雑記文集 NO3
     
(2018年5月以降の雑記文を集めました。)
      Miscellaneous notes collection of works1
      (Miscellaneous notes after May 2018 are included.
        
タイトルと内容紹介 タイトルをクリックすると、タイトルの雑記文がジャンプして出ます。
Title and contents introduction
If a title is clicked, the miscellaneous-notes sentence of the title will jump and come out.

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大塚国際美術館 Otsuka international art museum
ANAのスカイwebツアーを購入して、鳴門市にある大塚国際美術館へ80歳の誕生日を記念して出かけた。ANAの座席の変更、宿泊したルネサンスリゾートナルトの話、渦の道へ行った話、美術館のレストランの食事の話など。
2018.5




4K テレビ 4K TV
大塚国際美術館で見た「最後の晩餐」の陶板画について、東京目黒区の目黒川の桜並木を見物した話。今年2月にパナソニックの4Kテレビ、49インチ「ビエラ」を購入した。このテレビは、インターネットがつながり、私のホームページ「金谷アートギャラリー」を見てみた話。
2018.6



淡島ホテル Awashima hotel
2018.5.19 クラブツーリズムが企画した淡島ホテルの宿泊と箱根、富士五湖のチューリップ畑、芝桜を見るツアーに参加した。チューリップと芝桜は春の高温のため花は終わっていた。淡島ホテルは以前会員ホテルの超高級リゾートホテルであったが、今は一般に開放されているホテル。そのホテルについての話。
2018.7


円山動物園 Maruyama zoo
2018.6.19  私達は札幌市にある円山動物園へ行ってきた。ホッキョクグマの泳ぐ姿を水中トンネルから眺めた。百合が原公園、大通公園、北海道立近代美術館などの話。7月の西日本の大雨で倉敷市備前町が洪水の被害を受けた原因についてなど。
2018.8



空間放射線量Space radiation dose
昨年、岩通製の携帯型放射線量(γ線)測定装置を購入した。日本各地、ポーランド各地の放射線量を測定、その結果を表にまとめた。日本で一番低い数値を示したのは礼文島の0.02μSV/hであった。その他は0.07近辺で、大きな差はなかった。
2018.9




中国旅行1 China travel 1
2018.9.20 クラブツーリズムが企画した「はじめての中国6日間」というツアーに参加した。羽田空港から上海空港へ。その日、上海市内のワイタン地域へ行き、ホトウ(浦東)地域の高層ビル群を眺め、旧共同租界の洋風建築群をバスから観光。旧フランス領の新天地の観光。その日は上海シェラトンに宿泊。
2018.10



中国旅行2 China travel 2
翌日は早朝に上海空港から飛行機で北京へ。市内から75km離れた万里の長城の観光。翌日は皇帝庭園の頤和園(イワエン)、北京動物園、天安広場と紫禁城の観光。ツアーは、天然ゴムのマットレスを売っている店に案内され、また、掛け軸店で色々な書と書の実演を見物した。
2018.11




中国旅行3 China travel 3
旅行の最終日は西安市内の1日観光。兵馬俑坑博物館、市内中心部にある城壁の上で散策、空海ゆかりの青龍寺、大雁塔などの観光。翌日は西安空港から上海空港で乗り継いで羽田へ夕方到着、6日間のツアーを終えた。
2018.12





春うらら、平成30年のこと Haruurara,H30
長年使っていたカシオの腕時計をサムソンのウエアラブルPCの腕時計に替えた。それに伴って腕時計に入れるサムソンのアプリをインストールためサムソンのスマホ(4,5年前の中古品)を購入した。この腕時計のメモリーに音楽を入れて、サムソンのワイヤレスイヤホーンでその音楽を聴こうとしたが、腕時計から出る電波が弱いため、断念したことなど。
2019.1


庭木の剪定 Pruning of garden trees
庭の外に18年前植えていた桜の木2本を根元近くから伐採。庭の中に18年前から植えているマロニエ、コブシの枝切を行った。白樺、枝垂れ桜も高くなっているが今回は切らずに放置。柿の木、ブルーベリーの実の収穫など。全豪テニスで大坂なおみが優勝した話など。
2019.2




パーツファニチャ Parts furniture
50年前パーツファニチャを20万円で購入し、転居するたびに分解したり、組み立てたりして、本棚を我が家に設置してきた。現在は本棚を2分割して、置物などを置いている。30年使っていた電子レンジを買い替えた話、電気ポットも買い替えた話など。
2019.3



 

磐梯熱海温泉Bandai atami onsen
妻の誕生月を祝って福島県の磐梯熱海温泉、萩姫の湯「栄楽館」へ行った話。私の誕生月で、「ニューオータニイン横浜プレミアム」へ行った話。このホテルに隣接している「横浜ブルク」というシネコンで映画を見た話など。
2019.4





令和元年 Reiwa 1st year
2019年5月1日から元号が平成から令和になった。マスコミではこれをネタに色々な話題を提供した。令和という名前の持ち主を探したり、「平成最後の・・・」という言葉遊びをしたりなど。
NHKのテレビ番組「カッテン」で幻視についての放映があり、芥川龍之介の短編「二つの手紙」でも幻視が取り上げられていた話。
2019.5


 8年後の放射線量 After 8 years of radiation dose
2019年5月に車で原発事故のあった東電第一原子力発電所の近くを通る国道6号線を走った。広野町、楢葉町、大熊町の沿線の放射線量を測定した。小名浜オーシャンホテルに宿泊した話など。
2019.6



大災害 Big disaster
令和初の大地震、記憶に残る神戸淡路島大地震、東日本大震災について。NHK大河ドラマの「いだてん」に出てくる「関東大震災」、芥川龍之介の短編「水の三日」に出てくる関東大水害で、作家が避難民の世話をした話、など。
2019.7




 あぶくま高原美術館Abukuma Kogen Museum of Art
福島県塙町の町立あぶくま高原美術館について。この美術科で「えがすきクラブ絵画展」を2019年5月22日から3週間行った話など。
2019.8





 ウグイス Uguisu
我が家の近くの森で鳴く小鳥などについて。今年のウグイスの鳴き声は「ホーゴキブリ」と鳴く。昨年は「ホーキェキョ」と、「ホ」抜きの鳴き声であった。名前は判らないが、きれいな声でおしゃべりをする鳥がいる。その他、セミや蝶について。
2019.9




 国立西洋美 術館National Museum of Western Art
松方コレクションが開かれている国立西洋美術館、原三渓コレクションが開かれている横浜美術館へ行った話。大原孫三郎が画家の児玉虎次郎に西洋絵画を購入させ、太原美術館を設立した話など。
2019.10



 台風19号 Tayhoon19
2019年10月12日、台風19号は関東南岸から福島県中通、宮城県沿岸部を通り、太平洋へ抜けた。福島県は各地で洪水に襲われ、30人が水死した。特にいわき市と本宮市が多くの犠牲者を出した。本宮市は阿武隈川と安達太良川の合流地点に位置していたので川の増水が速かった。
2019.11



 クモ Spider
今年の夏は蜘蛛が大発生した。庭のいたるところに巣を造り、その排除に忙しかった。また、クモが造る巣の幾何学模様にも感心した。秋にはカメムシが例年のように建物の近くに集まる。カセットコンロの空気口にもカメムシが大量入り込み、カセットがうまく作動しなかった話。
2019.12



 春うらら2020、Haruurara2020
昨年11月、旭化成の吉野氏がノーベル化学賞を受賞した。受賞対象になったリチュムイオン電池の開発の話、60年前の私の卒論のテーマについてなど。
2020.1




 スマートウオッチ Smart watch
サムソン製のスマートウオッチが故障して使えなくなった。ファーウェイ製のタブレットのブルートゥース機能が使えなくなった話。ASUS製のタブレットは故障しないなど。
2020.2




 漱石と芥川 Soseki&Akutagawa
私は寝る前に、スマホの青空文庫の作品を読んでいる。芥川龍之介の全作品を読み終え、今、夏目漱石を読んでいる。私は、草枕を読み終え、虞美人草を読んでいるところである。この作品には3組の男女が出てきて、それぞれの人格描写が丁寧に書かれている。
2020.3


 コロナウイルス Coronavirus
新型コロナウイルスによる感染は中国で大量に発生し、瞬く間に世界中に広がっている。4月8日、日本では、感染者は5600人をこえ、死者は114人になった。3月22日は私が住む団地の年1回の自治会総会が開かれるが、私はコロナ感染を恐れて委任状を出して欠席した。住民120人のうち出席者は約60、欠席者は約60であった。
2020.4

 コロナウイルス2 Coronavirus2
コロナウイルス対策で外出が自粛されたので、棚倉町のテニス教室は6月末まで休校、絵のクラブも休み、などで自宅に待機している。100年前のスペイン風邪の話、ジョギング、コロナウイルスの名前など。
2020.5


 自宅隣の敷地The site next to myhouse
自宅隣の敷地が売りに出された話。土地の面積は166坪で価格は500万円。売り出し当時の値段の半分など。
2020.6




   
 タブレットPC TabletPC
私が持っている3種類のパソコンについて。ディスクトップPCはDell製、ノートパソコンはhp、NEC製、タブレットはASUS製とファーウェイ製など。
2020.7





 東京コロナTokyo corona
コロナ禍の意味、東京はコロナウイルスの巣か、コロナ感染者は大都市から地方へ広がっている状況、などについて。
2020.8





 花 春から夏へ 1 Flower spring to summer1
春一番に咲く花はクロッカスで、花が咲くと黄色い花びらをヒヨドリが食べに来る。スイセン、椿、牡丹、芍薬、ツツジ、レンギョウなどの話。
2020.9



 花、春から夏へ 2 Flower spring to summer2
ニッコウキスゲ、サフィニア、ベゴニア、フロックス、朝顔(ヘブンリーブルー)など。グランドカバーのユキノシタ、ジュウニヒトエ、竜のひげの話。雑草のスギナ、ドクダミについて。
2020.10



 小学生の頃 Elementary school
70年前、私が小学生の頃住んでいた岡山県都窪郡帯江村帯高(現在、倉敷市帯高)にある旧庄屋について。その頃の家庭の事情、小学校への通学、父親の通勤など。
2020.11




 中、高校生の頃 Junia,high school
総社市溝口の借家に転居し、総社西中学校、総社高校の頃の話。父は中学校の校長、児島市の教育長、関西高等の教師をへて退職。私はラジオ少年であった話など
2020.12




 春うらら、コロナ Haruurara、Corona
春うららの意味、昨年のコロナ感染者数の増加について、政府の国民への呼びかけが穏やかで生ぬるいため感染者数が思うように減らない、など。
2021.1



 墓造りGrave making
以前購入していた町営の墓地にお墓を造った。その内容について。
2021.2





 休みます No topics
コロナ禍で巣ごもりが続き、話題がないので休みます。
2021.3





 春の庭2021 Spring garden
我が家の3月頃から咲き始める草花などについて。
2021.4






 原発処理水Atomic power plant treated water
事故のあった福島第一原子力発電所で、放射能に汚染された廃水とその処理水について。処理水はタンクに保管され、そのタンクも敷地に満杯になっている。処理水にはトリチュウムが含まれ、その海洋廃棄が問題になっているなど。
2021.5


 ワクチン接種Vaccination
私達は5月23日に2回目のコロナワクチンの接種を終えた。副反応などについて。
2021.6




 2021年初夏の庭 Early Summer Garden 2021
スギナ、ドクダミ、ヤマボウシ、牡丹、芍薬、ナデシコなどについて。
2021.7



 2021年盛夏の庭 Mmid summer garden 2021

ミニヒマワリ、ムクゲ、フロックス、朝顔(ヘブンリブルー)などについて。
2021.8



 東京オリンピック2020 Tokyo olympic2020
2021年8月に1年遅れて開催した東京オリンピックについて。女子選手の名前など。
2021.9

 東京パラリンピック2020 Tokyo paralympic 2020
2021年8月に開催した東京パラリンピックについて。世界各国の取得したメダル数、障害者数などについて。
2021.10


 秋の庭202 Autumn garden 2021
秋に咲く朝顔、ヘブンリブルーについて、キクイモ、モッコウバラについて。
2021.11




 紅葉 Momiji
我が家の前の森には4本のモミジがある。その紅葉した葉の色の違いが微妙にことなっている。付近の紅葉の名所など。
2021.12



 春うらら2022 Haruurara2022
昨年のコロナ、オミクロンの感染拡大について。我が家の水道管の漏れで、業者に修理依頼した話など。
2022.1
 寅年 tora-dosi
私は今年3月で84歳になる。ひざの痛みに悩んでいる。テニスを週3回していたが1回に減らした。運転免許証の更新のための講習の話など。
2022.2
 北京オリンピック Beijing Olympic
2022年の冬季北京オリンピックについて。日本は18個のメダルを取った。スキーを履いて飛び上がり、回転する競技、高木美帆が3個のメダルを取った、カーリングの話など。
2022.3
 カタカナ語 Katakana word
ジェンダー、デフォルト、アジェンダなどのカタカナ語について。
2022.4


 2022年春の庭 2022 Spring garden

ウメノキゴケ、ウグイスの鳴き声、クロッカス
の花びらなど。
2022.5

 ウクライナ戦争 Ukrainian War
ウクライナ戦争で死亡した民間人、日清戦争で死亡した人々、沖縄戦で死亡した民間人の数など。
2022.6


  2022年、初夏の庭 Garden in early summer 2022
今年は梅雨が短く、雨も少なく、蛍が飛ばなかった話、朝顔の葉の不思議な力、フロックスの樹形の話など。
2022.7

 安倍元首相 Former Prime Minister Abe
安倍元首相が暗殺され、犯人が逮捕された。旧統一教会と安倍氏が関わりがあったことなど。
2022.8

 樹の漢字表 Kanji table of trees
木へんの樹の種類を集めた表を毎日眺めている。それは120種あり、それぞれについて、思い出などを記した。
2022.9


 転居1 Family relocation 1
私達の家族の転居について。長崎から、台湾の嘉義市、台中市、宜蘭、福岡県久留米市、岡山県帯高村、総社市へ、計8回の転居を行った話。
2022.10

 転居2 Family relocation 2
私および私の家族の転居について。私の転居は徳島、京都、横浜へ。家族の転居は横浜から山口県新南陽市、横浜、福島県矢祭町へ。合計21回の転居であった。
2022.11

 転居、余話 Relocation, digre
私は初期の小学生の頃、大戦の終末前後であったので、初めて小学校に入ったのは4年生であった。家族が転した時。備中国分寺に仮住まいした話など。
2022.12

 春うらら 2023 Haruurara 2023
山茶花、ブルーベリー、柿の木、ムスカリ、ウクライナ戦争などのこと。
2023.1


 大寒波 Big cold wave
2023年2月に、全国に10年に1度といわれる寒波がきた。幹線道路の車の渋滞や停電、断水などについて。
2023.2

 TV番組1 TVprogram1
私が毎週見ている番組について。「お絵描きクイズ」、「世界あらへん話」、「小さな村の物語 イタリア」などについて。
2023.3

 テレビ番組2 TVprogram2
「ブラタモリ」、「笑点」などについて。
2023.4



 2023年春の庭 2023 spring garden
レンギョウ、雪柳、桜、ボケ、ヤマブキ、シャクナゲ、ボタンなどについて。
2023.5

 空を見る Look at the sky
雲の流れ、雲の焼失、南への飛行機、鳥の飛ぶ姿など、毎朝2階の窓から空を眺めている話。
2023.6
 NTTクレジットカード NTTcredit card
長年使っていた上記カードが7月末に廃止されることになった。代わりに使えるカードの申請等について。
2023.7
 2023年夏の庭 2023 Summer garden
ヒマワリ、ヘブンリーブルー、ミニヒマワリ、フロックス等について。
2023.8
 iPod
アップル社のスマホ、iPodなどについて。
iPodが販売中止になるのでその代替えとしてRedmi note11を購入した。
2023.9

 真夏日 Manatubi
2023年の夏は異常に暑かった。30℃を超える日が長く続くのは記録的であった。
2023.10

 健康器具 Health appliances
我が家にある健康器具、3種を記した。腰が曲がる心配など。
2023.11


 もみじ寺 Momiji temple
茨城県大子町にある、もみじ寺(永源寺)へ大子駅から歩いて行った話。片道徒歩20分の距離を杖を使って4年ぶりに歩いた。寺には多くの子供の石像が配置されていた。
2023.12
 春うらら2024 Haruurara2024
隣の敷地に家が建ち始めたこと、からだのふらつきで4日間入院したことなど。
2024.1



 テニス Tennis
テニスを始めたころのこと、ラケットのことなど。
2024.2




 テニス2 Tennis2
大学を卒業後、就職した会社でのテニスについて。日本ポリウレタン工業(株)でのテニスはテニスのレベルが高かったことなど。
2024.3


 雁行陣
この本文は、2024.6、デルPCが不具合により消去された。
2024.4



 ドアノブ Doorknob
自宅のドアノブが2か所壊れた。トイレのような個室でドアノブが壊れた場合、閉じ込められてしまう恐れがあるのでドアノブのストッパーが機能しないように細工した話。
2024.5
 ドクダミ草
庭に生える雑草のドクダミ草について。除草剤による除去、ドクダミ茶の効用など。
2024.7


 タブレット
我が家にあるスマホ、タブレットなどについて。
2024.8



 ディスクトップPC
このPCが古くなり、動きが鈍くなったので、新たに中古のPCを3万円でかった。
2024.9


 トラウマ
トラウマの意味、使い方など。その他、カタカナ語の話について。
2024.10

 笑点
私が毎週日曜日午後5時半から見ているテレビ番組「笑点」について。
2024.11

 高齢者講習
来年免許更新のため棚倉の自動車教習所で表記講習を受けた話。
2024.12

春うらら 朝食と体操
私は毎朝簡単な朝食を作っている、そのレシピ。毎朝簡単な体操を欠かさずに行っている。
2025.1
 北上、南下
台風が北上するなどの言葉について。
2025.2

 庭の植木
我が家の庭に植えてある植木について。
2025.3

   
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大塚国際美術館


  私は、2018年3月で80歳になり、その誕生日記念として、以前から一度行ってみたかった鳴門市の大塚国際美術館へ、妻と行くことにした。徳島県鳴門市に行くルートは色々考えられるが、私は羽田空港から飛行機で徳島空港へ行くコースを選んだ。ANAは、飛行機代、ホテル代、美術館の入場料をセットにした「ANAスカイWEBツアー」というコースを売っていたので、私はそれを購入した。日程、フライト便、ホテルは自由に選択できる。私は、3月24日(土)の羽田発13時25分の便をANAのホームページ(hp)で選択した。ホテルは、徳島市内の徳島駅直結の「ホテルクレメント徳島」を選択しようとしたが、生憎満室であった。鳴門市内のホテル「ルネサンスリゾートナルト」は空室があったので予約した。年度末の土曜日は宿泊客が多く、このホテルの普通の部屋は満室で、追加料金1万5千円/人のデラックスツインルームしか予約できなかった。私は徳島市内に泊まって、久しぶりの徳島市内を散策したかったが、残念ながらできなかった。
 飛行機の席は、ANAに予約すると、ANAが決めてくれるが、土曜日の便はほぼ満席に近かったのか、私と妻は離れた席に、しかも3列の中央席に指定されていた。ANAのhpには私のマイページがあり、それを開くと、私達が予約したANA便の内容が表示されている。そこには飛行機の全座席の図画があり、私達の座席の位置も記されていた。それを見ると、ほとんど満席状態で、空席は3列シートの真ん中がところどころあるくらいであった。私は、時々このページを開いて、キャンセルがあって、空席が生じないか、チェックしていた。しかし、2人並びの席はしばらく出なかった。ところが、飛行予定の2日前に最前列の右側の3席とその後ろの2列、計9席がすべて空席になっていた。9人のグループがキャンセルしたのかと思ったが、これはANAが最初からこれらの席をキープして、緊急の客あるいはVIPのために使おうと思っていたのであろう。私はこれ幸いと思い、前の予約していた席をキャンセルして、1列目の窓側の並びの席を予約した。このような操作が自宅のパソコンの画面で簡単にできるのは大変便利である、と私は大いに感心した。当日、飛行機の3列のほかの席は全て客でふさがっていた。
 羽田発13時25分のフライトに乗るには、当日自宅からの出発で充分間に合う。私達は、朝8時に車で自宅を出て、常磐道の那珂IC9時半発の高速バスに乗った。バスは首都高を通って上野へ行くが、年度末の土曜日のせいか、首都高は混んでいて、予定より30分遅れるというバスの運転手のアナウンスがあった。このバス会社は、急ぐ人のために途中の八潮ICで客を降ろしてくれる。急ぎの客は、ここから10分歩いたところに、つくばエクスプレスの駅があり、特別料金100円でJR秋葉原に行くことができる。私達は、このままだと羽田に着くのが予定より30分遅れるので、つくばエクスプレスを利用することにした。JR秋葉原駅から山手線で品川駅へ行き、そこから京急の羽田空港行快速特急に乗り、12時半に羽田第2ターミナルに着いた。徳島空港行のANAは、定刻より30分遅れるという表示が出ていた。この日福岡空港でトラブルがあったらしい。ANAは30分遅れで離陸し、私は、時折雲の間から見える日本列島の様子を眺めて楽しんだ。
 徳島空港近くでは淡路島が見え、大鳴門橋も見えた。徳島空港には20分遅れで無事着陸した。一番前の席は出入り口から近いので、早く機外に出られる。空港のターミナルビルは2階建ての小さなもので、1階にはショップとカフェが混然と配置されている。私は、30年前ぐらいに一度徳島市内で同期会があった時、この徳島空港を利用したことがあった。その時の徳島空港は、自衛隊機が遠くに見られ、民間と自衛隊共用の空港であった。さらにさかのぼって、私が60何年前の学生時代、徳島に住んでいた頃、徳島には徳島空港はなかった。当時は水上機が吉野川から堺市へ運航していたらしい。徳島市横を流れる大きな吉野川には、これも大きな吉野川橋があり、橋の下を5人乗りの水上機が滑走する。橋の下を飛行機が行き交うのは世界でも珍しい。これは面白そうだから見に行かないかと、友達に誘われた。吉野川橋へは私の下宿から自転車で20分ぐらいで行けた。私は面倒だから友達の誘いを断った。今から思えば、水上飛行機が橋桁の下をくぐる姿を見ておけばよかったと、後悔している。その後水上機は水陸両用機になり、吉野川と伊丹空港の発着となった。昭和38年には現在の徳島空港ができた。私が徳島を離れて2年後のことである。
 徳島空港には予約したホテルの送迎バスがきて、それに乗って「ルネサンスリゾートナルト」に16時頃着いた。このホテルは鳴門市内の淡路島に近いところにあり、大塚国際美術館にも歩いて行けそうなところにある。ホテルのロビーには、土曜日のせいか、約50人の客が部屋への案内を待っていた。案内された部屋は、南館の7階、739号室で、海が見下ろせるテラス付きの広い部屋であった。夕食は5種類の会場から予め選択できる。私達はビュッフェスタイルのファミリーレストランへ行った。ここでちょっとしたトラブルがあった。私達は、係の女性案内人からテーブルが指定された。私達はそこからすぐ料理を取りに行き、トレイに料理を乗せて指定された席に戻ると、そこには別の30歳代の男性が家族と座っていた。私は、そこは私達の席だと、びっくりした顔で男性に訴えると、その男性は自分もここを指定されたのだと、動かない。そこへ最初に指定した女性案内人と後で間違えて指定した案内人がやってきた。結局、私達が別の席に移された。後からの客は、当然先客がいたのだから、その席を離れるべきであるが、その30代の男はガンとして動かなかった。これが今の若い世代のやり方なのか。関西方面から来た男のやり方なのか。地元の徳島の人間はこのような態度はとらないであろう。ホテルは、私達に迷惑をかけたというので、私が予め注文していた生ビール2杯分1600円をサービスしてくれた。男がすんなり席を立てば、ホテル側は1600円の損失を免れたのだが・・。
 夕食後、ホテル内の小ホールで阿波踊りのショーがあったので、私達はそれを見た。阿波踊りを見るのは、60年ぶりであろうか。翌日、私達はホテル前のタクシーに乗り、近くの大鳴門橋の下にある「渦の道」という遊歩道へ行った(入場料510円/人)。橋の車道の下に造られた遊歩道は、海上から45mの高さにあり、ところどころにあるガラスの床から真下の渦が見えることになっている。渦が見られる季節と時刻が合わないと渦は見られない。当日の当時刻は、小さい渦しか見られなかった。遊歩道の突き当りには小さな広場があり、ここでも阿波踊りのショーがあった。しばらく待っていると、30人ぐらいの客が集まり、ショーが始まった。最初に解説者が阿波踊りの基本の踊りを、踊り子を使って教えていた。その後、客がお囃子に合わせて踊りを体験し、その後にベテラン達の踊りが披露される。私達は時間がなかったので、ベテランの踊りを見ずにその渦の道をでた。ここから目的の大塚国際美術館へは歩いていけないので、タクシーを使った。
 大塚国際美術館には12時に着いた。ここには3か所のレストランがあり、ANAのツアーでは「レストラン・ガーデン」というレストランが指定され、メニューも「名画ランチ」が決められていた。私達はその名画ランチを注文した。30分ぐらい待って、やっと料理が出てきた。このランチを食べてみると、こんなに味が薄くて、不味い料理が世の中にあったのかとびっくりした。後日、ANAのツアーについてのアンケートが、メールで送られてきた。私は、このレストランとメニューについて、見直したほうがよいとアンケートに記しておいた。しかし後からよく考えると、私達の舌の感覚は、東日本の濃厚な味付けに慣れてしまっていることに気が付いたのである。これは恐ろしいことである。脳溢血で死亡する人が東日本に多いのは、この濃厚な味付けに起因しているのであろう。私達の帰りの飛行機は、16時15分徳島空港発の羽田行である。そのためには、この美術館前のバス停から徳島空港行の14時43分の徳島バスがあり、それに乗る必要がある。食事を終わったのは13時で、美術館の見学時間は1時間半しかない。
 大塚国際美術館の建物は、丘をくり抜いて建てられた、8階建てのビルであるが、丘の上に出ているのは3階部分である。丘の麓の正面玄関の入口から長さ41mのエスカレーターで上がれば、地下3階の展示場に行ける。このフロアーは古代、中世時代の絵(フレスコ画)が展示されている。このフロアーの圧巻は、ローマのバチカン市国にあるシスティーナ礼拝堂内部をそのまま模して造ったホールである。私は、以前イタリアのツアーに参加したとき、このホールを見学した。この礼拝堂に入るには入場制限があり、50人ぐらいが順番でこのホールに入り、滞在時間は10分ぐらいに制限され、さらに人間が吐く二酸化炭素が作品を劣化させるというので、話は禁止されていた。私は、そのことを思い出した。この美術館ではそのような色々な制限は全くない。この美術館にあるすべての絵は陶板画であるから、写真もOK、絵に手で触ってもよいという、ありがたい設定である。この模造のシスティーナホールでは、女性の案内人が20名ぐらいの客を相手に天井に描かれたフレスコ画の解説をしていた。彼女の声は大きかったので、私もその説明を聞くことができた。彼女は赤いレーザー光線を使って、天井の絵の人物などを照射していたので、説明の内容がよく分かった。陶板画だからレーザーが使えるのであって、本物の作品ではこのようなことは、劣化を促進する恐れがあるので、レーザーは使えないであろう。
 私は、陶板画と同じ手法で絵付け皿やタイルの陶板画を制作しているので、この美術館の陶板画の制作に興味を持っていた。今回その陶板画に接して、その出来ばえに驚いた。私は筆と特殊な絵具(金属製顔料)で皿やタイルに絵を手描きし、800℃で焼き付けて陶板画を制作している。この美術館の陶板画は、1m角ぐらいの特殊陶板を造り、白の釉薬を塗って焼き付け、大きな白タイルを造る。一方、世界各地の名画の写真を撮り、離型紙付きの、裏面を接着剤を塗ったプラスチックフィルムあるいは特殊な紙に名画を印刷する。この印刷された名画のフィルムの離型紙をはがして、タイルに張り付け、800~820℃で焼成すると、陶板画ができる。さらに細かな部分を手描きで修正して、再度焼成して完成させる。ここで重要な技術は、印刷に使う金属製の顔料の開発と、割れない大きな陶板の制作であろう。これらの技術を大塚オーミ陶業(株)が開発して、世界的に類を見ない陶板画が完成した。
 システィーナ礼拝堂を模したホール(環境展示という)は天井が高く、1m近い陶板画は相当な重さがあり、これをどのように天井に張り付けているのか。本物のフレスコ画は長さ20m以上の大きさであるが、ここでは長さ2mの陶板画をつなぎ合わせて制作している。地震などでこれらの陶板画が落下する危険性もある。この対策はどうしているのか、疑問は色々あった。このホールの天井は丸くカーブしており、そのカーブした陶板画の見本が地上で見られるように展示されていた。平たんでない陶板画の制作も困難であったであろう。この展示している陶板画の裏側を見れば、取り付けの金具などの有無が分かったのであろうが、私はそれを見るのを忘れていた。
 1000点近い世界の名画を見るには、私達の1時間半の鑑賞時間では短すぎる。機会があれば1日かけて見学してみたい。
          2018.5.10
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4Kテレビ
  先月号で書き残したことを少し書いてみたい。大塚国際美術館には面白い企画の展示がある。それはレオナルドダビンチの「最後の晩餐」の陶板画である。この絵は、彼がミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描いたもので、420 × 910cm の巨大なものである。彼は、この壁画を1495年から描き始め、1498年に完成した。この絵は、フレスコ画でなく、壁の漆喰の上に卵、ニカワ、植物油、顔料などで描かれたテンペラ画である。この壁画は、食堂の湿気などのため、劣化や剥離が進み、後世の人により何度も描き直された。そして、1977年から1999年5月28日にかけて大規模な修復作業が行われた。この修復では、表面に付着した汚れ、繰り返された修復の顔料などが除去され、ほぼオリジナルの壁画がよみがえった。このオリジナルの壁画が写真に残されているようで、これを大塚国際美術館のスタッフが手に入れ、陶板画として完成させた。一方、最新の修復された「最後の晩餐」も写真に撮り、陶板画を制作した。
 この2枚の大きな陶板画が、15m×8mぐらいの大部屋に展示されていた。壁の片側に修復後の陶板画を設置し、その反対側の壁にオリジナルの陶板画を設置して、両者の比較ができるようにしてある。オリジナルといっても、1990年頃の洗浄後のもので、色や線などの欠落が多く、色調も薄れている。このオリジナルは、文献として小さい写真でしか見られないが、この美術館では横9.1mの実寸大のものが見られ、大変価値がある。これらの陶板画は、表面がカラス質でカバーされているので、色の劣化などはなく、1000年以上その色彩が保たれるという。世界各地の名画は天災、人災などで紛失する可能性はあるが、この大塚国際美術館の陶板画は地震などで壊れても、制作の蓄積されたノウハウにより同じ陶板画が制作できる。これは美術界にとって大きな強みであろう。
 大塚国際美術館を見学した後、私達は徳島空港から羽田空港へ戻り、翌日午前中時間があったので、丁度見ごろを迎えていた「目黒の桜」を見物した。その頃の朝日新聞に、全国で人気のある桜の名所20傑が載っていた。その中にこの「目黒の桜」はなかったが、20傑に入ってもおかしくない桜並木である。新聞に掲載された人気の第一位は、弘前公園の桜であり、私が最近見た「河津桜」は15位であった。福島県の「三春の桜」は5位で、この桜だけは1本の桜の木である。そのほかの全ての桜は、集団の桜で人気を呼んでいる。桜は多くの木が寄せ集まると、その豪華さなどが発揮できるのであろう。その意味で「三春の桜」は、1本でその魅力を発揮しているのは見事である。
 「目黒の桜」は、目黒川の両岸に歩道があり、その歩道の約1kmに桜並木が植えられている。ここは都内の中心部に近く、テレビ局から交通の便がよいので、桜の開花時期になると各局が取材に集まり、開花が始まったと、賑やかに報道してくれる。私もそれを見て、一度見てみたいと思い、今回機会があったので見に行った。山手線のJR目黒駅から歩いて10分ぐらいのところにこの桜並木があり、丁度満開で、多くの観光客が歩いていた。ここでも外国人が多く、ウイークデイのせいか日本人は高齢者が多かった。桜の木は、目黒川に垂れ下がるように花の枝を伸ばし、見事な風景であった。この桜並木の所々に「花見の宴会は禁止」の立て札があったので、おかげで静かな雰囲気で桜見物ができた。
 話は4Kテレビに移るが、我が家では居間に液晶テレビを置いて、食事中、食後、テレビを楽しんでいる。我が家の以前のテレビは、パナソニックの42インチの「ビエラ」で、7年前に購入したものである。さらにその前は、シャープの液晶テレビを置いていた。これは、液晶パネルと箱型の本体が別々のもので、大きなものであった。パナソニックの42インチの「ビエラ」からは、液晶パネルの中に本体が組み込まれたものになり、名称もハイビジョン液晶テレビとなる。私は、テレビは随分進化したなあ、と感心していた。最近になり4Kテレビが出現し、テレビと言えば4Kになってしまった。4Kテレビは、液晶パネルの画素数が従来のハイビジョン(2K)の2倍の横(水平画素)4000、縦2000である。従来の2Kテレビよりきめ細かく見えると言われる。私は高齢のため次第に目が衰え、視力が弱ってきた。何時も、テレビは2m離れて見ているが、2Kのテレビでは字幕がぼやけて見えにくくなってきた。
 私は、画面の大きい、4Kのテレビが欲しくなり、今年の2月に49インチの4Kテレビ、パナソニック「ビエラ」を16万円出して購入した。49インチは、今までの42インチに比べると、確かに大きい。居間の広さに比べ、テレビは大きすぎるだろうが、その画面に映る映像の迫力はすばらしい。4Kの鮮明さは、2Kに比べると良いように見えたが、視力が衰えた私には画面がぼけて、4Kのありがたみはそれほどでもない。しかし、字幕が大きくなったので、不自由なく読むことができるのはありがたい。新しいテレビを見始めた頃、大相撲3月場所をしていた。私は、大相撲をテレビで見るのが楽しみで、毎日5時頃から眺めている。大画面に映る力士の顔は大きく迫力がある。力士の背景にある観客の顔はぼけているが、これはNHKのカメラが2Kの画素数のものを使っているせいであろう。4Kの放送が始まれば、はっきり見えるであろう。今度の「ビエラ」を購入して分かったことは、4Kテレビの放送を受信するには、別売りのチューナーを買う必要があることである。NHKは今年の暮れから試験的に4K、8Kの放送をすると言っている。テレビメーカーもそれに合わせて、チューナー内臓のテレビを売り出すであろう。私は、それを待って、テレビの買い替えをすればよかったか、と少し早まったかと思っている。
 今度買ったパナソニックの「ビエラ」(TH49EX750)には、無線LAN、Bluetooth が内臓されており、パソコン並みの機能が楽しめる。我が家にはインターネットの中継ポイント(アクセスポイント)を2階に設置し、家屋内外でインターネットを利用することができる。私は早速、このテレビでユーチューブなどの動画投稿サイトを受像してみた。そこでは犬猫の楽しい動画が投稿され、私達は、テレビ番組に見るものがない時、これらの映像を楽しんでいる。リモコンで簡単にこれらの映像が見られるのは、大変便利になった。
 色々なメーカーのホームページ(HP)も見ることができ、私の作っているホームページ(金谷アートギャラリー)も見ることができる。普段パソコンの小さな液晶画面で見ている私のHPも、テレビの大画面で見ると迫力があるが、少しぼやけて見える。私のHPには、油絵の作品の画像を250枚、絵付け皿の画像を80枚入れている。この画像の画素数を写真のままの1メガバイト(MB)でHPに入れると、メモリーが多くなり、パソコンの動きが鈍くなる。それを避けるため、1枚の写真の画像のメモリーを100キロバイト(KB)に画素数を小さく変換している。100キロバイトの画像は、パソコンの画面では鮮明さはあるが、テレビの大画面ではやや不鮮明になってくる。動画サイトで見る映像は、ハイビジョンカメラで撮っているせいか、鮮明である。
 私達は、たまに外泊して、ホテルの小さな画面のテレビを見ることがある。その時は、ほとんどテレビの字幕が見えない。我が家に帰って、49インチのテレビを見ると、その大きさで字幕が読め、映像も楽しめる。私は、大きい4Kテレビに買い替えて、そのありがたみを感じている。
          2018.6.10
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淡島ホテル(金谷紘二)
  私達は2018年5月19日、クラブツーリズムが企画した1泊2日のツアーに参加した。このツアーのタイトルは、”富士山望む全室スイートルームの「淡島ホテル」、天空のチューリップ畑と約80万株の芝桜2日間”である。料金は一人7.5万円である。1泊2日のツアーであれば、普通、料金は2~3万円であるが、このツアー代は異常に高い。何故こんなに高いのだろう、と私は申し込む前から考えていた。移動は、トイレ付バスで、行き先も沼津、箱根、富士五湖などであり、特に遠距離ではない。1日目の昼食は、箱根小涌園にある「蕎麦貴賓館」で食べる本格蕎麦の定食である。この「蕎麦貴賓館」の建物は国登録有形文化財になっており、ここでの昼食が特別高い値段なのか。実際そこで食べた蕎麦料理は普通のメニューで、その味も特に美味いとは思わなかった。この建物は、1918年に建てられた藤田男爵の別邸であり、和風の食堂から眺める庭は趣があった。料金の高い原因は、この昼食でなくて、今夜泊まる「淡島ホテル」にあるようだ。
 ツアーの集合場所は、東京都庁前の地下駐車場である。ここの集合場所の場合、私達はすぐ近くの京王プラザホテルを前後泊の予定で利用することにしている。ツアーは9時半の集合であり、集まった参加者は7名で、上野から乗った人たちを含めて10名の参加者であった。15名以上がツアー決行の条件であったが、淡島ホテルの露天風呂が、ボイラーの故障で使えないという連絡が、ツアー会社に事前にあった。そのためツアー会社は、料金の10%を参加者に返却し、参加のキャンセルも無料で行った。それにより、5名がキャンセルしたのであろう。大きなバスに10名の参加者を乗せて、バスは出発した。バスは中央道の八王子から小田原、箱根へ。箱根では、箱根小涌園の蕎麦貴賓館で蕎麦定食(3000円)を食べる。食後、建物の中に貴賓館芸術蔵という廊下続きの部屋があり、参加者はそこに展示されている東郷青児、山本岳人らの本物の絵を鑑賞した。
 ツアーは、御殿場の富士サファリーパーク近くの遊園地「ぐりんぱ」で、チューリップ畑のチューリップを見ることになっていたが、今年は春先に高温が続き、チューリップは咲き終わっていた。チューリップ畑の見学はこのツアーの目玉の一つであったが、それがだめになったというので、ツアー会社は一人450円の現金を返してくた。この遊園地では、チューリップの球根堀を企画して、入場者にサービスをしていた。妻は、面白がって球根堀をして、50個以上の球根を掘り上げた。今、その球根は自宅の軒下の日陰にぶら下げて、秋の植え付けを待っている。バスは、裾野市から伊豆中央道に入り、沼津市へ。江間ICから江浦湾へ出て、淡島が目前に見える淡島ホテルの駐車場へ着いた。ここには淡島ホテルの待合室があり、ここでホテル行の小さなフェリーが来るのを待つ。
 淡島ホテルは、沼津市、内浦重寺の本土から200m離れた淡島という無人島の中にある。島は、東京相和銀行のオーナーである長田氏によって、島全体をリゾート地として開発され、その一つの中核施設が淡島ホテルとなっている。島には「あわしまマリンパーク」などの施設がある。また、弥生時代の遺跡があり、土器などが出土している。私達ツアー客と他2.3名がフェリーに乗り、10分ほどでホテル専用の桟橋に着いた。そこから50m先にホテルの玄関がある。玄関を入るとすぐロビーがあり、ここは吹き抜けの広い空間である。ロビーを取り囲むように2階の廊下があり、その壁には色々な絵画が飾られ、美術館のようになっている。これらの絵は、オーナーが1990年頃、金に糸目をつけずに集めた美術品であろう。このホテルは、建設当時、超高級リゾートホテルとして建てられ、会員制のホテルであった。現在は誰でも利用できるホテルになっているが、豪華な雰囲気は保たれ、格調高いホテルとして名をとどめているようだ。
 ホテルのロビーに備えていたホテルの案内パンフレットを見ると、客室の利用料金が示されていた。全室がスイートルームで、和室もあり、部屋代は平日で3万円から22万円であった。年末年始では、6万円から30万円の室料になる。夕食は別料金で1.5万円、朝食は3500円である。我々のホテル代は一人5万円ぐらいになるのであろう。ツアー料金が7.5万円と異常に高いのは、このホテル代の高さによるものだと、私は納得した。私達が泊まった部屋は、5階の501号室で、寝室と応接セットがあるリビングが別になっており、広いテラスと広い浴室がある。浴槽から湯につかりながら駿河湾の向こうの富士山が眺められるようになっている。部屋は、長期滞在者向けのリゾートの雰囲気がある。当日は富士山は雲がかかって見えなかった。
 夕方6時から2階の「アイランド」レストランで参加者全員が集まり、夕食が始まった。レストランは全面ガラス張りで、駿河湾と富士山が眺められるようになっている。私は、白いテーブルクロスの2人席に妻と座ろうとすると、ウエイターが、うしろから椅子を動かして座らせてくれる。そしてすぐ、ウエイターは私の椅子に黒色のジャケットを掛けてくれた。最初なんの意味か分からなかったが、私がTシャツ姿でレストランに入ったので、私がジャケットを着て入り、それを脱いでいるという設定にしてくれたのだ。このレストランには正装で入ることになっているのであろう。参加者で、もう一人の男性がTシャツ姿で来ていたが、その椅子の後ろにも黒のジャケットが掛けてあった。Tシャツは私一人でなくて、仲間がいて一安心。正装でレストランに入ることは、添乗員も知らなかったらしく、このジャケットを見て、彼女はびっくりした顔をしていた。このホテルは、格調の高さをそこまでして維持したいのか。
 夕食が始まる前に、参加者の各テーブルにグラスワインが用意されていた。これは露天風呂がボイラーの故障で使えなくなった「お詫び」である。料理はフランス料理のフルコースであるが、最初に出されたのは、沼津市場で取れたてのカンパチで料理した、カルパッチョであった。フランス料理といえば、大きな皿に少量の料理が上品に載せられているものであるが、このカルパッチョはカンパチの切り身が10枚以上入っており、豪快であった。さすがに漁港が近くだから、カンパチも新鮮で美味しい。ワサビと醤油で食べたいぐらいであった。そのあと出てくる料理はフランス料理らしく、大きな皿に少量の料理の組み合わせであった。食事をしている間、外は夕闇が迫り、太陽が沈み始め、きれいな夕日が見られた。富士山も頭の雲が取れた。あたりが暗くなると、遠くの焼津港あたりの漁火が見え始めた。
 食事のあと、私達は同じフロアーのギャラリーで絵画を鑑賞した。このギャラリーには、ミロ、ビュッフェ、藤田、エンネルなどの油絵が約20点と、数点の彫刻が展示されていた。これらの絵は、本物か複製かは展示の方法で分かる。本物は盗難防止のためガラスで覆われ、複製品はむき出しで展示されている。本物が多いのには感心した。翌日の朝食は、1階のレストラン「ル・ファール」で、ビュッフェ方式の食事であった。当日は風が強いにもかかわらず、屋外のテラスで食事をする客が数組いた。彼らは20代の若者である。ウエイターがテーブルクロスを設置し、客にひざ掛けを渡していた。5月とはいえ朝は寒いが、それを気にせずにテラスで食事をするのは、何かわけがありそうだ。
 私は全く知らなかったが、以下はwebサイトで知ったことである。今、「ラブライブサンシャイン」のアニメが若者の中で人気がある。このアニメは、淡島の近くにある「浦の星女学院」が舞台になっている。その登場人物に小原鞠莉ちゃんという少女がいて、彼女はこの淡島ホテルに住んでいるという設定になっている。彼女は、ホテルチェーンを経営するイタリア系アメリカ人の父親を持つハーフという。彼女が毎朝の食事の場所が、この「ル・ファール」レストランのテラスなのであろう。若者たちは小原鞠莉ちゃんのイメージの中で食事をしているのだ。そう言えば、昨日淡島から来るフェリーには若い男性だけが30人ぐらい乗っていた。これは、淡島ホテルで学生相手のセミナーがあり、その帰りかな、と私は思っていたが、アニメの聖地を巡る団体であったようだ。彼らは桟橋に到着後貸切りバスに乗っていた。昨日の夕食のレストランでは若者は一人もいなかった。最近はホテルの宿泊代が高いので、素泊まりだけで泊まる若者が多くいるという。
 私達のツアーは、翌日フェリーで島を離れ、バスで御殿場、山中湖、河口湖へ。河口湖近くの「四季の香り」で昼食をとり、青木ヶ原を通って本栖湖近くの「富士芝桜まつり」会場へ。芝桜は、今年春の高温の気候で、ほとんどが終わっていたが、咲き残っていたのが少しあった。芝桜の向こうに富士山が見えるというのがこの会場の目玉であるが、当日好天に恵まれて、富士山だけはきれいに眺められた。ツアーは山中湖に戻り、「富士を望む高原のお花畑」というキャッチフレーズの「花の都公園」へ。ここは、ツアー会社が、チューリップと芝桜が見られなかった代わりに、急遽設定した場所である。この公園は、ネモフィラが丁度見ごろであるという情報で訪れたのである。青いネモフィラが一面に咲き、その向こうに富士山がきれいに見えた。ここでツアーのスケジュールは終わり、バスは中央道経由で17時半に新宿に戻った。
          2018.7.10
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円山動物園
  福島県には福島空港が県の中央部にあり、わが町の矢祭町から車で1時間少しで行ける所にある。この空港には、札幌の千歳空港行きが1日1往復ある。それは、福島空港9時45分発の行きの便と、千歳空港16時15発の帰りの便である。所要時間は1時間20分であるから、仕事で札幌に出かける場合、日帰り出張ができるようになっている。私達も気軽に札幌に行けるので、今まで数回出かけた。今回、2018年6月19日、2泊3日の予定で札幌へ行ってきた。飛行機の切符は、パソコンのANA SKY WEBで簡単に予約でき、座席も自分で指定できる。料金は、2人で往復6.8万円である。切符は、eチケットと言って、往復のチケットが1枚のA4サイズに表示され、それを自分で印刷する。これにはバーコード(3次元)が印刷され、すべての情報が入っている。空港では、ANAのカウンターには行かず、直接保安検査でこのバーコードをタッチし、搭乗口でもこのバーコードをタッチして機内に乗り込む。
 私達は、福島空港9時45分発の便に乗り、11時に千歳空港に着いた。この空港から札幌市へは、JRの快速電車があり、それに乗ると、12時半頃札幌に着く。札幌駅は色々な名称のビルがあり、その一つのパセオというビルで昼食を済ませ、歩いて5分の三井ガーデンホテル札幌へ行く。チェックインには早すぎるので、今夜宿泊予定であることをフロントに伝えて、私達の荷物を預けた。私は交通系ICカード、PASMOを2枚持っており、東京などで利用している。これは、切符を買わなくて済むので、大変重宝している。札幌でも、地下鉄、JR、北海道中央バスなどでPASMOが利用できることが、予めネットで調べて分かっていた。私達は、ホテルから近くの地下鉄南北線に乗り、次の駅「大通」で東西線に乗り換え、三つ目の駅「円山公園口」で下車し、タクシーで円山動物園へ行った(タクシー代670円)。
 円山動物園は、妻が以前、白熊(ホッキョクグマ)の泳ぐ姿が水中トンネルから見られて面白そうだから、それを見たいと言っていたので、行くことにした。最初は、旭川市の旭山動物園にも白熊の泳ぐ姿が見られるので、そこに行こうと思っていたが、札幌から旭川市まで往復1日かかるので、手軽に行ける円山動物園に変更した。この動物園は敷地が縦長になっており、目的の白熊がいる「ホッキョクグマ館」は一番奥にある。入口で入場料一人600円を払って500m奥まで歩いていく。このホッキョクグマ館は人気があるらしく、大勢の人が集まっていた。2頭の白熊は、2階建ての屋上のスペースで行き来していた。その後、この2頭は水槽に入ったので、観客は1階の下から水中の泳ぐ姿が見られるトンネルへ移動した。ここでは、白熊が水中で無重力状態で楽しそうに泳ぐ姿が見られ、私達は上を向いてその白熊の色々な姿を見ることができた。特に、トンネルの上に腹ばいになった時は、足の裏側まで見られ、かわいい、という声が観客から上がる。10分ほどそこで眺めて、十分堪能したので、ホッキョクグマ館をでた。途中土産物店があり、白熊のぬいぐるみがあったので、妻はそれを購入した。
 翌日は札幌市北部にある「百合が原公園」へ出かけた。JR札幌駅から学園都市線に乗り、六つ目の「百合が原公園前」で下車し、歩いて5分の公園の入り口へ。この公園は広大な敷地の中に色々な花が植えられている。ユリはまだつぼみの状態であったが、バラ、ハマナス、ルピナスなどは見ごろを迎えていた。公園入口から正面に向かって歩くと、リリートレインの駅がある。これは、公園敷地の約半分を一周する列車で、それに乗ると沿線の色々な花が列車の中から見ることができる。65歳以上は無料というので、私達はそれに乗った。週日のため家族連れはなく、高齢者のグループが多く乗り込んでいた。沿線の内側は広い芝生広場になっていて、そこには小学生のグループがいて、芝生の上で競技を行っていた。乗客は、列車の中から子供たちの元気な姿を眺めながら、沿線の花の景色を楽しみながら、一周約10分の列車の旅を楽しんだ。公園には、障害者の団体が介護者と一緒に入っていた。広い公園で彼らは嬉しそうに、晴れやかな表情で介護者とペアになって歩いていた。普段の施設内とは違って、ここは自然に囲まれ、彼らはリラックスできるのであろう。
 私達は、JRで札幌駅に戻り、夕方まで時間があったので、地下鉄で大通り公園へ出かけた。公園内はイベントの準備をしているようで、業者が所々で花の植え込みの飾りつけをしていた。公園の東の端に「さっぽろテレビ塔」がある。私達は、入場料一人720円を払って、エレベーターで高さ90mの展望台へ登った。曇っていたが、札幌市内がクリヤーに見られ、大倉山ジャンプ競技場や石狩平野が見られた。日本海は見られなかった。翌日は、千歳空港16時15分発の福島空港行のANAに乗って帰るのだが、それまで半日の時間があるので、北海道立近代美術館へ絵を見に行った。荷物は地下鉄構内のコインロッカーに入れるが、ロッカーはコインでなく、交通系ICカードPASMOが使える。コインだと、ロッカーの番号が印刷された紙切れが出てくるが、ICカードの場合、何も出てこない。ロッカーの場所を覚えておかないと荷物を引き出す時、分からなくなる。ICカードの場合、領収書が必要かを画面で聞いてきたので、私は必要ないと思い、NOと答えた。これは後から考えて拙かった。領収書を貰っておけば、場所や番号が記入されているはずであったのだ。
 私達は、地下鉄の東西線の「西十八軒」へ行き、そこから少し歩いて北海道立近代美術館へいった。この美術館の収蔵品は、5218点ある。そのうちの50点が「近美コレクション名品選」というタイトルで展示されていた。ユトリロ、ブラマンク、藤田、荻須などの有名画家の作品も集められていた。この美術館の別の部屋では、ブリヂストン美術館のコレクションの84点が展示されていた。東京にあるブリヂストン美術館は、2015年から新美術館建設のため休館中で、2019年秋にオープン予定である。休館中、久留米、広島などで収蔵品の展覧会が開かれている。その一つが、札幌のこの美術館と、近くにある北海道立三岸好太郎美術館で開かれている。私達はこのブリヂストン展へは、時間がなかったので行かなかった。私達は、JR札幌駅に戻り、電車で千歳空港へ戻った。福島空港行のANAは、16時15分発であるが、機体のエア系の不具合で1時間遅れで出発し、無事福島に着いた。
 話は変わるが、今年の春から夏にかけて当地では高温、少雨が続いた。梅雨の時期も、雨が10日に一度、30分ぐらいのにわか雨程度の降雨で、いつの間にか梅雨が明けて、暑い夏がやってきた。我が家の庭の土はからからに乾き、水やりに忙しい。水気がないので、おかげで蚊が出なく、庭仕事は楽である。関東地域でも降水量が少なく、連日最高温度が35℃を越えていた。全国で、熱中症で死亡する人が続出している。7月上旬では西日本で大雨があり、各地で雨による洪水、土砂崩れが発生し、それらによる死者が230人も出た。岡山県倉敷市真備町地域では、河川の氾濫による洪水の被害があり、連日のようにテレビによる被害の状況が報道された。
 この真備町は、妻の元実家があった町である。被害にあった真備町は、倉敷市が開発した新興住宅地であり、彼女の実家のあった地域とは南側に離れていた。岡山県には大きな河が3本あり、一番西に流れる河は高梁川である。その下流に近い所に、新興住宅地が造成された。ここには水島工業地帯の会社などの社員が住んでいるようで、水没した家はまだ新しそうであった。昔からの真備町の集落は、丘の麓を囲むようにあり、平地から少し高い所にある。そのため今回の水害の被害は受けていない。高梁川は大きな河で、過去度々河川の氾濫があったようで、そのためしっかりした堤防と、広い河原を設けている。今回の水没地域は、小田川という小さい川が高梁川と合流する所の近くにあり、増水した高梁川の水が小田川に逆流したために、被害が発生したと言われる。合流地点では、小さい川は水門を造り、逆流を防がなければならない。水門があっても、今回の大雨では小田川も水があふれて決壊するであろうが、せいぜい床下浸水ぐらいで済んだであろう。
 高梁川の立派な堤防のため、旧倉敷市街は、水害を受けていないようである。特に川の東側は古くから紡績工場、例えば大日本紡績(現在ユニチカ)、クラレなどが工場を建設していた。私の実家は、借家であるが、高梁川の東側のJR総社駅の近くにあった。そこで、私は中学校と高等学校の6年間を家族と一緒に過ごした。この辺りは、あたり一面水田が広がり、その水は、高梁川から取水している水路から供給されていた。実家から約1.5km離れた高梁川の上流に「湛井堰(たたいぜき)」があり、そこには水門があり、季節には農業用水として各方面に水を放していた。水路の水面より高い水田は、この水路に水車を取り付け、水をくみ上げて田んぼに流していた。この水車が回る様は、私の実家からよく見え、夏の風景として今でも記憶にある。また6月頃、この水路には多くの蛍がとびかい、蛍を捕まえて蚊帳の中に放して、楽しんだことも覚えている。
 高梁川と小田川の合流地点の東側の堤防には、桜で有名な酒津の堤があり、その近くに「笠井堰」がある。これは、大正14年に完成したもので、高梁川の東側の地域に工業用水、農業用水などとして利用されている。同じ高梁川の上流の東側にある、上に述べた総社市の「湛井堰」は、起源は古く、平安時代にさかのぼると言われている。このように高梁川の東側は古くから治水事業が行われていたので、明治27年以降、洪水被害はまったくない。一方、高梁川の西側は、昔からの農村地帯で、灌漑用水は各地にため池を造り、雨水はため池に入れ、そこから水田へ水を送るというシステムが出来ていた。今度の洪水被害のあった川の西側の真備町地域は、元々は水田地帯であったが、住宅地として開発されたものである。小田川と高梁川の合流地点の少し下流に、先に述べた「笠井堰」がある。普段、この堰により、合流地点の川の水位は上がっている。今回の大雨による洪水の原因とされた小田川への逆流は、起こるべくして起きたと思われる。小田川に水門を造り、川のバイパスを「笠井堰」の下流まで引くことが、今後の洪水対策になるであろう。
          2018.8.10
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空間放射線量
  福島県の東電第一原発の原子炉が大津波により爆発したのは、2011年3月であったが、今年で7年目を迎えた。その爆発の際、大量の放射性物質(おもにγ線)が付近にまき散らされた。その放射線量を測定するため、国が2013年に、モニタリングポストを福島県内に約3000台設置した。今年になって、放射線量のレベルも全国レベルに落ち着いてきたので、原発近辺を除いた2400台を2020年末までに撤去する、と国が提案してきた。今、福島県の各地ではこれに反対している。私が住む矢祭町にも、モニタリングポストが所々に設置され、放射線量の数値を手軽に知ることができる。現在、その数値は0.05から0.08毎時マイクロシーベルトである。通常の自然界では、私達が浴びている放射線量は、年間2.4ミリシーベルトと言われる。これを一般に使用している単位に換算すると、0.27毎時マイクロシーベルト(μSv/h)である。矢祭町の測定値は、0.07であるから、自然界の0.27に対して、4分の1である。
 NHKテレビの福島局は、夕方7時前の地方ニュースの後、県内各地の空間放射線量(毎時マイクロシーベルト)の最大値と最小値を報道している。それによると、中通の白河市では0.05~0.17であり、最小値と最大値の幅が大きい。東電第一原発がある大熊町では、0.11~9.36である(2018.8.19の測定値)。この最大値9.36は、自然界の安全と思われる0.27の約35倍の放射線量であり、この地域が未だ帰還困難地域になっているのが判る。地元の民放テレビの福島放送も、毎夕、県内の放射線量の測定結果を報道している。この局は双葉郡の各町の数値しか示しておらず、県内で一番放射線量が高い大熊町のデータは代表地で示されている。朝日新聞では毎週土曜日の全国版に、福島県各地の放射線量の数値を載せている。これには最も高い大熊町のデータはない。何故だろうか。隣の浪江町のデータはあり、8月17日の数値では、3.0μSv/h であった。これは、安全とされている0.27μSv/hの約10倍のγ線が空気中に漂っていることになる。
 今年は原発事故から7年目になるが、いまだ自然界より多くの放射線が原発付近に漂っているのは何故だろうか。現在、爆発のあった原子炉は建物でカバーされているので、そこから放射線は出ていないと思われる。爆発時、莫大な量の放射線が一挙に空気中に放出されたのであろう。それが付近の山野の樹木や土地に沈着し、長年にわたって少しずつ空気中に放出されていると思われる。それらの土地の放射線物質を除去するため、国は事故直後、各地の土地の表面を削って、1立法メートルのフレキシブルコンテナに入れて、保管している。これらは、福島県では約1300万立法メートルあり、各地の市町村に設けられた仮貯蔵地に置かれている。これらのコンテナは、2段程度に積み上げて、その上に雨除けのシートでカバーされているようである。γ線はプラスチックは簡単に通過するので、これらのコンテナから徐々に放射線が空気中に放出され、各地の放射線データとしてあらわれている。γ線の放出は、今後も長く続くであろう。
 私は昨年(2017年)3月に携帯型放射線モニターを4万円で購入した。事故後、各県の住民は放射線に関心を持ち、自分がいる所の放射線量を知りたいという気持から、携帯型モニターを購入する人が増えたようである。当時、いち早く市場に出た商品は中国製であり、比較的安く購入できた。ロシア製も輸入販売され、評価は高かったようである。現在では、市場に出ている携帯型放射線モニターは、ほとんど日本製であり、中国製やロシア製はなくなってしまった。事故当時、日本の電子機器メーカーや家電メーカーは、このモニターのニーズを知らなかったので、商品はなかった。中国製が輸入され、需要があると感じて、日本のメーカーは急遽開発したようである。私が購入した製品は、岩崎通信機(株)製の放射線量モニターSV-2000である。この取説には、この製品は純日本製であると記していた。製品は空間の放射線のうち、γ線の放射線量を測定するものである。私は、この測定器で自宅の近くにあるモニタリングポスト付近で放射線を測定したところ、同じ数値を示していた。私は、この測定器の精度は高いと思っている。
 この装置のサイズは12×7×3cmであり、ポケットに入るサイズであるので、私は面白がって色々な所で放射線を測定した。表面がコンクリートやアスファルトの上と、その近くにある植え込みの上で放射線量を比較すると、放射線量はコンクリートの上が、植え込みの上より低い数値を示した。コンクリートの上は、雨で付着した放射線が流されおり、一方植え込みでは放射線物質が植物や土に吸収されているので、このような差が出たものと思われる。そのため、私は測定時、植え込みの上あるいは土地の上で測定することにした。私は、旅行の際、この携帯モニターを持って行き、色々な行き先で測定した。徳島県鳴門市、新宿、稚内、礼文島、利尻島など。去年はツアーでポーランドへ行ったので、ポーランドの各地の都市で放射線量を測定した。それらの結果を下の「各地の放射線量測定結果(1)」の表に示した。福島県南部および関東地方の放射線量は、0.05から0.07μSv/h であり、これが自然界のγ線量かな、と考えていた。北海道の北端の礼文島や利尻島では、0.02μSv/h を示し、極端に低かった。これが自然界のγ線量なのであろうか。関東地方は東電事故の影響をまだ受け続けているので、放射線量が高くなっているのか。
 今年の3月、私が四国の徳島空港で羽田行のANAに乗った際、離陸前のANA機内の放射線量を測定したところ、0.02μSv/h であった。しかし、離陸30分後に測定すると、0.05に上がっていた。成層圏では地上より大量のγ線があり、金属製の機体でもγ線は容易に透過するのであろう。私が購入した岩通のモニターには、東京ーニューヨーク飛行機内(1往復)の放射線量(積算)が示されており、それには約0.3ミリシーベルトの表示になっていた。これを通常の単位に直すと、13μSv/h になる。これは福島県の大熊町の最大値10μSv/h より多い量であり、成層圏のγ線量がいかに大きいかを示している。私は、今年9月にツアーで中国へ行き、このモニターを持って、各地の放射線量を測定する予定である。どのような数値が出るか楽しみにしている。
          2018.9.10

         
各地の放射線量測定結果(1)
   日付            測定場所                       測定値(マイクロシーベルト/h)
 2017.3.18  福島県矢祭町自宅の庭、測定器の購入日に測定                 0.07
 2017.5.15  福島県桧枝岐村、雪解け水                               0.11
 2017.6.7   成田エクセル東急ホテル前                                0.06
 2017.6.8   ポーランド、グダンスク市郊外のメルキュールホテル前                0.05
 2017.6.9    ポーランド、グダンスク、バルト海の海岸、砂浜                     0.03
 2017.6.10   ポーランド、トルン市ホテルの室内                            0.03
 2017.6.12   ポーランド、クラクフ市ノバテルホテル室内                      0.07
 2017.6.13   ポーランド、ザコパネ市、岩塩坑入口                         0.03
 2017.6.13  ポーランド、アウシュビッツ収容所内、砂利道                    0.10
 2017.6.14  ポーランド、ワルシャワ市、ショパン博物館前、砂利道               0.09
 2017.7.1   横浜市、桜木町駅前                                    0.05
 2017.7.2   北海道、稚内市、礼文島フェリー内                          0,01
2017.7.3   北海道、礼文島、香深港近くの三井観光ホテル前                 0.04 
 2017.7.3   北海道、礼文島、日本最北端の金田岬                       0.02
 2017.7.4   北海道、利尻島、鴛泊港、利尻富士観光ホテル前                 0.02
 2017.7.5   東京、羽田、東急大鳥居駅、東横イン羽田空港2前                0.06
 2017.7.5   東京、新宿、京王デパート前、街路樹下                       0.08
 2017.7.5   JR東京駅、南口。高速バス乗り場                           0.07
 2018.3.25  徳島、鳴門市、ルネッサンスナルトリゾートホテルの部屋、テラス         0.07
 2018.3.25  徳島空港発羽田行、ANA、離陸前の機内                      0.02
 2018.3.25  同上、ANA機内、離陸30分後                            0.05
 2018.5.18  茨城県、那珂市、那珂IC高速バス停                         0.05
 2018.5.20  静岡県、沼津市、淡島ホテルの部屋、テラス                     0.04
 2018.5.21  東京、新宿中央公園内                                0.04
 2018.5.21  東京都庁の前                                      0.06
 2018.8.13  茨城県東海原発前、国道245号 道路の上                    0.06
 2018.8.18  茨城県大子町川山、国道118号横グランド                     0.08

 注)~前とあるのは、例えばホテルの場合、ホテルの前の植え込みの上で測定。

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中国旅行
  私は、今年(2018年)9月20日から6日間、クラブツーリズムが企画した中国旅行に参加した。ツアーのタイトルは、「はじめての中国、上海・北京と西安 6日間」である。私は通常、この雑記の記述を数カ月前の出来事について、日記を見ながら入力している。この10月号の「中国旅行1」は、9月の20日頃から入力し始めるので、旅行とリアルタイムで記述することになる。そのため旅行には、ASUS製(台湾)のノートパソコンEeeBookを持って行き、ホテルなどで今日の出来事などを入力しようと思っている。このパソコンは、3年前に3万円で買ったもので、大きさはB5判、重さは約1㎏である。この台湾製のパソコンは、通常使用していないが、たまに使うときも正常に働き、不具合は今まで一度もなかった。私は、タブレットもASUS製、手のひらサイズのディスクトップパソコンも、ASUS製を持っている。後者のパソコンは本体が手のひらにのる大きさであり、ディスプレイの液晶は、DellのディスクトップPCと共用している。手のひらサイズのパソコンの消費電力は50Wで、一方Dellのディスクトップは250Wであるので、遊びでパソコンを使うときはASUSを使っている。これらの台湾製PCは、全く不具合はなく、台湾製のASUSは優秀であり、台湾生まれの私は、それを誇りに思っている。
 私は、これまでツアーを利用して訪れた国は、ロシアを含めてほとんどのヨーロッパの国であった。アジアは、台湾と香港は行ったことがあり、そのほかのアジアの国は行きたいと思わなかった。しかし、中国は隣国の大国であり、一度行ってみたいと思っていた。今回の「はじめての中国」というツアーは、最もよく知られた名所旧跡を一通り見聞する旅で、中国の代表的な都市である上海、北京、西安を6日間で巡るものである。都市間の移動は、全て中国東方航空の国内線で行う。スケジュールも一日を目いっぱい使うため、早朝出発が多い。そのため、朝食は弁当が配られて、バスの中で食事をする。このツアーは、若者向けに設定されたようで、後期高齢者の私が参加するのは、間違っていたかもしれない。出発は羽田空港からで、上海に向けて中国東方航空で行く。羽田空港での集合時刻は朝6時40分であり、こんなに早い集合時刻は初めてで、びっくりした。ツアー会社から一週間前に配られた資料には、参加者は22名とあり、これら多くの人は羽田近辺のホテルに前泊しなければならないであろう。
 先月号の雑記で、私は空間放射線について述べ、その携帯型測定器(モニター)を買い、これを持って中国へ行き、中国各地の放射線量(γ線)を測るつもりでいた。この記述を見た私の弟から電話があり、それは止めた方がよい、という忠告を受けた。日本では各地の放射線量を測っても、だれからも何にも言われなく、罪にはならない。中国では放射線を測ることに規制があるかもしれないし、測るのが見つかると、当局から身柄を束縛されるかもしれない、と言われた。考えてみれば、空気中の放射線量は機密事項かもしれない。例えば、西安で異常に高い放射線量が測定された場合、これは西安付近で行われた核実験で発生した放射線であるかもしれない。そして中国は、住民に不安を与えないため、核実験による高濃度の放射線量を極秘にしている、かもしれない。あるいは、西安近くの原発で事故があり、相当な放射線が空気中に放出され、これも住民のため公表しないでいるのかもしれない。これを私が測定している所を、当局が見つけたら、当局は私を取り調べるであろう。そのようなことを私は想像して、モニターを持参することを断念した。
 集合日前日の9月19日に、私は京急羽田線の大鳥居駅から歩いて1分の所にある、「東横イン羽田空港1」というホテルにチェックインした。荷物を部屋に置いて、明日の集合場所の確認と、日本円の元への両替を行うため、羽田空港国際ターミナルへ行った。ここからこの雑記は、少し遅れたリアルタイムで記述するつもりでいたが、中国のホテルでの記述は、忙しくて不可能であった。そのため、いつものように帰国後の9月27日から記述している。それまでの文章は、Dropboxというネット上のオンラインストレージに保存し、帰国後ディスクトップのDropboxから、いつも使っているホームページビルダ-に貼りつける操作を行った。
 集合日、集合時刻は6時40分なので、私はホテルの部屋で朝食を済ませ、羽田空港の集合場所へ。指定のYカウンターには6時半に着いた。旅行社の人から書類を受け取り、Lカウンターの中国東方航空のカウンターでチェックインする。そこには50人ぐらいがチェックインの順番を待っていた。カウンターでは、窓側か通路側かを聞かれたので、窓側にしてもらった。上海行のボーイングB777-300は大型機であり、右3列の私の隣の席は若い日本人女性である。彼女たちは、自分たちで海外旅行をいている感じであった。飛行機が安定飛行した後、機内食が出た。中華料理風と洋食の混じったもので、中華料理風は特に美味しかった。座席の前には液晶画面があり、色々なソフトが選択できる。私は、飛行ルートと各種データが出る画面を到着まで約3時間、眺めていた。上海に近づくと上空から大きな河、揚子江(長江)が見えた。水は茶色に濁っている。揚子江をネットで調べると、揚子江は、チベット高原から始まる世界で3番目の長さであり、有名な洞庭湖を経て、上海に至る。水の濁りは洞庭湖あたりからであろう。濁りの成分は、春先に日本に来る黄砂と同じではなかろうか。黄砂は、空気中に浮遊するぐらい細かい粒子であるから、揚子江に吸着された黄砂も川底に沈降せずに浮遊し、濁った状態で上海までくるのであろう。
 上海空港には10時半頃着いた。入国検査は厳しく、指紋などがその場で取られ、手荷物検査、身体検査などで、入国に時間がかかった。私達は、大型バスで市内のレストラン「旭日酒店」へ。団体の中国料理は、7~8名が大きな円卓に座り、前のターンテーブルに料理の大皿が次々に置かれ、それを各自が自分の皿にとって食べる方式である。好きな料理を好きな量だけ取るわけだから、体重に気を使っている人には良い。アルコールは、どこのレストランでも中ビンサイズが1本30元(約500円)に統一されているようである。食後、私達は、バスで揚子江支流(黄浦江)に沿ったワイタン(外灘)地域の散策道路へ行き、対岸に見える100m以上の高層ビルが林立するホトウ(浦東)地区を眺めた。この散策道路の先には、旧共同租界であった地域があり、元イギリス領地に建てられた洋風建築がある。これらの建物をバスの中から眺めて、シルク織物のショールームへ行った。そこには多くの外人団体が来ており、建物の中は暑く、私は旅の疲れで係の宣伝を聴く元気がなかった。幸い、部屋のコーナーに休憩する所があり、私はペットボトルの水を5元(80円)で買い、そこで休んだ。集合時刻になり、建物から出ようとするとき、停電になり部屋は真っ暗になった。スマホを持っている人はスマホをつけて、足元を明るくしてくれた。スマホの画面は、明るいのでライトの代わりになる。
 バスは、旧フランス領であった租界地にある「新天地」へ。外は雨が降りだし、薄暗くなったので、私はカフェの中のベンチに腰かけて休んだ。2、3組のツアーの仲間も休んでいた。彼らはコーヒーカップを片手に持っていたが、私はコーヒーを飲む元気はなかった。集合時刻になり、私達はバスが停まるところまで歩き、バスが来るのを待っていた。道路は、夕方のラッシュで、車はほとんど動けない状態であった。上海市内は、道路に乗用車があふれている状態で、車は思うように走れない。現地のガイドが、バスが遠くにいるのを見つけたので、我々が歩いてバスを迎えた。道路のそばで雨と風の中で待つよりは、バスの中で過ごした方が楽である。
 今回の中国3都市、上海、北京、西安は、どこも事情は同じであるが、とにかく乗用車が多い。私は、ツアーのバスでは一番後ろの席に座ることにしていた。座席は一段高くなっているので、180度の角度で道路の状況を見ることができる。中国人の車の運転技術は優れているのか、簡単にレーンの変更をする。車の間隔が1mあれば、強引に割り込んでくるのに感心した。強引さはお互い様だから、クラクションは鳴らさない。ひと頃、中国の道路は車のクラクションでやかましいと言われたが、今はほとんど聞かれない。車のほかに、バイクと自転車が多い。全てのバイクは、エンジン駆動でなく、電気モーターで動くようになっている。バイクは、バタバタの音はなく、無音で走る。道路の端には1.5mぐらいのバイク専用のレーンがあるが、歩道を走るバイクもある。実際歩道を歩いていると、バイクが音もなく通り抜けるので、びっくりすることがあった。交差点では、人、自転車、バイクは信号無視で横断する。中国では、まだ交通ルールを守る義務が徹底されていないようだ。
 1日目の上海でのホテルは「シェラトン上海」である。私達は、道路の渋滞でホテルには午後10時前に着いた。私の泊まった部屋は、25階の2501号室で、ダブルベッドのツインタイプである。部屋の大きさと、設備の良さは、今まで経験したことがないものであった。シャワールーム、トイレ、バスルーム、洗面所は別々になっており、バスタブは馬鹿でかいし、湯につかりながら外の景色が見えるようになっている。私は、夜遅い到着と明日の5時半の集合のため、湯につかる余裕はなかった。テレビは50インチの大きいもので、広い部屋で遠くからでもよく見える。カーテンは電動式で開閉できるようになっている。このような快適な部屋に7時間しか滞在できないのは残念だ。もっと長くいたいものだ。
           2018.10.10
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中国旅行2
  ツアー2日目は、上海空港から北京空港への移動と、北京市内の観光である。シェラトン上海のホテルのモーニングコールは4時半、私はその前に起きてスーツケースなどの荷造りをしていた。ホテルのロビーへの集合は5時半、朝食は弁当が配られ、バスの中で食べる。朝食のレジ袋には、パン、ヨーグルト、ゆで卵、小さなケーキ、ペットボトルの水、が入っていた。上海空港の建物の中に入るのに、荷物のチェックと身体検査がある。身体検査は、体に付けている金属を探知する目的で、ゲートをくぐって調べられる。チェックインカウンターでは、スーツケースのX線によるチェック。ここで、ツアーの多くの人がチェックにかかり、その持ち主は別室に連れられて、スーツケースを開けて中を調べられた。私もその一人で、スーツケースを開けて、現地ガイドを通じて係官に説明した。単三などの乾電池が検知器にかかったようである。機中の荷物室で乾電池の液が漏れて発火した事故があったのであろうか。私はこれ以降、ラジオなどから乾電池を抜いて、手荷物に入れることにした。北京行のゲートに入るのに、手荷物のチェックと身体検査があった。飛行機に乗るのに3回もチェックがあった。中国は何故そのような厳しい検査が必要なのか。中国はほとんどが漢民族であるが、それ以外の民族も多数あり、テロなどのおそれがあると、政府は警戒しているのであろう。
 飛行機は、上海空港を8時半に離陸し、北京空港に10時半に着いた。我々は、ここから1時間半のバス旅で、市内から75km離れた万里の長城に行き、近くのレストランで飲茶料理の昼食をした。食後、すぐ近くの万里の長城(北京市内に一番近いのは八達嶺長城という)へ。この長城への入場料は、一人20元(約350円)である。当日は快晴であったが、風が強く、長城の上は特に強く、歩くのにふらつくぐらいであった。城壁の上は、幅4mぐらいの石畳の道があり、急なアップダウンの坂が続く。よくテレビなどで見られる万里の長城の風景を目の前にして、私は中国に来たという実感を得た。城壁には城楼という砦があり、入口の砦から約200m間隔に砦がある。入口から一番上の頂上まで4つの砦を通過していく。そこまで歩いて30分かかるそうであるが、私は3つ目の砦まで歩いて、引き返した。石畳は、長年の多くの観光客の靴で表面がつるつるになっており、滑りやすい。通路の両端には手すりがあり、それに掴まっても、強風で足元がおぼつかない。私は、頂上までは次の機会の楽しみにとっておこうと、出入り口まで戻った。我々は15時40分に集合し、バスで市内のレストランへ向かったが、この道も車が多く、渋滞していた。明日土曜日は、「中秋の名月」で、北京市民は月を見るために万里の長城へ行くという。そのため明日は今日より大渋滞が起こるであろうと、現地ガイドの孔さんは言っていた。中国人は月を眺めるという習慣がまだ残っているようである。
 レストランまで2時間かかり、その時間を使って孔さんは中国の現状について色々話を聞かせてくれた。北京市内には楊樹という立木が多い。この楊樹には殺菌効果があると言われ、歯ブラシの代わりにしたそうで、この樹からヨウジが作られた。日本の楊子は中国から伝わったという。年間200万人の中国人が日本に出かけると言い、孔さんは日本へ観光に出かける中国人のガイドをするそうである。日本では彼らは日本語を覚えて帰国し、便利な言葉は中国でも使っているという。「営業中」という言葉はよく使われたり、「人気」という言葉なども漢字で使われているそうだ。孔さんの母親は吉林省にいて、生活している。中国の吉林省のような地方では、所得のレベルが低く、ひと月の生活費は日本円にして3万円ぐらいだそうである。中国では買い物は全てスマホ決済になっており、現金は使わなくなった。孔さんのお母さんも、買い物はスマホで行っている。時折孔さんは、母親に送金するが、これもスマホで済ませる。その金額は、母親の口座に入り、スマホでそのお金を使うという。孔さんは、中国の貨幣制度は近いうちに消滅するのではないかと言っていた。
 当日のホテルは、市内にある「国賓酒店プレジデンタルホテル北京」である。名前は立派だが、部屋の設備が古くなって、よく機能しない。テレビが映らないので、孔さんに言って直してもらった。中国ではNHKが見られ、9時半のニュースをしていた。このホテルは連泊で、翌日の集合時間は7時半なので、ゆっくりできるでしょう、と添乗員は言ってくれた。私にとって7時半は早朝で、それまでにバイキングスタイルの朝食を済ませなければならない。スーツケースの準備はしなくてもよいのが助かる。午前中の観光は頤和園(イワエン)と、パンダがいる北京動物園である。イワエンは、広大な昆明湖を抱える皇帝庭園で、西太后が建設したものである。私達は湖岸に造られた730mの長廊を少し歩いて、昆明湖を眺めた。イワエンを一通り見て回るには1日以上かかると言われる。
 北京動物園の目玉はパンダである。中国では9月22日から24日まで「中秋節」になっており、3連休である。学校も休みなので、この北京動物園は子供連れで賑わっていた。北京動物園にはパンダ館が独立してあり、別料金になっている。パンダの檻は3か所あり、それぞれにパンダはいるが、全員寝ていた。皆、向こうを向いて寝ているので、背中しか見られない。写真で見るパンダの白い毛は純白だが、ここにいるパンダの白い毛は薄茶色で汚い。孔さんの話によると、パンダの保護地域ではパンダが羊を殺して食べるというので、現地では困っていると言う。私は、パンダが笹ばかり食べている映像しか見ていないので、パンダは草食動物かと思っていたが、肉食動物なのだ。私は、帰りの西安の空港で土産物の小さなパンダを買ってきて、自宅に置いてある。このパンダの目を、よく見ると可愛くなく、どう猛な感じである。パンダの可愛いらしさはその動作であろう。寝ているパンダを見ても可愛らさは伝わってこない。
 北京観光の午後は、天安広場にある紫禁城である。広場の正面にあるのは、中国からのテレビ映像でおなじみの天安門(午門)であり、ツアーはそこから紫禁城に入る。城内の建物には、南北1kmにわたって門や殿という名がつく壮大な建物が14棟もある。ツアーは、それらについて孔さんの熱心な説明を聞きながら歩く。当日は晴天で、気温も30℃近くあったので、私は疲れてしまった。持参したペットボトルの水もなくなってしまい、脱水症状気味になった。城の中にはところどころ土産物店があるが、水は置いていない。北の出口近くの店で水を見つけて、買うことができた。紫禁城内は広く、それを埋め尽くすほどの多くの観光客でにぎわっていた。中国人と思われる人も多いが、白人系外人の団体も多い。私達のツアーは、1kmの距離を立ち止まりながら歩いた。ツアーは出口近くに停まっていたバスに乗り、私はほっとした。
 このツアーは、ショップへの案内に多くの時間を取っているのが目立つ。この日の午前中は、ラテックス店で、寝具のマットレスの宣伝を受けた。中国では天然ゴムの生産量が多く、それを用いたマットレスの生産量も多い。店員は、ウレタンマットレスと天然ゴムのマットレスの違いを熱心に説明していた。天然ゴムのマットレスは抗菌性、防カビ性があり、メインテナンスがウレタンよりも優れていると強調していた。このような大きなものを買っていく人がいるのか疑問に思ったが、店ではそのような人のために、小さく圧縮してスーツケースに入れて、帰ってもらうという。そのスーツケースはサービスするという。1時間近く店にいたが、寝具を買う人は誰もいなかった。ツアーは、別のショップ、掛け軸店に案内された。色々な書の掛け軸、額装された書、油絵があり、大家と思われる老人の書の実演を見せてくれた。その大家は、ツアーの人から漢字のリクエストを受けて、それを幅40cmぐらいの中国で一般に使われている「宣紙」に書いてみせた。見事な筆さばきで、その書体にも味があるように感じられた。購入希望者は、その書家とその書と一緒に写真を取ってくれる。ツアーの一人がその書でなく、別の掛け軸の書を購入したようであった。
 当日の夕食会場は、市内の全聚徳(ぜんしゅうとく)というレストランである。ここは、団体を専門に受け入れているレストランのようで、3階は外国人専用のフロアーになっていた。7、8人が座れる円卓が多くあり、ほぼ全部の円卓が使用されていた。このツアーには3人のタバコを吸う人がいる。北京のレストランでも禁煙が徹底されているようで、日本に比べると禁煙の意識が強いようである。しかし、道路で歩きながらタバコを吸う人は多い。ツアーの愛煙家の3人は食事が終わると、そそくさと建物の外に出てタバコを吸う。タバコの好きな彼らは、飛行機の移動ではライターが持ち込めないので、その都度ライターを捨てなくてはならないと、こぼしていた。このツアーでは、毎日のように夕食後に観劇などのオプションが設定されている。上海では上海雑技、北京ではカンフーショーと京劇、西安では唐歌舞ショーの観劇であり、希望者は参加できる。料金はいづれも一人3900円である。私は京劇は一度見てみたいと思っていたが、昼間の観光で疲れて、京劇を見る気持にはなれなかった。ツアーでこれらに参加する人は2,3人で、比較的若い人たちであった。
 地元ガイドの孔さんの自己紹介で、「孔」という苗字は孔子、孟子の孔であり、孔子の子孫であろうと、彼は自慢していた。中国には孔という名前を持つ人は200人ぐらいいて、たまに同姓者が集まって親交を深めることがあるという。以前、孔さんは、交通事故で警察に捕まった時、その警察官が孔さんと同じ苗字であったので、警察官は同姓のよしみで事故を見逃してくれた、と話していた。中国らしい話である。中国では少額の贈収賄は一般に行われており、当局はそれを見つけても、何もしないという風習が残っているという。これも大陸的で、中国らしい風習である。
           2018.11.10
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中国旅行3
  ツアー4日目の9月23日は、西安市の観光である。我々は、早朝5時にバスに乗り、ホテルから北京空港へ。朝食は、車内で配られた簡単な物を食べた。目的の西安空港には10時ごろ着き、空港の建物を出るの1時間かかり、そこからバスで西安市内のレストランへ行き、昼食を取った。北京市から西安市まで約1000km離れており、鉄道も走っている。日本で言えば東京から岡山の距離ぐらいであろうか。これは日本の新幹線で4時間の距離である。北京空港から西安空港までフライトの時間は2時間20分であるが、両空港の出入りの手続きに約2時間かかった。私は、中国の鉄道の事情はほとんど知らないが、鉄道で行っても4時間ぐらいであろう。それなら鉄道の方がのんびりして楽であろう。鉄道の良いところは、沿線の風景がたっぷり楽しめることである。私は一度は中国の鉄道に乗ってみたかった。
 西安の観光の目玉は、兵馬俑坑(へいばようこう)博物館であろう。我々は、市内のレストランから約20km離れた西安市郊外のこの博物館へ行った。博物館は、1号~3号館の建物に分かれ、それそれ地下3mぐらいの所に、写真などでよく見る兵士や軍馬の等身大の素焼き陶器が整然と並べられていた。見物客は、建物の周囲に造られた地上の見学通路から下を覗いて眺める。その様子は壮観であった。色彩が少し残っている貴重な像は、通路の広場に設置され、ガラスの箱に入れられて、近くでじっくり見ることができる。博物館から少し離れた所に、この兵馬俑を今から44年前に偶然発見した一農民(楊志発氏)が今も健在しており、我々はその人が住んでいる家を訪ねた。80歳の彼は、夫婦で住んでおり、その家は土産物屋を営んでいる。彼は発見当時、その土器をリヤカーに載せ、40kmの道を歩いて報告に行ったという。そのリヤカーも展示されていた。兵馬俑坑博物館には多くの観光客が来ていたが、この家にまで来る人は少ない。我々がその店を出るとき、この老人夫妻が店の外まで見送りに出てくれた。ツアーはその後、近くの秦の始皇帝の墓である始皇帝陵を遠くから眺め、西安市内のホテル、ゴールデンフラワーホテル(金花大酒店)に宿泊した。
 ツアー5日目の翌日は、終日、西安市内の観光である。最初に、ホテルの近くの国立博物館へ行き、書や水墨画などを見物。この案内を博物館の男性の職員がしてくれた。彼は、美術品の説明はそこそこにして、我々をショップに案内した。その職員は、ショップに展示されている中国産メノウなどを熱心に説明してくれた。彼は国家公務員であるが、セールスマンのような熱心さで我々に品物を薦める。何故熱心なのか。ショールームでの売り上げが彼ら職員のボーナスになると、後でガイドから聞かされた。しかし、ツアーの人は誰も買う人はいなかった。西安市内には中心部に周囲14kmの城壁が残っている。1370年にレンガで造られた城壁は、度々修復されたが、堂々とした風格がある。我々は、南門から城壁の上に造られた幅13mの石畳の通路に上がった。ここから約3km先の西門まで、高さ12mの通路を眼下の市内の景色を眺めながら散策する。その通路にはレンタルの自転車があり、希望者はそれを45元で借りることができる。私は、歩くのが面倒だから、自転車を借りて西門まで行った。心地よい風に吹かれながら、久しぶりの自転車走行であった。ツアーの中では、東京から参加した女性が一人、自転車を利用していた。
 昔、長安と言われた西安は、紀元前11世紀から紀元10世紀までの2000年間、中国歴代の王朝が定めた首都であった。長安は、日本との関係も深く、遣隋使、遣唐使が派遣された都で、阿倍仲麻呂や空海などが滞在していた。西安は、シルクロードの起点として世界的に有名であり、そのせいか、西欧系の観光客が多いようである。レストランなどでは彼らの団体が食事をしているのによく出会う。西安は、人口800万人の大都会で、国立大学が57校もあり、大学生が85万人もいるという。私達は、市内をバスでしか回らなかったので、街を歩いている人達には会う機会がなかった。歩くのは、観光施設の近くを歩くだけである。街に住む人たちの服装などの風俗に接することができなかったのは残念である。昼食後、空海が修行をした青龍寺の観光である。この寺は、唐の時代に廃寺になったが、日本の四国4県の援助で1973年に寺が再建された。そのため四国4県のゆかりの寺として、訪れる日本人が多いという。この寺は、四国八十八か所のスタートの0番地となっている。
 ツアーは、じゅうたんの店に連れていかれて、絹のじゅうたんの説明を受けた。大小のじゅうたんが展示され、絹のスカーフなども展示販売されていた。熱心な店員の説明を受けたが、誰も買う人はいなかった。ツアーの人達は、添乗員の指示を聞かずに勝手にその店を出始め、私も彼らについて外に出た。次の観光スポットは、大雁塔である。かっては西安のシンボルタワーとして、市内で一番高い建物(64m)であったが、ビルラッシュでその存在は薄れてしまった。この塔は、西暦652年に建てられたもので、当時の技術で7階建ての木造建物が建設されたとは、驚きである。現在、長い間の地下水のくみ上げで、塔は少し傾いている。これを元に戻すため、水を地下に注入しているという。果たして元に戻るか。希望者は30元払って、塔の7階まで登ることができるが、ツアーの2,3人が登っただけである。広い敷地内には一周する散策コースがあり、私を含めた他の人は散策をした。
 その日の夕食の会場は、大雁塔からバスで10分の所にある「徳発長」というレストランである。料理は餃子料理で、15種類の餃子が大皿にのせられて次々に運ばれ、私達はそれを珍しがって食べた。味は穏やかで、日本で食べる味と同じであるから、つい沢山食べてしまう。トマトが中に入った餃子は珍しく、これなら自分でもできると、島根県から来ていた夫婦の奥さんが言っていた。ツアーは、6時半にホテルに着いた。まだ外は明るかったので、私は散歩がてら近くの個人商店へ出かけた。これはミニコンビニのような店で、土産用に一箱13元の菓子箱2個を買った。ホテルに戻ってその箱を調べると、製造日が5月になっており、賞味期限の日付がなかったので、ゴミ箱に捨ててしまった。
 翌日はツアー最終日の移動の日で、早朝5時にホテルを出発、西安空港から上海空港へ。ここで羽田行のフライトへ乗り継ぎして、羽田に夕方5時に着いた。今回の6日間の中国ツアーは、行き帰りに2日を使うから、実質の中国での観光は4日間である。その4日を上海、北京、西安という中国の代表的な都市を見て回ったので、大変慌しかった。このツアーの添乗員は、三好さんという20歳代の女性であった。彼女は、東京の事務所でデスクワークをしていたが、添乗員の仕事を少し前から始めたという。22名の団体を若い女性が引率するのであるから、大変な仕事であろう。ただ、各都市ではベテランの男性ガイドが世話をしてくれたので、そのガイドと一緒の時は、三好さんは22名の人数確認が主な仕事になっていた。空港から飛行機に乗る場合も、色々な手続きはそのガイドがしてくれて、ゲートに入るまで面倒をみてくれる。今回のツアーでは、ツアーの参加者が荷物を盗られたとか、パスポートをなくしたとか、というトラブルはなかった。これは、三好さんにとって幸いであったであろう。帰りの上海空港では、羽田行の乗り継ぎのためのゲートがあり、セキュリティチェックなどがあった。この時、出国カードを見せなくてはならないが、そのカードをどこかに入れて、見つからないという人がいた。現地ガイドは当然いない。三好さんが一人で対応しなくてはならない。三好さんは、緊張した顔つきでその人と一緒にどこかへ行ってしまった。残された我々は、2人が帰るまでその場所で立ち止まらなくてはならなかった。20分ぐらいして、2人が戻ってきた。どのように解決したかは、聞かなかった。
 中国の通貨は人民元である。私は出国前、羽田空港の銀行で3万円を人民元に替えた。そこで100元の紙幣16枚(1600元)と、お釣りに1500円を渡してくれた。私は、中国でほとんどこの元を使わなかった。使ったのは、食事時のビール代、1本30元ぐらいで、羽田に戻って残った元は、1200元であった。これを再び円に換えて、17500円を戻してもらった。人民元の記号は¥であり、日本円も¥であるので、紛らわしい。人民元の英語はChinese yuanであり、このyuanのYが用いられて、¥としたのであろう。羽田から中国行の東方航空の機内には、席にショップの雑誌があり、商品の金額は数字の前に¥が付けられていた。最初は円かと思ってびっくりしたが、そのうち慣れてしまった。その雑誌の中に、京劇の人形フィギュアがあり、¥250で売られていた。私は、それを注文しようとしたが、東方航空のメンバーでないと売らないと言われ、断念した。
 私はこれまで17回の海外ツアーに参加した。その半分以上は、ユーラシア旅行社のツアーを利用してきた。ユーラシアのツアーは、15日間ぐらいの長い期間が多く、それだけゆったりした行程であった。ユーラシアの特徴は、添乗員がその日の詳しい行程をA4サイズの用紙に書き、翌日そのコピーを参加者に配ってくれることである。日記などにこの報告書を見ながら書くことができるので、私は大変重宝していた。今回のクラブツーリズム社は、このような報告は社員に義務付けていない。今回の添乗員の三好さんは、ツアーの最終日にA4の用紙の半分に5日間の行程を簡単に書いて、参加者に配ってくれた。これは簡単すぎて、ほとんど役に立たなかった。以前、同じクラブツーリズムのツアーで、ポーランドへ行った時、男性の添乗員が毎日の行程内容を詳しく書いて配ってくれた。これは大変役に立った。この男性は、この書類配布については、会社に内緒にしてほしい、と我々に言っていた。彼は、この行為が他の添乗員に広がると、毎日のように報告書を作成しなくてはならないので、添乗員の負担が増えるのではないか、と心配して、そのように発言したのであろう。
           2018.12.10
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春うらら、平成30年のこと
  今年、平成31年で平成が終わる。平成30年間のうち、平成元年から10年間は、私はサラリーマンであった。その後の20年間は無職で、年金暮らしであった。今年、年号が変わっても、この年金暮らしは続くであろう。無職の私は何をしていたかというと、趣味のテニス、油絵制作、陶磁器の絵付けをしていた。この絵付けをして制作した絵皿類は、250枚ぐらいになり、そのほとんどは希望者に貰ってもらった。絵付けのモチーフも種切れになり、今年の春には絵付けの制作は止めようかと思っている。その際、絵付けの道具である電気炉、絵具、教本などは不要になるので、全て希望者に無料で差し上げようと思っている。この雑記を読んでいる方で、希望される方がおられましたら、メールで連絡してください。電気炉は重くて、大きい(約70×70×70cm)ので、乗用車で引き取りに来られる方に限定されるでしょう。もし希望者がいなければ、メルカリなどで1000円ぐらいの値段をつけて、希望者を探すつもりである。絵付けを終えた月から、私のホームページの絵付け皿の全ての画像は削除する予定である。
 昨年は、30年以上も身に付けていた腕時計を新しいものに買い替えた。古い時計は、カシオの「プロトレック」という商品で、アウトドア向けの時計であり、一方新しい腕時計は、サムソンのウェアラブルPCの腕時計(スマホ時計ともいう)である。カシオの時計は、太陽電池で動き、表示はデジタルの数字で示される。時刻は定期的に校正され、常に正確な時刻を示してくれる。この時計には、高度計、気圧計、温度計、方向指示計、世界時計、ストップウォッチ機能が付いている。私がこの時計で重宝した機能は、気圧計であった。飛行機に乗って上空に上がると、機内は徐々に減圧される。この時、私の体内の気圧と機内の気圧に差が生じて、耳の鼓膜が外へ広がる。そのため、私は耳が痛くなり、聞こえ難くくなる。私はその対策として、気圧計を見ながら飴玉をしゃぶって、唾液を飲み込みながら気圧差を調整していた。機内の気圧は、地上の1010hPaから上空での約750hPaまで下がる。上空から地上に降りる際も、気圧差が生じるので、飴玉で気圧調整をしなければならない。
 私が50歳代、60歳代の頃は、このような飴玉をしゃぶって気圧差を調整する必要はなかった。最近は気圧差により、耳が激しく痛くなることがある。鼓膜の筋肉の弾力性が衰えて、元に戻そうとする力が失われたのであろう。つい最近では、飛行機で地上に降りて数日間は、耳の聞こえが正常に戻らなくなった。飛行機の利用はそろそろ止めにしたいと思っている。新しく購入したサムソンの腕時計は、「Gear S3 frontier」という商品名で、3.7万円で購入した。これは、内蔵のバッテリーを充電しなければ作動しない。1回の充電で4日は動く設計になっている。時計の表示板のデザインは5種類ぐらいあり、好みで選択できるようになっている。私は、アナログ式で針が動くタイプを選択した。この表示には、電池の消費量もアナログで示されているので便利である。消費量が10%になると、警告があり、省エネタイプに切り替えるように指示される。通常の表示はカラーであるが、省エネタイプは白黒で、ボタンを押さない限り時計の表示が出ない。消費量が5%以下になると画面が薄暗くなる。私は、夜間は腕時計を使わないので、電源をOFFにしておく。このようにすると1回の充電で1週間は長持ちする。
 このサムソンのウェアラブルPCの腕時計は、パソコンと同じ機能を持たせている。直径5cm弱の小さな時計にパソコンの機能が入っているとは、驚きである。この腕時計で私が一番気に入っているのは、ひと月単位のカレンダー表示である。私が会社勤めをしていた頃、職場に出入りしていた生命保険の女性がサービスとして、毎月の小さなカレンダーを我々に配っていた。それを腕時計のベルトに付けて、重宝していた。私が会社を辞めてそれが手に入らないと、不便なことがたまにあった。例えば今月の20日は何曜日かを知るには、大きなカレンダーを見に行かなければならない。サムソンの腕時計は、ボタンを3回押せばカレンダーを見ることができ、来月、来年のカレンダーも見ることができる。以前のカシオの腕時計では、温度計と方向指示計があったが、サムソンの時計にはそれはない。温度計があっても、体温の近くにセンサーがあるので、正確な気温は測定できないであろう。サムソンの時計にはGPS機能が付いている。タブレットにあるGPSであれば、地図を表示して自分が移動する経路を知ることができるが、時計には地図が表示できない。このGPSをどのように利用するか、私にはまだ判らない。この時計が誰かに盗まれた場合、その盗んだ人の居場所を突き止めることができるのであろう。一度試しに盗まれてみたい。GPS機能が働けば、盗んだ人を突き止めることができるが、そのような機能がなければ、時計を失ったままになってしまう。
 サムソンの腕時計には4GBのメモリーが入っている。これに音楽を記憶させれば、50時間ぐらいの音楽を入力することができる。これをブルートゥースを使って、ワイヤレスイヤホーンでその音楽を聴くことができる。音楽を入力するには、「Gear Manager」というソフトを使わなければならない。このソフトは、アップルのスマホ「iPod」にインソールできるということであったが、私の持っている「iPod touch」には入れることができない。サムソンのスマホは当然インソール出来るが、私はサムソンを持っていない。仕方なしにサムソンのスマホを買うことにした。メルカリでは中古のスマホを多く売っている。新しいサムソンのスマホは、9万円ぐらいであるが、4,5年前の古いスマホであれば、1万円前後で買える。長野県の人が、スマホ「GALAXY S3」を5500円で売っていたので、それを購入した。これは、電話機能のないスマホであるが、スマホの機能は正常に働いていた。これを使い「Gear Manager」をインソールして、腕時計に音楽を10時間分入力した。
 私は、庭ではイヤホーンを使って音楽を聴きながら庭仕事をする習慣がある。以前はデジタル音楽プレーヤを使ってワイヤー付きのイヤホンで聴いていたが、ワイヤーが仕事中絡まって、不便であった。ワイヤー付きのイヤホーンは今は少数派で、ワイヤレスイヤホーンが主流のようである。ワイヤレスイヤホーンは、ブルートゥース機能とバッテリーが内蔵されているので、値段は普通のイヤホーンの10倍の2万円以上である。バッテリーで作動する時間は短く、1回の充電で3時間が標準のようである。実際には、2時間半でバッテリーが切れてしまうようである。作動時間の長いワイヤレスイヤホーンをネットで探していたところ、サムソンの「Gear IconX」が1回の充電で5時間持つというのを見つけ、それを2.2万円で購入した。このサムソンのIconXには4GBのメモリーが入っており、ブルートゥースを使わずに内蔵のメモリーだけで音楽を聴くことがでる。その場合、作動時間は1回の充電で7時間である。私はスマホ「GALAXY S3」に入れていた音楽をブルートゥースを通じて腕時計の4GBのメモリーに入れた。
 ワイヤレスイヤホーンは耳穴に突っ込むだけであるから、何かの拍子に耳から外れて落ちることがある。サムソンのIconXには落下防止のため、ゴム製のウイングチップというものが付いており、これを耳の窪みに引っ掛けると、外れにくくなる。先に述べたサムソンの腕時計には10時間の音楽がメモリーに入っており、これをブルートゥースを通してサムソンのIconXで音楽を聴いてみた。確かに聞こえるが、ブルートゥースの電波が弱いせいか、腕を動かすと音楽が途切れることがあった。スマホのブルートゥースは、電波が強いのでそのような途切れはない。私は腕時計から音楽を聴くのをあきらめた。IconXのメモリーに入っている音楽は、安定して聴くことができる。しかし、聴きたい音楽を選ぶことができない。入力している順番に聴くか、あるいは一つ一つ飛ばして好きな曲を探して聴かなければならない、という不便さがある。スマホのブルートゥースを通じて聴く場合、スマホの画面に曲名などが表示されたり、選局が視覚でできるので便利である。音量も画面を見ながら調整できる。
 サムソンのスマホ腕時計には私の運動量を勝手に計測して、画面に知らせてくれる機能がある。この時計の中に加速度センサーやジャイロセンサーが付いており、私が体を動かして腕を動かすと、これらのセンサーが働いて、運動量の数字が積算される仕組みになっているようだ。私が1時間ぐらい動いていると、時計が振動を発して知らせてくれ、「お見事です」「グッド!」など、時計の画面に文字が出る。私がパソコンの前でしばらく座っていると、「体を動かしましょう」などの文字が出る。私は、「余計なお世話だ」と言いたいが、私の健康を心配してくれるこの時計は、有り難いとも思っている。この時計には心拍数モニターが付いているが、私は時計を腕に付けるとき、リストバンドの上に時計をつけているので、折角の心拍数は測定できない。この腕時計のWi-Fi機能では、当地の気象情報が表示される。当地とは、私が住んでいる福島県矢祭町小田川であり、その住所が表示される。私はこの腕時計に私の住所を入力していないのに、なぜ私が矢祭町に住んでいるのを、腕時計が知っているのか、不思議であった。これは、おそらくGPSの情報から地名を知ったのであろう。この気象情報には1週間の予報や、当日の黄砂情報、紫外線情報、乾燥情報などが表示される。このように、サムソンのスマホ腕時計はパソコン並みの機能が小さな体に入っており、私はその技術に感心している。昨年の11月から暮れにかけて、私は韓国のサムソン製品を3種類も購入して、すっかりサムソンびいきになってしまった。新しい年は、これらサムソンの仲間と親しく過ごすことになるであろう。
      2019.1.10
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庭木の剪定
  私は、18年前頃から、我が家の庭に植えた庭木を毎年剪定して、なるべく大きくならないようにしている。それらの庭木の中で、白樺、マロニエ、コブシは、18年間剪定せずに放置していた。この3本の木は、2階建ての屋根の高さまで大きくなった。これ以上大きくしては処置に困ると思い、短く枝を切ることにした。業者に剪定(枝切)を頼めば、1本10万円ぐらいはするという話を聞いて、私が切ることにした。私は、3mぐらいの枝が切れる「高枝切りチェンソー」を2万円で購入して、マロニエとコブシの幹の部分を切断した。このチェンソーは、100Vの電源で動き、先端に刃の付いたチェーンが電気モーターで回るものである。この先端は、重さが約3kgあり、ベルトを肩に掛けて作動させる。これは大変な重労働であった。切り落とした幹は、枝の部分を電動のこぎりで切り落とす。この「電動のこ」は、マキタ製の充電式で、太さ5cmぐらいまでの枝は簡単に切れる。
 自宅の周囲の町有地には、5本の桜を18年前に植えた。このうち、沢に沿った土地に植えた3本の桜は大きく成長し、このまま放置しておくと大変な大木になると思い、昨年2本の桜を根元近くから切り倒した。これらの根元の幹は直径25cmぐらいの太さになっていた。これをリョウビ製の「電動チェンソー」で切った。このチェンソーは、100Vで動き、直径30cmぐらいまでの丸太は切れる。桜の木の一つは、「みやび」という商品名で売られていた苗木で、沢沿いの腐葉土の豊富な土地で,ぐんぐん大きくなった。「みやび」は、今の皇太子妃、雅子様が結婚した記念に植木業者が名前をつけて売り出した桜の苗木である。これはピンク色の花が咲き、成長が早かった。この「みやび」の5m東側に、吉野桜の苗木を同じ時期に植えた。私は、この吉野桜を「みやび」の相手の皇太子の桜と考えて、植えたものである。これも成長がよく、みるみる大きくなった。私は、吉野桜を植えて5年後に、「みやび」の枝を切り、吉野桜の枝に接ぎ木をした。3年後ぐらいから、接ぎ木の枝からピンクの花が咲きだした。この花は、いわば「愛子」様である。
 吉野桜も根元から2mぐらい残して、幹をチェンソーで切り倒した。「みやび」を接ぎ木した枝は、切らずに残しているので、今年の春もピンク色の花が咲くであろう。これら2本の親木の桜は、幹から多くの小枝が出てきて、大きくなりつつある。そのうち小枝からも花をつけるであろう。沢のそばの森の近くには、しだれ桜を植えた。これも18年前に植えたので、高さ10mぐらいに大きくなっている。垂れ下がっている枝は3mぐらいであろう。毎年花が咲いているが、華やかな花ではない。あと2本の桜は、ピンク色の花が咲くもので、敷地の外の崖の中ほどに植えている。植えた土地が岩盤状であるので、成長は極めて遅く、枝切りの必要はない。庭の端には白樺をやはり18年前に植えて、今では高さ15m近くに大きくなっている。植えた場所が森の近くで、森に生えている広葉樹が高いので、白樺の高さは目立たない。これは切らないことにしている。しかし、いずれ切らなくてはならない時期が来るであろう。
 昨年は柿の実が成る年で、我が家の2本の柿の木から約50個の実が収穫できた。近所の人に少し食べてもらったが、20個ぐらいは森の中に放り投げて捨てた。鳥かリスかの食料になるであろう。昨年はどこの家も柿が豊作で、柿を貰ってくれないかと、時折頼まれたが、我が家も処分に困っていると言って断ってきた。この柿の木も大きくなりそうなので、真ん中の上に延びる幹を切って、横に広がるようにした。こうすると、柿の実を採りやすくなる。ブルーベリーは豊作ではなかったが、それでも3本の木から約3kgの実を収穫した。ブルーベリーは、冷凍して保存できるので、捨てずにすむ。冷凍した実は、1kg単位で、ブルーベリージャムにして、毎日ヨーグルトに混ぜて食べている。当地付近では、リンゴの栽培がおこなわれており、秋には土地のリンゴがスーパーなどで売られている。リンゴの木は、うまくすれば高い木にならないので、私は昨年秋、3本のリンゴの苗を買って植えてみた。3年ぐらいでリンゴの実が成るかと、期待している。
 以前述べたことがあったが、私は旅先で、木へんの付く木の名前の漢字が、日本手ぬぐいに印刷されたものを買ってきた。それをA4サイズの用紙に印刷して、トイレに張り付けている。私は、これを毎回便器に座って眺めて、時間をつぶしている。この漢字は120種類あり、それらを眺めていると色々面白い。木へんの漢字と言えば、梅とか柿とか桃などポピュラーなものも多くあるが、「せんだん」という木は知ってたが、この漢字が「棟」であるとは知らなかった。木へんに四季の春夏秋冬を付けた漢字には、椿、榎(えのき)、楸(きささげ)、柊(ひいらぎ)がある。これらの漢字で、椿以外はあまりなじみがない。東西南北はどうであろうか。東の棟(せんだん)、南の楠(くす)だけで、西と北はない。女が入った木の漢字では、桜と、「たらのき」(この漢字はパソコンになく、木へんに妥と書く)があるが、男が入った木の漢字はない。神仏では、榊(さかき)はポピュラーであるが、仏様はあるかと探してみると、しきび(この字もパソコンになく、木へんに佛と書く)という木があった。これは仏前に供える木なのであろうか。木へんの漢字を県の名前に使っている県は栃木県だけで、意外に少ない。字画数では、一番少ないのは朴(ほお)であり、最も多いのは「ゆずりは」という漢字の木で、木へんにくすり(藥)という字を書く。面白い漢字は色々あり、私はトイレの中で漢字の勉強をしている。
 平成31年1月26日、全豪オープンテニスで大坂なおみ(21歳)が優勝した。新年早々おめでたいニュースであった。NHKが全豪女子のテニスを放映していたので、私は準決勝のプリスコバ(26歳、チェコ)戦から、決勝のクビトバ(28歳、チェコ)戦まで見ることができた。真夏のオーストラリアでの試合は体力を要するであろう。21歳の大坂は、26歳のプリスコバ、28歳のクビトバより若いので、体力的に優位であったのか。大坂の身長は180cmで、日本の選手としては長身であるが、チェコの2人は185cmぐらいの長身である。長身の利点は、ボールを上から叩きつけたり、手足が長いのでコートサイドに入る厳しいボールを打ち返せることである。体格的に優位な2人に対して、大坂の優れた身体能力で、身長の不利さをカバーしていたようにみられた。準決勝の試合では、大坂は感情を時折顔に出していたが、決勝の3セット目の試合では表情を変えなかった。それは、3セットの途中のトイレ休憩で心掛けたマインドコントロールによるものであろうか。
 決勝進出を先に決めていたクビトバは、準決勝でプリスコバが勝てば、チェコ同士の決勝になると、プリスコバに期待していたが、そうならなかった。決勝戦が行われたのは、26日の土曜日であった。私は、いつも土曜日の午後7時半からNHKの「ブラタモリ」を見ることにしている。この日もこの番組を見ようとしていたら、NHKは急遽ブラタモリを中止して、全豪テニスの決勝戦を放映した。テニスは、スポーツとしてまだメジャーではないが、NHKの担当者はよほど興奮したのか、この決勝戦を放映した。大坂は、この優勝でテニスの世界ランクが1位となった。これは日本人初であり、大変な偉業であろう。政府は、国民栄誉賞を早いうちに大坂に差し上げた方がよい。大坂がケガでもして、敗戦が続けば、ランクは下がるであろう。大坂選手への国民栄誉賞授与は、今がチャンスかもしれない。
      2019.2.10
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パーツファニチュア
  パーツファニチュアという言葉は今はないが、50年前はこの言葉があり、商品も売られていた。現在では、これに相当するものは、システムファニチュアと言われている。これは、多種の組み合わせが可能な交換部品(ブロック家具)を生活に合わせて選択し、構成する家具である。パーツファニチュアは、このブロック家具をさらに分解し、平板から組み立てる家具である。私は、このパーツファニチュアを50年前、横浜高島屋で知った。私は、高島屋の売り場で係員から説明を聞いた後、係員がどのような家具を組み立てるか、設計図を出してくれと言われた。そのような大げさなものでなく、スケッチなら出せると言うと、それでもいいと言われた。後日、私が出したスケッチから、係員は平板(化粧板)の種類と枚数などを見積ってくれた。それを見ると、なんと20なん万円(詳しいことは忘れてしまった)であった。当時の20万円は、今では50万円ぐらいの価値であろうか。私は、今更断れないので発注した。岩手県の木工協同組合のようなところから、平板などが入ったパーツの段ボールがどっさり送られてきた。
 私が描いた家具のスケッチは、幅280cm、高さ220cm、奥行き33cmの大きな本棚で、その中にライティングデスクと2個の引き出しを付けたものである。当時、私は横浜市の公社が発売した3LDKのマンションを購入し、8畳のリビングにこの本棚を置こうと考えたのである。送られたパーツは、長さ73cm、幅33cmなど3種類の板、棚板、アルミ製のジョイントなどである。これらを組み合わせて本棚を完成させた。私はその後、住居を5回ほど変えた。転居の都度この本棚を分解して、板などをダンボールに詰めて転居先に送り、そこで再び部屋の大きさに合わせて、本棚のデザインを変えて、パーツファニチュアを組み立てた。仮住まいとか狭い住居では、ダンボールに入れたまま放置していたことがあった。
 現在の住宅では、2階の8畳の和室と、その続きの4畳大の広縁の2ヶ所に分割して、本棚を組み立てている。本棚の高さを1.3mに低くしているため、本棚の圧迫感はないし、部屋が広く感じられる。この二か所の本棚に、私の書物や土産の置物などを置いていたが、最近身辺整理をして、これらの書物は処分した。今、置かれているのは、妻の書類と置物などである。50年前に購入したパーツファニチュアの化粧板は、剥がれとか、破れは全くなく、50年前の状態を保っている。化粧紙の張り合わせに安物の接着剤を使えば、10年ぐらいで剥がれてくるであろう。このパーツファニチュアに使われている接着剤は、耐水性の良いフェノール樹脂系の接着剤であろう。アルミ製のジョイントに差し込むプラスチックは、硬くてしかもある程度の弾性が必要である。この素材は何であろうか。成形するのに0.1mm以下の精度を必要とし、その寸法の経時変化はほとんどないことが要求される。50年後も寸法の狂いはないのが、素晴らしい。私は、このような技術を50年前に完成させていた岩手県の木工技術に感心している。
 我が家で、30年来使っていたパナソニックのオーブンレンジが、とうとう使いにくくなった。このレンジには、スタートボタンなどの押しボタンが多く付いており、このボタンが長年の使用により、接触不良を起こしたようである。このボタンは、4,5回押さなければスイッチが働かなくなってしまった。このレンジは寿命がきたのだと思い、買い替えることにした。新しく購入したのは、シャープの電子レンジである。最近のレンジは、色々な機能、例えばスチームオーブン、ノンフライオーブンなどが付いている。値段も10万円以上もするものがある。我が家で使っていたオーブンレンジは、オーブンの機能が付いていたが、30年間このオーブンの機能を一度も使わなかった。これは自慢にもならないが、そのような機能を使う料理をしようとする気持ちがなかったためである。私はテレビの「小さな村の物語 イタリア」という番組を毎週見ているが、その中では食事のシーンが多く、料理をする場面も映される。そこではオーブンで調理するシーンが多い。日本では、オーブンを使う家庭はまだ少ないであろう。
 今度購入した電子レンジはオーブン無しの単機能電子レンジである。値段も1.2万円と手頃であった。加熱時間の設定は押しボタンでなくて、ダイヤル式であるから、故障は少ないであろう。電子レンジなどの扉の様式には、横開き型と縦開き型があり、販売店の店頭には横開きを多く置いていた。縦開きは少なく、なぜ横開きが好まれるのか、私は不思議に思っている。狭い台所では、縦開きは、開いた扉のスペースに皿などを置けるので、便利であろう。我が家で使っていた古い電子レンジは、ターンテーブルがあり、SWを入れるとテーブルが回る仕掛けになっていた。最近のレンジは、ターンテーブルがないのが多い。テーブルが回っていると、いかにも加熱が均一に行われている気がする。それがないと、隅に置いたものがしっかり加熱されているのか、不安になる。
 昨年の暮れ、10年以上使っていた電気湯沸かし器(ポット)も使えなくなったので、買い替えた。今までのポットは、象印製で、温度が設定でき、お湯の取り出しが電動ポンプでできるタイプである。これも押しボタン式のSWが接触不良になり、使えなくなってしまった。新しく買った電気ポットは、極めて簡単な造りで、SW類はなく、コンセントを差し込めば湯沸かしが始まる。お湯が沸けば、保温のランプがつく。ポットからのお湯出しは、空気圧により手で押して行う方式である。押すのに力がいるのが、電動式とは違うところである。このポットはメーカー品ではないが、おそらく故障は皆無であろう。
 我が家の朝食では、食パンを毎朝食べている。このパンは、パナソニックの「パン焼き機」を使って作る。このパン焼き機は一度に1.5斤のパンができ、このパンを夫婦2人で6日で消化している。このパン焼き機は、30年前に購入したもので、今まで一度も故障していない。このパンの仕込みは、メーカーのレシピに従って行っているが、小麦粉の一部約30%を米粉に置き換えてパンを作っている。米粉は、御飯用のお米をブラウン製の「粉砕機」で粉にしている。この粉砕機も30年以上使っているが、一度も故障を起こしていない。最近ではお米の代わりに玄米を使い始めた。
 話はガラッと変わるが、2月28日、米朝のハノイでの会談が不調に終わった。会談前の報道では、色々な合意がなされ、調印も行われるだろうと予想されていたが、会談は物別れに終わってしまった。この不調について、日本政府は歓迎すると言っているが、私には何故不調を歓迎するのかわからない。日本政府は、トランプ大統領がやることには、何でも同意することにしているのか。北朝鮮は、なまじっか核兵器を持っているので、経済制裁を西側から受けている。あっさり核を全面放棄すれば、経済制裁は解除されるであろう。会談が不調に終わった後の、テレビに映る金委員長の顔の表情がこわばっていたのが印象的であった。トランプ大統領の方も厳しい顔つきをしていた。我が家の大きなテレビの4K画面では、そのような顔の表情から彼らの心の内を想像することができる。
      2019.3.10
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磐梯熱海温泉
  磐梯熱海温泉は、福島県郡山市の西の端にあり、温泉地の地名は郡山市熱海町である。この地名の熱海は、奥州合戦後、この地の領主になった源頼朝の家臣、伊東裕長の出身地が、伊豆の熱海であったので、熱海としたと言われる。JRの駅名は、本家の熱海駅と間違えられるので、磐梯熱海駅とした。温泉名も磐梯熱海温泉とした。磐梯熱海温泉は、駅から離れた五百川沿いに20軒の温泉宿があるが、駅付近には5、6軒しかない。そのうちの有名なのは、「四季彩一力」というホテルで、1984年に天皇陛下も宿泊したという。このホテルは、秋篠宮殿下、イギリスのウイリアム王子も会食、宿泊したという名門のホテルである。
 2月は妻の誕生月で、毎年誕生祝に温泉に行くことにしている。今年は磐梯熱海温泉がいいということで、泊まりに行った。妻は和風の旅館がいいというが、私は畳に布団を敷いて寝るのは苦手で、ベッドのある部屋が好みである。この両者の望みを満足させる旅館を探したところ、萩姫の湯「栄楽館」という宿が見つかった。これは、JR磐梯熱海駅から歩いて3分のところにあり、7階建てのホテルである。予約した部屋は、和洋室で、10畳の畳の部屋にツインベッドが置かれている。続きの広縁は、床より40cm高くした畳敷きで、座卓が置いてあり、座卓の下は足が伸ばせるようになっている。この畳敷きに上がるのには一苦労した。真冬は掘りごたつにするのであろうか。大浴場もフロアーが畳敷きになっているが、これは本物でなく、プラスティックの畳であろう。滑りにくいのがよい。
 夕食は、和食のコース料理である。11種類の料理が並び、賑やかな夕食であった。広いレストランには日本人の客だけで、外国人と思われる人達はいなかった。磐梯熱海温泉は、外国には知られていないようである。国内でもあまり知られていない。福島県には温泉地が多いが、全国的に知られている温泉はほとんどない。先日新聞に、国内の行きたい温泉地上位20傑が載っていたが、そこには福島県内の温泉地はなかった。福島県は、外国からの観光客の誘致に力を入れているが、目立った効果はないようである。県内にはメジャーな温泉地はないが、温泉地の数は多い。この磐梯熱海温泉もその一つである。今回利用した「栄楽館」は、立派なホテルであり、源泉の温泉も良質であるが、ホテルの名前が分かりにくい。日本人にはホテルであることは分かるが、外国人には分からないであろう。何かの公共施設ぐらいに思われるかもしれない。名前を「ホテル栄楽」のように、ホテルを名称に付けた方がよい。私達が以前泊まったことのある磐梯熱海温泉、五百川地域の「ホテル華の湯」は、ホテルと名付けているので、分かりやすい。もっと分かりにくいのは、上にも述べた「四季彩一力」であろう。名前からすると、料亭の感じがするが、立派なホテルである。老舗のホテルだけあって、部屋の広さが60㎡ぐらいあり、その分料金も2食付きで26000円と、我々が泊まった栄楽館の2倍である。
 2月の妻の誕生月に続いて、3月は私の誕生月である。私達は、毎年どこかの温泉地に行っているが、今年は妻が昔の友人と横浜で会うというので、横浜のホテルに2泊することにした。横浜市内の私達の常宿は、桜木町付近のホテルである。今回はJR桜木町駅の隣のホテル、「ニューオータニイン横浜プレミアム」に予約した。楽天トラベルのhpでプランを探していたところ、1泊2食付きで1名、11000円の限定プランがあったので、それを予約した。プランの名称は、「感動夜景レストラン、サラダ&スイーツ付き『ヨコハマ下町ディナー』&朝食2食付」である。部屋は、30㎡の広さのツインルームで、ベイサイドにある。地方の温泉地では、2食付き宿泊料金は15000円ぐらいが普通であるが、都会のホテルで、2食付きでこのように格安の料金はないであろう。
 日曜日の当日、11時前に自宅を出て、JRを利用してホテルに16時前にチェックインした。ホテルが指定した部屋は1416号室であり、そこへ行くと部屋はツインベッドでなく、ダブルベッドで、しかもベイサイドではない。私は、楽天トラベルでツインベッドを指定したつもりであったので、フロントに確認して貰ったが、ダブルになっているという。私は、ツインの部屋はないかと聞くと、5000円(2泊2人)の追加料金を出せばあるというので、それに替えてもらった。その部屋は1603号室で、ベイサイドビューである。トラブルは、私の勘違い(クリック違い?)で生じたのだ。部屋の広さは30㎡で、4Kの大型テレビが置いてある。当日は春場所の千秋楽であったので、私達はテレビを見て、一休みした。6時前に、ホテルに接している「コレットマーレ」というショッピングビルの6階にある「横浜ブルク13」というシネマコンプレックス(シネコン)へ行った。明日午後、妻と私は別々に、ここで映画を見る予定にしているので、場所の確認のため出かけたのである。妻は「グリーンブック」、私は「ねことおじいちゃん」を見る。横浜ブルクのサイトには上映中の15種類の映画のスケジュールが記載され、それを見て映画を決めた。シネコンは、13の部屋(スクリーンと言う)が並んでいて、一つのスクリーンで時間により2種類の映画が上映されることがあるので、予め何を見るか決めておく必要がある。
 私達はホテルに戻り、3階の横浜港が見下ろせるカフェレストランで、私の誕生祝のディナーを摂った。料理は、プランの通り、メインディッシュの7種類の料理から1品を選ぶ。そのほかはビュッフェスタイルの料理(オードブル、サラダ、スイーツなど)を選んで食べる。メインディッシュは、私は「煮込みハンバーグ、ビーフシチュー添え」を、妻は「ポークソテーオニオンスープ」を選んだ。「ヨコハマ下町ディナー」と名付けただけあって、味は濃厚で、ボリュームがでかい。私は、全部は食べきれなかったが、スイーツはしっかり食べた。当日は、日曜日で春休み中であったので、このレストランは、家族連れで大賑わいであった。
 翌日、10時半にホテルを出て、京浜東北線に乗り、妻は横浜駅で降り、私は秋葉原駅で降りた。私は、自宅の自分の机に2台のPCを置き、目的に応じて2台を使い分けている。液晶モニターは1台を共用しているが、キーボードとマウスはそれぞれ1台ずつあり、そのため机の上は手狭になる。「USB切り替え器」というものを使えば、キーボードとマウスは各1台ですむ。私は、この切り替え器をネットで注文し、秋葉原のヨドバシカメラで店頭受取にしていた。この日、その品物を受け取りに行った。私は、序に秋葉原のパーツ屋を4、5軒見て回った。その後、東京駅近くの三菱1号館美術館へ行き、「ラファエル前派の軌跡展」を見る予定であったが、時間が無くなって、桜木町のホテルに戻った。「ねことおじいちゃん」は15時10分から始まるので、ホテルの部屋を15時10分前に出て、「横浜ブルク13」のスクリーン13へ入った。チケットは自分で画面を見ながら購入する。シニア料金は1100円である。このスクリーン13は客席が80ぐらいあり、その日の観客は約30であった。そのほとんどは中高年である。映画は、猫と、立川志の輔が演じるおじいちゃんの物語で、他愛のないストーリーであった。私は、NHKラジオの番組で、岩合光昭氏がゲストに出て、彼がこの映画を初めて監督として作ったことを聞いたので、この映画を知っていた。岩合氏の猫の写真は、猫の週めくりカレンダーを毎年買って、それをトイレに飾っているので、なじみがある。カレンダーに出てくる猫の写真の構図は、この映画の中にも似たような構図が頻繁に出ていた。
 この日の16時に、妻も「横浜ブルグ13」へ行き、「グリーンブック」を見てきた。ホテルに戻った彼女は、この映画はものすごく面白かったと言い、私にその映画の内容を説明してくれた。それによると、映画のストーリーは、黒人のピアニストが米国の南部に演奏旅行に行くために、白人の運転手を雇い、車で各地をまわった際の出来事をえがいたものである。ピアニストは教養があり、一方白人の運転手は教養がない。ピアニストは、運転手の汚い言葉使いを直してやったり、旅先から運転手の母親に手紙を書くのに、ピアニストが代わって書いてやったりした、などのエピソードが映画で映されていたという。アメリカでの彼らの現実の立場は逆のようであるが、これは実話のようである。この話を聞いて、私はこの映画を見たくなった。
 その日の夕食も、ホテルのカフェレストランで「ヨコハマ下町ディナー」を食べに行った。メインディッシュは、エビのフライとカニコロッケを選択した。この料理は、昨日の料理よりあっさりしていた。ビュッフェスタイルで並べられている料理(オードブルなど)を見ると、つい皿に色々入れて食べてしまう。私は、翌日自宅に戻って、体重を測ってみると、1kg増えていた。ホテルでの2日の食事で、1kg増えたが、これを元に戻すには、おそらく10日はかかるであろう。
      2019.4.10
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令和元年
  5月1日から新しくなる元号は、4月1日に発表される、というので、マスコミは元号の予想で大賑わいであった。テレビに出てくるゲストに、予想の元号を発表させたり、インタビュイーで町の通行人に問いかけたりしていた。1億総予想屋の感じであり、私も考えてみた。私の予想は、「共生」であった。これは、差別のない社会を目指すうえで、我ながらいい元号だと思っていた。また、「宇宙」という元号も未来志向で、いいのではないかと思ったりしていた。4月1日に、「令和」という元号が政府から発表された。漢字の予想では、安、永、久、天などが入った2文字になる、という予想が多かったが、これらの予想は外れて、令と和になった。令和はまだなじみがないが、そのうち馴染んでくるであろう。「令和」は、発音が柔らかく、優しい感じを与える。
 誰がこの元号を発案したのか、マスコミで話題になり、色々憶測された。政府はこの件はノーコメントで、発案者を公表しない。そのうち、国文学者の中西 進氏の名前がクローズアップされ、マスコミで騒がれた。彼もテレビに現れ、令和の由来などを説明していた。出典は万葉集であるというので、本屋では万葉集がよく売れたという。新元号が発表された当時、令和という名前を持った人をいち早くマスコミが見つけて、その人をインタビューしていた。その人は、鎌倉の商店街連合会の会長で、高橋令和(76歳)氏である。テレビでその人のインタビューを聞くと、場馴れしていない感じで、彼は何を話していいのか戸惑っていた感じであった。2,3日後、その同じ人が再びテレビに出てきて、インタービューで感想を喋っていたが、前とは違って、話し方が流ちょうになり、訓示風な発言もしていたのに、私は感心した。その後令和と言う名前の人がマスコミに次々に現れたようである。令和と書いて「よしかず」「のりかず」など100以上の読み方があるという。
 中には和令という名前を持つ人もあると言い、その人もテレビに現れた。和の字がついた名前は無数にあるであろう。令はそれより少ないと思うが、令子など昔から女性の名前にある。兄弟で「令和」と「平成」の名前を持つ人がいるそうで、これは珍しい。4月も半ば過ぎになると「平成最後の・・・」という言葉がテレビで多く聞かれるようになった。平成最後の花見、平成最後のホームラン、平成最後の日曜日、平成最後の火曜日、平成最後の1日・・など。いかにも平成が名残惜しそうな感じであった。これはおそらく平成の天皇が健在であるからであろう。昭和から平成にかわった時、このような昭和を惜しむ言葉はなかったであろう。当時、昭和から平成への移行は極めて短かった。今回の平成から令和までは、1カ月も時間があったので、「平成最後の・・」の言葉が連発されたのであろう。
 私は昭和の人間である。私は、昭和10年代から昭和が終わる昭和64年まで50年間の昭和を体験してきた。昭和天皇が昭和64年1月に崩御され、2月には平成になった。昭和天皇は、平成天皇のような国民に親しまれた存在ではなかったようである。戦前の昭和天皇は雲の上の存在であり、神のような恐れ多い存在であった。戦後、人間天皇として国民に接してきたが、その頻度は極めて少なかったであろう。そのため昭和を惜しむ言葉は少なかったようである。昭和の時代はテレビが普及し、皇室の映像を見て親しむチャンスは戦前に比べ多くなったが、それでも平成時代に比べると少なかった。私がテレビで昭和天皇を見て記憶にあるのは、天皇が大相撲観戦のために、国技館にきたときの映像ぐらいである。天皇は、取り組みが始まると、身を乗り出して観戦し、相撲の勝負が決まった時、手元のメモ(取り組み表?)に何やら書き込んでいた。その昭和天皇の姿は、庶民的であり、むしろ平成天皇より親しみがあった。私のそのような思い出も薄れてきて、私の昭和は遠くなってしまった。
 話は変わるが、先日、NHKテレビ番組の「ガッテン」で、幻視についての放送があった。幻視とは、視覚性の幻覚であり、幻聴などと同じ一種の精神障害現象である。テレビの制作者は、実際に幻視を体験した人の話を聞いて、コンピューターによるバーチャルリアリティー(VR)の映像を制作し、それをテレビで見せてくれた。部屋にいた人物が突然いなくなったり、現れたりする映像を見ると、気味が悪くなった。私は幻視の経験はないが、幻聴はたまにある。私は、青空文庫の小説を毎晩寝る前に読んでいるが、その中で芥川龍之介の「二つの手紙」という短文を読んだ。その中で、私という主人公(芥川氏?)がこの幻視を体験し、それが近所の人に知れ渡り、気味悪がられていた。この体験は、精神異常によるものではないことを知ってもらうために、彼は住んでいる地域の警察署長に、自分の体験を詳しく書いて、手紙として提出した。これが「二つの手紙」の内容である。そこでは、外国の事例を引用して、この現象は医学的に認識されているなどを記していた。警察署長に宛てた手紙には、自分が昼間、自分と同じ第二の自分が妻と並んでいるのを見た、などが詳細に記され、自分は決して異常な精神の持ち主ではないことを訴えていた。
 青空文庫に入力されている芥川龍之介の作品は全部で370もあり、作家の中で最も多い。370作品のほとんどは、メモリーにして3Kぐらいで、文庫本の10ページぐらいの短文である。彼は、雑誌社にこれらの短文を寄せて、生活の足しにしていたのであろう。彼は、長文の小説が書けなくなって、やむをえず短文を売る仕事をしていた。ある短文では、自分は売文屋だと自嘲していたことが書かれていた370の文章には、子供の芥川比呂志や当時の有名な作家、菊池寛、久米正雄、谷崎潤一郎などが出てきて、大正時代の文壇の色々な事情がよく分かり、興味深い。
 2019年5月1日から令和元年が始まった。新天皇の誕生を祝って、全国各地で色々な行事が行われた。昭和時代の5月1日と言えば、労働者の祭典、メーデーである。メーデーが盛んな頃、私は京都に本社がある会社に勤めていた。京都は共産党の勢力が強い地域で、ほとんどの会社の労働者はメーデーに参加していた。私も団結と言う赤い鉢巻を付けて参加した。平成に入ってメーデーのニュースは、いつの間にか消えてしまった。会社の労働組合も、加入者が少なくなり、名ばかりの組合も多くなったようである。昭和時代では、毎年の賃上げは大きなニュースとしてマスコミで取り上げられていた。現在では、政府や経団連などが賃上げを主導する状況になった。これは、昔では考えられないことである。
 今の高齢者社会で、高齢者は、この令和元年の派手な祝賀行事をどのような気持ちで眺めているであろうか。私は昭和から平成へ生きてきた。そしてこれから始まる令和の時代は、私にとって命が消える時代になるはずである。そのことを考えると、手放しに令和の祝賀ムードに浸ってはいられない。
       2019.5.10
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8年後の放射線量
  福島県の浜通りにある東電原発(東京電力福島第一原発)の事故から、今年の3月で8年目になる。地元の福島県内では、事故による放射線量に関心があり、NHKテレビの午後7時前の地方ニュースでは、毎日、県内各地の放射線量を発表している。私も毎日このデータを見ているが、数値の変動を見つけるのは難しい。NHKでは、県内各地の数値と、原発がある双葉郡の各町の数値を分けて発表している。これを見ると、明らかに双葉郡の数値が高いことが分かる。特に原発がある大熊町の数値は飛びぬけて高い。国が発表する放射線量は、その日の最大値と最小値を示しており、大熊町の最大値は8マイクロシーベルト/時(μSv/h)である。この値はここ数年ほとんど変わっていないようだ。県内各地の最大値は、大体0.08μSv/hであるから、大熊町の8という数値は他の地域の100倍の放射線量である。
 大熊町は今も帰還困難地域である。今年から、この町の一部の帰還が許可されたが、帰還した住民は少ない。私は、大熊町へ行ったことはないが、一度行ってみたいと思っていた。先月の新聞折り込みの広告で、「小名浜オーシャンホテル&ゴルフが、一泊二食付きで一人7000円の料金」という広告を見た。私は、これを利用して、ついでに大熊町を見てみようと思った。このホテルは、いわき市小名浜にあり、小名浜の海岸沿いにある。温泉の大浴場から太平洋が眺められるのが「売り」のようである。私が住んでいる矢祭町から小名浜へ行くには、車で阿武隈山系の山を越えて行かなければならない。山を越えるには、2ルートあり、一つは国道349号を通るコースと、もう一つは隣町の塙町から県道27号を経由するコースである。県道27号は、川沿いの道であり、比較的アップダウンが緩やかであるから、私はこのコースを選んだ。
 私達は5月12日に自宅を車で出発し、塙町から県道を通り、浜通りへ向かった。小名浜には、「アクアマリンふくしま」や「いわき・ら・ら・ミュウ」があり、以前一度行ったことがある。今年、その近くに「イオンモール小名浜」ができて、賑わっているという。「アクアマリンふくしま」は、東北最大の水族館であり、「いわき・ら・ら・ミュウ」は、いわき市の観光物産館で、海産物の販売や食堂がある。東日本大震災で、この建物の1階部分が壊滅的な被害を受けたが、その後すぐリニューアルオープンした。私は、震災前の施設には行ったことがあるが、復興後の施設にはまだ行っていない。イオンモール小名浜は、「いわき・ら・ら・ミュウ」の道路を挟んだ北側に造られた。私達がこのイオンモールに着いたのは、午後1時頃で、イオンモールの数か所の駐車場に入ろうとしたが、全て満車であった。「いわき・ら・ら・ミュウ」には、広い駐車場がある。「いわき・ら・ら・ミュウ」の建物の近くは空いているが、イオンモールの近くは多くの車が駐車していた。
 私達は、イオンモールで昼食と買い物をして、そこから車で10分ぐらいの所にある小名浜オーシャンホテルに、3時前にチェックインした。指定された5054室は、海側のテラス付きの広い部屋で、リゾートホテルの雰囲気である。大浴場は地下3階にあり、そこはゴルフのプレイヤーが出入りするところである。私が5時頃大浴場に行くと、20人以上の人達が入浴していた。彼等はゴルフが終わって、汗を流すために温泉に入ったのであろう。彼等は、仲間同士で賑やかに話しをしていた。私達は、翌日10時半にチェックアウトして、車で国道6号線に入り、北上した。福島原発の近くを通る道は、国道6号と常磐自動車道だけが通行を許可されている。6号線は、四倉町、広野町、楢葉町、富岡町、大熊町を通って相馬市へ抜ける道である。楢葉町あたりから、6号線を通る車は極端に少なくなった。工事用のダンプカーが時折通るだけである。この辺りからバイク、自転車での走行は禁止されているし、歩行はできない。6号から左折、右折する道路にはバリケードが置かれ、入れないようになっていた。道路から見られる民家は、軒並み人が住んでいない雰囲気であり、異様な感じを受けた。
 私達は、休憩のため、6号線沿いに新設された「ならはPA」に立ち寄った。楢葉町は3年前に避難指示解除区域になっていたが、この「ならはPA」は去年新設された。6号線を通る車は少ないせいか、このPAの駐車場には車が4、5台しか止まっていなかった。今度の旅行で、私は、岩崎通信機KKの携帯型放射線量モニター(SV-2000)を持ってきた。このPAの敷地内の芝生の上で、空間放射線量を測定してみると、0.19μSv/hであった。このPAを新設する際、土地の除染も行っていたはずであるが、一般の放射線量の約0.08に比べると、線量は2倍の数値であった。PAを出て、原発の敷地近くを走るようになったので、私は各所で放射線量の測定を行った。6号線の楢葉町手前の広野町の道路沿いでは0.20μSv/hであった。さらに6号線を北上し、帰還困難地域の大熊町に入り、6号線沿いの草むらでは、1.28μSv/hであり、さらに線量が高くなっていた。私は、6号線から常磐自動車道の大熊ICに行こうと思って、近くの「東大和久」という交差点を左折しようとしたが、ここにはバリケードがあって、左折できなかった。次の交差点は左折可能であったので、左折し、大熊町内の道路を走った。途中、道路際の空き地に車を停めて、草むらの上、1mの放射線量を測ると、4.57μSv/hであった。帰還困難地域だけあって、放射線量は通常地域の約50倍の線量である。
 4.57μSv/hを測定した場所は、事故のあった福島原発から5kmぐらい離れた所である。事故から8年経っているが、今も高濃度の放射線が空気中を漂っているのは何故だろうか、という単純な疑問が生じた。事故時、高濃度の放射線が一度に放出され、それが付近の山野に降り注いだ。それが今も空気中に放出されているのか。あるいは今も原発から放射線が漏れて、風に乗って付近にばら撒かれているのか。おそらく両者であろう。原発の近くを通る6号線は、除染工事や復旧工事のため、特別に通行が許可されている。一般車は、本来なら走行できないが、工事車と区分けするのが不可能であるので、走行を見逃しているようである。原発付近を通る6号線と常磐道には、大きな看板に、現在の空間放射線量の数値が表示されていた。それらは0.1μSv/hであったが、地上近くで測定すると、おそらくその倍ぐらいの数値であろう。国は、人の放射線被ばく許容量を0.23μSv/hと設定しており、0.1~0.2μSv/hは安全な数値であろう。
 原発事故による放射線の大気汚染と原子爆弾による放射線の汚染は、放射線の種類は異なるかもしれないが、放射線汚染は同じである。原爆投下の長崎、広島と原発事故の福島は、放射能に関しては同類の被害を受けた地域である。昭和21年、私は、家族と一緒に台湾から引き揚げて、和歌山県から福岡県へ行く途中、列車で広島県を通った。一時停車した広島駅では、私は、原爆を受けた建物の残骸を汽車の窓から見た記憶がある。当時、駅付近でもかなりの放射線が漂っていたと思われる。今回私達は4.57μSv/hの空気の中を一時的に通過した。私は今回の旅行で75年ぶりに放射線を浴びたことになる。放射能を浴びても、放射能は見えないし、臭いもないので、特別の体感はない。それが放射能の恐ろしさであろう。
       2019.6.10

  原発事故8年後の各地の放射線量測定結果
       測定器は Iwatsu sv-2000、 地上約1mの空間で測定

    日付            測定場所                  測定値(マイクロシーベルト/h)
 2019.5.12     いわき・ら・ら・ミュウ 駐車場 花壇                0.034
 2019.5.13     小名浜オーシャンホテル、ゴルフ場グリーン上         0.05~0.08
    〃         国道6号沿い 広野町                       0.20
    〃           〃      楢葉町                       0.19
    〃           〃      ならはPA                     0.19
    〃           〃      大熊町入口                    1.28
    〃         国道6号から左折、西へ約500m先の草むら(大熊町)    4.57      
 2019.5.29     矢祭町、自宅隣の草むら                      0.06

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寅年
  私は、今年で7回目の寅年を迎え、3月の誕生日で84歳になる。年をとって困ったのは、2年前からの右ひざの痛みである。病院へ行き、膝のレントゲンをとって貰った。その写真を見せてもらったところ、骨同士が接触して、そのために痛みを感じるのだと、医者から説明を受けた。軟骨成分が減ったためであろう、ということであった。市販のグルコサミン、コンドロイチンなどの飲み薬を飲んできたが、痛みはやや収まったように感じているが、右足に体重をかけた時、やはり痛い。
 私は、テニスを60年来楽しんでいるが、テニスは足を瞬発的に使うスポーツである。膝の痛みは、テニス運動にとって致命的であろう。つい最近まで、私は、テニスのスポーツ教室に週2回通い、その他週1回は仲間とテニスをやっていた。教室のテニスコーチは、私の膝の痛みを考えて、球出しのボールを遠くへは出さず、あまり走らなくてもよい所にボールを出して、私に気を使ってくれた。スクールではダブルスの練習試合がある。私のポジションは、いつも左サイドの前衛だけにしてもらい、なんとか試合をしているが、相手から前の方に球を出されると、私は全く打てない。ダブルスのパートナーには迷惑をかけていた。今年からテニスを週1回にした。しかし、これもそのうち止めないといけない日がくるであろう。私が通っているルネサンス棚倉は、テニス教室のほかに、フィットネスジムがある。私は、そこに週1回通うことにした。
 この歳になると、体力が衰えてくる。私は、20年前から健康保持あるいは体力保持のために、自宅で体操を始めている。朝食前、庭に出て、1本4kgの鉄アレイを両手に持って腕、肩を鍛えている。以前は縄跳びを50回行っていたが、面倒になり、それを止めた。その代り、両足をそろえて飛び上がる(跳躍)ことを50回行っている。飛び上がると言っても、地面から2、3cmの高さである。私の体重は66kgであり、これが両足にかかるので、片足が33kgの負担である。最近では速く歩くのができなく、よたつくことも多くなった。私は、これではいけないと思い、足踏み前進運動を始めた。これは、片足に全体重66kgがかかるので、膝への負担が大きいが、我慢して行っている。
 部屋の中での体操は、2階の4畳の広さの縁側で、CDを聞きながら毎日行っている。CDは、30枚のイージーリスニングクラシックCDを毎日1枚ずつ聞いており、その曲の途中から体操を行っている。体操は主に下半身の屈伸運動とストレッチである。背骨のストレッチも行っており、背骨が曲がらないように気を付けている。
 私は、3月の誕生日で、運転免許証の更新を行わなければならない。妻は昨年、免許証の返納を行った。車の運転は、日常の買い物には欠かせない。近くのスーパーまでは、歩いて40分ぐらいかかる。車がなければ、タクシーを利用しなけらばならない。75歳以上の運転免許証更新では、認知機能検査と高齢者講習を別々の日に検査場(棚倉自動車学校)で受けなければならない。認知機能検査は、主に記憶力の検査で、オルガンとかベッドなど16種類のイラストをプロジェクターで見せてもらい、後で何が描かれていたかを思い出して、それを書くのである。すぐに書けと言えば、記憶に新鮮だから書けるが、別の問題、例えば今日の日付を書けなどをやらせた後、イラストが何であったかを書かせる。時間がたつと記憶が薄れる。その記憶力の薄れ具合を調べる意地悪なテストである。この認知機能検査では、私は98点をとった。イラストの「ペンチの絵」が思い出せなかった。75点以上が合格であり、私は以前は80点台であったが、今回は高得点であった。これは、監督者が色々ヒントを言ってくれたおかげであろう。6名の受講者は全員合格であった。
 別の日に高齢者講習があり、前と同じ6名が受講した。6名の中に90歳の元トラック運転手がいた。彼は、90歳ながら、かくしゃくとしており、私は彼を見て、まだまだ車の運転ができるのだという元気を貰った。この高齢者講習は、県内の交通事故の実態や交通規則などを教える講義であり、その後、車による走行の試験がある。一般の免許を受ける実地のコースを運転させて、問題がないか調べるものである。我々は、正式の免許用のコースを走るのではなくて、コースをぐるぐる回るだけで、クランクとかバックによる車庫入れなどは行わない。信号の一旦停止と車線変更、右折、左折だけである。これには全員合格し、「運転免許取得者教育終了証明書」をもらった。3月に、これを持って警察署に行けば、免許の更新ができる。

      2022.2.10
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北京オリンピック
  冬季の北京オリンピックが2月20日に終わった。参加した日本の選手は大活躍し、メダルの総数は今ままで最も多く、18個であった。金メダルは3個で、これは、ノルウェーの16個、ドイツの12個、中国の9個には及ばないが、世界で12番目の数である。イタリアと韓国は、それぞれ2個の金メダルであった。金銀銅の総メダル数では、ノルウェーが37個、次いでドイツが27個で、日本の18個は、世界で6番目の数である。冬のスポーツでは、ノルウェーが圧倒的な強さを示した。
 このオリンピックの期間中、私はテレビで色々な競技を見た。特にNHKは競技の中継が多く、おかげで色々な競技を見ることができた。私は、ジャンプして飛び上がる競技が色々あることを、初めて知った。スキーを履いて飛び上がる競技には、ハーフパイプ、ジャンプのラージヒルとノーマルヒル、フリースタイルスキーのハーフパイプ、ビッグエアなどがある。スノーボードを履いて行う競技には、ハーフパイプ、ビッグエア、パラレル大回転などがある。これらの主な競技を下の表に記して見た。ハーフパイプは、空中で3回転などして見せる競技であり、テレビのスローモーションでその難しさ、危険な状態がよく分かった。スキーを履いて飛び上がり、回転して着地するビッグエアは、着地に失敗する選手も見られ、危険な競技である。このような競技は、子供のころから練習して、その感覚を体に覚え込ませないといけないであろう。
 
  表 空中で回転する主な競技
    フリースタイルスキー(2本のスキー板を使う競技)
       エアリアル(小さなジャンプ台から飛び上がり空中で回転)
       モーグル(小さなこぶを滑り降りて、途中にあるジャンプ台を空中で回転)
       ハーフパイプ(大きなパイプを半分にした内側で飛び上がり回転)
       ビッグエア(ジャンプ台から飛び上がり空中で回転)
    スノーボード(短い1本のスキー板を使う競技)
       ハーフパイプ(上のハーフパイプと同じ)
       ビッグエア(上のビッグエアと同じ)

 スキージャンプは、ノーマルヒルとラージヒルがあり、飛んだ飛距離を争う競技である。日本女子のエース高梨沙羅選手は、大ジャンプを成功させたが、スーツの規定違反で失格した。スーツの規定違反とは、スーツのサイズが体に比べ規定より大きかったことをいう。これはスーツを大きくすると、空中を飛ぶとき、浮力がより大きくなり、遠くまで飛べる。ジャンプの着地点は定点があり、それ以上遠くへ飛ぶのは、危険であるとされている。このジャンプでは、危険防止のためスーツを大きくしないように決められているのであろう。今後の安全のため、高梨選手に対して失格としたのは妥当であろう。スーツを設計縫製したのはスタッフであり、高梨選手には落ち度はない。スタッフは、高梨選手に勝たせるために、このような細工をしたのかもしれない。
 オリンピックの最初の競技はフィギュアであり、日本選手は活躍した。高得点を得るには、ジャンプして何回も回転する技である。これをテレビで見ていても、何回回転しているか、よく分からない。テレビはスローでこれを見せてくれるが、簡単には回数を数えることはできない。解説者がこれを説明するので、納得する。昔活躍したフィギュアのメダリストがこの解説に出てくる。彼女らの懐かしい顔が見られて楽しい。羽生結弦選手は、逆転をかけて高難度の回転を試みたが、失敗に終わり入賞しなかった。
 スピードスケートでは、高木美帆選手が金メダルのほか、3個のメダルを取り大活躍。姉の高木菜那選手は、2種目の競技に出たが、2種目ともレース途中で転倒、メダルを逃した。この姉妹が並んでいる姿をテレビで見たが、妹の方が背が高く、姉は小柄であった。背の高さが上の子が低く、下の子が高いのは世間一般では通常のようである。最初に生まれた子は、親から期待も大きく、その分、子にはストレスとなり、背が伸びなかったのであろう。2番目の子は、そのようなストレスもなく、のびのびとしていたから、大きく育ったのであろう。
 オリンピック終盤の競技は、カーリングである。ここで、日本は銀メダルを取った。日本選手の5人のチームは、和気あいあいとした雰囲気がテレビを通して感じられた。彼女らの表情は、豊かで、悲しい時は泣き、うれしい時は笑い、その姿がテレビに写しだされていた。私は、最近若い女性の顔を見たことがない。テレビでは、コマーシャルやニュース番組で女性の顔を見ることはできるが、ほとんど厚化粧をした顔である。スキーなどの選手で、出てくる女性の顔は、化粧をしていない素顔である。テレビを通じてであるが、久しぶりに若い女性の素顔を見ることができた。これもオリンピック中継のおかげである。ありがとう。

      2022.3.10
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カタカナ語
  ひと頃よく使われたカタカナ語に、ジェンダーという言葉がある。ジェンダーとは、一般社会での男女の差別、格差をいう。男女の性差に、差別はないのは当然であろう。日本では男尊女卑の風習が昔からあった。ジェンダーは、この生物的な性の差異ではなく、社会生活での男女格差である。企業組織において、職制の差別が男性優位で、女性は低く見られていた。これは、日本では特に多い。女性だから管理職になれないという習慣はあったようである。現在では、それはかなりなくなっているようである。最近では、大学の女性の教授がよくテレビに出てくるのが見られる。この言葉に関連して、「ジェンダーレス」という言葉がある。これは男女の格差をなくそうと言う意味である。「ジェンダーのない社会」を目指そうという、共産党のポスターが貼られていたのを、私は覚えている。
 「ジェンダー平等」という言葉が、時折新聞に書かれるようになった。これは、SDGsの中の目標5で、「ジェンダー平等を実現しよう」という言葉に使われている。これは、ジェンダーの意味を上に述べた、男女格差の意味からすると、ぴったりしない使い方だと、私には思われる。格差を平等にしようというのは、格差があるのを前提にしているようで、格差を認めている感じがする。はっきり「男女平等」という言葉を使えばよい。男女平等は古くから使われているので、スマートでないと関係者は思ったのであろう。男女をカタカナで表すと、マン、ウーマンとなり、これではやぼな表現になる。そこで思いついたのが、ジェンダーであろう。ジェンダーを男女という意味に使えば、簡単であるが、ジェンダーの解釈が広くなる。上に述べたジェンダーレスの社会という言葉は、「男女のない社会」になり、これはおかしい。
 「プロパガンダ」というカタカナ語について。このプロパガンダは、プーチンによるウクライナへの侵攻戦争で、ウクライナの高官が時折使っていた言葉である。これは、日本ではあまりなじみのない言葉であるが、特定の思想や行動へ誘導する行為であり、政治宣伝とも言われている。私が二十数年前、まだ会社勤めをしていた頃、大学でたての若者がこの言葉を得意になって使っていたのを思い出す。彼は、商品の情報などについて、このプロパガンダという言葉を使っていたようである。当時の私は、この言葉は初耳で、理解できなかった。私は、その若者にこれはどういう意味か聞きたかったが、恥ずかしくて聞けなかった。
 「デフォルト」という言葉は、一般社会ではなじみのないカタカナ語であるが、経済社会では比較的多く使われている。デフォルトが新聞記事に載ると、「債務不履行」という説明がカッコ付きで示される。一般的には、直面した義務を放棄するという意味にあるようである。ウクライナ問題で、このデフォルトを新聞記事に見かけたことがある。
 コンピュータでは、このデフォルトはよく利用されている言葉のようである。私はこのデフォルトの意味が分からなかった。調べてみると、初期設定だという。私のパソコンでGoogleの画面を出すと、「デフォルトのブラウザとして設定されていない」とか、「デフォルトとして設定」の表示が出て、私はこれを無視していた。正式には、デフォルトは、「予め数値などを設定することで、未入力によるシステムの誤操作を未然に防止する形態のこと」としている。このように説明されると、ますます分からなくなる。単に「初期設定」といえば、納得する気がする。
 時折見る言葉で「アジェンダ」がある。私は全く知らなかったが、これはラテン語で、実行に移されるべき事柄とある。これは、日本ではなじみのないカタカナ語であろう。「サブスクリプション」も分からない。これは、定期購読、継続購入という意味で、英語圏では新聞、雑誌の定期購読などに古くから用いられている言葉のようである。私の分からない言葉に「サムネイル」がある。これは、親指の爪の意味で、画像や印刷物ページなどを表示する際に、視覚的に認識させるために縮小して見せる見本、記号のことである。よく見ると、パソコン画面にはこのような記号はそこらじゅうにある。改めて「サムネイル」と書かれると、なんだろうと思うのである。

      2022.4.10
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2022年春の庭
  3月の我が家の庭に、多くのウメノキゴケが発生していた。調べてみると、ウメノキゴケは、地衣類の一種で、樹皮や岩に着生するといわれる。苔にも色々あるようで、普通のコケは、湿気の多い所に繁殖するようであるが、このウメノキゴケは、乾燥を好むらしい。そういえば、今年2月から3月にかけて、当地では雨の降らない日が続いた。そのため、このウメノキゴケが繁殖したのであろう。庭に植えてある梅の木やつつじに、ウメノキゴケがびっしり付いていた。弱った木にも付くようで、枯れかかった木の幹にも多く見られた。
 このウメノキゴケを駆除する方法はないか、ホームセンターの担当者に聞いてみると、酸類に弱いと言っていたので、木酢液を買ってきて噴霧した。これはすぐには効かない。木の枝にびっしり付いている小さい円盤状のこのコケは、気になるので、手で剥がすことにした。金属製のへらでこすり落とした。細い枝に付いたコケは、落とすのが難しいので、枝ごと切り落とした。このウメノキゴケは、田舎で多く見られ、都市部では発生しないと言う。これは、ウメノキゴケが排気ガスに弱いためであり、大気汚染の指標にもなっているそうだ。我が家でウメノキゴケが発生するのは、空気がきれいな証拠であり、有り難いことだと思わなければいけない。
 冬の枯れた土から一番に芽を出してくるのは、クロッカスである。例年の事であるが、クロッカスが成長して、花を咲かせると、ヒヨドリがやってきて、その花びらを食べてしまう。ヒヨドリが来ないように、クロッカスの上にネコの形をしたものをぶら下げているが、効き目は全くない。ヒヨドリは黄色の花びらが好きなようである。黄色のクロッカスの後から咲く、白色の花びらや紫の模様の入った花びらは、ヒヨドリは食べに来ないだろうと思っていた。しかし、いつの間にかそれらも食べられてしまった。クロッカスには災難である。花がなくなった後のクロッカスの葉は元気で、養分を球根にたくわえ、来年に供えているのであろう。ヒヨドリは、来年のクロッカスの花を元気に咲かせるために、花びらを食べているように思える。
 クロッカスの花が終わると、スイセンが咲き始める。スイセンは、放っておくと球根を増やし、それに応じて花も多く咲かせる。スイセンより少し遅れて、ムスカリが咲き始める。ムスカリは種が飛んで増えていくのであろう。庭はムスカリの紫の花で賑わう。スイセンやムスカリはヒヨドリの被害を受けない。この時期には、レンギョウが咲き始める。レンギョウは、成長が速く、どんどん枝を伸ばし、大きくなる。黄色い花が枝一杯に付き、遠くからよく目立つ。挿し木で簡単に増やせるので、我が家のフェンスの外(町有地)に6本植えており、毎年賑やかである。レンギョウの近くにユキヤナギを植えており、ユキヤナギの白とレンギョウの黄色が塊となって初春を彩る。
 桜の木は、フェンスの外側に5本植えていたが、大きくなりすぎて、困ったので、幹を切った。そのうちの2本は、業者に頼んで切ってもらった。フェンスの外側に、しだれ桜も1本あったが、太い幹を切って、横から生えている太い枝だけを残した。この枝は、我が家の庭に上から入っている。この春は、このしだれ桜の花が多く咲き、庭を賑やかにしてくれた。
 春先にはウグイスが鳴き始める。春の始めころ、ウグイスは、正当的な「ホーホケキョ」の鳴き方はできないようで、「ホーケキョ」などと鳴く。そして、次第に自信のない声で小さく、「ホーホケキョ」と鳴く。そのうち何処で覚えたか、「ホーゴキブリ」と鳴くウグイスが現れた。この「ゴキブリ」の声は、早口で、可愛らしく聴こえる。鳴きやすいのか、ウグイスは自信を持って鳴いているようである。「ゴキブリ」は何処で覚えたのであろうか。南から引っ越してきた家族の荷物の中にいたゴキブリを、子供が見つけて、「ゴキブリ」と叫んだ。それを、近くにいたウグイスが聞いて、覚えたのであろう。
 我が家にはムカデは時折現れるが、まだゴキブリはいない。以前住んでいた横浜の家には、ムカデやゴキブリが、家の中に多く入り込んでいた。私は、「ゴキブリホイホイ」を買ってきて、ゴキブリが出そうな所に置いていた。矢祭の当地では寒さのせいか、まだゴキブリを見たことがない。しかし、地球の温暖化が進み、我が家にもゴキブリが現れるのは、時間の問題かもしれない。

      2022.5.10
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ウクライナ戦争
  ここで言う「ウクライナ戦争」とは、2022年2月24日にロシアがウクライナに攻め込み始まった、ロシアとウクライナとの戦争を言う。戦争が始まって3ヶ月以上経っており、その戦争によるロシア側の兵士の死者は、ロシア国防省によると2万3000人と言われている。一方、ウクライナ側の兵士の死者は2500~3000人としている。ロシア側の数字は政治的意図があると思われるので、信用できないであろう。一方、ウクライナの兵士の死者はさらに増えると思われる。5月10日の国連発表によるウクライナの民間人の死者は、3000人を超え、さらに数千人を上回るという。
 ウクライナのマリウポリ市での攻防はニュースで大きく伝えられていたが、5月23日の時点でロシア軍がマリウポリを制圧したので、そのニュースは入らなくなった。マリウポリ市には大きな製鉄所が2箇所あり、そのうちアゾフスタリ製鉄所がニュースに度々でた。ここは、ソ連時代に建設された巨大施設であり、特に敷地内には、核攻撃を想定した地下6階のトンネルなどを備えた要塞がある。この要塞は、診療所や居住空間など完備され、4000人が収容できるように水や食料が備蓄されている。
 当初、この地下要塞には多くのウクライナの民間人が戦火を避けるため入ってきた。ウクライナ側の発表では1000人が避難しており、その様子がSNSの動画で報道されていた。暗い中、赤ちゃんや小さな子供が映されていた。この民間人は無事に救出されるのだろうか、心配された。国連とロシア側の話し合いで無事救出された。その人数は250程度であると言われる。1000人の数字は誇張された数字なのか。世界の同情を得るための数字であったと思われる。民間人が救出された後、ウクライナ兵がその地下に多く残され、その命が心配された。
 その後、ウクライナ大統領は、地下にいるウクライナ兵士の義務は終わったと発表した。彼らはロシア兵により捕虜としてロシア側に連れていかれた。その数は500人と言われる。マリウポリ市長の顧問は、5圧24日、3ヶ月の戦闘でマリウポリの住民、2万2000人が死亡したと報道した。この戦争は終結するのだろうか。ウクライナは西側の援助を受けているので、負けたとは言えない。ロシアも負けたとはメンツがあるので言えない。結局、第三者を交えた両者の話合いになるであろう。
 ロシアを避難する声は各国で聞かれる。日本も経済制裁などをしてロシアを避難している。先日の新聞で、ロシアは以前の日本と同じようなことをやっているという内容が載せられた。これらは、新聞のコラム欄と読者の投稿の2件であった。私に言わせれば、今のロシアと日清戦争の日本は、戦争の事情が異なる。以前の日本は、当時朝鮮の皇帝からの依頼で、当時朝鮮半島を支配していた清国陸軍と戦って、勝利した。ちなみにこの戦争で日本軍の死者は1万3千人と言われる。戦争の結果、日本は朝鮮半島と台湾を植民地として統治した。
 ウクライナ戦争では、ロシアは、かってロシアを中心とした旧ソ連の構成国の一つであったウクライナを取り戻すために、侵攻したと弁明している。今のロシアと日清戦争の日本とは、事情が全く異なるので、比較はできない。戦場でのロシア兵士のウクライナ民間人に対する殺害は、マスコミで報道されているように悲惨なものである。日清戦争時代の日本兵は、民間人に対する略奪などの行為は軍律で禁じられていたので、皆無と思われる。しかし、一部の日本兵は民家に入って食料調達などが行われていたという情報もあったようである。
 太平洋戦争の末期、アメリカ軍が沖縄に上陸して日本軍と戦った沖縄戦では、今のウクライナ戦と似たような状況が展開されたと思われる。この戦争では、3ヶ月の短期間で沖縄の民間人が9万4000人殺された記録がある。アメリカ兵は、現在のロシア兵がしたような、民家に入って食料の略奪、電気製品の略奪そして住人の殺害は、しなかったようである。アメリカは、他国の領地(沖縄)に入って戦争を行なったので、現在のウクライナ戦争のロシアと似ている。76年前のアメリカは、今のロシアと似たようなことをやっていたわけだ。
 太平洋戦争で死去した日本の民間人は、50~100万人という記録がある。戦争で犠牲になるのは、無防備な民間人であり、時代が変わっても、これは変わらない。
      2022.6.10
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2022年、初夏の庭
  今年の初春の頃、好天が長く続いたせいか、春から初夏にかけて咲く庭の花の数は、例年に比べ異常に多かった。ツツジ、サツキ、牡丹、芍薬、シャクナゲなど多くの花で庭は賑やかであった。当地の梅雨入りは、関東に比べひと月ぐらい遅く、6月の後半であった。梅雨に入っても雨らしい雨は一向に期待できず、降っても小さな粒の雨であった。その間曇天の日が1週間以上続き、6月25日から空は貼れ上がった。福島中通の福島市あたりは、大雨のニュースがテレビで見られたが、当地では大雨はなく、このまま梅雨明けになるのかと心配であった。
 6月29日、福島県は梅雨明けになった。梅雨は2週間の短い期間であった。当地の中央を流れる久慈川は茨城県北部を流れ、東海村を通って大平洋に注ぐ。この川は、地域の米作りに重要な水資源である。川の源流は、栃木県県境にある八溝山であるので、この付近に大雨があると、水不足の心配はない。
 我が家の前には、東の山から流れる沢がある。雨が多い梅雨時は、沢の水量も多くなり、音を立てて水が流れる。今年は雨が少ないので、沢の水の流れも少ない。土地の人の話によると、どんなに雨が降らなくても、この沢は水が干上がることはないと言う。確かに20年以上、私はこの沢を見てきたが、一度も枯れたことはない。6月の末には、昼間、蛍が庭に飛んでくる。蛍の飛び方はのんびりしているので、これは蛍だとすぐわかる。今年はまだこの飛んでくる蛍を見ない。20年前は、7月になると、蛍が沢の上あたりに4~5匹飛んでいたが、2、3年前からこの数が少なくなり、1、2匹になった。今年はどうやら蛍はいなくなったかもしれない。
 7月に入ると、春の花はほとんど終わりになる。これから咲く花は、クレマチス、アメリカフヨウ、フロックス、キキョウなどである。少し遅れて、カサブランカというゆりが咲き始める。真夏に咲くヒマワリ、朝顔は、種を撒いて、育てているが、6月の終わりの頃はまだ10cmの高さにもならない。今年は、妻がホウセンカの種を買ってきて、鉢に撒いた。それは成長が早く、6月末に、植え替えを済ませたところである。朝顔は数年前から「ヘブンリブルー」という青色の朝顔を植えるようになった。この品種の朝顔は、咲き始めが普通の朝顔に比べ遅いようで、咲き終わりも10月頃までである。
 今年のこの朝顔は、成長がゆっくりで、6月末で、5cmの高さぐらいである。1本だけ20cmぐらいに伸びた朝顔があった。この朝顔は、地面を這っていたので、つるを起こして、棒を立てて、紐で固定した。その時、葉の表裏がひっくり返ってしまった。このままでは葉の光合成はできないので、心配していた。数時間後この葉を見てみると、表の葉が上になっていたので、安心した。この植物の能力はどうなっているのか? 裏表を感知する機能がどこにあるのか? 葉を回転させる力は何処から発生しているのか? 考えていると不思議であり、自然の仕組みの素晴らしさを感じる。これらは、おそらく植物学者により解明されているであろう。まだでなければ、このメカニズムの解明は立派な博士論文になるであろう。
 我が家には毎年、多年草のフロックスが発芽し、成長して高さ70cmの大きさに成長する。このフロックスは、根元から50本ぐらいの枝が生え、全体の枝の形がきれいな半円状になる。中央付近の枝は高く成長し、周りの端にいくに従って、枝は短くなり、地を這うように成長する。1本だけ飛びぬけて伸びることは決してない。毎年、この均整のとれた形を見て、私は感心している。形を整えるのに、どこが指令を出し、それをどのように受け取って、枝の高さを決めているのだろうか? 枝に頭脳があるのだろうか?
 日立のコマーシャルソングに、「この木なんの木、気になる木・・・」という歌があり、その木の映像が出る(この木を仮に日立の木という)。これは、周囲になにもない平原に1本だけ生えた大きな木であり、形は平らな半円状である。この木の均整の取れた半円状の形が不思議である。自然にこのような形になったのであろうか。周りに何もないので、強風で木が倒れるのを避けるために、このような形になったのであろうか。
 日本では、桜の木が丘陵とか農地に1本立っていることがある。桜は昔から大切にされているので、古い木が多い。福島県では、三春の滝桜、戸津辺の桜、花園しだれ桜などが知られている。これらは、丘陵地あるいは農地に1本立っており、周囲には木など何もない。これらの桜は、日立の木のように強風で木が倒れないように、形が平らな半円状になっていたと思われる。樹齢600年以上経っているので、その間、人手が加わり、今の木の形はきれいな半円状ではない。しかし、これらの桜の以前の形は、日立の木と同じような半円状であったと想像される。

      2022.7.10
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安倍元首相
  2022年7月8日、安倍元首相は、奈良市、近鉄大和西大寺駅付近で銃撃され、死亡した。犯人は、41歳の男性で、現在取り調べを受けている。犯人の家庭状況がマスコミで詳しく報道され、犯人が事件を起こした動機などが報道された。彼(犯人)の母親は旧統一教会(現、世界統一家庭連合)の信者で、教会に約1億円の献金を行い、そのため家庭は破産状態になり、その日の食べ物にも不自由したと言われる。犯人は教会への恨みを持ち、このような犯行に至った。
 犯人は、教会の幹部を殺害しようと考えたが、本部がある韓国へは、銃器を持って入国するのは不可能と思い、国内の教会関係者を探した。犯人は、教会のSNSで、安倍元首相がビデオメッセージを出しているのを見つけ、彼を殺害しようと決めたようである。安倍元首相の行動は、SNSで分かるようで、岡山での安倍元首相の遊説の際も、犯人は岡山まで出かけた。その後、奈良市にも来ることが知れ、殺害現場で犯行を決めたようである。
 このニュースの後、旧統一教会に関する情報が詳しく報道された。この教会は、最近、話題が聞かれなかったが、この事件をきっかけに詳しく知ることができた。入信した信者が、多額の献金を求められたり、返金要求などの話題が報じられた。また、多額の献金を求められるのは日本の信者だけで、他の国ではそのような要求はないこと、などが報道された。韓国の教会本部は、多くの資金が日本から得られるので、経済的には潤っていたのであろう。韓国にある教会の本部の映像が、テレビで紹介された。広い敷地に、立派な白い建物が映っていた。これらの維持費は、日本からの献金で支払われているのであろう。
 安倍元首相の事件で旧統一教会と日本の政治団体、特に自民党との関係が明らかにされつつある。教会の信者の数は多く、選挙での有権者の数は容易にまとまるので、政治家が教会に関与するのは当然かもしれない。先の参議院選挙で、教会の有権者の割り振りで当選した議員の顔が、テレビに映し出された。今後教会との関係で選出される議員は増えるであろう。創価学会と公明党との関係は明確で、暗いニュースはない。旧統一教会は、政治家の議員とつながりを持ちたいのであれば、公明党のような別の新しい政党をつくるべきであろう。その政党は、日本で問題になっている献金、集団結婚などで困っている信者に、救いの手を差し伸べるべきであろう。現状のままでは、教会に無関係の自民党員などは迷惑するのではないか。
 安倍元首相の事件で、安倍氏の写真や動画がテレビで度々出た。私はこれを見て、学生時代、山口出身の友人の顔を思いだした。彼は安倍氏とは無関係であったのであろうが、顔の感じがよく似ていた。これは山口の顔であろうか。私も50年ぐらい前に、義理の姉から「あなたは岡山の顔だ」と言われた。私の丸みを帯びた顔は、第三者から見れば岡山の顔かもしれない。父は岡山出身で、母は九州出身であり、私は父側の血をひいたのであろう。また学生時代に、岡山県出身の友人がいたが、彼も丸みを帯びた顔をしていたのを思い出す。地方には、それぞれの特徴のある顔があるのであろうが、東京や横浜などでは、地方から来た人が多くなっているので、その土地の顔はなくなっている。

      2022.8.10
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樹の漢字表
  私は、この樹の漢字表を毎日眺めている。私は、毎朝トイレに行くことを習慣としており、便器に座るとその前にこの漢字表があるので、暇つぶしに眺めているのである。この表は、私達が北海道の大雪山系の黒岳を見に行ったツアーで、黒岳ペアリフトの終点駅の売店で買ったものである。このツアーは、札幌市からの日帰りバスツアーであり、我々は、バスで札幌から旭川市を通り、39号を通って、上川町に入り、黒岳ロープウェイの麓の黒岳駅で降りる。そして、ロープウェイの山頂駅から、少し歩いて黒岳ペアリフトに乗り、黒岳の近くの駅で降りる。私は、最後の駅の売店でこの漢字表を買った。これは、日本手ぬぐいに、120字の漢字が印刷されたものである。私は、これをカメラに撮って、パソコンでA4サイズに印刷した。
 日本には樹の種類は約1200あると言われているが、1字だけの漢字で示される樹は、そんなに多くはないであろう。縄文杉、秋田杉、ヒマラヤスギなど、1字以外で名付けられている樹を含めると、1200種ぐらいになるのであろう。我が家の庭に植えてある1字の樹は、梅、椿、槿(ムクゲ)、柿だけである。2字以上の名前では、白木蓮、コブシ、マロニエ、山茶花、雪柳、花水木などを植えている。我が家の樹でも1字の樹は少ない。
 木へんに春夏秋冬を付けた漢字は、椿、榎、きささげ(パソコンには入っていないが、木へんに秋とかく)、柊(ひいらぎ)と4文字揃っている。東西南北では、センダン(木へんに東と書く)、木へんではないが栗、楠(くす)の3文字であり、北はない。神仏では、榊(さかき)、木へんに佛と書いてシキビという漢字がある。榊は祭りごとなどによく見かけるが、シキビはどのような葉であるか全く分からない。父母、男女では、栂(つが)、桜があり、男関係の漢字は全くないのが面白い。
 樹木の種類では、杉が一番多いであろう。全国の造林の約40%が杉といわれる。第二次世界大戦後、日本の復興のため、政府が杉の植樹を奨励した。そのため、本州以南では至る所に杉林がある。当地矢祭町でも目に入る山、森では杉が目につく。矢祭町北の隣町の塙町は、杉の木材の集積地が数か所あり、伐採された杉の木材が山のように積まれている。県道や国道にはその木材を積んだトラックが多く見られる。道路には杉の皮の切れ端がよく落ちている。都会の道路では荷物車から落ちた平たい黒ゴムが時折見られる。当地では、黒ゴムの代わりに杉の皮である。杉が多く植えられているのは、杉が建築用などに広く用いられるからであろう。杉はまっすぐ伸び、成長も早いので重宝されている。
 木へんの漢字がつく名前(姓名)は比較的多いが、一部のなじみの木に限られている。私は毎朝この漢字表を眺めて、名前を思い出し、その顔も思い出し、懐かしがっている。松では、松永、松本、松元、松下など、結構多い。何れも私が会社勤めをしていた頃の人々である。松の他は、梅田、梅本、杉田、柳本、片桐など。檜山、楢原、梶山のうち、楢原氏は、私が勤めていた会社で、情報関係の仕事をしていた。私は、勤務中彼とよく顔を合わせていたので、30年経った今でも、その顔を鮮明に覚えている。

      2022.9.10
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転居 
  3年も続くコロナ禍と私自身の高齢化で、私達の遠出は全くなくなった。従ってこの雑記の話題も少なくなり、身辺の話題になってしまう。この転居の話題は、私の父母の家族の転居と、私自身の家族の転居(次回)について記してみたい。最初、父母夫妻は、父の勤務地である長崎市に新居を構え、そこで長兄、長女、次女を出産したようである。これは私の想像であり、事実は違うかもしれない。父は、定年退職後、小説家として小説を執筆し、その本を5、6冊自費出版していた。私にもその本は送られてきたが、一度もそれらの本を読んだことがない。多分、それらの本の中に、家族の転居などについて述べているかもしれない。
 父母の家族は、その後3人の子供を連れて台湾へ渡り、父は台湾中南部の嘉義市の学校に転勤になったようである。その嘉義市で私と弟が生まれた。これは、私の戸籍謄本で明記されている。それによると、私の出生地は、台湾台南州嘉義市宮前町6丁目となっている。グーグルマップで嘉義市の宮前町は何処にあるのか調べたが、宮前町はなく、宮前村は明記されていた。その村は、中心部である嘉義駅から北西へ相当離れた所で、嘉義市ではない。
 その後、家族は台中市へ移り、父は台中市の学校の教師になり、住まいは市内の官舎に移った。この辺りから、私は土地の記憶が少し残っている。この台中市の官舎には3年ぐらい住み、私は4~6歳ぐらいであったであろう。官舎の前は広い道路があり、その向こうには学校(明治女学校?)があった。官舎は平屋の2軒続きで、家の玄関の前は狭い植え込みがあり、門の外には水路があった。家の右隣はやや広い立木の森があり、造園業者の所有のようであった。道路の右端奥には、私が当時よく遊んでいた女の子の家があった。彼女は日本人が台湾人か分からない。
 その後、戦争が激しくなり、台中市も爆撃されるかもしれないので、家族は台湾の北東に位置する宜蘭(ぎらん)県の山裾に疎開した。まもなく終戦になり、一家は、台北市を経由して近くの基隆(きーるん)の港から引揚船に乗り、和歌山県の白浜に無事帰国した。一家は、当時引揚者の一時集合地である京都市に行き、そこから列車で久留米市に向かった。久留米には、市の郊外に母方の親戚(黒岩氏)の大きな家があり、そこに一時間借りして住んだ。その間、父は教師の職を探し、久留米市内の学校に職を見つけた。と同時に、一家も久留米市内に移住した。
 久留米駅から西へ400mの所には、筑後川があり、その川沿いに水天宮がある。駅から筑後川に向かって水天宮通りがあり、筑後川につきあたった所に水天宮がある。その目の前に玉置家があった。玉置家は母の遠縁で、その玉置家の紹介で、一家の転居先をきめたようである。転居先は、玉置家から駅方向約40m先に2階建ての米屋があり、その米屋の2階部分である。どのような間取りになっていたのか分からない。米屋のすぐ西隣は神社の焼け跡のようで、広々していた。私達は、そこで遊んだり、近くの水天宮の広い境内で遊んだりした。現在玉置家の建物や米屋はなくなっており、アパートが2棟建てられている。
 久留米には2、3年いたであろうか。その間、父は郷里の岡山に職を探していたようである。岡山には父の兄弟が住んでおり、その長兄は顔が広く、面倒見がよかった。そのおかげで、父は倉敷市の青陵高等学校の教師の職を見つけた。
 一家は、岡山県都窪郡帯江村帯高(現在、倉敷市帯高)に、大きな屋敷を持つ片山家に転居した。片山家は、父方の遠縁にあたり、土地の庄屋のような地位にあった一家であった。敷地内には3箇所(6畳、3畳、8畳)の離れがあり、そこに家族は住んでいた。グーグルマップの航空写真では、「つくぼ片山家」の屋敷が映っている。父と長女は、片山家から歩いて約4km離れた倉敷市内の青陵高等学校に通っていた。最初は徒歩であったが、バスと自転車による通学に変えたようであった。私と次女、弟は約1.5km離れた茶屋町中学校、小学校に徒歩で通っていた。私と弟は、普段は裸足で、冬は下駄かぞうりでの通学であった。
 この片山家には3~4年住んだ後、一家は岡山県吉備郡常盤村溝口(現在、総社市溝口)に借家を借りて引っ越した。父は近くの総社西中学校の校長として赴任した。この借家には約20年ぐらい住んでいたと思われる。その間、2人の姉は倉敷市内に嫁ぎ、私は徳島へ、弟は京都へ出て行った。長兄は、久留米時代から東京に勉学、就職していた。姉達が嫁いだ後、母は病気で死去し、一人残った父は、弟の住む大阪へ身を寄せた。これで父の家族の子供達は家族を離れ、一家が集まる家はなくなった。この借家で、家族としての転居は計8回であった。

      2022.10.10
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転居2
  ここでは、私が父母の家族を離れた後の、私の転居について記す。私は、大学入学のため徳島市に住んだ。最初は知り合いの紹介で、徳島大学の事務職員の家に仮住まいした。そこは、市の西の端の蔵本町にある徳島大学蔵本キャンパスの近くであった。このキャンパスには、医学部と薬学部がある。私が入学した工学部は、東の端の常三島町にある。仮住まいから工学部に行くには、バスで行かなければならないので、私は下宿先を工学部の近くに探した。その結果、助任町の民家の1室を借りることにした。ここは、工学部に行くのに、歩いて10分ぐらいの所にある。食事は、大学の学生食堂で全て用をたした。1年ぐらいして、私はこの下宿から近くの工学部長宅に転居した。部長宅は、2階建ての本宅と2部屋の離れがある、大きな邸宅であった。そこに、私と応用化学科の同期の3人が、卒業まで下宿することになった。
 卒業後の就職先は、京都市にある第一工業製薬で、転居先は会社の独身寮である「洛西寮」である。ここは、京都市右京区樫原町で、会社までバスで通った。洛西寮は、男性の独身者専用で、1室に2人入れられた。私の同室の相手は、阪大法学部出身の荒井氏であった。彼はその後僧侶になり、インドあたりに修行に行き、その後私とは音信不通になった。今、生きているかどうか分からない。私は、この会社に3年近くいて、その後横浜の日本ポリウレタン工業の技術研究所に転職した。会社の独身寮は、東横線の日吉駅近くの「日吉寮」であり、そこに私は京都から転居した。この寮は、木造2階建てで、10部屋あり、1部屋に1人住むことができた。
 この会社の寮は、当然会社の同僚が利用し、会社が引けても寮で同僚と一緒になる。24時間、同じ顔触れと顔を付き合わせるので、窮屈であった。私は、2年後その寮を出て、根岸線の山手駅近くの中区豆口台にある「斎藤アパート」に転居した。ここは個人が経営する2階建て4部屋のアパートである。このアパートは、駅から歩いて10分ぐらいの所にあり、便利は良かった。食事は、根岸線の桜木町駅近くの繁華街で行った。
 このアパートに1年ぐらい住んだ後、私は今の妻と結婚した。結婚と同時に会社の社員寮である保土ヶ谷区の狩場町社宅に入居した。私はこの社宅に6年間住んだ。勤務先の研究所は、相鉄線の天王町駅近くにあり、私は徒歩で約2kmの道を通勤した。その後、私は緑区竹山一丁目にある公団の竹山団地に入居した。この団地は広く、中央に池とショッピングセンターがある。私が購入したのは、ボックス型の4階建ての4階部分で、広さは3LDKであった。子供2人の4人家族で住むにはゆとりがあった。建物は高台にあり、眼下に鴨居町が一望して見渡せた。通勤は、団地から横浜線の鴨居駅までバスで行き、そこから終点の東神奈川駅へ、そこから京浜東北線で横浜駅へ、そこから相鉄線に乗り換え、天王町駅で下車し、徒歩3分で会社へ、という経路である。
 この竹山団地に4年間住み、その後戸塚区上柏尾町の住宅地団地に、約200㎡の土地を買い、自宅を建てた(1977年)。会社の研究所は、天王町から戸塚区秋葉町440番地に新たに建設した場所に移っていた。自宅からその新しい研究所まで約1.5kmあり、私は徒歩で通勤した。私の家族は、この住宅に3年住んだ後、私は会社の工場(山口県新南陽市)に転勤になり、家族の住まいも工場近くの社宅に移った(1980年)。5年後の1985年、転勤になり元の研究所に移籍した。私の自宅は、工場に転勤の際不動産屋を通して、借家にしていた。横浜に戻ることになり、借家人に立ち退いて貰うことにしたが、急には立ち退けないので(賃貸契約のため)、2年間、近くの借家に仮住まいした。この借家は、戸塚区柏尾町の菅原氏宅であり、菅原氏も転勤で自宅を借家にしていた。
 私の家族は、1987年4月から上柏尾町の自宅に戻った。私は、14年間、この家に住み、技術研究所に通い、定年で退職した。定年間際、私は定年後は田舎暮らしをしようと思い、土地を物色した結果、福島県の矢祭町に、町が造成した団地に土地を購入た。そこに、建物を建て、現在に至っている。私は、父の家族から離れて13回の転居をしたことになる。私が生まれてからの転居数では、合計21回になる。これ以上の転居は、もうないであろう。

      2022.11.10
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転居、余話
  私は、太平洋戦争の終末期に、小さい頃を過ごした。私は、小学校の1~3年生は台湾での疎開や日本への引揚後の2回の転居で、小学校に行く機会がなかった。小学4年生になって初めて小学校に入った。そのため、初期の小学校で習う習字とか唱歌などは、私には無縁であった。漢字の書き順は今でも自己流で、人前で漢字を書くのは避けてきた。言葉のアクセントも正しく発声できない。端、橋、箸のアクセントが何処にあるか、未だ分からないので、私はすべて平坦に発音をしている。柿も蠣(カキ)も平坦に発音しているので、時々妻から訂正される。私は、小学校で唱歌を習わなかったので、歌を歌うのは全く嫌いで、カラオケには一度も行ったことがない。
 私の家族は、私が小学生の頃、岡山県都窪郡帯江村帯高(現在、倉敷市帯高)の片山家に住んでいた。片山家の周囲は田んぼで、用水路の川が流れていた。近くには荒神社があり、小さな広場もあったので、神社前に住んでいたカズ君と私の弟とで野球のまねごとをして遊んでいた。カズ君は母子の2人で暮らしており、母親はミシンで縫物の仕事をしていた。当時のある日、神社で3人が遊んでいた時、片山家から100m離れた農家の隣家(蜂谷氏)の小さな娘が用水路に落ちて、大騒ぎになった。私達は、それを聞きつけて、現場に見に行った。私の母は、私に向かって厳しい顔をして、何処にいたのかと聞いた。私が娘を川に突き落としたのかと、心配していたのであろう。現場では、蜂谷氏が娘の人工呼吸を必死になってやっていた。彼は、軍隊帰りで、人工呼吸のやりかたを知っていたのであろう。娘さんは帰らぬ人となった。用水路は幅2mぐらいで、深さは1mぐらいであった。所々に幅60cmぐらいの石の橋があり、転落の危険性は至る所にあった。
 片山家の主人は、60歳ぐらいの康子氏で、茶道、謡(謡曲)、仕舞の師匠であった。私の母や、当時片山家に間借りしていた和田氏夫人は、師匠からこれらの習い事を習っていた。弟子は付近の人達で、毎日の出入りで片山家は賑わっていた。特に、秋の月見の会は、若い娘達が着物を着て、夕方にやってきた。私は、彼女たちの華やかな姿を遠くから眺めていた。片山家の通常のお茶の習い事は、西の庭に面した4,5畳の和室で行っていたが、お月見の会は、南と西側の広い庭に面した10畳ぐらいの部屋で行っていたと思われる。この会には、母だけがが参加していた。お茶の席ではお菓子が出るが、母はその菓子を子供のために持って帰っていた。当時、甘いものはほとんど食べれなかったので、この菓子は楽しみであった。
 雑記の転居1では、父が倉敷の高校から総社市の西中学校の校長として転勤になった時、家族は片山家から総社市溝口の借家に転居した、と記した。この借家に移る前に一か所、仮住まいをしていたことを私は思い出した。倉敷と総社の間には、なだらかな丘陵地帯がある。その総社側の丘に、備中国分寺という江戸時代に建てられたお寺がある。このお寺の本堂の西端に2階建ての建物があり、私達はその2階にしばらく仮住まいをしていた。期間は1ヶ月ぐらいだろうか。この寺の境内の何処かの建物には、父の実の弟である守屋氏の家族も仮住まいしていた。守屋氏には男3人と女2人の子供がいた。男兄弟の次男は修ちゃん、三男は禎ちゃんと呼んでいた。修ちゃんは、中学3年生ぐらいで、禎ちゃんは、私と同学年であった。
 1950年頃の備中国分寺は参拝者はいなく、境内は広々としており、禎ちゃん達と遊ぶのに好都合であった。境内の西側には小さな池があり、水草が生えていた。境内の塀の外側には五重の塔があり、私達は五重の塔の1段目の板張りの縁側に上り、遊ぶことができた。塔の内部には入れなかったが、格子状の扉からなかを覗き込んだりした。今では、五重の塔の周囲は柵で囲まれ、内に入ることができないようになっている。
 備中国分寺の本堂のすぐ西側には、板張りの部屋があり、そこには卓球台が置かれていた。守屋氏の長男と修ちゃんがよく卓球の練習をしていた。私も誘われて卓球をしたが、それは生まれて初めての体験であった。私が2回目の卓球をしたのは、大学卒業後、就職した第一工業製薬の講堂にあった卓球台である。その卓球台で、昼休みに仲間と卓球を楽しんだ。それ以降は、卓球とは縁がなかった。
 グーグルマップで備中国分寺の航空写真を見ると、境内には色々な植木などがあり、すっかり変わっていた。私達家族が仮住まいしていた2階建ての建物の1階部分は、土産物売り場と観光案内所になっていた。このマップには、多くの備中国分寺の写真が寄せられていて、それらを見ると、今のお寺の様子が分かる。五重の塔の写真は多くあり、塔の遠景は、なだらかな丘陵に塔がそびえていて、のどかな景色になっている。平山郁夫氏もこの寺を訪れて、五重の塔の絵(リトグラフ)を制作していた。
 私達の家族は、この備中国分寺を去って、総社市の溝口の借家に転居した。守屋氏の家族も、JR吉備線の吉備津駅近くの住居に引っ越した。転居2の項では、私の転居は、合計21回と書いたが、この備中国分寺の仮住まいを入れると、22回の転居数になる。

      2022.12.10
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春うらら、2023年
  我が家の庭には8本の山茶花を植えている。家屋北側のコンクリートの上に、私が作ったコの字型の植木コーナーに6本の山茶花を、南の庭に2本のピンクの山茶花を、20年前ぐらいに植えてある。この南のピンクの山茶花が、今年は花をいっぱいに咲かせた。今年の晩夏の長続きの日照りで、花が多く付いたのかも知れない。南の庭の2本のうちの1本は、八重の花で、以前住んでいた横浜の家の庭から持ってきたものである。
 南の庭には4本のブルーベリーの木を植えてある。このうちの1本は、15年前から植えており、毎年ブルーベリーの実を多く付けている。他の3本は5年前から植えているが、実は多く付かない。15年前の木は樹勢が強く、根元から4,5本の木を生やして、大きくなっている。大きくなりすぎたので、昨年は木を切ってすっきりさせた。昨年のブルーベリーの収穫期には、約3kgの実を収穫した。実を採って、すぐ冷凍し、1.5kgになったところで、ブルーベリージャムを作った。このジャムは、3本のビンに入れて、毎晩ヨーグルトと混ぜて食べているが、全部食べきるには1年近くかかるであろう。収穫した残りの1.5kgは、テニス仲間の男性に差し上げた。ジャムの作り方のレシピを一緒にあげたので、ジャムを作って親戚などに配ったに違いない。彼からはお礼に「いいちこ」を貰った。私は、その焼酎をお湯割りにして、毎晩少しづつ飲んで楽しんでいる。ブルーベリーが芋焼酎に変身したのは、有り難いことである。
 我が家の庭には甘柿が2本植えてある。これも気候が良かったせいか、昨年は実が50個ほど付いて、豊作であった。以前、柿を干し柿にしたことがあるが、黒くなってしまったので、食べずに捨ててしまった。ネットで調べると、柿のジャムを作るレシピが載っていたので、それを頼りに柿ジャムを作ってみた。このジャムも毎晩ヨーグルトと混ぜて食べている。先のテニス仲間にも、15個の柿をレシピ付きで差し上げた。まだ柿が残っていたので、えがすきクラブの人達に10個差し上げた。これで2本の柿の木は、さっぱりして、新年を迎えることができた。
 晩秋あたりから庭の方々に、ムスカリが細長い葉を出し始めた。雑草と同じように、このムスカリを掘り返しいて抜いているが、多くてきりがない。ムスカリには小さな球根があり、そこから葉を出している。昨年だけでも、50個以上の球根を掘りあげて廃棄した。ムスカリは、春には紫の小さな玉の塊が円錐状に花を咲かせる。春先にはムスカリに交じってクロッカスが葉を出し、黄色や紫の線の入った花を咲かせる。このクロッカスは、ムスカリと同じく球根から葉が出る。ムスカリの球根を除去するとき、クロッカスの球根まで除去するのではないかと、注意しているが、両者の区別は付かない。両者は、春になって花が咲くまで、区別がつかない。クロッカスの花びらは、ヒヨドリの好物らしく、黄色の花が咲くと、ヒヨドリが花びらを食べに来る。黄色だけが好物のようで、他の色の花びらは食べない。
 2023年の関心事は、昨年から始まっているウクライナ戦争であろう。ロシアが始めたこの戦争は、ロシアがウクライナ領土を奪い取るための侵略戦争である。ロシアは、戦力からすると、簡単にウクライナ領土を分捕ることができると思ったに違いない。しかし、ウクライナは、欧米の多大な援助を受けて、ロシアと互角に戦っている。この戦争で、ウクライナ兵士の戦死者は、1.3万人と言われ、一方、ロシア兵士の戦死者は、10万人と言われている。これらの数字は、あまり信用できないであろう。特にロシア兵士の戦死者が10万人とは、考えられない。これは政治的な数字であろう。ロシア軍の兵士は、ウクライナの一部の領土で、ウクライナ軍と地上戦の機関銃などで戦うわけだが、その戦死者の数は知れているだろう。
 いつの戦争でも、犠牲になるのは民間人であろう。ウクライナの民間人の死亡者は、昨年の12月までに7000人と言われている。一方、ロシアの民間人の犠牲者は、0に近いであろう。ウクライナのゼレンスキー大統領は、徹底抗戦をマスコミで訴えているが、被害を受けているのは、無防備な国民である。この大統領の発言に、庶民はどう受け止めているか。早く戦争を止めてくれ、という気持ちがほとんどであろう。しかし、最近ではゼレンスキー大統領は、停戦に対する話合いについて、その意向を公表している。ロシアは、停戦の条件として、ウクライナ東部を求めるであろう。ウクライナの国民は、多少のウクライナの領土が減らされても、停戦を望んでいるに違いない。

      2023.1.10
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大寒波
  2023年1月24日から26日まで、列島は九州から東北にかけて大寒波に襲われた。普段雪の少ない鹿児島まで大雪が降り、九州と関東以西の各地は大雪による高速道路の渋滞があり、連日テレビで渋滞している車の列が報道された。日本海側の北陸地方と東北地方はこの寒波の前から高速道路での渋滞があり、2、3日間、車に閉じ込められていた人の様子がテレビで報道された。これを見た付近のボランティアは、食べ物とか飲み物を配ったり、消防車の人は、ガソリンタンクを持って車を回っていた。今度の大寒波による車の渋滞では、ボランティアによる活動はなかったようである。北陸地方の大雪の報道を見て、車の運転手達は準備を充分にしていたのであろう。
 寒波による西日本各地の最低気温が報道された。九州各地、中国地方の最低気温は、軒並み-2~-5℃であった。矢祭町の我が家でも、1月25日の最低気温は-4.9℃で、翌日の26日は-8.6℃であった。過去の最低気温は-5℃程度であったので、今回の-8.6℃は、今までになかった低さであった。この26日は、矢祭町の北の隣町、塙町では-15℃を観測したという。矢祭地方の雪は25日に5cm、27日にも5cmの積雪があった。28日は晴れ上がり、その夜は放射冷却のせいか、翌日29日の朝は-8.8℃になり、最低記録を更新した。
 矢祭地方の冬の風物詩は、町の中央を流れる久慈川に現れる「シガ」である。東北地方では氷のことをシガという。このシガ(氷の薄いかたまり)が冷え込んだ朝に、久慈川をぷかぷか下流に流れて行く。久慈川は色々な所で湾曲し、湾曲の奥まった所で水が停滞する。停滞した水は、夜中の気温低下で氷になり、朝になってこれが川の本流に出て、シガとなって下流に流れ出す。今年も、恐らく29日にはシガが見られたであろう。矢祭町には「夕刊矢祭」という地域の新聞がある。この新聞社の経営、編集、記者を、1人でこなしていた人が病気で倒れ、後継者がいないので、新聞は昨年暮れに廃刊になった。新聞には町の行事とか催し、葬祭の広告などの情報が載せられていたが、今はこれらの情報は全く入らない。例年このシガの発生も、新聞に報道されていたが、今年はそれが分からないので、寂しい。早く町の情報新聞を発行して貰いたい。
 今度の大寒波で色々な被害を受けた人達がいるが、中でも停電と断水は、直接生活に係わるので、困っているであろう。報道されたこれらの被害が発生した地域は、佐渡島と能登半島の一部の市町村である。水が出ないので、給水車が出動したり、水の入ったビニールの容器を配ったりしているTV映像が度々あった。これらの地域で水道管が破裂して、水が噴き出している映像はなかった。空き家で水道管が破裂して水が出なくなったのではないかと思っている人がいるが、空き家は水道の元栓を閉めているので、このような事態は発生しないであろう。
 この地域の断水の原因は、恐らく地中のメインの水道管が凍結して水が流れなくなったからであろう。全国で異常低温になった地域は多い。何故この能登半島の一部の地域だけ水道水が流れなくなったのだろうか。これは恐らく水道管の埋設工事に問題があったのではないか。住宅敷地に入れる前の水道管は、道路沿いなどに地中深く埋設されていなければならない。これは外気温の低下で水道管の凍結を防ぐためである。この深さが足りなくて、水道管を浅い所に設置すると、当然外気温の影響を受ける。能登半島の一部の地域の水道工事の業者は、埋設を浅くしていたのかもしれない。
 雪は立派な保温材である。地上に50cmぐらいに雪が積もると、外気温がマイナスであっても、地中はすぐにはマイナスにはならないであろう。道路に積もった雪を、除雪車で除雪している映像をよく見るが、道路下の水道管の凍結を考えれば、むやみに除雪しない方がよい。佐渡島と能登半島の一部の市町村は、交通の確保のため、いち早く除雪に取り組んだものと思われる。道路の除雪は道路の中央部分だけで良い。水道管は、道路の端に埋設されているのが普通であろう。水道管の凍結を防ぐため、道路の端を雪で保温するということを、施工者は考えておく必要がある。

      2023.2.10
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テレビ番組
  私が毎週見ているテレビ番組について記す。毎日欠かさず見ている番組は、昼食時のニュースワイドショーと、夕食時のNHKの7時のニュース番組である。7時前には、NHK福島局で天気予報があるので、それも欠かさず見ている。私は、毎日午後4時半にはテレビの前に寝転んでテレビを眺めている。見るチャンネルは、曜日によって違うが、土日以外は、福島放送(4チャンネル)の番組、「お絵描きクイズ コレなーんだ」という番組である。これは、参加に応募した人の中から選ばれた人に電話をかけ、キャスターの一人がテレビ画面のボード板にイラストを描いて、それを応募者が何を描いているか当てる番組である。
 ここで、いつも気になるのが、テレビ局の人が選ばれた人(仮に吉田さんという)に、電話をかけた際の吉田さんの対応である。テレビのキャスターは、「選ばれた人は吉田さんです」、「これから電話します」と言って、電話をかける。電話が繋がると、吉田さんは受話器を取って「はい」と答える。キャスターは確認のため、「吉田さんですか」と聞く。吉田さんは「はい」と答える。私が気になっているのは、何故吉田さんは「はい、吉田です」と名乗らないのか? 名前を名乗らないのは、福島地方の習慣なのか? あるいは名前を知らせたくないのか。テレビを見ている人達は、吉田さんであることは最初から分かっている。電話による詐欺を警戒して名乗らないのか。吉田さんの電話番号は局の人しか知らないので、そのような心配は不要であろう。
 私は、電話がかかって、受話器を取り上げたら、まず、「はい、金谷ですが」と言う。これは長年のサラリーマン生活での習慣であろう。社内電話で電話がかかってきた時、「はい、金谷ですが」と答える。電話の相手は、金谷を確認する手間が省けるのである。この「金谷ですが」の{が}は、次に来る意向は「何か用ですか」という意味が隠されている。相手が同僚であれば「何の用?」、相手が上司か、あるいはお客様であれば「なんでしょうか」という意味が含まれる。最近は、会社勤めをやめて20年以上になるので、私はこの習慣は薄れて、「はい金谷です」あるいは「はい金谷」になっている。
 私は、土曜日の午後、5時頃の「世界あらへん話」という番組をよく見ていたが、今はなくなっているようだ。これは、アメリカで、体重が約250kg以上の肥満の女性が手術を受けて、手術が成功し、スリムになる話である。肥満女性の日頃の食事などの映像、太り過ぎて日常生活に困っている映像などが映され、女性は減量を決意して、見事成功する話である。手術には専門の病院があり、そこにはナウ医師という専門の医者がいる。ある肥満者は、手術を決意した。彼女は、その病院を訪れ、ナウ医師の診断を受け、ナウ医師から、「数か月で約40kgの減量ができれば手術をしてやる」と言われた。そして、「このままだと数カ月で死亡する」とナウ医師から怖い顔で宣告される。数か月後、その肥満者は病院で体重を測り、減量が達成されたので、手術を受け、無事成功した。その後の肥満者のスリムな映像が映し出される。この番組は5、6回見ただけで、あとはなくなったようである。アメリカといえどもこのような超肥満者は数少ないのであろう。日本の超肥満者は、元大関の小錦氏しかいないであろう。
 私が土曜日の6時から必ず見るのは、BS4チャンネルの「小さな村の物語 イタリア」である。イタリアは、日本と同じく山国である。この小さな村は、中程度の高さの丘にあり、その丘の頂上に、小さな集落をつくっている。その番組は、そこに住んでいる人達の人生を描いたものである。集落の中心部の敷地は狭いので、家と家はくっついており、ほとんどが3階建ての石造りの家である。
 その集落の周囲は、牧場や果樹園で囲まれている。集落の人達は、家畜の世話、果樹の栽培、そして集落の自宅で経営しているカフェ、民宿などで働いている。あるいは、自宅の作業場で鍛冶や大工仕事などで生計を立てている人もいる。テレビの映像は、自宅の食堂で食事をするシーンが多い。食堂の広さは、台所と食卓とソファーを合わせて、10畳ぐらいの広さであろう。この食卓で、食事をしたり、パスタなどの小麦粉を練ったり、子供が宿題をしたりする。2階、3階には、寝室などがあるのであろう。映像は、家族の食卓での食事と会話のシーンが多い。その会話の中で、庶民の生活、習慣などに関する考えが話されており、イタリアの庶民の考え方がよくわかる。
 2月18日は、上野動物園のパンダ(シンシン)が中国に変換される最後の入園日である。多くの人がパンダに会いに来て、別れを惜しむテレビのシーンが多く放映された。中には、涙を流して別れを惜しんでいる人もいた。当のシンシンは、笹をむしゃむしゃ食べており、見物人の反応には無頓着であったのは、いつもの景色であろう。パンダは笹の葉や茎を食べて生きているが、この食べ物で育つのは珍しいのではないか。
 笹の葉や竹にはどのような栄養素が含まれているのか、分析した研究者がいるのだろうか。人間にとっても、この笹や竹は食物として利用できるかもしれない。人間の場合は、直接食べることは難しいので、粉砕して小麦粉と混ぜて、パンやうどんにして食べる。竹は地下茎でどんどん広がっていくので、現在では邪魔な存在である。しかし、将来食糧危機になった場合、竹は貴重な食べ物になるであろう。昔、パンダがそれを教えてくれたと、パンダに感謝する日が来るかもしれない。

      2023.3.10
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テレビ番組
  私は、土曜日の午後7時半からNHKの「ブラタモリ」を見ている。これは、毎週必ず放映する番組でなく、時折休むことがある。その時は見る番組がないので、色々なチャンネルを見ている。このブラタモリでは、タモリとアシスタントの女性が地方に出かけて、その土地の成り立ちや、特徴などを専門家が説明してくれる。特に地形の説明があった場合、専門家がタモリに、どのような地形かと、質問すると、タモリは即座に答える。タモリの地質学に対する知識は豊富で、いつも私は感心する。ある地形を見て、これは「柱状節理」であると、彼は即座に答える。私には柱状節理という地質学の専門用語は初耳で、さぱっぱり判らない。
 後日、ネットで柱状節理を調べてみた。それには、「節理と呼ばれる両側にずれの見られない規則性のある割れ目を持つ地質構造であり、割れ目によって多角柱の規則的配列構造が形成される」とある。柱状は、字のごとく柱の状態であることは想像できる。節理の方は、さっぱり想像できない言葉である。節は、節約とか竹の節を思い出すが、理はなんだろう。理論、理髪、理屈などあるが、規則正しいという意味だろうか。学者は難しい言葉を付けたものである。柱状節理がある地形は、日本にも多くあるそうで、一番スケールが大きいのは、北海道の層雲峡にある地形と言われる。これは、長さ24kmとある。以前、私も層雲峡に行ったことがあるが、ただ漠然と眺めただけで、これが柱状節理の地質であるとは知らなかった。
 毎週日曜日には、私は午後5時半から、4チャンネルの「笑点」を欠かさず見ている。この笑点は、火曜日7時半から「なつかしの笑点」という番組と、水曜日8時からの「笑点特大号」という番組があり、これらも見ている。なつかし版は、以前の笑点メンバー7人のうち、4人が既に故人になっており、彼等の生前の姿が見られる。笑点特大号は、午後8時からなので、その時間帯、私は居眠りにつく時間で、全部を見たことがない。出演者は現在のメンバーで、色々な企画で番組を構成している。
 朝日新聞では、木曜日にその1週間のテレビ番組の視聴率、上位20番組を発表している。それには「笑点」が上位5番以内に必ず入っている。私と同様に笑点を見ている人が多いのだなと感じる。高齢になると、テレビで話す言葉が聞きにくくなる。私も音は良く耳に入るが、言葉の意味を判別する能力が落ちているようで、何を言っているのか判らないことがよくある。その点、落語家の発声は大きく、1語1語の言葉が力強く発せられ、その意味が良く伝わる。この声が大きく、力があるのは、噺家の基本の発声であるから、当然だろう。
 この視聴率で、大相撲が始まる週では、1週の7日間全部の大相撲テレビ放送番組が20位以内に入っているのは、珍しくない。大相撲の好きな人は多いのだ。プロ野球では、試合の中継が視聴率20位に入るのはあまりないが、先日のWBCで日本が優勝した時は視聴率1位であった。優勝が決まった後でも、テレビ局は、何度でも繰り返し大谷などの活躍のシーンを放映し、それが1週間ぐらい続いた。これらのシーンが始まると、私はチャンネルを回して、別のチャンネルに切り替える。今私は、「チャンネルを回す」と書いたが、若い人にはこの意味が分からないであろう。半世紀前のアナログのテレビは、チャンネルを切り替える際、丸型のダイヤルをカチャカチャと回して、チャンネルを切り替えていた。
 今ではリモコンで、数字を押してチャンネルを切り替えることができる。私の妻は、このリモコンを「カチャカチャ」と呼ぶ。私が、そのカチャカチャを取ってくれないかと、妻に頼むと、すぐ私に渡してくれる。我が家では、リモコンは「カチャカチャ」で通じるのである。
 私は、NHKの日曜日午後8時からの大河ドラマを20年前から見ていない。それまでは大河ドラマはよく見ていたが、何故か見る気がしなくなってしまった。過去の事を知っても興味がないし、毎週連続して見る根気がなくなったせいでもあろう。その代り、日曜日の午後7時半から、「ニッポン珍百景」、「ポツンと一軒家」を必ず見ている。
 私がウィークデーの午後7時半から、定期的に見ている番組(2023年3月31日現在)は、月曜日は「にっぽん百名山」、火曜日は「笑点」、水曜日は「ニッポンぶらり鉄道旅」、木曜日は7時半ではないが、7時50分からの「開運なんでも鑑定団」、金曜日は「美の壺」である。これらは30分番組で、番組の終わりごろには、私はうとうと寝てしまう。

      2023.4.10
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2023年、春の庭
  今年の春に咲く花は、例年に比べ、花付きが異常に多い。これは、昨秋の日照時間が長かったのが原因であろう。我が家で春一番に咲く花は、クロッカスであるが、これは草花であるので、普通に咲いていた。次に咲き始めるのは、レンギョウである。これは、黄色の花が咲くので、周囲がまだ枯れ木状態のため、遠くから目につく。レンギョウは、挿し木で簡単に増やせるので、庭の周囲に10年前ぐらいから6本植えている。それらが大きくなり、今年は花の数が多いので華やかである。花持ちも良いので、1ヶ月ぐらい咲いていた。雪柳も、レンギョウの近くに2本植えており、レンギョウに少し遅れて咲き始めた。
 敷地の隣は、一部町有地になっているが、そこに15年ぐらい前から、白モクレンと紫モクレンを植えている。両者とも今年は花数が異常に多く、長い期間に咲いていた。これも昨秋の日照時間の長かった影響であろうか。これらが終わる頃、本格的な花のシーズンになる。各地の桜の花は、どこも開花の時期が早く、花まつりを予定している所では、例年より1週間ぐらい早く始めないといけない、と心配していたのが、テレビに映っていた。テレビに映る各地の桜の名所は、花いっぱいで豪華であった。
 今年の草木の花の多さは、杉の花の多さにも現れている。スギ花粉の多さは、10年に1度の多さと言われている。スギ花粉情報で、花粉の多い日は、遠くの山が霞んで見える。今年は、ゴビ砂漠からの黄砂が、これも異常に多いと報道された。私と妻は、スギ花粉に対しては、眼に少し違和感を感じる程度の症状だけで、助かっている。黄砂に対しては、どのような症状が出るのか分からない。ホームセンターで、眼を保護するゴーグルを買おうと思って見に行ったが、メガネの上と横にカバーが付いている保護メガネしか売っていなかった。それを買って、家で調べると、この種の保護メガネは、我が家にすでに2個もあるのが見つかった。これらは、電動鋸などを買ったとき、付属して付いていたものであった。
 スギ花粉と黄砂が来る日に、この保護メガネをかけて庭仕事をした。このメガネの効果ははっきりしなかったが、眼に違和感は感じられなかったので、効果はあったようだ。我が家には濡れ縁が2ヶ所ある。そこにスギ花粉の多かった翌日には、濡れ縁の表面が真っ白になっていた。こんなに白くなるのは初めてである。水を付けたブラシでふき取ったが、元の状態にはならなかった。テレビで教えてくれたが、スギ花粉の粒子の大きさは、黄砂の粒子より何十倍も大きいと言われる。黄砂の言葉の感じからすると、黄砂は砂を感じさせられるが、そうではないようだ。
 中国のテレビの映像では、道路に積もった黄砂を雪かきのように、道路にかきよせていたのを見た。ゴビ砂漠から舞い上がった黄砂は、粒子の大きい重いものは近くの中国に落ちるのであろう。日本に来る黄砂は、粒子の小さい軽い砂であろう。テレビでは、この小さな黄砂が大きなスギ花粉にくっ付いて来るのだ、と報道された。またテレビでは、黄砂は、中国、朝鮮半島の上空を通る際、工場の煙突から出る煤煙にくっ付いて、それが日本に来るから、注意しろと言う。しかし、この煤煙の濃度は空気で薄まるから、心配する必要はないであろう。
 春の草花では、クロッカスの後、数種類の水仙が咲き、雑草のように方々に広がっているムスカリが先端に青色の花を付けて咲く。チューリップが咲き、芝桜が続いて咲く。今年の芝桜は、花が多く、いつの間にか庭の方々に繁殖して、思わぬところで花を咲かせていた。我が家の隣の空き地にも、数か所芝桜が咲いていた。芝桜が咲いている頃から、ジュウニヒトエが咲き始める。これも、やせた土地にも自然に広がっていき、ムスカリより大きな紫色の長が細そい花を咲かせる。
 花木では雪柳の後、桜が咲く。我が家の敷地の外(町有地)には、6本の桜を植えていたが、大きくなりすぎて、困ることが予想されるので、そのうちの4本を切ってしまった。残っているのはピンクのしだれ桜と吉野桜に接ぎ木したピンクの雅桜(みやびさくら)である。これらは、枝が、我が家の庭に覗き込むように伸びているので、花の盛りには賑やかである。桜の後は、ボケ、カイドウ、ヤマブキが咲き、続いてシャクナゲ、ボタン、シャクヤクが咲く。この頃になると、我が家の庭は春爛漫である。

      2023.5.10
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空を見る
  私は、毎朝の習慣を1年中続けている。それは、朝食後2階の南側にある4畳の板張りの部屋で、1枚のCDを聴いていることである。この部屋には、四角いコーヒーテーブルと、籐製のイスがあり、私はその椅子に座り、足をテーブルにのせてCDを聴いている。左側には窓があり、そこから空を眺めている。空が見えるのは、縦横1mぐらいの窓からの範囲である。隣にも同じサイズの窓があるが、そこには網戸を入れているので、視界は悪い。
 聴いているCDは、イージーリスニングクラシックで、20数年前に20枚一組のセット「どこかで出逢ったあのメロディー」を買ったものである。その他、同じようなクラシック音楽をパソコンに集め、それをCDにコピーしたものを10枚制作した。上のセットと合わせて、30枚のCDを毎朝1枚づつ聴いている。私は、毎朝8時前から約40分、CDを聴きながら空を眺めているのである。
 空は、曇りの日は薄墨色の雲が一面にあり、面白くも何ともないが、よく見るとやや濃い灰色の雲が動くのが見られる。雲の形ははっきりしないので、流れる方向ははっきりしないが、雨が降る日は南から北へ動いているように見える。一方、晴れた日の空は、雲の他、色々な物体が動いて見えるので、飽きずに眺めている。雲は、北西の方向から南東の方向に流れるのが多い。日本海から湿気を含んだ風が、新潟の東にある山脈に当たって、山を越えると雲になる。それが南東方向に流れて、我が家の窓から見える雲になってやってくる。その雲の大きさは大小あるが、小さい雲は、私が見える所で消えていくのが時折見られる。
 その時の大気の湿度は、相当低いのであろう。雲が消えて見えなくなるのは、雲の水滴が乾いた空気中に分散するためである。雲の流れが南から北の場合も、たまに雲が消えてなくなるのを見ることがある。晴れた日は、朝日が雲に当たって真っ白に輝いて見える。この太陽光の熱も雲が消える一因であろうか。目の前で流れる雲が消える主な原因は、空気中の低湿度か、太陽光の熱線によるものか。このようなことを考える閑人は、私ぐらいであろう。消える原因を科学的に調べるには、ドローンを使うのが早道であろう。ドローンを雲の近くに飛ばして、ドローンに設置した湿度計と温度計を測定し、それを地上に送って調べる。このような研究をする学者はいないだろうか。この研究の成果は人類の役には立たないが、私のような閑人には興味がある。
 私は、いつものように横になって、晴れた朝の雲の流れを眺めていると、突然飛行機が上空に現れ、南の方向に飛んで行くのを見ることがある。朝の約40分の間、毎日1機か2機ぐらいを見ることができるが、たまに4機に出逢うことがある。そのような日は何故かうれしい。南東方向に飛んで行くのは、成田空港行きで、それよりやや南の方向は、羽田空港行であろう。我が家の南隣の茨城県大子町には、航空保安無線施設がある。そこにはVORTACという航空標識があり、FM波を発している。飛行機はこの電波を受けて、この位置を確認することになっている。そのため、我が家から見る空には多くの飛行機が行きかう。成田とか羽田行きは、飛行機が大きく見えるが、南方向あるいはそれより西方向に向かう飛行機は小さく、小さすぎて見逃すことがある。小さく見える飛行機の行き先は、関空、台北、香港、上海あたりであろう。さらに西寄りに飛ぶ飛行機は、釜山、ソウル行きであろう。
 1m角の窓ガラスから見えるのは、雲と飛行機であるが、時折、鳥が忙しく飛んでいるのが見える。カラスやハトは、ばたばた羽を動かして飛ぶ。この地域に多いヒヨドリは、飛び方がカラスなどと違う。連続的に羽ばたいて飛ぶのではなく、途中羽ばたきを止めて飛ぶ。そのため飛び方が上下に揺れる。飛び方で、ヒヨドリであることがすぐ分かる。6月に入るとツバメが飛ぶのが見られる。ツバメの飛び方は、ヒヨドリなどのように木から木へ飛ぶのでなくて、空中を旋回しながら飛ぶ。ツバメは、空中で虫を取っているのであろう。
 5月のある日、晴れた空の上空に3角形の白い飛行物が北に向かって飛んでいるのを見た。最初、変わった飛行機だなと思って、見ていると、時折白い点がキラキラしているのが見えた。これはサギか白鳥かが、北の住みかに帰って行くのだと気が付いた。鳥たちが、はっきりした雁行陣を組んで飛んで行くのを見るのは、全く珍しい。

      2023.6.10
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NTTクレジットカード
  私は、4、50年前からNTTカードを持っていた。妻もNTTの家族カードを持っていた。今年の4月頃、このカード会社からNTTカードは7月末で廃止するという手紙がきた。NTTは後継のカードとして、dカードを推奨し、その申込書も同封してきた。私達は、dカードを申し込むため色々記入して、引落の銀行口座番号、暗証番号まで記入して返送した。
 約1カ月後、私宛にNTTカード会社から手紙が来て、申し訳ないがdカードは作れないと言ってきた。その理由は書いて無く、聞きたければ電話しろと書いてあった。私は、その理由は85歳と言う高齢のためであろう思っている。妻にも2カ月後、同じように、理由なしに断ってきた。
 私が、NTTカードを定期的に利用しているのは、東北電力の電気料金(月約1万円)と、ocnモバイルワン料金(月約600円)だけである。これらの対策として、私は、これらの料金を銀行口座引落に変更して貰うために、これらの会社に変更依頼の書類を送った。この手続きには1~2カ月かかるという。妻は、定期的にNTTカードを利用している会社はなく、利用しているのは、ネットによる買い物だけである。
 最近私は、普段クレジットカードを使うことは全くなくなった。以前は、旅行に出た時、JRの運賃やホテルの支払いにカードを使っていたが、コロナ禍でこの3年は外出はしなくなり、今後もしないであろう。以前は、ツアーの海外旅行でクレジットカードを使っていた。使うのは、お土産を買う時ぐらいである。現地の通貨で支払うのは面倒であり、カード払いで簡単に済ませていた。食事や入場料などは、ツアーの料金に含まれていたので、支払いの面倒は全くなかった。
 現在、クレジットカードを使うのは、ネットによる買い物だけである。店屋での品物選びは、その商品の仕様など全く分からない。その点、ネットでは仕様を知ることができ、納得して買える。私は、ネットによる買い物のため、楽天カードをつくり、引落の銀行口座は楽天銀行を使っている。この銀行には常時1~2万円を入れている。それがなくなれば、ネットで郵貯などから楽天銀行に振込んでいる。こうすれ、他人が私の楽天銀行口座から不正に現金を引き出しても、金額が少ないので被害は少ない。
 アマゾンショップでは、私のメールアドレスを使って、私になり替わって品物を注文している者がいるようだ。時折、アマゾンから私のメールに「支払い方法が確定していないので出荷できません」という連絡が入る。これは、私の名前をかたって注文しているが、クレジットカードの情報だけは分からないので、金が払えないのであろう。私は、このようなメールは全て迷惑メールに移動している。アマゾンには、私のクレジットカードの登録はしていない。私がアマゾンで買い物をするときは、近くのファミリーマートで現金支払いをして、そのファミリーマートで品物を受け取るようにしている。送料は無料であるが、時間と手間はかかる。
 私は、ヤフーや楽天で買い物をするときは、楽天カードを使っている。カードで支払った後は、なるべく早く、そのカード情報を削除している。面倒であるが、買い物をする度にクレジットカード情報を入れて用を足している。妻は、60年来使用している化粧品をネットで購入している。以前は、宅急便の現金払いで荷物を受け取っていたが、宅急便の人も手間がかかるので、クレジットカードでネットで先払いして、荷物だけ自宅で受け取っていた。この妻のカードは、NTTカードであるので、他のカードを作らなければならない。私が妻に代わって、別の2、3のカード会社にカード入手を申請していた。
 JCBカードは審査が簡単に通って、妻のカードを入手することができた。ただ、このカードは年会費が1300円かかる。1ヶ月100円程度だから、それほど負担にならないであろう。口座引落は妻の銀行口座からである。三井住友のカードも申請していたが、キャンセルできるフォームがネットにあったので、それを使ってキャンセルした。三菱UFJのカードも申請したが、審査に問題があるようで、音沙汰が全くない。私は、審査の不合格を望んでいる。一般のカード会社は、家族カードの支払い口座は、家族(例えば、妻)の口座は利用できないことになっているようだ。NTTカードは家族(妻)の口座引落が認められ、妻も自分の口座から引き落しされていた。これは便利なサービスであった。

      2023.7.10
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2023年夏の庭
  私達が種まきから育てている夏の花は、私が朝顔と、妻がヒマワリである。朝顔は、3年前からヘブンリーブルーという品種で、径が10cmほどの大きな青色の花を咲かせる。コーポデリのカタログで妻が見つけ、その種を買って撒いた。その年は順調に育ち、花も見事に咲いて、夏の庭は賑やかであった。昨年も同じように種を買って育てた。その年のヘブンリーブルーは元気よく、大きく育ち、花が咲くのが楽しみであったが、咲いた花は小さく、色もブルーではなかった。
 今年は、近くのホームセンターで朝顔の種を買ってきた。種の入った袋には西洋朝顔と書いてあり、写真はヘブンリーブルーであった。10粒ほどの種が入っており、6月の始めに種まきをした。ほとんどの種から芽が出て、少し大きくなったところで6ヶ所に移植した。6本の朝顔はつるを伸ばし、1m以上に大きくなっている。7月の末の時点でまだ蕾を付けていない。
 昨年、ヒマワリはコーポデリで種を買い、妻が撒いた。10本ぐらいの芽が出て、大きくなり、夏には花を咲かせた。今年は、ホームセンターでヒマワリの種を買い、撒いたが、芽が出たのは6本であった。7月の末の時点で、まだ高さ30cmぐらいである。妻とスーパーへ買物に行く途中、大きなヒマワリを妻が見つけ、羨ましがっていた。その頃の自宅のヒマワリは、高さ40cmに満たない大きさであった。
 我が家の庭には、ミニヒマワリが元気よく咲いている。花は、径が5cm程度で、ヒマワリを小さくした感じのものである。この正式の名称は判らない。これは、宿根草で5月頃地中から次々と芽が出て、30本ぐらいの茎が高さ80cmぐらいに成長する。7月の始めころから花が咲き始め、1ヶ月ぐらい咲き続ける。花の数が多いので、良く目立つ。これは、手入れを全く要しない、丈夫な花である。
 手入れの不要な宿根草は、他にもフロックスがある。庭には3ヶ所にこの草を植えてあるが、10年以上も前から植えてあるので、一番大きなフロックスは根の大きさが径50cmぐらいになっている。4月頃から新芽が出始め、6月には50本ぐらいの枝が高さ1mぐらいに成長し、6月末頃から約50個のピンクの花房の花が咲き始める。7月末には花全体が円錐状に形を整えて咲く。直径1m高さ1mの花の塊は緑の多い中で華やかである。ミニヒマワリは、枝が勝手に伸び、それぞれに花が咲くが、このフロックスは全体がきれいな円錐状に形を整えて咲く。自分たちでこのような形が整えられるのは、不思議であり、この植物の不思議な能力に感心する。
 庭には野菜を植えるコーナーを設けてある。きゅうり、ミニトマト、ピーマン、サツマイモを毎年植えている。サツマイモは、地に這わせると広い面積を占有するので、茎を上に伸ばしている。棒を2本両側に立て、上に1本のパイプを固定し、目の粗いネットをかぶせる。サツマイモの苗は、小さいポットに6個入ったものを売っているので、それを買って植えている。以前は茎を束にして売っていたものを買っていたが、根が出てくるのに時間がかかるし、根が出ないのもあって手間がかかる。今は、根付きの少し育った苗を購入している。これだと確実に大きく育てることができる。
 毎夏必ず買う草花は、一年草のサフィニアという苗である。この花は、サントリーが開発した苗のようで、長い期間赤い花を咲かせる。この苗は、径が30cmの鉢に植えて、1カ月後には多くの花を咲かせる。花は、径50cmぐらいに広がった多くの茎に、60個ぐらい付く。これが9月頃まで続くので、夏の庭には欠かせない花となっている。 

      2023.8.10
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 iPod
  アップル社のスマホには、iPhone、iPad、iPod(iPod touch)がある。iPhone、iPadは電話機能が付いており、iPodにはそれがない。私は長い間、iPodを持っていた。私は、iPodを「i文庫」の小説を読む道具として使っていた。私は、寝る前にベッドの中でiPodを片手に、20分ぐらい小説を読み、眠くなって寝ることを習慣としている。iPodは手のひらに入り、軽いので腕の疲れはない。iPodを何日も使っていると、電池の電気容量がなくなるので、充電しなくてはならない。1回の充電で10日ぐらい持つのであるが、最近はそれが短くなり、充電後20分ぐらいで電池切れになる。電池の劣化であろう。ネットで調べると、電池交換には2万円かかるとあり、さらにiPodそのものが廃盤品になるという。
 私はiPodに代わるスマホをネットで探した。私は、電話機能のあるスマホ(DIGNO)はすでに持っているので、電話機能のない(SIMフリー)スマホを探した。mi(小米技術日本KK)という、あまり知られていない会社のスマホを、2.5万円で買うことにした。これは、SIMを取り付ければ、電話機能が使えるが、私には別にDIGNOがあるので、SIMは不必要である。購入したmiの機種は、Radmi Note 11である。
 現在持っているスマホは、京セラのDIGNOという機種である。これは二つ折りタイプの旧型のスマホで、画面の指示は液晶パネルのタッチ式ではなく、全て数字や文字あるいは記号のボタンを押して、用を足す方式である。液晶を指で触って、画面を変えるとか、文字を拡大するとかはできない。全く使いづらスマホである。外出時のインターネットの接続は可能であるが、使ったことがない。接続を契約している会社はNTTドコモで、サービス名は、OCNモバイルワンである。このネットの使用容量は月500MBで、電話料金込みで月額550円の料金である。ネットは自宅のパソコンで用を足しているので、外出先でネットを使うことは全くない。そのため500MBを使うことはない。
 このDIGNOは外出時必ず持って行く。これは、何かの時の連絡手段である。電話は、めったに使わないので、電源は常時offにしてある。電話を使うときだけ、onにしているので、このスマホの充電は、ほとんどしなく、1年に1回程度である。このスマホには電話帳があり、知人などの電話番号を入力してある。自宅の固定電話には電話帳がないので、自宅でこちらから電話するときは、このスマホを使うことがよくある。
 街中でスマホを片手にして、歩きながら、あるいは立ってスマホを見ている人を多く見かけるが、何を見ているのか知りたいものだ。彼等はスマホを耳に当てていないので、電話ではないであろう。画面を見ているだけであるので、有名人のあるいは友達のSNSをみているか、グーグルなどのニュースを見ているか、あるいはゲームをしているかであろう。スマホの画面は小さいので、文字も小さいであろう。私は、彼等の様子を見て、よく文字が見えるなあ、と感心する。私は、年のせいかスマホの字は小さくて読むことができない。
 私が自宅で使っているパソコンの液晶画面は、横55cm、縦34cmの大画面である。そのため目が悪くても何とか字は読める。私がパソコンを使うのは、暇つぶしで、ゲームをすることが多い。ゲームは、カードゲーム(フリーセル)と、麻雀パイのブロック崩しである。これらを長年やっているが、飽きることがないのが不思議である。残り少ない私の人生であるが、残りの時間を社会のために役立つことを少しも考えてないのは、私が凡人である証である。

      2023.9.10
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2023年、真夏日
  暑さの表現は色々あるが、日本気象協会が発表したものによると、夏日は25℃以上、真夏日は30℃以上、猛暑日は35℃以上、酷暑日は40℃以上となっている。これを以上という言葉を使わずに、数字で表せば、25℃~29℃が夏日、30℃~34℃が真夏日、35℃~39℃が猛暑日、40℃を超えると酷暑日、となる。この夏で酷暑日は少なかったが、猛暑日は全国で毎日のようにあった。福島県でも猛暑日は会津地方、福島市に多く、9月中旬まで度々観測された。矢祭地方は連日真夏日で、9月後半まで続いた。9月末になってやっと夏日になった。
 福島県の気象は、浜通り、中通、会津地方に分けて天気予報が示される。浜通りは、海洋性気候の穏やかな気候である。会津地方は、日本海側にある1600mの飯豊山などの麓にある盆地であり、典型的な盆地の気候である。中通は、北から南へ福島市、郡山市、白河市などがある地域である。福島市は、吾妻山、安達太良山の麓の街で、どちらかと言うと盆地気候である。矢祭町は中通に属しているが、県の南端にあり、浜通りのいわき市の気候に近い。私は、矢祭町の天気予報の最高温度については、いわき市の最高温度を参考にしている。いわき市の今年の夏の最高温度は、真夏日が最高で、猛暑日はなかった。福島県で、猛暑日が多かったのは、福島市、会津若松市であった。郡山市は近くに高い山はなく、猪苗代湖があるので、真夏日のみであった。大きな湖が気候に与える影響は大きい。
 今年の梅雨は、はっきりしなかった。梅雨前線も小さかったが、その代り線状降水帯が九州で発生し、大きな水害をもたらした。9月以前の日本に上陸した台風は、九州と関西だけである。9月には、台風13号が関東南部から東北の太平洋側へぬけた1個だけである。福島県の梅雨は、長雨はなく、単発的に発生するゲリラ豪雨だけであった。当地矢祭地方も雨は少なく、5~10分の豪雨が時折降るだけで、梅雨らしい長雨はなかった。
 台風13号が福島県の浜通りを通ったおり、線状降水帯が発生し、いわき市に大雨をもたらした。床上浸水、土砂崩れなどの被害が発生した。被害総額は、22億円と言われ、死者も1名出た。福島県の浜通りと中通の間には、阿武隈山系という山(標高700m~200m)が連なっている。当地矢祭町は、いわき市に隣接しているが、間に阿武隈山系がある。そのためか、いわき市が大雨の時も、矢祭町では雨は全くなかった。いわき市の床上浸水は、1000戸を超えており、後始末に多くのボランティアが各地からやってきた。老齢の家主が多い中で、ボランティアの働きが感謝されていた。
 我が家では、夏から初秋にかけて日照りが続いたので、庭の木々は元気で、雑草も元気であった。私は、この雑草を抜くのに苦労し、暑い中15分ぐらい草ぬきをすると、歳のせいか疲れてしまう。20分ぐらい日陰で休息し、また草ぬきをするという繰り返しで、庭仕事をしていた。しかし、なかなか草取りは、はかどらない。今年は熱中症が多いというので、私も気を付けていた。そのおかげで今年の夏は、熱中症とは無縁であった。
 私の今年の暑さによる被害は、体の方々にできた「あせも」である。庭仕事で大汗をかいて、休むためイスに座るという繰り返しを毎日おこなっていた。そのため、背中にあせもができてしまった。前のお腹の部分にも大きなあせもができた。かゆみがあるので、塗り薬(フルコート)をぬっているが、簡単には直らない。秋になって気温が下がると、あせもは直るのではないかと期待している。

      2023.10.10


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健康器具
  我が家には健康器具が3台ある。1台は、10年以上前に購入した歩行器である。これは普段使わないが、雨の日、外で庭仕事ができないとき、このマシンを使って運動する。歩く速度で5分間歩き、10分休み、また5分歩くという運動である。距離にして約4kmの歩行であるが、結構疲れる。
 2台めは足踏み器(フットステッパー)である。これは、テレビなどで草笛光子がこれを使って宣伝していたのを見て、5年前ぐらいに購入したものである。これは主に妻が利用している。足腰の衰えを防ぐために、妻が週2回利用している。妻は、これを歩行器の横に置いて、歩行器のハンドルに片手を握って足踏みをしていたが、最近はどこにも掴まらずフリーハンドで足踏みができると、妻は喜んでいた。
 3台目は、足を乗せる振動器である。これは、両足を乗せて、上下に振動させる装置である。私は毎朝CD音楽を聞くとき、イスに座り、足をこの器具に乗せて、10分間振動させている。振動の速さと時間は調節できる。本来はこの器具の上に立って、振動させるのが効果があるのかもしれない。腰から下の筋肉に振動を与え、筋肉が強化され、100歳になっても歩くことができる、というのがこの器具の宣伝文句である。私の場合、全体重を載せていないから、筋肉強化にどれほど効果があるか分からない。
 座ってこの器具の上に足を乗せて振動させていると、「貧乏ゆすり」をしているような感じである。私が子供の頃、私の父が、度々貧乏ゆすりをして、母からみっともないから止めてくれ、と言われていたことを思い出した。当時、中学生の私と、同学年の大家の息子とが我が家の座敷で英語の勉強を父から受けていた。私達は座卓に正座し、父はあぐらをかいて英語を教えていた。その際、父が時折貧乏ゆすりをしているのを見ていた。私達の発音が気に食わなくて、父がいらいらしている時に、この貧乏ゆすりをしていたのであろう。
 その後、私は無意識のうちに貧乏ゆすりをしていたようである。社会人になってそれに気が付いて、びっくりしたことがあった。私の職場仲間と出張で、列車の座席に座って話をしている時、彼は黙って私の膝をおさえた。私が貧乏ゆすりをしているのを、彼がとめたのである。彼は、私の貧乏ゆすりが気になって、やめてくれという意味で、手で私の膝を抑えたのであろう。その後、私は貧乏ゆすりに対して注意して、すっかり止めていた。今度の振動器で、再び貧乏ゆすりの癖が出るかもしれない。注意しなければならない。
 私達は10月末、7回目のコロナワクチン予防接種を受けた。以前は広い会場で、町内の100名以上が集まって接種を行っていたが、昨年から個人病院で都合の良い日時を選んで、接種を受ける方法に変わった。私達が接種を受ける日には、病院に約10名が集まって、受付順に接種を受けた。集まった人達はほとんど高齢者であり、付き添いの人を連れてくる人もいた。そのうち2~3人は腰が曲がっているのを見つけた。5年前に会った私の長姉は、腰が曲がっていた。長姉は、土産物屋のような店を持っていて、通路を掃除したり、商品の埃を払ったりしているうちに、腰が曲がったのであろう。私も庭の草取りで、腰を曲げているので、そのうち腰が曲がってくるのか、心配している。以前、ぶら下り器が流行ったことがあったが、それを使えば腰の曲がりは防げるかもしれない。しかし、家の中でぶら下がり器は場所をとるので、買うつもりはない。私は、腰を伸ばす運動だけで、腰の曲がりを防ごうかと思っている。

      2023.11.10

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もみじ寺
  全国で、もみじ寺と言われているお寺は多数ある。茨城県大子町のもみじ寺は、世間にはあまり知られていない。インターネットで「もみじ寺」を検索すると、最初に出てくるのが、この大子町のもみじ寺である。この寺は、正式には永源寺と言われ、1446(文安3)年に創建された曹洞宗の寺院で、七福神の紅一点で、芸能の神である弁財天が祀られている。1864年に天狗党の乱で寺の大半を焼失した。現在の本堂は、1953年に再建されたものである。
 もみじ寺と言われるお寺は特に京都に多いようだ。これらのもみじ寺は、地元の人、観光客あるいはツアー業者が名付けているようで、京都でこの名前を使うと、もみじ寺が多くて、観光客が困るであろう。もみじの木は、先端の枝が細くて多く、枝についている葉が横に広がっているので、柔らかな感じを与える。そのため、お寺には好まれるのであろう。もみじによく似た木にカエデがある。もみじは、紅葉と書かれ、葉の切れ込みが深い。それに対して、カエデは、葉の切れ込みが浅く、もみじと同様な色に変化する。
 大子町の永源寺、もみじ寺は、他のもみじ寺と違って、寺が「もみじ寺」と自称しており、もみじ寺と書いた石碑を立てている。このもみじ寺の特徴は、もみじの他に多くの石像が境内に立てられていることである。石像は全部で50体ぐらいであろうか。そのほとんどが小さな子供の石像である。頭がまん丸であるから男の子か女の子かはっきりしない。永源寺本堂の前の参道には、大人の石像があり、その足もとには6体の子供の石像が並んでいた。弁財天を祀っているので、大人の石像は母親であろう。多くの子供の石像の中には、髪を後ろに結んだ像があった。これは明らかに女の子の石像である。
 私達は、コロナ禍のためこの4年間、遠出はしなかった。外に出るのは、買物のため、車で15分ぐらいのスーパーのみであった。私達は、久しぶりにこのもみじ寺へ出かけようと計画した。もみじ寺がある大子町は、茨城県の最北端で、私達が住んでいる矢祭町とは隣接している。大子町は、国道118号沿いに、広いショッピングセンターをつくっており、そこには色々な分野のショップがある。コンビニ(セブンイレブン)、ドラッグストア(ウエルシア)、ホームセンター(カインズ)、スーパーマーケット(たいらや、リオンドール)、衣料品店(しまむら)、電気店(ケーズ)などがまとまってある。私達も週2回車で、このセンター街のスーパーマーケットへ出かけている。自宅から車で15分の距離である。
 大子町のもみじ寺は、JR大子駅から徒歩15分の距離であると、寺のホームページに書かれている。私達は11月9日、このもみじ寺へ出かけた。車を大子駅の駐車場に置き、そこから歩いて寺へ行く。私達はこの4年間、15分も歩いたことがなかったので、私は歩くのに不安であった。そこで今まで使ったことがなかった杖を持って歩いた。もみじ寺は、近くの低い山の中腹にあり、駅付近から肉眼で見える。この寺は、平地から標高差50mぐらいの位置である。途中、水郡線の小さな踏切があり、そこには警備員が一人立っていた。踏切の道幅は狭く、車一台が通れるぐらいである。踏切に置いてある敷き石は凸凹が激しく、歩くのにつまずきそうになる。警備員がいる理由がわかった。
 寺の山門に行くまでには、スロープの道と長い石段がある。私達は、スロープの道を歩いて、山門までたどり着いた。駅から約20分かかった。山門の前の石段を上がり、参道を約30m歩くと、6段ぐらいの石段があり、すぐ前に本堂がある。私は、杖のおかげで本堂までたどり着くことができた。石段には手すりがあるはずであるが、ここにはそれがない。ある年を取った人は、山門の石段の所で引き返していた。高齢化社会の今では、石段の手すりの設置は必要であろう。
            2023.12.10
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春うらら2024年
  私達の自宅の隣の敷地は、長らく空き地であったが、昨年11月に買い手がついて、建物の建築が始まった。年内には完成し、家族が引っ越してくるのかと思っていたが、完成は年を越した。私は、今の自宅の土地を1998年に土地造成者の矢祭町から購入した。土地の面積は158坪で、売価は991万円であった。隣の土地は166坪で、売価は1052万円であった。この隣の土地は、この団地の中で最も敷地が広く、値段も最も高かった。当時、隣の土地は、東京、品川区の人が購入していたが、3、4年後売却した。その後長らく買い手がなく、不動産屋の売却物件になっていた。
 私は数年前、この土地の値段を不動産屋のホームページで調べてみると、500万円となっていた。これは、当初の半額以下の売価である。この土地は、南北に長く、北側は道路に接している。南には町のフェンスがあり、その南は町有地と小さな沢があり、その先は畑地と荒地である。人家は約100m先にあり、誰からも覗かれない。この土地は、いわば団地内の一等地である。敷地の南東方向には森があり、冬場は朝9時頃まで敷地の一部に日が当たらない。これが唯一の欠点であろうか。この土地の所有者は2名で、その関係は分からない。親子かもしれない。
 暮れには、総二階建ての骨組みが出来て、陸屋根の屋根材を敷いたようである。最初建物の周囲は断熱材で覆われていたが、窓のサッシが付けられた。南側には広いサッシが、東側には2階にだけ小さな横長のサッシが2個、北側はサッシを付けていない。この敷地の利用の仕方が不思議であった。敷地の南約三分の一の所に、東西方向に立派な高さ60cmのブロックが設置された。ブロックの南側は放置されている。ここの空き地を何に使うのか? 私は、ドッグランを作るのではないかと予想している。妻は、小屋を建てて、塾のようなことをすると想像している。
 私は、昨年の暮れに4泊5日の入院をした。症状は、朝起きた時、体がふらつき、何処かを掴まらないと歩けない状態であった。町内の東館診療所に行って、診てもらうと、色々検査した方がよいと言われ、隣町の慈泉堂病院に入院した。この病院は、東館診療所と業務提携しており、両病院の行き来は専用の車が利用できる。病院に着くと、医者から、血圧などが測られ、問診をうけ、個室に案内された。すぐ点滴を受けた。点滴は2種類で、血液の栄養剤と、ふらつき止めの液体であった。入院には色々な検査を必要とするので、それを受けた。血液検査、脳と心臓のCTスキャン、胃などのレントゲン検査などを3日間受けた。別の日にはMRIの検査を受ける予定である。人間ドックに入った感じである。
 入院3日目の朝、体のふらつきはなくなった。点滴は夕方全部外された。私は、脚の筋肉を鍛えるため、部屋の中を歩いたりした。部屋には小さなテレビがあり、暇だから見ていたが、突然電源が切れてしまった。このテレビを見るには、専用のカードが必要で、1枚1000円(10時間分)で売店に売っている。売店は1階にあり、そこで新聞とカードを購入した。今まで使っていたカードは、前の入院者が使っていた残りであろう。約3時間残っていた。
 5日目の朝、退院の許可がおりた。入院費用は3.7万円であった。支払いは、矢祭町の東館診療所でOKと言うので、後日支払うことにした。医療保険を使っていることにしても、予想より安かった。入院時の食事は朝昼晩の3食で、部屋はトイレ付きの個室であり、看護婦のケアが度々あり、部屋の掃除も毎日行われた。
 退院後のからだのふらつきはなくなった。なぜこのふらつきが急に発生したか、医師もはっきり言わなかったし、判らないようだ。私は、1ヶ月前に振動器を購入して、それを毎朝10分間使っていた。イスに座って、これに両足を乗せると、振動が足から太ももに伝わり、下半身の色々な筋肉が強化される気持ちになる。入院する前は、この振動器の上に立って振動させていた。この状態では、振動が背骨から頭(脳)に伝わり、脳が揺れている感じになっていた。この脳への振動が、私のふらつき発生の原因だろうかと考えた。そのため、退院後は振動器の上には立たないことにしている。

            2024.1.10
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テニス
  私は、長年趣味の運動としていたテニスを、2023年12月で止めてしまった。理由は、2、3年前から右ひざを痛めて、瞬間的に走れなくなったからである。最近の私のテニスは、22年前から棚倉町のルネッサンス棚倉のテニス教室で、多い時は週3~4日、教室の生徒と,あるいはテニス仲間とテニスを楽しんでいた。最近は週1回の教室のテニスだけにした。そこでも教室の人達に迷惑をかけるので、止めることに決心した。私の動けないテニスに、テニス仲間は気を配って、私が動ける範囲に球を返してくれる。そのような親切さに有り難く思っていた。12月の最後のレッスンには、菓子折りをもって別れの挨拶をしようとおもっていたが、その日体がふらつき入院してしまい、最後のレッスンには参加できなかった。
 この棚倉ルネッサンスのテニスコートは、屋外コートの22面と、屋内コートの4面がある。テニス教室は屋内で行われている。私が参加していた金曜日の昼の部は、11時から12時半までの1.5時間である。メンバーは女性6名、男性は私を含めて2名であった。女性は50歳代から60歳代で、元気はよい。彼女らのコート内での走りは速く、前後の動きも速い。教室では、女性と1対1でボールを打ち合うことがあるが、その時は彼女らのボールを追う速度が速くて感心する。この時の相手の女性から私に返ってくるボールは、緩やかであり、コースも私の正面に返してくれる。私が足が悪くて動けないのに対して、気を使ってくれているのがありありと分かる。そのような人の他に、強いボールを遠慮なく返してくる女性もいる。ボールの打ち合いは、相手との距離は10mぐらい離れているが、返ってくるボールの動きで相手の心情が察しできるのは面白い。
 22年前にこの教室に入った当時、教室のクラスは、中級と初級の二つに分かれていたが、中級のメンバーが少なく、その後初中級として、一つに併合した。当時、私は中級で参加していた。そこに女性が多い初級の人達が入ってきた。当時の彼女たちのテニスは、現在の私のような緩慢な動きのテニスであったが、今では彼女たちは中級クラスの実力となった。それに対して、私は初級クラスのテニスになり、完全に逆転してしまった。女性のメンバーは、当時とあまり変わらないが、途中比較的若い二人の女性が参加した。その後、夫の転勤のため地方へ移住したので、彼女らはいなくなた。病気でなくなった人もいた。
 私がテニスを始めたのは、今から65年前の21歳の時である。当時、私は徳島大学工学部(当時)に在籍していた。徳島大学は、入学して最初の2年間は一般教養として徳島大学学芸学部(当時)で受講することになっていた。工学部と学芸学部のキャンパスは隣接しており、私の下宿先から学芸学部に通うことができた。医学部と薬学部は、徳島市の西端にあり、学芸学部から約5km離れていた。医学部、薬学部の学生は、最初の2年間は学芸学部の近くに下宿していたようだ。一般教養の授業では工学部の学生と医学部、薬学部の学生と同じ教室で授業を受けることがあった。
 学芸学部のキャンパスには軟式テニス用のコートが4面あった。小中学校の教師を養成するこの学部には、テニス競技の授業もあったのであろうか。私は、時折このコートで学芸学部の学生が軟式テニスの練習をしているのを見た。ボールの打ち合いでは,ラケットを激しく振り回している姿が見られた。昼休みの時間帯には、硬式テニスを楽しんでいる学生もいた。その学生たちは、医学部の学生であった。医学部の学生は、多くは関西地方からきた人達で、工学部の学生とは違って、大人びた雰囲気を持っていた。彼等は、医者の息子たちで、関西地方の大学には入学できず、少し離れた徳島に流れてきたのであろう。彼等は、関西の地元で硬式テニスを楽しんでいたようである。
 彼等が楽しんでいる硬式テニスは、ボールの打ち方が軟式テニスとは全く違うことを、私は知った。彼等のボールの打ち方は、フォアーもバックもスライスであった。これを見て、私は、友達を誘って硬式テニスをやろうと決めた。硬式テニスのボールは軟式のものより重く、ラケットも重い。軟式のラケットで硬式のボールを打つと、ラケットは折れるであろう。当時の硬式のラケットは木製で、軟式のラケットよりフレームが厚く、重量も重い。私が初めて買った硬式ラケットは、ミズノ製の木製であった。フタバ製の竹を材料にしたラケットもあったが、値段が高く買えなかった。その後、アルミの金属製ラケット(ヘッド製)が出て、私も買って使ってみたが、腕が痛くなって使用するのを止めた。
 その後、ラケットの素材は、FRP製になり、それが現在まで続いているようである。ラケットもサイズが大きくなり、厚みも大きくなった。私もウイルソンのFRP製ラージサイズラケットを使ってきた。これは、フレームの厚みは厚く、幅も広いが、結構軽い。フレームの中は空洞になっているのであろう。ラケットのメーカーは、その後ミズノとフタバは撤退した。代わって現れたのは、ヨネックス、ヘッド、ウイルソンである。
 以上、テニスについて最近のこと、および始めた頃を思い出して書いてみた。

            2024.2.10
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テニス2
  私は、62年前大学を卒業して、京都市にある第一工業製薬(株)に入社した。この会社は、JR京都駅のすぐ西にある列車操車場(当時)の北側にあった。本社、工場、研究所が狭い敷地にまとまってあり、通勤などには便利な所であった。テニスコートなど運動する場所はなく、社員は、研究所の建物の3階にある講堂に置かれた卓球台で、昼休みに卓球をするぐらいであった。同期に学卒で入社した人の中に、一人だけテニスをしていた人がいた。その人とは、独身寮であった洛西寮の近くの小学校の校庭で、一回だけテニスの打ち合いをした。
 入社3年後、新聞の広告に日本ポリウレタン工業(株)の求人広告があったので、私はそれに応募して入社した。配属先は横浜にある技術研究所であった。その時の研究所とは、名ばかりで、親会社の保土谷化学の保土谷工場で、使われなくなっていた古い大きな倉庫の建物の中に、プレハブで造った部屋と実験室を研究所としていた。敷地が広かったので、テニスコート1面を設置することができた。私は、そこで久しぶりに昼休みにテニスをすることができた。使われていない倉庫の壁を相手にして、「壁打ち」をすることもできた。
 何年か後、私は山口県の新南陽市(当時)にある南陽工場へ転勤になった。ここは、化学系のコンビナートの一角であり、この会社の広い敷地には色々なプラントが建てられていた。敷地には3面のテニスコートがあり、昼休み、終業後にテニスをする人が多くいた。社員のテニスのレベルは高く、国体の地域の選抜に出るような社員もいた。彼等に鍛えられ、私もテニスが上達したような気がした。
 3年後、私は再び研究所勤務になり、横浜に戻った。研究所は新しく戸塚に建てられた。その場所は、戸塚区秋葉町で、東海道線の戸塚駅と東戸塚駅の中間付近の線路沿いにあり、付近は他社の工場が多くあった。研究所の敷地内には一面のテニスコートがあり、昼休みにはそこでテニスを楽しんだ。テニスをする人は多く、コートでテニスをするには順番待ちが長いので、コート横で相手を見つけて、ボレー/ボレーをして体を動かしていた。
 私は、62歳で日本ポリウレタン工業を定年退職した。暇になったので、当時大船駅の近くにあったドリームランド付属のテニスクラブに入会したり、東戸塚駅の近くの個人が経営するテニス教室に通ったりした。私は、退職して2年後、戸塚区柏尾台にあった自宅を売却して、現在住んでいる福島県矢祭町に家を新築して住み始めた。テニスを再開しようと思い、ネットで調べると、水戸市に「スポーツクラブ ルネサンス 水戸24」があるのを知り、早速申し込んでテニスを始めた。ここは、3階建ての建物の中の2階のフロアーをコートとして使い、上部は3階フロアーをぶち抜いていた。それでも高さがあまりないので、ボールを上にあげると、天井に当たっていた。
 このクラブまで、自宅から車で70分かかり、あまりにも遠いので、近くのクラブを探していた。棚倉町に「ルネサンス棚倉リゾートスポーツプラザ」というスポーツクラブがあることを新聞折り込みチラシで見つけ、早速入会を申し込んだ。このクラブは自宅から車で35分のところにあり、水戸とは半分の距離である。テニスコートは屋外コートが22面あり、その他、屋内コート専用の建物がある。その屋内コートには4面のコートがあり、高さも十分とってある。私は、昼間の初中級クラスに参加していた。レッスン料は、週1回で7600円/月である。ここで22年間テニスを楽しみ、昨年12月に退会した。その後は、クラブにあるジムに週2回通っている。ジムの参加料は、平日会員で7600円/月である。
 以上、私の趣味のテニスについて、その経緯を記した。

            2024.3.10
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ドアノブ
  我が家の建物は、23年前建てたものである。これは総2階建てで、ドア、襖(フスマ)などで仕切られた部屋は、物置、トイレなどを含めて17ヶ所ある。部屋に取手(ドアノブ)の付いたドアは11ヶ所ある。この取手付のドアは、閉めたとき、ストッパーがはたらき、閉まるようになっている。ドアを開けるときは、取手を下げると、ストッパーが解除してドアが開く。
 我が家には、トイレのように出入口が1ヶ所しかない部屋のドアは、全部で8ヶ所ある。このドアが破損して開かなくなった場合、中に入っている人は閉じ込められてしまうことになる。家に本人以外に誰もいない場合は、大変なことになるであろう。我が家では、このドアノブの破損は過去2回あった。1回目は3年前、1階のトイレのドアノブが破損した。私がドアを開けた時、ドアノブが折れてしまった。幸いトイレを出た時に破損したので、トイレに閉じ込められることはなかった。私は立っている時、体のふらつきを予防するため、時折ドアノブにつかんで、自分の体重をドアノブにかけることがある。その時にドアノブが折れたのであろう。このドアノブを修理するため、ネットでドアノブを調べると、サイズが同じものがあったので、それを注文して無事取り付けることができた。ドアノブの価格は約4000円であった。
 2回目のドアノブ破損は昨年の10月頃であった。台所の出入り口のドアノブが抜けてしまった。ストッパーが働いたまま抜けたので、開閉ができなくなってしまった。この台所のドアは、別の部屋から回って、ドアの反対側に行くことができる。私は、ドライバーを使って、反対側のドアノブを分解して、ストッパーを解除することができた。このドアノブを外して、新しいドアノブをネットで注文して、取り付けることができた。
 この2個のドアノブ破損は、幸い部屋に閉じ込められていない状態であったので、幸運であった。私は、頑丈そうなこのようなドアノブが破損するとは、全く思っていなかった。トイレでこのような破損が起きたら、私は大声を出して、助けを呼ばなくてはならない。妻が庭などに出て、近くにいなければ、長時間トイレ詰めになる。妻が近くにいても、妻はドライバーでドアノブを分解できるとは思えない。町内の建具屋などに電話して、来てもらわなければならないが、妻は、建具屋の電話番号を調べることからやらなければならない。手っ取り早く110番に連絡することになるが、これでは近所の人は、「雪隠詰め(せっちんずめ)」だと言って、笑うであろう。
 「二度あることは三度ある」ということで、私は、個室に付いているドアノブをストッパーが効かないようにして、三度目の破損があっても、部屋に閉じ込められないようにした。ドアノブのストッパーが入る穴には、上下にねじ止めされた穴の付いた金具が、柱に取り付けられている。この穴を塞げばストッパーは利かなくなる。塞ぐ方法は、トタン板を金具のサイズに切って、金具の上にかぶせ、上下にねじ止めする。この方法で、トイレ、個室のドア、7ヶ所を実施した。
 その後、よく考えると、バスルームにもドアノブ付きのドアがあることが分かった。ここでドアノブの破損で締め切られると、バスルームには細長い窓はあるが、人の出入りはできない。ここもストッパーが効かないようにした。これで我が家は、ドアノブ破損による災難は皆無になるであろう。

           2024.5.10
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ドクダミ草
  6月号で書いていたこのタイトルの内容が、6月初めの自宅パソコンの不具合で、画面から消えてしまった。この内容は、春先の我が家の庭に生えてくる雑草についてであった。今回はこれらを思い出しながら書いてみたい。
 春先の庭に生えてくる雑草は、主にドクダミ草とスギナであるが、圧倒的に多いのがドクダミである。我が家の敷地の面積は157坪であり、そのうち21坪が建物である。残りの136坪は更地であるので、約40坪を残して、全部コンクリートを打ってもらった。この残り40坪が雑草が生える庭になるが、四方に通路をセメント板で作り、1坪程度の区画を多くこしらえ、それをレンガブロックなどで区切った。ドクダミが生えるのは約1坪の区画内である。
 区画には、ドクダミが生える区画と、全く生えない区画があることに最近気づいた。ドクダミは地下10cmぐらいのところに地下茎を持っており、その地下茎からドクダミが地上に出てくる。ドクダミがある区画は、ほおっておくと一面にドクダミが現れるので、その除去に忙しい。セメント板の通路とレンガブロックのわずかな隙間からも、ドクダミが現れる。私は、これを除去するために除草剤を使った。除草剤は「ラウンドアップ」という商品名で、これを水で約50倍に薄めて、刷毛を使ってドクダミの葉に塗る。塗って5日目頃になると、ドクダミは枯れてしまう。この除草剤は地下茎まで枯らすのであろう、1カ月過ぎてもドクダミは現れない。
 庭には植木屋から植えてもらったマロニエの木がある。20年以上経っているので、木の高さは4mぐらいになっている。この木の根元周りに、色々な雑草が毎年生えてくるので、昨年粒状の除草剤をまいた。その効果で雑草は生えなくなったが、マロニエにも影響を与えてしまった。マロニエは落葉樹で、冬は枝だけになり、春には新芽が出て、大きな葉を成長させる。しかし、今年6月になっても新芽が出なくなった。除草剤を撒くときは、近くの樹木に注意しなければならない。ドクダミに除草剤を使うときは、先にも述べたように、刷毛塗りで行っている。スプレーで撒く方法もあるが、液が不必要なところに付着するし、除草剤を含んだ水蒸気を人が吸う恐れもある。
 ドクダミ草からどくだみ茶が得られる。私は、どくだみ茶が近くのスーパーに売ってないか調べたが、置いていなかった。ネットでどくだみ茶を調べると、ドクダミにはカリウムやマグネシウムなどのミネラルを始め、ビタミン類やフラボノイド類など、さまざまな成分が含まれている。そのお茶の効能としては、血流を促進し、毛細血管を強化する、カリウムが利尿作用を発揮し、塩分や老廃物を排出する、抗菌作用や排膿効果で傷口の回復を早める、便秘を改善する、抗酸化作用や抗炎症作用で美肌や冷え性を改善する、入浴剤としても使用できる、など盛りだくさんである。このように、どくだみ茶の効用は優れているが、名前が毒を連想させていけない。
 どくだみ茶を煎じる場合、お湯は60℃以下にするように、とある。それ以上だとカリウムが飛んでしまうからだと、説明があった。カリウムが単独で飛ぶことはありえない。どくだみ茶に含まれるカリウムは、弱い結合のカリウムの錯体化合物として存在するのであろう。高温では、その化合物が分解して他の安定な化合物に変化するのであろう。そのためにその効用はなくなると思われる。

           2024.7.10
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タブレット
  インターネットに接続できる機器には、その大きさにより、スマホ、タブレット、ノートパソコン、ディスクトップPCがある。その大きさは、機器にある液晶画面の長さで現わし、その対角線の長さをインチで示している。ちなみに1インチは2.54cmである。標準的なスマホは、5インチであり、タブレットは10インチである。ノートパソコンは15インチが標準のようである。ディスクトップPCは本体があり、液晶画面、キーボード、マウスは別に付けている。我が家のディスクトップ用の液晶画面装置は23インチである。
 我が家にはディスクトップPCの他に、ノートパソコンが2台、タブレットが6台、スマホが3台ある。スマホの3台のうち1台だけが電話機能を入れている。ほかのタブレットとスマホは、Wifi機能だけ持たせ、ネットの閲覧に使っている。2台のスマホはアップル社のipodで、一番古いipodは故障して使えない。比較的新しいipodはベッドの横に置いて、インタネットラジオをイヤホンで聞いている。ベッドには7インチのタブレットも置いてある。これは、寝る前に青空文庫の小説を読んでいるのに使っている。
 ノートパソコンは2台ともヒューレットパッカード製で、1台は妻がゲーム用に使っている。もう1台は、私がディスクトップの横に置いている。私のノートパソコンの液晶表示、キーボード、マウスは、ディスクトップPCと共用して使っている。それには3台の切り替え装置を付けており、手でボタンを押して、切り替えをしている。このノートパソコンでゲームをするときは、広い液晶画面でできるので、ストレスがない。電気代は、ノートパソコンの場合、ディスクトップPCの約4分の一である。つい最近、このノートパソコンの動きが悪くなったので、東芝製の2.4万円のノートパソコン(中古品)に買い替えた。
 6台のタブレットは、何故こんなに多く持つようになったのか、わからない。いつの間にか多くなってしまった。タブレットは、正式にメーカー品を買うと、1台3万円以上はするであろう。私が買ったのは、中国製、あるいは中国製の中古品で、1台1万円以下である。これらのタブレットの機能は正常に働いており、不便さは全くない。タブレットを使う頻度はあまりないが、家の中の別の場所でネット検索などをするときは、このタブレットを使う。その程度であるから、6台の中で使っているのは2台だけで、あとは遊んでいる。この使わないタブレットをどうやって処分するか悩んでいる。
 タブレットでよく使うのは、ベッドに置いているipodである。これはイヤホンを付けて、毎晩聞いている。聞いているのは、NHKのネットラジオの「ラジルラジル」である。夜の11時から翌朝の5時までの番組を音を小さくして聞いているので、睡眠に障害はないであろう。11時頃にはトーク番組があり、そこで女性が喋る番組がある。彼らは、大声で笑ったり、喋ったりすることがある。これにはさすがに睡眠が妨害される。この様なときは、NHKを止めて、fmクラシックという番組を聞くことにしている。
 fmクラッシクは、クラシックのポピュラーな短い音楽を流している番組である。1曲約5分の音楽が終わった後、短い英語の話題が入り、次の音楽を流す番組である。この番組は世界各国にあるようだが、日本にはない。私はロンドンからの番組を聞いている。ポピュラーと言われる音楽は、世界共通のようで、私が聞いて心地よいと感じる音楽がこのfmクラシックから多く流れてくる。

           2024.8.10
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ディスクトップPC
 我が家には私が毎日使っているディスクトップPCがある。これは、2015年6月に購入したDELL製のPCである。当時、約7万円で購入したメーカー製の新品であった。それの動きが最近鈍くなり、またウインドウズが古いWindows8で、新しいソフトの受け入れが難しくなってきた。思い切ってこれを廃棄して、新しくPCを買うことにした。
 今、デルの正規の本体だけのディスクトップPCを買うとすれば、15万円はするであろう。私にはこれからどれくらいの期間、PCを使うかわからないし、このような高価なPCは買えない。ネットでいろいろ調べると、新品でないPCが多く出されていた。購入したのは、「デルディスクトップPC」という商品名で、販売者は国内の「ワジュンPC」という会社である。この会社は、中古のデルPCを買い取って、「デルディスクトップPC3040」という名称でアマゾンから販売している。コンディションは新品と書いており、「整備済み品」としている。値段は3万円であった。
 これを今年の8月7日から使用しているが、問題なく使用できている。今まで使っていたソフト、ジャストのホームページビルダー、メールソフト、写真ソフトなどをこのPCにインストールして使用している。私は、ひまなときはゲームをしている。カードゲームのソリティア「フリーセル」と、麻雀ゲームの「上海」だけである。上海は、以前CDで買っていたものをこのPCにインストールして利用している。前のPCは動きが遅かったが、今度のPCは動きが速いので快適である。これだけでも3万円の価値があると、私は喜んでいる。
 JUSTのホームページビルダー(hpb)は、ソフトのCD版として、hpb2000を持っていたので、それを新しいPCに入れて使ってみた。このソフトは使いにくい。ネットで調べて、「hpb22体験版」が30日間無料で使えるのを知って、それをダウンロードして使ってみた。この新しいhpbは使いやすい。このソフトをCDで買うと2万円するし、ソフトのダウンロード版であれば、1万円という値段である。ダウンロード版を購入しようかと思っていた。
 私はソフトのCD版をいろいろ持っている。これらのCDを調べていると、「hpb17」と「hpb20」というCDが我が家にあることが分かった。早速、hpb20をPCにインストールした。書きかけのホームページの内容はSDカードにコピーして、そのコピーを新しいPCにインストールした。このhpb20は、体験版のhpb22と同じ内容のソフトであった。体験版は不要になったので、PCから削除した。
 メールソフトは以前からサンダーバードというソフトを使っていたので、そのソフトを新しいPCに入れて使っている。このソフトの使用料は無料であり、ボランティアの人たちが維持しているようである。時折、寄付の依頼がPC上に表示されており、私は数年前1500円を寄付した。しばらくしてまた寄付をしようかと思っている。
 写真ソフトは、マイクロソフトがサービスで入れている「フォト」とか「ペイント」を使うか、あるいはDropboxでも使ってもよい。後者は2GBなら無料で使える。これは写真の加工、サイズダウンなどにも使えて便利である。以前はアドべのフォートショップを有料で使っていたが、止めてしまった。

           2024.9.10 
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トラウマ
  最近、「トラウマ」という言葉を新聞やラジオで見たり聞いたりすることがある。私は、このトラウマが何を意味しているのか、分からなかった。トラウマの発声から、トラとウマを言っているのかと思っていた。虎と馬を並べて、どのようなことを言いたいのか。「虎の威を借りた狐」ということわざがあるが、「虎の威を借りた馬」では、おかしい。馬は従順な動物であるから、虎の威を借りてどうこうすることはないであろう。私は、心理学者がトラウマの言葉をラジオで言っていたのを聞いたことがあった。
 トラウマをネットで調べると、トラウマは心的外傷であり、外的内的要因による肉体的、精神的な衝撃を長い間受けることである、とされている。語源は、英語の「trauma」からきている。traumaを日本語風に発声するから、私のように虎・馬と聞いてしまう。英語の発音に近づけて、トラウ・マと発声すれば、虎馬を想像しないであろう。
 新聞でもトラウマという言葉を見ることがある。今年9月は自民党の総裁選で賑わっていた。ある日、自民党は共産党に対しては、トラウマである、というような記事が出ていた。このトラウマは、本来の心理的外傷という深刻な意味から離れているが、その言いたいことは分かる気もする。近頃は、トラウマのような外来語からの言葉がよく使われる。
 セクシャルという言葉もよく使われ、セクシャルハラスメント、略してセクハラは日本語になっているようだ。バイセクシュアルという言葉が最近の新聞で使われ、その言葉の解説が書かれていた。私はこの解説を読んでも、バイセクシュアルの内容が分からなかった。男性も女性も好きになれる人という簡単な説明も記述されていた。これは同性愛者、異性愛者ということであろう。バイセクシュアルとは、性別、年齢差にこだわらないで生活し、家庭を持つことであろう。欧米ではバイセクシュアルデーを設けて、その存在をアピールしているという。
 SAFプラントという言葉が新聞に出ていた。このSAFとは、Sustainable Aviation Fuelの略で、持続可能な航空燃料を意味しているという。これは、木くず、サトウキビ、古紙などを主な原料として製造され、従来使用されている化石燃料(石油など)からつくったジェット燃料とくらべ、CO2削減効果があると考えられている。この言葉は専門的な用語で、一般人にはなじみがない。
 オーバードーズという言葉も新聞で見かけたが、これは、over dose という言葉から具体的に予想される。つまり、薬を過剰に服用することであろう。過剰に服用すると体に好ましくないことは常識的に理解できる。これを改めて新聞に書くことには、何か意味があるのであろうか。ネットで調べると、近年、風邪薬や咳止め薬などを、本来の効能効果ではなく、精神への作用を目的として、適正な服用量を超えて大量に服用する「オーバードーズ」が、若者を中心に拡がりつつある、と出ていた。このようなことをする若者がいるとは、年寄りの私には信じられない。

           2024.10.10
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笑点
  笑点は、毎週日曜日午後5時半から30分間放送される地上テレビのお笑い番組である。私は、この番組を楽しみに、毎週欠かさず見ている。番組は、初めに10分間ぐらいの漫才、手品などがあり、その後、大喜利と呼ばれる出演者7名によるトークショー的なお笑いが20分ぐらいある。大喜利の司会者は春風亭昇太、メンバーは座っている順に左から右へ、三遊亭小遊三、春風亭一之輔、林家たい平、立川晴の輔、三遊亭好楽、桂宮治の6名、座布団運びの山田隆夫である。
 メンバーは、それぞれ特徴を持っており、特に高年齢者に現れる身体的問題点を意識的に表現している。三遊亭小遊三は、アランドロンに似ていると自称しており、高齢者の悩みとしては、頻尿、尿漏れに悩んでいる様を演じている。以前は袋とじをネタに笑わせていたが、今はなくなった。この袋とじが何を意味しているか、分からない人が多くなったのであろう。
 春風亭一之輔は高齢者の薄毛の悩みを演じている。本人は薄毛であり、ほとんど禿げ頭である。これは本来の体質からくるものであろう。林家たい平は、まだ若いせいか、高齢の悩みは演技できないようである。笑いの種は、司会者春風亭昇太の妻についての「何かあったかシリーズ」である。立川晴の輔は、最近加わったメンバーで、一番若い。回答もまじめな内容が多い。
 この晴の輔の席には、以前、林家木久扇が座っていたが、林家木久扇はつい最近引退した。彼自身は、高齢者であり、高齢によるボケや認知症を演じていた。ボケは演技ではなく、本人の地であるかのように演技して、観客を笑わせていた。彼の発言するときの表情も痴呆症に似せられ、相乗効果があり、人気者であった。彼が引退したのは寂しい。その隣に座っているのは三遊亭好楽である。彼は、現メンバーの最高齢者であり、木久扇氏のボケを引き継いでいるようである。その隣の席は末席で、若い元気のいい桂宮治である。若いので年寄りのボケなどの演技はできない。もっぱら観客の拍手を巻き込んだアクションで、雰囲気を盛り上げる役目をしている。
 朝日新聞の金曜日版には、一週間のテレビ番組の視聴率上位18番組を載せている。それにはこの笑点は5位ぐらいを保っていたが、最近は10位前後に落ちている。これは林家木久扇の引退によるものであろう。この番組の視聴者の年齢層は、おそらく若者はいなく、高齢者が多いであろう。高齢者は聴力が衰え、出演者が喋る声が聞き取りにくくなる。その対策として番組制作者は、出演者全員の発言を全て字幕で示している。私は、聴力はまだ衰えていないが、この字幕を見ながら、声も聞いてこの番組を楽しんでいる。
 毎週火曜日、午後8時から、1時間番組の「笑点特大号」をBSで放映している。私は、この時間必ずこのチャンネルに合わせて、この特大号を見ることにしている。私たちの夕食は、7時前から始まって、7時半には終わる。その後、私は横になってテレビを見ることにしている。テレビは板張りのリビングに置いてあり、私が横になるところはじゅうたんを敷き、その上にヒーター入りのカーペットを敷いている。冬には毛布などを掛けている。食事には少量のアルコールを飲んでいるので、私は横になってテレビを見始めると、次第に心地よくなり、特大号が始まる頃は寝入ってしまう。だから、笑点特大号は夢の中で見ている。高齢者は私のような食後のパターンが多いであろう。だから特大号のテレビ視聴率は、18位に入ったことはない。
 
           2024.11.10
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高齢者講習
  高齢者講習は、運転免許書き換えの前に行われる運転免許取得者教育である。私は、11月19日にこの高齢者講習に出席した。私の誕生日が3月24日であり、この日が免許更新の日である。私は、この日で年齢は87才になる。この講習会は最寄りの自動車教習所で行われるので、私は一番近い棚倉自動車教習所へ申し込んだ。当日は午後1時からであるが、10分前に行き、受講料7700円を支払った。受講者は私を含め6名であった。年齢の最高齢者は92才で、次は私の87才であった。その他は70才代であろう。杖を持って歩く人は3人いた。高齢者でも運転が必要である理由は、と講師から聞かれて、ほとんどの人は、日常の買い物に必要であると答えた。私もそうである。
 講習の最初は記憶力テストである。運転の能力や安全性に運転者の記憶力が何故必要なのか、私には分からない。テストは、プロジェクターにバイク、ラジオ、フライパンなどのイラストを12種類ぐらい見せて、それらを後で思い出して書かせるものである。イラストを見せた後すぐに書かせるのではなく、別の講義をした後、おもむろに書かせる。これは意地悪であるとしか思えない。私は、10種類のイラストを書くのに対して、8種類しか書けなかった。その後、ヒント、例えば「料理に使うもの」というヒントに対してその答えのイラストの名前を書かせるテストがあった。これには私は全部正解することができた。イラストを見せた時、私は小声でそのイラストの名前を2、3回繰り返して記憶させた。そのため1週間後もイラストの8割は思い出すことができる。
 この記憶テストに使うイラストは、警視庁ホームページの「認知機能検査について」の項に表示されている。そこには、イラストパターンA~Dの4枚があり、それぞれに6種類ぐらいのイラストが描かれている。自動車教習所はこの中から選んで問題を作っているのであろう。私は前からこれがあることを知っていたが、今回の講習会では、予め見てはいなかった。記憶に不安がある人は、これを知って、見ておくとよいであろう。
 講習会では、ビデオで「あおり運転」の危険性について見せてくれた。今ではこのあおり運転をした人は刑罰に処せられることになっている。これを訴えるには、車にビデオカメラを設置しておかなければならないというのが面倒であろう。講習会では目の検査があった。私は最近視力の衰えを感じており、測定してもらった結果、メガネをかけても0.3であった。この数字がどうであるか、講師はコメントしなかった。
 運転には視力ほどでもないが、聴力も必要であろう。講習会では聴力の検査はない。私は、聴力には自信があるが、最近「聞き分け」には自信がない。ラジオで聞く女性の名前で、「マリナ」を「マリヤ」と聞き違えていたことがあった。日本人にマリヤという名前はあるはずがないと思い、注意して聞くとマリナと言っていた。
 講習会の最後は車の実地運転である。これにはオートマの普通車が使われる。コースを回るだけであるが、先回と違っていたのは、段差ののりあげである。10cmぐらいの段差にのりあげ、1m以内ですぐ止まるというテストである。これは、アクセルとブレーキを瞬時に踏みかえなければならないという、体の反射能力を調べるテストであろう。受講者の中には、1m以内に止まれない人もいた。
 これらのテストを終わったのは午後4時であった。秋の日没は早い。私は、目に自信がないので、夜の運転はしないことにしている。慎重に運転して、無事帰宅することができた。

            2024.12.10
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春うらら 朝食と体操
  私は、いつまでも体が動けるように毎朝体操をしている。毎朝、顔を洗った後、雨の日以外、私は庭に出る。庭を一回りした後、肩と腕の体操をしている。最初にジャンプを50回する。ジャンプと言えば大げさであるが、私のジャンプは、高く飛び上がれないので、地上から約2cm両足を上げる程度である。その後、1個4kgの鉄アレイをそれぞれ両手に持って、肩と腕の運動を行っている。おかげで肩と腕が痛むという現象はない。
 朝食は、毎朝私が作ることにしている。この料理は、卵1個を溶いて、2個の容器に分けて入れる。それらに、1~2cmに切ったかぼちゃを入れ、1個のピーマンを小さく切ったものを入れ、粉状の白ゴマをかけ、トマトソースをかけ、オリーブオイルを入れ、それぞれ混ぜる。それを電子レンジに入れ、約4分間チンをすると出来上がる。これと、自宅のパン焼き器で作った食パン1枚と牛乳約250ccで、朝刊を見ながらの朝食とする。その前に、「食べる煮干し」を5~10個食べておく。これが私たちの毎朝の食事の内容で、約30年以上続いている。ただし、その料理は毎日曜日は休むことにしいている。食後は、コーヒーメーカーで作ったコーヒーを前庭を見ながら楽しむことにしている。
 私はその後、2階に上がり、4畳のリスニングルームでCD音楽を聴く。音楽の途中で、簡単な運動をする。これは、特に脚(脚膝)周りの筋肉を鍛える体操である。両脚の屈伸を12回、この1セットを2セット、片脚の屈伸を12回、反対の脚12回、これを2セット、脚の回転運動を12回、反転の回転12回、右手で右足の指先をつかむ運動、および左手側の運動も行う。頭の動きの運動は、左右、上下、回転をそれぞれ8回行う。最後に、つま先立ちを50回行う。途中肺活量の維持のための深呼吸も行っている。
 このような運動を毎日行っているが、私は週2回、ジムに行って運動をしている。ジムは、車で35分の所にある棚倉町のルネッサンス棚倉というスポーツクラブである。ここには、室内および屋外テニスコート、室内プール、ジム、野球、サッカー、ゲートボウルが行われる運動場がある。私は、2023年12月まで約20年間、室内テニスコートのテニス教室に週2回通っていた。私は、右脚の故障で思うように走れなくなったので、テニスを止めてしまった。
 私は、2024年1月からテニスの代わりにジムで週2回運動をすることにした。ジムは多くのマシーンが置かれ、参加者は思い思いのマシーンで運動するシステムである。このジムの会費は、月7600円である。ジムでは、少し広いスペースにテレビが置かれ、女性の徒手体操コーチが体操を放映しており、それを見ながら体を動かして運動をすることができる。これを利用しているのは女性が多い。
 そのジムでは、私は自転車型のペタル踏み運動を10~15分行い、座って両脚の屈伸運動ができるマシンを使って、50回屈伸する。そして座って両足を持ち上げるマシンを50回行う。これには持ち上げる重量と角度が選択できる。これらの運動に要する時間は約25分である。
 私は、これらを終えて、ロッカールームにあるシャワーで頭を洗う。頭を洗うのは自宅でもできるが、面倒で、冬場は寒いので敬遠している。ジムでは温調がされているので、頭洗いは楽である。私がジムに通うのは、運動のためより、頭を洗うのが主目的になっている。

            2025.1.10
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北上、南下
  北上という言葉は、秋の台風シーズンで「台風が北上する」という言葉でよく使われる。一方、南下は、船は南下する、という表現で使われる。何故北が上で、南が下なのか。台風が北下するとか、船が南上する、とは言わない。北半球にある日本は、地図では上に北海道があるように、北を上にして描かれている。日本人は地図の上で、上が北、下が南であると無意識に感じている。北に行くのは北上であり、南に行くのは南下である。
 日本の冬は太陽が南に傾く。我々は日向で暖を取る時、太陽に向かって体を南に向ける。冬でなくても、屋外で立つ時、明るい南に向いて立つであろう。この場合南が前であり、上の方向である。南に向かって歩く場合、南上すると言っても不思議ではない。しかしそのように言う人はいないであろう。逆方向の北下するとも言わないであろう。
 人が南に本能的に向くのは人だけではない。植物も南に向かって成長する。人が住む建物は、間違いなく南側に大きな窓を設置する。これは太陽を取り入れるためである。建物の出入り口は、土地の状況により南になったり北になったりする。当地の団地の建物を見ると、全て南向きで、南に大きなガラス窓を設置している。
 私は、7才の歳まで、生まれた台湾にいた。生まれた土地は台湾の南部、嘉義市である。その後、台湾の各地へ教師の父の転勤で移動したようであるが、それらの土地は私には記憶がほとんどない。台湾では日本の皇居がある北が聖地である。当時の明治時代の日本人は何かあると、北に向かって頭を下げていたであろう。さらに南の南半球の国、例えばオーストラリアでは、地図は上が北にして描かれているのか、私は確かめたことがないので分からない。多分北が上であろう。北上、南下という言葉もオーストラリアにはあるだろうか。
 北上、南下は英語でどのように表現するか、グーグルの翻訳ソフトで調べてみた。「北上」は、Heading north、「南下」は、Heading southと出た。上下の言葉がないのは英語らしい。それでは「北方」の英訳は、Northであり、「南方」の英訳は、Southとなっていた。北上の上は動作を表し、北方の方は単に位置を示す訳である。日本語のほうが位置の方向を示すので意味深い。「台風は北上する」は、The typhoon moves north.となり、「船は南下する」は、The ship heads south.となる。
 さらに、これは日本語としては、くどい表現だが、「台風は北に向かって北上する」の英訳は、The typhoon moves northwards.と訳してくれた。このnorthwardsの日本語訳を調べると、「北向き」と出た。言葉の表現は、色々あって、面白い。

            2025.2.10

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庭の植木
  我が家の敷地は、158坪(522㎡)あり、その約3分の1(約53坪)を庭地にしている。この区(敷地)は、町が26年前造成したものである。この区画は、このニュータウンの中で二番目に広い面積である。北側に道路があり、東には雑木林があり、南は沢水が流れ、その向こうは土地の農家の敷地になっている。この区画の欠点は、朝日が林の陰で10時頃まで当たらないことであろう。我が家の隣の敷地は、この団地でもっとも広い166坪であり、南は建物のない沢の流れと畑地で、環境が最も良い。この隣の敷地は、当初東京品川区に住んでいる人が購入したが、その後不動産屋に売って、長い間売地になっていた。昨年買い手が決まり、家を建てた。所有者は30代の共稼ぎの夫婦である。
 我が家の53坪の庭地には、約30種類の庭木が約100本植えてある。敷地の北、西、南側にこれらの植木があり、季節には隣の雑木林から小鳥がやってくる。色々な庭木がある我が家に比べ、隣の敷地には庭木はもちろん草花もない。若い夫婦には、植木を植えて管理する時間がないのであろう。
 私は、毎朝食後、三方が窓のサンルームでコーヒーを飲みながら庭木を眺めている。この木は、フロックス、シャクナゲ、芍薬、牡丹、ナンテンなど、木を見ながらその名前を思い出している。記憶が減退しないように、頭の訓練をしているのだ。我が家にある庭木の多くは、地元の植木屋に頼んで植えてもらったものである。
 植木には、私たちが以前住んでいた、横浜市戸塚区上柏尾台の自宅に植えてあった庭木を、その土地の植木屋に頼んで、矢祭町の自宅まで運んで植えてもらったものもある。これらは、古い2本の梅木、ツバキ、山茶花、柿、シュロである。当時住んでいた自宅のすぐ近くに市民の森があり、時折当時飼っていた犬を散歩に連れていくことがあった。その森の中にシュロのこどもがそこら中に生えているのを見つけ、その一つを庭に植えていた。引っ越し時にそれも紙袋に入れて、今の自宅に持ってきて植えた。今ではこのシュロは高さ10mぐらいに成長している。このシュロも子孫を増やすため、子供を付近に生やしているが、大きくなると邪魔になるので、これらは切り取って処分している。
 庭木の中には、実をつける柿、梅木、ブルーベリーがある。これらの実は収穫して、梅は梅酒、ブルーベリーはジャム、柿は干し柿にして食していたが、10年前から面倒になり、止めてしまった。梅木は、木が古くなって実をつける数が極端に少なくなってしまった。ブルーベリーは、まだ若いので多くの実をつける。実がなる時期になると、ヒヨドリがやってきて食べてくれる。
 地元の植木屋が植えてくれたマロニエは、根元の幹の周りが50cmぐらいに成長し、春の終わりには赤色の花が咲いていた。一昨年、その木の根元周りに雑草が繁ってきたので、粒状の除草剤をばらまいた。マロニエは大きくなっているので、除草剤の影響はないだろうと思っていたが、秋ごろからマロニエの葉が枯れだした。昨年の春になっても、新芽が出てこなくなった。除草剤により木は枯れてしまった。私は除草剤を使うときは液状に薄めて、刷毛で葉に塗りつけるようにしているが、マロニエには粒状の除草剤を撒いてしまった。私は、除草剤がこのような大きな木を枯らすとは思わなかった。折角の大きくなったマロニエは我が家から消えてしまった。可哀そうなことをしてしまった。

            2025.3.10
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