、世界時計だけである。この時計の良いところは、常時時刻が表示されていることである。時刻の常時表示は、スマートウォッチで不便を感じていたので、この15年前に買った腕時計は、常時表示であり、時計はこうでなければならない。
 私は旅行に出かける際、必ず10インチのノートパソコンを持って行くことにしていた。このノートパソコンの重さが約1.2Kgあり、その重さが負担になって、軽量化しようと考えた。私は、7インチのタブレットを以前から持っているが、入力は画面をタッチする方式である。キーボード入力に慣れている私は、思うように入力できない悩みがあった。最近は、モバイルキーボードが売られており、重さも400g程度である。これはコードレスであり、持ち運びに便利である。コードレスのキーボードは、ブルートゥースという機能により、パソコンに情報を入力することができる。ブルートゥース機能は、2.4GHzの電波を使用して、キーボード、マウズなどの機器から文字情報などを同じブルートゥース機能を持ったパソコン、タブレットに送ることができる。最近、私はエレコム製の超薄型キーボードを購入した。この重さは210gであるが、スタンドになる保護ケースが付いており、この重さが本体より重い240gである。このケースは、タブレットをセットすることができるアイディア品である。
 マウスもブルートゥース機能が付いたものが売られており、バッファロー製のマウスを最近購入した。これで、キーボードおよびマウスから文字情報をタブレットへ送ることができる。タブレットは、7年前に購入した台湾のASUS製の7インチ型NEXUS7である。これは今まで一度も不具合を起こしたことがない優れものであるが、7インチは少し小さく感じる。一回り大きい8インチ型のタブレットを探していたら、中国のファーウェイ製タブレット(MediaPad M5)が2.5万円で、ヨドバシカメラで売っていた。購入する前に、ファーウェイ日本へ、手持ちのエレコム製キーボードがブルートゥース機能により、そのタブレットに入力できるか、確認したところ、OKの返事を貰った。私はそのタブレットを注文した。その品物が着いてみると、サイズが今まで持っていた7インチのタブレットとほとんど同じであった。8インチのタブレットは、7インチに比べ1インチ(2.5cm)長いのに、横幅が0.5cmしか長くない。これにはがっかりした。
 このファーウェイのタブレットを使って、ブルートゥースによるキーボード入力を試みたが、不可能であった。7インチのNEXUSは、キーボードによる入力には問題がないことを確認して、ファーウェイのこのタブレットは、欠陥品であると判断した。私は、購入先のヨドバシカメラに電話をして、返品を申し出た。ヨドバシは快く返品を受け入れてくれた。今回の中国のファーウェイ品、先に述べた韓国のサムソン品の不良品で、私は続けて2度、不良品に遭遇した。最も最近購入した日本のエレコム製ブルートゥースキーボード(TK-SLP01BK)は、正常に働いている。このキーボードは、2018年11月の製造で、定価11700円であるが、ヨドバシでは3600円で売っていたものである。定価の半分以下で売っているのは、何か問題があるのではないかと、疑問に思っていたが、今のところ正常に働いている。
 話は変わって、今年の大相撲春場所は若手の活躍で大いに盛り上がった。私は15日間、4時半ごろから6時までテレビの実況を見ていた。千秋楽の徳勝龍が大関の貴景勝を破った試合は、見ごたえがあった。徳勝龍が勝った瞬間、彼は涙を流していた。これは近年にない初々しさであり、私ももらい泣きしてしまった。次の春場所の徳勝龍は、幕の上位で実力者と戦うわけで、これも楽しみである。
       2020.2.10

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漱石と芥川
  私は、毎晩寝る前に「青空文庫」の文学作品を読んでいる。青空文庫とは、著作権が消滅した作品や著者が許可した作品をインターネットの電子図書館として公開しているものである。作品の変換作業は、多くのボランティアによる。私は、現在夏目漱石の作品を読んでおり、その前は芥川龍之介の青空文庫に変換されたすべての作品を読んだ。私は携帯機能のないスマホを3台持っており、そのうちの1台を青空文庫専用に使用している。これは、アップルのiPod touch という製品で、軽くて片手で持てるものである。私は、ベッドの中で毎晩このスマホを左手に持って、夏目漱石の「虞美人草」を読んでいる。ページめくりは左手の親指でできるので、極めて楽である。これが夏目漱石の全集とか、文庫本などの場合は、片手でというわけにはいかないであろう。これはスマホの有り難さである。私は、寒い毎晩、布団の中から顔と左手を出して漱石を読んでいるのである。
 このタイトルの「漱石と芥川」は、彼らの文学上の相違などを記述しようとは思わない。私にはそれらの知識など、持っていない。ただ、最近スマホで彼らの作品を読んでいるだけであり、芥川龍之介の作品は短文を含めて全部読み終わり、夏目漱石は、まだ途中の段階である。青空文庫に変換されている芥川龍之介の作品は370冊あり、夏目漱石は105冊で、青空文庫の中では最も多い2名である。1冊の中には雑誌に投稿された随筆、コラム文、評論文などの短い文も多くある。1冊の文章の長さは、デジタルのデータ量の単位であるビット、実際には千倍のキロビット(Kb)で表示されており、1Kbとか2Kbで示される。例えば、1Kbは文庫本の2ページか3ページの長さに相当するようである。芥川龍之介の作品には多くの短文が冊別に納められており、夏目漱石の作品では10Kbのような、やや長い作品が1冊として納められている。従って作品の多さでは夏目漱石の方が多いであろう。短い文で面白いのは、小説に現れない作家の病気、家族のこと、住まいの近所の風景などが出てくる。その作家の日常生活が想像できるので、読んでいて楽しい。
 私は学生の頃、古本屋で文庫本を買ってきて、それを読んでいた。芥川龍之介の作品は、古本屋になかったようで、読む機会はなかった。古本で、夏目漱石の「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」は売っており、それを買って読んだ。内田百閒の「贋作吾輩は猫である」や「阿房列車」も古本にあったので、読んでいた。私は、内田百閒と同郷(岡山)であったので、彼に親しみを感じていた。私は、社会人になって、内田百閒全集2冊がどこかの書房から出版されたので、それを購入して大切にしていた。当時内田百閒は、文章家と評されていたが、その文章家の意味が私には判らなかった。彼は夏目漱石の第一の門下生を自任しており、そして芥川龍之介から慕われていた。芥川龍之介も、夏目漱石を先生として自宅を訪問していたことが、青空文庫の中で出てくる。夏目漱石は、情景描写が複雑で難解な所があるが、内田百閒は、平明な記述で分かりやすい文章を書く。文章家とは、正しい日本語を書くというものでなく、具体的な人間関係や情景などが容易に読者の頭に入ってくるような文章を書くことができる作家であろうか。そのように私は解釈している。
 内田百閒の作品は、青空文庫にないのが残念である。彼は、没後50年以上経っており、著作権は消滅していると思われるが、収録できない理由があるのであろうか。内田百閒の文章で情景描写などを絵にすると、さしずめ鮮明な具象画が描けるであろう。夏目漱石の文章を絵にすれば、心象画になるであろうし、芥川龍之介の場合、それは印象画として描けるかもしれない。文章家である内田百閒は、具象画が描ける文章を書いている、と私は思っている。私が現在青空文庫で読んでいる夏目漱石の作品は「虞美人草」である。この虞美人草は、夏目漱石が職業作家として執筆した第1作であり、一字一句にまで腐心して書いたといわれている。そのため力が入った表現が多く、私は彼のこの作品読むのに疲れを感じているぐらいである。
 虞美人草の前は、「草枕」を読み終えた。草枕は100Kbであり、虞美人草は220Kbの長さであるので、虞美人草は相当な長編である。草枕は熊本県の小天温泉へ出かけた時の話である。そこに逗留していた温泉宿には、出戻りの「那美」という女性がおり、その人の行動、思想などが書かれている。彼女の性格は、昔風のしとやかさではなく、積極的な思考や行動をするようにえがかれている。今読んでいる虞美人草では、「藤尾」という女性が出てくる。この小説では、甲野さんという若い男性とその妹である藤尾、宗近君という若い男性とその妹「糸子」が主に出てくる。この藤尾の性格が草枕の那美によく似たようにえがかれている。宗近君と藤尾の縁談の話などが小説に出てくるが、藤尾は自殺してしまう。私はこの自殺のシーンまでは、まだ読んでいないが、多分小説の終わりの頃に出てくるのであろう。私は自殺の理由が知りたい。
 芥川龍之介には子供が男3人いた。比呂志氏と也寸志氏はマスコミで名前が出て、私も記憶にあるが、今は彼等は故人になっている。夏目漱石は2人の息子がおり、マスコミには出てこなかったようである。そのどちらかの息子の娘2人が漱石のコラム文に出てきた。そこには、漱石が湘南の町で転地療養をしていた時、2人の娘(漱石には孫)から病気の見舞いの手紙を貰ったことが、書いてあった。孫は二人とも小学生で、妹はひらがなで手紙を書き、姉は候文で手紙を書いている。姉の候文はひらがな交じりであるが、当時は小学生でも候文を書いていたのだ。漱石の家族および彼が書く小説の世界は、経済的にゆとりのある中流階層であろう。この孫の候文の手紙を見て、私は学生の頃を思い出した。当時、私は生活費を稼ぐため、色々なアルバイトをしていた。その中で、徳島市に住む藍の歴史を調べている人から、藍に関する古文書の写しを依頼された。当時はコピー機が簡単に使えなかったようである。従って「写し」は、手書きによる写し書きである。そのため大変手間がかかった。その資料の文章は、全て候文であったのが特徴で、私はその時初めて候文に接したのである。
 そのアルバイトが終わっても、私は、候文がすっかり身についてしまた。親への手紙も候文で書いた。そして、私は、当時私の兄から生活費の一部月千円を援助して貰っていた。そのお礼にも候文で書いたことがあった。兄からの手紙には「一枚送る」としか書いてなく、千円札が一枚同封されていた。私は、受け取ったお金のお礼の手紙に、「此度壱千園也有難受取候」と書き、これだけでは失礼になると思い、その他のこちらの様子を漢字だけの候文で書いて送った。千円といえば当時は大金で、私の生活費の重要な部分を占めていた。親からの送金は月2千円であり、これと兄からの千円で1カ月は食べていかれた。毎日の朝食は、学芸学部の寄宿舎にある食堂で、1食20円で食べることができた。内容は、麦飯のどんぶりとみそ汁、少しのおかずである。昼と夜は工学部の食堂で、1食40円ぐらいの定食を食べていた。間借りの部屋代が千円であったが、奨学金(月1500円?)を貰っていたので、なんとか生きることはできた。これだけでは何もできないので、私はアルバイトをして、月2千円ぐらい稼いでいた。そのような学生時代のことを、漱石の孫の候文の手紙から思い出した。今から60年前のことである。
       2020.3.10
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コロナウイルス
  コロナウイルス(新型コロナウイルス)による新型肺炎の感染者は、4月1日現在、世界で86万人となり、死者は42000人になった。以前最も多かったのは中国であり、感染者は8万人、死者は3300人であったが、現在最も多いのはアメリカであり、感染者は19万人、死者は4000人である。次いで多いのはイタリアで、感染者は106000人、死者は12000人である。日本では、感染者は3200人であり、徐々に増えている。日本の死者は78人で、他の国に比べると少ない。私が住んでいる福島県では、感染者は6名、死者はいない。6名の感染者は、いわき市、郡山市、福島市、南相馬市に住んでいて、自宅に待機しているので、感染の広がりはないようである。私の地元ではこれらの都市から離れているので、感染が及んでくるのはまだ先であろう。噂では私の住んでいる団地に、クルーズ船に乗っていた人がいるようであるが、真偽のほどは分からない。
 3月22日は統一地方選挙で、矢祭町議会の議員選挙が行われる日であった。この日の混雑を避けるため、私達は期日前投票を済ませた。またこの日は、団地自治会(ニュータウン中山区)の定期総会が行われる日であった。総会は、区の集会所の大会議室で行われる。例年私はこの総会に出席していたが、今年はコロナウイルスが怖いので、欠席届(委任状)を出して、出席しなかった。自治会の役員から、総会開催の文書が回覧で回っていたが、その内容には、コロナウイルスに対する対策、例えばマスクを着用しなさい、高熱の人や風邪気味の人は欠席するように、などの注意事項は何も書いていなかった。都市部から離れているこの町の住民は、コロナに対して警戒感が全くないようであり、その感じがチラシに現れていた。
 総会が行われる大会議室には、イスを並べて80人ぐらいが出席できる。この中山区には、140世帯が住んでおり、全員が出席すると会場には座れなく、立って参加することになるが、例年7、80人ぐらいが出席する。寒い時期だから、石油ストーブをつけるが、換気はしない。このような状況での集会は、政府がPRしているクラスター(集団感染)発生の条件に合致している。行政は、このような状況での集まりは避けるように、と宣伝している。コロナに対する危機感は、この自治会役員にはないようである。この集会で感染者が一人でもいたら、集団感染は間違いないであろう。私は出席しなかったので、実際の会場でのコロナ対策は行われていたかもしれない。都会から離れた住民は、コロナの恐ろしさをまだ実感していないのだろうか。後日、役員会から総会の報告書が回覧で回ってきた。それによると、当日の出席者は63名で、委任状を出して欠席した人は59名であることが記されていた。欠席者が異常に多かったのは、コロナ感染を恐れている人が多くいたことを物語っている。
 コロナウイルスで死者が12000人も出たイタリアは、何故多くの人が死亡したか、という疑問がマスコミで議論されている。テレビでは、死者の棺桶が多く並んでいる映像が映されたり、霊柩車の列が道路に渋滞している映像が映し出されていた。イタリアでは、おそらく火葬に従事する人手も少ないであろうし、外出が禁止されているので、家族は火葬に立ち会うこともできないであろう。イタリアの人は家族を愛し、隣人と仲良くする習慣がある。私は、毎週土曜日に放映される「小さな村の物語イタリア」を欠かさず見ている。取り上げた村に住む人々は、家族や友人を大切にしており、彼等は心豊かに暮らしている。取材している村は、イタリア全国各地の村であるが、ここ数カ月は北イタリアの山間の村が多い。そこの映像では、アルプスの山々を背景に、山の中腹の狭い土地に100軒ぐらいの集落が軒を寄せ合って住んでおり、そこの村民の生活が映しだされている。イタリアからのニュースでは、コロナの感染者は特に北イタリアに多いと報道されている。現在私が番組のテレビで見ているイタリア北部の村では、コロナ騒ぎ前の村の映像であるから、村人はのどかな生活を送っている姿しか映されていない。
 テレビに出てくる主人公は現役を引退し、村で余生を静かに送っている高齢者である。テレビでは、主人公のパートナーや子供達が夕食を共にするシーンが多い。離れた土地に住む子供や孫が夕食に招かれて、主人公が喜ぶ姿が映し出され、歓迎のキスやハグを嬉しそうに行っているシーンが必ずある。これを見て現在の私は、コロナ感染の事を心配する。肩を寄せ合って食事をし、世間話を賑やかにしている姿は和やかである。この人たちは現在コロナ感染に対してどのような対応をしているのであろうか。日本のテレビ局が、このようなテーマでイタリアにロケに行くことは、現在は不可能であろうが、色々な禁止条例が解除された後に、コロナ騒ぎの後の「小さな村の物語」を見てみたい。コロナに感染した人が村に現れ、村には医療施設がないため、集団感染により村は壊滅状態になったかもしれないし、あるいは村は地理的に隔離されているので、コロナウイルスの被害はなく、いつものように平和に暮らしているかもしれない。私は後者の映像を見たい。
 ひと頃、マスコミで頻りに使われたカタカナ用語は、最近分かりにくいという批判があり、最近ではあまり使われなくなった。私がそれらを今使ってみると・・・・世界各地で猛威を振るうコロナウイルス(コロナ濾過性病原体)による感染クラスター(小集団)は、オーバーシュート(爆発的拡大)し、WHOでも、これはパンデミック(世界的大流行)とみなせると発言した。東京都知事も、東京のロックダウン(都市封鎖)もありうるかもしれないと発言。・・・・ということになる。
 4月8日の数字では、世界のコロナウイルス感染者は143万人をこえ、死者は8万人になった。日本では、感染者は5600人をこえ、死者は114人になった。この数字はまだ増えそうである。
       2020.4.10
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コロナウイルス2
  5月8日の全世界のコロナウイルスによる感染者は、385万人、死亡者は27万人である。日本国内では、感染者は15700人、死亡者は606人である。この数字はまだ増えそうである。福島県は感染者は81人で、死者はまだいない。私が住む矢祭町や周辺の町村では、まだ感染者はいない。政府は全国的に緊急事態宣言を出しているので、今までのんびりしていた福島県や矢祭町ではにわかに緊張感が高まっている。福島県は、県の指導で、人が集まる施設は全て閉鎖することになった。矢祭町や周辺の町村の温泉施設、プール、ジム、体育館などは5月末まで使えない。私が通っている棚倉町のルネッサンス棚倉の全ての設備は閉鎖され、そこの屋内テニスコートも閉鎖した。テニススクールは6月末まで閉鎖した。週4日、テニスをしていた私は、自宅に引きこもることになった。私は、自宅と隣接する町有地に、20年前から色々な植木を植えおり、それらが大きくなったので、枝切などをして一日の時間を過ごすことになった。
 隣町の塙町には立派な体育館があり、塙スポーツクラブというNPO法人が設置され、そこでは卓球、バトミントンなどのクラブがあり、それぞれ活動している。テニスはクラブがないので、クラブに入ってテニスをすることはできないが、個人で申し込んで、この体育館でテニスをすることはできる。4月20日に、この体育館で、テニス仲間3人で初めてテニスを楽しんだ。一人100円を支払って2時間プレーをした。この体育館も、その翌日から5月末まで休館することになった。
 私は、「えがすきクラブ」のメンバーであり、月3回の集まりで絵を描いている。メンバーは7人で、団地の集会所の会議室で午後の半日活動しているが、3月末から5月の半ばまで活動を中止した。絵は毎日自宅で30分ぐらい描いているので、クラブの活動を中止しても退屈することはない。しかし、今までのテニスや集会所で定期的に行ってきた絵の活動を中止すると、やはり体のストレスがたまり、気分はあまり優れない。
 今から約100年前、スペイン風邪が全世界で大流行した。その内容が4月24日付けの朝日新聞に出ていた。スペイン風邪は1918年から1921年の間に全世界に広がり、当時の世界人口、約20億人のうち、約5億人が感染し、死者は約4千万人と言われている。日本では当時の人口、5500万人のうち、約2400万人が感染し、死者は約40万人と言われている。スペイン風邪は、3年の長い間に3回の感染のピークがあり、そのピークの繰り返しで、感染が広がった。現在のコロナ感染は、始まったばかりであり、これから長期にわたる脅威が続くのであろうか。100年前はテレビ、インターネットはなく、マスコミはラジオと新聞であったので、庶民はスペイン風邪の恐ろしさに対する警戒感はなかったと思われる。そのため、このような死者40万人がでたのであろう。それでも当時の政府が呼び掛けた対策は、ポスターなどで行われ、それには今でいう「3蜜」の禁止がPRされていた。室内の換気(密閉対策)、電車には乗らないで、歩け(密接対策)、芝居などに行かない(密集対策)などが求められていた。「医療崩壊」もあり、病院に患者が殺到し、ベッド不足、看護師の不足が報じられていた。今のコロナ感染騒動と全く同じである。
 100年前と言えば、私の両親はまだ結婚しておらず、それぞれ二十歳前後の学生であった。彼らは、スペイン風邪の洗礼を受けて、ウイルスの抗体を体に得ていたのであろうか。今の日本人の半数は、スペイン風邪の洗礼を受けてきた親達の子孫である。私達がウイルス抗体を引き継いでいれば、ウイルスの違いはあるかもしれないが、今のコロナウイルスに対する抵抗力もあるかもしれない。そのため、意外にコロナによる死者は少なく収まるかもしれない。
 自治体は外出の自粛をマスコミを通じて訴えているが、都会などのアパート、マンションに住む人たちは、狭い所に閉じ込められてストレスがたまり、体力が低下するであろう。テレビの映像で、多くの人が公園の中をジョギングしている姿を映して、これは密集ではないかと、マスコミは非難しているようである。狭い部屋に閉じ込められていると、その住民は運動をしたくなるであろう。むしろ外に出て散歩とかジョギングで体力をつけるのが、コロナ対策には良いのではないか。外に出ないでいると体力は低下し、コロナウイルスに弱くなるであろう。アメリカ、ニューヨーク州は、無作為に選んだ3000人の13.9%にコロナウイルス抗体が確認された、と発表した。現在の検査では、26万人がコロナウイルスに感染しているが、潜在的には270万人がすでに感染していることになるという。
 日本ではまだこのような調査は行っていないが、似たような数字が出るかもしれない。コロナウイルスによる感染は、いくら注意しても感染は避けられないのが現状であろうか。感染が避けられないなら、ウイルスに負けない体力をつける必要がある。安倍首相は、散歩やジョギングは自粛の対象ではないと言っているが、むしろ国民は大いにジョギングなどをして、体力をつけるように、と言うべきであろう。ジョギングなどは公園でやらなくても、一般道は車や通行人が少ないので、そこでしっかりやればよい。東京の皇居周辺は、有名なジョギングコースであり、以前多くの人が走っているのがテレビに映されていたが、最近は全く放映されない。コロナ騒ぎの今、ここには走っている人がいるのかどうか、見てみたい。
 コロナウイルスは、新型コロナウイルスと書くべきで、さらに「2019年新型コロナウイルス」(COVID-19)が正しい呼び名であろう。コロナウイルスの名称は以前からあり、最近ではSARSコロナウイルス、MERSコロナウイルスの名称が使われていた。コロナは、皆既日食で現れる太陽の外側の微光(コロナ)である。テレビでコロナウイルスのニュースが出るとき、白黒のコロナウイルスの顕微鏡写真が出ることがある。このウイルスの写真は球形をしており、球からコロナのような炎が多く出ているように見える。これを見て、コロナウイルスと名付けたのであろう。時折カラーの写真が出ることがあるが、これは、いかにも不気味な感じの写真であり、恐ろしさを訴えるには効果がある。
       2020.5.10
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自宅隣の敷地
  今年4月、私の自宅の隣の土地が売りに出された。私は、22年前(1998年)、横浜からこの矢祭町の分譲地を見に来て、今私が住んでいる土地の購入を契約した。その時、私が購入しようと思っていた区画を見にきていた東京品川区に住む伊藤さんがおり、彼も付近を見て回っていた。私が住んでいる場所は、すぐ東側に高い木が多くある森があり、朝は日陰になる。その西側の今売りに出している土地は、森から離れているので、朝日はよく当たる。この隣の区画は付近では最も良い場所であるが、私は森の近くがよいと思い、今の土地を契約した。同じ日に、品川の伊藤さんは隣の区画を購入していたことが後から分かった。私は2年後、横浜に支社があるエスバイエルと契約して、自宅を建てた。隣の敷地を購入した品川の伊藤さんは、4,5回敷地の雑草を刈にやってきた。当時の彼は、私と同じくらいの60歳代の人で、自宅を建てるのを楽しみにしていたようであった。
 その後、伊藤さんは土地を手放して、自宅建設を諦めたようである。今、彼の齢は80歳前後であろう。病気か、死去かで目的を果たせなかったのであろう。彼が持っていた土地の面積は、166坪(548㎡)で、宅地としては最も広い区画である。当時の販売価格は1050万円であり、私の購入した区画は、158坪(522㎡)で、売価は990万円であった。現在不動産屋が売りに出しているこの土地の値段は500万円であるのを、業者のホームページで見て、私は驚いた。22年前の半分の値段になっていたのである。半値になった隣の区画は、特に環境の悪い土地ではない。むしろ最高の条件の土地であろう。これは私が20年間住んでいて保証してもよい。この区画の北側は道路で、南側は町有地であり、そこには沢が流れている。その200m先は地元の集落がある。従って建物を建てて住んでいても、他人の目から覗かれることはない。この土地に興味があれば、不動産屋のホームページを見て欲しい。会社名はセイワ不動産で、ネットで検索すると、同名の会社のホームページが出てくるが、これは関西の会社で、当地の会社は棚倉町にある会社である。
 10年前の東日本大震災の時は、当地でも震度5強の強い揺れがあった。私の敷地と隣の土地の境界には、約28mの長いフェンスを20年前から建設していた。このフェンスは、3段のブロックの上に75cmの高さのフェンスを取り付けたものである。地盤が軟弱で、これぐらいの長さのフェンスであれば、震度5強の地震で、少なくともひびが入るが、全く無事であった。この区画一帯は、山を削って造成しており、比較的硬い岩盤の上に区画が造られているので、地震には強かったのであろう。町が造成したこのニュータウンは台地状になっており、ほぼ平坦である。山から削った土壌は、平たんにするために、盛り土を行っている。東日本大震災では、これら盛土の区画は地割れが生じ、建物にも被害を受けた区画もあった。
 売り出しの区画の166坪は、広すぎるので、半分の83坪にして、購入してもよさそうである。半分の83坪でも、このニュータウンでは広い方の区画であり、値段が半分の250万円であれば、購入しやすいであろう。これぐらいの値段であれば、私も購入できるが、これからの事を考えると無駄遣いはできない。若い人が友達同士で半分にして、土地を買うのもよいであろう。半分にすると、南北にやや長い長方形の土地になるが、北側の道路沿いに駐車場と建物を建てれば、南側には広い庭ができる。この付近の沢沿いの区画は、初夏には蛍を見ることができる。ニュータウンでは、2ヶ所で蛍が飛ぶのを見ることができるが、その一つが私が住む土地の付近である。昼間、5月の終わりごろから庭に蛍が飛んでくるのを見かけることがある。蛍は、小さい蜂と間違いやすいが、飛び方が蜂と違ってのんびりしているので、すぐ分かる。今年も、夜の蛍が飛び交う日が来るであろう。
 話は変わるが、我が家の庭の内外にある立木が大きくなったので伐採した。3年前、庭の南の敷地外にあった桜の木2本を伐採した。1本はピンクの花を咲かせる「みやび」という桜で、高さが5mぐらいになり、葉が生い茂り、このままでは私の力では処理できないので、地上から1mぐらいのところから切り落とした。今では残りの幹から多くの枝が出て、4月には多くの花が咲いた。もう一本の桜は、同じ敷地外にあるうすいピンクの花が咲く「吉野桜」である。私は、以前この木の枝に「みやび」の枝を接木して、毎年みやびの花を咲かせている。その接ぎ木の枝を残して、吉野桜の幹を切ってしまった。これも今年の4月に「みやび」のピンクの花を咲かせた。
 今年の2月には、東側の森の近くに植えていた「しだれ桜」が5m以上の高さになったので、高さ1mのところから幹を切り落とした。幹の跡には1本だけ枝が庭に向かって生えており、4月には庭に向かって桜の花が咲き、しだれ桜を鑑賞することができた。また、庭の敷地内には、20年前植えたシラカバが約6mの高さになり、これも1m残して切り落とした。切り落としたこのシラカバの幹や枝を30cm~1mの長さに切って、これをオブジェ風に庭のあちこちに立てた。シラカバの枝は白いので、庭はこの枝が目立ち、賑やかになった。枝の白さは何時まで保持できるのか楽しみである。
       2020.6.10
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東京コロナ
  最近では、新型コロナウイルスによる感染者の増加、都会に於ける飲食店の不振、旅行社、ホテルの経営不振などをまとめて「コロナ禍」という表現をマスコミで使うようになった。2020年8月9日の全国のコロナ感染者は約5万人、コロナによる死者は1050人であり、その増加傾向はまだ続いている。コロナ禍の「禍」はわざわいをあらわし、同じ「か」でも「渦」という字がある。これは渦巻の渦であり、水などが中心に向かって動くさまを示す。一方、「禍」は災いなどが中心から周りに向かって広がる状態を示す。今の全国のコロナ感染者の増加は、まさに東京のコロナ感染者が全国に向かって広がっている状態である。「コロナ禍」を用いたマスコミは、当を得た表現であり、私はこの表現を使った新聞を読んで感心している。
 政府は、2020年4月に非常事態宣言を全国に発令した。5月には、この宣言を特定地域を除いて解除したり、名称を緊急事態宣言に変えて、それを特定地域に出したりした。政府関係者は、コロナ禍で振り回わされており、現在もそれが続いている。非常事態宣言では、個人の外出自粛が主なもので、その効果により全国の感染者数は1日で50~70人に減少した。5月の解除後、2カ月後の7月には、再び感染者数が増加し、8月9日では、全国で1日で1444人の感染者を出した。東京でも300人から500人の感染者を出している。
 政府は、経済の立て直しのため、7月22日から 「Go To キャンペーン」を計画した。これは、主に 「Go To トラベル」のキャンペーンであり、多くの人に旅行に行ってもらって地域の活性化を図ろうというものである。しかし、全国各地でコロナの感染者が異常に増えている状況から、地方の知事たちはこのキャンペーンを延期してほしいと言う声が出だした。これを察知して政府は、東京発着のツアー旅行はキャンペーンから除外することを、急遽決めた。東京都知事も、東京からの他県への個人の外出は極力自粛するように都民にお願いをしていた。東京都民による外出自粛により、地方の感染増加が収まるであろうか。東京はコロナウイルスの巣である。コロナ禍は、この巣の中心から全国へ広まっていく現象であり、その懸念が現実のものになっているのは否定できない。
 感染者は、20代、30代が8割近くであったのが、次第に40代、50代に広がっていくようである。一頃、新宿、池袋の夜の街を出入りしている若者の感染者が多い、というニュースがマスコミで報道された。最近の4、50代の感染者増加は、夜の会食や接待によるものであろう。昼間街を歩く人をテレビで見ていると、50代以下の人達が圧倒的に多い。彼らは無症状のコロナ感染者であるかもしれない。東京では、人を見ればコロナ感染者だと警戒しなければならない。街を歩いている70歳以上の人には、コロナ感染者はいないであろう。コロナに感染した高齢者で、無症状で街を歩く人はいないはずである。もし高齢者がコロナに感染しておれば、彼等は重症で入院しているか、あるいはすでに死去しているかであろう。
 8月9日の全国のコロナ感染者は1500人/1日に近づいている。東京の感染者数は300~500人/1日で、ほとんど変わらないが、地方の感染者が増えているのが最近の傾向である。東京発着のツアーが禁止されているのに、何故地方に広がっているのか。それは、個人の旅行者が東京などから地方の観光地、あるいは親戚、友人を訪ねて行くケースが多くなったのが原因であろう。政府の「Go To キャンペーン」は、東京発着の旅行社によるツアーを禁止したが、これは間違いであろう。むしろ個人で行く旅行を禁止すべきである。旅行社のツアーは、私もよく参加したことがあったが、観光地へ行って土地の住民と接触することはまずない。土産物屋で店員と会話するぐらいである。東京発着のツアーを解禁すれば、旅行社、添乗員は、徹底してコロナ対策をするであろう。受け入れる観光地のホテルも十分な対策をするであろう。
 地方から20、30代の個人あるいはグループで東京に行く人は今まで多く、東京で友人や親戚に会って会食したり、あるいは友人宅に泊まったりしている。その旅行者が東京でコロナに感染し、自分の地方に帰り、気が付かない状態で職場などに行き、そこでクラスター(集団感染)が発生する。地方の行政は、何故感染者が出たかを調査し、マスコミに報道し、我々もその経路を知ることができる。過去、このような事例は多くあった。政府は個人の区域外への移動は禁止すべきであり、むしろ「Go To トラベル」の東京発着を奨励すべきである。個人旅行者による経済の活性化よりも、ツアーによる経済活性への影響は大きいであろう。
 私は年に2、3度東京に出かけることがあったが、今は恐ろしくて東京に行くことができない。私は京王電鉄の株を1000株持っており、この会社は株主優待制度で、毎年京王グループで使える1000円のポイント券と、京王電鉄全線で使える優待乗車券4枚を株主に配っている。例年私は東京に出た折、新宿の京王デパートでそのポイント券を使っていた。全線乗車券は、妻と高尾山へ行くとき使ったことがあったが、その年以外は品川の金券ショップでそれを1000円に交換していた。今年もこれらの券が郵送で送られてきたが、私は東京へ行くことができないので、もったいないが捨てることにした。
       2020.8.10
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花、春から夏へ
  今年の春は、好天気が続いたせいか、一本の木に咲く花の数が極めて多かった。早春の我が家の土色一色の庭に、花を咲かせるのは、黄色のクロッカスである。クロッカスは、地面から緑のとがった葉が出て、2,3日後に花が咲く。これをどこからか見ていたのか、ヒヨドリが来て、黄色の花びらを食いちぎる。木の陰の見えにくいクロッカス以外は、全部ヒヨドリの餌になってしまう。花びらを失ったクロッカスは、細長い葉が成長して、そのうち地上から消え去る。5月には、ヒヨドリは白い椿の花を食べに来る。花びらをくいちぎって蜜を食べるようである。椿は、高さ3mの大きな木で、花の数も多いので、ヒヨドリに食べられてもあまり困らない。我が家にはブルーベリーの木を4本植えている。9月頃から、実が紫色に熟れだす。それを狙ってヒヨドリが食べに来る。4本の中の1本のブルーベリーは大きく、実も多くつける。私は、毎年その実を採って、ブルーベリージャムをつくることにしている。私は、この実をヒヨドリに取られないように、木の上から大きな網をかけている。そのため、そのブルーベリーにはヒヨドリは寄り付かない。
 クロッカスが咲いた後は、スイセンがあちこちに芽を出して、黄色い花を咲かせる。この頃になると、色々な花が咲き始める。芝桜、ばら、ナデシコなどが咲き、庭は急に賑やかになる。我が家の敷地は北側が道路になっており、道路沿いに高さ1.2mのフェンスを造っている。フェンスの内側には目隠しとして、羽宇津木(はねうつぎ)を生垣として植えている。この高さが道路側からだと2mぐらいになるので、目隠しになる。この道路には、色々な人が朝夕散歩をして通る。散歩の人は、敷地内に誰がいるか見えない。そのため、私は挨拶などしなくてよいので、面倒でなくて助かる。春の終わりごろから、生垣の羽宇津木は、小さな薄いピンク色の花を咲かせる。この生垣には、モッコウバラやクレマチスを植えており、これらが生垣の間をぬってつるを伸ばし、春には花を咲かせる。モッコウバラは枝にとげがないので、整枝作業には楽である。このバラは、生垣の場所以外にも、1本植えている。また、とげのないバラには「春がすみ」というバラがあり、庭の2ヶ所に植えている。
 芝桜は、放っておくと色々な所に繁殖する。気が付くと、隣の空き地にも芝桜が成長し、これが敷地の雑草の中に花を咲かせる。芝桜は強く、その繁殖力に感心する。ナデシコは、15年前から植えており、毎年春になると、芽が出て花を咲かせる。これは、芝桜のようにいろんなところに広がらなく、15年前と同じ場所に咲く。桜は、敷地近くの町有地に6本植えて花を楽しんでいたが、植えてから20年近くになり、大きくなったので、切ることにした。「みやび」というピンクの花を咲かせる桜は、2年前根元から2m残して切ってしまった。薄いピンクの花を咲かせる「よしの」は、「みやび」の枝を接木した枝を残して、根元から1mのところで、幹を切り落とした。枝垂桜(しだれざくら)は、しだれた1本の枝が我が家の庭に入り込み、かっこいいので、その枝を残して、大きな幹を切ってしまった。その他の2本は業者に頼んで処分するつもりである。
 桜が終わると、レンギョウと雪柳が花を咲かせる。レンギョウは挿し木で簡単に増やすことができるので、大小7本のレンギョウが庭の外に植えてある。レンギョウは、根元から枝を四方へ何本も伸ばしていくので、花が咲くと、黄色の大きな花の塊ができる。これは遠くからも目立つので、散歩する人にも楽しむことができるであろう。レンギョウの近くに雪柳を植えており、レンギョウの花の咲く時期と同じ時期に、雪柳は白い花を咲かせる。雪柳も根元から枝が四方へ何本も伸びて、花は大きな丸い形になる。花が咲くと、丸い白色の塊ができ、見ていて楽しい。黄色と白色の塊の花が終わると、本格的な春の花の季節になる。庭には1本の牡丹の木があり、冬は枯れ枝であるが、暖かくなると枝から新芽がでて、みるみる葉が茂り、牡丹の蕾が現れ、花を咲かせる。牡丹が咲くと庭は華やかになる。牡丹が葉を茂らせる頃、芍薬が土から芽を出して、どんどん伸びて、葉をつけ、蕾を付け、芍薬の花を咲かせる。
 ゆりは、2種類植えており、5月には花を咲かせる。ゆりの一つは、「カサブランカ」という品種で、これは、20年前、家を新築した時、施工業者であるエス・バイ・エル水戸支店の担当者から家の完成のお祝いに、貰ったものである。最初の1本が6本ぐらいに増え、3本はほかの場所に移した。もう一つの品種はヤマユリで、敷地の近くに自生していたのをカサブランカの近くに移した。カサブランカの花は純白であるが、ヤマユリは白の花びらに黄色の斑点が入る。葉もヤマユリは長細い形であるが、カサブランカは幅があり、葉で見分けがつく。
 我が家にはツツジ、サツキが12本ぐらい、庭のうち、そとに植えてある。サツキは、以前住んでいた横浜の庭から持ってきたものであり、ツツジは、敷地の近くにあったものを移植した。自宅がある団地は、ニュータウンというが、別名「つつじヶ丘」ともいう。団地を造成する前は、名前の通り、ツツジが多く自生していたところである。その名残であろう、今でも所々に野生のツツジが季節になると花を咲かせる。我が家にはツツジとサツキが混在して植えてあり、それらの区別がつかない。サツキは、皐月(五月)の字のごとく、ツツジより遅く、5月頃咲くのだろう。私はそのような知識しか持っていなかった。ツツジとサツキの違いをネットで調べると、枯れた枝から花が咲き、咲き終わってから新芽が出るのがツツジであり、その逆がサツキであることを知った。私は、花が咲く順序が全く違うのを、この歳になって初めて知った。その他、葉にもはっきりした違いがあるようである。
 そのほかの花たちは次回に述べる。
       2020.9.10
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花、春から夏へ
  毎年4月、庭に植えている宿根草のニッコウキスゲが葉を出し、黄色い花を咲かせる。以前、福島県桧枝岐村の御池から尾瀬沼に行った時、この苗が御池近くの尾瀬沼ミニ公園の売店で売られており、それを1株購入したものである。毎年花が2,3個咲くが、今年は何故か10個以上咲いた。その中の2個の花が実を付け、実から種が10個ぐらい採れた。これを庭にまいて、来春芽を出させてみようと思っている。1年草のベゴニア、ペチュニア、ゼラニュームなどは、妻が近くのホームセンターでポットとして買ってくる。それを私が大きな鉢に植え替える。中には、苗は、植え替えて2,3日で枯れてしまうものがあり、土が悪かったのか、肥料のやり過ぎだったのか、原因が判らない。毎年必ず植えているのが、サフィニアである。これだけは、私が買ってくる。このサフィニアは、春から夏にかけて多くの茎が出て、花を咲かせる。ベゴニアなどの1ポットの値段は、200円以下であるが、このサフィニアは、300円以上であり、高い。これは、サントリーが開発した花の苗のようで、そのため高くても売れているのであろう。このサフィニアは、今年は途中で長雨に会い、早々に枯れてしまった。
 雨とか暑さなどに強いのがベゴニアであろう。ポットから植え替えても、失敗はなく、すくすく大きく成長する。このベゴニアを植えた鉢を、バラを植えた鉢の隣に置いていた。1カ月ぐらいしてベゴニアがバラの鉢に生えだした。ベゴニアから出た種がバラの鉢に落ちて、芽を出したのであろう。そのうち、鉢全体にベゴニアが広がり、バラの鉢を乗っ取った形になった。バラはそのままにしてあるが、来春になると新芽が出るであろうか。庭にはフロックスという多年草を10年前から植えてある。春になると、古い枯れた茎の横から多数の新芽を出し、すごい勢いで伸びて、1m近くに成長する。5月にはこれらの茎の先端に蕾ができ、ピンク色の花を咲かせる。蕾は円錐状に成長し、桜の花びらの形をした小さな花がびっしりと咲く。フロックスの木全体も、円錐状になっており、その木の上に華やかな花の塊を咲かせるので、賑やかである。この花は3週間ぐらいで散り、しばらくすると同じところから花の蕾ができ、2回目の花を咲かせる。2回目は1回目より勢力は落ちるが、立派に咲く。そして3回目の花も咲かせる。3回目はさすがに木も疲れたのであろう、1回目の2割ぐらいの花しか咲かない。フロックスは、咲き始めて10月の始めごろまで花が続き、息の長い花である。
 秋になるとパンジーを植える。パンジーは寒さに強く、雪が花に積もっても、太陽が当たり、雪が解けると元気な花を再び見せる。我が家の庭には多年草が色々植えてある。一度植えておくと、毎年広がって、これらが増えていくので楽である。むしろ増えていくのが困るぐらいである。ユキノシタという草をグランドカバーとして、15年前から植えているが、年々つるを伸ばして広がってくる。毎年伸びた部分を切っている。これは寒さに強く、冬でも枯れずにいる。春ごろから新しい葉が出て、それが白やピンク色になり、花が咲いたようになる。その他グランドカバーとして、ジュウニヒトエ(アジュガ)と竜のひげを植えてある。ジュウニヒトエは地下茎で増えていき、春には青紫色の花を咲かせる。寒さにも強く、紫色の葉も庭の彩になる。竜のひげは、造園屋さんから貰ったもので、地下茎として増えていく。花は咲かないが、秋には小さな丸い実をつける。それをヒヨドリが見つけて食べに来ることがある。
 庭にはムクゲを3本植えてある。1本は白色の花を咲かせ、ほかの2本はピンクの花を咲かせる。これらも15年以上も経っているので、大きくなり、毎年木の上の枝を切って、適当な高さになるようにしている。ムクゲは病気もせず元気である。敷地の外にも2本植えていたが、大きくなりすぎて、造園屋に切ってもらった。造園屋には、序に車庫の前の桜とオオデマリ、崖の上の桜も切ってもらった。さらに庭に植えてあるコブシとマロニエが大きく葉を茂らせているので、その剪定も頼んだ。これらの作業するのに3人がやってきて、1時間で終わらせた。この費用は3万円であった。
 今まで植えたことがなかった朝顔の苗を、春先に植えた。まだ寒い2月頃、花の苗の宣伝のチラシが入って、その中に青色の朝顔の花が密集して咲いている写真を見つけ、注文した。苗が入荷したのは4ヶ月後の6月であった。荷物には苗が2個入っており、一つは庭の真ん中付近に、もう一つは道路横の生垣の中に植えた。8月に入って、この青色の朝顔の花が咲き始めた。苗は2m近くに成長し、花は1本の木に30個ほど咲いた。9月の終わりになっても、花は衰えず、毎日30個以上咲き続けている。2本の苗は、送料込みで1700円であったが、その値段以上の価値があるように見えた。朝顔と言えば夏の花と思われるが、俳句の季語では秋になっている。この青色の朝顔は、「ヘブンリーブルー」という名前が付けられている。普通の朝顔は朝咲いて、日中にはしぼんでしまうが、このヘブンリーブルーは夕方まで萎まずに咲いている。この調子だと、11月頃まで咲くのかもしれない。
 春になると草花と同時に、雑草も元気よく生えてくる。私の庭仕事のほとんどは、この雑草の草むしりである。雑草の多くはスギナとドクダミである。この2種類は地下20cmぐらいの所に根を持ち、そこから芽を出して広がるので、根元から抜いても別の所から芽を出して大きくなる。ドクダミは抜く時、嫌な臭いがするので気分が悪い。大きくなると、白い花を咲かせるが、匂いに似合わず、かわいい。スギナは、庭のいたるところから出てきて、引き抜くのに忙しい。春の初めにはツクシとして地上に出てくるが、それがかわいらしく抜く気にはならないが、大きくなってスギナになると、憎らしく、せっせと抜かなければならない。春から夏への草花は多くあり、私達を楽しませてくれるが、庭の雑草も多く成長し、この除去に忙しい。
       2020.10.10
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小学生の頃
  最近はコロナ禍で、外出は全くない。例年だと、2カ月に1回ぐらい温泉とか観光地あるいは東京などへ出かけていたが、コロナが怖くて出ていく気がしない。今の私の外出は、車で25km先の棚倉町、あるいは15km先の大子町へ出かけるくらいである。従ってこの雑記の話題もなくなってしまった。今回は、私の小学生の頃を思い出して、書くことにした。およそ70年前の私達の家族は、岡山県都窪郡帯江村帯高にある、広い旧庄屋宅に間借りして住んでいた。ここの今の住所は、倉敷市帯高に変わっている。この庄屋には、片山家が代々住んでおり、当時は、女主人の片山康子氏が、その母親と康子氏の息子と住んでいた。どのような関わりで、私達の家族がこの家に仮住まいしていたのか、私には判らなかった。その広い庄屋の母屋には、和田さん夫婦が間借りしていた。和田さんの奥さんはエミさんといい、小柄な人であった。ご夫婦には子供はいなかった。そのため、小学生の私と弟はエミさんから色々可愛がってもらった。
 その当時、私の父は倉敷市の県立青陵高等学校で英語の教師をしており、住まいの家から約7km離れた学校へ歩いて通勤していたようであった。その後、自転車で通勤していたか、あるいはバスを利用していたかであろう。長姉も、父と同じ青陵高校に通学していた。彼女も徒歩で通っていたであろう。次姉は、中学生で、住まいの庄屋から約3km離れた茶屋町の中学校に徒歩で通っていた。私も小学2年生の頃から約4年間、中学校の隣にある茶屋町小学校に徒歩で通った。戦後、家族一家は台湾から引き揚げて、最初、母方の親戚の多い福岡県久留米市に一時滞在した。その後、父の教師の就職先が倉敷市に見つかり、久留米市から岡山県都窪郡の片山家に引っ越してきた。引揚者であるから、所帯道具はなにもない、貧しい一家であった。
 私は、学校に通うのに、着るものも満足でないし、履くものもない。3kmの道を裸足で通っていた。当時どこの家庭も貧乏であったので、裸足で通うのは珍しくはなかったであろう。道は舗装でなく、土を固めたものである。冬の道は、はさすがに冷たいので、下駄を履いて通った。下駄のはなおは、粗末なもので、手作りであり、よく切れた。その時は自分で直していた。当時の履物には草履がよく使われていた。それは店で買うのでなく、自分達
で作っていた。私も見様見真似で草履を作っていた。材料の稲わらは隣の農家(蜂谷さん?)の田んぼに放置してあるものを貰い、手でもんで稲縄をない、それを軸に稲わらを編んでいく。出来上がると、さすがにうれしかったことを覚えている。
 私達一家が間借りしてた片山家は、広い敷地に大きな藁ぶきの母屋があり、白壁の蔵が2軒、門付きの長屋、母屋続きの部屋そして離れ座敷があった。その他、広い庭園と菜園があり、菜園には大きなビワの木があった。敷地は塀に囲まれ、北側には水路があり、その水路を引き込んだ母屋続きの舟着き場まであった。昔は小作人が収穫したコメの運搬を舟(平底の舟)で行ったようで、この庄屋宅にも舟で行き来したのであろう。舟着き場には埃まみれの舟が置かれていた。私達一家は、敷地の中の3か所を住まいとして借りていた。母屋続きの6畳くらいの部屋は、父母が寝泊まりし、一家の食事もここで行った。長兄を除く子供4人は、門付きの長屋にある8畳位の部屋に寝泊まりしていた。門を入って右側にあった大きな蔵には3畳くらいの部屋があり、そこには、夏に長兄が東京から帰ってきた時、彼が寝泊まりしていた。この大きな蔵にはトイレがあり、私達はそれを利用していた。雨の日は、傘をさして用を足しに行かなければならなかった。
 門付きの長屋から母屋まで10mぐらいあり、幅50cmくらいの石の通路があり、その他は何もなく、土で固められていた。私達兄弟はここでよく遊んでいた。雨の日などは、母屋の軒下から門付の長屋の軒下までボール投げをして遊んだ。ボールは、石を中心にして周りをぼろきれで巻き付け、外側は厚みのある布で縫って作っていた。グローブは布で作っていた。ボール遊びは、屋敷から300mくらい離れた荒神社の境内でもよくやっていた。近所には小学生の男の子は少なく、一人だけ神社の前に住んでいた三宅カズ君がいた。彼とは、ボール投げ以外にも、色々一緒に遊んでいた。彼は、母の一人っ子で、母親はミシン掛けで生計を立てていたようである。
 片山家の主人である片山康子氏は、茶道(裏千家)、謡曲、仕舞の先生で、多くの弟子を取って、教授していた。私の母もこれらを習っていた。母は4、5年後、茶道の資格を取ったようである。康子氏には一人息子の片山新助氏がおり、彼は、当時岡山市の山陽新聞社の記者をやっていた。今、彼は既に他界している。ご夫婦には娘さんがおり、現在、彼女は片山家でプロジェクトにかかわっている。そのプロジェクトは、倉敷市が「つくぼ片山家プロジェクト」の名称でプロジェクトを立ち上げて、彼女はその代表者になっている。その代表者は、滝口美保(旧姓片山美保、68歳)と言い、康子氏から3代目の片山家の主人である。このプロジェクトのHPには、彼女の写真があったが、康子氏に顔の感じによく似ていた。そのHPには、父親の新助氏の写真も出ていたが、私が記憶にある若々しい顔とは当然ながら違っていた。片山家の建物は、約200年前に建てられた古民家で、近年になって、母屋の中を改装したようである。母屋の中に、立派な能舞台が造られ、色々なイベントを行っているようである。
 私は、10年前の2010年3月に、この片山家を見に行った。中には入らなかったが、外から見た様子では、私達が住んでいた当時とはかなり変わっていた。屋敷隣の菜園の周りには、昔、からたちの生垣があったが、それはなくなっていた。菜園も畑はなく、平坦な土地にしてあった。70年前は屋敷内には大きな木はなかったが、今では相当大きな木が数本立っていた。当時私達が寝泊まりしていた門付きの長屋も改築したようで、門の右側に増築した部屋ができていた。グーグルマップの航空写真で片山家を見てみると、以前、門を入って右側にあった白壁の蔵はなくなっていた。敷地横に引き込んだ水路も埋められていた。門の外の右側にあった生垣は昔の通りで、その横の細い道(あぜ道)は昔のままで懐かしかった。10年前のこの屋敷の中には、新助氏の奥さんが住んでいたのであろうか。当時、新助氏は倉敷の病院で療養中だと聞いていた。その後、新助氏の奥さんもなくなり、数年前からこの屋敷には誰も住んでいない空き家になっていた。その後、この庄屋跡を「つくぼ片山家」と名付けて、上に述べたプロジェクトを発足させたのであろう。
 私が茶屋町小学校を卒業した年の春、私達一家は片山家から伯備線沿線の西総社駅(現在は総社駅)近くの貸家に引っ越した。この借家は、駅から歩いて3分ぐらいの所にあり、便利がよかった。ここは、田んぼの中の庄屋とは違って、隣近所には家があり、ちょっとした町であった。私は、ここから歩いて15分ぐらいの所にある総社西中学校に転校した。
       2020.11.10
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中、高校生の頃
  前月号に続いて今回は、私の中学生、高校生の頃についての思い出を記述する。私は、岡山県総社西中学校へ1年生で転入した。私達一家は、「つくぼ片山家」から伯備線沿線の総社駅近くの、溝口という町にある借家へ引っ越した。引っ越した理由は、父が総社西中学校の校長に赴任したからである。父は、それまで倉敷市の青陵高校の英語の教師をしていた。父は、広島高等師範を卒業し、英語の教師を各地の高校で教えていた。岡山県は、父の故郷であり、親戚、知人が多く、また岡山県は広島高師の勢力範囲であったので、父は、この学校の校長の就職口が得られたのであろう。借家は、駅から歩いて3分ぐらいの所にあり、また中学校へは歩いて15分ぐらいの所にある。借家の持ち主は、旧家の中村氏で、この借家から200m離れた街道筋にある、大きな住宅に住んでいた。借家は2軒続きの平屋で、隣の家には大智氏が住んでいた。主人は高梁市か新見市の勤務先に伯備線で通っていた。大智氏には息子が一人いて、その彼とは隣同士なので、よく話をしていた。彼はその後、防衛大学に進学したと聞いている。
 この2軒続きの借家が今どうなっているか、グーグルの航空写真で調べてみた。借家2軒は健在であった。70年前は、借家の南側は田んぼで、伯備線や常盤小学校が見渡された。よく遊びに行った鹿島神社もよく見えた。現在は、借家の周囲は家が建てられており、田んぼは消えていた。ここは、駅からすぐ近くの土地であるから、住宅地には好適なのであろう。大家の中村氏の家を、この航空写真で調べてみると、それらしい古い瓦屋根の家があった。大家宅は、間口は狭いが、奥行きのある敷地に建てられた、長い建物であった。当時、正月前にはこの敷地で餅つきを行うのが習慣で、金谷家も一緒に餅をついていた。中村家には3人の子供がおり、2番目の長男は直人氏と言い、私と同学年であった。私とは大家、店子の関係で、あまり親密には付き合わなかった。彼は、その後京大法学部に現役で入学し、住友商事に勤めていたと聞いている。弟も京大に現役で合格しており、中村家は優秀な一家であった。
 借家の航空写真をよく見ると、玄関の前の幅40cmぐらいの敷石が斜めに見え、隣の家の前に繋がっているのが見えた。金谷家の人達は、外出するとき、この敷石を歩き、大智氏宅の前を通って通りへ出る。この通路を見て私は懐かしく思った。借家の間取りは、1坪の玄関に続いて2畳の部屋があり、その隣に8畳の床の間付の和室がある。その北側に6畳の和室があり、その横に3畳の畳部屋があり、これは玄関続きの2畳の部屋に続いている。3畳の部屋には半坪の土間があり、引き戸で外に出られる。台所は、6畳の和室から土間に降りて、別棟の粗末な建物にある。そこには五右衛門ぶろがあり、薪を焚いて沸かす。台所には井戸があり、つるべで水を汲み、炊事、洗濯などに使っていた。建物は吹きさらしであるから、冬は寒い。トイレは、6畳の和室を出た所にあるが、汲み取り式のトイレであった。炊事などで使った水は簡単な溝へ流す。この溝は、借家の隣にある大家の物置小屋の下を通り、流しから約5mの所に土地を深く掘った水たまりにつながっていた。
 この井戸の水位は浅く、雨が降ると水位が上がってくる。これを見ると、排水した汚染水が地下を通って井戸に流れ込む可能性があると思われた。また、この借家は、昭和初期に建てられたと思われる古い建物であり、トイレの排泄物をためる陶器のつぼは、ひびが生じ、そこから汚物が地下にしみ込んで、井戸水に入る可能性もある。当時のある日、このような衛生状態の悪い井戸水により、一家が腹痛あるいは下痢を起こし、私を除いて家族全員が寝込んでしまった。これが新聞の地方版に、「校長一家、倒れる」のような記事が出て、話題になった。何故私だけが腹痛、下痢を起こさなかったのか、不思議であった。その後、これがきっかけで、町は下水路を整備したようである。井戸もパイプを深く打ち込んで、ポンプでくみ上げる方式に改良した。台所がある建物も改良し、床を上げ、部屋から続くキッチンにした。それまでは、料理、皿洗い、洗面などは地べたにかがんでやっていたが、やっと文化的な生活ができるようになった。
 私が通った総社西中学校の校長は、私の父であった。学校では私を「校長の息子」と呼び、一目置かれていた。そのため、私に対していわゆる「いじめ」はなかった。教師達も、私に気を使っていたよな感じで、私は子供なりにそれを感じていた。正月には教師達が我が家に集まり、新年会が開かれていた。集まったの6、7名で、どのような基準で彼等が選ばれたのか分からないが、酒好きな先生が基準だったのか。料理は不便な台所で、母が作っていた。その日は、子供たちは別の部屋で彼らの話声を聞きながら息をひそめていた。その会話の中で、ある先生が私をほめていた。これは、多分、酒に酔った上でのお世辞であろう。中学3年の終わりには高校の入学試験がある。高校は、歩いて通える県立総社高等学校である。今では、高校への受験勉強が大変なようであるが、その当時は特に受験のための勉強はしていなかった。高校は誰でも入れるという感じであった。県立総社高等学校は普通科と家政科があり、大学へ進学を目指すのは普通科に入る。当時、高校の入試の成績によりクラス分けをしていた。
 この高校は、1学年が家政科を含めて9クラスあり、ABCの名称でクラス分けしていた。最後のH組、I組は大学進学のクラスで、私はI組に入っていた。I組は、大家の中村氏と同じクラスで、そのクラスには東大、京大など一流大学に合格した人が多かった。高校は、自宅から3~4kmぐらいの所にあり、私は歩いて通っていた。1時間近く歩いていたであろうか、そのため足腰は丈夫になった。中村氏など近所の高校生は、自転車で通っていた。中村氏は、私の両親に自転車を買って、金谷君に自転車通学させたらどうか、徒歩は疲れて勉強に差し障るであろう、と大家の息子らしい忠告をしてくれたことを覚えている。我が家には自転車を買うゆとりはなかったのである。通学の道路は、車の通らない細い道であったので、のんびり歩くことができた。その道路では、同じ方向に家がある斎藤君とか水野君と一緒に歩きながら色々話をしたことを覚えている。
 我が家では、家計を助けるため、母は、近所の女性に自宅でお茶や、謡曲の先生をして、収入を得ていた。父も英語の家庭教師を自宅でしていた。中学生の頃、私は中村君と一緒に英語を父から教えてもらった。次姉も大学の専攻が英語であったので、近所の子の家庭教師をしていた。父は、その後瀬戸内近くの児島市の教育長になって、自宅から2時間ぐらい、列車、バスを乗り継いで通っていた。その後、父は、岡山市にある関西高等学校に英語の教師として働き、ここでサラリーマン生活を終えた。
 私が中学、高校生の頃、私は「ラジオ少年」であった。我が家にはラジオがなかったので、私が作ってやろうと思いつき、「初歩のラジオ」という雑誌を見ながら、鉱石ラジオ、ゲルマニュウムラジオを組み立てた。さらに、真空管ラジオに進み、5球スーパーラジオを組み立てた。5球スーパーラジオでは、自作の箱にスピーカーを取り付け、家族にラジオ放送を聞かせていた。ラジオを組み立てる部品は、この地方では売っていなかったので、わざわざ岡山市まで時々買いに出かけていた。このようにして私は無線への知識が増え、大学生では無線機を組み立てるようになり、アマチュア無線の資格を取り、さらに無線局(コールサインはJA5NM)を開局したことがあった。通信の経験は1度だけで、止めてしまった。会社に入ってからは、テレビのキットを買って、独身寮の部屋でテレビを楽しんでいた。今では、真空管やトランジスターを売っている店はほとんどなく、代わりに色々な集積回路(IC)基板が売られている。例えばラジオを作るには、電源回路のIC基板、検波回路の基板、スピーカーを鳴らす出力回路の基板を買ってきて、これらを接続するだけで出来上がる。これらのIC基板は、私達のようなアマチュアにとってはブラックボックスになっている。私は、大学で化学を専攻したが、中学生のころから知識を得ていた電気の知識の方が、今になっても生活に役に立っている。
       2020.12.10
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春うらら、コロナ
   毎年、年初めの1月号には、「春うらら・・・」というタイトルで記述しているが、この春うららという意味は何であったか。この年は、麗らかに、のどかに過ごそうという期待をこめて、私は書いたつもりであった。ちなみに2020年の1月号には、「春うらら2020」というタイトルで、2019年11月に旭化成の吉野氏がノーベル化学賞を受賞した話題を書いた。大変おめでたい話題で、春らしい話題であった。今年は残念ながら、めでたい話は記憶にない。私達は、毎年一度か二度ぐらい、近くの温泉場に行くのだが、昨年は何処にも行けなかった。私は、毎年1月には、東京でミニ同窓会を開いて、同窓生3人が集まっていた。2020年初めは、まだコロナ騒ぎはなかったので、このミニ同窓会を開くことができた。今年は中止しようではないか、と他の2人への年賀状に書いた。今年の話題は、やはり新型コロナ感染であろう。暗い話ではあるが、仕方がない。
 昨年暮れからコロナ感染者数は、日本でも世界でも急激に増加している。日本の感染者数は、24万人を超え、世界では8600万人に近づいている。福島県の感染者数は1000人である。(これらは2021年1月5日の数字である)2021年1月1日のコロナ感染者数を、人口1万人当たりで調べると、全国では19人、東京都では44人、福島県では5人である。福島県内の主な都市の1万人当たりの感染者数では、福島市は13人、郡山市は7人、いわき市は2人である。
 イギリスでは、コロナウイルスの変異種ができて、これの感染能力が今までの1.7倍あり、警戒を強めている。日本でもイギリスから帰国した7名以上に、全員コロナの陽性が確認され、これがコロナの変異種であることが確認された。コロナに対する政府の対応が遅すぎると言う苦情が専門家、国民から出ているが、それに対して政府は、基本的な感染対策を国民に期待する、という生ぬるい対策しか出されていない。時間が経つにつれて、感染者数は爆発的に増え、医療機関の対応が不可能になる事が、明らかに予想される。
 福島県でも感染者数は急激に増えて、クラスター発生の事業所も増えている。福島県では当初、人口数が32万人の郡山市にコロナ感染者が出ており、その感染の経路がニュースで報道された。それによると、20代の女性が東京の友人宅を訪問し、そこに泊まって帰ってきた。その後コロナの感染が判明したという。今では感染者数が多いので、このような詳しい経路は、プライバシーもあるので報道されないが、東京からコロナを持ち込むケースは、相変わらず多いであろう。現在、郡山市のコロナ感染者数は、人口の割には少なく、1日1~2名である。一方、人口28万人の福島市は、毎日10名以上の感染者が出ている。この違いは、当初からの郡山市の感染対策にあるであろう。郡山市は、感染者が出た場合、濃厚接触者だけでなく、職場全員とか家族全員など周囲のあらゆる人のPCR検査を行ってきた。一方福島市は、濃厚接触者だけを対象に検査を行ってきた。この違いが数字に現れているのであろうと、郡山市の担当者はテレビで述べていた。
 東京都のコロナ感染者数は、1日3000人を超えた(1月7日)。昨年12月に初めて800人を超えた時、感染者の年齢別の感染者数を発表した。それによると、20代が200人、その他30~70代がそれぞれ約100人で、20歳代が極めて多いのが示されていた。その後も総数900人になっても20代の数はとびぬけて多い。20歳代の男女別の数字も示されていたが、それによると、女性がやや多いという数字であった。何処でコロナに感染したか、という数字も出ていた。以前は、飲食店、職場などが多かったが、最近では家庭内での感染が多くなった。家族と一緒に住む若者が外出から帰ってきて、家族と一緒に過ごす。その後、その若者がコロナに感染していた、と分かった時、もうすでに家族全員に感染している。そこに高齢の家族がいた場合、その高齢者は重症化し、死に至る。コロナによる死者が高齢者に多いのは、このケースであろう。高齢者は、コロナに罹ると重症化を予測するので、外出はしないであろう。高齢者のコロナ感染は、このような若者を経由することによるものが多いと思われる。
 政府は以前GO-TOトラベルで中高齢者は参加を控えるように国民に求めたが、これは間違いであったであろう。むしろ若者は参加しないように求めるのが正しかった。中高齢者は最初から旅に出ることは考えていなかったのである。2020年の年末年始は、家で静かに過ごしてほしい、という政府や自治体のコメントがあったが、このような優しい呼びかけでは、何時まで経ってもコロナ感染者は減らない。外出は禁止、特に若者は外出して街をうろつくな、といった厳しい表現でなければならない。外出者には罰金を課するぐらいの態度でなければ、変異種を含めたコロナウイルスは何時までも広がっていくであろう。
       2021.1.10
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墓造り
 
私は以前から終活を少しずつ行っている。遺言もその一つで、以前書いた遺言には、死後の私の処置について書いた。葬儀は、自宅葬の家族だけで行い、僧侶によるお経などは不要であり、葬場では遺骨を少しだけ小さい箱に入れ、それを自宅前の沢にばら撒いてくれと書いた。その後妻の希望もあり、世間並みのお墓に納骨することに変更した。この団地には、町が造成した「中山霊園」という小規模な墓地が団地のすぐ近くにある。私は十数年前、その墓地の1区画を契約した。永代使用料、1区画25万円を支払い、管理料は年2500円、5年分を前納する事で、墓地を手に入れた。
 昨年、その墓地に墓を建てることにした。私は、現地の墓石屋を利用することを考えたが、墓石に関して知識が全くないので、墓石屋の言いなりになることが心配であった。そこで、全国的に事業を展開しているメーカーを利用しようと思った。私は、ネットで調べて、(株)金宝堂という会社に頼むことにした。その会社の営業部に電話で依頼すると、すぐ分厚いお墓のカタログを送ってきた。その中には、色々なプランが総工費の金額とともに記されてあった。お墓の形は、最もポピュラーな縦に長い墓石と、横長の墓石があり、縦長は地震などで倒れる恐れがある。横長のお墓は、洋風と呼ばれ、倒れる心配はない。私は、洋風の比較的安い60万円の「マーキュリー」というプランを契約した。契約時、半額の30万円をネットで振込んだ。すぐ担当者が、現場を見たいと言うので、本社がある千葉県野田市からやってきた。基礎工事を数日後行い、その後2カ月後に墓を設置するという。
 墓石には色々な文字を刻み込む事ができ、その費用はプランの中に含まれる。漢字のサイズ、書体、位置など細かな指示が求められ、それに応じた。墓の正面に入れる文字は、通常「・・・家」というのが多いが、「心」とか「愛」などもある。私は単に「金谷」という文字にした。その石の横には、建立者の名前と年月日を入れ、石の裏側には墓に入る予定の名前を刻んでもらう。生存者は赤色で塗り、死去して墓に入った場合は、黒字にするのが習わしのようだ。12月に墓石の組み立てを行ったが、私は立ち会わなかった。後日、工事が完成したという報告の書類が郵送され、その中に工事中の各工程を撮った写真が6枚入っており、参考になった。その後残金30万円の振込依頼があり、口座振り込みで支払いを済ませた。これで墓は完成し、後は私の遺骨が入るばかりである。
 火葬場で骨にされた私は、骨の一部が壺に入れられ、「金谷」の墓に入る。残りの骨の大部分は何処へ行くのか。ネットで調べた。多くの人がこの疑問を持っているようで、色々な情報が寄せられていた。日本の死者が年間100万人と言われ、その人の焼骨はどこかで処分される。骨は一般廃棄物として業者がほぼ0円で引き取り処分するようである。業者は、恐らく骨を粉砕して何かに使うのであろう。何に使うかは明言していない。これは人の尊厳に係わるので、例えば家畜の飼料に混ぜるとか、肥料に混ぜるとかは、明言しないのであろう。家畜の飼料に混ぜれば、家畜の肉が食料として人に入るので、人のリサイクルになる。このようなことはあまり深く考えたくない。

       2021.2.10
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休みます
 
 1年間以上コロナのため、巣ごもりが続き、話題も少なく、今月は記述を休みます。

       2021.3.10
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春の庭2021

   3月に入って最も早く花が咲くのは、黄色のクロッカスである。この花は思わぬ所から黄色の花が出てくるので、朝庭に出てこの花を見つけるのが楽しみである。天気の良い日は、太陽の光りを浴びて花びらが開き、午後になると萎んでくる。この黄色いクロッカスの花びらは、ヒヨドリが好きなようで、知らないうちに花びらを食べに来る。ヒヨドリがこないように、私はネコの形をした黒いスチレンフォームをクロッカスの上にぶら下げて、風で動くような仕掛けをした。しばらくはヒヨドリは食べに来なかったが、この黒ネコは自分を襲ってこないことが分かり、ヒヨドリは平気でクロッカスを食べに来るようになった。我が家のクロッカスは、黄色のほか、青紫色、白色のクロッカスが時期をづらして、花が咲く。ヒヨドリは、黄色以外のこれらの花は食べに来ない。黄色が好みのようである。
 クロッカスが終わる頃、黄色のスイセンが咲き始める。このスイセンは背が低く、いっぱいに花をつけるので、冬の寂しかった庭に賑やかさを演出してくれる。背の高いスイセンも方々にあるが、この花は黄色から1ヶ月位遅れて咲く。黄色のスイセンが花盛りの頃、ムスカリの花が顔を出す。ムスカリは以前は少なかったが、最近は増えて、方々に紫の花が出てくるようになった。花木では、3月始め、マンサクが黄色の花を咲かせる。3月中旬にはコブシが花を咲かせる。その頃、レンギョウが黄色の花を咲かせ始める。レンギョウは、挿し木で簡単に増やせるので、庭の周囲には8本のレンギョウを植えており、それぞれが大きくなっているので、賑やかである。レンギョウの花が盛りの頃、雪柳が白い花を咲かせる。この頃になると、白モクレンが蕾を膨らせ始める。紫モクレンも、敷地の隣の奥の方に1本あり、4月に入って花を咲かせる。
 我が家の庭には以前、沈丁花を植えていた。これは、横浜の自宅の庭にあったものを20年前持ってきたものである。沈丁花は、挿し木で簡単に増やせるので、その苗木の一つを同じ団地に住む知人にあげた。我が家の沈丁花は、そのうち枯れてしまった。沈丁花は、西日を嫌うことが後から分かり、新たにホームセンターで沈丁花の苗を買い、建物の東側の西日が当たらない所に植えた。植えてから4、5年経っているが、元気に育っている。花の季節には、妻が花の付いた枝を切って花瓶に入れ、部屋に飾っている。ほのかな沈丁花の香りが漂い、部屋は春の雰囲気になる。
 昨年の春、ニッコウキスゲが多くの花を付け、その一つに実が付いてたので、秋にその種を庭にまいた。今年そこから芽が出るか、楽しみにしている。庭には10年近く、ナデシコが春の終わりに花を咲かせていたが、今年はナデシコの芽が出てこない。自然に消滅したのであろうか。草花にも寿命があるのだろう。毎年見られる花が、今年見られなくなるのは、寂しいものである。庭には色々な宿根草を植えており、そのうちのフロックスとアメリカフヨウは、大型の草である。これらは、草と言うより、木といった方がふさわしい。この2本は、毎年元気に芽を出し、約1mの高さに成長する。これらは、春の終わりから初夏にかけて花を咲かせる。フロックスは、ピンクの小さな花の塊が円錐状になって、花を咲かせる。アメリカフヨウは、白とピンクと赤色の花を咲かせる3本を、庭に植えている。これらが咲くと庭は一段と華やかになる。コロナ禍で、何処にも遠出できない住人に取っては、花は貴重な癒しになる。
       2021.4.10
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原発処理水
 
   福島第一原発から発生するトリチュウムを含んだ処理水の貯蔵タンクが、来年で満杯になり、その対策で、色々な話題がマスコミで取り上げられている。原発の汚染水、処理水は、2系列で発生し、処理されている。その一つは、原子炉圧力容器内の原子燃料棒を冷却するために使用している冷却水で、これは浄化後、循環して再使用している。もう一つは、原子炉圧力容器を収納している原子炉建屋に入り込んでいる地下水が、爆発事故で原子炉容器から一部落下した燃料デブリに接触して、放射能に汚染され、これを汚染水として取り出している。この汚染水は、放射能物質を除去した後、処理水として多数の貯蔵タンクに保管している。処理水は1日約150トン発生し、タンクに入れている。このタンクが敷地一杯になり、この対策が急がれている。この処理水には、除去できないトリチュウムが含まれている。
 10年前、原発の爆発が何故起きたか。10年前の東日本大震災で地震が発生し、それによる10m以上の大津波が押し寄せ、原発に海水がかぶさった。地震による原子炉などの建造物には、被害はなかったが、海水による漏電、停電で、冷却水がストップした。非常時用のタービンで動かす発電機もストップした。これにより、核燃料の核分裂を制御している冷却機能が不能になり、核分裂は暴走し、原子炉内は超高温になった。爆発は、水素ガス爆発である、と関係者は発表している。原子炉内の水が水素と酸素に分解し、炉内にたまった水素ガスが酸素ガスにより燃焼、爆発したのであろう。爆発により原子炉はその圧力に耐えきれず、破壊して爆風が外部に出たものと思われる。当時の政府の首相は、菅直人(かんなおと)で、事故処理の指揮をしていた。10年後の首相は、菅 義偉(すがよしひで)である。おなじ菅という苗字を持つ首相が、原発事故の処理と後処理に係わっているのは、何かの縁であろうか。
 話を元に戻して、この処理水をどう処理するか色々な対策があるが、菅首相は、海洋に放出することに決めた。トリチュウムは、基準以下であるから安全であり、問題はない、と政府は言っている。もともとトリチュウムは大気中、天然水中に含まれており、人の体の中にも存在している。濃度が基準以下であれば問題はないと言われている。しかし世間では、トリチュウムは放射線物質であり、処理水は、汚染水から浄化した水であるから怖い、と言う気持ちがあるのであろう。そのため、処理水の海洋放出には、福島県の漁業組合は大反対をしている。
 海洋放出を何処の海に放出するか、大きな問題であるが、福島県民は誰も言わない。福島県民、県の漁業組合は、原発のある場所の沖合に放出するのが当然であると思っているようだ。例えば、処理水を東京湾に放出してくれ、とは福島の人は誰も発言しない。東京電力が福島で発電した原発の電気は、首都圏に送られ、東京都民がその電気を長年使っていたのである。都民には、その恩恵があるはずである。その恩恵に報いるため、処理水を東京湾に捨ててやろう、という意見は東京にはないのだろうか。もし東京湾に捨てる意見が出れば、都民は大反対するであろう。処理水を福島県から東京湾に運搬するにしても、沿道の住民も猛反対するであろう。処理水の放出は福島県沖と決めてかかっている福島県外の人達は、トリチュウム水には自分たちは係わらないので、無関心でいると思われる。
 福島の人は、処理水を他の地域の海に放出してほしいとは公言しない。これは福島の県民性であろう。福島県沖に放出することに反対するような、おおそれた意見を言う人はいない。江戸の昔から、福島は水戸藩と伊達藩の間にあって、ひっそり暮らしていた。その名残が今にも引き継がれている。福島の男性は、ものを言うのに、口を開かず早口で言う。何を言っているか、1回聴いても判らないので、2度3度聞き直すことがよくある。自分の意見を大きな声で堂々と発言する習慣は、昔からない。お上(政府)から押し付けられたら、二つ返事でそれに従うのが県民である。福島県の漁業組合は魚の風評被害を恐れている。福島県知事も風評被害に対する対策と補償を政府に強く要求している。県外の人は、福島でとれた魚だというだけで、見向きもしない。これが実態であろう。
 処理水を何処に排出するかは、はっきりしていないし、排出方法も決めていない。排出方法は、機械的に排出するのが良いであろう。排出用の大きなタンクを沿岸に設置し、そこから径30cmぐらいのパイプを海底に沈め、沖合遠くまで設置する。パイプには排水ポンプを接続し、タンクに貯めた処理水を24時間運転して、処理水を海底に排出する。このような方法を私は提案したい。福島県沖には親潮(寒流)が北から流れ、房総半島沖、伊豆半島沖へ流れていく。排出した処理水のトリチュウムは、海流で希釈され、関東沖に広がる。関東沖で捕れる魚は風評被害にあうだろうか。そのような風評は起こらないであろう。
 福島原発から出る処理水は、長く出続けるであろう。この処理水を完全に抑える方法はないのか。現在、地下水が原子炉建屋に入り込むのを少しでも抑えるために、建屋の周囲に凍土壁を造り、侵入を抑えている。この方法は、或る程度効果をあげているようだが、完全ではない。この地下水を完全にシャットアウトするには、巨大なコンクリート造りの壁を原子炉建屋の周りに、土中深く造る必要がある。また、一時的な対策になるが、トリチュウムを完全に除去する化学的な技術を開発する必要もある。

       2021.5.10
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ワクチン接種
  
  私達夫婦は、新型コロナワクチンの接種を2回とも終えた。1回目の接種は、5月2日(日)で、2回目は、3週間後の5月23日(日)であった。これは65歳以上では、全国的にも早い接種であろう。当矢祭町の人口は5500人で、そのうち65歳以上は2000人ぐらいだろうか。予約は、町から封書が来て、その中に予約の方法が記されていた。電話、ネット、はがきの3方法が選択できる。私達は、はがきを選んだ。集団接種の会場は矢祭町健康福祉センターである。ここは、廃校になった小学校を矢祭町が買い取った所で、元体育館が接種の会場である。はがきを町へ送り返した後、予約日と、来場時間の10時15分~10時30分が記された、はがきがきた。
 私達は指定された日時に会場へ行くと、10人ぐらいが受付の所に並んでいた。後から分かったが、並んでいる人達は、次の10時30分からの予約者であった。老人は、早め早めに行く習性があるのだ。その人達の後に並んでいると、10時15分からの予約者の呼び出しがあり、私達はすぐ受付を済ませることができた。受付では、番号札を貰い、別室の部屋のイスに座って待っていた。15分の間に来た予約者は、30人ぐらいだろう。その後、私たちは体育館へ移動して、予め記入しておいた問診票を看護師がチェックし、接種の順番待ちのイスに座わり、すぐ接種の会場に入った。会場では、イスが縦に5席並べてあり、それが6列横に置かれていた。1本のワクチンビンを5人で終わらせるために、イスを5人分置いてあったのだ。接種は前から順に打ちはじめ、打ち手の看護師と助手がキャスター付の道具箱を転がして、我々が座っている所まで来てくれる。前の人が接種を終わったら、腕を出して接種を待つ。接種後はそのまま座って、異常がでるか調べるため、15分その場で待つ。
 その間に体に異常があった場合、係員が、近くに立っている医者に連絡する。医者は、「医者」の大きな文字のゼッケンを胸に付けて、後ろに立っている。係の人は、イスに座っている接種後の人達を見回り、異常があると、医者に連れて行く仕組みになっている。15分後何にもなければ、接種者は5名ほどいる医者の前に行く。医者は、体の具合を尋ね、接種が終わったという証明を書類に記入する。医者は、その後のワクチンの副反応の具合を、はがきに書いて役場に送るように指示する。これで接種が終わる。接種を受ける人は、ほとんどイスに座ったまま用事が終わり、色々な処理は、看護師などが接種者の所へ動いて行って、済ませる。これは、高齢者にとって有り難いシステムである。
 私達の接種後の体調であるが、1回目の注射を打った腕の痛みは、3日で収まり、接種当日の発熱などはなかった。翌日は倦怠感が少しあり、体を動かすのがおっくうであった。2回目の接種後は、腕の痛みは1回目と同じくらいであったが、発熱が少しあり、体の脱力感は1回目より多く感じられた。妻は、2回目の接種で、筋肉痛が各所に出て、やる気を失っていた。食後に筋肉痛を和らげる風邪薬(パブロン)を1錠飲み、寝る前にも1錠飲んで、翌日にはすっかりよくなっていた。私達は、この程度の副反応でワクチン接種を無事終わることができた。これでコロナの感染が防げるだろうか。防げることを願っているところである。

       2021.6.10
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2021年初夏の庭
  初夏の庭の仕事は、雑草取りに終始する。雑草は、ドクダミとスギナがほとんどである。この2種は、繁殖力が旺盛で、きれいに草ぬきをしても、2週間後には再び生えて成長している。この2種とも、地下茎で繁殖しているようだ。ドクダミは、この草を抜くと、いやな臭いを出す。以前、テレビが、この2種を和ハーブとして紹介していた。これらの草を乾燥して、お湯でお茶の葉と同じように、煎じて飲むシーンがあった。香りがあって美味しいと、ゲストの出演者は言っていたが、私には意外であった。特にドクダミの生の臭みは、庭でしょっちゅう嗅いでいるので、私には悪臭に属する。スギナは、大昔には食料としても使われていたようである。
 庭のほぼ中央に、ヤマボウシという木を植えている。毎年5月の中ごろから6月中旬まで、白い花を咲かせる。花は、半円状に繁った葉の上に咲き、それが木に白い帽子をかぶせたように見えるので、ヤマボウシという名前が付けられたのであろう。6月の終わり頃、白い花びらはくたびれて、薄茶色あるいはピンク色になり、落花する。このヤマボウシは、秋には赤い実をつけ、葉は紅葉する。庭の中央付近には、牡丹と芍薬を並べて植えてある。牡丹は3月頃ピンクの花が咲き、牡丹の花が終わった頃、隣の芍薬の白い花が咲く。色は違うが、花の大きさは同じくらいである。これらの木の性質は全く異なる。牡丹は、冬に4、5本の枝を地上に残して年を越す。春には、それらの枝から葉が出て、枝の先端に花を咲かせる。一方、芍薬は、冬には枝(茎)も枯れて、地上から全て消えてしまう。春になると、土の中から芽が出て、みるみる大きくなり、葉を多く付け、先端に花の蕾を付けて、花を咲かせる。芍薬は宿根草であるが、牡丹は木であり、落葉の木である。
 我が家の庭には3本のムクゲが植えてある。初夏には、新しい枝が多く伸びて、それを切るのに忙しい。夏には白色、ピンクの花を咲かせる。ムクゲは、尨毛という語感からあまり可愛くない言葉であるが、漢字では「槿」あるいは「木槿」と書く。漢字にすみれの漢字「菫」が入っているので、なんだか救われる。自宅の近所には、ムクゲを垣根代わりにフェンス沿いに20本ぐらい植えている家がある。ムクゲの高さは150cmぐらいで、1本の木を細長く仕立ている。ムクゲは、成長が早いから手入れに大変であろう。ムクゲは、韓国の国の花である。ムクゲに囲まれたこの家の主人は、現役時代韓国との関わりがあったのであろうか。
 我が家の庭には、10年前から宿根草のナデシコを植えて、毎年花を咲かせていた。今年は、春になっても新芽が出てこない。寿命がきたのかもしれない。植えている場所がコブシの木の下で、周りには芝桜や芝草がはびこって、良い環境でなかった。この環境が、寿命を短くしたのかもしれない。今年は、新しく苗を買って、同じ場所に雑草からナデシコを守るため、大きな鉢を置き、そこに植えた。ナデシコは、6月の終わりまでも元気に花を咲かせていた。
 私は、毎朝朝食後、サンルームでコーヒーを飲みながら庭を眺めている。サンルームは、6畳の板張りの部屋で、3方が広い大きなガラス窓で囲まれている。庭には50種類程度の草木を植えており、四季折々に花を咲かせる。私はボケ防止のため、これらの草木の名前を毎朝思い出している。これはヤマボウシ、これはムクゲなど、草木を見て名前を言っているが、中にはどうしても名前が出てこないものがある。フロックスは難しい名前であるが、カエルのフロッグを思い出して、そこからフロックスという名前が出てくる。シャクナゲとシュウメイギクは、思い出すのに相当な時間がかかった。思い出せないときは、アイウエオ順にカタカナを頭の中で唱えて、名前のきっかけになる言葉を探す。庭の隅に植えてある地味な存在のヤマブキは、普段その存在を忘れているぐらいだから、名前を思い出すのに苦労した。しかし、何かのきっかけで、名前を思い出すと、ほっとして安心する。あまりなじみのないトキワマンサクとかテイカカズラは、それらの名前を紙に書いて部屋の壁に貼っている。しかし、これらの木は、近くの場所に植えているので、どの木がトキワマンサクで、どの木がテイカカズラか判らなくなることがある。そのようなときは、妻に聞いて確認することにしている。ボケ防止には様々な努力が必要である。

       2021.7.10
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2021年盛夏の庭
  夏の花と言えば、ヒマワリと朝顔であろう。我が家の庭には7月の終わりの時点では、両者とも花は咲いていない。庭には、ヒマワリに似た草木が6月の終わりころから、土中から芽を出し、ものすごい勢いで成長している。7月末には、高さ3m近くに伸びているが、まだ花らしい蕾も出ていない。何しろ高さが私の背丈より遥かに高いので、茎の先端に蕾があるか調べることができない。この木が4、5本かたまって成長している。昨年ヒマワリを植えて、花を咲かせ、秋にはしおれた花を土に埋めて、堆肥にしていた。その中のヒマワリの種が、芽を出して成長したのであろうか。この不思議な木の1m近くには、毎年花を咲かせるアメリカフヨウがある。このフヨウの葉の形が、この不思議な木の葉によく似ているし、幹の途中から枝が多く出ているのも、よく似ている。これがアメリカフヨウであれば面白い。蕾が出で花が咲けば、はっきり分かるであろう。
 今年、ヒマワリは、妻が大輪のヒマワリの種をホームセンターで買ってきて、例年植えている場所に撒いた。苗の芽が出て、これを間隔をあけるように、移植した。7月の終わりには、30cmの高さに成長している。花が咲くのは8月の終わりころだろう。一方5月頃に、名前の知らない草が群れをなして土の中から出てきて、みるみる成長し、7月には高さ1mぐらいになった。その後、黄色の小さな花が咲き、花の形がヒマワリに似てきた。この花を見て、これはミニヒマワリだと判った。ミニヒマワリは、通称であって、正式の名前は判らない。このミニヒマワリは、茎が30本以上あり、その先に50個以上の花を付けているので、遠くから良く目立つ。
 夏咲く花のうち、目立って咲くのがノウゼンカズラである。我が家には15年ぐらい前からこの木を植えており、夏の盛りに橙色の花が多く咲く。これを見て、今年も熱い夏がきたな、と実感する。この花は、私が車で通る道の近くに建つ家の庭によく植えられているので、私は車の中からこの花を見ながら、夏を感じる。我が家ではノウゼンカズラと同じように目立つのが、フロックスの花である。この花は、よその家の庭ではほとんど見かけない。これは宿根草で、何も手入れをしないで、春になると30本ぐらいの草の茎が円形状に出てきて、1mぐらいの高さになる。草の高さはきれいな半円形状になり、茎の先にピンクの小さな花の塊が円錐状にできる。ピンク色の大きな花の集団が咲くので、見事である。アメリカフヨウなどは、茎がかたまって出てくるが、それぞれの茎の高さはまちまちである。一方このフロックスは、何故かきれいな半円形状を保って成長する。どのようなメカニズムで、フロックスは形をコントロールしているのか、私には判らない。
 夏の花と言えば、朝顔であろう。昨年はヘブンリーブルーという青色の朝顔の苗をネットで買って、植えた。これは、青色の大輪の花が夏の終わりまで咲き、朝から昼過ぎまで萎まずに咲いていた。昨年、この花に種が出来ていたので、それを取って、今年の春に撒いた。その中から1本だけ芽が出てきて、大きくなった。花の蕾も7月の終わりに付け、8月には青い朝顔が咲きだした。今年は、妻がコーポデリのカタログからヘブンリーブルーの種を注文して、1袋手に入れた。袋に添付してあった説明書に従い、6月に種をまき、12個が芽を出した。本葉が3枚になった時、植え替えを行え、という指示に従って、植え替えを行った。10本がつるを伸ばして順調に成長している。今年はこれらの朝顔が方々に咲き、賑やかになるであろう。

       2021.8.10
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東京オリンピック2020
  東京オリンッピクは、2020年8月に開催予定であったが、コロナ感染が増加して開催による感染拡大が懸念されるというので、その年は中止して、1年後の2021年8月に延期した。オリンピック史上、延期は初めてであるという。延期した2021年は、コロナの感染拡大が相変わらず続いている。政府は、緊急事態宣言を出して、拡大の抑え込みをはかったが、効果はなかった。この年も、オリンピックは中止した方がよいという意見も出されたが、一度決めたことは簡単には変えられないと言うので、2021年8月に決行した。観客を入れて行うか、無観客で行うか、色々な議論があったが、8月24日開催日の直前に無観客を決めた。オリンピックの名称は東京オリンピック2020とし、2021年の年号は入れなかった。
 私は、テレビで色々な競技を断片的に見て、楽しんだ。特にスケートボードの競技は新種目であり、目新しかったのでよく見た。スケートボードには、パークという種目と、ストリートという種目があるのを初めて知った。以前はハーフパイプという競技があって、半割の大きなパイプの内側の曲面を行ったり来たりして、時折回転したりする単純な競技であったように記憶している。今回行われたパークは、大きな皿や深いお椀をいくつも組み合わせたような複雑な窪地状のコースで行われる。一方ストリートは、街にあるような階段や手すり、縁石やベンチ、壁、坂道などを配した直線的なコースで行われる。
 このスケボーには、日本選手は男女とも大活躍した。ストリートでは男子の堀米が金メダル、女子では西矢が金メダル、中山が銅メダルをとった。特に西矢は13歳でまだ中学生であり、日本史上最年少の金メダリストとなった。女子のパークでは19歳の四十住が金メダル、12歳の開が銀メダルを取り、開(ひらき)は、メダリストとして西矢の最年少の記録をさらに更新した。女子パークの優勝候補であった15歳の岡本は、逆転をかけた最後の手すりの上からの着地に失敗し、涙を流して戻ってきた。それを見た外国の選手たちが、彼女を抱き上げ健闘を祝した。彼女は笑顔になり、周囲の感動を呼んだ。
 私は、若い女子の選手の名前をテレビで見て、近頃の名前は読めない名前が多いと、今更感じている。今回のオリンピックでメダルを取った人達の名前で、西谷 椛は、「もみじ」と読み、中山 楓奈は、「ふうな」と読む。開 心那は、「ここな」と読み、岡本 碧優は、「みすぐ」と読む。「ここな」ぐらいは、何とか読めるかもしれない。椛が、もみじとは知らなかった。私は、毎朝食事後トイレに行くことを習慣としている。便座の前には漢字の表を貼って、毎朝眺めている。この表は、私達が以前北海道の大雪山のツアーに参加したとき、土産店で木の付いた漢字120字を日本手ぬぐいに印刷したものを見つけ、買ったものである。この手ぬぐいの漢字をカメラで取り、A4の紙にプリントして、壁に貼っている。木へんの漢字は杉とか松など氏名の苗氏(字)には極めて多いが、名前になると少ない。特に女性の名前には木のつく漢字はめったにない。
 この漢字一覧表には椛と楓があり、これが上のメダリストの名前に使われていたのを見て、私は懐かしさを感じた。椛は、この一覧表には「かえで」というフリガナを付けていた。漢和辞典で椛の読みを調べたが、「かえで」という読みはなかったので、一覧表の間違いであろう。椛と楓(かえで)では、スポーツ選手の名前としては、楓の方が動きがあってよさそうだ。椛の「もみじ」は言いにくいし、スポーツ選手の名前には向かないような気がする。私は、この漢字一覧表を毎日見て、会社にいた頃の友人の氏名を思い出したり、学生の頃の同窓生の氏名とその顔を思い出したりして、昔を懐かしく思い出している。
 東京2020オリンピックでは、日本選手が大活躍した。それが金メダルの数に現れている。日本は金メダルを27個取った。アメリカは38個で、中国は37個である。日本は世界で3番目の金メダル獲得数である。IOCでは、国のメダル数を公表して順位を付けるのは、オリンピックの精神に反すると言うので、禁止しているそうである。しかし、庶民感情としては、日本が世界の何番目の金メダル獲得数になっているのか知りたい。NHKや新聞各社は、IOCの意向を無視して、順位を公表している。これは国民の欲求であろう。日本がこんなに活躍したのは、各選手の努力によるものであろうが、無観客で競技を行ったのが良かったのか、あるいは、地元開催によるものであろうか。無観客は各国の選手も影響を受けているので、日本の活躍は、地元開催が有利にはたらいたものであろう。

      2021.9.10
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東京パラリンピック2020
  東京パラリンピック2020は、2021年(令和3年)8月24日から9月5日までの13日間行われた。参加出場国は168国で、参加人数は約4400人であった。日本は、選手254人および競技パートナー25人などを含めて、総数463人であった。日本が獲得した金メダルは13個であった。金銀銅を合わせた総数では、国別ランクの11位であった。金メダルの国別ランクは、下の表(左)のように、1位は中国、次いで英国、米国であった。金銀銅の合計の数では、1位が中国、次いで英国、ロシア、米国の順で、日本は10位である。この国別順位は、オリンピックの精神に反すると言うので、新聞などには公表されなかったが、ネットでは報道されている。
 中国の活躍は大変なもので、それはメダル獲得数に現れている。中国はなぜ競技に強いのか? 障害者の選手層が厚いのか、行政の障害者への手厚い保護と理解が大きいのか。下表(右)には、各国の障害者(20~64歳)の人口の割合が示されている。ここには中国のデータがないが、政策上示していないのかもしれない。この表を見ると、ヨーロッパ各国の割合が大きいのが示されている。英国、オランダの割合が大い。これらの国は、同時にメダル数も多いのは、選手層の厚さであろう。米国もメダル数は多いが、障害者数はすくない。この表によると米国の障害者割合は、10.5%で、スウエーデンの半分、日本の約2倍である。
 障害者発生の原因は、先天的なものと、後天的なものがある。先天的なものは、昔のサリドマイド薬害のような妊婦の薬害によるものが思い出されるが、今はないであろう。後天的なものは、交通事故による身体の障害が、大きな割合を占めているであろう。国別の交通事故数の統計を調べてみると、米国、中国、日本が多い。これらの国は身体障碍者も多いであろうし、彼らのスポーツへの参加も多いであろう。それが、メダル獲得数に現れているのであろう。


 東京パラリンピックで獲得した各国のメダル数     各国の障害者人口の割合


 私はパラリンピックが行われている間、毎日のようにテレビで競技が行われている映像を見ていた。この時、私は障害者向けにつくられた競技がかなりあることを初めて知った。車いすによるバトミントンは、コートが通常の半分にしていることや、ブラインドサッカーはコート面積が小さくしてあることなど。ボッチャなど聞き慣れない競技もあった。ブラインドサッカーはボールの中に音が出る物を入れて、その音を頼りにボールを蹴る。今回のパラリンピックは、無観客であったので、ボールの音の行方がよく分かったであろう。これが観客がいると、騒音でボールの音が聴き取りにくいであろう。
 冬季パラリンピックでは、スノーボードの競技があるが、夏季ではスケートボードの競技はない。東京オリンピックでは、スケートボード競技で日本選手が大活躍した。パラリンピックでも、この競技はあってもよさそうである。コースをなだらかにしてやれば、手や足に不自由な障害者も競技が出来そうである。私がパラリンピックの競技で最も感動したのは、両手のない日本選手が、50m背泳ぎで銀メダルをとった映像である。この選手は、山田美幸選手で、14歳の中学3年生である。生まれた時から両腕がなく、両足にも障害があるという。普段は電動イスを使っていると言う。彼女は、最初水に入るとき、相当な勇気を必要としたであろう。彼女は、コーチなどの指導で立派に成長し、世界の舞台で戦って、銀メダルを取ったのは、素晴らしいことである。人と魚を比較するのは失礼かもしれないが、魚は胴体だけで泳ぐことができる。魚は、体をうねらせて前進させるのであろう。人もそのような動きをすれば、泳ぐことができる。山田選手はそれを我々に示してくれた。

      2021.10.10
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秋の庭2021
  今年の秋は、庭の10箇所に植えたヘブンリブルーという朝顔が、9月の終わりから10月の終わりまで花を咲かせ、私達はその花の青い色を楽しんだ。朝顔といえば夏の花と思われるが、俳句では朝顔は秋の季語である。何故朝顔は夏のイメージが強いのか。これは恐らく、子供達は、小学生の夏休みの宿題に朝顔の種を貰い、それを鉢に植えて、芽が出て葉が出て花が咲くまでを日記に書いて、新学期に学校に持って行く、という習慣が半世紀前にあったのであろう。今はそのような宿題はないであろう。このヘブンリブルーは、昨年妻が鉢植えの苗を買ってきて庭に移し替え、きれいな青色の花が、長い間咲いた。これには種が実り、それを土に埋めたところ、今年の春に一つだけ芽が出て大きくなった。今年は袋に入ったヘブンリブルーの種を買い、ポットに撒いた。12本の芽が出て、これを10箇所に植えた。10箇所のヘブンリブルーは、咲き始めがまちまちで、最後に咲き始めたのは、10月の終わりであった。朝の冷え込みが5℃以下になると、さすがに花を咲かせることが出来なく、全てのヘブンリブルーの花は半開きの花しか付けなくなった。
 以前この項で、ヒマワリに似た不思議な草が土中から出てきたことを書いた。その後、9月になって、この草は4m近くの高さになり、先端に黄色の小さな花を咲かせた。花の形がヒマワリに似ていたので、私達は「ヒマワリモドキ」と名付けた。10月には花も終わったので切り倒した。上部は剪定ばさみで軸を切ることができたが、根元近くは太さが4cmぐらいになっていたので、ハサミでは切れない。電動のこぎりで切った。土から根を引き抜くと、サトイモとかショウガに似た実が付いていた。この草を、ネットのウイキペディアで調べると、「草丈が1.5~3mと大きくなり、菊に似た黄色い花を9~10月につけ、10月末に地中に塊茎を作る」と書かれており、これは「キクイモ」であると書かれていた。我が家の不思議な草は、キクイモであることが判った。何故今年、この草が突然現れたのか不思議でならない。この根に着いたキクイモを土に埋めて、来年芽が出てくるか、ためしてみたい。キクイモは食べられるようである。
 今年は柿が豊作であった。庭には2本の柿が植えてある。これは、15年ぐらい前に植えたもので、毎年実を実らせているが、今年は特に多くの実を付けた。自分たちでは食べきれないので、絵の仲間に持って行き、食べてもらったが、まだ多く収穫できる。2本の柿は甘がきである。今年は干し柿を作ろうと思い、皮をむいて、毎年使っている干し芋用の網目の布で囲まれたケースに並べて、これを軒先に吊るした。カビ防止はどうするか。干し芋の場合はバーナーで殺菌していたが、柿は防腐剤を吹き付けようと考えた。市販の防腐剤は食べ物には危険であろうと思い、ドラッグストアでアルコール度50%のジンを買ってきて、皮を剥いた柿にスプレー噴霧した。これがどの程度カビ止めに効果があるか、先にならないと分からない。
 我が家の庭には、ばらを3種類植えてある。これらは、「春がすみ」というとげのない品種と、これもとげがない「モッコウバラ」と、名前を忘れた「とげ付きのバラ」である。モッコウバラは虫や菌に強く、育てやすい品種である。春には黄色の小さな花が多く咲き、私達を楽しませてくれる。秋には新芽が方々から伸びてきて、剪定に忙しい。今年10月26日は、秋篠宮家の長女、眞子さまと、小室氏が婚姻届けを出した日である。眞子さまは、26日皇籍を離れるので、「眞子さん」となる。皇族の女性はそれぞれお印があり、眞子さんのお印は「モッコウバラ」である。この花は可憐さはないが、暖かさがある。私は、つい最近この花の油彩画を描いた。3Fサイズの小さなキャンバスに、賑やかにモッコウバラを描いた。これは、眞子さんの記念品として取っておきたい。
   2021.11.10
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紅葉
  秋の主役、紅葉について。紅葉は、モミジと読むことがあるが、カエデとは読まない。カエデは楓という漢字があり、モミジは椛という漢字がある。モミジの葉とカエデの葉に、その特徴の違いがあるのであろうか。はっきりした違いはないようである。私は、この二つの葉の違いは、その葉の形にあると思っている。これらの葉は、カエルの手足のように、葉先が5本あるいは7本に分かれている。モミジは、この葉の形がスマートであり、カエデは、葉の形が少しふくらんでいる。私は、そのように区別して、見ている。
 我が家の庭の先には、4本のモミジが並んで生えている。南側のフェンスの先は町有地の沢が流れており、その南には隣家の畑と、東側に隣家の森がある。これらのモミジは、沢の南に生えている。20年前は、これらのモミジは1mから2m程度の小さな木であったが、私はモミジの周辺の雑草を根気よく刈り取って、大切に育てた。今では高さ5mから7mぐらいに成長し、これらのモミジは北側に張り出し、我が家の庭の近くに迫っている。秋にはこれらのモミジは紅葉し、豪華な色彩を楽しませてくれる。これら4本のモミジは、紅葉の色が4本とも違っており、これも興味がある。これらの紅葉の色は、真っ赤な赤、黒みがかった赤、橙色が入った赤、黄色が入った橙色の4種類である。
 北側の道を隔てた隣家には、大きなモミジの木がある。秋には黒みを帯びた赤色の紅葉が見られる。この木の子供と思われる小さなモミジが、我が家の庭に生えるのを見つけることがある。モミジには種があり、それが飛ぶのか、ネットで調べた。それには、モミジにも春、花が咲き、実を実らせ、その実には羽があり、遠くまで飛んで行く、という記事が載っていた。折角我が家に飛んで来たのだから、このモミジの子供を前の森に移植した。今では1mぐらいに成長している。
 当地、矢祭町には一か所だけモミジの名所がある。それは茨城県の県境に近い矢祭山公園のモミジである。この公園は、久慈川と水郡線と国道118号が通る幅の狭い平野部にあり、春は桜、秋は紅葉が見られる。これらの季節には、多くの観光客が車でやってくる。国道沿いに2、3軒の店があり、団子の串焼き、アユの串焼きなどを並べている。国道沿いの駐車場は4箇所あるが、それぞれ10台ぐらいしかスペースがないので、観光客は駐車に苦労するようである。モミジの木はどの程度あるのか判らないが、眺めるのに多くの時間をかけて楽しむほどでもないであろう。
 私達、「えがすきクラブ」では、今年10月20日から11月7日まで、塙町立あぶくま高原美術館で絵画展を行った。これは、塙町教育委員会「生涯学習課」の依頼で催したものである。美術館の二つの部屋に40点の油絵を展示した。この展示をするために、私達は10月19日に塙町から県道27号を通って、約30分かけて車で出かけた。途中、那倉川沿いの道路を走ったが、この付近の川は那倉川渓谷と呼ばれ、渓谷沿いにモミジが所々に自生している。10月19日は、このモミジはまだ紅葉が進んでいなかったが、絵の搬出のために出かけた11月8日は、見ごろの紅葉であった。この紅葉を見物する人はほとんどいなかったが、写真を撮りに来た人は所々にいた。
 私達の絵画展は今回で2回目で、一回目は2年前の5月に行った。その絵画展では、塙町の大野氏(水彩画)との同時開催で、期間中S・Yさんのフォークソングコンサートも開催された。この期間中の来場者は200名であった。今回は、単独の催しであったが、来場者は250名であった。隣町の塙町は、文化活動には積極的で、ここの高原美術館も年間多くの行事が行われている。

      2021.12.10
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春うらら2022
  昨年からの話題はコロナである。日本のコロナの新規感染者数は、全国で50名ぐらいに減少して、随分収まってきたなと感じていたが、昨年の暮れから次第に増え始めた。毎日、東京都の新規感染者数は、4時45分のテレビで報道されている。この新規感染者数は、一時は20人という数字であったが、これも次第に増えて390人になった(1月5日)。日本全体の感染者数は累計で170万人と新聞で報道されている。この170万人の全てが、コロナに感染されているように思えるが、これは数字の累計であって、現在の感染者数ではない。コロナで過去陽性になっていた人は、治療とか自然治癒で陰性になった人が多いであろう。そのような人を追跡して陰性あるいは陽性を確認し、それのデータを示すべきである。これには大変な労力が必要であり、不可能かもしれない。
 昨年の12月始めに、新しいウイルス「オミクロン」に感染した人が日本で初めて判明した。その人は、飛行機で外国から帰国した乗客の中の一人で、PCR検査の陽性者で、後日検査した結果オミクロン感染であると判明した。この報道について、マスコミは大騒ぎをして、連日新聞、テレビに報道された。この感染経路ははっきりしており、機内の濃厚接触者も施設に隔離されていたので、不安はなかった。しかし、その後12月暮れ近くになって、大阪、京都で感染経路不明のオミクロン感染者が出て、これは市中感染であると、マスコミは騒ぎ始めた。その後東京、福岡、愛知などでも、市中感染のオミクロン感染者が出た。オミクロンウイルスは、感染力が非常に強いことが言われているので、全国的に感染者が広がるのは時間の問題であろう。オミクロン感染を調べるのは、デルタ株に感染したコロナ感染の陽性者だけに限定して調べている。オミクロンはデルタ株を経由しないと感染しないのかという疑問がある。コロナに感染してない人に、直接オミクロン感染を調べることは出来ないのだろうか。
 オミクロンに感染した人の症状は、比較的軽いと言われている。オミクロンによる症状が軽く、重症者が少ないとなれば、方針を変えて、積極的にオミクロンに感染させてはどうだろうか。今ではオミクロンに感染しないように多くの努力がなされているが、感染力の強いオミクロンでは防ぎようがないであろう。オミクロンウエルカムあるいはウイズオミクロンで、日本人のコロナ感染者をすべてオミクロン感染者に置き換えてしまう。これによりコロナ(デルタ株)による重症者あるいは死者は激減するかもしれない。このようなやり方を提案する学者はいないだろうか。
 昨年12月始めに、我が家では水道管の漏れ修理を業者に依頼した。水道メーターに取り付けている漏れ感知の回転サインが回っていることを、別の業者が見つけて報告してくれた。我が家の水道料金がどれくらいか調べた。10年前は4~5千円(2ヶ月分)であったのが、去年11月は2ヶ月で2.2万円になっていた。これは大変だと思い、町内の業者に漏水場所とその修理を依頼した。我が家の家回りは厚さ10cmぐらいのコンクリートで覆っている。業者は、最初に建物の外側から調べようと、削岩機で半日コンクリートをはがし、漏れ場所を探した。建物の基礎から外側30cmぐらいのところに水が出ているのが判明した。水漏れの場所が床下でなくて幸いであった。水道メーターからの水道管は、地下70cmのところにあり、業者は掘り返すのに苦労していた。漏れ場所は、地下70cmから立ち上がった所で、塩ビ管と鉄管の継ぎ目であった。20年で塩ビが劣化してひびが入ったのであろう。無事漏水は止まり、安心して正月を迎えることができた。
 昨年はオミクロン騒ぎで世間を騒がせたが、新年もこの騒ぎは収まらないであろう。この新年では、「うららか」な感じは少しもなく、今年もいやなことが多そうである。明るい話題はスポーツであろう。大リーグの大谷選手はさらに活躍するであろう。北京オリンピックでは日本選手が活躍することを期待したい。新春の大相撲では、福島出身の若隆景、若元春の活躍を楽しみにしている。

      2022.1.10
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English
Miscellaneous-notes
Spring Urara 2022
   The topic from last year is corona. The number of new corona infections in Japan had dropped to about 50 nationwide, feeling that it had decreased considerably, but it began to increase gradually from the end of last year. Every day, the number of new infections in Tokyo is reported on tv at 4:45 a.m. The number of new cases was temporarily 20. This also gradually increased to 390(January 5). The total number of infected people in Japan is 1.7 million, reported in newspapers. All of these 1.7 million people seem infected with corona, a cumulative figure. It is not the current number of infected people. There might be a lot of people who became negative by treatment or natural healing in the person who had become positive in the corona in the past. Such a person should be examined to confirm the negative or positive, and show the data of it. This requires a lot of effort and may not be possible.
 In early December last year, the first person in Japan to be infected with the new virus, Omicron, was found. The person was one of the passengers who returned from abroad by airplane, who was positive for PCR tests, and later tested him to find an Omicron infection. The mass communication made a fuss about this report, and was reported to the newspaper and the television every day. The route of infection was clear, and there was no anxiety because the rich contact on board was also isolated in the facility. However, near the end of December, there were people infected with Omicron with unknown infection routes in Osaka and Kyoto. The media began to make noise that this was an infection in the city. Afterwards, the Omicron infected person of the city infection went out in Tokyo, Fukuoka, Aichi, etc. It is said that the omicron virus has a very strong infectivity, so there is no doubt that the number of infected people will spread nationwide. Only those who are positive for corona infection infected with delta strains are examined for Omicron infections. There is a question whether Omicron will not be infected unless it goes through delta strains. Can't people who are not infected with corona directly investigate Omicron infection?
 Symptoms of people infected with Omicron are said to be relatively mild. If the symptoms of Omicron are mild and the number of severe people is small, how about actively infecting people with Omicron by changing policy? A lot of effort has been made to avoid infection with Omicron now, but highly contagious Omicron will not be prevented. Omicron Welcome or With omicron replaces all Japanese corona-infected people with Omicron infected people. This may sharply reduce the number of people or deaths from corona (Delta). Is there any scholar who proposes such a method?
 At the beginning of December last year, we asked a contractor to repair the leak of the water pipe. Another trader found and reported that the rotation sign of the leak sensing attached to the water meter was turning. I checked how much the water bill in my house was. Ten years ago, it was 4 to 5,000 yen (for two months), but last November it was 22,000 yen in two months. I thought this was serious, and asked the trader in the town to leak place and the repair. The house around our house is covered with concrete about 10 cm thick. The contractor first removed the concrete with a rock drill for half a day to examine it from the outside of the house and searched for the leak. A leak was found about 30cm outside the foundation of the house. I was fortunate that the place of the water leak was not under the floor. The water pipe from the water meter was 70cm underground, and the trader had a hard time digging. The leaking place was a place that stood up from 70 cm underground, and it was a seam between PVC pipe and iron pipe. In 20 years, PVC deteriorated and cracked. The leak stopped safely, and I was able to welcome the New Year with peace of mind.
 Last year, the Omicron commotion caused a stir all over Japan, but the new year will not subside. This New Year doesn't feel "Uraraka" at all, and it seems to be unpleasant this year. A bright topic might be sports. Otani of the major leagues will play an active part further. I hope that Japanese athletes will play an active role at the Beijing Olympics. In the new year's grand sumo tournament, I am looking forward to the success of Wakamotoharu, Wakatakakage from Fukushima.

            2022.1.10
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寅年
  私は、今年で7回目の寅年を迎え、3月の誕生日で84歳になる。年をとって困ったのは、2年前からの右ひざの痛みである。病院へ行き、膝のレントゲンをとって貰った。その写真を見せてもらったところ、骨同士が接触して、そのために痛みを感じるのだと、医者から説明を受けた。軟骨成分が減ったためであろう、ということであった。市販のグルコサミン、コンドロイチンなどの飲み薬を飲んできたが、痛みはやや収まったように感じているが、右足に体重をかけた時、やはり痛い。
 私は、テニスを60年来楽しんでいるが、テニスは足を瞬発的に使うスポーツである。膝の痛みは、テニス運動にとって致命的であろう。つい最近まで、私は、テニスのスポーツ教室に週2回通い、その他週1回は仲間とテニスをやっていた。教室のテニスコーチは、私の膝の痛みを考えて、球出しのボールを遠くへは出さず、あまり走らなくてもよい所にボールを出して、私に気を使ってくれた。スクールではダブルスの練習試合がある。私のポジションは、いつも左サイドの前衛だけにしてもらい、なんとか試合をしているが、相手から前の方に球を出されると、私は全く打てない。ダブルスのパートナーには迷惑をかけていた。今年からテニスを週1回にした。しかし、これもそのうち止めないといけない日がくるであろう。私が通っているルネサンス棚倉は、テニス教室のほかに、フィットネスジムがある。私は、そこに週1回通うことにした。
 この歳になると、体力が衰えてくる。私は、20年前から健康保持あるいは体力保持のために、自宅で体操を始めている。朝食前、庭に出て、1本4kgの鉄アレイを両手に持って腕、肩を鍛えている。以前は縄跳びを50回行っていたが、面倒になり、それを止めた。その代り、両足をそろえて飛び上がる(跳躍)ことを50回行っている。飛び上がると言っても、地面から2、3cmの高さである。私の体重は66kgであり、これが両足にかかるので、片足が33kgの負担である。最近では速く歩くのができなく、よたつくことも多くなった。私は、これではいけないと思い、足踏み前進運動を始めた。これは、片足に全体重66kgがかかるので、膝への負担が大きいが、我慢して行っている。
 部屋の中での体操は、2階の4畳の広さの縁側で、CDを聞きながら毎日行っている。CDは、30枚のイージーリスニングクラシックCDを毎日1枚ずつ聞いており、その曲の途中から体操を行っている。体操は主に下半身の屈伸運動とストレッチである。背骨のストレッチも行っており、背骨が曲がらないように気を付けている。
 私は、3月の誕生日で、運転免許証の更新を行わなければならない。妻は昨年、免許証の返納を行った。車の運転は、日常の買い物には欠かせない。近くのスーパーまでは、歩いて40分ぐらいかかる。車がなければ、タクシーを利用しなけらばならない。75歳以上の運転免許証更新では、認知機能検査と高齢者講習を別々の日に検査場(棚倉自動車学校)で受けなければならない。認知機能検査は、主に記憶力の検査で、オルガンとかベッドなど16種類のイラストをプロジェクターで見せてもらい、後で何が描かれていたかを思い出して、それを書くのである。すぐに書けと言えば、記憶に新鮮だから書けるが、別の問題、例えば今日の日付を書けなどをやらせた後、イラストが何であったかを書かせる。時間がたつと記憶が薄れる。その記憶力の薄れ具合を調べる意地悪なテストである。この認知機能検査では、私は98点をとった。イラストの「ペンチの絵」が思い出せなかった。75点以上が合格であり、私は以前は80点台であったが、今回は高得点であった。これは、監督者が色々ヒントを言ってくれたおかげであろう。6名の受講者は全員合格であった。
 別の日に高齢者講習があり、前と同じ6名が受講した。6名の中に90歳の元トラック運転手がいた。彼は、90歳ながら、かくしゃくとしており、私は彼を見て、まだまだ車の運転ができるのだという元気を貰った。この高齢者講習は、県内の交通事故の実態や交通規則などを教える講義であり、その後、車による走行の試験がある。一般の免許を受ける実地のコースを運転させて、問題がないか調べるものである。我々は、正式の免許用のコースを走るのではなくて、コースをぐるぐる回るだけで、クランクとかバックによる車庫入れなどは行わない。信号の一旦停止と車線変更、右折、左折だけである。これには全員合格し、「運転免許取得者教育終了証明書」をもらった。3月に、これを持って警察署に行けば、免許の更新ができる。

      2022.2.10
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English
Miscellaneous-notes
Tora-doshi
   I will be celebrating Tora-doshi for the seventh time this year. I will be 84 on my birthday in March. It was a pain in the right knee from two years ago that I was troubled when I got older. I went to the hospital and had my knee X-ray taken. When the photograph was shown, the explanation was received from the doctor that the bone came in contact with each other, and felt the pain for that. The reason was that the cartilage component decreased. I have taken medications such as glucosamine and condoroitin on the market, but I feel that the pain has decreased somewhat. However, it still hurts when putting weight on the right foot.
 I have been enjoying tennis for 60 years. Tennis is a sport in which the feet are used instantaneously. Knee pain may be fatal to the tennis exercise. Not long ago, I went to a tennis sports class twice a week and played tennis with my friends once a week. The tennis coach in the classroom does not put the ball far away, thinking of the pain in my knee. It put out the ball in the place where it was not necessary to run so much, and it took care of me. There is a doubles practice match at the school. My position is always only in front of the back side. I manage to play a game, but when the ball is put out from the other party to the front, I cannot hit it at all. I was bothering my doubles partner. I played tennis once a week from this year. However, the day when this should be stopped sooner or later will come. The Renaissance Tanagura that I go to has a fitness gym as well as a tennis class. I decided to go there once a week.
 Physical strength decreases at this age. I have been doing gymnastics at home for 20 years to maintain my health or physical strength. Before breakfast, I went out to the garden and trained my arms and shoulders with a 4kg iron array in my hands. I used to jump rope 50 times, but it became troublesome and stopped it. Instead, I've done 50 times jumping up both legs. It is a height of 2 or 3 cm from the ground even if it is said that it jumps up. My weight is 66kg. Because this hangs on both feet, one foot is a burden of 33kg. Recently, it is not possible to walk fast, and it has become frequent. I started a step forward movement for this measure. It takes a total weight of 66kg on one leg, so the burden on the knees is large, but I am patient.
 Gymnastics in the room is performed every day on the 4-tatami veranda on the second floor, listening to CDs. There are 30 easy listening classic CDs, one each of which I listen to every day. I've been doing gymnastics since the middle of the song. Gymnastics is mainly flexion and stretching of the lower body. I also stretch my spine, and I'm careful not to bend my spine.
 I have to do a driver's license renewal on my birthday in March. My wife returned her driver's license last year. Driving a car is essential for everyday shopping. It takes about 40 minutes on foot to get to the nearby supermarket. Without a car, I have to take a taxi. To renew a driver's license for a person over the age of 75, a cognitive function test and an elderly training must be taken at the inspection site (Tanagura Driving School) on separate days. Cognitive function tests are mainly memory tests, and 16 kinds of illustrations such as organ and bed are shown with projectors. I write it later, remembering what was being drawn. If I write immediately, I can write because it is fresh in memory, but after another test, for example, a test to write today's date, let me write what the illustration was. As time goes on, my memory fades. It is a mean test to examine the condition of the fading of the memory. In this cognitive function test, I scored 98 points. I couldn't remember the "pliers picture" in the illustration. More than 75 points passed, and I used to score in the 80s, but this time I had a high score. This is thanks to the supervisor who said various hints. All six members passed.
 On another day, there was an Senior Citizen's Course, and the same six members attended it. Among the six were a 90-year-old former truck driver. He was 90 years old, he was sneering, and I saw him and was energized that I could still drive a car. This elderly course teaches the actual situation of traffic accidents and traffic rules in the prefecture, and then there is a test of driving by car. We drive a course that takes a general license test and the examiner checks for problems. We do not run on a course for a formal license, but just go around the course, we do not put the garage by crank or back. It is only a stop of the signal, a lane change, a right turn, and a left turn. All of them passed this, and received "Driver's license acquisition person education end certificate". In March, if I go to the police station with this, I can renew my license.

            2022.2.10
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北京オリンピック
  冬季の北京オリンピックが2月20日に終わった。参加した日本の選手は大活躍し、メダルの総数は今ままで最も多く、18個であった。金メダルは3個で、これは、ノルウェーの16個、ドイツの12個、中国の9個には及ばないが、世界で12番目の数である。イタリアと韓国は、それぞれ2個の金メダルであった。金銀銅の総メダル数では、ノルウェーが37個、次いでドイツが27個で、日本の18個は、世界で6番目の数である。冬のスポーツでは、ノルウェーが圧倒的な強さを示した。
 このオリンピックの期間中、私はテレビで色々な競技を見た。特にNHKは競技の中継が多く、おかげで色々な競技を見ることができた。私は、ジャンプして飛び上がる競技が色々あることを、初めて知った。スキーを履いて飛び上がる競技には、ハーフパイプ、ジャンプのラージヒルとノーマルヒル、フリースタイルスキーのハーフパイプ、ビッグエアなどがある。スノーボードを履いて行う競技には、ハーフパイプ、ビッグエア、パラレル大回転などがある。これらの主な競技を下の表に記して見た。ハーフパイプは、空中で3回転などして見せる競技であり、テレビのスローモーションでその難しさ、危険な状態がよく分かった。スキーを履いて飛び上がり、回転して着地するビッグエアは、着地に失敗する選手も見られ、危険な競技である。このような競技は、子供のころから練習して、その感覚を体に覚え込ませないといけないであろう。
 
  表 空中で回転する主な競技
    フリースタイルスキー(2本のスキー板を使う競技)
       エアリアル(小さなジャンプ台から飛び上がり空中で回転)
       モーグル(小さなこぶを滑り降りて、途中にあるジャンプ台を空中で回転)
       ハーフパイプ(大きなパイプを半分にした内側で飛び上がり回転)
       ビッグエア(ジャンプ台から飛び上がり空中で回転)
    スノーボード(短い1本のスキー板を使う競技)
       ハーフパイプ(上のハーフパイプと同じ)
       ビッグエア(上のビッグエアと同じ)

 スキージャンプは、ノーマルヒルとラージヒルがあり、飛んだ飛距離を争う競技である。日本女子のエース高梨沙羅選手は、大ジャンプを成功させたが、スーツの規定違反で失格した。スーツの規定違反とは、スーツのサイズが体に比べ規定より大きかったことをいう。これはスーツを大きくすると、空中を飛ぶとき、浮力がより大きくなり、遠くまで飛べる。ジャンプの着地点は定点があり、それ以上遠くへ飛ぶのは、危険であるとされている。このジャンプでは、危険防止のためスーツを大きくしないように決められているのであろう。今後の安全のため、高梨選手に対して失格としたのは妥当であろう。スーツを設計縫製したのはスタッフであり、高梨選手には落ち度はない。スタッフは、高梨選手に勝たせるために、このような細工をしたのかもしれない。
 オリンピックの最初の競技はフィギュアであり、日本選手は活躍した。高得点を得るには、ジャンプして何回も回転する技である。これをテレビで見ていても、何回回転しているか、よく分からない。テレビはスローでこれを見せてくれるが、簡単には回数を数えることはできない。解説者がこれを説明するので、納得する。昔活躍したフィギュアのメダリストがこの解説に出てくる。彼女らの懐かしい顔が見られて楽しい。羽生結弦選手は、逆転をかけて高難度の回転を試みたが、失敗に終わり入賞しなかった。
 スピードスケートでは、高木美帆選手が金メダルのほか、3個のメダルを取り大活躍。姉の高木菜那選手は、2種目の競技に出たが、2種目ともレース途中で転倒、メダルを逃した。この姉妹が並んでいる姿をテレビで見たが、妹の方が背が高く、姉は小柄であった。背の高さが上の子が低く、下の子が高いのは世間一般では通常のようである。最初に生まれた子は、親から期待も大きく、その分、子にはストレスとなり、背が伸びなかったのであろう。2番目の子は、そのようなストレスもなく、のびのびとしていたから、大きく育ったのであろう。
 オリンピック終盤の競技は、カーリングである。ここで、日本は銀メダルを取った。日本選手の5人のチームは、和気あいあいとした雰囲気がテレビを通して感じられた。彼女らの表情は、豊かで、悲しい時は泣き、うれしい時は笑い、その姿がテレビに写しだされていた。私は、最近若い女性の顔を見たことがない。テレビでは、コマーシャルやニュース番組で女性の顔を見ることはできるが、ほとんど厚化粧をした顔である。スキーなどの選手で、出てくる女性の顔は、化粧をしていない素顔である。テレビを通じてであるが、久しぶりに若い女性の素顔を見ることができた。これもオリンピック中継のおかげである。ありがとう。

      2022.3.10
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English
Miscellaneous-notes
The Beijing Olympics
  The Beijing Olympics in winter ended on February 20. The Japanese athletes who participated were very active, and the total number of medals remained the highest as it is, with 18. There were three gold medals. That's less than Norway's 16, Germany's 12 and China's nine, but the 12th number in the world. Italy and South Korea each had two gold medals. In terms of total gold, silver and bronze medals, Norway has 37 medals, followed by Germany with 27, and Japan's 18 are the sixth largest in the world. In winter sports, Norway showed overwhelming strength.
 During this Olympics, I watched various competitions on TV. In particular, NHK has a lot of broadcasts of competitions, so I was able to see various competitions. I learned for the first time that there are many competitions that jump and jump up. Ski-hopping competitions include halfpipes, jump large and normal hills, freestyle ski halfpipes and big air. Snowboarding competitions include halfpipes, big air, and parallel giant slalom. These main competitions are described in the table below. The halfpipe is a competition that shows by three rotations in the air, and the difficulty and danger conditions are well understood in the slow motion of the TELEVISION. Big Air, which skis up, rotates and lands, is a dangerous sport, with athletes failing to land. Such a competition will have to practice from childhood, and to memorize the sense in the body.

 Table  Main competitions rotating in the air
   Freestyle skiing (competition with two skis)
     Aerial (jumps up from a small jump platform and rotates in the air)           Moguls (slide down a small moguls and rotate in the air on a jump stand along          the way)       
     Halfpipe (jumps up and rotates inside with a large pipe halved)             Big Air (jumps up from the jump platform and rotates in the air)           Snowboarding (a sport with a short single ski)
     Halfpipe (same as the halfpipe above)
     Big Air (same as Big Air above)

 Ski jumping competitions are normal hill and large hill, and it is a competition to compete for the distance flown. Japanese women's ace Sara Takanashi made a successful big jump but was disqualified for violating the suit rules. Violation of the suit's regulations means that the size of the suit was larger than the prescribed than the body. This means that when the suit is enlarged, when the player flies through the air, the buoyancy becomes greater and it can fly far. The landing point of the jump has a fixed point, and it is assumed that it is dangerous to fly further far. In this jump, it might be decided not to enlarge the suit to prevent danger. It would be appropriate to disqualify Takanashi for future safety. It was the staff who designed and sewed the suit, and Takanashi did not fall. The staff may have made such work to make Takanashi win.
 The first olympic sport was figure skating, and Japanese athletes played an active part. To get a high score, it is a technique to jump and rotate many times. Even if I watch this on TV, I'm not sure how many times it's spinning. Television shows this in slow, but it's not easy to count. The commentator explains this, so I'm convinced. The medalist of the figure who was active in old times comes out in this commentary. It's fun to see their nostalgic faces. Yuzuru Hanyu tried to turn around and make a high-difficulty rotation, but failed and did not win the prize.
 In speed skating, Miho Takagi won three medals in addition to gold. Her sister Nana Takagi competed in two events, but both events fell in the middle of the race and missed a medal. I saw their sisters lined up on TV, but the younger sister was taller and her older sister was petite. It is usual in general that the child who is older is short, and the child under the age is high. The first child born has high expectations from parents. Therefore, it became stress for the child, and it might not have grown tall. The second child is not so stressed. The child might have grown up greatly because it was no stress.
 The event at the end of the Olympics is curling. Here, Japan won a silver medal. The five Japanese players' team felt a friendly atmosphere through the TV. Their expressions were rich, crying when sad, laughing when they were happy, and their appearances were projected on television. I haven't seen a young woman's face lately. On TV, I can see women's faces on news shows etc, but they are mostly made-up faces. The face of the woman who comes out by the player such as skiing is a real face which does not make up. It was possible to see a young woman's real face after a long time though it was through the television. This is thanks to the Olympic relay. Thank you.

            2022.3.10
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カタカナ語
  ひと頃よく使われたカタカナ語に、ジェンダーという言葉がある。ジェンダーとは、一般社会での男女の差別、格差をいう。男女の性差に、差別はないのは当然であろう。日本では男尊女卑の風習が昔からあった。ジェンダーは、この生物的な性の差異ではなく、社会生活での男女格差である。企業組織において、職制の差別が男性優位で、女性は低く見られていた。これは、日本では特に多い。女性だから管理職になれないという習慣はあったようである。現在では、それはかなりなくなっているようである。最近では、大学の女性の教授がよくテレビに出てくるのが見られる。この言葉に関連して、「ジェンダーレス」という言葉がある。これは男女の格差をなくそうと言う意味である。「ジェンダーのない社会」を目指そうという、共産党のポスターが貼られていたのを、私は覚えている。
 「ジェンダー平等」という言葉が、時折新聞に書かれるようになった。これは、SDGsの中の目標5で、「ジェンダー平等を実現しよう」という言葉に使われている。これは、ジェンダーの意味を上に述べた、男女格差の意味からすると、ぴったりしない使い方だと、私には思われる。格差を平等にしようというのは、格差があるのを前提にしているようで、格差を認めている感じがする。はっきり「男女平等」という言葉を使えばよい。男女平等は古くから使われているので、スマートでないと関係者は思ったのであろう。男女をカタカナで表すと、マン、ウーマンとなり、これではやぼな表現になる。そこで思いついたのが、ジェンダーであろう。ジェンダーを男女という意味に使えば、簡単であるが、ジェンダーの解釈が広くなる。上に述べたジェンダーレスの社会という言葉は、「男女のない社会」になり、これはおかしい。
 「プロパガンダ」というカタカナ語について。このプロパガンダは、プーチンによるウクライナへの侵攻戦争で、ウクライナの高官が時折使っていた言葉である。これは、日本ではあまりなじみのない言葉であるが、特定の思想や行動へ誘導する行為であり、政治宣伝とも言われている。私が二十数年前、まだ会社勤めをしていた頃、大学でたての若者がこの言葉を得意になって使っていたのを思い出す。彼は、商品の情報などについて、このプロパガンダという言葉を使っていたようである。当時の私は、この言葉は初耳で、理解できなかった。私は、その若者にこれはどういう意味か聞きたかったが、恥ずかしくて聞けなかった。
 「デフォルト」という言葉は、一般社会ではなじみのないカタカナ語であるが、経済社会では比較的多く使われている。デフォルトが新聞記事に載ると、「債務不履行」という説明がカッコ付きで示される。一般的には、直面した義務を放棄するという意味にあるようである。ウクライナ問題で、このデフォルトを新聞記事に見かけたことがある。
 コンピュータでは、このデフォルトはよく利用されている言葉のようである。私はこのデフォルトの意味が分からなかった。調べてみると、初期設定だという。私のパソコンでGoogleの画面を出すと、「デフォルトのブラウザとして設定されていない」とか、「デフォルトとして設定」の表示が出て、私はこれを無視していた。正式には、デフォルトは、「予め数値などを設定することで、未入力によるシステムの誤操作を未然に防止する形態のこと」としている。このように説明されると、ますます分からなくなる。単に「初期設定」といえば、納得する気がする。
 時折見る言葉で「アジェンダ」がある。私は全く知らなかったが、これはラテン語で、実行に移されるべき事柄とある。これは、日本ではなじみのないカタカナ語であろう。「サブスクリプション」も分からない。これは、定期購読、継続購入という意味で、英語圏では新聞、雑誌の定期購読などに古くから用いられている言葉のようである。私の分からない言葉に「サムネイル」がある。これは、親指の爪の意味で、画像や印刷物ページなどを表示する際に、視覚的に認識させるために縮小して見せる見本、記号のことである。よく見ると、パソコン画面にはこのような記号はそこらじゅうにある。改めて「サムネイル」と書かれると、なんだろうと思うのである。

      2022.4.10
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English
Miscellaneous-notes
Katakana word
  There is the word "gender" in the katakana word often used at a time. Gender refers to discrimination and disparity between men and women in the general public. It might be natural that there is no discrimination in man and woman's sex difference. In Japan, there has been a custom of mascule women for a long time. Gender is not this biological gender difference, but a gender gap in social life. In corporate organizations, discrimination on the employment system was male-dominated, and women were seen low. This is especially common in Japan. There was a custom of not being able to become a manager because it was a woman. At present, it seems to be quite gone. Recently, the professor of the woman at the university is often seen to appear on the television. In relation to this word, there is a word "genderless". This is a meaning of saying that the difference of the man and woman is lost. I remember the Communist Party's posters that aimed at a "gender-free society."
 The term "gender equality" has occasionally come to be written in newspapers. This is Goal 5 of the SDGs, which is used in the phrase "Let's achieve gender equality." I think that this is a usage that does not fit in the meaning of the gender gap described above. Equalizing disparities seems to assume that there is a disparity, and I feel that they approve of the disparity. We only have to use the word "gender equality" clearly. Because equality of the sexes has been used for a long time, the person concerned might have thought that it was not smart. When the man and woman are represented by katakana, it is man and woman, and this becomes a vague expression. Then, it might be gender to have come up. If gender is used to mean sex gender, it is easy, but the interpretation of gender is wider. The word genderless society mentioned above has become a "society without men and women", which is strange.
 About the katakana word "propaganda". The propaganda was a term occasionally used by senior Ukrainian officials in Putin's war on Ukraine's invasion. This is a word which is not so familiar in Japan. This is an act of guiding to a specific thought and action, and it is said that it is a advertisement of politics. It is recalled that the newcomer who went out of the university used this word proudly when I was still working for the company for 20 years or more. He seemed to have used this word propaganda for information etc. of the commodity. At that time, I heard this word for the first time, and it was not understood. I wanted to ask the young man what this meant, but I was too embarrassed to hear.
 The word "default" is a katakana word that is not familiar in the general society, but it is used comparatively a lot in the economic society. When the default appears in the newspaper article, the description of "Default" is shown in parentheses. In general, it seems to mean relinquishing the obligation faced. I have seen this default in a newspaper article on the Ukraine issue.
 On computers, this default seems to be a popular term. I didn't know what this default means. I looked into it and said it was the first setting. When I put out the Google screen on my computer, I saw "It is not set as the default browser" or "Set as default", and I ignored this. Officially, the default is "a form that prevents accidental operation of the system due to uninformation by setting numerical values in advance". When explained in this way, it becomes more and more in understandable. I feel convinced if it is simply written, "Initial setting".
 There is "Agenda" in the word seen occasionally. I had no idea, but this is latin and with things to be put into practice. This might be a katakana word which is not familiar in Japan. I don't even know "subscription". This is a meaning of the purchase and the continuation purchase regularly, and it is a word used for the subscription etc. of the newspaper and the magazine etc. in the English sphere for a long time. There is a "thumbnail" in the word I do not understand. This is the meaning of thumb nails. This is a spree or symbol that is scaled down to visually recognize images, printed pages, etc. If I look closely, there are such symbols everywhere on the pc screen. When "Thumbnail" is written, I think that this is what it is.

            2022.4.10
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2022年春の庭
  3月の我が家の庭に、多くのウメノキゴケが発生していた。調べてみると、ウメノキゴケは、地衣類の一種で、樹皮や岩に着生するといわれる。苔にも色々あるようで、普通のコケは、湿気の多い所に繁殖するようであるが、このウメノキゴケは、乾燥を好むらしい。そういえば、今年2月から3月にかけて、当地では雨の降らない日が続いた。そのため、このウメノキゴケが繁殖したのであろう。庭に植えてある梅の木やつつじに、ウメノキゴケがびっしり付いていた。弱った木にも付くようで、枯れかかった木の幹にも多く見られた。
 このウメノキゴケを駆除する方法はないか、ホームセンターの担当者に聞いてみると、酸類に弱いと言っていたので、木酢液を買ってきて噴霧した。これはすぐには効かない。木の枝にびっしり付いている小さい円盤状のこのコケは、気になるので、手で剥がすことにした。金属製のへらでこすり落とした。細い枝に付いたコケは、落とすのが難しいので、枝ごと切り落とした。このウメノキゴケは、田舎で多く見られ、都市部では発生しないと言う。これは、ウメノキゴケが排気ガスに弱いためであり、大気汚染の指標にもなっているそうだ。我が家でウメノキゴケが発生するのは、空気がきれいな証拠であり、有り難いことだと思わなければいけない。
 冬の枯れた土から一番に芽を出してくるのは、クロッカスである。例年の事であるが、クロッカスが成長して、花を咲かせると、ヒヨドリがやってきて、その花びらを食べてしまう。ヒヨドリが来ないように、クロッカスの上にネコの形をしたものをぶら下げているが、効き目は全くない。ヒヨドリは黄色の花びらが好きなようである。黄色のクロッカスの後から咲く、白色の花びらや紫の模様の入った花びらは、ヒヨドリは食べに来ないだろうと思っていた。しかし、いつの間にかそれらも食べられてしまった。クロッカスには災難である。花がなくなった後のクロッカスの葉は元気で、養分を球根にたくわえ、来年に供えているのであろう。ヒヨドリは、来年のクロッカスの花を元気に咲かせるために、花びらを食べているように思える。
 クロッカスの花が終わると、スイセンが咲き始める。スイセンは、放っておくと球根を増やし、それに応じて花も多く咲かせる。スイセンより少し遅れて、ムスカリが咲き始める。ムスカリは種が飛んで増えていくのであろう。庭はムスカリの紫の花で賑わう。スイセンやムスカリはヒヨドリの被害を受けない。この時期には、レンギョウが咲き始める。レンギョウは、成長が速く、どんどん枝を伸ばし、大きくなる。黄色い花が枝一杯に付き、遠くからよく目立つ。挿し木で簡単に増やせるので、我が家のフェンスの外(町有地)に6本植えており、毎年賑やかである。レンギョウの近くにユキヤナギを植えており、ユキヤナギの白とレンギョウの黄色が塊となって初春を彩る。
 桜の木は、フェンスの外側に5本植えていたが、大きくなりすぎて、困ったので、幹を切った。そのうちの2本は、業者に頼んで切ってもらった。フェンスの外側に、しだれ桜も1本あったが、太い幹を切って、横から生えている太い枝だけを残した。この枝は、我が家の庭に上から入っている。この春は、このしだれ桜の花が多く咲き、庭を賑やかにしてくれた。
 春先にはウグイスが鳴き始める。春の始めころ、ウグイスは、正当的な「ホーホケキョ」の鳴き方はできないようで、「ホーケキョ」などと鳴く。そして、次第に自信のない声で小さく、「ホーホケキョ」と鳴く。そのうち何処で覚えたか、「ホーゴキブリ」と鳴くウグイスが現れた。この「ゴキブリ」の声は、早口で、可愛らしく聴こえる。鳴きやすいのか、ウグイスは自信を持って鳴いているようである。「ゴキブリ」は何処で覚えたのであろうか。南から引っ越してきた家族の荷物の中にいたゴキブリを、子供が見つけて、「ゴキブリ」と叫んだ。それを、近くにいたウグイスが聞いて、覚えたのであろう。
 我が家にはムカデは時折現れるが、まだゴキブリはいない。以前住んでいた横浜の家には、ムカデやゴキブリが、家の中に多く入り込んでいた。私は、「ゴキブリホイホイ」を買ってきて、ゴキブリが出そうな所に置いていた。矢祭の当地では寒さのせいか、まだゴキブリを見たことがない。しかし、地球の温暖化が進み、我が家にもゴキブリが現れるのは、時間の問題かもしれない。

      2022.5.10
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English
Miscellaneous-notes
Spring Garden 2022
   A lot of Umenokigoke had occurred in my garden in March. It is said that Umenokigoke is a kind of lichen, and it arrives at the bark and the rock when examining it. There seems to be various mosses, and ordinary moss seems to breed in humid places, but this Umenokigoke seems to prefer dryness. Come to think of it, from February to March this year, there were no rain days here. Therefore, this Umeokigoke might have bred. There were plum trees and azaleas planted in the garden with a lot of Umenokigoke. This seemed to attach to a weakened tree, and was seen in a lot of trunks which were about to wither.
 When I asked the homecenter clerk if there was a way to get rid of this Umenokigoke, he said it was vulnerable to acid. I bought wood vinegar and sprayed it. This doesn't work fast. This small disk-shaped moss, which is tightly attached to the branches of a tree, is worrisome. I decided to peel it off by hand. I rubbed it off with a metal spat. Moss attached to the thin branch was cut off because it was difficult to drop. It is said that this Umenokigoke is often seen in the country and does not occur in urban areas. This is because Umenokigoke is vulnerable to exhaust gas, and it is said that it is also an indicator of air pollution. It must be thought that it is a beautiful evidence of the air here that the umenokigoke occurs in our house, and it is thankful.
 It is crocus to put out the bud first from the soil where winter withered. As is the case, when crocuses grow and bloom, bulbuls come and eat the petals. I'm hanging a cat-shaped thing on a crocus so that bulbuls don't come. However, there is no effect at all. Bulbuls seem to like yellow petals. I thought that the bulbul would not come to eat white petals and purple patterns that bloomed after the yellow crocus. But unknowingly, they were eaten. Crocus is a disaster. The leaf of the crocus after the flower is lost is energetic, the nourishment might be saved in the bulb, and offered for next year. Bulbuls seem to be eating petals to make next year's crocus flowers bloom well.
 At the end of the crocus flower, narcissus begins to bloom. Narcissus naturally increases the number of bulbs and blooms a lot accordingly. A little after narcissus, muscari begins to bloom. Muskari might fly the seed and increase. The garden is bustling with muscari purple flowers. Narcissus and Muscari are not affected by bulbuls. At this time of year, the lotus begins to bloom. The lotus grows fast, grows rapidly, grows the branch fast, and grows. Yellow flowers stick to the branches full, they stand out well from a distance. Because it can be easily increased by cuttings, six trees are planted outside our fence (town-owned land), and it is crowded every year. Snow willow trees are planted near the lotus root, and the white of the willow and the yellow of the lotus root become lumps and color early spring.
 Five cherry trees were planted outside the fence, but they were too big and were in trouble, so I cut the trunk. I asked a vendor to cut two of them. Outside the fence, there was a weeping cherry tree, but I cut the thick trunk and left only the thick branches growing from the side. This branch is in our garden from above. This spring, many weeping cherry trees bloomed, and the garden was lively.
 In early spring, warblers begin to squeal. At the beginning of spring, the warbler seems not to be able to do a legitimate "Hohokekyo" cry, and it barks, "Hokekyo", etc. And, they came to squeal, "Hohokekyo" in a small voice without confidence. I heard a warbler ringing "Ho-gokiburi" that I remembered somewhere. The voice of this "gokiburi" is fast-talking and sounds cute. The warbler seems to be singing with confidence whether it is easy to squeal. Where did the warbler learn "gokiburi"? A child found gokiburi in the luggage of a family member who had moved from the south and shouted "gokiburi." The warbler who was near heard it, and it might have remembered it.
 Centipede occasionally appears in our house, but there are still no gokiburi (cockroaches). Centipede and cockroaches entered the house in Yokohama, where they used to live. I bought "Gokiburihoihoi" and put it where cockroaches were likely to appear. I haven't seen cockroaches here yet, perhaps because of the cold. However, as the earth is warming, it may be only a matter of time before cockroaches appear in our home.

            2022.5.10
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ウクライナ戦争
  ここで言う「ウクライナ戦争」とは、2022年2月24日にロシアがウクライナに攻め込み始まった、ロシアとウクライナとの戦争を言う。戦争が始まって3ヶ月以上経っており、その戦争によるロシア側の兵士の死者は、ロシア国防省によると2万3000人と言われている。一方、ウクライナ側の兵士の死者は2500~3000人としている。ロシア側の数字は政治的意図があると思われるので、信用できないであろう。一方、ウクライナの兵士の死者はさらに増えると思われる。5月10日の国連発表によるウクライナの民間人の死者は、3000人を超え、さらに数千人を上回るという。
 ウクライナのマリウポリ市での攻防はニュースで大きく伝えられていたが、5月23日の時点でロシア軍がマリウポリを制圧したので、そのニュースは入らなくなった。マリウポリ市には大きな製鉄所が2箇所あり、そのうちアゾフスタリ製鉄所がニュースに度々でた。ここは、ソ連時代に建設された巨大施設であり、特に敷地内には、核攻撃を想定した地下6階のトンネルなどを備えた要塞がある。この要塞は、診療所や居住空間など完備され、4000人が収容できるように水や食料が備蓄されている。
 当初、この地下要塞には多くのウクライナの民間人が戦火を避けるため入ってきた。ウクライナ側の発表では1000人が避難しており、その様子がSNSの動画で報道されていた。暗い中、赤ちゃんや小さな子供が映されていた。この民間人は無事に救出されるのだろうか、心配された。国連とロシア側の話し合いで無事救出された。その人数は250程度であると言われる。1000人の数字は誇張された数字なのか。世界の同情を得るための数字であったと思われる。民間人が救出された後、ウクライナ兵がその地下に多く残され、その命が心配された。
 その後、ウクライナ大統領は、地下にいるウクライナ兵士の義務は終わったと発表した。彼らはロシア兵により捕虜としてロシア側に連れていかれた。その数は500人と言われる。マリウポリ市長の顧問は、5圧24日、3ヶ月の戦闘でマリウポリの住民、2万2000人が死亡したと報道した。この戦争は終結するのだろうか。ウクライナは西側の援助を受けているので、負けたとは言えない。ロシアも負けたとはメンツがあるので言えない。結局、第三者を交えた両者の話合いになるであろう。
 ロシアを避難する声は各国で聞かれる。日本も経済制裁などをしてロシアを避難している。先日の新聞で、ロシアは以前の日本と同じようなことをやっているという内容が載せられた。これらは、新聞のコラム欄と読者の投稿の2件であった。私に言わせれば、今のロシアと日清戦争の日本は、戦争の事情が異なる。以前の日本は、当時朝鮮の皇帝からの依頼で、当時朝鮮半島を支配していた清国陸軍と戦って、勝利した。ちなみにこの戦争で日本軍の死者は1万3千人と言われる。戦争の結果、日本は朝鮮半島と台湾を植民地として統治した。
 ウクライナ戦争では、ロシアは、かってロシアを中心とした旧ソ連の構成国の一つであったウクライナを取り戻すために、侵攻したと弁明している。今のロシアと日清戦争の日本とは、事情が全く異なるので、比較はできない。戦場でのロシア兵士のウクライナ民間人に対する殺害は、マスコミで報道されているように悲惨なものである。日清戦争時代の日本兵は、民間人に対する略奪などの行為は軍律で禁じられていたので、皆無と思われる。しかし、一部の日本兵は民家に入って食料調達などが行われていたという情報もあったようである。
 太平洋戦争の末期、アメリカ軍が沖縄に上陸して日本軍と戦った沖縄戦では、今のウクライナ戦と似たような状況が展開されたと思われる。この戦争では、3ヶ月の短期間で沖縄の民間人が9万4000人殺された記録がある。アメリカ兵は、現在のロシア兵がしたような、民家に入って食料の略奪、電気製品の略奪そして住人の殺害は、しなかったようである。アメリカは、他国の領地(沖縄)に入って戦争を行なったので、現在のウクライナ戦争のロシアと似ている。76年前のアメリカは、今のロシアと似たようなことをやっていたわけだ。
 太平洋戦争で死去した日本の民間人は、50~100万人という記録がある。戦争で犠牲になるのは、無防備な民間人であり、時代が変わっても、これは変わらない。
      2022.6.10
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English
Miscellaneous-notes
Ukrainian War
  The term "Ukrainian War" here refers to the war between Russia and Ukraine, which began on February 24, 2022, when Russia invaded Ukraine. More than three months after the war began, the death toll of Russian soldiers in the war is estimated at 23,000, according to the Russian Defense Ministry. On the other hand, the death toll of Ukrainian soldiers is estimated to be 2,500 to 3,000. The figures on the Russian side would not be credible as they appear to be politically motivated. Meanwhile, the death toll of Ukrainian soldiers is expected to rise further. The May 10, UN announcement put the death toll on civilians in Ukraine at more than 3,000 and even more than a few thousand.
 The battle in the Ukrainian city of Mariupol was widely reported in the news, but the news stopped coming after Russian troops overran Mariupol on May 23. There are two large ironworks in the city of Mariupol, of which the Azovstali Steel Works was in the news frequently. This is a huge facility built during the Soviet era, and in particular, there is a fortress on the site with tunnels on the sixth basement floor in anticipation of a nuclear attack. The fortress is fully equipped with a clinic and living quarters, and is stockpiled with water and food to accommodate 4,000 people.
 Initially, many Ukrainian civilians entered the underground fortress to avoid war. According to the announcement by the Ukrainian side, 1,000 people had been evacuated, and the situation was reported on social media videos. In the dark, babies and small children were shown. I was worried that the civilians would be rescued safely. They were safely rescued through talks between the United Nations and Russia. The number is said to be about 250. Is the figure of 1,000 exaggerated? It seems to have been a number to gain the sympathy of the world. After civilians were rescued, many Ukrainian soldiers were left underground and their lives were feared.
 Later, the President of Ukraine announced that the duty of Ukrainian soldiers underground was over. They were taken to the Russian side as prisoners of war by Russian soldiers. The number is said to be 500. An adviser to the mayor of Mariupol reported on May 24 that 22,000 Mariupol residents had been killed in a three-month battle. Will this war end? Ukraine cannot be said to have lost because it receives Western aid. Russia cannot say that it has lost. In the end, it will be a discussion between the two parties with a third party.
 Voices fleeing Russia are heard in various countries. Japan has also evacuated Russia through economic sanctions. In a newspaper the other day, it was reported that Russia is doing the same thing as Japan before it. These were two items: a newspaper column and a reader's post. To me, Russia today and Japan in the Nisshin War have different war circumstances. In the past, Japan had a request from the emperor of Korea at that time. Japan then fought and won against the Shin Army, which was ruling the Korean Peninsula at the time. By the way, the Japanese army is said to have died 13,000 in this war. As a result of the war, Japan ruled the Korean Peninsula and Taiwan as colonies.
 In the Ukrainian War, Russia claimed to have invaded to regain Ukraine, once one of the constituent states of the former Soviet Union, centered on Russia. The circumstances between Russia today and Japan in the Japan & Shin War are completely different, so it is impossible to make comparisons. The killing of Russian soldiers on the battlefield against Ukrainian civilians is as tragic as reported in the media. Japanese soldiers during the Japan-Shin War era were prohibited by military discipline from looting civilian belongings, so it seems that there were none. However, there seems to have been information that some Japanese soldiers had entered private houses to procure food.
 At the end of the Pacific War, the Battle of Okinawa, in which American troops landed on Okinawa and fought against the Japanese, seems to have developed a situation similar to the current Ukrainian War. In this war, 94,000 Okinawan civilians were killed in a short period of three months. The American soldiers did not enter private homes, loot food, loot electrical appliances, and kill residents, as the current Russian soldiers did. The US entered the territory of another country (Okinawa) and fought the war, so it is similar to Russia in the current Ukraine war. The US 76 years ago was doing something similar to Russia today.
 There is a record that the number of Japanese civilians who died in the Pacific War was 500,000 to 1 million. The victims of war are defenseless civilians, and this will not change as times change.

            2022.6.10

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2022年、初夏の庭
  今年の初春の頃、好天が長く続いたせいか、春から初夏にかけて咲く庭の花の数は、例年に比べ異常に多かった。ツツジ、サツキ、牡丹、芍薬、シャクナゲなど多くの花で庭は賑やかであった。当地の梅雨入りは、関東に比べひと月ぐらい遅く、6月の後半であった。梅雨に入っても雨らしい雨は一向に期待できず、降っても小さな粒の雨であった。その間曇天の日が1週間以上続き、6月25日から空は貼れ上がった。福島中通の福島市あたりは、大雨のニュースがテレビで見られたが、当地では大雨はなく、このまま梅雨明けになるのかと心配であった。
 6月29日、福島県は梅雨明けになった。梅雨は2週間の短い期間であった。当地の中央を流れる久慈川は茨城県北部を流れ、東海村を通って大平洋に注ぐ。この川は、地域の米作りに重要な水資源である。川の源流は、栃木県県境にある八溝山であるので、この付近に大雨があると、水不足の心配はない。
 我が家の前には、東の山から流れる沢がある。雨が多い梅雨時は、沢の水量も多くなり、音を立てて水が流れる。今年は雨が少ないので、沢の水の流れも少ない。土地の人の話によると、どんなに雨が降らなくても、この沢は水が干上がることはないと言う。確かに20年以上、私はこの沢を見てきたが、一度も枯れたことはない。6月の末には、昼間、蛍が庭に飛んでくる。蛍の飛び方はのんびりしているので、これは蛍だとすぐわかる。今年はまだこの飛んでくる蛍を見ない。20年前は、7月になると、蛍が沢の上あたりに4~5匹飛んでいたが、2、3年前からこの数が少なくなり、1、2匹になった。今年はどうやら蛍はいなくなったかもしれない。
 7月に入ると、春の花はほとんど終わりになる。これから咲く花は、クレマチス、アメリカフヨウ、フロックス、キキョウなどである。少し遅れて、カサブランカというゆりが咲き始める。真夏に咲くヒマワリ、朝顔は、種を撒いて、育てているが、6月の終わりの頃はまだ10cmの高さにもならない。今年は、妻がホウセンカの種を買ってきて、鉢に撒いた。それは成長が早く、6月末に、植え替えを済ませたところである。朝顔は数年前から「ヘブンリブルー」という青色の朝顔を植えるようになった。この品種の朝顔は、咲き始めが普通の朝顔に比べ遅いようで、咲き終わりも10月頃までである。
 今年のこの朝顔は、成長がゆっくりで、6月末で、5cmの高さぐらいである。1本だけ20cmぐらいに伸びた朝顔があった。この朝顔は、地面を這っていたので、つるを起こして、棒を立てて、紐で固定した。その時、葉の表裏がひっくり返ってしまった。このままでは葉の光合成はできないので、心配していた。数時間後この葉を見てみると、表の葉が上になっていたので、安心した。この植物の能力はどうなっているのか? 裏表を感知する機能がどこにあるのか? 葉を回転させる力は何処から発生しているのか? 考えていると不思議であり、自然の仕組みの素晴らしさを感じる。これらは、おそらく植物学者により解明されているであろう。まだでなければ、このメカニズムの解明は立派な博士論文になるであろう。
 我が家には毎年、多年草のフロックスが発芽し、成長して高さ70cmの大きさに成長する。このフロックスは、根元から50本ぐらいの枝が生え、全体の枝の形がきれいな半円状になる。中央付近の枝は高く成長し、周りの端にいくに従って、枝は短くなり、地を這うように成長する。1本だけ飛びぬけて伸びることは決してない。毎年、この均整のとれた形を見て、私は感心している。形を整えるのに、どこが指令を出し、それをどのように受け取って、枝の高さを決めているのだろうか? 枝に頭脳があるのだろうか?
 日立のコマーシャルソングに、「この木なんの木、気になる木・・・」という歌があり、その木の映像が出る(この木を仮に日立の木という)。これは、周囲になにもない平原に1本だけ生えた大きな木であり、形は平らな半円状である。この木の均整の取れた半円状の形が不思議である。自然にこのような形になったのであろうか。周りに何もないので、強風で木が倒れるのを避けるために、このような形になったのであろうか。
 日本では、桜の木が丘陵とか農地に1本立っていることがある。桜は昔から大切にされているので、古い木が多い。福島県では、三春の滝桜、戸津辺の桜、花園しだれ桜などが知られている。これらは、丘陵地あるいは農地に1本立っており、周囲には木など何もない。これらの桜は、日立の木のように強風で木が倒れないように、形が平らな半円状になっていたと思われる。樹齢600年以上経っているので、その間、人手が加わり、今の木の形はきれいな半円状ではない。しかし、これらの桜の以前の形は、日立の木と同じような半円状であったと想像される。

      2022.7.10
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English
Miscellaneous-notes
Garden in early summer 2022
   Around the beginning of this year, perhaps because the good weather lasted for a long time, the number of flowers in the garden that bloomed from spring to early summer was unusually large compared to usual. The garden was bustling with many flowers such as azaleas, satsuki, peonies, shakuyaku, rhododendron and many more. The rainy season in this region began about a month later than in the Kanto region, and in the second half of June. Even in the rainy season, rain like rain could not be expected at all, and even if it did, it was a small grain of rain. During that time, cloudy days continued for more than a week, and the sky cleared up from June 25. In the area around Fukushima City in Fukushima Nakadori, news of heavy rain was seen on TV, but there was no heavy rain in this area, and I was worried that the rainy season would end as it was.
 On June 29, the rainy season in Fukushima Prefecture came to an end. The rainy season was a short period of two weeks. The Kuji River, which flows through the center of the area, flows through northern Ibaraki Prefecture and flows through the village of Tokai into the Taiheiyo Ocean. This river is an important water resource for rice cultivation in the region. The source of the river is Mount Yamizo on the border of Tochigi Prefecture, so if there is heavy rain in this vicinity, there is no worry about water shortage.
 In front of our house is a stream that flows from the mountains on the east side. During the rainy season, when there is a lot of rain, the amount of water in the creek also increases, and the water flows with a noise. There is little rain this year, so the water flow of the creek is also less. According to local people, no matter how little rain there is, the creek will never dry up. Sure enough, for over 20 years I've seen this creek, but it has never withered. At the end of June, fireflies fly into the garden during the day. The way the fireflies fly is so leisurely that I can tell right away that this is a firefly. I haven't seen this flying firefly yet this year. Twenty years ago, in July, there were 4 or 5 fireflies flying over the creek, but since two or three years ago, this number has decreased to 1 or 2. This year, the fireflies may be gone.
 As we enter July, spring flowers are almost over. The flowers that will bloom from now on are clematis, American butterfly, phlox, and kikyo. A little later, the lilies of Casablanca begin to bloom. Sunflowers and morning glory, which bloom in mid-summer, are sown and nurtured, but at the end of June they are not yet 10 cm high. This year, my wife bought spinach seeds and sowed them in a bowl. It is growing quickly and has just been replanted at the end of June. For several years now, the morning glory has been planted with a blue morning glory called "heavenly blue." The morning glory of this variety seems to start blooming later than ordinary morning glory, and the end of bloom is also until around October.
 This morning glory this year is growing slowly, and at the end of June, it is about 5 cm high. There was only one morning glory that stretched to about 20 cm. This morning glory was crawling on the ground, so I raised the vine, set up a stick, and fastened it with a string. At that moment, the front and back of the leaf were turned upside down. In this state, the leaves could not photosynthesize, so I was worried. When I looked at this leaf a few hours later, I was relieved to see that the front leaf was on top. What is the capacity of this plant? Where is the function to sense the inside and outside of leaves? Where does the force that moves the leaves come from? It is strange to think about it, and I feel the wonder of the mechanism of nature. These have probably been elucidated by botanists. If not, elucidating this mechanism would be a worthy doctoral dissertation.
 Every year in our house, the perennial flox germinates, grows to a size of 70 cm in height. This phlox has about 50 branches growing from the root, and the shape of the phlox branch becomes a clean semicircle. The branches near the center grow high, and as the branches go to the edges around them, the branches become shorter and grow like crawling on the ground. Only one tree will never grow high. Every year, seeing this well-proportioned shape, I'm impressed. Which part gives the command, how does it receive it, and determines the height of the branches to shape it? Is there a brain in the branch?
 In a Hitachi commercial song, there is a song called "What kind of tree is this tree, the tree you care about...", and a video of that tree comes out (this tree is tentatively called a Hitachi tree). This is a large tree that grows only one tree on a plain with nothing around, and is flat and semicircular in shape. The well-proportioned semicircular shape of this tree is strange. Did it naturally take shape this way? Since there is nothing around, did it become such a tree shape to avoid falling down due to strong winds?
 In Japan, there is sometimes a single cherry tree standing in a hill or on farmland. Cherry blossoms have been cherished since ancient times, so there are many old trees. In Fukushima Prefecture, the waterfall cherry blossoms of Miharu, the cherry blossoms of Tozube, and the weeping cherry blossoms of Hanazono are known. They stand alone in hills or farmland, with no trees around. These cherry blossoms are thought to have been flat and semicircular in shape so that the tree would not fall down in strong winds like the Hitachi tree. The tree is more than 600 years old, so during that time, manpower has been added, and the shape of the tree now is not a clean semicircle. However, it is imagined that the previous shape of these cherry blossoms was semicircular like that of the Hitachi tree.

            2022.7.10
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安倍元首相
  2022年7月8日、安倍元首相は、奈良市、近鉄大和西大寺駅付近で銃撃され、死亡した。犯人は、41歳の男性で、現在取り調べを受けている。犯人の家庭状況がマスコミで詳しく報道され、犯人が事件を起こした動機などが報道された。彼(犯人)の母親は旧統一教会(現、世界統一家庭連合)の信者で、教会に約1億円の献金を行い、そのため家庭は破産状態になり、その日の食べ物にも不自由したと言われる。犯人は教会への恨みを持ち、このような犯行に至った。
 犯人は、教会の幹部を殺害しようと考えたが、本部がある韓国へは、銃器を持って入国するのは不可能と思い、国内の教会関係者を探した。犯人は、教会のSNSで、安倍元首相がビデオメッセージを出しているのを見つけ、彼を殺害しようと決めたようである。安倍元首相の行動は、SNSで分かるようで、岡山での安倍元首相の遊説の際も、犯人は岡山まで出かけた。その後、奈良市にも来ることが知れ、殺害現場で犯行を決めたようである。
 このニュースの後、旧統一教会に関する情報が詳しく報道された。この教会は、最近、話題が聞かれなかったが、この事件をきっかけに詳しく知ることができた。入信した信者が、多額の献金を求められたり、返金要求などの話題が報じられた。また、多額の献金を求められるのは日本の信者だけで、他の国ではそのような要求はないこと、などが報道された。韓国の教会本部は、多くの資金が日本から得られるので、経済的には潤っていたのであろう。韓国にある教会の本部の映像が、テレビで紹介された。広い敷地に、立派な白い建物が映っていた。これらの維持費は、日本からの献金で支払われているのであろう。
 安倍元首相の事件で旧統一教会と日本の政治団体、特に自民党との関係が明らかにされつつある。教会の信者の数は多く、選挙での有権者の数は容易にまとまるので、政治家が教会に関与するのは当然かもしれない。先の参議院選挙で、教会の有権者の割り振りで当選した議員の顔が、テレビに映し出された。今後教会との関係で選出される議員は増えるであろう。創価学会と公明党との関係は明確で、暗いニュースはない。旧統一教会は、政治家の議員とつながりを持ちたいのであれば、公明党のような別の新しい政党をつくるべきであろう。その政党は、日本で問題になっている献金、集団結婚などで困っている信者に、救いの手を差し伸べるべきであろう。現状のままでは、教会に無関係の自民党員などは迷惑するのではないか。
 安倍元首相の事件で、安倍氏の写真や動画がテレビで度々出た。私はこれを見て、学生時代、山口出身の友人の顔を思いだした。彼は安倍氏とは無関係であったのであろうが、顔の感じがよく似ていた。これは山口の顔であろうか。私も50年ぐらい前に、義理の姉から「あなたは岡山の顔だ」と言われた。私の丸みを帯びた顔は、第三者から見れば岡山の顔かもしれない。父は岡山出身で、母は九州出身であり、私は父側の血をひいたのであろう。また学生時代に、岡山県出身の友人がいたが、彼も丸みを帯びた顔をしていたのを思い出す。地方には、それぞれの特徴のある顔があるのであろうが、東京や横浜などでは、地方から来た人が多くなっているので、その土地の顔はなくなっている。

      2022.8.10
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English
Miscellaneous-notes
Former Prime Minister Shinzo Abe
   On July 8, 2022, former Prime Minister Shinzo Abe was shot dead near Kintetsu Yamato-Saidaiji Station in Nara City. The perpetrator, a 41-year-old man, is now under investigation. The family situation of the perpetrator was reported in detail in the media, and the motive for the crime was reported. His mother was a member of the former Unification Church (now the World Unified Family Union) and made a donation of about 100 million yen to the church. As a result, the family went bankrupt and was said to have been crippled by the day's food. The perpetrator had a grudge against the church and committed such a crime.
 The perpetrator wanted to kill a senior member of the church, but he thought it impossible to enter South Korea, where the headquarters is located, with a firearm, so he searched for church officials in Japan. The perpetrator appears to have found former Prime Minister Shinzo Abe posting a video message on the church's social media account and decided to kill him. Former Prime Minister Shinzo Abe's actions seem to be understood on SNS, and when former Prime Minister Shinzo Abe campaigned in Okayama, the perpetrator went out to Okayama. After that, it was learned that he would come to Nara City, and it seems that he decided to commit a crime at the murder scene.
 After this news, information about the former Unification Church was reported in detail. The church has not been heard about recently, but this incident has given us more information. It was reported that believers had been asked to make large donations or demanded refunds. It was also reported that only Japan believers were required to make large donations, and that there was no such demand in other countries. The church headquarters in Korea must have been economically profitable because a lot of money came from Japan. A video of the church's headquarters in South Korea was shown on television. On the large grounds, a splendid white building was reflected. These maintenance costs may have been paid for by donations from Japan.
 The case of former Prime Minister Shinzo Abe is revealing the relationship between the former Unification Church and Japan political groups, especially the Liberal Democratic Party. The number of believers in the church will be large. And since the number of voters in elections is easily assembled, it may be natural for politicians to be involved in the church. In the recent House of Councillors election, the face of a member of parliament who was elected by the allocation of church voters was shown on television. In the future, the number of members elected in relation to the Church will increase. The relationship between Soka Gakkai and the Komeito Party is clear, and there is no bleak news. If the former Unification Church wants to connect with politicians, it should create another new political party like the Komeito Party. The party should help Japan believers who are suffering from offerings, group marriages, etc. As it stands, wouldn't LDP members who have nothing to do with the church be a nuisance?
 In the case of former Prime Minister Shinzo Abe, photos and videos of Mr. Abe frequently appeared on television. When I saw this, I was reminded of the face of a friend from Yamaguchi when I was a student. He may have had nothing to do with Mr. Abe, but the feeling on his face was very similar to Mr. Abe's. Is this Yamaguchi's face? About 50 years ago, my sister-in-law told me, "You are the face of Okayama." My rounded face may be the face of Okayama in the eyes of others. My father was from Okayama and my mother was from Kyushu, so I must have drawn blood from my father's side. I also remember that when I was a student, I had a friend from Okayama Prefecture, and he also had a rounded face. Each region may have its own distinctive face, but in places like Tokyo and Yokohama, the number of people who come from the regions is increasing, so the face of the land is gone.

            2022.8.10
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樹の漢字表
  私は、この樹の漢字表を毎日眺めている。私は、毎朝トイレに行くことを習慣としており、便器に座るとその前にこの漢字表があるので、暇つぶしに眺めているのである。この表は、私達が北海道の大雪山系の黒岳を見に行ったツアーで、黒岳ペアリフトの終点駅の売店で買ったものである。このツアーは、札幌市からの日帰りバスツアーであり、我々は、バスで札幌から旭川市を通り、39号を通って、上川町に入り、黒岳ロープウェイの麓の黒岳駅で降りる。そして、ロープウェイの山頂駅から、少し歩いて黒岳ペアリフトに乗り、黒岳の近くの駅で降りる。私は、最後の駅の売店でこの漢字表を買った。これは、日本手ぬぐいに、120字の漢字が印刷されたものである。私は、これをカメラに撮って、パソコンでA4サイズに印刷した。
 日本には樹の種類は約1200あると言われているが、1字だけの漢字で示される樹は、そんなに多くはないであろう。縄文杉、秋田杉、ヒマラヤスギなど、1字以外で名付けられている樹を含めると、1200種ぐらいになるのであろう。我が家の庭に植えてある1字の樹は、梅、椿、槿(ムクゲ)、柿だけである。2字以上の名前では、白木蓮、コブシ、マロニエ、山茶花、雪柳、花水木などを植えている。我が家の樹でも1字の樹は少ない。
 木へんに春夏秋冬を付けた漢字は、椿、榎、きささげ(パソコンには入っていないが、木へんに秋とかく)、柊(ひいらぎ)と4文字揃っている。東西南北では、センダン(木へんに東と書く)、木へんではないが栗、楠(くす)の3文字であり、北はない。神仏では、榊(さかき)、木へんに佛と書いてシキビという漢字がある。榊は祭りごとなどによく見かけるが、シキビはどのような葉であるか全く分からない。父母、男女では、栂(つが)、桜があり、男関係の漢字は全くないのが面白い。
 樹木の種類では、杉が一番多いであろう。全国の造林の約40%が杉といわれる。第二次世界大戦後、日本の復興のため、政府が杉の植樹を奨励した。そのため、本州以南では至る所に杉林がある。当地矢祭町でも目に入る山、森では杉が目につく。矢祭町北の隣町の塙町は、杉の木材の集積地が数か所あり、伐採された杉の木材が山のように積まれている。県道や国道にはその木材を積んだトラックが多く見られる。道路には杉の皮の切れ端がよく落ちている。都会の道路では荷物車から落ちた平たい黒ゴムが時折見られる。当地では、黒ゴムの代わりに杉の皮である。杉が多く植えられているのは、杉が建築用などに広く用いられるからであろう。杉はまっすぐ伸び、成長も早いので重宝されている。
 木へんの漢字がつく名前(姓名)は比較的多いが、一部のなじみの木に限られている。私は毎朝この漢字表を眺めて、名前を思い出し、その顔も思い出し、懐かしがっている。松では、松永、松本、松元、松下など、結構多い。何れも私が会社勤めをしていた頃の人々である。松の他は、梅田、梅本、杉田、柳本、片桐など。檜山、楢原、梶山のうち、楢原氏は、私が勤めていた会社で、情報関係の仕事をしていた。私は、勤務中彼とよく顔を合わせていたので、30年経った今でも、その顔を鮮明に覚えている。

      2022.9.10
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English
Miscellaneous-notes
Kanji Table of Trees
   I look at the kanji table of trees every day. I make it a habit to go to the toilet every morning, and when I sit on the toilet bowl, there is this kanji table in front of it, so I look at it to kill time. This table was bought at the kiosk at the terminus of the Kurodake Pair Lift when we went on a tour to see Kurodake in the Daisetuzan Mountains in Hokkaido. This tour is a day bus tour from Sapporo City, we pass from Sapporo by bus through Asahikawa City, go through No. 39, enter Kamikawa-cho, and get off at Kurodake Station at the foot of the Kurodake Ropeway. Then, from the ropeway's summit station, take a short walk to the Kurodake Pair Lift and get off at a station near Kurotake. I bought this kanji table at the last station kiosk. This is a Japan washcloth with 120 kanji characters printed on it. I took this on camera and printed it on A4 size on my computer.
 It is said that there are about 1,200 types of trees in the Japan, but there are probably not so many trees that are indicated by only one kanji. If we include trees that are named outside of one character, such as Jomon cedar, Akita cedar, there are probably about 1,200 species. The only trees planted in our garden are plums, camellias, starlings, and persimmons. In names with more than two letters, they have planted Shiraki Lotus, Kobushi, Maronnier, Sazanka, Snow Willow, Hanamiduki and others. Even in my garden, there are few trees with one letter.
 The kanji with spring, summer, autumn, and winter attached to Kihen are Tsubaki, Enoki, Kisage (which is not included in the PC, but this is Aki to Kihen), and 柊 (Hiiragi). In the east, west, north and south, there are three letters: sendan (written east in kihen), chestnut (not kihen), and kusu. There is no north. In the Shinto Buddha, there is the god Sakaki (榊), and there is a kanji for shikibi written as 佛 in kihen. Sakaki is often seen at festivals, but I have no idea what kind of leaves Shikibi is. It is interesting that in parents, men and women, women have tsuga and sakura, and there are no kanji for male characters at all.
 Among the types of trees, cedar would be the most common. It is said that about 40% of the plantation in Japan is cedar. After World War II, the government encouraged cedar trees to be planted for the reconstruction of the Japan. Therefore, there are cedar forests everywhere south of Honshu. Even in Yamaturi-machi, cedar trees can be seen in the nearby mountains and forests. Hanawa-machi, a neighboring town to the north of Yamaturi-machi, has several clusters of cedar lumber and piles of felled cedar timber. On prefectural roads and national highways, many trucks loaded with the wood can be seen. Scraps of cedar bark often fall on the road. On urban roads, flat black rubber that fell from luggage cars is occasionally seen. In this area, it is cedar bark instead of black rubber. The reason why many cedars are planted is probably because cedars are widely used for construction. Cedar grows straight and grows quickly, which is useful.
 Kihen's kanji-inspired names are relatively numerous, but limited to a few familiar trees. I look at this kanji table every morning, remember the name, remember its face, and feel nostalgic. In Matsu, there are many such as Matunaga, Matumoto, and Matusita. These are all people from when I was working for the company. In addition to Matsu, there are Umeda, Umemoto, Sugita, Yanagimoto, Katagiri, etc. Of Hiyama, Narahara, and Kajiyama, Mr. Narahara worked as an information worker at the company I worked for. I used to see him a lot when I was on duty, and I still remember him well 30 years later.

            2022.9.10
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転居 
  3年も続くコロナ禍と私自身の高齢化で、私達の遠出は全くなくなった。従ってこの雑記の話題も少なくなり、身辺の話題になってしまう。この転居の話題は、私の父母の家族の転居と、私自身の家族の転居(次回)について記してみたい。最初、父母夫妻は、父の勤務地である長崎市に新居を構え、そこで長兄、長女、次女を出産したようである。これは私の想像であり、事実は違うかもしれない。父は、定年退職後、小説家として小説を執筆し、その本を5、6冊自費出版していた。私にもその本は送られてきたが、一度もそれらの本を読んだことがない。多分、それらの本の中に、家族の転居などについて述べているかもしれない。
 父母の家族は、その後3人の子供を連れて台湾へ渡り、父は台湾中南部の嘉義市の学校に転勤になったようである。その嘉義市で私と弟が生まれた。これは、私の戸籍謄本で明記されている。それによると、私の出生地は、台湾台南州嘉義市宮前町6丁目となっている。グーグルマップで嘉義市の宮前町は何処にあるのか調べたが、宮前町はなく、宮前村は明記されていた。その村は、中心部である嘉義駅から北西へ相当離れた所で、嘉義市ではない。
 その後、家族は台中市へ移り、父は台中市の学校の教師になり、住まいは市内の官舎に移った。この辺りから、私は土地の記憶が少し残っている。この台中市の官舎には3年ぐらい住み、私は4~6歳ぐらいであったであろう。官舎の前は広い道路があり、その向こうには学校(明治女学校?)があった。官舎は平屋の2軒続きで、家の玄関の前は狭い植え込みがあり、門の外には水路があった。家の右隣はやや広い立木の森があり、造園業者の所有のようであった。道路の右端奥には、私が当時よく遊んでいた女の子の家があった。彼女は日本人が台湾人か分からない。
 その後、戦争が激しくなり、台中市も爆撃されるかもしれないので、家族は台湾の北東に位置する宜蘭(ぎらん)県の山裾に疎開した。まもなく終戦になり、一家は、台北市を経由して近くの基隆(きーるん)の港から引揚船に乗り、和歌山県の白浜に無事帰国した。一家は、当時引揚者の一時集合地である京都市に行き、そこから列車で久留米市に向かった。久留米には、市の郊外に母方の親戚(黒岩氏)の大きな家があり、そこに一時間借りして住んだ。その間、父は教師の職を探し、久留米市内の学校に職を見つけた。と同時に、一家も久留米市内に移住した。
 久留米駅から西へ400mの所には、筑後川があり、その川沿いに水天宮がある。駅から筑後川に向かって水天宮通りがあり、筑後川につきあたった所に水天宮がある。その目の前に玉置家があった。玉置家は母の遠縁で、その玉置家の紹介で、一家の転居先をきめたようである。転居先は、玉置家から駅方向約40m先に2階建ての米屋があり、その米屋の2階部分である。どのような間取りになっていたのか分からない。米屋のすぐ西隣は神社の焼け跡のようで、広々していた。私達は、そこで遊んだり、近くの水天宮の広い境内で遊んだりした。現在玉置家の建物や米屋はなくなっており、アパートが2棟建てられている。
 久留米には2、3年いたであろうか。その間、父は郷里の岡山に職を探していたようである。岡山には父の兄弟が住んでおり、その長兄は顔が広く、面倒見がよかった。そのおかげで、父は倉敷市の青陵高等学校の教師の職を見つけた。
 一家は、岡山県都窪郡帯江村帯高(現在、倉敷市帯高)に、大きな屋敷を持つ片山家に転居した。片山家は、父方の遠縁にあたり、土地の庄屋のような地位にあった一家であった。敷地内には3箇所(6畳、3畳、8畳)の離れがあり、そこに家族は住んでいた。グーグルマップの航空写真では、「つくぼ片山家」の屋敷が映っている。父と長女は、片山家から歩いて約4km離れた倉敷市内の青陵高等学校に通っていた。最初は徒歩であったが、バスと自転車による通学に変えたようであった。私と次女、弟は約1.5km離れた茶屋町中学校、小学校に徒歩で通っていた。私と弟は、普段は裸足で、冬は下駄かぞうりでの通学であった。
 この片山家には3~4年住んだ後、一家は岡山県吉備郡常盤村溝口(現在、総社市溝口)に借家を借りて引っ越した。父は近くの総社西中学校の校長として赴任した。この借家には約20年ぐらい住んでいたと思われる。その間、2人の姉は倉敷市内に嫁ぎ、私は徳島へ、弟は京都へ出て行った。長兄は、久留米時代から東京に勉学、就職していた。姉達が嫁いだ後、母は病気で死去し、一人残った父は、弟の住む大阪へ身を寄せた。これで父の家族の子供達は家族を離れ、一家が集まる家はなくなった。この借家で、家族としての転居は計8回であった。

      2022.10.10
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English
Miscellaneous-notes
Family relocation 1
  With the corona pandemic that lasted for three years and my own aging, our outings were completely gone. Therefore, the topic of this miscellaneous note becomes less and becomes a topic of personal attention. On the topic of this relocation, I would like to write about the relocation of my parents' family and the relocation of my own family (next time). Initially, my father and mother set up a new home in Nagasaki City, where my father worked, where they gave birth to their eldest brother, eldest daughter, and second daughter. This is just my imagination and the facts may not be. My father wrote novels as a novelist after retirement and self-published five or six of them. I've been sent the books, but I've never read them. Maybe in those books my father talks about family relocation and so on.
 My parents' family then went to Taiwan with their three children, and it seems that my father was transferred to a school in Kagi City in south-central Taiwan. My brother and I were born in Kagi City. This is clearly stated in my family register. According to it, my place of birth is 6-chome, Miyamae-cho, Kagi City, Tainan Province, Taiwan. I looked up where the town of Miyamae in Kagi City was located on Google Maps, but there was no Miyamae Town, and the village of Miyamae was clearly stated. The village is located a considerable distance northwest of the central Kagi Station, not the city of Kagi.
 After that, my family moved to Taichung City, my father became a school teacher in Taichung City, and our residence moved to a government house in the city. From this area, I have a few memories of the land. We lived in this government house in Taichung for about 3 years, and I must have been about 4 or 6 years old. There is a wide road in front of the government house, and beyond that is a school (Meiji Girls' School?). The government house were two one-story houses, with narrow shrubbery in front of the front door and a waterway outside the gate. To the right of the house was a rather large forest of standing trees, which appeared to be owned by a landscape architect. At the far right end of the road was the house of a girl I used to play with at the time. She doesn't know if Japan people are Taiwanese.
 Later, as the war intensified and Taichung City could be bombed, the family was evacuated to the foot of the mountain in Gilan County, northeast of Taiwan. The war soon ended, and we boarded a salvage ship from the nearby port of Keelung via Taipei City and returned safely to Shirahama in Wakayama Prefecture. We went to Kyoto City, which was a temporary meeting place for the repatriated people at that time, and from there we headed to Kurume City by train. In Kurume, there was a large house of a maternal relative (Mr. Kuroiwa) on the outskirts of the city, and we rented and lived there for a while. In the meantime, my father looked for a job as a teacher and found a job at a school in Kurume City. At the same time, we moved to Kurume City.
 400m west of Kurume Station is the Chikugo River, along which is Suitengu. From the station, there is Suitengu Street towards the Chikugo River, and there is Suitengu next to the Chikugo River. In front of them was the Tamaoki house. The Tamaoki family was a distant relative of my mother, and it seems that the introduction of the Tamaoki family decided where we would move. The place to move was a two-story rice shop about 40 meters away from the Tamaoki house in the direction of the station, and it was the second floor of the rice shop. I don't know what the floor plan was. Immediately to the west of the rice shop was spacious, like the burnt ruins of a shrine. We played there and in the large precincts of nearby Suitengu. Today, the Tamaoki family's houses and rice shop are gone, and two apartments have been built.
 Have we been in Kurume for two or three years? In the meantime, it seems that my father was looking for a job in his hometown of Okayama. My father's brother lived in Okayama, and his eldest brother had a wide face and was well taken care of. Thanks to this, my father found a job as a teacher at Seiryo High School in Kurashiki.
 Our family moved to the Katayama family with a large mansion in Obitaka, Obie Village, Tukubo District, Okayama Prefecture (now Obitaka, Kurashiki City). The Katayama family was a distant relative of my father's side and had the status of a land shoya. There were three rooms (6 tatami mats, 3 tatami mats, and 8 tatami mats) on the premises, where our family lived. Aerial photographs on Google Maps show the buildings of the Tsukubo-Katayama House. The father and eldest daughter attended Seiryo High School in Kurashiki City, about a 4km walk from the Katayama family. At first, it was on foot, but it seems that they changed to commuting by bus and bicycle. Me, my second daughter, and my brother walked to Chayamachi Junior High School and Elementary School, which are about 1.5 km away. My brother and I usually go to school barefoot, and in the winter we commute to school in Geta or Zouri.
 After living in this Katayama house for 3 to 4 years, we rented a rented house in Mizoguchi, Tokiwa Village , Kibi District, Okayama Prefecture (currently Mizoguchi, Soja City), and moved there. My father was assigned as the principal of the nearby Soja Nishi Junior High School. We must have lived in this rented house for about 20 years. In the meantime, my two older sisters married in Kurashiki, I went to Tokushima and my brother went to Kyoto. My eldest brother had been studying and working in Tokyo since our Kurume days. After my sisters married, my mother died of illness, and my father, who was the only one left, moved to Osaka, where my brother lived. With that, the children of my father's family left the family and the house where the family gathered was gone. In this rented house, we have moved as a family a total of eight times.

            2022.10.10
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転居2
  ここでは、私が父母の家族を離れた後の、私の転居について記す。私は、大学入学のため徳島市に住んだ。最初は知り合いの紹介で、徳島大学の事務職員の家に仮住まいした。そこは、市の西の端の蔵本町にある徳島大学蔵本キャンパスの近くであった。このキャンパスには、医学部と薬学部がある。私が入学した工学部は、東の端の常三島町にある。仮住まいから工学部に行くには、バスで行かなければならないので、私は下宿先を工学部の近くに探した。その結果、助任町の民家の1室を借りることにした。ここは、工学部に行くのに、歩いて10分ぐらいの所にある。食事は、大学の学生食堂で全て用をたした。1年ぐらいして、私はこの下宿から近くの工学部長宅に転居した。部長宅は、2階建ての本宅と2部屋の離れがある、大きな邸宅であった。そこに、私と応用化学科の同期の3人が、卒業まで下宿することになった。
 卒業後の就職先は、京都市にある第一工業製薬で、転居先は会社の独身寮である「洛西寮」である。ここは、京都市右京区樫原町で、会社までバスで通った。洛西寮は、男性の独身者専用で、1室に2人入れられた。私の同室の相手は、阪大法学部出身の荒井氏であった。彼はその後僧侶になり、インドあたりに修行に行き、その後私とは音信不通になった。今、生きているかどうか分からない。私は、この会社に3年近くいて、その後横浜の日本ポリウレタン工業の技術研究所に転職した。会社の独身寮は、東横線の日吉駅近くの「日吉寮」であり、そこに私は京都から転居した。この寮は、木造2階建てで、10部屋あり、1部屋に1人住むことができた。
 この会社の寮は、当然会社の同僚が利用し、会社が引けても寮で同僚と一緒になる。24時間、同じ顔触れと顔を付き合わせるので、窮屈であった。私は、2年後その寮を出て、根岸線の山手駅近くの中区豆口台にある「斎藤アパート」に転居した。ここは個人が経営する2階建て4部屋のアパートである。このアパートは、駅から歩いて10分ぐらいの所にあり、便利は良かった。食事は、根岸線の桜木町駅近くの繁華街で行った。
 このアパートに1年ぐらい住んだ後、私は今の妻と結婚した。結婚と同時に会社の社員寮である保土ヶ谷区の狩場町社宅に入居した。私はこの社宅に6年間住んだ。勤務先の研究所は、相鉄線の天王町駅近くにあり、私は徒歩で約2kmの道を通勤した。その後、私は緑区竹山一丁目にある公団の竹山団地に入居した。この団地は広く、中央に池とショッピングセンターがある。私が購入したのは、ボックス型の4階建ての4階部分で、広さは3LDKであった。子供2人の4人家族で住むにはゆとりがあった。建物は高台にあり、眼下に鴨居町が一望して見渡せた。通勤は、団地から横浜線の鴨居駅までバスで行き、そこから終点の東神奈川駅へ、そこから京浜東北線で横浜駅へ、そこから相鉄線に乗り換え、天王町駅で下車し、徒歩3分で会社へ、という経路である。
 この竹山団地に4年間住み、その後戸塚区上柏尾町の住宅地団地に、約200㎡の土地を買い、自宅を建てた(1977年)。会社の研究所は、天王町から戸塚区秋葉町440番地に新たに建設した場所に移っていた。自宅からその新しい研究所まで約1.5kmあり、私は徒歩で通勤した。私の家族は、この住宅に3年住んだ後、私は会社の工場(山口県新南陽市)に転勤になり、家族の住まいも工場近くの社宅に移った(1980年)。5年後の1985年、転勤になり元の研究所に移籍した。私の自宅は、工場に転勤の際不動産屋を通して、借家にしていた。横浜に戻ることになり、借家人に立ち退いて貰うことにしたが、急には立ち退けないので(賃貸契約のため)、2年間、近くの借家に仮住まいした。この借家は、戸塚区柏尾町の菅原氏宅であり、菅原氏も転勤で自宅を借家にしていた。
 私の家族は、1987年4月から上柏尾町の自宅に戻った。私は、14年間、この家に住み、技術研究所に通い、定年で退職した。定年間際、私は定年後は田舎暮らしをしようと思い、土地を物色した結果、福島県の矢祭町に、町が造成した団地に土地を購入た。そこに、建物を建て、現在に至っている。私は、父の家族から離れて13回の転居をしたことになる。私が生まれてからの転居数では、合計21回になる。これ以上の転居は、もうないであろう。

      2022.11.10
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English
Miscellaneous-notes
Family relocation 2
  Here, I will write about my relocation after I left my parents' family. I lived in Tokushima City to enter university. At first, I was introduced by an acquaintance and temporarily lived in the house of an administrative staff member of the University of Tokushima. It was located near the University of Tokushima Kuramoto Campus in Kuramoto Town, on the western edge of the city. The campus houses the Faculty of Medicine and the Pharmacy Faculty. Engineering Faculty I enrolled in is located in the town of Jyousannjima at the eastern end. To get to the Faculty of Engineering from my temporary residence, I had to go by bus, so I looked for a boarding house near the Faculty of Engineering. As the result, it was decided to rent one of the rooms in a private house in Suketomachi. It's about a 10-minute walk to the Faculty of Engineering. All meals were served in the university student cafeteria. About a year later, I moved from this boarding house to the nearby dean's house of the engineering department. The director's house was a large house with a two-story house and two rooms apart. There, I and three of my classmates from the Department of Applied Chemistry decided to stay there until graduation.
 After graduating, I worked at Daiichi Kogyo Pharmaceutical in Kyoto City, and moved to Rakuseiryuo, a dormitory for single employees of the company. This was Katagihara-machi, Ukyo-ku, Kyoto City, and I took a bus to the office. The Rakusai dormitory was reserved for male singles, and two people were allowed in one room. My roommate was Mr. Arai, a graduate of the Faculty of Law at Osaka University. He later became a monk and went to India to train, after which he lost communication with me. I don't know if he's alive now. I stayed at this company for almost three years, and then I moved to the Technical Research Institute of Japan Polyurethane Industry in Yokohama. The company's dormitory for bachelors is "Hiyoshi Dormitory" near Hiyoshi Station on the Toyoko Line, and I moved there from Kyoto. This dormitory was a two-story wooden building with 10 rooms, and one person could live in each room.
 Naturally, the company's dormitory is used by colleagues at the company, and even after returning from work, we will be with our colleagues in the dormitory. It was depressing because we saw the same face to face for 24 hours. Two years later, I left the dormitory and moved to Saito Apartment in Mamegutidai, Naka-ku, near Yamate Station on the Negishi Line. This is a two-story, four-room house run by a private company. This apartment is about a 10-minute walk from the station, which was convenient. I ate in a downtown area near Sakuragicho Station on the Negishi Line.
 After living in this apartment for about a year, I married my current wife. At the same time as we got married, we moved into the company dormitory of Hodogaya Ku in Karibacho company housing. I lived in this company house for 6 years. The research institute where I work is near Tennocho Station on the Sotetsu Line, and I commuted about 2 km on foot. After that, I moved into the public corporation's Takeyama housing complex in Takeyama 1-chome, Midori-ku. The complex is large and has a pond and a shopping centre in the center. The room I bought was a box-shaped 4-story building with 4 floors and was 3LDK in size. There was plenty of room for a family of four, including two children. The building was on a hill, and I could see Kamoicho below. The route to the company is take a bus from Danchi to Kamoi Station on the Yokohama Line, from here to Higashi-Kanagawa Station, the last stop, take the Keihin Tohoku Line to Yokohama Station, transfer to the Sotetsu Line, get off at Tennocho Station, and walk 3 minutes to the company.
 I lived in this Takeyama housing complex for four years, and then bought a land of about 200 square meters in a residential complex in Kamikashio-cho, Totsuka ku, and built my house (1977). The company's research laboratory had moved from Tennocho to a newly constructed location at 440 Akiba-cho, Totsuka-ku. It was about 1.5km from my house to the new lab, and I walked to work. After my family lived in this house for three years, I was transferred to the company's factory (Shin-Nanyo City, Yamaguchi Prefecture), and my family moved to company housing near the factory (1980). Five years later, in 1985, I was transferred to the research laboratory. When I was transferred to the factory, I rented my house through a real estate agent. Then、I decided to return to Yokohama and ask the tenant to move me out. Tenants can't be evicted suddenly (because of the lease), so we lived in a nearby rented house for two years. This rented house was the house of Mr. Sugawara in Totsuka Ku Kashio Town, and Mr. Sugawara also rented his house due to his transfer.
 My family returned to my house in Kamikashio in April 1987. I lived in this house for 14 years, attended the technical laboratory, and retired at retirement age. When I retired, I decided to live in the countryside after retirement, and as a result of searching for land, I purchased a piece of land created by the town in Yamatsuri Town in Fukushima Prefecture. I built a house there, and it continues to this day. I moved away from my father's family 13 times. Since I was born, I have moved 21 times in total. There will be no more relocations.

            2022.11.10
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転居、余話
  私は、太平洋戦争の終末期に、小さい頃を過ごした。私は、小学校の1~3年生は台湾での疎開や日本への引揚後の2回の転居で、小学校に行く機会がなかった。小学4年生になって初めて小学校に入った。そのため、初期の小学校で習う習字とか唱歌などは、私には無縁であった。漢字の書き順は今でも自己流で、人前で漢字を書くのは避けてきた。言葉のアクセントも正しく発声できない。端、橋、箸のアクセントが何処にあるか、未だ分からないので、私はすべて平坦に発音をしている。柿も蠣(カキ)も平坦に発音しているので、時々妻から訂正される。私は、小学校で唱歌を習わなかったので、歌を歌うのは全く嫌いで、カラオケには一度も行ったことがない。
 私の家族は、私が小学生の頃、岡山県都窪郡帯江村帯高(現在、倉敷市帯高)の片山家に住んでいた。片山家の周囲は田んぼで、用水路の川が流れていた。近くには荒神社があり、小さな広場もあったので、神社前に住んでいたカズ君と私の弟とで野球のまねごとをして遊んでいた。カズ君は母子の2人で暮らしており、母親はミシンで縫物の仕事をしていた。当時のある日、神社で3人が遊んでいた時、片山家から100m離れた農家の隣家(蜂谷氏)の小さな娘が用水路に落ちて、大騒ぎになった。私達は、それを聞きつけて、現場に見に行った。私の母は、私に向かって厳しい顔をして、何処にいたのかと聞いた。私が娘を川に突き落としたのかと、心配していたのであろう。現場では、蜂谷氏が娘の人工呼吸を必死になってやっていた。彼は、軍隊帰りで、人工呼吸のやりかたを知っていたのであろう。娘さんは帰らぬ人となった。用水路は幅2mぐらいで、深さは1mぐらいであった。所々に幅60cmぐらいの石の橋があり、転落の危険性は至る所にあった。
 片山家の主人は、60歳ぐらいの康子氏で、茶道、謡(謡曲)、仕舞の師匠であった。私の母や、当時片山家に間借りしていた和田氏夫人は、師匠からこれらの習い事を習っていた。弟子は付近の人達で、毎日の出入りで片山家は賑わっていた。特に、秋の月見の会は、若い娘達が着物を着て、夕方にやってきた。私は、彼女たちの華やかな姿を遠くから眺めていた。片山家の通常のお茶の習い事は、西の庭に面した4,5畳の和室で行っていたが、お月見の会は、南と西側の広い庭に面した10畳ぐらいの部屋で行っていたと思われる。この会には、母だけがが参加していた。お茶の席ではお菓子が出るが、母はその菓子を子供のために持って帰っていた。当時、甘いものはほとんど食べれなかったので、この菓子は楽しみであった。
 雑記の転居1では、父が倉敷の高校から総社市の西中学校の校長として転勤になった時、家族は片山家から総社市溝口の借家に転居した、と記した。この借家に移る前に一か所、仮住まいをしていたことを私は思い出した。倉敷と総社の間には、なだらかな丘陵地帯がある。その総社側の丘に、備中国分寺という江戸時代に建てられたお寺がある。このお寺の本堂の西端に2階建ての建物があり、私達はその2階にしばらく仮住まいをしていた。期間は1ヶ月ぐらいだろうか。この寺の境内の何処かの建物には、父の実の弟である守屋氏の家族も仮住まいしていた。守屋氏には男3人と女2人の子供がいた。男兄弟の次男は修ちゃん、三男は禎ちゃんと呼んでいた。修ちゃんは、中学3年生ぐらいで、禎ちゃんは、私と同学年であった。
 1950年頃の備中国分寺は参拝者はいなく、境内は広々としており、禎ちゃん達と遊ぶのに好都合であった。境内の西側には小さな池があり、水草が生えていた。境内の塀の外側には五重の塔があり、私達は五重の塔の1段目の板張りの縁側に上り、遊ぶことができた。塔の内部には入れなかったが、格子状の扉からなかを覗き込んだりした。今では、五重の塔の周囲は柵で囲まれ、内に入ることができないようになっている。
 備中国分寺の本堂のすぐ西側には、板張りの部屋があり、そこには卓球台が置かれていた。守屋氏の長男と修ちゃんがよく卓球の練習をしていた。私も誘われて卓球をしたが、それは生まれて初めての体験であった。私が2回目の卓球をしたのは、大学卒業後、就職した第一工業製薬の講堂にあった卓球台である。その卓球台で、昼休みに仲間と卓球を楽しんだ。それ以降は、卓球とは縁がなかった。
 グーグルマップで備中国分寺の航空写真を見ると、境内には色々な植木などがあり、すっかり変わっていた。私達家族が仮住まいしていた2階建ての建物の1階部分は、土産物売り場と観光案内所になっていた。このマップには、多くの備中国分寺の写真が寄せられていて、それらを見ると、今のお寺の様子が分かる。五重の塔の写真は多くあり、塔の遠景は、なだらかな丘陵に塔がそびえていて、のどかな景色になっている。平山郁夫氏もこの寺を訪れて、五重の塔の絵(リトグラフ)を制作していた。
 私達の家族は、この備中国分寺を去って、総社市の溝口の借家に転居した。守屋氏の家族も、JR吉備線の吉備津駅近くの住居に引っ越した。転居2の項では、私の転居は、合計21回と書いたが、この備中国分寺の仮住まいを入れると、22回の転居数になる。

      2022.12.10
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English
Miscellaneous-notes
Relocation, digression
  I spent my childhood at the end of the Pacific War. My 1st to 3rd grade elementary school students were evacuated in Taiwan, repatriated to Japan, and moved twice, so I never had the opportunity to go to elementary school. I entered elementary school for the first time in the fourth grade. As a result, the writing and singing lessons taught in early elementary schools had nothing to do with me. The stroke order of the kanji is still my own style, and I have avoided writing the kanji in public. I can't even speak the word accent correctly. I still don't know where the accents on the edges, bridges, and chopsticks are, so I pronounce them all flat. Both persimmon and oyster are pronounced flat, so my wife sometimes corrects me. I didn't learn singing in elementary school, so I hate singing at all and have never been to karaoke.
 When I was in elementary school, my family lived in the Katayama house in Obitaka, Obie Village, Tsukubo District, Okayama Prefecture (now Obitaka, Kurashiki City). The Katayama house was surrounded by rice paddies and irrigation canals. There was a Kou shrine nearby, and there was a small square, so Kazu, who lived in front of the shrine, and my brother were playing baseball. Kazu lived with his mother, who used a sewing machine to do sewing work. One day, when the three of them were playing at the shrine, the little daughter of a neighbor of a farmhouse (Mr. Hachiya) 100 meters away from the Katayama house fell into the irrigation canal and caused a big uproar. When we heard about it, we went to see it. My mother gave me a stern look and asked me where I was. She must have been worried that I had plunged her into the canal. At the scene, Mr. Hachiya was desperately trying to get his daughter to artificial respiration. He must have known how to perform artificial respiration after returning from the army. Her daughter did not return. The irrigation canal was about 2 m wide and about 1 m deep. There were stone bridges about 60 cm wide in places, and the danger of falling was everywhere.
 The owner of the Katayama house was Yasuko, who was about 60 years old, and was the master of the tea ceremony, Youkyoku, and Shimai. My mother and Mrs. Wada, who was renting to the Katayama house at the time, learned these lessons from the teacher. The disciples were people from the vicinity, and the Katayama house was crowded with people coming and going every day. In particular, at the autumn moon viewing party, young girls came in the evening wearing kimonos. I watched their gorgeous appearance from a distance. The Katayama's usual tea lessons were held in a 4.5-tatami Japanese-style room facing the west garden, but the moon viewing party was probably held in a room of about 10 tatami mats facing the large garden on the south and west sides. Only my mother participated in this meeting. Sweets were served at the tea party, and my mother would bring the sweets home for her child. At that time, I could hardly eat sweets, so I was looking forward to this sweet.
 In Miscellaneous Notes Relocation 1, when my father was transferred from a high school in Kurashiki to Nishi Junior High School in Soja City as a principal, the family moved from the Katayama house to a rented house in Mizoguchi, Soja City. I remembered that before moving into this rented house, we had a temporary residence. Between Kurashiki and Soja, there is a gentle hilly area. On the hill on the side of the Soja is a temple called Bittyukokubunji, which was built in the Edo period. There was a two-story house at the west end of the main hall of this temple, and we lived on the second floor for a while. I wonder if the period is about one month. In some house in the precincts of this temple, the family of Moriya, my father's younger brother, also lived temporarily. Moriya had three male and two female children. The second son of the male brothers was called Shu-chan, and the third son was called Tei-chan. Shu was in the third grade of junior high school, and Tei was in the same grade as me.
 Bittyukokubunji around 1950 had no worshippers and the grounds were spacious, making it convenient to play with Tei-chan etc. There was a small pond on the west side of the precincts, where aquatic plants grew. There was a five-story Tou outside the wall of the precincts, and we were able to climb up to the first level of the five-storied tower and play on the wooden porch. I couldn't go inside the tower, but I peeked inside through the lattice door. Today, the five-story Tou is surrounded by a fence that prevents access to the building.
 Just west of the main hall of Bittyukokubunji was a boarded-up room with a ping-pong table. Moriya's eldest son and Shu-chan often practiced table tennis. I was also invited to play table tennis, but it was the first time in my life. The second time I played table tennis was at the table tennis table in the auditorium of Daiichi Kogyo Pharmaceutical, where I got a job after graduating from university. At that table tennis table, I enjoyed playing table tennis with my friends during my lunch break. After that, I had no connection with table tennis.
 When I looked at the aerial photo of Bittyukokubunji on Google Maps, there were various plants and other things in the precincts, and it was completely different. The first floor of the two-story house where my family lived temporarily was a souvenir shop and a tourist information center. This map contains many photos of Bittyukokubunji. When I look at them, I can see what the temple is like now. There are many photographs of the five-fold Tou, and the distant view of the tower is idyllic with the tower towering over the gentle hills. Ikuo Hirayama also visited this temple and made a five-fold Tou painting (lithograph).
 Our family left Bittyukokubunji and moved to a rented house in Mizoguchi, Soja City. Moriya's family also moved to a residence near Kibitsu Station on the JR Kibi Line. In the section on Relocation 2, I wrote that I have moved 21 times in total, but if I include this Bittyukokubunji temporary residence, I will move 22 times.

            2022.12.10
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春うらら、2023年
  我が家の庭には8本の山茶花を植えている。家屋北側のコンクリートの上に、私が作ったコの字型の植木コーナーに6本の山茶花を、南の庭に2本のピンクの山茶花を、20年前ぐらいに植えてある。この南のピンクの山茶花が、今年は花をいっぱいに咲かせた。今年の晩夏の長続きの日照りで、花が多く付いたのかも知れない。南の庭の2本のうちの1本は、八重の花で、以前住んでいた横浜の家の庭から持ってきたものである。
 南の庭には4本のブルーベリーの木を植えてある。このうちの1本は、15年前から植えており、毎年ブルーベリーの実を多く付けている。他の3本は5年前から植えているが、実は多く付かない。15年前の木は樹勢が強く、根元から4,5本の木を生やして、大きくなっている。大きくなりすぎたので、昨年は木を切ってすっきりさせた。昨年のブルーベリーの収穫期には、約3kgの実を収穫した。実を採って、すぐ冷凍し、1.5kgになったところで、ブルーベリージャムを作った。このジャムは、3本のビンに入れて、毎晩ヨーグルトと混ぜて食べているが、全部食べきるには1年近くかかるであろう。収穫した残りの1.5kgは、テニス仲間の男性に差し上げた。ジャムの作り方のレシピを一緒にあげたので、ジャムを作って親戚などに配ったに違いない。彼からはお礼に「いいちこ」を貰った。私は、その焼酎をお湯割りにして、毎晩少しづつ飲んで楽しんでいる。ブルーベリーが芋焼酎に変身したのは、有り難いことである。
 我が家の庭には甘柿が2本植えてある。これも気候が良かったせいか、昨年は実が50個ほど付いて、豊作であった。以前、柿を干し柿にしたことがあるが、黒くなってしまったので、食べずに捨ててしまった。ネットで調べると、柿のジャムを作るレシピが載っていたので、それを頼りに柿ジャムを作ってみた。このジャムも毎晩ヨーグルトと混ぜて食べている。先のテニス仲間にも、15個の柿をレシピ付きで差し上げた。まだ柿が残っていたので、えがすきクラブの人達に10個差し上げた。これで2本の柿の木は、さっぱりして、新年を迎えることができた。
 晩秋あたりから庭の方々に、ムスカリが細長い葉を出し始めた。雑草と同じように、このムスカリを掘り返しいて抜いているが、多くてきりがない。ムスカリには小さな球根があり、そこから葉を出している。昨年だけでも、50個以上の球根を掘りあげて廃棄した。ムスカリは、春には紫の小さな玉の塊が円錐状に花を咲かせる。春先にはムスカリに交じってクロッカスが葉を出し、黄色や紫の線の入った花を咲かせる。このクロッカスは、ムスカリと同じく球根から葉が出る。ムスカリの球根を除去するとき、クロッカスの球根まで除去するのではないかと、注意しているが、両者の区別は付かない。両者は、春になって花が咲くまで、区別がつかない。クロッカスの花びらは、ヒヨドリの好物らしく、黄色の花が咲くと、ヒヨドリが花びらを食べに来る。黄色だけが好物のようで、他の色の花びらは食べない。
 2023年の関心事は、昨年から始まっているウクライナ戦争であろう。ロシアが始めたこの戦争は、ロシアがウクライナ領土を奪い取るための侵略戦争である。ロシアは、戦力からすると、簡単にウクライナ領土を分捕ることができると思ったに違いない。しかし、ウクライナは、欧米の多大な援助を受けて、ロシアと互角に戦っている。この戦争で、ウクライナ兵士の戦死者は、1.3万人と言われ、一方、ロシア兵士の戦死者は、10万人と言われている。これらの数字は、あまり信用できないであろう。特にロシア兵士の戦死者が10万人とは、考えられない。これは政治的な数字であろう。ロシア軍の兵士は、ウクライナの一部の領土で、ウクライナ軍と地上戦の機関銃などで戦うわけだが、その戦死者の数は知れているだろう。
 いつの戦争でも、犠牲になるのは民間人であろう。ウクライナの民間人の死亡者は、昨年の12月までに7000人と言われている。一方、ロシアの民間人の犠牲者は、0に近いであろう。ウクライナのゼレンスキー大統領は、徹底抗戦をマスコミで訴えているが、被害を受けているのは、無防備な国民である。この大統領の発言に、庶民はどう受け止めているか。早く戦争を止めてくれ、という気持ちがほとんどであろう。しかし、最近ではゼレンスキー大統領は、停戦に対する話合いについて、その意向を公表している。ロシアは、停戦の条件として、ウクライナ東部を求めるであろう。ウクライナの国民は、多少のウクライナの領土が減らされても、停戦を望んでいるに違いない。

      2023.1.10
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English
Miscellaneous-notes
Spring Urara, 2023
  We have eight sasanqua trees planted in our garden. On the concrete on the north side of the house, I have planted 6 sasanqua in the U-shaped garden corner that I made, and 2 pink sasanqua in the south garden about 20 years ago. This southern pink sasanqua bloomed in full bloom this year. This year's late summer drought lasted for a long time, so many flowers may have appeared. One of the two in the south garden is a double flower that I brought from the garden of my old house in Yokohama.
 Four blueberry trees are planted in the south garden. One of them has been planted for 15 years and produces many blueberries every year. The other 3 trees have been planted for 5 years, but they don't have much fruit. Fifteen-year-old trees have strong tree vigor, growing four or five trees from the root and growing. It got too big, so last year I cut the tree down to clean it up. During last year's blueberry harvest, about 3 kg of berries were harvested. I picked the berries and immediately froze them, and when they weighed 1.5 kg, I made blueberry jam. I put this jam in three bottles and mix it with yogurt every night, but it will take nearly a year to eat it all. I gave the remaining 1.5 kg I harvested to a male tennis friend. I also gave him the recipe for how to make jam, so I'm sure he made jam and gave it to relatives and others. As a thank you, he gave me "Iichiko". I mix the shochu with hot water and enjoy drinking it little by little every night. I am grateful that blueberries have transformed into sweet potato shochu.
 I have two sweet persimmons planted in my garden. Perhaps because of the good weather, there were about 50 fruits last year, and it was a bountiful harvest. I once dried persimmons, but they turned black, so I threw them away without eating them. When I looked it up online, I found a recipe for making persimmon jam, so I used that recipe to make persimmon jam. I mix this jam with yogurt every night and eat it. I gave 15 persimmons with a recipe to my former tennis friend. I still had persimmons left, so I gave 10 of them to the people at the Egasuki Club. With this, the two persimmon trees were refreshed and ready for the new year.
 From around late autumn, muscari began to put out long, thin leaves in the garden. Like the weeds, the muscari are dug up and pulled out, but there are too many of them. Muscari has small bulbs from which leaves emerge. Last year alone, more than 50 bulbs were dug up and discarded. Muscari blooms in spring with clusters of small purple balls that form cones. In early spring, crocuses come out among the muscari leaves and bloom flowers with yellow or purple stripes. This crocus has leaves coming out of the bulb like muscari. When I remove the muscari bulbs, I'm careful not to remove the crocus bulbs as well, but I can't tell the difference between the two. The two are indistinguishable until spring when the flowers bloom. Crocus petals are a favorite food of bulbuls, and when yellow flowers bloom, bulbuls come to eat the petals. It seems to only like yellow flowers, and does not eat petals of other colors.
 The concern in 2023 will be the war in Ukraine, which began last year. This war started by Russia is a war of aggression for Russia to seize Ukrainian territory. Russia must have thought it could easily seize Ukrainian territory with its large force. But Ukraine, with a lot of Western help, is fighting Russia evenly. It is said that 13,000 Ukrainian soldiers died in this war, while 100,000 Russian soldiers died. These numbers may not be very reliable. In particular, it is inconceivable that 100,000 Russian soldiers died in action. This would be a political number. Russian soldiers will fight Ukrainian forces with machine guns and other ground warfare in some Ukrainian territories, so the death toll will be low.
 In any war, the casualties will be civilians. Ukrainian civilian deaths are said to have reached 7,000 by December last year. Russian civilian casualties, on the other hand, will be close to zero. Ukrainian President Volodymyr Zelensky has appealed to the mass media for total resistance, but the victims are defenseless citizens. How do people react to the president's remarks? Most of them are probably thinking that the war should be stopped as soon as possible. Recently, however, President Zelensky has made public his intentions to discuss a ceasefire. Russia will seek eastern Ukraine as a condition of a ceasefire. The Ukrainian people must want a ceasefire, even if some Ukrainian territories are reduced.

            2023.1.10
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大寒波
  2023年1月24日から26日まで、列島は九州から東北にかけて大寒波に襲われた。普段雪の少ない鹿児島まで大雪が降り、九州と関東以西の各地は大雪による高速道路の渋滞があり、連日テレビで渋滞している車の列が報道された。日本海側の北陸地方と東北地方はこの寒波の前から高速道路での渋滞があり、2、3日間、車に閉じ込められていた人の様子がテレビで報道された。これを見た付近のボランティアは、食べ物とか飲み物を配ったり、消防車の人は、ガソリンタンクを持って車を回っていた。今度の大寒波による車の渋滞では、ボランティアによる活動はなかったようである。北陸地方の大雪の報道を見て、車の運転手達は準備を充分にしていたのであろう。
 寒波による西日本各地の最低気温が報道された。九州各地、中国地方の最低気温は、軒並み-2~-5℃であった。矢祭町の我が家でも、1月25日の最低気温は-4.9℃で、翌日の26日は-8.6℃であった。過去の最低気温は-5℃程度であったので、今回の-8.6℃は、今までになかった低さであった。この26日は、矢祭町の北の隣町、塙町では-15℃を観測したという。矢祭地方の雪は25日に5cm、27日にも5cmの積雪があった。28日は晴れ上がり、その夜は放射冷却のせいか、翌日29日の朝は-8.8℃になり、最低記録を更新した。
 矢祭地方の冬の風物詩は、町の中央を流れる久慈川に現れる「シガ」である。東北地方では氷のことをシガという。このシガ(氷の薄いかたまり)が冷え込んだ朝に、久慈川をぷかぷか下流に流れて行く。久慈川は色々な所で湾曲し、湾曲の奥まった所で水が停滞する。停滞した水は、夜中の気温低下で氷になり、朝になってこれが川の本流に出て、シガとなって下流に流れ出す。今年も、恐らく29日にはシガが見られたであろう。矢祭町には「夕刊矢祭」という地域の新聞がある。この新聞社の経営、編集、記者を、1人でこなしていた人が病気で倒れ、後継者がいないので、新聞は昨年暮れに廃刊になった。新聞には町の行事とか催し、葬祭の広告などの情報が載せられていたが、今はこれらの情報は全く入らない。例年このシガの発生も、新聞に報道されていたが、今年はそれが分からないので、寂しい。早く町の情報新聞を発行して貰いたい。
 今度の大寒波で色々な被害を受けた人達がいるが、中でも停電と断水は、直接生活に係わるので、困っているであろう。報道されたこれらの被害が発生した地域は、佐渡島と能登半島の一部の市町村である。水が出ないので、給水車が出動したり、水の入ったビニールの容器を配ったりしているTV映像が度々あった。これらの地域で水道管が破裂して、水が噴き出している映像はなかった。空き家で水道管が破裂して水が出なくなったのではないかと思っている人がいるが、空き家は水道の元栓を閉めているので、このような事態は発生しないであろう。
 この地域の断水の原因は、恐らく地中のメインの水道管が凍結して水が流れなくなったからであろう。全国で異常低温になった地域は多い。何故この能登半島の一部の地域だけ水道水が流れなくなったのだろうか。これは恐らく水道管の埋設工事に問題があったのではないか。住宅敷地に入れる前の水道管は、道路沿いなどに地中深く埋設されていなければならない。これは外気温の低下で水道管の凍結を防ぐためである。この深さが足りなくて、水道管を浅い所に設置すると、当然外気温の影響を受ける。能登半島の一部の地域の水道工事の業者は、埋設を浅くしていたのかもしれない。
 雪は立派な保温材である。地上に50cmぐらいに雪が積もると、外気温がマイナスであっても、地中はすぐにはマイナスにはならないであろう。道路に積もった雪を、除雪車で除雪している映像をよく見るが、道路下の水道管の凍結を考えれば、むやみに除雪しない方がよい。佐渡島と能登半島の一部の市町村は、交通の確保のため、いち早く除雪に取り組んだものと思われる。道路の除雪は道路の中央部分だけで良い。水道管は、道路の端に埋設されているのが普通であろう。水道管の凍結を防ぐため、道路の端を雪で保温するということを、施工者は考えておく必要がある。

      2023.2.10
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English
Miscellaneous-notes
Great cold wave
   From January 24 to 26, 2023, the Japan Islands were hit by a severe cold wave from Kyushu to Tohoku. Heavy snow fell in Kagoshima, where there is usually little snow, and there were highway traffic jams due to heavy snowfall in Kyushu and various places west of the Kanto region, and lines of cars jammed were reported on TV every day. The Hokuriku and Tohoku regions on the Japan Sea side had been congested on expressways even before the cold wave, and TV reported that people were trapped in cars for two or three days. Volunteers in the vicinity were handing out food and drinks, and people in the fire engine were going around with gas tanks. In the traffic jam caused by the recent severe cold wave, it seems that there was no volunteer activity. Seeing the news of heavy snowfall in the Hokuriku region, the drivers of the cars must have been well prepared.
 The lowest temperatures in western Japan due to the cold wave were reported. The lowest temperature in Kyushu and Chugoku region was -2~~-5°C overall. At my house in Yamatsuri Town, the minimum temperature on January 25 was -4.9°C, and the next day, January 26, it was -8.6°C. The lowest temperature in the past was about -5°C, so this -8.6°C was an unprecedented low. On the 26th, Hanawamati, a neighboring town north of Yamatsuri Town, observed -15°C. The snow in the Yamatsuri region was 5 cm on the 25th and 5 cm on the 27th. The 28th was sunny, and the next day, the morning of the 29th, probably due to radiative cooling, was -8.8°C, setting a new record.
 A winter tradition in the Yamatsuri region is the "shiga" that appears in the Kuji River, which flows through the center of the town. In the Tohoku region, ice is called shiga. On a cold morning, this shiga (thin plate of ice) flows downstream of the Kuji River. The Kuji River curves in various places, and water stagnates in the depths of the curvature. The stagnant water turns into ice due to the temperature drop in the middle of the night, and in the morning it goes out to the main stream of the river and flows downstream as shiga. This year, too, Shiga was probably seen on the 29th. In Yamatsuri Town, there is a local newspaper called "Evening Yamatsuri". The newspaper's management, editor, and reporter fell ill and there was no successor, so the newspaper ceased publication at the end of last year. This newspaper used to contain information about town events, events, funeral advertisements, etc., but I can't know this information right now. Every year, the occurrence of this shiga was also reported in the newspaper, but this year it is sad because we do not know it. I would like the town information newspaper to be published as soon as possible.
 There are many people who have suffered various damages from the recent cold wave, but among them, power outages and water outages are directly related to their lives, so they will be in trouble. The areas where these damage were reported were Sado Island and some municipalities on the Noto Peninsula. For those who did not have water, there were often TV images of water supply by water trucks and water supply by plastic containers of water. There were no TV images of water pipes bursting and water gushing out in these areas. Some people wonder if the water pipe burst in an empty house and the water stopped coming out, but since the main tap of the water supply is closed in the vacant house, this situation will not occur.
 The cause of the water outage in this area is probably that the main underground water pipes have frozen and the water has stopped flowing. There are many areas across the country that experienced abnormally low temperatures. Why did tap water stop flowing only in some areas of the Noto Peninsula? This was probably due to a problem with the burial of water pipes. Water pipes must be buried deep underground along roads before they can be entered into residential premises. This is to prevent the water pipes from freezing due to a drop in the outside temperature. If this depth is not enough and the water pipe is installed in a shallow place, it will naturally be affected by the outside temperature. Water contractors in some areas of the Noto Peninsula may have made the burial shallow.
 Snow is a great heat insulator. If snow accumulates about 50 cm on the ground, even if the outside temperature is negative, it will not immediately become negative underground. I often see TV images of snow piled up on the road being removed with a snowplow, but considering the freezing of water pipes under the road, it is better not to remove snow unnecessarily. Some municipalities on Sado Island and the Noto Peninsula are thought to have been among the first to remove snow to secure traffic. Snow removal on the road is only necessary in the middle part of the road. Water pipes are usually buried at the end of the road. Builders need to consider insulate the edges of roads with snow to prevent water pipes from freezing.

            2023.2.10
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テレビ番組
  私が毎週見ているテレビ番組について記す。毎日欠かさず見ている番組は、昼食時のニュースワイドショーと、夕食時のNHKの7時のニュース番組である。7時前には、NHK福島局で天気予報があるので、それも欠かさず見ている。私は、毎日午後4時半にはテレビの前に寝転んでテレビを眺めている。見るチャンネルは、曜日によって違うが、土日以外は、福島放送(4チャンネル)の番組、「お絵描きクイズ コレなーんだ」という番組である。これは、参加に応募した人の中から選ばれた人に電話をかけ、キャスターの一人がテレビ画面のボード板にイラストを描いて、それを応募者が何を描いているか当てる番組である。
 ここで、いつも気になるのが、テレビ局の人が選ばれた人(仮に吉田さんという)に、電話をかけた際の吉田さんの対応である。テレビのキャスターは、「選ばれた人は吉田さんです」、「これから電話します」と言って、電話をかける。電話が繋がると、吉田さんは受話器を取って「はい」と答える。キャスターは確認のため、「吉田さんですか」と聞く。吉田さんは「はい」と答える。私が気になっているのは、何故吉田さんは「はい、吉田です」と名乗らないのか? 名前を名乗らないのは、福島地方の習慣なのか? あるいは名前を知らせたくないのか。テレビを見ている人達は、吉田さんであることは最初から分かっている。電話による詐欺を警戒して名乗らないのか。吉田さんの電話番号は局の人しか知らないので、そのような心配は不要であろう。
 私は、電話がかかって、受話器を取り上げたら、まず、「はい、金谷ですが」と言う。これは長年のサラリーマン生活での習慣であろう。社内電話で電話がかかってきた時、「はい、金谷ですが」と答える。電話の相手は、金谷を確認する手間が省けるのである。この「金谷ですが」の{が}は、次に来る意向は「何か用ですか」という意味が隠されている。相手が同僚であれば「何の用?」、相手が上司か、あるいはお客様であれば「なんでしょうか」という意味が含まれる。最近は、会社勤めをやめて20年以上になるので、私はこの習慣は薄れて、「はい金谷です」あるいは「はい金谷」になっている。
 私は、土曜日の午後、5時頃の「世界あらへん話」という番組をよく見ていたが、今はなくなっているようだ。これは、アメリカで、体重が約250kg以上の肥満の女性が手術を受けて、手術が成功し、スリムになる話である。肥満女性の日頃の食事などの映像、太り過ぎて日常生活に困っている映像などが映され、女性は減量を決意して、見事成功する話である。手術には専門の病院があり、そこにはナウ医師という専門の医者がいる。ある肥満者は、手術を決意した。彼女は、その病院を訪れ、ナウ医師の診断を受け、ナウ医師から、「数か月で約40kgの減量ができれば手術をしてやる」と言われた。そして、「このままだと数カ月で死亡する」とナウ医師から怖い顔で宣告される。数か月後、その肥満者は病院で体重を測り、減量が達成されたので、手術を受け、無事成功した。その後の肥満者のスリムな映像が映し出される。この番組は5、6回見ただけで、あとはなくなったようである。アメリカといえどもこのような超肥満者は数少ないのであろう。日本の超肥満者は、元大関の小錦氏しかいないであろう。
 私が土曜日の6時から必ず見るのは、BS4チャンネルの「小さな村の物語 イタリア」である。イタリアは、日本と同じく山国である。この小さな村は、中程度の高さの丘にあり、その丘の頂上に、小さな集落をつくっている。その番組は、そこに住んでいる人達の人生を描いたものである。集落の中心部の敷地は狭いので、家と家はくっついており、ほとんどが3階建ての石造りの家である。
 その集落の周囲は、牧場や果樹園で囲まれている。集落の人達は、家畜の世話、果樹の栽培、そして集落の自宅で経営しているカフェ、民宿などで働いている。あるいは、自宅の作業場で鍛冶や大工仕事などで生計を立てている人もいる。テレビの映像は、自宅の食堂で食事をするシーンが多い。食堂の広さは、台所と食卓とソファーを合わせて、10畳ぐらいの広さであろう。この食卓で、食事をしたり、パスタなどの小麦粉を練ったり、子供が宿題をしたりする。2階、3階には、寝室などがあるのであろう。映像は、家族の食卓での食事と会話のシーンが多い。その会話の中で、庶民の生活、習慣などに関する考えが話されており、イタリアの庶民の考え方がよくわかる。
 2月18日は、上野動物園のパンダ(シンシン)が中国に変換される最後の入園日である。多くの人がパンダに会いに来て、別れを惜しむテレビのシーンが多く放映された。中には、涙を流して別れを惜しんでいる人もいた。当のシンシンは、笹をむしゃむしゃ食べており、見物人の反応には無頓着であったのは、いつもの景色であろう。パンダは笹の葉や茎を食べて生きているが、この食べ物で育つのは珍しいのではないか。
 笹の葉や竹にはどのような栄養素が含まれているのか、分析した研究者がいるのだろうか。人間にとっても、この笹や竹は食物として利用できるかもしれない。人間の場合は、直接食べることは難しいので、粉砕して小麦粉と混ぜて、パンやうどんにして食べる。竹は地下茎でどんどん広がっていくので、現在では邪魔な存在である。しかし、将来食糧危機になった場合、竹は貴重な食べ物になるであろう。昔、パンダがそれを教えてくれたと、パンダに感謝する日が来るかもしれない。

      2023.3.10
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English
Miscellaneous-notes
TV program
   I will write about the TV program that I watch every week. The programs I watch every day are the news wide show at lunch and the NHK 7 o'clock news program at dinner. Before 7 o'clock, the NHK Fukushima station broadcasts the weather forecast, and I always watch it. Every day at 4:30 pm, I lie down in front of the TV and watch it. The channel I watch varies depending on the day of the week, but on days other than Saturdays and Sundays, I watch a program on Fukushima Broadcasting (channel 4) called "Drawing Quiz Kore-naanda." This involves calling people selected from those who have applied for participation, and one of the casters draws an illustration on the board of the TV screen. It is a program in which applicants guess what they are drawing.
 There is always something that bothers me about this show. That is the response of Mr. Yoshida when the TV station person called the selected person (provisionally called Mr. Yoshida). The TV newscaster calls, saying, ``The person who was chosen is Mr. Yoshida,'' and ``I'll call you later.'' When the phone connects, Mr. Yoshida picks up the receiver and answers "yes." To confirm, the newscaster asks, "Are you Mr. Yoshida?" Mr. Yoshida answers "yes." What I'm curious about is why Mr. Yoshida doesn't say, "Yes, I'm Yoshida." "Is it a custom in the Fukushima region not to say my name?" "Or do you not want your name to be known?" People watching TV knew from the beginning that it was Mr. Yoshida. Don't you give your name out of fear of phone fraud? Mr. Yoshida's phone number is known only to the staff of the station, so such worries are unnecessary.
 When I get a phone call and pick up the phone, the first thing I say is, "Yes, Kanaya." This is a habit in the life of a salaried worker for many years. When I receive a call from my office phone, I answer, "Yes, Kanaya but." The person on the other end of the phone can save the trouble of checking Kanaya. The "but" in this "Kanaya but" hides the meaning that the intention to come next is "Is it for something?" If the person on the other end of the phone is a friend, it means "what?", and if the other party is a boss or a customer, it means "what is it for?" Recently, I have been retired for more than 20 years, so this habit has faded and I have become "Yes Kanaya" or "Kanaya".
 I used to watch a show called "The Impossible Story of the World" on Saturday afternoons around 5 o'clock, but that program seems to be gone now. This is the story of an obese woman weighing more than about 250 kg in the United States, who undergoes surgery, is successful, and then she becomes slimmer. There are videos of obese women eating on a daily basis, and images of her being overweight and having trouble with her daily life can be shown. The story is about a woman who decides to lose weight and succeeds spectacularly. There are specialized hospitals for surgery, where there are specialized doctors called "NAU" doctor. One obese person decided to have surgery. She visited the hospital and was examined by NAU doctor, who told her, "If you lose about 40 kg in a few months, I will operate on you." Then, "If you continue like this, you will die in a few months," NAU doctor declares with a scared face. A few months later, the obese person was weighed in the hospital, and since weight loss was achieved, she underwent surgery and successfully underwent surgery. A slim image of an obese person is projected afterwards. I only watched this show five or six times, and it seems that this show is gone. Even in the United States, there are probably few such super-obese people. The only super-obese person in the Japan would be Mr. Konishiki, a former Ozeki.
 The TV I always watch on Saturdays at 6am is "A Tale of a Small Village, Italy" on the BS4 channel. Italy, like Japan, is a mountainous country. This small village is located on a medium-high hill and a small settlement has been formed at the top of the hill. The program depicts the lives of the people who live there. The site in the center of the village is small, so the houses are stuck together, mostly three-story stone houses.
 The village is surrounded by ranches and orchards. The villagers take care of livestock, grow fruit trees, and work in cafes and inns run by the village's houses. Others make a living by blacksmithing and carpentry in residential workshops. In the TV footage, there are many scenes of people eating in the dining room of the house. The size of the dining room is about 10 tatami mats, including the kitchen, dining table, and sofa. At this table, they eat, knead flour such as pasta, and children do their homework. On the second and third floors, there must be bedrooms and other facilities. The video often shows scenes of eating and talking at the family table. In the conversation, thoughts about the lifestyle, customs, etc. of the common people are discussed, and the thoughts of the common people in Italy are well understood.
 February 18 is the last day for the Ueno Zoo's panda (Shin Shin) to be converted to China. Many people came to see the panda, and many TV scenes were shown saying goodbye. Some of them were in tears as they said goodbye. Shin Shin was munching on bamboo and was indifferent to the reactions of onlookers. Pandas live by eating bamboo leaves and stems, but isn't it rare for pandas to grow with this food?
 I wonder if any researchers have analyzed what nutrients are contained in bamboo leaves and bamboo. For humans, bamboo and bamboo may be available as food. In humans, it is difficult to eat directly, so this is crushed, mixed with flour, and eaten as bread or udon noodles. Bamboo spreads rapidly with underground stems, so it is now a hindrance. However, in the event of a food crisis in the future, bamboo will become a valuable food. Maybe one day we'll be grateful that the pandas taught us that.

            2023.3.10
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テレビ番組
  私は、土曜日の午後7時半からNHKの「ブラタモリ」を見ている。これは、毎週必ず放映する番組でなく、時折休むことがある。その時は見る番組がないので、色々なチャンネルを見ている。このブラタモリでは、タモリとアシスタントの女性が地方に出かけて、その土地の成り立ちや、特徴などを専門家が説明してくれる。特に地形の説明があった場合、専門家がタモリに、どのような地形かと、質問すると、タモリは即座に答える。タモリの地質学に対する知識は豊富で、いつも私は感心する。ある地形を見て、これは「柱状節理」であると、彼は即座に答える。私には柱状節理という地質学の専門用語は初耳で、さぱっぱり判らない。
 後日、ネットで柱状節理を調べてみた。それには、「節理と呼ばれる両側にずれの見られない規則性のある割れ目を持つ地質構造であり、割れ目によって多角柱の規則的配列構造が形成される」とある。柱状は、字のごとく柱の状態であることは想像できる。節理の方は、さっぱり想像できない言葉である。節は、節約とか竹の節を思い出すが、理はなんだろう。理論、理髪、理屈などあるが、規則正しいという意味だろうか。学者は難しい言葉を付けたものである。柱状節理がある地形は、日本にも多くあるそうで、一番スケールが大きいのは、北海道の層雲峡にある地形と言われる。これは、長さ24kmとある。以前、私も層雲峡に行ったことがあるが、ただ漠然と眺めただけで、これが柱状節理の地質であるとは知らなかった。
 毎週日曜日には、私は午後5時半から、4チャンネルの「笑点」を欠かさず見ている。この笑点は、火曜日7時半から「なつかしの笑点」という番組と、水曜日8時からの「笑点特大号」という番組があり、これらも見ている。なつかし版は、以前の笑点メンバー7人のうち、4人が既に故人になっており、彼等の生前の姿が見られる。笑点特大号は、午後8時からなので、その時間帯、私は居眠りにつく時間で、全部を見たことがない。出演者は現在のメンバーで、色々な企画で番組を構成している。
 朝日新聞では、木曜日にその1週間のテレビ番組の視聴率、上位20番組を発表している。それには「笑点」が上位5番以内に必ず入っている。私と同様に笑点を見ている人が多いのだなと感じる。高齢になると、テレビで話す言葉が聞きにくくなる。私も音は良く耳に入るが、言葉の意味を判別する能力が落ちているようで、何を言っているのか判らないことがよくある。その点、落語家の発声は大きく、1語1語の言葉が力強く発せられ、その意味が良く伝わる。この声が大きく、力があるのは、噺家の基本の発声であるから、当然だろう。
 この視聴率で、大相撲が始まる週では、1週の7日間全部の大相撲テレビ放送番組が20位以内に入っているのは、珍しくない。大相撲の好きな人は多いのだ。プロ野球では、試合の中継が視聴率20位に入るのはあまりないが、先日のWBCで日本が優勝した時は視聴率1位であった。優勝が決まった後でも、テレビ局は、何度でも繰り返し大谷などの活躍のシーンを放映し、それが1週間ぐらい続いた。これらのシーンが始まると、私はチャンネルを回して、別のチャンネルに切り替える。今私は、「チャンネルを回す」と書いたが、若い人にはこの意味が分からないであろう。半世紀前のアナログのテレビは、チャンネルを切り替える際、丸型のダイヤルをカチャカチャと回して、チャンネルを切り替えていた。
 今ではリモコンで、数字を押してチャンネルを切り替えることができる。私の妻は、このリモコンを「カチャカチャ」と呼ぶ。私が、そのカチャカチャを取ってくれないかと、妻に頼むと、すぐ私に渡してくれる。我が家では、リモコンは「カチャカチャ」で通じるのである。
 私は、NHKの日曜日午後8時からの大河ドラマを20年前から見ていない。それまでは大河ドラマはよく見ていたが、何故か見る気がしなくなってしまった。過去の事を知っても興味がないし、毎週連続して見る根気がなくなったせいでもあろう。その代り、日曜日の午後7時半から、「ニッポン珍百景」、「ポツンと一軒家」を必ず見ている。
 私がウィークデーの午後7時半から、定期的に見ている番組(2023年3月31日現在)は、月曜日は「にっぽん百名山」、火曜日は「笑点」、水曜日は「ニッポンぶらり鉄道旅」、木曜日は7時半ではないが、7時50分からの「開運なんでも鑑定団」、金曜日は「美の壺」である。これらは30分番組で、番組の終わりごろには、私はうとうと寝てしまう。

      2023.4.10
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English
Miscellaneous-notes
TV program 2
   I watch NHK's "Bura Tamori" from 7:30 pm on Saturdays. This is not a program that always airs every week, but it does have occasional breaks. I don't have a program to watch at that time, so I'm watching various channels. At Buratamori, Tamori and a female assistant travel to rural areas, where experts explain the origins and characteristics of the area. Especially when there is an explanation of the terrain, when an expert asks Tamori what kind of terrain it is, Tamori immediately answers. Tamori's knowledge of geology always impresses me. Looking at a certain terrain, he immediately replies that this is a 'columnar joint'. I've never heard of the term columnar joint in geology, and I don't understand it at all.
 Later, I searched for columnar joints on the Internet. It states, "It is a geological structure with regular fissures on both sides called seturi, and the fissures form a regularly arranged structure of polygonal prisms." It can be imagined that the columnar state is literally the state of a column. Seturi is a word that cannot be imagined at all. Setu reminds me of savings and bamboo joints, but what is Ri? There are theories, hairdressing, reasoning, etc., but does it mean regularity? Scholars have named difficult words. It is said that there are many landforms with columnar joints in Japan, and the one with the largest scale is said to be in Sounkyo in Hokkaido. It is 24 km long. I've been to Sounkyo before, but I just vaguely looked at it and didn't know that it was a columnar joint geology.
 Every Sunday from 5:30 pm, I always watch "Shoten" on channel 4. This Shoten has a program called "Nostalgic Shoten" from 7:30 on Tuesdays and a program called "Shoten Tokudai Gou" from 8:00 on Wednesdays, and I also watch them. In the nostalgic version, 4 of the 7 former Shoten members have already passed away, and I can see them in their lives. The Shoten Tokudai issue starts at 8:00 pm, so I haven't seen the whole thing since I fell asleep at that time. The performers are the current members, and the program is composed of various projects.
 The Asahi Shimbun publishes the top 20 most-watched TV programs for the week on Thursday. "Shoten" is always in the top five. I feel that there are many people who are looking at "Shoten" just like me. As we get older, it becomes harder for us to hear the words spoken on TV. I can also hear sounds well, but my ability to discern the meaning of words seems to be declining, and I often cannot understand what they are saying. On the other hand, Rakugo performers speak loudly and powerfully utter each word, so the meaning is conveyed well. It is only natural that this voice is loud and powerful, as it is the basic vocalization of a storyteller.
 With this audience rating, it is not uncommon for sumo wrestling TV broadcast programs to be in the top 20 for all seven days of the week when the sumo wrestling season begins. Many people like sumo wrestling. In professional baseball, it's rare for a live broadcast of a game to rank in the top 20 in ratings, but when Japan won the WBC the other day, it ranked first in ratings. Even after the victory was decided, the TV station repeatedly showed scenes of Ohtani and others in action, and this continued for about a week. When these scenes start, I turn the channel and switch to another channel. Now I wrote "Turn the channel", but young people may not understand this meaning. Half a century ago, analog TV channels were switched by turning a round dial.
 Now with remote controls, we can switch channels by pressing numbers. My wife calls this remote control "Kachakacha". When I ask my wife to take the "kachakacha”, she gives it to me right away. At home, the remote control is called "kachakacha".
 I haven't seen NHK's Taiga drama from 8:00 pm on Sundays for 20 years. Until then, I used to watch a lot of Taiga dramas, but for some reason I didn't feel like watching them anymore. I'm not interested in knowing about the past, and it's probably because I've lost the patience to watch it every week. Instead, from 7:30 pm on Sundays, I always watch "One Hundred Famous Views of Japan" and "Potsun to Ikkenya".
 The programs I regularly watch from 7:30 pm on weekdays (as of March 31, 2023) are "Japan's 100 Famous Mountains" on Mondays, "Shoten" on Tuesdays, and "Burari Railway Trips in Japan" on Wednesdays. On Thursday it's not 7:30, but from 7:50 there's a "Good luck with anything appraisal team", and on Friday it's a "pot of beauty". These are 30-minute shows, and by the end of the show, I doze off.

            2023.4.10
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2023年、春の庭
  今年の春に咲く花は、例年に比べ、花付きが異常に多い。これは、昨秋の日照時間が長かったのが原因であろう。我が家で春一番に咲く花は、クロッカスであるが、これは草花であるので、普通に咲いていた。次に咲き始めるのは、レンギョウである。これは、黄色の花が咲くので、周囲がまだ枯れ木状態のため、遠くから目につく。レンギョウは、挿し木で簡単に増やせるので、庭の周囲に10年前ぐらいから6本植えている。それらが大きくなり、今年は花の数が多いので華やかである。花持ちも良いので、1ヶ月ぐらい咲いていた。雪柳も、レンギョウの近くに2本植えており、レンギョウに少し遅れて咲き始めた。
 敷地の隣は、一部町有地になっているが、そこに15年ぐらい前から、白モクレンと紫モクレンを植えている。両者とも今年は花数が異常に多く、長い期間に咲いていた。これも昨秋の日照時間の長かった影響であろうか。これらが終わる頃、本格的な花のシーズンになる。各地の桜の花は、どこも開花の時期が早く、花まつりを予定している所では、例年より1週間ぐらい早く始めないといけない、と心配していたのが、テレビに映っていた。テレビに映る各地の桜の名所は、花いっぱいで豪華であった。
 今年の草木の花の多さは、杉の花の多さにも現れている。スギ花粉の多さは、10年に1度の多さと言われている。スギ花粉情報で、花粉の多い日は、遠くの山が霞んで見える。今年は、ゴビ砂漠からの黄砂が、これも異常に多いと報道された。私と妻は、スギ花粉に対しては、眼に少し違和感を感じる程度の症状だけで、助かっている。黄砂に対しては、どのような症状が出るのか分からない。ホームセンターで、眼を保護するゴーグルを買おうと思って見に行ったが、メガネの上と横にカバーが付いている保護メガネしか売っていなかった。それを買って、家で調べると、この種の保護メガネは、我が家にすでに2個もあるのが見つかった。これらは、電動鋸などを買ったとき、付属して付いていたものであった。
 スギ花粉と黄砂が来る日に、この保護メガネをかけて庭仕事をした。このメガネの効果ははっきりしなかったが、眼に違和感は感じられなかったので、効果はあったようだ。我が家には濡れ縁が2ヶ所ある。そこにスギ花粉の多かった翌日には、濡れ縁の表面が真っ白になっていた。こんなに白くなるのは初めてである。水を付けたブラシでふき取ったが、元の状態にはならなかった。テレビで教えてくれたが、スギ花粉の粒子の大きさは、黄砂の粒子より何十倍も大きいと言われる。黄砂の言葉の感じからすると、黄砂は砂を感じさせられるが、そうではないようだ。
 中国のテレビの映像では、道路に積もった黄砂を雪かきのように、道路にかきよせていたのを見た。ゴビ砂漠から舞い上がった黄砂は、粒子の大きい重いものは近くの中国に落ちるのであろう。日本に来る黄砂は、粒子の小さい軽い砂であろう。テレビでは、この小さな黄砂が大きなスギ花粉にくっ付いて来るのだ、と報道された。またテレビでは、黄砂は、中国、朝鮮半島の上空を通る際、工場の煙突から出る煤煙にくっ付いて、それが日本に来るから、注意しろと言う。しかし、この煤煙の濃度は空気で薄まるから、心配する必要はないであろう。
 春の草花では、クロッカスの後、数種類の水仙が咲き、雑草のように方々に広がっているムスカリが先端に青色の花を付けて咲く。チューリップが咲き、芝桜が続いて咲く。今年の芝桜は、花が多く、いつの間にか庭の方々に繁殖して、思わぬところで花を咲かせていた。我が家の隣の空き地にも、数か所芝桜が咲いていた。芝桜が咲いている頃から、ジュウニヒトエが咲き始める。これも、やせた土地にも自然に広がっていき、ムスカリより大きな紫色の長が細そい花を咲かせる。
 花木では雪柳の後、桜が咲く。我が家の敷地の外(町有地)には、6本の桜を植えていたが、大きくなりすぎて、困ることが予想されるので、そのうちの4本を切ってしまった。残っているのはピンクのしだれ桜と吉野桜に接ぎ木したピンクの雅桜(みやびさくら)である。これらは、枝が、我が家の庭に覗き込むように伸びているので、花の盛りには賑やかである。桜の後は、ボケ、カイドウ、ヤマブキが咲き、続いてシャクナゲ、ボタン、シャクヤクが咲く。この頃になると、我が家の庭は春爛漫である。

      2023.5.10
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English
Miscellaneous-notes
Spring garden in 2023
   The flowers that bloom this spring are abnormally more flowered than usual. This is probably due to the long hours of sunshine last fall. The flowers that bloom first in spring in our garden are crocuses, but since they are perennial, they bloomed normally. Next to start blooming is the forsythia. This can be seen from a distance because of the yellow flowers in bloom and the surrounding area still in the form of branches. Forsythia can be easily propagated by cuttings, so I have been planting 6 trees around my garden for the past 10 years. They are big, and this year there are a lot of flowers, so they are gorgeous. This flower lasts well, so it bloomed for about a month. I also planted two snow willows near the forsythia, and they began to bloom a little later than the forsythia.
 Part of the land next to the site is owned by the town, but I have been planting white and purple magnolias there for about 15 years. Both of them had an unusually large number of flowers this year and bloomed for a long period of time. Is this also the effect of the long daylight hours last autumn? When these are over, it will be a full-fledged flower season. The cherry blossoms in various places bloom early everywhere, and people who are planning to have a flower festival have to start about a week earlier than usual. The famous cherry blossom spots in various places on TV were full of flowers and gorgeous.
 The abundance of flowers on plants and trees this year is also reflected in the abundance of cedar flowers. The amount of cedar pollen is said to be a once-in-a-decade amount. With cedar pollen information, on days with a lot of pollen, distant mountains look hazy. This year, it was reported that the amount of yellow sand (kosa)from the Gobi Desert was also unusually high. My wife and I have survived the cedar pollen with only a slight discomfort in our eyes. I don't know what kind of symptoms will occur for kosa. I went to a home center to buy goggles to protect my eyes, but they only sold protective glasses with covers on the top and sides of the glasses. When I bought it and checked it at home, I found that I already have two of this kind of protective glasses in my house. These were the ones that came with the electric saw when I bought it.
 On days when cedar pollen and kosa came, I wore these safety glasses while working in the garden. The effect of these glasses was not clear, but I did not feel any discomfort in my eyes, so it seems to have worked. We have two wet edges in our house. On the next day when there was a lot of cedar pollen there, the surface of the wet edge was pure white. It's the first time it's been this white. I wiped it off with a brush dipped in water, but it didn't return to its original state. As I learned on TV, cedar pollen particles are said to be dozens of times larger than yellow sand particles. Judging from the feeling of the word kosa, kosa makes me feel like sand, but that doesn't seem to be the case.
 In a video on Chinese TV, I saw that yellow sand that had accumulated on the road was being pushed to the edge of the road like shoveling snow. Large, heavy particles of yellow sand that rise up from the Gobi Desert probably fall into nearby China. The kosa that comes to Japan is probably light sand with small particles. On TV, it was reported that this small kosa sticks to the big cedar pollen. Also, when yellow sand passes over the skies of China and the Korean peninsula, it sticks to the smoke emitted from the chimneys of factories and comes to Japan, so it is said to be careful. However, the density of this soot will be diluted with air, so there is no need to worry.
 In spring flowers, after crocuses, several kinds of daffodils bloom, and muscari, which spreads everywhere like weeds, blooms with blue flowers at the tip. Tulips bloom, followed by moss phlox. This year's moss phlox has a lot of flowers, and before I knew it, it was spreading all over the garden, and the flowers were blooming in unexpected places. There were several moss phlox blooming in the vacant lot next to our house. Juunihitoe begins to bloom when the moss phlox is in bloom. This also spreads naturally on barren land, and blooms with long purple flowers that are larger than muscari.
 As for flowering trees, cherry blossoms bloom after snow willows. I had 6 cherry trees planted outside my house (town-owned land), but I had to cut 4 of them because I expected them to grow too big and be in trouble. What remains are pink weeping cherry trees and pink Miyabi cherry trees grafted onto Yoshino cherry trees. The branches of these trees are growing as if they are peering into our garden, so they are lively when the flowers are in full bloom. After the cherry blossoms, the Japanese quince, kaidou, and yamabuki bloom, followed by rhododendrons, peonies, and shakuyaku. Around this time, our garden is in full bloom with spring flowers.

            2023.5.10
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空を見る
  私は、毎朝の習慣を1年中続けている。それは、朝食後2階の南側にある4畳の板張りの部屋で、1枚のCDを聴いていることである。この部屋には、四角いコーヒーテーブルと、籐製のイスがあり、私はその椅子に座り、足をテーブルにのせてCDを聴いている。左側には窓があり、そこから空を眺めている。空が見えるのは、縦横1mぐらいの窓からの範囲である。隣にも同じサイズの窓があるが、そこには網戸を入れているので、視界は悪い。
 聴いているCDは、イージーリスニングクラシックで、20数年前に20枚一組のセット「どこかで出逢ったあのメロディー」を買ったものである。その他、同じようなクラシック音楽をパソコンに集め、それをCDにコピーしたものを10枚制作した。上のセットと合わせて、30枚のCDを毎朝1枚づつ聴いている。私は、毎朝8時前から約40分、CDを聴きながら空を眺めているのである。
 空は、曇りの日は薄墨色の雲が一面にあり、面白くも何ともないが、よく見るとやや濃い灰色の雲が動くのが見られる。雲の形ははっきりしないので、流れる方向ははっきりしないが、雨が降る日は南から北へ動いているように見える。一方、晴れた日の空は、雲の他、色々な物体が動いて見えるので、飽きずに眺めている。雲は、北西の方向から南東の方向に流れるのが多い。日本海から湿気を含んだ風が、新潟の東にある山脈に当たって、山を越えると雲になる。それが南東方向に流れて、我が家の窓から見える雲になってやってくる。その雲の大きさは大小あるが、小さい雲は、私が見える所で消えていくのが時折見られる。
 その時の大気の湿度は、相当低いのであろう。雲が消えて見えなくなるのは、雲の水滴が乾いた空気中に分散するためである。雲の流れが南から北の場合も、たまに雲が消えてなくなるのを見ることがある。晴れた日は、朝日が雲に当たって真っ白に輝いて見える。この太陽光の熱も雲が消える一因であろうか。目の前で流れる雲が消える主な原因は、空気中の低湿度か、太陽光の熱線によるものか。このようなことを考える閑人は、私ぐらいであろう。消える原因を科学的に調べるには、ドローンを使うのが早道であろう。ドローンを雲の近くに飛ばして、ドローンに設置した湿度計と温度計を測定し、それを地上に送って調べる。このような研究をする学者はいないだろうか。この研究の成果は人類の役には立たないが、私のような閑人には興味がある。
 私は、いつものように横になって、晴れた朝の雲の流れを眺めていると、突然飛行機が上空に現れ、南の方向に飛んで行くのを見ることがある。朝の約40分の間、毎日1機か2機ぐらいを見ることができるが、たまに4機に出逢うことがある。そのような日は何故かうれしい。南東方向に飛んで行くのは、成田空港行きで、それよりやや南の方向は、羽田空港行であろう。我が家の南隣の茨城県大子町には、航空保安無線施設がある。そこにはVORTACという航空標識があり、FM波を発している。飛行機はこの電波を受けて、この位置を確認することになっている。そのため、我が家から見る空には多くの飛行機が行きかう。成田とか羽田行きは、飛行機が大きく見えるが、南方向あるいはそれより西方向に向かう飛行機は小さく、小さすぎて見逃すことがある。小さく見える飛行機の行き先は、関空、台北、香港、上海あたりであろう。さらに西寄りに飛ぶ飛行機は、釜山、ソウル行きであろう。
 1m角の窓ガラスから見えるのは、雲と飛行機であるが、時折、鳥が忙しく飛んでいるのが見える。カラスやハトは、ばたばた羽を動かして飛ぶ。この地域に多いヒヨドリは、飛び方がカラスなどと違う。連続的に羽ばたいて飛ぶのではなく、途中羽ばたきを止めて飛ぶ。そのため飛び方が上下に揺れる。飛び方で、ヒヨドリであることがすぐ分かる。6月に入るとツバメが飛ぶのが見られる。ツバメの飛び方は、ヒヨドリなどのように木から木へ飛ぶのでなくて、空中を旋回しながら飛ぶ。ツバメは、空中で虫を取っているのであろう。
 5月のある日、晴れた空の上空に3角形の白い飛行物が北に向かって飛んでいるのを見た。最初、変わった飛行機だなと思って、見ていると、時折白い点がキラキラしているのが見えた。これはサギか白鳥かが、北の住みかに帰って行くのだと気が付いた。鳥たちが、はっきりした雁行陣を組んで飛んで行くのを見るのは、全く珍しい。

      2023.6.10
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Miscellaneous-notes
Look at the sky
   I continue my morning routine all year round. It is to listen to one CD after breakfast in a four-tatami-sized room on the south side of the second floor. In this room, there is a square coffee table and a rattan chair. There is a window on the left side through which I look at the sky. The sky can be seen from a window of about 1m in length and width. There is a window of the same size next to it, but it has a mesh window frame, so visibility is poor.
 The CDs I'm listening to are Easy Listening Classics, which I bought a set of 20 CDs "That melody I met somewhere" some 20 years ago. In addition, I collected similar classical music on a personal computer and made 10 copies of it on CD. Together with the above set, I listen to 30 CDs one by one every morning. I listen to the CD and look at the sky for about 40 minutes from 8:00 every morning.
 On a cloudy day, the sky is covered with pale black clouds, which is not interesting at all, but when I look closely, I can see dark gray clouds moving. The shape of the clouds is not clear, so the direction of the flow is not clear, but it seems to move from south to north on rainy days. On the other hand, in the sky on a clear day, clouds and other objects appear to move, so I never get tired of looking at them. Clouds tend to move from northwest to southeast. Humid winds from the Sea of Japan hit the mountains in the east of Niigata, and when they cross the mountains, they turn into clouds. It flows in the southeast direction and becomes clouds that can be seen from the window of my house. The clouds vary in size, but small clouds are sometimes seen disappearing where I can see them.
 The humidity in the air at that time would be quite low. Clouds disappear and become invisible because the water droplets in the clouds disperse into the dry air. Even when the cloud flow is from south to north, I sometimes see the clouds disappear. On a sunny day, the morning sun hits the clouds and looks bright white. Could the heat of the sun also be a factor in the disappearance of the clouds? Is the main cause of the disappearance of the clouds flowing in front of us to be the low humidity in the air or the heat rays of the sun? I'm the only person who has time to think about such things. The fastest way to scientifically investigate the cause of disappearance is to use a drone. Fly the drone near the clouds, measure the hygrometer and thermometer installed on the drone, and send it to the ground to investigate. Are there any scholars who conduct such research? The results of this research are of no use to mankind, but they are of interest to lazy people like me.
 When I lay down as usual and watch the clouds flow on a clear morning, I sometimes see an airplane suddenly appear in the sky and fly southward. For about 40 minutes in the morning, one or two can be seen every day, but occasionally four come across. For some reason I am happy on such days. The one flying southeast will be bound for Narita Airport, and the one slightly further south will be bound for Haneda Airport. There is an aeronautical navigation radio facility in Daigo Town, Ibaraki Prefecture, which is next to my house to the south. There is an aeronautical sign called VORTAC, and it emits FM waves. Planes are supposed to receive this radio wave and confirm this position. Therefore, many planes come and go in the sky seen from my house. Airplanes bound for Narita or Haneda look big, but planes heading south or west are small, so small that I sometimes miss them. The destinations of small-looking planes are Kansai International Airport, Taipei, Hong Kong, and Shanghai. Planes flying further west will probably go to Busan and Seoul.
 Clouds and airplanes can be seen through the 1m-square window glass, and sometimes birds can be seen flying busily. Crows and pigeons fly by flapping their wings. Brown-eared bulbuls, which are common in this area, fly differently from crows. Instead of continuously flapping its wings, it stops flapping midway through the flight. As a result, the flight sways up and down. By the way it flies, I can immediately tell it's a bulbul. In June, swallows can be seen flying. Unlike bulbuls, which fly from tree to tree, swallows fly while circling in the air. Swallows probably catch insects in the air.
 One day in May, I saw a triangular white flying object flying northward in the clear sky. At first, I thought it was a strange plane, and when I looked at it, I could see white dots glittering every now and then. I realized that this was either a heron or a swan returning to its home in the north. It's quite unusual to see birds flying in distinct flight formations.

            2023.6.10
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NTTクレジットカード
  私は、4、50年前からNTTカードを持っていた。妻もNTTの家族カードを持っていた。今年の4月頃、このカード会社からNTTカードは7月末で廃止するという手紙がきた。NTTは後継のカードとして、dカードを推奨し、その申込書も同封してきた。私達は、dカードを申し込むため色々記入して、引落の銀行口座番号、暗証番号まで記入して返送した。
 約1カ月後、私宛にNTTカード会社から手紙が来て、申し訳ないがdカードは作れないと言ってきた。その理由は書いて無く、聞きたければ電話しろと書いてあった。私は、その理由は85歳と言う高齢のためであろう思っている。妻にも2カ月後、同じように、理由なしに断ってきた。
 私が、NTTカードを定期的に利用しているのは、東北電力の電気料金(月約1万円)と、ocnモバイルワン料金(月約600円)だけである。これらの対策として、私は、これらの料金を銀行口座引落に変更して貰うために、これらの会社に変更依頼の書類を送った。この手続きには1~2カ月かかるという。妻は、定期的にNTTカードを利用している会社はなく、利用しているのは、ネットによる買い物だけである。
 最近私は、普段クレジットカードを使うことは全くなくなった。以前は、旅行に出た時、JRの運賃やホテルの支払いにカードを使っていたが、コロナ禍でこの3年は外出はしなくなり、今後もしないであろう。以前は、ツアーの海外旅行でクレジットカードを使っていた。使うのは、お土産を買う時ぐらいである。現地の通貨で支払うのは面倒であり、カード払いで簡単に済ませていた。食事や入場料などは、ツアーの料金に含まれていたので、支払いの面倒は全くなかった。
 現在、クレジットカードを使うのは、ネットによる買い物だけである。店屋での品物選びは、その商品の仕様など全く分からない。その点、ネットでは仕様を知ることができ、納得して買える。私は、ネットによる買い物のため、楽天カードをつくり、引落の銀行口座は楽天銀行を使っている。この銀行には常時1~2万円を入れている。それがなくなれば、ネットで郵貯などから楽天銀行に振込んでいる。こうすれ、他人が私の楽天銀行口座から不正に現金を引き出しても、金額が少ないので被害は少ない。
 アマゾンショップでは、私のメールアドレスを使って、私になり替わって品物を注文している者がいるようだ。時折、アマゾンから私のメールに「支払い方法が確定していないので出荷できません」という連絡が入る。これは、私の名前をかたって注文しているが、クレジットカードの情報だけは分からないので、金が払えないのであろう。私は、このようなメールは全て迷惑メールに移動している。アマゾンには、私のクレジットカードの登録はしていない。私がアマゾンで買い物をするときは、近くのファミリーマートで現金支払いをして、そのファミリーマートで品物を受け取るようにしている。送料は無料であるが、時間と手間はかかる。
 私は、ヤフーや楽天で買い物をするときは、楽天カードを使っている。カードで支払った後は、なるべく早く、そのカード情報を削除している。面倒であるが、買い物をする度にクレジットカード情報を入れて用を足している。妻は、60年来使用している化粧品をネットで購入している。以前は、宅急便の現金払いで荷物を受け取っていたが、宅急便の人も手間がかかるので、クレジットカードでネットで先払いして、荷物だけ自宅で受け取っていた。この妻のカードは、NTTカードであるので、他のカードを作らなければならない。私が妻に代わって、別の2、3のカード会社にカード入手を申請していた。
 JCBカードは審査が簡単に通って、妻のカードを入手することができた。ただ、このカードは年会費が1300円かかる。1ヶ月100円程度だから、それほど負担にならないであろう。口座引落は妻の銀行口座からである。三井住友のカードも申請していたが、キャンセルできるフォームがネットにあったので、それを使ってキャンセルした。三菱UFJのカードも申請したが、審査に問題があるようで、音沙汰が全くない。私は、審査の不合格を望んでいる。一般のカード会社は、家族カードの支払い口座は、家族(例えば、妻)の口座は利用できないことになっているようだ。NTTカードは家族(妻)の口座引落が認められ、妻も自分の口座から引き落しされていた。これは便利なサービスであった。

      2023.7.10
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English
Miscellaneous-notes
NTT credit card
  I have had an NTT card for 40 or 50 years. My wife also had a NTT family card. Around April of this year, I received a letter from this card company stating that the NTT card will be abolished at the end of July. NTT has recommended the d card as a successor card, and has enclosed an application form for it. We filled in various things to apply for the d card, filled in the bank account number and password for withdrawal, and sent it back.
 
About a month later, I received a letter from the NTT card company saying that you were sorry but you could not make a d card. The reason was not written, but it was written that if you want to ask, call me. I think the reason is because I am 85 years old. Two months later my wife was similarly rejected without reason.
 I use my NTT card on a regular basis only for Tohoku Electric Power's electricity bill (about 10,000 yen per month) and ocn mobile one bill (about 600 yen per month). As a countermeasure, I sent these companies a change request document to have these charges changed to my bank account. The process is expected to take one to two months. My wife does not have a company that regularly uses NTT cards. She only uses online shopping.
 Lately, I have stopped using credit cards on a regular basis. In the past, when I traveled, I used to use my credit card to pay for JR fares and hotels. In the past, I used a credit card for overseas tour trips. I only use it when I buy souvenirs. It was troublesome to pay in the local currency, so it was easy to pay by card. Meals and entrance fees were included in the tour price, so I didn't have to worry about paying.
 Currently, credit cards are only used for online purchases. When choosing an item at a store, I don't know the specifications of the product at all. In that respect, I can know the specifications on the net and can buy it with conviction. I have a Rakuten card for online shopping, and I use Rakuten Bank as my bank account for payment. I always have 10,000 to 20,000 yen in this bank. If it runs out, I transfer it to Rakuten Bank from postal savings etc. on the Internet. In this way, even if someone fraudulently withdraws cash from my Rakuten Bank account, the amount is small, so the damage is small.
 It seems that someone in the Amazon shop is using my email address to order items on my behalf. Occasionally, I receive emails from Amazon stating that the item cannot be shipped because the payment method has not been confirmed. This is ordered under my name, but he doesn't know the credit card information, so he probably can't pay. I move all such emails to spam. Amazon does not have my credit card registered. When I shop at Amazon, I pay cash at a nearby FamilyMart and pick up the item at that FamilyMart. Shipping is free, but it takes time and effort.
 When I shop at Yahoo or Rakuten, I use a Rakuten card. After paying by card, the card information is deleted as soon as possible. It's troublesome, but I add my credit card information every time I shop. My wife buys cosmetics that she has been using for 60 years. In the past, she used to receive packages by cash payment by courier service, but the courier service was also troublesome, so she paid online in advance with a credit card and received only the package at home. Since this wife's card is an NTT card, it is necessary to make another card. I had applied for a card on my wife's behalf with a few different card companies.
 The JCB card passed the examination easily and I was able to get my wife's card. However, the annual fee for this card is 1,300 yen. It's about 100 yen a month, so it shouldn't be too much of a burden. The direct debit is from the wife's bank account. I had also applied for a Mitsui Sumitomo card, but there was a cancellation form online, so I used it to cancel. I also applied for Mitsubishi UFJ's card, but there seems to be a problem with the examination, and there is no news at all. I want to fail the examination. General credit card companies seem to be unable to use the account of a family member (eg, wife) for the payment account of a family card. With the NTT card, direct withdrawals from my family's (wife's) account were accepted, and my wife's was also withdrawn from her own account. This was a convenient service.

            2023.7.10
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2023年夏の庭
  私達が種まきから育てている夏の花は、私が朝顔と、妻がヒマワリである。朝顔は、3年前からヘブンリーブルーという品種で、径が10cmほどの大きな青色の花を咲かせる。コーポデリのカタログで妻が見つけ、その種を買って撒いた。その年は順調に育ち、花も見事に咲いて、夏の庭は賑やかであった。昨年も同じように種を買って育てた。その年のヘブンリーブルーは元気よく、大きく育ち、花が咲くのが楽しみであったが、咲いた花は小さく、色もブルーではなかった。
 今年は、近くのホームセンターで朝顔の種を買ってきた。種の入った袋には西洋朝顔と書いてあり、写真はヘブンリーブルーであった。10粒ほどの種が入っており、6月の始めに種まきをした。ほとんどの種から芽が出て、少し大きくなったところで6ヶ所に移植した。6本の朝顔はつるを伸ばし、1m以上に大きくなっている。7月の末の時点でまだ蕾を付けていない。
 昨年、ヒマワリはコーポデリで種を買い、妻が撒いた。10本ぐらいの芽が出て、大きくなり、夏には花を咲かせた。今年は、ホームセンターでヒマワリの種を買い、撒いたが、芽が出たのは6本であった。7月の末の時点で、まだ高さ30cmぐらいである。妻とスーパーへ買物に行く途中、大きなヒマワリを妻が見つけ、羨ましがっていた。その頃の自宅のヒマワリは、高さ40cmに満たない大きさであった。
 我が家の庭には、ミニヒマワリが元気よく咲いている。花は、径が5cm程度で、ヒマワリを小さくした感じのものである。この正式の名称は判らない。これは、宿根草で5月頃地中から次々と芽が出て、30本ぐらいの茎が高さ80cmぐらいに成長する。7月の始めころから花が咲き始め、1ヶ月ぐらい咲き続ける。花の数が多いので、良く目立つ。これは、手入れを全く要しない、丈夫な花である。
 手入れの不要な宿根草は、他にもフロックスがある。庭には3ヶ所にこの草を植えてあるが、10年以上も前から植えてあるので、一番大きなフロックスは根の大きさが径50cmぐらいになっている。4月頃から新芽が出始め、6月には50本ぐらいの枝が高さ1mぐらいに成長し、6月末頃から約50個のピンクの花房の花が咲き始める。7月末には花全体が円錐状に形を整えて咲く。直径1m高さ1mの花の塊は緑の多い中で華やかである。ミニヒマワリは、枝が勝手に伸び、それぞれに花が咲くが、このフロックスは全体がきれいな円錐状に形を整えて咲く。自分たちでこのような形が整えられるのは、不思議であり、この植物の不思議な能力に感心する。
 庭には野菜を植えるコーナーを設けてある。きゅうり、ミニトマト、ピーマン、サツマイモを毎年植えている。サツマイモは、地に這わせると広い面積を占有するので、茎を上に伸ばしている。棒を2本両側に立て、上に1本のパイプを固定し、目の粗いネットをかぶせる。サツマイモの苗は、小さいポットに6個入ったものを売っているので、それを買って植えている。以前は茎を束にして売っていたものを買っていたが、根が出てくるのに時間がかかるし、根が出ないのもあって手間がかかる。今は、根付きの少し育った苗を購入している。これだと確実に大きく育てることができる。
 毎夏必ず買う草花は、一年草のサフィニアという苗である。この花は、サントリーが開発した苗のようで、長い期間赤い花を咲かせる。この苗は、径が30cmの鉢に植えて、1カ月後には多くの花を咲かせる。花は、径50cmぐらいに広がった多くの茎に、60個ぐらい付く。これが9月頃まで続くので、夏の庭には欠かせない花となっている。 

      2023.8.10
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English
Miscellaneous-notes
2023 summer garden
  The summer flowers that we grow from seed are morning glories for me and sunflowers for my wife. Three years ago, the morning glory was a cultivar called Heavenly Blue, and it blooms large blue flowers with a diameter of about 10 cm. My wife found this in the Corpodeli catalog and bought the seeds to sow. That year it grew well, the flowers bloomed splendidly, and the summer garden was lively. I bought seeds last year and grew them. The Heavenly Blue that year was healthy and grew big, and I was looking forward to the flowers blooming, but the flowers that bloomed were small and the color was not blue.
 This year, I bought morning glory seeds at a nearby home center. The bag containing the seeds said Western Morning Glory, and the photo was Heavenly Blue. It contains about 10 seeds and was sown at the beginning of June. When most of the seeds sprouted and grew a little, they were transplanted to six locations. The six morning glories stretch their vines and grow to more than 1m. No buds yet at the end of July.
 Last year, I bought sunflower seeds at Corpodeli and my wife sowed them. About 10 buds came out, grew big, and bloomed in summer. This year, I bought sunflower seeds at a home center and sowed them, but only six sprouted. At the end of July, it is still about 30cm high. On my way to the supermarket with my wife, she found a large sunflower and was envious of it. At that time, the sunflowers I had at home were less than 40 cm high.
 In our garden, mini sunflowers are blooming vigorously. The flowers are about 5 cm in diameter, and look like small sunflowers. I don't know the official name for this. This is a perennial plant, and around May, buds appear one after another from the ground, and about 30 stems grow to a height of about 80 cm. The flowers start blooming around the beginning of July and continue to bloom for about a month. Because of the large number of flowers, it stands out well. This is a hardy flower that does not require any care.
 Phlox is another perennial that does not require maintenance. I have this grass planted in three places in my garden. Since I have been planting it for more than 10 years, the largest phlox has a root diameter of about 50 cm. New shoots start appearing around April, about 50 branches grow to a height of about 1m in June, and about 50 pink flower clusters begin to bloom from around the end of June. At the end of July, the entire flower forms a conical shape and blooms. Clusters of flowers with a diameter of 1m and a height of 1m are gorgeous in the midst of greenery. Mini sunflowers grow on their own and each flower blooms individually, but this phlox blooms in a beautiful conical shape as a whole. It is strange that they can shape themselves like this, and I admire the mysterious ability of this plant.
 There is a corner for planting vegetables in the garden. We plant cucumbers, cherry tomatoes, green peppers and sweet potatoes every year. The sweet potato occupies a large area when crawled on the ground, so the stem is extended upward. Two sticks are put up on both sides, one pipe is fixed on top, and a coarse net is covered. Sweet potato seedlings are sold in small pots containing 6 pieces, so I buy them and plant them. I used to buy stems that were sold in bundles, but it took a long time for the roots to come out, and it took a lot of time because the roots didn't come out. Now, I'm buying seedlings that have grown a little with roots. This makes it easy to grow.
 The flower that I always buy every summer is an annual Safinia seedling. This flower seems to be a seedling developed by Suntory, and it blooms red flowers for a long time. This seedling is planted in a pot with a diameter of 30 cm, and after one month many flowers bloom. About 60 flowers are attached to many stems with a diameter of about 50 cm. This lasts until around September, making it an essential flower for summer gardens.

            2023.8.10
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 iPod
  アップル社のスマホには、iPhone、iPad、iPod(iPod touch)がある。iPhone、iPadは電話機能が付いており、iPodにはそれがない。私は長い間、iPodを持っていた。私は、iPodを「i文庫」の小説を読む道具として使っていた。私は、寝る前にベッドの中でiPodを片手に、20分ぐらい小説を読み、眠くなって寝ることを習慣としている。iPodは手のひらに入り、軽いので腕の疲れはない。iPodを何日も使っていると、電池の電気容量がなくなるので、充電しなくてはならない。1回の充電で10日ぐらい持つのであるが、最近はそれが短くなり、充電後20分ぐらいで電池切れになる。電池の劣化であろう。ネットで調べると、電池交換には2万円かかるとあり、さらにiPodそのものが廃盤品になるという。
 私はiPodに代わるスマホをネットで探した。私は、電話機能のあるスマホ(DIGNO)はすでに持っているので、電話機能のない(SIMフリー)スマホを探した。mi(小米技術日本KK)という、あまり知られていない会社のスマホを、2.5万円で買うことにした。これは、SIMを取り付ければ、電話機能が使えるが、私には別にDIGNOがあるので、SIMは不必要である。購入したmiの機種は、Radmi Note 11である。
 現在持っているスマホは、京セラのDIGNOという機種である。これは二つ折りタイプの旧型のスマホで、画面の指示は液晶パネルのタッチ式ではなく、全て数字や文字あるいは記号のボタンを押して、用を足す方式である。液晶を指で触って、画面を変えるとか、文字を拡大するとかはできない。全く使いづらスマホである。外出時のインターネットの接続は可能であるが、使ったことがない。接続を契約している会社はNTTドコモで、サービス名は、OCNモバイルワンである。このネットの使用容量は月500MBで、電話料金込みで月額550円の料金である。ネットは自宅のパソコンで用を足しているので、外出先でネットを使うことは全くない。そのため500MBを使うことはない。
 このDIGNOは外出時必ず持って行く。これは、何かの時の連絡手段である。電話は、めったに使わないので、電源は常時offにしてある。電話を使うときだけ、onにしているので、このスマホの充電は、ほとんどしなく、1年に1回程度である。このスマホには電話帳があり、知人などの電話番号を入力してある。自宅の固定電話には電話帳がないので、自宅でこちらから電話するときは、このスマホを使うことがよくある。
 街中でスマホを片手にして、歩きながら、あるいは立ってスマホを見ている人を多く見かけるが、何を見ているのか知りたいものだ。彼等はスマホを耳に当てていないので、電話ではないであろう。画面を見ているだけであるので、有名人のあるいは友達のSNSをみているか、グーグルなどのニュースを見ているか、あるいはゲームをしているかであろう。スマホの画面は小さいので、文字も小さいであろう。私は、彼等の様子を見て、よく文字が見えるなあ、と感心する。私は、年のせいかスマホの字は小さくて読むことができない。
 私が自宅で使っているパソコンの液晶画面は、横55cm、縦34cmの大画面である。そのため目が悪くても何とか字は読める。私がパソコンを使うのは、暇つぶしで、ゲームをすることが多い。ゲームは、カードゲーム(フリーセル)と、麻雀パイのブロック崩しである。これらを長年やっているが、飽きることがないのが不思議である。残り少ない私の人生であるが、残りの時間を社会のために役立つことを少しも考えてないのは、私が凡人である証である。

      2023.9.10
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English
Miscellaneous-notes
iPod
  Apple's smartphones include the iPhone, iPad, and iPod (iPod touch). iPhones and iPads have telephone functions, but iPods do not. I've had an iPod for a long time. I used my iPod as a tool to read novels from ``iBunko''. I have a habit of reading a novel for about 20 minutes in bed with my iPod in hand before going to bed. The iPod fits in the palm of my hand and is lightweight, so my arm doesn't get tired. After using my iPod for days, the battery runs out of power and I have to charge it. It lasts about 10 days on a single charge, but recently it has become shorter, and the battery runs out in about 20 minutes after charging. It could be battery deterioration. When I looked it up online, I found that it would cost 20,000 yen to replace the battery, and that the iPod itself would be discontinued.
 I searched online for a smartphone to replace my iPod. I already have a smartphone with a phone function (DIGNO), so I looked for a smartphone without a phone function (SIM-free). I decided to buy a smartphone from a little-known company called mi (Xiaomi Technology Japan KK) for 25,000 yen. If I install a SIM, I can use the phone function, but since I have a DIGNO, the SIM is unnecessary. The purchased model of mi is Radmi Note 11.
 The smartphone I currently own is a Kyocera model called DIGNO. This is an old-fashioned bifold type smartphone, and the instructions on the screen are not touch-based on the LCD panel, but instead are all done by pressing buttons with numbers, letters, or symbols. I can't touch the liquid crystal with my finger to change the screen or enlarge the characters. It is a very difficult smartphone to use. It is possible to connect to the Internet when going out, but I have never used it. The company with which the connection is contracted is NTT DoCoMo, and the service name is OCN Mobile One. The usage capacity of this net is 500MB per month, and the monthly charge is 550 yen including telephone charges. I use the internet on my home computer, so I don't use the internet at all when I'm out. Therefore, 500MB is never used.
 I always take this DIGNO with me when I go out. This is a means of communication at any time. I rarely use my phone, so I always keep it turned off. I only turn it on when I use the phone, so I hardly ever charge this smartphone, about once a year. This smartphone has a phone book, and I have entered the phone numbers of my acquaintances. My landline phone doesn't have a phone book, so I often use this smartphone to make calls from home.
 I see many people walking or standing around town looking at their smartphones with their smartphones in hand, but I would like to know what they are looking at. They weren't holding their smartphones to their ears, so it was probably not a phone call. Since they are only looking at the screen, they may be looking at celebrities' or friends' SNS, checking the news on Google etc., or playing games. Since smartphone screens are small, the text will also be small. When I look at them, I am impressed by how well they can read. Perhaps because of my age, the text on my smartphone is so small that I can't read it.
 The LCD screen of the computer I use at home is large, 55 cm wide and 34 cm high. Therefore, even if my eyesight is bad, I can read the characters somehow. I often use my computer to kill time and play games. The games are a card game (FreeCell) and mahjong pie block breaking. I've been doing these things for many years, and it's strange that I never get tired of them. It's the little I have left. The fact that I don't think of anything useful for society with the rest of my time is proof that I am an ordinary person.

            2023.9.10
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2023年、真夏日
  暑さの表現は色々あるが、日本気象協会が発表したものによると、夏日は25℃以上、真夏日は30℃以上、猛暑日は35℃以上、酷暑日は40℃以上となっている。これを以上という言葉を使わずに、数字で表せば、25℃~29℃が夏日、30℃~34℃が真夏日、35℃~39℃が猛暑日、40℃を超えると酷暑日、となる。この夏で酷暑日は少なかったが、猛暑日は全国で毎日のようにあった。福島県でも猛暑日は会津地方、福島市に多く、9月中旬まで度々観測された。矢祭地方は連日真夏日で、9月後半まで続いた。9月末になってやっと夏日になった。
 福島県の気象は、浜通り、中通、会津地方に分けて天気予報が示される。浜通りは、海洋性気候の穏やかな気候である。会津地方は、日本海側にある1600mの飯豊山などの麓にある盆地であり、典型的な盆地の気候である。中通は、北から南へ福島市、郡山市、白河市などがある地域である。福島市は、吾妻山、安達太良山の麓の街で、どちらかと言うと盆地気候である。矢祭町は中通に属しているが、県の南端にあり、浜通りのいわき市の気候に近い。私は、矢祭町の天気予報の最高温度については、いわき市の最高温度を参考にしている。いわき市の今年の夏の最高温度は、真夏日が最高で、猛暑日はなかった。福島県で、猛暑日が多かったのは、福島市、会津若松市であった。郡山市は近くに高い山はなく、猪苗代湖があるので、真夏日のみであった。大きな湖が気候に与える影響は大きい。
 今年の梅雨は、はっきりしなかった。梅雨前線も小さかったが、その代り線状降水帯が九州で発生し、大きな水害をもたらした。9月以前の日本に上陸した台風は、九州と関西だけである。9月には、台風13号が関東南部から東北の太平洋側へぬけた1個だけである。福島県の梅雨は、長雨はなく、単発的に発生するゲリラ豪雨だけであった。当地矢祭地方も雨は少なく、5~10分の豪雨が時折降るだけで、梅雨らしい長雨はなかった。
 台風13号が福島県の浜通りを通ったおり、線状降水帯が発生し、いわき市に大雨をもたらした。床上浸水、土砂崩れなどの被害が発生した。被害総額は、22億円と言われ、死者も1名出た。福島県の浜通りと中通の間には、阿武隈山系という山(標高700m~200m)が連なっている。当地矢祭町は、いわき市に隣接しているが、間に阿武隈山系がある。そのためか、いわき市が大雨の時も、矢祭町では雨は全くなかった。いわき市の床上浸水は、1000戸を超えており、後始末に多くのボランティアが各地からやってきた。老齢の家主が多い中で、ボランティアの働きが感謝されていた。
 我が家では、夏から初秋にかけて日照りが続いたので、庭の木々は元気で、雑草も元気であった。私は、この雑草を抜くのに苦労し、暑い中15分ぐらい草ぬきをすると、歳のせいか疲れてしまう。20分ぐらい日陰で休息し、また草ぬきをするという繰り返しで、庭仕事をしていた。しかし、なかなか草取りは、はかどらない。今年は熱中症が多いというので、私も気を付けていた。そのおかげで今年の夏は、熱中症とは無縁であった。
 私の今年の暑さによる被害は、体の方々にできた「あせも」である。庭仕事で大汗をかいて、休むためイスに座るという繰り返しを毎日おこなっていた。そのため、背中にあせもができてしまった。前のお腹の部分にも大きなあせもができた。かゆみがあるので、塗り薬(フルコート)をぬっているが、簡単には直らない。秋になって気温が下がると、あせもは直るのではないかと期待している。

      2023.10.10


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Miscellaneous-notes
2023, Manatubi
  There are various expressions for heat, but according to what the Japan Weather Association announced, Natubi is over 25 degrees Celsius, Manatubi is over 30 degrees Celsius, Mousyobi is over 35 degrees Celsius, and Kokusyobi is over 40 degrees Celsius. If I were to express this in numbers without using the word over, 25°C to 29°C would be Natubi, 30°C to 34°C would be Manatubi, 35°C to 39°C would be Mousyobi, and above 40°C would be Kokusyobi. . There weren't many Kokusyobi this summer, but Mousyobi were there every day across the country. In Fukushima Prefecture, Mousyobi is prevalent in the Aizu region and Fukushima City, and was frequently observed until mid-September. In the Yamatsuri region, Manatubi continued every day until late September. The heat finally reached Natubi at the end of September.
 Weather forecasts for Fukushima Prefecture are divided into Hamadori, Nakadori, and Aizu regions. Hamadori has a mild oceanic climate. The Aizu region is a basin located at the foot of Mt. Iide, which is 1,600 meters high on the Sea of Japan side, and has a typical basin climate. Nakadori is an area that includes Fukushima City, Koriyama City, and Shirakawa City from north to south. Fukushima City is a city at the foot of Mt. Azuma and Mt. Adatara, and has a rather basin climate. Although Yamatsuri Town belongs to Nakadori, it is located at the southern end of the prefecture and has a climate similar to that of Iwaki City on Hamadori. For the maximum temperature in the weather forecast for Yamatsuri Town, I refer to the maximum temperature in Iwaki City. This summer's maximum temperature in Iwaki City was highest in Manatubi and none in Mousyobi. In Fukushima Prefecture, Mousyobi was most common in Fukushima City and Aizuwakamatsu City. Koriyama City has no high mountains nearby, and Lake Inawashiro is nearby, so the summer heat was only Manatubi. Large lakes have a large influence on the climate.
 This year's rainy season was uncertain. The seasonal rain front was also small, but instead a linear rain belt formed in Kyushu, which caused major flooding. The only typhoons that made landfall in Japan before September were in Kyushu and Kansai. In September, only one typhoon, No. 13, passed from southern Kanto to the Pacific side of Tohoku. During the rainy season in Fukushima Prefecture, there were no long periods of rain, only occasional torrential downpours. There was little rain in the Yamatsuri region, with only occasional 5 to 10 minute torrential downpours, but no long rains typical of the rainy season.
 Typhoon No. 13 passed through Hamadori in Fukushima Prefecture, creating a linear rain band and bringing heavy rain to Iwaki City. Damage occurred, including flooding above the floor and landslides. The total damage was said to be 2.2 billion yen, and one person was killed. Between Hamadori and Nakadori in Fukushima Prefecture, there is a chain of mountains called the Abukuma Mountains (700m to 200m above sea level). The town of Yamatsuri is adjacent to Iwaki City, but there is the Abukuma Mountain Range in between. Perhaps for that reason, even when it rained heavily in Iwaki City, there was no rain at all in Yamatsuri Town. More than 1,000 homes in Iwaki City were flooded above the floor level, and many volunteers came from all over the country to help clean up the area. The work of the volunteers was appreciated as many of the landlords were elderly.
 At my house, the sun continued to shine from summer to early fall, so the trees and weeds in the garden were healthy. I have a hard time pulling out these weeds, and after about 15 minutes of weeding in the heat, I get tired, perhaps because of my age. I worked in the garden, resting in the shade for about 20 minutes, then weeding again. However, weeding does not go smoothly. There are a lot of cases of heat stroke this year, so I was also careful. Thanks to that, I didn't suffer from heatstroke this summer.
 The damage I suffered from this year's heat was heat rash on various parts of my body. Every day, I would sweat profusely from working in the garden and then sit down on a chair to rest. As a result, I developed heat rash on my back. I also had a large heat rash on my stomach area. It's itchy, so I'm applying ointment (Full Coat), but it doesn't heal easily. I'm hoping that my heat rash will go away when the temperature drops in the fall.

            2023.10.10

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健康器具
  我が家には健康器具が3台ある。1台は、10年以上前に購入した歩行器である。これは普段使わないが、雨の日、外で庭仕事ができないとき、このマシンを使って運動する。歩く速度で5分間歩き、10分休み、また5分歩くという運動である。距離にして約4kmの歩行であるが、結構疲れる。
 2台めは足踏み器(フットステッパー)である。これは、テレビなどで草笛光子がこれを使って宣伝していたのを見て、5年前ぐらいに購入したものである。これは主に妻が利用している。足腰の衰えを防ぐために、妻が週2回利用している。妻は、これを歩行器の横に置いて、歩行器のハンドルに片手を握って足踏みをしていたが、最近はどこにも掴まらずフリーハンドで足踏みができると、妻は喜んでいた。
 3台目は、足を乗せる振動器である。これは、両足を乗せて、上下に振動させる装置である。私は毎朝CD音楽を聞くとき、イスに座り、足をこの器具に乗せて、10分間振動させている。振動の速さと時間は調節できる。本来はこの器具の上に立って、振動させるのが効果があるのかもしれない。腰から下の筋肉に振動を与え、筋肉が強化され、100歳になっても歩くことができる、というのがこの器具の宣伝文句である。私の場合、全体重を載せていないから、筋肉強化にどれほど効果があるか分からない。
 座ってこの器具の上に足を乗せて振動させていると、「貧乏ゆすり」をしているような感じである。私が子供の頃、私の父が、度々貧乏ゆすりをして、母からみっともないから止めてくれ、と言われていたことを思い出した。当時、中学生の私と、同学年の大家の息子とが我が家の座敷で英語の勉強を父から受けていた。私達は座卓に正座し、父はあぐらをかいて英語を教えていた。その際、父が時折貧乏ゆすりをしているのを見ていた。私達の発音が気に食わなくて、父がいらいらしている時に、この貧乏ゆすりをしていたのであろう。
 その後、私は無意識のうちに貧乏ゆすりをしていたようである。社会人になってそれに気が付いて、びっくりしたことがあった。私の職場仲間と出張で、列車の座席に座って話をしている時、彼は黙って私の膝をおさえた。私が貧乏ゆすりをしているのを、彼がとめたのである。彼は、私の貧乏ゆすりが気になって、やめてくれという意味で、手で私の膝を抑えたのであろう。その後、私は貧乏ゆすりに対して注意して、すっかり止めていた。今度の振動器で、再び貧乏ゆすりの癖が出るかもしれない。注意しなければならない。
 私達は10月末、7回目のコロナワクチン予防接種を受けた。以前は広い会場で、町内の100名以上が集まって接種を行っていたが、昨年から個人病院で都合の良い日時を選んで、接種を受ける方法に変わった。私達が接種を受ける日には、病院に約10名が集まって、受付順に接種を受けた。集まった人達はほとんど高齢者であり、付き添いの人を連れてくる人もいた。そのうち2~3人は腰が曲がっているのを見つけた。5年前に会った私の長姉は、腰が曲がっていた。長姉は、土産物屋のような店を持っていて、通路を掃除したり、商品の埃を払ったりしているうちに、腰が曲がったのであろう。私も庭の草取りで、腰を曲げているので、そのうち腰が曲がってくるのか、心配している。以前、ぶら下り器が流行ったことがあったが、それを使えば腰の曲がりは防げるかもしれない。しかし、家の中でぶら下がり器は場所をとるので、買うつもりはない。私は、腰を伸ばす運動だけで、腰の曲がりを防ごうかと思っている。

      2023.11.10

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English
Miscellaneous-notes
Health appliances
  There are three health appliances in my house. One is a walker purchased over 10 years ago. I don't usually use this machine, but on rainy days when I can't work outside in the garden, I use this machine to exercise. The exercise involves walking at walking speed for 5 minutes, resting for 10 minutes, and then walking for another 5 minutes. The walking distance is approximately 4km, but it is quite tiring.
 The second device is a foot stepper. I bought this about five years ago after seeing Mitsuko Kusabue advertising it on TV. This is mainly used by my wife. My wife uses it twice a week to prevent her legs from weakening. My wife used to put this next to the walker and use one hand to hold the handle of the walker to step on it, but lately she can't hold it anywhere and can use her free hand to step on it. My wife was pleased.
 The third device is a vibrator for both legs. This is a device that I put my feet on and it vibrates up and down. Every morning when I listen to CD music, I sit in a chair, put my feet on this device, and let it vibrate for 10 minutes. The speed and duration of vibration can be adjusted. Originally, it might be effective to stand on this device and let it vibrate. The marketing claim of this device is that it vibrates the muscles from the waist down, strengthening the muscles and allowing people to walk even when they are 100 years old. In my case, I don't know how effective it is in strengthening my muscles because I don't put my full weight on it.
 When I sit and put my feet on this device and let it vibrate, it feels like I'm doing "poor extortion." I remember that when I was a child, my father would often engage in ``poor extortion,'' and my mother would tell him to stop because it was unseemly. At that time, I was a junior high school student, and the son of the rented house, who was the same age as me, was studying English from my father in our parlor. We sat squarely at the table, and my father sat cross-legged, teaching us English. At that time, I saw my father occasionally engage in poor extortion. My father probably did this extortion when he was annoyed because he didn't like our pronunciation.
 After that, it seems that I unconsciously engaged in poor extortion. When I became a member of society, I realized this and was surprised. I was on a business trip with someone from my workplace, and while we were sitting on a train seat talking, he silently held my knee. He stopped me from being poor extortion. He must have been concerned about my extortion and put his hand on my knee to ask me to stop. After that, I became wary of poor extortion and completely stopped it. With this vibrator, my poor extortion habits may come back. Must be careful.
 We received our seventh coronavirus vaccination at the end of October. Previously, more than 100 people from the town gathered at a large venue to get vaccinated, but since last year, the method has changed to choosing a convenient date and time at a private hospital to get vaccinated. On the day we received the vaccination, about 10 people gathered at the hospital and received the vaccination in the order received. Most of the people gathered were elderly, and some brought their companions. I noticed that two or three of them were bent at the waist. When I met my eldest sister five years ago, her hips were bent. My eldest sister had a shop that looked like a souvenir shop, and she must have bent over while cleaning the aisles and dusting off the merchandise. I also have to bend my back when weeding the garden, so I'm worried that my back will eventually bend again. There was a time when hanging devices were popular. If I use that, I might be able to prevent my lower back from bending. However, I have no intention of buying a hanging device because it takes up a lot of space in my house. I am thinking of preventing my lower back from bending by doing exercises that stretch my lower back.

            2023.11.10
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もみじ寺
  全国で、もみじ寺と言われているお寺は多数ある。茨城県大子町のもみじ寺は、世間にはあまり知られていない。インターネットで「もみじ寺」を検索すると、最初に出てくるのが、この大子町のもみじ寺である。この寺は、正式には永源寺と言われ、1446(文安3)年に創建された曹洞宗の寺院で、七福神の紅一点で、芸能の神である弁財天が祀られている。1864年に天狗党の乱で寺の大半を焼失した。現在の本堂は、1953年に再建されたものである。
 もみじ寺と言われるお寺は特に京都に多いようだ。これらのもみじ寺は、地元の人、観光客あるいはツアー業者が名付けているようで、京都でこの名前を使うと、もみじ寺が多くて、観光客が困るであろう。もみじの木は、先端の枝が細くて多く、枝についている葉が横に広がっているので、柔らかな感じを与える。そのため、お寺には好まれるのであろう。もみじによく似た木にカエデがある。もみじは、紅葉と書かれ、葉の切れ込みが深い。それに対して、カエデは、葉の切れ込みが浅く、もみじと同様な色に変化する。
 大子町の永源寺、もみじ寺は、他のもみじ寺と違って、寺が「もみじ寺」と自称しており、もみじ寺と書いた石碑を立てている。このもみじ寺の特徴は、もみじの他に多くの石像が境内に立てられていることである。石像は全部で50体ぐらいであろうか。そのほとんどが小さな子供の石像である。頭がまん丸であるから男の子か女の子かはっきりしない。永源寺本堂の前の参道には、大人の石像があり、その足もとには6体の子供の石像が並んでいた。弁財天を祀っているので、大人の石像は母親であろう。多くの子供の石像の中には、髪を後ろに結んだ像があった。これは明らかに女の子の石像である。
 私達は、コロナ禍のためこの4年間、遠出はしなかった。外に出るのは、買物のため、車で15分ぐらいのスーパーのみであった。私達は、久しぶりにこのもみじ寺へ出かけようと計画した。もみじ寺がある大子町は、茨城県の最北端で、私達が住んでいる矢祭町とは隣接している。大子町は、国道118号沿いに、広いショッピングセンターをつくっており、そこには色々な分野のショップがある。コンビニ(セブンイレブン)、ドラッグストア(ウエルシア)、ホームセンター(カインズ)、スーパーマーケット(たいらや、リオンドール)、衣料品店(しまむら)、電気店(ケーズ)などがまとまってある。私達も週2回車で、このセンター街のスーパーマーケットへ出かけている。自宅から車で15分の距離である。
 大子町のもみじ寺は、JR大子駅から徒歩15分の距離であると、寺のホームページに書かれている。私達は11月9日、このもみじ寺へ出かけた。車を大子駅の駐車場に置き、そこから歩いて寺へ行く。私達はこの4年間、15分も歩いたことがなかったので、私は歩くのに不安であった。そこで今まで使ったことがなかった杖を持って歩いた。もみじ寺は、近くの低い山の中腹にあり、駅付近から肉眼で見える。この寺は、平地から標高差50mぐらいの位置である。途中、水郡線の小さな踏切があり、そこには警備員が一人立っていた。踏切の道幅は狭く、車一台が通れるぐらいである。踏切に置いてある敷き石は凸凹が激しく、歩くのにつまずきそうになる。警備員がいる理由がわかった。
 寺の山門に行くまでには、スロープの道と長い石段がある。私達は、スロープの道を歩いて、山門までたどり着いた。駅から約20分かかった。山門の前の石段を上がり、参道を約30m歩くと、6段ぐらいの石段があり、すぐ前に本堂がある。私は、杖のおかげで本堂までたどり着くことができた。石段には手すりがあるはずであるが、ここにはそれがない。ある年を取った人は、山門の石段の所で引き返していた。高齢化社会の今では、石段の手すりの設置は必要であろう。
            2023.12.10
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English
Miscellaneous-notes
Momiji Temple
  There are many temples throughout the country called Momiji Temple. Momiji Temple in Daigo Town, Ibaraki Prefecture is not well known to the public. When you search for ``Momiji Temple'' on the Internet, the first thing that comes up is Momiji Temple in Daigo Town. This temple, officially called Eigen-ji, is a Soto sect temple founded in 1446 (Bunan 3). Benzaiten, the only red one of the Seven Lucky Gods and the god of entertainment, is enshrined there. In 1864, most of the temple was destroyed in the Tenguto Rebellion. The current main hall was rebuilt in 1953.
 There seem to be many temples called Momiji Temple, especially in Kyoto. These Momiji Temples seem to have been named by locals, tourists, or tour operators, and if Kyoto were to use this name, tourists would be in trouble because there are so many Momiji Temples. The momiji tree has many thin branches at the tip, and the leaves on the branches spread out horizontally, giving it a soft feel. For this reason, it is probably preferred by temples. Kaede is a tree that is very similar to momiji. Momiji is written as kouyou and has deep leaves. On the other hand, kaede has shallowly cut leaves and changes in color similar to momiji.
 Eigenji Temple (Momiji Temple) in Daigo Town is different from other Momiji Temples in that it calls itself ``Momiji Temple'' and has a stone monument that says ``Momiji Temple.'' The unique feature of Momiji Temple is that there are many stone statues in addition to Momiji inside the temple grounds. There are probably about 50 stone statues in total. Most of them are stone statues of small children. It's not clear whether it's a boy or a girl because their head is round. On the approach in front of the main hall of Eigen-ji, there was a stone statue of an adult, and at its feet were six stone statues of children. Since Benzaiten is enshrined here, the adult stone statue is probably their mother. Among the many stone statues of children, there was one with her hair tied back. This is clearly a stone statue of a girl.
 We haven't traveled far for the past four years due to the coronavirus pandemic. The only time we went out was to shop at the supermarket, which was about a 15 minute drive away. We planned to go to Momiji Temple for the first time in a while. Daigo Town, where Momiji Temple is located, is the northernmost part of Ibaraki Prefecture, and is adjacent to Yamatsuri Town, where we live. Daigo Town has built a large shopping center along National Route 118, and there are shops in various fields. Convenience stores (7-Eleven), drug stores (Welcia), home centers (Cain's), supermarkets (Tairaya, Lion Doll), clothing stores (Shimamura), electronics stores (K's), etc. are all located here. We also drive to the supermarket in this shopping center twice a week. It's a 15 minute drive from my home.
 Momiji Temple in Daigo Town is a 15-minute walk from JR Daigo Station, according to the temple's website. We went to Momiji Temple on November 9th. I left my car in the parking lot at Daigo Station and walked to the temple from there. We hadn't walked for more than 15 minutes in four years, so I was nervous about walking. So I walked with a cane, which I had never used before. Momiji Temple is located halfway up a nearby low mountain and can be seen with the naked eye from near the station. This temple is located at an elevation difference of about 50 meters from the plains. Along the way, there was a small railroad crossing on the Suigun Line, and there was a guard standing there. The road at the railroad crossing is narrow and can only accommodate one car. The paving stones at the railroad crossing are so uneven that I almost trip over them when I walk. I understand why there are security guards.
 There is a slope path and long stone steps to get to the temple's main gate. We walked along the slope to reach the main gate. It took about 20 minutes from the station. If you go up the stone steps in front of the main gate and walk along the approach for about 30 meters, there will be about 6 stone steps, and the main hall will be right in front of you. Thanks to my cane, I was able to reach the main hall. There should be handrails on the stone steps, but there are none here. An old man turned back at the stone steps of the main gate. In today's aging society, it is necessary to install handrails on stone steps.

            2023.12.10
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春うらら2024年
  私達の自宅の隣の敷地は、長らく空き地であったが、昨年11月に買い手がついて、建物の建築が始まった。年内には完成し、家族が引っ越してくるのかと思っていたが、完成は年を越した。私は、今の自宅の土地を1998年に土地造成者の矢祭町から購入した。土地の面積は158坪で、売価は991万円であった。隣の土地は166坪で、売価は1052万円であった。この隣の土地は、この団地の中で最も敷地が広く、値段も最も高かった。当時、隣の土地は、東京、品川区の人が購入していたが、3、4年後売却した。その後長らく買い手がなく、不動産屋の売却物件になっていた。
 私は数年前、この土地の値段を不動産屋のホームページで調べてみると、500万円となっていた。これは、当初の半額以下の売価である。この土地は、南北に長く、北側は道路に接している。南には町のフェンスがあり、その南は町有地と小さな沢があり、その先は畑地と荒地である。人家は約100m先にあり、誰からも覗かれない。この土地は、いわば団地内の一等地である。敷地の南東方向には森があり、冬場は朝9時頃まで敷地の一部に日が当たらない。これが唯一の欠点であろうか。この土地の所有者は2名で、その関係は分からない。親子かもしれない。
 暮れには、総二階建ての骨組みが出来て、陸屋根の屋根材を敷いたようである。最初建物の周囲は断熱材で覆われていたが、窓のサッシが付けられた。南側には広いサッシが、東側には2階にだけ小さな横長のサッシが2個、北側はサッシを付けていない。この敷地の利用の仕方が不思議であった。敷地の南約三分の一の所に、東西方向に立派な高さ60cmのブロックが設置された。ブロックの南側は放置されている。ここの空き地を何に使うのか? 私は、ドッグランを作るのではないかと予想している。妻は、小屋を建てて、塾のようなことをすると想像している。
 私は、昨年の暮れに4泊5日の入院をした。症状は、朝起きた時、体がふらつき、何処かを掴まらないと歩けない状態であった。町内の東館診療所に行って、診てもらうと、色々検査した方がよいと言われ、隣町の慈泉堂病院に入院した。この病院は、東館診療所と業務提携しており、両病院の行き来は専用の車が利用できる。病院に着くと、医者から、血圧などが測られ、問診をうけ、個室に案内された。すぐ点滴を受けた。点滴は2種類で、血液の栄養剤と、ふらつき止めの液体であった。入院には色々な検査を必要とするので、それを受けた。血液検査、脳と心臓のCTスキャン、胃などのレントゲン検査などを3日間受けた。別の日にはMRIの検査を受ける予定である。人間ドックに入った感じである。
 入院3日目の朝、体のふらつきはなくなった。点滴は夕方全部外された。私は、脚の筋肉を鍛えるため、部屋の中を歩いたりした。部屋には小さなテレビがあり、暇だから見ていたが、突然電源が切れてしまった。このテレビを見るには、専用のカードが必要で、1枚1000円(10時間分)で売店に売っている。売店は1階にあり、そこで新聞とカードを購入した。今まで使っていたカードは、前の入院者が使っていた残りであろう。約3時間残っていた。
 5日目の朝、退院の許可がおりた。入院費用は3.7万円であった。支払いは、矢祭町の東館診療所でOKと言うので、後日支払うことにした。医療保険を使っていることにしても、予想より安かった。入院時の食事は朝昼晩の3食で、部屋はトイレ付きの個室であり、看護婦のケアが度々あり、部屋の掃除も毎日行われた。
 退院後のからだのふらつきはなくなった。なぜこのふらつきが急に発生したか、医師もはっきり言わなかったし、判らないようだ。私は、1ヶ月前に振動器を購入して、それを毎朝10分間使っていた。イスに座って、これに両足を乗せると、振動が足から太ももに伝わり、下半身の色々な筋肉が強化される気持ちになる。入院する前は、この振動器の上に立って振動させていた。この状態では、振動が背骨から頭(脳)に伝わり、脳が揺れている感じになっていた。この脳への振動が、私のふらつき発生の原因だろうかと考えた。そのため、退院後は振動器の上には立たないことにしている。

            2024.1.10
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English
Miscellaneous-notes
Haru Urara 2024
  The site next to our home had been vacant for a long time, but in November of last year a buyer was found and construction began on the house. I thought it would be completed by the end of the year and the family would move in, but it wasn't completed until the end of the year. I purchased the site where my current home is located in 1998 from Yamatsuri Town, the land developer. The site area was 158 tsubo, and the selling price was 9.91 million yen. The site next door was 166 tsubo, and the selling price was 10.52 million yen. The site next door was the largest and most expensive in the complex. At that time, the site next door was purchased by a person from Shinagawa, Tokyo, but he sold it three or four years later. After that, there was no buyer for a long time, and the site was sold by a land dealer.
 A few years ago, when I looked up the price of this site on the company's website, it was 5 million yen. This is less than half the original selling price. This site is long from north to south, and is bordered by a road on the north side. To the south is the town fence, south of that is town land and a small stream, and beyond that are fields and wasteland. The house was about 100 meters away, so no one could peek into it. This site is, so to speak, a prime location within the housing complex. There is a forest to the southeast of the site, and in winter, part of the site does not receive sunlight until around 9 a.m. Could this be the only drawback? There are two owners of this site, and the relationship between them is unknown. It could be a parent and child.
 By the end of the year, it appears that a two-story frame was completed and a flat roof roofing material was laid. Initially the building was covered with insulation, then window sashes were added. There is a wide sash on the south side, two small oblong sashes on the second floor on the east side, and no sash on the north side. The way this site was used was strange. A magnificent 60cm high block wall was built in the east-west direction on the southern third of the site. The south side of the block is abandoned. What will the owner use this vacant land for? I predict that they will build a dog run. My wife imagines they'll build a cabin and do something like a cram school.
 I was hospitalized for 4 nights and 5 days at the end of last year. The symptoms were that when I woke up in the morning, I felt unsteady and couldn't walk without holding on to something. When I went to the Higashidate clinic in my town and saw a doctor, I was told that I should undergo various tests, so I was admitted to Jisendo Hospital in the neighboring town. This hospital has a business partnership with Higashidate Clinic, and a private car is available for transportation between the two hospitals. When I arrived at the hospital, the doctor took my blood pressure, took an interview, and led me to a private room. I immediately received an intravenous drip. There were two types of intravenous drips: a blood nutrient and a liquid to prevent dizziness. Hospitalization requires various tests, so I underwent them. I underwent three days of blood tests, CT scans of my brain and heart, and x-rays of my stomach and other areas. I am scheduled to undergo an MRI examination on another day. It's like going through a complete medical checkup.
 On the morning of the third day in the hospital, I no longer felt dizzy. All IVs were removed in the evening. I walked around the room to strengthen my leg muscles. There was a small TV in the room, and I was watching it because I had some free time, but it suddenly turned off. To watch this TV, I need a special card. It is sold at shops for 1,000 yen each (10 hours worth). There was a shop on the first floor, where I bought newspapers and a card. The card I was using up until now was probably a leftover card from a previous patient. About 3 hours remained.
 On the morning of the fifth day, I was given permission to be discharged from the hospital. Hospitalization costs were 37,000 yen. I was told that I could pay at the Higashidate Clinic in Yamatsuri Town, so I decided to pay at a later date. Even with medical insurance, it was cheaper than I expected. When I was hospitalized, I had three meals (breakfast, lunch, and dinner), and my room was a private room with a toilet.I was often cared for by nurses, and my room was cleaned every day.
 After being discharged from the hospital, my body no longer felt light-headed. The doctor didn't say for sure why this light-headedness suddenly occurred, and it seems like they don't know. I bought a vibrator a month ago and have been using it for 10 minutes every morning. When I sit on a chair and put my feet on it, the vibrations are transmitted from my legs to my thighs, and I feel like the various muscles in my lower body are being strengthened. Before I was hospitalized, I stood on this vibrator and vibrated it. In this state, vibrations were transmitted from the spine to the head (brain), making it feel like the brain was shaking. I wondered if this vibration to my brain was the cause of my light-headedness. For this reason, I have decided not to stand on a vibrator after being discharged from the hospital.

            2024.1.10
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テニス
  私は、長年趣味の運動としていたテニスを、2023年12月で止めてしまった。理由は、2、3年前から右ひざを痛めて、瞬間的に走れなくなったからである。最近の私のテニスは、22年前から棚倉町のルネッサンス棚倉のテニス教室で、多い時は週3~4日、教室の生徒と,あるいはテニス仲間とテニスを楽しんでいた。最近は週1回の教室のテニスだけにした。そこでも教室の人達に迷惑をかけるので、止めることに決心した。私の動けないテニスに、テニス仲間は気を配って、私が動ける範囲に球を返してくれる。そのような親切さに有り難く思っていた。12月の最後のレッスンには、菓子折りをもって別れの挨拶をしようとおもっていたが、その日体がふらつき入院してしまい、最後のレッスンには参加できなかった。
 この棚倉ルネッサンスのテニスコートは、屋外コートの22面と、屋内コートの4面がある。テニス教室は屋内で行われている。私が参加していた金曜日の昼の部は、11時から12時半までの1.5時間である。メンバーは女性6名、男性は私を含めて2名であった。女性は50歳代から60歳代で、元気はよい。彼女らのコート内での走りは速く、前後の動きも速い。教室では、女性と1対1でボールを打ち合うことがあるが、その時は彼女らのボールを追う速度が速くて感心する。この時の相手の女性から私に返ってくるボールは、緩やかであり、コースも私の正面に返してくれる。私が足が悪くて動けないのに対して、気を使ってくれているのがありありと分かる。そのような人の他に、強いボールを遠慮なく返してくる女性もいる。ボールの打ち合いは、相手との距離は10mぐらい離れているが、返ってくるボールの動きで相手の心情が察しできるのは面白い。
 22年前にこの教室に入った当時、教室のクラスは、中級と初級の二つに分かれていたが、中級のメンバーが少なく、その後初中級として、一つに併合した。当時、私は中級で参加していた。そこに女性が多い初級の人達が入ってきた。当時の彼女たちのテニスは、現在の私のような緩慢な動きのテニスであったが、今では彼女たちは中級クラスの実力となった。それに対して、私は初級クラスのテニスになり、完全に逆転してしまった。女性のメンバーは、当時とあまり変わらないが、途中比較的若い二人の女性が参加した。その後、夫の転勤のため地方へ移住したので、彼女らはいなくなた。病気でなくなった人もいた。
 私がテニスを始めたのは、今から65年前の21歳の時である。当時、私は徳島大学工学部(当時)に在籍していた。徳島大学は、入学して最初の2年間は一般教養として徳島大学学芸学部(当時)で受講することになっていた。工学部と学芸学部のキャンパスは隣接しており、私の下宿先から学芸学部に通うことができた。医学部と薬学部は、徳島市の西端にあり、学芸学部から約5km離れていた。医学部、薬学部の学生は、最初の2年間は学芸学部の近くに下宿していたようだ。一般教養の授業では工学部の学生と医学部、薬学部の学生と同じ教室で授業を受けることがあった。
 学芸学部のキャンパスには軟式テニス用のコートが4面あった。小中学校の教師を養成するこの学部には、テニス競技の授業もあったのであろうか。私は、時折このコートで学芸学部の学生が軟式テニスの練習をしているのを見た。ボールの打ち合いでは,ラケットを激しく振り回している姿が見られた。昼休みの時間帯には、硬式テニスを楽しんでいる学生もいた。その学生たちは、医学部の学生であった。医学部の学生は、多くは関西地方からきた人達で、工学部の学生とは違って、大人びた雰囲気を持っていた。彼等は、医者の息子たちで、関西地方の大学には入学できず、少し離れた徳島に流れてきたのであろう。彼等は、関西の地元で硬式テニスを楽しんでいたようである。
 彼等が楽しんでいる硬式テニスは、ボールの打ち方が軟式テニスとは全く違うことを、私は知った。彼等のボールの打ち方は、フォアーもバックもスライスであった。これを見て、私は、友達を誘って硬式テニスをやろうと決めた。硬式テニスのボールは軟式のものより重く、ラケットも重い。軟式のラケットで硬式のボールを打つと、ラケットは折れるであろう。当時の硬式のラケットは木製で、軟式のラケットよりフレームが厚く、重量も重い。私が初めて買った硬式ラケットは、ミズノ製の木製であった。フタバ製の竹を材料にしたラケットもあったが、値段が高く買えなかった。その後、アルミの金属製ラケット(ヘッド製)が出て、私も買って使ってみたが、腕が痛くなって使用するのを止めた。
 その後、ラケットの素材は、FRP製になり、それが現在まで続いているようである。ラケットもサイズが大きくなり、厚みも大きくなった。私もウイルソンのFRP製ラージサイズラケットを使ってきた。これは、フレームの厚みは厚く、幅も広いが、結構軽い。フレームの中は空洞になっているのであろう。ラケットのメーカーは、その後ミズノとフタバは撤退した。代わって現れたのは、ヨネックス、ヘッド、ウイルソンである。
 以上、テニスについて最近のこと、および始めた頃を思い出して書いてみた。

            2024.2.10
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English
Miscellaneous-notes
Tennis
  In December 2023, I stopped playing tennis, which I had enjoyed as a hobby for many years. The reason is that a couple of years ago I hurt my right knee, which made it impossible for me to run instantly. Recently, I've been playing tennis at Renaissance Tanagura Tennis School in Tanagura Town for the past 22 years, and I've enjoyed playing tennis with the students in the class or with my tennis friends, usually 3 to 4 days a week. Lately, I've only been playing tennis in the classroom once a week. I decided to stop doing it because it was bothering the people in the classroom as well. Even though I can't move, my tennis friends pay attention to me and return the ball to where I can move. I was grateful for such kindness. At the last lesson in December, I had planned to say goodbye with a folded sweets, but I felt unsteady that day and was hospitalized, so I was unable to participate in the last lesson.
 The tennis courts at Tanagura Renaissance include 22 outdoor courts and 4 indoor courts. Tennis classes are held indoors. The Friday afternoon session that I attended lasted 1.5 hours from 11:00 to 12:30. There were 6 female members and 2 male members including myself. The woman is between 50 and 60 years old and in good health. They run fast on the court and move quickly back and forth. In the classroom, I sometimes play the ball one-on-one with women, and I am impressed by how fast they can chase the ball. At this time, the ball returned to me from the other woman was gentle, and the ball was returned directly in front of me. I can clearly see that they care about me even though I have a bad leg and can't move. In addition to such people, there are also women who return strong balls without hesitation. When the ball is exchanged, the distance between the player and the opponent is about 10 meters, but it is interesting to be able to gauge the opponent's state of mind based on the movement of the returning ball.
 When I joined this classroom 22 years ago, the classes in the classroom were divided into intermediate and beginner classes, but since there were few intermediate students, they were later merged into one as a beginner-intermediate class. At that time, I was participating in the intermediate level. Then the beginners, many of whom were women, came in. At that time, their tennis was slow and slow, similar to what I do today, but now they are intermediate-class tennis players. On the other hand, I played beginner level tennis and it was completely reversed. The number of female members has not changed much since then, but two relatively young women joined the group along the way. After that, they moved to a rural area due to her husband's job transfer, so they disappeared. Some people died due to illness.
 I started playing tennis 65 years ago when I was 21 years old. At that time, I was enrolled in the Faculty of Engineering at Tokushima University (at that time). At Tokushima University, students were required to take general education courses at Tokushima University's Faculty of Arts and Sciences (at that time) for the first two years after enrolling. The campuses of the Faculty of Engineering and Faculty of Arts and Sciences are adjacent to each other, and I was able to commute to the Faculty of Arts and Sciences from my boarding house. The Faculty of Medicine and the Faculty of Pharmacy were located on the western edge of Tokushima City, approximately 5 km away from the Faculty of Arts and Sciences. It appears that students in the Faculty of Medicine and Faculty of Pharmacy were housed near the Faculty of Arts and Sciences for the first two years. In general education classes, students from the Faculty of Engineering and students from the Faculty of Medicine and Pharmacy sometimes took classes in the same classroom.
 There were four soft tennis courts on the Faculty of Arts and Sciences campus. This department, which trains elementary and junior high school teachers, probably also had tennis classes. I occasionally saw students from the Faculty of Arts and Sciences practicing soft tennis on this court. During the ball exchange, they could be seen swinging their rackets wildly. During the lunch break, some students enjoyed playing tennis. The students were medical students. Most of the students at the Faculty of Medicine were from the Kansai region, and unlike the students at the Faculty of Engineering, they had a more mature atmosphere. They were the sons of doctors and were unable to enter universities in the Kansai region, so they probably moved to Tokushima, which was a little far away. They seem to have been enjoying playing tennis in their hometown of Kansai.
 I learned that the way they hit the ball in hard tennis, which they enjoy, is completely different from soft tennis. The way they hit the ball was a slice, both fore and back. After seeing this, I decided to invite my friends to play tennis. Balls for hard tennis are heavier than those for soft tennis, and so are rackets. If I hit a hardball with a softball racket, the racket would break. Hardball rackets at the time were made of wood, had thicker frames, and were heavier than softball rackets. The first hard racket I bought was a wooden one made by Mizuno. There was also a Futaba racket made from bamboo, but it was too expensive to buy. After that, an aluminum metal racket (manufactured by Head) came out, and I bought it and tried it, but my arm started hurting so I stopped using it.
 After that, the material for rackets changed to FRP, which seems to have continued to this day. Rackets have also grown in size and thickness. I have also been using Wilson's FRP large size racket. Although the frame is thick and wide, it is quite light. The inside of the frame is probably hollow. Racket manufacturers Mizuno and Futaba subsequently withdrew. In their place were Yonex, Head, and Wilson.
 The above is what I have written about tennis, remembering what has happened recently and when I first started playing tennis.

            2024.2.10
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テニス2
  私は、62年前大学を卒業して、京都市にある第一工業製薬(株)に入社した。この会社は、JR京都駅のすぐ西にある列車操車場(当時)の北側にあった。本社、工場、研究所が狭い敷地にまとまってあり、通勤などには便利な所であった。テニスコートなど運動する場所はなく、社員は、研究所の建物の3階にある講堂に置かれた卓球台で、昼休みに卓球をするぐらいであった。同期に学卒で入社した人の中に、一人だけテニスをしていた人がいた。その人とは、独身寮であった洛西寮の近くの小学校の校庭で、一回だけテニスの打ち合いをした。
 入社3年後、新聞の広告に日本ポリウレタン工業(株)の求人広告があったので、私はそれに応募して入社した。配属先は横浜にある技術研究所であった。その時の研究所とは、名ばかりで、親会社の保土谷化学の保土谷工場で、使われなくなっていた古い大きな倉庫の建物の中に、プレハブで造った部屋と実験室を研究所としていた。敷地が広かったので、テニスコート1面を設置することができた。私は、そこで久しぶりに昼休みにテニスをすることができた。使われていない倉庫の壁を相手にして、「壁打ち」をすることもできた。
 何年か後、私は山口県の新南陽市(当時)にある南陽工場へ転勤になった。ここは、化学系のコンビナートの一角であり、この会社の広い敷地には色々なプラントが建てられていた。敷地には3面のテニスコートがあり、昼休み、終業後にテニスをする人が多くいた。社員のテニスのレベルは高く、国体の地域の選抜に出るような社員もいた。彼等に鍛えられ、私もテニスが上達したような気がした。
 3年後、私は再び研究所勤務になり、横浜に戻った。研究所は新しく戸塚に建てられた。その場所は、戸塚区秋葉町で、東海道線の戸塚駅と東戸塚駅の中間付近の線路沿いにあり、付近は他社の工場が多くあった。研究所の敷地内には一面のテニスコートがあり、昼休みにはそこでテニスを楽しんだ。テニスをする人は多く、コートでテニスをするには順番待ちが長いので、コート横で相手を見つけて、ボレー/ボレーをして体を動かしていた。
 私は、62歳で日本ポリウレタン工業を定年退職した。暇になったので、当時大船駅の近くにあったドリームランド付属のテニスクラブに入会したり、東戸塚駅の近くの個人が経営するテニス教室に通ったりした。私は、退職して2年後、戸塚区柏尾台にあった自宅を売却して、現在住んでいる福島県矢祭町に家を新築して住み始めた。テニスを再開しようと思い、ネットで調べると、水戸市に「スポーツクラブ ルネサンス 水戸24」があるのを知り、早速申し込んでテニスを始めた。ここは、3階建ての建物の中の2階のフロアーをコートとして使い、上部は3階フロアーをぶち抜いていた。それでも高さがあまりないので、ボールを上にあげると、天井に当たっていた。
 このクラブまで、自宅から車で70分かかり、あまりにも遠いので、近くのクラブを探していた。棚倉町に「ルネサンス棚倉リゾートスポーツプラザ」というスポーツクラブがあることを新聞折り込みチラシで見つけ、早速入会を申し込んだ。このクラブは自宅から車で35分のところにあり、水戸とは半分の距離である。テニスコートは屋外コートが22面あり、その他、屋内コート専用の建物がある。その屋内コートには4面のコートがあり、高さも十分とってある。私は、昼間の初中級クラスに参加していた。レッスン料は、週1回で7600円/月である。ここで22年間テニスを楽しみ、昨年12月に退会した。その後は、クラブにあるジムに週2回通っている。ジムの参加料は、平日会員で7600円/月である。
 以上、私の趣味のテニスについて、その経緯を記した。

            2024.3.10
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English
Miscellaneous-notes
Tennis2
  I graduated from university 62 years ago and joined Daiichi Kogyo Seiyaku Co., Ltd. in Kyoto. This company was located on the north side of the train yard (at the time) just west of JR Kyoto Station. The company's headquarters, factory, and research institute were all located on a small site, making it a convenient location for commuting. There were no tennis courts or other places to exercise, so employees only played table tennis during their lunch breaks on the table tennis table located in the auditorium on the third floor of the research institute building. Among the people who joined the company at the same time as graduates, there was only one person who played tennis. We had a tennis match with that person once in the playground of an elementary school near the Rakusai Dormitory where we lived.
 Three years after I joined the company, I saw a job advertisement for Nippon Polyurethane Industries Co., Ltd. in a newspaper, so I applied and joined the company. I was assigned to a technical research institute in Yokohama. The laboratory at that time was in name only, the Hodogaya factory of the parent company, Hodogaya Chemical, which was a large old warehouse building that was no longer in use, and the laboratory was made of prefabricated rooms and laboratories. The site was large enough to accommodate a tennis court. I was able to play tennis there during my lunch break for the first time in a while. I was also able to do some "wall-bashing" against the walls of an unused warehouse.
 A few years later, I was transferred to the Nanyo factory in Shinnanyo City(then), Yamaguchi Prefecture. This was a corner of a chemical complex, and various plants were being built on the company's large grounds. There were three tennis courts on the premises, and many people played tennis during their lunch break and after work. The level of tennis played by the employees was so high that some even participated in regional selections for the national polity. I felt like my tennis skills improved as a result of being trained by them.
 Three years later, I returned to work at the research institute and returned to Yokohama. The research institute was newly built in Totsuka. The location was Akiba-cho, Totsuka Ward, along the railroad tracks between Totsuka Station and Higashi-Totsuka Station on the Tokaido Line, and there were many other companies' factories nearby. There is a tennis court on the premises of the research institute, and I enjoyed playing tennis there during my lunch break. There are many people who play tennis, and there is a long waiting list to play tennis on the court, so I found a friend next to the court and played volley/volley to get my body moving.
 I retired from Nippon Polyurethane Industries at the age of 62. Since I had some free time, I joined a tennis club attached to Dreamland, which was near Ofuna Station at the time, and attended a privately run tennis school near Higashi-Totsuka Station. Two years after I retired, I sold my house in Kashiodai, Totsuka Ward, and I built a new house and started living in Yamatsuri Town, Fukushima Prefecture, where I currently live. I decided to start playing tennis again, so I looked it up online and found out that there was a Sports Club Renaissance Mito 24 in Mito City, so I immediately applied and started playing tennis. Here, the second floor of a three-story building was used as a court, and the upper part was cut through the third floor. Still, it wasn't very high, so when I raised the ball, it hit the ceiling.
 It took 70 minutes by car to get to this club from my home, so I was looking for a club nearby. I found out in a newspaper insert that there was a sports club called Renaissance Tanagura Resort Sports Plaza in Tanagura Town, and immediately applied to join. This club is located 35 minutes by car from my home, which is half the distance from Mito. There are 22 outdoor tennis courts, and there is also a building dedicated to indoor courts. The indoor court has four courts and is sufficiently high. I was attending a daytime beginner-intermediate class. The lesson fee is 7,600 yen/month for once a week. I enjoyed playing tennis here for 22 years and retired in December of last year. Since then, I've been going to the gym at the same club twice a week. The gym participation fee is 7,600 yen/month for weekday members.
  The above is the history of my hobby, tennis.

            2024.3.10
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ドアノブ
  我が家の建物は、23年前建てたものである。これは総2階建てで、ドア、襖(フスマ)などで仕切られた部屋は、物置、トイレなどを含めて17ヶ所ある。部屋に取手(ドアノブ)の付いたドアは11ヶ所ある。この取手付のドアは、閉めたとき、ストッパーがはたらき、閉まるようになっている。ドアを開けるときは、取手を下げると、ストッパーが解除してドアが開く。
 我が家には、トイレのように出入口が1ヶ所しかない部屋のドアは、全部で8ヶ所ある。このドアが破損して開かなくなった場合、中に入っている人は閉じ込められてしまうことになる。家に本人以外に誰もいない場合は、大変なことになるであろう。我が家では、このドアノブの破損は過去2回あった。1回目は3年前、1階のトイレのドアノブが破損した。私がドアを開けた時、ドアノブが折れてしまった。幸いトイレを出た時に破損したので、トイレに閉じ込められることはなかった。私は立っている時、体のふらつきを予防するため、時折ドアノブにつかんで、自分の体重をドアノブにかけることがある。その時にドアノブが折れたのであろう。このドアノブを修理するため、ネットでドアノブを調べると、サイズが同じものがあったので、それを注文して無事取り付けることができた。ドアノブの価格は約4000円であった。
 2回目のドアノブ破損は昨年の10月頃であった。台所の出入り口のドアノブが抜けてしまった。ストッパーが働いたまま抜けたので、開閉ができなくなってしまった。この台所のドアは、別の部屋から回って、ドアの反対側に行くことができる。私は、ドライバーを使って、反対側のドアノブを分解して、ストッパーを解除することができた。このドアノブを外して、新しいドアノブをネットで注文して、取り付けることができた。
 この2個のドアノブ破損は、幸い部屋に閉じ込められていない状態であったので、幸運であった。私は、頑丈そうなこのようなドアノブが破損するとは、全く思っていなかった。トイレでこのような破損が起きたら、私は大声を出して、助けを呼ばなくてはならない。妻が庭などに出て、近くにいなければ、長時間トイレ詰めになる。妻が近くにいても、妻はドライバーでドアノブを分解できるとは思えない。町内の建具屋などに電話して、来てもらわなければならないが、妻は、建具屋の電話番号を調べることからやらなければならない。手っ取り早く110番に連絡することになるが、これでは近所の人は、「雪隠詰め(せっちんずめ)」だと言って、笑うであろう。
 「二度あることは三度ある」ということで、私は、個室に付いているドアノブをストッパーが効かないようにして、三度目の破損があっても、部屋に閉じ込められないようにした。ドアノブのストッパーが入る穴には、上下にねじ止めされた穴の付いた金具が、柱に取り付けられている。この穴を塞げばストッパーは利かなくなる。塞ぐ方法は、トタン板を金具のサイズに切って、金具の上にかぶせ、上下にねじ止めする。この方法で、トイレ、個室のドア、7ヶ所を実施した。
 その後、よく考えると、バスルームにもドアノブ付きのドアがあることが分かった。ここでドアノブの破損で締め切られると、バスルームには細長い窓はあるが、人の出入りはできない。ここもストッパーが効かないようにした。これで我が家は、ドアノブ破損による災難は皆無になるであろう。

           2024.5.10
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English
Miscellaneous-notes
Doorknob
  Our house was built 23 years ago. It is a two-story building with 17 rooms separated by doors and sliding doors, including a storage room and a toilet. There are 11 doors with handles (doorknobs) in the rooms. These doors with handles have a stopper that closes the door when it is closed. When I want to open the door, I pull down the handle, which releases the stopper and opens the door.
 In my house, there are eight doors to rooms that only have one entrance, such as the toilet. If this door breaks and cannot be opened, the person inside will be trapped. If there is no one else at home, it will be a big problem. In my house, this doorknob has broken twice in the past. The first time was three years ago, when the doorknob of the toilet on the first floor broke. The doorknob broke when I opened the door. Fortunately, it broke when I left the toilet, so I was not locked in the toilet. When I stand, I sometimes hold onto the doorknob and put my weight on it to prevent my body from becoming unsteady. That is when the doorknob broke. In order to repair this doorknob, I looked up doorknobs on the Internet and found one of the same size, so I ordered it and was able to install it successfully. The price of the doorknob was about 4,000 yen.
 The second time it broke was around October of last year. The doorknob of the kitchen door came loose. The doorknob came loose with the stopper still on, so it couldn't be opened or closed. This kitchen door can be accessed from another room by turning around and going to the other side of the door. I used a screwdriver to disassemble the doorknob on the other side and was able to release the stopper. I was able to remove this doorknob, order a new doorknob online, and install it.
 I was lucky that these two doorknobs broke, because I was not locked in the room. I never thought that such sturdy-looking doorknobs would break. If something like this were to happen in the toilet, I would have to yell for help. If my wife was out in the garden or somewhere else, I would be stuck in the toilet for a long time. Even if she was nearby, I don't think she would be able to disassemble the doorknobs with a screwdriver. She would have to call a local joiner and ask them to come, but she would have to start by looking up the joiner's phone number. The quickest way would be to call 110, but the neighbors would probably laugh at me and call it "settchinzume."
 As the saying goes, "Once upon a time, twice happens, three times happens," so I made the doorknob on the door handle of the private room ineffective, so that even if it malfunctions a third time, I won't be locked in the room. The hole where the doorknob stopper fits in has a metal fitting with holes that are screwed in at the top and bottom, attached to the pillar. If I block this hole, the stopper will no longer work. To block it, I cut a sheet of corrugated iron to the size of the fitting, place it over the fitting, and screw it in place at the top and bottom. I used this method on seven places, including toilets and private room doors.
 After thinking about it, I realized that the bathroom door also had a doorknob. If the doorknob broke and the door was closed, people would not be able to get in or out, even though the bathroom had a long, narrow window. I made the door stopper ineffective here as well. Now there will be no more mishaps caused by doorknob failures in my house.

            2024.5.10
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ドクダミ草
  6月号で書いていたこのタイトルの内容が、6月初めの自宅パソコンの不具合で、画面から消えてしまった。この内容は、春先の我が家の庭に生えてくる雑草についてであった。今回はこれらを思い出しながら書いてみたい。
 春先の庭に生えてくる雑草は、主にドクダミ草とスギナであるが、圧倒的に多いのがドクダミである。我が家の敷地の面積は157坪であり、そのうち21坪が建物である。残りの136坪は更地であるので、約40坪を残して、全部コンクリートを打ってもらった。この残り40坪が雑草が生える庭になるが、四方に通路をセメント板で作り、1坪程度の区画を多くこしらえ、それをレンガブロックなどで区切った。ドクダミが生えるのは約1坪の区画内である。
 区画には、ドクダミが生える区画と、全く生えない区画があることに最近気づいた。ドクダミは地下10cmぐらいのところに地下茎を持っており、その地下茎からドクダミが地上に出てくる。ドクダミがある区画は、ほおっておくと一面にドクダミが現れるので、その除去に忙しい。セメント板の通路とレンガブロックのわずかな隙間からも、ドクダミが現れる。私は、これを除去するために除草剤を使った。除草剤は「ラウンドアップ」という商品名で、これを水で約50倍に薄めて、刷毛を使ってドクダミの葉に塗る。塗って5日目頃になると、ドクダミは枯れてしまう。この除草剤は地下茎まで枯らすのであろう、1カ月過ぎてもドクダミは現れない。
 庭には植木屋から植えてもらったマロニエの木がある。20年以上経っているので、木の高さは4mぐらいになっている。この木の根元周りに、色々な雑草が毎年生えてくるので、昨年粒状の除草剤をまいた。その効果で雑草は生えなくなったが、マロニエにも影響を与えてしまった。マロニエは落葉樹で、冬は枝だけになり、春には新芽が出て、大きな葉を成長させる。しかし、今年6月になっても新芽が出なくなった。除草剤を撒くときは、近くの樹木に注意しなければならない。ドクダミに除草剤を使うときは、先にも述べたように、刷毛塗りで行っている。スプレーで撒く方法もあるが、液が不必要なところに付着するし、除草剤を含んだ水蒸気を人が吸う恐れもある。
 ドクダミ草からどくだみ茶が得られる。私は、どくだみ茶が近くのスーパーに売ってないか調べたが、置いていなかった。ネットでどくだみ茶を調べると、ドクダミにはカリウムやマグネシウムなどのミネラルを始め、ビタミン類やフラボノイド類など、さまざまな成分が含まれている。そのお茶の効能としては、血流を促進し、毛細血管を強化する、カリウムが利尿作用を発揮し、塩分や老廃物を排出する、抗菌作用や排膿効果で傷口の回復を早める、便秘を改善する、抗酸化作用や抗炎症作用で美肌や冷え性を改善する、入浴剤としても使用できる、など盛りだくさんである。このように、どくだみ茶の効用は優れているが、名前が毒を連想させていけない。
 どくだみ茶を煎じる場合、お湯は60℃以下にするように、とある。それ以上だとカリウムが飛んでしまうからだと、説明があった。カリウムが単独で飛ぶことはありえない。どくだみ茶に含まれるカリウムは、弱い結合のカリウムの錯体化合物として存在するのであろう。高温では、その化合物が分解して他の安定な化合物に変化するのであろう。そのためにその効用はなくなると思われる。

           2024.7.10
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タブレット
  インターネットに接続できる機器には、その大きさにより、スマホ、タブレット、ノートパソコン、ディスクトップPCがある。その大きさは、機器にある液晶画面の長さで現わし、その対角線の長さをインチで示している。ちなみに1インチは2.54cmである。標準的なスマホは、5インチであり、タブレットは10インチである。ノートパソコンは15インチが標準のようである。ディスクトップPCは本体があり、液晶画面、キーボード、マウスは別に付けている。我が家のディスクトップ用の液晶画面装置は23インチである。
 我が家にはディスクトップPCの他に、ノートパソコンが2台、タブレットが6台、スマホが3台ある。スマホの3台のうち1台だけが電話機能を入れている。ほかのタブレットとスマホは、Wifi機能だけ持たせ、ネットの閲覧に使っている。2台のスマホはアップル社のipodで、一番古いipodは故障して使えない。比較的新しいipodはベッドの横に置いて、インタネットラジオをイヤホンで聞いている。ベッドには7インチのタブレットも置いてある。これは、寝る前に青空文庫の小説を読んでいるのに使っている。
 ノートパソコンは2台ともヒューレットパッカード製で、1台は妻がゲーム用に使っている。もう1台は、私がディスクトップの横に置いている。私のノートパソコンの液晶表示、キーボード、マウスは、ディスクトップPCと共用して使っている。それには3台の切り替え装置を付けており、手でボタンを押して、切り替えをしている。このノートパソコンでゲームをするときは、広い液晶画面でできるので、ストレスがない。電気代は、ノートパソコンの場合、ディスクトップPCの約4分の一である。つい最近、このノートパソコンの動きが悪くなったので、東芝製の2.4万円のノートパソコン(中古品)に買い替えた。
 6台のタブレットは、何故こんなに多く持つようになったのか、わからない。いつの間にか多くなってしまった。タブレットは、正式にメーカー品を買うと、1台3万円以上はするであろう。私が買ったのは、中国製、あるいは中国製の中古品で、1台1万円以下である。これらのタブレットの機能は正常に働いており、不便さは全くない。タブレットを使う頻度はあまりないが、家の中の別の場所でネット検索などをするときは、このタブレットを使う。その程度であるから、6台の中で使っているのは2台だけで、あとは遊んでいる。この使わないタブレットをどうやって処分するか悩んでいる。
 タブレットでよく使うのは、ベッドに置いているipodである。これはイヤホンを付けて、毎晩聞いている。聞いているのは、NHKのネットラジオの「ラジルラジル」である。夜の11時から翌朝の5時までの番組を音を小さくして聞いているので、睡眠に障害はないであろう。11時頃にはトーク番組があり、そこで女性が喋る番組がある。彼らは、大声で笑ったり、喋ったりすることがある。これにはさすがに睡眠が妨害される。この様なときは、NHKを止めて、fmクラシックという番組を聞くことにしている。
 fmクラッシクは、クラシックのポピュラーな短い音楽を流している番組である。1曲約5分の音楽が終わった後、短い英語の話題が入り、次の音楽を流す番組である。この番組は世界各国にあるようだが、日本にはない。私はロンドンからの番組を聞いている。ポピュラーと言われる音楽は、世界共通のようで、私が聞いて心地よいと感じる音楽がこのfmクラシックから多く流れてくる。

           2024.8.10
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