雑記文集 NO2
2011年1月号から2018年4月号までの雑記文を集めました。
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タイトルと内容紹介 タイトルをクリックすると、タイトルの雑記文がジャンプして出ます。
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11年春うらら
11,Haruurara
IKEAでイスを買ったこと、我が家の庭に猿が現れたこと、エコポイントでテレビを買ったこと、裁判員候補に選ばれて断ったことなど。
11.1J ビレッジ
J-VILLAGE
福島県楢葉町にあるサッカートレーニングセンターの宿泊施設に一泊した話。裏磐梯の猫魔ホテルに行った話。
11.211年の冬
Winter of '11
野鳥(マヒワ?)がサッシのガラスに激突して死んだ話。南房総の鴨川市にあるチサンリゾートホテルへドライブした話。
11.3
巨大地震
Huge earthquake
2011年3月11日、宮城沖でM9.0の大地震が発生。死者など3万人が犠牲になった。福島第一原発も被害を受け、放射能被害も広がった。
11.4巨大地震2
Huge earthquake2
福島県は放射能汚染で本格的な復興に着手できない。原発事故の遠因は、原発推進組織(経産省)と安全をチェックする保安院が同じ仲間であること。
11.5
'11年の春
Spring of 2011
原発事故による放射能汚染分布が原発から北西方向に偏っていることを考察。どんぐりの里親制度でどんぐりの苗を育てた話など。
11.6
北海道旅行
Hokkaido travel
2011年6月、北海道へ旅行した。網走、知床斜里、ウトロ温泉へ。ドングリの苗を知床の森に植樹する目的。妻が水あたりをした。
11.7
北海道旅行2
Hokkaido travel2
アッカムイの森で植樹。知床斜里町の北のアルプ美術館、釧路市の宿泊と居酒屋での夕食。阿寒バスによる1日観光。牧草地帯の牛を見て感じたことなど。
11.8
北海道旅行3
Hokkaido travel3
サッポロファクトリー、北大植物園など札幌市内について。
11.9
’11年の夏
Summer of 2011
デルのパソコンが故障し、修理した。デルは故障が多いので、ヒューレットのパソコンを新たに購入した。
11.10
風力発電 Wind power generation
超小型の風力発電機を作った話。羽はペットボトルから作り、2Vを発電するミニモーターに直結した。ソーラーとのハイブリッド型も作成。近所の猫の話。
11.11
実りの秋Productive autumn
今年の柿は豊作。渋柿から柿酢を作る話。サツマイモから乾し芋を作る話。震災後初めていわき市にドライブした話など。
11.12
'12年、春うらら
'12,Haruurara
任天堂DSの日本文学全集を読み終えた。「夜明け前」、「次郎物語」、「六尺病牀」についての感想。
12.1
神戸観光
Kobe sightseeing
1月26日神戸市摩耶山から夜景を観光、翌日北野異人館街を観光。矢祭町の墓地を購入した話。
12.2
南三陸町
MinamiSannriku cho
宮城県南三陸町にあるホテル観洋に一泊旅行した話。この町は昨年の大津波で壊滅的な被害を受けたが、このホテルは高台に建てられていたので無事だった。仙台市の観光の話。
12.3
大震災から1年 A great earthquake 1 year before
11年の大地震から1年経った福島県の苦悩。特に原発から今もセシウムが放出されている。東電の株主向けの報告書に記されたセシウム放出量など。
12.4
12年の春 Spring of 2012
今年の春は遅くやってきて花が一斉に咲いた。私の誕生祝いに、東京の京急EXイン品川駅前に宿泊した。羽田空港ターミナルビルを見物。
12.5IPOD
iPOD touchを買った話。iPOD miniが壊れたのでipod nanoに買い換えた。iPADについて。
12.6
ルーマニア・ブルガリア旅行1 Rumania・Bulgaria travel 1
12.5.21ユーラシア旅行社の上記ツアーに参加した。ルーマニアの首都ブカレストでチャウシェスクが建てた国民の館など観光した。
12.7
ルーマニア・ブルガリア旅行2 Rumania・Bulgaria travel 2
ルーマニアのモルドバ地方にある五つの修道院を観光。トランシルバニア地方にある要塞教会を観光した話。
12.8
ルーマニア・ブルガリア旅行3 Rumania・Bulgaria travel 3
ルーマニアからブルガリアへ国境越え、イヴァノヴォの岩窟教会、ネセバル、ヴァルナを観光。ペリコタルノボ市近くの村にある琴欧洲の実家を訪問。
12.92012年の夏 Summer of 2012
この夏は酷暑と小雨が続いたこと。皇帝ダリア、会津高原のそばの花、裏磐梯高原ホテル、尖閣諸島などの話。
12.10
ルーマニア・ブルガリア旅行4 Rumania・Bulgaria travel 4
カザンラク市で行われたバラの女王コンテスト、バラ祭りのパレードを見学。カザンラク郊外のシプカ村でバラの花摘みをした話。
12.11
ルーマニア・ブルガリア旅行5 Rumania・Bulgaria travel 5
カザンラクからソフィア市へ。アレクサンドル・ネフスキー寺院のイコン博物館を見学。リラへ。リラの僧院を訪問。ソフィア郊外のボヤナ教会を見学。
12.12
春うらら、政権交代
Haruurara、Change of government
政権が民主党から自民党に交代した。民主党が衆議院総選挙で大敗した。リヒテンシュタイン秘宝展、東京スカイツリーの観光など。
13.1奈良旅行 Trip to Nara
奈良の興福寺にある阿修羅立像を見るため奈良へ出かけた。東大寺、二月堂、慈光院などを見てきた。
13.2
物置の組立Assembling of a storeroom
大小の木製物置が手狭になったので新しくツウバイフォーの物置キットを購入し、組み立てた。電話線から光回線に切り替えた話。
13.3
松島Matushima
宮城県の松島海岸を観光した。焼かきを食べた話。瑞巌寺、五大堂、観瀾亭などを見物した。
13.4
はとバス Hato bus
東京の桜が満開の3月25日、季節限定の都内の桜を巡る観光バスに乗った話。バスは2階建ての屋根無しのオープンデッキバスである。大丸12階のレストランで夕食。品川、御殿山公園の桜見物など。
13.5スーパーこまち Super Komachi
秋田新幹線の「スーパーこまち」で秋田市へ行った話。盛岡まで標準軌の線路を走り、そこから在来線を走るミニ新幹線について。秋田市内の千秋公園、藤田画伯の「秋田の行事」を展示する美術館について。
13.6
13年、春から夏 '13,spring to summer
2013年の3月、4月、5月は、雨が少なかった。庭の花が多く咲いたこと。ヒューレットパッカード社のタブレットパソコンを買った話など。
13.7
北海道の旅、1 Hokkaido trip 1
2013年6月22日から1週間北海道を旅行した。札幌市郊外の滝野リンドウ公園と恵庭市の「えこりん村」に、バス会社のツアーに参加して観光した話。
13.8
北海道の旅、2 Hokkaido trip 2
千歳市の近くにある乗馬クラブで妻が乗馬トレッキングをした。クラブの隣のイコロの森を観光。富良野市にある「風のガーデン」を観光。JR富良野線で旭川へ。
13.9北海道の旅、3
Hokkaido trip 3
旭川から知床斜里へ、レンタカーでウトロへ。ウトロ近くの国有林でどんぐりの苗を植樹。車で釧網本線の浜小清水駅へ、原生花園を見物。札幌へ戻り、翌日仙台空港へ。
13.10
小野川温泉 Onogawa Onsen
山形県米沢市郊外にある小野川温泉へ行った話。米沢市内の米沢城跡横の旧上杉伯爵邸を見物。後付のカーナビを頼りにドライブした話など。
13.11
奥只見湖観光Okutadamiko trip
渋谷発の一泊二日の奥只見湖観光バスツアーに参加した。初日は苗場のドラゴンドラロープウエーと八海山のロープウエーに乗り、山の紅葉を楽しんだ。
13.12
春うらら、都知事、Tokyo Governor
猪瀬都知事が辞任した話。特定秘密保護法が自民党の強行採決で成立した話。車にドライブレコーダーを取り付けた話など。
14.1
奥只見湖観光2 Okutadamiko trip
奥只見湖観光バスツアーの2日目。新潟県と福島県の県境にある奥只見湖の紅葉を見物。谷川岳ロープウエーと天神峠観光リフトに乗り、谷川岳などを見物。翌日、都立美術館で開かれているターナー展を観賞。
14.2
2月の大雪 Heavy snow of
February
2014年、2月8日と14日に大雪があり、我が家の庭にも吹きだまりで50cmほどの積雪があり、除雪に苦労した。関東地方でも道路の不通、孤立集落の発生、停電などの被害があった。
その他、私が新しいソックスによる薬害を受けた話。
14.3
ラファエル前派展 Pre-Raphaelite Brotherhood exhibition
2014年2月23日、妻の誕生日祝いで、東京六本木の森アーツセンターで開かれていたラファエル前派展と、渋谷Bunkamuraで開かれていたシャヴァンヌ展を見に行った。同じBunkamuraで開かれていた「大人の塗り絵」展も見に行った。
14.4
横浜三渓園Yokohama sankeien
横浜市本牧にある三渓園へ行った。園内は梅が見頃で、多くの高齢者がカメラを持って入園していた。今年2月の初めに降った大雪で樹木が各所で折れていた。東京駅の高速バスターミナルが完成した話。
14.5
2014年の春 Spring of 2014
今年、我が家の庭の花々は多く咲き誇った。5月の連休には、野菜の苗、サツマイモ、キュウリ、ミニトマト、ピーマンを植えた。宿根草であるボロニア・ヘテロフィラという花を植えた話など。
14.6
ドイツ物語1 German story 1
2014.5.30から16日間、ユーラシア旅行社が企画したツアーに私達は参加した。アーヘン市、ケルン市の観光。バスでライン川沿いのコブレンツへ。そこから6時間かけてライン川クルーズ。リューデスハイムで下船。この町のつぐみ横町を見物。
14.7
ドイツ物語2 German story 2
ツアー4日目はハイデルベルグ市と城の観光。午後は自由時間で添乗員に連れられて哲学の道を散策。翌日はドイツ最南端にあるボーデン湖へ。杭上家屋、ライヒエナウ島にある聖ゲオルグ教会を見学。湖の南側のアルペン街道をバスで走り、スイス、オーストリアを抜けて、再びドイツのフュッセンへ。
14.8ドイツ物語3 German story 3
ツアー7日目はノイシュバンシュタイン城、ヴィース教会、オーバーアマガウの町の観光。夕方にミュンヘン市の国立のホーフブロイハウスというビアレストランでビールを楽しむ。翌日はミュンヘン市内の観光。ドイツ、ミュンヘンの情報について現地ガイドから話を聞く。
14.9
ドイツ物語4 German story 4
ツアー9日目はアウグスブルグ、翌日はローテンブルグの観光。ローテンブルグの歴史祭はこのツアーの目玉である。この町からバンベルグへ行く途中、アウトバーンでバスがパンク故障。翌日はドレスデン観光。マイセン、ポツダムの観光の後、ツアー最後の訪問地ベルリンへ。ベルリンの壁など見物。
14.10
平家びわHeike biwa
2014年9月、ジパング主催の上記ツアーに参加した。JR北鎌倉駅に接する円覚寺の境内見学と、龍隠庵で行われた秋山良造氏による平家琵琶を聞くツアーである。演題は「小督」。翌日、ブリジストン美術館の「絵画の時間」という企画展を観賞。
14.11
札幌市内観光Sapporo city sightseeing
2014年10月20日から3日間、札幌へ出かけた。妻は「リーフ」という乗馬クラブで乗馬トレッキングを行い、私は北大キャンバスを散策した。この時期、札幌は紅葉の盛りであった。21日は、1日定期観光バスで市内の主な観光地を巡るツアーに参加した。「美術の北大展」を観賞した話など。
14.12
春うらら、昨年のことHaruurara,topics of the last year 2014年暮れに行われた衆議院選挙の結果、夏の猛暑対策に2階天井に換気扇を取り付けた、車の天井にソーラーパネルと換気扇を取り付けたことなど。 15.1 |
金谷ホテルkanaya hotel クラブツーリズムのツアーで日光金谷ホテルへ、栃木県の湯西川温泉へ、佐野プレミアムアウトレットへ行った話。ipodtouchにGPSのアダプターを取り付けて、旅行の行程を記録させた話。 15.2 |
防犯カメラSecurity camera 我が家の玄関に防犯カメラを取付け、インターネットに接続して東京のホテルで玄関の様子を映した。生後5ヶ月の子犬を一週間、我が家にホームステイさせた話。 15.3 |
温泉旅行Hot spring trrip 私達の誕生月には温泉旅行をすることにしている。2月は鬼怒川温泉へ、3月は箱根温泉へ行った。箱根への途中の小田原市には私の弟が住んでいるので訪問した。 15.4 |
2015年、春 Spring of 2015今年の春の気象は変化に富んでいた。そのためか桜の開花が早かった。桜の並木で有名な夜ノ森の桜について。茨城県大子町の明治初期に建てられた小学校を訪問。 15.5 |
ナショナルギャラリーNational Gallery 東京で催された2つのギャラリーを見た。イギリスのギャラリーは、ロンドンにあるギャラリーの宣伝映画である。もう一つはワシントンナショナルギャラリーで、フランス印象派の小品を集めた企画展である。 15.6 |
クロアチア、スロベニア旅行Croatia、Slovenia trip 2015年5月、阪急交通社が企画した11日間の表記ツアーに参加した。ビジネスクラスのシートを体験。スロベニアのリゾート地のブレッド湖、ボーヒン湖の観光。スロベニアの首都、リュブリヤーナの観光など。 15.7 |
クロアチア、スロベニア旅行2 Croatia, Slovenia trip2 阪急交通社とユーラシア旅行社のサービスの違いについて。スロベニアのポストイナ鍾乳洞の観光、クロアチアのオパチア市にあるホテルに連泊、近くのリゾート地、プーラ、ロヴィニ、ポレッチの観光など。 15.8 |
クロアチア、スロベニア旅行3 Croatia,Slovenia trip3 このツアーは羽田空港発着である。自宅から羽田へのルートを説明。プリトヴィッツェ湖群国立公園、スプリット市、ドブロヴニク城壁都市の観光について。最終日はボスニア・ヘルツゴビナ国のモスタル、サラエボの観光。 15.9 |
2015年の夏 Summer of 2015 酷暑日、大雨など、庭の樹木の実について。裏磐梯の雄国沼に行った話。安保法案制定の話。 15.10 |
黒部ツアー Kurobe tour 私達は2015年9月23日から2泊3日の黒部ツアーに参加した。白馬五竜を観光した後、アルペンルートの出発地である長野県の扇沢へ行き、黒部ダムから富山県の美女平へ行った。宇奈月温泉から黒部渓谷を走るトロッコ電車に乗った。 15.11 |
みちのく三大半島めぐり Visiting Michinoku 3 peninsulas 2015年10月21日から3泊4日の上記ツアーに参加した。男鹿半島、津軽半島、下北半島の突端と三陸海岸の北山崎を巡る旅である。男鹿半島の真山神社ではなまはげの実演を見学、津軽では太宰治の生家「斜陽館」を見学。 15.12 |
はるうらら、昨年のこと Last year 京都国立博物館で行われていた琳派展を見に行った。ついでに嵐山、大覚寺などの紅葉を1日定期観光バスを利用して観光した。青空文庫の海野十三氏の作品を読んでいる話。 16.1 |
十年日記などTen years diary 2016年から3冊めの10年日記をつけ始めた。パソコンの故障でDELLのパソコンを昨年11月に買ったこと、パソコンのスペアとしてASUSのパソコンを買ったことなど。 16.2 |
webカメラ Web camera 243画素のwebカメラ(インターネットカメラ)を取り付け、鮮明な画像が得られた。この画像はカメラのスイッチをONにしておけば、誰でも、どこからでも見られる。海野十三氏の「海野十三敗戦日記」という作品を読んだ話。 16.3 |
大震災から5年目 5th year from a great earthquake disaster 2016.3.11は東日本大震災発生から5年目であり、色々な災害関連のデータが新聞に載っていた。福島県の放射線データについて、原発付近は相変わらず高い。毎朝聴いているCDについて。 16.4 |
春の温泉旅行Hot spring in spring 2月、3月は私達夫婦の誕生月で、毎年温泉旅行に行っている。今年は南房総の白浜と熱海へ行った。白浜は食用菜の花摘みに参加、熱海では河津桜を見物する予定が、伊東線の事故で行けなかった。 16.5 |
熊本地震Kumamoto earthquake 2016.4.14に起きた熊本地震について。東京国立博物館の黒田清輝展、Bunkamuraザ・ミュージアムのボストン美術館所蔵の浮世絵版画展を見に行った話など。 16.6 |
火星接近、他 Mars approach,other 2016年5月31日は火星が11年ぶりに地球に接近する日であった。火星を双眼鏡で見たり、デジカメで撮影したり、火星のSF小説についてなど。自宅庭の花木について、英国の国民投票の結果など。 16.7 |
日帰りハイキングOne-day hiking 2016.6.21、クラブツーリズムの日帰り入笠湿原ハイキングに参加した。この湿原は、長野県、入笠山(2000m)のふもとにある標高1780mの湿原で、スズラン、クリンソウなどが咲いていた。その他、東京都知事選挙の話など。 16.8 |
リオ五輪 Rio olympics 2016年8月 ブラジル、リオデジャネイロで開かれた五輪大会で日本選手が活躍した。バトミントンペアの金メダル、400m男子リレーの銅メダル、テニス錦織の銅メダルなど。メダルを取った人の報奨金はいくら。6月から8月にかけての日本列島の異常気象についてなど。 16.9 |
安達太良山Mt.Adatara 安達太良山の麓にある岳温泉へ行った。ホテルから車で登ったところにあだたら高原スキー場があり、そこからゴンドラに乗って、薬師岳(1350m)へ行き、安達太良山登山のルートを確かめた。後日この山に登ってみたい。 16.10 |
大雪山 Daisetsuzan 札幌から「黒岳散策と層雲峡温泉コース」という日帰りバスツアーに参加した。石狩川支流がある大雪山系の中央に位置する層雲峡温泉からロープウエイとリフトで黒岳七合目まで行き、紅葉と大雪山の山々を楽しんだ。 16.11 |
清里と富士見高原 Kiyosato、Fujimikougen 新宿発の日帰りツアー「清里、富士見高原」に参加した。小海線の淵野辺駅から清里駅に乗車、富士見高原リゾートでは自動運転の遊覧カートに乗車。帰京後、デトロイト美術館展と鈴木其一展を鑑賞した。 16.12 |
はるうらら、去年のことharuurara last year 2016年の漢字は金であることについて、福島の風評被害について、紅葉の「塔のへつり」についてなど。 17.1 |
大寒波 Big chill 日本列島に寒波が押し寄せ、西日本は特に大雪に見舞われた。当地では雪はなかったが、久慈川に「しが」が発生した。大子町の袋田の滝も氷結を始めた。その他、深夜便の話、トランプ大統領がっメキシコ国境に壁を造る、稀勢の里が横綱になった話。 17.2 |
JR田町駅 JR Tamachi station 私が現役の頃、時々利用していた田町駅、およびその周辺について。東京都美術館で開かれていた「ティツィアーノとヴェネツィア派展」を鑑賞した話。 17.3 |
最近の話題 Recent topic 韓国の朴大統領が罷免され、逮捕され、収監された。慰安婦問題で韓国駐在の日本大使が帰国したこと。森友学園の話題。ゴールデンレトリバーが幼児をかみ殺したこと。稀勢の里が3月場所で新横綱として優勝したこと。 17.4 |
2017年、春の庭 2017 spring garden 雅桜を吉野桜に接ぎ木して花を咲かせ、それを挿し木にした。枝垂桜、10月桜など。沈丁花の挿し木が根付いた話。庭の巣箱風箱にシジュカラが巣を造っている話など。 17.5 |
赤坂迎賓館Akasaka Guesthouse 赤坂迎賓館、湯島天神などの一日ツアーに参加した話。三菱一号館美術館で開かれていた「オルセーのナビ派展」を見に行った話。私が30年前、東京駅丸の内側前の庭園風ロータリーをスケッチしに行った話。 17.6 |
小豆温泉 Azuki onsen 福島県桧枝岐村近くにある小豆温泉へ行った話。この温泉の近くにミニ尾瀬公園があり、そこでは、ミズバショウが咲き始めていた。豪雪地帯のこの地方は、訪れた5月の中旬でも残雪がところどころにあった。 17.7 |
ポーランド旅行1 Poland trip 1 2017年6月、私はクラブツーリズムが企画したポーランドツアーに参加した。成田空港への交通機関として、JR水郡線、水戸駅からの高速バスを利用した。成田からワルシャワへの飛行機はポーランド航空のプレミアムクラスを体験した。「ポケット旅行記」というソフトを入れたタブレットを持参した話など。 17.8 |
ポーランド旅行2 Poland trip 2 ポーランド国、ポーランドの言葉について。1日目はグダンスク市の観光。ワレサ氏が勤めていた造船所など。トルン市へ向かう途中のマルボルク市の観光。宿泊は、トルン市、城郭内の古いホテル。 17.9 |
ポーランド旅行3 Poland trip 3 ポーランドの中央部の都市、ボズナン、ヴロツワフ、シフィドニツァ、チェンストホーヴァを訪ねて、南部のクラクフ市へ。チェンストホーヴァではヤスナグラ修道院の聖画「黒のマドンナ」を見学。クラクフ市の近くのヴィエリチカ岩塩坑を見学など。 17.10 |
ポーランド旅行4 Poland trip 4 クラクフ市周辺の観光、アウシュビッツ収容所の見学。ツアー最終訪問地のワルシャワ市へ、市内観光、ショパンの生家、庭園の見物。ワルシャワ郊外のナショナルギャラリーでショパンのピアノコンサートの鑑賞など。 17.11 |
礼文、利尻島観光 Rebun,Rishiri sightseeing 礼文島は花の島と言われ、本州では2000m以上の山でしか見られない高山植物の花が見られた。エーデルワイスの群生地は珍しい。利尻島は利尻富士の噴火でできた沼が多く、沼に映る逆さ利尻山はいたるところで見られた。 17.12 |
はるうらら、2018 Haruurara 2018 昨年の7月は都議選で希望の党が大勝したが、小池知事の不用意な言葉で希望の党は失速し、民進党も分裂、10月の参議院選挙は自民党安泰となった。大相撲は日馬富士の暴行事件で相撲協会は大揺れ。今年の私の誕生日で私は80歳になる。 18.1 |
クラシックfm Classic fm アップルのiPodtouchの新しいバージョンを購入し、「ネットラジオ」をインストールした。ロンドンからのネットラジオはクラシックfmと言い、常時クラシック音楽を流している。ディスクトップのPCにもインストールして、このラジオをBGMとして楽しんでいる。 18.2 |
セットコンポ Set compo 私が30年以上愛用していたステレオコンポを廃棄処分して、新しくソニーのセットコンポを購入した。真空管式ラジオ、ステレオコンポを自作した話、真空管がICなどに代わったので、ラジオなどを自作出来なくなったなどの話。 18.3 |
河津桜 Kawazu Sakura 昨年2月伊豆急行線が事故で行けなかった河津桜を見に行った。2月26日は河津桜は満開であり、念願の桜見物をした。熱海市内にある熱海三大別荘の一つである「起雲閣」を見学した。 18.4 |
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’11年、春うらら
時が過ぎていくのは速いもので、ここ矢祭町に引っ越してきてから今年で10年になる。建物も新築してから10年になるが、どこも不具合が起きていない。これは、プレハブメーカー、エスバイエルの技術の高さだろうか。ただ数年前、スレート屋根材にひび割れが発生しているのが、偶然見つかった。エスバイエルが調査に来て調べた結果、メーカーの負担で屋根材を全部取り替える工事をしてもらった。屋根材の仕様が、この地方の冬のマイナス10℃になる環境に合わなかったせいであろう。マイナス10℃になったのは、ある年の冬だけであった。通常の年の冬は、マイナス5℃程度であるから、マイナス10℃は異常の冬であったと思う。
昨年の11月、我が家で6畳のサンルームを増築した。この経緯は昨年12月のこの雑記で記した。このサンルームに入れるイスが欲しい、と妻が言うので、11月末に横浜のIKEAへ行った。IKEAは、スエーデン発祥の家具専門店で、各国に店を出している。国内では5店舗あり、東北には店がなく、馴染みの土地である横浜に店があった。横浜は港北IKEAといい、そこでイスを買うことにした。私は前日、新国立美術館で開かれていたゴッホ展に行き、妻は前日、母に会いに岡山へ行き、そして翌日私達は横浜で落ち合った。私達は横浜みなとみらいのパン・パシフィックホテルに泊まった。港北IKEAは、JR新横浜駅から送迎バスがあり、JR小机駅の近くを通って店に行く。小机は、私が40年前会社に通勤していたJR横浜線の途中駅で、当時は農地や畑が広がり、のんびりしたところであったが、今見ると、建物がぎっしり建ち並び、昔の風景はなくなっていた。
店に行くバスの中では、ビデオ画面で買い物の手順を丁寧に映していた。来訪者は、モデルルームで各商品が実際に部屋に置かれた状況を見て、希望商品を決め、その商品の番号を頼りに倉庫から商品をピックアップして、レジへ向かう。配送依頼は、商品をレジに通した後で配送窓口で行う、という内容である。店は倉庫のような大きな建物で、中に入ると、国際見本市のようなブースが並んでいて、テーマ別モデルルームがレイアウトされていた。客はそこに置かれた家具を見て、気に入れば、その家具に付いている商品番号などをメモ用紙に記入する。
私達は、安楽イス1脚と折りたたみイス4脚をメモし、さらにカゴに積まれていた、ぬいぐるみの子犬をピックアップして、商品倉庫に入った。そこではメモした記号を頼りに商品を探し、それを自分でカート(台車)に積む。その商品は、分解されて梱包されているので、外観からそれが自分が求めるイスであるかどうか判らない。しかし、気がつくと天井にそのイスが見本としてぶら下がっていた。大きなカートを押してレジに行くと、そこには店員がいた。そこまでの店内には、店員は誰もいなかった。私は、商品代金4万円を支払って、カートに積まれた荷物を宅配便の窓口まで行き、自宅まで配達してもらうことにした。料金は、地域別に、また重量別に設定され、福島県の自宅までは1万円であった。
2階には大きなレストランがあり、ここもカフェテリア方式で、自分の好きな料理をトレーにピックアップして、レジで精算し、トレーを持って空いた席を探す。ソフトドリンクは空のコップをトレーに入れておけば、レジで精算される。客席の中にソフトドリンクのコーナーがあり、そこで好きな飲み物をそのコップに入れる。ファミリー会員はこのソフトドリンクは無料であることが後で判った。ファミリー会員はパソコンでも無料で登録できるし、店の入口でもできたが、私は不要だと思い手続きはしなかった。レストラン内は平日だというのに、客でごった返していた。客層は、小さな子供連れの若い女性が多く、中には夫婦で来ている人もいた。私達のような年寄りは少ないが、都会の人の他人に対する無関心さは、私達に身狭な思いをさせなかった。
1週間後に荷物は自宅に届いた。分解されて梱包された安楽イスを組み立てて見ると、それは日本人には少し大きいが、座り心地は良い。イスの骨組みは、全部積層材で構成され、それらは曲線状に加工され、北欧家具らしいデザインである。この積層材の加工技術はスキー板やソリ板の製造で培われた技術であろう。折りたたみイスは無垢の木材を曲線的に加工しただけである。そのクッション性は全くないので、ウレタンフォームの敷物を一緒に購入していた。このイスは滅多に使わないので、畳んで隅に片付けてある。
サンルームには、30年前に買った飛騨家具の応接セットで、廃棄できなかったセンターテーブルを置いてある。このテーブルは、黒塗りの重厚なものであり、サンルームの雰囲気には合わないが、有効利用のため置くことにした。このテーブルの中央には、銅板張りの火鉢が付けられていて、炭火でお湯を沸かしたり、鍋を温めたりできるようになっている。私達は、そのような利用は一度もしたことがなかったし、これからもしないであろう。宝の持ち腐れである。
昨年の異常気象のため、福島県でも熊が民家にあらわれ、住民に害を与えた。熊は、福島県南部に位置する矢祭町までは現れなかったが、我が家には猿が現れた。3月15日、この日は大雪で、5cmぐらいの積雪で朝を迎えた。私は朝6時頃起きて、2階の書斎でパソコンを触っていると、テラスの手すりに何か黒い物の存在を感じた。振り向いてみると、1匹の猿が中腰の格好でこちらを見ていた。私と目が合うと、その猿は慌てて逃げていった。猿は体長60cmぐらいで、まだ若そうな顔をしていた。猿は、積雪のため、食べ物を探しに我が家までやってきたのであろう。私は写真を撮ろうと思って、後ろ姿を追ったが、猿はすでに20m先のフェンスのところを歩いていた。写真を数枚撮ってみた。後で画像を見ると、グレーの後ろ姿がやっと判別できる程度であった。猿がはっきり映っておれば、ニュースとして地方紙に載せてもらえるのだが、残念である。
昨年はエコポイントで、新聞、テレビが賑わった。我が家には地デジなしの25型ブラウン管テレビが2階和室に置いてある。普段全く使わないが、息子が帰省した折、このテレビを見ている。今年の7月で、このテレビはタダの箱になる。どうせ買い換えるなら、エコポイントが付く今が替え時だ、と気がついたのは、昨年11月29日であった。12月に入るとエコポイントが半分になることを知り、慌てて隣の大子町にあるケーズデンキにテレビを買いに行った。店内は客でごった返しているだろうと、覚悟を決めて出かけたが、店内でテレビを物色している客は、私と妻だけであった。拍子抜けで、店員に聞いてみると、客のピークは先週の土、日であった、と言う。
エコカー補助金の政府予算が昨年夏に底をついたと同じように、テレビも予算がなくなりそうだ。しかもテレビは在庫がなくて、入荷が3ヶ月先になる。エコポイントが貰えるのは微妙です、とケーズデンキの店員はすました顔で私に説明した。世事に疎い老人だなあ、とその店員は思っていただろう。東芝の26型テレビをリサイクル代を含めて6万円で購入した。エコポイント1.2万点付けば、実質4.8万円の買い物になる。入荷は2月末である。その後の昨年末、ケーズデンキのチラシをみると、シャープの26型テレビが4.8万円で売っていた。これは、エコポイント6000点が付けば、実質4.2万円になる。慌てて買うことはなかったか、と反省しているが、買う時期が遅くなれば、それだけエコポイント打ち切りの被害に遭うことになる。
昨年11月13日、法務省から裁判員候補者の郵便物が私のところにきた。裁判員による裁判は、日頃テレビのニュースなどで見ていたが、その裁判員が自分の所にくるとは驚きであった。7000人に1人の割合で候補者に選ばれると言われるが、その1人に私が選ばれたわけで、これは大ニュースであった。福島県では裁判は郡山市で行われる。矢祭から郡山までJRで1時間半はたっぷりかかる。私は遠距離を理由に断ろうかと思ったが、書類にはその理由はない。年齢が70才以上は断れる。折角の候補に選ばれたが、私は断りの返信を提出した。候補者に選ばれたことを公表してはいけない、と法務省の書類に書かれていたが、私は断ってしまったので、ここに書いても構わないだろうと思う。7000人の1人に当たったわけで、めでたいことだから、私は年末の宝くじを、連番で10枚買った。抽選の結果はNOであった。
2011.1 .10
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J ビレッジ
私達は、毎年冬の1月から3月まで、月1回の1泊旅行によく出かける。これらの月はオフシーズンで、ホテルは低料金の値段設定をしているので、それを利用して泊まりに行く。1月は、18日にJ ビレッジに行った。J ビレッジは福島県浜通りの中央部にあたる楢葉町にある。すぐ近くに東京電力の広野火力発電所があり、このJ ビレッジは、東電が地元に地域振興施設として寄贈したものである。J ビレッジは、日本初のサッカーのナショナルトレーニングセンターとして、当初知られていたが、現在は夏を除いてあまり利用されていない。付属のホテルは、90室の立派な施設であるが、私達が泊まった日は、客が6組程度で、ビジネス客がほとんどであった。近くには工業団地が2ヶ所あるので、彼等はビジネスホテルとしてJ ビレ ッジを利用している。
私達はこのビレッジに向けて自宅を11時に出発した。楢葉町は、いわき市の北に位置するので、矢祭町からの直線コースをとれば、阿武隈山脈を越えて行かねばならない。数日前に、この地方も10cmの積雪があったので、道路は凍結しているであろう。私達は、すこし遠回りであるが、山脈の南端で、山がほぼ消える所に国道461号が通っているので、そこを走ることにした。この道は、茨城県の高萩市に出て、そこで海岸沿いの国道6号線にでる。道を北上した所にいわき市があり、この市は、福島県で一番広い面積を持ち、6号線の南から北まで約50Km走らなければ通り抜けられない。いわき市小名浜港には、水族館(アクアマリンふくしま)や魚市場(いわき・ら・ら・ミュー)などの観光地がある。そこを素通りして、J ビレッジに14時半に着いた。
センターハウスの中に、ホテルのフロントがあり、そこでチェックインした。部屋はS棟の411室である。4階のその部屋には小さなテラスがあり、眼下に11面もあるサッカー練習場があり、その向に太平洋が見える。サッカー練習場の半分以上は、表面がシートで覆われていた。右奥には大きな煙突があり、その下には巨大な発電所があると思われるが、ここから見えない。さらに右側には5000の観客席を持ったサッカースタジアムがあるが、照明塔の頭部分しか見えない。私達は、翌日このスタジアムを見に歩いて行こうとしたが、遠くて行くことを諦めた。センターハウスからこのスタジアムへの道は、谷間の雑木林を通る散歩道のようになっている。私達はこの道を15分ほど歩いて引き返した。選手達がこのスタジアムに行くには、バスで別の道を行くのであろう。
センターハウス棟にはレストラン、各種会議室、研修室などと、合宿者用の宿泊室があり、棟の一番奥に大浴場がある。私達が泊まったS棟は、ホテル形式の部屋があり、それぞれにテラスが付いている。この部屋は外人仕様と思われる広いスペースで、特にバスルームが広い。センターハウス棟からS棟に行くには中庭を通って行くので、建物の外に出る。中庭の周囲は回廊のようになっているので、雨風は避けられるが、冬は寒い。大浴場に行くにも、この中庭を通って行くので、防寒服を着て行かねばならない。泊まった部屋から100mぐらい歩く必要がある。億劫ではあるが、私は意を決して大浴場に行ってみた。2階のその浴室(着替え室)には誰もいなく、照明は消されていて、自分でスイッチを入れる。大きな浴槽室にも自分でスイッチを入れて入る。浴槽からは照明された人工芝の練習場が見え、50人ばかりの少年がユニフォームを着て、練習していた。練習後、サッカー少年達はここで汗を流すのであろう。
この浴場は温泉ではない。ホテルの部屋から遠いし、一旦外に出なければならないので、妻はこの大浴場には行かなかった。J ビレッジには色々なスポーツ施設がある。25mのプール、フィットネス室、体育館、屋根付きのサッカー練習場、テニスコート1面など。夕食まで時間があったので、妻はプールへ、私はフィットネスへ行った。プールとフィットネスは1日1500円で使えるが、宿泊者は500円である。プールには子供達の水泳教室があり、賑やかであった。4コースあり、その1コースは一般客に使わせている。フィットネスには5、6人が色々なマシンでトレーニングを行っていた。若いトレーナーがいたので、彼に頼み、ランニングマシンの使い方を教えて貰った。私はそのマシンで45分間、時速5kmのウオーキングをした。このフィットネスとプールのある建物には、次から次と人がやってきて賑やかであった。体育館から出てきたマリーゼのユニフォームをきた女性に、妻が偶然出会い、妻は興奮して彼女と握手していた。
マリーゼは、なでしこリーグに所属し、2010年は3位であった。マリーゼの正式名称は、東京電力女子サッカー部マリーゼという。選手の全員が東京電力の社員で、午前は会社で仕事をして、午後、各地の東電の職場からバスに乗ってこのJ ビレッジにやってくる。この日は練習のない日なのか、4、5人しか見かけなかった。J ビレッジには、J ヴィレッジSCという少年サッカーチームが本拠地として使い、夜間、人工芝の練習j場で基本練習を行っている。このチームは、全国大会で優勝の経験がある。トルシエ氏がワールドカップ日本代表チームの監督をしていた頃、このJ ビレッジが使われていたが、監督が代わって、使われなくなった。
この日の夕食はセンターハウスのレストランで用意された。50名ぐらい入る広さのレストランに、私達と他の男性1名だけが食事をした。料理は魚料理主体で、普通のおいしさであった。翌日の朝食には、5、6名のサラリーマンが食事をしていた。彼等は、このJ ビレッジをビジネスホテルとして使っているサラリーマンであろう。私達は食事後、ショップで買い物をした。ここには、J リーグ、マリーゼ、J ビレッジなどのロゴが入ったTシャツなどが売られていた。10時前にチェックアウトし、宿泊代2.2万円/2人を支払った。帰りは、いわき市小名浜港にある市場(いわき・ら・ら・ミュウ)に立ち寄り、2階の食堂で海鮮丼(1260円)を食べた。これは、10種類以上の魚介類が入ったどんぶりで、さすがに魚は新鮮であった。
昨年9月26日、私達は裏磐梯の猫魔ホテルへ行った。磐梯山の猪苗代湖側には猪苗代町があり、整った磐梯山が見える。その山の反対側は裏磐梯といい、五色沼がある北塩原村がある。ここからは磐梯山の噴火後の割れた姿を見ることができる。私は、以前から猫魔(ねこま)という名前が珍しいと思い、猫魔ホテルに一度行ってみたかった。調べてみると、このホテルの近くに猫魔ヶ岳という1400mの山があり、その山から名前を付けたようである。猫魔ヶ岳には、昔化け猫がこの山に住みついて、人を食べていたという伝説がある。私達は、天気のよい当日の2時過ぎにホテルに着いた。ホテルは堂々とした造りで、案内された部屋も、40uの広さがあり、ちょっとしたワンルームマンションの部屋のようであった。広い窓からは裏磐梯山がよく見えた。
夕食まで時間があったので、すぐ近くの五色沼ハイキングコースを歩いた。このコースは別の入口から歩くのが普通のようで、反対側から来る多くの人とすれ違った。このホテルのあるところが終点で、観光バスや定期バスが止まるところがある。そこには4、5軒の土産物屋があり、観光客で賑わっていた。私達は30分程歩いて引き返した。この時期、紅葉が見られるか、と期待して行ったが、まだであった。このホテルの温泉は源泉掛け流しで、広い浴場が2階にある。露天風呂は階段を下りて1階にある。1、2階とも眼下に檜原湖が見られる。食事は、夕食、朝食ともバイキング方式で、好きな料理が選べて楽しい。1泊2食付で、一人11000円であった。
翌日のチェックアウト後、ロビーに猫グッズを売る店があったので、そこに入った。リアルに描かれた猫の絵(イギリス製)があったので、妻はそれを喜んで買った。今年1月に行ったJ ビレッジは、再度行く気にはならないが、この猫魔ホテルは全ての点で感じがよく、また行ってみたい。
2011.2 .10
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11年の冬
矢祭町は、昨年の暮れまで雪がなく、この冬は雪が少ないなと思っていたが、2月に入って大雪が2回あった。福島県の会津地方は、昨年暮れから記録的な大雪が続き、ビニールハウスが押しつぶされる被害が続発した。矢祭町の2月の雪は、春の雪で、すぐ融けたので、除雪に手間はかからなかった。雪がない日は、寒さが厳しく、最低気温が零下5度とか7度になり、庭の土も凍土化し、庭仕事はお休みになる。昨年の3月には我が家に猿がやって来たが、今年は来そうにもない。数日前、我が家のサンルームの前に、珍しい鳥がうずくまり、震えているのを見つけた。
矢祭町では野鳥を捕獲した場合、役場に連絡しなければならない。また、今年は全国各地で強毒性を持った鳥インフルエンザが発見され、大量のニワトリが処分されている。我が家にうずくまっている小鳥は、インフルエンザで弱っているのか、と私は警戒した。私は、震えている鳥を放置できないので、軍手をはめて、私の手のぬくもりでその鳥を暖めてやった。小鳥は元気になったようで、片目を開いて私を見ていた。この鳥は、人を恐れないので、どこかで飼われていたのが逃げ出してきたのか、親から離れた子供の鳥か、であろう。その鳥は私の手の中で気持ちよさそうにじっとしていた。このまま何時間も抱えているわけにもいかないので、私は小さな竹のカゴに布を敷いて、その中に小鳥を入れてやった。
鳥はじっとしていなく、震えてカゴの縁に留まっていた。妻と相談してカゴごと家の中に入れ、暖房の風が当たるところに置いてやった。小鳥は少し元気になったので、水を与えようと口に持っていったが、口を開ける気配はない。このままだと、おそらく死んでしまうだろう。外は寒風が吹いているので、そこよりは少し暖かいサンルームに一晩置いておくことにした。翌朝6時に見てみると、小鳥はまだ息をしていた。朝日がサンルームに当たる頃になると、その小鳥はカゴから出て、日差しが当たるところまで歩いた。一度、羽を広げて飛ぼうとしたが、力が入らなかったのか、止めてしまった。小鳥は、日差しの中であたりを見回していたので、元気になるかも知れない。
私が外出した後、11時頃妻は、その鳥が倒れて、床の上に横たわっているのを見つけた。私達の家に一晩訪れた小さな命は, はかなく消えてしまった。小鳥の最後は穏やかであったにちがいない。死んだ小鳥はカゴごと森の中に埋めて、墓標の木の枝を突き刺して置いた。後で十字架でも造って、さしておこうと考えている。私は、この小鳥の種類を知りたくて、野鳥の図鑑を調べたが、判らなかった。特徴は、頭が真っ黒で、胸の毛が黄緑色、羽は黒と白が線状の模様になっている。目の周りが白ければ、メジロかなと思ったが、黒っぽいので、メジロではない。(マヒワのオス?) 小鳥の死因は何だろうか、と気になっていた。後日、サンルームの大きなガラス窓に、黄緑色の産毛が付着しているのを私は見つけた。小鳥は、このガラスに激突し、落下して、うずくまっていたのであろう。
小鳥はインフルエンザでなかったのだと判り、私はほっとした。もっと暖かい部屋に一晩置いてやればよかったのに、と後悔している。小鳥は左目しか開けなく、右の目は閉じたままだったのは、ガラスに激突して右目を痛めたのであろう。飛べなかったのも、羽の骨を折ったのであろう。我が家は森のすぐ近くにあるので、鳥や昆虫がガラス窓にぶつかってくることがよくある。今回のように衝突して落下したのは2回目である。7、8年前、伝書鳩が激突してうずくまっていたことがあったが、しばらくして、そのハトはどこかへ飛んでいった。今度の小鳥は、初めての犠牲者である。ガラス窓のところに、「ガラスあり、注意!」のような注意書きを貼っておかなければいけないな、と妻と話した。
2月22日は妻の誕生日である。これを理由に毎年温泉旅行をすることにしている。今年は南房総の鴨川市にある「チサンリゾート鴨川」に行くことにした。この時期は道路凍結が恐いので、毎年南の方面の温泉地を選んでいる。11時に自宅を車で出発し、途中茨城県ひたちなか市にある「ジョイフル本田」という大きなショッピングセンターに立ち寄り、昼食を取った。序でに絵の具などの買い物をして、13時半にそこを出た。鹿嶋市から国道124線に入り、銚子市に14時半頃着いた。鹿嶋から銚子まで35 Kmぐらいの距離であるが、一般道のため、信号が多く、町中を走る買い物客の車も多く、1時間を要した。銚子から国道126号に入り、ここも旭市、山武市などの町中を通り、東金市に17時に着いた。私の予定では、17時にはホテルに着けると思っていたが、大幅に狂ってしまった。
私は、隣の茨城県の地図は持っているが、千葉県の地図は持っていない。今回の千葉県鴨川市行きは、パソコンの地図サイトで調べて、国道のルートが変わる部分だけ印刷して、それを頼りに出かけた。国道を走れば簡単だ、と考えていたのが大間違いであった。国道沿いには、ショッピングセンターが4、5 kmおきにあり、そこへの買い物客が軽自動車で走る。運転者は、主婦か高齢者であろう、制限速度を遵守してのんびり走る。銚子から東金市まで、距離にして45 kmであるが、2時間半かかってしまった。私は、東金市のブックセンターに入り、千葉県の地図を買った。レジの女性店員に、ここは何処で、国道128号に入るところは何処か、聞いてみた。彼女は128号はすぐそこですと答えてくれた。やっと128号にたどり着いたか、とほっとした。カーナビを持っておれば便利なはずだが、いまだ私は持っていない。そろそろ買わなくてはいけない。
国道128号に入り、道路は海岸沿いを走っているはずだが、真っ暗で見えない。大原、御宿を通るころは帰宅ラッシュに遭い、のんびり走らなければならない。午後6時半に勝浦の手前までたどり着いた。ホテルには、5時にチェックインする予定をネットで知らせているので、電話を入れた。私は、7時半頃になるでしょう、とホテルに電話すると、フロントは、夕食は8時までですと、冷たく答えていた。夕食を打ち切られると一大事である。私達は夕食が楽しみでやって来たのだから、私は大変焦ってしまった。勝浦市を過ぎると、128号線はバイパスを走るように造られていた。車も少なくなり、時速70キロで走れるようになった。鴨川市に入り、そこから町中の旧道を走った。太海町にあるチサンリゾート鴨川を探しながらゆっくり走ったが、見つからない。町中を通り抜けて、128号のバイパスに出てしまったので、近くの旅館に入り、ホテルは何処かと聞くと、あそこの明かりが見えている所だという。そこは見過ごしてきたところだ。引き返して見ると、なるほど「CHISAN」のローマ字看板が出ていた。私はカタカナの看板を想像していたので、気がつかなかったのであろう。
7時半にチェックインできた。荷物を部屋に置いて、すぐ地下のレストランへ行った。一組の客が食事を終わってのんびり話をしていた。私達の席には全ての料理が並べられていた。そこには、伊勢エビ、鯛、アジなどの刺身、アワビの蒸し焼きなど海鮮料理が数多く飾られていた。妻の誕生日祝いには立派な料理であるが、そそくさと食べなければならなかったので、残念であった。翌朝、温泉の大浴場に入ってみた。周りが壁で囲まれてムードが全くない。露天風呂は別のところにあり、着替えて行かなければならないので、面倒だから其処には行かなかった。そこは、太平洋が望める風呂であろう。私達が泊まった部屋は、4階のコーナーにあり、大きな窓から海がすぐ近くに見える。トイレ、バスルームにも窓があり、部屋全体が明るいのが特徴だ。
翌朝9時半に、22000円(2人分)を支払って、チェックアウトした。今日は房総半島の海岸沿いの410号を走って、千倉、野島崎を見ながらドライブしようとしたが、間違って128号の外房黒潮ラインに入って、館山市まで来てしまった。妻が房総半島の南端にある白浜フラワーパークに行きたい、と言っていたので、館山市から410号を南下して、そこに10時半頃着いた。そのフラワーパークは、ポピーが路地に一面に咲き、ハウスの中にはキンギョソウなどが咲いていた。1本15円のポピー、100円のキンギョソウを、妻が熱心に選んでいた。私は赤いボケの鉢を買った。帰りは、館山市から高速道路を利用して東関東道の潮来まで行こうと思い、館山まで戻った。
高速道路は、館山から君津、市原、千葉を通り、宮野木ジャンクションで東関東自動車道につながっている。佐倉、成田を経て、終点の潮来(鹿嶋市)に3時頃着いた。昨日は、この鹿嶋市から国道で房総半島を東周りで鴨川まで約6時間かけて走ったが、今日は高速道路を使用して3時間半で着いた。地図の上ではほぼ同じ距離であるが、高速は時間が半分で走れる。高速道路は大変有り難い存在である。高速料金はETCで3400円であった。時間の節約と、ガソリンの節約を考えれば、この高速料金は安い。政府が計画している千円均一料金だと、もっと安い。今回の鴨川行きは往復600kmの走行で、ガソリンは60リットル(約8000円)消費した。1リットル10kmの燃費は、15年前に買ったエスティマにしてはよい方であるが、今はやりのエコカーに比べると、全くエコではない。
2011.3 .10
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巨大地震
2011年3月11日、東北関東(東日本)大地震が発生した。震源地は宮城沖一帯で、マグニチュード9.0という世界最大級の地震であった。発生後、M7級の余震が広い地域で数多く発生し、またその余震(M4〜5)が20日を過ぎても続いた。この地震による死者、行方不明者は3万人近くなりそうである。この大きな被害は、高さ10mを超える大津波が太平洋岸の広い範囲を襲い、建物と住民を流したためである。この地震は、内陸部の鉄道不通、道路陥没、住宅崩壊などの一般的な被害、大津波による海岸部の壊滅的な被害、および福島県浜通りにある東京電力の2ヶ所の原発事故を引き起こした。東北地方は、これら三重苦で住民はショックを受けている。
私が住んでいる矢祭町は当日14時45分頃震度5強の地震が2分ぐらい続いた。大きな横揺れが続いたので、私は妻と外に出て、2階建ての建物が揺れるのを、「倒れるな」と願いながら、眺めていた。揺れが終わって、幸い建物は無事であった。家の中に入って点検したところ、食器棚、本棚などの倒れはなかったが、人形ケースが落ちてガラスが壊れていた。そのほか、小さな人形の置物が倒れる程度で被害はなく、ほっとした。すぐ停電があり、今夜からの明かりの確保に、ろうそくを集めたり、LED懐中電灯を集めたりしていると、約3時間後の17時半に電気は復旧した。水道は断水した。備蓄の水は全くないので、食事の用意ができないし、トイレの水洗が使えない。
我が家の庭先に沢水が流れている。この水をキャンプ用の20リットルのタンクに入れて風呂場に置いた。これから洗面器に水を取り、トイレ用に使うことにした。飲料用は煮沸して使い、ご飯はそのまま使うことにした。あり合わせのおかずを用意し、明るい電灯の下、悲惨な災害地のテレビ映像を見ながら、夕食をとった。被災地から送られるテレビの映像は津波の恐ろしさを、私達に与えた。エコポイントを獲得するために、1ヶ月前に購入した42インチテレビの大画面は、いやでも臨場感を与える。津波に押し流されていく車や住宅、津波により建物が簡単に押し倒されていく様子は恐怖であった。車の中や住宅の中にいた人々は助かっただろうか。
テレビに釘付けになっていた22時半頃、水道は復旧した。ガスはプロパンであるので、ガス漏れのチェックをして使うことができた。これで我が家のライフラインは全て復旧した。23時頃町役場の職員がペットボトルの水を持ってきてくれたが、水が来ているので受取を辞退した。矢祭町近隣の塙町、棚倉町も、停電と断水の復旧は早かったようである。隣の茨城県大子町は大きな鉄塔が倒れて、1週間近く停電が続いた。大子町のスーパーマーケットやガソリンスタンドが停電のため閉鎖していたので、大子の住民が買い物のために矢祭町へ押し寄せてきた。ガソリンはすぐ売り切れ。スーパーの菓子、パン類の棚はきれいになくなっていた。固定電話は通電後復旧した。県外からかけてくる電話は一時混んでいたようであるが、翌日には通じていた。携帯電話の方は利用者が圧倒的に多いせいか、一週間後もかかりにくかった。
インターネットのOCNプロバイダーは1週間利用できなかった。私は、自分の誕生日を理由に3月21日に横浜のロイヤルパークホテルを予約していた。東京に出る交通が遮断されていたので、このホテルをキャンセルしようとしていたが、ネットではできない。私は、東京へ出る手段として最も安い高速バスを何時も利用しているが、今回もネットで予約して、ネットで料金の支払いをし、乗車券もプリントアウトして用意していた。これらもキャンセルしなければならない。地震から1週間後インターネットが使えるようになったので、全てキャンセルすることができた。インターネットによる買い物は宅配業者が動けないので、2週間後も利用できない。
今回の巨大地震三重苦の一つである、原発の津波による被害(事故)は、福島県民に大きな不安を与えている。原子炉容器は耐震性はあるが、10mを超える津波により冷却系の破損などがあり、原子炉の冷却ができなくなった。燃料棒が2mもむき出しになり、一時は炉内が高温になり、原子炉の爆発も心配されたが、自衛隊、消防隊の必死の放水により、何とか落ち着いている。千度以上の物体に水が接触すると、水は水素と酸素に分解する。その水素と酸素に引火して水素爆発が数回発生した。そのため原子炉容器を囲んでいた建屋が破壊され、原子炉容器がむき出しになった。むき出しにより、原子炉容器は直接水がかけられるので、冷却効果はよくなったという皮肉な結果になった。それでも容器の一部が破損しているようで、容器内の放射能を含んだ水蒸気が立ち上がる。これらの映像がテレビで映されていた。
東電と政府(経産省、保安院)は、地震3日後から周辺の放射線量を発表し始め、今後高濃度が予想されるので、原発から30km以内の住民に対して事実上の避難指示を出した。原発事故から2週間後も周辺50kmの地域は1〜10マイクロシーベルトの放射線が観測されている。東京都の水道からも、放射線量が異常値を出したと報道され、都民はびっくりし、即刻コンビニの水のペットボトルを買い占めた。買い遅れた都民は慌てたであろう。2日後、水道水の放射線量は危険水準以下になって、都民は安心するように報道された。測定されている放射線の種類はヨウ素131であり、これは8日の半減期を持つので、短期間のうちに放射能は低下する。この事実を知っておれば、慌てることはない。
原発の建物が水素爆発により破壊された際、白い煙がたち昇った。当日好天気であったので、この煙は上昇し、首都圏まで達し、それが地上に降り注いで、10日後に水道水の放射線量が上がったのであろう。この煙には高濃度のヨウ素131が含まれていたに違いない。爆発直後、原発周辺の放射能測定結果が低濃度であることを政府は発表して、周辺の住民を安心させた。当日天気がよかったため、高濃度のヨウ素は遠くへ行っただけであって、もし雨が降っていれば周辺は高濃度の放射線が観測されたであろう。原発から80km離れている我が家では、雨の日は注意するようにしている。天気のよい日、雲の流れが西向きであれば安心して庭仕事をしている。風が北東から吹けば、ヨウ素131は我が家を襲うことになる。日本の気圧は西高東低が多いから、原発の放射性ヨウ素類は海上へ飛散することが多いであろう。
福島県、茨城県で生産された野菜や原乳に、基準以上のヨウ素131が測定され、出荷できなくなった。これは生産者にとって大きな打撃である。野菜による人体への実害はないと思うが、風評が恐ろしい。半減期が8日のヨウ素131は、放っておけば基準以下に必ずなる。スーパーではハウス物のほうれん草を売っているので、私達は購入して茹でて食べている。福島県は、5、6年前から知事が政府と東電に対して、原発事故防止対策に万全を期するように申し入れてきた。原発は安全対策を十分しているので大丈夫だと、彼等は繰り返してきた。また前知事は、保安院が同じ経産省の傘下にあるのはおかしい、別の組織に分離して欲しいと政府に強く要望していた。原発の安全を監督する保安院が、原発推進組織の部下であるのは誰が見てもおかしい。今度の原発事故は、このようなおかしな組織を認めてきた政府による人災である。
この4月に都知事選挙が行われる。自民党が推薦する石原現知事は、今度の大震災に対して、「これは天罰である」と発言した。立派な前置きがあっての天罰発言であるが、国民は天罰だけしか聞かなかった。この天罰発言に、被害を受けた人々、家族の命が奪われた人々は怒りを感じたであろう。天罰という言葉は聖人が使う言葉で、政治家が言うべきものではない。「おまえ達の備えがおろそかであったから、天罰を受けたのだ」としか受け取れない。この発言を石原氏はすぐ謝罪したが、後の祭りである。都知事選挙で彼は落選するであろう。東国原氏はこれをみて勝算ありと思い、立候補を決めた。傲慢な石原氏と正反対の彼が当選するであろう。石原氏は、この発言で天罰を受ける筈だ。
2011.4 .10
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巨大地震2
3月11日の東日本大地震は規模が巨大であったため、その余震も一ヶ月以上も続いた。50日になった現在、やっと余震が収まったので、私達は安心して生活できるようになった。余震は数百回あったであろうか、余震がくる数秒前、不気味な地鳴りがはっきり聞かれた。その地鳴りは、文字通り地底から響いてくる「ごー」という音で、その都度私達に不安感を与えた。この地鳴りは、気象庁が出す緊急地震警報とほぼ同時か、あるいはそれより先に聞かれる。気象庁のその予報は各地の測定器が壊れたせいか、途中から全く出なくなった。地鳴りは、私にとって正確な予報になった。
余震の震源地が広範囲に分布していたのも、今回の大地震の特徴であろう。余震の震源地が、私が住む矢祭町の約20km先の浜通りに、4、5回あった。最も大きかったのは、この地方で震度5で、その時は下から突き上げるような揺れが起きた。2、3秒の短い揺れであったので、被害はなかった。この時の余震では、50km離れた福島県白河市や中島村などが震度6弱で、壁が壊れたり、屋根瓦が落ちたりした大きな被害を受けた。震源地が遠い地域に大きな被害を受けたのは、地下の地質構造により地震波の伝わり方が違うためであろう。その後、余震の震源地は次第に南下し、千葉県、神奈川県に移り、その大きさも小さくなっている。
この巨大地震でその被害がいまだ拡大しているのは、福島第一原発の原子炉崩壊による放射能汚染であろう。汚染は空気中と海水と土壌に広がっている。この汚染は、簡単には終わらなく、おそらく数十年は続くであろう。原発から20km以内は、とうとう立ち入り禁止になった。この地域に住む住民は、家、家畜、畑地等を永久に放棄しなければならないかもしれない。特に海岸部では、行方不明者の捜索が、放射能汚染のため自由にできない。遺体が埋まったまま放置しなくてはならない。このような被災者達をテレビで見ていると、可哀想でならない。立ち入り禁止区域に防護服を着て入った人によると、牛や豚やニワトリはほとんど餓死していると報告された。この処理も早くしないと、伝染病が蔓延する。
立ち入り禁止区域内に楢葉町がある。ここにはJビレッジがあり、私達は今年の1月にここを訪問したばかりである。このJビレッジは、日本サッカー協会のために東電が130億円かけて造った施設である。私達が行った時、多くの従業員がそこで働いていた。パートのような女性に、私が「あそこにある煙突は原発?」と聞いたら、女性は知らないと答えた。地図で確かめたら、それは東電の広野火力発電所であった。こんなすぐ近くに原発があるわけはない。第一原発は20km先にあっても、事故が発生したら、大きな影響を受ける。ここで働いていた人達はすでに退去していると思われるが、自衛隊がこの広大な敷地を使って、原発事故処理の前線基地にしているようである。宿泊施設、厨房、大浴場などが揃っているので、駐屯地としては大変便利であろう。
福島県は放射能汚染の風評被害を受けている。福島県で生産した野菜や乳製品は、放射能で汚染されているから食べない方がよい、という考えである。原発に近い地域で生産された野菜などは、もし汚染されておれば、出荷されていないので、それらが市場に出ている筈がない。政府もこの風評被害を抑えるために努力し、菅首相も千葉県産のキュウリを市場で食べている映像をテレビに映していた。放射能汚染の風評は世界に広まっている。福島県イコール日本という認識で、日本産の車や鉄鋼製品は輸入を禁止する国が現れた。日本国内でさえ福島県産に対する風評があるのだから、世界では当然このような風評が発生するであろう。笑って済まされない事態になった。
カゴメ(株)が、福島県産のトマトは使用しないというコメントを、マスコミに発表した。これには私はびっくりした。政府が風評被害を抑えようとしているさなか、風評を助長するようなことを発表するとは、非常識である。カゴメの製品は、放射能に汚染されていないトマトを使っているから、消費者は安心してくれ、とPRしたかったのであろう。このPRは国内では通用するかも知れないが、世界では通用しない。この時期において、このような発表をするのは、風評を広げるだけである。会社がトマトを受け入れる際、放射能汚染をチェックするのは、当然の品質管理であろう。わざわざ公言する必要はない。カゴメは、このようなPRを他企業で出し始めたらどうなるか、考えただろうか。日本の消費者は、疑心暗鬼になって、一つ一つの商品に放射能汚染がない、という証明書を付けろ、と請求するだろう。
地震が過ぎ去って宮城県と岩手県は復興に着手しているが、福島県は放射能汚染とその風評の被害をいまだ受け、復興に着手できないでいる。福島第一原発の事故は政府による人災であるとは、先月号でも述べた。安全性をチェックすべき保安院を、原発推進する経産省の下部組織に置いておく体制が、事故を起こしたと言っても過言ではない。過去に、原発に関する有識者が、安全確保用に緊急停電のための自家発電機をさらに複数設置しろと提言した。これに対して経産省と東電は、現在の装置で十分対応できるし、そのような不測の事態に一つ一つ対応する設備を設置したら費用がかかって企業は成り立たない、と言った。
今回、その想定外の事故が発生したわけである。たかが10億円程度の設備投資をけちって、何兆円という損失を出してしまったのだ。その支払は回り回って国民が背負うことになる。政府と結託した大企業が利益を出せば、企業と役人、政治家がその恩恵を受け、甘い汁を吸うことができる。今回のような巨額の損失が出れば、一企業では支払えないので、政府が面倒をみる。最終的には増税でまかなうことになる。政治家の腹は痛まない仕組みができている。自民党は、長期に政権を持っていたので、役人を通して自由に企業を動かすことができた。この政治家と官僚、大企業の癒着を断ち切るために、国民は民主党に政権交代を求めた。
現在の民主党政権は、自民党政権による長年の癒着によって生じた原発事故の後始末を負わされている。この事故処理の政治的手法について、自民党は民主党と協力しなければならない。しかし自民党は、事故が自分たちの遠因で生じたことをすっかり忘れて、菅首相への批判と退陣を迫る。民主党内も小沢派は菅首相を批判し、退陣を迫る。この非常時に、党内団結して国民を救わなければならないのに、自分たちのことしか考えない小沢派政治家にあきれかえる。復興の道筋がついた時点で、民主党は小沢派を離党させ、総選挙を行うべきである。おそらく自民党が圧勝するであろう。自民党は自分たちが種を蒔いた原発事故を責任を持って処理するがよい。日本は政権交代を時々行う必要がある。
4月11日に都知事選挙が行われて、石原氏が東国原氏を大差で破って当選した。先月号に書いた私の予想は外れてしまった。選挙の後、都内に住む男子高校生が朝日新聞に投稿していた。彼は、何もしなかった石原都政を何故都民は選んだのか疑問に感じる、と書いていた。老人は変化を恐れ、現状に不満がなければそれでよい、という結果が石原知事を再選させたのであろう。老人による老人のための都政である。4月24日に、私が住む矢祭町の町長選挙が行われた。ここでも、28年続いた政治の流れを変えたくない、という老人有権者が70才の古張氏を支持した。対立して立候補した鈴木正美氏は53才である。矢祭町のような小さな町は、町の金(予算)を当てにして生活している人が多い。今まで通りの生活を維持するには、28年続いた根本、古張氏の町政の流れに頼らざるをえない。
石原氏は東国原氏を大差で破ったが、古張氏は鈴木氏を46票差で、かろうじて当選した。矢祭の投票率は87%という驚異的な数字であった。選挙に対する住民の意識は、東京都より矢祭町の方が遙かに高い。東京都民には、誰が知事になってもかまわない、という無関心なムードがあるのに対して、町政に生活がかかっている矢祭の住民は、選挙に重大な関心を持つ。近々矢祭町には、古いしがらみを断ち切り、新しい流れを必要とせねばならない。
2011.5 .10
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’11年の春
福島県では、原発事故による放射能汚染が相変わらず続いている。新聞紙上に、毎日の大気中の放射線測定値が報道されている。矢祭町のコミュニティ新聞にも、町役場近辺の数値が示されていて、大体0.1マイクロシーベルトである。第一原発に近い浪江町では、20マイクロシーベルトが連日続いているようだ。原発から60km離れた福島市や郡山市でも、1.5〜2の数値である。原発の南側40kmに位置するいわき市では、0.2マイクロシーベルト、と低くなっている。福島市は、原発の北西の位置にある。3月から5月にかけて気象庁が発表する風向きは、西風が多い。これは、原発から海側へ風が吹いていることになる。つまり、原発から出る放射能は全て海方向へ拡散し、陸側には流れない筈である。
原発事故発生後、私は、新聞やテレビの天気予報で、西からの風が吹いていることを確かめて、庭に出ていた。また、雲の流れが海側に流れているの確かめて、安心して庭仕事をしていた。事故発生2ヶ月後、新聞が発表した放射能汚染分布を見てみると、第一原発から北西方向に汚染が集中していることが判った。気象庁が出す風向きと違う方向に、汚染が広がっているのだ。気象庁の風向きの予報は、日本の気圧配置から予想するもので、上空500〜1000mの風向きであろう。地上では、予報とは違う方向に吹いているようである。地上の風向きは、気圧配置でなくて、都市の位置とか、高い山の位置によって異なる。福島市の背後には標高2000m近い吾妻連峰がある。都市活動で発生する熱は、暖められた空気として、高い山に沿うような形で上昇する。その都市に、海からの冷たい空気が流れ込む。このようにして、海に近い原発から、北西方向にある福島市に向かって、ローカルな風が吹くのであろう。
第一原発から北西方向に位置する浪江町、飯舘村、福島市などは放射能汚染が今後も続くものと思われる。原発の北側の南相馬市や、南側のいわき市は、現在放射線量が低い。政府は、原発から半径20kmとか30km以内のように、地図の上に線を引いて、警戒区域などを設定しているが、今後は汚染分布の実測値を考慮して、避難地域の解除などをしていかなければならない。政府の画一的な指示でなく、地域の汚染状況に合わせた指示でなければ、放射線量の少ない地域の住民までが、混乱の巻き添えにされてしまう恐れがある。
原発から南西方向の80kmにある我が家では、放射能汚染がないものとして、私は毎日庭仕事をしている。今年の冬が寒かったせいか、春の花が咲く時期が全体的に遅くなっている。5月中旬に、チューリップの花が終わり、つつじが咲き始めた。我が家の庭に1本のキングサリを植えている。昨年の暮れ、異常に暑い日が続き、このキングサリは、春が来たと勘違いして、新芽を出した。葉が大きくなり、花のつぼみも出始めた。その後、寒い日が続き、本格的な冬になったため、葉は枯れて落ちてしまった。私は、本当の春が来たらキングサリはどうするのか、注目していた。このキングサリは、今年4月に新芽を出し、5月中旬に花の房を出し始めた。植物は、環境の変化に応じて、臨機応変にライフサイクルを変えていくものだ、と私は感心した。
北海道知床半島に、知床自然学校というNPO法人がある。ここで、2年前「どんぐりの里親」制度を作り、新聞に報道された。妻がこれを見て、参加したいというので、2009年10月にどんぐりの里親になった。申し込んでしばらくすると、その自然学校から、どんぐりの種3個と、種を蒔くポット、土、肥料が送られてきた。2500円の参加費用を送金し、早速説明書通りにどんぐりを蒔いた。翌年の春、3個の種の内、1個から芽が出て、私達は大変喜んだ。妻は、このどんぐりを、「ぐりちゃん」と名付けて、水やりなどをして可愛がった。芽が出て1年後の今年5月に、ぐりちゃんは2枚の葉を出し、どんぐりらしい姿になってきた。葉の形は、マロニエの葉によく似ているが、大きさがマロニエより小さく、赤ちゃんの手のようで、可愛い。
知床の自然学校からは、「森の種通信」というお便りが送られてきて、色々な情報を知らせてくれる。今年の6月には、どんぐりの里親、第1回植樹祭が行われる。6月3日〜5日の間、里親さん交流会、アッカイムの森での植樹祭があり、岩尾別ユースホステルで宿泊しながら行事が行われることになっている。これらのスケジュールは、若者向けのようである。私達は、6月3日に植樹だけすることにして、ぐりちゃんを北海道に連れて行くことにした。6月3日まで無事にどんぐりが育つように、妻は大変気を遣っている。幼いどんぐりは霜に弱いので気をつけてくれ、という自然学校からの便りがあった。妻は、天気予報の霜注意報が出ると、ぐりちゃんを縁側の下に待避させたり、雨が降ると放射能に当たっては可哀想だからといって、軒の下に待避させたりしている。
今年のはじめに私達は、6月に、ぐりちゃんを知床に里帰りさせようと計画していた。当初は車で八戸まで行き、そこからフェリーで苫小牧へ、帯広、釧路、知床斜里を経て、岩尾別の自然学校に行くつもりであった。3月11日の大地震と津波で高速道路、八戸港が使えそうになかったので、空路で北海道に行くことにした。福島空港から新千歳空港まで行き、乗り継ぎで網走市の女満別(めまんべつ)空港へ行き、そこからJRで知床斜里駅へ、そしてレンタカーで岩尾別に行く計画を立てた。福島空港までは自宅から車で1時間10分かかり、無料の空港駐車場に車を駐車させる。新千歳空港行きは1日に1便、11時30分発しかない。それに乗って行くと、乗り継ぎで女満別空港には14時50分に着く。10時前に自宅を出て、その日の15時頃には、宿泊地の「ホテル網走湖荘」に着ける。飛行機は早くて、楽だ。
航空券は、インターネットで購入することができ、45日前の超割引を利用して、正規料金の半額以下で買うことができた。福島、新千歳間は2人で片道3万円である。車とフェリーで苫小牧までいけば、1日半かかり、2人で6万円はかかる。超割引制度の欠点は、キャンセルしても代金は戻らないことである。例えば、ある人が、キャンセルしなければならない場合、その人は少しでもお金を回収しようと思い、街の割引チケット屋に航空券を売る。これを目当てに格安の航空券を買う人がいる。このような人達がいるから、街のチケット屋は繁昌しているのであろう。
我が家の庭に、8年前、白樺の木を植えた。年々背が高くなり、今では8mぐらいの高さになっている。この白樺の木が、今年初めて花を咲かせた。花は、長さ10cmぐらいの茶色い房状で、枝にぶら下がっている。それは、花とは思えない奇妙なものであった。今年の春には、シュウメイギク、トキワマンサク、枝垂れ花桃、イチョウ、ボケ、モッコウバラを新しく植えた。我が家の庭とその周辺には、100種類以上の植物が植えてある。これらが、生長し花を咲かせたり、実を実らせたりして、四季の移り変わりを私達に知らせてくれる。これは、大変有り難いことである。
我が家を新築して、今年の4月で丁度10年になる。この家は、先の震度6の地震にも耐えることができた。これは、パネルで強度を与えるプレハブ工法のお陰であろうか。メーカーは関西系のエスバイエルである。この家が完成した10年前、メーカーの担当者が新築祝いとして、カサブランカの大きな鉢を持ってきた。私は、花が終わった後、このカサブランカを庭に植え替えた。そのまま9年経った昨年の秋に、その球根を掘り上げてみた。なんと40個あまりの球根が出てきた。それらを庭の6ヶ所に植え替えた。今年の5月、これらの球根から芽が勢いよく出ている。6月には花が咲き、庭のそこらじゅうからカサブランカの甘い香りが漂ってくるであろう。私は今、それを楽しみにしている。
妻は趣味で俳句をつくり、時折新聞に投稿している。’11年5月18日の朝日新聞、東北版の「みちのく俳壇」に、妻の俳句が第一位に選ばれて、選者の岩田 諒氏からお褒めの言葉を貰った。その俳句と選評は次の通りである。
揺るぎなし月のま下の花辛夷 (辛夷=こぶし)
選者の評: 打ち出しの「揺るぎなし」が、作者の感動を表す。月光の下、いよいよ白い「花辛夷」は、一枚の日本画を見るよう。
滅多にない第一位の評価に、妻は大喜びであった。
2011.6 .10
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北海道旅行
私達は、2011年6月1日から6月8日まで北海道を旅行した。旅行の行き先は、網走、知床、釧路、札幌である。乗り物は、飛行機、JR、レンタカーを利用した。1999年夏に、私達は車でオートキャンプ地を利用しながら、東北、北海道を19日かけて旅行したことがあった。このホームページを始めた頃であったから、その記録はこの雑記には載せていない。いつかその詳細を書こうと思っていたが、とうとう書く機会をなくしてしまった。当時の日記によると、横浜の自宅から出発して、福島のレジーナの森、青森の八幡平、函館、札幌、富良野、旭川、青森、福島県矢祭町を経て、自宅に戻るコースであった。札幌と矢祭は宿泊施設に泊まり、他はキャンプ地に泊まる旅行であったため、相当な体力を必要とした。
今回の旅行も車で行こうかと考えたが、体力に自信がなかったので、公共交通機関を利用することにした。北海道へは往復飛行機を利用することにした。自宅から福島空港まで、車で1時間強かかり、そこからエアドゥで新千歳空港へ行き、乗り継ぎで網走の女満別(めまんべつ)空港へ行った。そこからバスで、その日の宿泊地である網走湖荘に15時頃着いた。自宅を10時前に出たので、北海道の網走まで約5時間しか、かかっていない。車を使うと、おそらく2日はかかるであろう。73才の私と、68才の妻にとって、飛行機は有り難い存在である。
福島空港は利用者数が年々減少しており、運営者である福島県は減少の歯止めをかけるのに苦心している。ドル箱路線は韓国であるが、今回の大震災の影響でさらに利用者が少なくなりそうである。新千歳線はビジネス客が多いようで、私達が乗ったフライトも、120席の半分ぐらいの客が利用していた。飛行機はボーイング737(120席)で、ANAとエアドゥが共同運行している。乗務員はエアドゥの社員であり、すべて日本語でサービスしてくれる。当日の客は、国籍が全て日本であることが予めわかっていたので、英語によるアナウンスは略していた。新千歳から女満別へのフライトは、ボンバルディアDHC8‐Q300のプロペラ機(56席)である。ここではANAが運行して、ANAの乗務員がにこやかにサービスしてくれた。機内放送も日本語と英語で行っていた。その日の15人ぐらいの客に、外国人がいなくても、社内規則をしっかり守って英語放送をしていた。
千歳空港から女満別行きのプロペラ機には、ターミナルビルから搭乗できない。客は、場内バスで5分ほど走った所にある、プロペラ機だけが駐機している場所に行き、そこから乗る。プロペラを回すと風圧がすごいのと、騒音がひどいので、その居場所が遠くへ隔離されたのであろう。バスから降りて狭いタラップを昇って、笑顔のスチュワーデスに迎え入れられる。これから飛行機に乗って遠くへ行く、という気分が盛り上がる。座席は左右2列で、私は、窓から少し後ろにプロペラが見える所に座った。この座席の位置も予めインターネットで決めることができる。私達が搭乗してすぐエンジンを始動させた。ジェット機より大きな音が室内に伝わってくる。やがて滑走路に向かって機体をふるわせながらドライブした。無事に離陸して高度を上げ、機内も減圧をはじめた。ジェット機より低い高度を飛ぶせいか、機内の気圧も900hPaぐらいで、私の耳の痛みも穏やかであった。
当日は好天で、北海道の景色が眼下によく見えた。飛行機の影も長方形に区切られた農地に映り、飛行機が飛んでいる様が見られ、遊覧飛行のようで、楽しい。やがて阿寒湖、屈斜路湖などが見え、網走市が見えてきた。今回の旅行の目的は、私達が里親として育てたどんぐりの苗を持って、知床の国有地に植樹することである。このどんぐりの苗は高さ30cmになり、10cmの葉も3、4枚付けている。このポット付の苗を紙袋に入れて、手に提げて持ってきた。飛行機の座席に座るとき、スチュワーデスがこの紙袋を見て、上の棚に置いてあげようかと言ってくれたが、ポットだからと言って断った。彼女は座席が狭くなるので不便だろうと思って、紙袋を隣の空席のシートに置き、丁寧にシートベルトをかけてくれた。この「ぐりチャン」(妻はどんぐりの苗をこのように名付けて可愛がっていた)は、一人前に座席に置かれて、フライトを楽しんだ。
プロペラ機は無事に女満別空港に着陸した。平屋建ての空港ビルは飛行機と直接接続するデッキがない。タラップを降りて、歩いて空港ビルに入る。ビルのすぐ前に網走市行きのバスが止まっていた。それに乗り、20分ぐらい走った所で左に湖が見えてきた。今夜宿泊する網走湖荘はこの湖の岸辺にあることを、予めインターネットの案内地図で知っていたので、見当を付けてバスから降りた。すぐ目の前にホテルがあった。3棟のビルが並んだ大きなホテルである。本館、別館および温泉棟があり、それぞれ通路で結ばれている。私達は本館の6階に案内された。すぐ目の前に網走湖が見える大きな部屋である。今日は別館に札幌の中学生が修学旅行で来るという。大浴場が混み合うので、入浴の時間が制限されていた。彼等の修学旅行先は例年東北地方であるが、今年は大震災のため、急遽変更してこのホテルに来たのだ、と従業員から説明された。東日本大震災の影響はこんなところにも出ている。
翌日6月2日はバスで網走市へ行き、13時10分発のJRで知床斜里町へ行く。出発まで時間があったので、市内の網走川河口付近にある、モヨロ貝塚遺跡を見に行った。網走から知床斜里までの列車はオホーツク海沿岸を走るので、冬は流氷の景色が堪能できるという。知床斜里町は、世界遺産の知床半島の玄関口である。駅に近づく頃、知床半島の山々が見え、少し離れた内陸側に端麗な姿の斜里岳がよく見えた。私達はこの駅で駅レンタカーを借りて、半島の付け根にあるウトロ温泉まで行く。北海道の道路幅は広く、直線であるから、時速60kmのゆっくりした速度で走ろうと思っても、すぐに70kmになってしまう。途中、オシンコシンの滝を見物して、今夜の宿泊地、知床グランドホテル「北こぶし」に着いた。
まだ時間があったので、そのままホテルを通り過ぎて、知床峠方面へドライブした。途中知床自然センターに車を止め、センター内を見学した。建物の前では、白樺林の向こうに羅臼岳(1661m)が見られた。白樺林の手前には2頭のエゾシカがのんびり草を食べていた。4時近くになったので、もと来た道を引き返して、ホテルにチェックインした。このホテルでも道内の中学生が修学旅行で宿泊していた。従業員に聞くと、大震災のため例年の東北地方の行き先が急遽変更になったのだと言う。温泉に入る時間が制限され、夕食のバイキングの時間も彼等と別にするために、時間制限を設けていた。
夕食の料理はさすがに海の幸が多く、刺身の種類も多い。ホテルの部屋に知床の天然水がポットに入っており、妻はのどが渇いたと言って、頻りに飲んでいた。私も1回飲んでみたが、特別美味しいとは思わなかった。飲んだ後、胃が少しもたれるような感じがした。その夜、妻は吐き気がして、手足が冷たくなり、頭痛がすると言って、一晩中うなっていた。胃にくる風邪のような症状である。翌朝もベッドから起き上がれない状況になっていた。どうやら「水あたり」のような気がした。知床の天然水は、福島の水とは成分が少し違うようであり、それを多く飲んだ妻に症状が現れたのであろう。
海外旅行では土地の生水は飲むな、とよく注意されるが、北海道も外国並みに注意しなければならない。同じ日本だから、何とも思わずに生水を飲んでしまった。6月3日は9時に知床自然学校の人とホテルで落ち合って、どんぐり苗の植樹に行く予定である。妻は朝食も食べられずにいたので、私だけが行くことにした。自然学校の藤田さんから電話が入り、9時半に行くと言ってきた。その時、妻の事情を説明して、私だけ行くことを連絡した。ホテルにはそのまま昼過ぎまで部屋を使ってよいと、フロントから言われた。体の具合が悪い客が発生した場合、ホテルは部屋を無料で使わせる規則があるのであろう。妻も安心して休むことになった。
妻は、このどんぐりを1年半、我が子のように可愛がってきて、その子を生まれ故郷の知床に戻すために、現地までやって来た。妻は、思わぬ体調不良のため、その子の新天地を見ることができなかった。さぞ残念に思ったであろう。妻は、後日その子に会いに行きたいと言っていた。
2011.7 .10
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北海道旅行2
2011年6月3日の朝、私は、妻をホテルの部屋に残して、どんぐりの植樹に出かけた。知床自然学校から関口さん、藤田さん、女性(名前を忘れた)の3人がホテルにやって来て、一緒にアッカムイの森へ行った。このアッカムイは、ウトロ温泉と知床斜里町の中間ぐらいにあり、国道334号沿いにある。私は、福島で育てた「ぐりちゃん」を、仲間がいるその森に植え終わった。森の中にあるその土地は、100坪ぐらいで、周囲が鹿除けの柵で囲まれて、すでに20本ぐらいのどんぐりが植えられていた。明日から2日間、ここと自然学校がある岩尾別ユースホステルで植樹祭が行われる。約70名の里親が全国から集まり、合わせて400本のどんぐりが植えられる。「ぐりちゃん」は、これらの仲間と一緒に2年間ここで過ごし、その後、天然の森に植え替えられる。
植樹を終わった後、校長の関口さんが国道の反対側にある海岸に案内してくれ、波打ち際でヒスイの原石を探して貰った。昔、近くの山が噴火して海岸に溶岩が流れて、その溶岩の中にヒスイが含まれていたという。関口さんは、女性がきたらここに案内して、土産代わりにヒスイ原石を持って帰って貰うと言う。彼女たちは大変喜ぶ、と関口さんは自慢していた。私の妻は宝石類に興味を示す歳でなくなったので、持って帰っても喜ばないであろう。私も海岸の石ころの中を探して、小さいのを2個見つけた。私は、旅行先で小さな石を記念に持ち帰ることを趣味にして、それらを庭に置いている。一番遠くから持ってきた石は、フィンランドの北極圏からのものである。私は、知床のオホーツク海沿岸の石も拾って帰ろうと思って探した。赤茶色の径が7cmぐらいの平べったい石があったので、それを拾った。これは多分、すり鉢の破片が長年波に削られて、丸い石みたいになったのであろう。この石は、世界の石達と我が家の庭に肩を並べて鎮座している。
知床自然学校の人達は明日の植樹祭の準備のためにこの森に残り、私だけウトロのホテルへ戻った。昼頃までベッドで寝ていた妻は、少し回復したようで、起き上がることができた。私達は、12時過ぎに車でホテルを出て、今夜の宿泊地である知床斜里町の「ホテルグランディア知床斜里駅前」へ向かった。JR斜里駅でレンタカーを返し、駅の目の前にあるそのホテルにチェックインした。妻は、部屋にたどり着くとすぐベッドに横になった。妻は朝から何も食べていないので、私は近くのコンビニで果物など、病人用の食べ物を買ってきて食べさせた。まだ食欲はない。夕食もコンビニで買ってきた簡単なものをホテルの部屋で少し食べた。この調子では、妻は、明日の釧路市近郊の「どさんこ牧場」で乗馬体験をすることは、不可能であろう。私は、その牧場での宿泊と乗馬予約を電話でキャンセルした。明日は妻の静養のため、このホテルに連泊することにした。
妻は、翌朝のホテルの朝食を普通に食べることができ、体調は戻ったようである。私達は一日斜里町を散歩して時間を潰すことにした。斜里町は、人口約1.3万人で、知床100平方メートルと呼ばれるナショナルトラスト運動の先進地として知られる。斜里町の「シャリ」は、アイヌ語で「アシのはえているいるところ」、という。町はなだらかな丘陵地にあり、ゆったりした街並みである。私達はこの街並みを歩きながら知床博物館に行った。この博物館には、この地方に生息する動物の剥製が所狭しと展示されていた。怪我で不自由になったオジロワシやオオワシは、保護されて飼われている。この博物館に隣接して、姉妹町友好都市交流館がある。斜里町は沖縄県竹富町と青森県弘前市と姉妹、友好盟約を結んでいるので、それらの自然と文化がこの交流館に紹介展示されていた。
この博物館からすこし歩いた住宅地の中に、「北のアルプ美術館」がある。建物は、白樺林の中にあり、昭和36年に三井農林(株)斜里事業所の社員寮として建てられたものである。地元の山崎 猛氏が買い取り、私設の美術館として開設した。元社員寮らしく廊下をはさんで8畳ほどの個室が並んでおり、その個室に山に関するあらゆるジャンルの作品が展示されていた。串田孫一、戸川幸夫、尾崎喜八、深田久弥などの作品を見ることができる。入場料は不要であると管理の女性から聞き、私達は誰も入館していない静かな雰囲気でこれらの作品を観賞することができた。暫くするとその女性がコーヒーを2階まで持ってきてくれた。恐縮しながら美味しいコーヒーを飲んだ。2階の階段の所に寄付金の箱があったので、コーヒー代のつもりで500円を入れておいた。白樺林のあちこちにも彫刻作品があり、本館から少し離れたところに、山小屋風のログハウスがあった。
翌日6月5日は斜里町からJRで釧路市まで行った。ホテルは駅前の「ホテルルートイン釧路駅前」である。妻もすっかり元気になったので、釧路市内を散歩した。駅前の北大通りを市の繁華街がある末広町へ向かって歩くと、釧路川があり、北海道三大名橋である幣舞橋(ぬさまいばし)が架かっている。橋の上には日本初の橋上彫刻「四季の像」がある。付近の景色を眺めて、飲み屋街である末広町を通ってホテルに戻った。このホテルには本格的なレストランがない。客は、ホテルが契約した末広町の「くし炉あぶり家」で夕食を食べる仕組みになっている。ホテルからその居酒屋への往復は、タクシーが無料で案内してくれる。私達はこのホテルに翌日も泊まり、その日も同様な仕組みの「炉ばた居酒屋はたご家」で夕食を食べた。私達は、釧路の夜の飲み屋街の雰囲気を味わい、地酒を飲みながら海の幸を味わうことができた。
翌日の6月6日は阿寒バス(株)の定期観光バスを利用して、釧路郊外の名所を観光した。観光バスのコースは、釧路駅から釧路湿原が一望できる高台に行き、鶴居村を通って摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖に行き、釧路駅に戻る。朝8時に出発し、17時に戻るという丸一日のコースである。その日の乗客は7名であった。ガイドが付いていたので、土地の詳しい風物を知ることができた。鶴居村は「どさんこ牧場」があるところで、タンチョウヅルが飛来する所である。タンチョウヅルは、今が子育ての季節で、森の中にいるため、平地には姿を見せない。見渡す限りの平地は牧草地である。この地方の土地は、痩せて野菜などの農産物ができなく、牧草しか生育しない。この付近の人達は酪農でしか生活の仕方がないと言う。牧草は今が新芽が出る時期で、牛にとって美味しい季節である。
この牧草は暫くすると刈り取られる。刈り取った牧草は、丸く巻き取って、ビニールでカバーされる。これらの大きなかたまりは、方々に放置されて、これからの季節によく見られるという。牧草は、ビニールの中で次第に発酵して、さらに美味しく、栄養価が高くなる。枯れた草を牛が美味しそうに食べている様子を、テレビで見ることがあるが、草が発酵しているため、美味しいのだ。牛は一般的に難産型といわれている。ホルスタイン種は大きいので、特に難産である。そのため、ホルスタインの初産は、和牛の精子で人工授精する。その後はホルスタイン種で受精する。そのためホルスタインは、和牛とのあいの子が多い。体の白い部分が多いのがホルスタインで、その白黒の割合で和牛と区分けされる。ホルスタイン牛は、寒さに強く、乳の量が多いので、北海道では好まれて飼われている。
広い牧草地帯をバスから見ていると、私は、福島の原発近くの酪農家の牛が食べ物がなくて、やせ細った姿のテレビ映像を思い出した。この牛たちを北海道に連れてきて、思い切り美味しい牧草を食べさせてやりたい気持ちになる。福島では牛の主食は稲わらである。この稲わらに、セシウムが汚染されていることが最近判り、福島の牛たちは食べ物がなくなってしまった。牛の肉からもセシウムが検出され、社会問題になっている。福島県はこれらの牛を全部買い取ると言っているが、家族同様に飼ってきた牛を簡単に手放す(殺処分する)ことはできない。牛を手放すと、酪農家は廃業しなければならない。復興事業は、人のための事業が多いが、牛馬などの生き物の延命にも手をさしのべて欲しい。
私達は摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖を観光して、17時前に雨の釧路市に戻った。
2011.8 .10
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北海道旅行3
6月7日は、JR「おおぞら8号」で釧路から札幌へ向かった。JRのこの特急は数ヶ月前、トンネル内で火災事故があり、乗客の誘導で全員がトンネル外に無事に避難した。その焼けた車両の写真が新聞に載っていた。車両は無残な姿で、これで誰も犠牲者が出なかったのか、と私は感心した。その焼けた車両がまだ残っているか、と私は注意して外を見ていたが、見られなかった。JR北海道は、この車両を世間に見せたくないので、早々と土の中に埋めたか、どこかへ持って行ったのであろう。私達の乗った「おおぞら8号」は、15時13分、無事に札幌駅に着いた。
その日に泊まるホテルは、駅のすぐ横にある「三井ガーデンホテル札幌」である。チェックインして部屋に落ち着いた後、駅近くのサッポロファクトリーへ出かけた。そこはホテルから約1km離れたところにあるので、歩いて行くことにした。15分ほど歩いて目的のファクトリーについた。このサッポロファクトリーは、ビール工場の広大な跡地を利用したショッピングセンターで、レストラン、ホテルなどの施設も集めた複合施設である。私達は、北海道の土産物店が集中しているフロアーに行き、買い物をした。昔のレンガ造りの建物を利用したビアレストランがあったので、そこに入り夕食とした。ビールの味の異なる3種類がセットになったビールを注文して飲んでみた。並べて飲むとそれぞれの違いがよくわかる。
帰りは疲れたのでタクシーでホテルに戻った。翌日朝早く、私は散歩に出かけた。旅行は運動不足になるので、私は早朝散歩をすることにしている。釧路市でも早朝5時半にホテルを出て、駅前通を釧路川に向かって歩いた。どこの都市も駅前通は、広い道幅で、広い歩道に並木と植え込みを作っている。通りの両側には大きなビルが並び、都市の威容を知ることができる。並行する隣の通りになると、がっくり寂しくなる。札幌は、駅前通りは立派な道路で、その突き当たりに有名な大通公園がある。私はそこまで歩き、大通公園を少し歩いて、並行する隣の道路を駅に向かって戻った。その道には北海道庁の建物や北大の植物園などがあり、さすがに大都会の懐は深い。
先日、妻の母親が98歳でなくなり、その葬儀のために岡山市へ行った。その日の早朝も私は散歩に出かけた。岡山駅前の通りは「桃太郎大通」と名付けられ、立派な通りになっていた。私は中学生から高校生まで岡山県総社市に住んでいたので、60年前の岡山駅前通はよく覚えている。当時は、終戦後の都市復興をしていた最中で、駅前通りも雑然として、ビルなどあまりなかった。今回この通りを歩いて、大きな建物が並んでいる様をみてびっくりした。
「桃太郎大通」を歩いた先には旭川があり、その向こうに後楽園がある。川の手前には、岡山城(烏城=うじょう)がある。河川敷は広々として、NHKのラジオ体操が始まる時間であったので、多くの人が方々から集まっていた。周りの木々からクマゼミの大きな鳴き声がひさしぶりに聞かれた。私は、横浜でも福島でもクマゼミのあの賑やかな鳴き声を聞くことができなかったので、懐かしかった。聞くところによると、クマゼミは地球温暖化により、その生息地は次第に北上しつつあるという。現在の北限は横浜市のようである。何年後かに、矢祭町でもその鳴き声が聞かれるかもしれない。
岡山城はカラスの城と書いて烏城(うじょう)という。壁が黒塗りの板で覆われているので、カラスの城と名付けられた。隣の姫路市にある姫路城は、外側が白壁に覆われているので、白鷺城という。新幹線からもこの優美な姿が見られる。現在は修復中で、城全体が目隠しされていた。札幌市には城がない。日本の県庁所在地には、ほとんど言っていいぐらい城があり、城は都市の中心付近に広大な敷地を持って、鎮座している。札幌市の地図を見ると、都市の中心には広大な敷地を持った北海道大学がある。札幌駅をはさんで、北側に大学のキャンパスがあり、南には北大の植物園がある。
以前車で北海道を旅行した時、札幌市にも一泊した。宿泊したホテルは札幌サンプラザであった。場所は札幌駅の北側で、すぐ近くに北大のキャンバスがある。私達は2時頃ホテルに着いた。妻はホテルのプールで2時間ほど泳いでいたので、私は北大のキャンパスをゆっくり散歩した。夏休みであったので学生はいなく、静かな雰囲気を楽しむことができた。そのときは札幌市内は観光せずに、翌日すぐ次の目的地に向かった。今回は丸一日札幌で過ごすことになったので、観光できた。翌日、ホテルの食事を済ませ、荷物をホテルに預けて近くの北大植物園に出かけた。
この植物園は、有名な札幌農学校があったところで、クラーク博士の進言で造られた。植物園の入り口には、現在開花している植物の名前が張り出されており、その中にライラックとハンカチノキがある。植物園の地図にライラック並木があったのでそこへ行った。ライラックは高木にはならないようで、背が低い幹が多く根元から出ている様子が見られた。我が家の庭にも8年前にライラックを植えていたが、今年それが枯れてしまった。枯れ木の周りに根元から多くの新しい枝が出ていた。私は、今までライラックを1本の木に仕立て、周囲からでる新芽は切り取っていた。1本仕立ては、どうやら誤りのようである。
ハンカチノキにはどのような花が咲いているのか、見に行った。8mぐらいの大木に白い大きな花びらが2枚、方々にぶら下がっていた。いかにもハンカチがぶら下がっているようであった。私が住んでいる矢祭町にも春になると、葉の裏が白くなり、ハンカチがひらひらしているように見える樹木がある。これはハンカチノキではないか、と毎春考えていたが、この植物園にきて、そうではないことが判明した。このハンカチノキを見に来る人は多いようで、園内のあちこちにハンカチノキの方角が示された立て札がたてられていた。
私達は植物園を出て、歩いてすぐの大通公園に行き、さっぽろテレビ塔を眺めた。そこから地下鉄で札幌駅に戻り、地下街のレストランでフルーツパフェを食べた。のどが渇いていたので、それは大変美味しかった。北海道の良質のアイスクリームも美味しくしているのであろう。札幌駅と「三井ガーデンホテル札幌」の間に大丸デパートがある。妻が化粧品を買うというので入ってみた。
妻は若い頃からカバーマークというブランドの化粧品を使っている。これは大手のブランドではないので、地方のデパートには滅多に置いていない。札幌のデパートにあるか探してみたが、なかった。カバーマークのメーカーはアメリカに本社があり、その名前は、顔にできたマーク(あざ、しみなど)をカバーする(かくす)意味であろう。この化粧品は、女性の顔に病気が原因であざができた場合、それを目立たないようにするために、開発されたものである。妻は、15年前に顔のあざをレーザー治療で除去したので、このブランドを使う必要はなくなった。しかし、化粧品が肌によくなじむといって、今でも愛用している。
私達は、新千歳空港17時30分発の福島空港行きの飛行機に乗り、20時前に自宅に戻った。
2011.9.10
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’11年の夏
2011年の夏は、全国的に猛暑続きであった。当地でも連日最高気温が34℃になり、うんざりしていたが、9月19日から急に涼しくなった。夏の晴天が続いたせいか、庭の柿の実が多く育っている。我が家では柿の木が4本あり、そのうちの1本が渋柿である。去年は全く実らなかったが、今年は150個近く実を付けた。自然に摘果されて、今では100個ぐらいになっている。ブルーベリーも4本あり、そのうちの1本は毎年多くの実を付ける。今年は特に多く、毎日飽きるほど実を食べているが、それでも食べきれないので、ジャムにした。他の3本はまだ小さいので実は少ない。毎年ヒヨドリがブルーベリーを食べにやってくるので、大きな木には網をかけて防御している。その代わり他の3本は、ヒヨドリに解放している。それらは実が少ないので、すぐなくなってしまった。
我が家の庭には夏に咲く花が多い。ノウゼンカズラが3本、ムクゲが5本、アメリカフヨウが10本ある。アメリカフヨウは赤と白だけであったが、昨年ピンクを4本植えたので、庭は賑やかになった。このほかに、ハネウツギ、朝顔、シュウメイ菊などが夏に花を咲かせる。花が多いので、色々な蜂が集まってくる。これらの蜂がいたる所に巣を作るので困っている。建物に少しでも隙間があると、そこに潜り込んで巣作りを始める。我が家の横にログハウスがある。これは天然の木材を使用しているので、蜂は好んでここに巣を作る。私はこのログハウスの前で色々な仕事をしている。私の周りを蜂が飛び回っているが、私は追い払わないことにしているので、蜂は私を攻撃しない。夏の間、私は蜂と共存している状態である。寒くなったら巣を除去したり、穴をふさいだりする対策をしなければならない。
この夏はパソコンにトラブルが発生して大いに慌てた。8年前に、16.7万円で買ったデルのデスクトップ型パソコンがスイッチを入れても何も返事をしなくなった。揺すっても、叩いてもダメ。このパソコンは、昨年の5月にも同様な故障があった。すぐ修理に出してチェックしてもらった結果、マザーボードが壊れていた。その交換に2.8万円必要というので、支払って修理してもらった。それから1年少し経って、また今回の故障である。私は、中国製のデルは問題ありと思い、ヒューレットパッカー(hp)のパソコンを買うことにした。液晶のディスプレイを除いたパソコン本体を7.6万円で購入した。hpは、「パソコンは東京で生産」とPRしているので、中国製デルは故障が多いのかと疑った。
8年前のパソコンに比べると、現在のパソコンは、値段が約半分でも性能が一段と良くなっている。現在32bit版パソコンがまだ主流であるが、今回、64bit、RAM4GBのパソコンを購入した。私の8年前のパソコンは、ソフトなど多くを詰め込んでいたので動きが鈍く、いらいらしていたが、今度のパソコンはスピードが速い。NTTは、インターネットの光通信は速くて快適だから切り替えろと宣伝している。今度のパソコンは、ADSL通信でも快適に動くので、その切り替えの必要はなくなった。NTTのADSLプロバイダー利用料金は、現在月2700円であるが、光だと5000円ぐらいに高くなる。しかし、NTTは、月100MB以下のインターネット利用の場合、光通信でも月2600円の新料金をPRしだした。100MBのインターネット利用は、容量が小さすぎて、すぐオーバーしそうで、不安である。今年の夏、矢祭町では全家庭に光ケーブルを無料で設置してくれた。
新しく買ったhpのパソコンを使ってみると、今まで蓄積していたデータ、たとえばメールのアドレスなどが使えなくなった。これらを取り戻すには、故障したデルのパソコンを修理しなくてはならない。デルに修理を依頼すると、5.8万円の「前払い」だという。過去のデータを全部失った私は、裸になったような感じであった。背に腹は代えられないので、その金額を支払って修理してもらった。電源ユニットが壊れていたので取り替えた、という作業報告書が添付されて、1週間後に戻ってきた。電源ユニットはせいぜい2千円程度のものであろう。技術料を含めても修理代は2万円ぐらいである。修理費用の明細書もこない。私は、明細書を請求し、余った金を返せとメールした。デルは、修理費は一律5.8万円としているので返せない、と返事して来た。デルに昨年の5月に修理を依頼したときは、パソコンの故障の具合を調べて、見積書がきて、その金額を支払って修理してもらった。デルが、一律5.8万円を前払いするシステムに変えたのは、どうも腑に落ちない。デルが嫌いになった。
hpのパソコンは、Windowws 7(W−7)が標準として入っていた。以前使っていた Windowws XPと比べ、どこが違うのか、私には全く分からない。私が持っている色々なソフトは全部XP用である。これらがW−7で働くのか試してみると、半分以上ダメであった。マイクロソフト社はこの救済のため「XPモード」というソフトを無料で配布(ダウンロード)している。但し、W−7の「Professional」というバージョンでないとXPモードはインストールできないという。私が購入した標準のバージョンは、「Home Premium」であった。バージョンを「Pro」にアップグレードするには、9千円支払わなくてはならない。私は、OSソフトの種類を選択するとき、オプションに「Pro」があることに気がついていたが、私は必要ないと簡単に考えて、「Home Premium」にしてしまった。その時の「Pro」のオプションは、3千円高いだけであった。私は後悔しながら、9千円を支払って「Pro」のプロダクトキーを購入した。
今、私の新しいパソコンには「Windows7Professional」が入り、「Windows XPモード」が入っている。W−7からXPモードに切り替えるには、ディスクトップにあるXPのショートカットをクリックするだけである。XPに簡単に切り替わるので実に便利になった。W−7に戻るのもクリックするだけである。私は今ホームページ(HP)を3種類持っている。1つは、OCNが容量10MBまで無料で提供しているHPであり、他の2つは、ヤフーが無料で提供する50MB容量のHPと、同じヤフーの有料HP(月350円、容量300MB)である。
私は、当初OCNだけでホームページ(HP)を作っていたが、絵画の写真が100枚以上になったので、無料のヤフーに絵画の写真だけを移した。また昨年1月から、私達が毎週行っている絵画教室で制作した絵画作品を紹介するために、有料のHPを立ち上げた(皆さんがHPを見るのはむろん無料です)。ヤフーがサービスするHPは、OCNプロバイダーからアップロードすることができなくなった。ヤフージオシティというHPからアップロードしなくてはならない。そこで私のHPを編集して、HPの更新などを行う。その編集作業は、Windows XPでしか動かなく、W−7では編集できないことが分かった。幸い私はWindows XPをW−7の中に持っているので問題はないが、ヤフーのマイクロソフトへの対応は遅い。それとも私の対応が早すぎたのか。
今年の夏は、女子サッカー「なでしこジャパン」がワールドカップで優勝して日本中が興奮した。私もテレビ中継を見て楽しんだ。我が家の庭にナデシコの苗を今年の3月に買ってきて植えているが、さらに今回の優勝を記念して、紅白のナデシコを9月に植えた。ナデシコは、その言葉から女性的な感じを受けるが、大胆、快活という花言葉もある。「なでしこジャパン」は、大胆で快活な働きで世界制覇をしたのであろう。おめでとう。
2011.10.10
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風力発電
風力発電とは大変大げさであるが、私が作った風力発電装置について記してみたい。我が家では、これも大げさであるが、ソーラーパネルによる太陽光発電を行っている。これは、12V程度のソーラーパネルを使い、充電池に昼間電気を蓄え、夜間その電気でLEDを発光させる仕組みである。我が家の庭には、このLEDが大小あわせて20個以上ある。夜の庭はこれらの光で大変賑やかである。世間では、原発や化石燃料に頼らない「エコ発電」に関心が高まっており、私もその流れに乗って「風力発電」に挑戦してみた。
風力発電には風車が必要である。アルミ製の羽と発電機をセットにしたミニチュア発電機をインターネットで見つけたので、それを買って組み立てて見た。発電モーターは自転車のライトに使うものである。この風力発電機を風に向かって設置したが、ふつうの風では容易に回らない。風速20m以上ないと回らないようである。これでは台風が来るのを待たなければならない。自転車用の発電機は効率が悪いことも分かった。自転車の車輪の径に対して、発電機が受ける軸の径は非常に小さいので、回転数が大きくなり、電気が簡単に起こる。風力発電では羽の回転に直結して発電機(モーター)を回転させているので、強い風が必要になる。自転車用発電モーターはあきらめた。
少ない回転数で電気が起こるモーターはないか探したところ、青森県にある「サイキット」という会社が売っているモーターを見つけた。大きさは鶏卵を一回り小さくしたもので、手でモーターの軸を回すと、2Vぐらい発電する。これに羽を付ければ風力発電機ができる。軽くてそよ風でも回る風車は、ペットボトルで作れる。風車の作り方は、多くの人がインターネットで教えてくれている。インターネットから何でも知ることができて、その存在は大変重宝である。私は、ペットボトル風車にモーターを直結して、さらに1.2Vの充電池2個を組み合わせ、風力発電機を作った。その充電池に2Vで発光するLEDをつなぎ、私は、風で発生する電気を光に変えて、風力発電を実感することができた。
今まで気づかなかったが、自然に吹く風は気まぐれである。風の方向も、強さも常に変化する。我が家は、すぐ東と南に山と森があり、風の通り抜けが邪魔されるために、このような複雑な風の吹き方になるのであろう。我が家での風力発電は難しいことが分かった。日本でも、風力発電場所の立地条件は相当限定されるであろう。海岸べりであれば背後に平野が広がる所、内陸地であれば海抜500m以上の台地が好ましい。内陸の盆地は風力発電場所には向いていない。私が作った風力発電機は充電池によるLEDの発光がしばらく続いたが、そのうち光らなくなった。気まぐれな風による発電は、電気を充電するには至らなかった。
私は何とか風力を利用したいと思い、ソーラーと風力とのハイブリッド発電を試みた。中国製の小さなソーラータイプのLED庭園灯を買い、自作の風力発電機に取り付け、さらに1.2Vの充電池を取り付けた。風による電気は1.2Vの充電池に充電され、その充電池を庭園灯内の充電池につなぐ。風力発電のモーターは内部抵抗値が2キロオームあり、風が吹かないとき、ソーラーパネルで発電した電気がモーターに無駄に消費される。それを防ぐために半導体を接続した。このようにして作ったハイブリッド発電機は、夜間LEDを明るく光らせている。しかし、風による発電がどの程度LED発光に寄与しているか不明である。
風力発電用モーターは、2Vの電気を加えるとモーターが回転する。私はこれを利用して、4Vのソーラーパネルと、2.4Vの充電池を用いて風車を回した。風が吹かない時も、空が明るくなると風車がくるくる回る。風が吹いて風車が激しく回ると、モーターは発電し、充電池に電気を送り込む。ソーラーパネルは、空が曇っていても、明るくなれば確実に発電するので、風車を回してくれる。私は、ペットボトルの羽に5色の塗料を塗り、色の動きを楽しむことにした。現在我が家の庭には6台の風車がある。2台はハイブリッド型の風車、1台はソーラーで回る風車、あとの3台はタダの風車である。動きのない庭にこれらが回るのを眺めていると、賑やかで楽しい。
我が家の敷地の前に山から流れてくる沢がある。今年3月、大震災が発生したとき、水道が5時間ほど断水した。私は、この沢から20リットルのキャンプに使うタンクにその沢水を汲み、色々活用した。断水して最初に困ったのは、水洗トイレで流す水がなくなったことである。早速トイレのタンクに沢水を入れて利用した。この沢水は、どんなに大雨が降っても、透明な水が流れ、決して濁らない。飲み水としては生では飲めないので、煮沸して飲んだ。ご飯もそのまま使用した。当地ではプロパンガスが燃料として使われている。都市ガスのようにガス管が壊れて、ガスが使えなくなることはなかった。
私はその沢の上流10mに小さなダムを作り、そこからパイプで庭の水盤まで水を引いている。その水を水盤から小さな水路に落とし、再び沢に戻している。このような仕組みを作って8年ぐらいなる。毎年夏にはスズメ達が庭の水路にやってきて、水を飲んだり、水浴をしたりしている。今年はこの水盤にボウフラがわいたので、殺虫剤を水盤にスプレーした。その後のある日、スズメ達が水路の横で並んでいるのを家の中から見つけた。彼らは水も飲まないし、水路に入ろうともしない。「この水、変だぜ」「近寄らない方がいい」など、彼らはしゃべっているようだ。スズメ達は、水に殺虫剤が入っているのを感知したようである。私は悪いことをしてしまったと、後悔した。すぐ水盤の水をきれいに取り替えてたが、スズメの姿は見ることができなかった。
そのことがあって、2ヶ月後、一匹の猫がこの水路の水をうまそうに飲んでいた。猫は、首輪をして、まだ子供のようである。体の上側が黒色で、下側が白色の猫である。漫画のフィリックスに似ているので、妻はその猫をフェリックスと名付けた。鈴のついた首輪をしているので、飼い猫であろう。この猫は、近所を歩き回り、人間を見ると親しくよってきて、足にじゃれつくという評判である。飼い主は、我が家の3区画先にある建物の持ち主であることが分かった。そこには女性が住んでいて、勤め人らしく、昼間はいない。退屈なフェリックスは、近所を訪問し、相手をしてもらおうと、無闇にじゃれるのであろう。
私が庭仕事をしていると、知らぬ間にその猫が近寄って、私の動きをじっと見る。私が手を休めると、ニャーゴと言って私の足に体をこすりつける。そして猫は地面に横になって、白い腹をみせる。お腹には乳首が並んでいるのが見えた。雌猫である。彼女が来る日は週に数回であるが、庭の方々を歩き回ってパトロールしてくれる。そのような日はトカゲの姿が見えなくなる。彼女は、縁側(濡れ縁)の日が当たる場所が好きなようで、数時間横になってくつろいでいることがある。
そのようなとき、妻が縁側に立って洗濯物を干すと、フェリックスは妻の足の上に乗って横になる。妻はそれを喜び、うれしそうに私に報告する。フェリックスは、我が家の猫になったようである。フェリックスと呼ぶと、猫は必ずニャーゴと返事をする。縁側で寝つかれると水路に降りて、水を飲む。また縁側に上がって横になる。いつまで寝ているのだろうか、と私達が心配すると、夕暮れには立ち上がって、行ってしまう。夕暮れは彼女の主人が会社から帰る時間であるから、家に帰ったに違いない。今頃フェリックスは主人に甘えているのだろう、など私達は彼女の話題で時間を過ごすのである。
2011.11.10
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実りの秋
今年の矢祭町の秋は柿が豊かに実り、華やかである。矢祭に限らず、福島県全体にそのような風景が見られる。福島県の柿農家は、セシウムの風評により出荷ができず、収穫した柿は土の中に埋めている。柿農家は、柿の木の保護のためその実を採らなければならない。一般の家に植えている柿は、誰も実を採ろうといないので、葉が落ちた木の枝には橙色の実が鈴なりに放置され、秋の田園風景に彩りを添えている。
2011年3月の原発事故から8ヶ月を過ぎているが、空気中の放射線量は減少することなく、一定量のセシウムが原発から流れている。毎日セシウム濃度の測定結果がテレビで報道され、私は福島県内の各地のその数値を習慣として眺めている。その数値を見ていると、原発から放出されるセシウムは一定の経路を流れているように思える。原発から出たセシウムは北西に進路をとり、福島市に流れ、そこから南に進路を変え、郡山、白河へ流れる。さらに栃木県の那須あたりに出て、関東平野に拡散される。
もう一つのルートは、原発から海岸沿いに南下するルートである。このルートの放射線は、福島市方面の約1/5の濃度のようである。現在、福島市のセシウム濃度は約1.0マイクロシーベルト(毎時)であるが、原発から同じ距離(約40km)のいわき市は約0.2マイクロシーベルトである。海岸沿いのいわき市から茨城県の高萩市などに流れていくセシウムは0.2〜0.1マイクロシーベルトであり、この方面では、セシウムは広い海に拡散されている。これら2つのルートの真ん中に位置する矢祭町は、常時0.1マイクロシーベルトを維持している。矢祭から25km北の棚倉町は0.3である。これは、山沿いのルート(福島市、郡山市)の白河市から流れてくる高濃度セシウムの影響であろう。
幸い矢祭町は福島県内でもセシウム濃度が最も低い地域である。当地での3月11日から12月までの放射線量の積算値は約0.5ミリシーベルトである。1〜100ミリシーベルトが人体に危険とされている数値があるが、来年あたりは矢祭もその危険値に入ってしまう。我が家の庭近くには4本の柿の木を植えているが、今年は皮肉にも柿の実のなる年で、柿は枝もたわわに実を付けている。渋柿は特に多く、200個以上の実をつけている。他の甘柿も50個近く成っていて、少しずつ採って食べている。柿は、実を付け始めてから3ヶ月で大きくなるが、その間空気中のセシウムに囲まれて育っているわけである。
そのようなセシウム付きの柿を食べるのは少し勇気がいるが、生きている期間が少なくなっている私は深刻に考えていない。色々文句をつける妻も黙って食べている。彼女がセシウム付きはいやだ、と言うと、いかにも長生きしたいと思われ、それがいやなのであろう。内心は食べたくないのであろう。渋柿は直ぐ食べるわけにいかないので、干し柿を作ることにした。皮をむくので、皮についたセシウムは除去されるが、空気中に2、3週間さらすので、再びセシウムを吸着する恐れがある。このことから福島県の干し柿生産者は製造するのを断念している。私は、11月のはじめに柿の皮をむいて干し始めたが、その時期の気温が10〜20℃もあったので、干し柿にカビが生えてしまった。折角の干し柿は廃棄した。
渋柿から柿酢を造ろうと思う。数年前私は柿酢造りに挑戦して、失敗した。インターネットに記載された簡単な柿酢の作り方に従って、作ってみた。それは瓶に柿を入れて布で封をして6ヶ月放置すれば柿酢ができるという方法であった。その通りして、1年放置してみると、柿は黒くなっていて、液体と分離していた。カビで黒くなったのであろう。
今年は成功させたいと思い、ネットで調べると、丁寧に写真付きで詳しく説明されているページを見つけた。現在それに従って製造中である。それによるとカビには気をつけろと書いている。ひとたびカビが繁殖すると、失敗したと思って捨てろと書いてある。柿の実の表面に付着している天然酵母を利用するため、柿は水で洗ってはいけない、とその指導書には書いている。天然酵母の他に今年はセシウムも付着しているので、すこし困っているが、セシウム入りの柿酢も滅多に造れないと思い製造を継続している。
私は毎年サツマイモを育てている。約6uの畑に50本の苗を5月に植え、10月の末に芋を堀り上げた。例年収穫したサツマイモを、テニス教室の女性達に持って行って、食べてもらっているが、今年は中止した。サツマイモの中にセシウムがどの程度混入しているか分からないし、貰う方も不安であろう。私は、サツマイモを野菜の本に従って育てている。その本では、サツマイモはマルチング法が良いと勧めている。これは、他の野菜の作り方にも共通している方法であるが、マルチングといって黒色のビニールフィルムを土の上に覆って、小さな穴を開けて、そこに苗を植える方法である。私はそれに従ってサツマイモを植えた。空気中のセシウムは地上に落下しても、土深く入っていかないので、サツマイモにはセシウムは入ってこないと思われる。
サツマイモは大小あわせて100個ぐらい収穫できたが、これらは短期間には食べきれない。私は、芋をふかして、厚さ2cmぐらいに切って、日光にさらして乾燥させた。そのようにして作った「乾し芋」を冷凍庫に入れておけば、1年以上保存することができる。食べるときは、トースターで解凍する。これは酒のつまみとして手軽である。セシウムなしの芋は、乾し芋を作るために、空気中にさらしたので、セシウム付きになっているであろう。私は今年もキュウリ、ナス、ミニトマト、ピーマン、カボチャを作った。夏の初めに植えたこれらの野菜は、夏の間セシウムの洗礼を受けながら元気に育ち、秋の初め多くを実らせた。いつもの年のように、私達は新鮮なそれらの野菜を美味しく食した。
先日(11月14日)、私達は紅葉見物のため、阿武隈山系を横切って流れる鮫川渓谷へ行った。矢祭町から鮫川村、古殿町を通り、いわき市へ抜ける道を紅葉見物しながらドライブした。紅葉はやや盛りを過ぎていたが、野山の明るい色模様は美しかった。いわき市には震災後初めて訪れた。小名浜港にある「ラ・ラ・ミュー」という観光客相手の魚市場と食堂がある建物はまだ再建中であった。この小名浜港も3mの津波が押し寄せて、付近の施設は軒並み被害を受けている。水族館の「アクアマリンふくしま」も被害を受け、魚たちは海に解放され、行方不明になっている。今、彼らは生まれ故郷の海で幸せに生きているであろう。
小名浜地域の海岸線は長く、後背地に山がないので、津波の被害は沿岸部だけで終わっているようだ。海から10mぐらい離れた建物はそのまま残っているようである。民家の塀とかシャッターなどは壊れたままに放置されているのが見えた。三陸のリアス式海岸ではV字型の山が平野を囲んでいるので、津波は海岸から相当奥まで到達し、被害も大きい。小名浜の海岸部には多くの大企業がある。それらの企業が被害を受けた、というニュースを私は聞いたことがなかった。三陸地方は多くの企業が壊滅的な被害を受けたのに、ここは被害が小規模であったようである。
私達は、昼食を「ラ・ラ・ミュー」で取るために小名浜港にやってきた。しかし、そこが閉鎖中であったので、近くの小名浜魚市場の2階にある食堂に入った。近辺の食堂は軒並み閉鎖されているので、その店内は多くの客が入っていた。私達は1550円の海鮮どんぶりを注文。新鮮な魚はさすがに美味しかった。帰りは白河で買い物をする予定であったので、高速道路の磐越道から東北道に入り、白河ICで降りた。私は震災後、町役場で被災証明書を貰ったので、それを見せて、約4000円の高速料金は無料であった。私の家の被害は、人形ケースが落下して、ケースが壊れた程度であった。
この程度で被災証明書を申請して、黙ってそれを町民に発行している町の方針はどうであろうか。町は、慢性的人手不足と事務の簡略化のために、そのような方針にしたのであろう。町は、町民の判断と良心にまかせているわけで、被災証明を受け取った私は、その使い方に責任を負うことになる。
2011.12.10
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'12年、春うらら
私は、寝る前ベッドの中でニンテンドーのDSライトによる読書をしている。ソフトは「DS文学全集」というもので、日本の小説を100冊集めたものである。この内容は、明治から昭和にかけて名作と言われた文学であり、著作権の切れた作品が網羅されている。収録されていないのは著作権が残っている谷崎潤一郎、川端康成などである。2007年にこのソフトが発売され、私はその年の暮れに購入し、読み始めた。その100冊の本を2011年12月に全部読み終えた。
私は、20年前岩波書店が出した「岩波文庫100冊の本」を購入した。当時これが注目され、多くの 人が購入したと思われる。100冊の本は作品が100タイトルであり、文庫本であるから、1作品は上中下など複数冊に分かれている。そのため本の冊数は200以上あったと思われる。20年前、私はこれを寝る前に読み始めた。これは、日本文学と外国文学が識者達により選ばれていた。私は、若いうちに外国文学を全部読んでしまおうと考え、外国作品から読み始めた。60ぐらいあった作品をほぼ読み終えたのが、11年前であった。当時、横浜の柏尾台から矢祭町に引っ越しが決まり、200冊の文庫本は邪魔になったので、団地の夏のバザーに200冊を2000円で出品した。近所に本の好きな人がいて、その人が喜んで買っていた。
日本文学を読まずに岩波文庫を売ってしまったので、4年前、DSの日本文学を購入して読み始めた。100冊の本の中で最も興味があったのは、島崎藤村の「夜明け前」である。これは、江戸幕府が崩壊する時代の中山道の馬籠宿に、脇本陣で先祖代々庄家を勤めていた主人公の話である。中山道は京都と江戸を結ぶ幹線道路であり、歴史上の人物が往来したり、参勤交代の大名が大勢の家来を連れて往来する。それらの様子が詳しく書かれている。脇本陣を持つ主人公の庄家は宿の「駅長」であり、区間を統括する村長でもある。幕府から出る政令が領主から駅長に伝えられ、それを村民に伝える役もある。行政の実権は領主が持っているので、駅長は領主と農民の間に立って多くの悩みを抱える。14代将軍家茂の妻として江戸に行った、和宮がこの馬籠を通った話も興味深かった。私がこの小説を読んでいる時、NHK大河ドラマ「篤姫」が放映されていた。小説で読んでいる江戸幕府崩壊の宿場の実態と、ドラマの中の徳川政権の動きが対比されて、タイミングのよい読書であった。
DS日本文学で面白かったのは下村湖人の「次郎物語」である。この小説は私が学生時代、古本屋から岩波の単行本を買ってきて読んでいて、途中の巻から本屋で見つからなかったので、読むのをあきらめていた。今回このDSで全部読むことができた。第四部からは、五・一五事件など軍国主義時代の背景で次郎の生き方が描かれ、小説は第五部で終わっている。作者は主人公の次郎になりきって物語をすすめており、私も次郎になったつもりでこの小説を読み終えた。作者は第七部まで書く予定であったが、1955年死去したので、小説は未完のまま終わった。次郎の戦後の社会変化への対応や、生活状況を読んで見たかったが、残念である。
私が印象に残った作品は、原民喜著の「夏の花」と、北條民雄著の「いのちの初夜」である。前者は、著者が広島で原爆にあい、被災者の悲惨な状況を冷静に著述している小説である。私は、原爆の恐ろしさを写真とかフィルム映像で見てきたが、文章でその惨状を読んだのは初めてである。この小説は、世間にあまり知られていないが、もっと多くの人が読むべきである。主人公の妻も原爆に会い、行方不明になっており、多くの死体から妻を捜すところで小説は終わっている。著者の実際の妻は原爆投下の前年に病死している。著者は44歳で自殺した。
もう一つの「いのちの初夜」は、著者がハンセン病(ライ病)にかかり、隔離病院に入院するところから小説が始まり、入院患者や医者の人間模様を著者の体験に基づいて記述された小説である。日本ではハンセン病発症患者はいないが、偏見などで苦しんでいる人も多い。私もハンセン病の患者や病院の実態を今まで知らなかったので、この小説は私にとって有意義であった。この病気が消えつつある日本では貴重な記録でもある。著者は、入院直後自殺を図ったが、死にきれず、その後、24歳で結核で死去した。
DS文学全集の99冊目に読み始めたのは、長塚節の「土」である。序文を夏目漱石が書いており、その文章が長く、地味な内容であるが読んでおく価値があるなど、強制的な序文であったので、私は興味を失い、本文を少し読んでやめてしまった。最後の100冊目は、正岡子規著の「病牀六尺」であった。これは、子規が晩年結核に病んで、病床で書いた短文集であり、死の前の暗さは全く感じられなかった。俳人仲間が作った俳句の評価や解釈などが書かれている。日本画の見方、稚拙の評価などもあり、私にとっても参考になった。
その短文の一つに面白い内容の記述があった。ある日、俳人仲間が子規の病床を訪れ、俳人のお嬢さんを連れてきたが、会ってみるかというシーンである。子規は、会いたいと言って、そのお嬢さんを見て、その美しさに胸がときめき、久しぶりに興奮したと書いていた。子規は、しばらくお嬢さんを家に預かりたいと頼んで、仲間は快諾した。さらに、子規はお嬢さんを貰い受けたいと頼んだ。色々手紙のやりとりがあって、結局貰い受けたという話である。このような死を間近にした病人でもまだ色気が残っているのかと、私は感心したが、最後に子規はこのお嬢さんの正体を書いた。それは、日本画の女性像であった。私はてっきり生身の女性のことかと思っていた。子規に一杯食わされてしまった。子規もおそらく仲間の俳人からだまされたに違いない。仕返しに読者をだましてやろうと思って、この短文を書いたのであろう。楽しいユーモアである。
話は変わるが、今、福島原発事故の県民に対する補償金で県内は色々もめている。補償する対象者が放射線濃度の高い地域に限定されたので、その地域に外れた隣接の市町村は不公平だと怒っているのである。福島県全民に補償すべきであると、県知事は政府に要望書を出した。それをバックアップするために、区域外の人々による署名運動を行っている。矢祭町は、対象の町と直接接していないので、あまり興奮していないが、一人8万円、子供40万円の補償金がもらえるとなると、俄然興奮する。他の町で作った署名用の用紙が、我が家にも配られてきた。A4版の用紙に家族全員が署名するようになっているが、署名は代筆でも構わないとしている。代筆の署名とは、おかしな話である。
棚倉町に住んでいるテニス仲間の主婦は、ペットの犬の名前を人間らしく変えて署名しよう、などとはしゃいでいた。県民全員に補償金が決まれば、新年のうれしいお年玉になる。
2012.1.10
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神戸観光
2011年11月26日、私達は岡山での法事に出席した後、神戸に1泊して、市内を観光した。私は約20年前、仕事で神戸市長田区の会社を訪問したことはあったが、市内の観光は一度もなかった。淡路島神戸大地震の被害については、マスコミでしか知らなかった。今、震災後17年になっていて、その復興もほぼ終わっていると聞く。被災のひどかった長田区は神戸中心地から離れているので、今回そこには行けなかった。11月末は、秋の観光シーズン真っ最中であるので、ホテルの予約に苦労した。私達は、岡山市での法事を済ませた後、新幹線で午後4時頃、新神戸に着いた。
予約したホテルは、新神戸駅と三宮のほぼ中間にある「ホテルピエナ神戸」である。ここは新神戸から歩いて15分ぐらいのところにある。神戸は、ケーキ作りが盛んで、特徴のあるケーキが多くのカフェで売られている。私はスイーツが好きで、神戸に来ることを楽しみにしていた。この「ホテルピエナ神戸」は、ケーキに力を入れているようで、ホテルのフロントの横でケーキを食べることができる。朝食のビュフェでもケーキを出していることが、案内書に書かれていた。ホテルなどの夜のビュフェでは、スイーツが並ぶが、朝食では出ないのが普通である。
私達はホテルで一休みした後、神戸の夜景を摩耶山から見ようと思い、タクシーでケーブルカー麓駅へ行った。ケーブルカーで「虹の駅」に行き、そこからロープウエーに乗り換え「星の駅」へ。当日は晴れていて、展望台の掬星台(きくせいだい)から神戸市内が180度の視界で眺められた。日本三大夜景は函館、神戸と長崎である。函館の夜景はツアーで何年か前に見た。私は神戸を一度見てみたいと思っていた。長崎の夜景は見たことがないが、もう見る機会はないであろう。
神戸の夜景は、三大夜景の中で最も規模が大きく、大阪市の一部と、紀伊半島へつながる堺市などの街の光も見ることができる。淡路島も見られるが、夜の明かりは見られない。私達は夜景を堪能して、山を下りた。ケーブルカー麓駅には、市バスが待っていたので、それに乗り、三宮まで戻った。夕食は、今日の法事の昼食が豪華で、量が多かったので、「サンチカ」のうどん屋で簡単に済ませた。
翌朝のビュフェは、和洋の料理と、プチケーキが多く並べられていた。私は食後のコーヒーと、多数のケーキを食べ、満足した。ホテルの泊まり客は、ケーキが目当てなのか、女性が多い。サラリーマンはいなく、子供連れが多い。私達が泊まったホテルの部屋は広くはないが、雰囲気は若い女性向きになっていて、妻は大変喜んでいた。
いつものように、翌日の早朝に散歩した。私は、朝6時にホテルを出て、フラワーロードを南へ、神戸市役所の先のルミナリエ会場に向かって右折した。ルミナリエは12月1日からイルミネーションを点灯することになっていたので、昨夜は見物しなかった。このルミナリエは、繁華街に会場が設定されているのかと、想像していたが、そこは、普通のオフィス街で、企業などの色気のない建物が並んでいた。私は、旧居留地まで行き、そこから引き返してホテルに戻った。
10時にチェックアウト、料金は一人朝食付きで1.3万円であった(前払い)。料金は、秋のシーズンの土曜日であるので、高い。三宮まで歩き、シティループという市バスに乗った。シティループは、市内の観光スポットを回るバスである。私達は、一通り市内をバスの中から見物して、北野異人館街で降りた。ここは神戸市内でも有名な観光スポットで、多くの観光客が街を歩いていた。大通りに面した、「ベンの家」、「洋館長屋」、「英国館」に入り、見学した。この3軒は繋がっている建物で、入場券も3館まとめて1300円で売られていた。洋館長屋は、外国人向けの元アパートで、ガレ、シャガール、藤田嗣治などの有名人の作品が狭い部屋に飾られていた。私は、一瞬偽物かと疑ったが、たぶん本物であろう。写真が自由に撮れるのがなによりであった。
旧パナマ領事館の角を曲がり、天神坂を上がって、「うろこの家」・「うろこ美術館」に入った。ここにも、ビュッフェやユトリロの小さな絵が飾られていた。3階の広い部屋には神戸画壇の堀江優氏の50号や100号の大きな油絵が展示されていた。この部屋の南側は、広いガラス窓になっていて、神戸市内が見渡せる。夜景とは違った風景が楽しめる。神戸北野異人館地域には、見学できる洋風建物が10軒ぐらいあり、それぞれ特徴のある展示物が見学者を楽しませてくれる。私達は、今日中に東京まで戻らなければならないので、新神戸駅へ行き、そこから地下鉄で三宮へ、JRで新大阪へ行った。
前日の岡山で行われた妻の父の法事は、おそらく最後になる。折角岡山へ行くのだから、私の両親の墓参りをしようと思った。私達は、その前日早朝に自宅から車で新白河へ行き、新幹線で東京へ、そこから「のぞみ」で岡山へ行った。「のぞみ」の特急券は、ジパング会員による30%の割引は適用されない。そのため、普段は「のぞみ」を利用しないことにしている。「のぞみ」は、東京から岡山まで3時間半で行けるので、その日のうちに墓参りが可能である。
両親のお墓は赤磐市周匝にあり、周匝は岡山駅からバスで2時間かかるところにある。13時20分の宇野バスに乗り、周匝で降りた。そこから歩いて5分ぐらいの所に、金谷家の菩提寺である蓮現寺がある。お寺の横の墓場には金谷という字がそこら中にあり、一族の骨が埋まっている。私の父はその狭い一角にお墓をたてることができ、そこに父母の遺骨が納められている。父は生前、この蓮現寺には土地がないので、君たちは別の所に墓を作ってくれ、と私達男兄弟に宣告した。周りの墓石を見ると、夫婦あるいは子の名前しか書いていない。
そのようなことで、私は墓地を買うことにした。幸い矢祭町は、この団地住民を対象にした墓地を造成し、数年前に売り出した。私は喜んでその一区画を購入した。場所は、自宅から森を越えて200mの所である。一区画の購入費は25万円で、管理料として5年間12500円を前納する。まだ墓は作っていないが、近いうちに作りたいと思っている。この墓石には、納骨室を広くして、子供達の骨も入れるようにしようと考えている。墓地の管理は町が行うので、永代供養の制度はない。12500円を前払いしておけば、墓地と墓石は確保される。管理料を払わなければ、「金のきれめは、縁のきれめ」というわけで、この墓地の所有権利はなくなる。その際、遺骨はどうするのか、慰霊塔を作ってそこに納めるのか。矢祭町はまだ決めていない。
私の墓地の管理を子供が引き継いだとしても、後40年ぐらいの所有であろう。蓮現寺にある父の墓は永遠に残される。一方矢祭町の墓地は、管理料が途切れると墓石は撤去され、墓地は他人に売られる。狭い日本では、このシステムは合理的であろう。自分の死後の居場所を心配する必要はないと、私は考えている。墓石はまだ作っていないが、墓石になにを刻もうか。私は冬の星座、三連星のオリオン座が好きである。その右上の星は「ミンタカ」と言い私の星、中の星は「アルニラム」で、愛犬の今はなきジップが行った星であり、左は「アルニタク」と言い、妻の星である、と決めている。墓石には、「オリオン座へ」という文字を刻もうかと考えている。
2012.2.10
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南三陸町
南三陸町は宮城県北部の太平洋沿岸にある。この町は、リアス式海岸である三陸地方の最南端に位置し、過去3、4回大きな津波の被害を受けた。2011年3月の大地震による大津波にも被害を受けている。今回は、地震による地殻変動が発生し、志津川地域では水平方向に4m移動し、垂直方向では75cmも地盤沈下した。現在、昨年の大震災から1年になるが、復興はまだ途中の段階である。
私の妻はこの2月が誕生月で、私達は毎年誕生祝いとして、温泉旅行に行くことにしている。この時期の東北地方は積雪のため、JRで移動することが多い。今年は、「南三陸ホテル観洋」が昨年11月から再開しているという広告が新聞に載っていたので、そこに行くことにした。南三陸町を通るJR気仙沼線は地震の被害でまだ不通なので、ホテルが用意している無料のシャトルバスを使うことにした。このバスは仙台駅から日に1本出ている。
私達は2月20日朝9時に自宅を出て、新白河から新幹線で仙台へ行った。私は、仙台駅に降りたのは始めてで、シャトルバスが出発する場所を探すのに苦労した。13時半にバスが出るので、20分前に行くと、すでにバスは待機していた。シャトルバスは30名の客を乗せて定刻に出発した。バスは、仙台市の郊外から三陸自動車道に入り、途中PAでトイレ休憩をして、45号線を海に向かって走った。国道とほぼ平行して気仙沼線が走っているが、所々線路がなく、廃線になった感じである。海の近くの折立川の河口になると、津波の被害がそこらじゅうに見られた。3階建てのビルが傾いたり、車の残骸があったり、被害の凄さを見せつけられた。
折立部落から海沿いに1km北上すると、高台にホテル観洋が見えた。このホテルの津波による被害は、3階以上はなかったが、2階以下は大被害を受けたという。このホテルは、昨年11月頃修復して、全面再開した。私達が泊まった部屋は10階で、正面は太平洋が水平線まで見える。左は南三陸町が見えるが、民家は見えなく、白い4,5階建てのビルが見える。私達は一休みして南三陸町方面へ向かって散歩した。南三陸町まで約3kmあり、歩いて1時間ぐらいかかりそうなので、途中で引き返した。ホテルの大浴場は2階にあり、浴槽から太平洋が見渡せる。露天風呂は少し階段を下りたところにある。露天風呂の宣伝写真は、すぐそこに海があるように写っているが、実際の海面は5mぐらい下にある。
2012年2月21日の朝日新聞に、このホテルのオーナーである、阿部 泰兒氏(78才)の記事が載っていた。彼は南三陸町で生まれ育ったが、今は町の北側の気仙沼市に住んでいる。彼は、50年前のチリ地震津波で全財産を失い、リヤカーで魚の行商を始め、昨年の地震前は、年商200億円の水産業とホテル業に育て上げた。そして昨年の津波により、彼の事業所は再び壊滅的な被害を受けた。しかし50年前の教訓で、3カ所のホテルはすべて高台に建てたため、企業の壊滅は免れた。
この南三陸観洋ホテルは、道路に面した階が建物の5階で、そこにフロントやレストランがある。5階は津波の被害を受けなかったので、震災から約1ヶ月後の4月23日にレストランを再開し、地元の被災者を受け入れていた。その後、最大600名の被災者がホテルを利用したようである。1年後の今では、避難者はホテルにはいないが、多くのボランティアが寝泊まりしている。私達の夕食は、5階の「シーサイド」レストランで海鮮料理を食べた。「鮑の踊り焼き」が名物料理らしい。
翌日の朝食は、6階の「羽衣」という結婚式場で、バイキング方式の朝食であった。300席に200人ぐらいの泊まり客がこの会場に入っていた。私達は9時半に、1泊2食付きの料金、11,550円(1人当たり)を支払って、チェックアウトした。後から気がついたが、このホテルでは毎朝、南三陸町の被災地巡りを、500円の料金で行っていた。このツアーは、8時45分から1時間の予定であるから、10時発のシャトルバスに間に合うように設定されていた。4、5名の客が利用していたようで、私達も利用すれば良かった、と残念に思った。
シャトルバスは、10時にホテルを出発した。バスは12時に仙台駅東口に着き、私達は、今夜1泊する直ぐ近くの「ダイワロイネットホテル仙台」へ行き、荷物を預かって貰った。仙台市には、「るーぷる仙台」という市内の主な観光スポットを回る市バスがある。バスはレトロな車体であり、このようなバスは神戸市でも走っており、会津若松でも走っている。このバスで市内を一回りすると、70分かかる。1日乗車券は600円である。
私達は、仙台観光の最大のスポットである、青葉城跡バス停で降りた。このあたりは、仙台市が眼下に見渡せる高台になっていて、後背地はなだらかな山林があり、そこに東北大学の建物が数多くある。城跡に復元された本丸があるか、と期待して現場に行ってみたが、それらしい建物はない。色々歩き回った結果、本丸跡には別の建物「宮城県護国神社」が建てられていた。その横には土産物、食べ物屋が入る建物があった。伊達政宗が建てた城は、「天高くそびえる天守閣」ではなく、平屋作りの本丸であった。城跡がある青葉山が自然の要塞であるため、平屋でよかったのであろう。派手好みの政宗とは異なり、東北武士の質実さが感じられる。
私達は、再びレトロバスに乗り、植物園前、大崎八幡宮前などを通り、広瀬川を数回渡り、常禅寺通市役所前で下車した。常禅寺通りの立派なケヤキ並木を眺め、仙台七夕の会場である一番町通りを散策し、青葉通りを少し歩き、晩翠草堂を見学した。この古い平屋の建物は、晩年の土井晩翠が過ごし、息を引き取った家である。彼は、子供を次々失い、妻にも先立たれ、この家で最期を迎えた。その時使っていたベッドが寝具と一緒に和室の中央に置かれ、ガラス戸の先には素朴な庭がある。建物を含めたこれらは、仙台の教え子達が寄付したものである。晩翠は、東京帝大の英文学科を出た後、欧州に留学し、帰国して二高の英語教師をしていた。彼の英語の発音が仙台なまりであったことが、草堂のテープガイドで聞かれた。草堂を管理している男性は、学者らしく、顔立ちが晩翠に似ていたので、直系の孫ではないか、と後から思われた。
青葉通りを歩いて仙台駅に戻り、今夜宿泊するダイワロイネット仙台にチェックインした。料金はマシンによる前払いで、キャッシュカードで二人分14000円(一泊朝食付き)を口座から引き落とした。部屋は10階にあり、広さは30平方mぐらいで、ビジネスホテルのツインルームとしては広い。夕食は、このビルの2階にある「こちら(特)漁業部」という奇妙な名前の居酒屋で食べた。仙台は牛タンが名物で、そこらじゅうに牛タンの看板が掲げられた食べ物屋がある。この「漁業部」は名前の通り、魚料理の居酒屋である。店には大きなアクリル画と思われる海の絵が飾られていた。宮城県は気仙沼など名高い漁港があるので、そこから魚の買い付けをしているようである。私達は刺身の盛り合わせ、一皿2300円を注文した。これは、かに、エビ、鯛の活き作りなどがない、実質的な刺身が大皿に盛られ、食べ甲斐のある刺身の盛り合わせであった。
翌日の朝食は、この店で用意され、バイキング方式による和洋の料理であった。昨夜刺身包丁を握っていた板前が、サラダの盛り合わせなどをして、雰囲気が変わって面白い。客席から料理をする人達の作業が見えるのが、ホテルのビュッフェとは違った趣である。火曜日の朝であるので、サラリーマンの男性がほとんどである。彼らは仕事を控えているので、さっさと食べて出て行く。席数が少ないが、回転が速いので、込んだ感じがしない。
9時半にチェックアウトし、仙台駅前のバス停から「仙台港アウトレットモール」行きのバスに乗った。仙台港も昨年の大津波で被害を受けているので、私はその跡が見られるかと思ったが、現地はすでに復興が終わっていた。マスコミで見た大きな被害の場所は、仙台港南側の若林地域であろう。
私達は、仙台駅に引き返し、新幹線で新白河に戻り、17時に自宅に着いた。
2012.3.10
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大震災から1年
早いもので、2011年3月11日の東日本大震災から1年が過ぎた。その被害が甚大であったので、復興は遅々として進まない。津波の被害を受けた岩手県、宮城県は、がれきの捨て場に困っている。政府は全国の都道府県に処理を依頼しているが、地元住民の理解がなかなか得られないでいる。福島県は、福島第一原発の爆発による土地の放射能汚染が広範囲にあり、その汚染された土地の除去がほとんど進んでいない。原発付近の立ち入り禁止のため、津波による行方不明者の捜索もできない。福島県民は、原発事故と津波被害の二重苦を受け、事態はきわめて深刻である。原発近辺のある町は、戻れる見込みがないので、いわき市に仮の町を作る決断をした。
原発事故直後、莫大な放射能物質が空気中に放出され、風に乗って各地にばらまかれた。その影響は、農業と水産業に打撃を与え、復興の障害となっている。福島県の漁港は未だ開かれていない。茨城と宮城の漁港は開かれているが、水産加工業が津波の被害で港になく、また近海から獲れる魚は放射線を含んでいるので水揚げできない。福島県は農業県であるから、米の放射能汚染は深刻である。出荷される米は全数検査され、安全をPRしているが、風評被害を受けている。難題は、農地に残留している放射能物質を如何に除去するかであろう。県ではその方法を試行錯誤して検討しているが、効率的な方法は見つかっていない。
福島県は、時期的にもうすぐ米の作付けをしなければならない。原発近辺を除いて、昨年の事故直後作付けした米の収穫米は、安全数値の100ベクレル/kg以下がほとんどであった。そのため、今年も作付けをしようとしている。農地にあるセシウムは簡単には除去できない。空気中のセシウム濃度が、未だ0.3〜3.0マイクロシーベルト/時の地域が大部分を占める福島県は、県民全体が不安な気持ちを持ち続けている。まして農業関係者は、今年の秋の収穫米がどのくらい放射線に汚染されているか疑心暗鬼であろう。
森林に付着した放射性物質は雨により少しずつ流されて、河川に入ってくる。川に住む魚にも放射性物質が吸収される。毎年矢祭町では6月に久慈川のあゆ釣りが解禁され、多くの人がやってくる。今年は魚に少量のセシウムが検出されたので、あゆ釣りは見送られた。矢祭町は、空気中のセシウム濃度は低いが、セシウム濃度の高い地域から流れてくる河川のセシウムは防ぎようがない。今年だけでなくおそらく今後4、5年は魚のセシウムは検出されるであろう。久慈川は茨城県を流れて海にそそがれている。その流域一帯と海域は放射能に悩まされるであろう。宮城県、福島県、茨城県などは近海の魚は水揚げできず、他府県からの魚で不足を補っている。
1ヶ月前、矢祭町に放射能のモニタリングポストが数カ所設置された。私が住むこの団地にも設置され、時折私がそこを通ったとき、数値を見ている。セシウム濃度は0.085マイクロシーベルトで、ほぼ一定である。町役場では0.10であるので、少し標高が高い団地ではセシウムが低いようである。25km北に位置する棚倉町に設置されたモニタリングポストを見たところ、0.3マイクロシーベルトであった。北に行くほど、つまり原発事故現場に近づくほど、高くなるはずであるが、そうとは限らない。棚倉町からさらに25km北の玉川村では0.15マイクロシーベルトである。これは阿武隈山脈が南北にあり、セシウムの流れがこの山脈でブロックされているのであろう。
私は原発事故前から東電の株を持っている。1株3000円近かった株価は、現在200円ぐらいになった。事故直後、東電株を売ろうと思ったが、地震によりインターネットが10日間不通になり、ネットによる売買ができなくなってしまった。ネット開通後は、すでに株価は暴落してしまって、今更売るのは癪に障るので、そのまま東電株を持っている。私は株主だから、東電から2011年の中間報告書が郵送された。その報告書には原発事故の概要が記され、原発1〜3号機からの放射性物質(セシウム)の1時間当たりの放出量がグラフで示されていた。それによると、爆発直後800兆ベクレル/時のセシウム放出量が、2011年11月10日の時点で0.6億ベクレルに低下していることを示している。その後、その数値は一定に保たれているようである。
2012年3月の現在でも、0.5億ベクレルのセシウムが放出されているのは、間違いない。世間では、食品に含まれるセシウムは100ベクレル/kgの数値が安全の目安になっているが、100ベクレルの50万倍のセシウムが毎日放出されているのは驚きである。当初の東電の事故対策に、原発1〜3号機をすっぽり覆う建屋を建てて、セシウムを外部に出さない計画があった。それができれば安心だなあ、と私は思っていたが、未だできていない。建屋が建てられないのは、原発近くの放射線量が高すぎて作業員の作業が自由にできないこと、爆発のがれきが複雑で除去できないこと、建屋を建ててしまうと原発廃炉などに使うクレーンなどの重機が使えなくなるなど、の理由があるのであろう。
避難対象の地域では、早く自宅に戻りたいという希望で、自宅および周辺の除染を公費で行っている。毎日原発から0.5億ベクレルの放射性物質が近辺に放出されているかぎりは、除染は無駄な努力であろう。住民の希望を踏みにじることはできないので、東電は事実を公言しないし、除染の努力も止めずにいる。早くこの不幸な状態から解放するには、原発を建屋で覆うことである。0.5億ベクレルの放射能は大部分は海上に飛散されるが、一部はローカルな風に乗って福島方面に向かう。福島市は1年後の今でも0.7マイクロシーベルトのセシウムが観測されている。これは矢祭町の7倍の濃度である。
福島市から40km南下した郡山市では0.6マイクロシーベルトであり、さらに80km離れた白河市では0.3マイクロシーベルトである。白河市は原発から約80km離れており、矢祭町も80km離れている。矢祭町の3倍のセシウムが白河市にあるのは何故だろうか。私が思うに、これは東北新幹線がセシウムを沿線にふりまいているためであろう。高速で走る列車は空気を動かし、セシウムも沿線に沿ってばらまく結果となっているのであろう。新幹線を止めれば白河市のセシウム濃度は0.1マイクロシーベルトになるであろう。白河市と矢祭町の間には八溝山系があり、このために矢祭町は、白河市のセシウムが流れてこない結果になっている。一方、棚倉町は白河市との間に高い山はない。そのため棚倉町は白河市と同じ0.3マイクロシーベルトのセシウムが漂っている。
福島原発から10km範囲はおそらく50年以上、人が住めないであろう。ここに住んでいた住民は故郷を見捨てるのは悔しいと思うが、どうしようもない。今除染のために集めた土などをどこに置くか、国と町村で話し合っている。原発近くの土地は使い道がないから、そこに借り置き場、あるいは汚染土処理場を作れば良いと思う。マスコミで報じられていたが、この広い地域を太陽光発電の用地として活用する案が民間企業から出された。土地は地主から借用して、土地使用料を地主に支払うという。農業で生活できなくなった人達にも有り難いし、脱原発にも役立つ。
2012.4.10
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12年の春(金谷紘二)
今年の春は、4月上旬まで寒さが続いたので、春が急にやってきた感じである。4月に入って梅が咲き、中旬には桜が咲き始める。沈丁花、レンギョウ、椿、コブシも同時に咲き始め、東北の春は花が一度に咲く、賑やかな春である。ウグイスも鳴き始めた。今年のウグイスの鳴き方は最初から正統的な「ホーホケキョ」と鳴く。鳴き方がおかしいと、私は正しい鳴き方を口笛で指導するのがこの頃の仕事であるが、今年はその必要もない。
冬の間は庭の土が凍土化してクワが使えなかったが、4月に入ってやっと土が軟らかくなった。それと同時に雑草も生えだした。私は雨が降らない限り、庭に出て作業をする。近くでさえずる小鳥の声を聴きながら庭仕事をするのも良いが、好きな音楽を聴きながらするのも良い。携帯音楽プレーヤーとして、ネックレストMP3プレーヤーを使っていた。これは単4電池で4時間しか使えないもので、電池がなくなると交換しなければならない。実際には充電型の電池を使っていたが、これではさらに使用時間が短く3時間しか持たない。このタイプの特徴は、イヤホーンの中にプレーヤーが組み込まれて、面倒なワイヤーがないことである。
電池交換が面倒だから、以前買っていたパナソニックのD-snapというプレーヤーを使うことにした。これは使用時間が40時間以上あり、1ヶ月に1度充電すればよい。内蔵電池であるから、電池が切れたら家で充電する。このプレーヤーのイヤホーンは耳穴に入れるカナル型である。耳穴に密着させるので、夏は使いたくない。イヤホーンには色々なタイプがあり、カナル型の他に、インナーイヤ型、ヘッドバンド型、ネックバンド型、耳掛け型がある。インナーイヤ型は、最も一般的で、商品の付属品として付いてくるので、私はこのタイプを10個ぐらい持っている。これは耳たぶに引っかけて使うもので、装着して圧迫感はないが、落ちやすい。
ヘッドバンド型は、頭の上からかぶせるもので、イヤホーンは耳全体を覆うもので、大げさである。耳掛け型は、耳全体を覆う大きさのホーンを左右別々に耳に引っかける。左右のホーンはワイヤーでつながれ、べつの1本のワイヤーは本体のプレーヤーにつながれる。私はこれも使ってみたが、ホーンが耳からよく外れる。ネックバンド型はネックレスト型ともいい、プラスチック製バンドは首の後ろからまわし、ホーンを耳に引っかけ、バンドでホーンを押しつける。これは簡単に装着でき耳から外れにくいので、私は長い間このタイプを愛用してきた。ホーンが大きく大げさであるので、代わりの物を探していた。
ホーンを耳たぶに掛けるインナーイヤホーンで、ネックレスト型のイヤホーンをネットで見つけた。これは、TDK製で1400円で売っており、私は現在それを愛用している。細いプラスティックのバンドでイヤホーンを押さえているので耳からそれが落ちない。しかし指示通りの装着では、ワイヤーが擦れる音が気になる。じっとして音楽を聴くのには良いが、私は庭仕事をしながら聴くのでその擦れる音が頻繁に耳に入る。この製品のバンドは先の方でカーブしているので、カーブしたところを耳たぶに掛けるように、左右ひっくり返して装着すると、そのいやな音は聞こえなくなった。バンドの位置はヘッドレストとネックレストの真ん中ぐらいに位置しているが、バンドが耳に掛かっているので安定している。
2月は私の妻の誕生月で、3月は私の誕生月である。2月は誕生祝いとして、宮城県の南三陸町のホテル観洋に行ったが、私の場合、都会のホテルに行くことにしている。静かで、空気のきれいな矢祭に住んでいると、たまには騒々しい、空気の汚い都会が恋しくなる。毎年横浜か東京のホテルに一泊して私の誕生祝いとしている。東京の場合、品川のプリンスホテルを利用していたが、今年はそのホテルの横にある「京急EXイン品川駅前」というホテルを利用した。このホテルは1971年、ホテルパシフィック東京として営業を開始し、2009年閉館した。その後2011年4月に京急EXイン品川駅前という名称でビジネスホテルとして開業した。
そのホテルの敷地は皇族方が住んでいた邸宅の跡地であり、今でもホテルの周辺は緑が多く、散策には良い環境である。品川駅からこのホテルが正面に眺められ、私が横浜の会社に勤めていた頃、東京新橋の本社に出張するときなど、電車から眺めることができた。当時のホテルは高級ホテルで、羽田空港から便利が良かったので航空会社のクルーの宿として使用されていた。私は当時35才で、一度泊まってみたいと思ってこのホテルに憧れていた。40年後の今、名称は異なるが、このホテルに宿泊することができた。インターネットで隣の品川プリンスホテルと比較すると、ツインルーム朝食付きで、京急EXイン品川駅前ホテルが6400円/人、品川プリンスホテルが9000円である。部屋の広さは前者が30uに対して、後者が21uであり、料金と部屋の広さで大きな違いがある。
2012年3月26日、私達は矢祭から上京し、14時半頃京急EXイン品川駅前にチェックインした。ツインルームをインターネットで予約していたが、「今日は部屋のゆとりがありますので、1ランク上のビジネススイートルームをご用意しました」とフロントから言われた。12階のスイートルームは先端にある。この建物は、廊下の両側に各部屋があり、先端は両側の部屋を1つにした62uの大きな部屋である。部屋の中央にバスルーム、化粧室などがあり、片側の部屋はベッドルームになっており、反対側の部屋は扉で仕切られた応接室がある。ここには応接セットなどがあり、ちょっとした会議ができるようになっている。このような次の間がついた部屋に泊まるのは、ロンドン、台北に次いで3回目である。
このスイートルームの通常料金は1人12600円であるから、私の誕生日祝いとして、思いがけないプレゼントであった。私達は部屋に荷物を置いてすぐ外出した。私は、羽田空港の空港ターミナルにあるプラネタリウムを見に行きたいと、かねがね思っていたのである。品川から京浜急行で直接ターミナルビルに行ける。このターミナルはビッグバードという名称で、第1と第2ターミナルがある。プラネタリウムがどこにあるか判らなかったので、終点の国内線ターミナルで降りた。案内の女性に聞くと、プラネタリウムは国際線ターミナルにあるという。
電車で一駅戻って、国際線ターミナルで降りた。国内線のターミナルはスケールが大きく賑やかであるが、国際線は閑散としていた。このビルの5階に「Starry Cafe」があり、そこでプラネタリウムを見ることができる。入場料500円で、15分間の夜空の星が堪能できた。南極から見える星も見ることができ、私は大満足であった。序でにテレビで放映されていた江戸の町並みを模したショッピング街を見て回った。
翌日のホテルの朝食は、3階のレストランでバイキング方式であった。レストランの広さは、品川プリンスの大きなレストランの3分の1ぐらいであるから、多くの客が列を作って待つ。20分ほど待って席に着くことができた。その席はホテルの庭園が眼下に見えるところで、庭は、大きな庭石と広い池があり、色々な庭木が植えられていた。外人好みの庭である。このホテルはビジネスホテルとして開業したが、ホテルルームの広さとバスルームが外人仕様の広さであるので、一般客にも受けて、子供連れや観光客が多く利用している。私もその一人である。
2012.5.10
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IPOD
今、スマートホーンが大流行であるが、私には無縁である。私は、8年前、アップルの IPOD mini という携帯音楽プレーヤーを2.7万円で購入して、毎夜、寝ながらクラシック音楽を聴いていた。毎晩聴いていたので、内蔵の電池が使えなくなった。素人では電池交換ができないので、アップルHPで確認すると、このシリーズはサービスが終わって、修理しないという。私が買った IPOD mini は、初代のIPOD(正式にはiPodと書く)で、今では shuffle、nano、classic、touch のシリーズが華やかに販売されている。知らない間に随分発展しているのだな、と感心した。
一番新しいシリーズは、touch の第6世代である。これはスマートホーンと同じサイズで、いろいろな機能が入っている。スマートホーンと違うのは、電話機能がないだけである。私は、携帯電話は「au」のプリペイドカード型を、妻と2人で、2台持っている。1万円のカードを購入すれば、1年使える。月にすると、1台830円の維持費になる。これはどの携帯電話の基本料金より安いであろう。私たちは携帯電話をほとんど使わない。日常使う相手がいないので、1年間で使用する電話代は、私が5000円程度、妻は1000円程度である。1年で1.5万円捨てているようなものあるが、火事とか事故とかの緊急電話用に、常時持ち歩いている。私は、安心の保険代であると割り切っている。
アップルの IPOD touch は、ほとんどパソコンと同じ機能を持っているので、私は欲しくなって、1台購入した。32GBのIPODtouchは24800円であった。おもしろいのは、 iCloud という機能があることである。このIPODで写真を撮ると、その画像が自動的に私が使っているhp(ヒューレットパッカード)のパソコンに入っているのである。アップルは、Cloudという共通のコンピュータを持っていて、そこに私専用のパソコンが設定され、そこから自宅のパソコンに写真が送られてくるのであろう。文章もIPODで入力すれば、自動的に自宅のパソコンに送られる。私のCloudは、5GBの容量があるので不自由しないであろう。私は、プロバイダーとしてOCNを使っている。NTTの無線ルーターを経由してインターネットを利用しているので、IPODもワイヤレスでアップルのショップなどにつなぐことができる。私の自宅が無線基地になっているので、自宅を離れるとインターネットもCloudも利用できない。
音楽、ゲーム、本などのソフトは無数にある。あらかじめ引き落としの銀行口座を登録し、パスワードを設定しておけば、アップルのストアからクリックだけでそのソフトが私のIPODに送られてくる。私はソリティアのゲームソフトを85円で購入した。本は、「i文庫s」 というソフトを350円で購入した。これには日本文学全集のようなものに、外国の童話や文学が入っていた。私は、ニンテンドーのDS文庫で日本文学全集を全部読み終わった。このi文庫sには、DS文庫とほとんど同じ小説が含まれていた。これは青空文庫という8000冊あるデジタル小説から選んだので、同じ小説が入っているのは当然かもしれない。今、私は任天堂の「図書館DS」を4000円で購入して毎晩寝る前に読んでいる。これには世界の名作、推理小説、怪談など120冊が入っており、現在「レ・ミゼラブル」を読んでいるところである。そのためアップルのi文庫sを読む時間がないのが、私の悩みである。
その他のソフトとして、私は電子国土のFieldAccessという地図ソフトを350円で購入した。IPODにはGoogleの地図が内蔵されているが、地図の内容がラフである。電子国土の地図は相当詳しく、矢祭町の私の家が記されているので、大変気に入っている。IPODtouchにはGPS機能と携帯電話機能がないので、現在位置を地図の上に表示できない。私は、現在の位置を道路標識などを利用して確認するので、GPSがなくても不便はない。大きな地図帳を持ち歩かなくても、このIPODをもっておればいろいろ役に立つであろう。音楽はパソコンに入っているクラシック、ポピュラーなど870曲からセレクトして、IPODに入れているので、いつでも聴くことはできる。音楽はパナソニックのプレーヤーを愛用しているので、IPODを使うことはない。
私が買いたいIPOD用のソフトは辞書と世界地図である。世界地図を探していると、「ワールドアトラス2」というソフトが170円で売られていたので、ダウンロードした。その中の「サテライトマップ」というのが凄い地図であることが分かった。これは人工衛星から送られる地上の映像を地図にしたもので、上記のFieldAccessという地図ソフトより遙かに優れている。この地図で、福島原発の爆発した建物の残骸をみることができた。矢祭町の私の自宅もはっきり分かるし、自宅の建物の横に建てたログハウスも映し出されている。恐ろしいぐらい詳細に知ることができる。私は、この地図ソフトにより、指2本を使って、画面の拡大縮小を体験することができた。テレビのCMで一時この操作が放映されて、私もやってみたいと思っていたが、ついに実現した。辞書ソフトについては、何がよいか只今検討中である。
アップルにはIPAD(正式にはiPad)という商品がある。私は、IPADがIPODとどのように違うのか、分からなかったが、アップルのHPを調べていると、その違いが分かった。IPODは、携帯音楽プレーヤから出発して、今ではパソコン並の機能を持っているプレーヤーに発展した。IPADは、パソコンのタブレット型である。これの大きさは、IPODの約3倍の10インチである。ノートパソコンと違う点は、タブレットにはキーボードがない。タブレット型は、全面に液晶画面があり、文字を入力する場合、キーボードの画面が液晶に現れ、キーをタッチして入力する仕組みになっている。私が持っているIPODtouchも、画面にアルファベットが現れて、それをタッチして入力するが、何しろキーが小さいので隣の文字を間違って押すことが多い。そのため、私はタッチペンを購入して、それを使っている。IPADは広いので、指で用が足せるであろう。
IPADには、IPAD2と、”新しい”IPADがある。後者は、2012年3月に発売されて、大きなニュースになった。新しいIPADは、従来のIPAD2に比べ、ディスプレイが鮮明になった。価格は4.2万円である。重さが650gしかないのに、ノートパソコンの機能がすべて備わっている。私は、10インチのノートパソコンミニを、hpから6万円で、2年前に買った。IPADを買えばよかったなあ、と後悔している。hpのノートパソコンミニは、重量が1.4kgで、持ち歩くのに重すぎる。このパソコンは、私が常時使っているディスクトップ型パソコンの予備として購入した。普段はほとんど使っていない。
IPODminiが使い物にならなくなったので、ベッドの中で聴く音楽が聴けなくなった。代わりにIPODnanoというプレーヤーを1万円で購入した。これは優れもので、私は買ってみて、びっくりした。4.1×3.8×0.9cmのサイズで、重さは21gしかない。この小さなサイズいっぱいにカラーの液晶画面があり、操作はタッチセンサー方式である。8GBのメモリーが内蔵されているので、音楽をたっぷり入れることができる。全体の機能は、音楽プレーヤーに特化しているので、操作は簡単である。私は、ベッドではイヤホーンでなく、スピーカーで音楽を聴きたいので、TDKが売っているポータブルスピーカー for IPOD を4300円で購入した。これにIPODnanoを設置しておけば、充電しなくても毎晩音楽が聴ける。IPODnanoには時計機能があるので、スリープタイムをセットすることができる。音楽は、私の睡眠導入剤であるので、毎晩の必需品となっている。
2012.6.10
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ルーマニア・ブルガリア旅行1
2012年5月21日、ユーラシア旅行社が主催する「ルーマニア・ブルガリア物語17日間」というツアーに参加した。参加者は、私達夫婦を含めて13名である。5組が夫婦、3名が単独女性で、全員50才代以上である。参加者が少ないのは、ルーマニア、ブルガリアという国が観光地としてポピュラーでないこと、訪問先が田舎にある修道院などの教会であり、その教会にあるフレスコ画やイコンの観賞が目玉としていたからであろう。ブルガリアでは、バラの女王のコンテストとパレードの見学があり、さらにバラの谷での「バラ摘み」があることも、目玉になっている。
参加者の最高齢者は79才の男性で、その奥さんが74才ぐらいであろうか。私は74才であるから、最高齢者に属する。私に次ぐ高齢者は70才の男性であり、その他は50〜60才の人達である。私は若いと思っていたが、いつの間にか高齢者の仲間になってしまった。成田からウイーンへは12時間のフライトであり、そこから乗り継ぎの飛行機で、ルーマニアの首都ブカレストへ向う。ブカレスト空港には夜8時に到着した。ホテルは空港の直ぐ近くであるから、ホテルの部屋に入ったのは9時半ごろであった。ブカレストは9時を過ぎてもまだ薄明るい。飛行機の最後の機内食は、6時間前の夕食であった。お腹が空いているようなので、持参の湯沸かし器でカップラーメンを食べた。各ホテルには湯沸かし器はない、と予め添乗員から情報を得ていたので、持参した携帯湯沸かし器は重宝した。
旅行先の前半はルーマニア、後半はブルガリアである。各地の訪問は、すべて大型バスによるが、ルーマニアはルーマニア調達のバスを使用し、ブルガリアはブルガリアのバスを使う。それぞれの国情がバスに現れて面白い。ブルガリアではシートにシートベルトがなかったが、ルーマニアにはシートベルトが付いていた。ガイドもそれぞれの国のガイドが付いてくれるので、その国の歴史など教えてくれて、大変勉強になる。ルーマニアを一緒に廻ったガイドは、カティーさんという30代の女性である。日本にも来たことのある人で、日本語の会話は全く不自由しない。
このツアーの添乗員は中野さんといって、20才代の若い娘さんである。てきぱきと我々の行動を、大きなはっきりした言葉で指示してくれるので、大変助かる。ルーマニアでは、ガイドのカティーさんが日本語ができるので、中野さんは楽なようであった。中野さんは、移動中のバスの中で、ルーマニアの歴史などを資料を見ながら熱心に解説してくれた。ルーマニアは英語でRomaniaと書く。これは、イタリア語のローマ人Romanからきた言葉である。ルーマニアという国名も「ローマ人の国」という意味だそうである。ブカレストの市内をバスで走っている際、宣伝の看板にRoman〜という文字が目に付く。これは、ローマでなくて、ル−マニアのなんとか、という意味であり、紛らわしい。
日本語ではルーマニアと発音しているが、正確にはローマニアというべきであろう。ルーマニアは、西暦106年ローマ帝国に征服された。271年にローマが滅亡して、ローマ軍が撤退した後、一部のローマ兵士はルーマニアに残った。その後、フン族、スラブ人などが侵入し、11世紀にはハンガリー民族がルーマニアの一部を支配した。ドイツ民族なども入り、15世紀の末にはトルコ帝国の支配下になり、17世紀末までの200年間トルコの支配を受けた。1881年カロル1世がルーマニア王国を宣言し、王政が発足した。ルーマニア王国は、1914年の第一次世界大戦で連合国側に参加し、1939年の第二次世界大戦ではソ連赤軍によりブカレストが占領された。1947年、ルーマニア人民共和国(共産党支配)が成立した。
1965年チャウシェスクの独裁が始まり、彼は、ばかでかい「国民の館」を人民の金と労力で建設した。1968年の「プラハの春」の波を受けて、1989年、社会主義体制が崩壊し、ルーマニア王国はルーマニア(Romania) に国名を変えた。その時、チャウシェスク夫妻も処刑された。私が中学生の時(1940年頃)、親から買って貰った三省堂のコンサイス英和辞書を、今も持っているが、その辞書にはRomaniaという言葉は載っていない。私の学生時代は親の保護を受けてのんびり、ぼんやり過ごしていたが、この頃ルーマニアでは大変な政治の変動があり、国民は必死の思いで生きていたのだ。今回ルーマニアの首都ブカレストを訪れ、時代の爪痕がまだアパートなどの建物に残っている様を見て、政変を感じることができた。
ツアーの初日はブカレスト市内の観光である。この街は、190万人の人口をもつ歴史の古い都であったが、共産党の政策により古い建物はほとんど破壊された。市の北部には、凱旋門とロータリー、およびそこに通じるマロニエの並木道があり、それはパリのシャンゼリゼに似ているが、人の賑わいはない。革命広場に面した旧共産党本部は堂々とした建物で、現在は政府の労働省が入っている。この建物のテラスでチャウシェスク大統領が大衆に向かって演説をしようとしたが、民衆のブーイングにより中断され、建物の屋上から夫人とともにヘリコプターで逃げた。その後夫妻は捕まり、処刑された。
ブカレストで最も有名な観光名所は、チャウシェスクが建てた「国民の館」である。その規模は、世界で最も大きいアメリカの国防省の建物(ヘキサゴン)に次いで2番目の大きさである。当時の金額で1500億円、今でいえば5000億円に相当するか、そのような大金を投入した。人件費などはただ同然であったから、大理石などの建築資材にこの金は使われたのであろう。私は、グーグルの人工衛星からの写真地図でこの建物をパソコンで調べてみた。それには「議事堂宮殿」と表示があり、その建物の長さを計算すると、横250m、縦200mの長方形であった。建物の中はお金を払えば写真は撮れるが、私は馬鹿馬鹿しいと思い、見るだけにした。トイレにはいる機会があったので、そこだけカメラに納めた。ここも総大理石で作られていた。この建物は、正式には議事堂宮殿という名称であるが、当時のチャウシェスクは、自分の宮殿としてこの建物を使いたかったのであろう。
ベルサイユ宮殿の絢爛豪華な内装とは違って、建物内は5色の大理石で装飾され、壮大で質実な感じを受けた。部分的に金彩が施されていたが、これは純金でなく、金色の塗料であろうと、土地のガイドは説明していた。そういえばこの金色は輝いていなく、鈍い色になっていた。建設から30近く経っているので退色しているのであろう。この建物は、国の議事堂、政党のオフィス、国際会議場などに使われている。一般人も、お金を支払えば、ホールなどを借りることができる。部屋の大きさにもよるが、1日10〜30万円で借りることができる。コンサート会場や個展などの会場として、国民のために解放されている。部屋の数が3100もあり、国は部屋の管理ができないので、内部の見学範囲は全体の3%部分だけである。3%でも見て回るのに1時間かかる。
ブカレストを後にして、私達は北へ100km離れた避暑地シナイアへ向かった。ブカレストを離れると、すぐ丘陵地帯があり、のんびりした牧草地が見られる。ルーマニアの5月は春である。日本と同じくルーマニアには四季があるが、最近はその季節の変わり目がはっきりしないという。冬の次にすぐ夏が来ることがあり、四季でなく二季になった、と地元のカティーさんは言う。地球の温暖化の影響でしょう、と彼女は嘆いていた。四季の感覚が薄れていることについては、日本も同じ傾向にあると、私は思った。今年の5月、6月の九州は豪雨が続き、雨季乾季の様相である。私が住む東北地方では、今年6月の梅雨はほとんど雨が降らない。気象の異常現象は日本も同じであろう。
福島地方に九州を襲ったような豪雨がくれば、放射能物質が今でも付着してる草木、土地、家屋などは、付着物が一気に洗い落され、放射能環境は相当改善されるであろう。現在行っている人の手による除染作業は遅々として進まず、住民はいらだちを感じつつある。福島は、除染のための豪雨を期待している。
2012.7.10
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ルーマニア・ブルガリア旅行2
ツアー6日目は、ルーマニア最北部のモルドバ地方(ブコヴィナ地方)にある、修道院群を訪問する。ここには5つの修道院が散在し、これらの修道院はすべて世界遺産に登録されている。人々が住む集落には必ず教会があり、それには高い礼拝堂がそびえているので、遠くからその存在が分かる。教会は、一般的な教会の他、修道院と僧院がある。修道院は修道女が集まり、宗教活動をしている。僧院には男性の修道士が修行している。修道院と僧院は一般の教会に比べると規模が大きい。これらの施設には多くの修道女、修道士がいるので、敷地の中に彼らが生活する宿舎が併設され、敷地内で自給自足の生活ができる。
私は、今、ビクトル・ユーゴ作の「レ・ミゼラブル」を読んでいるが、その中で著者が修道院について詳しく記述している。著者は、最初、修道院の存在は閉鎖社会であり、社会的に問題があると否定的であった。小説の中で、主人公のジャンバルジャンは、不幸な境遇でいじめを受けている少女コゼットを助け出すため、脱獄した。彼は、無事助け出したその少女とフランスのパリにやってきたが、かぎつけた刑事から追われた。幸い、二人は、市内の高い塀のある修道院に逃げ込むことができた。当時の修道院は治外法権的な場所であり、刑事から完全に逃れることができた。修道院は男子禁制であるが、門番と力仕事を担う庭師(園丁)は年寄の男性である。その庭師は、以前ジャンバルジャンが市長であった時、馬車の下敷きになっていたのを、主人公の怪力で救出された男であった。
庭師はジャンバルジャンをみて、彼が自分の命の恩人であることが分かり、主人公も偶然にも出会ったことを喜んだ。庭師は、ジャンバルジャンは自分の弟であり、少女は彼の孫であると、嘘の申し出を院長にした。そして、その二人は特別に院内に住むことを許可された。その修道院で二人の平穏な生活が始まった。コゼットは修道女として寄宿舎に入り、ジャンバルジャンは園丁として働いた。著者のユーゴは、小説の中で修道院の存在を否定的に書いていたが、皮肉にもジャンバルジャンは修道院で命が救われたことになった。但し主人公のジャンバルジャンは、当時の社会評価をする思想を持たない男として、描かれている。
著者は、修道院と、主人公が入っていた監獄との比較をしていた。両者とも、社会から隔離された場所であり、閉鎖社会を形成しているのは共通している。修道女は神に祈りを捧げ、死後の世界に憧れる。囚人は思想のない空虚な空間で死を恐れ、あるいは刑期後の俗世に憧れる。ジャンバルジャンは、自力で監獄を脱出し、自力で高い塀の修道院に入ったわけである。このツアーでは多くの修道院を訪問するが、私はその都度ユーゴの小説を思い出した。当時の修道院とは違って、現在の修道院は観光地化されている。入場料を支払って自由に修道院に入ることができる。当時の修道女は男性を見てはならない規則があったようであるが、今は見ることができる。
私達は、モルドバ地方の五つの修道院を1日かけて見て回った。この地方の修道院の特徴は、礼拝堂の外壁にフレスコ画が描かれていることである。多くは西暦1500年頃に建物が建てられた。その外壁全面に、聖書の教えを村民に伝えるため、あるいはモルドバ国が他民族と戦った過去の歴史を伝えるために、フレスコ画が描かれた。当時のキリスト教の正教会では、聖人の像を制作することが禁止されていたので、その代わりにフレスコ画が、建物の外壁および内壁と天井の一面に描かれた。祭壇などには額縁に入ったイコン画が飾られている。これらの絵は、専門の画家でなくて、無名の画家によって描かれた。描かれた時期は、イタリアルネサンス時代の前の時代であるから、絵画の遠近法は取り入れていない。そのため、多くの人物の顔が正面を向いて大きく描かれているので、見る人に訴える力がある。
五つの修道院で共通して描かれているのは、聖書の「最後の審判」である。特に有名なのは、スチェヴィツァ修道院に描かれている「天国への梯子」のシーンである。32段の梯子が左上から右下に描いてあるので、この絵のテーマは直ぐ分かる。階段の上部には審判をする聖人達がいて、右側は天国に行く人達、左下は地獄に落ちる人達が描かれている。地獄にいる人達は、トルコ軍の装備をつけているので、トルコ人であることが示されている。当時、黒海を隔てたトルコがこの地方を荒らしていたので、それらの恨みが表現されているのであろう。フレスコ画には必ず修道院を建てた人物が描かれている。彼が修道院の形をした模型を手に持って、それを聖人に差し出している姿が絵の中に描かれている。
500年前に描かれたフレスコ画は、建物の外壁にもかかわらず保存状態は良い。しかし風雪にさらされる北側の壁の絵は、傷みが激しいようである。フレスコ画が描かれている建物のひさしは深くしてある。これは、雨が直接絵に当たらないように配慮しているためであろう。これらの修道院にやってくる観光客はほとんど団体であり、個人客は少ない。修道院が点在しているため、交通手段はタクシーか、貸し切りバスしかないためであろう。日本人やアジア人のツアー客は私達以外にはいなく、ツアー客のほとんどがドイツ人とみられた。11世紀にドイツ人がルーマニアに入植していたので、彼らはこの国になじみがあるのであろう。
教会には、信者が祈りを捧げる一般的な教会の他に、他民族の攻撃を防ぐために造られた「要塞教会」がある。ルーマニアのほぼ中央に位置するトランシルバニア地方には、多くの要塞教会がある。その一つのビエルタン市にある要塞教会を見学した。この教会は高台にあり、三重の城壁に囲まれている。教会内には食物の貯蔵庫、宝物庫などがあり、祭壇は折りたたみ式になっている。戦争が始まると、祭壇を鍵のかかった宝物庫に避難させるようにしている。戦いに来るのは、オスマントルコである。この地方はドイツ人が入植して、ビエルタン市も多くのドイツ人が住んでいた。この要塞教会は、ドイツ人がドイツ人を守るために、堅固に建てられたものである。トルコが攻めてきたとき、ドイツ人だけをこの要塞に入れ、先住のルーマニア人は入れなかった。このような厳しい差別を行っていた歴史がある。
ツアーが終わって、帰国後2週間して、ユーラシア旅行社から参加者の集合写真が送られてくる。参加者の顔をほとんど忘れてしまった頃、この写真を見ると懐かしく思い出される。参加者のある男性は昔慶応ボーイで湘南を舞台に活躍していたとか、別の男性は鉄道マニアで世界を回っているとか、その奥さんは大きな1眼レフカメラを持って、あらゆる被写体を片っ端しらから撮っていたとか、などを思い出す。私は、毎回のツアーで、参加者の中からマドンナを決めることを習慣にしている。今回は一人で参加した若い女性はいなかったが、まだ50才代の女性がいたので、彼女をマドンナに決めた。
彼女には旦那がいるのが残念であるが、色白の美人である。ある昼食の席上で、最高齢者の男性から彼女は美形である、とそのマドンナを褒めていた。それを聞いた彼女の旦那は、喜んで酒を飲み過ぎて酔っ払ってしまった。そのレストランは、田舎の民宿のような家のレストランで、自家製ワインの飲み放題のサービスがあったのである。旦那は、食後レストランの女主人が見送りに外まで出てきた時も、その女主人に抱きつくなど、実にうれしそうであった。奥さんが美人だと褒められて喜ぶのはまだ若い証拠か。私は、そのようなことを言われた経験はないが、例え言われても、頭の中でうれしくなるだけで、体では表現しないであろう。率直に喜んでいた若旦那が羨ましい。
2012.8.10
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ルーマニア・ブルガリア旅行3
ツアー9日目は、ルーマニアからブルガリアへ移動する。私達はブカレスト市から南下して、国境の近くのガソリンスタンドへ行く。今回訪問した両国に共通したことであるが、ガソリンスタンドには広い駐車場があり、小さなコンビニがある。トイレもあるので、ツアーのトイレ休憩は、これらのガソリンスタンドを利用していた。トイレは1個か2個しかないので、ツアーバスが2台来ると長い行列ができる。男性用は利用者が少ないので、空いている。女性用は10分ぐらい我慢しなければならないので、苦痛であろう。早く終わった男性達は、コンビニで買い物などをするが、売り場面積が小さいので、時間をもてあそぶ。
ブルガリアの国境近くのガソリンスタンドには、これから乗るブルガリアのバスが来ていた。私達がトイレ休憩などしている間に、運転手が私達のスーツケースをルーマニアのバスからブルガリアのバスに移してくれていた。私達は手荷物をもってブルガリアのバスに乗り、国境のドナウ川を渡り、検問所の手前で停車する。添乗員は、全員のパスポートを持って、検問所に行き、入国の許可を受ける。スーツケースなどの検査はない。両国ともEUに加盟しているので、入国は簡単である。ブルガリアのバスはルーマニアのに比べて良くない。シートベルトがないので、文句を言うと、翌日運転手が中古のシートベルトをかき集めて、付けてくれた。そのベルトも満足なものはなかった。この時期のブルガリアは、観光のベストシーズンであり、バスの絶対数が足りないと、ツアー会社は弁解する。ツアー会社の力量の差があるのであろう。
ブルガリアの国境の町はギルギュウであり、そこから黒海沿岸のヴァルナ市へ向かう。途中、世界遺産になっているイヴァノヴォの岩窟教会を訪問した。この教会は岩山の上にあり、付近には岩の凹んだ場所があり、そこに僧侶が座って修業する。その岩窟教会は、12から14世紀にかけて、岩をくり抜いて礼拝室を造ったもので、この場所には神のエネルギーが宿るとされている。礼拝室の天井と壁にフレスコ画が描かれていた。絵の手法は逆遠近法を用いている。遠近法では、遠くへ行くほど物体が小さくなるように描くが、逆遠近法は遠くは大きく、近くの物体は小さく描き、画面の手前に視点が集まるように描く。絵を見る人は、すべてが自分に集中する感じになる。名前は忘れたが、この逆遠近法を用いて油絵を描いていた有名な画家がいたのを、私は思い出した。
ブルガリア国は、北はルーマニアに、東は黒海に、南はトルコ、ギリシャに接している。この国は、西暦680年からブルガリア王が治めていたが、1396年にトルコが全土を占領し、約500年間支配を受けた。1878年、ロシアとトルコの戦争で、トルコが撤退し、再びブルガリア王国になった。その戦争で20万人のロシア人が犠牲になったので、ブルガリア人はロシアに恩義を感じている。首都ソフィアにはロシアのための教会が数カ所ある。また、ロシア皇帝の騎馬像も街の中心に建てられている。ブルガリアの国旗は、上から白、緑、赤の横三色旗である。白はヨーグルト、緑はサラダ、赤はバラを意味しているという。三色が緑豊かな国土からの産物を示しているのは、穏やかで、珍しい。赤は血だとか、緑は平和だとかの勇ましい意味付けは、していない。
私達は、黒海沿岸の大都市ヴァルナに宿泊した翌日、そこから南に100km離れた、黒海に突き出た半島の街、ネセバルを見学した。この街の歴史は古く、紀元前2000年にさかのぼる。最初、トラキア人が住み始め、その後、ギリシャ人、イタリア人、ブルガリア人、ユダヤ人、トルコ人などがこの街を治めて住んだ。この街が外国人に魅力があったのは、交易の港として便利であったからであろう。トルコの支配が一番長かったが、トルコはキリスト教に対して寛容であったため、街のあちこちに歴史的建物が残されている。そのため街全体が世界遺産になっている。
ネセバルの観光の後、100km離れたヴァルナ市に戻り、市内観光をする。往復200kmの移動と2都市の観光を、1日でするのは高齢者にはきつすぎる。ヴァルナは大きな都市で見るところも多いが、私は、疲れていたので、ガイドについて回るだけとなった。ヴァルナの目玉は博物館の金細工であろう。紀元前5000年の金細工が今も輝きを放っているのは驚きである。ヴァルナのもう一つの目玉はローマ浴場跡であろう。この浴場は、紀元前3世紀頃に、ローマ人が造ったもので、広さが7000uある。雑草が生えた浴場跡に、当時の人達がどのように浴場を利用していたかを、大きなイラスト画の看板で示していたので、よく理解できた。この街は硫黄温泉が今でも沸いているので、それを利用したプールなどがあり、子供達の水泳教室が開かれていた。子供達を送り迎える親達も多くいた。
ブルガリア人の気質はシャイだと言われる。ブルガリア出身の大関「琴欧洲」は優しい顔をして、闘争心を顔に出さない。彼はブルガリア人の典型なのだろうか。力がありそうだから、もう少しがんばってほしいと、私はいつも相撲をテレビで見ながら、彼を応援している。ツアー11日目は、ヴァルナ市からペリコタルノボ市の途中の村にある、琴欧洲の実家へ行く。日本で活躍しているスポーツマンの実家が観光スポットになっているのは珍しいであろう。バスの運転手は実家がどこにあるか分からないので、歩いている村人に聞くと、村人は親切に教えてくれる。
琴欧洲は、ブルガリア国内ではあまり知られていないが、日本からのツアーが来るというので、この村では有名人になっている。実家は、村落の通りに面した農家風の建物で、入り口には琴欧洲の「のぼり」が立てられていた。狭い庭には鶏小屋が並べられ、ブドウの棚が造られていた。彼の両親は不在で、代わりに、いとこのパイロットの男性が応対してくれた。琴欧洲が日本人の奥さんと里帰りした時に使う、彼の以前からの部屋を見せてくれた。離れには平屋があり、そこから老人が顔を見せたが、すぐ引っ込んでしまった。彼のおじいさんであろう。しゃしゃり出てこないのが、ブルガリア人らしい。
私達は実家であめ玉を貰って、ペリコタルノボ市へ向かった。これは、ルーマニアの現地ガイドから聞いた話であるが、民家の屋根の形がそこに住む民族によって異なると言う。ドイツ人は入母屋造りの屋根を好み、ルーマニア人は切り妻造り、ハンガリー人は寄せ棟造りを好むと言う。田舎の道をバスで走っていると、屋根の形から持ち主がどこの国の出身かが分かる。ドイツ人の民家は大きく、堂々として風格があるが、ルーマニア人の民家は小さく、貧弱である。ルーマニアでよく見かけたが、建築中の民家が多い。建築を途中で止めて、放置している家が多くあった。これは、若者が家を作り始めて、資金がなくなったので、放置しているのであろう。自国では稼ぎが少ないので、イタリアとかスペインに出稼ぎに行く若者が多いと言う。お金を貯めて国に帰り、家を完成させるのであろう。ブルガリアではこのような建築中の家はほとんど見られなかった。ブルガリアはルーマニアより豊かな感じを受けた。
ルーマニア、ブルガリアとも、EUには加盟しているが、イギリスのように通貨は自国の通貨のままである。この両国は、ギリシャ、イタリアのようなユーロを頼りに放漫な経済政策を取らなかったので、経済的な破綻はないようである。ブルガリアの通貨はレフ(複数形はレバ)といい、1レフは50円ぐらいに相当する。ルーマニアはレウ(複数形はレイ)といい、1レウは25円ぐらいである。両国とも単数と複数で呼び方が異なるので、大変面倒に感じた。買い物は、ラベルの数字を見て、黙って店員にお金を突き出すので、不便はなかった。
私達は、成田で8万円をユーロに換えて、両国でそれぞれの通貨に換えた。今回、夫婦で5万円分を使ったのみであった。田舎ではクレジットカードは使えないので、今回のツアーではカードでの支払いはなかった。私達は、レストランでの昼食と夕食時はビールかワインを飲むことにしていたが、その代金は多くはなかった。350mlのビールやグラスワインが200円相当であったので、大変安く思えた。日本の3分の1の値段であろう。ツアー出発前、どれくらいのお金を持っていけばよいか、添乗員が私達に教えてくれた。食事にアルコール類を飲むなら、1人2万円あれば十分ですと言っていた。私は、17日間の小遣いで、それは少なすぎると思い、倍の8万円をユーロに換えた。結果として、添乗員の指示は正確であった。
この続きは11月号に記載します。10月号は、「2012年の夏」という題で記述します。
2012.9.10
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2012年の夏
この夏は、1日の最高温度が30℃以上、あるいは35℃の日が多かった。8月中旬から9月中旬にかけて、そのような日が続き、雨も一滴も降らない日が続いた。この気象は東日本で生じ、関東の水不足は深刻になった。テレビは、水源のダムを放映し、家庭の節水を呼びかけていた。一方、九州地方では大雨が時折あって、浸水被害、土砂崩れなどがあった。私が住む南東北の矢祭地方も、雨が全く降らない日が一ヶ月以上も続いた。矢祭町の水道水は、八溝山系の水や久慈川の水から取水している。これら自然の面積に対して、この地方の人口が少ないので、水の消費量が都会に比べ少ない。そのため、水不足は滅多に生じない。
この雨不足も、9月中旬に日本海を通過した台風16号のおかげで解消した。それまでは、我が家の庭木も水不足で困っていたようである。私は、毎日鉢植えの花や地植えの野菜類に水を与えて、この異常気象に対応していた。一日でも水やりを忘れると、植物はぐったりしてしまうが、水をやると元気になる。植物はいかに水を望んでいるか、がよく分かる。我が家の庭の近くに沢があり、そこから水を引いて、庭に小さな水路を造っている。その沢は、どんなに雨が降らなくても枯れない、という地元の神話があるが、とうとう枯れかかってしまった。そのため我が家の水路も枯れてしまった。夏の暑い日は朝からスズメがこの水路にやってきて、水浴を楽しんでいたが、それもできなくなってしまった。この水路は9月20日に水が戻ってきた。
今年の小雨で立木の落葉が早くなったようで、マロニエの葉は9月中旬から散り始めた。小雨と暑さの影響で、今年の夏は蚊の発生が少なく、庭仕事で蚊に刺されることがなく、楽であった。しかし雨が戻ってから蚊が出はじめ、腕カバーなどの対策が必要になった。今年は小雨のお陰か、あるいは酷暑続きのためか、蛇が出てこなかった。自宅の数軒先の飼い猫は、我が家の庭を通過したり、庭で寛いだりして時を過ごすことがある。そのため、蛇も警戒して出てこなかったのであろう。毎年蛇は、1〜2匹庭に現れて、その都度私は蛇を捕まえることにしている。
私の蛇の捕獲法は、園芸用の高枝切り挟みを使う。これは長さが2〜4mに調整できて、手元のハンドルで枝を切り取る道具である。人が蛇に近づくと、蛇は察知して逃げてしまう。しかし、2mの長さのこの枝切り具を近づけても、蛇は逃げない。そこで枝を切る要領で蛇の胴体にハサミを入れる。蛇の胴体は頑丈にできていて、このハサミでは切れなく、蛇は枝切りに捕まったままである。この状態で蛇を石にぶっつけたりして、瀕死の状態にして蛇を放免する。
毎年夏の初めに、カエルの鳴き声が我が家の3軒先の空き地から聞こえてくる。この空き地には小さなログハウスが建てられ、時折持ち主夫妻がやってくる。その持ち主が造った小さな池にカエルが住み着いているのであろう。その敷地の向こう隣に、猫の飼い主の家がある。私はつい最近、庭の草取りをしていた所、大きなカエルを見つけたのである。体長7cmぐらいのカエルである。このカエルは3軒先に住んでいたカエルであろう。カエルは、隣の猫に襲われるのを警戒して、我が家の水路を頼って来たのであろう。ちょうど水路が枯れていたので、そのカエルは、水がなくてぐったりしていた。かわいそうだから、我が家の前の沢に移してやった。
私は、皇帝ダリアという苗木をインターネットで見つけて購入した。それが今、高さ2mぐらいに成長し、9月の終わりになってもダリアの花は咲こうともしない。私が住んでいる矢祭町の隣の塙町は、ダリアを町の花のようにして、宣伝している。この時期、民家の庭にはダリアが咲いて華やかである。これらのダリアは高さ50cm程度の普通のダリアである。それに比べると、我が家の皇帝ダリアは、なんとでかいことか。幹も直径が7cmぐらいあり、実に堂々としたものである。これでも球根植物であり、冬には枯れてなくなる。春には芽をだして、このような巨大な木になるそうだ。何時花が咲くのか、私は楽しみにしている。
私達は毎年9月に、福島県内の温泉に行くことにしている。今年は9月10日に、裏磐梯の裏磐梯高原ホテルに行ってきた。このホテルは1958年開業し、天皇家が度々宿泊されている皇族御用達のホテルである。このホテルは、今年の4月にリニューアルオープンした。このホテルが福島の民放テレビに紹介されて、妻が行ってみたいというので、出かけた。3階建てホテルの外観は、壁が板模様のパネルで造られ、落ち着いた感じである。建物の前後に広い庭があり、裏庭には大きな沼池がある。私達が泊まった部屋は3階で、広さ36uのツインルームである。正面には裏磐梯山が眺められ、大きな弥六沼が真下に眺められる。夕食は、フランス料理あるいは日本料理が選択でき、私達はフランス料理を選んだ。料金は、1泊2食付きで、1人2.5万円であった。普段私達が泊まる温泉ホテルは、1人1万円程度であるから、このホテルの料金は実に高い。私達は、これが最初で最後だと思って宿泊した。
私達は、4時にチェックインし、すぐホテルの裏にある沼を一周する遊歩道を歩いた。一回りするのに30分かかる。道の周りは磐梯山が噴火した当時の大きな岩石があちこちにあり、熊が出てきそうな雰囲気であった。このホテルには図書室がある。夕食後、そこを覗いてみると、4組の夫婦が読書していた。色々な分野の本が並べられ、中にはベニシアさんが書いた本も置いてあった。そこには大きな望遠鏡もあり、星を眺めるのに使って下さいと書いていた。温泉は、それほど大きくない浴槽が上下2段あり、下が露天風呂になっていて、沼と裏磐梯山が正面に眺められる。客が高齢者ばかり10組ぐらいであったので、食事も温泉ものんびりできた。たまにはこのようなゆったりした雰囲気を楽しむのも良い。
このホテルに来る前に、私達は南会津町にある会津高原「たかつえ原」に寄って来た。ここは、広いそば畑があり、そばの花が福島県では有名である。このそばの花の映像をテレビで流していたので、私達は、それを見て行くことにした。矢祭町からこの高原まで車で約3時間弱、そこから裏磐梯のホテルまで約2.5時間かかる。たかつえ原の手前に、道の駅「番屋」があり、そこの店員にそばの花が見られる場所を教えてもらった。そばの花が咲く場所は、地元の観光用の地図にも載っていなく、持ち主が観光地化を嫌っているのであろう。その店員は、詳しく道順を教えてくれた後、そばの花はほとんど終わりかけです、と言う。私達は折角ここまで来たから行くことにした。現地は細い砂利道が通っていて、その道の突き当たりにそば畑があった。そば畑は見晴らしの良い所にあり、白樺が所々にあって、趣のある風景である。そばの花は茶色になっていたが、場所によっては白い花が残っていた。来年は満開の時期に来てみたい。
今年の夏は、竹島、尖閣の領有権について日中、日韓とも大きな政治問題となった。これは、10月に入っても、まだ続いている。当分この問題は収まりそうにない。韓国は竹島に建造物を建てているので、日本が挑発しない限り、韓国は黙っているであろう。尖閣諸島は日本政府が土地購入を予定したので、中国と台湾は怒った。地図でみると、尖閣諸島は台湾のすぐ近くであり、竹島は韓国に近い。中国は、国土が広いので、歴史的に内陸部の統一的治世が難しかった。さらに1840年のアヘン戦争以後、中国は、西欧各国および日本による侵略を受けた。中国は国内問題で混乱していたので、海の領有権まで手が回らなかったのであろう。日本政府は、1885年尖閣諸島を調査し、この島が無人島であることを理由にして、日本国の所有とした。これは、中国のどさくさに紛れた所有権宣言であった。
この尖閣諸島は、地理的には中国あるいは台湾の所有であろう。日本は、この島を一番近い台湾に返して、周辺の漁業権などについて、3国共有とするのが良策と思われる。このようなことを言うと、あいつは台湾の回し者か、と思われるであろうが、私は台湾生まれであるから、台湾を贔屓にしている。
2012.10.10
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ルーマニア・ブルガリア旅行4
ブルガリアの国旗は、白、緑、赤の横3色である。白はヨーグルト、緑はサラダ、赤はバラを意味している。私達が参加したユーラシア旅行社が主催する「ルーマニア・ブルガリア物語」のツアーは、バラ祭りの見物とバラ摘みを企画していた。ツアー12日目の6月1日に、バラで有名なカザンラク市を訪問した。カザンラクは、バルカン山脈の南に位置する街で、バラオイルを生産する工業の中心地である。カザンラクは「バラの谷」と言われるが、バラ畑はそこから北へ10km山に入ったシプカと言う村にあり、そこが「バラの谷」であろう。シプカは、「白いバラ」という意味である。この時期、シプカのバラ畑はバラの花が一面に咲いている。私達はその一画の畑でバラ摘みを行った。
バラの花は、朝3時から昼前の花に露が付いている時に摘むのが良い、とされている。私達は、9時頃観光客用のバラ畑に着き、民族衣装を着た若い男女達による歓迎の踊りを見物した。踊りの後、私達は畑に入り、バラの花を摘む。この地方のバラは、ダマスクローズ種が多く、4000年前シリアから入ってきた。この種は、香りが良いのが特徴で、ローズオイルの生産に向いている。5トンの花から1リットルのローズオイルしか生産できないので、ローズオイルは金の値段と同じと言われる。純粋なローズオイルは18℃で固まる。市場に出ているローズオイルは、水で薄めたローズ水である。このローズ水もグレードがあり、純粋なローズオイルから薄めたものは飲むことができる。このローズ水は色々な薬効がある。整腸効果があったり、疲れ目に効いたり、結石に良いなど。ジャムに入れると消化を助け、花びらそのものも食べることができるそうだ。
この地方では男の子が生まれると、記念にクルミの木を植え、女の子が生まれると、バラの木を植える。バラは樹木で、30年から40年の寿命がある。この種の花は小さく、その色は薄いピンク色であるので、あまり目立たない。バラ畑の花も遠くからでは、花が咲いているのか分からない。私達は、バラの花を大きなポリ袋2枚いっぱいに収穫した。生の花びらは国外に持ち出せないと聞いたので、ホテルに戻り、その花びらを部屋に広げて乾燥させた。ホテルの部屋はバラの香りが漂い、いい気分であった。我が家に持ち帰った後も、花びらを広げて、香りを楽しむことができた。しかし、3、4日で香りが薄れたので、花びらをプラスチックの密封容器に入れ、今でもそのままにしている。
この地方には植物研究所があり、私達はそこの内部を見学した。バラに関する資料が集められ、バラの花を蒸留する装置も置かれていた。多くの観光バスがこの研究所に立ち寄るので、観光客は多い。出口の所に小さな売店があり、バラグッヅが売られていた。売店は人だかりがして、買うのが困難であったので、私は買うのをあきらめた。私は、今回の旅行のお土産を「バラの石けん」にしようと決めていた。カザンラクから200km離れたプロヴディフ市を訪れた時、旧市街地を散策する機会があったので、そこでその石けんを購入した。石けんはバラの花の形をしたもので、バラの香りを付けている。1個200円ぐらいであったので、20個ぐらい買ってきた。この石けんは、プラスチックのフィルムで密閉されているので、バラの香りは急には消えないが、時間が経つと、ただの石けんになる。私は、帰国して早々にテニス仲間の女性達に配った。
カザンラク市では、バラの女王のコンテストとバラ祭りのパレードがある。コンテストは6月1日にあり、パレードは6月3日にある。ツアーはこの両方のイベントを見物する予定にしてあるので、中の6月2日は午前中にバラ摘みを行い、午後、200km離れたプロブディフ市へ行き、市内観光をした。翌日はまた200km離れたカザンラクに戻り、バラ祭りのパレードを見物した。このスケジュールは年寄りには過酷であった。
バラ祭りのパレードでは、パレードの前に地元のボス達が演説を行い、私達はそれを聞かされた。その後、色々な団体の行進があり、中程に今年のバラの女王が乗った車が通りすぎる。その後また、専門学校の生徒達が演奏しながら、そして踊りながら行進する。私達にとってこのパレードは全く面白くなく、退屈した。私達のパレードの見物は、大通りの一番前にツアー客の為のいす席が用意され、そこに座って見物できたので、楽ではあった。若い人達の行進を眺めてもつまらない。
前々日のバラの女王のコンテストは、カザンラク市のイベントホールで、午後7時ごろから行われた。多くの市民が集まり大変賑わう。コンテストの前座では、ブルガリアの民族衣装を着た人達の踊りや音楽が行われる。音楽は拡声器から大音量で流され、その音は割れて不快であった。一昔前の音響装置を使っているのであろう。女王のコンテストは、約20人の候補者がステージに並び、一人ずつ前に出て、司会者の質問に答える形で行われた。候補者が前に出ると、その人の近所の人達や親戚の人達が大声で歓声を上げて声援する。今年のバラの女王は、温和しい感じの人であった。昨年の女王は、現在日本を訪問しているという。今年の女王も、来年日本に来るであろう。ホテルには夜9時頃着いた。その頃街では祭りを盛り上げる花火が打ち上げられ、私達もホテルの部屋から見ることができた。ブルガリアの花火はあっさりしている。
コンテストの翌日は、バラの花摘みとプロヴディフ市の観光である。プロヴディフ市は、ブルガリア国のほぼ中央に位置し、首都ソフィアに次いで人口の多い都市である。旧市街地にはローマ人が造った円形劇場が、ほぼ昔のままの状態で保存されている。崖を削った形で劇場が造られ、3000人が収容できる。現在も野外劇などが催されているそうだ。私達が訪れた時、舞台では市民のコーラスの練習が行われていた。ブルガリアの歌声は特殊な音階を取り入れていると言われるが、私には分からない。指揮者が我々日本人を見つけて、「ふるさと」の歌を歌ってくれた。我々は、舞台から一番遠く離れた席からこの歌声を聞いていたが、よく聞こえた。音響が遠くまで聞こえるように設計されているのには感心した。その歌が終わって、私達が拍手を送ると、合唱団の人達も手を振って答えてくれた。
その夜の宿泊ホテルは、プロブディフ市の郊外にあるパーク・ホテル・インペリアルである。ホテルの部屋は広々としていた。ルーマニアもブルガリアも、ホテルのバスルームはシャワーだけがほとんどである。シャワールームは、カーテンで仕切られているのが普通であるが、このホテルのシャワールームには仕切りのカーテンがない。シャワーをすると、お湯が便器とか洗面器に飛び散り、後でこの始末をするのが大変であった。うまく使えるコツがあるのであろうか。
私は、海外ツアーに参加する際、必ずFMラジオを持参する。私は、ホテルでは夜9時頃には疲れて寝てしまうので、夜中の1時か2時に目が覚めてしまう。その時、ラジオをイヤホーンで聞くことにしている。ブルガリアのFM局は24時間放送しているので、音楽など楽しむことができる。ブルガリアの民謡はルーマニアに比べるとテンポがゆっくりしているようである。ルーマニアは、北側に旧ソ連のウクライナに接しているので、テンポの速いロシア民謡の影響を受けているようである。寒い国の人達は、じっと音楽を聴いていては寒くなるので、体を動かして踊る。その音楽のテンポが速いほど体が温まる。南に位置するブルガリアは、一時ロシアの政権下にあったが、音楽まで影響を受けなかった。私は、その日の夜中に、プロブディフのFM放送を聞いていたら、聞き覚えのあるメロディーが聞こえてきた。昔、藤圭子が歌っていた「夢は夜ひらく」をブルガリア語で歌っていたのである。日本から遠く離れた国で、演歌のメロディを聞くとは思ってもみなかった。
これはブルガリアだけではないが、ヨーロッパのどこの国もクラシック音楽をFMラジオで聴くことができる。プロブディフ市でも夜中の2時頃、ベートーベンの「田園」を放送していた。私はそれをうっとり聴きながら、また寝てしまった。クラシックは私の催眠剤である。日本では、AMもFMもクラシック音楽を放送する放送局がないのが、残念である。ヨーロッパでは、伝統的にクラシック音楽が身近にあるのが、私にとって羨ましい。
2012.11.10
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ルーマニア・ブルガリア旅行5
ツアーの14日目、私達はブルガリアの首都ソフィアを訪問した。当日は、カザンラク市のバラ祭りパレードがあり、そこを途中で抜け出して、バスで4時間のソフィア市にやってきた。ソフィアは、四方を山に囲まれた標高550mの高原にある都市で、人口は150万人を数える。この都市も色々な人種に支配されてきた。一番長い支配はトルコであり、500年続いた。19世紀末ソフィアは、トルコ・ロシア戦争でトルコから解放されたが、その後旧ソ連の影響下にしばらくあった。そのソ連からも解放されて、現在20年近くなる。ソフィアに着いたのは午後4時であった。私は、バスの長旅の疲れをホテルでとりたかったが、市内にある寺院の観光を強いられた。
訪れたのは、アレクサンドル・ネフスキー寺院である。この寺院は、5000人を収容できる巨大な建物で、トルコ・ロシア戦争で犠牲になったロシア兵士20万人を慰霊する目的で建てられた。内部は華やかに造られ、中央に豪華なシャンデリアが吊されている。寺院にシャンデリアは似合わないが、周りが華やかであるので違和感がない。寺院は正教系だから、祭壇には大きなイコン画が飾られている。中央はロシア、右がブルガリア、左がアラブ諸国向けの祭壇であり、周辺各国に気配りした祭壇である。建物の地下室には国内から集められたイコン画の博物館がある。我々は、そのイコン博物館を見学した。内部は撮影禁止であるが、ソフィアに住む地元ガイド、エルカさんの「顔」により撮影することができた。エルカさんは、この博物館が好きでよく来るそうで、館員とは顔なじみになっているという。規則があってもいい加減なのは、旧ソ連が残した習慣であろう。
祈りの対象になるのは、イエスキリスト、マリア、聖者達である。ロシア正教、ブルガリア正教などの正教系の教会では、彫刻のキリスト像などが禁止されているので、額縁に入ったイコン画が祈りの対象になる。大きなイコン画は祭壇に飾られ、小さなイコン画は信者がひざまずいて祈る場所に置かれて、信者は十字を切った後、イコンに口づけをする。そのためこのイコンはガラスケースの中に納められている。カトリック教会などに置かれている彫刻のイエス像は、十字架に張り付けされた残酷な姿が多いが、イコン画はそのようなシーンは描かれていない。人物の顔が大きく描かれ、顔の表情は穏やかである。最も一般的なモチーフは、マリアに抱かれた幼少のイエスである。このイエスは、幼少にもかかわらず顔が大人びているのが妙である。
フレスコ画は、建物に描くので持ち運びができないが、イコン画は運べる。この博物館には、国内各地から集められたイコン画が100点ぐらい展示されていた。歴史的に重要なイコンはガラスに納められているが、その他は近々と見ることができる。イコン画は木板に描かれた油絵である。木板は古くなると反るので、裏側に反りを防ぐために補強の木が張られている。100号ぐらいの大きなイコン画も1点あった。これは油絵と同じキャンバス地に描かれたもので、18世紀に制作されている。
ツアー最終日は、ソフィア市から約100km離れたリラ山の中腹にあるリラ僧院を訪れた。リラ山は、標高2925mのブルガリアでは最高峰の山である。その中腹の1970mの所にこの僧院が建てられている。リラ僧院は、10世紀に小さな寺院として建てられたが、14世紀に大規模な建物となり、ブルガリア正教の総本山となった。500年間のトルコ支配下でも、この僧院だけはトルコ王が侵略を禁止したので、破壊を免れた。侵略しようと思っても、このような難攻不落な地形では不可能であったであろう。そのような奥地にこの僧院がある。リラ僧院は、1833年の大火災で焼失したが、その後復旧して、1983年には世界遺産に登録された。
建物の中心になっている聖母誕生教会の回廊にはフレスコ画が描かれていた。教会内は撮影禁止であるが、この回廊のフレスコ画は自由に撮影できる。これらのフレスコ画は極彩色で描かれ、鮮やかな色が今でも見られる。ルーマニアでは修道院の外壁にフレスコ画を描いているが、ブルガリアでは外壁にはフレスコ画は描かれていない。ブルガリアの教会内に描かれたフレスコ画は、蝋燭のすすで色がくすんでしまっているが、この回廊の絵は、山中のきれいな空気のお陰で鮮明さを保っている。リラの僧院には小さな歴史博物館がある。そこには高さ50cmほどの木の十字架があり、十字架に600人の人物像が彫り込まれている。18世紀にラファエロによって制作されたこの十字架は、「ラファエロの十字架」という。このラファエロという人物は、イタリアルネサンスの画家、ラファエロとは別人である。この博物館にはトルコ王の「リラを攻撃してはならない」という命令書も残されている。
ソフィア市の郊外にボヤナ教会がある。11世紀に建てられ、13,19世紀に増築された小さな教会である。この教会には、1259年に制作されたフレスコ画があり、世界遺産に登録され、大切に保存されている。このフレスコ画の劣化を防ぐため、教会への入場は、一回10人程度に制限され、さらに10分間の時間制限をしている。13世紀に描かれた世界的に有名なこのフレスコ画中の人物は、陰影法が用いられ、生き生きと描かれている。15世紀のイタリアルネサンスのジョットが用いた遠近法も、すでに使われていた。多くの画家達がこの教会のフレスコ画を見学にきて、参考にしたという。
教会内は二つの部屋に分かれ、手前は比較的新しいフレスコ画が描かれ、奥に世界遺産のフレスコ画がある。ガイドのエルカさんは手前のフレスコ画から熱心に詳細に我々に解説した。制限時間10分間の7分をそこに使ってしまい、肝心の奥のフレスコ画の説明は3分しか残っていなかった。私達は、時計を見ながら早く奥に行きたいと、ヤキモキしてしていたが、彼女は気にせず悠々と時間を使った。奥のフレスコ画では、彼女は監視員がストップをかけるまで落ち着いて解説してくれた。彼女はベテランのガイドである。
ソフィアでの宿泊は5っ星ホテルの「アネル」である。ツアーの最終日は参加者に好印象を与えるため、ツアー会社は高級ホテルに連泊するプランを作っている。このアネルホテルは外観は地味であるが、部屋などは広くて立派であった。私が感心したのは、各部屋でインターネットが無線で使えることである。日本のホテルでは、各部屋に有線LANのコネクターがきているだけで、それを使うにはLAN用のコネクターが付いているパソコンが必要である。最近のタブレットやスマホは、無線方式(Wi−Fi)であり、有線LAN用のコネクターは付いていないので、インターネットは利用できない。私はこのツアーで、アップル社のipod touch(電話機能のないスマホ)を持ってきた。このホテルがくれたカードにパスワードが記されていたので、それをipodに入力すると、インターネットに繋ぐことができた。
私のホームページ「金谷アートギャラリー」も開くことができた。日本から遠く離れたブルガリアで私のHPが見えるとは! OCNのHPを開くと、田中防衛大臣がクビになり、民間の森本氏が就任したことがニュースに出ていた。遠くの国から今の日本の出来事が分かったり、メッセンジャーなどのサービスを利用すれば無料で日本の友人と話をすることができる。インターネットは便利な手段であることを実感した。ツアー客にスケッチをする女性がいて、彼女は時間があればスケッチブックに絵を描いていた。私は、「web矢祭美術館」のHPを開き、私が描いた油絵をその人に見せてやった。彼女はびっくりして私の絵を見て、実物を見てみたいと言っていたが、その後音沙汰はない。
今年の9月、私達は裏磐梯の「裏磐梯高原ホテル」へ行ってきた。このホテルは、五つ星の老舗のホテルであるが、1年前にホテルをリニューアルした。その際、インターネットも無線方式にしたようである。私は、東芝のREGZAというタブレット型パソコンを持って行ったので、それを使ってインターネットをつなげてみると、可能であった。このホテルは、パスワードをフロントが教えてくれる仕組みにしてある。私はその翌日、ipod touchを使ってインターネットを利用しようとしたが、繋がらない。フロントに聞くと、キーワードは毎日変えているという。面倒なことをするものだ。
日本でもホテルの部屋で無線LANが使える時代が来ているようである。有線LANを無料で使えることを自慢にしているホテルが多いが、これはもう時代遅れであろう。旅には、重たいノートパソコンでなくて、軽いタブレットを持って行く時代が来たようだ。
2012.12.10
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春うらら、政権交代
昨年暮れの衆議院総選挙で自民党が圧勝した。自民党はうれしい新年を迎えたであろう。一方、予想された通り、民主党は壊滅状態であった。3年前の自民党からの政権交代で、国民は多くの期待を民主党にかけた。マニフェストがバラ色であったので、政治家主導で国が動くのかと思っていたが、役人の抵 抗で民主党の思いどおりにならなかった。2011年3月11日に起きた東関東大震災でその情勢は変化した。特に、福島原発の爆発事故で民主党政権は混乱し、その後の救済処置でも県民から対応が遅いという非難を受けてしまった。
この大震災がなければ、民主党は今度の選挙でこれほどまでに落ち込んではいなかったであろう。大震災の際、自民党が政権を持っていたとしたなら、民主党と同様な対策の不手際がなされたであろう。そして自民党は、復興のための巨額の資金が必要となるため、大幅増税を打ち出したであろう。その結果、衆議院選挙では大敗を喫したであろう。民主党は、自民党の長年の放漫経済政策で膨れあがった国債借金を少しでも減らすために、公共事業削減と消費税10%増を打ち出した。そのまじめな方針が国民にいやがられて、選挙に負けてしまった。逆に自民党は、景気停滞を打破するため、ふたたび公共事業を増やしたり、金をばらまいて、今のデフレからインフレへ方向転換をさせようとしている。
自民党は消費者物価を2%に引き上げることを提言しているが、日銀は1%が限度だと言い張る。結局は安倍首相に押しきられて、2%に近いところで決着するであろう。年金高齢者は、現在物価が下がっているので、何とか生活ができているが、インフレで物価が上がっていくと、苦しくなる。インフレは低所得者層にとって好ましくない。自民党は、インフレで物価が上がると企業の収入が増え、給料も上げることができ、雇用も増やすことができると予想する。思い通りインフレになると、自民党は消費税の引き上げを止めるであろう。これは、物価上昇によりお金の価値が下がって、国の借金も目減りするからである。自民党政権は無職の低所得者層にも犠牲を強いる。庶民にとってインフレは、物価が上がり生活が苦しくなるという悪い印象があるため、最近、自民党はインフレと言わず、デフレ脱却と言っている。
福島県は原発の事故で今でも16万人の県民が避難生活をしている。福島県民は、原発に対して今後とも拒否反応をするであろう。今度の総選挙で各党は原発に対する取り組みを発表していたが、その中で最も原発依存を示したのが自民党である。その自民党が選挙で国民の期待を受けたのは、福島県民にとって残念である。西日本の有権者は、原発事故や津波被害を忘れてしまったようだ。原発事故による放射能被害は今でも続いている。原発から放射能の排出が今も続いていることを、東電は否定していない。テレビでは、毎日福島県内の放射能濃度を知らせているが、今でも第一原発付近の町村は、最大30マイクロシーベルトの放射能濃度を観測している。爆発のあった原子炉格納の建物は未だにオープンなのであろう。これを何らかの形で密閉化しなければ、放射性物質の排出は収まらない。今東電は、爆発によるがれきの撤去に力を入れていると思われる。密閉化はその後であろう。
昨年の10月22日、私達は新国立美術館で行われていたリヒテンシュタインの秘宝展を見に行った。ルーベンスの絵画が10点展示されているこの秘宝展は、見る価値が大いにあった。有名なルーベンスの愛娘を描いた小さな油絵は人気があり、絵の周りには多くの人が群がっていた。この秘宝展は「バロック・サロン」という展示室を設置し、バロック宮殿の雰囲気を再現していた。そこには天井画が4、5点天井に展示されていたが、このフレスコ画は本物であろうか。実物は運搬できないので、実物の写真を撮って、その印刷紙を天井に張り付けた、としか考えられない。会場には例によってショップが設けられ、多くの人が買い物をしていた。妻は池田理代子の「リヒテンシュタイン物語」を購入した。私もこの本を読んでみようと思っている。
12月3日、東京スカイツリー見物のため、東京へ出かけた。宿泊ホテルは品川プリンスである。スカイツリーに行くには、京急品川駅から直通の地下鉄浅草線に乗り、押上駅で下車する。スカイツリーは、そこから歩いて10分のところにある。押上駅は改札口を出るとすぐ、東京ソラマチという商店街があり、大勢の観光客で賑わっていた。建物の4階の屋上から歩いてスカイツリーに行くことができる。見物した12月4日は曇り空で、350mの展望デッキからの視界は良くなく、遠くまで見えなかったが、遙か下方に都会の建物が小さく見えた。時折薄い雲が流れて、建物が見えなくなる様子は、着陸寸前の飛行機の窓から眺める風景に似ていた。折角ここまで来たのだから、エレベーターでさらに100m上の展望回廊に行ってみた。地上450mのこの回廊は少し揺れていた。この日は火曜日で、シーズンオフなので、客は少なく、当日券2000円も並ばずに買えたし、展望デッキ行きのエレベーターにもすぐ乗ることができた。展望デッキから展望回廊に行くにはさらに1000円の料金が必要である。
スカイツリーには江戸切り子のディスプレイが方々にあると、テレビで報道されて、私はそれを見るのが楽しみでやってきたが、どこにも見られなかった。係の人に聞いてみると、ここから離れた場所に「すみだ江戸切子館」があり、そこに行けばいいと教えてくれた。10分ほど歩かなければならないので、行くのをあきらめた。展望デッキには特設の土産物売り場があり、そこに江戸切り子のみやげ物が並べられていた。私は、小さなブルーのグラスを記念に買った。これは、スカイツリーの模様が彫られて、底には幾何学模様の切り込みが彫られているものである。1個1万2千円とは、少々高かった。私は、このグラスを庭の庭園灯の中に入れ、グラスの上部から白色のLEDを当てて、切り子による乱反射の輝きを楽しんでいる。
宿泊した品川プリンスホテルの各部屋には有線のLANが来ている。この有線LANを使えばインターネットを利用できる。以前多くのホテルは、このLANを使うのに1000円を必要としていたが、今では無料で利用できる。私は、ホテルの部屋でインターネットを使ってみようと思い、小さな無線ルーターを持ってきた。これは、プラネックス社の製品で、5×4×1cmの大きさであり、電源はUSBを使う。私は、この旅行で持参した、東芝のタブレットReguzaとアップルのiPod touchを試してみることにした。これらには無線Wi-Fiが内蔵されているが、有線LANのコネクターがないので、ホテルでのインターネットには使えない。しかし、この小さなルーターを使えば、部屋の中に電波が発射され、内蔵の無線Wi-Fiによりインターネットを利用することができるはずである。
果たしてつながるか、試してみたところ、インターネットに接続することができた。このルーターは2000円弱で買える。USBの電源は、パソコンからでなくて、100VからUSBの電圧である5Vに変える部品を用いた。それにはUSBのコネクターが付いているので、この無線ルーターに使える。この部品も3×2cmの小さなものである。この無線ルーターとUSB電源を使えば、どこのホテルでもインターネットが接続できる。私は、ブログの書き込みや、ツイッターの書き込みはしないし、オンラインゲームもしないので、インターネットに繋げる必要性はない。利用するのは、観光施設の場所や開館時間などを調べる程度である。私のホテルでのインターネット利用は、単に暇つぶしである。アップルのiPod touchと無線ルーターは極めて小さいので、これからの旅行には必ず持って行こうと思っている。
2013.1.10
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奈良旅行
2013年1月21日、私達は奈良へ旅行した。私はテレビの旅番組をよく見る。旅番組は、BSで毎日のように放映されており、国内外の世界遺産とか絶景とか街角散歩など、楽しい番組が多い。特にヨーロッパ各地の街並み映像が多く、それらは私が行ったことのある都市が多いので、懐かしく眺めている。国内は、温泉巡りとか世界遺産の紹介が時折ある。先日、奈良の古寺を巡る番組があり、その中で興福寺がテレビに映し出されていた。その寺の国宝館に阿修羅立像が安置され、その仏像が美しく、実物を見てみたいという気持ちで、奈良旅行を思い立った。
この興福寺の阿修羅立像は、超有名で、仏像界のスーパースターと言われている。この仏像は、帝釈天と争って、常に負けているとされているので、その顔が深刻な表情にしてある。一般に、仏像は男性でも女性でもないとされているが、この阿修羅像は女性のような雰囲気を持っている。彼女は、戦う仏像の表情でなく、負けてしまって、悲しむ仏像の表情である。この表情が女性に人気があるのであろう。外国ではミロのヴィーナスやモナリザがスターであるが、日本ではこの阿修羅立像がそれに相当するスターであろう。数年前であろうか、東京にもこの像がやってきて人気を博したが、私は見る機会を持たなかった。ミロのヴィーナスとモナリザは実物を見たことがあるので、日本のスターも是非見たいと思っていた。
私達は、車で8時15分に自宅を出て、東北新幹線の新白河駅で車を駐車場に置き(駐車料金は1日600円)、「なすの」で東京へ、「ひかり」で京都へ、JR奈良線で奈良へ行き、午後3時に奈良に着いた。泊まるホテルは、駅すぐ横のホテル日航奈良である。部屋に入ったのは4時前であり、まだ明るいので市内を散歩した。駅前の三条通りを奈良公園に向かって歩き、途中の上三条交差点を右に歩き、「ならまち」地域に出た。そこから元興寺がある細い商店街を北へ、土産物屋を見ながら近鉄奈良駅まで散歩した。そこから三条通りへ戻り、ホテルに帰った。1時間半の散歩であった。元興寺がある付近は古い民家があり、奈良の雰囲気が残っている。商店街も古い民家をそのまま利用した店屋が所々あり、奈良らしい風情がある。
翌日の22日は生憎の雨模様であったが、傘をさして観光に出かけた。昨日歩いた三条通りをまっすぐ歩くと、猿沢の池に来る。そこを左へ歩くと、すぐ興福寺の広い敷地に入る。中金堂は、再建中で大きな囲いが造られ、その中に建物の骨組みなどが透けて見えた。その少し隣に国宝館があり、その中にお目当ての阿修羅像がある。拝観料1人600円を払って中に入る。拝観者は5、6人程度であったから、静かに観賞できた。西暦700年頃作られた色々な仏像が、それぞれスポットライトに照らされて安置されていた。
見学順路の最後に、阿修羅像が、仏像の守護神である八部衆の列の中央にあった。ガラスの囲い無しで、1m先にこの像をゆっくり眺めることができた。阿修羅像は、三つの顔を持っていて、左右の顔は横顔しか見られない。中央の顔は写真の宣伝に多く使われているので、なじみがあり、実物を見てなるほどと感心した。国宝館は例のごとく、出口手前にショップがある。私は、阿修羅像の左右の顔の写真を探すため、そのショップに入った。阿修羅像の三つの顔を並べた写真があったので、それを購入した。左右の顔の表情は、中央の顔に比べると、やや温和しい感じである。
国宝館を出て、奈良公園方面に歩くと、東大寺の広い敷地がある。南大門前の参道を東大寺に向かって歩くと、左に東大寺総合文化センターの建物があり、その中に東大寺ミュージアムがある。このミュージアムに月光菩薩立像があるので、私はそれを見たかったが、当日は臨時休館日であった。冬のこの時期はシーズンオフで観光客は少ない。中国、韓国、欧米からのグループがこの参道を歩いているだけで、日本人は少ない。時折中学生の修学旅行者達が通る程度である。多くの鹿がうろついていて、食べ物を欲しそうに寄ってくる。冬は草も枯れているので、腹を空かせているのであろう。その鹿達を中国人が珍しがって食べ物をやったり、写真を撮っていた。
東大寺の大仏様を見ようと思い、拝観料500円を払って境内に入った。大仏が鎮座している大仏殿は大きく、大仏もびっくりするような大きさである。大仏は、私が小学生の修学旅行で見た時以来の見学であるが、この顔をテレビでよく見るので、久しぶりに見るという感じはない。東大寺の敷地に二月堂があるので、そこに行くことにした。毎年3月に、このお寺を舞台にしたお水取りが行われる。私は、毎年テレビでそれを見ているので、実物を是非見てみたいと思っていた。二月堂は拝観料無しで自由に入れるのがうれしい。建物の前に張り出した舞台から奈良市内が見渡せるが、当日は雨模様で生憎見渡されなかった。
二月堂を下ったところに土産物屋や食堂がある。そこで奈良焼のペアの湯飲みを売っていたので、記念に買った。これは奈良の伝統工芸の赤膚焼であり、赤みがかった陶器である。絵付けは奈良絵といって、赤色の素朴な絵柄が手書きで描かれている。私達は再び東大寺参道を下って行った。突き当たりに鷺池があり、その中に浮見堂がある。浮見堂の中で4、5人の女性が水彩でスケッチをしていた。先生のような男性がいて、彼も水彩画を描いていた。彼の絵は色をにじませた手法の絵であったが、生徒達は普通の描き方であった。猿沢の池を通り、三条通りからJR奈良駅に戻った。
妻が慈光院に行きたいというので行ってみることにした。慈光院は大和郡山市の大和小泉にあるので、JR関西線で行くことにした。大和小泉駅は奈良駅から2つ目の駅である。私達が乗った電車が走り出したが、2つ目の駅は大和小泉駅ではなかった。私は、間違えて別の路線に乗ったことが分かり、元の奈良駅に戻った。目的の大和小泉駅に着いたのは午後4時過ぎであった。タクシー(930円)で慈光院庭園へ行く。拝観は5時までだと聞いて、拝観料1人1000円を支払って書院に入る。建物はすべて茅葺き屋根であり、大きな書院の中に茶室が数カ所ある。慈光院は、1663年に大名の片桐石州氏によって建てられた臨済宗大徳寺派の寺院である。彼は茶道を広めた茶人であり、その建物と庭園は、茶道のわび、さびを意識して造られていた。書院で大刈込の庭を眺めながら抹茶を頂いた。書院の裏手に本堂があり、その前庭には大きな五葉松が配置されていた。拝観者は、私達の他に若い男女だけで、静かな雰囲気を存分に味わうことができた。
私は、小学校6年生の時、修学旅行で奈良に行き、今回はそれ以来の訪問であったが、その60数年前の記憶はほとんど消えていた。猿沢の池だけ記憶にあり、それは広い池であると思っていたが、今日見た池は小さく水も濁っていた。また奈良公園がこんなに広大な敷地であるのには驚きであった。奈良はお寺が多く、有名な仏像も多い。奈良の神社仏閣は、塀のような囲いがないのが開放的で好ましい。私は京都に3年近く住んで感じていたが、京都の寺は塀で囲まれて排他的である。その庭は優雅であるが、狭い空間の庭造りで、窮屈な感じを受ける。奈良の寺の庭を見たのは上記の慈光院だけであるが、造りが簡素でおおらかである。
京都は庭園の町であるが、奈良は仏像の町である。私は、その仏像も一部しか見ていないので、再度奈良に行ってみたと思っている。
2013.2.10
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物置の組立
我が家の庭には物置が2個ある。1つは、14年前に買った50×80×高さ180cmぐらいの小さなものである。もう1つは、10年前、ログハウスを北欧(フィンランド)から購入した時、梱包材に使われていた木材を利用して、組み立てたものである。後者の物置は、サイズが2×1.2×高さ1.8mで、比較的大きいが、要らなくなった器具や廃棄用の段ボールなどで満杯になっている。10年前に買った、しかも一度も使ったことのない陶芸用の炉は、後者の物置にしまったままにしてある。絵付け用の電気炉もログハウスのテラスに置いている。私は、これらを収納する物置が欲しいと思っていたので、作ることにした。
ネットでスチール製の物置を探してみたが、私が必要とするサイズ、内容のものはなかった。木製では、グリーンベルという会社が販売している物置があり、サイズなどが気に入ったので、買うことにした。この会社は長野県諏訪郡にあり、物置は組み立て式で、主要な部材はアメリカから輸入している。アメリカで設計したと思われる物置の外観は米国風であり、ツウバイフォー(2×4インチ)のパネル工法で組み立てる。以前私が組み立てた北欧のログハウスは、1本の木の棒を1本ずつ積み上げる方式であった。この木は、1本10kg程度の重さであったので、重くて困ることはなかった。今回の工法は、1.8×1.8mのパネルを予め製作し、それを組み上げるやり方である。パネル用の木枠はツウバイフォーの角材が使われる。
ツウバイフォーの角材は、日本のホームセンターでも、4×9×180cmの角材として売られているので融通がきく。パネルに使う壁材は、厚さ9.5mmの針葉樹の合板で、120×180cmなどのサイズで送られてくる。これと角材を組み合わせて180×180cmのパネルを作る。このパネルを組み上げて物置を作るわけである。私は、グリーンベル社のカタログからランカスターWという商品名を注文した。これは、2坪の広さで、1セット22万円であるが、オプションの窓2個、馬の風見計を加えて26万円となった。送料は西濃運輸の郡山営業所まで無料で運んでくれるが、その先は自分で取りにこいという。総重量500kgで、約2.5×1.3mの大きさであるから、私の車では運べない。西濃運輸は、ユニック車というクレーン付きのトラックで配送するサービスがあり、費用は4万円という。私は、ほかに運びようがないので、それを頼んだ。
12月15日に荷物が我が家に着いた。その日から組み立て工事を始めた。物置を設置する場所はコンクリート敷きになっているので、基礎はコンクリート製羽根付ピンコロ6個を置くだけにした。その上に長さ180cmのツウバイフォーの角材を並べて、土台とした。壁用の180×180cmのパネルと180×360cmのパネルを作ったが、これを土台の上に載せる作業が1人ではできない。丁度年末に長男が帰省していたので、彼の助けを借りてパネルを組み上げることができた。屋根の骨組み作りは、三角形の木枠を地面で7個組み立て、それをパネル板の上に取り付けて行う。1個の三角形は軽いので、私1人で持ち上げて取り付けることができた。その上に厚さ12.5mmの1.1×2.4mの屋根野地板を取り付けるが、1人ではできない。長男は埼玉に帰ってしまったので、頼りにするのは妻だけである。
この大きな屋根板は1人では持てないが、真ん中に取っ手を付けると持ち上げることができる。また、折角持ち上げた屋根板は屋根の傾斜でずり落ちることが予想される。その対策に屋根板の一カ所に木の木片を付けた。このようにして妻の手助けを借りて、大きな屋根板を2枚と、小さな屋根板を2枚を屋根に取り付けた。これで難工事は終わった。新しい物置は2坪の広さで、半分の1坪は床を敷き、隣の1坪は床無しのウオークイン物置とする。床の部屋は両開きのドアがセットの中にあるので、それを取り付けた。ウオークインの部屋は雨対策としてひさしを取り付け、自由開閉ドアを取り付けた。このドアの板は、解体した古い小さな物置の廃材である。電気工事をして、2月中旬にほぼ完成した。残りは2カ所の窓の取り付けと、屋根の上に付ける馬の風向計だけである。
話は変わるが、今年1月から我が家は電話線を廃棄し、光回線に変えた。昨年の暮れからNTT東日本が光回線の利用料金値下げ宣伝を始め、我が家にも担当者が熱心に電話で宣伝してきた。以前の電話回線のADSLでインターネットやメールを利用しても、特に速度が遅いと感じたことがなかったので、私は光に変える気にはならなかった。光回線に変えると、電話番号が変わるとか、メールアドレスを変えなくてはならないとか、プロバイダーを変えてホームページのアップロードの設定変更が必要になるとか、などの面倒な手続きが発生するのではないかと思っていた。これらの心配をNTTの担当者に話すと、そのような手続きは全く必要ないという。
肝心の料金は、フレッツ光と光電話に変更しても、従来と変わらないことが見積書を送って貰って判明した。私は、支払額が同じなら変えようと決心した。光ケーブルの電柱からの引き込みと、建物の2階までの引き込み工事費は無料である。電話線のADSLではNTTのモデムを使っていたが、今回は光回線用の有線ルーター装置を使う。これはNTTの端末装置ということで無料である。NTTは、「2年割」という制度を作って、これらの費用を無料にしているが、この光契約を2年以内に解約すると、これらの費用約3万円は無料でなくなるという。OCNのプロバイダーの契約も「2年割」の制度を作っていたので、それを利用した。このような特典があって、光が安くなったのであろう。
NTTの光端末装置から私のディスクトップパソコンへの接続と設定は、500円払えばやってくれるというので頼んだ。1月の始め、2人の男性が我が家に乗り込んで、これらの工事と設定を行ってくれた。私はこの光ケーブルの建物内の引き込みを眺めていて分かったが、建物の中には直径1.5cmぐらいのプラスチックのフレキシブルパイプが各部屋の壁の中に入っている。そのパイプの中に光ケーブル(1×2mmの細い線)を通して引き込みを行う。パイプの中には電話線が入っているが、それはそのままにしていた。私が気が変わって、電話線を使おうと思えば、すぐ変えることができる。
光電話は簡単に通じた。光端末装置と私のパソコンとの設定は、2人の男が代わる代わる交代して行っていた。それもなんとか接続でき、インターネットに繋がった。我が家には、パソコンが大小3台、東芝のタブレット、アップルのiPodtouchおよびヒューレットパッカー社のFax&プリンターがある。これらはすべて内蔵の無線LANがあるので、私はNECの無線ルーターを用いて、無線でこれらと接続していた。NTTの技術屋には有線の接続だけ500円でお願いしていたが、彼らはNECのルーターを使って、ついでに無線で接続させようと試み始めた。彼らはNECの無線ルーターを見て意欲が沸いたのであろう。30分ぐらい色々パソコンを触っていたが接続できない。私は、時間がかかりそうなので、自分で接続するから、と言って作業を止めて貰った。彼らは心残りで帰って行ったであろう。
その後すぐ、私はNECルーターの説明書を見ながら接続を試みて、無事に接続できた。電話回線のADSLからこのNECルーターを使ってインターネットに接続する際も、自分でなんとかできたので、その経験が今回生かされたのであろう。光回線はスピードが速いと宣伝されているが、ADSLより少し早いかな、という感じであった。NECのルーターを経由しているからかもしれない。しかし、私のホームページのアップロードはものすごく速かったのには驚きであった。光電話は、従来の電話線と変わらないが、停電の場合使えない、とNTTの営業マンは心配していた。我が家の従来の電話は子機を持つホームテレホンであり、アダプターを使っているので、停電の場合は使えない。使えないことに変わりないので、私は心配していない。
2013.3.10
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松島
2月22日は妻の誕生日で、私達は毎年その頃に温泉旅行をすることにしている。今年は、2月25日に宮城県の松島温泉へ出かけた。2月は雪が多く、車で行くには事故が怖いので、JR鉄道を利用した。水郡線の東館駅を11時に出発し、終点の郡山へ、そこから東北新幹線で仙台へ、そこから仙石線で目的の松島海岸駅に2時半頃着いた。仙石線は、仙台と石巻市を結ぶ路線であるが、2年前の大震災の被害で、高城町駅と石巻駅がまだ不通になっている。高城町駅は松島海岸駅の次の駅であるが、石巻駅までの振り替えバスは松島海岸駅から出ている。
松島海岸駅は観光松島の中心地である。松島湾や瑞巌寺などの観光スポットは、この駅から歩いて行ける距離にある。私達が今夜泊まるホテルは、「松島センチュリーホテル」で、この駅から歩いて10分の所にある。ホテルに電話すれば送迎のバスが来てくれるが、当日は晴天であったので、歩いて行くことにした。1週間前の大雪はほとんどとけていたが、日陰の歩道はまだ雪が凍り付いていたので、滑りやすい。駅からホテルまでの道は、国道45号線であり、その片側には土産物屋、旅館、食べ物屋などが並ぶ。道路の反対側はすぐ松島湾に面しており、観光バスの駐車場や遊覧船案内所などが並ぶ。
ホテルには3時頃チェックインし、すぐ散歩に出かけた。妻が「焼きがき」が食べてみたいというので、ホテルの人にどこに行けば食べられるか聞いてみた。有名な「かき小屋」は予約制で、大体3時前には終わっていると言う。「松島焼きがきハウス」がすぐ近くにあるので、そこに行けば食べられるかもしれないと教えられた。期待してそこに行くと、そのハウスは店じまいをしていた。その店の前に、「食べ放題一人45分で2000円」と書かれた看板があった。食べ放題は私達の胃袋には無理だと思い、あきらめた。土産物屋が並ぶ国道の歩道を歩いていると、店前でかきを焼いている店を見つけた。一皿500円と看板にあったので、そこで食べることにした。私達が店の奥で待っていると、焼きたての殻付きのかきが2個、皿にのせてきた。
食べて見ると、とろっとして美味しい。かきは半焼であるので、2個ぐらいが適当である。かきは松島湾で獲れていたが、津波の被害で、今年も収穫できない。このかきは気仙沼で獲れたものであるという。今年から気仙沼でかきが獲れた、というニュースがテレビで放映されて、地元の漁師が喜んでいたのを、私は思い出した。その歩道を少し歩くと、瑞巌寺の参道があった。200mぐらいの参道は、大きな杉に囲まれており、その奥に本堂がある。この本堂は、3年前から修復工事が行われ、今も足場が組まれ、本堂の外観も見えない。その参道の北側には薄暗い洞窟群がある。大昔このあたりは海岸線であったのであろう、海の波により岩が浸食され洞窟ができたものと思われる。この洞窟群は、その後修行僧の寝起きの場所となり、今では石像が置かれている。津波がここまで来たのか、洞窟の中は薄暗い。
国道沿いの土産物街を歩いていると、2年前の津波の高さがここまで来ました、という表示が店の柱にあった。高さは約1.5mであろう。海岸から100mぐらいの近さであるが、意外に低い。ここの松島湾は三陸のリアス式海岸とは違って、海岸線が円形に広がっている。押し寄せた高い津波は分散されて低くなったのであろう。通常のリアス式海岸はV字形になっているので、津波の高さは奥に行くほど高くなる。このあたりの建物は1階部分は全て津波の被害を受けたと思われる。建物が壊れたとかの被害はなかったように見られ、死者もいなかったようである。建物内部の商品などは被害を受けたと思われるが、その被害の跡は何も見られなかった。
松島は、字の如く島に松が生えている。松島湾には260の小さな島が点在し、その島の上には松が生えている。これらの島は、山が沈下して海水により周囲が浸食されて、残った頂上部分が島の形で存在している。山は松の木で覆われていたが、松は水没でなくなり、頂上部分の松だけが残っている。山の地層は非常に脆い岩石でできているため、このような奇形の島ができたのであろう。これらの島を眺めていると、松の木が枯れずによく生き残っているなア、と感心する。木に必要な水は雨水しかない。木の根は、海水がしみ込んでいる岩石に入り組んでいる。松が生きていられるのは、岩石が海水を淡水化するためかもしれない。陸前高田市の「奇跡の一本松」は海水で枯れてしまった。その付近は美しい松林であったが、津波で根こそぎ倒れ、「一本松」だけが残った。これも海水で枯れてしまった。これらのニュースを見て、この松島の松は、長年の環境順応により、生き残る術を持っているのだろう。
ホテルの夕食はセミバイキング方式である。会場にはオープンキッチンがある。揚げたての天ぷら、焼きたての牛ステーキ、牛タンは、板前に注文してその場で料理してもらう。調理が終わったら、ウエイトレスが持ってきてくれる。その他の色々な料理とソフトドリンクなどは、ビュッフェ方式で並べているので、それを取りに行く。この方式は、調理し立ての料理が食べられるというのが特徴である。天ぷらは、色々な食材がそのキッチンの前に並べてあり、客はそれを皿にのせて板前に出して、揚げてもらう。私は、揚げられた天ぷらを見て、そのボリュームにびっくりした。食材に衣をつけて揚げるので、ボリュームは食材の3倍ぐらいになる。残すわけにはいかないので、私はそれを食べるのに苦労した。
翌日、1泊2食付き1人1.6万円を支払ってチェックアウトした。ホテルから歩いて2分の所に五大堂があり、そこへ行った。海岸からほとんど地続きの島の上に桃山建築の小さな堂が建っている。その島へは「透かし橋」が架かっていて、橋板の隙間から下の海が見える仕組みになっている。この建物は海水面から5mぐらいの高さにあるので、津波の被害はなかったようである。五大堂から歩いて2分ぐらいの所に観瀾亭(かんらんてい)という建物があり、抹茶付きの入場料1人600円を払って見学した。この観瀾亭は、伊達政宗が伏見城にあった一棟(茶室)を豊臣秀吉から贈られたもので、歴代藩主が月見、納涼などのために使われていた。
この建物は、海岸のすぐ近くにあるが、5mぐらいの高台に建てられているので、津波の被害は受けなかった。2年前の大津波は、三陸沖から押し寄せ、金華山の半島を回り込み、さらに大高森の半島を回り、多くの島をすり抜けながらこの松島海岸にやってきた。そのため、この地域では海水面が約1.5m上昇した程度であった。波の破壊力は受けなかったようである。この観瀾亭から眺める松島湾の景色はすばらしい。茶室で抹茶を頂きながら爽快な景色を堪能できた。
この建物の後ろには古い倉があり、そこは「松島博物館」として公開されている。そこには伊達家の宝物などが陳列されて、写真が自由に撮れる。私は、この博物館で伊達家の家紋を見ることができた。その家紋は、周りが葉の模様で囲まれ、中央に2匹の魚がキスをしているデザインである。このようなイラスト風な家紋は珍しい。見学者は一人、二人程度で、館内は静かであった。その中に大きなカメラをぶら下げた若い「歴女」がいて、熱心に陳列品を眺めていた。
私達は、松島海岸駅10時35分発の快速に乗り、行きと同じ経路で15時に自宅に戻った。
2013.4.10
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はとバス
3月24日は、私の75才の誕生日である。私はこの日から後期高齢者になった。毎年この頃、東京へ1泊旅行をしている。今年も3月25日に東京に出かけた。特別な用事はないが、画材の買い物とか、絵付けの材料などを買うのが目的である。東京に出ると、必ず秋葉原へ行く。最近は電子パーツの買い物は、インターネットで済ませているので、用事はないが、店をあちこち眺めるのが楽しみであるので、行くことにしている。今年の桜の開花は例年より早く、この25日頃はまだ満開を保っているようなので、東京の桜を見ようと思いついた。
ネットで調べると、はとバスで都内の桜見物ができるツアーがあることが分かり、それに予約した。そのツアーは、桜の季節限定で、東京駅丸の内から1時間おきに出ている。コースは、北の丸公園、皇居のお堀、靖国神社、外堀通り、千鳥ヶ淵、英国大使館などの桜を見るコースであり、全て桜をバスの中から眺める。所要時間は1時間で、一人1500円の料金である。バスは屋根無しで、2階に席がある。私達は16時出発のコースに参加した。参加者は、30人ぐらいで、ガイドが説明してくれる。当日は、前日からの雨が上がり、曇り空で風が強かった。冷たい北風で、屋根無しだから、風が体にもろに当たるので、大変寒かった。
2階建てオープンバスは、以前香港の夜景見物で乗車したことがあった。その香港のバスは、2階は全くのオープンで、周囲に手すりがあるだけである。東京のはとバスは、周囲はガラス窓があるので、多少の風は遮られる。大雨の時はツアーは中止になるが、少々の雨は実施される。危険だから傘はさしてはならないことになっている。バスをよく見ると、後ろに幌が付いていた。途中大雨の時、この幌が伸びて、屋根ができるのであろう。今回は、そのような事態にはならなかったのが残念なような気がした。客はシートベルト着用が求められる。バスが事故で横転すれば、客は全員外へ投げ出されるのは必定であろう。香港のバスにはシートベルトはなかった。今から思うと香港は乗客の安全に対して配慮が足りない気がした。
千鳥ヶ淵は、道路の両側に大きな桜の並木が続いており、桜の枝が道路をふさいでいるようになっていた。それは桜のトンネルのようであり、客席から手を伸ばせば、桜の花に届く近さである。ガイドは手を出さないように注意していた。その道路には花見の客が大勢歩いており、2階のオープンデッキバスが珍しいのか、私達を見て、手を振る。こちらからも手を振って答える。桜の下で和やかな雰囲気が生じた。バスの客はほとんどが東京に住んでいる人達である。田舎から出てきたのは私達ぐらいである。ガイドは全国各地の桜の名所を紹介し、その中で三春の滝桜を褒めていた。福島から来た人はいるかと、ガイドが尋ねたので、妻は手を上げて応えた。
東京に桜が多いのは、江戸時代に幕府が江戸の各地に桜の苗木を植えさせたからだと、ガイドは説明した。最初は江戸城の近くにだけ桜があり、花が咲く頃、その桜を見物に江戸っ子が押し寄せた。花見酒で酔客が現れ、大騒ぎになる。江戸城近くで騒がれては困るというので、当時の将軍吉宗が、花見客を分散させるため、方々に桜を植えさせた。それらの桜が100年以上経って、東京の春を彩っている。バスは、皇居の周りをほぼ一周したコースで東京駅に到着した。途中渋滞もなく、予定通り1時間のツアーであった。
私達は、バスを降りて、折角丸の内に来たので、レンガ造りの東京駅を眺め、ドームの下から丸天井の幾何学模様を眺めた。6時近くであったので、夕食は大丸の12階にあるレストラン街で食べることにした。そこには「馳走三昧」というバイキング方式のレストランがあり、一人2730円の料金であることをネットでしらべていた。普通のレストランは、注文するのが面倒であり、料理が出てくるまで時間がかかるので、私はビュッフェスタイルのレストランを好んでいる。この店は広々とし、客もそれほど多くはないのでゆっくり好きな料理を選んで食べることができた。食後は5種類のスイーツを食べ、コーヒーを飲む。これで2700円は安い。制限時間は2時間です、とウエイターは言っていたが、私達老人は多くは食べないので、1時間ぐらいで終わった。
今夜の宿泊は、品川駅近くの「京急EXイン品川駅前」である。このホテルは駅から歩いて5分ぐらいの近さであるので、よく利用する。料金は朝食付きの1泊で、一人8000円である。翌日の朝私は、散歩で近くの御殿山公園の桜を見に行った。昨日の桜見物は遠くからの見物であったが、今朝は満開の桜を近々に眺めることができた。この御殿山はホテルから歩いて往復40分程度であるから、散歩には丁度良い距離である。朝食は2階のレストランにあり、バイキング方式である。このレストランは3方が大きなガラス窓になっており、その下には池がある庭園が見渡せる。夫婦組はこの景色が眺められる席に案内される。このホテルはビジネスマンが多いが、彼らは真ん中の大きなテーブルに相席として案内される。私達は桜が1本ある庭を眺めながら、ゆっくり朝食を楽しんだ。
10時にホテルを出て、妻は東京駅の大丸へ買い物に出かけた。私は原宿、新宿、秋葉原を回り、東京駅で妻と落ちあうことにした。原宿は歩いて10分の所に陶画舎という店があり、絵皿作成用の道具とか白磁器を売っている。新宿は京王デパートに用事がある。私は京王電鉄の株を持っており、毎年1000円分のポイント引き替え券が貰える。これを1000円の買い物券に変えるために、わざわざ出かける。引き替えの期限が3月末なので、東京に出たついでに毎年このデパートに行くことにしている。新宿から中央線で秋葉原へ行く。万世橋側に新しく「アトレ」というデパートができ、その先にラジオセンターが昔のまま残っている。私は、その中の屋台のような店を一軒一軒覗いて歩くのが好きである。
駅近くの中央通りを渡ると、3階建ての東京ラジオデパートがある。ここにもパーツ屋が並んでいるが、半分ぐらいの店が閉まっている。この近くには千石電商や秋月電子のようなパーツ専門店があり、これらは繁盛しているようである。組立ロボット用パーツやソーラー部品などを置いているので、客の年齢層が広い。私は、秋葉原を見て回って、東京駅に戻った。妻は買い物を済ませていた。彼女は大丸の店員の態度が悪いと怒っていた。妻に接客した中年の女店員は、妻の洗いざらしの服装をじろじろ見て、見下したような態度で応対した、と妻は言う。大丸の女店員の接客態度は高慢であり、一昔の、客に物を売ってやるという意識が未だに残っているようだ。東京駅の大丸は、田舎から出てきた者には便利なデパートである。大丸は、客には「誰にでも平等に接する」という商店の基本を、従業員に教育すべきであろう。
2013.5.10
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スーパーこまち
秋田新幹線の「スーパーこまち」は、ジャパンレッドと呼ばれる赤色が塗られた先頭車両に特徴がある。また、異様に長い先頭のスタイルが特徴であり、私はこの写真を見て、一度乗って見たいと思っていた。4月22日、この「スーパーこまち」に乗って秋田市に行くことにした。秋田市には特別な用事はない。スーパーこまちに乗車するのが目的である。JRのダイヤを調べると、スーパーこまちは福島県には停車しない。私達は新白河駅から「やまびこ」で仙台駅へ行き、そこであこがれの「スーパーこまち」に乗る。仙台から盛岡駅までノンストップで走り、そこから在来線の線路を使い、秋田市へ向かう。
仙台駅のホームで、スーパーこまち7号を待っていると、あの赤鼻の列車が入ってきた。4、5人のカメラを持った人がその姿を写真に撮っていた。私もデジカメで撮った。スーパーこまちは、新青森行きのスーパーはやぶさ7号と連結して盛岡へ向かい、ここで、はやぶさを切り離して、秋田へ向かう。仙台、盛岡間は、時速300kmで、ノンストップで走る。スーパーこまちは、車体の幅が在来線の幅の規格であり、車軸の幅が新幹線の広い幅なので、車体が軽く、スピードも思い切り出せる。盛岡からは、在来線の線路を利用しているので、時速は130kmぐらいに落ちる。そのスピード差が激しいので、新幹線に乗っている感じはしない。
私は、盛岡からの在来線はどのように車軸幅を切り替えているのか、興味があった。調べてみると、在来線の外側に新幹線用のレールを1本追加しただけで対応しているようである。私は、その3本のレールを見てみたかったが、それを見ることにすっかり忘れていた。在来の秋田線は単線であるから、工事は簡単であったのであろう。急なカーブを少なくしたり、架線を手直しする程度であろう。これならどこでも新幹線化は可能である。さらに、鉄道技研では、レールも在来線の2本のままで、新幹線を走らせないか、研究しているようであり、現在各地で試験的にその新型列車を走らせている。
新幹線のレール幅は1435mmの標準軌であり、在来線のレール幅は1067mmの狭軌である。標準軌からそのまま狭軌の線路に乗り入れるには、軌間可変電車(フリーゲージトレイン)という電車を使用する。この技術の先進国はスペインであり、すでに2006年に実用化をしている。この軌間可変電車は、車軸に標準軌用と狭軌用の2個の車輪、両側で計4個の車輪をつけている。標準軌から狭軌への乗り入れ地点では、4本のレールが敷かれている。電車は、この区間に入ると、4個の車輪で4本のレールの上を走る。そして外側の標準軌のレールが狭軌のレールより下がっている区間に入ると、自然に狭軌の2本のレールだけで電車は走る仕組みになっている。乗客はレール幅が変わったことに気づかないであろう。この方式は、在来線をそのまま走れるのでコストがかからないが、電車の方にコストがかかる。電車は、車体幅は在来線の幅で、車輪が倍になっているので、その車体重量は増える。
スーパーこまち7号は仙台駅に10時30分に到着した。このミニ新幹線は、車体の幅が在来線用に造られているので、ホームと車体の隙間が広い。そのためステップが自動的に車体からでる。車内の座席は、通路をはさんで4列である。シートの色は黄金色であり、車内ドアの模様は稲穂がデザインされていた。盛岡からは単線の在来線を走るのでスピードが極端に落ちる。奥羽山脈を越えていくので上り坂があり、さらにスピードは落ちる。途中、大曲駅から進行方向が今までの逆になる。何か理由があるのであろう。秋田駅には12時52分に着いた。私は、秋田市は初めてだと思っていたが、改札口を出て、大きなドーム状の商店街を見て、一度来たことがあったのを思い出した。
5、6年前、秋田市で東北地区のマスターズテニス大会があり、その大会に出るために来たことがあった。福島県からは6組ぐらい参加して、私はその内の一組であった。私は、矢祭在住の鈴木氏とのペアで参加した。その頃の私は、テニスの実力がピークのようであった為か、その東北大会ではベスト4にまで勝ち残った。これは、年齢枠が140才から150才のグループ内での結果である。当時に比べると今は相当レベルが落ちていて、テニススクール内で行われるダブルスの試合では、女性のペアに勝てなくなってしまった。しかし、私は、まだテニスができるので、自分の体に有り難く思っている。
秋田駅の改札口を出て右に歩くと、秋田市の中心街に行ける。今夜の宿泊ホテルは、千秋公園の前にある「ドーミーイン秋田」である。そのホテルは駅から歩いて10分ぐらいの所にある。ホテルに着いたのが1時過ぎであったが、チェックインしてくれた。私達は、荷物を部屋に置いて、市内見物に出かけた。ホテルのすぐ前の千秋公園は、久保田藩初代藩主である佐竹義宣が1604年に築城した久保田城があった場所である。城は1880年に全焼して消滅したが、久保田城御隅櫓や本丸表門が再建されている。広大な公園の敷地には、秋田県民会館、平野政吉美術館、国学館高校などがある。久保田城は標高40mの高台に築かれ、本丸などは平屋造りであり、周囲は石垣がない。ただし、現在一部残してある堀には、立派な石垣があるが、当時のものかどうか分からない。
公園には大きな桜が多く植えられている。今年は桜の開花が遅く、4月22日の時点では、つぼみの状態であった。土地の人に聞くと、1週間後には開花するでしょうといっていたが、そのような気配はなかった。公園内は桜祭りが開催されていたが、屋台だけが多く並び、花見客は学校帰りの生徒だけであった。城跡敷地の奥にはコンクリート造りの御隅槽があり、入場料100円で入れる。3階建てのテラスは、360度が見渡せる回廊になっている。ここから鳥海山が見えるはずであるが、当日はかすみがかかって見えなかった。
公園の入り口には平野政吉美術館(秋田県立美術館)がある。平野家は、秋田藩主の佐竹氏とともに水戸から秋田に移住した家来である。その子孫の平野政吉は秋田の大富豪で、藤田嗣治のコレクションで有名である。藤田画伯の多くの作品がこの平野政吉美術館に展示されている。月曜日は休館日であったので、私達は入館することができなかった。藤田の超大作、縦3.65m、横20.5mの「秋田の行事」がこの美術館にある。1967年に建てられたこの美術館は、ユニークな外観であるが、古くなったので、この年の6月に閉館する。その代わりに、新しい県立美術館がほぼ完成されている。現在、内部が見学できるようになっている。この美術館はホテルから近いので、私達はそこへ行ってみた。
新秋田県立美術館は安藤忠雄氏が設計している。藤田画伯の「秋田の行事」が展示できる大きな展示室ができていた。まだその絵は取り付けられていないが、その展示室は2階が吹き抜けになっていて、2階からも見ることができるようになっている。新美術館は、今年の9月28日に正式に開館され、その絵も平野政吉美術館から移される。私は、このでかい絵を一度見てみたいと思った。
今回の秋田への旅行は「スーパーこまち」に乗ることだけを目的にしていたが、秋田市を半日観光してみて、秋田市内にも多くの観光スポットがあることを知った。秋田と言えば、角館の武家屋敷、横手のかまくら、男鹿半島、十和田湖、田沢湖、白神山地など、秋田市以外の観光地が有名であるが、秋田市内にも見るべき所は多い。秋田市をもう一度1日かけてゆっくり観光してみたい。
2013.6.10
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13年、春から夏
2013年の3月、4月、5月は、雨が少なかった。6月に入ってもほとんど雨が降らない。今年の梅雨は、雨が降るのだろうかと心配する。台風3号が本州めがけて北上してきて、これで雨が期待できると思ったが、大陸の高気圧に阻まれて、東へ逸れてしまった。この少雨は全国的な現象で、梅雨に入っている九州、四国、中国などは雨の日が少ない。雨が少ないと、農家が困り、そのニュースがテレビで放映されていた。ダムの水位が低くなった映像も見られた。6月頃、そのようなニュースがあるのは極めて珍しい。6月は、冬の雪などで山に貯まった水に、まだゆとりがある。真夏の渇水時は、このような水のゆとりはなくなるので、深刻な問題になる。真夏の山の樹木は、葉からの水分の蒸発のため、土地から多くの水を吸い上げる。そのため山からしみ出る水は少なくなり、川の水量も減り、水道水などの人間が使う水が少なくなる。自然は、人の生活より植物の生活を優先する。
我が家の庭の木々は、3月からの小雨にもかかわらず元気である。小雨といえども、2週間に1回ぐらいは雨が降るので、樹木達は土地深くしみ込んだ水を大切に使っているのであろう。かわいそうなのは、多年草の花である。春が来て、芽を出して、これからぐんぐん大きく成長するとき、水がないと枯れてしまう。6月の始め、30℃近く気温が上がり、雨もないので土地の表面はからからに乾いてしまった。私は仕方ないので、水道水で散水をした。このような時、私は、テレビの天気予報を注意して見て、雨が降らないか期待する。雨のマークが出るとホットする。その雨が霧雨のようなのが短時間しか降らないと、予報を恨めしく思う。この小雨も6月末の4号台風接近で、解消され、逆に大雨の被害が西日本に出た。自然は気まぐれである。
今年の多年草の花は例年より多くの花を咲かせて、私達を楽しませてくれた。庭にはバラを4種類植えていて、それらは多くの花を咲かせた。特に「春がすみ」という品種は、病気に強く、毎年元気であるが、今年は特に多くの花を咲かせた。テッセンは毎年数えるほどしか花を咲かせないが、今年は数え切れないほど花を咲かせた。クレマチス、シャクナゲ、ツツジ、ドウダンツツジなども、その花達で庭が賑やかであった。樹木のマロニエ、コブシ、木蓮類も多くの花を咲かせた。白樺も毎年地味な花を咲かせるが、今年はその花が実をつけた。6月の実は細い円筒状で青いが、秋になると茶色になる。円筒状の実は薄い小さな種がぎっしり詰まっていて、マヒワという小鳥が好んで食べに来るという。
これらの花の多さは、植物たちが春から夏の小雨という異常現象を感知して、子孫を残すための準備であろう。種や実を残しておれば、日本が砂漠化して親の木が枯れてしまっても、種は生き残る。やがて何十年後に湿潤な気候に戻れば、種は発芽して植物は生き返るであろう。虫たちは卵の形で異常事態を乗り切るかもしれないが、ほ乳類は死滅するであろう。植物にはそのような生き残る本能を持っているが、動物にはその本能がない。人にもその本能はないが、知恵はある。その知恵で人は砂漠の環境でも生き抜くであろう。私は近くの森や庭の花達を眺めて、そのようなことを想像した。
庭の先の森を眺めていると、たまに変わった小鳥がやってくる。先日はキツツキの一種であるコゲラがやってきた。庭木の幹にきて、くちばしでつつく様がよく見られた。私達がこの団地の敷地にきた頃、森と敷地とは、不自然な不連続の状態であったが、12年経た現在では、庭の樹木が大きく茂り、森からの樹木の流れが連続化した。そのため小鳥は抵抗感なく、我が家の庭にやってくるようになった。しばらく姿を見せなかったカケスも見ることができた。6月の末になると蛇が我が庭にやってくる。この蛇は、高枝切りハサミで捕まえて殺してしまう。毎年殺すのは可哀想だから、今年はプラスチックの波板でバリヤーを作った。これは高さ50cmぐらいの垂直のバリヤーである。この高さを蛇が越えられないなら、目的は達せられる。今のところ蛇の訪問はない。
我が家の庭には2本の茶の木がある。横浜の家で植えていたものを持ってきた。横浜では毛虫が多く発生して、駆除することができずにいたが、矢祭では毛虫は全く発生しない。これは、椿やサザンカも同様である。当地の冬の寒さが毛虫発生を抑えているのであろう。6月半ばに茶の葉を摘んだ。新芽からかなり時間が経っているので、葉は大きい。数年前には新芽を鉄板の上で乾燥させ、手もみで粉にしたが、今年は乾燥に電子レンジを用いた。レンジのプレートに茶の葉を並べ、3分間チンさせ、手もみをする。これを3回繰り返すと、乾燥して粉にすることができる。これで作った緑茶を毎日飲んでいるが、市販の茶より穏やかな味がする。なにより自然のままの緑茶であるから安心である。
話は変わるが、私は少し前、ヒューレットパッカード(hp)のタブレットパソコンを購入した。タブレットは、東芝のREGZAタブレットをすでに持っていたが、使い勝手が悪くて、なじめなかった。東芝のタブレットは、OS(Operating system 基本ソフト)がアンドロイドというスマホなどに使われているものである。私は、ウィンドウズを20年以上使い続けてきたので、このアンドロイドにはなじめなかった。ウインドウズ用のソフト、たとえば「一太郎」などはアンドロイドタブレットにインソールできない。私は、Windows用の色々なソフトをCDで持っているが、これらもアンドロイドでは使えない。
以前、私はアップルのiPod-touchを購入した。これは携帯機能のないスマートホンである。小さくて軽いので、クラシック音楽をパソコンから入れて、デジタルオーディオプレーヤーとして毎日使っている。一回の充電で40時間、音楽が聴けるので重宝している。このiPod-touchのOSは、iOSというアップルが開発したOSが使われている。色々なソフトは、無料、あるいは数百円という低価格でダウンロードできるので、便利である。内蔵のソフトに世界文学全集があり、外出するときこの小説を読むことにしている。インターネットのホームページも閲覧できるので、時折利用する。インターネットは、アクセスポイントがある自宅内や、ホテル内でしか使えず、本来のスマホの街中での接続はできない。
今回購入したhpのタブレットは、Windows8がOSである。このOSは、マイクロソフトが開発した最新のOSで、タッチ機能が付いている。このタブレットは、11.6インチ型で、キーボードがついているが、タブレットとキーボードをワンタッチで切り離すことができる。タブレットは、一回の充電で約10時間使用することができるので、外出時は電池切れを心配することはない。このタブレットの重さは710gであり、東芝のタブレットの600gよりやや重い。東芝タブレットの使用時間も10時間であるので、どちらかと言えば東芝の方が持ち運びによい。
私は、このように、3種類のOSを体験することができた。iOSやアンドロイドはスイッチを入れてからの立ち上がりが速いし、スイッチオフの場合も切れ方が速い。一方、Windowsはこれらの操作に時間がかかる。特に終わり方が大げさで、ソフトを終わらせないでシャットダウンしようと思うと、警告のメッセージがでる。親切と言えば親切であるが、うるさく感じる。Windows8の最初の画面は、アンドロイドのようなアイコンが出てくる。ウインドウズのスタート画面に慣れている私は、その画面に戸惑うが、そのように感じる人は大勢いるようである。そのため、マイクロソフト社は、従来のスタート画面が出てくるWindows8.1を急遽つくったようである。このOSは、まだ配布されていないが、無料でダウンロードできるようである。
私は古い人間でしょうか、長年なじんだウインドウズから離れられない。しかし、そのような人間も多くいることを、今度のマイクロソフト社が発表したWindows8.1で、知ることができた。
2013.7.10
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北海道の旅、1
私達は、2013年6月22日から一週間、北海道へ行ってきた。北海道は今回で4度目であるが、おそらく最後の旅行になるであろう。最初の北海道旅行は、1999年7月16日から18日間の長旅であった。エスティマという車にキャンプ用品を詰め込んで、東北のオートキャンプ場を6日かけて周り、青森からフェリーで函館に渡り、札幌市を含めて道南地方を9日間旅行した。当時私は60才を過ぎた年齢であったので、体力があったのであろう、今考えるとよくがんばったなあと思う。二度目は、旅行会社のツアーに参加した旅行で、行きは寝台特急で函館に行き、帰りは千歳から飛行機で羽田に戻った行程であった。3度目は3年前で、福島空港と千歳空港を往復した旅であった。
今回も往復、飛行機を利用する。旅行の目的は、札幌から2泊3日の礼文島、利尻島へのバスツアーに参加すること、知床ウトロでクリの苗の植樹、妻の北海道での乗馬である。一番の目的は、礼文島、利尻島へ行って、色々な花を見てみたい、という私の希望であった。これは、阪急交通社が企画する札幌発のバスツアーであり、私は、6月23日(日)の出発日を申し込んだ。しかし、出発日の20日前になって、参加者が6名しか集まらなかったので中止する、という連絡がきた。私は、この日をベースに旅行プランを立てていたので、大いに困った。23日の前日の土曜日に札幌市に行かなくてはならないのが、最大の困難事であった。福島空港発の千歳空港行きは土曜日のため満席であり、仕方なく仙台空港発を予約した。AIRDOの格安航空券は、キャンセルができないことになっている。帰りは福島空港への席は空席があったが、車を使う都合で仙台空港着にしなければならない。帰りもキャンセルできない格安券を予約していた。
一番予約に苦労したのは札幌市のホテルの予約である。花の季節の土曜日のホテルはどこも満室である。JR札幌駅近辺は1泊3万円なら空き部屋があったが、こんなに高いのは馬鹿馬鹿しいので、駅の近くはあきらめて、すすき野付近を探した。幸い札幌プリンスホテルに空き部屋があったので予約した。このホテルは、札幌駅からタクシーで千円以内で行ける場所にあり、朝食付き一泊一人、1.6万円である。二日目、三日目も札幌に泊まるので、駅近くの三井ガーデンホテルに予約した。このホテルは、朝食付き一泊一人6千円である。土曜日を外すとこんなに値段が違うのだ! 観光地の土曜日は客が集中するので、ホテルは料金をつり上げる。それでもホテルは満室になる。毎日が日曜日の高齢者は週末は避けて宿泊しなければならない。旅行社がキャンセルしたことによる出費増は、新白河から仙台までの新幹線代が余分にあったので、二人で3万円ぐらいであろう。
礼文島行きのツアー中止が会社側から通告されたので、空白ができた3日間をどう過ごすか。一日目は北海道中央バスが企画している「午後の花めぐり」ツアーを予約した。これは定期観光ツアーであるから、ツアーの中止はない。二日目は苫小牧市郊外にある乗馬クラブへ妻と一緒に行くことにした。三日目は富良野にある「風のガーデン」を見物することにし、宿泊は旭川市のホテルにした。「午後の花めぐり」ツアーは、札幌市郊外にある滝野すずらん公園と、色々なテーマパークがある「えこりん村」をバスで訪ねるツアーである。参加者は12名で、時間は11時50分から18時までである。
ベテランのガイドが同行して、北海道、札幌市などの色々な情報を喋ってくれた。今年の冬の雪は市内で1〜2mの積雪があり、6月の初めまで雪が残っていた。そのため春の花の開花が遅れ、これから行くすずらん公園は、目玉のスズランはまだ咲いていないという。札幌の市の花はスズラン、木はライラック、鳥はカッコウであると教えられた。カッコウは最近鳴き声が聞かれなくなり、市の鳥をカモメに変更したという。ライラックの花は咲き始めであり、今はアカシアの花が満開である。市内の街路樹にはアカシアが多く植えられ、独特の花の香りが漂っている。
バスはすすき野を通り、豊平川に沿って南下する。陸上自衛隊真駒内駐屯地を経て、札幌市郊外に出た。札幌市あるいは北海道各地の民家の特徴は、屋根が陸屋根という平らな形になっている。外観は平らであるが、上の見えないところは屋根がトタン製で、中央に凹んでいる。雪が積もると、室内の暖房ですぐ溶けてしまうようにできている。冬の暖房は24時間暖房である。外出などで暖房を切ると、温度を上げるのに多くの燃料が必要になり、かえって不経済だという。冬の北海道は、雪により空気の湿分が高いので、寒さを余り感じない。関東地方のような肌を刺す寒さは感じない、とガイドは説明した。この付近の民家の特徴は、敷地の周りにフェンスや生垣のような囲いがない。私は、バスから家々を眺めて、塀がなく、庭に立木もないのに気づいた。これは除雪するのに便利だからであろう。住民は、雪が積もると道路に雪を出す。これを市の除雪車が処理してくれるというわけだ。
バスは、住宅地を抜けて山の中を走り、滝野すずらん公園に着いた。この公園は、大規模な国営の公園である。公園の中央にカントリーガーデンがあり、そこではボランティアのガイドがいて、彼の案内で花の説明をして貰った。今の時期の花はスズランであるが、まだ開花していない。ラベンダーもまだであった。青色のケシが咲いていたが、今年は花が小さくて見栄えがしないといって、ガイドは大きく咲いたケシの写真を見せてくれた。ガーデン内はルピナスが多く咲いていた。蝦夷キスゲという花も咲いており、ニッコウキスゲよりも色が薄く、黄色に近い。園内では蝉の声が聞かれた。北海道では6月だけに蝉が鳴き、7月以降は鳴かないという。この蝉は、エゾハルゼミといわれ、ヒグラシのような鳴き方をする。
このすずらん公園からさらに南下した恵庭市に「えこりん村」がある。広大な放牧地の中にテーマガーデンがあり、犬の牧場ショーを行う場所がある。敷地には、銀河庭園と言われるイングリッシュガーデンがあり、バラやハーブなどが多く植えられている。牧場ショーでは、若い女性の合図により2匹の牧羊犬が羊を自在に追っていた。犬は羊たちを狭い通路に追い込み、羊たちの背中の上を犬が走るという珍しいショーも見せてくれた。ここでは南米原産のアルパカのショーも見られるが、残念ながらショーの時間が合わなくて見ることができなかった。
バスは千歳空港に寄り、高速道路で18時に札幌駅に戻った。私達の夕食は、札幌駅横のエスタビル6階にある「菜蒔季」という自然食ビュッフェでとった。一人1800円の料金で、ソフトドリンクは別に200円支払う。このソフトドリンクには赤、白のワインが飲み放題になっているのがうれしい。レストランの窓からは札幌市内の中心が眺められる。大通公園のテレビ塔と札幌ドームが見えた。
北海道は、デッカイドウと言われるぐらい広い。その面積は東北六県と新潟県を合わせた面積よりも広い。観光バスのガイドは、北海道は、面積が広過ぎるので、日本列島の地図では少し縮めて表示してあると言う。私は本当かなと思い、テレビの天気予報で映し出される全国地図を注意して見て、なるほど東北六県より小さい面積のように見える。それが本当なら、北海道だけ縮尺率をかえるのはおかしな話である。このバスガイドの話は気になる話であった。
2013.8.10
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北海道の旅、2
旅の3日目は妻の乗馬体験につきあった。乗馬クラブは、苫小牧市の郊外で、千歳市に近いところにある。千歳空港まで行けば乗馬クラブの人が迎えに来てくれるというので、10時に予約して待っていた。福岡ナンバーの黒の四駆がやってきて、それに乗って、約20分で乗馬クラブ「リーフ」に着いた。このクラブは、40才代の夫婦が経営しており、迎えに来たのは奥さんである。吉田さん(仮名)という50才ぐらいの女性が同乗していた。彼女は千葉に住んでいたが、馬が好きで、北海道に移住したという。今日は妻の外乗(乗馬トレッキング)につきあうために、クラブから呼ばれたようである。
この乗馬クラブは、千歳空港近くの森の中にある。馬は6、7頭いて、のんびり囲いの中で寛いでいる。航空自衛隊の千歳基地が近くにあるようで、時折ものすごい爆音で低空飛行してくるが、馬たちは慣れているようで、知らん風である。犬が4匹放し飼いにされており、私達の車がクラブに近づくと、吠えながらやってきた。そのうちの2匹は、ボーダー・コリーで、他の2匹は、黒のラブラドールとテリアの一種の小型犬である。この茶色のテリアは活発で、吠えながら走り回る。4匹の犬はそれぞれ役目があるようで、ボーダー・コリーは外乗にでる時に一緒に出かける。テリアは番犬のようで、来客があると激しく吠える。ラブラドールは、隣のレストランで飼われている犬であるが、その店が忙しいとき、このクラブで預かっているという。このラブラドールは温和しく、愛想がよい。
私は、妻の乗馬経験は10年であることを、予めメールで知らせておいた。その技術を確かめるため、経営者の大羽さんは、囲いの中で妻を馬に乗せ、基本技術をチェックした。妻が乗った馬は、一番温和しく、人の言葉を理解して、駆け足などの指示は言葉で済ますことができるという。30分の練習が終わって、90分間の外乗に出かけた。先頭に大羽さんの馬、次いで妻の馬、後ろに吉田さんの馬が一列になって、森の中に入っていった。2匹のボーダー・コリーが先頭を走って、馬たちを先導する。馬2頭だけで森の中に入る場合、もし馬があばれて暴走すると、大羽さんだけでは対応ができないので、吉田さんについてきてもらったのであろう。客から外乗の予約があると、吉田さんの応援を頼むというシステムになっているようである。
私は、1時間半の暇ができたので、乗馬クラブに隣接している「イコロの森」へスケッチの道具をもって出かけた。イコロとは、アイヌ語で「宝もの」という意味である。「イコロの森」は、イコロの森ガーデンを中心に、レストラン、園芸店、森の学校、土産物店がある。ガーデンは、英国風のローズガーデンであるが、今年はバラの開花が遅く、ほとんどがまだつぼみの状態であった。その隣にはウッドランドガーデンがあり、広い芝生があったので、私はそこに座り込んでスケッチをした。F3サイズのボードキャンバスに色鉛筆で絵を描き、水をつけた筆でその絵をしめらすと、水彩画になる。私は、この方式の絵は初めてであり、鮮明な色彩が得られ、楽しかった。絵は、1時間でほとんど完成したが、自宅に戻って気に入らないところを加筆した。
乗馬クラブに戻ってしばらくすると、外乗の3頭の馬が戻ってきた。妻は念願であった「原野を馬で駆ける」ことができて、大満足であった。3年前、北海道の釧路市郊外の鶴居村の乗馬クラブに、乗馬を申し込んだところ、65才以上の人は外乗の乗馬はできないと言われ、妻は失望していた。私が、乗馬の経験は10年以上あるから心配はないなどと、交渉した結果、引き馬なら許可しましょうという。この乗馬クラブは、村営でお役所的で融通がきかない。引き馬とは、クラブの人が手綱を持って歩き、客は馬に乗っているだけである。これでは乗馬の面白みはない。このクラブへの申込みは、別の用事ができたのでこちらから断った。それに比べ、この「リース」という乗馬クラブは、年齢制限はなかったし、気持ちよく老人に応対してくれた。
千歳空港まで送って貰う時刻は3時頃にして欲しい、とクラブの奥さんに言って、私達は隣のレストランへ食事に行った。何かの会があったようで、小さなレストランはほぼ満員であった。スパゲティを注文して30分以上待って、やっと食事にありつけた。3時までまだ時間があったので、園芸店に入る。ここは多くのバラの苗があり、それらが花を咲かせ、あたりに香りを放出していた。2時半にクラブに戻ってみると、若い3人の女性が来ていて、奥さんやご主人はその対応に追われていた。予定の3時頃車で空港に向う。車に乗るとき、ラブラドールとテリアが車に乗り込んできた。ラブラドールは助手席に、テリアは私と妻の間に座った。客の見送りには、これらの犬が一緒に行くことが習慣のようで、犬たちは慣れた風に乗り込んくる。最初私達に激しく吠えていたテリアは、温和しく私の横に寛ぎ、頭を膝にのせて寝ている。ラブラドールは、時折後ろを向いて私達に愛想をする。犬たちと仲良くなったが、名残惜しく空港で彼らと別れた。
次の日は富良野市にある「風のガーデン」を観光する。札幌9時6分発の「フラノラベンダーエクスプレス3号」というスーパーエクスプレスに乗って富良野に向かった。2階建ての車両に自由席があったので、その2階に座った。車両はほぼ満席で、日本人は少ない。ほとんどはタイからの観光客のようである。タイの人は目があっても愛想がよい。中国や韓国の人とは違うようである。富良野には11時3分に着いた。タクシーで新富良野プリンスホテルへ行く。風のガーデンはそのホテルの広大な敷地の中にある。ホテルの横からガーデンまで、マイクロバスが往復しており、2、3分で行ける。「風のガーデン」は、フジテレビ開局50周年を記念して制作したドラマの題名であり、そのロケのために、2006年から2年かけてガーデンデザイナーの上野 砂由紀氏(1974年生まれ)によりガーデンがつくられた。
完成後、主演の中井貴一氏が演じるドラマがここで制作され、緒形拳氏も共演した。緒形拳氏は完成の2008年に急逝したことで、このドラマは有名になった。私達がガーデンの入り口に入ると、デザイナーの上野氏が花の中で仕事をしていた。彼女は新聞やテレビに時折紹介されているので、入場者で彼女を知っている人が多いようで、彼女に挨拶したり、握手を求めたりしていた。ガーデンの奥には平屋建ての小さなグリーンハウスがある。これはドラマのロケで使われた建物であり、その室内はドラマのセットが残されている。私はこのグリーンハウスをスケッチしようと思い、3Fのボードキャンバスを持ってきたが、時間がなかったので、この建物の写真を撮り、自宅で描いた。
帰りはホテルの前からバスで富良野駅に戻った。富良野発15時34分発の旭川行きに乗り、美瑛駅や遠くに雪が残る十勝岳や大雪山を眺めて、富良野線の美しい沿線風景を楽しんだ。旭川には17時2分に着いた。旭川駅は、2年前の11月に完成した近代的な立派な建物で、その内装は暖かみのある木材を多用し、外観はガラス張りである。建物は、忠別川の河川敷きと接しており、2階からの眺めは広々として、遠くには大雪山が眺められる。反対側の市街地は新しいビルが林立している。
今夜の宿泊は、広い駅前広場に面した「藤田観光ワシントンホテル旭川」である。料金は、1泊2食付きで、一人8000円。夕食は、1階のレストランで北海道産牛のステーキ料理であった。注文してから待つこと30分、やっと料理が一度に全部出てきた。私達は、ビュッフェスタイルの夕食を好んで食べているが、久しぶりに食べた注文料理は待ち時間が長すぎて辟易した。
人間は雑食動物である。雑食の要求を満たしてくれるビュフェ方式の料理は、何でも食べる人種にとって好ましい。さらに料理を待たずに食べられるのが良い。私は、ビュフェ食事の勧奨者であることを自認しており、もっとこの方式が広まって欲しい、と密かに願っている。
2013.9.10
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北海道の旅、3
旅の5日目は、旭川市から知床ウトロへの移動日である。この日は朝から生憎の雨であった。9時1分発の特急オホーツク1号に乗り、網走に12時46分に着いた。旭川駅からしばらく走った途中に、特急は上川郡上川町の上川駅に停車した。この町には、上川中学校に在学していた梨沙羅(たかなしさら)がいた。彼女は、有名なスキージャンプ選手である。高梨沙羅はこの町の出身である、という看板がプラットホームに立てられていた。今は夏だからジャンプ場など見られないが、冬はそのような雰囲気が味わえるのだろうと想像する。16才の彼女は、今は旭川市のグレースマウンテンインターナショナルスクールに在学しているため、この町にはいない。彼女の父は元ジャンプ選手で、兄もジャンプ選手であるというジャンプ一家で、この様な天才少女が生まれたのだ。
この特急の終点は網走駅である。私達は、ここから釧網本線に乗り換えて知床斜里駅まで行くが、乗り換え時間が50分あったので、駅構内の食堂で昼食をとった。この食堂は、駅弁などの売店も兼ねているので、私達は「かにめし弁当」を注文して食べた。注文すればすぐ出てくるので、時間を気にせずに食べられる。知床斜里駅に着いたのは、2時すぎである。私は予め予約していたレンタカーを駅の窓口で申し込んだ。予約はインターネットで行っているので、車種や料金などは予めわかっている。用意されたのは、マツダの新型2ドア車である。料金、7180円をカードで支払い、駅前に置いてあったその車に乗った。
私は、15年前に購入したトヨタのエスティマを未だ運転しているので、新型車のマツダは具合が少々違う。ハンドルの切れが良く、アクセルの反応も良いので、最初は戸惑う。カーナビは車体に埋め込まれている。私も2年前にカーナビを単体で買って、ダッシュボードの上に取り付けているので、その扱いには慣れている。15年前に比べると最近の車は便利にできている。雨が降ると、自動的にワイパーが動き出す。トンネルに入ると、自動的にヘッドライトが点灯する。これらは、車体にコンピュータ基板が組み込まれて、その指示で働くようになっているのであろう。私のエスティマは全て手動であり、電子基板はほとんどない。車の不具合があると、機械の得意な整備工が直してくれる。コンピュータ入りの最近の車は、修理するのにパソコンの知識が要求されるので、整備工は苦労するであろう。雨の中、今日の目的地であるウトロに着いた。
ウトロは、知床半島のつけ根にある漁港であり、海上から知床半島を観光する遊覧船の基地でもある。3年前は港のすぐ近くのホテルに宿泊したが、今回は港のすぐ後ろにある丘の上にあるホテル、「知床第一ホテル」に泊まる。車で坂道を上っていくとホテルが色々あり、目的のホテルを見つけるのに苦労した。4時頃そのホテルにチェックインした。私達は、雨が降っていなければ、半島の少し奥にある知床五湖へ行く予定であったが、雨が本格的に降っていたのであきらめた。ホテルの部屋は3階の海が見える部屋である。部屋には大きな窓があり、そこからウトロの港、オホーツク海、知床半島の一部が見える。
翌朝は幸いにも雨が上がっていた。9時過ぎにチェックアウト、1泊2食付きで、一人17500円を支払った。今日は、3年間自宅で育てた「どんぐりの苗」を知床の地に植樹する。NPO法人「知床自然学校」という組織が、知床半島の岩尾別という所にある。そこでは、「知床どんぐりの里親プロジェクト」を以前から立ち上げており、私達もそれに6年前に参加した。これは、知床のどんぐりを3個自宅に送って貰い、2年かけて育てる。育てたどんぐりの苗を知床の地に戻して、知床の森林造りに役立てようというプロジェクトである。1回目のどんぐりは3年前に苗を植樹した。今回は2回目である。3年前の11月にどんぐり3個を送ってもらい、冷蔵庫に入れて冬を越し、春にそれをポットに埋めて発芽させる。3個のうち1個が発芽し、順調に大きくなった。水やりなどの世話は妻が行い、妻は、苗に「トコちゃん」という名前を付けて、かわいがってきた。私達は、高さ30cmになった苗を古里に戻すために、飛行機に乗せて知床にやってきたのである。
自然学校の若い女性と、ウトロ港に近い「ウトロ道の駅」で待ち合わせた。植樹する場所は、3年前と同じ場所で、ウトロから車で15分ぐらいの国有林である。どんぐりの苗をエゾシカから保護するため、防護柵で囲まれた一画がある。そこには、多くのどんぐりの苗木が育っていた。3年前に植えた私達の「グリちゃん」は、雪の重みで枝が折れたが、横から新しく枝が出てきた、と女性が説明してくれた。「トコちゃん」はそこから少し離れた所に植えた。5年間、ここで無事に育つと、柵の外の土地に移植される。めでたく柵外に出されるのは、柵内にある若い苗木の三分の一だそうである。「トコ」がそれまで大きくなって欲しいと願う。苗木には名札を付けているので、機会があれば成長ぶりを見に来たい。私達はどんぐりの里親を今回で止めるので、自然学校の女性に2万円を寄付した。彼女は、防護柵が壊れているのでその修理に使いたい、と喜んでいた。
帰りは、知床斜里駅12時37分発の網走行きに乗る予定であるが、2時間近く時間があったので、釧網本線の浜小清水駅へ行った。この駅から隣の原生花園駅まで海岸沿いに原生花園がある。駅の近くには、ルピナス、エゾスカシユリ、スミレなどが、海からの強い風に吹かれて咲いていた。JRの駅に隣接して、「はなやか小清水」という道の駅がある。その店に、網走周辺の植物をスケッチした小さな植物画集が、1500円で売られていたので、それを買った。これには45種類の草花が描かれ、それらの花が咲く時期、集まる昆虫と動物が記号でしるされている。例えば「アキタブキ」はキク科の植物で、雪解けから5月初旬に花が咲き、ヒグマが好んで食べる、と記されている。私はこの植物画を見て、絵付け皿の絵を描きたいと思っている。
網走駅から13時29分発の特急オホーツク6号に乗り、札幌駅に18時47分に着いた。5時間以上の列車の旅は疲れる。今夜の宿泊は札幌駅隣の「JRタワーホテル日航札幌」である。このホテルは、改札口からフロントまで2分ぐらいであろうか、近くて便利である。広いフロントには、日航スチュワーデスに似た制服を着た女性社員がうろうろしていて、「私にできる手助けはないか」というような顔つきで、私達に近寄ってくる。彼女らは丁寧で親切である。私達はチェックインして、31階の3112号室に入った。この部屋は南向きに窓があり、下の方に札幌テレビ塔やサッポロドームが見える。夕食は、すぐ横のビルにある「菜蒔季」という自然食のバイキングレストランへ行った。私達は、このレストランにすっかり馴染みになっている。ワインもあるソフトドリンク込みで、一人2000円の料金は安い。ホテルに戻ったのは夜9時であった。
このホテルのバスルームは、洗面所とバスルームの間にガラスの仕切りがある。そのバスルームは、家庭のユニットバスのように浴槽とその横に体を洗うスペースがある。ホテルとしては珍しい広さである。翌朝の食事は、35階にある「SKYJ」というレストランで、ビュッフェスタイルの食事であった。このレストランは、北側を向いており、窓から北大のキャンパスがよく見える。10時半に一人朝食付きの料金、1.3万円を支払って、チェックアウトした。千歳空港から13時発の仙台行きの飛行機に乗り、自宅に18時頃戻った。
私はテレビ番組の「ネプリーグ」を毎週欠かさず見ている。問題の回答を自分でも考えてみて、当っていればうれしくなる。最近は「今でしょう」の流行語で有名になった、予備校国語の先生、林先生が答えの解説をするようになった。この評判が良いのか、他の先生も出るようになった。さらに予備校の先生達が回答者になって出演し始めた。彼らの答えが間違っていれば、スタジオは大喜びとなる。歴史の先生で、和服姿の金谷先生が出演するようになった。ある質問に、北海道と韓国では、面積はどちらが広いか、という問題が出た。金谷先生は北海道であると答えた。正解は韓国であった。テレビの画面に両者の地図が映し出されて、私も北海道だと思っていた。今回の北海道旅行で、札幌の観光バスガイドが、「北海道は、地図より実際は広い」という説明があった。それが記憶に残っていて、私は北海道の方が広い、と思ったのである。多分、金谷先生も、このバスガイドの説明を聞いたに違いない。
2013.10.10
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小野川温泉
小野川温泉は山形県米沢市の郊外にある。9月30日、私達はこの温泉へ1泊旅行に出かけた。泊まる旅館は「高砂屋」である。インターネットで調べて、この旅館は、100%源泉かけ流しの温泉が特徴であるという。この「源泉かけ流し」は、規模の大きなホテルにはほとんどなく、規模の小さな旅館にしかない。 私達は10時半に車で自宅を出発した。カーナビには、目的地を裏磐梯の先の白布峠に設定し、案内させた。カーナビの女性の案内は、白河ICの東北自動車道へ向かわせようと誘導するが、私は矢吹ICまで一般道を走った。案内の女性の声は、しきりに左に曲がれと指示する。その指示に従わないと、「ルートから外れました、リルートします」とうるさく言う。
東北自動車道に入ると、案内はおとなしくなった。郡山のジャンクションから磐越自動車道に入り、猪苗代磐梯高原ICで一般道に入った。ここから国道115号線を走り、途中から裏磐梯の檜原湖に向かう国道459号線に入る。私は、この道をカーナビ無しで数回走り、その都度、どこで459号線に入るか、不安であった。今回はカーナビの指示に従い、迷うことなく檜原湖に着いた。裏磐梯の檜原湖は、磐梯山の爆発でできた大きな湖である。この付近には猫魔ホテルや裏磐梯高原ホテルなどがあり、これらのホテルに数年前宿泊したことがある。私達は、高原の中心地から檜原湖に沿って、県道2号線を北上した。檜原湖から離れると、急な上り坂が続き、頂上付近の白布峠に着いた。ここは標高1400mで、眼下に檜原湖がみえる。ここから、カーナビの目的地の設定を小野川温泉にした。峠の先は、山形県の県道234号線になる。途中白布温泉を経て、小野川温泉に着いた。まだ3時前であったので、私達は米沢市内を一回りした。
米沢市からの帰り道、小野川温泉の手前に、新しい建物の店、「ウフウフガーデン」があったので、そこに入り、コーヒー付きロールケーキを食べた。この店は、地場産業である鶏卵の生産をしている会社が経営している。ケーキには卵がたっぷり入り、大変美味しい。高砂屋には16時にチェックインした。高砂屋の入り口は古風な黒色の木造であるが、奥は新築されて、明るい雰囲気になっている。部屋に案内したのは宿の主人で、丁寧に色々な設備を説明してくれた。この部屋の庭には専用の露天風呂があり、源泉がかけ流しされている。硫黄のにおいが少し部屋中に漂っていた。この露天風呂の浴槽は、大きな陶器で造られ、横には洗い場とシャワーなどが付けられている。私は面倒だからこの風呂には入らなかったが、妻は夜と朝に入って、満足していた。
夕食まで時間があったので、小野川温泉街を散歩した。この温泉街は、西吾妻山から流れる大樽川を中心に、両側の狭い平地にできた町である。夏は、ゲンジ、ヘイケ、ヒメホタルの3種類のホタルが飛び交うそうである。温泉は、1200年の歴史を持ち、湯量が豊富で、15軒の温泉宿全てが100%源泉のかけ流しという。一本の道路の両側に温泉宿や土産物屋が並んでいる。観光客はちらほら歩いている程度で、寂れた感じであった。通りから少し離れた所に、田んぼアートが見える展望台がある。八重の桜をテーマにした田んぼの絵を見ることができた。この絵は稲で描かれて、10月6日まで見られる。その後は刈り取ってしまうという。
夕食は部屋まで料理が運ばれて、そこで食べる方式である。翌日の朝食は比較的広い部屋で宿泊客が集まって食べる方式である。その日の宿泊客は私達を入れて3組であった。10時にチェックアウト、二人分、2.4万円を支払った。これには、夕食時飲んだ地元の高畠ワイン、ハーフボトル代、1000円が含まれている。帰りは米沢市の真ん中にある米沢城跡へ行き、二の丸跡の上杉記念館を見物した。米沢城は、NHKドラマ「天地人」で知られた直江兼続が城主になった時代があった。その時、会津には120万石の上杉景勝がいて、その重臣が直江であり、米沢城は30万石の規模であった。そのような関係で、ドラマ「八重の桜」の戊辰戦争では、米沢藩は奥州列藩同盟に加わり、会津藩とともに幕府軍と戦うことになった。
上杉記念館は旧上杉伯爵邸で、庭園は浜離宮を模して造られている。記念館の前にその大きな庭があり、自由に入れる。池には大きな鯉が悠然と泳いでいた。記念館は大きな広間で食事ができるが、予約制である。玄関のすぐ右隣は洋室で、茶房になっているので、そこでケーキとコーヒーを食した。この部屋は、昔訪問客の控え室として、使われていたのであろう。門から玄関までの景色が、広いガラス戸から眺められる。大広間は和室で、庭全体が眺められる。この建物は米沢市が所有しており、一般に公開されている。当日はお茶会が催されていた。
帰りは国道121号線で喜多方市へ向かう。この道は、行きの県道に比べ、広くて急な坂がないので走りやすい。県境付近は右手に標高1600mの飯森山があり、そこから下り坂で、多くのトンネルを通って喜多方市に着いた。私は、カーナビに「幸楽苑」を目的地に設定していたので、ラーメン店の幸楽苑へ簡単に行くことができた。カーナビのありがたさがよくわかった。幸楽苑は福島県で有名なラーメン屋であり、テレビなどでもよく取り上げられる店である。私は、この店のラーメンを一度食べたいと思っていた。食べてみてその味は、びっくりするほどの旨さではないが、美味しい。その店から会津若松市を通り、磐越道と東北自動車道を利用し、白河ICから棚倉町経由で自宅に戻った。
話は変わるが、今年は台風の当たり年である。9月の台風18号は愛知県に上陸し、私が住んでいる矢祭町の上空を通過した。台風は陸地に上がると勢力は弱まる。東北地方では温帯低気圧になって通過したので、風の影響は全くなかった。台風が通る前日に大雨があり、矢祭町を流れる久慈川が一部氾濫した。氾濫した箇所は堤防がないところである。昔堤防を築く際、地元の農家は自分の農地が削られるのをいやがって、国に堤防を造らせなかったと言われている。その部分が数百メートルあり、その対岸は立派な堤防がある。久慈川は、大雨でも滅多に氾濫しないことを、土地の人達は知っているのであろう。今回の大雨では、堤防のない部分から水があふれて、田畑に水が少し流れ込んだ。この農地が、一種の広い河原の役目をして、久慈川の増水を緩和するのに役立っている。民家は、近くにはなく、少し離れた所の高台に建てられている。
我が家ではこの大雨の影響は全くなかった。普段静かな流れである庭の前の沢水が、大きな音を出して流れていた程度である。流れる水は泥流でなく、澄んだ水であったので、私は安心して眺めていた。10月には台風26号が日本にやってきた。これは日本に上陸せずに、太平洋側の陸地をかすめて東へ抜けていった。台風は上陸しないと勢力は衰えない。そのため我が家にも強風が吹き荒れた。風速30mぐらいはあったであろう。柿の木が一本折れた被害がでた。我が家には柿の木が3本あって、他の2本は無事であった。残った2本の柿は今年は実がなる年で、両方で50個ぐらいの実が付いた。多すぎるので、30個ぐらいを摘果した。
実りの秋のならわしとして、我が家では柿の実が赤くなると、一個ずつ獲って、食べることにしている。私は年のせいか、半分の柿を食べても、胃に応えるようになった。そのため、私は柿を小さく切って、プレーンヨーグルトと混ぜて食べている。これなら胃に負担はないようである。
2013.11.10
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奥只見湖観光
奥只見湖は、福島県と新潟県の県境にある奥只見ダムによりできた人造湖である。この奥只見ダムは電源開発会社が1961年に完成させた。このダムは、有名な黒部ダムと並ぶ規模のダムであるが、世間には余り知られていない。只見という地名は、福島県の只見町からとったようで、このあたりの地域は只見地方と言って、テレビの天気予報に出てくる。福島県では豪雪地帯として知られているが、秋の紅葉も有名である。私は、一度紅葉の季節に行ってみたいと思っていた。奥只見湖は、国道352号を通る檜枝岐村から約50km奥にある。檜枝岐村は、尾瀬に行くときに通る村で、私は、3、4回行ったことがある。今回は1泊のバスツアーを利用しようと思う。
新聞のチラシに、福島交通観光が企画した、奥只見湖遊覧船と新潟県の大湯温泉をセットにしたツアーがあった。私は、10月28日発のツアーに申し込んでいた。応募者が6人しか集まらないので、ツアーを中止した、という電話があった。福島県では、この場所はすでに観光した人が多くて、人気がなかったのであろう。私は行く気になってしまったので、他のツアーをネットで調べた。クラブツーリズム社の10月29日発のバスツアーを見つけることができた。このツアーは、奥只見湖、谷川岳、八海山、苗場山の紅葉を1泊2日で見るツアーである。宿泊は樺野沢温泉で、1人19,900円の料金である。福島交通観光のツアー料金は同じ1泊2日で3万円弱であったので、クラブツーリズムは安い。
3カ所の山には、それぞれロープウエーがあり、それに乗って山の紅葉を楽しむ企画になっている。それらのロープウエー料金は、ツアー料金に含まれていないので、各自支払う。奥只見湖では遊覧船に乗るオプションが組まれていて、それに参加するのに別料金(1100円)が必要である。これらのオプションに参加すると、1万円の料金になるので、福島観光交通の料金とほぼ同じになる。当日天気が悪ければ、オプションに参加しなくても良いので、このオプション制度は合理的である。結果的にこの両日は天気が良かったので、私達は山のロープウエーには全部参加した。奥只見湖の遊覧船には参加しないことにした。このバスツアーは参加者33名で、3週間まえから催行が決まっていた。東京発のツアーは、人口が少ない福島県に比べ、容易に参加者が集まる。
ツアーの初日は渋谷駅前に8時半集合であり、2日目の到着は渋谷に18時到着である。このため、私達は渋谷にホテルを予約した。私達は、前後泊を含めて、3泊4日の旅行になった。福島交通観光のツアーは、郡山発着で、時間が同じように早い出発、遅い到着であるので、郡山に宿泊しなければならない。その費用を含めると、東京発も郡山発も同じ費用となる。宿泊したホテルは、JR渋谷駅から歩いて2分の渋谷東急ホテルである。このホテルは、ハチ公側にあり、ツアーの集合場所の渋谷クロスタワーはホテルから歩いて5分ぐらいであるから、便利がよい。ホテルに3時にチェックインした。久しぶりに映画を見ようと思い、道玄坂の渋谷TOHOシネマズへ行き、私は「風立ちぬ」を見、妻は同じビルの「そして父になる」を見た。シニア料金千円は安くて助かる。シニアの証拠に、私は運転免許を示した。妻は証拠を持っていなかったので、生まれた年を窓口に告げると60才以上と了解された。若い窓口の女性は判断が速いのに感心した。田舎とは違う。
翌日は7時に朝食のバイキングを済ませ、8時にチェックアウトし、2人分1.7万円を支払った。8時半に蒲田からやってきたバスに乗った。参加者は33名で、ほぼ満席である。席は指定され、私達は最後部に座った。バスは首都高から関越道に入り、赤城高原SAで休憩、「まいたけ弁当」が配られた。このサービスエリアは見晴らしが良く、赤城山、榛名山などの山々が眺められる。月夜野ICから国道17号に入り、三国峠を越えて、苗場スキー場に着いた。このあたりの山は紅葉が始まったばかりである。バスは苗場プリンスホテルから「ドラゴンドラ」というロープウエーの山麓駅へ行った。そこから日本一長い、5500mのゴンドラに乗った。このゴンドラは、山の合間あるいは谷底への上下を繰り返して、標高1350mの山頂駅に到着する。この間の眼下に眺められる紅葉は色とりどりで美しかった。私は、このような贅沢な紅葉見物は初めてであった。
山頂駅付近は、たしろ高原といって、ちょっとした広場になっていて、360度の山々が見渡せる。当日は好天に恵まれて、苗場山、谷川岳、三国山、駒ヶ岳などがみられた。眼下にはターコイズブルーのきれいな田代湖が見えた。帰りのロープウエーは、私達2人だけの空中散歩になった。下りは急な傾斜があってスリルを味あわせてくれる。眼下には二居湖に流れ込む清津川の渓流があり、その渓流のすぐ上までゴンドラが降りる。すばらしいパノラマであった。この様な景色が堪能できるロープウエーがあったとは知らなかった。ゴンドラの麓駅の標高は940mで、ここからの眺望もよいが、山頂に比べると半分の視界しかない。参加者全員がロープウエー代金、一人2000円を支払って山頂までの往復を楽しんだ。
バスは国道17号に戻り、約50km北上した南魚沼市の八海山の紅葉を見に行った。ここでも八海山ロープウエーに乗る。山頂駅は標高1150mであり、大型のロープウエーが往復1800円の料金で運行している。10台ぐらいの団体バスが駐車場にあり、それぞれの団体客がこのロープウエーのゴンドラに乗るので、麓駅には行列ができた。ゴンドラには一度に80人が乗れるので、待ちくたびれることはない。山頂駅からさらに50mぐらい登ったところに展望台がある。ここから妙高山、北アルプスの山々、さらに佐渡島まで見える。八海山は、8個のこぶのような峰が並んでいる山の総称で、標高は1700m前後である。私達は展望台でのんびり景色を眺めていたら、集合時間が間近になり、あわてて下りのゴンドラに乗ろうとした。他のツアーが似たような集合時間を設定しているので、多くの人が順番を待っていた。そのため集合時間に30分遅れてバスに戻った。
今夜泊まるホテルは約40km南下したJR塩沢駅近くの「ホテルグリーンプラザ上越」である。この近くには上越国際スキー場がある。このホテルの外観は、木組風に造られ、4階建ての棟が3棟並んでいるので、遠くから見てはっきり分かる。ホテルには樺野沢温泉が出る大浴場が2カ所ある。客室は630あり、団体客専用のホテルの感じである。駐車場にはバスが10台ぐらい並んでいた。これらのバスは、よく見てみると、クラブツーリズム専用のバスや近畿ツーリストのバスである。私達が乗っているバスは、クラブツーリズムがチャーターした「中央バス」である。これらのバスは、紅葉観光のため、私達と同じルートを回っているようである。関西から来た団体もいるようで、派手な服装をして関西弁を喋る中年の女性が多くいた。
我々のツアーの参加者は33名で、全員60〜70才代の男女である。ツアー日が月曜と火曜日であるから、退職者を対象にした企画であろう。東京発のこのツアーには、関東地方に住んでいる人達が集まっているようである。私達のように田舎から出てきて参加した人もいるかもしれない。1泊2日の短い旅であるから、参加者の紹介は全くなかった。観光地では他の団体と混じって行動するので、参加者同士が会話することはない。昼食は弁当が配られ、バスの中で黙々と食べる。ホテルの夕食は、大きな会場でのバイキングで、参加者は決められた時間に会場に入る。そこではホテルの案内人が空いた席に案内してくれるので、参加者はばらばらに席に着く。
翌日の行動でも参加者同士が会話する機会がなく、私もその努力をしなかった。都会生活に慣れた人達が多くいて、同じバスに2日間一緒になっても、隣の人に無関心である。都会の人は、話をしてプライバシーに立ち入ることをしたくない、という配慮を自然に身につけているのであろう。ただ、天気がよいとか、寒いねなどの差し障りのない会話はあった。私はバスの中で、都会生活の雰囲気に浸ることができた。
2013.12.10
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春うらら、都知事
昨年の暮れ、猪瀬東京都知事が辞職した。徳洲会から5千万円を受け取ったのは選挙資金か? が問題になった。都議会での追及で、彼は粘り負けし、辞職に追い込まれた。その真相は分からないままである。5千万円を彼自身が取りに行って、鞄に詰めて帰ったなど、詳細なことがテレビで放映された。本人がのこのこ出て行って、金を受け取るのは素人のやり方である。この様な金は、猪瀬氏以外の名義の銀行口座に振り込ませるのが政治家としての手法であろう。彼は、政治家としてプロではなかった。彼は腹心の秘書を設けて、全ての金のやりとりはその秘書に任せるべきであった。疑惑のあった小沢一郎氏は、秘書にやらせて、秘書の責任にして、本人は知らないことにして、政治家を続けている。世の中の政治家は、多かれ少なかれ金を受け取って、それが発覚しないように工夫しているのが現実であろう。政治家はそのようにして裕福になり、権力を築いている。
昨年の12月の国会で、特定秘密保護法が自民党の強権採決で成立した。国民を巻き込む大きな話題であった。特定秘密の定義が不明瞭で、政府は外交と防衛に限定しているとは言っているし、安倍総理は国民には迷惑をかけないと言明している。マスコミは、「その他」の項で範囲は無限に広がり、一般国民はつんぼさじきにされる可能性があると指摘している。法律に、情報公開法というものがあり、秘密と思われる情報も公開の義務があるが、この特定秘密保護法により情報公開法は事実上消えてしまいそうである。マスコミ各社の世論調査で、国民の過半数はこの保護法に反対している。何故、多数の反対にもかかわらず、政府は強引に法案を成立させたのか。
この法律は、一部の政治家の懐を豊かにし、自民党政権を堅固なものにする効果がある、と私は考えている。特に、防衛産業から政治家への贈賄あるいは政治献金が増大するであろう。将来、これらの金の流れはマスコミで検知出来なくなる。これは、政治家にとってこの法の有難味である。本来なら賄賂を受け取った政治家は罪に問われるが、それがなくなるのである。私が一番心配しているのは、この保護法により内部告発する人がなくなることである。今まで内部告発により、多くの不正が明るみにされ、マスコミに報道されてきた。例えは少し違うが、我々が日常食べる食品に不法な添加剤が入れられているとすると、これは消費者には全く分からない。内部告発によりのみ、我々はその事実を知ることができる。この告発した人は会社からにらまれ、辞職を余儀なくされる。さらに特定秘密保護法が適用されれば、その人は犯罪者になる。公益通報者保護法というのがあるらしいが、この法が適用されている例はないようである。特定秘密保護法により、公益通報者保護法の適用はなくなってしまうであろう。
本来、国は秘密を作ってはならない。しかし、国の利益あるいは防衛のため秘密を作らざるをえない。この秘密が情報公開法により公開された場合、この秘密は秘密でなくなる。そのため、国は危機に立たされるので、特定秘密保護法を成立させたのだ、と政府はいう。国民はなるほどと納得するであろう。この法律の裏には、政治家あるいは地方役人の金儲けの道が開かれているのに気づかなければならない。特定秘密保護法を廃案にするには、3年後の衆議院選挙で野党勢力が優位に立つ必要がある。今、選挙があれば自民党は敗退する。しかし悲しいかな、3年後、国民はこの法の存在も忘れてしまうであろう。自民党の優位は変わらないかもしれなし、日本の富は一部政治家と軍事産業の経営者に集中する。日本は、貧富の格差が中国並みになるであろう。
2014年4月から消費税が8%に増税される。その前に駆け込みの需要が発生し、4月以降は景気の落ち込みがひどくなるであろう。私が住んでいるこの片田舎でも、あちらこちらに新築の家が建てられているのが目に付く。我が家では大きな買い物はないので慌てていないが、消費税が価格とは別表示になるのが困る。消費税込みの価格であれば、買い物の計算がしやすい。4月から、消費税が別に請求されると、余分に金を取られた感じがしてしまう。消費税込みの表示であれば、売る側は、急に値段を上げると印象を悪くするので、値段を抑えざるを得ない。その結果、売る側が増税分を負担することになる。この様な販売側の不利益を解消するために、政府は外税を勧めているのであろう。
我が家では、去年からブームになったノンフライヤーという調理器を購入した。フィリップス社が独占で売っているので、定価の2.9万円は、値引きがほとんどない。ネットで調べると、2.2万円で売っている店があったが、在庫がないので出荷の日時は不明としていた。私はすぐに欲しいので、2.6万円で売っていたケーズデンキの通販で購入した。油を使わずに揚げ物ができるというので、ポークカツレツと鶏肉の唐揚げを作ってみた。出来上がりは宣伝通り、表面はカラッとして、中はジューシーであった。この調理は、素材の脂肪分を高熱で融かして、それを熱風で循環させて唐揚げとするものである。脂肪の少ない魚もレシピにあったので、本当に出来るのか試してみたい。日本のメーカーはすぐ類似品を作り、半値ぐらいで発売するのが常であるが、このノンフライヤー相当品はまだ売られていない。フィリップス社の特許が広くカバーされているのであろう。
昨年、私はドライブレコーダーを車に取り付けた。これは、レコーダーをフロントガラスに取り付け、走行中の動画が全て録画されるものである。レコーダーは、一種の手のひらサイズのデジカメであるが、車のシガーソケットから電源を供給するので、エンジンをかけているあいだ中、デジカメは働く。記録はSDカードに記録され、メモリーの容量がなくなると、自動的に最初から上書きされるので、手間はかからない。今までドライブレコーダーといえば大げさで、一台4万円ぐらいであったが、ユピテル社が発売しているものは、7千円であったので、私はそれを購入した。事故があったとき、状況証拠として使えるのではないかと思っているが、私は別の用途でドライブレコーダーを装着した。
私は写真を見て油絵を描くことにしている。時折、車で走る道からの風景を描きたいと思うことがある。その時、車を止めて車内から写真を撮るのは危険であるから、このドライブレコーダーを利用しようと思ったのである。ドライブレコーダーのSDカードを取り出し、パソコンで再生させ、興味ある構図があれば動画を停止させ、1枚の写真とすることができる。最高の画質で撮った映像でも、動画からの映像はぼけてしまう。ある日、車を走らせていると、追い越し禁止車線にもかかわらず、私の車を追い越して走った車があった。私は家に戻り、この映像をパソコンの画面でみると、反対車線を追い越して走る車がしっかり映っていた。車のナンバーを拡大して見てみたが、ぼけて何も分からない。はっきり映っていれば、違反車として警察に提供しようと思っていたが、これでは役に立たない。
私は、ドライブレコーダーはあきらめて、デジカメで撮ろうと考えた。デジカメは、フロントガラスに粘着材で固定した「取付け具」に取り付ける。そのためデジカメの重さは100g程度が限界である。ネットで探して、ニコンの手のひらサイズのデジカメを見つけた。これは液晶画面をタッチしてシャッターが切れるので、好都合である。運転しながら手を伸ばして、ちょっと触るだけで写真を撮ることが出来るので、理想的なデジカメだと喜んでいた。実際に車に装着して試してみると、このカメラはエコ仕様になっていて、3分間放っておくと、カメラがOFFになる。その都度、ONに戻してスタンバイしなければならない。この操作で運転がおろそかになり、危険を感じた。私は、このカメラの使用をあきらめた。
私の求めるデジカメは、重さが100g程度、ONの状態で自動的にOFFにならない、シガーソケットから電源が取れる、リモコンでシャッターが切れる、の4点を満たす機能を備えているものである。これらの個々の機能は特別なものではなく、それぞれ単独に機能を持ったデジカメは、すでに売られている。しかし、この4点の機能を全て備えたデジカメはない。これは使用目的が一般的でないためであろう。私が求めるデジカメをメーカーで発売して欲しい。
2014.1.10
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奥只見湖観光2(金谷紘二)
2013年10月29日、私達はクラブツーリズム社が企画した渋谷発の奥只見湖観光バスツアーに参加した。1日目の苗場山、八海山の観光については12月号に記した。今回は、2日目の奥只見湖と谷川岳の観光について述べる。1日目に宿泊した、南魚沼市にある樺野沢温泉のホテルから、バスは出発して、新潟県と福島県の県境にある奥只見湖に向かった。バスは、関越道の小出ICから国道352号に入り、途中から奥只見ダム建設のために造った道路を走った。この道は、奥只見シルバーラインと呼ばれ、全長22kmで、そのうち18kmがトンネルである。トンネルは19カ所あり、トンネルの入り口には番号が付けられている。一番長いトンネルは11kmである。行けども行けども暗いトンネルなので、車で走る人は、不安になり、途中でUターンして戻ってしまう人がいるという。トンネルの途中にT字路があり、そこを右折すると、銀山平という平地に出る。すぐ近くに奥只見湖遊覧船待合所がある。ここからツアーの参加者は、遊覧船に乗って奥只見ダムサイトまで70分の船旅を楽しむ。
私達夫婦と別の夫婦の4名は遊覧船に乗らなかった。私たちが遊覧船に乗らなかったのは、もし船が沈没したら、私は泳げないので、水死するのは確実である。一方、泳ぎの得意な妻は生き残る。旅の途中で死に別れるのはいやだと、妻は言う。そのため船には乗りたくないと言うので、私もそれに従った。船に乗らない4名はバスに乗り、再び長いトンネルに入り、出口の奥只見ダムサイトへ行った。シルバーラインはここまでで、この先は行き止まりで、抜け道はない。私達は、ここで遊覧船に乗った人達と合流することになる。広いバス駐車場には土産物店が3軒ほどあり、そこから少し上がった所にダムがあり、遊覧船の発着場がある。奥只見湖は、只見川をせき止めてできたダム湖である。そのため、樹木が水面近くまであるので、紅葉が水面に映ってきれいである。遊覧船に乗らなくても、このような風景はこのダムサイトからでも堪能することができる。しばらくして遊覧船が到着して、私たちと合流した。
バスは、長いトンネルが続くシルバーラインを戻り、関越自動車道に入り、石打湯沢ICから湯沢町に降りた。丁度昼頃で、湯沢町の土産物屋にバスは横付けされた。店の人たちは喜んで我々を歓迎する。店の前の池には夥しい数の錦鯉が泳いで、いい見世物になっていた。バスに戻ると、クラブツーリズム社からのプレゼントが添乗員から配られた。昼の弁当のほか、新潟の地酒1合、魚沼のコシヒカリ2合、かきの種のおつまみである。バスツアーで、このようなプレゼントを貰ったのは初めてである。私は、バスの中で地酒を飲みながら、魚沼産コシヒカリ弁当を食べた。バスは、東京方面に向けて再び関越道を走り、水上ICで降りて、国道291号を土居方面に向かった。国道の行き止まり近くの谷川岳天神平スキー場までやってきた。参加者は、そこから谷川岳ロープウエーに乗り、さらに天神峠観光リフトで天神峠へ向かった。ロープウエーから眺める木々の紅葉は丁度見頃であった。
この天神峠観光リフトは、スキーリフトの2人乗りで、地面の近くを登って行くので、周囲の紅葉の景色がすぐ近くに観賞できる。終点の天神峠駅は標高1500mで、展望台からの眺めはすばらしい。ここからは、関東平野の赤城山、吾妻耶山などが見られ、遠くには富士山まで見えると言うが、この日は霞んで見えなかった。この天神峠から尾根伝いに谷川岳(1977m)、一の倉岳、茂倉岳などに行ける。これらの山の一部が近くに見えて、大変迫力があった。この尾根を登山スタイルで谷川岳方面から戻ってきた人達が数人いた。彼らはのんきな顔をして、疲れた様子もない。雪がなければ、尾根伝いに標高差480m登れば谷川岳に登れるので、人気のあるルートなのだろう。毎年冬のシーズンは、麓から登る一の倉沢での遭難事故は多い。その現場は天神峠からは見えないが、この近くであろう。
山の天気は急変する。峠の展望台でのんびり周りの景色を楽しんでいたら、谷川岳方面から黒い雲が現れて、雨が降り出した。すぐやむかとリフトの駅で待っていたが、止みそうにないので、傘をさしてスキーリフトで降りることにした。途中、眼下に鮮明な虹が架かっているのが見えた。七色が識別できる虹を間近にみるのは久しぶりである。参加者が集合して、バスは帰途についた。雨は止むことなく、バスが水上ICに入るまで降り続いた。バスは、関越道を東京に向かって帰途につく。今回のツアーの添乗員は、30才前後の女性である。外国のツアーでは添乗員の他に、土地のガイドが付いて色々説明してくれるが、国内では添乗員だけであり、彼女がガイド役を兼務する。
今回の女性乗務員は添乗員業務に専念し、ガイドは不得手のようであった。彼女は、しゃべり方が早口で不明瞭な語尾であったので、後ろに座っている人達はほとんど聞き取れなかったようである。私達は1日目は最後部に座り、聞き取れなかった体験をし、2日目は最前部に座ったので、よく聞き取れた。参加者は、70歳前後の年配者がほとんどであるので、聴力は衰えていて、聞く力も衰えている。後ろに座ったほかの人に聞くと、言葉が聞き取れないと困っていた。この女性添乗員は、重要なこと、例えばバスに戻る時刻などは、大きな声で3回繰り返していたので、その職務はしっかり果たしていたのであろう。谷川岳などの観光地の説明は早口で済ましてしまう。バスが関越道から首都高に入る頃、この女性は携帯を使ってしきりに渋滞の情報を取って、運転手に報告していた。そのお陰でバスは予定の到着時刻前に着くことが出来た。彼女はその様な業務に力を入れているのだ。
その夜私達は、前泊した同じ渋谷東急インに、19時にチェックインした。指定された13階の1309号室は、このホテルとしてはスイートルーム級の部屋であろう。広い部屋にソファーの応接セットがあった。この部屋は、空いていたから案内した、とフロントは言っていた。夕方遅く入り、翌日すぐチェックアウトするにはもったいない感じであった。翌日、1泊朝食付き1人9000円を支払ってチェックアウトした。その日は午後に東京駅から高速バスで帰るので、午前中は時間が余っていた。私達は、ターナー展が開かれている都立美術館へ行った。
ターナーはイギリスが誇る有名な画家で、日本にも多くのファンがいる。このターナー展は、全部で116点の作品がテート美術館から運ばれた大回顧展である、と新聞などで宣伝されていた。会場には多くの人達が詰めかけ、作品の前に行くのが困難な状態で、私は人垣の後ろから背伸びして眺めた。多くは高齢者で、中には車いすでやってきた人とか、腰を曲げて杖をついてやってきた人がいる。この人達はすべて女性である。これらの人達は絵を見るのに大変苦労したはずである。
ターナーの絵は日本では女性に絶大な人気がある。人気の秘密は、穏やかな色彩と空気遠近法の風景が、見る人を和ませてくれるからであろう。特に風景画は、空の景色がキャンバスの半分以上を占めて描かれているので、絵の世界に入り込みやすい。ゴッホなどの風景画は、空の部分が狭く、強烈な色彩が施されているので、強烈な印象を与える。ターナーの絵は、その場の印象がよく、しかしすぐその絵は記憶から消えてしまう。彼の絵は日本画的であるのが、日本人に人気があるのであろう。
美術館から出たのは丁度12時で、昼食の時間である。上野公園のこの辺りで食事処を探すのは骨が折れる。美術館内にレストランはあるが、満員である。近くのレストランも、待っている客が大勢いる。美術館の前に東京文化会館があり、その横に「HIBIKI」というカフェを見つけた。そこは席が空いていたので入った。出来合の菓子パン類がケースの中に並び、それを選択して、コーヒーと一緒にトレーにのせて、空いた席に着く。席は、文化会館の入り口ホールが上から眺められる所に造られていた。のんびり食事をすることができたが、ミルクパン1個280円、チョコレートラテ1カップ450円、計730円の軽食は値段が高い。先日、私は、東京駅八重洲南口のマクドナルドで、チキンクリスプ100円とコーヒーSサイズ100円、計200円の昼食を食べた。この様な安い昼食は初めてで、しかし私にはこれで十分であった。
2014.2.10
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2月の大雪
2014年2月8日は朝からの吹雪で、翌日は30cmの積雪になった。西からの強い風で雪は吹きだまりをつくり、その場所は50cmを越えていた。このような積雪量は、私がここ矢祭町に来て初めてである。雪の質はさらさらで軽かったので、除雪には楽であった。何しろ量が多いので、除雪した雪は、各所に山のように積み上げている。この雪が溶けるまでには、1ヶ月かかるかもしれない。私が住んでいる宅地は高台にあり、東側が山になっている。我が家はその山のすぐ下にあるので、西からの吹雪が山に当たり、庭や道に吹きだまりを造った。そのため車庫の前の道路は50cmの厚さである。スタッドレスタイヤを付けても、50cmの厚さでは車は動かせない。10cmぐらいなら、なんとか車は動かせる。私は朝から雪かきで忙しかった。
2月14日にも雪が降り、その翌日には20cmの積雪になった。しかし朝から雨に変わり、雪は溶けて、10cmぐらいになった。今度の新しい雪は、水分を多く含んでいて、日中の7℃程度の気温で、自然に溶けたようである。この雪は、関東地方で大きな被害を与えた。幹線道路の積雪で、車が立ち往生し、2日も動けなくなり、運転手達は近所の施設などへ宿泊するなど、「雪害難民」の感じであった。各所の道路が雪や雪崩のため通れなくなり、部落が孤立するところも多数でた。停電も各所であり、家庭では暖房器具が使えなくなり、困った様子がテレビに映し出されていた。最近の灯油暖房器具は、電気がないと動かないので不便である。我が家では、電気がなくても灯油で暖房ができる、40年前に買ったイギリス製「アラジン」を非常用に持っている。幸い当地域では停電がなかったので、その出番はなかった。このアラジンは、灯油さえあれば、器具の上で煮炊きができるので、重宝するであろう。
福島県の中通り地域では、この雪は観測史上最高の積雪量であることが報じられた。翌日の15日も中通りでは、雨にはならず、雪が降り続いたため、白河市では75cm、福島市で50cmなどの積雪量であった。福島県の会津地方は積雪に慣れているので、50〜100cm程度の積雪は毎年のことであるから、大きな被害はない。中通りは、20〜30cmの積雪は毎年経験しているが、今回の積雪量は初体験であったので、除雪が大幅に遅れた。路線バスが動かなく、各学校は休校にされ、企業も休業を余儀なくされていた。中通り地方は平野部であるので、雪崩による道路の不通はない。会津地方は山間部であるので、雪崩の危険性はあるが、今回の大雪でも雪崩による道路の遮断はなかった。関東北部でニュースになった部落の孤立は、福島県にはない。
我が家の庭や前の道路は、14日の雪はほとんど消えてなくなったが、8日の雪はまだうずたかく残っている。毎日の最低気温はマイナス3℃程度であるので、午前中は雪が凍って雪かきができない。日中は5〜8℃になるので、午後2時頃から雪かきをすることにしている。この時間になると、地面と接している雪は溶けているので、雪の塊として除雪できるが、重いので腰に負担がかかる。我が家には雪かき用のスコップ類が4本ある。スチール製、アルミ製、プラスチック(ポリカーボネート)製およびABS製である。先端は全てフラットであり、これらは目的に応じて使い分けている。アルミ製はスチールより軽いので2年前に購入した。去年、これで重い雪の塊を持ち上げた時、アルミがゆがんでしまった。これでは使い物にならないので、L字型のアルミ棒で補強した。金属製は補強などができるのでよいが、プラスチック製は壊れると補強のしようがない。ABS製のスコップは、プッシャーラッセルと呼ばれるもので、雪を持ち上げることなしに、ブルドーザーのように、雪を押して移動させるのに使う。
今回の大雪は、南岸低気圧の日本列島への接近によるとされた。東シナ海で発生した低気圧が発達して本州に近づき、雨をもたらすもので、大陸の寒気団と接する所では雪になる。大陸の高気圧が優勢であれば、南岸低気圧は日本に接近してこない。今回は寒気団の勢力が弱かったので接近したのであろう。春の「どか雪」は、毎年3月頃にある。これは大陸の高気圧が退き、太平洋高気圧の後押しがあって、低気圧が日本にやってくることによるものである。この「どか雪」は、冬が去って春が来る季節の節目になっており、今回の大雪とは違うようである。春の「どか雪」は当地でも、毎年数回経験している。当地の「どか雪」は、日差しが強く、気温も10℃前後まで上がるので、雪はすぐ溶けてしまう。この溶け方は、今回の大被害をもたらした大雪と違うところである。
我が家の庭の雪は2月末になっても健在である。雪の下の大地では、植物たちが春の目覚めの準備を始めている。土地は雪でカバー(保温)されているので、大気の寒暖の影響を受けずに、植物は春を待つことができる。2月の半ば、我が家で芽が出てくるのは、クロッカスと水仙である。福寿草も早いが、福寿草があるところはまだ雪が被さっているので確認できない。雪が溶けて3月になると一斉に植物の活動が始まる。庭には3本の梅の木がある。このうちの白梅は、2月の初めから枝につぼみをふくらし始め、数も多い。今年の白梅は賑やかになるであろう。白木蓮も1月あたりから花のつぼみを持ち始めていた。東北の春は、色々な花が一斉に咲き始めるのが特徴である。冬の間の庭は、木枝の茶色一色で殺風景であったが、3月末から華やかなピンクや黄色の花が咲き始まる。
話は変わるが、3週間前、私は足の指に大きな水ぶくれを見つけた。この水ぶくれは急に大きくなり、直径2cmぐらいになったので、私はびっくりして皮膚科の医者に診せた。医者は、原因が分からないようで、塗り薬をつけただけで、しばらく風呂には入らないようにと注意した。私は、水ぶくれが出る前の2日間、新しい2足のソックスをそれぞれ履き、1日中、靴を履いていた。私は、靴を履いて1日過ごすことは最近滅多にないので、この新しいソックスが水ぶくれの原因であろうと考えた。足をよく見ると、両方の足の上部が赤く腫れ上がっていた。この水ぶくれは、おそらくソックスの繊維に付着していた化学薬品による薬害であろう。ソックスは中国製で、原糸も中国製であろう。原糸は染色されているので、薬品による処理がされているはずである。今回はソックスを買った後、すぐ履いたので薬害を受けてしまったようである。私は、一度洗濯をしてから履くべきであった、と後悔している。水ぶくれと赤い腫れは、3週間でやっと元通りになった。
薬害と言えば、昨年発覚したカネボウ化粧品による肌の白斑被害を思い出す。その患者は、昨年10月の時点で15000人となっている。平成23年、山口県の皮膚科医がこの白斑の症状を見つけた。彼は2人の患者の症状に類似性があるとみて、色々調べた結果、白斑の原因が化粧品「レサージ」に含まれるロドデノールであることをつきとめた。この医師の適切な行為により、レサージの有害性が判り、被害の拡大を防ぐことができた。多忙な診療中に、この様な事実を見つけだした彼の行為は賞賛されるであろう。
我が身に起こった足への薬害は、当地の医師の見立ては曖昧であり、塗り薬(マイザー軟膏)で処置をした。この医師は主力が内科のようであり、私の水ぶくれには、あまり興味を持っていないようであった。私のような症状を訴える患者が数人発生したなら、彼も黙ってはいなかったかもしれない。カネボウの白斑症状は女性の大切な顔が患部であり、一方私の方は、老人の足の先であるので、その社会的問題性は比べものにならない。私のような特定のソックスを履いて、激しい水ぶくれを起こした人が大勢いることが明るみに出たなら、それはニュースにはなるであろう。そのニュースを担当した記者が専門家にコメントを求めるとしたら、その専門家は、「新しく購入したソックス類は履く前に必ず洗濯をして下さい」と述べるであろう。このコメントだけで、この薬害の終止符は打たれるであろう。
2014.3.10
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ラファエル前派展
2月22日は妻の誕生日で、私達は、毎年この日の前後に1泊旅行に出かける習慣になっている。今年は、六本木の森アーツセンターで開かれている「ラファエル前派展」と、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開かれている「シャヴァンヌ展」を見に出かけた。宿泊予定の2月23日は、東京マラソンが行われることになっていたので、値段の安い都内のホテルはどこも満員で、予約が取れなかった。横浜のホテルは空いていたので、予約することができた。予約したホテルは、横浜ベイホテル東急である。このホテルは、みなとみらい線の「みなとみらい駅」からビルの中を通って行けるので、便利である。みなとみらい線は、東横線と乗り入れ、中目黒駅から地下鉄日比谷線に通じている。六本木の森アーツセンターは、日比谷線の六本木駅の近くにある。
東京へ行くときは、私達は、車で常磐道の那珂ICにある高速バスの乗り場まで行き、そこからバスで上野まで行くことにしている。高速バスは、那珂ICから上野まで1時間半かかり、料金はネット予約で1700円である。私達は、たまに新白河駅から東北新幹線を使うことがあるが、このルートの費用は、東京まで1万3千円もかかる。ジパングの30%割引を使っても9千円である。要する時間は、自宅から車の走行時間を含めて、両者はともに3時間程度である。高速バスの1700円は大変安い。高速バスは、常磐道から首都高速を走る。常磐道の渋滞はほとんどないが、首都高は度々あるので、上野駅まで予定より30分以上遅れることがある。これが高速バスの欠点であろう。バス会社はこの対応として、首都高の八潮SAからつくばエクスプレス線の電車に、乗り継ぎできるようにしている。八潮SAで、100円の料金をバスの運転手に払えば、切符をくれて、終点の秋葉原駅まで行くことができる。首都高の渋滞状況は、バスの運転手が本社と連絡して、客に知らせてくれるので大変助かる。八潮SAからつくばエクスプレス線の八潮駅まで、歩いて10分ぐらいかかるのが難点であろう。
2月23日の日曜日は首都高速道路は空いていて、予定時間通り上野に着いた。上野のバス停で降りると、すぐその先に日比谷線の地下鉄駅がある。私達は地下鉄に乗って六本木へ行った。森アーツセンターギャラリーは、六本木ヒルズ森タワーの52階にある。六本木駅から森タワーまでコンコースで繋がっていて、表示に従って歩けば、森タワーに行けるようになっている。私は、六本木の国立新美術館には何度もきたことがある。この新美術館は、同じ六本木でも地下鉄千代田線の乃木坂駅から地下道で行くことができる。矢祭から行くときは、山手線の上野駅から原宿まで行き、そこから千代田線に乗り換える。両方のこれらの美術館は、地下道で繋がっているので、地上でその建物を見ることができない。地方の美術館は、歩いてその単独の建物に入るので、建物の外観を眺めることができる。この森タワーは、六本木ヒルズの中央に建てられた高層ビルであろうが、その威容を見ることはできなかった。
23日は日曜日であったので、ラファエル前派展には多くの人が集まっていた。高齢者は、混雑を避けるために少なかった。ラファエル前派は、英語で Pre-Raphaelite Brotherhood と言い、イギリスで1848年に数人によって結成されたグループである。ラファエルは、イタリア・ルネサンスの古典的な絵画の巨匠である。当時の画家は彼の絵の手法を踏襲していた。ラファエル前派は、その手法に反発して、結成したようである。彼等は、ラファエル以前の率直な絵画手法をめざした。彼らの画風は、自然をありのままに描くことを念頭に、明暗の弱い明るい色彩で細部まで丁寧に描いていた。イギリスのターナーの風景画は背景をぼかして描くが、前派の画家は背景の細かいところまで根気よく描いていた。これらの画風は日本人に好まれるようで、明治時代の洋画家も彼らの影響を受けている。
ラファエル前派展は、イギリスのテート美術館から72点の作品が集められて、開かれたものである。会場には結成初期から時代を追って作品が展示されていた。初期の作品は、背景まで繊細に描かれていたが、50年後の後期になるとその繊細さはなくなり、普通の絵になってしまったようである。この前派展での目玉作品は、ミレイが1852年に描いた「オフィーリア」であろう。この作品の前には多くの人達が見入っていた。オフィーリアは、シェークスピアが書いた「ハムレット」に出てくるハムレットの恋人である。オフィーリアは、父ポローニアスが殺されて、悲しみのあまり狂い、そして溺死した。その溺死の様を小川に浮かばせて、ミレイは絵画にした。死体とは思えない美しい姿と、周囲の森の花々など繊細に描かれた絵は、人を引きつける魅力がある。私は、妻が買ったこの絵ハガキを見て、「オフィーリア」の絵を模写しようと思っている。
私達は、美術館を出て、日比谷線六本木駅から中目黒駅へ、そこから東横線経由のみなとみらい線直通の電車に乗り、みなとみらい駅で降りた。今夜泊まる横浜ベイホテル東急は、ここから歩いて10分ぐらいの所にある。巨大な建物の寄せ集まりであるこの地域は、全ての建物の中に通路があり、地上に出ることなしに、ホテルのフロントに行くことができる。私は、今夜の夕食を久しぶりに中華街でしようと思った。中華街もみなとみらい線の終点にある。予め調べておいた海員閣に行こうと思ったが、見つけることができなくて、メイン通りにあった華龍飯店に入った。この店には1980円で食べ放題という看板があり、その入り口に中国人らしい若い女性がいたので、彼女に内容を確かめて入ってみた。
この店は、バイキングのような方式でなく、100品種のメニューの中から料理を選び、それを注文する方式である。1時間半で、何皿でも食べることができるが、注文して10分ぐらいしてその料理が出てくるので、その間待たなければならない。普通のバイキングであれば、目の前にある料理を取って、すぐ食べることができるが、この店の方式は面倒であった。店には若い家族や学生らしいグループが大勢料理を食べていた。仲間と会話しながら食事をするにはよい店である。会話の少ない高年の私達には不向きな店である。
翌日の24日(月)は、横浜のホテルから渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムへ行った。ザ・ミュージアムがある建物は、東急百貨店の本店と一体になっている。私達は、東横線の地下の渋谷駅に降りた。そこから東急の本店まで地下道で行けるが、先の方は天井が工事中であった。地上に出てすぐ東急百貨店があり、ザ・ミュージアムがある。ここでは「シャヴァンヌ展」が開かれていた。シャヴァンヌは、19世紀フランスを代表する壁画家であり、多くの建造物に壁画を残している。彼は、壁画の作品を手元に残すため、それらの縮小版を制作した。その縮小版が世界中から集められて彼の展覧会が可能になった。このシャヴァンヌ展には、壁画作成のための下描きやデッサンなども多数展示され、これらは木炭、水彩、クレヨンなどで描かれていた。描いた素地もキャンバスは勿論、紙、板などがあり、私が珍しく思った作品は、キャンバス布に紙を貼り付けた上に、油絵で描いたものであった。
壁画はフレスコ画であるから、落ち着いた色調で描かれる。その縮小版も、静かな雰囲気を持った作品が多かった。彼の作品には色彩の強いけばけばしさはない。彼は、日本の近代洋画家にも影響を与え、黒田清輝にも会っていたという。黒田の有名な作品「湖畔」は、色調がシャヴァンヌの絵と似ていることを、私は思い出した。Bunkamuraの1階にはロビーラウンジがあり、そこで私達は昼食を取った。レストランの横には小さなイベント会場があり、そこで塗り絵の展覧会が開かれていたので、私達は入ってみた。この会場には、「第8回大人の塗り絵コンテスト」で入選した作品が展示されていた。
塗り絵は、絵の構図が細い線で紙に印刷されていて、そこに色鉛筆や水彩絵の具などで、原画の写真を見ながら色付けをする。毎年大人の塗り絵コンテストがあるようで、全国の愛好者が応募して、審査される。審査で賞を貰った絵は、丁寧な色づけがされており、見本の原画より見応えのある作品になっていた。これらの作品には、見本の原画の写真も一緒に展示されているので、比較ができて面白い。愛好者は高齢者が多いようで、会場にも多くの高齢者が来ていた。大人の塗り絵は、手軽に絵描きが楽しめるし、頭と手先を使うので、ぼけ防止に役立つと思われる。
2014.4.10
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横浜三渓園
2014年2月23日は妻の誕生日であり、その祝いとして、私達は横浜の中華街で夕食をした。当日は日曜日であったので、そのオーダーバイキングの中華料理屋はグループの客で混雑していた。そこは騒々しい雰囲気であり、ゆっくり食事することができなかったので、私達は翌日の夕方に誕生祝いのやり直しをした。宿泊している横浜ベイホテル東急の建物の2階に「プレミアムビュフェ」というレストランがあり、そこで夕食をとった。この店は、普通のバイキングスタイルであり、客も多くはなく、のんびりできた。一人2100円の定額料金の他に、ドリンクバー210円、グラスワイン420円の料金である。この店は、スイーツの種類が多いのが「売り」のようで、入り口にそれらが外から見えるように並べてある。スイーツの好きな人達はそれを見て、引き込まれるように店に入るのであろう。
私もその一人で、以前にもこの店に入ったことがある。私は、最近食事後にコーヒーとスイーツをとるのが習慣になっている。普通のレストランで食事をした後、別のカフェでコーヒーとスイーツを食べると、それだけで1000円近い料金が必要である。その点、ビュッフェではスイーツが必ず置いてあるので、選択の楽しみがあり、別料金のコーヒーも安い。食事を終え、二人で5456円の料金を支払って、その店を出た。クインズスクェアは2階と3階が商店街になっており、そこを散歩がてら歩いた。8時頃の商店街は月曜日のせいもあり、閑散としている。この様な人通りの少ないところで商売は成り立っているのであろうか。将来は巨大なシャッター通りになるかもしれない。
翌日は、午後2時に東京駅南口から高速バスで帰る予定である。午前中は予定がなかったので、横浜市本牧にある三渓園へ行ってみた。私達は30年以上も横浜に住んでいたが、この有名な三渓園には一度も行ったことがなかった。私達が住んでいたのは保土ヶ谷区、緑区、戸塚区であったので、本牧はこれらの地域から遠く、気楽に行く気にはなれなかった。私達は、10時にホテルをチェックアウトした。ホテル代は朝食込みの2泊で、一人2万円である。私達はクインズスクェアの商店街を歩いて、桜木町のバスターミナルへ行った。そこから三渓園方面へ行く市バスがある。バスは、中区の官庁街から本牧ふ頭横の本牧通りを走る。この路線のバスは年寄りが多く乗り降りするのに、私は感心した。彼らは無料パスを使っているので、気楽にバスを利用するのであろう。道路は車が多く、信号も多くあり、走っては止まりの繰り返しである。我が町の矢祭附近では、25kmの道路に信号が2、3個しかないので、車はすいすい走れる。お陰で車の燃費はすこぶる良い。
三渓園の最寄りのバス停は「本牧」である。この辺りは住宅街で、三渓園に行く通りは静かである。建物の横には、先日の大雪の残りがまだ固めて残っていた。バス停から歩いて7分の所に三渓園がある。私達は入園料500円を払って中に入った。三渓園は、明治時代に製糸、生糸の貿易で儲けた横浜の実業家、原 富太郎氏(別名、原 三渓)が広大な土地(5万3千坪)を購入して、造り上げた庭園である。正門を入るとすぐ前に大池がある。その左側の小道を歩いて行くと、外苑のエリアに入り、8棟の建物が点在していた。南の奥には松風閣という展望所があり、そこから根岸地域の新日本石油の精油所が見え、多くの煙突から白い煙を出していた。横浜市が誇る工業地帯のすぐ隣に三渓園があるのがよく分かる。工業地帯と三渓園の間には本牧市民公園があり、プールとかテニスコートがある。そのなかに横浜市陶芸センターがあり、ここで定期的に初心者向け陶芸教室が開かれ、私も一度参加したことがある。その時造った抹茶茶碗が今でも残っている。
外苑にはランドマーク的存在の三重塔が丘にある。これは、室町時代に京都木津川に建てられたお寺の塔を大正三年に移築したもので、関東地方では最古の木造の塔である。その丘の麓には三渓園茶屋があり、そこでボランティアの人達がお茶を振る舞っていた。この三渓園には多くのボランティアがおり、頼めば沢山ある建物の説明をしてくれる。4、5人のグループであれば頼みやすいが、私達2人だけでは頼みにくい。外苑の北側は、由緒ある17の建物が配置されている、広い内苑がある。内苑には原 三渓氏の隠居所であった白雲邸などがある。三渓園の各所には梅の木が多く植えられ、この時期、梅の花の見頃であった。古い建物と白梅がある風景は、ほとんどモノクロであるから、水墨画の雰囲気がある。この景色は油絵では描きにくい。庭を歩いていると、所々に枝が折れた木があった。2月の関東地方の大雪で、雪の重みで折れたのであろう。
園内は多くの高齢者が来ていた。彼らは大きな望遠レンズを付けたカメラを持って写真を撮っていた。大池の横に細い「蓮池」がある。そこで三脚を構えた人達が何かを狙っていた。カワセミが木に止まっているというざわめきがあり、そちらを見ると、確かに鳥がいた。カワセミは飛び立ち、池に垂直に飛び込み、えさをくわえたようである。そのカワセミが再び別の木に止まった。私も急いでその木をデジカメで撮したが、後でその映像を見たところ、カワセミは映っていなかった。カワセミは、清流の魚を捕るものとばかり思っていたが、都会の真ん中の汚い池にも、えさを求めて住んでいるのだ。妻は、カワセミが池に飛び込むところをしっかり見た、と興奮していた。
帰りは本牧三渓園前というバス停からバスに乗ることにした。ここは三渓園から歩いて5分ぐらいの所にある。10人ぐらいの客がバスを待っていた。私達は、桜木町でバスを降りて、そこから京浜東北線の電車に乗って、東京駅まできた。東京駅の八重洲側の南口前には、高速バスターミナルがある。このターミナルは5、6年前から工事を行っていたが、昨年の暮れに完成した。大工事であったので、私は、豪華なターミナルができることを楽しみにしていた。見てみるとなんだか素っ気ないターミナルであった。ここからは、昼間は、名古屋、静岡、水戸、筑波、いわき、日立などへバスが出発する。夜行便では、広島、四国、北陸、青森へバスが出ている。面白いのは、ここはバスの出発だけであり、到着はこのバスターミナルにはない。都内の色々な所に到着バス停を設置しているのであろう。
新宿にも高速バスターミナルがあるが、ここは、京王百貨店の向かいにあり、狭い道路を利用した「停留所」である。東京駅のターミナルは、JRバスが造っただけあって規模は大きい。9カ所のバス乗り場を造り、その上には大きなグランルーフという白い屋根がある。これは、高い位置にあるので、雨よけにはならないだろう。切符売り場や待合室は以前のままである。私はここも大きくするのかと期待していたが、そのままであった。その待合室は20人ぐらいが座ると、満席になる広さである。待合室にはコインロッカー、トイレ、小さな売店があり、どことなく田舎臭い雰囲気である。
茨城交通のバスもこのターミナルを利用しており、その会社は、茨城県の各都市へのバス路線を持っている。待合室の人達も茨城に帰る人が多く、彼らは大きな荷物を抱えて、茨城弁で話をする。私達が住んでいる矢祭町は、茨城県の大子町と隣り合わせにある。大子町には大きなショッピングストリートがあり、色々な店が並び、それぞれに大きな駐車場を持っている。歩いて店に行く人はいなく、車でショッピングするのが当たり前になっている。私達も週に3回程度この町に買い物に行く。そこは、自宅から車で15分の距離である。そのため茨城県は私達にとってなじみ深い。矢祭住民のしゃべり方は、茨城弁によく似ているので、この待合室に座っていると、古里に戻った気になる。
2014.5.10
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2014年の春
今年の春の花は、どの花も見事に咲いた。我が家で春一番に咲く花は、草ではクロッカス、スイセンで、木では梅、コブシである。続いてハクモクレン、レンギョウ、ユキヤナギなどが一斉に咲き始める。我が家の庭の外には、桜が8本、敷地を取り囲むように植えてある。これらが時をずらして満開になるので、しばらく桜を満喫することができる。そのうち3本は八重桜で、まだ3年前に植えたばかりなので、花は咲かない。今年はしだれ桜が本格的に咲いた。これは植えてから約10年経っている。桜と同時に椿が咲いた。赤い椿と白い椿であるが、赤の椿にはヒヨドリが花の蜜を吸いにやってくる。白い椿には花びらを食べにくる。赤い花びらは毒があるのであろうか、ヒヨドリは食べようとしない。5月に入るとツツジ、ハナズオウ、カイドウ、アメリカハナミズキが咲き始める。さらにシャクナゲが咲き始める。庭には4種類のシャクナゲを植えているが、これらが一斉に咲くと、庭は豪華な雰囲気になる。近くではウグイスがうるさいほど熱心になく。今年のウグイスは正統的な鳴き方をする。ウグイスが間違って鳴いていると、私は鳴き方を口笛で教えてやるが、今年はその必要がない。
この付近一帯の山には山吹が多く咲く。しかし、我が家の近くにはそれがないので、私は山吹の枝を折って挿し木をした。それが今年大きくなり、花を咲かせた。山吹の花は近くで見ると、端正で華やかである。5月の連休を過ぎると、ホームセンターでは野菜の苗を売り始める。我が家では今年もサツマイモの苗を20本買って植え付けを行った。サツマイモの苗は、長さ20cmぐらいの茎を20本束ねて、600円で売っている。これを水に一晩漬けた後、土地に植え付ける。最初は葉がぐったりしているが、4、5日水やりを続けると、葉がピンとしてくる。こうなると植え付けは成功である。一週間してもぐったりしたままの苗が必ず数本あり、これらは生き返る見込みがないので、がっかりする。ホームセンターでは、がっかりしている人のために、ポット入りのサツマイモの苗を一個100円で6個まとめて売っている。それを買ってきて植えると、根が付いているので、確実に成長する。暑くなるとサツマイモは、茎が元気よく伸びる。我が家ではパイプの棚を造り、そこに網をかけて茎が上に上がるように仕向けている。そうすると、狭い敷地が効率よく利用でき、根菜のサツマイモも普通に収穫できる。
私は、昨年までカボチャの苗を植えていたが、今年から止めにした。カボチャは生長が早く、そこらじゅうを茎が這い回って、我が家の狭い庭をカボチャが占領してしまう。実が大きいので棚を造って上に伸ばすことができない。カボチャは、収穫の季節になると、道の駅などで大きなカボチャが安く売り出され、年の暮れまでそれが続く。我が家でカボチャを作る必要を感じなくなった。キュウリ、ピーマン、ミニトマトの苗も植えた。ミニトマトは、簡単に生長して、多くの実を付ける。普通サイズのトマトは栽培が難しいようである。雨に当たると、病気にかかりやすいというので、梅雨時、ビニールでカバーをしてやらなければならないようである。私は以前、それを知らずにトマトを植えたが、収穫はゼロであった。野菜の種類では連作を嫌うものがあるという。今年植えたキュウリなども、連作はしない方がよいようであるが、昨年どこに植えたかは、忘れてしまっている。ノートに植えた場所を記録しておく必要があるが、私はその様な面倒なことはしていない。
昨年から長ネギを植えている。秋には、根付きの長ネギを地元の店で売っている。それを買って、白い部分を切って料理に使った後、下の根の部分を土に埋めてやると、葉が出てくる。我が家では時々葉を切って納豆に使う。真冬は寒さで傷んでダメになるかと思っていたら、春には再び新芽が出て、葉が生長した。5月には葱坊主が出て、花が咲いた。長ネギのような白い部分はできそうにもないが、納豆用の葉には事欠かないであろう。今年の春も、色々な草花の苗を買ってきて植えた。我が家には、これらの草花や植木が100種類以上ある。数が多いので、全部の名前を覚えるのに苦労し、忘れて思い出せないのがかなりある。
ポピュラーな名前はすぐ口に出せるが、なじみでない名前の花は思い出すのに時間がかかる。折角きれいに花が咲いているのに、名前が言えないのはじれったい。妻と話をするとき、あのフェンスの前とか、白樺の横の花とか言うと、妻もその名前は忘れているらしく、名前を口に出せない。ストケシア、フロックス、ボロニアなどは簡単には思い出せない。そのほかどうしても名前が出てこない宿根草が数本あり、これらは永遠に名無しで我が庭に生き続けるであろう。ボロニアは、今年の4月に苗を買ってきて植えたものである。その名前は、正式にはボロニア・ヘテロフィラであり、オーストラリア原産の常緑樹である。今、このボロニアは、スズランのような形のピンクの花をいっぱいに咲かせ、柑橘系の香りを放っている。挿し木で増やせるというので、試みてみようと思う。妻にこの名前を教えてやると、難しくて覚えられないと、最初から覚えるのを諦めていた。
私はこの名前を何故だかすぐ覚えてしまった。シェークスピアのハムレットに出てくるオフィーリアの父が、ポロニアスという名前である。私は、ミレイが描いたオフィーリアの絵を模写したので、その関わりでポロニアスを覚えている。ボロニア・ヘテロフィラの「ヘテロ」は、化学の分野でヘテロ環式化合物という総称があり、化学を仕事の糧にしてきた私にはなじみがあった。ヘテロは異種という意味である。環式化合物とは、ベンゼンのような炭素だけが環状になっている化合物である。異種の原子、例えば酸素あるいは硫黄をその環状化合物の環に結合させると、それをヘテロ環式化合物という。化学の実験で私がよく使ったヘテロ環式化合物は、テトラハイドロフラン(THF)という化合物で、溶剤として用いていた。このヘテロ環式化合物は、単にTHFと言っていた。ボロニア・ヘテロフィラを買ってきて、私は昔の化学実験を思い出した。
このボロニア・ヘテロフィラは寒さに弱いので、冬には鉢に移して、室内に入れてやらなければならない。冬の間、室内に入れてやる植物は、ゼラニュウム、サンパラソル、ソフィアがある。ゼラニュウムは色々な花の色を集めて、4個の鉢になっており、それらが5年以上も庭と室内を往復している。ゼラニュウムは挿し木で簡単に増やせるし、害虫がこなく、害虫よけにもなるので、大変重宝している。サンパラソルは、夏の間次々に花を咲かせるので、夏の庭を賑やかにしてくれる。ソフィアも夏には花を多く咲かせ、茎が四方に広がって賑やかな雰囲気になる。夏の花と言えばアメリカフヨウであろう。花の大きさが10cm以上もあるので存在感がある。宿根草なので、冬の間放っておくと、5月の半ば過ぎに芽を出してくる。手間が要らないので、我が家ではアメリカフヨウを10本植えてある。
2年前から牡丹を1本植えている。今年も大きなピンクの花を6個も咲かせた。木の背丈がまだ50cmぐらいなので、直径15cmぐらいの花が一斉に咲くと、豪華である。昨年は花が10cm程度と小さく、数も3個であったが、今年は大きくなったと、喜んでいる。花が6個もあると、木への負担が大きいだろうと思い、花を切って花瓶に入れ、食卓に飾った。牡丹の花の香りがそこら中に漂い、食事の雰囲気を盛り上げてくれる。切った牡丹は意外に長持ちし、1週間は形を変えずにいた。外の牡丹の花は日差しが強かったので、2,3日で衰えてしまった。私は、残りの花を早めに切り落とし、体力を付けるために、液肥をまいて、来年に備えた。去年の牡丹の花びらは10枚程度であったので、私はこの牡丹を油絵で描いた(作品198)。今年の花びらは、20枚以上もある。この牡丹の絵を描くのは、難しいだろう。
2014.5.29
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ドイツ物語1
私達は、2014年5月30日から6月14日までの16日間、ユーラシア旅行社が企画する「ドイツ物語」というツアーに参加した。最初、私は、同社が企画していた「ドイツ北東部、歴史物語」に、2月頃申し込んでいた。しかし、3月に入って、このツアーの出発予定地が、成田から羽田に変更になり、また羽田集合時刻が早朝6時になってしまった。私達は、羽田発の国際線利用は初めてなので、ホテルの予約変更などをし、また羽田に行く方法もJRに変えなければならなくなった。成田発の場合、自宅から車で成田のホテルに行き、車はホテルの駐車場に2週間放置しておくことができる。JRの場合、最寄りの駅の水郡線東館駅まで車で行き、車は駅の無料の駐車場に放置する。しかし、車を長期間放置するのは、いたずらをされる恐れがあるので、車は使いたくない。タクシーを使うことになる。また、大きなスーツケースをもってJRを利用するのは、年寄りにとって難しいので、宅配便を利用しなければならない。
この旅行社は、出発地を成田から羽田に変更したため、お詫びのしるしとして、ツアー料金を2万円値下げしてきた。しかし私達には、3万円近い費用増であり、しかも羽田行きは成田に比べ行程が複雑だ。出発日の一ヶ月前、このツアーは参加者が少ないので中止した、という連絡が来た。朝6時の集合時間は、東京付近に住む人でも前日に羽田に宿泊する必要があるのであろう。そのため、キャンセルする人が多かったに違いない。また、このツアー「ドイツ北東部、歴史物語」は、訪問先の都市が、一般に知られていない、例えばハンミュンデン、カッセル、フルダなどであり、人気が出なかったのであろう。私達は、折角ドイツへ行く気になっていたので、急遽別のツアーを探して、成田発の「ドイツ物語」に申し込んだ。参加を申し込んだ時点で、このツアーは実施決定となっていた。
今回参加したツアーは、日本でもよく知られた都市を巡る旅である。私達は22年前、近畿ツーリスト日本が企画した、「ロマンチック街道、スイスアルプスと代表3都市12日間」というツアーに参加した。私は、海外旅行の際、大学ノートを持って、日記を書いている。その日記を今読んで見ると、かなり詳しく内容が書かれていた。当時カメラはフィルム式で、デジカメはまだなかったので、写真は残っていない。その代わり、私は8ミリカメラ(カセットテープ式)を持って行き、各地を撮影していた。そのカセットテープも捨ててしまったので、当時の記録はこのノートしかない。そのツアーでは、ドイツはロマンチック街道だけであったので、他の都市は見られなかった。ミュンヘンは行ったことになっていたが、ミュンヘンのホテルに泊まるだけで、市内観光はなかった。今回のツアーではミュンヘンに連泊するので、ゆっくり観光できるであろう。また、今回のツアーでは、まだ行ったことがないベルリンの観光があり、特にベルリンの壁は一度見てみたかった。
ツアーは5月30日、11時40分に成田空港を出発して、その日の16時(現地時間)にコペンハーゲンに着いた。そこから乗り継ぎでデュッセルドルフに向かい、現地に18時15分に着いた。そこからバスで、1時間半かけて、ケルン市内のレオナルドホテルに到着した。ホテルに着いたのが、夜の9時近くであったが、外はまだ明るい。そのお陰でデュッセルドルフとケルンの街並みをバスの中から見ることができた。これが秋の11月頃だと、真っ暗で、何も見ることができなかったであろう。
ツアー1日目は、ケルン市から西へ約50km離れたアーヘン市を観光した。西暦800年頃活躍したカール大帝ゆかりの宮殿(現在は市庁舎)、大聖堂などを見て回った。ドイツの小都市はほとんど城郭都市で、旧市街地が城壁に囲まれている。その旧市街地の建物は、第二次大戦で破壊されたにもかかわらず、戦前の状態に再現されて、昔の景観が楽しめる。歴史的な建物が歩いて見られるのが、ドイツ小都市の特徴であろう。アーヘンは、プリンテンというお菓子が名物で、私はそれをお土産に買ってきた。後日自宅でそれを食べてみたが、香辛料が色々入った独特の風味であった。もっと沢山買っておけば良かったと後悔している。
私達は、午後4時にケルン市内に戻り、市庁舎、旧市庁舎などをバスから眺め、バスを降りて、ケルンの大聖堂の中を見学した。この聖堂は600年かけて造ったというから、ドイツ人の執念深さ、あるいは宗教心の強さには感心させられた。聖堂の塔は157mあり、4ユーロ払えば533段を登って展望台に行けるという。私達は疲れていたので止めて、聖堂内で休んだ。当日は土曜日で、市庁舎前広場は市民で賑わっていた。市庁舎は結婚式場にも使われ、休みの土曜日は地元のドイツ市民の結婚式が多いという。短時間のうち、3組の新婚カップルとそのグループが市庁舎から出てくるのが見られた。カップルは、結婚式の衣装のまま、観光客が多い群衆の中を歩き、群衆に愛嬌を振りまいていた。結婚して多くの人から祝福されたいというケルン市民の感覚は、日本人の結婚式の閉鎖的な習慣とは異なるようである。
ツアー3日目は、ライン川クルーズである。我々は、船の発着場であるコブレンツまでバスで行き、そこから船でライン川を南へ遡上して、6時間かけてリューデスハイムまで行く。全長約100mで2階建ての船は、スクリューでなくて、船の中央にある左右の水車で動かす外輪船である。この水車が回る様が1階の通路から見られる。私達のグループは、1階のレストランの一画が指定席になっており、下船するまでそこに座ることができる。2階にはオープンなベンチがあり、そこでドイツの風を受けながら、川岸に続く街並みや丘の上の古城を眺める。ライン川に沿った鉄道線路があり、時折列車が走るのが見られた。船は、所々で船着き場に立ち寄り、客を乗り降りさせていた。船は、地元の市民の足にもなっているようである。
12時頃になるとレストランで食事が出る。私達は、ワインを飲みながら、船窓からの景色を楽しみながら、のんびりした時間を過ごすことができた。ローレライの手前の船着き場から、多くの観光客が乗り込んできて、賑やかになった。ローレライの岩場に近づくと、ドイツ歌曲の「ローレライ」が船内放送から流れ、ローレライの伝説が日本語でも解説される。ローレライの何でもない崖の下に自動車道が走り、その下に「LORELEY」という文字の看板が付けられていた。22年前の近ツリのツアーでは、ローレライの岩の反対側のフェリー乗り場から、バスごとフェリーでライン川を渡り、ローレライ側の岸に着き、近くのレストハウスで休憩した。その様なことが、私の日記に記されていた。当時、ローレライの岩の下には、日本語の下手な字で「ローレライ」と白ペンキで書かれていて、私達はそれを見て、苦笑したことを覚えている。
私達はリューデスハイムという町で下船した。ライン川はここから上流に船が通れない難所があるため、物流の船はここが終点となる。そのため、この町が物資集散地として栄えたという。船着き場からすぐ近くに「つぐみ横町」がある。幅2mぐらいの小道があり、その両側は小さな土産物店がぎっしり並んでいる。つぐみ横町は、上野のアメ横みたいなところである。ワインの店が多いというが、今から重いワインの瓶を持って移動するのはいやだから、私は、ワインは帰国前の空港で買うことにしている。添乗員は、つぐみ横町の名前の由来を説明したと思うが、私は聞き逃した。
ユーラシア旅行社には、「ドイツ大周遊」25日間、というツアーがある。このツアーは、北のハンブルグから南下して、途中でこのライン川クルーズに乗船する。ツアー初日、私達が乗った成田発コペンハーゲン行きの飛行機で、このツアーと一緒になった。飛行機の中でそのツアーの添乗員がうろうろしていたので、私はその添乗員を覚えていた。彼らは、コペンハーゲンで我々と別れて、ハンブルグへ行き、そこからハーメル、カッセルなどドイツの中部を南下し、ライン川のボッパルト町から我々と同じ船に乗ってきた。このツアーのメンバーにも見覚えがある人がいたので、また会いましたね、とエールを交わした。私達はここからハイデルベルグへ行くが、彼らも同じコースをたどるであろう。
この25日間ツアーの参加者は、14、5名で、私達のツアーと同様に、ほとんど中高年者である。男性では、一人参加が多いようである。女性一人で25日間も旅するのは疲れるであろう。男性は、ドイツワインとビールを楽しみにしておれば、25日間は苦にはならないであろう。私達のツアー参加者は19名で、一人参加の男性は1名、女性は4名で、その他は夫婦である。25日間のツアーに比べ、16日間の私達のツアーは、一人参加でも退屈しないであろう。
2014.7.10
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ドイツ物語2
ツアー4日目は、大学の町、ハイデルベルグ市の観光である。ハイデルベルグ市は、人口が14万人で、そのうち学生が3万人いるという。ハイデルベルグ大学は、正式にはルプレヒト・カール大学ハイデルベルグと言い、1386年に創設されたドイツで最も古い大学である。旧市街地には人文科学系の古い建物が保存されている。私達は、前日の夕方この街に着き、旧市街地のカール・テオドール橋近くのカフェ・クネーゼルで夕食を取った。ホテルは、バスで10分ぐらいの所にある「レオナルド・ハイデルベルグ」である。翌日の午前中は、旧市街地のハイデルベルグ城やカール・テオドール橋、学生牢などを観光し、午後は、自由時間である。自由時間と言えば聞こえはいいが、年寄りにとっては、迷子にならないかなどの心配で、一人で自由に時間を過ごすことができない。旅行社では、その様な人のために、添乗員がプランを作って、希望者を引率することにしている。私達は、添乗員に付いていくことにした。添乗員のプランに付いていけば、そこでかかる費用は全て個人負担になる。自由時間は、ホテルに戻って半日休むこともでき、疲れを回復させるよい機会にもなる。
ハイデルベルグ城は山の中腹にある。私達は、バスで山道を登り、城の近くの駐車場まで行き、そこからケーブルカーで城に行く。9時半頃であったが、多くの観光客が城に入ってきた。ほとんどが団体客のようである。6月は、ヨーロッパの各地にとって観光のベストシーズンである。私は22年前の近畿ツーリスト社のツアーに参加した時の日記を見てみた。それには、私達はハイデルベルグに宿泊し、早朝ホテルを出て、市内を少し歩いた後、ハイデルベルグ城の観光をしていた。時期が11月末であったので、街中も城も観光客はほとんどいなかった、と日記に書いていた。その日記を見てみると、その3年前にも、この城を観光していたことが書かれていた。
そんなことがあったのかと、1989年に書いた日記を引っ張り出して眺めていたら、確かにこの城を訪れていた。このときは、6月であったので観光客は多かったと書いていた。この日記を見てみると、私は会社の出張でフランクフルトに滞在し、某日フランクフルトからハイデルベルグへ観光に出かけていた。私の部下と現地の商社マンの3人で、半日の定期観光バスツアーに参加したことが書かれていた。フランクフルトからハイデルベルグまで約100kmであるので、この様なツアーがあるのであろう。一人85マルク(6000円)の料金で、参加者は10人であった。添乗員は、女性のドイツ人で、英語で説明する。ハイデルベルグ城では、別の現地ガイドが英語で案内してくれ、ドイツ人の英語は聞き取りやすかった、と書いていた。その日記を見て、私は昔を思い出した。
22年前のハイデルベルグ城は、季節外れのためか、人は少なく、世界一のワインの大樽がある建物では、ワインを5マルク(350円)で飲むことができた。今回もその建物にはワインの試飲があったが、大勢の人のため、飲むことができなかった。午後の自由時間は添乗員のプランに従って、私達はカール・テオドール橋から歩いて「バイセンシュバンネン」というレストランに行き、白アスパラの料理を食べた。この時期、ドイツでは白アスパラが旬なのか、よく料理に出される。私は、昼食と夕食には必ずワインかビールを飲むことを楽しみにしており、この昼食ではグラスワインを飲んだ。250mlぐらいの量で5ユーロ(700円)であった。22年前は、5マルクで350円であったので、値段は2倍になっている。レストランで昼食を取った人は、参加者全員であった。
食事後は、添乗員に連れられてハイデルベルグ城とネッカー川をはさんだ反対側の山を散歩した。この道は、哲学者の道と言われ、市街地のすばらしい景色が一望できる。約1時間半の散歩は、結構ハードであった。山道を歩いた人は17名で、2名はホテルに戻ったようである。夕食も添乗員が希望者を募ってレストランに案内するが、私達は参加せずにホテルの部屋で済ませることにした。この様な人が10名程いたため、添乗員は、ビスマルク広場の前にあるデパートに皆を連れて行き、そこで買い物をさせ、バスでホテルまで送ってくれた。私は、これまでのツアーで、体重が2kgぐらい増えて帰国する。毎日の3度の食事はボリュームがあり、運動も歩く程度であるので、体重増加は当然であろう。自由時間で夕食を簡素に済ませるのは、私にとって好ましい。デパートで買う食べ物も、なるべく簡単なサンドイッチと果物程度にした。今回のツアーが終わって、自宅に戻り体重を調べると、1kg増えていた。まあまあの増え方で、ほっとした。妻は、増えなかったと喜んでいた。彼女は、観光地を歩くのが結構な運動量になっていたのではないか、と言っていた。私は週4回のテニスで運動しているので、歩くだけでは運動不足になる。
ツアーの5日目は、ハイデルベルグからバーデンバーデンへ、そこから黒い森の山岳道路を抜けて、ボーデン湖畔にあるリンダウに行く。途中のバーデンバーデンは、温泉保養地として有名であるが、原発反対の烽火を上げ、成功につなげたことで、有名である。現在のドイツ政府の原発中止政策に導いている功績は大きい。日本では小泉、細川元首相らが先の都知事選挙で烽火を上げたが、成功しなかった。これは、ドイツ国民の原発に対する高い見識と、東京都民の低い見識の違いであろう。黒い森の山岳道路は、道沿いに木組みの家が点在し、道路も狭く、冬は雪で覆われるという。そのため家内工業が盛んで、手作りの鳩時計が有名である。翌日、ホテルのあるリンダウから、湖沿いにウンターウールディンゲンへ向かった。ボーデン湖は、ドイツ最南部にあり、スイス、オーストリアに接しているドイツ最大の湖である。このウンターウールディンゲンの町で、この湖に再現された紀元前5000年前の杭上家屋を見学した。これは、湖の浅瀬に杭を打ち込み、その上に家を建てた集落で、ヨーロッパでは各地にみられた集落形態であるという。アジアの熱帯地域では、川岸などの上に家を建て、水上生活をしているのを、テレビで時折見る。この水上生活がヨーロッパにもあったとは、知らなかった。
私達は、湖畔のメーアスブルグに戻り、そこから湖に突き出ているコンスタンツの町へフェリーでバスごと渡った。この町からすぐ近くにあるライヒエナウ島へ。この島は橋で結ばれているので、陸続きの感じを受ける。私達はこの島にある聖ゲオルグ教会を見学した。この教会の壁には壁画が残されていて、この壁画は、10世紀に描かれ、ドイツでは最古のものと言われる。壁画は水彩画のようで、当時の鮮明さは残っていないが、見応えのある絵であった。この壁画がフレスコ画であれば、もっと鮮明に絵が残されていたであろうが、フレスコの技術はここまで及んでいなかったのであろう。バスはコンスタンツに戻り、ライン川を渡り、スイス国境を通り、アルペン街道と言われる街道をオーストリアに向けて走った。アルペン街道は、スイスの高原地帯を通る道である。南側にアルプスらしい山々を眺めながら、北には眼下にボーデン湖を眺めながら、我々は2時間のドライブを楽しんだ。
アルペン街道は2つの国を通り抜けるが、国境はないに等しく、気がつかないままに、2つの国を通過した。EUのお陰であろう。途中のスイスでは、トイレ休憩がなかったので、スイスの記念の土産物を買うことができなかった。トイレ休憩は、オーストリアとドイツの国境の近くのブレゲンツの町であった。オーストリアのブレゲンツの町は交通の要所になっているようで、大きな鉄道の駅があり、そこでトイレ休憩を行った。ここでもオーストリアの記念になる様な土産物は何も買えず、その駅のキオスクでミルクチョコレートを買っただけである。ここから我々のバスは、ドイツに再び入り、シュバンガウ地方と呼ばれる美しい田園をフュッセンへ向けて走った。公園のような田園に村々が点在し、そこをバスが走るので、私は車窓からカメラを構えて、その景色を撮るのに忙しかった。カメラはスポーツモードにして撮っていたが、バスの揺れとスピードで、その画像は全てピンぼけであった。残念。フュッセンには夕方6時半に着いた。
2014.8.10
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ドイツ物語3
ツアー7日目は、フュッセンから5km離れたノイシュバンシュタイン城の観光である。この城は、ドイツ観光の目玉であり、ツアーには必ず訪れる観光スポットである。この城の名前は極めて有名であるが、なかなか覚えにくい。ノイは新しい、シュバンは白鳥、シュタインは岩城(シュタインブルグ)という意味で、区切って覚えるとよいと、添乗員の坂田さんは説明した。この名称は、日本語で新しい白鳥の岩城であり、「新しい」は、この城の麓にあるホーエンシュバンガウ城に対して、新しいという意味のようだ。私達のバスは麓のホーエンシュバンガウ城のすぐ近くの駐車場へ行き、私達はそこからシャトルバスでノイシュバンシュタイン城へ行く。城に入る前に、約500m歩いた所にマリエン橋がある。その橋から見るノイシュバンシュタイン城の景色はきれいだということで、ほとんどの観光客はその橋の上で写真を撮る。橋の上はカメラを構える人達で大賑わいである。
城の中の見学は、時間制で、60名を1グループとして、専門の案内人が引率して城内を廻る仕組みになっている。私達のグループは、9時45分入場の表示が出て、それまで入り口で待つ。時間が来ると、ゲートが開き、観光客60名は一団となって案内人の後ろについて歩く。イヤホーンガイドで日本語の説明があったので、城の歴史がよく分かったが、私はすぐ忘れてしまった。約2時間の案内が終わって、私達は歩いてバス駐車場まで下りた。歩きながら下の方に見える、ホーエンシュバンガウ城は、ノイシュバンシュタイン城に比べると地味であり、誰も見学していないようである。この城も見学すると、両者の城の歴史が分かって面白そうであるが、そのようなプランはないようである。
当日はオーバーアマガウを通ってミュンヘンに行く予定である。途中、この城から約30km離れたヴィース教会を見学し、さらに20km離れたオーバーアマガウにも立ち寄った。ヴィース教会は、ロマンチック街道から少し離れた田園の中にポツンとある。教会の中は、これが教会かと思われるほど、絢爛豪華な宮殿風な装飾であった。オーバーアマガウの町は、木組みの建物の壁に壁画が描かれており、その壁画は宗教画ではなく、童話のストーリーを意識した絵であり、楽しい雰囲気になっている。観光資源のない町は、この様な特徴のある町づくりで観光客を集めることができる、という成功例であろう。人口5千のこの町には、多くの観光客が訪問し、土産物屋も軒を並べている。観光客が落とすお金で、町は潤っているであろう。
ツアーのバスは、この町から約100km離れたミュンヘンへ移動し、そこに夕方6時頃に着いた。私達は、ミュンヘンの中心地であるマリーエン広場から300m離れたホーフブロイハウスという有名なビヤホールへ、夕食を食べに入った。これは、3階建ての大きなビヤホールであり、各階は客で賑わっていた。団体客は3階に集められ、日本人を含めた外国の団体客が200名ほど席を埋めていた。全員に強制的に配られた1リットルジョッキの生ビールを飲むことになる。ビールは、白ビールと黒ビールが選択でき、私は白、妻は黒を選んだ。黒ビールの方がコクが強いようであった。出されたメインディッシュは、大きな豚肉の塊が黒々と焼かれたもので、繊細な感覚の日本料理とは異なるダイナミックな料理である。私は、この黒い塊を食べながら、何とか0.7リットルのビールを飲むことができた。この量は瓶ビール1本に相当する。ツアー仲間ではビールの好きな人が数人いて、お代わりを頼んでいた人がいた。
このビアホールは、約400年前にバイエルン国王により設立された由緒ある居酒屋で、現在は国立ホフブロイハウス醸造会社が直営する。1階のフロアーは、壁画が派手に描かれ、天井にもフレスコ画が描かれて、老舗らしい雰囲気を造っていた。1階のフロアーに比べると3階はあっさりした内装で、天井は円筒型になっている。ホールの端には舞台があり、そこで5名のプレーヤーによる管楽器の演奏が騒々しく始まった。しばらくして男女2名の踊り子が現れ、民族ダンスらしい踊りを披露してくれた。私が22年前に近ツリのツアーでミュンヘンを訪れたときは、オプションでビヤホールに案内されたが、私達夫婦は疲れていたので参加しなかった。参加した人の話を聞くと、そのビヤホールは規模は小さいが、地元の人達と大いに盛り上がって楽しかったと言っていた。
国営のビヤホールでは演奏がまだ続いていたが、食事も終わってビールも飲めなくなっていたので、添乗員は頃を見計らって我々を外に出して、ホテルへ連れて行ってくれた。私は、音楽の騒々しさと、ビールの酔いで、疲れが出ていたので、ホテルの部屋に入った時はやれやれといった感じであった。翌日は、午前中にミュンヘン市内観光があり、午後は自由行動である。午前中の現地ガイドは、現地在住のササキさんで、ミュンヘンについて色々教えてくれた。ツアー旅行の良い所は、この様な現地に住んでいる人から面白い話を聞かせてくれることである。ミュンヘンは、人口140万人で、ドイツの中では最も裕福な都市であり、一人当たり年間2.5万ユーロ(330万円)を消費しているという。ちなみに我が家の年間費用は二人で200万円であるから、その高さは相当なものである。老人ホームの費用は、月45万円と言われるが、所得からするとそれほど高くはない。
救急病人がでると救急車がきてくれて、必ず病院で受け入れてくれ、病院が受け入れを断ることはないという。その病院で治療できない場合はヘリコプターでベルリンまで運んでくれる。この費用は全て国が負担する。羨ましい話だ。ドイツはビールの国と言われるだけあって、ビールに対する考えはおおらかである。ミュンヘンのある会社では、社員は一日3リットルのビールがタダで飲めるという。車の運転も、500mlまでなら、ビールを飲んでも良いとされる。ミュンヘンは車産業が盛んである。BMWの本社があり、ベンツ、ワーゲンも本社機能がミュンヘンにある。
BMWのBはバイエルン州のB、MはモーターのM、WはWerke(作業所)のWで、それらの頭文字を取ったのがBMWである。BMWはそのままビーエムダブリュと言うのが普通であるが、古い人はベーエムベーと言う。私もその一人であった。BMWの車は全てオーダー品であると言うから凄い。世界に一つしかない車が買えるのである。車の値段が高いせいか、街で走っている車は、中古車が80%と言われる。車を大切にし、その上、耐久性が良いので、このような数字になるのであろう。最近はリースも増えているという。都会では、好きなときに好きな車を選んで運転するのは合理的であろう。日本もカーシェアーがはやりつつあるのは、同じ傾向といえる。
午後の自由行動では、添乗員がアルテ・ピナコテークという美術館に案内するというので、私は喜んで参加した。この美術館に行った人は、ツアー参加者全員であった。この美術館には15〜18世紀の画家、例えばレンブラント、ダイク、ラファエロなどの絵が展示されていた。写真も自由に撮れたので、私にとって楽しい時間であった。私達は見学が終わって、そこから市電でマリーエン広場に戻り、近くのデパート(Galeria kaufhof)で夕食用の食べ物を買い、添乗員に連れられてホテルに戻った。ホテルへのルートは、マリーエン広場の近くの地下鉄の駅(Odeonplaz)からQuiddestra駅へ行き、そこからバスでホテルの近くのバス停まで行く。これらの運賃は、1日乗車券6ユーロで、添乗員が皆の分を買ってくれた。ミュンヘン市内は複雑な交通網が敷かれていて、これを一人で行くのは困難である。
ホテルは、メルキュールホテルで、昨日からの連泊である。デパートで買った食材は、パン、サラダ、ビール、バナナなどである。バナナは、堅くてかみ切るのに苦労するし、甘みがない。こんなバナナをミュンヘンの人達はどのような食べ方をしているのであろうか。私は、これらを食べた後、日本から持ってきたカップラーメンを食べた。やはり日本の味は、私の舌に合う。このメルキュールホテルは、各部屋でWi-Fiが利用できる。私は、日本から持ってきたアップルのipodを使って、ヤフーなどのホームページを開き、日本のニュースを眺めた。この日(6月6日)のビッグニュースはなく、関東地方は梅雨入りで、豪雨の予想、東北南部も梅雨入りをした、というニュースが目に付いた。
2014.9.10
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ドイツ物語4
ツアー9日目はロマンチック街道の最大の都市、アウグスブルグの観光である。この街にはヤコブ・フッガーという豪商が、1521年に自分の金で市民のために建設したアパートがある。これは、2階建てのアパートで、世界最古の社会福祉住宅といわれる。この建物には現在も150人が住んでいる。その一軒の内部を見せて貰った。内部は、現代風に改造され、3DKの間取りに、洗面所、シャワールームが付いている。当時は貧しい市民しか入居できなかった。現在も、家賃は年間100円と、タダ同然である。ただし管理費、光熱費は別という。このアパートは134軒あり、敷地には教会、公園、病院(今はない)がある。下水は近くの川に流す仕掛けになっていたので、当時の敷地内は臭気はなかったといわれる。
アウグスブルグの観光を終えて、バスに戻ったとき、バスが故障で動かなくなっていた。私達は、バス会社が用意した別の粗末なバスに乗り換えた。私達はそのバスで、ネルトリンゲン、ディンケルスビュールの町を観光して、ローテンブルグの町へ行った。ローテンブルグは、小さな町であるので大規模なホテルはなく、また明日は有名な歴史祭が行われるので、私達は2つのホテルに別れて泊まることになった。私達7人は、町の中央広場のすぐ近くにある、ライヒス・キューヘン・マイスターホテルという所に泊まった。翌日、中央広場の前の市庁舎では、歴史劇が町の人達の出演で行われた。私達のツアー客は予め予約された指定席に座り、ドイツ語の劇を観賞した。
劇の内容は、カトリックとプロテスタントが戦った30年戦争のローテンブルグでの話である。当時、この町はプロテスタントの帝都であった。戦いはカトリックが勝利を収め、その戦争裁判が1631年10月30日にあった。カトリックの将軍が、1リットルのワインを一気に飲み干した者がおれば、町の指導者は全員無罪とする、と言い渡した。そこで市長が代表してワインを飲み干し、町の人々を救った、と言う筋である。最後に、勝利したカトリックの将軍は、「カトリックもプロテスタントも神の前では皆兄弟である、我々は愛すべき神の心を持っている」と言い、その裁判を締めくくる。現在、テロとの戦いで混乱している指導者達にこの様な言葉を発言して欲しいものだ。
1リットルのワインが入ったビールジョッキを市長が飲むシーンは、本当にワインがなくなっていく様子が観客席から見られた。本物のワインを一気に飲めるわけはないし、例え水であっても、1リットルは短時間には飲めない。ジョッキに細工がしてあるのであろう。劇はドイツ語なので、会話の内容は分からなかったが、劇のあらすじの資料を添乗員の坂田さんから貰っていたので、大体の進行は分かった。市長がワインを飲み干したシーンがクライマックスで、大勢の市民は大喜びで劇は終わった。午後は、町の中央広場で色々なショーが開かれており、自由に見物できた。広場の横には、屋台村ができて、私達2人はそこでピザを買って昼食とした。お祭りムードがいっぱいで、のんびりした一日であった。
翌日はこのローテンブルグを出て、ニュルンベルグへ、そしてバンベルグへ行く。バスがローテンブルグからアウトバーンを走っている途中、バスの後輪がパンクした。アウトバーンには所々に測線が造ってあり、ドライバーが休憩する場所になっている。私達のバスがパンクしたところが、その測線の前であった。私達は、バスを下りて、森の樹木しかないところで心配しながら待っていた。添乗員は携帯電話でドイツ支店に連絡しているようであり、バスの運転手も電話をしていた。その間暇なので、私は森の中を少し入って、散歩した。森を少し入った所に、トイレットペーパーと大便の塊があり、ハエが集っていた。ドイツでは測線のあるところがドライバーの休憩所になっており、トイレ施設がないので、森の中で用を足すのであろう。人の糞尿をダイレクトに自然に戻すつもりであろうが、せめて猫のように土をかぶせて欲しい。
その測線には、丁度チェコから来た、空の大型バスが止まっていた。その運転手に私達のバスの運転手が交渉して、直ぐ近くのガソリンスタンドまで私達を運んでくれることになり、一安心。チェコのバスは立派なバスで、後輪はダブルのタイヤが4カ所付いていた。私達のアウグスブルグで急遽調達したバスは、後輪タイヤはダブルであるが2カ所しかない。これは、おそらく市内用のバスで、遠距離には使わないバスであろう。観光シーズンの6月はバスの手配が難しく、この様な粗末なバスを使ったのであろう。旅行社の力量がこのような所に現れるわけで、ユーラシア旅行社はまだメジャーではない。ガソリンスタンドはレストランとショップがある大きな施設であった。3時間待って、やっと代わりのバスがやってきた。3時間のロスが出て、スケジュールはどこかを省略するのかと思っていたが、予定通りニュルンベルグの市内観光と、そこからバスで1時間半のバンベルグの市内観光をした。バンベルグのホテルに着いたのが21時頃であった。
翌日は、バンベルグから280km離れたドレスデンへ、4時間のバス旅行である。今年の日本の夏は猛暑続きでマスコミを賑わしたが、ドイツの中部でも連日37度Cの猛暑が続いていた。ドレスデン市内でも36度で暑かったが、湿度が低そうなのでそれほど苦しくはなかった。ツアー12日目はドレスデン市内観光である。ドレスデンは、1945年連合軍による空爆が行われ、街の70%が破壊され、10万人の死者が出たという。ちなみにナチスドイツの民間人の死者は200万人ぐらい、日本の死者は国内で100万人ぐらいと言われる。現在のドレスデンは、美しい街になっている。これは、市民が昔の建物の破片などを一つ一つ拾い集めて再生した結果である。ドイツ人の根性と根気良さには感心させられた。
ドレスデンには移民が多く、全てドイツ国籍を持っているという。移民の子供達にも教育の機会均等が与えられ、4才からドイツ語が教えられ、9年間の義務教育が受けられる。これらの授業料は無料であるという。ドレスデン市民の一人当たりの平均給料は40万円で、そのうち20万円が年金保険、税金、福祉費用などで差し引かれる。市民は、老後が保障されているので、貯金はしない。ドレスデン(ドイツ)では、日本と同じく結婚の高齢化が進んでいるらしい。
ドレスデンではアルテマイスター絵画館の見学があった。印象派以前の画家、ラファエロ(作品:システィーナの聖母)、ルーベンス、レンブラント、ダイク、フェルメール(作品:窓辺で手紙を読む女)など、有名な画家の絵が多くあった。この絵画館は1945年の空爆で破壊されたが、絵画は別の場所に保管されて、無事であった。戦後ソ連がドレスデンを占領した際、ソ連は多くの絵画をモスクワなどに持ち帰ったが、1956年、当時の東ドイツにこれらの絵を返還した。ドレスデン市内の観光は、フラウエン教会、ツヴィンガー宮殿などで、暑い中、苦行しているような観光であった。ドレスデンのホテルはリングホテルといい、部屋にエアコンがなかったので、がっかりであった。
翌日はマイセンの観光である。マイセンでは、国立マイセン磁器工場の見学があり、磁器の制作工程を見せてくれた。最後の工程の絵付けは、小さな葉を小さな筆で描く作業を女性が行っていた。工場のショップではマイセン製品が売られていたが、どれも1個1万円以上する。絵付けのない白磁器でも1個3千円である。何故こんなに高いのだろうか。単なるネームバリューによるものであろう。その後、私達はマイセンから200km離れたポツダムへ移動した。途中トイレ休憩でガソリンスタンドに立ち寄る。ガソリンスタンドのショップの中は蚊がぶんぶん飛んでいた。清潔な国として知られるドイツで、蚊に悩まされるとは意外であった。蚊を駆除するには薬剤をまくわけだが、薬剤により他の昆虫が殺されるので、彼らはそのような生態系を壊すことをしないのであろう。この夏の日本では、東京代々木公園で蚊に刺された人がデング熱を発症したというニュースが大きく報道された。デング熱は蚊により広がるというので、東京都の職員が公園内で薬剤をまいていた。これを見たある新聞の読者が投稿して、蚊以外の昆虫の命はどうなるのか、と疑問を投げかけていた。
ポツダムで観光を済ませた後、私達は、ツアー最後の訪問地、ベルリンに夕方6時頃着く。宿泊したホテルは、ホテルベルリンである。ここは部屋にエアコンがあって、暑さから解放されて、ほっとした。このホテルの部屋ではインターネットが利用でき、ロビーにはATMがあった。私は、ATMを一度試してみようと思い、NTTのVISAカードで最小の金額、20ユーロを引き出すつもりで操作した。PINが暗証番号で、入力すると紙幣が出てきて、私はヤッタ−という気分になった。
翌日のベルリンの目玉の観光は、ベルリンの壁である。私は、この壁が破壊された映像が印象に残っているので、その壁を見るのは、私の最大の期待であった。現場に行って見ると、多くの観光客が群がっており、壁には落書きが所狭しと塗られていた。歩いて10分ぐらいの所には、落書きがされないように柵で囲まれた「ベルリンの壁」が約100m保存されていた。ここはひっそりして、見物人は少ない。今の観光は、壁の落書きを見るのが観光の目玉になっているらしい。時代は変わった。
2014.10.10
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平家びわ
2014年9月15日、JR東日本・大人の休日クラブの「平家琵琶とお月見会」というツアーが、鎌倉の円覚寺で行われ、私達はそれに参加した。私達は夫婦でジパング倶楽部に入っており、年会費夫婦で6200円を毎年支払っている。この倶楽部の会員は、JRの運賃が30%割引される特典がある。年1回程度、県外へJRで旅行するときにこの特典を使うと、年会費の元は大体取れる。私達は東京には月一回程度行っており、JRでなくて、車と高速バスを使うと、一人往復3800円ですむ。JRを利用すると、30%割引の特典を使っても、一人片道6300円である。この会に入ると、毎月「ジパング倶楽部」という旅の雑誌が届く。私はあまり熱心に見ないが、7月号にこの日帰りツアーの企画が載っていた。妻が琵琶を聞いたことがないので一度聞いてみたい、と言うので申し込んだ。このツアーは、人気があるらしく、7月の時点で、定員オーバーとなり、私達はキャンセル待ちになった。
幸い、キャンセルがあったらしく、参加可能になった。参加費用二人で3万円を振り込んだ。このツアーは、円覚寺が隣接しているJR北鎌倉駅に午後4時集合、午後8時半現地解散である。参加者は30人ぐらいであった。円覚寺の境内を若い僧侶が色々な建物を説明してくれた。私はこの円覚寺には昔2、3度行ったことがあるが、僧侶のガイドを聞くのは初めてである。僧侶は毎日の読経で声を鍛えているはずであるが、この若い僧侶は声が小さく、言葉がはっきりしない。案内役にはまだ慣れていないのであろう。妻は聞くのを諦めていた。境内の奥の方に位置する国宝の舎利殿の前では、この僧は詳しく説明していた。左手の山の上に鐘楼があり、長い石段を登らなければならない。ツアーの引率者は希望者を募って見物に行った。私達5、6人は、行かずに琵琶の会場である龍隠庵へ行って、休憩した。
龍隠庵は、円覚寺敷地の中程左側の丘の上にあり、円覚寺の建物がほとんど見渡せる。ここから聞く除夜の鐘はよく聞こえると、龍隠庵の住職が自慢していた。この住職は龍隠庵に寝泊まりし、檀家がないので香のセールスなどで生計を立てているという。夕方5時から平家琵琶の語りが始まった。語り手の秋山 良造氏は、73才で、平家琵琶伝承者として全国で活躍している。演目は「小督」(こごうと読み、女性の名前)である。これは、高倉天皇と小督との悲しい物語として、平家物語の中でよく知られている物語である。「小督」は謡曲にもあり、私は、その謡いを聞いたことがあるような気がする。私の母が趣味で謡曲を習っていたので、その様なことを感じた。私がまだ小学生の頃、母とその仲間が声を合わせて謡っていたのを覚えている。その声は大きく、辺り一帯に鳴り響き、異様な雰囲気を造っていた。
謡曲の節回しは力強く、腹の底から声を出している感じであった。それに比べ、平家琵琶の声は弱々しく、小さい。物語の台詞は印刷物として、旅行社から渡されていた。私達は、それを見ながら物語の展開を知ることができた。語りの節回しは、抑揚が小さく、強弱も小さいが、語り手の秋山氏は声がよく通るので、言葉が聞き取れないということはなかった。この節回しは鎌倉時代からの口伝によるものらしい。謡曲には教本のようなものがあり、私もそれを見たことがある。それは、ひらがな主体の印刷物で、その文字の横には声の強弱、高低などが記号で書かれていた。母親はその教本を数十冊持っていたが、死去後処分された。その1冊でも貰っておけばよかったなあ、と今思っているが、私もそのうちそれを処分する時が来るであろうから、それほどの執着はない。
平家琵琶は、琵琶を伴奏しながら語る。琵琶の音は、低く静かで語りの邪魔をしない程度に奏でられる。謡曲は伴奏無しで謡うが、小堤を使うことがある。私は一度小堤を伴った謡曲を聴いたことがあるが、鼓が入ると謡に華やかさが加わった感じになる。この平家琵琶は、90分の語りで終わった。終わった後、質問はないかと演者の秋山氏が言う。参加者は、平家琵琶に興味のある人達であるので、色々な質問があった。私も、謡曲のような楽譜の付いた教本はあるのか、聞きたかったが、一番奥に座っていたので質問できなかった。質疑応答が終わり、仕出し弁当による夕食が始まった。日本酒と缶ビールが出る。龍隠庵の住職が座卓毎に酒をついで廻り、サービスのつもりで皆と歓談する。独身で檀家のない彼は生計を立てるのに苦労している話などを聞かされた。夜8時半に解散になった。曇り空でお月見はできなかったが、800年の伝統を持つ平家琵琶を聞くことができて満足した。
ツアーのあった日は日中時間があったので、妻は昔の友人と横浜で会い、私は新国立美術館で行われていた「オルセー美術展」を見に行った。19世紀後半、パリに集まった印象派の画家、例えばモネ、セザンヌ、ドガ、ルノワールなどの作品が見られる美術展である。当日は、休日であったため多くの人が入り、有名な作品の前には2重、3重の見物人が集まり、私はその後ろで背伸びしながら眺めるといった状態であった。ゆっくり観賞する雰囲気でなく、気温も25度以上の暑さのため、私は見るのを諦めた。私は多くの人をかき分けて出口にでて、ほっとした。私はツアーでパリのルーブル美術館と、別のツアーでオランジュリー美術館に行ったことがあるが、オルセー美術館にはまだ行っていない。いつか行って見たいと思っている。
平家琵琶を聞いた夜は横浜、桜木町のニューオータニインに宿泊し、翌日は午後2時の高速バスに乗る予定であった。高速バスは東京駅南口から出る。少し時間があったので、私達はブリヂストン美術館へ行った。八重洲側の地下街を歩いて行くと、突き当たりぐらいの所に美術館への出口があり、目の前に美術館がある。この美術館は、「絵画の時間」というテーマで、この美術館が所蔵している絵画を時代を追って陳列する企画をしていた。全部で167点の絵画、彫刻が展示され、ほとんどが世間に名の知れた作品である。その価値は相当な金額になるであろう。館内は、見学者は極めて少なかったが、小学生の数十人の団体がいた。彼らは学芸員に引率され、名画の前で説明を受けていた。外国の美術館ではこの様な子供達の団体をよく見かけたが、日本では珍しい。折角多くの名画があるのだから、子供達の教育に利用して欲しい。
日本には相当な数の有名な絵画があり、それらは各地の美術館に目玉として展示されている。例えば上野の国立西洋美術館(松方コレクション)、倉敷の大原美術館、ここのブリヂストン美術館などであり、それぞれ有名な絵画を多く持っている。山梨県立美術館ではミレーの絵画を7点もそろえ、それを美術館の目玉にしている。時折新聞社では、あるテーマの企画として、全国の美術館から一部の絵画を集めて、美術展を開くことがある。私はその都度見物に行くことにしている。しかしこれらは、貸し出し費用が高額なためか、各美術館の名画を小出しにしているようであり、私は物足りない感じが何時もしていた。文部科学省が号令をかけて、全ての名画を新国立美術館に集めて、「日本が保有する世界の絵画展」というようなテーマで展覧会を開いて欲しい。
話はブリヂストン美術館に戻るが、この美術館の入場料は大人1000円、シニア600円である。私が窓口でシニア2枚と言って、1200円を出すと、窓口の中年の女性は愛想良く入場券を出してくれた。以前、私は、国立西洋美術館でシニア(常設展は無料)で入場券を貰おうとしたら、窓口の若い女性から65才以上の証明書を見せろと言われた。私は運転免許証を持っていたのでそれを見せ、妻は持っていないというと、生年月日を問われた。国の職員は融通が利かないものだ。顔を見れば65才以上だと直ぐ分かるはずだと、私は腹を立てた。それに比べブリヂストン美術館の社員は、有名民間会社系の社員だけあって、私のシニアをすぐ了解した。彼女は、私が紙幣を出した手を見て、年齢を判断したのであろう。顔を見ないで、しわだらけ、しみだらけの手を見て、彼女は年齢を判断したのだ。私は、彼女の態度に感心するやら、自分の手の衰えにがっかりするやら、複雑な気持ちであった。
2014.11.10
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札幌市内観光
福島空港では、新千歳空港へのフライトが毎日往復2便就航している。午前の出発と、その日の夕方の到着ができるように、時刻が設定されている。福島の人が札幌の会社に会議などで出張する場合、日帰りでき、また逆に札幌の人が福島へ日帰りで出張できるようにもなっている。年金暮らしの私は仕事がないので、札幌へは観光に行くだけである。今年の10月20日(月)、私達は2泊の予定で札幌を訪れた。エアドウの格安運賃は2人で往復6万円である。ただしこれは変更不可能航空券という条件付きであるので、予定変更などはできない。福島空港から新千歳空港まで約1.5時間、自宅からだと約3時間である。新幹線で新白河から東京へJRを利用すると、自宅から同じ約3時間で、料金は2人で往復3.6万円(正規料金)である。札幌までJRを利用すると、何時間かかり、いくらであるか分からないが、飛行機は楽で、安いのは間違いない。
初日、妻は苫小牧の郊外にある乗馬クラブ「リーフ」へ外乗をしてきた。この時期の苫小牧地方は紅葉が見頃のようで、馬で紅葉の森をトレッキングするプランを申し込んでいた。リーフは、新千歳空港から車で20分のところにあり、予約すれば送迎してくれる。そのため神戸や千葉から女性が一人で来て、乗馬を楽しむという。この日も、神戸から来た50代ぐらいの女性と一緒に外乗してきた、と妻は言っていた。その間、私は札幌へ行き、札幌駅から歩いて行ける北大のキャンパスを散策した。ここも紅葉が始まっており、イチョウ、カエデはきれいに紅葉していた。キャンパス内は観光地となっており、多くの人が歩いていた。学生は自転車を使って行き来し、歩いているのは高齢者の人達である。正門を入ってすぐの所に広大な芝生の広場があり、そこには大きな広葉樹が所々あり、公園のようである。広場の周辺には明治時代からの農学部の木造の建物がある。
当夜、私達が宿泊するホテルは、センチュリーロイヤルホテルであり、札幌駅から歩いて数分ぐらいのところにある。このホテルは、地下道から行くこともできるので、雨や雪の日には便利である。妻は、乗馬を15時半に終わって、16時頃JR新千歳空港駅へ車で送って貰い、そこから札幌駅へ向かう予定である。それらの時刻を妻が携帯電話で連絡し、私がその時刻に札幌駅へ迎えに行くという打ち合わせを予めしていた。私は、ホテルの部屋で電話を待っていたが、着信がない。妻は、数年前までは携帯電話の発信ができていて、私と話すことができていたが、今は使い方を忘れてしまったようである。私は、仕方ないので、予想の時刻に駅の改札口で待っていた。妻が現れないのでホテルへ戻ろうとすると、電話がかかってきた。彼女はホテルの部屋から電話をかけていた。電話の使い方をホテルの人に聞いてかけたのだという。
翌日、私達は北海道中央バス会社が運行する1日市内観光バスツアーに参加した。この会社には、札幌市内日帰りのコースが10種類近くある。札幌市郊外の小樽や支笏湖あたりへ行く日帰りコースもある。これらは、早朝出発で夕方遅く着くスケジュールであるので、敬遠した。市内の1日コースは9時前の出発で、5時に着くコースである。一人6800円の料金には昼食代、藻岩山ロークウエー代も含まれている。当日の参加者は10名ぐらいであった。ガイドが付いて、市内の観光地を説明してくれるので退屈しない。大通公園、北海道庁などバスの車内から眺め、「場外市場」で1時間の自由行動になった。「場外市場」は、その近くに札幌中央卸売市場があり、海産物の店が30軒ほど道路の両側に並んでいるところである。観光バスが駐車する広場があり、多くの観光客が店を訪れていた。私達は、ウニやイクラの醤油漬けの小瓶を自宅用に買った。
大倉山ジャンプ場、羊ヶ丘展望台を見て、昼食は、すすき野のラーメン横丁で各自ラーメンを食べることになっている。900円の食券を渡され、どこで食べてもこの券が使える仕組みになっていた。ラーメン横丁は、間口1間ぐらいの店が狭い通路の両側に17軒並んでいる。私達は「ひぐま」という店で塩ラーメンを食べた。60才ぐらいの男性がカウンターの向こうでラーメンを作ってくれるのがよく見える。札幌ラーメンは味噌ラーメンが有名であるが、塩ラーメンも美味しかった。添乗員は、味噌ラーメンを食べろと、バスの中でしきりに宣伝していた。私達が「塩」を食べ終わってバスに戻ったときも、何を食べたか問われた。塩だというと、がっかりしたような顔をした。ツアーは、藻岩山ロープウエーとケーブルカーを使って展望台がある建物に入った。外は北風が吹いて寒かったので、私達は窓から札幌市内の景色を眺めた。ここは夜景が有名で、日本三大夜景の一つだと言う。
ツアーの最後の訪問地は、市内にある石屋製菓(株)の「白い恋人パーク」である。パークは、狭い敷地の中にレンガ造りの古い工場の建物があり、建物の前には英国風のバラ園などがある。子供も楽しめる仕掛けも多くあった。多くの外国の団体が来ており、賑わっていた。チョコレートの歴史、製造工程などを建物内の見学コースで見せてくれる。中にはチョコレートを造る体験ができる菓子工房もある。出口には広いショップがあり、台湾などからきた観光客が白い恋人のチョコレートを段ボールケースで買い求めて、大混雑していた。レジに並ぶのが大変なので、私達は空港のショップでチョコレートを買うことにした。パークに隣接してコンサドーレ札幌の専用グランドや、サッカー場があるが、当日はガランとして誰も居なかった。
翌日、10時にチェックアウトして、2泊朝食付き2人分、2.1万円を支払った。一人1泊5300円は安い。東京都内だと1万円以上はする。その日は午後5時発の飛行機にのる。それまでのんびりできるので、荷物をホテルに預けて、北大キャンパス内にある北大総合博物館へ行った。私は前日ネットで、「美術の北大展」という絵画展が開かれているのを見つけたので、観賞することにした。北海道大学は、元々理学系の総合大学であるから、芸術学部などの人文学系はなかった。古い歴史のなかで油絵を描く学生がいて、それらの絵が色々な建物、施設に飾られている。北大では、これらの絵をすべて調査しようという企画があり、学生による調査活動があった。その結果、50点の絵画の来歴が明らかになり、これらの作品を集めて「美術の北大展」という企画で展覧会が開催された。広いキャンパス内の建物に点在している絵を一カ所に集めてあるので、便利な企画である。制作者の中には、好きな絵描きが高じてプロの画家になり、パリまで絵を学びに行った人もいた。近藤七郎、松島正人氏などの絵はパリの印象派のような画風であった。
農学部の有名な「ポプラ並木」はまだ青々としていたが、歯学部前のイチョウ並木は見事な黄葉であった。この並木は、全長380mの道路に70本のイチョウが1939年に植えられたものである。北大敷地の奥の方に「平成ポプラ並木」があり、2000年に植えられたというが、私達は遠いので行くのをやめた。広い構内には小型のバスが循環しているが、一般の人が利用して良いものか分からないし、どこを廻るのか分からないので利用しなかった。私達は、近くの農学部の「ポプラ並木」と、途中にある生命科学院の建物の紅葉したツタウルシを眺め、正門近くの百年記念会館のレストランで昼食を取った。北大正門横にはインフォメーションセンターという建物があり、ショップも併設されている。クラーク博士クッキーやクラーク博士チョコレートなどが売られていた。ここでは「クラーク博士」がブランドになっていて、クラーク博士の商品名がそこら中に付けられていた。
私達は、新千歳空港を午後5時に出発して、我が家には8時頃着いた。それから1ヶ月後の11月中旬、矢祭町付近は紅葉の時期を迎えた。我が家の庭には、ヤマボウシ、ブルーベリー、ドウダンツツジが早くから紅葉し、遅れてコブシの葉が黄色になり、本格的な秋になった。隣接するクリ林も黄葉し、自生しているカエデ、ウルシもきれいに紅葉した。附近の山々は黄褐色に染まり、所々にある鮮やかな黄色のイチョウが存在を誇示しているようだ。秋の景色は、周囲全体が橙色に変化するので、春より気分を明るくしてくれる。
2014.12.10
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春うらら、昨年のこと
2014年暮れに衆議院総選挙が行われて、与党(自民党、公明党)が三分の二の議席を取った。これは憲法が改正できる議席数である。私は、民主党の躍進を期待していたが、残念ながら少し増えただけであった。今回の選挙で票を伸ばしたのは、公明党と共産党である。公明党は、与党でありながら自民党の集団的自衛権の行使推進者を牽制していること、軽減税率の導入を強く主張していることが庶民の共感を得た。しかし、この軽減税率は導入する手続きが大変だからといって、自民党はこれを先送りとした。軽減税率は、食料品を対象に消費税を8%のまま、あるいは5%にしようとするものである。年金生活者あるいは低所得者は、支出の中で食べ物の占める割合(エンゲル係数)が大きいので、消費税を10%に上げた場合、生活が苦しくなる。公明党はそれを見越して軽減税率を提案した。
共産党は、集団的自衛権と秘密保護法に反対する立場を明確にしたことが、有権者の支持を受けたのであろう。一方、民主党は、以前なまじっか政権を担当し、色々な政策に関与してきたので、消費増税、集団的自衛権、秘密保護法などを正面切って反対できなかった。過去の政権は過去、将来好ましくない政策は好ましくない、と割り切ってこれらを反対すべきであった。民主党の海江田氏は、今の自民党の強権政治の流れを断ち切らねばならないと、力を入れて街頭演説をしていた。有権者は、その流れを断ち切る政策が分からなかったので、支持できなかった。今回の選挙で維新の党が支持を受けた。彼等は、「身を切る改革」などで、為政者の人数や給料などを減らせば、総額25兆円の財源が確保できるという点に集中した。これを有権者に訴えたのが功を奏したようである。集団的自衛権の実施を強く主張し、憲法改正を主張していた次世代の党は敗北した。戦争参加を好まない高齢者はまだ多い。
この集団的自衛権と秘密保護法は、その反対のためのデモが行われていた。テレビに映るデモの参加者は、ほとんど中高齢者であるのが不思議であった。自分の子供あるいは孫を戦争に行かせたくないという気持ち、あるいは若者がこの政策に興味を示さない「いらだち」から、中高齢者が行動を余儀なくしているのであろう。これらは、本来なら学生が先頭に立って反対すべき政策である。今の学生は何をしているのであろうか。彼等はスマートフォンに夢中になり、自分たちの将来の政治に関心がないのであろうか。昨年秋、私は北海道大学のキャンパスを見てきたが、「アメリカは沖縄から出て行け」とか「秘密保護法、断固反対」などの過激な看板はどこにも見られなかった。北大は理系の大学であるから、政治に関する運動は伝統的にないのかもしれない。
ここ30年、私は他の大学のキャンパスに入ったことがないので、学内での学生達の行動を知らないが、彼等は思想的におとなしくなっているようだ。スマートフォンの操作に時間を取られているのであろうか。スマートフォンは、日本の将来をダメにする危険性を持っている。民主党は、今年の初めに党の代表選挙が行われる。誰が党首になるか分からないが、民主党は、与党に対する野党のリーダーとして、はっきりとした政策を打ち出すべきである。政治の流れを変えるとか、強権政治を断ち切るとかのスローガンは必要ない。集団的自衛権行使の白紙化、秘密保護法の廃案、消費税10%値上げ反対などはっきりした主張を打ち出すべきである。これらによって、次の参議院選挙では民主党の支持が増えるであろう。
昨年のノーベル物理学賞で、中村修二氏他2氏が受賞した。中村氏は、徳島大学工学部電子工学部修士課程を卒業し、地元の日亜化学工業に入社し、青色ダイオードの開発をした人である。昔地方の大学は駅弁大学と言われ、マスコミから馬鹿にされていたが、ついに駅弁大学の卒業生からノーベル受賞者がでた。私は大変喜んでいる。その私は、彼と同じ徳島大学工学部を卒業した大先輩である。私の学科は応用化学科であり、彼とは違うが、私は徳島大学を誇らしく思っている。日亜化学には応用化学科からも多くの卒業生が就職している。私の同期生は、当時景気が良かったので、日亜化学のようなマイナーな会社に就職する人はいなかった。我々は、名前につられて大企業に就職していた。中村氏は、私が卒業してから15年位後の卒業者であった。その当時は不景気で求人が少なく、日亜化学は貴重な就職先であったのであろう。
彼は、日亜化学で青色ダイオードの研究をして、多くの特許を出し、青色ダイオードを完成させた。その青色ダイオードが現在大きな生産量になり、用途も多方面に広がっている。日亜化学にも大きな利益をもたらしたというので、彼は200億円の対価要求を裁判で起こしたが、8億円で和解した。裁判を起こしたのは、その会社を辞めて、現在在籍しているカリフォルニア大学サンタバーバラ校に於いてである。ノーベル賞を受賞した後、彼は賞金の一部を日亜化学に寄付すると言ったが、その会社は、彼とはもう縁がないので受取を拒否した。なんと了見の狭い会社であろうか。以前、中村氏はアメリカから一時帰国して、徳島大学で博士号を取得した。彼は、その時世話になった大学関係者に賞金の半額を寄付した。大学は喜んで受け取っている筈である。
2014年は、猛暑、多雨、竜巻などの異常気象による被害が全国規模で発生した。私が住んでいる矢祭地方は、夏のピークの最高気温が35〜37°Cぐらいで、我慢すれば何とかやり過ごすことができた。私の家は、総二階建てであり、夏の午後の2階の部屋は屋根からの熱気で暑く、窓を開けて風を通しても涼しくならない。屋根材は本瓦でなく、スレート瓦(コロニアル)であるので、灼熱の太陽の熱が容赦なく屋根裏に溜まってくる。天井の上は、グラスウールで覆われているが、毎日の繰り返しの熱で、放熱される暇がない。我が家の天井の一角には、天井裏に入れるコーナーがあり、そこを開けて見ると、熱気が溜まっていた。2階の部屋の暑さはここから来るのだ。私は、この天井裏の空気を外に追い出すために、天井に換気扇を取付け、熱気をダクトを通して建物の外に出す装置を自作した。材料はすべてインターネットで揃えることができた。晴天の日、換気扇から出てくる風は、手で触っても熱かった。おそらく50度以上であろう。この装置のお陰で2階は暑さを感じなく、快適に夏を過ごせた。
夏、屋外に駐車した車は、車内が50度を超える時がある。私は、18年前に購入したミニバンのエスティマを相変わらず愛用しており、この車で毎週4日、30分かけて棚倉町のテニススクールに通っている。テニスが終わるまで約2時間、車は屋外の駐車場に止めている。その間、車内の温度は50度を超えてしまう。この2時間、エンジンをかけてエアコンをつけておくことはできない。このエスティマには、天井の前後に2カ所の窓ガラスがあり、開くようになっている。私は、この天井を利用して換気扇を取り付けた。後ろの天井には18V発電のソーラーパネルを取付、12Vの蓄電池に充電し、そこから12Vで動く換気扇を前の天井に2個取付、車内の熱気を外に出した。この結果、50度以上あった車内温度が40度まで下げることができた。40度ぐらいであれば、エアコンを入れると早く温度が下がるので、我慢できる。特に座席の上部が外気で冷やされているので不快さはない。
日本には何千万台という車があり、夏場の屋外駐車場による車内の暑さで困っている人は多いであろう。車製造の技術が大いに進歩している今日、このようなシンプルな悩みを解消してくれるカーメーカーがないのが不思議である。エンジンを止めて車内の温度上昇を押さえるには、換気扇を回すしかない。車にあるバッテリーを使えば、消耗して車を始動できなくなるので、別のバッテリーを使わなければならない。そのバッテリーはソーラーパネルで充電すればよい。ソーラーパネルを屋根に組み込めば、どのようなタイプの車でもソーラー発電は可能であろう。夏の猛暑日が多くなってくるこれからの時代、車内換気可能な車が開発されるのを、私は期待している。
2015.1.10
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金谷ホテル
日光金谷ホテルは、1873年開業の日本最古のリゾートクラシックホテルであり、アインシュタイン博士などが滞在したと言われる。このホテルは、日光東照宮の広大な敷地の前の高台にある。栃木県にはその他、中善寺金谷ホテル、鬼怒川金谷ホテルがあり、日光金谷ホテルが最も有名である。私の名前は同じ金谷であるが、創業者の金谷善一郎は遠い祖先でもないようである。金谷という名が付いているので、一度行って見たいと思っていた。このホテルのオフシーズンの宿泊代は、一泊二食付きで一人1.5万円ぐらいであるので、それほど高くはないが、温泉がないので泊まる気にはなれない。クラブツーリズム社が「金谷ホテルでランチと湯西川(ゆにしがわ)温泉で一泊」という内容のツアーがあったので、それに申し込んだ。これは、1月18日(日)の10時に、上野駅前からバスに乗り、翌日19日の18時に帰着するプランである。
私は、このツアーでGPS(Global Positioning System、全地球測位網)を付けたiPodtouchを持って行った。アップル社のiPodtouchにはGPS機能は付いていない。GPS機能のあるアダプターがアマゾンのショップから1万円で売られていたので、私はそれを購入して、iPodtouchに付けた。地図ソフトは、FieldAccessというソフトを以前からiPodに入れていたので、それを使用した。このソフトは優れもので、行動した軌跡が地図の上に赤線で表示される。これは、iPodをスリープ状態にしても地図に記録されるので、後からどこを動いたか知ることができるので、大変便利である。上野を出発したバスは、国道4号線から首都高川口線に入り、川口ジャンクションから東北道を宇都宮に向かって走った。日光宇都宮線に入り、日光市近くになると、正面に日光三山の男体山などが雪を被って近くに見られた。当日は、晴天で、富士山もくっきり見えるという、恵まれた日であった。
日光金谷ホテルには12時半に着いた。2階のレストランに入り、ランチが始まった。スープ、メインの牛肉のソテイ、野菜サラダ、デザート、珈琲が出された。これらの料理は、年配の蝶ネクタイのウエイターが持ってきて、各自の皿に一々注ぐ方式である。参加者は28名で、4名が同じテーブルに着いて、これらの料理が出される。その出されるタイミングがよく、早くもなく、また待たされることもなく、実に手際よかった。さすが老舗の従業員は手慣れたものだと感心した。食事後少し時間があったので、私は1階のショップでクッキーなど、金谷ホテルのロゴが入ったお菓子を購入した。珍しく金谷ホテルのシールがあったので、それも購入した。車のガラスに貼り付けようと思う。ホテルの前の駐車場は狭いので、我々が食事をしている間、バスは別の駐車場に止まり、食後再び我々を迎えにホテル前にやってきた。私は、iPodをバスに置いて食事をしたので、バスの行き先はiPodに、はっきり記録されていた。
金谷ホテルのすぐ前に、広大な敷地の日光東照宮がある。1時間の自由時間があり、参加者はそれぞれ見学をした。一番手前には日光山輪王寺の宝物殿があり、建物全体がカバーされて修復をしていた。有名な陽明門も修復中ということで、境内には入らなかった。表門の横に極彩色の五重塔があり、ここも修理中であるが、入場料300円を払えば五重塔の内部が見られるというので、入ってみた。普段は内部は見られないという。この塔は1818年に建てられたもので、塔を貫く懸垂式の心柱がある。この心柱は、地上から10cmほど浮かせてある。これは時が経って、塔の重みで心柱の先端に付けてある相輪が落下しないように、江戸時代に考案された。地震の際も免震の効果があると言われる。この五重塔の免震機能は東京スカイツリーの制震システム(心柱制震)にも応用されている。床下の心柱が浮いている所はライトアップされて、見ることができた。
我々のバスは少し戻って、東武鬼怒川線に沿った道(国道121)を鬼怒川方面に向かった。バスは、鬼怒川から山奥の川治温泉に向かい、121号線から別れて湯西川ダムの上を通る県道249を走った。この辺りから積雪があり、道路も雪で凍結しているようであった。スリップすればダムに落ちそうなところを、バスの運転手はすました顔で運転していた。私は、凍結道路の怖さをよく知っているので、緊張して前方を見ていた。雪道のさらに20km先に湯西川温泉がある。途中温泉の送迎バスと普通乗用車が正面衝突して、救急車が止まっている現場に遭遇した。都会からくる車には冬タイヤは付けていないのであろう。我々のバスには冬タイヤを付けていた。湯西川温泉付近は積雪50cmぐらいあり、真っ白の世界である。今夜泊まるホテルは、「彩り湯かしき花と華」という名前のホテルである。
ホテル付近の部落は平家の里と呼ばれる。昔平家の落人がこの地に住み着いたようである。私は、平家は関西、源氏は関東と、イメージしていたが、関東に平家の里があるとは知らなかった。夕食の宴会で、ホテルの女将は自分は平家の子孫であると自慢していた。ホテルの横には、深さ30mぐらいの所に渓流が流れており、その渓流の向こうはカエデ、ブナなどが急斜面に沿ってはえている。全て落葉樹であるから、雪の積もった斜面しか見えない。秋は紅葉できれいであろう。このような急斜面で山崩れはないのか、従業員に聞くと、土地の下は強固な岩盤で出来ているので、今までその様なことは一度もなかったと言う。夕食は、1階の大広間で28名が揃って行われた。このツアーは2名単位の参加を原則としているので、2名が向き合った席が作られていた。お膳の向かいに相手が座り、出される料理を黙々と食べるという風景である。始まってまもなく、舞台のあるステージに女将が歓迎の挨拶をした。スピーチが終わったタイミングで、ステージの後ろのカーテンが自動的に開かれた。舞台の向こうには雪の庭園がパッと現れ、皆はおーと言って感心した。
翌朝は吹雪になっていた。我々は10時に集合して、再びバスで、元来た道を鬼怒川方面へ下りていった。鬼怒川からは吹雪もなく、晴天であった。我々のバスは東北自動車道の佐野ICから佐野プレミアムアウトレットへ向かった。ここで3時間の自由時間がある。このアウトレットは、アメリカ東海岸の街並みを模して造られており、175店舗の建物が並ぶ。世界のブランドのショップが集められているようで、ほとんどの店がアパレル関係である。アパレルは、私達年寄りには縁遠いので、どうやって3時間を費やすか、街を歩きながらぶらぶらした。アディダス、ナイキのようなスポーツ店もあったので、ナイキの店に入ってテニス用のシューズを探した。男女別、用途別にシューズが倉庫のように積み重ねられ、その多さに圧倒された。テニス用はどこにあるか店員に聞くと、ここにあると言って、連れてこられた所には2、3種類の型のシューズしか置いていなかった。テニスはまだメジャーではないようである。
このアウトレットは、ブランド単位で店を出しているので、例えばスポーツ用品店のような色々なブランドを集めた店はない。また店は、人が身につける品物を中心に売られており、テニスラケットとかゴルフクラブなどの用具は扱っていない。ナイキの場合、スポーツウエアとシューズがほとんどあり、ラケットのグリップテープなどの小物は置いていなかった。私は、テニスシューズは以前からナイキを愛用している。ナイキのシューズの中には、AIRという商品名のシューズがある。これは、膝などに負担がかからないように、かかとの所にエアークッション材が入っている。それが外から見えるようになっているので、あたかも効果があるように感じる。テニス向けのシューズの棚には、そのAIRはなかったが、ランニングとかスポーツ一般の所に多くあったので、AIRを一足購入した(8500円)。
佐野アウトレットには、ウエッジウッドとかロイヤルコペンハーゲンなどの陶磁器の店がある。きれいな置物などがディスプレーされ、暇つぶしに店内を見物した。ほとんどが一個3000円以上するので、買う気にはならない。ウエッジウッドの店で、コーヒーカップ&ソーサーが1700円で売られていた。その薔薇の絵柄と色彩がきれいであったので、妻は欲しいと言い、二客買うことにした。自宅に帰ってカップを調べると、それはウエッジウッドでなくて、ロイヤルアルバートのブランドであった。この会社は、1904年にイギリスで創業しており、王室御用達の陶磁器を売っていることを、ネットで調べて分かった。薔薇の花が手書きで描かれている製品は高価であるが、印刷の薔薇は廉価である。ロイヤルアルバートは、高価品と廉価品を売る二面作戦が功を奏して、世界で広く親しまれているという。妻が買ったコーヒーカップは明らかに印刷されたものである。これは、私が陶磁器の絵付けを長年やっているので、簡単に見分けることができた。
色々店を覗いていると、3時間はあっという間にすぎてしまった。我々のバスは近くの「大麦工房ロア」という菓子メーカーに、トイレ休憩の為立ち寄った。そこにはショップがあり、この工場で製造しているクッキーを売っている。この工場の社員がクッキーを我々に一個ずつ配って、試食させてくれた。ショップの横には無料のコーヒーが置いてあり、私達はこのクッキーとコーヒーを一緒に味わうことができた。ここの創業者は、北海道のバタークッキーで有名な「六花亭」で修行して、この栃木県足利市で菓子製造を始めたという。
我々のバスは、予定通り夕方6時に上野に到着した。
2015.2.10
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防犯カメラ
2014年12月、私は防犯カメラを玄関に取り付けた。これは、キャロットシステムズという会社が販売している商品名「ハイビジョン無線カメラ&モニターセット」である。カメラを玄関に取付け、7インチの液晶モニターを台所に置き、人が玄関前の門扉に来たら、その人を見ることができる装置である。この商品をヨドバシカメラのネットで、4.3万円で購入した。門扉は道路に接していて、そこを通る人達や車がモニターに映し出されるので、面白い。何か動く物があると、モニターはピーという音で知らせてくれる。猫が歩いても、木の葉が舞っても、ピーが鳴るので賑やかである。大きな物体が通ると、自動的にSDカードに録画され、それを後から再生して見ることができる。モニターの液晶は、通常OFF(スリープ状態)で、画面をタッチすれば復帰する。タッチしてから2秒で画面が出てくるので、ピーが鳴って慌ててタッチしても、人が通った後で、何も通っていない画面しか映らない。モニターは3分するとスリープ状態になる。このカメラとモニターは24時間つけっぱなしであり、電気代は月100円ぐらいであろう。
年末は色々な物売りがやって来て、門扉のインターホンを鳴らす。それをこちらのモニターで見て、物売りの場合は、モニターの横にあるインターホンの受話器を取り上げて、断る。人手が省けて大変助かる。この地方にも時折宗教の人が勧誘にやって来る。彼等は複数で来て、インターホーンのチャイムを押す。私は、チャイムが鳴るとモニターの液晶をタッチして、誰が来ているか確認する。映像から勧誘だとすぐ判るので、インターホーンには出ない。その間彼等は、モニターで映し出され、しばらくして諦めて立ち去る。この防犯カメラは音も拾うので、その声がモニターから聞こえるが、何を喋っているかまでは分からない。私達はこの様な人の勧誘を断るのが苦手なので、この防犯カメラは有り難い。
我が家の郵便ポストは門扉の内側に取り付けてある。このポストもモニターで見ることができるが、ポストのカバーが金属で出来ているので、外からポストの中は見えない。私は、このカバーを透明のプラスチックに代えて、内部が見えるようにした。ここの田舎では、朝の新聞配達の時間が不規則である。雨や雪が降ると大幅に遅れることがあり、その都度新聞が入ったかどうか、ポストまで見に行かなければならなかった。今ではモニターを見るだけで確認することができるので、大変楽になった。この防災カメラにはカメラを4台まで増設することができる。私は、勝手口が見える所に1台を増設した。泥棒、空き巣が勝手口から入ってきた場合、SDカードにその人物が録画されているので、捜査の手がかりになるであろう。私達はこの矢祭町に引っ越して15年近くなる。幸い、今までその様な事件はなかった。
勝手口付近は私が庭仕事でうろうろするので、私の映像がその都度モニターに録画されている。一度その画像を見てみると、私の映像が猫背の姿で、のそのそ歩いた。動きが遅いのは年のせいだから仕方ないが、猫背は頂けない。これは直そうと思った。自分の正面の姿は鏡で見ることが出来るが、動いている後ろ姿は普段見られないので、この防犯カメラは意外なところで役に立つ。このカメラによる映像は、インターネットを通して、どこからでも見ることができる。モニターをインターネットケーブルでルーターに接続し、iHome Cam のアプリをパソコンにダウンロードすれば、パソコンの画面でモニターの映像が見られる。私は、これを一度試そうと思って、東京へ行った際、ホテルの部屋で持参したタブレットに、我が家の玄関先のモニター映像を出してみた。ちゃんと映っていたのには感動した。ホテルに無線LANなどがあれば、世界中のホテルから我が家を見ることができるわけだ。今度海外旅行をした際、試してみたい。
昨年の暮れ、我が家に一匹の子犬が1週間のホームステイをした。この子犬は、棚倉町の乗馬クラブに捨てられた2匹のうちの1匹を、妻が引き取ったものである。この犬は、乗馬クラブに研修に来ていた若い女性が、この犬は活発なメス犬だ、と言って選んで貰った犬である。妻は、この犬をうれしそうに車に乗せて、30分の道のりを走って、我が家に連れて帰った。私達は、早速ホームセンターに行き、犬小屋、首輪、ドッグフードなどを買い込んだ。名前はメス犬だと言われたので、ハナコと名付けた。私達は約20年前にジップという名の雑種のメス犬を飼っていたので、メス犬の仕草などはよく知っていた。このハナコはどうもおかしい、オスではないかと思われた。避妊手術や予防注射などをして貰うために、ハナコを隣町の動物病院に連れて行った。獣医師からこの子は男の子で、生後5ヶ月ぐらいだと言われて、私達は納得した。名前はハナ君に変えた。
ハナ君は捨て犬だから素性は全く判らない。耳の垂れ下がり具合、毛の生え具合などから、レトリバー系の雑種であろう。足も太く、レトリバーなら大きくなるであろう。ハナ君にドッグフードを与えると、夢中になって食べ、噛まずに飲み込んでしまう。また、足を食器に突っ込んで食べる。これは食べ物を独り占めしようとする気持ちなのか。妻は、噛む習慣をつけねばと言って、ハナ君にガシガシと言い聞かせて、食べさせる。2日後、食事の最後の方になって噛むようになった。捨てられる前は、食べる競争が激しかったのか、と想像させられた。食事以外はハナ君の性格はおおらかで好ましい。人にやたら吠えない、吠えてダメと強く言うとすぐ止める。歯が生える時期なのか、サンダルなどをくわえて持ってきて、しきりに噛む。ハナ君と一緒にいると楽しい時間が過ごせる。
ハナ君の可愛い姿を見て、私達は自分の歳を考えた。ハナは15年は生きるであろう。私達はあと15年生きられるだろうか。私達が死んで、ハナが一人残される可能性もある。私達は、ハナ君を飼うのを諦めようと相談し、棚倉の乗馬クラブに戻すことにした。クラブの人は無理であるなら戻して貰ってもよいと、予め言ってくれていたので、別の飼い主を捜してくれるように頼んだ。幸い翌日、飼い主が見つかった。乗馬クラブの研修生の若い女性の兄さんが貰うという。その人は、30才前の若い人で、現在も2匹の室内犬を飼っているという。日曜日に彼は婚約者と2匹の犬を連れて、相馬市からやって来た。犬小屋、赤いリード、食器、ドッグフードなど一緒に、彼にハナ君を引き渡した。ハナ君は2匹の室内犬と喧嘩もせず、すぐ仲間になってしまった。私達は寂しい思いでハナと別れた。
自宅に戻り、ハナを渡してほっとした気持ちと、ハナがいない寂しさで複雑であった。その後、研修生の女性に聞くと、ハナ君は「マモル」という名前を貰って、夜はこの兄さんと一緒に寝ているという。現在、あれから3ヶ月経っているので、ハナは大きくなったであろう。私達は、引き取った人の名前も聞かなかったので、ハナの消息を知ることが出来ない。ハナを渡す前に、ハナの写真を10枚以上撮っていたので、その内の数枚を印刷して、家のあちこちに飾ってある。私と妻のパソコンにもその写真を入れて、デスクトップの壁紙にしてある。パソコンを動かす度に、ハナの写真がスライドで現れるので、何時までもハナの顔を眺めることができる。
ハナは元気かな?
2015.3.10
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温泉旅行
私達はそれぞれの誕生月に温泉旅行をすることにしている。妻の誕生月は2月で、私は3月である。私達は、2月22日(日)に鬼怒川温泉へ出かけた。以前、湯西川温泉に行った時、この温泉街を素通りして、その景色を眺めたことがあり、一度尋ねて見たいと思っていた。鬼怒川温泉は栃木県の北端近くにあり、福島県に近い所にあるので、車で行くのが便利であろう。2月はまだ雪があるかもしれないので、東武電車で行くことにした。東武電車の鬼怒川温泉行きは浅草から出ている。私達は東京へ行くとき、高速バスを利用していて、そのバスは都営浅草駅と上野に停まる。都営浅草駅から歩いて直ぐの所に東武浅草駅があるので、私は好都合であると思っていた。しかし、当日は東京マラソンが行われる日で、東武浅草はマラソンの折り返し点になっていて、高速バスは浅草を通らないことが判った。
普通、高速バスは希望者があれば途中の八潮ICで降ろしてくれる。バス会社は、乗客が早く東京へ行きたい場合、ここで降りて、近くのつくばエクスプレス線の八潮駅から秋葉原駅へ行けるように便宜を計ってくれている。バス内で乗り換え券100円を買って、秋葉原まで行くことができる。私達はこのつくばエキスプレス線を利用して、途中の北千住駅まで行った。この北千住駅は、東武電車、JR、地下鉄が乗り入れて、大きなターミナル駅になっている。浅草発特急「きぬ115号」は北千住にも停まるので、私達はこの駅から鬼怒川温泉駅へ行くことができた。鬼怒川温泉駅から15分の待ち合わせで、新藤原駅行きに乗り、次の駅の鬼怒川公園前で降りた。当日泊まるホテルは、花の宿「松や」である。このホテルは駅から歩いて5分ぐらいのところにある。鬼怒川温泉街は、深い鬼怒川渓流に沿ってホテルが建てられており、この「松や」も渓流に沿った建物である。玄関とロビーは建物の5階にあり、客室は5階の下にある構造になっている。全ての部屋は鬼怒川渓流に面しており、部屋からの眺めは良い。
私達は、3時にチェックインしたので、鬼怒川の河原に造られたホテルの庭を散歩した。庭には池があり、多くの緋鯉が元気に泳いでいた。この日の気温は2°ぐらいで寒かったが、池には温泉が入っているようで、水面から湯気が立っていた。冬の鯉は、寒さで動きが鈍いのが普通であるが、温泉のお陰で元気である。ホテルの大浴場は1階にある。露天風呂は河原の近くにあるが、寒そうなので、私は大浴場で済ませた。夕食の会場は、4階フロアーにあり、間仕切りされた個室である。相当な年配の女将が挨拶にきて、私達にどこから来たか、と聞くので福島だと答える。女将は、つい先日温泉旅館の交流会があって、いわき市へ行ってきたという。女将は竹下夢二の猛烈なフアンのようで、建物の各所には夢二の絵(複製)が飾られており、部屋の床の間にも夢二の絵が飾られていた。
エレベーターの扉にも夢二の絵が全面に描かれており、出入りする度にその絵が動くのにはびっくり、そこまでするのかと思う。夢二の絵の女性のモデルと言われる笠島しづ子はこの女将と懇意らしく、女将と一緒の写真もあった。夢二の愛人の妹と言われる笠井千代も懇意のようで、3人が並んだ写真もある。毎日、夢二の絵に囲まれた女将は、どことなく夢二の絵の女性に感じが似ているようであった。館内の廊下には博多人形のような人形が多く飾られ、またその人形の上には相田みつを氏の書が飾られている。相田みつをは、このホテルを常宿として使っていたので、その関わりで書が飾られているのであろう。その書を味わうだけでも楽しい。このホテルの隣には、カフェを併設した日光人形の美術館があり、日光市近くには、竹下夢二美術館がある。これらはこのホテルが経営しているようである。
3月24日は私の77才の誕生日である。喜寿の祝いとして、箱根の「ザ・プリンス箱根」ホテルへ自費で行った。私は、横浜に住んでいた頃、熱海や伊豆半島の温泉には行ったことはあったが、箱根には宿泊したことがなかったので、箱根を喜寿の祝いの地として選んだ。ホテルの選択の際、芦ノ湖と富士山が見えるホテルをネットで探した結果、私は西武の箱根園の隣にあるザ・プリンス箱根に決めた。オフシーズンの3月の料金は、一泊二食付きで1.7万円である。これは、安くもないが高くもない。部屋は山側と芦ノ湖側を選択できるが、芦ノ湖側は山側の2倍の値段であり、私は安い山側を選んだ。泊まった西棟の322号室は、テラスのすぐ前にまだ咲いていないコブシの木や桜の古木があり、リゾートらしい雰囲気がある。ホテルの前庭へ出ると、すぐ芦ノ湖があり、対岸の山々が見渡せる。北側には富士山が見えるが、当日は曇り空で見られなかった。
このホテルへは、JR小田原駅からホテルの送迎バスで行くことができる。ホテルに予め予約が必要であり、私達は14時半のバスに予約した。このバスには6名が乗ってきた。バスのルートは箱根新道を走り、40分でホテルに着いた。私は、毎年正月に箱根駅伝をテレビで見ている。駅伝のコースは国道1号であり、私は途中の宮ノ下などのなじみの景色を見たかったが、それらは見られなかった。バスは元箱根から芦ノ湖沿いに少し走って、ホテルに着く。すぐ近くに駒ヶ岳ロープウエーがあったり、遊覧船の発着所があったり、色々な土産物店があったりで、附近は賑やかである。私達がホテルを出て、散歩したのが4時過ぎであったので、多くの店が4時で閉店になっていた。寄せ木細工専門の店があったので、小田原在住の私の弟への土産として、寄せ木のマウスパットを買った。明日の昼に彼と久しぶりに会う予定である。
ザ・プリンス箱根の建物は円形の3階建てが東西に2棟あり、それを繋ぐ長い回廊が3箇所ある。中央の出っ張った所に平屋の建物があり、そこにフロント、ロビーなどがある。温泉は、蛸川温泉の「湖畔の湯」という温泉場であり、本館などから離れた所にある。私達の西棟322号室からは、歩いて5分ぐらいかかり、途中建物の外を歩くので、冬は寒いであろう。部屋には温泉に行くときにだけ使う館内着とスリッパがあり、それを着用しなければならない。温泉場への道順は複雑で、遠い。私の妻は、温泉に行くのをあきらめて、部屋のバスルームを使った。夕食は、1階のル・トリアノンというレストランで、魚のフランス料理を食べた。朝食は同じレストランでビュッフェスタイルであった。10時過ぎにチェックアウトし、10時半の送迎バスで小田原駅へ。
私の弟は3才年下で、長らく東京で暮らし、12年前小田原市に家を建て移り住んだ。私はその家を一度尋ねてみたいと思い、機会を探していた。今回、箱根からの帰りに会うことにした。私達は、彼の車で小田原城、小田原漁港などを案内して貰った。彼の家は海岸の近くにあり、すぐ近くには400mばかりの桜並木の道がある。まだ満開ではなかったが、満開の桜のトンネルは見事であろう。彼の家は道路から入った袋小路に面して建てられていた。反対側の家は、広い庭がある家である。私は自宅に戻って、Googleの航空写真(衛星写真)で彼の家を探してみた。彼の家をはっきり見ることが出来、近くの桜並木もはっきり映っていた。このグーグルの写真は、極めて鮮明なので、使いようによっては、他国の軍事動向を探るのにも利用できるであろう。
私達は、彼の車で小田原駅へ戻る途中、石垣山一夜城跡に案内して貰った。秀吉の天下統一の最後の戦いが、小田原合戦であり、そのために築城したのがこの一夜城である。標高250mの石垣山に約80日かけて造られた城は、本格的なものであった。城が完成した後、周囲の高い樹木を切って、下から見えるようにした。これを眼下の小田原城から見ると、突然城が現れた様に見えたので、一夜城と言われたという。この一夜城は、昨年の大河ドラマ「軍師官兵衛」にも出てきた。私は毎年NHKの大河ドラマをみることにしているが、「軍師官兵衛」は面白かったし、テレビの視聴率も高かった。今年の「花燃ゆ」は視聴率が低いようである。これは主役の杉文以外に、主役と感じさせる人達が大勢出てきて、主役の杉文の立場が薄くなったためであろう。官兵衛のように主役を中心にした筋書きが必要である。幕末から明治維新への政治的激動の時代には、女性主役の筋書きは無理なのかもしれない。
2015.4.10
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みちのく三大半島めぐり
10月21日、私達はクラブツーリズム(株)が企画した3泊4日の上記ツアーに参加した。正式の名称は「みちのく三大半島と三陸海岸東北大周遊ご夫妻旅 4日間」である。東京から秋田新幹線で秋田県の田沢湖駅へ行き、そこから専用バスで男鹿半島、津軽半島、下北半島をめぐり、三陸海岸の北山崎を見て盛岡駅に戻り、東京に帰るコースである。北東北(秋田、青森、岩手県)の海岸線を一筆書き状にたどる旅であった。今回のツアー代は夫婦で23万円であり、9月に参加した黒部ツアーは同じく16万円で、合計約40万円である。住友生命から私の長寿祝い金として、40万円が今年の9月に私の口座に振り込まれたので、それを全部使おうと思ったのである。二つのツアーとも東京発着のため、東京で前後泊をした。そのため、予算の40万円は超えてしまったが、超過したお金は私の77歳まで生きてきた「付録」とした。
最初の観光は、田沢湖近くにある抱返り渓谷の散策である。ここは紅葉の名所で、私達は、以前同じ団地に住んでいた横手市出身の杉山氏からすすめられ、車で行ったことがある。それは7、8年前のことで、私はほとんど忘れていたが、今回同じ遊歩道を歩いていると、少し記憶が戻ってきた。当時、同じ紅葉の季節に行ったが、観光客は少なく、のんびりしていた。今回は観光客が多く、貸し切りバスが駐車場に4、5台とまり、賑やかであった。韓国、中国、台湾から来ている人も多く、日本でもあまり馴染みでないところに多くの外国人が来ており、世の中随分変わってきたものだ。次にツアーは、秋田自動車道をすこし走り、昭和男鹿半島ICから男鹿半島に入り、半島の先端に近い真山(しんざん)神社へ。この神社の隣に男鹿真山伝承館があり、そこでは「なまはげ」の風習を実演してくれる。実演は、囲炉裏(いろり)がある農家の部屋に2匹のなまはげが荒々しく入るところから始まり、農家の主人との会話を方言でやりとりし、帰って行くところまで忠実に再現する。50名ぐらいの観光客が隣の部屋でそれを見るというショーである。毎年大晦日の夜、NHKでこのなまはげが中継され、私もよく見ていたが、実物を見るのは初めてであった。なまはげの迫力は大変なもので、子供も怖がるのがよくわかった。
その日の宿泊は、この神社から近い男鹿観光ホテルであった。翌日の最初の行程は、バスで干拓地で有名な大潟村を通り、海岸沿いの道路を能代市を通り過ぎ、JR五能線のあきた白神駅まで、2時間の移動であった。五能線では「リゾートしらかみ1号」という観光列車に乗り、日本海の海岸線を眺めた。五能線で最も美しい海岸線といわれる所で列車は3分間停車した。これは列車内から写真を撮るためのサービスである。当日は好天で、真っ青な日本海がきれいであった。私達は十二湖駅で降り、道路を追いかけてきたツアーのバスに乗り、白神山地の麓にある十二湖へ。ここは、約300年前の能代地震で崩山(くずれやま)が字の通り崩れて、川がせき止められて湖が12個できたところである。その中の一つは青池で、湖水が、きれいな青色に見えるので有名である。付近は広大なブナの森で、黄色の葉が落葉しかかって美しかった。ここ白神山地は一部秋田県にあり、秋田杉が多くあるかと思っていたが、ほとんど見られなかった。秋田杉の特徴は杉の上部が丸くなっているというガイドの説明である。よく見ると、付近に生えている杉は先のとがったものがほとんどであった。これらは戦後植林したものだと言う。
ツアーのバスは、青森県の太平洋側の海岸線を北上した。途中昼食のために休憩した「ドライブイン汐風」では、ヒラメのツケ丼定食が美味しかった。ヒラメが新鮮で歯ごたえがあり、さすがに漁港に近いレストランだ。バスは海岸線を離れて、津軽半島の付け根にある金木町へ。太宰治の生家(津島家)で、およそ100年前に建てられた「斜陽館」を見学した。土地の富豪であった津島家の屋敷は、2階建てで、1、2階あわせて20の部屋がある。これらを全部見ることができるが、部屋が入り組んでいるので、途中で迷子になりそうな感じであった。若い日の頃の太宰が、ひどく大きい家だ、と嘆いたのも、納得できる。
バスは再び津軽半島の日本海側を走り、突端の龍飛崎に着いた。龍飛崎の灯台からは、近くに北海道が見え、街明かりも見える。当日のホテルは、龍飛埼灯台の直ぐ下の龍飛崎温泉「ホテル竜飛」である。津軽海峡が見える露天風呂がこのホテルの「売り」のようであるが、外は寒そうなので露天風呂には入らなかった。このホテルでは、ホテルの真下に青函トンネルが走っていて、列車が通るとその音が聞こえるというのが、もう一つの「売り」である。ホテルのフロントには列車が通る時刻表があり、フロントの天井には蛍光灯があって、列車が通ると、赤く点滅する仕掛けがある。私達もその時刻に行って聞いてみた。地下200mから発生する轟音ははっきり聞こえた。青函トンネルの長さは約54kmであり、線路の継ぎ目は全くないので、ガタンゴトンという音は聞こえない。ゴーという音だけである。
翌日は津軽半島の東の海岸にある蟹田港へ行く。途中青函トンネルの入り口とか、建設中の新幹線の工事現場など、バスの中から見ることができた。蟹田港からフェリーでバスごと下北半島の脇野沢港へ渡る。海は陸奥湾なので、穏やかであった。脇野沢港から50人乗りの小さな観光船に乗り換え、下北半島の端に近い佐井港へ向かうが、途中仏ヶ浦に立ち寄る。仏ヶ浦一帯は、白緑色の凝灰岩の地層からなる海岸線が長年の日本海の荒波に削り取られて、垂直の巨岩が並び、仏ヶ浦はその中心部である。我々は仏ヶ浦の小さな波止場に上陸し、男性の案内人の説明で付近を歩いた。再び船に乗り、佐井港へ行くが、船は大荒れの波に揺れて、私はもう少しで船酔いになるところであった。天気は良かったが、海は次第に荒れてきたようで、佐井港から仏ヶ浦に行く観光船は荒波のため欠航になったという。ツアーがチャーターしているバスは、ガイドとともに陸路を走り、この佐井港へ来ていた。
ツアーバスは下北半島を北上し、半島突端の大間崎へ。ここは本州の最北端で、北海道が近くに見られる。当日は天気は良かったが、強風で立っているのも難しいくらいであった。大間町は大間マグロで有名で、マグロで稼いだ漁師の御殿が所々見られた。バスは、大間から下北半島の東側の太平洋沿岸を走り、むつ市を経て恐山に入る。このツアーバスはこの後、三陸海岸を通り、盛岡市に戻る予定である。ツアーがチャーターしたバスは、会社が盛岡市にある。運転手とバスガイドが我々と一緒に4日間旅をする契約になっている。バスガイドは40歳代のベテランである。このガイドは、各地の名所を説明してくれ、歴史上の人物の名前、各地の観光案内など、原稿なしにしゃべり続けてくれた。彼女の記憶力はものすごいと感心した。東北北部の源義経に関する昔話、会津藩が国替えでむつ市へ来て不毛の地で苦労した話など、また太宰治の一家がたどった話とか、私にとって大変興味があった。4日間のガイドの話を聞くだけでも大変な価値がある。
恐山は、名前に似合わず風光明媚な土地である。二つの山門の奥に恐山菩提寺があり、その左手一帯には石仏が数多くあり、湧き水による小さな池が散在している。これらを巡る散策路があり、我々は近くの山の紅葉を楽しみながら歩いた。境内の真横に大きな宇曽利湖(うそりこ)があり、水辺は白い砂の浜辺になっており、近くの山々が湖面に映っていた。死者は、極楽浄土のようなこの美しい湖の浜辺に行くことができる、と信じられている。ツアー3日目のホテルは、恐山から近くのむつ市にある「むつグランドホテル」である。ホテルの温泉は斗南(となみ)温泉で、建物から離れた別棟に温泉場がある。この温泉場は、部屋から歩いて5分ぐらいのところにあり、途中の廊下には会津城とか松平容保(かたもり)の大きな写真が飾られていた。この地方が会津から来た松平家の治めた斗南藩であり、福島県と深い関係があったことがよくわかった。福島県に住んでいる私はむつ市に親しみを感じた。このホテルは高台にあり、むつ市が一望できる。
ツアー4日目の最終日は、バスで三陸海岸の久慈市へ向かった。久慈市までは野辺地町、三沢市、八戸市を通る4時間の長い行程である。久慈市から三陸鉄道北リアス線に乗り、普代駅で降りる。乗った車両は、先の東日本大震災の大津波で被害を受けた鉄道会社のために、トルコ航空が支援したお金で造ったものである。車両にはトルコ航空の飛行機が大きく描かれていた。北リアス線は、明治三陸大津波の経験を生かし、路線の半分以上を高台を通るルートとしていたため、今度の大津波の影響は比較的少なく、震災の日の5日後から一部運行が始まったという。車窓から見る海岸の景色は眼下にあり、途中の駅は山中にあり、古い民家が昔のままに佇んでいた。我々が下車した普代駅では、ツアーのバスが陸路から先回りしてきており、それに乗って北山崎へ行った。ここは三陸海岸随一の景勝地で、切り立った断崖が上から眺められる。
ツアーのバスはここから内陸部の龍泉洞経由で、盛岡に戻る予定であったが、バス会社の好意で津波被害のあった三陸海岸の道を走ってくれた。おかげで被害の大きかった田老地区を見ることができた。海岸沿いは片付けられて、何もなく、高い防波堤が建設中であった。バスは、浄土が浜を遠くに眺め、宮古市へ、そこから盛岡市へ向かった。ツアー初日から好天に恵まれたが、最終日の夜は大雨であった。しかし、盛岡駅に着いた時は雨は止んでいた。天候については、大変恵まれたツアーであった。
2015.12.10
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はるうらら、昨年のこと
新年の三が日は、当地では穏やかな天気であった。私事、今年も無事に過ごせるか?
昨年の夏は各地で猛暑が続いたので、植物たちの動きに例年と違った変化が見られた。12月の初旬に、梅の開花が西日本から報道されたり、桜が咲き始めた、などが伝えられた。桜はいろいろな品種があるようで、秋に咲く「十月桜」というものがある。字の通り10月頃小さな花が咲き、春にも咲くという。私は十月桜の苗をネットで見つけて、6月に植えてみた。昨年10月には小さな花が1個咲いた。今年の春にも花が咲くのか、楽しみにしている。11月初旬の紅葉の季節では、この地域の山々には色鮮やかな紅葉が見られた。我が家の前の沢付近にも、モミジが長い間、きれいな紅葉を見せてくれた。そこにはモミジの木が数本あり、10年前はひょろ長く弱々しかった。私がこれらのモミジを邪魔している他の木を切り倒したりして、このモミジを大切に保護してやった。そのおかげで大きく成長した。このモミジが生えている場所は、100mぐらい先の向かいの農家の敷地であるが、土地は放置されて荒れ放題になっている。私がこの地に住み始めた頃、その農家の婦人に、藪を切ってもよいかと尋ねると、松茸が生えない竹だから切っても良いという許可をもらった。
我が家の前の森には大きなカエデがある。高さ20mぐらいで、昨年の秋もきれいに紅葉した。このカエデは赤くならないで黄色になる。一方、私が保護しているモミジは高くならず、葉は赤くなる。枝が横に広がり、葉も水平に生えている。このモミジはイロハモミジであろうか。木の形が穏やかであるので、和風の庭に向いていそうである。別のこれと同じ小さなモミジが森に生えていたので、それを我が家の近くに移植した。我が家の北向かいの家にはきれいに紅葉するモミジがある。その子供のモミジと思われる木が我が家の庭の所々に住み着いている。親のモミジの種が風に乗って我が家に来るのであろう。小さな種は、建物の隅の吹きだまりのすきまに入り、そこから芽を出す。土地の広い平らな所には芽が出てこない。これは、種が来ても私が雑草を引き抜くとき一緒にその種も除去されるためであろう。隙間から出てきたその子供のモミジを、昨年広い所に植え替えて大きくした。隣のそのモミジは枝が上に伸びる形になり、大きくなる性質のようであるから、昨年の秋に敷地から近くの森に移植した。
モミジのような幼木の我が家への訪問は色々あるが、昨年はヤマユリが2本やってきた。これもフェンスのブロックの隅から大きくなり、春の終わりに立派なユリの花を咲かせた。狭い場所で窮屈そうであったから、2本とも広い場所に移植した。その場所は、カサブランカが15年前から花を咲かせている所である。そのカサブランカは一時の花の盛りを過ぎて、今では細々と咲いている。我が家のフェンスの外にはハクモクレンを植えて、今7、8mの高さになっているが、この木の下に子供のハクモクレンが生えているのを見つけた。やはり狭いところに生えているので、どこかに移植しようと思っている。お茶の木やシュロも子供の木が育っている。我が家に15年もいて、庭木を育てていると、次世代の木が自然に生長しているのに気づく。親の木はまだ丈夫であるのが心強い。
私達は、昨年の9月には黒部へ、10月には北東北へ、それぞれのツアーに参加した。昨年私は、喜寿を迎え、住友生命から長寿祝い金として40万円を貰った。これらのツアーは、そのお金を使った旅行であった。私はツアーをよく利用する。ツアーの良いところは、極めて効率よく各地の名所を短時間のうちに見ることができることである。自分で旅行するとなると、倍以上の日時を要し、お金も相当いるであろう。何よりも計画を立てるのが面倒であるし、旅行中の労力も大変であろう。ツアーは、添乗員に言われるままに座ってそして歩けば、名所旧跡が見られるので大変ありがたい。
昨年の11月23日、私は京都で行われている琳派展を見に行った。妻を誘ったが、先のツアーが続いたし、京都は遠いから行きたくないというので、私一人京都へ出かけた。当日8時前に自宅を車で出て、新白河から新幹線の乗り継ぎで行くと、京都には13時過ぎに着いた。京都駅は外国人を含めた観光客で大変賑わっていた。駅にはもの凄い数のコインロッカーがあるが、どれも使用中で空きは全くなかった。京都の紅葉のシーズンはこんなものかと感心した。
私は、小さなリュックだけ持って行ったので、コインロッカーを使うのをあきらめて、歩いて駅から2キロ先の京都国立博物館の会場へ行った。「京を彩る琳派」というタイトルで10月から行われたきた展示会は、当日が最終日であったので、多くの人が集まった。本阿弥光悦から派生した琳派は俵屋宗達、尾形光琳らに引き継がれ、江戸時代後期の酒井抱一まで続いている。これらの作品は、地元のお寺からや全国の美術館から集められ、総数175点もあった。東京からも多くの重要な作品が陳列されていた。有名な屏風絵の前は2重3重の見学者が取り巻き、近くで見ることができないくらいであった。私の当日の宿泊ホテルは、京都駅南口から先の九条通にある京都第一ホテルであり、2泊を予約していた。折角紅葉の季節の京都まで来たので、翌日は京阪バスの一日定期観光バスに乗ることにした。これは予めネットで予約していた。ツアーのタイトルは「京都もみじ紀行〜大覚寺、嵐山と東福寺」というものであったが、実際は東福寺には行かなく、仁和寺と龍安寺へ案内された。
ツアーのバスは、10時半に京都駅前から満席の参加者を乗せて出発した。補助席にも座っているので、60名ぐらいであろう。中には中国から来た5、6人の中年の女性達もいた。バスは嵐山の渡月橋のたもとの駐車場に行き、そこから2時間半の嵐山周辺の散策である。嵐山観光の中心地は天龍寺である。広い境内には立派な庭園があり、そこまで添乗員が案内し、後は自由行動となる。庭園も静かに鑑賞できればよいが、押すな押すなの観光客であったので、私は早々に外に出た。桂川(大堰川)沿いの小道を上流の方に歩き、大河内山荘から「竹林の道」を通り、野々宮神社からバス通りへ出て、渡月橋に戻った。これらの小道も多くの観光客が歩いており、京都のモミジの季節はこんなに混雑するのかと感心した。私が渡月橋のたもとに戻ったとき、集合時間まで1時間余りあったので、渡月橋を渡り、小さな土産物店兼カフェに入り、コーヒーとケーキを昼食代わりに食べた。桂川の河原に、たこ焼きの屋台があったのでそれを買い、渡月橋を歩くおびただしい人並みを眺めながら食した。
ツアーのバスは嵐山から少し北に上がった大覚寺へ。大覚寺は以前NHKのテレビで放映され、それは、方々に回廊が張り巡らされ、大沢池が回廊からつながる舞台から眺められる映像であった。私はそれを見て、一度行ってみたいと思っていた。大覚寺は、平安初期に建てられた真言宗の大本山で、皇族と深い関わりがあり、嵯峨御所とも言われている。広い敷地に8カ所の建物があり、それらが全部回廊で結ばれている。東の端に、日本最古の人工の池である大沢池があり、これは、嵯峨天皇が中国の洞庭湖を模して造らせたと言われる。池の手前にモミジが紅葉し、素晴らしい眺めであった。バスは嵯峨野の広沢池を通り、仁和寺へ。仁和寺には以前御室桜を見に行ったことがあり、そのとき仁王門横の御殿という建物を見た。このツアーも御殿だけを観光した。五つの建物が回廊で結ばれ、池のある庭など、先の大覚寺を小型にした感じである。ツアーは近くの石庭がある龍安寺へ。
この寺も私は何度も拝観したことがある。石庭を前にした濡れ縁には、観光客が肩が触れあうぐらい並んで座っており、この様子を見るだけで庭を鑑賞するのを諦めた。私はそこを素通りして、方丈の寺務所を出て、山門の横にある鏡容(きょうよう)池の周りを巡る遊歩道を歩いた。余り手入れをしていない自然のままの歩道は、人が多くなくのんびりできた。池の側に柿の木があり、赤い柿の実がたくさんぶら下がっている景色は、庶民的であった。この風景なら油絵にしてもいいかなと感じた。他の京都の風景は余りにも整いすぎて、絵にはならない気がする。京阪バスのこのコースは、ネットで予約した時は、9時半出発で、午後3時半に京都駅に戻る予定になっていたが、実際は出発が1時間遅れで、しかも嵯峨野近辺のお寺だけに変更され、東山の東福寺の予定は外されていた。嵯峨野から東福寺に行くには市街地を通るので、時間がかかるため変更になったのであろうか。最初の予定の3時半に終われば、私は紅葉で有名な南禅寺横の永観堂にでも行こうかと思っていたが、ツアーが京都駅に着いたのが5時近くであったので、永観堂には行けなかった。
話は変わるが、私は毎日寝る前に読書をしている。寝床の中で電話機能のないスマホ(アップルのipod touch)を片手に持って、青空文庫の小説を読んでいる。紙の文庫本だとページをめくる際、両手を使わなければならないが、このスマホは片手でページめくりができるので、横着な私にとって有難い。読んでいる「青空文庫」とは、著作権のなくなった文学作品をボランティアがデジタル化して、それを無料でダウンロードして読めるアプリである。今私は海野十三の小説を読んでいる。彼の作品は170冊ぐらいあり、それらを続けて読んでいる。彼は、世間に余り知られていないが、日本のSF作家の始祖と言われる。「東京要塞」などの作品には、米軍機が東京に焼夷弾、毒ガス弾を落とした様子が書かれ、それに対して東京市民が防御の態勢を取っていたことがこまかく書かれていた。ホスゲンの入った毒ガス弾が落とされ、そのガスにより多くの人が苦しんで死んでしまう様子も書かれていた。このガス弾が本当に投下されたかは、小説なので分からない。このホスゲンに対してこの作家は、粉にした炭をマスクに入れることで難を逃れ、また近所の人にもその手製のマスクを配っていたことが書かれていた。海野氏は、早稲田大の電気工学科を卒業したエンジニアであるから、このような科学的な著述ができたのであろう。
私もサラリーマン時代、化学会社に勤めて、このホスゲンガスの近くで仕事をしていたことがあったので、このガスの恐ろしさをよく知っていた。また、ガスの臭いが枯れ草の臭いに似ていたことも覚えている。この小説の中で、ガス弾が落とされたときの空気の臭いを海野氏は正確に表現していた。私達の身近にある塩素ガスは、呼吸器を激しく刺激して危険な物質であるが、刺激が強く、肺までこのガスを吸い込むことはできない。一方、ホスゲンは優しい臭いがするので、知らずに呼吸して吸い込んでしまう。このことが大変危険なのである。現在は化学兵器禁止条約が制定され、ホスゲンは兵器として使用してはいけないことになっている。現在、ISなどがテロ行為に、これを使用していないのがなによりである。
2016.1.10
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10年日記など
私は毎日「10年日記」を書いている。「10年日記」は、高橋書店が発行している10年間を1冊の日記帳にしたもので、1ページの上から10年間の日記が書けるようになっている。私は、今年で3冊目のこの日記を書き始めた。毎日書く行数は3行であるから、書くのは簡単である。最初の1冊目は1996年から2005年の10年間の日記であった。今から20年前の2月11日の日記を見ると、「ジップ元気」としか書いていない。これは何も書くことがないとき、当時飼っていた犬の健康状態を書いたのである。その頃、私はリタイヤして家でぶらぶらしていたので、「ジップ散歩」という日も多くあった。これは犬を散歩に連れて行ったのである。その日の前後、私は横浜相鉄ビルのモービルへ、映画「Shall we dance」を見に行ったことも書いている。最近の日記で何も書くことがない場合は、「庭仕事」とか「草取り」と書いていて、空白がないようにしている。この10年日記は、外箱入りのしっかりしたもので、1冊の値段は4500円であり、20年前と変わらない。私は1泊以上の旅行に出かけるときは、大学ノートを持って行く。これには比較的詳しく旅の行程などを書いている。このノートは、約55年前から書いており、この大学ノートが何冊あるか、数えてみたことがないので分からない。おそらく20冊近くあるであろう。海外出張、海外旅行では特に詳しく書いている。
話は変わるが、私が毎日使っているヒューレットパッカード(hp)のパソコンが、昨年11月に突然動かなくなった。慌てて色々触ってみたが、液晶画面に何も現れず、仕方ないので電話で修理を依頼した。保証期間の1年は過ぎているので、有償承知で依頼したが、発売以来4年を過ぎているので部品もなく、修理不能だと断られた。4年でサービスを中止するとは、けしからん話だ。このパソコンは、東京生産がセールスの目玉になっており、日本で生産されているので、故障はないだろうと思っていたのが、見事裏切られた。このhpのパソコンの前は、中国産のデルのパソコンを、8年ぐらい使っていた。これは、使い始めて8年目に動かなくなり、部品(マザーボード)も生産中止になっていたので、修理不能と言われた。今回故障のhpよりはデルの方が長持ちするであろうと考えて、私は新しくデルのパソコンを買うことにした。私は昨年11月にデル製デスクトップの本体だけを6万円で購入した。液晶画面は、23インチのイイヤマ製を持っているので、これはそのまま使える。
日本の富士通とかNECなどは、どのくらいの耐久性があるのだろうか。日本のメーカーのディスクトップPCの値段は20万円程度する。そのため、私は安物のhpやデルを買っている。安物の銭失いであろうが、私は高価な日本ブランドPCを買う気にはならない。パソコンの故障は突然起こり、写真、メールのデータ、予定表データなどが見られなくなる。故障が予測されればバックアップするのだが、そのようなことは面倒だからしていない。最近はパソコンメーカーが「クラウド」の名前で、メモリーを無償で提供している。故障に備えて、ユーザーはこれにバックアップしておけと言うことであろう。新しく買ったデルには、自動的にバックアップするソフトが入っており、突然の故障に対応しているようである。これが本当に役立つのか、故障しなければ分からないのが妙である。今までのデータが使えなくなると、がっかりするのは心情である。このバックアップデータを再生するには、同じデルのパソコンを新たに買う必要があるのであろうか。そうであれば、ユーザーを手放さない有効な営業手段であろう。「クラウド」では、私はdropboxを利用している。これは、2GBまでが無料で利用でき、クリックだけでデータが保存できるのが特徴である。どのパソコンメーカーとも紐付きになっていないのが好ましい。私の持っている全てのパソコンに、このdropboxのソフトを入れているので、パソコンの故障の際には心強い。
今回の故障で私が失ったデータは色々多いが、あまりこれらに未練がないのが不思議である。年のせいだろうか。今まで撮った写真は、デジカメのSDカードを別に持っているので、これらを新しいデルのパソコンに移そうと思えばできるが、面倒でしていない。一番寂しいのは、メールのやりとりの消失であろう。25年前の会社仲間とのメールのやりとりが見られない。またメールアドレスが消えてしまっていることも寂しい。幸い最近メールしたアドレスは、偶然どこかに保存していたので、それは引っ張り出すことができた。私は、このホームページの更新を自分で義務づけている。このホームページは、1号(1999年)から200号まで続けていて、これらのバックナンバーはSDカードに保存している。そのためPCが故障しても問題ないが、作成中のホームページがPCの故障のため更新できなくなると、自分では困ると思っている。私はその対策として、予備のパソコンを持つことにした。これは、ASUS社のVivoMiniというディスクトップPCである。大きさは13cm四方厚さ4cmの極めて小さなディスクトップであり、4万円で購入した。ディスプレイは今使っている液晶が使えるし、マウス、キーボードは今使っているものが利用できる。このPCにホームページ作成ソフト「ホームページビルダー」を入れている。その他、メールソフトのThunderbirdを入れている。インターネットエクスプローラはすでに入っているので、これを利用すればホームページはアップロードできる。
ASUS社は、日本ではあまり知られていないが、パソコンに使うマザーボードの大手メーカーである。本社は台湾の台北市にあり、ASUS日本も設立されている。ASUSは、エイスースと読むように最近統一された。安価なノートパソコンが有名で、私も1台持っている。それは、昨年春、ASUS EeeBookという11.6インチのノートブック型パソコンで、3万円で購入した。重さが980gであり、軽いので旅行には持って行ける。OSはWindows10が入っている。その他、ASUSが製造して、Googleが販売している「Nexus7」という7インチのタブレットを3万円で購入している。OSはアンドロイドで、eMMCという記録媒体が入っている。このeMMCは、SDカードに似たようなもので、HDDのような大がかりな記録媒体ではないので、小型PCに適している。先のASUSのノートブックもこのeMMCが使われている。Nexus7は重さ290gであり、ポケットにもぎりぎり入るサイズであるので、大変重宝している。この機能はディスクトップパソコンと同じくらいであり、スイッチを入れてからの立ち上がりがすごく早い。私はその他のタブレットに東芝のレグザを持っているが、重くて遅いので余り使っていない。
新聞などで大々的に宣伝している「富士通の10インチのノートパソコンが3千円」というのがある。購入した日から誰でもインターネットが利用できるという宣伝文であるが、これは気をつけた方が良い。このパソコンを買うと、インターネットの接続で必要なプロバイダーとの契約が自動的に行われるようになっていて、3年間解約できない仕組みにしている。プロバイダーの利用料は毎月3〜4千円必要であろう。プロバイダーと契約しない場合は、このパソコンを6.5万円で売るという。6.5万円は、このサイズのノートパソコンでは普通の値段である。この3千円のパソコンはプロバイダー業者が顧客獲得のために考えた作戦であろう。はじめてパソコンを使ってインターネットをしたいという人には便利かもしれない。小さい画面で3年間我慢できるであろうか。特に視力が衰えている高齢者は10インチの画面では不便であろう。
私は、何だかんだで5台のパソコンを持つようになってしまった。我が家には妻がパソコンゲームのために、hpのノートパソコンを持っている。また、WindowsXPの入った古いデルのノートパソコンもある。これら計7台のうち、3台がASUS製である。ASUSは、PCの値段が安いこともあるが、台湾製であるのが私にとって魅力である。私は、台湾に生まれて、7年間を台湾で過ごしたので、台湾は私の一番目の故郷である。台湾では先ほど政治トップの総統選挙が行われ、中国との「現状維持」政策の蔡英文氏が選ばれた。蔡英文氏は、中国に近づきたい国民党に対して大差で勝利した。台湾は、戦前の日本統治時代に日本語が学校で教育され、70歳後半の現地の人は日本語を喋れる。また、日本から派遣された政府要人の施策が良かったせいか、日本人との関係が良好であった。それが現在も継続しているようで、政治の力は大きいものだと感心している。終戦後日本人が全員日本に引き揚げる際、台湾の人たちは日本人と別れるのを惜しんでくれた。私の家族も送別会を開いてくれて、大変ごちそうになったことを私は覚えている。
2016年1月25日の大寒波で、西日本などは大雪になったが、台湾も雪が積もったようである。生まれて初めて雪を見た、と言って喜んでいた台湾の人たちの映像をテレビで見た。台湾で富士山より高い新高山(にいたかやま)は、「雪山」の別名があるように、毎年その山に雪が積もるはずであるが、温暖化で最近は降っていないのだろうか。当地矢祭では1月18日に今年初の降雪があり、10cmの積雪があった。この雪は水を多く含んで重たく、庭木の枝葉に積った雪はその重みで枝が折れそうになっていた。道路の雪は、除雪するのに重くて骨が折れた。この雪のおかげで福島県のスキー場はやっとスキー可能な積雪量になり、関係者は喜んでいた。22日にも雪が降り、5cmほどの積雪があった。この雪はさらさらの雪で除雪は楽であり、また風が強かったので、枝葉に積もった雪は風で吹き飛ばされていた。
1月30日にも15cmの積雪があった。今年も積雪の季節がやって来て、除雪の機会が増えそうだ。私にとって除雪は、運動量が大きく、冬の運動不足を解消するのに役だっている。
2016.2.10
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webカメラ
webカメラは、ライブカメラ(生中継カメラ)とも言われ、多くの場所で設置され、使われている。これは、インターネットカメラ、監視カメラ、防犯カメラなどとも言われるが、機能的にはカメラで撮った画像(動画)をパソコンなどでも見ることができるものである。ノートパソコン、タブレット、スマホなどにはカメラのレンズが付いており、カメラとして画像を映して保存したり、携帯機能が付いておれば、中継カメラとして利用できる。観光地では、タブレットを使って写真を撮っている人を最近よく見かけるが、その画像の鮮明さがカメラと同じくらいに向上しているため、一般のカメラで撮る必要がなくなったのであろうか。スマホやタブレットは手に持つ感じが頼りなく、シャッターも小さく、カメラのあの「シャッターを切る」という感触がない。私には画像を撮るなら、やはり普通のカメラ(デジカメ)が良い。
2014年12月、私は防犯カメラを玄関に取り付けた。これは、キャロットシステムズという会社が販売している、商品名「ハイビジョン無線カメラ&モニターセット」である。これは、カメラを玄関に取付け、7インチの液晶モニターを台所に置き、人が玄関前の門扉に来たら、その人を見ることができる装置である。私は、その後、増設用カメラを購入して、駐車場にも取り付けた。この防犯カメラは、webカメラとしての機能があり、東京のホテルで自宅の前の様子を見ることができた。しかしそのあと、このwebカメラの機能が故障してしまった。私は、会社に修理を依頼するメールを入れたが、返事が全くなく、修理を諦めた。モニターの機能は健在しているので、防犯カメラとしての役目は果たしている。このカメラの性能は、100万画素であるので、モニターに映る映像は鮮明であり、私は気に入っている。
私は、別の会社のwebカメラがほしいと思い、ネットで色々調べて、同じ100万画素のプラネックスコミュニケーションズ(株)が発売している「ネットワークカメラ スマカメ、CS-QR20」という製品を、昨年10月に1.1万円で購入した。画像はアンドロイドのタブレットで見ることができる。私はこの画像を見て、映像の不鮮明さにがっかりした。5m離れたキンモクセイの葉が1枚1枚見えなくて、大きな灰色の塊としてみえる。昼間の色彩もモノクロのようにしか見えない。同じ100万画素で、こうも違うものか、映像素子の違いか、あるいはレンズの違いか、私には分からない。このwebカメラは使い物にならないので使うのは諦めて、今車のフロントガラスの内側に置いて、ダミーの監視カメラとしている。配線はしていなく、ただ置いているだけであるが、カメラのレンズが物々しいので、効果はあるのではないかと思う。
私は、再びwebカメラの物色をネットでしていたところ、新鋭(株)のネットワークカメラ、SC−831NH2という商品を見つけた。これは、243万画素で、ソニーの映像素子を使っているもので、商品の仕様など詳しく書かれていたので、3万円で購入した。画像はスマホ、タブレット、パソコンで見ることができる。パソコンからいろいろな設定ができ、親切で詳しい取説がある。私は、この取説をダウンロードして、プリントアウトして、それをみながら機能の設定を行った。カメラは建物の近くの庭に設置して、我が家の西側の近所の住宅、道路が見えるようにした。パソコンの大きな液晶画面でもクリヤーに映像が見られた。243万画素の威力は素晴らしいものだと感心している。タブレットでも見ることができるので、Wifiのあるホテルなら、どこからでも見ることができるであろう。旅行に行くときは試してみたい。このwebカメラの電源は、私の机の近くにあるので、普段は電源を切って、外を見たいときにONにする。雪が降った朝など、道路の積雪の具合などを確認するのに使うことにしている。
webカメラの利用の仕方は、家の中に設置したカメラに、ペットや子供あるいは年寄りが映るようにして、主婦が買い物に出かけた際、今の家の部屋の様子をスマホで確認する、というのが多いようである。また商店の各所にカメラを置いて盗難防止に利用したり、商店街でも方々に取り付けて犯罪防止に役立てているようである。webカメラは屋内用と屋外用があり、家庭で使う屋内用は1万円程度で買える。屋外用は、企業や公共団体などが多く使うので、10万円以上する。100Vの電源があればどこにでも設置でき、カメラからは、無線でインターネットのアクセスポイントに映像が送られてくるので、簡単に利用できる。最近インターネットでこれらの映像が他人に見られ、家庭内の様子がのぞき見されて、社会問題になっているようである。webカメラを設置する際、パスワードを設定するが、このパスワードはメーカーが予め設定しており、利用者はこのパスワードを変更するように注意書きされている。
webカメラは、インターネットでソフトをダウンロードし、カメラのID番号、ユーザー名、パスワードを入力すると、誰でも他人の映像が見られる。パスワードの変更は面倒だからほとんどの人はしていないようである。私も変更していないので、盗み見みするのは容易であろう。私のカメラの設置場所は、室内でなく、屋外なので、他の人に見て貰っても一向にかまわない。よろしければ私のカメラ映像を一度見ては如何。その方法は、タブレットの場合、SecusSTATIONを検索し、アプリケーションソフトをインストールする。そのソフトを起動して、「タップしてカメラを追加する」をタップし、カメラ名:WIFICAM、カメラID:PPIV-010972-EUSED、ユーザー名:adomin、パスワード:adomin を入力すると映像が見られる。私のカメラの電源は通常OFFにしているので、普段は見られるチャンスはないが、今年3月13日〜15日と3月29日〜31日は、一日中ONにしている。この機会に見てください。パソコンの場合も同じような方法で映像を見ることができるが、タブレットに比べ、少し面倒な操作が入る。映像が映し出される画面からパスワードを変更することができる仕組みになっているので、他人が勝手にパスワードを変更することができる。そうされると、私は自分のwebカメラを操作できなくなる。しかし、カメラの設定をリセットすれば元のパスワードに戻せる。このようなイタズラをされても、平気である。
話は変わるが、私はいつものように寝る前に海野十三の小説を読んでいる。彼の作品は青空文庫に170冊あるので、それを全部読もうとしている。彼の作品を読み始めて半年ぐらいになるであろう。最近読んだ作品で、「海野十三敗戦日記」というのがあった。これは、彼が昭和19年12月から昭和22年1月まで書いた日記を、後日、知人の編集者が本にしたものである。作者は日記として書いており、作品として公表するつもりはなかったようであるから、当時の出来事がありのままに書かれているので、大変興味がある。昭和19年12月頃は、夜、B29が10機、20機と東京を爆撃しにやって来た。その都度空襲警報がなり、海野氏は、自宅(借家)の庭に造った大きな防空壕に入る。これは大きいので、近所の人達も入りに来たことが書かれている。そのうちB29は数を増し、100機、500機、1000機になったと記されているが、これは軍の大本営発表の数字であろう。よくもこんな多くの飛行機がやって来たものだ。昭和20年に入ると、B29は、夜でなく昼間堂々と東京の空に現れ、焼夷弾など落としていく。
日本の迎撃機による空中戦はほとんどなく、また地上からの高射砲による攻撃も少なく、敵機になかなか当たらない。たまに当たり、煙を上げて落ちていくことがあると、近所の人達が万歳と言って喜ぶ。海野氏が住んでいた所は、東京世田谷区若林町179番地であった。今はこの番地はなく、何丁目何番地の番地になっている。この若林町は東京市街地から離れ、周囲はまだ畑が残っている所らしく、米軍による爆撃は受けていない。ここから渋谷まで約4kmであるので、渋谷に爆弾が落ちて、建物が燃えて、煙が上がると、それがよく見えるらしい。それらを近所の人達が心配して眺めている様子が日記に書かれている。8月に入ると、東京は焼け野原で、それでも敵機はやって来て、空をうろうろする。彼らはどこに爆弾を落とそうか迷っているらしい。政府はそれまで市民に強制疎開をさせていたが、この時期になって、疎開を中止させた。市民の手を借りて、燃えている家を消火させるためであろう。焼け残った建物の木材は燃料として使われる。軍の人達も大勢やって来て、木材を拾って帰って行く様子が書かれていた。8月6日に広島に落とされた高性能爆弾は、原子爆弾であると、新聞に書かれている。彼の日記には、長崎に原爆が落とされたことは書かれていなかった。政府は発表を禁止したのであろう。
昭和20年8月13日、海野氏は、敗戦が決まったらどうするか妻と相談して、一家で死ぬことにしたと書いている。そのために彼は遺書を書いた。その全文が日記に記されている。彼は、一家の子供4名、妻と本人の名前を書き、ご近所の皆様、親族、友人の皆様へ、挨拶を為ずにこの世を去ることを許してくれと書き、また遺品などの処置を親族の名前を書き、彼らにゆだねることを最後に書いている。敗戦が決まり、どうやって一家が自決するか、その方法が見つからない。そのうち、友人、親戚の人達が自宅を訪問し、その対応に追われてしまい、自決の決断がうすれ、また近所の人達も自決したという話を聞かないし、だんだん自決の決断がうすれたようである。
8月24日に、天皇陛下が「灯火管制を廃して、街を明るくせよ」と言われたことに、作者は感激したと書いている。また、8月26日にはラジオ放送で、頭山秀之氏が「敗戦という宝物を生かしていこう」という呼びかけをしている。この言葉を聞いて作者は、涙が出て仕方がなかったと日記に書いている。今、終戦から70年経っているが、この言葉の重みは大きかった。日本は、この「敗戦という宝物」を大事にして平和な国を造ってきた。しかし、この宝物を最近は忘れているようである。安倍内閣は、「国民の命を守るため」という大義を強調している。「国民の命を守る」から「日本を戦争から守る」、さらに「日本国民の安全な生活維持のために」のような発言になると、日本人の大半は納得するであろう。そのために、他国間の戦争に参加(後方支援)するのだ、となると、これは「敗戦の宝物」から次第に離れていきそうだ。
2016.3.10
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大震災から5年
2016年3月11日は東日本大震災が発生して5年目になる。毎年この日がくると、新聞、テレビ、ラジオは特集番組を組み、色々な情報を報道してくれる。この日は、日本国民にとって、5年前の地震、津波などの記憶を思い起こさせてくれるので、貴重な日付になっている。しかし、福島県のローカルニュースでは、ほぼ毎日のように東電の原発事故関連のニュースが報じられている。福島県民は、5年目のこの日が特別な日とは、思っていないであろう。原発事故は、福島県民にとっては生活関連事故であり、当分記憶から消えない。
この年の3月11日の朝日新聞には「東日本大震災による被災の状況と復興の現状」と題して、3県の数字が載っていた。岩手、宮城、福島県の死者、行方不明者では、宮城県は1.1万人、岩手県は0.58万人、福島県は0.18万人と、福島県が少なかった。福島県が少ないのは、海岸線の地形によるものであろう。福島県は海岸の形が穏やかで、後背地が平野部であったのが幸いした。一方、宮城、岩手の海岸線はリアス式海岸で、これが大きな犠牲者を生んでしまった。この教訓を生かして、宮城、岩手の海岸線の宅地は高台へ移そうと行政指導しているが、色々な条件があって難しそうだ。
新聞の集計には、「災害関連死」の人数が載っていた。これには福島県が最も多く、約2千人であり、宮城県は918人、岩手県は455人であった。福島県が多いのは東電原発事故の影響によるものであろう。原発近くは、今でも放射線が高くて、古里を追われたまま帰還の見込みのない住民が多く、彼らは、これからの生活の見通しができない。今まで農業、漁業をしていた人は、他の職業に変えることは難しい。特に高齢者は不可能であろう。このような人達が自殺などで命を絶っている。その数が2000人もいたし、今後も減ることはないであろう。この新聞の集計には、「自力再建者向け宅地完成数」というのが出ている。福島県は649区画であり、宮城県は3921区画、岩手県は1964区画である。福島県が極端に少ないのはなぜか。未だ放射線に汚染された地域が広いので、宅地が造れないのか、あるいは福島県の行政能力が低いのか。おそらく後者が原因であろう。
福島県の夕方のテレビでは天気予報の後、今でも県内の各地の放射線量を最大値、最小値で報道している。これらの数字はここ2、3年ほとんど変わっていない。最小値は0.07マイクロシーベルト(μSv/h)で、これは県内各地似たような数字であるが、最大値は0.2μSvぐらいで、これは各地で変化がある。原発に一番近い双葉町、大熊町では、最大値5〜20μSvを保っている。この地域の放射能が原発からのものであれば、冬の季節、西からの風でこの放射能は海上に出ていき、双葉町、大熊町の数値は減るはずであるが、夏も冬も変わらない。事故直後大量の放射性物質が放出され、それらが近くの山林に落ちて、今でもそれらが空中に放出されているのであろう。山林の除染は困難で、政府もやらないと言っている。私が住んでいる矢祭町には、放射線のモニターが国道沿いにだけでも5カ所ぐらい設置されているが、私が時折見てみると、0.07μSvの数値になっている。この数字もここ3、4年変わらない。強風が吹いた後、数値が下がるかと期待して見ても変化がない。この放射線量0.07μSvは、自然放射線であろうか。ニューヨークやパリではこの数値は0.06〜0.1μSvである。
これらの数値は、福島県がホームページに出しているデータである。これは、「ふくしま復興のあゆみ」で検索して、見ることができる。その中に5年前の4月の県内の放射線量の分布地図が載せてあり、昨年4月の地図も並べて示している。興味があるのは、事故発生時の放射線の流れがはっきり示されていることである。事故直後強い放射線は双葉町から北の浪江町へ漂い、そこから低い山々を乗り越え、福島市へ向かったことがはっきり示されている。福島県の中央には、交通量の多い南北に走る東北新幹線、国道4号線、東北自動車道などがあり、福島市に到達した放射線はこれらの交通機関により南北方向に拡散されたようである。原発から50km離れた白河市では、つい最近まで高濃度の放射線量が示されていた。県内の放射線分布は、5年間毎日、夕方のテレビの天気予報の後に報道されていて、特に第一原発付近の町の放射線量が別に示されていた。最近、この原発付近の数値が出なくなった。高い数値がいつまでも続くので、行政の指示で中止したのか。この放射線量の測定結果は福島県のホームページで見ることができるが、これは一般の人が見るのは難しい。(その後、気がついたらこの数値は再び報道されていた。)
5年前、わが家で受けた大震災による建物の被害は全くなかった。地震後すぐ電気は復旧して安心したが、インターネットは約10日間不通になった。この間インターネットで取引していた東電の株が暴落し、その下落の様子は新聞でしか見られなかった。私は、東電の株を単価3000円ぐらいの頃、300株持っていたが、原発事故から1週間後、単価は300円ぐらいに落ちてしまった。10日後、インターネットが開通して株の取引が可能になったが、時もう遅しで、今更売ることはできなかった。東電株による損失は約80万円であった。事故前の東電株の配当は高くて、期末の配当時期にはお金が入って、楽しみにしていたが、今は無配当である。2年前株価は400円になり、当分このあたりで上下するだろうと思い、無駄な投資だと思いながら、東電株を600株(24万円相当)買い足した。現在、株価は約500円であるが、3000円に戻るのは永久にないだろうと諦めている。結局、私の大震災による被害額は約60万円であったが、原発近くの住民の被害額はおそらく2000万円以上であろう。彼らは古里に帰れないという精神的な被害もあり、それに比べ私の被害額は微々たるものである。
私は、毎日の日課として、寝る前に小説を読み、そして朝食後にはCDによるクラシック音楽を約70分聴いている。このCDは、20枚がセットになったCD集「どこかで出逢ったあのメロディー」という商品を20年前購入したものである。これを毎朝1枚づつ聴いているが、その後好みのCDを買い足して30枚にした。1ヶ月に1回、同じCDを聴く計算になるが、10年、20年聴いても飽きないでいる。このクラシック音楽は、有名なクラシック小品を集めたもので、1枚のCDに10曲から15曲入っている。買い足したCDには、辻井伸行が弾くショパンのピアノ曲集がある。このCDの録音は新しく、高音がきれいに入っているので、辻井氏の繊細な高音のメロディーを心地よく聴くことができる。
これと対照的なCDは、「これがマーラーだ」というタイトルのCDで、マーラーの交響曲の第1番から9番までの中の有名な楽章を集めたものである。重厚で悲劇的な曲想は朝聴くにはふさわしくないが、年寄りの私には、身にしみて感じるところがあって、熱心に聴いている。このCDは、レンタルビデオ店「TSUTAYA」で借りて、パソコンにコピーし、それをCDにしたものである。すべてデジタル処理をしているので、音質は極めて良い。これらの30枚のCDを20年間毎日聴いている訳であるが、1枚のCDをすでに200回以上聴いていることになる。それでも音質の低下は全くないのは、CDの優れたところであろう。CD(コンパクトディスク)の表面は凹凸が刻まれ、それを赤外線レーザーで反射させ、光の明暗として取り出し、デジタル信号化して音とする。従ってCDの表面の機械的な接触はないので、凹凸の摩耗はない。昔のレコードは、レコード針で接触させて音を出す仕組みだから、200回もレコードを聴いていると、レコードの表面がすり減って雑音(スクラッチノイズ)が出て、使い物にならなくなる。
この30枚のCDで最も古いのは、「アダージョ・カラヤン」であろう。これは約30年前、JR横須賀線の保土ヶ谷駅で買ったものである。保土ヶ谷駅は橋上駅であり、改札前のスペースに色々な出店があった。その一つにCDばかり並べていた店があり、そこで見つけたのがこの「アダージョ・カラヤン」である。このCDはその後シリーズが出ており、8年前にも「アダージョ・カラヤン・プレミアム」というCDが売られている。30年前のCDは今聴いても音質の劣化はない。
私が最近購入したCDは、ロッシーニ作曲の歌劇序曲集である。ロッシーニは生涯で40曲のオペラを作曲しており、その中で特に有名な8曲が選ばれ、その序曲を集めたものがこのCDである。特に馴染みのあるオペラは「ウイリアム・テル」と「セビリヤの理髪師」であろう。この序曲は、聞き覚えのあるメロディーで、はじめてこのCDを聴いたとき、懐かしさを覚えた。「ウイリアム・テル」序曲は11分半の長さで、ゆったりした序奏から始まり、最後はテンポの速い行進曲風のメロディーで盛り上げて終わる。このオペラは5時間を要する大作であるので、上演される機会はほとんどないが、序曲はよく演奏されるという。私がこの序曲集の中で気に入っている曲目は、歌劇「アルジェのイタリア女」序曲である。歯切れの良いテンポの軽快なメロディーは親しみやすく、聴き終わってもそのメロディーがしばらく記憶に残る。オペラの序曲は、文字通りオペラ開始前の演奏であるから、聴衆は序曲を聴くことによりオペラへの期待感が高まり、わくわくした気分にさせてくれる。オペラを見ないで、曲だけでもそのような気分にさせてくれるのはありがたいことだ。
ロッシーニの序曲集のCDは、シャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団の演奏で、1990年10月にモントリオールで録音されたものである。シャルル・デュトワといえば、15年前頃、NHK交響楽団を指揮していて、私もテレビでその演奏を見たことがある。彼の顔は覚えていないし、演奏していた姿も覚えていないが、名前だけは覚えており、私は懐かしさを感じた。
2016.4.10
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春の温泉旅行
2月、3月は私達夫婦それぞれの誕生月であり、私達は毎年この月に温泉に行って、よく今まで生きてこられたものだ、と慰め合うことにしている。2月、3月の温泉地の選択は、まだ雪の心配があるため、車を使った旅行はしなく、JRによる南方面の温泉地にしている。今年の2月は南房総、3月は熱海を選択した。2月は妻の誕生月であり、南房総のホテル、「リゾートイン白浜」を予約した。南房総には5年前の2月に行ったことがあり、その時は車で出かけた。成田空港までは時折車で行くので、そこから先の房総は近いだろうという安易な気持ちで行ったが、時間が思ったよりかかり、自宅からホテルまで8時間近くかかってしまった。成田空港までは3時間で行ける経験があるので、その先は2時間ぐらいだろうと予想していたのが誤算であった。成田空港へは潮来から東関東自動車道を使って行くのが習わしであるが、5年前は潮来から国道124号で銚子市を経由し、海岸沿いの勝浦、鴨川へ向かった。丁度帰宅ラッシュに出逢い、予約したホテル「鴨川チサンホテル」には午後7時半に着いた。予め遅れることを電話していたので、夕食には間に合った。
そのような苦い経験があったので、今回は全てJRを利用した。自宅の最寄りの駅は、水郡線の東館駅である。11時発の水戸駅行きに乗り、1時間40分で水戸に着き、そこから常磐線の特急「ときわ76号」に乗り、東京駅まで1時間少しの列車の旅であった。昼食は、特急の車内販売で弁当を買って食べようと思ったが、この特急には車内販売はないという車内放送があり、がっかりした。東京駅では京葉線に乗り換え、蘇我駅から内房線に乗り換え、館山駅には17時に着いた。東館駅から館山駅まで6時間の列車の旅は、疲れた。東京駅から館山駅まで特急があれば便利だが、本数は極めて少ない。館山駅には予約していたホテルのマイクロバスが待っていた。バスの利用者は私達2人だけであったので、5時半の出発予定を早めてホテルに向かい、30分で「リゾートイン白浜」に着いた。泊まった部屋は3階で、正面に太平洋が見え、右奥には野島崎灯台が見える。
このホテルには「ネイチャーツアー付き」のプランがあって、私達はそれに申し込んでいた。内容は、「満開の水仙鑑賞と食用菜の花摘み体験」というものであり、翌日それに参加した。ホテルのマイクロバスで参加者15名を乗せて、ホテルが契約している近くの農家の100坪ぐらいの菜の花畑に案内された。当日は朝から雨であったが、畑に到着したときは雨が止んでいた。運転手兼案内係の男性から食べられる菜の花の摘み方を教えて貰い、配られたビニール袋に詰め放題の菜の花を摘んだ。花が咲く前の蕾が美味しいと、案内者が摘んで食べて見せてくれたので、私も食べてみた。苦みはあるが、少し甘くて美味しい。菜の花が咲いた茎も持ち帰って、後日花瓶に生けてしばらく春の雰囲気味わった。また蕾の部分を湯がいて酢醤油につけて、春の味も楽しんだ。
菜の花を摘んだ後、バスは館山、富浦、鋸南方面へ北上し、菜の花畑から40km離れた佐久間ダムに到着した。このダムは、ダムの周囲に水仙が植えられ、花の時期には多くの観光客が来るというが、2月末には水仙は咲き終わったところであった。頼朝桜という桜が所々に植えられ、これは満開であった。またダムの湖水近くにミモザの花が満開を迎え、華やかな彩りを放っていた。1時間の自由時間の後、この佐久間ダムから1時間かけてホテルに戻った。私達は、ホテルの直ぐ近くの野島崎灯台へ行ってみた。この灯台は、明治2年に建てられており、関東大地震、太平洋戦争などで倒壊し、昭和21年に再建された。この灯台は、200円の入場料で灯台の一番上(地上26m)まで階段で上がることができる。ここからは360度の眺めであり、太平洋の雄大な景色が味わえる。翌日の朝には、ホテルの大浴場から太平洋から登る日の出を見ることができた。ホテルの玄関には地元の花屋さんが来て、ストック、ポピーなどを売っていた。これらの花を600円分買い、持って帰るのが大変だから、昨日摘んだ菜の花と一緒に宅急便で送って貰うことにした。送料1000円で翌日の朝9時頃、これらを受け取った。
3月は、私の誕生月である。今年の温泉は、熱海温泉の「ホテルニューアカオ」を予約した。3月13日、矢祭町のJR東館駅から11時の水郡線に乗り、南房総の時と同じく、特急で東京へ行った。東京からは東海道本線の普通電車で熱海駅へ。熱海には16時15分に着いた。南房総のJR館山駅の場合、17時に着いているので、45分の早さであった。地図で調べると、東京・熱海間と東京・館山間は似たような距離である。同じ普通電車でこんなに早さが違うものか。本線と支線の違いによる電車のスピードの差であろう。熱海駅からホテルへの送迎バスがあり、予約なしに乗れる。ホテルまで15分かかり、5時前にホテルにチェックインできた。このホテルは、相模湾に突き出た半島のような所にあり、フロントは建物の17階にある。そこからエレベーターで降りて、各部屋へ行く構造になっている。私達の部屋は10階であった。部屋からは相模湾が見渡され、真下には波が打ち寄せる「錦ヶ浦」の奇岩・洞窟が見え、波音がよく聞こえる。
夕食は3階にある「うみひこやまひこ」というレストランであり、そこは相模湾が見渡せる。料理は、和洋のバイキング料理で、魚料理が多い。食事時に飲むワインは、グラスワイン1杯1000円であり、これは高かった。先の白浜のホテルでは1杯600円であった。このホテルの飲み物メニューを見ると、ボトルが1本3000円であった。これを注文して、余ったボトルは部屋に持ち帰り、翌日このボトルをレストランに持ってきて飲む、このようなことができるか聞いてみればよかったと、後から思った。ボトル1本でグラスワインが10杯ぐらいは飲めるであろう。チェックアウトでの精算時、飲み物代の2日分4000円は高いと感じた。翌日は雨であった。私は、河津桜を一度見てみたいと思って、伊豆半島までやって来たので、今日は伊豆急線に乗って河津駅まで行こうと計画していた。熱海駅で伊豆急下田行きの電車に乗っていると、伊東の手前で信号機故障のため発車を見合わせていると車内放送があった。車内で待っていたが、なかなか電車は動かない。そのうち復旧に4時間ぐらいかかるというアナウンスがあり、河津行きを諦めた。みどりの窓口で河津までの切符の払い戻しをして貰おうとしたが、「事故不通」というハンコだけ切符に押されて、水郡線の東館駅で払い戻しをしてくれと言われた。
私達は、雨の中どこへにも行く当てがないので、アーケードのある駅前の商店街をぶらついて、ホテルに戻った。次の日は晴天であった。朝食は、昨日と同じ2階の「メインダイニング錦」でのバイキングである。このレストランは、円形劇場の形をしたシアターレストランで、ディナーショーを毎夜開催している。幅広いガラス窓があり、相模湾と錦ヶ浦の洞窟が眼下に見られる。昨日は食事客が多くて、座るのに順番待ちであったが、この日はがらがらに空いていた。客層は若い人から年寄りまで様々であり、社員旅行で来たグループとか、ツアーで来たグループなども見られた。社員旅行の若い人達が上司のいる席に行き、ぺこぺこ頭を下げている姿が見られ、日本社会らしい風景を久しぶりに見ることができた。ツアーの添乗員らしい人がメンバーの席を回り、挨拶しているのも懐かしい風景であった。このホテルにはホテルが経営する「アカオハーブ&ローズガーデン」という庭園があり、私達はそこへ行くマイクロバスに乗って出かけた。バスが5分走った所に入り口があり、入園料400円を払って園に入る。庭園内を一番上まで上がるマイクロバスがあり、それに乗って上まで行き、私達はそこから坂を下りる感じで、バス道を入り口まで歩いた。バラの開花はまだであるが、熱海桜は満開、水仙も満開であった。
当日は熱海から東海道線で東京へ戻る予定をしていたが、予定を変更して熱海から新幹線で帰ることにした。こだまの自由席券、1700円/人を買い、11時27分発の列車に乗り、東京に12時17分に着いた。新幹線の東京・熱海間は50分で、従来線の90分に比べると、さすがに速い。新幹線の車窓風景は、高架を走っているため、遠方が眺められ、飽きない。一方、在来線の東海道線は平地を走っているので、車窓からは線路間近に建てられた民家やアパートばかりで、飽き飽きする。私は乗り物に乗るとき、車窓からの眺めを楽しむことにしている。この前の白浜のホテルに行ったときは、内房線の景色は変化があって、楽しめた。常磐線や水郡線も、民家が線路から遠くにあって、景色をのんびり楽しむことができる。東京からはひたち13号に乗り、水郡線ののんびりした列車に乗り、16時に東舘に着いた。
翌日、伊東線の事故による切符の払い戻しを請求したところ、3000円戻ってきた。これは熱海・河津間の2人分の片道電車代である。私達は河津まで行かなかったので、JRは、私達に往復運賃の代金を払い戻すべきであろう。事故があった時、下田行きの電車に乗っていた事実により、河津までの片道だけは払い戻してあげましょうという規則なのか。4時間後は正常運転していたので、河津まで往復できる筈であるという理屈なのであろう。利用者の予定などを考慮しない、JRの自己本位な姿勢はけしからん話だ。
2016.5.10
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熊本地震
2016年4月14日、15日、震度7の地震が2回続けて熊本地方に発生した。この地震の特徴は、強い地震が2度もあったことである。普通大きな地震の後は、それより弱い余震があり、それも次第に弱くなり、回数も減る。その今までの経験から、1回目の地震の後、もう激しい地震は起きないだろうと思って、無事な家に戻った人達が、2回目の大きな地震で家が崩壊し、犠牲者になった。熊本地震の特徴は、直下型地震で、震源が浅い地下10kmであること、そして活断層が大きく動いて、その近くの建物に大きな被害が出たことである。この地震による被害は、死者49人、建物の被害(全壊)5000棟と報道された。地震発生から避難している人は、1ヶ月後も1万人である。
私が住んでいる東北で発生した東日本大震災が、今年の3月、発生から5年目を向かえた。東北3県で今も避難している人が、まだ17万人もいる。彼らは復興公営住宅や地方に避難して住んでいる。従って、彼らは、今の熊本地震のように体育館などに一カ所に集まって生活しているのとは違う。東日本の地震による死者は、18万人であった。これらの数字から、東日本大震災の被害は桁違いに大きかったことが分かる。東日本大震災による建物の全壊は、12万棟であり、熊本の場合と比べ、数字の上では桁が違う。この全壊の多くは津波による破壊である。従って建物の全壊の跡は基礎のコンクリートだけであり、上の建物は波に流されて海に行ってしまった。今度の熊本地震は津波がなかったので、建物の残骸が敷地に残っている。この残骸の撤去が大変で、人手では無理で、重機で撤去しなければならない。津波被害の東北3県の家屋の後処理は、熊本と大いに違う。
東日本大震災の震源地は、宮城県沖の深さ50kmであり、一方熊本地震は内陸地の地下10kmである。これらにより被害の質の違いが生じている。東日本地震の揺れは深かったので、広い土地が左右に揺れ、活断層などによる地割れは少なかった。私が住んでいる矢祭町でも、震度5強の揺れで、道路のアスファルトにひびが入った程度であった。我が家の敷地には長さ約30mのフェンスがあり、フェンスの下は高さ60cmのブロックが一直線に造られているが、地震によるブロックのひび割れなどはなかった。今度の熊本地震の被害が激しかった地域は、活断層が通っている所であり、地割れが多く見られた。倒壊した建物のほとんどはこの活断層の近くで、無残な姿が新聞などで報じられていた。私は、グーグルの地図でこの惨状をパソコンで見ようと思って、益城町を拡大してその航空写真を見たが、どこにも崩壊の家は見られなかった。この写真は地震前のもので、更新はしていなかった。早く更新して欲しい。グーグルマップの航空写真は、色々な情報を見せてくれて、大変貴重である。東電の福島第一原発事故跡も、今でも見ることができ、敷地には今も機材が散乱している様が見られる。
建物の建築基準法が西暦2000年に改正された。これは、建物の構造強化を法で決めたもので、従来、筋交いなどをクギで打ち付けてよかったものが、接合金物をねじ釘で取り付けるように強制された。クギだけだと、地震でクギが抜けて崩壊しやすいからである。熊本の地震で家が倒れた多くは、西暦2000年前に建てられた家であり、屋根の瓦はいかにも重そうな本瓦であった。2000年以降に建てられた家も20軒近くあったと聞いて、それはどのような状態で崩壊しているか、私はテレビで見たかったが、映されなかった。これらの家は多分活断層の真上に建てられたものであろう。また例えば旭化成ホームズの軽量鉄骨製の家はどうなったか、見てみたかったが、映らなかった。テレビは崩壊した建物ばかり映しているが、倒壊しなかった家を探して、映して欲しい。マスコミはこれらを探して、何故倒壊しなかったかを検証すれば、これから家を建てようと思っている人達は、大いに参考になるであろう。
大きな地震で、なおかつ活断層の近くにある土地の上の建物は、いかに強度が強くても倒壊するであろうと、私は思う。倒壊しない家造りに関して、激しい揺れへの対応による建物の強化だけでは、限界があるであろう。家造りに、発想の転換が必要である。通常、家(民家)を建設するには、まず土地を深く掘って高さ50cmぐらいの基礎のコンクリートを造り、その上に建物を造る。この基礎を造る際、従来の地下を深く掘るのではなく、地上に平面の基盤台を造る方法を、私は提案したい。この基盤台は、建坪よりやや広めの土地にコンパネ(コンクリート成型用合板)を敷き詰め、鉄筋あるいはH型鉄骨で縦横に覆い、そこにコンクリ−トを20〜30cm以上流し込んで造る。この強固なコンクリート盤の上に、従来の方法で建物を建設する。コンクリート盤にはアンカー用の鉄筋などを立ち上げて置くと、建物の基礎工事は簡単であろう。最近では基礎工事が終わった後、基礎の内側に一面にコンクリートを流し込む方法が取られているが、これは土地から上がる湿気を押さえるシロアリ対策のためである。このコンクリートは、基礎との接続が脆弱であるため、地震対策にはならない。
私が提案する基盤台法は、大きな地震が来ても基盤台と建物が一緒に揺れるので、従来のコンクリート基礎が振動でゆがんで、その上の建物が崩壊するという現象は避けられる。活断層の上に建てられた場合、基盤台が動いてその位置がずれることはあるが、建物の被害は受けないであろう。活断層に段差が生じた場合、基盤台ごと傾くことがあるかもしれない。そのような場合、基盤台を水平に保つような工事が必要であろう。沈下した部分に土地を入れて基盤台をジャッキアップすればよい。この基盤台法は筏(いかだ)の上に造った小屋のようなもので、筏が水に流されても小屋はびくともしない。今回の熊本地震で、建築基準法を強化すべきであるという声もあるが、強化のためにコストが上がるだけで、よしたほうがよい。活断層付近に建てる場合は、私の基盤台法を採用すればよい。
話は変わるが、私達は4月24日(日)、上野の東京国立博物館へ黒田清輝展を見に行った。黒田清輝は、日本近代絵画の巨匠といわれ、今年が生誕150年に当たる年である。彼は1884年フランスに行き、ラファエル・コランに師事した。この清輝展には、その師匠のコランの大作が3点、フランスから運ばれて展示されていた。そのコランの絵を見ると、清輝の有名な教科書に出てくる「湖畔」の作品によく似ていたのが、興味深かかった。フランスの展覧会で入選した「読書」という作品も有名で、私ははじめてその実物を鑑賞することができた。彼がフランスで修行中、彼の同時代の有名なフランスの画家、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、シャバンヌなどの絵も展示されていた。黒田清輝だけの作品139点は、大変見応えがあった。
JR上野駅公園口には東京都美術館、国立西洋美術館、上野動物園などがあり、このあたりは私もよく来ている。黒田清輝展が開かれていた東京国立博物館は、東京都美術館へ行く途中の右側の奥まった所に鎮座している立派な建物である。ここには今まで、私は一度も行ったことがなかった。私が福島県の矢祭町から上野の美術館へ行く場合、新宿行きの高速バスをよく利用する。その途中の停留所に、上野駅がある。私はここで降りて、大きな陸橋を渡ってJR上野公園口へ出る。そこから上野公園内の東京文化会館の横を通り、都美術館などへ行くのが、私のコースになっている。荷物を持って美術館に行くのは大変だから、荷物を預けることにしている。コインロッカーは上野駅近くには少ない。駅から歩いて5分ぐらいのところに国立西洋美術館があり、私はそこのコインロッカーを利用することにしている。この美術館の入り口の右側にコインロッカーがあり、100円を入れて利用できる。使用後は100円が戻ってくる。JR駅の400円の料金より安いので、私はこのコインロッカーを大いに利用している。この国立西洋美術館は、ル・コルビュジエが設計して、最近彼の設計した建造物を世界遺産にしようという動きがあり、この美術館も世界遺産になるかもしれない。この建物の優れたところは何なのか、私には皆目判らないが、ただのコインロッカーが利用できるので、有難い建物だと思っている。世界遺産に認定されたら、恐れ多くて、ロッカーを利用しにくくなるか。
翌日の25日(月)には、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開かれていたボストン美術館所蔵の浮世絵版画展を見に行った。これは、浮世絵コレクションとして世界に知られているボストン美術館から、幕末の天才浮世絵師、歌川国芳、歌川国貞の作品を借りだして、展示したものである。歌川両氏が死去した後、アメリカの医者であるビゲロー氏(1850〜1926)が日本にやって来て、主に両氏の版画を買い求め、アメリカに持ち帰った。その数は、1.2万枚と言われる。これらがボストン美術館に良好な条件で保存されている。このうちの350枚がこの版画展で展示されていた。版画であるから、サイズはA4ぐらいで、小さい。近くで見て、その緻密な線と鮮明で複雑な色彩が鑑賞できた。
当日は月曜日にもかかわらず、多くの人が見に来ていた。ほとんどが60歳台の女性で、男性はあまりいない。江戸時代でも国貞の版画絵は美人画で有名であり、多くの庶民がブロマイド代わりに買っていたと言われるが、現代でも美人画は人気があるのであろうか。絵が小さいので観客は近づいて見ないとその美しさが判らない。そのため丁寧に見るのには時間がかかった。私は途中から見るのを諦めて、人垣の後ろから眺めて外へ出た。妻は、この浮世絵が気に入ったようで、丁寧に見ていた。ミュージアムの1階はロビーラウンジがあり、私達はそこで昼食をとった。そのラウンジの横の会場で、絵のオークションが開かれていた。そこには色々な有名な画家の油絵が展示されており、最低価格が示されていた。希望の絵があれば、誰でも入札できる仕組みになっており、後日その結果を知らせてくれる。その中で、ルオーの4Fぐらいの油絵が、最低価格10万円で出品されていた。もし、私が10万円で入札し、その値段で落札できれば、ルオーの絵が手に入るわけで、面白そうだ。これが本物であれば、200万円はするであろうし、偽物であれば額縁代の2000円ぐらいであろう。
テレビ番組で「なんでも鑑定団」というのがあり、私は毎週それを見て楽しんでいる。私がこのルオーの絵を10万円で落札したら、この番組で鑑定してもらうだろう。どんな値段が付くか? 2000円でがっかりするか、200万円で大喜びするか?
2016.6.10
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火星接近、他
2016年5月31日は火星が11年ぶりに地球に接近する日であった。火星と地球との距離は約7500万kmであり、さらに3年後には約5800万kmに大接近する。今回、接近の火星は、6月始めの頃晴天続きで、強風もあったので、肉眼でよく見られた。ある夜、私は55年前に買ったペンタックス製双眼鏡で火星を見てみた。赤みがかった火星が大きく見られたが、表面の模様までは見られなかった。この古い双眼鏡は、鋳物とガラスレンズでできているので、大変重い。これを買った頃、私は京都に住んでいて、プロ野球のナイター見物にこの双眼鏡を使っていた。その頃のナイターは、甲子園球場でしか行われていなかった。私は、思いついたときに甲子園へ出かけていたので、いつも球場の座る席は自由席の外野であった。外野席からは選手の姿が小さいので、この双眼鏡を愛用していた。選手の他に、内野席の客が正面から見られるので、その人達も眺めて楽しんでいた。この双眼鏡は重く、旅行などに持って歩くのは大変なので、10年前、同じペンタックスの軽い双眼鏡を購入した。これは、大きさは以前の半分くらいで、重さは3分の一である。私は、海外旅行にはこれを持って行くことにしている。自宅では、時折庭にやって来る変わった小鳥の姿を、双眼鏡で眺めるのに使用している。
私は、この明るい火星をデジカメで写そうと思い、撮ってみた。私が持っているデジカメは、コンパクトタイプで、コンデジと言われるものである。最近までは、パナソニックの1万円のコンデジを2年間使っていたが、使用中液晶画面が出なくなることが時折あり、昨年からオリンパスのコンデジに買い換えた。パナソニックのデジカメは重さが100gと軽く、持ち歩くのに楽であったが、オリンパスのデジカメは250gと、重い。このカメラは防水型で、GPS機能など、色々な機能が付いているので、値段がコンデジにしては高く、4.7万円もした。私はこのカメラで火星を撮って、パソコンのソフトで拡大して見たが、残念ながら火星の表面は不鮮明で、モザイク模様にしか拡大できなかった。火星の撮影は、本格的な望遠レンズ付きのデジカメ(一眼レフカメラ)でないと、だめなようである。
火星に関するSF小説は国内外で多数あるが、私は今、海野十三の「火星兵団」という小説を読んでいる。これは、小学生向けの新聞に1938年に連載で発表されたSF小説である。この作家にしては長編小説である。小説の内容は、火星国の火星人が地球を乗っ取ろうとする話で、火星人の知能は人間より優れているという設定になっている。結末は、地球と火星が和解し、宇宙のために協力してお互いに発展していこうという筋書きになっている。この小説では原子力エネルギーが色々なところで使われ、火星へ向かう宇宙船も原子力エンジンが使われている。約80年前に書かれた小説にしては未来志向のアイデアである。火星人が地球を襲うSF小説は、すでにイギリスの作家、ウエルズの「宇宙戦争」が1898年に発表されており、海野氏はこれにヒントをえて書いたのであろう。海野氏の「火星兵団」は小学生向けに書かれているので、読みやすく面白い。海野氏は宇宙に関する多くのSF小説をかいており、火星についても、「火星探検」、「火星魔」などの作品がある。
今年は、春から夏にかけて晴天が続き、雨が少なかった。自宅の庭の花や植木も水不足に喘いでいたようで、晴天が続く日の夕方には水やりで大変忙しかった。6月には九州地方で大雨が続き、土砂崩れなどで、死者も出たというニュースがあったが、関東、東北では渇水状態が長く続いた。6月末には雨も時折あり、なんとか水不足は解消されそうである。自宅の庭では、紫色のクレマチスが多くの花を咲かせて、びっくりさせられた。庭には1本のヤマボウシを植えており、毎年多くの白い花を咲かせて、庭中を明るくさせているが、今年は花の色が白からピンクがかった色になった。これも春の晴天続きのせいだろうか。ここ2、3年、蛇は庭に現れなかったが、今年は子供の蛇が3匹も現れた。その蛇は、長さ20cmぐらいで、白い太ひものようであり、動き方がぴょんぴょん跳ねて、蛇らしくなかった。庭には初雪カズラを植えた一画があり、10年前から自然のままに茂らせていたので、高さが20cmぐらいの藪のようになっていた。この中にその子供の蛇が逃げ込んでしまった。放っておけば蛇の住みかになると思い、この初雪かづらをほとんど切り取ってしまった。
その初雪カズラの跡地に土を積み上げ、高さ50cmほどの山を築いた。そこには矢祭の山に自生していたツツジと、黄色のツツジを植えた。この黄色い方のツツジは、横浜から持ってきたものである。ツツジは、小さい枝を切って挿し木にすると、簡単に根が生え、大きくすることができる。横浜の自宅は近くに市民の森があり、私は犬を連れてその森の中をよく散歩していた。途中に珍しいツツジがあれば、先の小さい枝を手で折って、家に持ち帰り挿し木にしていた。矢祭の自宅にあるほとんどのツツジはこの横浜から持ってきたものである。黄色いツツジは森の中でなく、人家の庭の道路際に咲いていたものを失敬したものである。これは窃盗行為であるが、種の保存繁栄に貢献しているのだと、私は勝手に弁解している。黄色のツツジは珍しかったので、単に欲しかったのである。これを矢祭の地でさらに増やそうと思い、挿し木を4本試みている。
6月の終わりには、キキョウとアジサイが咲き始めた。キキョウの花は例年の倍以上も咲いており、これも春の日照りのおかげかなあ、と思っている。アジサイは挿し木で増やしているので5本あり、そのうち親のアジサイが咲き始めた。自宅の前の森には栗の木が所々にある。今年は栗の花が枝がしなるぐらいに多く咲いているので、栗の実も多くなるであろう。秋には実が落下して、栗が拾える状態になる。以前、私は落ちた栗を拾って、茹でて食べてみたが、それほど美味とはいえなく、その後は拾わないことにしている。今年は福島県内でも熊が出たというニュースがあったが、この矢祭には熊は現れていない。このあたりにはイノシシが住んでいると聞いているが、私はまだ一度もお目にかかっていない。イノシシは栗の実を食べるであろうか。そうであれば、このあたりはイノシシにとって食べ物が豊富なところである。
私は、自宅の庭の一部を野菜栽培用に確保しており、そこには毎年サツマイモ、トマト、ピーマンなどを植えている。今年はサヤエンドウ(絹さや)を6本植えて、6月中頃から少しずつ収穫し、それを食べている。この苗は、私の敷地の3区画先の森さんという人から貰ったものである。彼は、花作り、野菜作りが上手で、「森ガーデン」という看板を道路沿いのフェンスに掛けて、見物を歓迎している人である。私が森さん宅の前の通りを歩いていたら、森さんから声をかけられ、サヤエンドウの苗をあげるから持って行ってと言われた。それを有難く貰って、野菜畑に植えている。彼は、色々な野菜の苗を種から育てているようで、野菜作りの本格派である。季節になればホームセンターでは、色々な野菜の苗を売っており、それを買ってきて植えるのが普通であるが、森さんのような人はあまりいない。彼から貰った種から育てたサヤエンドウは、甘みが強くて美味しい。先日地元のテレビ局が「森ガーデン」の取材に来て、放映したと聞いたが、私は見ることを逃してしまった。
私は、毎年サツマイモを植えており、今年は安納芋という種類の茎を買ってきて植えた。サツマイモの茎は、挿し木用として長さ20cmぐらいの茎を20本から50本の束にして、500円から1000円ぐらいの値段で店に置いてある。私はそれを買ってきて、土の上に黒いビニールシートを掛け、所々に穴を開け、そこに1本ずつ植える。ベニアズマの種類であれば、1週間ぐらいで根が出てきて、元気に育つ。今年はじめて買った安納芋は、鹿児島県種子島が原産なので、気温が福島県では低すぎるのか、根付きが悪い。それでも20本の内、10本がなんとか根付いた。ホームセンターでは、サツマイモの茎の販売が終わった後、サツマイモの普通の苗をポットに入れて売り出す。これは茎より値段が高く、1本150円である。茎の値付けに失敗した人が、仕方なくこれを購入するのである。私もベニアズマの苗を4本買って植えた。これは根がすでに付いているので、元気よく育っている。安納芋は焼き芋にすると、甘くて美味しいと言われるので、秋の収穫が楽しみである。
2016年6月23日、英国ではEU離脱あるいは残留の国民投票が行われた。残留か離脱かの議論で、英国は大騒ぎであった。残留を主張する女性議員が殺害された事件があって、国民はさらに興奮していた。投票の結果は、かなりの差で脱離に決まった。現在、日本から1300社以上の会社が英国に進出し、そこで製品を造り、EU各国に無関税で輸出している。離脱が決まると、これらの会社の製品は、輸出に関税が掛かるので、コストが上がり、EU各国との競争に不利になる。日本人は子供の頃から英語に親しんでおり、EUの中では英語が母国語なのは英国だけであるので、日本企業の多くは英国を進出先に選んだのであろう。私は、英国へはツアーなどで、4、5回行っているが、通貨がユーロでなくポンドであり、他国からは飛行機で入国するので、英国がEU圏であるという意識はあまりなかった。これがオランダとかベルギーのような陸続きの出入国であれば、手続きなしにバスなどで国境を通り抜けるので、EUのありがたさが実感できる。
英国がEU離脱を決めたのは、高齢者の意向が左右したものと解説されていた。若者は、EU残留を支持していたようである。EU残留であれば、シリア、東欧などからの難民、移民がさらに増え、英国人の生活環境が悪化し、英国らしさが失われていくという危機感が、高齢者にあったようである。EU脱離なら、英国経済に悪影響を与え、将来が不安であるという危機感が、若者にあったのであろう。今回の国民投票は、生活環境優先か、経済維持優先かの選択肢であり、英国らしさを維持したいという結果になった。私が英国人として投票するなら、「脱離」であろう。今、英国が面白い。
2016.7.10
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日帰りハイキング
2016年6月21日、私達はクラブツーリズムが企画する日帰りハイキングツアーに参加した。ツアーのタイトルは、「ゴンドラで行く!花の宝庫入笠湿原ハイキング」である。一人9980円の料金で、これには、昼食の弁当代とゴンドラ乗車往復料金が含まれている。ツアーのバスは、上野駅前から7時半に出発して、首都高から中央自動車道に入り、南諏訪ICで下りて、富士見パノラマリゾートにあるゴンドラ山麓駅に着いた。山麓駅は標高1050mで、ここから標高1780mの山頂駅まで下界の諏訪盆地や遠くの八ヶ岳連峰を眺めながら、ゴンドラを楽しんだ。当日は曇り空で、北アルプスなどは見られなかったが、近くの山々の景色は十分楽しめた。山頂駅にはレストランがあるが、当日営業していなく、客席が解放されていた。参加者の一部は、そこで配られた弁当を食べた。参加者は34名で、ほとんどが60歳以上であり、一人参加者が半数近くいた。
山頂駅からすぐ右側にドイツスズランの群生地帯があり、白い小さな花が咲いていた。山頂駅の正面を下りていくと、入笠(にゅうかさ)湿原がある。そこには100万本の日本スズランがあり、当日は開花時期であったが、花が小さいので、あまり目立たない。ところどころにクリンソウ、レンゲツツジ、あやめが咲いており、これらがよく目立っていた。入笠湿原の先には「御所平のお花畑」という湿原があり、ニッコウキスゲが咲いていた。我が家の庭にもニッコウキスゲを植えているが、今年は開花が早く、5月末には橙色の花が咲き終わった。この湿原のニッコウキスゲは花の色が薄い黄色であった。このお花畑の右奥には山彦荘という売店があり、その店前にアツモリソウの花が咲いていた。山頂駅の近くにある山野草公園には、この幻の花といわれる「釜無ホテイアツモリソウ」がある、と旅行社の案内書に書かれていたが、私は咲いているのに気が付かなく、通り過ぎてしまった。この売店前の、柵で囲まれた小さな花壇に、この花が大事に植えられていた。多くの観光客がこの花の写真を撮っていた。
この売店の横にはトイレがあり、多くの観光客が利用していた。他の旅行社のツアーも来ており、彼らは添乗員に連れられて動いているようで、添乗員がメンバーを集めて、これから行くところの説明をしていた。多くのツアーはこのトイレ前が一時集合場所のようで、メンバーが1名来ないといって探し回っていた添乗員も見られた。我々の添乗員は60歳代の男性である。彼は、メンバーを引き連れて歩くのではなく、メンバーは自由に歩いてもらうというやり方(各自ハイキングという)をさせていた。この添乗員は、湿原内を一人でうろうろし、メンバーに出会うと、道の説明など、メンバーの質問に答える形で仕事をしていた。このほうが参加者にとって自由で良いのか。私は、参加者を連れて、花の説明などをしてくれるほうが良いと思った。この売店の奥にはクリンソウの群生地があり、満開の花が見られた。ここからは、入笠山(標高1955m)への登山道がある。私達ツアー客は時間がないので、登山は禁止されていた。私達は、そこからもと来た道を引き返し、ゴンドラに乗って、山麓駅に行き、バスに戻った。
バスの前では添乗員が、旅行社が参加者にプレゼントする「濃色ミチノクコザクラ」というポットに入った苗と、トマトジュースを配っていた。トマトジュースは、この近くにカゴメ(株)の富士見工場があるため、そのPRで配られたのであろう。飲んでみると、甘さがないピュアーなトマトの味がした。ミチノクコザクラは多年草の山野草で、私は後日自宅の庭にそれを植えた。どのような花が咲くのかネットで調べると、白色や赤色の花が咲くことが記されていた。濃色という名前を付けているので、赤色の花が咲くのであろう。来年の春が楽しみである。バスは14時10分に出発し、すぐ近くのチーズケーキ工房兼土産物店に立ち寄った。チーズケーキ製造の実演が外から見えるようにしており、チーズケーキも売られていた。バスの中では、土地の特産物のパンフレットが配られ、注文すると添乗員が帰りに手渡してくれる。私達は、折角だから「戸隠そばと野沢菜漬けセット」(1000円)を買った。バスは小淵沢ICから中央自動車道に入り、途中談合坂SAでトイレ休憩をし、17時に上野に着いた。
東京発の日帰りツアーに参加するには、福島県に住んでいる私達は、ホテルに前後泊しなければならない。私達の東京でのホテルの常宿は、品川のプリンスホテルか京急EXイン品川であるが、この日帰りツアーの出発が早朝の上野であったので、宿泊ホテルを「三井ガーデンホテル上野」にした。このホテルは、高速バスの上野停留所から20m戻ったところにある。私達は東京行きの交通手段として高速バスをよく利用するし、降車する停留所は上野であるから、このホテルは私達にとって極めて便利な位置にある。ホテルは道路に面しており、ビジネスホテル風に造られているが、利用客は観光目的の人たちが多いようである。ツアー当日、集合時間が早かったので、私達の朝食は、近くのコンビニで弁当を買い、部屋で済ませた。翌日の朝食は、ホテルのレストランでバイキング方式の朝食をとった。このレストランは、入口が道路に面して、道路側からも入れるようになっており、夜はスナックとして営業している。朝はホテルから直接入れるようにしている。このレストランの客席は20席ぐらいしかなく、そこに和洋中華の料理が並べてあるので、全く狭い。
私は早朝、ホテルの周りを散歩するのを常としてる。今回も朝早く起きて、JR上野駅横の上野恩賜公園内を散歩した。コースは、京成上野駅前から入り、西郷さんの銅像横、上野精養軒、上野東照宮の前を通り、上野動物園の前、東京都美術館の裏を通り、東京国立博物館の正面から広場を通って、国立西洋美術館、東京文化会館の前を通るコースである。私の足で約45分かかった。不忍池や動物園の裏、東京芸術大学の裏、東京国立博物館の裏を歩けばおそらく2時間以上はかかるであろう。こうしてみると恩賜公園の敷地は広大であり、その中にいろいろな文化施設があるのがよくわかる。中央にある広場には多くの人が集まり、輪になって体操をしていた。散歩している人も輪の後ろの方で参加して、体操しているのが見られた。別のところでは、盆踊りのような輪になって手足を動かしているグループもいた。ジョギングをしている人も多く、朝の上野公園は賑やかであった。
ツアー前日の午後、時間があったので、私達は国立新美術館へ「ルノワール展」を見に行った。上野からこの美術館に行くには、山手線の西日暮里から地下鉄の千代田線に乗り換えて、乃木坂駅で降りる。ここからは地下道を看板に従って歩けば、美術館へ着く。私は、ルノワールの多くの作品をフランス・パリの「オランジュリー美術館」で見たことがあった。私達がフランスのツアーに参加したとき、パリの午後に、自由時間があったので、私達は別の二人の婦人と一緒にコンコルド広場の隣にあるオランジュリー美術館へ行った。この美術館は、セーヌ河の傍にあったテュイルリー宮殿敷地内のオレンジ温室を改造して造られたもので、有名なフランス印象派の絵画が集められている。その中でルノワールの有名な「ピアノを弾く少女」を見た。これは教科書にも載っている絵であり、私は実物を見て感動した。この美術館は写真撮影が自由であったので、私は多くの名画をカメラに収めた。国立新美術館のルノワール展でもこの「ピアノを弾く少女たち」が展示されていた。日本のほとんどの美術館は写真撮影禁止であるので、私はこの絵をネットでコピーして、私がフランスで撮った写真の絵と比較してみた。二つの絵は微妙に異なっていることが分かった。この「ピアノを弾く少女たち」はオルセーの所蔵品であり、私の写真はオランジュリー美術館の所蔵品である。同じテーマでルノアールは複数の絵を描いているのだ。
今回のルノアール展は、パリのオルセー美術館から100点近いルノアールの作品が運ばれてきた。この国立新美術館での会期は4カ月もあるので、この期間のオルセー美術館ではルノアールのほとんどの作品が見られない。有名なルノワールの最高傑作「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」も日本に初めてやってきている。広い野外の舞踏会で、多くの人たちが木漏れ日を浴びながら踊りに興じている風景を描いたこの作品は、素晴らしかった。ルノアールの絵は、輪郭のはっきりしないタッチで、色彩豊かに描かれているのが特徴であり、晩年の作品までそれが続いていた。私が会場で彼の作品を眺めていると、急に輪郭の鮮明な絵に出合った。これが彼の絵かと不審に思い、作品横の説明カードを見ると、同時代の他人の作品であった。紛らわしい展示の仕方は、ルノアールの雰囲気に邪魔になるので、やめてほしい。ルノワールは若いころ、磁器の絵付け職人をしていたというが、私も絵付けをしているので親しみを感じた。彼の絵付けの作品は展示されていなかった。
話は変わるが、アメリカでは大統領選挙の話題で、毎日のように賑わっている。共和党のトランプ氏か民主党のクリントン氏か。トランプ氏が大統領に選ばれると、日本にも影響があるであろう。ひょっとすると、アメリカ軍が日本から撤退するかもしれない。そうなると基地で長くもめている沖縄問題も一気に解決される。沖縄県は平和になるが、軍がいない沖縄は他国から狙われやすい。自衛隊がアメリカ軍の代わりを務めなければならなくなるだろう。東京では東京都知事選挙の報道が毎日話題になっている。小池氏、増田氏、鳥越氏の激しい選挙戦が繰り広げられている。投票日の数日前、小池氏が優勢と新聞で報道された。彼女は、女性や若者に人気があるのであろう。増田氏は、自民党が応援しており、自民党は権力と結びついているので、都民の弱者は彼に不信感を持つであろう。そのことが、彼を不利にしているようだ。鳥越氏はサラリーマンに人気があるのであろうか。彼は原発ゼロも訴えている。7月31日の投票の結果、小池氏が知事になることに決まった。初めての女性の都知事であり、局長などの管理職に多くの女性の登用が期待される。どのような都政が繰り広げるのか楽しみである。
2016.8.10
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リオ五輪
2016年8月20日、ブラジルのリオデジャネイロで行われていたオリンピック大会が最終日に近づいた。日本選手のメダル数は、金銀銅合わせて41個となり、これは過去最高の数であり、世界では6番目の多さであった。金メダルの数は12個であるが、銅メダルの数では21個であり、アメリカ、中国に次いで3番目の多さである。銅メダルを勝ち取ったある日本選手は、漢字の「銅」を分解すれば、「金と同じ」であると言ってたが、なるほどそのとおりである。これは日本語だけに通じる慰めの言葉であろう。メダルは金銀銅の3種類しか設定していないが、もう一つ加えたらどうか。金銀銅に続く金属は鉄であろう。「鉄」の字を分解すれば、「金を失う」という悔しさが表現できるので、面白そうだ。鉄は、「鉄の女」や「アイアンマン」など、強さを表現するのに使われる。鉄メダルの制作には困難が伴うであろう。純粋な鉄は、空気中の酸素ですぐ酸化されて、きたない赤茶色になる。これを貰った人は嫌な顔をするであろう。純粋な鉄は光沢があり、色に重みがある。ステンレスとは違う、さびない鉄の技術開発が必要であり、これは日本人の得意な分野である。
私は、8月19日のNHKテレビで、テコンドーの試合を見た。ルールがよくわからないので、どうすれば点が入るのか想像しながら見ていた。手は使えないのは、見ていて分かった。ルールを後でネットで調べると、足が胴体に当たると1点、顔面に当たると3点、体の背中に当たると2点取れるルールになっていた。下半身を蹴るのは減点になる。この競技は韓国の国技になっており、世界で7000人の競技者がいるという。このオリンピック大会にも日本人がテコンドーに参加していたが、メダル獲得までには至らなかった。レスリングでは、日本は大活躍してメダルを沢山取った。私は、この競技をオリンピックがあるごとにテレビで見ているが、ルールが良くわからない。相手選手の背中をマットに押さえつけると勝てる、というのは何となくわかるので、それを頼りに私はこの競技を眺めていた。ルールが分かりにくい競技が多くある中、陸上競技は分かりやすく、勝負が早いのが良い。走る競技は、ゴールめがけて一斉にスタートし、誰よりも早くゴールに到着するかであり、これは競技の原始的な基本である。棒高跳び、走り幅跳びなどでは、誰が勝ったかは、後でわかる仕組みであり、見ていてじれったさを感じる。卓球、テニス、バトミントンなど球を使った球技は極めて分かりやすい。一方、バスケットボールなど、一つのコートに敵味方が入り混じって行う競技は、目まぐるしくて、見ていて疲れる。
4年後の東京オリンピックでは、新たに「野球・ソフトボール」「空手」「スケートボード」「スポーツクライミング」「 サーフィン」が加わる。野球・ソフトボールを除いて、どのようにして勝負をつけるか難しそうである。いづれも点数をつけて争うのであろうが、サーフィンはどのように採点するのか楽しみである。競技団体の関係者は、世界に通じるルールを作らなければならない。私は東京のオリンピック競技に「相撲」を入れて欲しかった。裸にならなくても、回しをつけて、その回しをつかんで投げたり押したりして、体に土が付いたら勝負あった、というルールで良い。首から上の張り手、頭突きは危険行為として禁止する。最近の大相撲を見ていると、頭が相手の目に当たったり、張り手で手が目に当たったりして、目を傷めている力士が多いようである。網膜剥離などで失明の危険性があるので、日本の大相撲でも首から上の攻撃は禁止にしたほうが良い。大相撲でよく見かけるが、相手の髷(マゲ)をつかんで相手を倒すのがある。これは審判団の協議により、髷をつかんだほうが負けにされる。私は、これと同じようなシーンを女子レスリングの試合で見た。日本の選手とロシアの選手が戦っている最中に、ロシアの選手が相手の髪をつかんで引っ張り込もうとしていた。レフリーがこの行為に対して注意をしていた。日本の女子選手は長い髪を後ろでくくっていたので、ロシア選手はこれをつかむのに丁度良かったのであろう。ロシアの選手は、これが反則であるのを知らなかったのであろうか。
バトミントンの高・松ペアが金を取ったのは素晴らしかった。卓球のラリーはテレビ向けで面白い。球が小さく白いので見にくいが、相手がカットマンだと、球がゆっくり返ってくるので、よく見える。返ってきた球を思い切り打ち込む、それをカットマンがどこからでも返してくる。その曲芸師の様なラリーは見ごたえがある。カットマンが後ろにさがった時、相手選手はネット近くに球を返す。カットマンは戻れなくて、ポイントを失うことがある。テニスでも錦織圭がドロップショットで点を取ることがあり、私はそれを思い出した。テニスは何十年ぶりかで、錦織が銅メダルを取った。その試合は、錦織の相手はスペインのナダルで、彼は一時の強さは衰えていたようだが、2対1のフルセットで錦織が勝った。私はテニスを健康保持のために毎週4回テニス教室に通っているので、オリンピックのテニスの試合は熱心に見た。銅メダルを争った錦織とナダルの試合は、最終の第3セット目の試合で、錦織の「作戦」により勝った結果になった。実力伯仲の試合では「流れ」というものがある。その第3セットでは、悪い流れが錦織にあり、この流れを断ち切るために、彼はトイレ休憩を取った。テニスでは試合時間が2時間以上に及ぶことがあり、トイレ休憩が認められている。男性なら4、5分で終わるところが、彼は12分の休憩をとった。トイレがコートから遠くにあり、係の人に連れられて行き、そこで大きいほうのトイレをしたという。12分間も待っていたナダルはイライラしたであろう。再開したテニスのゲームは錦織が勝った結果になった。
400m男子リレーでは日本が初めて銀メダルを取った。日本選手の4人の合計タイムは37秒60であり、アンカーのケンブリッジ選手は、3位と10cmの距離差で、きわどく2位に入った。この37秒は、一人当たり100mを9秒台で走った計算になる。これは世界最速のボルト選手の速さであり、バトンタッチでの助走もあるが、立派な走りである。100m陸上で、日本選手が10秒を切れる可能性を残している。このリレー競技ではバトンタッチに問題がある、と苅部男子短距離監督からの提案で、バトンタッチを従来の上からのタッチでなく、アンダータッチを採用した。選手たちはこの方法を何回も練習したという。この努力が銀メダルに繋がったのであろう。個人の走る速さもさることながら、バトンタッチの技術が功を奏した。リオ五輪は8月21日に終わった。日本選手団はJALとANAのチャーター機で羽田に帰った。その少し前に安倍首相は、政府専用機で一人でブラジルから日本に戻った。行き返りもジャンボ機を一人で使うとはなんという贅沢さだろう。安倍氏は、政府専用機を私物のように使っているのは、けしからん。日本、ブラジル間のフライトは億という金がかかっているはずだ。この際、メダル獲得者と選手団の一部を政府専用機に乗せて帰国すれば、話題は大きかったであろう。
帰国後、メダルを貰った選手がテレビに繰り返し映され、そのたびに涙を流して喜んでいたが、これはもう見飽きてしまった。そんなに喜んでいるのは、お金を沢山もらえるからか、と私は勘ぐって調べてみた。選手がメダルを獲得すると、日本オリンピック協会(JOC)から、金メダルは500万円、銀メダルは200万円、銅メダルは100万円がもらえる。この他に所属する競技団体から報奨金が貰える。水泳の金メダルの場合、3000万円が貰える。同じくバトミントンと卓球の場合、1000万円、自転車は3000万円もらえる。自転車が多いのは競輪での売り上げが多いせいであろうか。柔道は報奨金は0円である。柔道で利益を得ている企業がないのが、その理由であろう。学生以外の選手は、どこかの企業に属してスポーツに励んでいるが、メダルを取れば、所属の会社から祝い金が貰えるはずである。この金額は公表されていないが、相当な金額であろう。これらを合わせて、金メダル獲得による収入は、多い人で5000万円ぐらいになるだろうか。お金を沢山もらえるので、メダル選手は涙が出るほど喜ぶのだ。
話は変わるが、6月から8月にかけて日本列島の気象は異常であった。西日本と東日本の天気ははっきり分かれ、6月、7月の西日本は大雨続きで、東日本は渇水が続いた。逆に8月に入ると、西日本は35度の猛暑が続き、東日本は台風が続けてやってきて、大雨が続いた。特に北海道は3個の台風が通って、各地に水害を起こした。日本列島の近くには温かい海水が押し寄せ、その影響で日本のすぐ近くで台風が発生するという現象が見られた。本来なら赤道近くで台風が発生し、北上して九州あたりを通り抜けるのだが、日本の近くで発生した台風は、北上して関東、東北を通り抜けるコースをとった。地球の温暖化で当分この台風の動きが普通になるのか。8月中旬に発生した台風10号は、発生して北上でなく、南下して、しばらく動きが停滞し、8月の終わりにやっと北上を始めた。台風が太平洋側から直接東北に上陸するのは、観測が始まって以来最初であると、マスコミは騒いでいた。この台風は、岩手県に上陸し、日本海に抜けて温帯低気圧になり、岩手県と北海道に大雨を降らせた。
7月の我が家の庭は日照り続きで、土がからからになり、固く凝結していた。私は、3日に一度ホースで水やりをしなければならなかった。これが結構重労働で、大汗をかきながらの水やりであった。畑にはミニトマトと普通のトマトを植えているが、日照時間が長かったので、毎日多くのトマトが収穫できた。普通サイズのトマトは、6月の成長期に雨が当たると、苗(木)が痛むといわれる。従って、トマトにビニールのカバーをして、雨から守る必要がある。しかし、6月は雨がほとんどなかったので、私はビニール掛けをせずに、トマトを立派に成長させた。2本のトマトから得られるトマトは、多すぎて食べるのに努力が必要であった。普通、トマトは生でそのままおかずの皿にのせて食べるが、それでも中々収穫したトマトを減らせない。私は、トマトを使うレシピを探して、トマト料理を作ることにした。この料理は、トマト、玉ねぎ、かぼちゃを一緒に煮るものである。玉ねぎとかぼちゃに甘みがあるので、砂糖を入れなくても甘く食べられる。
7月に雨が少なかったので、蚊の発生が少なく、私は快適に木陰で休むことができた。今年は蛍が多く現れ、毎夜5,6匹の蛍の光を楽しんだ。例年は2,3匹出てきて、一週間で蛍はいなくなるが、今年は二週間も蛍が生きていた。来年はさらに多くの蛍が飛ぶのではないかと期待している。
2016.9.10
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安達太良山
安達太良山(標高1700m)は、日本百名山に選ばれており、東北新幹線の車窓から、福島駅の手前あたりからよく見える。頂上の形が女性の乳首に似ているので、あの山が安達太良山だとすぐわかる。高村光太郎の智恵子抄に、「頂上の上には本当の青い空がある」と詠われているので、青い空を見るために、安達太良山に登る人は多い。安達太良山は現役の活火山であり、1996年に安達太良山頂上から少し離れた沼ノ平火口で泥水が噴出した。その翌年、その火山ガスにより登山者4名の死者が出た。沼ノ平付近を通る登山道は、今でも立ち入り禁止になっている。安達太良山に噴火がおきた場合、火砕流は、西側の麓の猪苗代町に向かうことが予想され、付近にはハザードマップが作成されている。東側の二本松市や福島市も、噴火による降灰が想定され、これらの小学校などでは避難訓練が時折行なわれているようである。
安達太良山は、このように危険な山であるが、東側から見える山は乳首山と言われ、穏やかな山である。私はこの山に一度登ってみたいと思っていた。今回はどのようなところから登れるか、途中まで行って様子を見ようと、妻と二人で岳温泉へ出かけた。二本松市の岳温泉は、安達太良山の東側の麓にあり、私達は以前に一度来たことがある。岳温泉の街並みは、山の麓の神社を起点とした広い道がくだって、その坂道の両側に形成されている。通りの真ん中には安達太良山から流れる疏水があり、勢いよく水が流れていた。私達が泊まったホテルは、「陽日の郷(ゆいのさと)あづま館」である。このホテルは温泉街のメイン通りの隣の通りにあり、見つけるのに苦労した。このホテルは、5階建ての大きなホテルであり、すべての間取りが広くゆったりした感じに造られている。建物の1階のコーナーに、天皇陛下が皇太子の頃、夫妻でこのホテルに来られた写真が飾られていた。
2016年8月21日、私達は車で岳温泉へ出かけた。矢祭町から国道118号で北上し、途中あぶくま高原道路に入り、矢吹ICの東北自動車道に入り、二本松ICへ。そこから国道459号で岳温泉に入った。自宅から途中昼食で休憩した時間を含めて、2時間のドライブであった。「ゆいのさとあづま館」ホテルには13時半に着いた。チェックインにはまだ早かったが、部屋に入ることができた。当日、台風9号が関東地方に上陸しそうで、東京はすでに雨が降っていたが、福島県は晴天であった。翌日は福島県にも雨が来る予想であったので、安達太良山を見に行くのは今日が良いと思い、車で県道386号を走って、あだたら高原スキー場へ行った。ホテルがある岳温泉の標高は400mぐらいであり、あだたらスキー場は標高950mのところにある。そこにはあだたら山ロープウエイがあり、それに乗って標高1350mの山頂駅へ。ここからは、約1時間半かけて安達太良山山頂(1700m)へ行く登山道がある。午後のその時間には、多くの人たちが山から下りていた。
私は、毎週月曜日の午後7時半から、NHKBSで放送されている「にっぽん百名山」を見ているが、この安達太良山も、以前放映された。その時の登山口は覚えていなかったが、安達太良山の西側からのコースであったようで、中級者向けのコースであったようであった。その時の安達太良山山頂の映像には、多くの軽装の登山客がいたのを覚えている。彼らはロープウエイを使って登ってきたのだと、その時のテレビの解説者が説明していた。私は、ロープウエイを使えば、この山に楽に登れるのだと思い、一度登ってみたいと思った。私は、日本百名山にはどこにも登っていないので、一度トライしたいと思っている。福島県には磐梯山などの百名山があるが、これらは高齢者には無理な感じがしている。茨城県の筑波山(標高877m)には登れそうなので、登山ツアーがあれば参加してみたい。
私は、安達太良山の登山は別の機会に残して、今回は、散策道があるすぐ近くの薬師岳(1350m)へ行き、そこで展望を楽しむことにした。薬師岳は、ロープウエイ山頂駅から歩いて10分のところにあり、薬師岳パノラマパークという大げさな名称を付けた小さな岩の広場である。そこからの眺めは、福島県中通りの平野部が見渡せ、後ろの方には安達太良山の乳首部分が見えた。この広場の付近には、五葉松が群生していた。私達は、その五葉松平を一回りして、ロープウエイの山頂駅に戻り、4時頃ホテルに戻ることができた。ホテルの1階は、ロビー、フロント、ショップなどがあり、奥の方には広々としたコーヒーラウンジがある。そこには宿泊者が自由に飲めるコーヒーメーカーがあり、ラウンジのソファーに座り、コーヒーを楽しんだ。ラウンジの隣には、色々な柄の浴衣が並べてある部屋があり、それを試着してみる鏡も用意されていた。男性用もあったので、私も一着借りて部屋に戻った。
このホテルの温泉フロアは地下にあるが、斜面にホテルが建てられているので、露天風呂の正面は空が見える。温泉場の隣は温水プールがあり、4、5組の家族連れが泳いでいた。温泉は、乳白色で、硫黄の臭いが少ししていた。夕食は和洋中華のバイキングで、多くの家族連れで賑わっていた。私は夕食はバイキングが好きで、ホテルを選ぶ際、「夕食はバイキング」というホテルに決めている。バイキングの好きな人は、色々な料理がたくさん食べられるので、うれしいと言うが、私は逆に料理を少なく食べることができるので、好都合だと思っている。夕食にコース料理が出るホテルでは、一般に料理の種類、量が多い。この場合、私は食べ残すと悪いと思い、全部食べるので、私にとって胃の負担が大きい。年のせいであろう。ホテルの朝食はどこもバイキングであるのが、今では普通になっている。翌日は、天気予報通り9時頃から雨が降り出した。昨日、安達太良山を見に行って良かった。雨の高速道路を走って自宅に12時頃戻った。
今、東京都で大騒ぎしているのは、豊洲新市場への移転であろう。新しい豊洲市場は立派な建物がすでにできている。この土地は、以前の東京ガス工場跡地である。土地には色々な化学薬品が残留し、それらが染み出す恐れがあるため、新市場を建築する際は「盛り土」をしなくてはいけないことになっていた。しかし、盛り土をせずに、設計とは異なるコンクリートの箱を一部の建物の下に造っていた。これが後から判明した。新たに東京都知事になった小池氏がこれを問題視して公表した。もし自民党系の都知事が選挙で勝利していたら、この事実は闇に葬られ、移転は計画通りスムーズに行われたであろう。設計違いを公表したのは、小池都知事の情報公開政策の一つであり、都民は歓迎しているであろう。小池都知事は、パラオリンピックの閉会式に出席したリオデジャネイロから電話で都幹部に、計画と違った建物を造った理由を1週間以内に書類で報告しなさい、と指示をした。1週間後、東京に戻った小池知事は、その報告書が仕事の流れを単に時系列に記していたことを知って、そのことも公表した。原因理由を明確に報告すると、担当の管理職が処罰されるだろうというので、事実を明示しなかったのであろう。知事は、指示に対して不誠実な報告をしたというので、担当管理職のトップを処罰するべきである。しかし、その処罰に対しても、色々な壁ができていると思われ、簡単にはいかないであろうことは予想される。知事は処罰をする権限があるのであろうか。それがないと都政の改革は難しい。
盛り土をやめて、コンクリートの箱を埋めるというアイデアは石原元知事から出た。当時の部下はそのアイデアをくんで設計を一部変更したのであろう。これは役人の一種のゴマスリである。設計変更を公表しておれば、今の問題にはならなかった筈である。石原氏は時折立派なアイデアを出す。盛り土については、盛り土には多大の金と時間がかかるし、盛り土をどこから持ってくるのか、近くには簡単に大量の土を貰える山はないであろう。これを察して、石原氏はこのコンクリート箱のアイデアを出したのであろう。少し話は変わるが、石原氏が都知事であった頃、彼は、福島県の原発事故による放射能汚染土の一時保管を東京都で一部受け入れようと発言した。彼は、東京湾にコンクリートの巨大な箱を並べて、そこに汚染土を入れて蓋をし、その上に公共施設などを造ればいいではないか、というアイデアのようであった。これはマスコミで小さく報道されただけで、このアイデアは消えてしまった。これを実際に実現しようとすると、都民はおそらく猛反対するであろう。東京都は、電気供給でこれまでのお世話になった福島県への恩返しに、汚染土を受け入れたらどうか。
現在、福島県は、原発事故による汚染土を1立方mのコンテナの数にして670万袋抱えており、これらを県内各地の仮置き場に保管している。これらのコンテナは一時保管所に移動する予定であるが、一時保管所を受け入れる広大な場所が見つからない。東京電力の原子力発電所は福島県に設置され、発電した電気は全量東京都へ送られ、都民がそれを使用していた。今は、原発事故のため電気は送られていないが、5年前までは立派な送電塔が県内に建てられ、送電されていた。送電塔の一部が、私が住んでいる矢祭町にもある。私は、用をなしていない塔を時折眺めているが、この塔は一つ大きな役割を果たしている。それは避雷針の役目である。この塔があるので、この地方では落雷は皆無である。
豊洲新市場の話に戻すが、造ってしまった建物は、今さら壊して設計通り盛り土をして、立て直すわけにはいかない。このまま使うとすれば、地下のコンクリートの空間にしみ込んでいる地下水を排水して、底のコンクリートの床に防水シートを敷いて、その上に鉄筋入りのコンクリートを流し込む。そうすれば水の侵入は防げるであろう。壁などに防水加工をすれば、地下の空間は倉庫などに利用できる。これぐらいの工事であれば数億円ぐらいで終わるであろう。誰が、計画を無視して盛り土をやめてコンクリート箱にしたか、などの議論は後回しにして、この防水工事は早急に実施されるべきである。
2016.10.10
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大雪山
札幌市に本社がある北海道中央バス(株)は、札幌市始発の日帰りツアーを季節限定を含めて、約30コース持っている。大雪山の近くに行くツアーは、西側から旭岳を見るコースと、東側から黒岳を見るコースがある。私は最初西側からのコースを申し込んでいたが、層雲峡が見られる東側のコースに変更した。この東側のコースは、「黒岳散策と層雲峡温泉コース」というタイトルで、秋限定の企画である。大雪山は北海道中央部にそびえる火山群の名称であり、大雪山という山はない。「大雪山系」と称される場合、大雪山国立公園の表大雪、北大雪、東大雪、十勝岳連峰を含み、南北63km、東西59kmの広大な面積を持つ山系である。これらの山の中で最も高い山は、旭岳の2291mであり、黒岳は標高1984mの山である。この黒岳ツアーは、黒岳七合目(1520m)まで色々な乗り物で行き、そこから黒岳を眺めるコースになっている。旭岳は、黒岳の反対側にあり、このコースからは見られない。七合目から見えるのは東側の裾野の層雲峡や、その奥の平山1771mなどの連山である。
2016年9月26日、私たちはこの「黒岳散策と層雲峡温泉コース」に参加した。JR札幌駅前のエスタビルに参加者48名が集合し、バスは8時10分に出発した。48名のうち日本人は半分、あとの半分は韓国から来た女性のグループのようであった。この会社の日帰りツアーは、毎日のように実施し、参加は当日の申し込みでもよく、参加者が1名の場合でも中止しない(季節限定のツアーは除く)ので、外国からの参加者に人気があるのであろう。バスは、道央自動車道を走り、岩見沢から旭川を通り、比布JCTから旭川紋別自動車道を通り、石狩川支流沿いの大雪国道(39号)を層雲峡温泉に向かって走った。層雲峡温泉の手前あたりから、高さ200mの切り立った多くの柱状断崖を道路から見ることができる。これらの断崖一つ一つに名前が付けられ、添乗員はそれらを熱心に教えてくれるが、私はすぐ忘れてしまった。この層雲峡付近の紅葉は始まったばかりで、時期的に少し早かったようである。バスは、層雲峡温泉街を抜けて「層雲峡・黒岳ロープウエイ」の麓駅に11時半に着いた。
麓駅の標高は670mであり、参加者はそこから100人乗りのロープウエイに乗り、終点の標高1300mの頂上駅で降りる。この駅から少し歩いたところに、「黒岳ペアリフト」の乗り場がある。参加者はこのリフトに乗り、15分かけて終点の黒岳七合目に着く。ここは標高1520mであり、この先は登山道が山頂(1984m)まで付けられ、1時間半で山頂まで行ける。ロープウエイ麓駅近くの層雲峡温泉に宿泊すれば、日帰りで黒岳に登ることができる。山頂までの登山道は岩場が多く、登山靴で登るように案内書に書いてあった。ツアー客は時間がないので黒岳への登山はできない。当日は晴天であったので、私達はペアリフトで登っていく途中、黒岳がよく見えた。山頂駅で眼下の景色を眺めて、元きたルートで下まで降りた。標高の高い山頂駅付近では、紅葉はすでに始まっており、ピークに近かったと思われる。ペアリフトやロープウエイから見える黒岳は頂上が黒い崖になっている。黒岳頂上は、北側が垂直に切り立っているので、冬には雪は積もらない。黒岳は、黒みがかった岩肌が下から年中見られ、黒岳という名前が付けられたのであろう。
ツアーのバスはすぐ近くの「ホテル大雪」へ行き、参加者はここのレストランで和食の昼食を食べた。私たちは四人掛けのテーブルに、韓国から来た50歳ぐらいの2名の婦人と一緒になった。彼女らは日本に時折来ているようで、和食の刺身も美味そうに食べていた。和食は美味しかったかと聞くと、あれやこれや料理を指さして、美味かったと言っていた。食後、バスの集合集合までに1時間ぐらいあり、ツアーでは、このホテルの層雲峡温泉に入れるように設定されていた。このホテルの最上階にある大浴場に、600円払えば入れるので、私達はフロントに申し込み、貸しバスタオルを貰って入りに行った。男風呂は2名しか入っていなく、女性の方は多くのツアー参加者が入っていた、と妻は言っていた。大浴槽には大きなガラス窓があり、眼下に石狩川支流の渓谷が見られた。石狩川支流は、1週間前の大雨の影響がまだ残っていて、茶色の濁流になっていた。私たちはこの日帰りツアーの翌日、釧路湿原のノロッコ列車に乗るつもりでいたが、帯広、釧路地方の大水害で根室本線が不通になり、その計画を断念した。大雨の影響はこの日帰りツアーのコースでは見られなかったが、石狩川の本流、支流は未だ濁流であったので、大変な雨量であったのが想像された。
ツアーのバスは午後3時前に大雪ホテルを出発し、参加者はすぐ近くの「日本の滝百選」に選ばれている「銀河の滝」と「流星の滝」を見物した。長さ24kmの層雲峡渓谷には多くの滝が流れているが、この二つの滝は道路からすぐ近くにあり、駐車場も整備されているので、多くの観光客が見物していた。「銀河の滝」は、高さ120mあり、上空から落ちる滝はその姿が美しいと言われるが、私にはその美しさが分からなかった。川沿いに歩いて5分のところに「流星の滝」がある。高さは90mであるが、幅が広く迫力があり、「男滝」と言われている。銀河の滝は「女滝」というそうだ。この二つの滝は道路から同時に見られないが、滝の反対側の山を20分ほど登ると「双爆台」という展望台があり、そこからは一つの大きな岩の両側にこれらの滝が見られる。ツアーは時間がないので、そこには行かずに帰途についた。ツアーは18時半に札幌駅に戻った。
私達は札幌に行く場合、福島空港から飛行機を利用することにしている。2016年3月26日、北海道へ新幹線が函館まで開通された。私は、JRで札幌へ行く場合の料金と所要時間を調べてみた。私の自宅から最寄りの新幹線の駅は、新白河駅であるが、この駅は新幹線のローカル駅であり、仙台どまりの新幹線しか止まらない。従って、仙台駅で乗り換えて新函館北斗駅行きに乗り、そこから在来線の特急に乗り、札幌に行かなくてはならない。新白河駅9時49分発の新幹線に乗った場合、札幌駅に着くのは17時41分である。この料金は、一人23920円であるが、ジパングクラブの3割引きを適用すると、16740円である。飛行機の場合、福島空港から9時55分発の新千歳空港行きのANAに乗ると、11時10分に着く。そこからJRの快速電車にのり、12時頃札幌駅に着く。飛行機の料金は割引き料金を利用して、一人17900円であり、JRの札幌-新千歳間運賃1100円を入れて、計19000円である。福島空港の駐車場は無料で利用できる。一方、JR新白河駅付近の駐車場は有料で、1日600円である。駐車料金を含めれば、飛行機利用の料金とJRの料金はほぼ同じである。JRを使って一日がかりで札幌に行くよりは、半日で行ける飛行機の方が断然便利である。
今回の黒岳日帰りツアーは、私達は前泊のためツアー前日に飛行機を利用して札幌へ行った。12時にJR札幌駅に着いたので、午後、札幌市内中心部にある北海道立近代美術館と北海道立三岸好太郎美術館へ行くことにした。私達は、札幌駅から地下鉄南北線と東西線を利用して、「西18丁目」の地下鉄駅で降りて、歩いて道立近代美術館へ行った。生憎、月曜日休館で入館できなかった。すぐ隣に三岸好太郎美術館があるので、そこにも行ったが、月曜日休館で入れなかった。美術館があるこの付近は、広い公園のような区画がならんでおり、三岸好太郎美術館の敷地の隣には北海道知事公館がある。この建物は1936年に建てられ、1953年から北海道が所有している。ここは月曜日も一般公開されていたが、入らずに、赤白のコントラストが鮮明な外観と、広い緑の芝生を鑑賞した。知事公館構内には1000年以上前の竪穴住居跡があるという。
日帰りツアーの翌日は飛行機で自宅に帰る。福島空港行は一日一往復しかない。以前、「エアドウ」が運航していた時は、一日二往復あったが、ANAに代わって、一日一往復になった。そのため福島と新千歳のフライトの予約は、一カ月前あたりからほぼ満席である。私達の帰りの便は、新千歳発16時15分であり、約半日の時間が札幌で過ごせる。妻は、映画「ハドソン河の奇跡」が札幌駅ビルの6階の映画館街で上映されていたので、それを見に行った。私は、札幌市郊外にある札幌芸術の森美術館で開かれている「エッシャーの世界」という版画展を見に行った。地下鉄札幌駅から南北線の終点「真駒内駅」で降りて、そこからバスで15分のところに札幌芸術の森があり、その敷地の中に芸術の森美術館がある。エッシャーは世界的に知られる「だまし絵」の版画家であり、美術館ではオランダのエッシャー財団所蔵の作品90点が展示されていた。だまし絵は、見れば見るほど不思議な感覚に落とし込まれるが、見ていて楽しいと同時に疲れる。札幌芸術の森には工芸館、野外美術館、版画工房など色々な施設があり、これらを見て回るだけで一日かかりそうである。
JR札幌駅構内の「三角の像」で妻と待ち合わせて、私達は新千歳空港へ行き、福島空港行のフライトで自宅に戻った。福島は生憎の雨で、車の運転に慎重を要したが、無事帰宅できた。
2016.11.10
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清里と富士見高原
2016年10月18日(火)、私達は新宿から出発する日帰りツアーに参加した。このツアーは、クラブツーリズムが企画したもので、「清里高原ホテルで選べるランチと八が岳の高原列車、標高1420m!紅葉の天空遊覧カート&展望リフト」という長いタイトルが付き、さらにサブタイトルとして、「歩かずに3っの乗り物で紅葉を楽しもう」が付いている。これらの文句だけで旅の内容が味わえる気がする。旅行社は、このツアーをワンランク上の旅「プレミアムステージ」と呼び、黒塗りのデラックスバスを使用する、と宣伝していた。参加者のバスの席は旅行社が決めるが、ひとり600円支払えば、バスの最前列の席が確保できる。私達はそれに申し込み、最前列に座ることができた。おかげでバスの行程中の前方の風景が楽しめた。ツアー代金は、この座席料を含めて一人12000円であった。
このツアーの集合場所は、「新宿駅西口・10号線高架下、都庁大型バス駐車場」である。今まで日帰りツアーの集合場所はJR上野駅前が多かったが、今回の新宿駅西口は初めてである。地図を見ると、東京都庁の前であり、すぐうしろには京王プラザホテルがある。このホテルは私達の常宿の一つであるので、今回はこのホテルに宿泊することにした。10号線は高架になっているが、ホテルの正面玄関から出ると、10号線の別名「議事堂通り」があり、その向こうに都議事堂があり、さらにその向こうに二つの都庁舎がそびえている。JR新宿駅西口から京王プラザホテルへ地上の道路を歩いていくと、ホテルの建物の裏側の入口があり、その中を突き切ると正面玄関がある。従って正面玄関前は地上(グランドレベル)である、と錯覚するが、実は2階の高架道のレベルである。その下に地上から続く都庁大型バス駐車場がある。この集合場所に行くには、ホテルの正面玄関から出て、階段を下りれば、トンネルのような広い駐車場に行くことができる。ホテルから歩いて5分もかからない。
集合時刻が午前9時20分であったので、私達は15分前に集合場所へ行った。この駐車場には他の旅行社のバスが3台ほど入っていて、多くの参加者が集まっていた。私達のツアーでは、係の人が旗を持って待っていたので、私達はそこへ行き、名前を告げてバスが来るのを待った。この地下広場から都議事堂の1階に行くことができ、そこにはトイレもある。定刻の10分前にバスが来て、参加者約20名を乗せてバスは定刻に出発した。バスは、首都高、中央道を走り、長須ICで降りて、国道141号線の「清里ライン」を通り、12時頃「清里高原ホテル」に着いた。このホテルでの昼食は、和食コースと洋食コースがあり、どちらかを予め選択することになっていて、私は洋食、妻は和食を申し込んだが、コースによって食べる部屋が別になるので、夫婦は一緒にしてくれと言われた。私は妻と一緒に和食を食べることにした。参加者の半分以上が和食を選択し、残りは洋食を選択していた。和食のレストランからホテルの広い庭が見えた。この庭では、大きな池の向こうに八が岳の山が眺められる。
1時間後バスは少し離れたJR小海線の野辺山駅へ。私はおよそ50年前、この小海線に乗ったことがある。当時は列車の中から風景を楽しんだだけで、どこかの駅に下車した記憶はない。当時の各駅の駅舎は木造の素朴な建物であったと思われる。私は旅に出る時、大学ノートを持って行き、旅の行程などを記録している。そのノートも今では20冊以上になった。その当時の記録を見れば詳しく分かるが、探すのが面倒であるため、過去の記録を見ることはしない。現在、この小海線は「八が岳高原線」と名付けており、野辺山駅はモダンな建物になっている。野辺山駅はJRで一番標高の高い駅として、駅前に1350mの数字を入れたモニュメントが建てられていた。ツアー客は、野辺山駅で高原列車に乗り、次の駅の清里駅で下車した。7分間の高原列車の旅である。清里駅もリゾート地らしい建物になっており、駅前の通りもユニークな建物がところどころあり、観光地らしい雰囲気であった。
私達は再びバスに乗り、八が岳の麓を通る「八が岳高原ライン」を紅葉を眺めながらバス旅行を楽しんだ。到着したところは富士見高原リゾートというところで、ここから「天空の遊覧カート」に乗って、富士見高原「創造の森」へ行く。この辺りは天空の遊覧とか創造の森とか大げさな名前を付けているが、びっくりするほどのものではない。この遊覧カートは、隣接の富士見高原ゴルフコースで使っていたゴルフ用カートの払い下げ品で、カートの乗り場から標高差200mのジグザグのカート専用道をつくり、道の中に埋められた電磁誘導線の誘導により、無人でカートが動く仕組みである。ツアー客は4人乗りのカートに分乗し、約25分で終点の「望郷の展望台」(標高1420m)に着く。そこから「望郷の丘展望台」、「望岳の丘展望台」、「望峰の丘展望台」をめぐる散策コースを20分かけて歩いた。これらの展望台から諏訪盆地の向こうに甲斐駒ヶ岳(2967m)を中心に南アルプスの山々がよく見えた。東の方に富士山も見える筈が、霞んで見えなかった。北側には八が岳の権現岳の頭の部分が見えた。下りは一人乗りの「展望リフト」で下界の景色を眺めながら降りた。
16時にツアーのバスは帰途に就いた。小淵沢ICから中央道に入り、途中「談合坂SA」でトイレ休憩をし、その時旅行社が斡旋していた土産物を渡してくれた。旅行社は、行く途中のバスの中で、土産物のパンフレットを参加者に配り、希望者に申込書を記入させ、土産物代金を徴収した。私達も「山梨ワインレーズンショコラ」を注文していたので、その品物を受け取った。色々な店で土産物は売っているが、多くの種類があるので何を買うか迷う。このように旅行社が薦める商品は間違いがなかろうと思い、申し込んだ。旅行社は業者と結託しているとは思うが、面倒でないのが良い。私はネットで買い物をよくするので、買う前にその品物の仕様を調べる習慣がある。この旅行社のパンフレットにも商品説明が記されていたので、納得して注文した。土産物店に並べてある商品の裏には商品説明が張り付けてあるが、字が小さく読むことは困難である。私が買った「ショコラ」は、後日テニススクールのメンバーに土産として全部渡してしまったので、それがどんな味であったのかわからない。ツアーのバスは、予定通り18時半にJR新宿駅西口に着いた。
東京発の日帰りツアーを利用する場合、私達はその日の前日と当日、東京に宿泊しなければならない。そのため、前日宿泊の場合その午後に時間があまり、当日宿泊の翌日は午前中に時間のゆとりがある。今回、前日の午後、上野の「上野の森美術館」へ行った。私はこの美術館へ行くのは初めてで、地図を頼りに行くと、JR上野駅公園口から歩いて3分のところにこの美術館があった。当日、この美術館では「デトロイト美術館展」が開かれていた。デトロイト美術館は、アメリカの車産業の中心地であったデトロイト市に於いて、自動車業界の豊富な資金を用いて、ヨーロッパの印象派、ポスト印象派などの名画を購入していた。画家は、モネ、ルノワール、ゴッホ、セザンヌ、マティス、ピカソなどのヨーロッパ近代絵画の巨匠達である。この美術展では、彼らの作品52点が展示されていた。私は、これらの作品を教科書などで見たことがあり、これらの作品を見て、なつかしさを感じた。この美術展では、月曜日と火曜日は作品の写真撮影ができることになっていた。私達が行った日は月曜日であったので、私は写真を色々撮ることができた。写真撮影ができるのは外国の美術館では珍しくないが、日本では極めて珍しい。月曜日にもかかわらず入場者は多く、ほとんどの人はカメラやスマホなどで写真を撮っていた。
この日の宿泊予定の京王プラザホテルにチェックインしたのが、午後4時前であったので、私達はホテルの目の前にある都庁の展望台に行ってみることにした。ホテルの正面玄関を出ると、正面に都議事堂の立派な玄関がある。私達は、議事堂通りの横断歩道を渡り、その議事堂の玄関から入った。玄関ホールには10人ぐらいの警備員や都職員らしい人がいて、のこのこ入ってきた私達に一斉に頭を下げて挨拶した。私は彼らの大げさな挨拶にどぎまぎして、彼らの一人に展望台に行きたいのだが、と恐る恐る聞いてみた。彼は、ご案内しましょう、と腰をかがめて言い、突き抜けの扉を開き、階段を指さし、ここを降りてまっすぐ行くと第一庁舎のエレベーターがあります、と教えてくれた。私は、どうもありがとう、とお礼を言って彼と別れた。階段を降りたところは都民広場になっていて、その先に二つの高層の庁舎がそびえている。よく見ると多くの人達が議事堂横の入口から都庁舎へ向かっていた。一般見学者は議事堂玄関でなくて、ここから入るべきであったのかと、後から気が付いた。
展望台のエレベーター前では、荷物検査があり、20人ぐらいが並んでいた。展望台は45階にあり、そこから都内が見下ろせる。展望台ホールには多くの外国人がいて、日本人は少なかった。当日は曇り空で、もやがかかっていたので、東京タワーはかすんで見え、スカイツリーは見えなかった。都民広場の地下にはレストラン街があり、そこを見て回ったが、5時過ぎであったので、客はどこにも入っていなかった。都議事堂の1階には「TOKYO都庁議事堂レストラン」があり、客もぽつぽつ入っていたので、私達はそこで夕食をとることにした。定食とサラダを注文したが、そのボリュームの多さにびっくりした。ちなみに、ぶり大根煮定食780円、お刺身定食980円、じゃこ水菜サラダ480円、お刺身サラダ680円の値段であり、これらを全部食べるのに苦労した。
ツアーの翌日は午前中は暇なので、六本木にあるサントリー美術館へ「鈴木其一展」を見に行った。鈴木其一(きいつ)は、江戸時代後期の絵師であり、江戸琳派の祖である酒井抱一の事実上の後継者である。代表作の一つである「朝顔図屏風」は、メトロポリタン美術館から運んできた大作である。日本での公開は、12年ぶりということで、多くの人が熱心に見入っていた。色彩の鮮烈さと構図の大胆さにはびっくり。自宅への帰りは、東京駅南口のバスターミナルから午後2時10分発の常陸大宮行の高速バスに乗り、那珂ICのバス停で降りて、そこの駐車場に置いてあった車で自宅に戻った。
2016.12.10
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はるうらら、去年のこと
昨年、暮れの恒例になっている「今年の漢字」は、「金」であった。リオオリンピックで日本が多くの金メダルを取ったというのが、その理由であろうか。リオの次は東京オリンピックであり、その施設建築などでも話題になり、4年後も「金」を多く取ろうという期待があるのであろう。福岡、博多駅前で起きた金塊事件は不思議な事件であり、未だ何も手がかりがないという。被害者と加害者がグルになって行った芝居のようで、保険金目当てかもしれない。被害者は、6億円という金塊ならガードマンを雇うとか、警察に連絡するとか対策をすべきであり、彼らは何もしていない。ニセ警官が持ち逃げした際も、大声を出さずに車を見送ったというから、不思議である。ケースの中は「金」でなく「石」でも入れていたのであろう。京都の僧侶が書いた「金」の字は、草書体であり、すぐには読めない人が多かったと思う。私の苗字は金谷であるが、この金という漢字は書くのにバランスが取れなくて、カッコよく書けない。今年は草書体の金を見習って書いてみたい。
昨年は金でなくて、中小学生がキン(菌)と呼ばれて、いじめを受けて、社会問題になった。原発事故で福島からやむおえず関東各地に避難して暮らしている家庭の子供が、地元の子供から菌呼ばわりされて、嫌がらせを受けていた。福島から避難してきた人には放射能が付いているかもしれない、という親同士の話を子供が聞いて、放射能の知識がない子供は、菌だと決めて、いじめに走り、排除しようとしたのであろう。今でも福島産の食品を敬遠している人がいる。福島の人が作ったおにぎりをある東京の男性に食べてもらった。彼は、そのおにぎりは福島のお米でつくった、と聞いて、口の中のおにぎりを吐き出したという。私はそれを聞いて驚き、怒りを感じた。大人がこれだから子供もその影響を受けているのである。6年前までは東京電力が福島県内で発電した電気を東京都はじめ関東各地で使用していた。今でも東電は、福島県内の広野火力発電所で発電し、関東へ送っており、都民たちはその恩恵を受けている。
東電は何故他府県に発電所を造るのか。発電所は、水力発電所の建設から歴史が始まり、この立地条件は山奥に限られ、他府県に発電所を造るという習慣ができたのであろう。原発や火力発電所なら広い土地があれば、関東各地に設置することができる。東京湾の埋立地は絶好の場所である。ここに発電所を造る計画を東電がたてれば、どうであろうか。都民は猛反対するであろう。原発の事故で放射能が出れば、大問題であるとか、火力発電所の場合は、排ガスが都内に流れ都民の健康を害するとか、大騒ぎになるであろう。都民は身勝手すぎる。福島県の場合、もし火力発電所を東電がどこかに造ると言えば、おそらく福島の住民はうけ入れるであろう。江戸時代から、福島は伊達藩の宮城と徳川幕府系水戸藩の茨城の間にあり、水戸や伊達のスパイ(間者)が福島の中通りを行き来していた。両者の権力のはざまで、福島の庶民はおとなしく、事を起こさない習慣が身に付き、権力者の言うことには反対を唱える勇気を持たなかった。お上の言うことにはすべて従ってきたのである。
私が住んでいる矢祭町は、福島県中通りの南端で、茨城県に接している。ここは、宮城県(伊達藩)と茨城県(水戸藩)との往来が昔からひんぱんであったところであり、そして矢祭町の宮城県側には塙町という天領が置かれていた。天領が隣町にあることと、情報を集める間者の往来があったことで、矢祭町の男性は他人と話をすることを恐れていたようである。そのため、わが町の男性は寡黙であり、他人に積極的に話をしない。第三者に話の内容が分からないように、早口で、口を開かずに小さい声で話す習慣ができてしまった。私はこの町に移り住んで15年になるが、地元の人と話をしても半分ぐらいしか話の内容が判らない。さらに私の高齢による聴解能力が相当落ちていることもあり、私は聞き返すことが面倒になり、笑ってごまかすことが多くなった。
昨年の7月には東京都知事選挙が行われ、初の女性知事、小池氏が当選した。小池知事は情報公開に力を入れているので、テレビでは毎日のように小池氏の映像が見られる。テレビ向けかもしれないが、彼女の着ている服装が毎日変わるのは、私のような高齢の男でも気が付く。彼女のファッション姿を見ているだけでも楽しい。小池知事が最初に手を付けたのが、築地市場の豊洲への移転であり、「盛り土」問題を都民に提供した。これは今も専門家による検討が続けられ、移転が長引いているので、築地の市場関係者は困っている。次は東京オリンピックの会場建設である。バレーボール会場を横浜アリーナでやったらどうかという小池知事に対して、バレーボール協会は猛反対していた。協会は反対する資格はあるのか。現在のバレーボールの実力を考えれば、恥ずかしくてものが言えないのではないか。結局は有明に新設することになった。現在、オリンピックの建設費を含めた総予算1兆8000億円の金をどこが出すか、話し合っている。
今年、2017年7月には東京都議員の選挙がある。小池氏が新党をつくって、そこから何人の都議員を当選させるか、興味がある。昨年の暮れ、都議会が終了して、小池氏が都の党派へあいさつ回りをしていたテレビ映像を見た。小池氏は、自民党へはあっさりした挨拶をし、公明党には握手したり、記念撮影をしたりして、その対応が極端に違っていた。それをテレビではしつこく報道していた。これは今年7月の選挙に向けた小池知事の作戦であろう。先の都議会では自民党は、質問事項をあらかじめ小池知事に連絡せずに質問をして、知事をいじめた経緯があった。彼女は自民党への反感があったのであろう。その時の知事は困惑せずに答弁したものと思われる。自民党の子供じみた行為は都民の笑いものになったに違いない。小池知事が自民党を離れていないのも何か思惑があるのではないか。小池氏は、都議会で統一会派をつくり、その中で自民党とか公明党とか民進党などの派閥をつくらせ、政策についてだけで一つのまとまった会派を形成させようとしているのか。その際、まとめ役が必要なので、それは小池派が行う。私はそのような形になるのではないかと予想する。7月の選挙が楽しみである。
私達は昨年、日本各地3か所の紅葉を見てきた。9月には北海道大雪山系の黒岳の紅葉を見た。標高が2000m近いところであったので、早くも紅葉が見られた。10月には八が岳山麓の富士見高原で標高1400mの紅葉を眺めた。11月には福島県の塔のへつり(標高400m?)の紅葉を楽しんだ。「塔のへつり」は、会津地方を流れる阿賀川(大川)の渓谷にできた柱状の断崖であり、南会津郡下郷町にある。塔のへつりは紅葉の名所で、福島のテレビ局では紅葉のシーズンには毎日のように紅葉の情報が天気予報と一緒に報道される。私達が見に行った11月14日は丁度見ごろになっていたので、私達は芦ノ牧温泉で一泊した翌日に見物した。芦ノ牧温泉は、会津若松市に属しているが、市街地から南方の遠く離れた山間の温泉地である。この地方は、蛇行する阿賀川の渓谷に、ところどころ平地があり、集落が点在している。阿賀川に沿って国道118号と会津鉄道線があり、その沿線に芦ノ牧温泉がある。私達が泊まったホテルは「不動館小谷の湯」で、目の前に阿賀川の渓流が見られる。
このホテルの部屋はすべて畳敷きの和室であるが、一部、畳の部屋にツインのベッドを置いた部屋があったので、私達はそこを予約した。畳敷きの布団よりは、ベッドの方が寝起きに楽である。温泉は源泉かけ流しのお湯で、大浴場から阿賀川の渓流が眺められる。阿賀川は、この近くが源流になっており、川の流れは北上し、会津若松市を通り、新潟県に入り、そこから名前を阿賀野川と変えて日本海にそそぐ。私達は、翌日10時にホテルをチェックアウトし、2食付き一人1万1千円を支払った。ホテルを出て、国道118号を南下すると、塔のへつりという大きな看板があり、左折すると駐車場がある。駐車場は、クヌギなどの落葉樹林の中にあり、そこは紅葉の真っ盛りで風情があった。近くに会津鉄道の「塔のへつり」という駅があり、そこからも塔のへつりへ歩いて行ける。駐車場から5分ほど歩くと、大川(阿賀川)の対岸に柱状の断崖(塔のへつり)が見える。この塔のへつりは、1943年に国の天然記念物に指定された。このあたりの地形は、凝灰岩、貝岩などが互い違いに形成され、柔らかい地層が長年の浸食と風化で削られ、奇岩ができた。それらが200mにわたって並んでいるさまは、見事である。一つ一つの崖に、屏風岩、烏帽子岩などの名前が付けられている。対岸まではつり橋で渡ることができ、その先に舞台岩がある。観光客はそこまでしか行けない。
私はNHKの「ブラタモリ」を毎週見ているが、タモリがこの景色を見れば喜ぶだろうと思った。彼は地質学が趣味のようで、毎回彼の博識に感心している。「塔のへつり」のへつりの漢字は、山かんむりの下に弗という字を書く。この付近ではこの字を多くの看板に使っていたのにはびっくり。私はこのような漢字は初めて見る。へつるとは、削るあるいは「はつる」のような意味であると思っていたが、この漢字から「へつる」は想像できない。塔のへつりの紅葉は渓谷の両岸の落葉樹が黄色になっていて、見ごたえがあった。ここには外国人観光客が多く、このような辺鄙な所まで外国から観光に来るのかと感心して、私達は14時過ぎに自宅に戻った。
2017.1.10
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大寒波
今年1月中旬、日本列島に大寒波が押し寄せ、日本海側に大雪をもたらした。暮れから年初めにかけて暖かかったので、私達は春のような気候でのんびりできたが、今度の寒波で極端な気温差があり、びっくりした。この寒波で日本列島はインフルエンザの患者が増えたそうだ。日本海側の各地では屋根の上に積もった雪の雪下ろしで、転落事故が毎日のようにあり、死者も多く出た。私が住んでいる福島県も、南会津地方では2メートル以上の積雪があった。福島県は、東西の横長の地形になっており、東から西へ「浜通り」、「中通」、「会津地方」に区分されている。天気予報も、この3地方に分けて予報されている。冬の積雪は会津地方が最も多く、中通、浜通りは積雪は極めて少ない。今度の大寒波でも、中通と浜通りはうっすらと雪が積もった程度であった。寒波は、中国大陸から来る高気圧と、北のシベリアから来る高気圧の2種類があり、それにより福島県の雪の降り方が異なる。昨年の11月には、北からの寒波があり、中通は大雪に見舞われた。
今度の寒波は中国大陸からのもので、当地矢祭町は積雪はなかった。しかし気温が低くなり、マイナス5℃が2、3日続いた。そのため、この地方の冬の風物である久慈川に「しが」が流れた。この「シガ」は、上流の町「塙」町の久慈川の川底に水が氷となり、それが明け方、浮かび上がり、下流の矢祭町に流れてくる氷の塊群である。「シガ」が流れてくると、本格的な冬がきたという気分になる。矢祭町の南隣の茨城県大子町には、華厳滝、那智滝とともに日本三名瀑の一つといわれる「袋田の滝」がある。この滝は、氷瀑と呼ばれて、冬には滝が凍ることで知られているが、最近はほとんど凍らない。しかし今年の大寒波で、この袋田の滝が約半分凍った。まもなく全面的に氷結するものと思われる。矢祭町がマイナス5℃くらいの時、袋田付近はマイナス8℃ぐらいになり、滝が凍ってくる。矢祭町の南へ20kmの位置にある袋田付近が、なぜ気温が低いのか不思議である。日本海から流れてくる寒気が山の間をうまく抜けて、袋田に到達するのではないかと、私は想像している。
私は、年のせいか夜中必ず2時頃目が覚める。布団の中でじっとしているのは退屈なので、ラジオをイヤホーンを付けて聞くことにしている。30分位経つと自然に寝ているようで、朝の5時か6時頃目が覚める。このラジオは、ソニー製の電池で働く小型のオールバンドAM、FMラジオである。毎日、夜6時間ぐらいつけっぱなしにしているので、電池の消耗が早い。私は電池を使うのを止めて、AC100VからDC3Vに変える変圧器を購入して、このラジオに取り付けた。電池の交換を気にすることなく、ラジオを聴くことができる。このソニーのラジオは、高感度で北海道から中国地方の放送局が受信できるし、韓国の放送もよく聞ける。たまに中国語やロシア語の放送も聞くことができるが、電波は弱い。英語のFENも何とか聞ける。こんなに遠方の放送局が聞けるのは、長さ10mのアンテナ線を2方向に張っているからであろう。このラジオは、はやりのデジタル式でなく、小さなツマミを回して選局するタイプである。指先でツマミを回して選局するのであるが、ツマミの回す角度と選局する周波数との対比が大きいので、選局が楽にできる。私は、このラジオは優れものと思っている。
私がよく聞く深夜の番組は、NHKの深夜便である。深夜便の番組内容は毎晩一定しているので、番組を聞くだけで、今何時ごろであるのか、時計を見なくても分かる。面白くない番組の場合、ツマミを回して他局の放送を聞く。民放の深夜番組は、いただけない番組が多い。若い男が3人集まって話をする。聴視者からメールで送られた内容を話して、それにこの若者たちがコメントをする。コメントの内容は世間話程度であり、若者たちがそれに笑いを誘う話し方をして、3人で笑う。お互いに笑いあって、番組の時間稼ぎを行っているようで、聞いている方は面白くもおかしくもない。話題が下ネタが多いのが特徴である。深夜ラジオを聴いているのは、年寄りか受験生であろう。下ネタは、受験生には刺激が強く、年寄りには不要である。若い女性3人による番組の場合は、笑い声がけたたましく、聞いていると頭が痛くなる。日本の深夜番組は、仲間同士のバカ笑の声を電波で流すのが多いが、韓国の番組は違う。私は、韓国語は判らないので、話の内容は理解できないが、韓国のアナウンサーは1人で静かな雰囲気でしゃべっており、合間に音楽を流す。流れる曲はK−POPである。中には日本の民謡に酷似した音楽が流れ、びっくりすることがある。日本ではあまり聞かれなくなった「ど演歌」を、韓国語で聞くことがある。これらは一昔前はなかった現象であり、韓国は日本の歌にかなり影響されているようである、と私は感じている。日本の放送が韓国でもよく聞かれているのであろう。
アメリカの大統領がトランプ氏に代わった。彼のツィターのよる発言が、世界中の注目を集めているが、その中でメキシコとの国境に壁を造るというのが大きな注目になっている。この建設に対して、トランプ氏が大統領令にサインした。彼は、建設費用をメキシコに払わさせるつもりでいたが、メキシコの反対で取り敢えずアメリカが負担し、後でメキシコに請求したいという。メキシコは、勝手にアメリカが造って、その費用を払えというのは理屈が通らないし、絶対に応じないと言っている。このアメリカの方針は、世界中の笑いものになるであろう。トランプ氏の本当の目的は、建設に参加するアメリカ企業への資金の投入により、これらの企業が潤うことにあると思われる。また、建設により多くの労働者が必要になり、雇用の確保ができる。辺鄙な過酷な土地で働く労働者がどれくらい集まるか、それは疑問である。結局はメキシコから来た不法移民を使わざる負えないであろう。トランプ氏は、「通過不可能な具体的な障壁」 を建設するように命令しているが、これは不可能である。その気になれば地下道を造って国境を越えることもできるし、アメリカでの受け入れにも、その専門のグループができて、彼らによって保護されるであろう。私は、この事業はアメリカの景気浮揚策の一つである、と思う。
今年の初場所で稀勢の里が初優勝し、横綱に昇進した。日本人の相撲ファンが待ちに待っていた快挙であった。初場所では横綱陣はふがいなかったが、若手の活躍が目についた。荒鷲、勢、御嶽海、貴ノ岩、高安が、大関、横綱を破るなどの活躍をした。正代、遠藤、隠岐の海などは負け越したが、将来が楽しみである。稀勢の里は、ここ2、3年優勝候補として毎場所話題になって、マスコミに騒がれていたが、肝心な時に格下の力士に負けたりして、期待を裏切っていた。この初場所も白鵬が、優勝候補として初日から盤石な相撲をとっており、稀勢の里は注目されなかった。しかし、彼は、後半まで白星を重ねて、俄然話題になった。話題になってマスコミが騒ぎ出すと、今までの稀勢の里はそのプレッシャーに負けて、取りこぼしをしていた。しかし、今場所は違っていた。見事に優勝を果たした。
稀勢の里のしこ名は、誰が付けたのかわからないが、「稀勢」という言葉はどこの辞書を探してもなく、意味不明である。稀は「まれ」という意味であり、勢は字の通り「いきおい」である。このままの意味では、(相撲の)いきおいは「まれ」(めったにない)である、という意味にとれる。あるいは、まれな(尋常でない)勢いをもつ、とも解釈できる。おそらく後者の意味を込めて付けたしこ名であろう。稀勢という意味が曖昧であるためかどうか判らないが、彼の相撲内容も、時折あいまいであるという指摘を解説者から受けていた。彼の曖昧な立ち合い、曖昧な取り口、曖昧な攻めを、解説者の口からよく聞かれた。横綱昇進を機に、しこ名を変えたらどうだろうか。彼の出身地が茨城県牛久市であるから、しこ名を「牛久山」としてはどうであろうか。このしこ名は、牛のようにどっしりして、やさしく、山のように大きく、強そうではないか。
2017.2.10
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JR田町駅
2月は中国の春節のせいか、東京都内のホテルは予約が取れにくくなっていた。私が常宿にしている品川駅付近のホテルも満室で、予約ができなかった。JR田町駅から歩いて10分のところに「JALシティホテル田町」があり、ここは予約ができたので、2月1日、私はそこに泊まることにした。JR田町駅は、私が会社に勤めていた頃よく利用していた。その会社の本社は、田町駅の西側の第一京浜国道沿いにあり、駅から歩いて5分ぐらいの所にあった。従ってその周辺の景色はなじみがあった。私は、長らく務めていた化学会社を定年で退職し、その後その化学会社の子会社に約4年間勤めていた。実際に勤めていたのは神奈川県の厚木市にある工場であった。私は、普段は厚木市の工場に通勤し、会議があるときに田町の本社に出向いていた。当時、私は横浜の東戸塚に住んでおり、そこから厚木市まで電車通勤をしていた。おそらく2時間かけての通勤であったが、それ程苦にはならなかった。横須賀線で横浜に出て、そこから相鉄線で海老名までいき、そこから小田急に乗り換えて本厚木駅で降り、バスで会社の近くまで行くのが、私の通勤ルートであった。東戸塚から横浜への電車は通勤ラッシュで混雑していたが、相鉄線の海老名行は、東京への逆方向であるので空いており、確実に座って行けた。
田町の本社で会議がある日は、自宅から1時間の通勤時間であったので、楽であった。今、文科省で組織的な天下りが話題になっているが、私の定年後の再就職も一種の天下りであった。子会社を持つ民間企業は再就職先を子会社にしているのが通例であり、私企業であるから世間から話題にならない。迷惑するのは子会社の社員であろう。上のポストが親会社からの天下りでふさがれるので、適齢期の社員はがっかりするであろう。文科省の天下りで話題になっている大学でも、もうすぐ教授になれる助教授達は、文科省からの天下りで昇進の道がふさがれ、腹を立てているだろう。幸い私が勤めていた子会社の社員は、年齢層が比較的若く、役員のポストを狙うには相当先の年齢であったので、不愉快に思っていた社員はいなかっただろうと思っている。しかし、これは私の思い違いだったかもしれない。田町で会議があった日の退社は、まっすぐ東戸塚まで帰るのが常であった。田町駅の西口(三田口)には慶応大学三田キャンパスがあって、大学に向かって歩いている学生たちの姿がよく見られた。西口から第一京浜国道を渡ると、大学入口まで通じる商店街がある。そこには学生相手のレストランや飲み屋がところどころにあった。私はこの地域の飲み屋には一度も入ったことはなかった。
私が利用していたころの田町駅東口は、駅のすぐ近くに東工大付属高校があって、そのグラウンドが駅のホームから見えていた程度で、大きな建物はなかったように記憶している。この度私は、ホテルへ行くために初めて東口に出た。東口から海の方面に高層ビルが方々に建てられ、付近は賑やかになっていた。東工大付属高校のグラウンドは消えてなくなり、その跡に東工大田町キャンバスができていた。付属高校は、東京工業大学附属科学技術高等学校になっていた。その敷地の一角に河津さくらがあり、桜の花を咲かせていた。田町駅東口の前の道路は幅50mの広さで、150mある。その道路の両側にはオフィスばかりで、商店はほとんどない。通行人は極めて多く、彼らは速足で歩いているのが目についた。私は東口へ出て、ホテルに向かってその幅広の道路を通行人に交じって歩いた。私の歩く速度と通行人の速度が違っていて、私の横を彼らはどんどん追い抜いていく。普段田舎でのんびり歩く習慣が身についていた私は、彼らの速足にびっくりした。彼らと同じ速度で歩く努力をしたが、長続きしなかった。年のせいであろう。
翌日、私は上野公園内にある東京都美術館へ「ティツィアーノとヴェネツィア派展」を見に行った。JR上野駅公園口から上野動物園などへ歩いて行く人は極めて多い。私は彼らに交じって同じ方向の都美術館へ歩いて行ったが、彼らの歩く速度は田町のサラリーマンの歩く速度とは違って、ゆっくりである。外国からの観光客や、田舎から出てきた人たちの歩く速度は、私と同じであることに安堵した。今、開かれている「ティツィアーノとヴェネツィア派展」の画家ティツィアーノは、16世紀ヴェネツィア派の最大の画家であり、躍動感のあるダイナミックな構図と、輝くような色彩はヨーロッパ中で人気を博したと言われる。彼の絵は、ルーベンス、ベラスケス、ルノワールなどに多大な影響を与えた。東京都美術館の入場料は、いつものように65歳以上は1000円である。そのためか、多くの中高年の観客が入場していた。ティツィアーノの作品は6点であったが、アンドリア・スキアヴォーネという画家の作品が14点もあり、これらは全て個人が所有するものであった。ヴェネツィア派の作品が、全部で68点も展示されていた。多くの画家が題材として描いているのは、聖母子の絵で、10点ほどあった。これらは信仰の対象として個人が所有しているのであろう。
私にとって絵の題材として珍しかったのは、「キリストの割礼」であった。これは、聖職者が幼いキリストのペニスの包茎を切っている様子を描いたものである。これは、1500年頃の作品で、ベッリーニの工房で制作されており、数人の聖職者が真剣な目つきで手術を見守っており、中には手を合わせて祈っているものもいた。私は、割礼と言えば南方の国で、種族の長老により幼い子供が割礼をされて、その子が泣いている映像をテレビで見たことがあって、南方の途上国ではこのような風習がまだ残っているのだ、と認識していた。私は、この「キリストの割礼」を見て、西洋でも行われている行事であることを知った。さらに後で、私はインターネットで調べて、西洋の各宗派では今でも行われている行事であることがわかった。特に現在のアメリカでは、割礼が普通に行われていることを知り、驚いた。このインターネットには、グイド・レーニが描いたキリストの割礼の画像が載っていた。そこには聖職者のみが描かれていたが、都美術館で見た割礼の絵はマリアも描かれていたように記憶している。
都美術館には「ティツィアーノとヴェネツィア派展」のカラーのパンフレットが置かれており、それにはティツィアーノの有名な「フローラ」という作品の写真や「マグラダのマリア」の写真が印刷されていた。私はこれをプリンターでコピーし、写真の中に印刷されている邪魔な文字をパソコンの編集ソフトで消去してみた。我ながら上手に消去され、プリントアウトできた。その画像を下に載せたのでご覧下さい。この都美術展の目玉は、ティツィアーノの「フローラ」と「ダナエ」であろう。「フローラ」は、フィレンツェのウフィツィ美術館から運ばれたものである。私は7年前の5月に、ツアーでこのウフィツィ美術館を訪れ、この「フローラ」を見ていたはずであったが、その記憶はない。ウフィツィ美術館ではボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラッファエッロらイタリアルネサンスの巨匠の絵画が数多く展示され、私はそれらに圧倒されて、ティツィアーノの作品には気が付かなかったと思われる。私は、当時のツアーで書いた日記を調べてみた。以下は、当時私が書いた日記の一部である。
・・・我々はドーモの前のサンジュバンニ洗礼堂とジョット鐘楼を見、その前のヴェッキオ宮殿の前を通り、宮殿横のウフィツィ美術館へ午前8時半に入った。最初に我々は3階まで上がった。ここには多くの名作があると添乗員から聞かされていた。フランチェスカが描いた「ウルビーノ侯爵夫妻の肖像」は、15世紀に於いて肖像画の背景に風景が描かれた最初の作品である。ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」は、写真などで見慣れていた絵であるが、本物は初めてで、すばらしい描写に見とれる。ダビンチの「受胎告知」は、顔の表情がリアルであり、感動した。2時間の鑑賞時間であったが、私は1時間で疲れてしまった。カラバッジョの作品は、特別に1階に集められていた。そのほか、ゴヤ、レンブラントなどを見た。・・・(日記は終わり)
このツアーではこの後、歩いて20分のところにある、サン・アルコ修道院に行き、1440年頃のフレスコ画である、アンジェリコの「受胎告知」を見た。こうして思い出してみると、このツアーは、短時間のうちに多くの世界の名画を見せてくれたので、有り難いツアーであったと思った。特にイタリアは有名な絵画が国中の方々に存在している感じであった。このツアー名は、ユーラシア旅行社が企画して、今でも募集している「イタリア歴史物語」である。ダビンチの「最後の晩餐」や、バチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロが描いた天井画など、超有名な作品を15日間で効率よく見せてくれた素晴らしいツアーであった。そのようなことを、私はこの都美術館の「ティツィアーノとヴェネツィア派展」を鑑賞して、思い出したのである。
2017.3.10
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最近の話題
韓国の大統領について。2017年3月10日、朴大統領が憲法裁判所により罷免を受け、失職し、さらに逮捕、監禁されることになった。その前に彼女は国会で弾劾を受けたのである。朴氏の支援者であるチェ氏が、朴氏から得た国家秘密を受け取り、その情報により莫大な利益を得ていたことが罷免の理由である。また、チェ氏は朴大統領の名前を利用して、大企業のサムスン電子などから資金を拠出させ、色々な財団を設立させ、その資金を好き放題にチェ氏が使っていたことも明るみに出た。そのことを知った国民は連日激しいデモを行い、死者も出る事態になった。一国の大統領が国会で弾劾を受け、裁判により失職するのは珍しく、日本では考えられない。それほど朴氏とチェ氏が権力をタテにお金を自由に使っていたので、国民は辛抱の限界をオーバーしたのであろう。韓国の大統領は、昔の宮廷の王様に似ているようだ。国民は、全権力を持っている王様(大統領)の決定に反発できなかった。そのような習慣が今まで残っていたのであろうか。
大統領が失職して、次の大統領選挙は5月9日に行われるようである。この事件で、韓国の政治が民主的に大きく進化されることが期待されるであろう。韓国では次期大統領の選挙に関する世論調査が行われた。それによると、最大野党である「共に民主党」の文在寅氏が支持率でトップを独走しているそうである。彼が大統領になると、韓国は慰安婦問題で日本側と再交渉をするようである。日本政府は、朴政権との交渉で、この問題に終止符を打ったと判断していた。しかし、政府は、この問題がまた振出しに戻ることを懸念しているようである。慰安婦は、第二次世界大戦で日本軍が兵士のために設置した売春宿(慰安所)の娼婦であった。そこでは日本兵が金を払って、彼女達が売春させられていた。その娼婦達は、日本人を含めアジア系の女性達であった。その中に韓国女性もいて、彼女達は強制的に専門業者により拉致されたと言われている。韓国政府は、韓国女性は拉致され、強姦を受けた被害者であり、一方日本は組織的犯罪を行った加害者と認識している。
先の太平洋戦争での日本とアメリカの場合はどうであろうか。原爆投下で広島と長崎は多くの犠牲者が出た。この場合、加害者はアメリカで、被害者は日本である。日本は、この痛ましい事実を忘れないため、色々なモニュメントを造り、各地に設置している。人物像であれば長崎市の平和記念像であり、慰霊塔であれば広島の原爆死没者慰霊碑である。これらの設置については、アメリカは異議を唱えないし、マスコミでも大々的に報じない。これは、アメリカ人のおおらかさによるものであろうか。これを考えれば、韓国の慰安婦像に対しての日本政府は、何故神経質になるのであろうか。日本政府は、日本が加害者であることを忘れているのであろうか。日本のマスコミも、アメリカに慰安婦像を設置すると大きく取り上げて報道するし、政府も遺憾であるとコメントする。昨年暮れには韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦像が設置され、日本政府はそれに抗議し、駐韓日本大使と在釜山日本総領事を帰国させた。3月の時点で、韓国には日本大使はいない(但し、4月4日に復帰した)。アメリカの態度を考えれば、日本政府はなんと大人げない行為をするのであろうか。
慰安婦像はまだ日本には設置されていないが、韓国の要求があれば日本にも慰安婦像を設置すればよい。日本に設置することにより、日本は過去の恥ずべき犯罪を思い出し、将来も忘れられないであろう。慰安婦像は日本各地に多くあっても良い。韓国でのこの像の製作者は、キム・ウンソン、キム・ソギョン夫妻で、一体制作すると約300万円の収入になるという。今まで30体を制作し、総額1億7000万円の収益を得たという。韓国では道路など公共地に像を設置するには、役所の許可が必要であるので、勝手に設置することはできない。今後、夫妻は小型の慰安婦像を制作し、テーブルに置けるキャラクターグッズとして、一体約3.5万円で売り出すという。韓国では慰安婦像ビジネスがクローズアップされるか。さらにプラスチック製の小さなフィギュアなら、一体500円程度で売ることもできる。これなら日本へも輸出して売り出せば、購入者が多く出るであろう。慰安婦像ブームが到来するかもしれない。
韓国大統領と民間業者の接触により、不当な利益が大統領側に入ったことで、大統領は失職した。似たようなことが日本でも起こっているのが、森友学園の籠池理事長と政府の関係であろうか。2017年3月23日、籠池理事長が国会の証人喚問に呼ばれ、証言をした。政府、財務省との関係は発言しなかったが、籠池氏は、安倍首相から明恵夫人を通じて100万円を受け取ったということを明言した。なぜ安倍首相が100万円を出さなければいけなかったか、不思議である。一般の贈収賄では、逆に籠池氏が便宜を得るために、安倍首相にお金を渡すはずである。安倍首相は、100万円以上のお金、あるいは名誉(小学校に安倍晋三の名前を付ける、明恵氏を名誉校長にするなど)を籠池氏から得たので、そのお礼として安倍首相が100万円を籠池氏に渡したものと勘ぐらざるを得ない。以前、安倍首相は、籠池氏から金銭の授受は絶対にないと国会で答弁し、そのようなことがあったら、自分は総理を辞め、議員も辞めると宣言した。
100万円の授受が本当なら、安倍総理は辞職しなければならない。これは面白いことになりそうだ。自民党は、どのようにしてこの疑問をうやむやにするか、対策をひそかに考えているであろう。安倍首相は、進退窮まったら職権で総辞職し、解散総選挙をするであろう。総選挙があっても、自民党のこれまでの実績から自民党は大勝し、再び安倍氏が総裁になり、首相になるであろう。安倍氏は、このようなストーリーを考えているので、テレビに映る彼の表情は自信に満ちている。行政と民間業者の癒着は政府ばかりではない。地方の行政では役所と民間業者と相当な癒着があり、住民はそれがわからないだけであろう。特に、公共事業を発注する役場と地元の建設業者との癒着は大きいであろう。建設業者とその一族は公共事業のおかげで、彼らの生活は潤っている。そのため、選挙があっても、建設業者と深い関係のある議員や首長は業者の応援を受けて当選できる。2選、3選で議員や首長に当選する人たちは地元業者との癒着があると疑ってよいであろう。
韓国や籠池氏の話題で、東京都の豊洲問題はすっかり影を潜め、小池知事の顔もテレビで見られなくなった。誰が豊洲移転を決めたか、石原元知事などを百条委員会に呼んで問いただしたが、はっきり判からなかった。豊洲移転の決定は済んでしまって、現在すでに豊洲市場は完成している。どうすれば安全にこの市場を使えるか、都はその努力をすべきであろう。地下水からベンゼンなど有害物質が出ているのであれば、その有害物質の除去方法を実施すべきである。すべての建物の床をコンクリートで覆えば、すぐにでも市場は使用できる。地下水対策としては、敷地内に有害物質の除去プラントを建設し、そこで地下水を汲み上げ、プラントで浄化を行い、浄化された地下水を元に戻してやれば、10年ぐらいできれいな地下水になるであろう。地下水が市場外の敷地から侵入するのであれば、敷地の周囲を凍土壁で囲ってやれば、ある程度防ぐことはできる。この凍土壁の技術は東電の福島原発の事故現場で採用されている方法であるから、都はこの技術を学べばよい。
3月9日、ゴールデンレトリバーが10カ月の女児をかみ殺すというショッキングなニュースが、NHKテレビニュースから流れた。八王子市内の男性はこの犬を室内で放し飼いをしていた。その男性の娘が孫を連れて男性宅を訪れ、孫とその犬を自宅に放置して、男性らは自宅を留守にした。その留守中に犬がその孫をかみ殺した。おとなしいことで知られるゴールデンレトリーバーが何故赤ちゃんを殺したか。その理由がネットやマスコミで報じられていた。ゴールデンレトリバーは元々猟犬であるから、生き物を襲うのは本能であろう、という動物行動学者のコメントがあった。私はそうは思っていない。日ごろ男性はこの犬をかわいがり、その犬は男性の愛情を独り占めにしていた。ところが、娘の孫が来てその男性は喜び、彼はその孫をかわいがったに違いない。これを横目で見ていたその犬は、孫に対して嫉妬心を持ったであろう。人がいなくなったのをチャンスに、犬は憎い赤ちゃんをかみ殺したのである。犬の心情は人間と同じであり、犬は自分を人間だと思っている。飼い主の男性は、一方的に赤ちゃんをかわいがるのでなく、犬にも同時にかわいがってやらなければならない。そのような気配りがその男性になかったのであろう。このレトリバーは殺処分にされたであろう。
稀勢の里が3月大阪場所で新横綱として初優勝した。前場所に続いて2回目の優勝であった。彼は、大阪場所14日目の日馬富士との相撲で肩を負傷した。そのハンディを乗り越えての優勝であったので、日本国中が興奮した。特に、出身地の茨城県では、地元の新聞「茨城新聞」がこの優勝を一面トップ、4、5段抜きで報じていた。さらに、2面、3面にも稀勢の里の記事で埋められていた。私は、「稀勢の里」のしこ名は、相撲の勢いは稀にしか発揮できない、と解釈していたが、そうでなく、稀に見る勢いを持つ力士である、と解釈することにした。おめでとう!
2017.4.10
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赤坂迎賓館
私は、2017年3月6日、クラブツーリズムが企画した「迎賓館赤坂離宮本館・主庭一般公開、湯島天神で梅鑑賞と東京湾クルーズ」と名付けられた1日ツアーに参加した。これの料金は、昼食付きで6千円である。9時50分、参加者は、バスで上野を出発して、東京日の出桟橋に着き、そこから小さな船に乗り換えて、対岸のお台場まで20分の乗船を体験した。これが東京湾クルーズである。クルーズ船の船長は女性で、桟橋で働く人達も多くは女性であった。女性の進出はこんなところまできている。船のコースは、日の出桟橋からレインボーブリッジの下を抜け、お台場海浜公園の桟橋までである。桟橋の近くには、回送されていたバスがとまっており、参加者はそのバスに乗り、配られた弁当を食べる。私が座るバスの席は、右側の一番前に指定されていた。この席はオプションの席であり、600円を払って座るところであるが、希望者がいなかったので、私は普通料金で座ることができた。私が一番の年寄りだから、会社が私をこの席に座らせたのだと思っている。このツアーの参加者は14名で、2座席に一人座れる。バスは、レインボーブリッジを通り、首都高で上野方面に向かい、江東区の湯島天神に着いた。湯島天神は、不忍池近くにあり、春日通りを左折した坂の上に位置する。湯島天神の名前が有名であったので、私はそこは広い敷地かと想像していたが、意外に狭い境内で、門前町も狭い通りであった。付近の街並みは、予想通りの下町の雰囲気であった。湯島天神の横の駐車場に我々のバスは止まった。この駐車場は、バスは1台だけの駐車スペースであり、普通車も10台ぐらいのスペースしかない。
湯島天満宮の梅はほとんど終わりであったが、満開の木もところどころにあり、一応梅の花を鑑賞できた。この神社は受験の神様であり、合格祈願の絵馬がそこら中に固めてぶら下がっていた。これらの絵馬を眺めるのも楽しいもので、中には中国人の書いた絵馬があった。「中国人民大学、合格しますように!」というのが日本語で書かれていた。中国語では天神様は希望が読めないので、日本語で書いたのであろうか。湯島天神見物は、1時間の自由時間であったが、私は40分ぐらいでバスに戻り、休憩した。1時間後、参加者を乗せたバスは湯島天神を出発し、東京ドームの横を通り、飯田橋の外堀通りを走り、赤坂御用地の中にある赤坂迎賓館の前に着いた。参加者は、ここから歩いて西門に入り、セキュリティチェックを受けて、迎賓館本館に入った。ツアー客は、各自ばらばらに見学順路に沿って見学する。有名な部屋が4か所あり、彩鸞(さいらん)の間、花鳥の間、朝日の間、羽衣の間の順に見学コースが作られている。花鳥の間には、花と鳥の七宝焼きの楕円形の陶器が30枚、壁に飾られていた。作者は明治時代の涛川惣助である。欄間にはフランス製のゴブラン織のタペストリーが飾られていた。そのゴブラン織の見本が見学通路にあり、見学者が自由に触れるようになっていた。この彩鸞の間は、1986年に第12回のG7がこの部屋で実施されたという。
羽衣の間は、300平方メートルの天井画が見ものであった。これは、曲面画法による壁画で、平らな天井にもかかわらず、立体的に描かれているので、実物の彫刻などが天井にくっ付けられているように見える。だまし絵を見ているようであった。この部屋には大きなシャンデリアが3基つるされ、迎賓館の中で最も豪華なものと言われる。朝日の間は、部屋の周囲の柱に、16本のノルウェー産の大理石が使われたり、壁には京都西陣織の金華山織が使われたり、これでもかこれでもかと言わんばかりの豪華さであった。私は、これら4部屋をまわって、多くの豪華な装飾に圧倒され、疲れてしまった。本館から外に出ると、噴水のある広い庭(主庭)がある。建物の正面は前庭と呼ばれ、裏側は主庭と呼ばれる。主庭は中央に噴水があるだけで、広々としている。見学者のために臨時のトイレが数か所設置され、隅の方にはテントを立てて、休憩所にしている。本館の奥の方には和風別館があるが、入るには予約が必要であり、ツアー客は入れなかった。前庭は、松が配置されたシンプルな造りになっており、本館の玄関に繋がる。玄関は閉じられているが、扉のガラス窓から中を覗くと、表敬訪問者が最初に通される彩鸞の間が見えた。ツアーは、迎賓館前で参加者をバスに乗せ、東京駅と上野駅で参加者を降ろして、17時頃解散した。
私は、ツアー翌日の午前中、時間があったので、東京駅南口から歩いて10分ぐらいのところにある三菱一号館美術館へ行き、そこで開かれていた「オルセーのナビ派展」を見に行った。フランスのナビ派は、19世紀末、ゴーガン(ゴーギャン)の影響を受けて結成されたグループであり、ボナール、ヴュイヤール、ドニなどがいた。ナビとは、ヘブライ語で「預言者」を意味する。ナビと言えば、身近にある車のカーナビが思い出される。このカーナビは、目的地を設定すると、目的地までの一番近い道を女性の声で知らせてくれる。「次の交差点を左折してください」とかを事前に教えてくれる。初めて行く場所のドライブの場合、私もカーナビに頼って運転することがある。フランス絵画のナビ派は、未来の絵はこのような絵になるであろう、と絵で予言した。ナビ派の絵画の特徴は、絵に平面性と装飾性、象徴主義を持たせたことであるが、前者の平面性と装飾性は、何のことはない、日本画の特徴と同じである。彼らは、日本の浮世絵などの影響を大いに受けており、「日本かぶれ」と人々から悪口を言われたそうである。特にボナールの絵は装飾性が強い。ドニの絵も、人物の顔や体の描き方が、従来の影を付けて立体的に見せるのではなく、影を付けない平面的な絵にしている。これは当時珍しく、前衛的な絵画と評価されたのであろう。日本画では余白を重んじるが、フランスのナビ派の絵には余白はなく、キャンバス一面を絵具で塗りつぶしていた。これは、日本画と大きな違いであった。
ゴーガンがナビ派にどのような影響を与えたのか、私には分からない。ゴーガンと言えば、彼がタヒチ島で制作した、土地の女性の絵を私は思い出す。彼はたくましいタッチで人物を描き、黒を多用した彼の絵は全体的に暗い感じを受ける。ゴーガンは、ゴッホと親交があり、短期間であるが、同じ家に住んでいたと言われる。ゴッホは日本の浮世絵を多く持っていて、その時ゴーガンがこれらの絵に接したのであろう。ゴーガンの絵には、平面性を持たせたものや、輪郭線を多用したものも多くあるようである。同時代のモネも、ゴーガンと親交があったようである。モネは、パリ郊外のジベルニーにアトリエを造り、そこに多くの浮世絵を持ち込んだ。ゴーガンは、それにも接して影響を受けたのであろうか。現在、モネが住んでいた建物は、美術館として観光客に人気がある。私も以前、フランスへのツアーに参加したとき、このモネ美術館を訪問した。私は、館内に展示されていた多くの浮世絵を見て、浮世絵の影響力の強さを感じた。
「オルセーのナビ派展」が開かれていた三菱一号館美術館は、赤レンガ造りで、趣のある建物である。「三菱一号館」は、1894(明治27)年、英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された。これは、三菱が東京・丸の内に建設した初めての洋風建築であり、全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられていた。この建物は、老朽化のために1968(昭和43)年に解体されたが、40年後(2008年)同じ場所に復元された。この建物の中庭は絵画的なムードがある。私はここを通るたびに、この中庭を絵にしたいと思っている。私が訪れたこの日は、5,6人のグループがこの中庭でスケッチをしていた。スケッチと言えば、30年前、私が青山のNHK文化センターで絵の教室に通っていたころ、私は東京駅丸の内側へ教室の人達と一緒にスケッチに行ったことがあった。当時の丸の内側の駅前ロータリーは、庭園のようになっていて、池や植木が配置されていた。
私は、当時の庭と赤レンガ造りの東京駅舎をスケッチし、2枚の油絵にした。そのうちの1枚(作品3)はまだ残っている。NHK文化センターの絵の教室では、年に一度作品展を開いており、私も毎年出品していた。ある年の作品展で、私の作品を買いたいという人が現れた。その値段は額縁付きで「3万円で売ったらいい」と絵の先生に言われ、私はその値段で売却した。私が絵を売ってお金を得た最初の出来事であった。その絵は、横浜の赤レンガ倉庫を描いたF6号の絵であった。買った人は、以前この辺りに勤めていたので、懐かしく思って購入したそうである。その絵は画像に残していなかったので、私は同じ構図の絵を後から描いて(作品5)、画像に残している。教室の絵の先生は、私の絵の評価を1号1000円とし、6号だから6000円、それに額縁代が2.4万円で、計3万円としたのである。それ以降、私の絵は1号1000円の値段で、約30年間売ってきた。しかし、今年の2月から1号500円に値下げして売ることにしている。
三菱一号館美術館中庭でスケッチしている人達を見て、私は昔のことを色々思い出した。
2017.6.7
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小豆温泉
小豆(あずき)温泉は、福島県南会津町伊南村にあり、この村は、尾瀬への福島県側の入口である桧枝岐村に隣接している。奥只見湖や尾瀬沼などを源流とする桧枝岐川沿いに沼田街道という国道352号があり、小豆温泉はその国道沿いにある。小豆温泉の由来は、小豆の木の根元から湧き出ている温泉で、動物たちが傷を癒しているのを猟師が見つけて、その名を付けたと言われている。小豆温泉をさらに奥へ行くと、桧枝岐村がある。この辺りは、川と国道が両側の比較的高い山に挟まれており、自然豊かな地域である。小豆温泉は源泉かけ流しで、そのままでは熱いので地下水で薄めている。小豆温泉には花木(かぼく)の宿という宿泊施設がある。以前は伊南村が経営していたが、今は村営でなく、どこかの会社あるいは第三セクターが経営しているようである。私達は、以前にこのホテルを利用したことがあった。その時は本館の部屋に宿泊した。今回は離れの一戸建ての部屋(家)を予約した。
2017年5月14日、私達は小豆温泉「花木の宿」へ、白河市を経由して車で行ってきた。途中昼食などで、1時間休憩して、約3時間で花木の宿に着いた。予約したホテルの504号室は、一戸建てであり、本館から屋根付きの通路に沿ってある。その部屋は天井のない昔風の建物である。6帖の炬燵のある部屋と、10帖のメインの部屋と、内風呂と化粧室、小さな露天風呂が付いている。6帖間の上には囲炉裏に使う自在鉤が上の方についていた。天井がないので冬は寒いだろう。私達は、食事まで時間があったので、付近を散歩した。ホテルに接した沼田街道の反対側には、標高2065mの三ツ岩岳から流れ落ちる長さ100mぐらいの細い滝があり、伊南川(桧枝岐川)へ直接落ちていた。伊南川は、この時期雪解け水で水量が多く、激しい音をたてて流れていた。ホテルのすぐ近くの山の斜面にはまだ雪が残っており、豪雪地帯の名残がみられた。
花木の宿は、ホテルなのか、旅館なのか、あるいは宿屋なのか、判別しにくい。広い会議室(研修室)があるところから宿泊施設というべきか。この建物は、太い木材がむき出しに縦横に組まれた構造で、村が建設の際、ふるさと創生事業の1億円を利用して造られたようである。朝食は、旅館の定番の卵とか納豆とか干物はない。フルーツにスイーツが最後に出てきた。コーヒーがあれば満足するが、それはなかった。その代りロビーには自由に飲めるコーヒーがあり、私達はそれを飲んだ。朝はコーヒーを飲まないと一日が始まらない。
9時半にチェックアウトし、一人二食付き宿泊料金2万円、二人で計4万円を支払った。近くにミズバショウが咲いているところはないか、とフロントに聞くと、近くのオートキャンプ場の裏手に群生しているところがあり、今咲いているところだという。私達はそこへ行くことにした。オートキャンプ場は国道を少し走ったところにあったが、このキャンプ場は現在、閉鎖されていた。近くに地元の人らしい人がいたので、ミズバショウの咲いているところはどこか、と聞くと、知らないという返事であった。しばらくキャンプ場付近を歩いて探したが見つからなかった。宣伝用の表示板を造っていないのは、土地の人だけの秘密の場所にしておきたかったのだろう。私達は探すのを諦めた。
ホテルのフロントマンが、「ミニ尾瀬公園はミズバショウが咲いている」と断言していたので、私達はそこへ行くことにした。国道をさらに奥へ行くと桧枝岐村の集落があり、そこを抜けてしばらく走ると、左手に広いミニ尾瀬公園がある。公園の反対側には桧枝岐川沿いに広い駐車場があり、そこに車を止めて、橋を渡り、管理棟になっている「武田久吉メモリアルホール」へ向かった。入園料一人500円を支払って、公園内に入った。公園の左側(下流方向)は湿原エリアとなっており、ミズバショウがぼちぼち咲いていた。右側は山野草エリアで、ニッコウキスゲの群生地域がある。ニッコウキスゲはまだ開花していなかった。私達は、ミズバショウを見に湿原エリアへ行った。この公園は、そばを流れる桧枝岐川から取水して、公園の中央部を川の流れにしたり、池にしたり、段差を付けて滝にしたりしている。湿原エリアは湿原状にし、木道を張り巡らし、本物の尾瀬沼のようにしている。尾瀬沼まで行かなくとも、ここで尾瀬の雰囲気を味わうことができる。
公園の山側には遊歩道があるが、雪がまだ解けていないので入ることができない、と案内所の人に言われた。よく見ると、雪が30cmぐらい積もっているところが方々にあった。湿原エリアでは「夏の想いで詩碑」が建っており、その前を通るとその歌のメロディが流れる仕掛けになっている。この音が馬鹿でかいのでびっくりした。大きな音は雰囲気をこわしていけない。管理棟には「ミニ尾瀬カフェ」があり、尾瀬の自然水で入れたオリジナルコーヒーがあります、と看板にあったので、それにつられてカフェに入り、棟のテラスで休息した。テラスから南の遥か向こうに、東北地方以北で最も高い「燧ヶ岳(ひうちがだけ)」を見ることができた。燧ヶ岳はまだ大量の雪が残っていた。私達が注文したのはコーヒーセットで、燧ヶ岳の景色とケーキとコーヒーを十分に味わって、満足して帰途についた。
最近のニュースの中で最も明るいニュースは、弱冠14歳の藤井四段が連勝記録で歴代1位の記録を作ったことである。6月26日、彼は29連勝を達成しマスコミは大騒ぎをした。連勝はまだ続くかもしれない。彼は、プロ公式戦初対局初勝利からの「無敗連続記録」で、歴代単独1位の記録保持者でもある。なんと末恐ろしい天才棋士であろうか。彼の将棋は居飛車の本格派で、悪手の少なさに定評があると言われている。彼は、連勝記録達成のデビュー戦の加藤一二三との対戦で、加藤を負かせて、加藤の現役引退を決意させた。まさしく世代交代の感であった。加藤一二三も「神武以来の天才」と言われていたので、その名は藤井四段が引き継ぐのであろう。加藤一二三の棋風は「矢倉」であり、私はこの矢倉は「櫓(やぐら)」とばかり思っていた。ネットで調べてみると、「お城の富士見矢倉に形が似ている所からついたもの」といわれ、また、日本の城郭建築の櫓に形が似ていることから名前が付いたとされている。私の想像していた「櫓」も間違いではなかった。藤井四段は幼いころ、負けず嫌いな性格で、負けるたびに号泣していたといわれる。卓球の小さいころの福原愛が卓球の試合に負けて、その泣いていた映像がテレビで度々放映されていたが、私はそれを思い出した。勝負の世界の人の性格は幼いころから負けず嫌いでなければならないのか。
私が住んでいるこの地方は、6月は雨が少なく、からから天気が続いた。おかげで庭の雑草が少なく、草ぬきの労働から解放されていた。蚊の発生もなく、庭の中を気楽に動きまわることができた。この地方は6月21日に梅雨入りが宣言され、その日は一日中雨が降り続いた。しかし、その翌日から曇りや晴れで、雨が降る気配はない。先の一日の雨で雑草は元気に生えだし、そのおかげで私の庭仕事が増えた。夏の草取りは重労働である。
2017.7.10
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ポーランド旅行1
私は、2017年6月8日から10日間のクラブツーリズム(株)が企画したポーランドツアーに参加した。私の妻は、このツアーで訪問するアウシュビッツ収容所を見たくないというので、参加しなかった。私一人のツアー参加であった。アウシュビッツ収容所跡は、人類最悪の悲劇の場所であり、一度は見ておくべき歴史的遺産であろう。私は、ここを一度見ておきたいと思い、このツアーに参加した。このツアーのタイトルは、「LOTポーランド航空プレミアムエコノミークラス(成田〜ワルシャワ間)復路直行便、ポーランド決定版10日間」という長ったらしいタイトルである。私は、プレミアムエコノミークラスとはどのようなクラスなのか、ビジネスクラスとエコノミークラスの中間のクラスであるのか、と想像していた。プレミアムクラスの参加料金は、一人48万6千円である。これにはホテルの一人部屋追加料金約5万円が含まれる。このツアーのエコノミークラスの参加料金は、一人24万8千円+5万円である。プレミアムクラスとの料金差は20万円弱であるから、相当な金額差である。航空機でどのようなサービスが期待できるのであろうか。往復の航空機以外のツアー内容は、エコノミーと同じである。
成田〜ポーランド(ワルシャワ)間は11時間のフライトである。この11時間を狭いエコノミーシートで過ごすのは、私の体には負担が大きい。ヨーロッパ行はビジネスシートでなければならない、と80歳近い私は決めている。自宅から成田まで、今までは車を使っていた。今回は私一人であるので、車は使わないでくれと、妻に言われた。私は運転にはまだ自信があるが、高齢者の車事故がマスコミで多く報じられているので、車を使わずに成田へ行こうと決めた。車なしのルートは、自宅の近くにJR水郡線の東館駅があり、そこから水戸駅まで行き、水戸駅前から成田空港行の高速バスがあり、それを利用する。乗車時間は、水郡線は約1.5時間、高速バスは約1,5時間、計3時間であり、車の場合も3時間ぐらいかかるので、時間的な差はない。水戸から成田行の高速バスは、予めネットで予約が必要であり、3100円を振込み、切符をプリントアウトする。水郡線の料金は1300円であるから、交通費は合計4400円となる。帰国時、車を運転して成田から自宅へ戻る場合、私は、疲れと時差ぼけを理由に、必ず成田のホテルに一泊する。今回は成田到着後、その日のうちに自宅に戻ることができる。一泊のホテル代は約1万円であり、これは、JR+バス利用の交通費と似たような費用である。成田空港からJR水戸駅へのバス利用は、予約なしで利用できる。
車を使う場合、スーツケースは車の中に入れて運べるが、JRを利用する場合、大きなスーツケースを持って歩くのは大変である。特に、水郡線の東館駅はエスカレーターもエレベーターもない。プラットフォーム間の移動は、屋根のない陸橋を渡らなければならない。この陸橋の移動は雨の日を考えると、若者でも不可能であろう。参加するツアーのパンフレットには、スーツケースの宅配便(JAL−ABC、下請けはヤマト運輸)の宣伝が入っている。今回、私はスーツケースの往復宅配を申し込んだ。料金は往復で3500円である。私は、小さなショルダーバックだけを持って成田空港へ行くことができた。水郡線は1時間に1本の列車しかない。水戸行は、東館駅発が午前11時である。自宅から東館駅までは、妻の運転する車で送ってもらった。水戸駅から成田空港行の高速バスの待ち合わせ時間は1時間以上もある。最近、JR水戸駅周辺は都市開発され、ホテル、シネプレックス、駅ビルエクセルなど、商業施設が建設されており、10年前とがらっと変わっていた。私は、そのうちのビルのレストランでゆっくり昼食をとった。高速バスの利用者は5、6人で、のんびり空港までの景色を楽しむことができた。成田空港には午後3時半に着いた。当日の宿泊ホテルは、私が常宿としている成田エクセル東急ホテルである。ホテルと空港間は無料のシャトルバスがあり、30分間隔で運行している。私は、空港の宅配カウンターでスーツケースを受け取り、シャトルバスでホテルへ向かった。
4時半、私はホテルにチェックインした。ホテルのフロントに、ユニセフの募金箱があるのが目についた。私は、海外旅行をする度に、少額のコインを使いきれずに持って帰ってしまう。20回近い海外旅行でそれらが200枚ぐらいたまっていた。私は、これを全部処分しようと思い、このコインをビニール袋に入れて自宅から持ってきた。空港には募金箱があると思い、気を付けて歩いていたが、それらしいものがなかった。このホテルにはそれがあったので、フロントマンにビニール袋ごと手渡して、募金箱に入れてくれるように頼んだ。どれくらいの金額になるのか分からないが、1000円ぐらいであろう。私はホテルの部屋で休息をした後、シャトルバスで成田空港へ行った。明日のツアーの集合場所の確認と、日本円をポーランド通貨に両替するためである。昨日の夕方、今回のツアーの添乗員の杉浦一郎氏から電話があり、ポーランド情報などを教えてもらった。その中で、ポーランドの通貨はズロチであり、1万円を両替しておけばよいであろう、と言ってくれた。私は5万円を両替しようと思っていたが、彼の助言を考慮して、3万円を両替所でズロチに替えた。受け取ったのは860ズロチである。1ズロチは約35円である。
6月8日の成田空港での集合時刻は、午前7時50分である。空港までのシャトルバスは20分を要するので、ホテル発のバスを7時発のに乗ろうか、7時半のバスに乗ろうか迷った。途中渋滞で遅れるかもしれないと思い、7時のバスに乗ることにした。ホテルのビュッフェ朝食は6時からであり、私は10分前にレストランへ行ったところ、すでに多くの客が食事をしていた。以前に比べると外国人の客がほとんどで、日本人は見つけるのに苦労するぐらいである。私はそそくさと朝食を済ませ、チェックアウトを済ませ、7時のシャトルバスを待っていた。この7時のバスに乗る人が、外国の団体客でロビーがいっぱいであるのに驚いた。彼らはこれから帰国するのであろうか、荷物が多く、段ボール箱の荷物も多い。これらをバスのトランクに入れるのに、ホテルマンは大忙しであった。バスは1台では足りないので、2台目、3台目を使い、さらに足らないのでタクシーを使うことになった。私は幸い2台目のバスに乗れたが、定刻になってもなかなか発車しない。バスに乗っている人はアフリカあたりから来た団体客のようで、発車が遅れてものんびりしたもので、仲間と談笑している。日本人の私は早く出発してほしいと落ち着かなかった。日本人は私一人のようである。やっと20分遅れでバスは出発し、成田空港には40分後に着いた。集合時間の10分前であった。
集合場所へ行くと、クラブツーリズムの女性社員が、私に予約券(eチケット)と資料を渡してくれて、ポーランド航空のチェックインカウンターへ案内してくれた。カウンターは、エコノミークラスとビジネス・プレミアムクラスは別になっている。そこで手荷物券と搭乗券を渡された。8時20分にツアー参加者が全員集められ、添乗員から色々な説明を受けた。参加者は28名で、そのうちプレミアムクラスの利用者は私を入れて5名で、その他はエコノミークラス利用者である。参加者の大半は夫婦連れで、女性だけの組が8名ぐらい、一人の参加者は、私と長野から来た60歳代の男性の2名だけである。セキュリティチェックを受け、出国審査を通って、出発ゲートへ入った。今回のツアーで、私は「ポケット旅行記」というソフトを入れたタブレットを持ってきた。このタブレットは、台湾のASUS製の「NEXUS-7」という製品で、20×11cm、重さ320gのものである。ポケット旅行記は、GPS機能によりタブレットの移動が地図で記録されるソフトである。私は、このタブレットを宅配便で運んでもらうスーツケースに入れていた。後から調べると、宅配トラックの自宅から成田までの経路が記録されていた。トラックは、自宅から福島県内の色々な個人宅へ行き、郡山営業所から高速道路を通って成田空港へ来たのが示されていた。成田空港内でも私のスーツいケースは色々な所を回ってきたのが記録されていた。私の分身と思っているタブレットが、この地域で方々に「旅」しているのがよく分かった。
ポーランド航空のワルシャワ行はボーイング787機である。この787は、日本が技術開発に参加した新しい航空機のようである。プレミアムクラスの座席は窓側2席−中央3席−窓側2席の配列であり、私のシート番号はC−6で、中央の通路側であった。隣には同じツアーの夫婦がすでに座っていた。プレミアムシートは3列しかなく、一番前の中央の席は一人しか座っていなかったので、飛行機が離陸して乗務員が動き始めた時、私は、乗務員に前の席に移動してもよいか聞いたところ、OKだというので、移動した。一番前の席は足が伸ばせるし、隣は空席だから楽である。これで11時間のフライトはのんびりできると喜んだ。席には個人用の液晶画面が付いており、映画など楽しめる。私はほとんどフライト情報を眺めていたが、それも飽きたので、アニメ映画を見て時間をつぶした。新しい787機のシートはリグライニングが深くでき、レッグリストも付いていた。帰路のワルシャワから成田へのボーイング機は、古い型であり、個人用の液晶画面もなく、レッグリストもなかった。ワルシャワ行のフライトでは、私のタブレットはスーツケースに入れたままであった。帰国後、飛行機のルートを確認すると、朝鮮半島から中国に入りカザフスタンなどの中東の上空を通っていたのが分かった。ヨーロッパ行はシベリア上空を通ると思っていたが、そうではなかった。ポーランドは、ロシア上空を通りたくないのか。
我々が乗った飛行機は、午前10時半に離陸して、その1時間後に食事がでた。料理は、洋風と日本食の選択ができるので、私は洋風(ヨーロピアン)を選んだ。白ワインを予め選んで、それを飲みながら結構なボリュームの料理を楽しんだ。果物、スイーツもあり、スイーツ(ケーキ)はコーヒーを飲みながら味わった。この食事は昼食でなくて、ディナーに相当するのであろう。ワルシャワに到着予定時刻の1.5時間前の現地時間午後1時に朝食が出された。料理の量が多くて、私は全部食べ切れなかった。大きなケーキは、コーヒーと一緒に味わった。我々の飛行機は無事ワルシャワに到着し、ツアー客はそこから飛行機を乗り換えて、バルト海沿岸のグダンスクへ向かった。グダンスク行きはプロペラ機のBombardier DHC-B-400である。私は、ボンバルディアのプロペラ機は北海道のエアドゥ機で乗ったことがあり、久しぶりの搭乗であった。この飛行機の席は両側2席づつで、私は通路側に座った。隣の席には60歳代の外国の女性が座っていた。彼女はツアーの参加者らしく、仲間が前後の席に座っていた。約1時間でグダンスクに着いた。現地時間は18時前で、日本時間では深夜1時頃である。私は時差ぼけで調子がよくない。空港からツアー専用の大型バスで20分かけて、今夜のホテル、メルキュールグダンスクへ。ホテルの私の部屋は、1階の004室で、ダブルベッドのツインルームである。バスタブの付いたシャワールームがあり、私はシャワーをして、テレビを見ながら9時ごろに寝た。
2017.8.10
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ポーランド旅行2
ヨーロッパの中で、観光旅行の行き先として人気がある国は、フランスとかイタリアとかスイスとか多くあるが、ポーランドはあまり人気がないようである。今度のツアーの参加者で、ヨーロッパは初めてという人はいなく、人気の国は大体行き終わって、ポーランドでも行こうかという人が多かったようであった。ポーランドは、地図の上で見ると、七か国に囲まれており、北はバルト海に面している。ポーランドの北東にはバルト三国のリトアニアがあるが、リトアニアの手前にロシアの飛び地があり、ポーランドと接している。ポーランドにとって、このロシアの飛び地は不気味な存在であろう。歴史的にはポーランドは、1770年頃ロシアの領地になり、1918年には、ロシア(当時はソ連)からポーランド政権が与えられ、共和国人民政権が樹立した。1939年には、西側の隣国ドイツから侵略を受け、これに対してソ連軍が反撃し、第二次大戦が勃発した。その時ポーランドは、ロンドンに亡命政権を樹立した。そして大戦後、国民統一政府が発足した。その後「連帯」のワレサ委員長が現れ、彼は1990年には大統領になった。このワレサの名前は、私も覚えている。ツアー初日、バルト海に面したグダンスク市内をバスで観光していた時、ワレサ氏の別荘を地元のガイドから教えてもらった。その別荘は、道路脇にあり、質素な感じの建物であった。彼は、今74歳で、健在のようである。
ソ連の重要な衛星国であったポーランドは、ソ連の崩壊により民主化が進み、2004年にはEUに加盟した。日本の観光情報誌によると、ポーランドは美しい平原の国と書かれている。ポーランドは、「平原」という意味であり、その通り国内は平原が広がり、農作物が一面に植えられていた。バスの車窓から見た農村や都市の民家は、立派なものが多く、日本で時折見られる「あばら家」は見られなかった。ポーランド国民は、それほど高い生活水準を保ち、高額所得者も多いのであろう。ポーランド国の面積は31.3万kuであり、日本の37.8万kuに比べると、やや狭いが、農地面積が国土の42%もある。日本の農地面積はその半分以下であろう。この国の農地には麦が植えられているようで、ライ麦の生産量は世界1位である。麦類の生産量が多いせいか、この国のパンはヨーロッパで一番おいしいと言われている。ポーランドの人口は3850万人で、人口密度は123人/kuであり、日本の341人に比べると少ない。ポーランドの治安の良さは、1位の日本に次いで2位である。それは、私にとって意外であったし、ポーランドに親しみを感じた。
この国の言葉は、ポーランド語である。私は、ツアー参加の前に、ポーランド語の数字の数え方や、「ありがとう」、「さようなら」などの簡単な言葉を覚えようとしたが、不可能であった。ポーランド語で使用している文字は、独特なもので、ロシア文字に似ているが、そうではない。文字から言葉を発音をするのは、ほとんどできなかった。現地に行って、地元のガイドが「こんにちは」や「おはようございます」などを教えてくれたが、その時は口真似で言えたが、すぐ忘れてしまった。今回のツアーで、結局ポーランド語は一つも覚えなかった。ポーランドの人達は、学校で隣国ドイツのドイツ語を習っているらしい。私は、ドイツ語は通じるだろうと思い、ドイツ語の「ダンケ」とか「グーテン ターク」などの挨拶言葉を仕方なく使っていた。ポーランドの南端には、標高2000m級のタトラ山脈がある。このツアーでは、この山脈を眺めるために、ケーブルカーで展望台がある1100mの山へ行った。ケーブルカーは、100人乗りの大きなもので、座って行ける。私達がケーブルカーに乗って、山頂の展望台へ行くとき、私の近くに70歳後半のおじいさんがいて、孫たちとそのケーブルカーに乗っていた。そのおじいさんの隣が少し空いていたので、私は座らせてもらった。彼は、私のために席を広くしてくれたので、私はドイツ語で「ダンケ」と言って、礼を言った。それを聞いたおじいさんは、私にドイツ語でドイツ人かと聞いたので、私は「ヤパニッシ」だと答えると、彼は黙ってしまった。
ポーランドの高齢者は、日本人に良い感情を持っていないようだ。ポーランドは、隣国のドイツと1934年に軍事同盟(不可侵条約)を結んでおり、5年後の1939年には、ドイツがそれを破棄して、ポーランドに侵攻してきた。これで第二次大戦が始まったのである。ポーランド人は、ドイツによい感情を持っていないのは当然であろう。当時、日本はそのドイツと三国同盟を結んで仲良くしていたので、ポーランドは日本にも悪い感情を持っていたと思われる。ポーランドの高齢者は、この歴史をまだ覚えているので、日本人に好ましくない気持を持ち続けているようだ。
話は変わるが、私が以前イタリアへのツアーに参加した時、私は、ローマ市内の映画「ローマの休日」で有名になった「真実の口」の前で、ドイツのおじいさんに出会った。彼は、突然私に近寄って、日本人かと聞くので、そうだと答えると、彼は私に近寄って握手をし、ハグでもしそうな雰囲気で喜んだ。ドイツと日本とイタリアは同盟国だったのだ、と彼は得意げにしゃべり始めた。彼には息子夫婦とその子供達がいたが、彼らはおじいさんの話には興味がなく、白けているようであった。私は、にこにこして相づちを打って、その場をやり過ごした。私はそのようなことを思い出した。
ツアーの初日は、バルト海に面した港湾都市、グダンスク市の観光である。泊まったホテルは、市内から少し離れたバルト海沿いにあり、私は朝食後散歩に出かけた。ホテルの付近は公園のようになっており、5分ぐらい歩くとバルト海に出られる。砂浜へ出る通路に、4、5人の老人達が集まって談笑していた。そのすぐ横を通らなければ、砂浜に出られないので、私は、「おはよう」ぐらいのポーランド語の挨拶をして通りたかったが、私はその言葉が思い出せなかった。私は、ドイツ語の「グーテンモルゲン」は言えるが、気が引けて言えなかった。私は会釈して通り抜けた。砂浜は遠浅のきれいな砂の海岸で、2、3人が砂浜を歩いていた。
グダンスクは、人口46万人の1000年以上の歴史を誇る都市である。私は、ポーランドの都市の名前はワルシャワしか知らなかったが、今回のツアーに参加して、ポーランドの各地に立派な都市があるのを知った。グダンスクの市街地には、聖母マリア教会、グダンスク造船所など有名な歴史的建物がある。運河沿いには、14世紀にハンザ同盟都市として繁栄した街並みが見られる。
旧市街のドゥーギ広場には、多くの観光客が集まっていた。広場の周りの建物は中世貴族の建物が並び、広場には観光客目当ての露店、カフェがあり、賑やかであった。広場に接した市庁舎の近くには、1633年に完成したネプチューン像が、噴水の中に建てられている。「ネプチューン」は、海の神である。グダンスク市内には、以前レーニン造船所と言われた「グダンスク造船所」がある。この造船所に、以前は2万人の人が働いていたが、今は3000人の人が働いている。この造船所は「乾式造船所」と言われる。造船所と言えば、海岸沿いにあるのが普通であるが、この造船所は海から3km離れた内陸部にある。建物の中で完成した船をどうやって海まで移動させるのか、私は心配していたが、この造船所の近くには大きな運河があるので、そこから海へ運ぶことができるのだ。以前、この造船所で、ワレサ氏が電気工として働いていた。彼は、後に自由を求め、労組を結成し、これを大きな組織「連帯」につなげた。この造船所では、当時の政府から弾圧を受けて、多くの労働者が死亡した。彼らを慰霊するために建てられた「連帯記念碑」が造船所の前にある。高さ30mぐらいの堂々とした塔である。
ツアー1日目の宿泊場所はトルン市である。トルンへ向かう途中に、バスで1時間のマルボルク市があり、ツアーはそこに立ち寄った。マルボルク市には世界遺産のドイツ騎士団の城があり、我々は城内を観光した。この城はノガト川沿いに建てられている。川の対岸から眺めるこの城の景色は、レンガ色の建物が川面に映り、素晴らしい眺めであった。私はこの風景を後日、当日映した写真を見て、油絵にした。マルボルク市からトルンまでは高速道路を走って、約1.5時間かかる。ポーランドは、高速道路が少なく、現在建設中の箇所が多い。しかし一般の国道は、土地がどこまでも平たんであるから、道路幅はゆったりしている。国道の交差するところにも、立体交差が造られているので、高速道路と変わらない。一般道の交差点はロータリー状になっており、信号はない。
トルン市は、街が城壁に囲まれた中世都市で、世界遺産になっている。ツアーが泊まったホテルは、「クロマダ」ホテルと言い、城郭内の端の方にある。ホテルは4階建ての古い建物である。バスは、ホテルの前まで入れない。城郭の外に止まったバスから、参加者は自分のスーツケースを引っ張て、石畳の道を歩いてホテルに入った。私が泊まった部屋は、4階の屋根裏部屋であるが、部屋は広く、4、5人が泊まれそうであった。その部屋の屋根に取り付けられた窓から10mぐらい先に、15世紀に完成した聖ヨハネ大聖堂がまじかに見えた。教会の塔には、ポーランドでは2番目に大きな鐘があり、窓からもよく見えた。鐘を突くのは何時か分からないが、鐘の音を聞いてみたかった。鐘を突く僧侶の姿も、窓から見えるはずである。
宿泊した当日は天気が良く、そのため、この屋根裏部屋は屋根からの熱気で、室内は大変暑かった。古いホテルだからエアコンはない。窓を開け放して、風を通すしかなかった。私は、疲れたので9時頃に寝てしまった。夜中の1時過ぎに目を覚ますと、私の部屋の道路側の窓から、若者たちの騒ぐ声が下から聞こえてきた。昨日は金曜日であったから、若者達はホテルの前のカフェに集まって飲んでいたのであろう。カフェは、カフェの前の道路にテントを張り、テーブルと椅子を置いていた。そこで彼らは騒いでいたのである。私は、部屋の窓を開けていたので、彼らの騒ぎがうるさく聞こえ、しばらく起きていた。3時には静かになり、カフェを見ると、カフェの店員が道路の掃除をしていた。金曜日の夜には、若者が集まって飲むのが習慣になっているのだろう。旅行者には迷惑なことである。
日本では、深夜営業の騒音などを規制している条例が各地の自治体で実施されている。例えば東京都では、東京都環境確保条例があり、23時から翌朝の6時まで騒音を発生してはならないことになっている。トルン市は日本のこの条例を見習ってほしい。
2017.9.10
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ポーランド旅行3
私は、国内外で宿泊する旅に出る場合、必ず大学ノートの日記帳を持って行き、行程などを書くことにしている。宿泊旅行以外の日は、「10年日記」に出来事などを1行以内で書き留めている。この「10年日記」は、20年以上続いている。今回のポーランドツアーも、大学ノートに毎日日記を書いているが、当日のことを書くのは時間がないので、翌日の早朝に昨日のことを思い出して書いている。ツアーはバスで各地の色々な観光場所を回るので、昨日の事を思い出して書くのに、頭が混乱して思い出せないことがある。このツアーの参加者の中で、高知県から一人で参加した70歳代の女性がいた。彼女は小さなメモ帳を持って歩き、観光地でガイドや添乗員の話を熱心にメモしていた。彼女の話では、最近忘れやすくなり、認知症気味だから、それに戦っているのだという。漢字を思い出して書くのも、頭を使う訓練になるという。
私が過去何回も利用していた「ユーラシア旅行社」のツアーでは、添乗員がその日の行程を、A4サイズの用紙に書いて、翌日あるいは翌々日に参加者に渡してくれる。このメモには、観光地に着いた時刻が書かれており、現地ガイドの名前、建物の特徴などが書かれている。さらに、昼食と夕食のレストラン名と、出された料理の内容も書かれていたので、私は大変重宝していた。これを見て、私は日記帳の内容を訂正したり、追加したりしていた。ユーラシアの添乗員は、このメモの作成をその日の夜に行っていたのであろう。この作業は、相当な負担になっていたのに違いない。彼らは、この作業に時間外手当を請求していたのだろうか。ツアーの最終日の記録は、郵便でわざわざ送ってくれていた。
クラブツーリズム社では、このようなメモは作ってくれないが、今回のクラブツーリズムの添乗員、杉浦一郎氏は、珍しくメモを書いて参加者に渡してくれた。この旅行社は、メモを渡すのは義務になっていないようで、添乗員の自由に任されているようだ。杉浦一郎氏は、サービスとしてメモを作っており、彼はあまり広言しないように、と我々に言っていた。他の添乗員がこのことを聞くと、自分もメモを書かなくてはならなくなり、負担が増えるからだという。参加者にとってありがたいことは、大いにやってほしい。今回のツアー最終日のメモも郵送でもらった。杉浦氏は40歳代のベテラン添乗員である。このツアーでは古い教会を観光するケースが多く、彼は、その際も宗教(キリスト教)に関する色々な歴史などを教えてくれた。添乗員で必要なことは、大きな声で、はっきり発音して喋ることであり、彼はそれを実行していた。高齢者は、聞く能力が衰えている。彼は、そのことを心がけて我々に接していたのは、立派な添乗員である。
今、この雑記を書いているのは、ツアーに行った日から約4カ月後であるから、私はツアーの行程などはすっかり忘れている。これを書くのに頼りになるのは、私の大学ノートの日記と添乗員のメモである。それらを眺めていると、ポーランドの各地の風景が思い出せる。ツアー3日目から、我々はバスでポーランドの中央部の都市を見て回った。我々のバスは、トルンを出て、ボズナン、ヴロツワフ、シフィドニツァ、チェンストホーヴァを訪ねて、クラクフ市へ。これらの街は、私は初めて聞いた街の名前であるが、それぞれに世界遺産の教会があったり、有名な建築物があったりで、ポーランドは観光資源が豊かであるのを思い知らされた。特に、チェンストホーヴァにあるヤスナグラ修道院は、聖画「黒のマドンナ」で有名であると聞かされたが、悲しいかな、私はそれを初めて知った。この修道院は、街の丘の上にあり、ポーランド最大の巡礼地と言われる。ポーランドは、国民の95%以上がカトリック信者であり、この修道院は国民の精神的なよりどころとなっている。
このヤスナグラ修道院は、64歳のローマン神父が案内してくれた。神父の説明は、地元のガイド、ピヨートルさんによって日本語に訳され、参加者にツアー初日から配られていたイヤホーンガイドで聞くことができ、説明の内容がよく分かった。礼拝堂はミサ中であったが、神父を先頭に一列に静かに歩くことで、祭壇のすぐ横から「黒のマドンナ」を見ることができた。写真はフラッシュなしならOKと言われていたので、私はこの聖画を写真に収めた。後日この画像を見てみたら、確かにマドンナ(マリア)の顔は黒くて表情は分からなかった。修道院には礼拝堂の横に小さな礼拝堂があり、そこには地元の子供達が描いたマドンナの絵が100枚近く展示されていた。これらの絵には、マドンナの顔が表情豊かに描かれていた。この礼拝堂の入口近くに「黒いマドンナ」のポスターが貼られており、これにはマドンナの顔は明るい色に修正されていた。子供たちはこのポスターを見て、絵にしたのであろう。ローマン神父は、我々を修道院の展望台に連れて行ってくれて、ここが修道院のビューポイントだと、周囲の景色を説明してくれた。神父は、我々と別れる際に、皆さんにカトリック信者はいないか、と聞かれた。誰もいなかったので、彼は残念そうな表情をしていた。もしいたら、十字を切って祝福しようと思っていたのであろう。
4日目の宿泊地は、ポーランドの南部に位置するクラクフ市である。クラクフ市は、人口76万人の大きな都市である。この街は、11世紀から550年間、ポーランド王国の首都として栄えた街で、プラハ、ウィーンと並ぶ文化の中心都市であった。戦前、ポーランドがナチスの侵攻を受けた時、このクラクフだけは壊滅的な被害を受けなかった。第二次大戦中、日本の京都が爆撃を受けなかったように、このクラクフも歴史的に重要であったので、破壊されなかった。クラクフは、ポーランドの「京都」である、と言われているようだ。ツアーは、このクラクフに3連泊する。翌日からクラクフ市を拠点に色々な観光地を訪れた。最初は、ポーランドの高原リゾート都市であるザコパネ市へ行き、ケーブルカーでタラト山脈(標高2000m)を見に行った。次いで、木造教会群があるデンブノへ。そして夕方6時に夕食を取り、食後、ヴィエリチカ岩塩坑を見学しに行った。ヴィエリチカ岩塩坑は、ヴィエリチカの町の地下64mから300mにあり、昔岩塩を採掘していた坑道である。
以前、ヨーロッパでは、塩が貴重な資源であった。ポーランドは、岩塩を各国に輸出し、岩塩は国の大きな資金源になっていた。ヨーロッパには色々な岩塩坑があるが、このポーランドのヴィエリチカ岩塩坑は最も有名で、規模が大きく、観光施設的にも整備されている。坑内の見学は数十人単位にグループが作られ、それぞれに専門のガイドが付いて歩くことになっている。私達は、縦に繋がる4基のエレベータ(9人乗り)に分乗し、地下64mのところに行き、そこから約2.4kmの見学通路を深さ135mのところまで歩いた。坑道の見学通路では、人形で造られた炭鉱夫の採掘風景や、模型の馬車による運搬風景などが見られた。坑内はメタンガスが溜まって、それによる爆発があったので、ガスを除去するための爆発が行われていた。その爆発の実演もあった。途中、大きな聖キンガ礼拝堂があり、今でもここで結婚式が行われており、結婚披露宴の場所までもある。これらの設備などは全て塩の結晶で造られていた。深い所には深さ5mの湖もある。コースの最終地点には広場があり、土産物店もある。私達は、再びエレベーターに乗り、地上に出て、見学は終わった。
ここで採掘される岩塩は100%食塩でなく、色々な金属塩が含まれているはずである。これらはどれくらい岩塩に含まれているのか、専門のガイドに質問したところ、22%だという。これは後で調べて正解であった。岩塩の中には食塩のほか、塩化マグネシウム、塩化カルシュウム、塩化カリウムなどがある。これらは貴重な鉱物資源になっていたと思われる。岩塩を輸入した国でも、これらの化合物を有効に利用していたのであろう。オーストリアのある岩塩採掘場では、岩塩をトロッコなどで運搬するのは効率が悪いというので、岩塩を水に溶かし、パイプを使って汲み上げていた。これが、テレビの「世界ふしぎ発見」という番組で紹介されていた。これは当時、画期的技術であると言われたが、地上に汲み上げられたこの塩の水溶液は、このまま使用したり、輸出することはできない。そのため水を蒸発させて、塩の固形物に戻さなくてはならない。これはエネルギー的にエコではない。ポーランドでは、岩塩は採掘したままで輸出していたので、効率よい物流がなされたのであろう。
ヴィエリチカ岩塩坑を見学した後、ホテルに着いたのは夜10時であった。翌日もこのホテルに泊まるので、気分的にゆとりがあった。このツアーの参加者で、男性一人というのは、私と蟹谷氏だけであった。蟹谷氏は、長野で事業に成功し、今は悠々自適に海外旅行を楽しんでいる人である。海外旅行は若い時から何度も経験されていたようである。私は、食事の際、男同士のため、彼と一緒になることが多かった。その際、彼は他国の話や自身の話を私に色々聞かせてくれた。彼の名前は、カニタニと読み、私はカナヤと読む。ホテルなどで添乗員が部屋のキーを渡す時、添乗員は名前を読み上げる。その際、私は彼と間違って返事をしそうになったことが度々あった。私の故郷である岡山では、金谷をカナタニと読む。しかし、岡山出身で、英語の教師であった私の父は、カナヤという読み(ふりがな)にした。この理由は、ローマ字にした場合、カナタニは8文字で、カナヤは6文字だから、字数が少なくなるので簡単である、と聞かされていた。もし私の名前が、カナタニの読みとすると、このツアーで一緒になったカニタニ氏と、ますます聞き分けが難しくなったに違いない。カナヤでよかった、と妙な事で父に感謝したのである。
2017.10.10
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ポーランド旅行4
ツアー6日目は、クラクフ市、旧市街地のクラクフ歴史地区(世界遺産)の観光である。中央広場付近には、聖マリア教会、織物会館、1364年創立のヤギェヴォ大学など、歴史的建物が多く集まっている。織物会館は、14世紀に建てられた、当時の衣服や布の交易所で、長さが100mもある4階建の堂々とした建物である。2階にはクラクフ国立美術館があり、地下には2010年に造られた広さ4000uもある地下博物館がある。ツアーは時間がなくて、この美術館や地下博物館には行かなかった。1階の土産物店が並んでいる所で、15分の自由時間があっただけである。ツアーは、旧市街地から離れた所にあるクラクフ国立博物館へバスで行き、ダ・ヴィンチが描いた「白貂を抱く貴婦人」(Cecilia Gallevani)を鑑賞した。この絵は、ダ・ヴィンチが描いた世界に4枚しかないと言われるポートレートの油絵の1枚である。
ドイツ、バイエルン州にある元連合国兵士フランク家で発見されたこの絵を、ポーランドは、ドイツから100億ユーロで買い取ったと言われる。この「白貂を抱く貴婦人」は、同じダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の構図によく似ている。人物の背景には、「モナ・リザ」と同じように、何か描かれていたそうであるが、黒く塗りつぶされていた。貴婦人のヴェールもなくなり、普通の髪形に変えられている。絵画表面には、ダ・ヴィンチの指紋が残っていたという。これは、自身の繊細な筆遣いの跡をやわらげ、ぼかしたものにするために、彼は指を使ってこの作品を仕上げたためであろう。この指を使って筆の線を柔らかくする方法は、私も絵をかくとき、よく使う方法である。ツアーは、この国立博物館を出た後、近くのヴァヴェル城を見学した。ここは、歴代ポーランド国王が居城としていたところである。中庭を見て、ヴァヴェル大聖堂などの建物を外から見学した。ここには多くの観光客が集まっており、小学生の修学旅行の団体も見られた。
私達はクラクフ市をバスで出発し、2時間近く離れたカルバリア・ゼブジドスカフへ。その途中の町で、昼食をとった。レストランの席で、千葉県我孫子市に住む洋画家の皆川氏夫妻と同席した。私の絵を展示しているホームページのURLを記入した名刺を彼に渡すと、彼もURL入りの名刺を私に渡してくれた。彼の名刺には、彼が描いた油絵が印刷されていた。私はこれを見て、彼は本職の画家であることが分かり、びっくり。彼の話を聞くと、彼は地元千葉県で活躍しているようだ。彼の名刺の絵は小さく印刷されていたが、その絵は穏やかで、セザンヌ風の絵の感じであった。私は、その日ホテルに帰って、彼のホームページを開こうとしたが、開けなかった。私が旅行に持っていったのはタブレットなので、難しいのかとあきらめた。帰国後パソコンでトライしたが、これも開けなかった。彼の描いた絵は今も見ることができない。彼は私のホームページを見ただろうか。
カルバリア・ゼブジドスカフには、17世紀に建てられたバジリカ聖堂と巡礼公園がある。広大な丘にある巡礼公園は、聖地エルサレムに行かなくてもここで巡礼ができるようになっており、年間200万人がやってくるという。丘には6kmの巡礼路が造られ、28の小さな礼拝堂が設置されている。ツアーの参加者は、その一つのキリストがはりつけにあった「ゴルゴダの丘」に見立てた丘に登り、小さな礼拝堂を見物した。ツアー参加者は、バスに戻り、このツアーの目玉になっているアウシュビッツ収容所があるオシフィエンチム市へ。オシフィエンチムは、ドイツ語でアウシュビッツと言い、クラクフから南西へ60kmのところにある。この付近は化学工業地帯のようで、化学プラントがバスから見られた。ドイツがこの土地を選んだのは、ここで生産される化学薬品を、近くの収容所で使うのに便利だったのか。収容所で殺人のために使われたチクロンB(青酸化合物系)という殺虫剤は、25tと言われ、この化学工場で生産されたのであろう。
アウシュビッツ収容所は、アウシュビッツ博物館とビルケナウ収容所の2ヶ所があり、私達は、最初にアウシュビッツ博物館を見学した。敷地内は28棟のレンガ造りの倉庫のような建物(囚人棟)が整然と並び、専門の案内人の誘導で見学通路を見て回った。ここから2km離れたビルケナウの収容所は、アウシュビッツ博物館よりさらに広大な敷地に、300棟以上のバラックの建物が造られて、収容人の増強を図った。アウシュビッツ博物館を含めて、これらの収容所で死去した人は150万人と言われる。当時のビルケナウ収容所は、証拠隠滅のため、ナチスによりほとんど焼却され、残っているのは数棟しかない。ツアーは、そのうちの2棟を見た。それらは、悲惨な環境での生活が想像できる建物の内部であり、長く見ておられるような雰囲気でなかった。ここを見学した後、ツアーはクラクフのホテルに戻った。この日の6日目の観光は、クラクフ串内観光から始まり、観光スポット7か所も訪問した。これだけを1日で見て回われるのは、ツアーでしかできない技であろう。個人ではこんなに効率よく見て回ることはできない。
ツアー7日目は、クラクフから最後の訪問地ワルシャワ市への行程である。途中、バスで5時間のドライブ後、立ち寄ったザモシチ市へ。バスの長旅で参加者は退屈しているだろう、と考えた添乗員の杉浦さんは、スラブの民話である「井戸の王子様」を朗読してくれた。また、子供の頃よく聞いた「森へ行きましょう」という曲は、ポーランドの歌だという話をして、その曲をCDで聞かせてくれた。ザモシチ市は人口6万人の都市で、旧市街地全体が世界遺産になっている。この街は、1580年頃、当時の市長がイタリアのベニスから建築家を招き、イタリア・ルネッサンス様式の建物を建てさせた。この街は、18世紀後半、オーストリアの領地になったり、ロシアに占領されたり、ナチス・ドイツに占領されてりしたが、街並みは破壊されずに昔の儘に残っている。私達はザモシチ旧市街地にある聖トーマス大聖堂、旧ザモシチ宮殿などを徒歩で観光した。その後、ワルシャワ市に向けて4時間半のドライブ。ワルシャワのホテル(ノヴォテル・ワルシャワ・セントラムホテル)に到着したのは午後8時であった。
ホテルでの夕食が終わったのは、午後10時半であった。希望者は、添乗員の引率で、近くの大きなビルの地下にあるスーパーマーケット「カルフール」へ買い物に出かけた。夜中にもかかわらず、翌日が聖体祭の休日のためか、多くの人達が買い物をしたり、散策したりしていた。スーパーからの帰りは各自でホテルへ戻るので、帰る道を間違えないようにしなければならない。私は、スーパーへ行く際、時々後ろを振り返って、特徴のある建物などを確認していた。そのため、ホテルに11時ごろ無事に戻ることができた。翌日はワルシャワ市内の観光である。ツアーは、朝8時にホテルを出て、バスで30分ぐらいのところにあるワジェンキ公園へ。朝の森の中を散策しながら、水上宮殿、屋外劇場、オランジェリー宮殿などを見て回った。森の中はリスが走っていたり、大きなマロニエの木があったり、バラ園があったりで、のんびりできた。ここは市民の憩いの場所のようである。休日のためジョギングしている人も見られた。
バスで旧市街地に戻り、徒歩で観光スポットを見て回った。当日は聖体祭で、メイン道路は車が通れなく、歩行者天国になっていた。その道路には、王宮広場へ向かう色々なグループによる聖体祭パレードが行われ、その後ろを家族たちが付いて歩いていた。その王宮広場は多くの人でごった返していた。旧市街地は城壁で囲まれており、その中に洗礼者ヨハネ大聖堂、旧王宮などがある。ポーランドと言えばショパンが観光の目玉であり、ワルシャワの空港もショパン空港と呼ばれる。ツアーは、ショパンの生家がある敷地へバスで出かけた。この敷地は公園のようになっており、後日学者が設計したという。ショパンは、ポーランドでは神様扱いにされているので、生まれた所は「生誕地」と呼ばれている。ショパン以外に、ポーランド出身の有名人には、キューリー夫人がいる。その生まれた所(彼女の場合、生誕地とは言わない)は、キューリー博物館として保存されており、旧市街地の城壁から少し歩いたところにある。彼女はワルシャワを離れ、パリ大学で学び、パリ大学で研究を続けたので、ポーランド人であったとはあまり知られていない。ツアーでは、この博物館を外観だけ眺めた。
旧市街地内で2時間のフリータイムがあったが、私は時間をつぶすのに困ってしまった。土産物店を見て回っても時間が余る。近くにギリシャ正教の教会があったので、そこに入り、席に座って休んだ。ミサが始まり全員起立したので、私も仕方なく起立。聖歌が始まり、その歌詞が大きな液晶画面に映されており、私はそれを見ながら立っていた。それが終わったので、私はほっとして外に出る。教会の前の通りでは一人の女性がヴァイオリンを弾いていたので、私は教会前の石段に座って聞いた。そのうち、集合時間が来て、決められた集合場所へ行き、ショパンも通ったという「ホノラトカ」というレストランで夕食をとった。そのレストランの席は3人席で、私は横須賀市の軍港近くに住む宮崎夫妻と同席。宮崎氏は、私が福島県に住んでいることを知り、放射能汚染の事を熱心に聞いてきた。彼は、原発近くの楢葉町などの地名を知っている。横須賀軍港には原子力空母がよく来るので、もし事故があると恐ろしいと、彼は話していた。横須賀市では事故を想定して、定期的に避難訓練をしているという。
夕食後、ツアーは、旧市街地から約2km南下したところにある、ナショナルライブラリーへ。この建物の中にある音楽図書館へショパンコンサートを聞きに行った。会場は30人が入れる小さな部屋で、そこで、ワルシャワ音楽アカデミー教授のM.ポリシェフスキー氏のピアノによる、ショパンのマズルカなどの独奏が行われた。ポリシェフスキー氏は、60歳ぐらいの男性で、力強いタッチの演奏をしていた。彼が弾くピアノの音は、私にとって音が強く、音が割れるように聞こえ、あまりなじめなかった。私は、辻井伸行のショパンのピアノ曲のCDを持っており、よく聴いている。辻井氏のピアノタッチは、繊細で心地よい音であり、私はそれになれていたので、ポリシェフスキーのピアノは強烈すぎた。音が割れて聞こえるのは、私の高齢による鼓膜の劣化かなと思ってしまった。ホテルに戻ったのは21時頃であった。この日でツアーの全日程は終わり、翌日、私達はショパン空港から成田へ戻った。
2017.11.10
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礼文、利尻島観光
私は、2017年7月2日から2泊3日の予定でクラブツーリズムが実施した礼文、利尻島ツアーに参加した。ツアーの名称は、例によって長く、「利尻島・礼文島の温泉ホテルにそれぞれ宿泊、片道利尻空港利用で観光もハイキングも楽しむ利尻島・礼文島周遊紀行3日間」である。私は、礼文島の日本領土最北端の金田ノ岬まで行き、その岬の西側にあるスコトン岬へ行き、そこからロシア領土のサハリン島(樺太)を眺めるのを楽しみにしていた。ツアーの1日目は、羽田空港から10時半発のANA571便で稚内空港に向かう。飛行機はボーイングB767で、左右それぞれ2座席の小型機であり、私は通路側に座った。私の隣の席は、グループで来た60歳くらいの外国人の女性であった。彼女は、飛行中熱心に編み物をしていた。稚内空港には、クラブツーリズムの札幌支店から来た添乗員の宮下氏がツアー参加者16名を迎えてくれた。
ツアー参加者はバスに乗り、昼食のため稚内市にある副港市場の食堂へ行き、食事をした。メニューは出発前に予め選択でき、私は稚内チャーメンを選択していた。席に着くと、すぐその料理が出てきた。稚内は14℃で、東京に比べると、さすがに寒い。食後バスは近くの稚内港へ向い、港の近くにある北防波堤ドームをバスの中から見物。この防波堤はドーム状になっており、1931年に建設された。このドームは、戦前、宗谷本線の稚内駅から樺太行の鉄道連絡船へ行く通路と、防波堤を兼ねた建物である。外観は、古代ギリシャ建築を想像させる70本の石柱が並び、壮観である。礼文島行のフェリーは14時45分に出発。3000トンの船は、1mの波に関わりなく、穏やかに礼文島に向う。船内には飛行機で一緒になった外国人グループが乗っていた。礼文島の港には16時40分に到着。港のすぐ近くの三井観光ホテルに、参加者のうち私を含めた5名だけがチェックインし、後の11名はバスで20分の所にあるプチホテル「コリシアン」へ行った。7月の礼文島は花の季節であり、観光客が多いので、ツアー会社は分宿を余儀なくされたのであろう。
翌日は礼文島の観光である。ツアー参加者は、港から車道の山道をバスで登り、途中の駐車場でバスを降りて、高山植物の宝庫といわれる標高200mの山を登る。周囲は立木はなく、榛松など背の低い植物があるだけで、見晴らしがよい。ところどころに、礼文キンバイソウ、エゾカンゾウ、ハクサンチドリなどの高山植物の花が咲いており、これらを添乗員の宮下さんが教えてくれた。途中からの細い山道は、昨日までの大雨で泥状になっており、滑りやすい。足元に気をつけながら歩くので、周囲を眺めて楽しむという雰囲気ではなかった。私達は、桃岩展望台に到着し、眼下に広がる日本海を眺める。ツアーは、ここから尾根伝いの道を歩いて、キンバイの谷などへ行く予定であった。しかし、山道がぬかるんで、これ以上歩くのが困難であると、宮下さんは判断して、予定を中止して、ツアーは元来た道を引き返した。中止した分、時間が余ったので、別のコースである、レブンウスユキソウ群生地へ向かった。この道は車道であり、舗装はされていないが、歩きやすい。約1時間のハイキングで群生地に着いた。レブンウスユキソウは、現地ではエーデルワイス(セイヨウウスユキソウ)ともいわれる。ヨーロッパでは、標高2000m以上の山の岩陰にしか見られなく、貴重な花として知られるが、ここ礼文島では、この花が標高200mの丘に群生しており、大変珍しいと言われる。ヨーロッパからわざわざ見に来る人もいるという。
バスは礼文島の東側の道を北上し、最北端の金田ノ岬へ。岬の手前にある日本最北端の食堂「あとい」で昼食。ここで食べた、いくら、うに、エビがのせられたちらし寿司が美味しかった。バスは、西側にあるスコトン岬へ。私は、そこからサハリン島が見えるかと、期待したが、見えなかった。バスは、少し南下して澄海(すかい)岬へ。絶景を眺めた後、バスは、元来た道を戻り、礼文町役場の横を通り、昨年完成した長いトンネルを抜けて島の西側へ。バスは、少し南下して桃台猫台展望台へ行き、参加者は桃の形をした岩と、猫の後ろ姿をした岩の島を眺めた。猫岩は海に向かって座っている姿が可愛い。我々は、礼文島の港に戻り、16時25分のフェリーに乗り、45分の乗船で利尻島に着いた。港からすぐ近くの「利尻富士観光ホテル」へ参加者全員がチェックインした。翌日はバスで利尻島を一周する観光である。島の道路は海沿いにあり、利尻山(利尻富士、1721m)は島の中央にあるので、バスからどこからでも利尻山が見られる。東側の道路では太平洋、西側の道路では日本海も見られる。当日は幸い晴れていたのでこれらがよく見えた。利尻島は、姫沼、オタトマリ沼などの沼が多い。
フェリーが着いた港は鴛泊(おしどまり)港と言い、その近くのホテルからバスは左回りで北へ向かう。港のすぐ先にぺシ岬があり、ここに会津藩士の墓があるという。会津藩は政府軍から追われて、このような遠く離れた島まで落ち延びたのだ。このペシ岬をバスから眺め、島の北端にある富士野園地へ行き、少し散策する。ここは、6月から咲くエゾカンゾウの大群生地で、花は終わり頃であったが、少し見られた。ここはまた昔、吉永小百合の映画「北のカナリアたち」でロケに使われた土地である、とガイドに紹介された。ここからバスは日本海を見ながら南下する。しばらく走ると、本泊(もとどまり)の港があり、その近くに会津藩士の墓がある。利尻島にはここを含めて3か所に会津藩士の墓がある。私は、これらを後で地図で知ったのであるが、ガイドはこの墓についての説明がなかったのは、福島県に住む私にとって寂しい感じがした。
バスは一気に南下し、利尻島のほぼ南端にある仙法志(せんほうし)御崎公園でトイレストップし、少し北上して南浜湿原にあるメヌウショロ沼へ。そこには沼を一周する400mの遊歩道があり、私達は歩きながら、色々な草花を土地のガイドから教えてもらう。ミズバショウが多くあるが、花は終わり、巨大なその葉が密生していた。熊はこの葉を好んで食べるが、この島には熊はいないので、葉は伸び放題になっている、とガイドは言う。沼の向こうにそびえる利尻山と逆さ利尻が素晴らしい景観をなしていた。バスは、少し北上したところにあるオタトマリ沼へ。ここでも沼を一周する遊歩道があるが、私は近くだけを歩いた。ここも沼の向こうに利尻山が見え、素晴らしい景色になっていた。バスは、東側の道路を北上し、朝出発した鴛泊港の近くまで戻り、海岸から離れて山道を少し上った所にある姫沼に着いた。ここでも沼を一周する1kmの遊歩道があり、ガイドとともに散策した。沼に映る利尻山は、手前に森があって、裾野までは見えない。朝日を受けた利尻山を見るのがおすすめのようであるが、ツアーが行ったのは午後であったので、際立った山の姿は見られなかった。遊歩道を一周した終点近くに、土地のレンジャーが経営する売店があったので、私は彼らに協力するため、ポストカード5枚(500円)を購入した。
ツアーのバスは今朝の出発地、鴛泊港に戻り、そこからさらに北上し、本泊港近くの利尻空港に着いた。私は、eチケットをカウンターに出し、チェックインした。ツアー参加者は、ここで添乗員の宮下氏と別れた。彼との別れ際にも、彼は私に対して、大変失礼なことをした、としきりに詫びていた。私には詫びられる理由がわからず、私は曖昧な対応をした。昨日の夜、彼は私がいない自宅に電話を入れ、耳の不自由な妻が電話に対応した。彼は、自分が言っている内容が相手(妻)に通じなかったので、彼はイライラして怒って、激しい言葉を妻に言ったのであろう。私は、自宅に戻って妻に彼の電話の事を聞くと、彼女は、男性が何か言っていたが、よく聞こえなかったので、適当に答えたと言っていた。宮下氏の悪口を聞かなかった妻は、「知らぬが仏」ではなくて、「聞こえぬが仏」であったのであろう。
新千歳行のANAは、10分遅れで利尻空港に到着し、その飛行機で我々は新千歳空港へ行き、乗り継ぎで羽田に18時10分に着いた。私は京急線の大鳥居駅へ行き、昨日宿泊した同じホテル「東横イン羽田空港2」にチェックインし、翌日自宅に戻った。
2017.12.10
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春うらら、2018年
昨年の7月は東京の都議選が行われ、小池派が大勝した。その後、小池フィーバーで、国政も大変化するかと思われた。10月の衆議院総選挙では、小池氏が立ち上げた「希望の党」が圧勝するかと思われたが、惨敗に終わった。ここで小池氏は、マスコミから消え去ってしまった。総選挙前では、民進党が希望の党に合流しようとしたため、民進党の分裂騒ぎが起こった。小池氏は、民進党の議員は無条件で「希望の党」に合流するのではなく、議員を選別し、不要な議員は「排除」すると発言した。この「排除」の言葉が、小池氏の政治的な致命傷となり、小池氏は世間から「あれは何様だ!」という感情を受け、選挙に大敗した。そのおかげで、安倍自民党は勝利し、加計、森友問題から解放され、政権は安泰となった。民進党の合流の際、小池氏が「皆さんどうぞいらっしゃい、みんなで頑張りましょう」のようなことを言えば、希望の党が野党連合を成立させ、政権交代が実現し、小池首相が誕生したに違いない。一つの「言葉」がこれほど劇的な変化をもたらしたのは、珍しかった。
日本には中道の政治組織は作れないのだろうか。以前の民進党は中道的な要素を持っていたが、右寄りの議員が希望の党へ行き、左寄りの議員あるいは中道的な議員が立憲民主党を結成した。自民党が最右翼とすれば、公明党はどちらかと言えば右派であり、政権を担当している。自民党の言いなりでなく、それにブレーキをかけているのが公明党であり、国民はそれに期待しているのではないだろうか。希望の党はどちらかといえば右派であることを明言し、公明党的な立場になることを明言すれば、選挙で負けなかったであろう。日本人は白か黒かはっきりしたがる傾向があるので、曖昧な立場は嫌われる可能性もある。NHKなどの世論調査では「どちらかと言えば支持」あるいは「どちらかと言えば不支持」というあいまいな項目があり、これは一種の誘導質問であろう。「支持」、「不支持」、「興味がない、わからない」のような3項目で調査をすれば、「興味がない」を答える人が多いであろう。この結果で、世論の傾向を判断するのは難しくなり、調査の意味がなくなるかもしれない。しかし、「興味がない」を選択した人は、中道を望んでいる人達かもしれない。中道を明言した党をつくってはどうだろうか。これをつくれば、したたかな安倍さんは、自民党は中道である、と早速発言するであろう。そうなると、折角の「中道の党」は影が薄くなってしまう。
昨年の暮れまで世間を騒がせたのは、日馬富士の暴力事件であった。暮れまでどこのテレビ局を見ても、昼のワイドショーはこの事件の報道で賑わっていた。事件の内容が根掘り葉掘り知らされ、モンゴル市民の反応まで報道された。こんなに報道しなくてもよいのにと思うぐらい、詳しく教えてくれた。国民は飽き飽きしていたのではないか。事件を複雑にしているのは貴乃花親方の黙秘であろう。どうやら日本相撲協会の内部で深い対立があるようである。協会で貴乃花が事実をしゃべっても、その内容が無視されたり、事実が公表されない、という懸念が貴乃花にあり、黙秘を続けているのであろうか。それならば記者団に事実を話せばいい。それをやると、協会を無視して喋った、ということで協会は怒るのか。この件は今年には決着がつくものと思われる。
相撲協会には理事会があり、各部屋の親方が選挙で理事になり、そのトップは理事長である。この事件では、いろいろな会の偉い人がテレビに出てきて意見を述べた。それらの会には、横綱審議委員会、評議委員会、独立委員会、危険管理委員会、力士会などの組織があるようである。危険管理委員会は理事会の下部組織であるから、この委員長は、テレビで事件の経緯について事務的に報告をした。その他の評議委員会や横綱審議委員会では、トップがテレビに出てきて、評論家的な発言で終始した。このうち横綱審議委員会は権威があるように見えたが、実は評議委員会の方が理事会の上部組織であり、決定権を持っているようだ。その方針に従って理事会で処罰を決めるようである。国民が知りたいのは、理事会でどのような話が交わされたか、であろう。テレビでは、会議が始まる前の沈黙の親方達の顔が映されるだけで、そこには貴乃花のふんぞり返った姿がいつも映し出されていた。彼の尊大と思われるこの態度は、視聴者から不評を買うであろうし、彼のマイナスイメージになる。
相撲は、国技であり、神事であるというのが昔からの伝統である。今の時代では、立派なスポーツとして小学生から相撲が行われている。子供たちは国技や神事であるという意識はないと思う。国は、相撲の国技、神事を放棄して、相撲を純粋なスポーツ競技にする必要がある。各部屋はクラブあるいはチームと名前を変え、親方は監督とし、コーチ、トレーナなどを設置する。試合はクラブ総当たりとし、メンバーの勝敗で優勝者を決め、所属するクラブは優勝クラブとして表彰される。クラブが増えてくるとサッカーや野球のように二つのリーグに分かれてもよい。このような根本的な改革を行い、すべての情報はオープンにすれば、今の相撲協会の内部の不透明さはなくなるであろう。子弟制度を消滅させれば、愛のムチによる暴力行為はなくなるであろう。そのような改革を貴乃花がやってほしい。彼は、ひょっとするとそのような改革を考えているのかもしれない。
話は変わるが、昨年の我が家のブルーベリーの木には、多くの実をつけた。1本の木から6kgのブルーベリーを収穫できた。我が家では処理できないので、テニス仲間の石井氏に1kg差し上げた。残りはブルーベリージャムにして、ヨーグルトに入れて食べているし、2kgは現在冷凍庫に入れて保存している。ジャムがなくなれば、冷凍したものをジャムにする予定である。私は、年のせいか眼が弱っており、特に晴れた日にはまぶしくて、先方が見にくくなることがあり、車の運転に不安を感じることがある。ブルーベリージャムで、少しは眼の性能劣化が防げないか期待している。庭のブルーベリーの木は、13年前に植えたもので、高さ2mぐらいに成長した。根元から30cmぐらいのところに地中から枝が出てきて、これを切って他の場所に移し、そのほか新しく苗を買ってきて植えたものを含めて、現在5本のブルーベリーの木が庭にある。この木の花はあまり目立たないが、秋には葉がきれいに紅葉する。
昨年の我が家の庭には、2ヶ所に鳥の巣が造られた。一つはシジュウカラが、LEDの照明用に庭の真ん中に設置した蓄電池の小さな小屋に巣を造った。小屋の屋根と本体との間に隙間が3cmぐらいあり、そこからこの鳥が出入りをしているのを、ある日見つけた。その後、注意してみると、シジュウカラは、直接小屋に入るのではなく、一度近くの木に止まり、それから小屋に入る。他の鳥に巣があるのを気づかれないようにしているのであろう。私もその小屋になるべく近寄らないようにしていた。秋になり、この鳥の出入りが全くなくなった。私は、巣はどうなっているか、屋根を外して中を調べてみた。蓄電池の上に枯れ草などが多く運び込まれ、立派な巣ができていた。ここから雛が巣立ったのであろう。
もう一つの巣は、家のすぐ近くの梅の木に、ヒヨドリが造っていた。私は、我が家の南向きの縁側から1mもない梅の木に、ヒヨドリがせっせと枯れ草を運んでいる姿を見つけた。巣の上は葉が生い茂り、雨が降っても濡れない位置にある。巣は、家の中からよく見えた。巣ができた後、ヒヨドリは巣に入り卵を産んだようである。この巣は、縁側のサッシ戸を開けると、巣に手が届く位置にある。私は、ヒヨドリが巣から出た時、カメラで巣の中を映した。そこにはうずらの卵ぐらいの大きさの卵が3個入っていた。その後、親鳥が巣にいなくなり、無事に雛にかえったのか、巣には卵はなくなっていた。数か月後、ヒヨドリが3、4羽、我が庭のヤマボウシの実を食べにやってきた。彼らはここで生まれたヒヨドリの家族かと、私は妻と喜んだ。彼らは生まれ故郷にやってきて、私達に家族を見せに来たのであろう。
私は、今年の3月の誕生日で、80歳になる。日本人男性の平均寿命は81歳であるから、私の命は後1年で終わりか、と思うと寂しい気持ちになる。しかし、日本人男性80歳の平均余命では、後9年生きられるという厚生労働省のデータがある。それを見て、私はまだしばらく生きられるのだ。残りの人生をどう生きるか、私は何も考えていない。暇があれば(暇はいくらでもあるが)、国内の旅行に出かけたいと思っている。私は、国内でまだ行っていない県は、鹿児島県、三重県、大分県、宮崎県ぐらいであるので、この4県に是非行ってみたい。ツアーによる海外旅行は、私は、健康への自信が次第に薄れてきたので、あと1、2回の旅行で終わりにしたいと思っている。
2018.1.10
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クラシックfm
私は毎朝の日課として、朝9時頃約30分間、絵を描いている。その時、AMラジオのNHK第1放送を聞きながら絵筆を取っている。私が住んでいる矢祭町は福島県の南端であるので、NHK福島局は電波が弱い。そのため、よく聞こえる東京のNHKラジオを聞いている。しかし、夏場は方々で発生する雷のため、雑音が多く聞きずらくなる。私は、NHKの放送の中でよく宣伝しているインターネットによる「らじるらじる」があるのを知った。私は、こちらを聞いてみようと思い、パソコンにソフトを入れて聞いてみた。AM電波による放送の1分後ぐらいに、同じ内容の番組がパソコンから聞こえてくる。これは雑音もなく、遠くの局を受信するとき起こる電波の強弱(音の強弱)がなくて、大変聞きやすい。私が使っているディスクトップのパソコンは、電気消費量が毎時250W(液晶パネル電気量込み)であり、ラジオ番組を聞くだけではもったいないので、ノート型パソコンでラジオ番組を聞こうとした。ノートパソコンは電気量は20W程度であるから、小型ラジオの10Wと比べてそれほど電気代は高くない。
NHKの「らじるらじる」はFM放送も聞けるが、ノートパソコンの小さなスピーカーでは音が悪く、折角のクラシック音楽もムードが出ない。パソコン用のスピーカボックスが各社から売られており、その中から、私はElecom社のスピーカーを購入した。これはUSB端子が付いており、パソコンのUSBにつなげば音が出る仕組みになっている。このスピーカーは、大きさ10×7×7cmの2個の小さな箱である。これが左右2個あり、机の前の棚の両側にねじで固定している。これでFMのクラシックを聴くと、立体的に音が聞こえて迫力がある。私のデスクトップパソコンは、Iiyama社の23インチの液晶パネルを使用しており、この液晶パネルの下に小さなスピーカーが付いている。これも音が悪いので、私はElecomのスピーカーを利用しようと思った。ノートパソコンとディスクトップパソコンのどちらでも同じスピーカーが使えるようにするには、USBの切り替え装置が必要である。それをネットで調べると、そのような便利なものが安く売られている。私はこれを購入して取り付けた。切り替えは、スイッチだけで行えるのでらくである。普段、ディスクトップパソコンを使う時はこのスピーカーを使用している。
私は十数年前に購入したアップルのスマホを持っている。これは、電話機能のないiPod touchというスマホで、Wi-Fiが付いているので、インターネットとつながる。このスマホに、NHKの「らじるらじる」のソフトを入れようとしたが、古いバージョンのiPodは、インストールできないことが分かった。私は、この古いiPodは変え時かと思い、新しいバージョンのiPodを購入した。値段は電話機能がないので、2万円程度で買えた。これの毎月の支払いはない。電話機能付きのiPodは、10万円ぐらいになり、さらに毎月5千円程度の費用がかかる。私は電話機能を使って話をする相手もいなく、電話は、固定電話で間に合っている。運転中に事故などで電話をする必要があるかもしれないので、auのプリペイドカード付きの携帯電話を古くから使用している。カード代金は、1年の有効期間で1万円である。何にも使わないと1万円は無駄になるので、私は固定電話の代わりに極力この携帯電話を使用している。それでも年5000円しか使っていない。新しく買った最新のiPod touchの機能は、古いものと変わらない。特徴は、応答速度が速いとか、写真がよりきれいに撮れるなどである。これらは私には不要である。新しいiPodで、NHKの「らじるらじる」を聞くことができた。
私は「ネットラジオ」をパソコンで検索していると、クラシック専用のネットラジオが数局あるのが分かった。そのなかで、クラシックfmというネットラジオを見つけて、パソコンにインストールして聞いてみた。この放送は、ロンドンから送られてくるもので、常時クラシック音楽を流している。新しく購入したiPodにもインストールして聞くと、大変音がよい。庭ではWi-Fiの電波が届くので、庭仕事をしながら聞いている。ちなみに古いiPodにもインストールすると、これにも可能であった。このクラシックfmは相当古くから、少なくともNHKよりも古くから、ネットで流していることが証明されたような感じである。最近は公共の場所では、Wi-Fiが無料で利用できるので、便利になった。その利用範囲がさらに広がれば携帯機能のスマホは必要なくなるのではないか。インターネットの「ライン」を使えば、友達同士の会話のやり取りを文字ですることができる。
私は東京へ行くとき、常磐道の那珂ICから上野、新宿行の高速バスを使うことが多い。このバス会社は茨城交通で、昨年からバス内でWi-Fiが無料で使えるサービスを行っていた。私は、このバスに乗るとき、デジタルステレオレシーバーで音楽を聴くことにしていたが、このWi-Fiサービスを利用するため、新しいiPodを持って行った。バス内で簡単にインターネットにつながり、ロンドンからのクラシックfmを聞くことができた。筑波山が見える関東平野の田園風景を眺めながら、ロンドンからの放送が聞けるのは乙なもので、時代も変わったものだ。クラシックfmから流れるクラシックは極めてポピュラーなもので、私にとってほとんど聞き覚えのあるクラシックである。クラシックfmのページを開くと、日本の会社の宣伝が入っており、この宣伝費で営業しているのがわかる。そのページにはリスナーからのコメントが多く載っている。その一つを日本語に訳して次に記す。「クラシックfmが日中、夕方まで私たちの家で流されています。ニューヨークの私たちの家からの新年の挨拶! あなたの素敵な声は、あなたが演奏する素敵なものほどよく知られています。 温かい感謝! ボビー・ドール・クルスワイルさんへ」この程度のコメントなら私も一度送ってみようかと思っている。
私は毎朝1枚のクラシックCDを聞くことにしており、手持ちの30枚のCDを順番に聴いている。この30枚のCDにはポピュラークラシックの小品が全部で300曲あり、それをこの20年間、聞いているので、これらのメロディーは大体覚えている。ロンドンから送られてくるクラシックはこの小品の中からが多い。曲は同じでも演奏家が違うので、飽きることはない。曲のあいまに英語のニュースなどが入り、高速バスの中でそれを聞いていると、外国にいるような雰囲気になる。英語はロンドンからであるから、そのアナウンスはキングスイングリッシュであるが、そのアクセントがやたらと強調され、嫌味な感じを受ける。中にはものすごい速さでしゃべるアナウンサーがいて、あたかも機関銃で連射しているように聞こえ、言葉でなくて機械音のように聞こえる。日本の早口言葉は、落語の「じゅげむじゅげむ」の中で、噺家がしゃべるその名前であろう。ロンドンのアナウンサーの早口はそれよりはるかに速い。この早口は1分以内で終わる。それ以上続けるのは体力的に無理なのであろう。
私は今、クラシックfmはディスクトップパソコンで聴いている。私は、暇があればこのパソコンでトランプゲームを楽しんでいる。クラシック音楽を聴きながらFreeCellというゲームをしているが、これが面白く、簡単にクリヤーできなく、やっとできた時、達成感が味わえる。ゲームをするのは食後の30分程度であるが、音楽を楽しみながらゲームで脳を働かせるのは、私にとって大切なリラックスの時間である。以前から続けている、寝る前のiPodによる読書は、海野十三の小説170冊を全部読み終えた。次に誰の作家の小説を読もうかと探していたら、有島武郎の「或る女、前編」を見つけ、これを読み始めた。主人公の若い女性の心理描写や人とのかかわり方が詳細に記述され、場面の展開が遅く、退屈してしまう。海野氏の小説は、理系の文章で、分かりやすく展開が早いので、退屈しなかった。
有島武郎の「或る女」は途中で読むのを止めて、今は芥川龍之介の小説を読んでいる。彼の小説は短編であるから、寝ながら読むのに適しており、1本の短編を30分ぐらいで読み終え、それで眠くなってしまう。彼の短編には、明治時代の東大の講義風景や、田山花袋、谷崎潤一郎、久米正雄などの作家が出てきて、彼らの作風などの評価が記され、面白い。何しろ短い文章だから気楽に読める。
2018.2.10
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セットコンポ
セットコンポとは、正式な定義はないが、色々な機能が組み込まれた(セットされた)ステレオコンポという意味であろう。ステレオコンポとは、CDなどのプレーヤとアンプの入ったボックスと、左右のスピーカーボックスが組み合わされたものである。このタイプは大掛かりで、サイズが大きいので、これを小型化したものはミニコンポと言われている。ミニコンポは音楽を聴く装置であるが、これにWi-Fiやブルートゥースの機能などを付けたのがセットコンポである。一般のステレオコンポには、AM、FMのラジオ機能は入っていないが、このセットコンポにはこれが入っている。私は、40年近く愛用していたステレオコンポを廃棄処分して、ソニーのセットコンポを最近購入した。これは、サイズが400×180×80mmで、重さが2.7kgの小さなものである。
私は、中学生の頃からラジオの組み立てを始めた。当時の私の家族の家には、貧乏でラジオがなかった。私は、自分の手でラジオを組み立てたいと思い、「初歩のラジオ」という雑誌を見ながら、鉱石ラジオを作った。その後、真空管式のラジオを組み立て、居間にそのラジオを置いて、家族で番組を聞いていた。その後、大学生の私は、家庭教師のアルバイトをしながら、電気部品を集めて、ステレオアンプを自作した。当時のステレオアンプは、真空管式であるから、アルミの箱(シャーシーという)に真空管用のソケットの穴をあけ、ビスナットでソケットを固定し、ソケット間をビニール線で半だ付けをして、組み立てる。ビニール線は、ソケット間を複雑に交錯して配線しなければならないが、これを整然と配線するのが必要である。それをしないと、組み立てたアンプはブーンというハム音が出て、音楽など聴かれなくなる。私の組み立てたステレオアンプは、ハム音が小さいのが自慢であった。
スピーカーは、大きければ大きいほど、低音の迫力があってよく、スピーカーボックスも大きいほどよい。私は、下宿の近くの家具職人に頼んで、スピーカーボックスを作ってもらった。代金は、学生さんだからと言って、2本で1000円にまけてくれた。当時の音源は、CDはなく、レコードであった。レコードを聴くには、レコードを回転させるターンテーブルと、音を拾い出すピックアップが必要であった。ターンテーブルは、回転が安定したものが望まれ、私は分不相応のセミプロ用のターンテーブルを買った。ピックアップも立派なものを購入した。これで本格的なステレオコンポは出来上がった。この頃(1958年頃)、本格的なステレオ装置を持っている人は極めて少なかったであろう。装置が出来ても、LPレコードは高くてなかなか買えなかった。当時のレコード会社は、レコードコンサート用にLPレコードを一般の人に貸し出していた。私はそれを知り、そのレコード会社に申し込んで、クラシックレコードを3枚借りた。借りる条件として、公共の場でレコードコンサートを行う必要があった。私は、市の公民館を借りて、レコードコンサートを行った。50人ぐらい入れる部屋で、私が作ったステレオ装置を用いて、コンサートを実施した。下宿の部屋では大きな音は出せないが、公民館では思い切り大きな音が出せる。私は、それを聴いて、自分が作った音に満足した。レコードコンサートは、地元の新聞社がPRしてくれたので、2、30人が集まり、好評であった。
私は大学卒業後、京都の企業に就職し、その会社の独身寮に入ることになった。その寮にこの大きなステレオ装置を持ち込むことができなかったので、私はこれを実家に保管して貰った。京都には3年住み、その後転職して横浜に移った。このころから真空管はトランジスターに代わり、トランジスターの集積であるICが現れた。私のようなラジオ少年から始めた人間は、ICを使ってラジオとかステレオアンプを組み立てるのは不可能になってしまった。ICやトランジスターを配線するのは、ビニール線でなく、設計された回路に銅をベークライト上に蒸着させ、決められた場所にICなどをはんだ付けする方式になった。基本的には今でもこの方法で電子機器(パーツ)が造られている。ステレオ装置の場合も、プリアンプ部、メインアンプ部、電源部のそれぞれの集積回路がモジュールとしてメーカーから売り出されていた。元ラジオ少年は、これらを秋葉原で買い求め、それを組み合わせて作るのである。これでは組み立てる面白みがなくなってしまった。これらのモジュールは、ブラックボックスであり、メーカーの指示に従ってモジュールをつなぎ合わせるだけでステレオアンプができる。
私は、すっかりステレオの組み立てをあきらめ、つい最近までは既成品のアンプ(デンオン製)、CDプレーヤー、スピーカーボックスを組み合わせて、音楽を聴いていた。左右のスピーカーボックスは、パイオニア製で、低音、中音、高音の3つのスピーカーが組み込まれた、大きなものであった。これをつい最近まで30年間使っていた。私は、終活を考えなければいけない年になったので、これらのステレオコンポを処分することにした。その代わりに購入したのが、先に述べたソニーのセットコンポである。この品番は、CMY−X7CDWといい、値段は3.5万円であった。同じ機能を持つもので、出力が半分の10W型は2万円で売られていた。大きい出力は音にゆとりがあるので、私は20W型を購入した。セットコンポは色々なメーカーで売られているが、その中でも有名なのは、ボーズの装置である。これは、特に音がよいので好評であるが、値段が8万円と極めて高い。この会社は、スピーカーで有名であるが、セットコンポのような色々な機能を持たせるには、異分野の技術が必要であり、これらをうまく消化しているか疑問である。ネットにはボーズのコンポを購入した人の評価が書かれていた。私はそれを見て、この製品は当たりはずれがあることを知った。
私が選択したソニーのセットコンポは正解であった。これは、購入後の不具合は全くなく、音も透明感があって、優れものであった。今まで使っていた30年前のスピーカーの音は聴き慣れて、音はこんなものだと、何も感じなかった。しかし、ソニーの音を聴いて、最近の技術によるスピーカーは、このようにレベルアップしたのかと、私は感心した。ソニーのコンポに使われているスピーカーは、直径が15cmぐらいのものであるが、中音、高音ともに素晴らしく、音に濁りがない。ピアノ演奏の音を聴いていると、その歯切れの良さがよく分かる。低音部の音は、スピーカーの径が小さいためか、物足りない。このソニーのコンポの音質は調整できるようになっている。リモコンのボタンで「ワイドステレオ」を選択すると、低音がよく出るような感じであった。さらに、ソニーではインターネットからこのコンポに音質をコントロールすることができるようになっており、私はそれを試してみた。タブレットにソニーのSongPalというアプリをインストールすると、画面に手動で低音を強くしたり、高音を強くしたりする画像がでてくる。この画像の内容を、コンポにあるWi-Fi機能を使ってタブレットからコンポへ移すことができる。これにより希望の音質に変えることができるのだ。
私は、低音を最も強くする設定にした。その結果、オーケストラから聴こえてくるコントラバスの低音がはっきり聴き取れた。スピーカーが小さくても不満のない低音であり、私はその技術に感心した。ソニーのセットコンポには、Bluetooth機能がある。この機能を使うには、スマホやタブレットからBluetoothを媒体として、このセットコンポに情報を送ることができる。私は、アップルのiPodtouchで聴けるロンドンからのクラシックfmの音楽を、ソニーのセットコンポで聴いてみようと思った。ペアリングがうまくいって、ロンドンのクラシック放送をソニーのセットコンポで聴くことができた。いつもはディスクトップに付けた小さなスピーカーでこのクラシック音楽を聴いていたが、音の素晴らしいソニーのコンポから流れるクラッシック音楽は、また格別であった。このセットコンポは毎朝1時間、手持ちのCDを聴くことにしているので、Ipodを操作して聴くのは面倒であるので、今はほとんどクラシックfmは聴いていない。こうなると、セットコンポの多くの機能は、初期の設定を除いて、全く使っていないことになる。機能無しのシンプルなミニコンポでも、音質さえよければ、私には十分である。
私は、今まで使っていた古くて、でかいステレオセットを処分する方法を探していた。それには隣町の業者が実施している、「1立法メートルコンテナ廃棄物引き取りシステム」というのがあるのを知り、この方法を使ってみた。廃棄物の引き取り依頼を電話で頼めば、業者がリフト付きのトラックで金網製のコンテナを持ってきて、それを我が家の玄関先に下ろしてくれる。このなかに廃棄したい不要物を放り込み、コンテナが満杯になったら、引き取りに来てくれと頼むと、業者はトラックで取りに来る。料金は1万円である。ステレオセットだけではスペースが余るので、いらなくなった金庫、本箱、オートキャンプに使っていた寝袋、テーブル、調理器具などを入れて満杯にした。これでかなりの不要物を処分することができたが、家の中にはまだ多くの不要物がある。私は、あと2、3回この方法で終活をしたいと思っている。
2018.3.10
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河津桜
2月は私の妻の誕生月である。私達は、昨年2月下旬に誕生祝として河津桜を見に行ったが、生憎伊豆急行線がポイント故障で不通になり、河津駅まで行けなかった。今年は大丈夫であろうということで、河津桜を2月25日(日)に見に行った。河津へ行く場合、前日熱海に泊まり、翌日電車で往復する。JR熱海駅に行くには、当地矢祭町から3っのルートがある。車で1時間少しのJR新白河駅から新幹線で東京に出て、東海道線などで行くコース。自宅近くの水郡線東館駅から水戸駅へ、そこから常磐線で東京へ出るコース。車で1時間少しの常磐高速道路の那珂ICから、高速バスで東京へ出るコース。冬の時期は、道路凍結や日没が早いなどの理由で、私は車を長時間運転するコースを利用しないようにしている。今回は、水郡線、常磐線のコースで東京へ出た。東京ラインが出来てから、常磐線の特急は品川駅が終点になっており、そこから新幹線を利用して熱海まで行くことができる。水郡線の所要時間は100分、常磐線の特急が90分、東海道新幹線「こだま」が40分であり、これらには、それぞれ待ち時間があるので、自宅からJR熱海駅までおよそ4時間の旅になる。
広い東京駅構内で常磐線から新幹線に乗り換えるには、10分はかかるが、品川駅で乗り換える場合、5分もかからない。品川駅構内は、まだシンプルにできており、人の数も極端に少ない。私達は、東京ラインが出来て、品川駅を利用することが多くなった。この日、私達は午後3時頃JR熱海駅に着いた。そこから今回宿泊する「ホテルニューアカオ」へ行くには、ホテルの送迎バスを利用する。ホテルのホームページにはバスの時刻表があり、それを頼りにバスの停留所へ行くと、多くの客が待っていた。送迎用のマイクロバスには20人ぐらいしか乗れなく、バスに乗れない人も多くいた。私は、ホテルの予約を楽天トラベルのホームページで行うことが多い。今回も予約をしてホテルにチェックインした。このホテルは、予約時に宿泊料金をクレジットカードから引き落とす仕組みになっており、現地のホテルでは精算できない。予約時に料金を支払うのは大変珍しい。普通はホテルのチェックインの時、料金を払うか、チェックアウトの時支払うかであろう。近年は世智辛くなったので、チェックインの時支払うのが多くなった。
以前このホテルは、テレビで紹介され、私はそれを見た。熱海の旅館街には昔ながらの旅館が多くあり、近年客が大きなホテルに行くようになってから、古い旅館街はすたれはじめた。旅館の持ち主達が色々な工夫をしながら生きていく姿が、テレビに映されていた。その中で、レトロな雰囲気を保っているホテルが、このホテルニューアカオであると紹介された。私は、このホテルには昨年に続いて、今年2回目の利用になるが、このホテルのどこがレトロなのかわからない。建物は、18階建ての大きなビルで、熱海の市街地から少し離れた海岸間際に建てられている。熱海市内のどこからでもこのホテルが見られる位置にある。このホテルの部屋は、和室、洋室、和洋室の3種類あり、私達が泊まった部屋は洋室で、ツインのベットルームである。この部屋は、元は和室のようで、部屋の畳の上にベッドが置かれていた。宿泊客はベッドルームの希望が多くなって、このような改造をしたのであろう。和室は、布団敷きの手間が上げ下げの2回行う必要があるが、ベッドルームではこれが1回の手間で済む。私は、和室は苦手で、ホテルでは必ずベッドルームを指定している。入室したとき、乗り物の疲れでちょっと休むのは、ベッドの上が便利である。これが和室の場合は、畳の上に横になるしかないので、不便である。
このホテルの大浴場は1階にあり、男女別の大浴場であり、夜と朝は男女入れ替える。露天風呂は大浴場から遠くにあり、そこへ行く途中にイベント会場とか、食べ物などの屋台コーナーがある。そのため、裸のままでは露天風呂へ行けない不便さがある。レストランの会場は2階と17階にあり、2階のレストランはレストランシアターになっており、食事(コース料理)をしながらショーを楽しめる。17階のレストランはビュッフェスタイルで、眺望を楽しみながら食事ができる。私達は、このホテルに連泊したので、1日目は17階のレストランで食事をし、2日目はレストランシアターで食事をした。この日は、メキシコから来た5人のアーチストによるラテン音楽の実演があり、私達はなじみのポピュラーな曲を聴きながら洋食のコース料理を食べた。
2日目は、伊豆急行線の熱海発普通電車で河津駅へ出かけた。河津は伊豆半島の下田に近い先端部にあり、そこまで電車で1時間10分の所要時間で行くことができる。途中の伊東、稲取などの温泉駅から乗客が増え、河津駅近くでほぼ満員になった。乗客は外人客が半数近くいて、彼らも河津駅で降りた。河津の桜は外国にも知られているようである。河津駅で降り、駅のトイレへ行くと、女性用は20人ぐらいの人が順番を待っていた。トイレの傍には、30m先に商工会館のトイレがあるから、そこを利用してください、という看板が立てられていたが、そこへ行く人は少ない。日本語が読めない人が多いのであろう。私達は商工会館へ行き用を足した。駅横の道路には屋台が並び、その前を観光客がぞろぞろ歩いていたので、私達もその群れに入って歩くと、河津川の土手に着いた。川の両側の土手には、ほぼ満開の河津桜の木が並んでいた。この土手の遊歩道には観光客がカメラを持って歩き、賑やかであった。河津川の上流まで行けば、色々な観光名所が見られると思うが、私達は少し土手を歩いて、駅に戻ることにした。河津駅の上りのホームに上がると、特急電車が停まっており、ホームの前の方へ行くと、自由席の車両があったので、それに乗った。駅構内の案内板にはこの特急の案内は全くなく、スーパー特急の案内だけあった。スーパー特急は、全席座席指定で、どの列車も空席はない表示になっていた。普通特急の案内がないのは、けしからん。
熱海駅には午後3時頃着き、私達は駅前からタクシーで「起雲閣」へ行った。この起雲閣は、岩崎別荘、住友別荘と並び称される「熱海の三大別荘」の一つである。起雲閣は、1919年(大正8年)海運王として知られた内田信也が実母の静養の場所として建てられた別荘であり、その後鉄道王として知られた根津嘉一郎により色々な建物が建てられ、完成させた。起雲閣は、1000坪の広大な庭園を取り囲むように、洋風、和風の建物が建てられ、これらの建物は廊下でつながっている。見学者は、これらの建物を一周して見ることができる。この起雲閣は、1947(昭和22年)に旅館として生まれ変わり、熱海を代表する宿として、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、舟橋聖一、武田泰淳などが利用していたといわれる。
旅館としての部屋は、広縁にソファーが置かれ、そこから日本庭園が眺められるようになっている。浴室は部屋にはなく、廊下沿いにローマ風浴室があり、宿泊者はそこを利用することになっている。この浴室は、10人ぐらい入れる広さがあり、そこからも庭園が眺められる。トイレも部屋にはなく、廊下に共同トイレが造られていた。見学コースの最後の建物には音楽室があり、私達がそのそばを通った時、フルートの音が聞こえていた。市民向けのコンサートが開かれていたのであろう。この起雲閣は、2000(平成12)年 熱海市が取得 し、一般公開され、年間100万人以上が訪れるという。建物が建てられた当時は、熱海の丘の中腹にこの建物があったので、別荘から相模湾の海が眺められたと思われる。現在は、建物を取り囲むように民家やアパートなどが建てられ、海などは全く見えない。
私達は見学を終えて、タクシーを捕まえてホテルに戻った。この起雲閣は、JR熱海駅とホテルニューアカオを直線で結んだ中間付近に位置するところにある。このホテルニューアカオは、山が迫った海岸辺りに建てられ、ホテルの入口は18階建ての18階にある。起雲閣からホテルに行くには、歩いて行ける距離にあるが、急な坂道を登らなくてはならないので、歩くのは不可能に近い。ホテルから熱海駅や熱海市内へは、ホテルの送迎バスが頼りになる。翌日、私達は東海道線で小田原駅へ行き、そこから新幹線で品川へ、常磐線の特急で水戸へ、水郡線で自宅近くの東館駅に戻った。
2018.4.10
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